コンサートが苦痛に

音楽好きを自認する人間がこれを言っちゃおしまいかもしれませんが、(特別な場合を除いて)生のコンサートというのが基本的にイヤになっている自分に気がつきました。

むろん生のコンサートの良さや醍醐味はよくわかっているつもりですが、それを押し返すほどのマイナス要因を感じてしまうこのごろなのです。
まず言えることは、昔のようにわくわくするようなコンサート自体がなくなったということが第一にあります。演奏家の技量は一様に向上して大変なものがあるのはわかりますが、大半は無機質の、能力自慢的な演奏でしかなく、演奏を通じて音楽に感銘を受けたり心が揺さぶられるということも激減しています。

その点に関しては、こちらの耳も演奏を善意に受け止めるような素直さを失っているのかもしれません。そうだとしても、とにかくコンサートに行っても結果的に楽しくないというのがこのところの結論です。

そもそもコンサートに行くというのは、トータルでかなりのエネルギーを要するということは否定しようがありません。これこれしかじかのコンサートに行くということは、事前の情報のキャッチから始まり、行くという決断、チケットの購入、予定の調整など、事前の準備もわずらわしいものです。

当日は当日で、コンサートに行くことを前提とした動きになり、何をおいても一定の時間内にその準備をし、開演時間に間に合うように出発し、マロニエ君の場合は必ず車なので、駐車場に車を置いて、てくてく歩いて会場入りします。
さらに最近きわだって苦痛になってきたのは、決して座り心地の良くない会場のイスには、開演前から含めると、都合2時間以上もまんじりともせず座り続けなくてはならないことです。しかも演奏中は暗い客席から眩しいステージを見つめるということが、目や脳神経にもストレスで、しかも耳は演奏に集中しますから、心身の疲労がたまりにたまります。

これは、いかに好きな音楽とはいえ、心身へかなりの苦行になり、それが深い疲労に追い込まれるようになりました。

会場も大抵音響は酷く、たしかにステージ上では有名演奏家が演奏していますが、実際に耳に届く音や響きは甚だ遠く不鮮明で、茫洋とした残響ばかりを聞かされているのに、価値ある演奏を聴いた気になろうと意識が無理をすることも事実でしょう。ほんらい期待している演奏の妙技や心を打つ音楽体験などは、はっきりいって大半が伝わらずじまいです。

それでも今目の前であの人が演奏しているというだけでありがたいような存在なら、その空間と時間を過ごすだけでも意味があり、満足かもしれませんが、そんな(たとえばホロヴィッツのような)人はもういません。
また、東京あたりでのテレビカメラの入るような演奏会は別として、大抵の名だたる演奏家はツアーを組んでいて、その訪問先のひとつに過ぎない地方都市では、あきらかに手を抜いた気の入らない演奏をしていることが少なくなく、そんなものを聴くために高いチケットを買って、せっせとホールへ馳せ参じる欺瞞にも、もう好い加減いやになってきたのです。

素晴らしい芸術家の演奏を聴くといういうより、ほとんど商業主義の出稼ぎツアーにお金と時間を使って協力している1人に自分がなっているような気になることが多すぎるのです。マロニエ君にとってコンサートに行くということは、聴いている瞬間はもちろん、後々の記憶にも残るような喜びと感銘を得るためにホールへ足を運ぶことだと思うのです。

また、会場では必ずと言っていいほど、周囲にはカサカサ音をたて続ける人、異様に座高の高くて完全に視界を遮る人、演奏中も椅子をバタバタ振動させる子供、小さな声でしゃべっている人、チャラチャラと音をさせてあめ玉などを取り出す人、変な香水などの匂いを撒き散らす人、なぜか演奏中に身を屈めて出ていく人など、不快要因が散在していて、これらも嫌になってしまうのです。

それもなにも、演奏で満腹できればチャラにできるでしょうが、こちらもさっぱりという場合が少なくないし、そんな現実を思い浮かべると、もはや少々のことでは「家にいたほうが快適」になってしまいます。
チケット代にしても、ちょっと名の知れた海外オーケストラなどになると、もはや行く気も失せるような料金で、それで何枚CDが買えるかと思うと、マロニエ君にとっては価値を感じるほうに使いたくなってしまいます。

まあ、これじゃいけないんでしょうけれど、いやなことはしたくないのです。
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ベーゼンドルファーの美

