予備予選-ピアノ追記

このネタも、もうそろそろくどい感じがしてきたとは思いつつ、ショパン・コンクール予備予選の配信動画を通じてとはいえ、2台のピアノとはずいぶんじっくり付き合った気がしました。

ヤマハは欧州ではどう捉えられているか知らないけれど、カラッと抜けるような気質のないところがやっぱり日本的だと最後まで感じました。
スタインウェイは近年のモデル──ニューヨークとハンブルクが大規模に共通化されてから──では、その音もかなり変わってきているように感じますが、果たしてそれが良い方に向かっているのかどうかは私にはわかりません。

そもそも自分で最新のそれに触ったこともないから、あくまで鑑賞する側に立って感じるだけの話になりますが、伝統的な雰囲気は一定程度残されながら、よりインパクト感のあるわかりやすさ、いわば「音の見てくれ」が優先されている印象です。
このタイプに切り替わったとき「やたらパンパン鳴る音」というように書いた覚えがありますが、それは今も変わりません。

全音域は凹凸なく整い、音は立ち上がりを強化されているようで、これは進化と見るべきなのかもしれないけれど、音色の変化や表現の含み、立体的な広がりと陰翳、器の大きさという点においてはどこか見切られているようにも感じるのは私の勘違いでしょうか?

そもそもスタインウェイは、きわめて誇張していうと、タッチに対してほんのわずかに遅れて発音してくるようなところがあって、そこにいろいろな特徴や楽器の秘密があったとすれば、やや神秘性がなくなったように思います。

全体として刷新された感じはあるけれど、時代の求めに合わせてあれこれが見直され、厳しく取捨選択された結果なのだろうと思います。

パッと試弾するだけなら、非常に弾きやすそうで、かつフレンドリーなのかもしれません。
ピアノや楽器に限ったことではなく、伝統的な一級品の世界には、独特なクセや扱い方にルールやしきたりのようなものがあったりしたものですが、近年はそんな悠長なことは言っていられないし、むしろYouTubeのタイトルではないけれどはじめの「掴み」が大事で、そこで勝負できなくてはビジネスが成り立たないという、キレイゴトだけでは通らない生臭な事情もあるのかも。

それでなくても、今は「コスパ」「タイパ」という価値観が大手を振って憚らない時代だから、その潮流の中でピアノだけが例外というわけにもいかないのでしょう。
そんな時代変化の対価として、厚み深みはあまり感じられなくなったとしても、それでもスタインウェイのような伝統的メーカーが今日も尚、最高級ピアノの地位を明け渡すことなく作り続けられているということは、それだけでもありがたいと思わなくてはならないのかもしれません。

ちなみに、まんべんなく均等に振り分けられた音色とか、鍵盤/アクションの精度が向上しているとすれば、もしかすると日本のピアノが影響を与えているのでは?という気がするのですがどうでしょう。
むかしトヨタからセルシオが出たとき、その精度や静粛性は、その後のメルセデスのクルマづくりを変えさせたことは有名で、同様のことがピアノでも起こっていない…とは言い切れない。

長年、ひたすら追いかける一方だった日本メーカーのやり方が、気がつけば相手のほうが方向転換を余儀なくされるという驚きの逆転現象で、ピアノも日本流儀がスタインウェイに何らかの影響を与え、変更を迫らせたということは、無い事ではないような気がするのです。

あくまでも私の推察であり想像に過ぎないのですが…。

実はピアノも…

ネットニュースによると、現在開催されている大阪・関西万博のオーストリア館には、1869年日本とオーストリアが外交樹立した際、時のオーストリア・ハンガリー帝国の国王から明治天皇に贈られたベーゼンドルファーのレプリカが展示されているとのこと。

そのオーストリアナショナルデーに出席のため来日中のファン・ベア・ベレン大統領を、天皇陛下は22日、お住まいの御所にお迎えになったようですが、ピアノのことが話題となり、「ベーゼンドルファー社製のピアノは、ここ御所にもあります」と仰せになって、楽器や音楽の話で親しく懇談されたとありました。

今上天皇がヴィオラを弾かれることは有名ですが、実はピアノもかなりの腕前だというのはあまり知られておらず、実は私も最近まで知りませんでした。

両陛下お揃いでのご公務の際、皇后様が「陛下もピアノを弾かれるんですよ」と周囲に洩らされたのだそうで、実は小学生くらいの頃にピアノをお弾きになっている音のない映像もあり、そこにはかなり自然にサラサラと弾かれている様子が映っています。

