便利の不便

最近の機械製品は、あまりに進化が著しく「便利も行くつく先は不便では?」と思ってしまうことがしばしばです。

テレビやエアコンの操作がリモコン化された頃なら、その単純な便利さに感激したものですが、最近はそのリモコンひとつとってもあまりに多機能で操作も複雑、普通に操作するだけでも勉強と慣れを要し、説明書にも「基本編」と「応用編」といった二段構えとなっていたりで、それだけで見るのもうんざりしたり…。

我が家ではただ単にものを温める脇役でしかない電子レンジでさえ、オーブンだなんだとあらゆる機能が盛り込まれていますが、そんなものはほとんど使ったこともありません。
ガスレンジも(安全性を考慮して)新しい器具に替えたはいいけれど、ここにもコンピュータ制御のいろんな機能があり、温度調整からタイマーやら何やら、ややこしいのなんの…ここでも一定の勉強と習熟が必要になっています。

それどころではないのが車です。
今年の春、久々に車を買ったところ、これがまたやたらと多機能で、普通は新しい車を買うとむやみに走り回ったりするものですが、今どきの車というのは、そんな心情を単純に受け容れてくれる相手ではないようで、ひと月以上は乗るたびに言い知れぬ疲れを覚え、いまだにある種の窮屈感があるのはまだ払拭できていません。

今回が初めてではないものの、個人的には、まずいわゆるギザギザした金属の「ふつうの鍵」がない車というのは、気持ちの上でどうもしっくりきません。
スマートエントリーとされるシステムで、鍵の代わりに黒くて重いかたまりみたいなものがあり、これをポケットなりカバンなりに入れておけば、施錠も解錠もキーレスでできるので、いちいちキーを出す必要がなく、両手が傘や荷物でふさがっているときなどは便利…ということになっているのですが、個人的にはこれがそれほど便利とも思えません。
むしろこのシステム固有の不便もあって、サイフひとつで済むようなときでも、スマートキーの入ったカバンや上着を必ず車から出し入れしなくてはならず、しかも通常のキーのようにエンジンのON/OFF時に手に触れるものでもないため、たえずその存在と在処を意識しておかなくてはならず、気が抜けずに疲れるのです。

車を降りてロックするにも、これまでのようにリモコンキーにあるボタンでカシャッとロックできればそれで充分だったのに、ドアを閉めて取っ手にちょっと触れることでロックされたり解除されたりするのですが、これにも一定のコツみたいなものがあって、取っ手を引っ張るとすかさず解除されドアが開くなど、自分のイメージとはちがった機能が作動したりと、何度もやり直しをするはめになるなど却って面倒で、これじゃあ何のための便利機能なのかと思います。

エンジンをかけるにも、キーを差し込む必要はなく丸いボタンを押すだけ。
しかもその際、フットブレーキを踏んだ状態でないと反応しないという「安全手順」が組み込まれていますが、こんなものは安全のとめというよりアメリカなどでの訴訟対策みたいなもので、操作を煩わしくするだけ。
AT車の場合、ギアがPにあれば絶対に車は動かないわけだから、これを条件としてエンジン始動できるという程度でじゅうぶんだと思います。

とくにマロニエ君は習慣的にエンジンを掛けるやすぐに動き出すということはせず、いつも必ず暖気をしてアイドリングが落ち着くまで待つので、その間に上着をとったりカバンや荷物を後ろの席に積み込むなどするのが自分なりのスタイルになっています。

そのため、これまではドアを開け、立ったままエンジンを掛けていたのですが、スマートエントリーではエンジンの始動ボタンは奥のセンターコンソール上にあって立ったままでは手が届かず、さらにブレーキを踏んだ状態でないとボタンを押してもエンジンはかからないので、やむなく規定通りに運転席に座ってブレーキを踏んでエンジンをかけることに。
しかし、セルモーターを回すというわずか一瞬のためだけにいったん運転席に座らされるのが、どうにもシステムの奴隷にされているようで釈然とせず、何が何でも外からエンジンをかけたいという、まことにつまらぬ意地みたいな衝動に駆られました。

その結果、編み出した方法は、しゃがんで上体のみ車内に入れて、右手でブレーキペダルを押しつけ、左手を伸ばして始動ボタンを押すといったアクロバットスタイルを取るとエンジンがかかることが判明。

いらい、自宅ガレージではこの甚だ不格好でばかばかしいスタイルが定着してしまいました。
さすがに出先ではやりませんけど…。
続く。
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シャマユとバラーティ

N響定期公演の録画から、ベルトラン・シャマユのピアノでシューマンのピアノ協奏曲を聴きました。

シャマユは近年注目されるフランスの若手で、マロニエ君もすでにシューベルトのさすらい人や、リストの巡礼の年全曲などをずいぶん聴いており、それなりに親しんだ感のあるピアニスト。
ただし、演奏の様子は見たことはなく、この時がはじめてでした。
CDの印象では、趣味の良い演奏に終始して、必要以上に語りすぎたり主張が強いといったことなく、こまやかな感性がバランスよく行き届いた演奏で、耳に心地よいピアニストという印象でした。

節度をもってサラッと行くところがフランス人らしいといえばらしいけれども、シューベルトなどではもうひとつ滋味につながらなかったり、作品の内奥を覗き見るような精神性を求め得る人ではないようですが、繊細で気の利いた演奏をする人というのは確かなようです。
それが最もいいほうに出ていたのが巡礼の年(全曲)で、ペトラルカのソネットのような芸術性の高い作品が含まれるいっぽうで、全体的にはなんだかやけに大仰でワーグナーのようなこの作品にあまり共感を得られないマロニエ君としては、シャマユの演奏はリストの作品に潜む、なんだか誇張的で混沌とした部分がすっきりと整頓され、見通しの良い景色になってくるような心地よさがありました。

