コンクール終了後、時間の経過とともに採点の詳細などが明らかにされて、それを考察する動画がYouTubeなどがあれこれ出ているようですが、どうこう言ってみたところで結果は覆せないのだし、本戦に進めた人とそうでない人の段階から納得の行きかねるところがあり、あまりここに首を突っ込んでも仕方がないわけで、そんな後味の悪さも毎度のことのような気がします。
今回のショパン2025での収穫のひとつは、長らく求めていたファツィオリの魅力というのか、特徴というのか、ともかくそういうものへの理解が、ほんの僅かではあるものの、少し見えたように思えたことかもしれません。
むろん、すべては自分勝手な印象のみの話なので、間違っていることもあるだろうとは思われますが、あくまでも私の受けとめですが。
曲が始まってしばらくは、どちらかというと強めの音が耳につくものの、やがて慣れてくるのか、みっしりと織り糸のひしめくペルシャ絨毯のような、なにか目の詰まった重いものに触れる感じがありました。
音そのものの美しさ、バランス、透明感などではスタインウェイが勝ると思うけれど、ファツィオリにはイタリアの過剰で厚ぼったい、しかもどこか陰鬱なところを背負っているような感じを受けました。
イタリアは外から見ると明るい太陽の国というような固定観念があるけれど、絵画や彫刻や建築はもちろん映画などを見ても感じるのは、どこか沈痛で人間の苦悩のようなものが赤裸々に流れており、ファツィオリは表向き国際基準に沿ってはいても、本質的にそういう色合いのピアノではないか?と思うと、いくらか納得できるような気がしてきました。
実際にはみんながハヴァロッティみたいに笑って歌っているわけではなく、むしろ少しも笑わない、いつも青筋の立ったような眼光の鋭いおじさんがいたり、カトリックもあればマフィアもあるなど、考えてみるとイタリアはむしろ怖さが勝っているようでもあり、そこがまた彼の地の芸術世界を際立たせているのかもしれません。
今回のコンテスタントでも2人ほど聴いたイタリア人も、かなり重めのこってり系の演奏であったし、ポリーニもミケランジェリも重厚過剰路線であって、軽やかさとはほとんど無縁であったことを思い出します。
というわけで、イタリアのものはただ鑑賞するぶんには結構だけれど、いざそれを使いこなすとなると容易ではないところがあるから、ファツィオリにもやはりそういう一面が秘められているような気がします。
その点ではカワイはそんな深い文化的背景は背負っていないから、そこがだれでも手が出せる馴染みやすさとなっているのかもしれません。
カワイとファツィオリは、目指すところは似ているのかどうか、そのあたりはわからないけれど、少なくとも出発から背景とする気質や文化まで、まったく違っているにもかかわらず、どこか似ている部分がないこともないような気がするのは私だけでしょうか?
いずれも設計からくるものなのか、その音にはときどき板っぽい感じが顔を出すことがあるし、また会場で聞いたらわからないけれど、イメージとしては遠鳴りよりは弾き手を喜ばせるところが魅力なのかもしれない、、などと思ってみたり。
そういえば、奥行きが278cmというのも同じであるし、さらにはお尻のほうが比較的大きくボリュームがあるという点も、ただの偶然かもしれないけれど、外形的にも妙に共通したものがあるような気がしました。
…それにしても、日本は演奏のほうでは優勝者こそまだ出していないけれど、世界が最も注視するワルシャワのステージに2つの日本製ピアノが公式ピアノとして活躍していること、しかもそれはファツィオリやベヒシュタインより早かったことは、今でこそ当たり前のようになっているけれど、はるか東洋の文化の異なる島国が作り出した楽器であることを思うと、これは相当に驚くべきことだと思うし、あらためて音だけで聴いてみると、完成度という点では日本の2社はなかなかのものであると思いました。