いいかげんコンクールの話題から離れたいけれど、今年はロンティボー、エリザベート、クライバーン、そして春と秋はショパンと、どういうわけか大コンクールが目白押しのようで、…頭がくらくら。
某サイトに添付された上位入賞者の2〜3の演奏を数分ほど覗きましたが、あいも変わらぬ今どきの演奏ばかりで、それでなくては戦線にすら立てない気配です。
一見すると非常に完成度の高い、完璧に仕上がっているような外面でありながら、なにか腑に落ちない、乗っていけない、歪な感じが拭えない気がするのは私だけでしょうか?
もうたくさんだから早々に退出し、そんな反動もあって、ここ最近は昔の演奏に再接近しています。
昔といっても、べつにSP時代とかではなく、せいぜい20〜40年ぐらい前の演奏。
色々と聴いてみて、おおまかに感じることは(もちろんそれぞれではあるけれど)、たとえ技巧自慢で聴かせる人であっても、今のコンクール世代に比べたらどこかふっくらした人間臭さがあり、正直というか、人の体温が感じられる気がします。
少なくとも、膨大な情報から生まれた「なりすまし」ではないだけでも価値がある。
そこで、ひとつ思いついたことには、おかしな例えかもしれないけれど、今昔の違いといえば「字」の上手下手に似たものがあるのではないかか、、ということ。
現代人の手書きの文字は、昔に比べて恐ろしいまでに下手になっていることを感じることはありませんか?
もちろん個人のそれでなく、世代的に年代的に見渡してみての話です。
たとえば自分の世代より、親の世代は明らかに字が上手かったし、祖父母の時代はさらにその上を行く達筆がごろごろしていて、昔の何気なく書かれた筆跡を見ると、その圧倒的な筆致力、自在な流れ、気品さえ漂う見事な水茎墨跡には驚愕させられます。
これに対して、現代人の字の酷さといったら目を背けたくなるばかりで、とりわけクイズ番組などで書かれる字は、この上なく醜怪なもので、むかしはやかましく言われた筆順なども、もう完全に崩壊しています。
識者とか知識人、政治家にいたるまで大同小異で、昔だったらとても人前に出せないような悪筆を、臆する様子もなく平然と露出し、もはや悪筆であることさえもわかっていない様子に唖然とするしかありません。
ちなみに、今は「筆順」とはいわず、「書き順」というらしいのにもへぇ!と思ったり。
当然ながら、書き文字に対する審美眼そのものも甚だしく欠如しており、もっぱら書道教室的なもの、あるいはただ楷書で入念にさえ書かれたものなら「字がきれい!」「達筆だ!」などと安易に言われるあたり、美しい文字の文化はほぼ消滅した観があります。
むかしは字の上手い人は、それだけで周りから一目置かれ尊敬もされたし、文字の巧拙は、いうなれば文化の基本を成すものだろうと私は今も思っています。
また、今は許されないことでしょうが、昔は単なる字の巧拙だけでなく、その特徴から人品骨柄まで忌憚なく推量して憚らないほど、字は重要なものでした。
何が言いたいのかというと、昔の演奏には、濃淡はあるにせよ、まだしもこの字の上手さのような美意識や教養が下支えとなり、言わず語らずに機能していたのではないかと思うのです。
英語圏でも筆記体が書けなくなって久しいのだそうで、そんな時代に高度化した合理的な訓練とデータによって、特定の技術だけがスポット的に発達して、専ら活字のような文字を機械的に書くだけ、そのような時代変化が器楽演奏にも侵蝕しているのではないか?という気がしました。
コンクールに受かる演奏のために何かを捨て去って…と思っていたけれど、はじめから無いのだから捨てるにも及ばないのだとすると、ひたすら有利な演奏情報に沿った訓練に打ち込むことも頷けるし、聞いていて酔えないのも道理。
今の演奏が50年後にどういう捉え方をされるかわからないし、そもそもピアノやピアニストがあるのかどうかもわかりませんね。