ネットでCDを注文する際は、本当に欲しいものがメインになるのは当然としても、せっかくなので「ついでにこれも」というようなものも一緒に購入することがよくあるものです。

『RUSSIAN PIANO RARITIES』という3枚組もそんな「ついで買い」のひとつで、輸入盤で、もう忘れましたがたぶん値段もずいぶん安かったと思います。ロシアの珍しいピアノ曲集というような意味かと思っていますが、確かなことはよくわかりません。

メトネル、スクリャービン、ショスタコーヴィチ、ラフマニノフという4人の作曲家によるソロ、もしくは2台ピアノのための作品などがごった煮のように入っており、ピアニストもいかにも二軍選手といった人たちが4人、ごく普通のしっかりした演奏という感じで、普通に曲を聴くにはちょうどいい塩梅といえなくもありません。

こういう掻き集め的なCDで面白いのは、演奏者、録音年月、使用ピアノがバラバラな点でしょうか。
ただし、どれもが新しい録音なので、極端に雰囲気の異なる音源が隣り合わせというような不都合はなく、録音も場所もちがう割には比較的違和感なくまとまっており、たまにはこういうCDも悪くはないなあというところでしょうか。

とくに思いがけなかったのは、ピアノの違いを楽しむことができる点でした。
使用ピアノなどの記載はないものの、多くがスタインウェイであることは音からも明白ですが、ラフマニノフに関してだけは2台ピアノもソロも、録音場所がベーゼンドルファー・ザールとなっており、そこに聴くピアノはまぎれもなくベーゼンドルファーであることは曲目からして非常に意外でした。

さらに意外だったのは、それがなかなかいい音だったのです。
このところの音質低下はベーゼンドルファーにまで及んだのか、このブランドにふさわしい音を聴くチャンスが少なくなったと感じていたところ、このCDで聴くそれは、ハッとするほど美しいものでした。
艶やかで柔らかいのにみずみずしい音で、ひさびさにこのメーカーのいい部分を堪能できた気がして、これはまさに思いがけない収穫でした。

しかも弾かれているのはラフマニノフですから、本来ならどう考えてもマッチングの良い取り合わせではない筈ですが、ほんとうに美しい音で鳴っているピアノというのは、それだけでもじゅうぶん魅力的で、作品との相性なんてそれほど気にならないのは実に不思議でした。

艶やかな弦楽器のような濁りのない音で、美しいものは理屈抜きに美しいということ、それを聴くことの驚きと喜びにストレートにわくわくさせられました。
こういう素晴らしい音があるかと思うと、インペリアルで録音されたCDなどには期待はずれなものが少なくないし、コンサートなどでもまったく納得しかねるような、どこか間延びした、不健康な感じの楽器があるのも率直な印象です。

最近で印象に残っているのは、アンドラーシュ・シフが東京オペラシティーで行ったメンデルスゾーンやシューマンによるリサイタルで、シフほどの名人の手にかかってもピアノの反応がいまいちで、引きこもったような不鮮明な音を出すばかりでした。
会場とピアニストはいずれも一流であることから、楽器も管理も悪かろうはずもないし、第一級の技術者がおられるに違いなく、それだけに近年のベーゼンドルファーとはこんなものかと思わざるをえませんでした。

マロニエ君はベーゼンドルファーのことは、あまり知りませんし、弾いた経験も多くはありません。
まろやかな音色のピアノがあるかと思うと、かなりエッジの立った際どい音であったりと、どれが「らしい」のかよくわかりませんが、共通して感じるのは、音量が比較的小さく、サロン的な音色の質や調子から、自ずと作品も選ぶピアノといったところでしょうか。

イメージとしては弱音域の美しさが際立っていることと、整音が非常にデリケートであるのか、スイートスポットが非常に狭いのか、好ましいコンディションを作り出し、維持するのが容易ではないのでは?というもの。
メリハリがないほど音が柔らかいかと思うと、少しでも硬すぎればチャンチャンしたやや下品な音になり、マロニエ君はいずれの音も好みませんが、ツボにはまった時のベーゼンドルファーの美音は、まるで熟れきった果実から極上の果汁がしたたり落ちるようで、なまめかしい純度の高い美音が撒き散らされ、聴く者を圧倒してしまうものがあるのも事実でしょう。

