広島のトリフォノフ

9月21日のEテレ・クラシック音楽館、広島交響楽団「平和の夕べ」コンサートから、ダニール・トリフォノフによるラフマニノフのピアノ協奏曲第2番、指揮はクリスティアン・アルミンク。

トリフォノフといえば、以前の来日公演録画でのハンマークラヴィーアに感激したことが記憶に新しいところですが、さすがに「再び」とはならず、熱演ではあるけれど感激というまでには至りませんでした。あるところでは繊細に、あるところではきわめてダイナミックになるけれど、その仕分けにいまひとつ納得感がなく、ただその大小の波が打ち寄せては去っていくようで、もうひとつ入り込めないところがありました。とはいえ、この人なりの肉感と燃焼はあるから、それだけでも近年では稀少な存在だといえるかもしれません。

この人の演奏は、どこか子供が喜々として何かに熱中しているよう感じる…ことは前にも書いたかもしれず、それが良さでもあれば個性でもあるのかもしれないけれど、ラフマニノフの音楽はもっと大人の世界、ロシア流のダンディなものであってほしいから、その点でどうしても期待するものと一致を見ずに終わってしまう気がしました。
このピアニストには端然と整ったものより、どこかモンスター的な作品のほうが合うのかもしれないなどと思ったり、、、

それでも、ご本人にはその演奏が真実として期するところがあることは伝わるし、このピアニストだけの迫真の演奏であるから、会場は大いに満足するだろうとは思います。

アンコールはチャイコフスキーの子供のためのアルバムから2曲でしたが、協奏曲のあとのアンコールは会場へのサービスでもあるから、そうひねらないで、もうすこし普通に期待に応えるものを弾けばいいのに…とは思いました。

彼はファツィオリを好んで弾くピアニストであり、このステージでもそれが使われていました。
ファツィオリの印象はこれまでにもしばしば書いたけれど、今回もまたこのピアノの良さわからず迷子のような気分で、ムズムズするいつもの結果に終わりました。

いまや、広く世界でも認められる銘器であるから、それだけの価値があることは疑いをもちません。
しかるに、これという核心がいまだに掴めないことは、こちらの耳の未熟を晒すようなものだろうけれど、このブログは正直であることが唯一の価値だと思っているから、やはり感じたままを書くしかないわけです。

ピアニストはこのピアノを弾くことで得られる愉悦や、満足や、なにか特別な値打ちがあるのだろうと察せられるのだけれど、聴く立場としては、楽器は願わくはもう少しスカッと抜けるようなところや、キャラクターや、なにかがありそうなものだけれどそれがよくわからない。

それでなくてもイタリアは、まず太陽の光と色彩にあふれたお国柄であると思うし、その裏側の闇もあるだろうけれど、イタリア人はまずどう思っているのか率直なところを聞いてみたいものです。