ショパン2025-6

ショパンコンクール2025の動画配信で見たピアノについて、ベヒシュタイン以外のことなど思いつくまま。

ファツィオリは、大屋根を開ける角度が通常とはわずかに異なっているのが「おや」と思いました。
一般的に大屋根に対して突上棒の角度は、だいたい90°すなわち直角であることがほぼ常識のようになっていますが、それよりもさらに大きく開いているのが目に止まりました。

大屋根を開く角度によって音が変わるというのはあるようで、一時期、突上棒に延長部を継ぎ足す、あるいは突上棒じたいを長いものに取り替えるなどしたピアノが使われているのを見たことはあったけれど、まさかコンクールの舞台で目にするとは思いませんでした。
これは演奏者の希望でないことは明らかだから、メーカーの判断によるものであるのは疑えません。

より良い響きを得るための方策のひとつであるのだろうし、そこは自由なのかもしれないけれど、ピアノという楽器は黒くて大きな図体であるだけに、その姿は少しの加減でグロテスクにもなるし、音も大屋根への反射角度の加減なのか少し生々しさが増すようで、個人的にあまり好きではありません。

楽器に対するコンクール側の規定があるのかどうか、そこまで細かい制限はないのかもしれないし、突上棒の先を継ぎ足したりすればマズいかもしれないけれど、メーカーがはじめから長い突上棒を組み込んでくるなら、よほど極端でない限りお咎めナシなのか、、、。


ピアノメーカーの名前は伏せますが、あるピアノははじめあまりに音がきつく、いささか不快に感じました。
それでなくても、最近のピアノはどれもパンパン鳴るし、美しさを損なわないギリギリのところで踏みとどまっている感じがありますが、あきらかにその一線を超えてしまっている印象でした。
すると翌日には早くも修正されて、前日より明らかにしっとりまろやかに、まともになっていることにおどろきつつ、その前に弾かされたコンテスタントがいかにも気の毒に思えました。


メーカー別では、スタインウェイがやはり最多であるのは相変わらずですが、今回はカワイを選ぶ人が想像をはるかに上回るほど多く、それだけ高い評価を得ているという印象でした。
ショパンコンクールでは、楽器メーカーの戦いでもあることはもはや多くの知るところで、こちらのバトルも熾烈であろうし、そこへ今回からベヒシュタインまで参入してきたのだから、見ているぶんには面白いけれど、関係者はさぞ大変だろうなぁ!とご苦労もお察しするところです。

カワイの人気には納得するところがあって、むかしはずいぶん野暮天であったのが、近年は見違えるほど磨かれてきて、今回はそこに腰のすわった風格さえ漂っていて、弾く側の信頼感が一気に広がったらしいように感じました。
スタインウェイようなりんりんとした美音ではないけれど、やや重いファツィオリとの、中間といった役どころといったところでしょうか?

今回ヤマハは振るわなかったようでした。
量産モデルにも通じるヤマハサウンドは完成度も高く、それを好む人も少なくない立派なピアノとは思うけれど、ここ最近の流れからすると、必ずしも最新トレンドではなかったのか、近い将来さらに磨きのかかった新たなヤマハが出てくるのだろうと思います。

ピアノメーカーのショパンコンクールも、その攻防は相当おもしろいと思うので、ぜひとも映像作品や書籍にしてほしいしいところ。
F1やル・マンなども、レーサーとマシン、いずれにもそれをめぐる様々なドラマがあるのだから、ピアノもいっそそのようにしていただきたいものです。

コンテスタントにとって、ピアノ選びは人生をかけた勝負のステージで苦楽を共にする相棒を決める場面ですが、このときばかりは立場が代わってコンテスタント達がピアノの審査員になっていることも面白いことだと思います。
楽器メーカーにとっては、2階席中央に陣取る審査員たちより、若い彼らの判断に祈るような気持ちでしょうが、もしや今どきのことだから、それよりももっと前に水面下のヘンな取り決めがあるのか、、、まあそのあたりは疑り出したらキリがありませんが、とりあえず純粋な選択と思っておきたいところです。