マロニエ君はアルコールはてんでダメで、ワインの良否などまるでわかりませんが、この道にうるさい人が最高級だ年代物だと興奮するのは、きっとこんな豊饒な音のようななものだろうか…などと想像を巡らせてしまいます。

残念な点は、そういう麗しい音のピアノが非常に少ないと感じる点でしょうか。
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アンデルジェフスキ

今年からN響の首席指揮者にパーヴォ・ヤルヴィが就任したのは驚くべきニュースでした。
あんな売れっ子をよくぞ連れてこられたものだと思いますが、お陰で、ひさびさにN響に喝が入ったように感じました。

たしかデビューコンサートのプログラムだったと思いますが、マーラーの巨人を振るのを聴いて、へーぇ…と思ってしまいました。
ブロムシュテットでも、デュトワでも、アシュケナージでも、ノリントンでも、与えられた仕事をそつなくこなすよう淡々と弾いていたN響。唯一、珍しく本気になっていると感じたのは、昨年だったか一昨年だったか、ザルツブルク音楽祭に出演したときだったけれど、日本に戻ると同時にパッションも元に戻ってしまったようでした。

そんなN響が、ヤルヴィを前にするとさすがに気持ちが引き締まるのか、あきらかにこれまでにない熱気のようなものが漂っているのが感じられ、これは面白いことになったと思いました。

すでにN響とのコンサートも異なるプログラムで数回おこなわれたようで、先日はR.シュトラウスとモーツァルトが放映されました。冒頭の「ドン・ファン」は見事な演奏で、サントリーホールのステージからこぼれ落ちんばかりのフルオーケストラから繰り出される豪華な響きと精緻なアンサンブルによって、この熱気に満ちた交響詩を演じきりました。

後半はメインである「英雄の生涯」が待ち受けますが、その谷間におかれたのがモーツァルトのピアノ協奏曲第25番でした。演奏前の説明にもあった通りモーツァルトの作品中、最もシンフォニックなピアノ協奏曲で、傑作第24番の悲劇的なハ短調と表裏をなすように、ハ長調の盛大なトゥッティで始まるあたりは、いかにもモーツァルトらしい変わり身で、悲しみに打ち沈んだあとはパッと明るく切り替える、対照的な同主調といえるかもしれません。

ソリストはピョートル・アンデルジェフスキで、マロニエ君はこの人のCDは何枚か持っているものの、巷ではそれなりに高い評価を受けているようではあるけれど、個人的には彼の演奏の目指すところがよくわからないまま理解が進みません。
モーツァルトの協奏曲は何枚かリリースされているようですが、シマノフスキやシューマン、カーネギーのライブなどのCDを聴く限りでは、この人のモーツァルトを聴いてみたいという意欲がわかず、手許にはまだ一枚もなしです。その意味でも、初めて彼のモーツァルトを聴けるという点でも楽しみと言うか…ともかく興味津々ではあったわけです。

しかし、危惧したとおり、何をどうしたいのか、まったくその表現意図がマロニエ君にはわかりかねる演奏でした。やはりこうなんだなぁ…という、当たり前のような印象。

この人は通り一遍のピアノを弾くことを良しとせず、いわば演奏を標準語で語らないのがこだわりなのか、一言でいえばやりたいようにやるのが彼の流儀のようです。その異色なスタンスからアンデルジェフスキこそはピアニストという枠を超えた真の表現者であり芸術家であるというふうに書かれた文章もいくつか読んだこともありますが、正直、聴こえてくる演奏に納得がいかず、マロニエ君には彼の演奏の真価がさっぱりわかりません。
この日の演奏を聴いて、その疑問は疑問のまま上書きれて終わりました。

だいいちに重くて鈍いです、モーツァルトには、あまりにも。
テンポも安定感を欠き、アーティキュレーションもデュナーミクもまったく予測もつかなければ、あとで腑に落ちてくることもなく、全編を通じて不明瞭感みたいなものがつきまとい、ほんとうにこれがこの人の本心なんだろうかと思いました。

音楽というものはいまさらいうまでもありませんが、自分とは感性や好みが違っていても、その人なりの音楽が言語となって語られ、収支のバランスがとれていて、一定の完成度があるものなら、それはそれでじゅうぶんに楽しめるものです。
べつにモーツァルトはこうあらねばならないというお堅いことをいう気はないし、いいものはどう型破りであってもいいと思うのですが、ロマン派ともなんともつかない恣意的な弾き方をすると音楽の型が崩れてしまい、聴いていてまったく乗っていけません。
自己流でも型破りでも、最終的になにかに支えられ、どこかに発見があり、けっきょく帳尻があっていなければ、それは個性だとは言えないような気がします。

