予備予選-2

ショパンコンクールの予備予選は、とても見続けることはできないと書いた、その舌の根も乾かぬうちにまた少し見てしまいました。
…こうしてだんだんハマっていくものなのか?

日本の北桜子さんという人が、なかなか良い演奏をされていたように思いました。
メリハリもあり、しなやかさもあり、魅力のある人だと感じましたが、間の取り方などが聴いているほうと必ずしも息が合わず間延びするところが散見されたり、曲中の最もデリケートかつ美しさの際立つ部分を、さらっと通過していく点などがあるのが、強いていえば残念でした。
とはいえ雰囲気も良い意味で和風でキリッとして、どこか敬宮様を思わせるところがありました。

コンサートピアニストになるには、演奏が優れていることは当然としても、そこになにかしらの視覚的要素もあると言ったら、今どきは叱られるのかもしれませんが、現実にそれはあると思います。
演奏家として聴衆の前に立つ品格やオーラと言えばいいのか、適切な言葉は思いつかないけれど、何かは必要であろうと思います。
まあ演奏それ自体のことではないからこれくらいにしておきます。


驚いたのはポーランドの若者。
ポーランドの土着的な、訛りの強いショパンというのはいまだに健在のようで、まるで民謡かなにかの芸能か、あるいは代々受けつだれてきた民族料理の伝統の味付けのようで、耳慣れたショパンとのあきらかな違いに戸惑いを覚えました。
これはこれなのかもしれないし、なにしろショパンの母国という強みがあるから、これを正道とする向きもあるのかもしれないけれど、ショパンの美の世界は到底そんなエリアの気風に収まるものでないことは証明されて久しいから、却ってローカルな歌舞音曲のように感じてしまいます。

どこかルビンシュタインを思わせる、自信たっぷりな、平坦で円満で、ほとんど抽象表現も排された、すべてをこうだと断定してしまうような確固とした節回しは、思い込みの強い田舎の老人の話のようで、はいはいと受け流すしかありません。

また、別の出場者でへぇ!と思ったのは、はじめのノクターンではとても好ましく感じられ期待したら、それ以降のエチュードなどは信じがたいようなスピードで弾きちらして無残な結果に終わったりと、やはりある程度は聴いてみないとその人の全体が見えないところがあり、そこがプロとはやや違うところなのかもしれません。
ダメなのはすぐにわかるけど、良い人が本当にそう判断して間違いないかを検証するために、30分は必要なんだと納得。


予備予選でのピアノはスタインウェイ一択かと思っていたら、ピアノ交換があって、ひとりヤマハを使った人があったので、やはりピアノも選べるらしいということが判明。
私独特のくだらない話ですが、ヤマハはステージ上での鈍重なフォルムを見ただけでいつも残念な気分になってしまうのですが、このステージはピアノの全身がほとんど視認できないほどダークで、演奏者だけが浮き上がるような照明となっているため、いつもよりよほど好感が得られました。

やはりビジュアルというのは、知らぬ間に神経に喰い込んでくるところがあって、かなり影響があるとことも認識しないわけには行かないようです。
見た目の造形や美醜に意識の向く人は、スタインウェイは音ばかりでなく、ステージでの美しい姿をも賞賛しますが、そこに一向に感心のない人達も一定数おいでなので、そのあたりは意見が分かれることころかもしれません。

ショパン予備予選

気がつけば今年はショパンコンクールの開催年だそうで、秋の本線に向けて、予備予選なるものがワルシャワで始まったというので、動画を見てみました。

私はコンクールの規定などにはまるで不案内なので、そもそも予備予選とはなんなのか?さえ知りませんでした。
そもそもコンクールというものに大いなる疑問を持っているものの、ネットによると応募者はなんと642名にのぼり、それを書類と音源審査で通過した164名が出場するのだそうで、まずその数に仰天してしまいました。

そんな数字を見ただけで、とにかく何とかしてふるいにかけ、数を絞らざるを得ないだろうから、こういう一段階を設けるというのも一応はなるほどとは思います。

で、エチュード、マズルカ、ノクターン、スケルツォからなる30分の演奏が課されていましたが、はじめの数名ぐらいで、だんだん疲れてきて、やがて曲を進めたり飛ばしたりする頻度も量も増えました。
そのために大変な準備をしてくる出場者には申し訳ないけれど、とても全部を視聴するなど不可能で、第一日目にしてもうお腹いっぱいになりました。