ショパン2025-5

ついに終わったようですね。
優勝は下馬評通りの方のようですが、なんとなく、すでにピアニストとしてスタートしてかなりなキャリアも積んだ大人が、いまさら若者の戦いの場に分け入ってきたようでした。
しっくりこないものがあったから、それを途中まで書いていたけれど、それもどうかという気がして、全部消しました。

今回、最も印象的だったことは、公式ピアノにベヒシュタインが加わったこと、ただ一人の応援対象であったコンテスタントが不慮の失敗で敗退となったことなどでした。

全体の演奏については、見たのは毎日せいぜい1時間前後であったから、何かをいえるような裏付けはないけれど、その上で自分なりに感じたことをいうとすれば、演奏傾向がすこし変化したように思えたことでしょうか。

近年のコンクールでなにより憂慮していたのは、自分の個性や感情を封印し、ひたすら楽譜に正確で、かつ加点に繋がることに絞ったような、覇気も魅力もない演奏が正義のようになっていたことですが、今回、多くのコンテスタントの演奏から感じたのは、以前より熱気や演奏者の息吹が少し復活してきたように感じられて、その点がまず救いであった気がしました。
あのままだと、ピアノ演奏はほとんど誰が弾いても同じような、魂のない自動演奏のようなものになり、ピアニストもAIにその座を明け渡すのも時間の問題ではないか?と思っていたのですが、今回は嬉しいことにやや挽回してきたように感じました。

それにしても、ピアノ演奏におけるアジア系の台頭は留まるところを知らず、中華系の人たちが首座を占め、次いで日本や韓国などがなんとか一区画を守っているという感じ。

日本人の演奏には、やはり日本人らしいテイストと緊張感があると思いました。
昔にくらべたら変わってきているのだろうとは思うけれど、それでも国際舞台で見ると依然として特有の悲壮感と、伸び伸びしきれない印象を受けるのは、自分にも同じ血が流れているから、よけいに感じることだろうか…などと思ってしまいます。

緊張が極まったあげく、俎の上の鯉といった覚悟のほどが窺えて、この瞬間を迎えるまでの長く苦しい旅路が映し出されるようで、どうも複雑な気分になってしまうことが多々あります。


先にも書いたように、私の場合、コンクールの規定など何も知らないし、敢えて調べようとも思わないので、間違っていることも多いだろうと思うので、その点はご容赦いただきたいところです。

で、ただ聴いていると楽譜の選択は以前より自由なのか、各人好きなものを使っているように聞こえたけれど、そうだとすると、そのほうが自然だと思うし、コンテスタントも自分にあった版を選ぶことで、より自然で魅力的な演奏ができるのではないかと思います。

驚きだったのはオーケストラで、第1番の第3楽章など弦が弾いていたところがスポッと先が抜けるような箇所があり、それが何度も繰り返されるから強烈な違和感がありましたが、あれはなんなのか…いまだにわからない。
オーケストラはワルシャワ国立フィルということのようですが、盛大な名前のわりにあまり上手いとも思えず、せめてコンテスタントの熱演に見合ったものであってほしい気がしました。

熱演といえば、使用頻度の高かったスタインウェイとカワイは、日が経つにつれ鍵盤側面の生木の部分がかすかに黒く汚れてくるあたり、それだけ入魂の演奏が繰り返された証拠でもあるようでした。

こんなくだらない細かい観察は、会場にいてもできることではなく、日々高画質で送られてくるネット動画の賜物であって、その気になれば、自宅に居ながらにしてだれもが審査員気分で鑑賞道楽ができるのだから、いやはや大変な時代になりました。

※写真はネット動画よりお借りしました。

ショパン2025-4

ショパンコンクール2025について、くだらないことばかり書きつけているけれど、元来の怠けものであるのはあいかわらずで、最低限度の下調べさえ怠っているから、いつも行き当たりばったり、見ながら知ったり驚いたりすることばかりです。

多くのユーチューバーさんはじめ、ネット上になんらかの発信をするような人は、私からみればどこでそんな詳細な情報を得てきているのだろうと、ただもう驚くやら感心するやら、まあ今どきはそれくらい当前かもしれないけれど、私には無理なので、自分は自分のスタイルで行くしかありません。