そんなシャマユでしたから、シューマンの協奏曲ではリパッティのようなといえば言い過ぎかもしれませんが、均整と節度がおりなす美演のようなものをイメージしていたところ、残念ながらそうではなく、あきらかにピアノが負けて埋没してしまっており予期したような感銘には繋がりませんました。
ところどころに彼らしい語りの美しさも垣間見えはしたものの、全体的には骨格の弱い、いささか心もとないピアニストという印象に終わったのは非常に残念でした。

趣味が良いとか、繊細な表現とか、さまざまな個性があることとは別に、人には生まれ持った器というものがあるようで、その点でシャマユはあくまでもコンパクトに聴かせるサロン系のピアニストであって、腕力も問われる大舞台には向かないようだと思いました。


別の週にはクリストフ・バラーティをソリストに迎えての、バルトークのヴァイオリン協奏曲第2番で、こちらは呆れるばかりにうまい人でした。
とりわけその自在なボウイングには唖然!

正直にいうと、マロニエ君はいくら聴いてももうひとつバルトークというのが自分には馴染みません。
人に言わせると、これ以上ないというほど素晴らしいのだそうですが、なんだか理屈先行の作曲家という頭でっかちな感じも否めませんし、その傑出した作曲技法も、聴く者の五感に直訴してくるものが後回しになっているようで、専門家だけが唸るなにかの設計図のような気がします。
さらには、バルトークがこだわった民謡というのがそもそもマロニエ君好みではなく、どうも相性がよくないというか、客観的には理解できないと見るべきなのかもしれません。

どんな名人の手にかかっても、バルトークが鳴り出すと「早く終わって欲しい」と思ってしまう自分が情けなくもありますが、唯一の救いは、かのグレン・グールドが「20世紀の最も過大評価された作曲家」としてバルトークの名を挙げている点です。

マロニエ君にとってはそんなバルトークですが、バラーティのヴァイオリンにかかっては、なんとかこの「好みではない大曲」を最後までそこそこ楽しむことができたのは、自分でもちょっと意外でした。

なにより腰の座った技巧と、奇をてらわない表現は、この複雑怪奇?な難曲を、ぶれることなしに終始一貫した調子でものの見事に弾いてのけたという点で感銘を受けました。
その音色は常に適確で冴え冴えとしており、NHKホールのような大会場でも、ものともせずに響きわたっていたようです。

アンコールはイザイのヴァイオリン・ソナタ。
この人のイザイはCDでも持っていますが、CDよりずっと落ち着きがあって好ましい印象でした。

調べたところ使用されるヴァイオリンは、1703年のストラディヴァリウス「レディ・ハームズワース」だそうで、それじたいが超一級の楽器のようですが、だとしても小さなヴァイオリンひとつがあれだけ大会場でも朗々と鳴り響くのに、最近の新しいピアノときたら、それこそ泣きたくなるほどふがいない音ばかり聴かせられている現状には、あらためてピアノという楽器の危機を感じずにはいられませんでした。

シャマユの演奏も、ピアノがひと時代前のものであったらずいぶん違っていただろうと思います。
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むしろ実務派

ネットでCDを注文しても、どうかすると入荷待ち状態が果てしなく続き、そのうち注文したことすら忘れてしまうことが少なくないのは以前に書いたような気がします。

ときおり、お店から「キャンセルする」か「購入希望を継続する」かというメールが来ることで、ああそうだったと思い出すような始末です。そんな中でも、たぶん4ヶ月ぐらい待たされ、メールに返信するたびさすがにもう無理だろうと諦めかけていたら「発送しました」という連絡がきて、その翌々日に届いたのがヴァインベルグのピアノ作品全集でした。

ヴァインベルグは最近になって交響曲などが一般に知られるようになった(ポーランド出身ロシアの)作曲家。ショスタコーヴィッチとも交友関係あったというだけあって、いくつか聴いてみたオーケストラ作品ではかなりショスタコーヴィッチに似通った作風が感じられました。
ピアノ作品はむろん耳にしたことがなく、どんなものかと興味本位で買ってみることにしたものが、これが大変なお待たせをくらうことになったわけです。

届いたCDは4枚組、主に第6番まであるソナタが中心で、あとはさまざまな小品でした。演奏はアリソン・ブリュースター・フランゼッティというアメリカの女性ピアニスト。

とりあえず1枚目を聴いてみましたが、未知の曲に接する面白さはそれなりにあるものの、とくに何か特別なものが訴えかけてくるというほどのでもなく、とりあえずひと通り聴いてみただけで結構時間もかかりました。

音を出す前にブックレットを見てみると、このピアニストがファツィオリを演奏している写真がいきなり目に飛び込んで、データを見るとなんとF308で演奏しているらしいことがわかりました。「あー…」と思いましたが、これはこれで面白いかもと思いながら再生ボタンを押しました。
ソナタ第1番の開始早々、ファツィオリらしい(というかだいぶこのピアノの音に耳が慣れてきたような…)平明でアタック音の強い硬質な音が聞こえてきました。はじめはフムフムと思って聴いていましたが、曲のほうにも興味があるため始終ピアノの音ばかりに耳を傾けているわけにもいきませんが、ときどき思い出したようにピアノにも意識が行くものです。

たしかにファツィオリには違いないけれど、このところかなり聴いたF278とはやや異なるものがあること開始早々からわかりました。全般的には同一のDNAをもつピアノですが、F308のほうがキャラクターがやや穏やかで、その点ではF278のほうがずいぶん攻めてくるピアノだなあと思います。

