師弟関係

ダン・タイ・ソンのショパンには好みや賛否はあるとしても、この人なりの築き上げたものはあるから、彼一代として見れば特別なものがあると思います。

しかし、現代のショパン弾きとして無双の地位にあるか?といえばそれほどのものではなく、まして次世代の弟子たちに受け継がせるべき流派の祖に値するものか?となれば、そんな御大層なものとは思えません。

彼の奏するショパンの美点は、ノクターンなどにおいて最もストレートにあらわれていると思うけれど、それ以外ではショパンの作品でも意外なほど出来不出来があるのは無視できません。

ダン・タイ・ソンのピアノは端正ではあるけれど、ショパンの上質な絹のような美意識とか、音にきわめて敏感に反応しながら歩を進めていくような世界とはしばしばピントが合わず、意外にドライにそっけなく処理されてしまうかと思えば、エッと思うようなところに適切とは言いかねるイントネーションが出てきたりして、イメージほど心地よいものではない。

思うに、ショパンの音楽が繊細巧緻な都会の音楽であるのに対して、ダ氏のピアノは田舎の素朴な人の中に流れる清流のような、純粋で生一本な美であるところでしょうか。

然るに、ダ氏は当代きってのショパンの指導者として認識されているのか、ショパンコンクールには彼の指導薫陶を受けた若者が次々に登場し、前回ついにブルース・リウという優勝者まで現れたことは驚きでした。
しかし個人的な感想ですが、彼のショパンはいまだに学生っぽさを脱しておらず、ピアニスト自身の天分や感性に裏打ちされたもの、言い換えるなら自己表現に対する意欲も試みなど、これだというところはほとんど伝わってきません。

コンチェルトの第一楽章では、展開部で何度も繰り返し登場する和音のつかみでパッとスタッカートになるところがあり、はじめは演奏上の都合で不本意ながらそうなったのかと思ったらそうではなく、しかも何回も繰り返されたから、これが後々まで耳に残るほど甚だしく場違いな、こういっては大変申し訳ないけれど、曲調にそぐわぬ滑稽な印象を残すものとなりました。

ところがつい先日、ダ氏が韓国でショパンの第1番を弾いている映像をYouTubeで発見したところ、さすが師弟だけのことがあり、ブルース・リウ氏の演奏によく似た調子で、おや?と思ったのでした。
そうなると怖いもの見たさで、その展開部の部分を待ち構えていると、なんとまったく同様に師匠自身がスタッカートだったのは、あちゃー!という感じでただもうびっくり。

いくら弟子だからといって、ああも従順一途にやらなくてもと思うし、そもそも師匠がそうまでなにもかも自分流儀に染め上げるのはいかがなものか?という疑問が湧き上がりました。
私見では、指導者の大きな役割は生徒の才能を見抜き、その才能が開花するよう丹精して誘導することだと心得ますが、それが自分のコピーを作るのでは生徒の持ち味を無視する行為であり、本末転倒ではないかと思います。

…でもまあ、そうはいっても、それで現実にショパンコンクールに優勝したわけだから世間的には大成功というわけで、教師としてのダ氏の威厳も最高度へと高まったのかと思うと、たとえようもなくヘンな気分になるのでした。

では、ブルース・リウとダン・タイ・ソンのどちらが良いかといえば、それは私に云わせればダン・タイ・ソンです。
なぜなら、ダ氏はその解釈においては元祖であり迷いのない強みがあるし、それは自身の気質や生い立ちや体質にさえ適っているもの。
いっぽう、それをああだこうだと指導され模倣したものとの間には、埋めがたい差があるように感じるからです。

さらに、ダン・タイ・ソンの音にはほどよい肉付きがあり、それがまた彼の演奏の欠かせない魅力になっていますが、ブルース・リウの音はそこには及ばず、どこかカサついた凡庸な音でしかありません。
それでも、ブルース・リウは師匠よりも圧倒的に若くて男振りはいいし、それもステージに立つ上では大事な要素だから、音の美しさより聴衆に訴える力はよほど大きいのかもしれません。

井上二葉

Eテレのクラシック音楽館、6月1日はペトル・ポペルカ指揮/N響定期公演が3/4ほど、後半残りの30分は「ピアノとともに90年 井上二葉 フォーレを弾く」というもので、きわめて興味深いものでした。

井上二葉さんのお名前は、安川加寿子さん門下として知ってはいたけれど、コンサートに行ったこともなければCDも持っていないから、その演奏を聴くのは初めてでした。

1930年生まれの御歳94歳でステージに立たれるだけでも充分に驚きですが、ご自宅でのインタビューは、その内容も興味深いものであったし、話しぶりもまったく淀みなく、きわめて明晰。