コンクールの様子も、多くの方のようにしっかり視聴しているわけではないから、気の向くままに勝手放題な見方をしており、全体としてあまり高揚感を覚えることもなく、だらだらと見るだけだからそのぶん気楽でもあります。

二度目の挑戦の人もおられて、日本の牛田さんもそのひとり。
前回どんな演奏をされたか知らないし、ファンではないけれど、今回見ている限りは相当に準備されてがんばっておられるのは伝わりましたが、あれだけ弾いても、本戦に進めないというのは、やはりシンプルに厳しいなぁと思いました。
小柄な方で、左右の袖口から出たいかにも肉の薄い、儚さのある白い手は、どこかショパンの手の模型を連想させられるようでした。

二度目という点では、エリック・ルー氏も同様で、こちらは優勝候補という下馬評もあるとやらで、、、
…話は前後するけれど、戦いはついに本戦へ突入しており、この方、本戦でいきなり幻想ポロネーズを弾きだしたのでぎょっとして、とっさに3次の演奏順が最終日最後に変更になり、そのとき右の人差し指に絆創膏があったから、なにか肉体的な故障からこの曲を弾き残していたのか?…などと思ったけど、そうではなく、なんと今回は協奏曲の前にこれを弾くことが全員に課せられていると知ってびっくり仰天!

毎回、審査員の紹介などは飛ばしているから、その前の人の時はわからなかったけれど、ルー氏の後の中国の少女もやはり弾いていたから、あわてて調べて、ようやく確認がとれた次第。
理由は、協奏曲が初期の作品であるから、3次からの繋がりをもたせるため後期のこれを弾くとか、あれこれの理由が述べられているし、それをまた解説している御方もおられたりしますが、この判断はまったくいただけないという印象しかありません。

3次が終わって、ショパンの命日を挟んだあとは、ステージにはオーケストラが登場して二者択一の協奏曲を弾くという長年にわたるコンクールの慣行があって、さあこれからというときに、いまさらのようにあの長い作品を毎度聴かねばならないとは、これでは何のために延々と厳しい予選を積み上げ踏み越えてきたのか、まるで意味がわかりません。

この作品が後期の傑作のひとつに数えられる偉大な作品であるとしても、事ここに至って、オーケストラを待機させてまで弾かせるほどの意味があるとは思えない。
それでなくとも、ここに至るまでにもうさんざんソロは聞いてきており、にもかかわらずこの期に及んで、協奏曲の前座のように幻想ポロネーズを押し込んでくるというのは説得力に乏しく、「晩年の成熟した作品も加える事で、資質の幅広さを聴きたい」とされているようですが、だったらこれまでの長丁場で審査員は何を審査していたというのでしょう。

「ショパン自身が協奏曲の前に即興的ななにかをよく弾いていたことに倣っている」ともあるけれど、それなら、事前に即興演奏したい人はしてもよいし、なにかソロを弾きたい人は弾いてもよい!でよくないでしょうか。

理由はいくらでも付けられますが、率直にいって、くどいばかりで、あまり良い趣味とも思えません。
ただコンテスタントにさらなる負担を加えているだけのようで、こうなってくるとステージ経験が長くて豊富な人のほうが、年の功で有利になってくるような気もしますが、、、

ショパン2025-3

第2次予選でショッキングなことがありました。
ただひとり応援していたZihan Jinさん、2次予選の途中までまずまずの調子で弾かれていましたが、前奏曲の16番で信じがたい事故が起こってしまい、第3次にには進めず敗退となったようです。

24の前奏曲は全曲ではなくNo.1〜16までとし、続けて英雄ポロネーズという選曲だったようですが、プレリュード16番はジェットコースターのような曲、冒頭の激しい和音の連打に続いて、右手が駆け上がって行ったとき「あ…」と思いました。
この人らしくない焦った感じで、音の分離も悪く、いささか乱雑に飛ばしていったのが気にかかったのですが、その後音が外れ、立ち直れずに指がもつれ、パニックとなり混乱してしまうことに、、、