以前、トリフォノフのショパンで、この両器を弾き分けているデッカのCDがあり、F278のほうが鳴るように感じたのですが、これは霞のかかったようなライブ録音であったのに対して、今回のヴァインベルグは録音がとてもクリアで、目の前にピアノがあるような感覚で隅々まで詳しく聴くことができ、おかげでファツィオリにより近づけたように思えました。
それによればF308はいくぶん発音が柔らかいためか、相対的にF278のほうがいかにも元気よさげで、パワフルに聞こえるのだろうとも思いました。

一般的にも、大型のピアノより、小型のグランドのほうがある意味でレスポンスが良く、バンバン鳴るような印象を受ける場合がありますが、これと同じことなのかもしれません。とくに印象的だったのは、低音は電流のような迫力があることで、このあたりは3mを超える巨大ピアノの面目躍如といったところでしょうか。

ただ、やはりこのF308でもパワー重視というか、音色そのものの美しさというのは二の次なのか、聴いたあとに残る印象はやはりこれまでのファツィオリと大きな変化はありません。まるで獰猛なパワーでライバルを挑発してくるランボルギーニみたいなピアノだと思います。

鮮明な録音による4枚のCDを通して聴いても、ファツィオリのこれぞというトーンや色合いは依然掴めぬままでしたが、もしかすると、敢えて個性や色合いを排除することで、よりニュートラルというか普遍性の高い現代的なピアノの音を目指しているのかもと深読みさえしてしまいます。

何かを探そう探そうとしてファツィオリを聴いたあとでは、おなじみの老舗メーカーのピアノ達はもちろん、カワイのSK-EXなどでも特徴的なトーンのあることがスッとわかるようで、これってなんだろうと思います。

もちろんすべてのステージや録音がスタインウェイ一色となるような状態にはまったく不賛成で、ファツィオリのような新興メーカーのピアノが最前線に躍り出てくることはひじょうに刺激的で面白いし、またそうでなくては他社もほんとうの意味で切磋琢磨はできませんから、ファツィオリの登場というのは意義深いものだったと思います。

ただ個人的には、ほかならぬイタリアの楽器なのですから、もっと濃厚な音色や官能を撒き散らすような特性があったらもっと楽しめただろうにと思います。すくなくともあのスマートなロゴマークや、金のラインの入った足、ボディ内側の木目などに見るイタリア式贅沢のイメージとは裏腹の、むしろパワー指向の実務派ピアノだとすれば、すんなり納得できる気がします。
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アメリカン

BSで、クリーヴランド管弦楽団のブラームス演奏会というのがありました。
指揮は音楽監督のフランツ・ウェルザー・メスト、ピアノはイェフム・ブロンフマン。

間にハイドンの主題による変奏曲と悲劇的序曲などを挟み、前後にピアノ協奏曲第1番と第2番を配するという驚くべきプログラムで、アメリカではこんなすごいプログラムをやるのかと思っていたら、数回に分散していた曲目を放送用に合わせたもののようでした。どうりで…と納得。

クリーヴランド、メスト、ブロンフマンとくれば、たしかに世界の一流プレイヤーなのでしょうが、なんとなく自分の趣味ではない気配で普段ならあまり近づかないところです。が、なにせブラームスのコンチェルトとあっては、つい誘惑に航しきれず見てしまうことに。

個人的にどうしても期待してしまうピアノ協奏曲第1番は、出だしからやはりというべきか好みではなく、ブロンフマンのピアノも面白みがまったくといっていいほどありません。
この一曲を聴いて、すっかり疲れてしまい、続きを聴く気も失せて、ひとまずその夜はここまで。

体質的か、感覚的か、アメリカのオーケストラがあまり好みではないマロニエ君にとって、クリーヴランド管弦楽団といえば長年ジョージ・セルが振っていたことぐらいで、何かを語れるほどよくは知りません。そういえば、内田光子の2度目のモーツァルトのピアノ協奏曲シリーズもクリーヴランドで、これがかなり高く評価されているようですが、マロニエ君はまったくそうは思えず、断固としてテイト指揮イギリス室内管弦楽団との初回全集を評価しています。

クリーヴランドはアメリカのオーケストラとしては「精緻なアンサンブル」で「最もヨーロッパ的」なんだそうですが、ふ~んという感じで、たとえばアメリカにあるヨーロッパ調の壮麗な建築のようで、それっぽいけど何かが違うという印象。

数日後、続きをどうするか、迷ったあげくとりあえず間を飛ばしてピアノ協奏曲第2番を見てみましたが、こちらのほうが第1番に比較すると格段に良かったのは意外でした。迷いが多く消極的だった第1番に対して、第2番ではカラッと晴れ上がったように爽快な演奏となり、ずっと弾きなれた感じもあり、少なくとも大してストレスもなく聴き進むことができました。

ブロンフマンというピアニストには以前からあまり興味が無いので、彼のレパートリーはどんなものかも知りませんが、少なくともブラームスの2つの協奏曲では、ずいぶん仕上がりに差があったという印象でした。
守りに徹した第1番とは対象的に、第2番ではピアノが前に出ていこうとする活力があり、それなりのノリの良さもあって、前回途中でやめて消去してしまわないでよかったと、とりあえず思いました。

ウェルザー・メストも有名なわりにどんな音楽を作るのかよく知らないままでしたが(むかし小泉首相に似ているなあと思ったぐらい)、この演奏を聴いた限りではオーストリアの音楽家とはイメージが結びつきません。音楽を紡ぎ出すというより、仕事でやっているという感じを受けてしまいます。

ブロンフマンは大曲をこなすスタミナはあるようですが、この人なりの表現というよりは規則通りの流暢な演奏処理をするだけという印象。演奏者の感性に触れるような面白味が感じられず、どこが聴きどころなんだかよくわかりません。思い起こせばディビッド・ジンマンの指揮でベートーヴェンのピアノ協奏曲全曲を入れたCDがありましたが、あれもただサラサラと弾かれていくだけで、せっかく買ったのにほとんど聴かずに終わりました。