ピアノの入りなども遅れが目立つところが散見され、わけてもモーツァルトの掛け合いにおいては、ひと息の遅れがその楽句の鮮度を残酷なほど落とし、意味や輝きが失われてしまいます。また、いわゆるミスタッチとは言えない音の飛びやつまづきが多々あったのも、彼の名声にはそぐわないたぐいのものだったことは意外でした。

どうも顔色もよくないようで体調でも悪いのか、はたまた御酒でも召されてステージにお出ましだろうかと思ってしまうような、何か訳ありのような気配が漂っていて、なんとなく気持ちのよいものではありませんでした。
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染み込んだ体質

たまたま見た、あるテレビ番組での話。

自転車店の最も少ない都道府県はどこかというと、普通は雪の多い北海道や東北地方では?と考えてしまいがちですが、意外なことに真逆である沖縄県なんだそうです。

というわけで那覇市内の街の様子が映し出されますが、車はたくさん走っているのに、自転車に乗っている人というのはまったくといっていいほど目に入りません。国際通り?とかいうメインストリートでも、ひっきりなしに行き交う車に対して、歩道は人もまばらで、たしかに自転車など影も形もなし。

番組では、県内で数少ない自転車店に入ってそのあたりの事情を尋ねると、沖縄の人はそもそも自転車にはほとんど乗らないらしく、その店は主に競技用など趣味としての自転車を取り扱っているだけで、日常生活で多く使われる普通の自転車は、ほとんど買う人がいないのだそうです。
売れるのは年にせいぜい2~3台というのですから、今どきの自転車大増殖とその無謀運転に悩まされる我々からすれば、ただただ驚くばかりでした。

その理由を探ってみると、潮風で車体が錆びるとか、暑いから汗をかくとか、アメリカによってもたらされた自動車文化が根付いた、などの理由がありましたが、最大の理由は、要するに自分の足の力を動力とする自転車というものが、そもそも沖縄の人の感性に合わないということのようでした。

では沖縄の人は移動手段はどうしているのかというと、ちょっとそこまででも、必ず「車で行く」のだそうで、さっきの自転車店のご主人がいうには、自分の奥さんもあそこの(ほんとうにちょっと向こうにあるぐらいの距離)コンビニに行くにもわざわざ車に乗って行く(笑)のだそうで、他の人に聞いても、自転車には「乗らない」し、目前に見ているぐらいのところでも「車で行く」と笑いながら当然という感じで答えていました。

マロニエ君にとって、これってまるで自分のことのようでもあり、おかしいような笑えないような、でもやっぱり笑ってしまうしかない不思議な気分でした。

歩かなきゃいけないのはむろんわかっているし、マロニエ君のまわりにも普段から驚くべき距離をせっせと歩いている人が何人かいて、ご苦労なことというか、呆れるというか、要するにただ感心させられるのですが、では自分も見習って少しは歩くよう心がけるかというと…さらさらそんな気はないのです。
どこへ行くにも、唯一気にかかるのは先に駐車場があるかどうか、その点だけ。

お店なども、どんなに行きたい店があっても駐車スペースがないようなところは、それだけで行くことを諦めますし、それ以上の挑戦はしません。

しかしマロニエ君以上の人もいて、知り合いで50ccバイクの常用者がいますが、その人は100メートル以上移動する際は、必ずヘルメットをかぶってバイクにまたがります。エンジンを掛けたりあれこれやっている間に歩いたほうが早い場合もあり、さすがのマロニエ君もその徹底ぶりには唖然とさせられることがあるのですが、ここまでくると何か突き抜けた感じがしてきます。
日常を電車やバス+徒歩もしくは自転車で過ごしておられる方からみれば、およそ信じ難い感覚かもしれませんが、これもきっとある種の依存症なのかもしれません。

いずれにしろ、いったん身についた習慣は、容易なことでは変わるものではなく、沖縄の人達の車依存もかなり根の深いものだなあと、なんだか妙に親近感を覚えてしまいました。