よりにもよって唯一期待していた人の身の上に、まさかこんなことが起こるだなんて、見ているこちらまでいきなりズブッと胸を刺されたような衝撃と狼狽、、、
最後を締めくくる英雄ポロネーズも、到底ほんらいの実力とは思えないようなものとなり、コンクールというのはやはり何があるかわからないものだというのを、しみじみ感じました。

この人は、もちろん基本の演奏力も素晴らしいものがあったけれど、きめ細やかな、メリハリある音楽表現がとくに優れていたと思います。
なにより趣味がよく、隅々にまで呼吸がかよい、入りと出、陰と陽、歌い込みと区切り、それぞれの意味が必然的に生まれて、見事に聴かせる特別な才能を持った人でした。

人によっては、ちょっとミスったぐらいでパニックになって崩れるようではダメだというかもしれないけれど、私は個人的にあまりタフではない人の、わけてもショパンでは繊細なデリカシーの持ち主が奏でる儚さや移ろいを含んだ演奏が聴きたいわけで、何があろうとデンと構えたふてぶてしいような人が、いくらミスも無く弾き終えたところで、別段ありがたくもないわけです。

コンクールとはそういうものと言ってしまえばそれっきりだけれども、生身の人間のすることで、ひとつのミスがすべてを失うというようなことなら、やはり安全確実が第一となるであろうし、そのために芸術に必要不可欠であるギリギリのところで輝く感性、問答、冒険とか即興といった要素が大いに減殺され、ロボットのような演奏に陥ることを思うと、それもどうかと思うのです。
…いまさら私ごときが言い立てることでもありませんが。

ある人が、ショパンコンクールとは「プロのピアニストとして世界へ飛び出すための、きっかけ作りの場のようなもの」といわれたのが、なるほどなぁと思いましたが、であるなら余計に、ひとつの躓きで全て終了というようなことではなく、その人が持っている才能の本質を総合的に検証し判断する場であって欲しいと、恨み節ですが思いました。

もし私がルール作りをできるなら、スポーツだってクイズだって敗者復活戦というのがあるのだから、コンクールでも一回だけ、弾き直しができる権利を与えてあげたいものです。
音楽は一期一会の世界であることはわかっているけれど、明暗の分かれ目があまりにもやりきれない気がして仕方ないのです。

泣き言を言ってみても始まりませんが、動画を繰り返し見てもやはり良いピアニストだと思うばかりで、こんな駄文をひねるのもしばらく嫌になるほど、なかなか立ち直れないものですね。
彼の弾くコンチェルトは聴いてみたかったし、返す返すも残念でした。

初陣

ショパンコンクールは、毎晩少しだけ断片的に見ています。
今回はBECHSTEINが公式ピアノになったということが珍しく、それを弾く人がいるのかどうか、いるとすればあの会場でどのような音を響かせるのか…というのも関心をもって待ち続けていた面もありました。

しかし一向にそんな気配もないから、しだいに諦め気味になりかけたころ、4日目の10月6日のEvening Sessionの6人目、ついにこれを弾く中国人の青年があらわれ、ノクターンからバラードまで、これらは全部聴きましたが予想以上の好印象で、さらに翌日のMorning Sessionでは、日本/韓国と表記される方が弾かれました。

なによりまず、艶のある上質な美音が印象的で、よく歌うし、どんなに音が激しく折り重なっても濁らず、うるさくもならないのはさすがだと思いました。
もともと澄んだ音に生まれついているらしい強みがあるのか、もっさりしたものを技術者の音作りで華やかに仕上げたのとは、どこか根本が違うようにも感じたり。

低音は床に波紋の広がるようなBECHSTEINらしい朴訥さがあって、そこがショパンにとってふさわしいかという疑問は残るものの、全体としてはひじょうに心地よいもので、いつまでも聴いていたい気持ちにさせられるものがありました。
楽器というのは、まずもってこの点が大事だと思うので、なにか深いところにある大事なものに触れられたような後味が残りました。