オーケストラ、メスト、ブロンフマン、いずれも一流プレイヤーとして認められ、おそらく現在のアメリカで望みうる最高の組み合わせのうちのひとつだろうと思うと、それにしてはなにか心に残るものが感じられなかったのは残念でした。

ついでに言ってしまえばクリーヴランド管弦楽団の本拠地であるセヴェランス・ホールも、かなり大掛かりな改修を受けたのだそうで、ステージ側面から背後にかけての意匠など、わざとらしく遠近法を使ったオペラかバレエの舞台装置みたいで、あんな甘ったるい華美な装いはアメリカのセレヴ趣味を連想させられるだけで、マロニエ君はクラシック音楽のステージとしてはあまり好みではありません。

オペラで思い出しましたが、巨漢のブロンフマンはピアニストというよりどこかオペラ歌手のようでもあり、とくに最近少しお歳を召した感じが、まるでトスカを恐怖と絶望のどん底に落としいれるスカルピア男爵のようでした。
ま、そんなことは余談としても、アメリカのコンサートというのは、なんとなく雰囲気が違うなあという気がしないでもありません。実情は知りませんが、画面から受けた印象では、なんとなくその地域のお金持ちや名士の集まり的な感じというか、日本などのほうがよほど音楽そのものをサラリと聴きに来ているような空気があるようにも感じました。

ピアノはかなり新しいハンブルク・スタインウェイで、いわゆる今どきのこのピアノでした。
むかしはアメリカのステージではアメリカ製のスタインウェイが当たり前で、ハンブルクを使うことは滅多なことではなかったものですが、近ごろはカーネギー・ホールのステージでさえ普通の感じでハンブルクが使われていたりするところをみると、なにかこの会社の事情があるのかと勘ぐりたくなってしまいます。
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BARENBOIM-2

現代に生まれた並行弦によるコンサートピアノ、BARENBOIM-MAENEの写真をためつすがめつ観察した感想など。

ベースはスタインウェイDでも、ディテールはずいぶんとあちこち変えられており、簡素な仕立ての椀木や譜面台の形はヤマハのCFX風でもあり、足に至ってはCFXそのままのようにも見えました。ただ、いかにも日本人体型のようなドテッとしたCFXに比べると、元がスタインウェイの細身なプロポーションであるだけ、ずいぶん軽快な印象ですね。

バレンボイムの主張としては、このピアノは音がブレンドされておらず、それは演奏者に委ねられているというような意味のことを言っているようです。現代のピアノの音が化学調味料で作られたコンビニスイーツみたいな表面だけの音になってしまい、ピアニストの感性や技量によって音色が作られていくという余地がかなり失われていることはマロニエ君もかねがね感じていたことです。

演奏者が音色や響きのバランスに対して、創造的な感性や意識を発揮させるということは、いうまでもなく演奏行為の本質にあたる部分だと思われますが、それを必要としない、もしくは受け付けない、無機質な美音だけでお茶を濁す現代のピアノ。そこに危機を感じるのは至極当然というか、彼の意図するところはおおいに共感を覚えるところです。

以前、フランスの有名なピアノ設計者であり、ピアノ制作も手がけているステファン・パウレロのホームページを見ていると、コンサートグランドと中型グランドという2つのサイズのほかに、交差弦と平行弦のふたつの仕様(それぞれボディのサイズも違う)があり、計4タイプが存在することに驚いたものでした。

クリス・マーネのホームページでは「BARENBOIM」ピアノのいくつかの写真も公開されていますが、リムの基本形はスタインウェイであるものの、裏側の支柱などもフレーム同様に並行となっていて、ここまでくるとほとんど別のピアノだと思います。
車の世界では同じプラットフォームを共有しながら、まったく別の車を作ることは近年よくあることですが、ついにピアノにもそんな考え方が到来したかのようです。
おやと思ったのは、スタインウェイの特徴のひとつであるサウンドベルがしっかり残っているところで、このパーツにはボディへの響かせ効果として(諸説あって、確かなことはいまだに知りませんが)、残しておくべき理由が、平行弦ピアノにおいてもあったのだと推察されます。

また響板の木目も、通常の斜め方向ではなく、弦と平行(すなわち前後)に揃えられており、駒も低音と中音以上のふたつの駒がそれぞれ独立して配されているのも特徴のようです。独立といえば、並行弦ピアノなのに駒とヒッチピンの間にアリコートが存在し、それがスタインウェイとは違って独立式になっているのもへぇぇという感じです。

また、フレームと弦の間に配されるフェルトが深みのある紫色となっており、これがフレームの節度ある淡い金色と相俟ってなかなかに美しく、リムの内側も古典的な明るい色に細いラインが水平に二本入るなど、どことなく高貴な印象さえありました。

鍵盤蓋には「BARENBOIM」、フレームには「CHRIS MAENE」と互いの名誉を尊重し合うように表記され、二者の合作であることが伺われます。
鍵盤蓋に埋め込まれるロゴはそのピアノのシンボル的なものなので、そこは知名度も高い世界的巨匠の顔を立て、フレーム上のエンボス加工では技術的貢献者であるマーネの名が記されているのだろう…と、そんな風にマロニエ君は解釈しました。
また、STEINWAYの文字が一切ないところをみると、むしろそれがメーカーのプライドであったのかもしれません。

このピアノ、完全なワンオフと思いきや、ここまで本格的な作りに徹したということは、そうではない可能性もあるような気がします。相当な額に達するであろう開発製造費なども、より数を作ったほうが1台あたりの価格が安くなるでしょうし。