沖縄ではこの気質をネタにした地域限定のテレビCMまであるようで、野球の試合中、フォワボールになるとバットをポイと地面に放り投げたその手をおもむろに上げると、そこへ本物のタクシーがやってきてパカッと後ろのドアが開きます。なんとバッターはそのタクシーで1塁までいくというもので、それほど歩くのがキライだというわけでしょう。
まあこれはオモシロCMだとしても、根底にそういう感性があるのは理解できてしまうのです。

ふと思い出しましたが、以前入っていたピアノクラブでも、移動となると、みなさんごく自然に(マロニエ君にしてみればギョッとするほどの距離を)てくてくと歩いて行くのには「エッ、世の中、ふつうはこうなの?」と内心驚愕したことが何度かありました。最初のうちはお付き合いの気持ちもあって車は使わずに参加していましたが、これはもうたまらん!というわけで、以降はどこであれ車で行くようになりました。
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ファツィオリ検証

以前、アンドレア・パケッティの弾くゴルトベルク変奏曲のCDの感想から端を発して、ファツィオリのことにも触れたところでしたが、その後、BSクラシック俱楽部でボリス・ギルトブルグという若手ピアニストの来日公演の様子が放映され、会場であるトッパンホールのステージに置かれていたのはファツィオリのF278でした。

ついひと月ほど前に、CDから聴こえてくるファツィオリの音についてあれこれ書いたばかりなので、そこに綴ったものが時間をおき、音源を変えてみて正しかったかどうか、あるいは何かが修正されてくるか、その点を(自分なりに)検証する意味もあって、意識的にこのピアノの音に耳を傾けました。ピアノ、ピアニスト、会場、曲目、録音が異なれば、受ける印象にも多少の変化がある可能性は大きいのでは…というわけです。

曲目はグバイドゥリーナのシャコンヌ、ラフマニノフの楽興の時第1番と第3番、プロコフィエフのソナタ第2番。
グバイドゥリーナのシャコンヌはよく知らない曲だったため、主に作品自体を楽しんだものの、ラフマニノフ以降はピアノにも注意を向けてみました。

果たしてそれは、パケッティのゴルトベルクで聴こえたものと、つまらないぐらい同じ印象でした。
自分の書いた感想に対する検証という意味では少し安堵の気持ちも覚えはしましたが、やはりファツィオリほどの最高級にランクされるピアノですから、なにか印象が好転するような要因があればと期待していたのですが、とくにそれらしい要因は見当たりませんでした。

ラフマニノフの楽興の時第1番などはゆったりした曲調であるぶん、落ち着いて音を聴くことができるのですが、やはりその音には奥行きというか、濃淡や立体感みたいなものが感じられません。
緩徐部分でも響きが固く、表現が難しいところですが、曲線的な歌唱の要素がなく、むしろメカメカしい感じばかりが耳についてくるように感じました。
演奏という入力に対してのレスポンスはたしかによさそうで、低音などまるで筋肉が隆起するようです。この点で弾く人には刺激的なのかもしれませんが、楽器に人格のようなものを感じたり、そのピアノなりの声や響きの構成にわくわくさせられるようなものはやはり感じませんでした。

楽器の音には「抜ける」という要素があるのかどうか専門的なことはしりませんが、神経に何かが溜まっていくのか、しだいに息苦しい感じのするところが気にかかります。もしかすると無機質でデジタルな時代感覚に合わせ、意図的に味わい深さやリリカルな要素を排した性格が与えられているのかもしれません。

ピアノの音に馥郁としたものや交響的なものを求めるとしたら、そういう性質のピアノではないのでしょう。それはこの日弾かれたロシア音楽、わけても遙かなる大地と哀愁の漂うラフマニノフにはまったく不向きという印象で、大きなロシア人が異国でアルファロメオにでも乗せられているようでした。

ファツィオリはスカルラッティのような鮮烈な花束みたいな作品には最良の面を発揮するのかもしれませんが、壮大さや憂いを内包する重厚な音楽には向いていないのかもしれません。

ピアニストのボリス・ギルトブルグは、初めて聞く人でしたが、ピアノを演奏するという行為をとても真摯に受け止めて、終始良心的な演奏に徹するタイプのようでした。
小柄な人でしたが、テクニックも見事で、プログラムに対する準備も怠りなく、まさに誠実な演奏家という印象を抱かせるに十分です。とくにその表現は繊細かつ大胆で、ロシア人ピアニストも時代のせいか、このようなデリケートな配慮の行き届いた表現ができるようになったということを痛感させられました。