それを見たのは、ひと月ほど前の事で、思いがけない事実に驚いたばかりでした。

一説によると、ヴィオラよりも早くにピアノに親しまれ、しかも相当に上達されていたにもかかわらず、そこには、とてもここには書けないような深い事情が関係しているとのことで、その真偽の程もわかりませんが、詳しいことは調べていただければ、もしかしたら出てくるかもしれません。

いつの日か、陛下が弾かれるピアノを、ほんの数秒でもいいから聞いてみたいものです。

予備予選-ピアノ

予備予選で使われたピアノについて。
結局、使われたメーカーはスタインウェイとヤマハの二種でした。

ヤマハも大いに健闘していたようですが、スタインウェイはよりあでやかで、次高音あたりがやけに華やかに鳴りわたるさまはノクターンなどで効果的だったと思いますが、ときに過剰というか、どこか泣き落としのようで、却って薄っぺらな印象を受ける場面もありました。

楽器が鳴ることは非常に大事なことではあるけれど、演奏者の技量によって深く鳴らされ、歌い上げるような印象を聴き手に与えることが本筋ではないかと思うと、陰翳を映し出す階層のようなものが少しほしいときがありました。
触れると即鳴ることも決して否定はしないけれど、奏者がそこを引き出す余地があって、それに応じる幅と厚みのある楽器であるほうが、本当の表現力というものではないかと思いましたが、今どきは細かすぎる注文なのかもしれません。

会話でも、あまり大げさな相槌を打たれたりすると、却ってバカにされているような気がするものですが、考えすぎでしょうか。
その点では、ヤマハのほうが一定の節度はあったのかもしれません。
決して今回のスタインウェイを否定しているわけではないし、新しいピアノとしてはひとつの究極なのではないか?とさえ思われたし、全体として感銘を受けたことも事実ですが、どうも諸手を上げて素晴らしいというのとも、どこかちょっと違っているような後味が不思議に残ります。

あれ?と思ったのはたしか4月の30日ごろの事。
スタインウェイは前日までとはあきらかにピアノの感じが異なり、かなりくぐもった音になったから、それは演奏者のせいかと思ったら、次の人でもそれが続いているから、おそらく整音され、かなり針刺されたのだろうと勝手に解釈しました。

しかも、それは長くは続かず、数人が弾くにつれ明らかに元に戻ってくるあたり、このようなコンクールに使われたらハンマーの消耗も大変なものだろうなぁと思いつつ、それから数日後にもまた同様のことがあったので、針刺しされた直後のタイミングに当たると、かなりフィルターがかかったような印象となるから、あのようなと競い合いの場では不利になるだろうという印象。

〜とはいえ、そこまで公平を期すというわけにもいかないから、これも時の運でしょうが、針刺しされる直前に弾けた人のほうが、くっきりとインパクトのある演奏になるだろうし、細かく見だしたら大小あれこれの条件が幾重にも絡みついてくるようです。

ほんらいピアノの音は、いうまでもなくハデであればいいということはまったくないのだけれど、コンクールといういわば戦場においては、常に他者との比較もあるし、僅かなことが生死に関わるわけだから、ただやわらかい落ち着いた音色などといってみても、それは差し当たりキレイゴトにすぎない気もします。

そんなピアノの状態や出場順など、あれこれ言ってみても始まらないし、そういうことを一気に突き破るような人こそが優勝に値するのだろうと思いますが。

ことほど左様に、コンクールは芸術とは似て非なるものであり、強いていうなら、芸術性も勝ち負けの一要素であることが組み込まれた、一種のスポーツだと思いました。

なんならナイキあたりが最も演奏しやすい機能ウェアなどを作ったらいいかも。

予備予選-終

予備予選の視聴もようやく終わりましたが、気がつけば一週間以上遅れていました。
概ね160名から60名ほどになった由、通過できた人、できなかった人、それぞれに運命が分かれたようです。

難しいのは中間の微妙なところにある人達で、その判断は紙一重であること、審査員の好みや判断基準、さらにはそれ以外の要素も関係するとすると、納得できない人達も少なくはないだろうという気がしないでもありません。


で、実はこの後、生意気ですが自分なりの総括的なことをほぼ書き終えていたのですが、最後の最後に出てきた中国人を聴いて、急遽変更してすべて消去。

後で名前を見たらジン・シーハン(Jin Zihan)とありました。
この人はちょっと次元の違う人で、それもあってトリを飾る人だったのだろうなぁと思いました。

技巧も完成された確かなもので、余裕があり、その余裕が演奏に自由と丁寧さの両方を与えており、さらにこの人独自の世界が広がっている。
長らく配信動画を見続け、おおよその感じがわかってきて気分もダレながら、半ば義務的に聴いてついに最後のひとりになったところ、どうも様子が違っており、つい集中して中飛ばしもせず、すっかり聴き入ってしまいました。

