BSプレミアムのクラシック倶楽部再放送から、2021年ハクジュホールでの小林恵美さんVn&上田晴子Pさんによる演奏が印象的でした。
冒頭のシューベルトのヴァイオリンとピアノのためのソナチネは、当時の家庭演奏会のために19歳のとき書かれたものだそうで、つくづく天才というのはおそろしいもの…。
モーツァルトを思わせるデリケートで可憐な作品で、お二人の隅々にまで神経の行き届いた演奏は良い意味での常識があり、当たり前の大人の語り口に、質のよい自然の美しさがあることにハッとさせられました。
知らぬ間に、いまどきの演奏に耳が慣らされているとは思いたくないけれども、なんだか無性な懐かしみと、納得と、聴き応えがあって、要はなんでもないことが今では新鮮に感じたのが驚きでした。
音楽は早熟な世界だから、若い才能の萌芽には常に敏感でありたいけれど、年々同意しかねる傾向が主流のようになるのは、評価の基準が每年少しずつ陸地が削られていくようで、そんな小さな侵蝕の繰り返しが不安を覚えます。
新しいことにだけ靡いていればいいのでもないし、長い時を経て磨きこまれた普遍的な基準というものは、やはり厳然とあることを痛感。
現代若手の技術の発達は目をみはるもとがあるものの、芸術として信を置くには足らざるところが多いことは否めないところで、これを大掴みにして時代の趨勢だと言ってしまえばそれまでだけれども、やはり残念でなりません。
音楽に限った話でもないようで、若く優秀な人達は数多く、知識も豊富なら専門性もあるし、頭の回転もすばらしい。
その能力はすごいなぁと感心するし頼もしくもあるけれど、話しぶりなど秒を競うがごとく猛烈に早口であったりするのをみていると、万事において情緒的な面の深みに乏しいことが気になります。
小林恵美さんと上田晴子さんは、おふたりともそれぞれ音楽のわかった方で、自身の中に培った音楽や感性の源泉があり、それが演奏の生理として絶え間なく連携しているあたりが安心感に繋がっているのが、なんだか貴重なものに触れられた気さえしたことに、なんとも云い難い感慨を覚えたのです。
あとすこし書くならば、情操のない人が、さもあるように偽装した演奏ほど耐えられないものはなく、これは悪意に満ちた贋作のたぐいといっても差し支えない気がするし、それなら無機質にさらさらやってもらったほうがまだしも救われます。
先日、ネットである日本人ピアニストがヨーロッパの某所へ乗り込んで、私の耳にはかなり醜怪な演奏をしていたのを見て、総毛立つような気持ちになり、そのいやな後味がまだ残っているようです。
もしや現代人は、良識的で優れたものではもうダメで、ある種の奇怪なもの、どこか不愉快なところがあるぐらいでないと刺激がないのか?などと、ウラのウラまでまわって考えてみたりしますが…わかりませんね。