ともかく、ショパンコンクール初陣(初期のことは知らないけれど)とは到底思えない堂に入ったものであったのは、さすがは老舗だけのことはあると感心。
…いま、ふいに老舗という言葉を使ったけれど、やはりそれは新興メーカーが容易には成し得ない奥義でもあるのか、伝統が育んだDNAの力がなのかもしれません。

BECHSTEINは歴史的に(ピアノ製造の系譜という点で)PLEYELに繋がるといわれますが、今回の5台のピアノの中では、最もフランスピアノ的な雅味をも内包していたように感じられました。
ただ美しいというだけでなく、そこには目の詰まった繊細な絹のような光沢があり、それでいて軽やかさもあり、ただドイツ的厳格だけではない華やぎも身につけたようで、それが案に相違してショパンをものにしていた印象でした。

最新ピアノが、ピカピカの高級車みたいで、どこかハイテクのドーピングでもしたような気配を漂わせる中、BECHSTEINには楽器ほんらいの姿が垣間見えるようで、緊迫した競技の中でも心に染みわたってくるものがありました。
はたして実際の会場ではどんな響きだったのだろうかと思います。

ステージ上の立ち姿は、ドイツの気の利かないダサいところがあるけれど、奏者を右斜めうしろからの映すアングルでは、ダークブルーの弦枕(ピンとアグラフの間にあるフェルトの帯)が、ボディの黒、フレームの金色、ピンの銀色とあいまって、ハッとするほどシックで美しいことも新鮮でした。

すでに第1次予選は終了し、BECHSTEINを弾いたのは上記2人は、いずれも先に勧めなかったようだから今回はこれで終わりのようですが、ぜひまた頑張って欲しいものです。

※ネット動画より写真をお借りしました。

ポーランドの合戦

気がつけば、ショパンコンクール2025が始まっていたんですね!
春の予備予選ウォッチで懲りたので、今回それはしないことに決めていますが、ネット上では、やはり競技モノの人気は現代人の大好きなイベントのようで盛り上がっているようです。

で、日本人が日本人を応援することは少しも間違ってはいないのだけれども、ことさら「日本人」に限定したYouTubeなどがやたらと多いのは、私としては、どこか不思議なような気がするのだけれど、まあスポーツだと割り切ればそれでもいいわけですが、とはいえスポーツ的とスポーツそのものとはやはり違うところがあるから、そのあたりはあまり煎じ詰めないでおくことが大事なのかもしれません。

こういっておきながら、夜のニュースでノーベル賞を日本人が受賞すれば「ほう!」と思うし、その場合は、受賞内容を見ているわけでもないから、同じことだといえば一言もないわけですが、、。

ショパンコンクールに話を戻すと、初日の演奏動画を少し覗いてみたところ、春と同様、中国人の間にそれ以外の国のコンテスタントがいるといったような雰囲気でした。
私はいつも情報には疎く、常に遅れているのが当たり前だから、多くの方は先刻承知のことだろうけれど、新しいこととして目についたのは、ユリアンナ・アブデーエワが審査員の新顔として座っていたことですが、それ以外の多くは毎度おなじみの顔ぶれで、ハイそうですかという感じです。

とはいえ、コンクールもこれぐらい国家を挙げての規模となると、毎日朝から晩まで審査するのも並大抵の労働ではなく、身体的にも精神的にも相当タフでないとつとまるものではないことは確かで、みなさんすごいなぁ!といろんな意味で感心させられます。

見た限りでは、ステージ上のピアノは3台で、ヤマハは見かけなかったけれど、まさかこのメーカーが出てこないことは考えられないから、必ずあとから登場してくることは間違いないでしょう。

ピアノといえば、なんと今回からBECHSTEINが公式ピアノに加わったようで、5種になったらしいのは驚きでした。
ショパンコンクールのステージは、ピアノメーカーにとってもこれ以上ないコンクールであり、それがビジネスへも大いに繋がるようだから、BECHSTEINも現代のピアノビジネスへあらためて名乗りを上げるべく、相当な覚悟のあるらしいことが伺えます。