すでにピアニストである雰囲気があるし、演奏自体も必ずしも決まりきったものではなく、全体に自分自身があったし、わずかな冒険(その場その瞬間で反応してやっていること)もあって聴いていてワクワクさせられました。
指の動きにはおよそ無駄がなく、絶えずしなやかで合理的な動きを伴いながらの安定した弾きっぷりで、技術というものはある高みに達すると、それ自体が美しく流れていくようで、技術の美しさが音楽にも還元されていく面があり、この相互作用には風格さえ備わっている気がしました。

この人は今回の中心人物になるというか、ひとことで言えばスターになるひとりだろうと思いました。
さらに不思議なことには見映えもよくて、弾いている姿もサマになっていて、なんというか目にストレスがありません。

〜と、ここまで書いた時点で、万が一の確認のため、彼が予備予選を通過しているかどうか探してみたのですが、日本人のことが多くてなんだかよくわからず、夜中のことでもあり、あまり粘って調べることもできなかったので、もし通過できていない(ことはないと思うけれど)場合は、ちょっとマズイなぁと思いつつ、まあそれでもたかだか私がそのときにそう感じたというだけのことなので、そのときはそのときと開き直ることにしました。

最後になって、こういう演奏に接することができたのは、変な表現かもしれませんが救われた気がしました。

秋の本戦では、予備予選免除者も加わっての戦いとなるようですが、これは他のコンクールでの上位入賞が条件になるそうで、どういう人が出るのか、そのあたりの情報にはめっぽう疎いのでわかりませんが、あちこち渡り歩いてコンクールずれしたような人が勝ち進むより、できるだけ才能ある魅力的な人が出てきて、スッと栄冠を勝ち取ってほしいものだと思います。

はあー、慣れないことをして疲れましたが、おもしろくもありました。

予備予選-5

予備予選はどうやら終わった由ですが、こちらの配信動画の視聴は遅れていてまだ終わりません。
課せられた曲目はエチュード、ノクターン、マズルカ、スケルツォで構成される約30分、この4つをまんべんなく、同等のレベルで好ましく弾ける人というのはかなり少ないようで、そこがひとつの難関のようです。

たとえばエチュードとスケルツォがうまくいく人は、あとの2つが思いのほか良くなかったり、その逆もあり、技術とセンスを試されていることがわかります。
エチュードやスケルツォをビシッと弾く人はあるけれど、ノクターンや、とくにマズルカを好ましく弾くことは容易ではないらしく、各人の内面やセンスが露呈するし、さらには指導にも関係があるような気がします。


その後も中国勢の猛攻は衰えることはなく、全体として非常に高レベルであることは驚くばかり。
以前、文革を生き抜いたような世代がピアノ教育界の重鎮として指導にあたる様子をTVで見た記憶があったけれど、すでにそれから相当な年月も経たから、指導者層も代替わりして増員され、あの世界最大級の人口と国力を背景に、精鋭たちが次々に登場しているであろうことは、ある種の凄みを覚えます。

音楽的には細かなことを言えばキリがないけれど、多くは素晴らしく弾けていることは紛れもない事実だから、これは単純に敬服しないわけには行きません。
いまだにラン・ランに見られるような自信満々演技過剰な雰囲気の人もいるいっぽう、はるかに抑制が利いて、常識的な態度でピアノに向かっている人の割合も増し、くわえて日本人のように引っ込み思案ではないぶん、ステージに立つためのメンタルとしては向いているのかもしれません。

その演奏に、真に人の心を揺さぶる力があるか?というと、そこは微妙で、美意識や内面で処理されるべき細部まで、技術と訓練によって成し遂げられた感じはあるけれども、そうはいってもあそこまで到達できているというのも結果としての事実。
デリカシーを表現するときに、独特な吐息のようなものを入れるなど芝居ッ気が目立ったり、さも幸福そうな笑顔かと思いきや一瞬にして鬼気迫る形相になったり、さすがは京劇の強烈な表現のお国柄だなあと思う場面もしばしば。
目を閉じ、上体を反らし、口元は笑い、顔は左右に振るなどの仕草は、よく見る光景です。

こういう百面相的な仕草は中国人の専売特許かと思ったら日本人にもあってびっくり。
緊張きわまる中、ノクターン冒頭のアルペジョで、左手はやっといくつかの音を出しただけだというのに、その手は自分のアタマより高く宙を舞い、以降も喜びや驚きの表情が止むことはなく、それをまたカメラが容赦なく接近して映し出すものだから、他国のことを云う資格もないなぁと思ったり。

