ブレンデル

つい先ごろ、ブレンデルが亡くなったと知って、はぁ…そうかと思いました。
引退して久しく、その後のことは知らないけれど、後進の指導に熱を入れられていた様子は映像で見たことがありました。

ブレンデルは、正確にどこの国の人なのかよくはわからないままだったけれど、間に合わせにネットで調べたことを自分の知識のように書くようなことはしたくないから、あえてそのままに。
だいたいヨーロッパ人はどこで生まれて、両親の国籍や血統がそれぞれどうだとか、居場所も転々とするなど、あれこれ入り乱れてよくわからないし、そのあたりの詮索はそれほど意味もない気がします。

知るかぎり長年ロンドン拠点として活動を続けて、長身で、度の強い黒枠メガネ、真面目なようで、どこかトボけた漫画のキャラクターのようだったけれど、歳を重ねてだんだん白髪が目立つようになるにつれ、見た感じも上品さが増して、演奏もより自由で雄弁になった印象があります。

ブレンデルは、20世紀後半のピアニズム中心のスーパースターの潮流に、一石を投げ込んだような印象がありました。
彼が示したのは徹底したアナリーゼで、演奏と分析とはどこか分業のようなところがあったのが、分析者本人がステージに現れて直接弾いて聴かせるごとくで、学者とピアニストを兼任したような趣があり、これがずいぶん「当たった」というような覚えがあります。

CDの解説には自ら筆を執り、解説者はだしの持論を展開するなど研究者・著作家の一面もあり、ひとりのピアニストの上に知的新鮮さと尊敬が重なって、やがてひとつの方向性を生み出すまでになったように思います。
多くの書籍に目を通し、自筆譜をくまなく点検し、あれこれと見定めてた上で自身の見解に到達し、それを演奏へと反映させる。

だれだったか、相当な地位にあるピアニストまで「ポリーニのテクニックと、ブレンデルの音楽性が欲しい」などと言わしめるほど、その影響は少なくないところがあったように思います。
とくにベートーヴェンのソナタでは、バックハウス〜ケンプの次を担う大家として時代に支持され、たしか3回は全曲録音されているほど。

実は、正直なところを告白すると、ブレンデルが最も高い評価を博していたころ(〜1990年代?)は、私は彼の演奏があまり好きではありませんでした。
必要以上に解釈というものを全面に打ち出されたそれは、ある種の気取りと、一種の臭みを嗅ぎとっていたから。

生身の、一期一会の、どこか危険を孕んだ、心拍数の上がるような演奏ではなく、理知主導の、抑制の効いた、整理整頓されたそれは、どこか美味しい部分をわざと差し引いて提供される料理のようで、一向に満足を覚えませんでした。

とりわけベートーヴェンは野趣を失い、壮大なものをわざわざ小さめの、こぎれいな庭園のように仕上げているところがどうにも不満でした。
ではせめて洗練されているかというと、どこかバンカラで田舎風なところがあって、ことごとく趣味が合いませんでした。

それが後になってブレンデルも変わってきたのか、こちらの耳にも多少寛容の幅が広がったのか、引退前の一定期間はだいぶうち解けて、なるほどと納得しながら楽しめる面も出てくるまでになったのです。

しかし不思議なことは、普通は好みでないなら聴かないし、ましてCDなど買うはずもないのだけれど、そんな時代からCDは相当量を購入していたし、なにか無視できないもの、どこか憎めず不思議に人を引き寄せるピアニストだったような気がします。
個人的には、ブレンデルはベートーヴェンよりもシューベルトのほうがよほど好きでした。

もうひとつ好みでない理由は、ステージでピアノの脇に立つと、頭の先が大屋根と同じ程もある長身男性でありながら、膝が鍵盤下につっかえるほど椅子を高く上げて痙攣的に弾くヘンな姿や、ピンピンと弾かれるようで厚みや潤いのないその音は、音楽に献身するという姿勢はあるにせよ、ピアニストたるものが楽器を鳴らすという面にほとんど意識が向いていないらしく感じたこともあったように思います。

とはいえ、久しぶりにブレンデルの演奏に耳にすると、そのなんとも達者な語り口、上品かつゆるぎない抑揚頓挫は、まず現代の若者にマネのできるところではなく、思わず唸りました。
自分の耳の徒な潔癖と欲張りが、こういう演奏の真価を見落としていたのかと思うと、つくづく我が身の浅はかさを恨んだりしたところです。

ダヴィドヴィチ

前回、古い演奏に親しんでいると書きましたが、おしなべて現代若手の演奏に対して感じる、あの独特な雰囲気から開放され、どこかなつかしいような気がするのは事実。

以前なら特にどうとも思わなかったような中にも、なるほどというようなメッセージを読み取れたり、まあこちらの耳も、ちょっと合わない味ばかりを食べさせられて、視野も好意的なほうへ広がっているのかもしれません。