現在も毎朝ピアノの練習を欠かされず、いつも暗譜のフーガで始めるとのこと。
高齢で現役を貫いたピアニストとして、私が真っ先に思い出すところではホルショフスキーですが、彼の盟友だったパブロ・カザルスも、毎日のスタートはチェロではなくピアノでバッハの平均律を弾く事というのを思い出しました。

井上さんは生まれはシドニー、ピアノをはじめられたのはドイツ、その後も帰国と渡欧を繰り返されたようですが、それにはお父上が外交官だったことが関係していたようです。
師となる安川加寿子さん、内田光子さんも外交官の家庭出身で、子供時代をあちらで過ごすのは、日本で修行してから音楽留学するのとは、またひと味もふた味も違ったものがあるだろうと思います。

そしてついには安川加寿子さんと同じくパリでラザール・レヴィの教えを乞うことになり、そこで最も厳しく鍛えられたのがフォーレだったとのこと。

また、子供時代の日本では、ご近所に同世代の矢代秋雄氏がおられて親しくしておられた由、幼いのに楽譜を広げてはフムフムと頷くようなちょっと変わったお子さんだったとか。矢代氏といえば、ボッティチェリの作品で唯一日本に存在する『シモネッタ・ヴェスプッチ』の紹介の中で、父である矢代幸雄氏(美術史家でボッティチェリの研究者)のお名前が出てきて、子供の頃からそういうものに囲まれていたということも、大変な影響があっただろう…というか無いはずがないと思います。
二葉さんの入学祝いに作曲されたという手書きの美しい楽譜も映りました。

番組の流れから、安川加寿子さんの演奏映像もほんの少し出てきましたが、これはかなり驚かされるところがありました。

というのも、子供のころには何度か演奏会に行ったことがあるし、むかしNHKでは折々にその演奏が放送される機会もありましたが、過度な表情を排したサラサラと流麗な、いかにも軽やかなフランス流派というイメージで、ガッチリ弾くドイツ系とは対照的といった印象が強かったのですが、今回見た映像(『子供の領分』の終曲とショパンのスケルツォ第4番のフィナーレ)では、思ったよりはるかにガツンとくる重量があり、どちらかというと激しい演奏だったのは、エエエ!!と思いました。

全体に打鍵は強めであるし、要所々々では上から手を振り落とすようにガンと弾かれたり、その思い切りの良さにはびっくりで、そういう意味では、今の演奏は高解像度ではある代わりに、表現として精気がなく、精気がないから布局も起承転結もないし、聴き手をどこかへ連れ去るような強い牽引力がないのだと思いました。

井上二葉さんに話を戻すと、帰朝後は現代音楽に取り組んだり、フォーレのピアノ曲全曲演奏演奏会を開催、一方でランパルの共演ピアニストとして100回以上のステージをされるなど、大したものだなぁと思いました。

昨年11月王子ホールで演奏会が行われたようで、その中からフォーレの夜想曲が紹介されましたが、いかにもこの方の一番深いところに染み込んだものという感じで、揺るぎない凛としたものに貫かれた演奏でした。

藤田さんのモーツァルト

2021年のヴェルビエ音楽祭から、藤田真央さんによるモーツァルトのリサイタルの様子が2回にわたって放送されました。
これまで、藤田さんの演奏は積極的とまではいえないまでも、メディア等では折あるごとに注目はしてきました。

とても大きな手の持ち主で、風変わりなテンションにいささか戸惑いつつ、ピアノに向かえば相当に上手い人だというのは言うまでもありません。
その藤田さんの演奏の中でも、モーツァルトはとくに高評価だそうですが、これまでテレビ出演などで部分的に見てきた限りにおいては、どちらかといえばペタッと平坦で、そんなに素晴らしいかなぁ?というぐらいでしかなく、自分の中ではとくに付箋を貼っておきたい対象とまではなりませんでした。

そういう前提があったところで、今回はじめて彼のモーツァルトをまとめて2時間近く聴いてみることになったわけですが、これまでと同様の部分もあるものの、その素晴らしさに納得させられる点も大いにあって、多少印象を書き換えることになりました。
やはり、本番の演奏をまとめて聴くというのは大切で、藤田さん自身もテレビ番組でのおしゃべりの傍らでちょっと弾いてみせるのと、ヴェルビエ音楽祭のソロステージとでは、気合の入り方も違って当然というもの。

結論からいうと、これは藤田さんにしか弾けない、特別な光を放つ演奏に違いないと思ったし、大いに感銘を受ける場面も随所にちらばっていました。

ただし、本質的に感じたことは、とにかく「技巧の人」だということ。
その技巧というのが、派手派手しい、ヒーロー的なものではなく、繊細で緻密、弱音領域でのこまやかな指回りで真価を発揮するタイプの稀有な技巧で、この点で大変なものがありました。