リヒテルだギレリスだといっていた頃の、分厚くこってりした、力でねじ伏せるような演奏がロシアピアニズムだった時代を思い起こせば、この点でもずいぶんと近代化が進んでいることを思い知らされます。
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恐怖の着陸

少し前に、沖縄の那覇空港で、離陸待機中の自衛隊のヘリが、ANA機に出された離陸許可を自分達に出されたものと勘違いして離陸。すでに滑走路を走り始めていたANA機がそれに気づいて離陸を中断したものの、その背後に別機が着陸してしまうという重大インシデントとやらが発生しました。

たしかに状況を言葉で並べると危機一髪というような印象もありますが、空港の設置カメラの映像によると、飛び上がった自衛隊のヘリとANA機との間には遙か彼方とても言いたいほど距離があり、もしANA機がそのまま離陸していても、両者が衝突というようなことではなかったように見えました。

もちろん、このような勘違いはあってはならないことですから、より安全確認を徹底しなくてはならないことは当然ですが、それほどの危険が差し迫っていたようには(映像では)見えなかったため、これでこんなに危険が叫ばれるのだとすると、じゃああれはどうなんだろうと?…と、あることを思い出してしまいました。

それはYouTubeでだれでも見ることができますが、飛行機に関する映像の中でも、クロスウインド(横風)の中を旅客機が着陸する映像がいくつもありますが、これはなかなかどうして手に汗握るものです。

とりわけマロニエ君がすごいと思うのは成田空港のそれで、ちょっと信じられないような危ない着陸を、各社各機が次から次にやっている現実には唖然とするばかりで、シロウト目には、その危険度は上記の沖縄空港のニュース以上かも…というのが率直なところです。

そもそも、あれほど方角の定まらない嵐のような強風が吹き荒れるというのは、それだけでもあそこに国際空港を作ったことが適正だったかと思いたくなるほど、それは凄まじいもので、多くの乗客を乗せた大型機が、まるでおもちゃのようにふらふらしながらアプローチしてくるのは、理屈抜きに怖い気がします。

ふつう着陸態勢に入った旅客機は、ほぼキチンと水平状態を保ちながら慎重に高度を下げながら、とりたてて不安もなくきれいにタッチダウンするもので、福岡は市内に空港があることから着陸の光景は子供の頃から見慣れているつもりでしたが、成田のそれは尋常ではないことに見るなり度肝をぬかれました。

撮影された映像にも間断なく叩きつける強風の轟音がバリバリ入っていますが、そんな中をB767、B777、B747、A340、A380などが、まるで模型を使った下手な特撮のように、フラフラと左右に揺れながら近づいてきます。
飛行機の機体は敢えてしなやかな構造に作られているためもあって、強風にさらされた主翼やエンジンなどは、それぞれが小刻みにクニャクニャとしなりまくりながら近づいてきます。
そんな中をパイロットはよほど機体のバランスをとろうとしているのか、大きな旅客機が酔っ払いの千鳥足のように左右に大きく振れながら滑走路に入ります。

車輪が着地するときにも機体の揺れは収まらず、見ていて危ないのなんの。何度かに一度はパイロットが無理だと判断するのか、ゴーアラウンド(着陸のやり直し)となり、あとわずかのところで、再び空高く舞い上がっていきます。
中には同じ機体が何度やっても着陸できず、4回ぐらいトライするものもありますが、あんなの乗っていたら生きた心地はしないでしょうね。

また、着地の最後の瞬間にも容赦なく強風が吹き荒れるので、つい片方の車輪だけ勢い余ってドカンと着地したり、そのまま前輪も着いたり離れたり、中にはあまりにも左右いずれかに傾いた姿勢で着地したため、主翼の翼端やエンジンが、あとわずかで地面に接触するようなものも少なくありません。

中でも最も迫力があるのは世界最大の巨人機であるエアバスA380で、機体が肥満体なぶん、その迫力というか恐ろしさもケタ違いで、ほとんどやけっぱちのような綱渡り着陸は、何度もああもうダメでは?!と思ってしまうほど強烈です。
しかも中には何百人もの乗客が乗っているんですから、少々の衝撃映像より心臓がバクバクします。