さらに以前はうっかり見落としていたような発見のおまけもあったりするから、これはこれで面白いところがあります。

たとえばBOXセットでは、必ずと言っていいほど単体ではまず買わないであろうものが抱き合わせで含まれており、その中に意外なお宝があったりします。

印象的なものでいうと、BRILLIANTレーベルのショパン全集では、24の前奏曲の演奏者はベラ・ダヴィドヴィチで、これなどは私にしてみれば、おそらく単体で購入する可能性はまずないだろうと思われるもの。

ダヴィドヴィチはアメリカに渡ってジュリアードの先生などをしていたそうですが、その演奏は、どちらかというと垢抜けない、こってりしたものという印象だったのに、ここに聴くプレリュードはそんなイメージとはまるでかけ離れたものでした。

軽やかで、ほどよい詩情とうるおいがあり、なんとも良いバランスを保った演奏だったことに、思いがけない発見をして得をしたような気分になりました。
すっかり気に入ってしまって、かなり繰り返して聴きました。

必要以上の主張をせず、また功者ぶってピアニスティックに脱線するでもなく、淡々とした足取りで作品世界が描き出されます。
2番や4番などは、多くの場合さも暗示的に、過度に深沈と弾かれることが多い中、ごく自然で過剰にならないところも、全体が脈絡を結びあうようで、作品の意図に適っているよう感じます。

17番など、まるで大らかに風がわたってゆくような歌いぶりで、全編が企みなく自然に相対している結果、全体が恣意的に歪められることなくこちらへ届けられてくるようで、まとまりという点では随一と思える印象。
1979年の演奏ですが、これまでダヴィドヴィチにはさほどの重きをおいていなかっただけに、ちょっとした喜びに満たされました。

また、個人的感想で言えば、ピアノ(楽器)もこの時代のものには威厳があり、それでいて奏者の要求にはどこまでも応える厚みと幅(つまり大きな潜在力)があり、この点も悠然たるところがあり、なにより落ち着いて演奏に耳を傾けることのできることを再確認しました。

同様の印象はヤマハにもあって、某日本人ピアニストはCFIIISでの録音でしたが、ヤマハもむかしはもっとふくよかさがあったことが意外であったし、CFXが出たときに、歯切れよく快活に鳴るように感じられたのを進歩のように感じてしまったけれど、いま聴き返してみると、その判断が正しかったのか…わからなくなりました。

そして近年は、CFIIIS→CFXと同様の変化がスタインウェイにも起こった…と思うと、なんとなく納得が行くような気がします。

字の上手さ

いいかげんコンクールの話題から離れたいけれど、今年はロンティボー、エリザベート、クライバーン、そして春と秋はショパンと、どういうわけか大コンクールが目白押しのようで、…頭がくらくら。
某サイトに添付された上位入賞者の2〜3の演奏を数分ほど覗きましたが、あいも変わらぬ今どきの演奏ばかりで、それでなくては戦線にすら立てない気配です。

一見すると非常に完成度の高い、完璧に仕上がっているような外面でありながら、なにか腑に落ちない、乗っていけない、歪な感じが拭えない気がするのは私だけでしょうか?
もうたくさんだから早々に退出し、そんな反動もあって、ここ最近は昔の演奏に再接近しています。

昔といっても、べつにSP時代とかではなく、せいぜい20〜40年ぐらい前の演奏。
色々と聴いてみて、おおまかに感じることは(もちろんそれぞれではあるけれど)、たとえ技巧自慢で聴かせる人であっても、今のコンクール世代に比べたらどこかふっくらした人間臭さがあり、正直というか、人の体温が感じられる気がします。
少なくとも、膨大な情報から生まれた「なりすまし」ではないだけでも価値がある。

そこで、ひとつ思いついたことには、おかしな例えかもしれないけれど、今昔の違いといえば「字」の上手下手に似たものがあるのではないかか、、ということ。

現代人の手書きの文字は、昔に比べて恐ろしいまでに下手になっていることを感じることはありませんか?
もちろん個人のそれでなく、世代的に年代的に見渡してみての話です。
たとえば自分の世代より、親の世代は明らかに字が上手かったし、祖父母の時代はさらにその上を行く達筆がごろごろしていて、昔の何気なく書かれた筆跡を見ると、その圧倒的な筆致力、自在な流れ、気品さえ漂う見事な水茎墨跡には驚愕させられます。

これに対して、現代人の字の酷さといったら目を背けたくなるばかりで、とりわけクイズ番組などで書かれる字は、この上なく醜怪なもので、むかしはやかましく言われた筆順なども、もう完全に崩壊しています。
識者とか知識人、政治家にいたるまで大同小異で、昔だったらとても人前に出せないような悪筆を、臆する様子もなく平然と露出し、もはや悪筆であることさえもわかっていない様子に唖然とするしかありません。
ちなみに、今は「筆順」とはいわず、「書き順」というらしいのにもへぇ!と思ったり。