ピアノを弾く人なら、弱音の音を揃えて正確に弾くことがいかに困難であるかは、だれでも知っていることです。
その点で、藤田さんのまったく軸のぶれない正確かつ目もくらむばかりの技巧には並大抵ではないものがあり、さらに息の長い持続力まで兼ね備えて、それじたいがすでに「天才の技」だろうと思います。
これは、どれだけ練習を積んでも得られない、まさに天性のもの。

人間の指の動きというより、むしろリスのような小動物が高所などを躊躇なく自在に駆けまわる四肢の動きのようで、信じられないスピードで縦横に、いかなる危険領域でも喜々として軽やかに駆けまわる指さばきは、モーツァルトという対象を得て遺憾なく発揮され、これは一聴する値するものでした。
とりわけプロのピアニストがこれを目にしたら、狼狽するような見事さ。

モーツァルトのソナタは、ピアニストの指の技術を丸裸にしてしまうところがあって、そのわりにさほど演奏効果の上がるものではないためか、ここに敢えて踏み込んでいくピアニストはそう多くはありません。

そんな中、難解なパズルを楽しそうにサラサラと解くような演奏は、まさにモーツァルト固有の難しさにピッタリと嵌ったのでしょう。

純粋に音楽的にいうなら、正直なところ、とくだん傑出したものだとは思わなかったけれど、なにしろあれだけの特殊な技巧を備えていれば、モーツァルトといえども如何ようにも仕上げられるだろう思われました。
音の多いパッセージなどでは、それらが無数の眩い輝きとなって流れ出すため、光の帯が降り注いでくるようで、他ではちょっと得難いような爽快感がありました。

テンポは全体に早めで、できればもう少し落ち着いて聴かせて欲しいところですが、藤田さんの才能と演奏の魅力を結晶化するには、おそらくこの速度が必要なのかもしれません。
そのかわり、そんなスピードでもまったく乱れを知らないその指は、世界を驚かすにも充分で、それを体験するところにこのピアニストの値打ちがあるのだろうと思いました。

世の中は、一つ覚えのように「技術より音楽性」「芸術表現のためのテクニック」などと、分かり切ったお題目を唱えて、それが逆転することを否としますが、技術そのものも、ある段階を突破すると、それそのものが魅力と存在感を示す場合もあるし、同時に「技術それ自体が芸術的領域に達する」ということもあるわけで、このような技巧で弾かれる藤田さんのモーツァルトが高い評価を得たということは、至極尤もなことだったと納得できました。

まさか!

偶然をもうひとつ。
録画設定しているTV番組は、視る機会のほうがはるかに少ないから溜まっていく一方で、HDの容量確保のためときどき整理が必要で、タイトルだけ見て消したり、ときに少し見てみたり。

『新・美の巨人』6月22日放送分は、建築界のノーベル賞といわれる「プリツカー賞」をとった山本理顕氏が手がけた横浜市立子安小学校が採り上げられていました。

建築のことはよくわからないけれど、見るのはとても面白い。
ここは全校生徒が1000人を超える大きな学校で、それを前提とした機能的な建築のようでした。
体育館に集合というと、全校生徒はわずか10分ほどで体育館に集まる事ができる由、これはL字型をした校舎に抱かれるように体育館があり、二方向から最短距離で体育館と繋がれているためだとか。

学校の体育館といえばステージがあり、ステージにはピアノがあるのがごく当たり前。
この時も舞台の下手のほうにカバーのかかったグランドピアノらしきものがあって、それは小さく画面の端に数秒しか映らないのに、悲しい習性でついチェックをしてしまいます。

一般的に日本の公立の小学校ならばヤマハかカワイ以外はあり得ないという先入観があり、ほとんど関心は寄せていなかったところ、足の形状に「ん?」と目が行きました。
足の下部には金色の薄い受け皿のようなものが嵌めこまれており、そのすぐ下がキャスター。

これはヤマハでもカワイでもないし、強いて言うならベヒシュタインとベーゼンドルファーですが、足の形状はあきらかにベーゼンとは違うし、ベヒシュタインならペダルから斜めに伸びるペダルの突かい棒が太い木製ですが、それは細い金属製のようで、そこからこれしかないと考えられたのは「ディアパソン」でした。

全体のサイズはほぼ210cmクラスで、おそらくDR500だろうと思いました。
このサイズの大橋デザインモデルが廃盤になったあとに出た、カワイのRX-6ベースに一本張りにされたモデルで、高音側の外板のカーブが始まる位置がかなり後方であることからも、そのように推察できました。

