補足

シュトイデ・ヴァイオリン・リサイタルの補足

会場のピアノは10年ほど前、納入を記念したピアノ開きのリサイタルに行った時は、とくにどうということもないただの軽い感じのピアノという印象しかありませんでしたが、その後の管理や技術者がよほどいいのか、なかなかの状態になっていたのは意外な驚きでした。
響きにどっしりとした深みが増し、それでいてひじょうにまろやかで温かい音色を持つ、悠然とした風格のただようピアノに成長していました。ああいうスタインウェイはとくに近年ではなかなかお目にかかれません。

もちろんピアニストの弾き方、とりわけ音色のコントロールも良かったのでしょう。
聞けば当日弾いた三輪郁さんが選定したピアノということでしたから、彼女はこのホール(そぴあしんぐう)とはなにか特別なご縁があるのだろうと思われますが。

終演後、せっかくなのでロビーでCDを購入しました。
大半の人がシュトイデ氏のCDを買い求める中、私ひとり三輪郁さんのソロアルバムであるバルトークのピアノ小品集を購入して彼女にサインを求めたところ、自分のソロを買う人はないと諦めていたのか、意外な喜びようでした。「やわらかな音がとても美しかった」と伝えました。

この演奏会の成功の大半は、このお二人の優れた演奏にあることは間違いないとしても、マロニエ君としてはもうひとつ見逃せないことがあります。それはこのホールがいわゆる音楽専用ホールでない分、響きが過剰になり過ぎず、ちょうど優秀なCDを聴いているような節度ある響きからくる快適感があったことでした。
適度な残響に支えらてれ、二つの名器のありのままの美しさが際立ち、響きがとても自然なのです。
本来コンサートの音とはこうでなくてはならないと改めて思いました。

ちなみにこの日のヴァイオリンは1718年のストラディヴァリウスでオーストリアの国立銀行からシュトイデ氏に貸与されたもの、ピアノはホール所有の10歳ぐらいのスタインウェイのD型でした。
やはり普通の人の素直な耳は、豪華な建物や装飾がなくても、こういうホールで聴く音楽が一番心に残るものだと思いました。
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正統派の音楽

久々に充実したコンサートに行けました。
ウィーンフィルのコンサートマスター(4人の中の一人)である、フォルクハルド・シュトイデのヴァイオリン・リサイタルで、ピアノは三輪郁。はじめのベートーヴェンのロマンスが鳴り出したとたん、あっと思ったのは、そのヴァイオリンの音でした。
ウィーンフィルの音色は特殊で、しばしばベルリンフィルはじめさまざまなオーケストラと比較されますが、「衣擦れの音」と喩えられるあの独特な弦の音が、たった一丁のヴァイオリンにも明確に息づいていて驚きました。

ロマンスではバックがピアノというのはいささか物足りないものがありましたが、しかしこの時点でシュトイデ氏が只者ではないことはわかりました。音の張りや息使いがありきたりのものではなく、続く「クロイツェル」では本領を発揮。聴きごたえのあるがっちりした構成感のある非常に見事な演奏でした。しかし後半のR.シュトラウスのヴァイオリンソナタこそがこの日一番の聴きものだったと思います。
19世紀後半のウィーンの、傾きかけた黄金の輝きの中に突如咲き乱れる豪奢と混沌と耽美が織りなす、とめどもない絢爛の世界に会場は一気に包まれました。聴く者は圧倒され、決して満席ではない会場はまさに拍手の嵐でした。

シュトイデの演奏は正統的でメリハリがあって力強く、音楽的にも隅々まで神経が行き渡り、とても信頼感にあふれるまさにウィーンのそれでした。また、地方公演だからといって一切手を抜かないその真摯な演奏姿勢にも、本物の音楽家としての良心を感じ、深い満足を覚えました。

とりわけ巧みな弓さばきによって、聴く者の前に音楽が大きく聳え立ってくる様は圧巻で、それと対等に渡り合うべきピアノにも相応のものが求められてしかるべきですが、そういう相性という観点では、どちらかというと小ぶりな演奏をする今日のピアニストはちょっとミスマッチな感じも否めませんでした。
彼にはもっとスケール感のある男性ピアニストが向いているような気がしました。

ウィーンフィルのコンサートマスターという普段の立場ゆえか、ときに律義すぎる一面もあり、強いて望むならソロ・ヴァイオリンにはいまひとつの魔性と自在な楽節のデフォルメがあればと思いました。

しかし、あれだけの力量を持った一流の演奏に接したのは久しぶりで、欲を言っちゃいけません。
不満タラタラで帰るのが普通になっていましたが、心地よい満足を胸に家路に就きました。
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