アラウの衝撃

溜まったCDを片付けていると、下から「GREAT PIANISTS OF THE 20TH CENTURY」というシリーズのクラウディオ・アラウの2枚組が出てきたので、久しぶりで聴いてみたら、そのとてつもなく充実した演奏が、まるで初めて聴いたかのように新鮮でした。
すでに持っていたCDを久しぶりに聴くことで、このような衝撃を受けるというのはあまりないことです。

しっとりした穏やかさの中に細やかな燃焼があり、すべてが情熱や叙情で裏打ちされ、気品と充実のピアニストというのがしみじみ再認識されて、しばらく取り憑かれたようにこの2枚を繰り返し聴きました。
最近はあまり耳にしなくなった「巨匠」という言葉が、こういうことなんだと考えさせられます。一枚はベートーヴェン、もう一枚はショパン、リスト、シューマン

ベートーヴェンでは構造感を損なうことなく気負わず悟らず、とりわけ皇帝をあれだけ深いところから語らせ、涼しい美しい音楽として弾けた人が他にあるだろうと思ったし、ショパンの幻想曲もリストのロ短調ソナタも圧巻、さらにシューマンの幻想曲に至ってトドメを刺されます。

第一楽章でいきなり急流に放り込まれたようでただただ流れに身を任せ、つづく第二楽章もその余韻を引き継いで集中力を切らさず、第三楽章に至って、一転して静謐な圧倒的な美の世界にどこまでも酔いしれる。シューマンのピアノ作品の中でも、これほどの陶酔境はないだろう、、、とさえ思ったり。

アラウは昔から好きな人ではあったけれど、目先の効果を決して追わない謙虚な姿勢、みずみずしく深い音色、あふれる詩情と節度、いまさらのようにその真価を思い知らされることになりました。演奏と作品とが、アラウほど同時並行的に魅力を保ちながら聴き手に迫ってくるのは、他にあまり例が思いつきません。

録音のことはよくわからないけれど、ほとんどが1960年代の演奏ですが、よくまあこんな音で録れたなぁ!と思うほどクリアで厚みのある深い音という点も感激に値するところで、アラウの絶頂期の演奏がPHILIPSで多く記録されていたことに感謝したくなるばかりでした。

楽器の音も然りで、どれもまぎれもないスタインウェイですが、後年のそれとは違い、たっぷりとした厚みがあって、ふくらみもあれば重量感もあり、底知れないような実力を有するピアノで、少しもチャラチャラしていない。

まさに子供の頃、しばしば耳にした市民会館のスタインウェイを思い出さずにはおかないもので、決して記憶の中で理想化されたものではなかったことがわかるようでした。
自分の場合ではあるけれど、子供が受けた印象というのは決してバカにはできないことがわかります。

演奏、作品、録音、楽器、いずれもがこれほど高い次元で揃っていることはないという点でも、つくづく驚きました。

ちなみにアラウの場合、その活動時期がわずかにずれてしまったものか、演奏動画では必ずしも最良とはいえない印象があることは残念なような気もしますが、とはいえ正規録音でじゅうぶんなものが遺されているから、これで満足しなくてはなりません。

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ついでに国内のピアノ店のサイトをあれこれ見て感じたことなど。

見た感じきれいに仕上げられたものが多いけれど、内容のことはわからないので、もっぱら写真や動画などの感じでいうと、、、

古いものは塗装もやり直してあるらしい個体が少なくないけれど、中にはナチュラル仕上げ(正しい名称はわからないけれど、薄いつや消し仕上げという意味)であったであろうピアノが、妙にピカピカした艶出しになっているのか、却って不自然に感じるものが散見される印象。

日本人はものを選択する際、ある場合は無難で地味なものを良しとするところがあるかと思えば、またあるときは派手なキラキラピカピカしたものを好むところもあったりするようで、その両面の使い分けの心理は日本人である私にも理解の及ばないものがあります。

外国製のヴィンテージピアノを「高級品」として捉えるからか、フランスピアノによくあるような、寄木などの木工には非常に手の込んだものであっても、全体に渋い佇まいでは物足りないのか、、、外装を艶出し仕上げにして商品力を高めているようにも受け取れました。

艶出しそれ自体は素敵ですが、古い木の肌の上に、ただ透明のニスをかぶせたような仕上がりだと、却って素性の怪しげな雰囲気になってしまうことが珍しくなく、それでやけに強気なプライスなのはどうにも怖いような気がするもの。

とくに古いフランスピアノの佇まいには、個人的にはどこか和の木造物にも一脈通じる簡素の趣があるようにも思いますが、ピアノに関するイメージはもっと重々しい、高級車みたいに輝くものでなくてはいけないというのが購買層のニーズなのか?