ふだんから風が強いことは関東の特徴みたいなものですが、強風のたびにあんなアクロバティックな着陸を日常的にやっているとしたら、果たしてどれだけの人が認識してことだろうかと思います。きっとパイロット仲間ではこの点で成田は有名なのかも知れませんし、さすがに神経をすり減らし、血圧も相当上がってしまうのではないかと思います。

ひとつご紹介しておきますが、YouTubeで「成田 強風」で検索したらいくつも出てきます。
https://www.youtube.com/watch?v=OvVjSToWsWI
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いずれが大切か

音楽性とテクニック、いずれが大切か。

これはピアノ演奏上の価値基準に対する、永遠のテーマかもしれません。
コンクールの功罪や在り方も、煎じ詰めればこのテーマに抵触するとき、あれこれの論争が巻き起こるといっていいのかもしれません。

どんなに腕達者であっても、そこに一定の音楽性が伴わなくては聴くに値しないという基本は揺らぐものではないけれども、先日のロマノフスキーの演奏は、技巧と音楽性(広義では芸術性)の関係についてあらためて考えさせられる契機にはなりました。

よほどの悪趣味であるとか、体育会系腕自慢は論外としても、やはり水際立ったテクニックというものは正しく用いられている限りは、それ自体もストレートな魅力であることを認めないわけにはいきません。

ここでいうテクニックというのは、厳密には「メカニック」との区別を厳格にすべきかもしれませんが、そんな言葉の微妙なところはどうでもいいというか、要はその言葉の微妙な意味の違い以前の根本的な問題のような気がします。

技巧VS音楽性、いずれを大事と見るかは譲れぬ意見があるようで、それぞれ言い分はわかります。マロニエ君の結論としては、少なくともステージに立って演奏するようなピアニストであれば、この二つはどちらが欠けてもダメだということです。

技巧を第一に考える人は、ピアノといえばまずは指の技術ありきであって、曲をまともに弾くこともできずに音楽性云々と言うのは詭弁であり、キレイ事にすぎないということでしょう。
たしかに豊かな音楽性も、繊細な感性も、悲喜こもごもの心的描写も、それらはすべて鍛えられた技巧を通してはじめて表出させられ音楽にのせて具現化することの出来るもので、それなくしては表現もなにもはじまらないという主張で、その点はマロニエ君もまったく同感です。

ただ、現実には、技巧が表現のための手段として、いわば表現の裏方に徹しているかというと、そうは思えないところも多々あることが問題です。
ピアニストであれ素人であれ、長年にわたり技巧の習得に邁進してきた人の中には、音楽性云々は建前で、本心では技術がすべてに優先するという人が大勢いるのは事実でしょう。技術こそが優劣の絶対尺度で、それをまるで偏差値のように捉えてしまうやり方です。

音楽的趣味や感性の重要性にはほとんど目を向けようとせず、そちらがまったく育っていない人(というかむしろ抜け落ちている)というのは音楽の世界では最も恥ずべきことのはずですが、高い技術さえあればとりあえず威張っていられるのがこの世界の現実で、それだけテクニックを持っていることはエライことなんでしょう。
そういう人達に限って、ショパコンとかプロコとかベトソナなどと疑いもなく口にするようにも思われ、これらは直接の関連はないはずですが、やっぱり何かはっきり説明できないところで繋がっているような気がするのです。

ピアニストの演奏スタイルも時代とともに変遷があり、二三十年前まではあからさまな技巧派タイプがいたものですが、近年は一捻り二捻りされて、ぱっと見は非常に精度の高い知的な演奏が主流で、そこへ自分の演奏表現(のようなもの)を織り交ぜて個性とするスタイルが主流のようです。しかし、ときに不自然なほどの「間」を取ってみたり、変なアクセントをつけたり、意味のないような内声を際立たせたり、極端なpppとfffの対比でコントラストをつけたりと、必ずしも聴き心地の良い音楽とはなっていないものを見かけるのも事実。
それもよくよく聞いていると、結局は自分の技術的都合にそった解釈めかしたものであったり、評価のための演奏であったりと、その企みが透けて見えてしまうと、たんなる個人的な野心を見せられているようで気分はシラケてしまいます。

そんな中、技巧の優れることが音楽性に勝るとは思いませんが、現実的に抜きん出た技巧を持っている人のほうが、精神的にも余裕があり、情緒面も落ち着いているのか、音楽もどちらかというとストレートであるのはひとつの特徴だと思います。