当然ながら、書き文字に対する審美眼そのものも甚だしく欠如しており、もっぱら書道教室的なもの、あるいはただ楷書で入念にさえ書かれたものなら「字がきれい!」「達筆だ!」などと安易に言われるあたり、美しい文字の文化はほぼ消滅した観があります。

むかしは字の上手い人は、それだけで周りから一目置かれ尊敬もされたし、文字の巧拙は、いうなれば文化の基本を成すものだろうと私は今も思っています。
また、今は許されないことでしょうが、昔は単なる字の巧拙だけでなく、その特徴から人品骨柄まで忌憚なく推量して憚らないほど、字は重要なものでした。

何が言いたいのかというと、昔の演奏には、濃淡はあるにせよ、まだしもこの字の上手さのような美意識や教養が下支えとなり、言わず語らずに機能していたのではないかと思うのです。

英語圏でも筆記体が書けなくなって久しいのだそうで、そんな時代に高度化した合理的な訓練とデータによって、特定の技術だけがスポット的に発達して、専ら活字のような文字を機械的に書くだけ、そのような時代変化が器楽演奏にも侵蝕しているのではないか?という気がしました。

コンクールに受かる演奏のために何かを捨て去って…と思っていたけれど、はじめから無いのだから捨てるにも及ばないのだとすると、ひたすら有利な演奏情報に沿った訓練に打ち込むことも頷けるし、聞いていて酔えないのも道理。
今の演奏が50年後にどういう捉え方をされるかわからないし、そもそもピアノやピアニストがあるのかどうかもわかりませんね。

「写真撮影OKです」

触れるべきかかなり迷いながら書いていたとき、折しもショパン予備予選となったために放置したものの、今回消去しようかとためらいながら、内容を削って少しだけ。

さかのぼること二ヶ月以上、4月6日のEテレ・クラシック音楽館では、2時間まるまる角野隼人さんの今年のコンサートの様子が放送されました。
通常この枠はN響定期はじめ、ほぼオーケストラ演奏会を中心とした内容なので、それがひとりのピアニストに充てられるというのは、かなり珍しいと思います。

宇宙と音楽をテーマにした、この方らしい独自のアプローチで、クラシックの伝統の中で新しいことに挑戦する姿勢は立派なことで、そこは拍手をおくりたいところ。
ただ、個人的にこの方の演奏というのは以前からやや捕らえ難いところがあって、なんとかして好意的に耳を向けてみるものの、今回もそこはしつかとは掴めないままでした。

異才あふれた方だということは疑うものではないけれど、いつも目を合わさずサッと素通りしていく感じで、その演奏とどう向き合っていいかがわからず終わってしまいます。
ステージには通常のコンサートグランドのほか、プリペアドのアップライト、電子ピアノの鍵盤をコの字形に寄せて置かれ、これらを適宜弾きわけ、あるいは両腕を広げて2台を同時に弾いたりのパフォーマンスは見どころ満載だから大いにウケているようですが、演奏会というより、どこかピアノを使った才人の高度な遊び芸を見せられているような印象。

思いがけないアイデアなどへぇ〜と思うところがあるけれど、裏を返せば今はどんなに優れた演奏会をしても、よほど特徴や話題性がないと人は集まらないんだというリアルと、それを突破した成功例のひとつを見せられているようで、ゆっくり身を入れて演奏を聴くところまでは入っていけないのが正直なところ。

さらに一週違いぐらいで、『題名のない音楽会』でも角野さんが採り上げられており、こちらは民放だからよりあけすけに、武道館で13000人を前にコンサートを成功させたとか、秋にはカーネギーホールが決定しているなど、今まさに破竹の勢いであるらしいナレーションが流れます。
時代を味方につけていったん売れると、それが加速度的にブレイクするというのは大衆社会の常なのでしょうが、そのハードワークにしっかりと応じていけるだけの強靭な体力とメンタルを備えた、かなりタフな人らしいところもつくづく感心させられます。
ショパン・コンクールの折には髪型などショパン風を意識して挑んだということでしたが、病弱で苦しんだショパンとは真逆の、相当マッチョな御方なのかもしれません。

アンコールはラヴェルのボレロ。
『題名のない音楽会』のスタジオでもこれが彈かれたから現在の看板曲でもあるのか、会場でもお待ちかねだったのでしょう。
演奏直前にサッとマイクを手にされましたが、挨拶のようなものはナシ、きわめて短く「写真撮影OKです」とだけいわれると、それに呼応するように客席には無数のスマホが光っていましたが、これは単なるサービスなのか、拡散しても良いということなのか、むしろ拡散してくださいという奥の意味があるのか、ふと前回の都知事選のことなどが頭をよぎってしまう始末。

今どきの激しい変化について行けず、私自身、何かというと猜いだ目を向けてしまう病に罹っているのかもしれません。
だとすると、角野さんには大変すまないことのようにも思われますが…。