ヨーロッパでは、部屋のしつらえは壁の色・家具・絵画・照明など、色あいや配置など雰囲気を調和させるべく思慮されるのに対し、日本では壁は大半が白、床はフローリング、ピアノは部屋の主役で、横には楽譜棚、窓には丈の短い淡いカーテン、その上下にはエアコンや除湿機などの白モノ家電、さらによせばいいのに不気味な洋風の釣り照明具、あるいは突拍子もない雑貨やカワイイモノが脈絡なく置かれていたり、それらが醸し出す雰囲気というのがなんとも沈痛で淋しげで、せめて唯一の主役であるピアノだけにはキラキラと輝いていてほしいのか…

いかに時代が変わっても、こういう昭和的センスは連綿と受け継がれてしまうのは不思議な気分になります。TVで『昭和の常識、令和の非常識』などというバラエティがあるけれど、そう高らかに笑い飛ばすほど変わってはいないし、むしろ昔のほうが精神的によりモダンで斬新で創造的であった気がします。

テレビといえば今年は大河で『べらぼう』をやっているけれど、元禄のほうがよほど洒落ていて、垢抜けて、美醜に敏感で、市井の人々の感性は研ぎ澄まされていたように思いませんか?

価値はいずこ

前回プレイエルの一件では、手に入れるわけでもないのに意味もなくザワついて、つい愚にもつかないことに時間を費やしてしまいました。
結果、あれこれ動画などを拾い見したりしましたが、現代のピアノの音に慣れた耳には、やはり音の性質や響きがずいぶん違うらしいことをあらためて感じたところです。

プレイエルに限らず、昔の名品といわれるピアノに共通するのは、楽器としての成り立ちに健やかさがあり、生まれながらのびのびしていて、それが100年前後も経てばさすがに経年加齢による衰えなどはあるとしても、それを差し引いても器は大きく、泰然として音質はまろやか。
言葉にするのは難しいけれど、ごく簡単にいえば、その音はおっとりして、つややかで、ふわっと光が射すような響きと余韻があり、それが人の心にじわりと沁みてくるらしい。

現代のピアノは比類ない設計と精度をもって寸分の隙もなく作られている見事さはあるし、なによりクリアで若々しいけれど、同時に限られたコスト事情などとのせめぎ合いからくる精一杯さというか、ほとんど余力がない感じが否めない。それでいて、パワーや華やかさ、現代的で洗練された雰囲気も併せ持たねばならないなど、そのあたりのやりくりに最新技術が役立てられているのか…どうもハイテクな音に聞こえます。

一方のヴィンテージピアノは、まさにその対極にあるもの。
西洋の古城のような幽玄な美しさと威厳があり、その芳醇な音には寄り添ってくるような親しみさえあるから、ちょっとさわってそれらの音や感触を楽しむこと、さらには工芸品としての価値も備わり目にする楽しみもあり、風流な目的には古いピアノはまさにうってつけだろうと思います。

それでも世の中はいろいろで、ごくありふれた無機質な音のほうを好む向きもあるのは、非常に驚かされるのも事実ですが、それはまさに人それぞれであるし、ひとつには慣れの問題もあるように思われます。

今どきは、手間ひまのかかった料理よりコンビニに売っているもののほうが好き、熟練の技と熱意が吹き込まれた家具よりイケアやニトリの家具のほうが好き、という人もいるのだから(値段は別にしても)、そのうち電子ピアノの音が好きでアコースティックピアノの音は好きじゃない、ヴィンテージピアノなんて触るのもイヤだ!というようなことになるのかも、、、