なにしろこちらは自由気ままな視聴者だから、はじめの数分を聴いただけでこれはいただけないと思ったら、興味も集中も続きません。
多くの人が概ね同様ではないかと思うのですが、コンクールがお好きな方は連日ずっとこれを見ている猛者も少なくないようなので、そのあたりはまた違った楽しみ方があるのかもしれませんが、私はできないこと。

まして、ひとり30分といっても160人強ともなれば、審査するのもさぞや重労働でしょう。
その出身はピアニストが大半ですが、中には毎度毎回同じような名前があり、他のコンクールでも審査員だったりするのは、演奏より審査員が本業のようになっているのか?とさえ思ったり。

コンクールが与えるものとは、若い弾き手に対する栄冠だけではなく、ピアノメーカーにとっても最大の宣伝であり戦場でもあることがわかったし、そうなると審査する側もコンクールの権威を享受している側ではないか?と思うと、なんだか少しバカバカしいような気分にも陥ります。

出場者側も上位入賞を果たすような人達の多くは、あちこちのコンクールを渡り歩いているという話もしばしば聞くことだから、出場者も審査員もあっちこっちと場所が変わるだけで、実は同じような顔ぶれが何度も相対しているのかもしれません。

甚だ勝手な、短時間の視聴で感じたことは、日本人の演奏は細部まで詰めた準備をしすぎるのか、より、ゆとりがなく、顔の表情までもが決まったもののように感じたりするのは、これはもしかしたら自分も日本人だから、そのあたりが却って身につまされるのかもしれません。
対して、外国勢は、基本的に奏者の自由裁量の部分が多いように感じられ、そうあるべきだといつも思います。

むちろん人によってはおかしな点もあるから、それに比べれば日本人のきちんとしたもののほうがいいように感じるところもあるものの、やはりどこかずんぐりむっくりして、息が詰まります。

ずんぐりむっくりといえば、彼我の決定的な差を根底において感じるのは、やはり持って生まれた体格差からくるところがあるのでは?と思われて、これは今後も日本人が背負っていく部分なのかと思いました。

音楽的には韓国人はよほど自然で、運びにも必然性が宿っており、この差はなんなのかといつも考えさせられるところです。
日本人は、準備も訓練も立派にできているけれど、音楽が自然に流れないのはなぜでしょう?

政治家でも国際舞台ではむやみに緊張感があり、どこか卑屈な感じがしたりするのは、島国であるせいか、上記のように体格差からくるものか、あるいは日本語という言語に由来するのか、そのあたりのことはよくわかりませんが、非常に残念に感じるところです。
もしかしたら、どこか自分を見ているような気がしているのかもしれませんが。

トリスターノのバッハ

クラシック倶楽部の録画の中から、フランチェスコ・トリスターノのバッハ・イギリス組曲全曲演奏会からの第2番/第6番他を視聴しました。

演奏者の感性がほどよく反映された演奏で、とても楽しむことができました。
細身の体格ながら、長く余裕ある指先から紡がれる小気味良いバッハは、終始聴き手を惹きつけ、このピアニストの描き出すバッハの世界に心地よく参加できた気がしました。
トリスターノ氏は子供の頃からバッハに親しんで、格別の思い入れがあるようです。

現代のピアニストには、昔より作曲家への愛着のようなものを感じることが多くはなく、むしろ万遍なくレパートリーを広げることが求められるようで、これは一定の理解はできるけれど、行き過ぎると何でもそつなくこなすだけの、結果として満足の薄い演奏になることも少なくない気がします。

ピアニストとして特定の作曲家のスペシャリストのようになることは、必ずしもプラスにはならない面があるようで、何でも弾きこなせることが正義とされる傾向になっているようです。
それはそれで、一面においてはわからないでもないけれど、鑑賞者の立場からすると、必ずしもそれが第一だとは思いません。
むしろ、ピアニストが特定の作曲家との親密な感覚があるとなると、その深い世界に興味が湧いて好感をもってしまいます。

やはり演奏家が芸術家であるのなら、多少間口は狭くとも奥行きのある、スペシャリストならではの深いところを聴かせてくれるほうが、個人的にはありがたいし、そういう部分にとくに惹きつけられます。
とくにバッハを得意とするピアニストは一種の尊敬を集めるのかもしれませんが、ただその数は増えたなあというのも正直なところではあります。

バッハといえば、私が子供の頃は、カール・リヒター、グスタフ・レオンハルト、ヘルムート・ヴァルヒャなどのレコードが主流で、カチカチで無表情な教会音楽という印象だったのですが、その後の多くの才能ある演奏家によって、より温かで人間的な、最高に魅力的な作曲家としてバッハが輝き出したような印象があります。
モダンピアノによるバッハも、時が経つにしたがい、ますます自然なものになりました。

ちなみに、最新の事は知りませんが、長年においてプログラムの主流をなしてきたのは、冒頭にバッハの作品が置かれて、それから時代が下って後半にはお待ちかねのロマン派の作品が置かれるというのがおおまかな定番でしたが、あれはバッハをコース料理の前菜のような扱いにするだけで、一見収まりはいいように感じますが、個人的には好きではありません。
必ずしも時代の流れに沿って作品を並べる必要も感じないので、もっとバッハがこだわりのないかたちでプログラムされることがあればいいように思いますが、なかなかそうもいかないのでしょうか?