マーネのHPから得た写真では、このピアノの並行弦用フレームが2つ重ねて代車で運ばれるショットがあり、やはり数台作られるようにも見えますが、どうせ鋳型を作ったのだから出来の良い物を選ぶために複数作ったということもあるかもしれません。
尤も、今時の正確な作りのフレームが、個体によって優劣や個性があるのかどうか、さらにはそれほど豪快に金に糸目をつけないやり方が可能かどうか…そのあたりはわかりませんが。

いずれにしろ、ここまでして出来上がった自分の名前を冠したピアノですから、さしものバレンボイムもじばらくはこれを使わないわけにはいかないでしょうね。
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BARENBOIM

ホームページを見ていただいただけで、これまで一度もコンタクトを取ったことのないピアノ店から、グランドピアノのタッチを調整するための面白い製品がある旨のお知らせを頂きました。
遠方ゆえ、その店に購入や取付を依頼することはないでしょうから、ただ純粋に教えてくださったというわけで、ご親切には心より感謝するばかりです。

「タッチレール」という名のアイテムは、鍵盤蓋のすぐ向こうにある「鍵盤押えレール」を外してそこへ装着するだけというもの。ピアノ本体にはなんの加工も必要とせず、すぐにオリジナルに戻せるというなかなかの優れもののようです。

それついては、もし購入・装着すればいずれご報告するとして、そこのお店のブログなどを奨められるままに見せていただいたところ、驚くべき情報を発見しました。


さきごろ、ピアニストで指揮者のダニエル・バレンボイムが、なんと自らの名を冠した新しいピアノを発表したとのこと。

大屋根のカーブ、支え棒、3ヶ所の蝶番の形状と位置などから、スタインウェイDに酷似していると思ったら、やはりそれがベースのようですが、このピアノで最も注目すべきは、単なるスタインウェイのカスタマイズといったありふれたものではなく、驚くなかれ中は並行弦!!となっている点です。

現代のモダンピアノが交差弦であることはもはや常識で、当然ながらあの見慣れたスタインウェイのフレームとはまったくの別物がボディ内部に鎮座しています。スタインウェイDのリム(外枠)の寸法に合わせて新造されたもののようで、加えて、弦はディアパソンやベーゼンドルファーで有名な一本張仕様。

バレンボイムがナポリかどこかで昔の並行弦のピアノを弾いたことがきっかけで、スタインウェイにこのアイデアを持ち込んだところ、クリス・マーネという古今のピアノに精通した特別な技術者を紹介され、その工房とスタインウェイ社の協力のもとに作られたピアノのようです。

クリス・マーネは調べたところ、とても個人の技術者という枠で収まりきる人物ではないようで、その工房たるや、立派なピアノ製造会社の工場のようで、広大な工房内にはピアノのためのあらゆる設備が整っており、これだけでも圧巻です。
マーネ氏は現代のピアノは言うに及ばず、チェンバロからフォルテピアノなど、あらゆる種類の鍵盤楽器に精通し、制作や修復などにも大変な手腕を発揮しているようで、スタインウェイ社もここに託すのが最良と判断したのでしょう。

ホームページではその製造過程の様子が写真で見ることができますが、まさにメーカーレベルの仕事のような大規模で整然としたものであるところは、ただもう唖然とするばかりで、ピアノのためのこういう会社が存在しているというところひとつみても、やっぱりヨーロッパはすごいなぁ!というのが実感でした。

このピアノは今年の5月にロンドンで発表され、BBCなどで映像も公開されているようです。

発表の場では、バレンボイムがシューベルトのソナタなどを軽く弾いていましたが、わずかな音の手がかりから感じたことは、純度の高い、真っ直ぐで、簡素で、繊細な感じの音。それでいて現代のピアノらしい豊かさと、スッと減衰しない伸びの良さを兼ね備えているようでした。
さらにはスタインウェイにくらべて音の立ち上がりがいいように感じました。
この点、もともとスタインウェイは、どちらかというとやや音が遅れて出てくるようなところがあるので、それが普通になっただけかもしれませんが。
彼はこれからしばらく、このピアノであれこれのコンサートを行うそうですから、そのうちCD化などもされるものと思います。

スタインウェイも昔のような大上段に構えた商売はやりにくくなっている筈ですから、今後はこういう目的に特化したカスタムピアノの制作にも協力姿勢をとっていくのかもしれませんね。
もし成功すれば、第二のシリーズとして、ラインナップされることもあるんだろうか?などと想像が膨らみます。

それにしても鍵盤蓋の中央には金色で「BARENBOIM」の文字が輝き、それをちっとも臆しないところは、やはり世界の巨匠といわれる人の感性は違うんだなあと感心しました。

知り合いの某調律師さんは、シゲルカワイをして「いくら会社の社長とはいえ、そのフルネームをそのままピアノのシリーズ名にするっていうのは、そのセンスが驚くなぁ!」と苦笑していらっしゃいましたが、その流れで言えば、バレンボイム氏はピアノメーカーの社長でもなければ開発技術者でもなく、偉大とはいっても演奏側に立つピアニスト/指揮者なのですから、さすがにそのネーミングにはいささか驚いたのも事実です。

ま、ネーミングの件はともかくとして、早くこのピアノの音をじっくり聴いてみたいものです。
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不遇の天才

前回の内容と関連して、マイナー作曲家で思い出すのが、ピアニストのマイケル(ミヒャエル)・ポンティで、彼ほど埋もれた無数の作品に実際の音を与えたピアニストもいないのではと思います。

ピアニストとして抜群の能力をもっていて、いちおうレコードになるランクのピアニストとしては、彼は昔から異色の存在でした。
というのも、昔は今のように誰もかもが指さえ回れば録音できるという時代ではなく、相応の実力と個性を備えた、選りすぐりの人たちだけしか録音するチャンスもなかったため、録音依頼があるということがよほどの実力者として認められていたと考えても差し支えないと思います。

