ポーランドの合戦

気がつけば、ショパンコンクール2025が始まっていたんですね!
春の予備予選ウォッチで懲りたので、今回それはしないことに決めていますが、ネット上では、やはり競技モノの人気は現代人の大好きなイベントのようで盛り上がっているようです。

で、日本人が日本人を応援することは少しも間違ってはいないのだけれども、ことさら「日本人」に限定したYouTubeなどがやたらと多いのは、私としては、どこか不思議なような気がするのだけれど、まあスポーツだと割り切ればそれでもいいわけですが、とはいえスポーツ的とスポーツそのものとはやはり違うところがあるから、そのあたりはあまり煎じ詰めないでおくことが大事なのかもしれません。

こういっておきながら、夜のニュースでノーベル賞を日本人が受賞すれば「ほう!」と思うし、その場合は、受賞内容を見ているわけでもないから、同じことだといえば一言もないわけですが、、。

ショパンコンクールに話を戻すと、初日の演奏動画を少し覗いてみたところ、春と同様、中国人の間にそれ以外の国のコンテスタントがいるといったような雰囲気でした。
私はいつも情報には疎く、常に遅れているのが当たり前だから、多くの方は先刻承知のことだろうけれど、新しいこととして目についたのは、ユリアンナ・アブデーエワが審査員の新顔として座っていたことですが、それ以外の多くは毎度おなじみの顔ぶれで、ハイそうですかという感じです。

とはいえ、コンクールもこれぐらい国家を挙げての規模となると、毎日朝から晩まで審査するのも並大抵の労働ではなく、身体的にも精神的にも相当タフでないとつとまるものではないことは確かで、みなさんすごいなぁ!といろんな意味で感心させられます。

見た限りでは、ステージ上のピアノは3台で、ヤマハは見かけなかったけれど、まさかこのメーカーが出てこないことは考えられないから、必ずあとから登場してくることは間違いないでしょう。

ピアノといえば、なんと今回からBECHSTEINが公式ピアノに加わったようで、5種になったらしいのは驚きでした。
ショパンコンクールのステージは、ピアノメーカーにとってもこれ以上ないコンクールであり、それがビジネスへも大いに繋がるようだから、BECHSTEINも現代のピアノビジネスへあらためて名乗りを上げるべく、相当な覚悟のあるらしいことが伺えます。

ただし、コンクールという限界勝負の世界にあっては、近年のメジャーコンクール実績のないこのピアノを敢えて使おうという、勇気あるコンテスタントはなかなかいないだろうと思いますが、ひとりでもいるならそれはぜひ聴いてみたいものです。

実績がない→だから誰も使わない、といっていたのではいつまでも実績はできないから、まずは公式ピアノとして認定され、はじめは惨敗に終わるとしても、とにかく楽器を運びこんで待機するよりないというところだとすると、1853年創業の老舗が、後発の日本の2社および新参のFAZIOLIの後ろへまわって、最後尾に並ぶところから始めとようとする姿が、なんだか泣けてきますね。

日本では自民党の総裁選が終わったばかりですが、将来のポストを狙う人は、当選の見込みがなくても推薦人を集めて出馬することで存在感を示し、実績を積む必要があるのだそうで、そんなものに例えるのもおかしいけれど、BECHSTEINの参戦は、そんな第一歩なのかなぁ…という気がします。


追記;YAMAHAは初日のEvening Sessionにはやくも登場しており、なんともそそっかしいことでした。その折もステージ上のピアノは3台だったから、使用ピアノとコンテスタントを上手く振り分け、ステージにはそれ以上の数のピアノを置かない取り決めなのかも。ピアノ交換ではKAWAIとSTEINWAYの間違いがあったようで、再度交換するという一幕も。

広島のトリフォノフ

9月21日のEテレ・クラシック音楽館、広島交響楽団「平和の夕べ」コンサートから、ダニール・トリフォノフによるラフマニノフのピアノ協奏曲第2番、指揮はクリスティアン・アルミンク。

トリフォノフといえば、以前の来日公演録画でのハンマークラヴィーアに感激したことが記憶に新しいところですが、さすがに「再び」とはならず、熱演ではあるけれど感激というまでには至りませんでした。あるところでは繊細に、あるところではきわめてダイナミックになるけれど、その仕分けにいまひとつ納得感がなく、ただその大小の波が打ち寄せては去っていくようで、もうひとつ入り込めないところがありました。とはいえ、この人なりの肉感と燃焼はあるから、それだけでも近年では稀少な存在だといえるかもしれません。

この人の演奏は、どこか子供が喜々として何かに熱中しているよう感じる…ことは前にも書いたかもしれず、それが良さでもあれば個性でもあるのかもしれないけれど、ラフマニノフの音楽はもっと大人の世界、ロシア流のダンディなものであってほしいから、その点でどうしても期待するものと一致を見ずに終わってしまう気がしました。
このピアニストには端然と整ったものより、どこかモンスター的な作品のほうが合うのかもしれないなどと思ったり、、、

それでも、ご本人にはその演奏が真実として期するところがあることは伝わるし、このピアニストだけの迫真の演奏であるから、会場は大いに満足するだろうとは思います。

アンコールはチャイコフスキーの子供のためのアルバムから2曲でしたが、協奏曲のあとのアンコールは会場へのサービスでもあるから、そうひねらないで、もうすこし普通に期待に応えるものを弾けばいいのに…とは思いました。

彼はファツィオリを好んで弾くピアニストであり、このステージでもそれが使われていました。
ファツィオリの印象はこれまでにもしばしば書いたけれど、今回もまたこのピアノの良さわからず迷子のような気分で、ムズムズするいつもの結果に終わりました。

いまや、広く世界でも認められる銘器であるから、それだけの価値があることは疑いをもちません。
しかるに、これという核心がいまだに掴めないことは、こちらの耳の未熟を晒すようなものだろうけれど、このブログは正直であることが唯一の価値だと思っているから、やはり感じたままを書くしかないわけです。

ピアニストはこのピアノを弾くことで得られる愉悦や、満足や、なにか特別な値打ちがあるのだろうと察せられるのだけれど、聴く立場としては、楽器は願わくはもう少しスカッと抜けるようなところや、キャラクターや、なにかがありそうなものだけれどそれがよくわからない。

それでなくてもイタリアは、まず太陽の光と色彩にあふれたお国柄であると思うし、その裏側の闇もあるだろうけれど、イタリア人はまずどう思っているのか率直なところを聞いてみたいものです。