今回は、使われたピアノがヤマハであったことも印象的でした。
ヤマハらしい明快な発音は、音域の狭いバッハの世界を、どこか太字のペン文字のように表現できているようでした。

CFIIISまでのヤマハには、なんとなくトヨタの昔のクラウンみたいなところもあったけれど、CFX以降はそのあたりも刷新されてきたのか、使い方次第では必ずしもスタインウェイばかりが最良というわけではないことは、ときどき感じることがあります。

演奏の力

草野政眞さんの演奏による、矢代秋雄のピアノ協奏曲の録音に接する機会がありました。

だれもがすぐに聴くことのできない音源のことを書くのもどうかとは思いつつ、そこは先々にチャンスがあるかもしれませんのでお許しください。

草野政眞さんのピアノに接する度に、その圧倒的な演奏力量にノックアウトされます。
ただ上手いという人なら、日本人の中にもたくさんおられることでしょうが、つい聴き入ってしまう充実感、フォルムの美しさ、器の大きさなど、幾つかの要件を兼ね備えた人となると、なかなか見当たりません。

とくに器の大きさは日本人が苦手とする分野ですが、草野さんのピアノにはそれがあります。
どこかひ弱な日本人がここまで頑張れているといった気配や、国内専用ピアニストという限定感がゼロ。
ピアノという大きな楽器を完全に我がものとし、泰然として操り、しかも演奏に必要な集中と緊張感も途絶えることがなく、聴くたびに感銘をあらたにさせられます。

日本人ということでいえば、よくあるのは(もちろん個人差はあるけれど)、楽譜から読み取った音符を音に変換するときに、知らず知らずのうちにそれがなんらかの和風テイストになってしまうところが、なかなか排除しきれないように感じます。
日本人が日本人的になるのは当然でもあるし、それをすべて悪いと言っているのではないけれど、西洋で生まれた音楽を取り扱うからには、やはりあちらの流儀にかなって歪みなく発達したものの方が、私はうれしいし好ましいわけです。

矢代秋雄は日本人だからそれにはあたらない!と言われそうですが、あくまで西洋音楽の語法と編成に則して現された作品だと思えば、やはり西洋流の演奏であることが作曲家の本来のイメージではなかったかと想像します。

この作品は1960年代にNHKからの委嘱で書かれたもののようですが、初演は中村紘子さんでした。
ネットに音源があったので聴いてみると、晩年より遥かに普通の演奏だったことのほうが意外だったし、その後も舘野泉さん、最近では河村尚子さんが弾かれていたようですが、いずれも私には、どうしても和風の醤油を垂らしたような感じが残ります。

ところが草野さんの演奏は、それらとはまったく違っていて、知らずに聴けば日本人とはまず思わない巨きさとセンスで作品をぐんぐん引っ張っていくようで、まったく景色が違い、絵で言えば光と空気が違うようです。
ごく当たり前のことをしていると言わんばかりに、毅然として音楽が組み立てられてゆくおかげで、どこかモダンにさえ感じ、作品に対する長年の印象がすっかり覆りました。

私は日本人の現代作曲家の作品はほとんど知らないし、わかってもいないし、正直いえばさほどの興味もなく過ごしてきたのですが、この曲はごくたまに演奏機会があるようです。
大雑把な素人の印象では、正直をいうとどこか垢抜けない、それでも西洋に負けじと必死にもがいて作り上げられた作品というようなイメージがあり、それは半分はピアニストによるもの、半分は作品がそういうものという印象がありましたが、ひとたび草野さんの手にかかると、たちまちあれこれの整理がついて、よくわからなかったところが、明瞭な言葉となり意味を得て、一気に腹に落ちてゆくようです。

まさに演奏の力というものを感じるところです。
おそらくこれがこの作品の本当の姿なのだろうと思いますが、矢代氏はこの草野さんの演奏を耳にすることのないまま、この演奏よりわずか2年前にお亡くなりになった由、なんとも残念な話です。