ポンティのお陰で、私もLP時代からずいぶん埋もれた珍曲秘曲のたぐいを耳にすることができたわけで、モシェレスやモシュコフスキーの作品や、多くはもう名前も忘れてしまっているような作曲家の作品も少しは耳にすることができたという点で、マロニエ君にとってこのピアニストの果たしてくれた役割は大きかったことは間違いありません。

ポンティは非凡な才能の持ち主で、その演奏の特徴は、どんなに珍しいさらいたての曲であっても、まるで手に馴染んだ名曲のようにいきいきとした解釈と輝きをもって流麗に演奏できるところで、どの曲にも生々しい躍動がありました。
しかももったいぶらず、気さくに演奏するところに凄みすら感じていました。

そんなポンティの特別な天分にヴォックスというレコード制作会社が悪乗りしたのか、スクリャービンの全集(世界初)などにいたっては、劣悪な環境に缶詰にされ、そこにあるピアノを使って初見に近いような感じで録音させられたりしたと伝えられますが、その演奏はなかなか立派なもので、その眩しいばかりの才能には脱帽です。

ほかにはラフマニノフの全集や、マロニエ君は持っていませんがチャイコフスキーのピアノ曲全集も完成させたようです。

音楽の世界も商業主義は当たり前、今はその頂を通過して下り坂のクラシック不況という深刻な状況を迎え、メジャーな演奏家でも青息吐息です。オファーさえあれば、今やトップの演奏家が、どこへでも、どんな相手でも、自分を幾重にも曲げてスッ飛んでいくというのが悲しき実情のようにも思われます。

そんなご時世に、マニアックなピアニストや、それを許す市場や環境があるわけないでしょう。
強いていうなら、現代のこの分野ではアムランかもしれませんが、彼の場合は、自分の技巧というものがまずもって前面に出ているようにも思われ、しかも最近はメジャーな作品に取り組みだしているのは、やはり売れなきゃはじまらないという営業サイドの要望のようにも思えてしまいます。

現在、ポンティのような才能と指向をもったピアニストがいるのかどうかは知りませんが、どうせメジャーピアニストが名曲を弾いたってろくに売れないご時世なのですから、それを逆手に取って、埋もれた作品などの価値ある録音を増やして行くのも、名も無き優秀なピアニストにとって、ある種の開き直りの道ではないかと思います。
むろんそれでもやってみようというレコード会社あってのことですけれど。

ポンティの演奏はヴォックスから大量の録音が出ていて、マロニエ君はそれ以外は知らなかったのですが、ウィキペディアによれば、それ以外の録音もいくつかある由で、1982年には来日しておりカメラータ・トウキョウにも録音を残したことなどを知って驚きました。さらにはその録音時のコメントとして「これまではレコード会社の求めに応じて録音してきたが、これからは自分でお金を出してでも納得のいくレコードを作りたい」と言ったのだそうで、同情を誘う言葉でもありますが、本人は不本意だったとしても、お陰で偉大な録音が残されたことも事実だと思うのです。

ショックだったのは2000年に脳梗塞となり、右半身の自由を失っていることで、人間が身体の自由を失うことは誰においても悲劇であるのはいうまでもないけれど、わけてもポンティのような華麗な演奏を得意としたピアニストがそんな過酷な運命に遭うとは、なんと痛々しいことかと思いました。

ポンティはレコード会社から翻弄され、真の実力を世に問うことができなかった不遇の天才だったとも言えるでしょう。
あれこれの名前を挙げるまでもないほど、天才というものは、悲劇に付きまとわれることが少なくないようで、残忍な悪魔が近くをうろついているものなのかもしれません。
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カテゴリー: CD | タグ:

何を楽しむか

マロニエ君の知人の中には、いわゆる「ピアノ好きな人」が何人かいらっしゃいますが、その中のおひとりは音楽そのものはもちろん、楽器、調律、ピアニスト、作品等々、ピアノにまつわる関心は当然のごとく多岐にわたっています。
自分が弾くことについては、むろん極めて大切な要素のひとつではある筈ですが、決してそれのみではないといった位置づけで、この点ではマロニエ君も同種であると認識しているところです。

しかし大多数の「ピアノ好き」といわれる人の多くは、名曲難曲を弾けるようになることだけが興味の中心で、それはほとんど欲望と呼んでもいいかもしれません。日々その練習や訓練だけにあけくれるのは、まるでアスレチックジムのトレーニングに近いものがあり、こうなるとピアノと向き合いつつ、そのメンタリティは体育会系だと言えそうです。
普通はピアノ好きであれば、優れた演奏家、無限ともいえる楽曲、銘器の音色や自分の楽器のコンディションなどにも興味が及ぶのが自然だと思うのですが、そういうことにはまるで無関心で、ひたすら自分が弾くことだけに興味を限定するのは、なんとも不思議で不自然な気がします。

テニスを好きな人が錦織選手のプレイに、体操が好きな人が内村選手の演技に興味も知識も無いまま、ひたすら自身の練習に打ち込むのみなんてあり得ないと思うのですが、ピアノの世界では、じっさいそれが普通なのです。

趣味のピアノ弾きの集まりに行っても、自分が今なにを練習しているといったこと以外に、一般的なピアノや音楽の話題が出ることはまずありませんし、古今のピアニストの話でもしようものなら、一気に座はシラケて発言者は空気の読めない音楽オタクとして位置づけられ浮いてしまうでしょう。
「ピアノ好き」を自認しながら、CDも数えるほどしかなく、コンサートにも興味がなく、古今の名だたるピアニストにもまるで疎いような人が、来る日も来る日もショパンやベートーヴェンの有名曲の練習だけにエネルギーを割くことは、考えてみれば却って難しいことのようにマロニエ君などは思うのです。

