連続ドラマのように、きっかけができたことでつい配信動画を見ていますが、あまりに量が多く、とてもではないけれど追いつけず、常に数日遅れです。
もちろん全部を通すなどできるはずもなく、しばしば飛ばしながらつまみ食い的に見ているだけですが、朝夕二回行われる日など一日で優に十数名以上が弾くわけだから、なんとも凄まじいことです。
以前から言われていることですが、中国の躍進は驚くべきで、言葉は悪いけれど恐怖を感じるほど。
さらに国籍はアメリカやイギリス等であっても、あきらかに中国系という人も多いし、そこへ日本や韓国からも登場してくるから、ほとんどアジア人のコンクールをワルシャワでやっている観があります。
ときおり思い出したように西洋人が出てくると、なにやらホッとすると言ったら語弊があるかもしれないけれど、言葉を変えるとどこか懐かしいものに帰れたような、ついそんな気にさせられます(書いている当人が東洋人ですが)。
ひとりひとりのことではなく、あくまで全体から受ける大雑把な印象でいうと、やはり東洋系の演奏はどこか齟齬があり、遺伝子の中にないことをやっているという感じが、どうしても残ります。
そうかといって西洋系も、ピアノをやる人が激減している現実感がひしひしと伝わって、いやでも時代の流れ・世界の潮流を感じないわけにはいきません。
そんな中、珍しくフランス人が登場しましたが、特に上手いということはなかったものの、やはりフランス流のすっきりした表現の中にニュアンスがあり、全体にショパンの世界がじわっと広がっているのはふうん…と思いました。
過剰な表現を好まず、大騒ぎせず、汗臭くもお涙ちょうだいもない、むしろ平常心を崩さない中に意外な奥深さがあったります。
それがもの足りないと感じる人もあるでしょうが、ショパンの本質は実は、そういう芸術的な環境の中で申し合わされた洗練の中に、そっと可憐に咲く緻密な花のような気もします。
西洋系の人の演奏の中からときおり聴こえてくるものは、やはりネイティブな言語のようで、模倣ではない自然な響きや色合いがあったりしますが、かといって残念ながら大物はあまり見当たりません。
技術的にはあきらかに東洋系のほうが勝っており、どんなにきれいごとを言ってみても、コンクールでは技術は大きな部分を占める要素だから、それがものをいうことも現実。
では、技術があればすべて良しかといえば、さすがにそうでもないから、曲をいかに仕上げてくるかということとの総合力となり、勝ち残っていくためには、着実に加点を得る必要が生じ、従ってその演奏は偏差値的傾向となるのは致し方ないことなのでしょう。
突出した個性や才能が発掘できないのも頷けます。
長らくコンクールのデメリットはいろいろと囁かれながらも、一向にそれが廃れないのは、商業主義云々もむろんあるけれど、やはり人間は有史いらい、戦いが好きな生き物で、そのDNAが欲するものを抑えられないからでは?
動物の生存競争、戦争の歴史、経済の争い、古くは剣闘士からスポーツ、さらには身近な人との小さな優劣に至るまで、やはり本能的に勝ち負けを好む本能がある。
芸術の場においても、あれがどうのこれがどうのとあやふやなことをいうより、高校野球みたいに次々に勝敗が分かれ、落ちるものは落ちて残るものは残るもののほうが単純明解、面白くて、納得感もあるのでしょう。
日ごろ音楽の話をするわけでもないような人が、コンクールというと急に喜々として、若手の名前はよく知っていて、自分の「推し」があって、俄に積極的になる人がおいでのようですが、これは要するにスポーツ観戦であって、コンテスタントは選手なんだ考えればストンと腹に落ちるようです。