実はこれ、個人的にものすごく好きなピアノで、根っからのファンにしてみれば「カワイを流用したもので、真のディアパソンではない!」ということになるかもしれません。
ところが、大橋モデルとは違った包容力とまろやかで美しい音色、大人っぽい落ち着きを兼ね備えた、きわめて魅力的なピアノで、もしかしたら個人的には一番好きなディアパソンかもしれません。
しかしこのサイズともなると、そうそう売れるものではなかったのか、早い時期にカタログから落とされた経緯のある、かなりレアなピアノだと思います。

何年も前、ディアパソンをイチオシ!するショップで、「実は一台だけ本社に残っている未使用のDR500があって、ご希望なら販売可能です。」といわれて、かなり心がざわついたことがありますが、さすがに衝動買いするわけにもいかず諦めるしかありませんでした。
ピアノが手に持てるほどのサイズで、お値段も一桁違えば買っていたでしょうけど…。

そんなレアなピアノが、まさか公立の小学校にある!というのも、かなりレアケースだと思いました。
番組で紹介された建築も大変なものだったけれど、思いがけなくピアノのほうに気持ちが向いてしまい、どういう経緯でそういうことになったのか、あれこれ考えを巡らせてしまいました。
勝手にディアパソンのDR500だと決めてかかって書いていますが、もし間違っていたらとんだ赤っ恥ですが!

クラコヴィアク

BSのクラシック倶楽部録画から『歴史的楽器が奏でるショパンの調べ〜名ピアニストたちと18世紀オーケストラ〜』を視聴。
2024年3月11日、東京オペラシティ・コンサートホール、ピアノは川口成彦/トマシュ・リッテル。

ショパンはオーケストラ付きの作品として、2つの協奏曲以外には、ラ・チ・ダレム変奏曲op.2、ポーランド民謡による幻想曲op.13、クラコヴィアクop.14、アンダンテ・スピアナートと華麗な大ポロネーズop.22があるのみ。
いずれも初期の作品で、20歳前に書かれていますが、すでにショパンの作風は見事に確立されているのは信じ難いほどで、歴史に残る天才とは恐ろしいものだと思います。

現在は、残念なことに協奏曲以外はめったなことでは演奏機会がありません。
op.22はピアノソロとして演奏されるし、op.2はやはりソロでブルース・リウがショパンコンクールで弾いたのが記憶に新しいところですが、op.13とop.14は演奏機会はめったにありません。

録音も少なく、私のイチオシはクラウディオ・アラウのもので、生演奏では未だ聴く機会に恵まれていません。
op.13とop.14は演奏時間もほぼ同じで、作品内容としても個人的には双璧だと思うのですが、それでもなんとなくop.14のほうが一段高い評価であるような印象。
随所に美しいノクターン的な要素があるop.13より、活気あるロンド形式のop.14のほうが演奏映えするのかもしれませんが、いずれも非常にショパンらしい魅力的な作品だと思います。

今回はop.13を川口さん、op.14をトマシュ・リッテルさんが演奏されましたが、リッテルさんによるクラコヴィアクが大変素晴らしかったことが印象的で感銘を受けました。
ピアノはタイトルが示すようにフォルテピアノが使われ、現代のパワフルかつ洗練されたピアノに慣らされている耳には、どうしてもやや頼りなく感じることがあるのも正直なところですが、リッテルさんの演奏はそのようなことをすっかり忘れさせるほど濃密で、躍動し、新しい発見がありました。
さらにいうなら、ショパンへの敬意と注意深さも終始途絶えることがなく、作品と演奏が一体のものとなり、聴く悦びを堪能させてくれるものでした。

あらためて感じたことですが、良い演奏というのは作品に対する表現のピントが合っており、すべてが意味をもった言葉となって、こちらの全身へ流れ込んでくるような心地よさがある。

もちろん事前にしっかりと準備されているだろうし、細部も細かく検討されたものでしょうが、さらに本番では霊感を失わず、今そこで音楽が生まれてくるような反応があり、それがさらに次の反応へと繋がって、まるで音符が自分の意志で動き出しているかのように感じました。
聴衆をこの状態に引っ張りこむことができるかどうか、それが演奏家の真の実力ではないかと思います。

最近は、クリアで正確だけど感動できない演奏が主流となっているので、若い世代にも稀にこういう人がいるのかと、久しぶりの満足を得た思いでした。

残り時間は18世紀オーケストラによるモーツァルトの40番でしたが、古楽オーケストラの活き活きした軽快な演奏はわかるのですが、私個人としては昔から抵抗を感じるのは、そこここでしばしば繰り返される強烈なクレッシェンドやアクセントで、あれがどうにも脅迫的で、当時は本当にそういう演奏だったのかなぁ?と思ってしまいます。