その後も、ショパンコンクールの予備予選をときどき見ていますが、当然ながら一定量見ていると、しだいに見えてくるところがあります。
はじめは出てくる人が皆バリバリの技術をお持ちで、すごいなぁ!と感心していたけれど、その中で「この人は!」と思えるかとなると、それはまた別の話というのがわかります。
あの中で、技術と内容が合わさって頭一つ出ることが、いかに特別で大変なことかを痛感するところ。
逆をいうなら、それなりの才能と、優れた指導者と、打ち込める環境、本人の努力など、一定の条件が揃えば、上手くすればあそこまではいけるかもという一応の区切りを感じますが、切実な問題としてはそこから先の領域にどこまで昇って行けるか。
これがピアニストとして立っていくには最も大事なところで、そこを突破するのは生半可なことではないし、これはがんばりだけではどうにもならない難しいところでしょう。
まさに、天才と秀才の分かれ目かもしれません。
他の世界なら16才〜30才という年齢幅の中で、世界の160人ほどに入るとなれば、それはもう驚異的なことであるし、のちの人生安泰といったところかもしれませんが、ピアニストの世界ばかりはそうとはいえず、職業として見た場合、こんな割にあわないものもない気がします、つくづくと。
中国の参加者が多いことにも瞠目ですが、昔は日本が団体で押し寄せているようにいわれた時代もあったことを思い出すと、当時日本がどう見られていたかもじんわりわかる気がします。
いっぽう、ロシア人はウクライナ戦争のせいなのか、まったく見かけません。
あそこは昔から少数精鋭だけを送り込むことで有名で、それは表面的に正しいような気もするものの、背後で上がすべてを決定し、個人の意志は無視されていたことを思えば、それはそれで難しい問題ですね。
…で、中国人の演奏ですが、よく整った、筋の通った演奏をする人もいるから、以前よりさらに進化はしているようにも思えますが、いわゆる中国的なクセのある人もいたりして、そういう人がop.10-5(黒鍵)などを弾くと、いかにも中国の曲芸的な調子を帯び、曲までどこか中国風に聞こえてしまのには、思わず苦笑させられました。
それにしても、同じ曲をああ何度も聴くのはさすがに胃もたれするようで、たとえばop.48-1のハ短調のノクターンなど、ショパンにしては妙にものものしく直情的で、個人的にあまり好きなほうではないこともあって閉口させられます。
逆にスケルツォの2番はあまり好きではなかったけれど、あらためて聴いていると、これはこれでいいなぁと思い直しました。
見た感じの印象でいうと、小柄な人は、大きなピアノや作品に対して「立ち向かう」という感じがあり、逆に大柄すぎると「制圧する」ような感じになり、ここにも程よさというものがあるなぁというのが実感。
前回、この予備予選でもピアノ選びは可能らしいと書きましたが、今のところ圧倒的にスタインウェイで、ときどきヤマハに交換、カワイもファツィオリもさっぱり出てこないところをみると、この2つのいずれかということかもしれません。
ヤマハはトリスターノのバッハで好印象だったことを書きましたが、ショパンでは必ずしもそのままというわけではありませんでした。
どこがというと、低音の美しさが足りないというのが、こうして同じ会場のショパンだけで聴き比べることで、よりはっきりしてくるようです。
ずい分前に、フランスの名前は忘れましたが、当時有望視されていた若手ピアニストに、雑誌のピアノ特集か何かで、スタインウェイの良い点は?という質問に対し「低音の美しさ」と答えていましたが、まったくそのとおりだと思います。
ピアノは、高品質なものだとだいたい中音以上ではそれぞれかなり美しい音がするものの、低音は各社の伝統とか個性が顕になるというか、さらけ出されてしまう部分なのか、ヤマハは今だに日本人には耳慣れた「びゃー」という潰れた感じの音であることがわかります。
バッハはこの音域を使わないのかと思うと、妙に納得です。
さて、今回の本命はすでに弾き終えたのか、あるいは終盤に満を持して登場してくるのか…おそらく後者のような気がします。