…つい前置きが長くなりましたが、冒頭のその方は音楽との関わり方もまったく独自のものがあり、いわゆる一般的なミーハー趣味とは厳然と区別される世界をお持ちです。
当然楽器にも強い関心があって、自宅には素晴らしいスタインウェイをお持ちですし、ピアニストにも好みがあり、さらには自分が興味のもてる作曲家や作品を慎重に選び出し、気持ちに沿わない作品はどんなに有名であっても見向きもされません。

たまに電話で話しますが、楽器のコンディションなどの近況や技術的なこと、ピアニストのことなどをしゃべっているうちにたちまち1時間ぐらい経ってしまいますが、話をしていて本当に音楽がお好きということが伝わってきます。
冒頭に書いた体育会系ピアノの人ではない、数少ないおひとりです。

最近では、マイナーな作曲家の埋もれた作品に感心を寄せられている由で、気に入った曲があるとネットで楽譜を取り寄せて自らも練習されているというのですから、ここまでくると、なかなか誰にでもできるようなことではないでしょう。

ここで大いに役に立っているのがYouTubeのようで、いまどきはどんなものでも、大抵はこのとてつもない動画サイトによって助けられることが少なくありません。音楽に限らず、あらゆるジャンルのあらゆる動画がここを開けば大抵は見聞きできるのは、便利という言葉ではとても足りない気がします。
ただし、いくら便利なYouTubeがあっても、とくにマイナーな作曲家や楽曲というのは、一定の評価を得ているわけでもないので、メジャーな作品よりも遥かに自分自身の感性を磨いておく必要があるだろうと思います。

マイナーな作曲家の埋もれた作品の中から好みの曲を探して練習するとは、YouTubeと連携することでそんな楽しみ方があるなんて思ってもみませんでした。かように趣味というものは、最終的には自分ひとりが通る道を見つけるときに、それはいよいよ純化されていくものという気がします。

その点でいうと、発表会や人前演奏を一元的に無意味だと断じるわけではありませんが、行き着くところ自分が目立ちたい願望の口実にピアノを使っている限り、趣味人としても三流以下だと思います。
素人がつまらぬピアノの腕前を披露(中には自慢)するなんぞ、趣味道にももとる音楽の悪用だと思うことがあるのですが、断じてそうは思わない人たちが主流である現実には、とても太刀打ちできません。

「日本には恥の文化がある」と言われることがありますが、ウーン…ことピアノに関しては適用外という気がします。
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いずれが王道?

ここ最近のことのように思いますが、ジャケットにSTEINWAY&SONSのロゴマークが入っているCDをときどき目にするようになりました。
スタインウェイ社が協力しているかなにかでロゴが印刷されているんだろうか…ぐらいに思っていましたが、どうやらレーベルそのものがSTEINWAY&SONSなのだそうで、スタインウェイがプロデュースして自らCDを発売しているようです。

考えてみれば、こういう成り立ちのCDというのはあっても不思議ではないようでいて、実はあまりなかったようにも思います。ピアノメーカーの自社宣伝、かつ若いピアニストを発掘し世に送り出すという点からも、これはまさに有効な手段なのかもしれません。尤も、スタインウェイに関しては、市場の録音の9割ぐらいはこのメーカーのピアノが使われるので、なにもいまさらという感じもあるわけで、きっと我々素人にはうかがい知れない事情や目論見があるのでしょう。

このSTEINWAY&SONSレーベルのCDは、現在マロニエ君の手許でも確認できただけで2つあり、セルゲイ・シェプキンのフランス組曲と、アンダーソン&ロエという男女のユニットによるピアノデュオで「The Art of Bach」というアルバムがあります。
面白いのは、アンダーソン&ロエのバッハでは、2台ピアノのための協奏曲ハ長調やブランデンブルク協奏曲第3番などを2台ピアノのみで演奏しているのですが、それをスタインウェイの監修のもとに、ニューヨークとハンブルクのDを組み合わせて使っている点です。

耳を凝らして聴いていると、ハンブルクの艷やかに輝くようなおなじみの音と、ニューヨークのやわらかな余韻のある響きが見事にブレンドされており、これはなんと素晴らしい組み合わせかと思いました。
つまり、ルーツを同じくする2台のピアノながら、生産国によってかなり特性の違うピアノになってしまっているふたつのスタインウェイが、互いに持っていない要素を補い合っているようで、これは実に面白い試みだと思いました。

かねてより、マロニエ君はニューヨークとハンブルクを掛け合わせたようなピアノがあればいいと思っているのですが、それをまさに実際の音として聴くことができたような錯覚ができる体験となりました。
シェプキンのバッハでも、2枚目のCDには幻想曲とフーガBWV904では、ニューヨークとハンブルクによるふたつのバージョンが収録されていて、この異母兄弟とてもいうべきピアノの違いを楽しめるようになっているあたりは、さすがにスタインウェイレーベルだけのことはある面白さのように感じます。

マロニエ君のざっくりした印象でいうと、戦前のピアノはニューヨークのほうがよかったという説を耳にすることはしばしばですが、1950年代以降ではそれが逆転し、とりわけ1960年代から数十年間はハンブルクのほうが優れていたように思います。ところが21世紀に入ってから、確たる証拠はないけれど、もしかすると、ふたたびニューヨーク製が盛り返しているのでは?と思えるふしがあるのです。