ただし、コンクールという限界勝負の世界にあっては、近年のメジャーコンクール実績のないこのピアノを敢えて使おうという、勇気あるコンテスタントはなかなかいないだろうと思いますが、ひとりでもいるならそれはぜひ聴いてみたいものです。

実績がない→だから誰も使わない、といっていたのではいつまでも実績はできないから、まずは公式ピアノとして認定され、はじめは惨敗に終わるとしても、とにかく楽器を運びこんで待機するよりないというところだとすると、1853年創業の老舗が、後発の日本の2社および新参のFAZIOLIの後ろへまわって、最後尾に並ぶところから始めとようとする姿が、なんだか泣けてきますね。

日本では自民党の総裁選が終わったばかりですが、将来のポストを狙う人は、当選の見込みがなくても推薦人を集めて出馬することで存在感を示し、実績を積む必要があるのだそうで、そんなものに例えるのもおかしいけれど、BECHSTEINの参戦は、そんな第一歩なのかなぁ…という気がします。


追記;YAMAHAは初日のEvening Sessionにはやくも登場しており、なんともそそっかしいことでした。その折もステージ上のピアノは3台だったから、使用ピアノとコンテスタントを上手く振り分け、ステージにはそれ以上の数のピアノを置かない取り決めなのかも。ピアノ交換ではKAWAIとSTEINWAYの間違いがあったようで、再度交換するという一幕も。

広島のトリフォノフ

9月21日のEテレ・クラシック音楽館、広島交響楽団「平和の夕べ」コンサートから、ダニール・トリフォノフによるラフマニノフのピアノ協奏曲第2番、指揮はクリスティアン・アルミンク。

トリフォノフといえば、以前の来日公演録画でのハンマークラヴィーアに感激したことが記憶に新しいところですが、さすがに「再び」とはならず、熱演ではあるけれど感激というまでには至りませんでした。あるところでは繊細に、あるところではきわめてダイナミックになるけれど、その仕分けにいまひとつ納得感がなく、ただその大小の波が打ち寄せては去っていくようで、もうひとつ入り込めないところがありました。とはいえ、この人なりの肉感と燃焼はあるから、それだけでも近年では稀少な存在だといえるかもしれません。

この人の演奏は、どこか子供が喜々として何かに熱中しているよう感じる…ことは前にも書いたかもしれず、それが良さでもあれば個性でもあるのかもしれないけれど、ラフマニノフの音楽はもっと大人の世界、ロシア流のダンディなものであってほしいから、その点でどうしても期待するものと一致を見ずに終わってしまう気がしました。
このピアニストには端然と整ったものより、どこかモンスター的な作品のほうが合うのかもしれないなどと思ったり、、、

それでも、ご本人にはその演奏が真実として期するところがあることは伝わるし、このピアニストだけの迫真の演奏であるから、会場は大いに満足するだろうとは思います。

アンコールはチャイコフスキーの子供のためのアルバムから2曲でしたが、協奏曲のあとのアンコールは会場へのサービスでもあるから、そうひねらないで、もうすこし普通に期待に応えるものを弾けばいいのに…とは思いました。

彼はファツィオリを好んで弾くピアニストであり、このステージでもそれが使われていました。
ファツィオリの印象はこれまでにもしばしば書いたけれど、今回もまたこのピアノの良さわからず迷子のような気分で、ムズムズするいつもの結果に終わりました。

いまや、広く世界でも認められる銘器であるから、それだけの価値があることは疑いをもちません。
しかるに、これという核心がいまだに掴めないことは、こちらの耳の未熟を晒すようなものだろうけれど、このブログは正直であることが唯一の価値だと思っているから、やはり感じたままを書くしかないわけです。

ピアニストはこのピアノを弾くことで得られる愉悦や、満足や、なにか特別な値打ちがあるのだろうと察せられるのだけれど、聴く立場としては、楽器は願わくはもう少しスカッと抜けるようなところや、キャラクターや、なにかがありそうなものだけれどそれがよくわからない。

それでなくてもイタリアは、まず太陽の光と色彩にあふれたお国柄であると思うし、その裏側の闇もあるだろうけれど、イタリア人はまずどう思っているのか率直なところを聞いてみたいものです。