予備予選はどうやら終わった由ですが、こちらの配信動画の視聴は遅れていてまだ終わりません。
課せられた曲目はエチュード、ノクターン、マズルカ、スケルツォで構成される約30分、この4つをまんべんなく、同等のレベルで好ましく弾ける人というのはかなり少ないようで、そこがひとつの難関のよう。
たとえばエチュードとスケルツォがうまくいく人は、あとの2つが思いのほか良くなかったり、その逆もあり、技術とセンスがこの4つに適切に並立することは並大抵ではなく、よってその4つが課される意味がわかります。
エチュードやスケルツォをビシッと弾く人はあるけれど、ノクターンや、とくにマズルカを好ましく弾くことは容易ではないらしく、各人の内面やセンスが露呈するし、指導にも関係がありそうな気がしました。
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その後も中国勢の猛攻は衰えることはなく、全体として非常に高レベルであることは驚くばかり。
以前、文革を生き抜いたような世代がピアノ教育界の重鎮として指導にあたる様子をTVで見た記憶があったけれど、すでにそれから相当な年月も経たから、指導者層も代替わりし、おそらく増員され、あの世界最大級の人口と国力を背景として、その精鋭たちが次々に登場しているであろうことは、ある種の凄みを覚えます。
音楽的には細かなことを言えばキリがないけれど、多くは素晴らしく弾けていることは紛れもない事実だから、これは単純に敬服しないわけには行きません。
いまだにラン・ランに見られるような自信満々演技過剰な雰囲気の人もいるいっぽう、はるかに抑制が利いて、常識的な態度でピアノに向かっている人の割合も増し、くわえて日本人のように引っ込み思案ではないぶん、ステージに立つためのメンタルとしては向いているのかもしれません。
その演奏に、真に人の心を揺さぶる力があるか?というと、そこは微妙で、美意識や内面で処理されるべき細部まで、技術と訓練によって成し遂げられた感じがあるけれど、そうはいってもあそこまで到達できているというのも結果としての事実。
デリカシーを表現するときに、独特な吐息のようなものを入れるなど芝居ッ気が目立ったり、さも幸福そうな笑顔かと思いきや一瞬にして鬼気迫る形相になったり、さすがは京劇の強烈な表現のお国柄だなあと思う場面もしばしば。
目を閉じ、上体を反らし、口元は笑い、顔は左右に振るなどの仕草は、よく見る光景です。
こういう百面相的な仕草は中国人の専売特許かと思ったら日本人にもあってびっくり。
緊張きわまる中、ノクターン冒頭のアルペジョで、左手はやっと4つ音を出しただけで、その手は自分のアタマより高く宙を舞い、以降も喜びや驚きの表情が過剰なまでにくるくると表される様子などをみていると、他国のことを云う資格もないなぁと思ったり。
西洋人はもはや完全に少数派で、弾いている姿はさすが絵になるけれど、演奏はどれももうひとつパッとしません。
それにひきかえ、やはり中国勢のびしっと鍛えられた技術があらためてわかるところなど、これが今の現実のようです。
で、中国人の演奏をあまりにたくさん聴いたものだから、某日本人の演奏を聴き返してみると、最初に聴いたときは少しもいいとは思わなかったけれど、そこには日本人ならではの緻密さ、肌理の細かさが張り巡らされていて、日本人の手から紡ぎ出される工芸的な上質感は一段違うらしいこともわかりました。
ただ、工芸的陶冶はあるとしても、音楽表現として芸術に達しているか?となると、否と感じるのも正直なところでした。