西洋人はもはや完全に少数派で、弾いている姿はさすが絵になるけれど、演奏はどれももうひとつパッとしません。
それにひきかえ、やはり中国勢のびしっと鍛えられた技術があらためてわかるところなど、これが今の現実のようです。

で、中国人の演奏をあまりにたくさん聴いたものだから、某日本人の演奏を聴き返してみると、最初に聴いたときは少しもいいとは思わなかったけれど、そこには日本人ならではの緻密さ、肌理の細かさが張り巡らされていて、日本人の手から紡ぎ出される工芸的な上質感は一段違うらしいこともわかりました。

ただ、工芸的陶冶はあるとしても、演奏表現として芸術に達しているか?となると、否と感じるのも正直なところでした。

予備予選-4

連続ドラマのように、きっかけができたことでつい配信動画を見ていますが、あまりに量が多く、とてもではないけれど追いつけず、常に数日遅れです。
もちろん全部を通すなどできるはずもなく、しばしば飛ばしながらつまみ食い的に見ているだけですが、朝夕二回行われる日など一日で優に十数名以上が弾くわけだから、なんとも凄まじいことです。

以前から言われていることですが、中国の躍進は驚くべきで、言葉は悪いけれど恐怖を感じるほど。
さらに国籍はアメリカやイギリス等であっても、あきらかに中国系という人も多いし、そこへ日本や韓国からも登場してくるから、ほとんどアジア人のコンクールをワルシャワでやっている観があります。

ときおり思い出したように西洋人が出てくると、なにやらホッとすると言ったら語弊があるかもしれないけれど、言葉を変えるとどこか懐かしいものに帰れたような、ついそんな気にさせられます(書いている当人が東洋人ですが)。

ひとりひとりのことではなく、あくまで全体から受ける大雑把な印象でいうと、やはり東洋系の演奏はどこか齟齬があり、遺伝子の中にないことをやっているという感じが、どうしても残ります。
そうかといって西洋系も、ピアノをやる人が激減している現実感がひしひしと伝わって、いやでも時代の流れ・世界の潮流を感じないわけにはいきません。

そんな中、珍しくフランス人が登場しましたが、特に上手いということはなかったものの、やはりフランス流のすっきりした表現の中にニュアンスがあり、全体にショパンの世界がじわっと広がっているのはふうん…と思いました。
過剰な表現を好まず、大騒ぎせず、汗臭くもお涙ちょうだいもない、むしろ平常心を崩さない中に意外な奥深さがあったります。
それがもの足りないと感じる人もあるでしょうが、ショパンの本質は実は、そういう芸術的な環境の中で申し合わされた洗練の中に、そっと可憐に咲く緻密な花のような気もします。

西洋系の人の演奏の中からときおり聴こえてくるものは、やはりネイティブな言語のようで、模倣ではない自然な響きや色合いがあったりしますが、かといって残念ながら大物はあまり見当たりません。
技術的にはあきらかに東洋系のほうが勝っており、どんなにきれいごとを言ってみても、コンクールでは技術は大きな部分を占める要素だから、それがものをいうことも現実。

では、技術があればすべて良しかといえば、さすがにそうでもないから、曲をいかに仕上げてくるかということとの総合力となり、勝ち残っていくためには、着実に加点を得る必要が生じ、従ってその演奏は偏差値的傾向となるのは致し方ないことなのでしょう。
突出した個性や才能が発掘できないのも頷けます。

長らくコンクールのデメリットはいろいろと囁かれながらも、一向にそれが廃れないのは、商業主義云々もむろんあるけれど、やはり人間は有史いらい、戦いが好きな生き物で、そのDNAが欲するものを抑えられないからでは?
動物の生存競争、戦争の歴史、経済の争い、古くは剣闘士からスポーツ、さらには身近な人との小さな優劣に至るまで、やはり本能的に勝ち負けを好む本能がある。

芸術の場においても、あれがどうのこれがどうのとあやふやなことをいうより、高校野球みたいに次々に勝敗が分かれ、落ちるものは落ちて残るものは残るもののほうが単純明解、面白くて、納得感もあるのでしょう。

日ごろ音楽の話をするわけでもないような人が、コンクールというと急に喜々として、若手の名前はよく知っていて、自分の「推し」があって、俄に積極的になる人がおいでのようですが、これは要するにスポーツ観戦であって、コンテスタントは選手なんだ考えればストンと腹に落ちるようです。