たとえば動画サイトで見たものに過ぎないものの、ユジャ・ワンがアメリカで弾いているニューヨーク製が思いの外すばらしいことはかなり印象的で、それまでのニューヨーク製はどちらかというと響きのゆらめきのようなものがある代わりに、ひとつずつの音の明瞭さという点ではややアバウト気味でものたりないようなところがありましたが、このときの新しいピアノでは、音の中に凛とした芯と量感があり、それでいて響きのふくよかさはニューヨークならではなのものがあり、いい意味での黄金期のスタインウェイのようであったことは強く記憶に残りました。

このCDに聴く音も、ハンブルクと同時に鳴っているために段別がむずかしいものの、なかなか懐の深いピアノであるような気がします。もしかしたら、今後は再びニューヨークが首座に返り咲くことがあるのだろうかとも思うと、なんだかわくわくさせられます。

むかし福岡県内のとあるホールで、ピアノ庫を見せてもらえるチャンスがあり、そこにはニューヨークとハンブルクそれぞれのDが置かれているのですが、調律師さんにどちらが人気ですかと聞いたところ、その答えは驚くべきもので「こちら(ニューヨーク)を弾く人はまずいないでしょうね」と、かすかに鼻先で笑うような言い方をされたのが今でも忘れられません。
同時期に新品が収められたものであるにもかかわらず、技術者があたまからそんなイメージをもっているようでは、このピアノは一生浮かばれないだろうと哀れに思ったものです。

それなりに理由はあるのかもしれませんが、根底には日本人の意識の中にドイツ信仰のようなものがあって、はなからアメリカ製など格下であるという思い込みが(とくに楽器や車は)深く根をはっているのかもしれません。
ある本にもありましたが、さる高名な音大の教授でさえ、王道はドイツのスタインウェイで、アメリカ製はジャズやポップス用みたいな認識なんだそうで、これって結構あるんだろうと思います。

たしかに全般的傾向としてアメリカの製品は作りが粗く、そういった要素のあることもわかりますが、スタインウェイに関しては、ニューヨーク製の評価は低すぎるように思います。それでもスタインウェイというブランド名があるからまだましで、メーソン&ハムリンのような素晴らしいピアノがあるにもかかわらず、ほとんど話題にすら出ないことは、いかにイメージ先行で判断されてしまうかということを考えさせられます。
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カテゴリー: CD | タグ:

巨匠と若手

N響定期公演から、フェドセーエフの指揮によるロシアプログラムというのがNHK音楽館で放映され、ラフマニノフのヴォカリーズとピアノ協奏曲第2番、リムスキー=コルサコフのシエラザードが演奏されました。

始めに演奏されたヴォカリーズから、やや遅めのテンポが感じられ、ピアノ協奏曲になってもその印象は続きました。フェドセーエフも82歳だそうですから、やはり歳とともにテンポは遅くなるのだろうかと思います。
カラヤンもベームも、ルビンシュタインもアラウもそうであったように、晩年はテンポを落としたくなるものかもしれません。

ピアノはアンナ・ヴィニツカヤで、CDでは聴いていたものの、映像を見るのは初めてでした。
手許にあるCDは難曲で知られるプロコフィエフのピアノ協奏曲第2番で、なかなかスタミナ感のある演奏だったこともあり、こういうロシア系のヘビーな作品を得意とするピアニストだろうという予測をしてしまいます。

曲の冒頭、凄まじくクレッシェンドしていく和音とオクターブによって幕が上がると、息つく間もなく、うねる波のように無数のアルペジョが押し寄せますが、情熱的に前進しようとするヴィニツカヤに対し、フェドセーエフは雄渾で恰幅の良い第1主題を描こうとしているようで、すでにこの時点からピアノとオーケストラは噛み合わず、しばしば行き違いが生まれました。

直接のテンポもさることながら、各所でのアーティキュレーションや呼吸感など、求める演奏の方向性の違いがあり、それが和解できないまま本番を迎えたという感じでしょうか。

フェドセーエフにすればソリストは同じロシア人、しかも孫のような歳の女性となれば遠慮なく自分が手綱を握り、それに異議なくついて来るはずというところだったのかもしれません。
少なくともソリストの意向を汲み取って尊重しようという気配は感じられませんでした。

30代前半のヴィニツカヤは、この名曲をロマンティックかつ情熱的に追い込んでいこうとするものの、フェドセーエフもN響も、まるでそんな彼女の意向を無視しているかのようで、なんとはなしにピアノが空転気味というか、どこか気の毒な感じにも見えました。

ヴィニツカヤはある意味で少し前のロシアスタイルというか、その美貌とほっそりした体型からは想像できないほどの豪腕ぶりで、すべての音をがっちり掴んで、力強く積み上げていくタイプのピアニストで、ラフマニノフの2番みたいな作品は結局こういう演奏が合っているようにも思えます。

マロニエ君の好みとは少し違いますが、これはこれで楽しめますし、実際の演奏会では、聴衆をそれなりに満足させることのできる人なんだろうと思いました。
むしろこんな曲を、中途半端に知的処理されて消化不良にさせられるよりは、よほど素直で好感がもてるというものでしょう。

そういう意味では、もうすこし彼女の意を汲んだ指揮であったなら、もっと充実したドラマティックな演奏になっていただろうと思われる反面、終始噛み合わないオーケストラに追従して、あれだけの難曲を弾いていくのは、気分が乗っていけないのに一定のテンションを保つのはさぞ大変だろうと、いささか同情的になりました。

そのせいかどうかはわかりませんが、第3楽章の佳境の部分でゾッとするような、あやうく事故に近いようなことが一瞬起こり、きわどいところで回避されたものの、思わず心臓が凍りつきそうになりました。
ピアノが出るべきところで出ずに空白が生じ、一瞬の間を置いてなんとか出たという、いわば重大インシデントといったところでしょうか。
やはりどんな腕達者であっても、ステージというのは何が起きるかわからないものですね。
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