結局のところ、技術や才能に足りないものがある人ほど、小細工を散りばめてあれこれを企んだり辻褄合わせをする必要があるようで、正攻法でいけば、自分の欠点が忽ちバレてしまうという恐れがあるんでしょうね。
そういう意味でも、やはり余裕ある技巧はどうしても必要になることは否めないように思います。

ただし、これはあくまでもプロの話であって、アマチュアの場合は断じて音楽性が優先だと思います。
アマチュアの場合、多くは技巧といってもたかが知れています。所詮は人よりちょっと難易度の高い曲を弾けますよといった程度で、どっちにしろピアニストに敵うはずもなく、他人にとってはほとんど意味のないことです。

聴かせてもらうなら、小さな一曲でもいいから、きれいに弾いてもらったほうがよほど気持ちがいいですね。
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消極的無礼

何かがヘン…と感じることは、日常のおりおりにあるものです。
それも、とくに大したことではないことが、却って神経に障ったりするのは人の心の不思議というべきかもしれません。

先日、主に運転用の新しいメガネを作ったときに、運悪くそんなシーンに遭遇してしまいました。
メガネを作るのはマロニエ君には甚だ苦手なことで、店先で拘束され、検眼に時間とエネルギーを費やすことで、ひじょうに目と神経が疲れてしまって心身ともにヘトヘトになるのです。

近ごろは、おしゃれなメガネが意外な破格値で作ることができるので、マロニエ君もいやなことは一回で済ませてしまおうと、遠く用と近く用の二種類のメガネを新調することに。

検眼をして、フレームを選んで、やや特殊なレンズであるため当日の出来上がりは無理ということで、支払いを済ませ、控えを受け取って、後日受け取りに来ることになりました。
準備ができたら電話の一本でもくれるのかと思いきや「いえ、お電話はいたしません。こちら(控えに書いてある日にち)でご準備できていますので…」というので、普通は電話でもかかってくることで、忘れていても思い出すことも兼ねているように思いますが、ま、いいかと思って帰りました。

何月何日に出来るということは、自分自身で控えをチェックして、認識して、自発的に取りに行かなくてはいけないわけで、なんとなく気を張ってなくちゃいけない印象があったことは事実ですが、安いということはそういうことでもあるのだろうと思うことに。

それから数日して取りに行くと、よほどシステマティックにできているのかという予想に反し、ずいぶん待たされ(先客がいたわけでもなく)、そのあげくようやく出されたメガネは、2種類のフレームとレンズがそれぞれ逆になっているという大ミスが発覚。こういうとき、今の若い店員さんにとって、接客マニュアルにない「番外編」に突入するのか、とりあえず石のように固まって無言となり、しきりに書類ばかりチェックしまくります。
同僚と小声でしゃべったりと、多少あわてているふうではあるけれど、要するにこっちは完全に放置された状態となり、それが延々と続きます。ずいぶん経って、ついにミスであることの確認が取れたらしく、再度レンズの発注をかけるということになり、このころになってようやく「申し訳ありません。」という言葉が出てきますが、ちょっと遅いようですね。

でも、これは単なるミスだと思いえば、お互いに生身の人間なんですから仕方がないかとも思えます。
その際の対応のマズさも、予期せぬ出来事ゆえと、まあ理解してやれないこともありません。

おかしいと感じるのは、実はこれらのことではなく、はじめにマロニエ君の対応をしてくれて、フレーム選びから検眼まで、1時間近く対応してくれたひとりの若い男性のほうです。出来上がりを受け取りに行ったときには、たまたま一番身近にいた店員さんに控えを渡したことから、その女性がその場合の担当者になるのかなんなのか、そのあたりの内部規定はしるよしもありませんが、数日前にあれだけ接客をし、あれこれ言葉を交わしたにもかかわらず、前回の男性は目の前にいるのにまったくの知らん顔なのは「何なの!?」と思います。

普通なら「こんにちは」か「いらっしゃいませ」ぐらいの最低限の挨拶をするのが当たり前ですが、一瞬目が合っても、これといった反応もせずに、悠然と横にいる店員としゃべてみたりで、なんというか、ちょっと薄気味悪いものを感じてしまいます。

もちろん客と店員の関係なので、実際だれかが応対して事足りていればそれでいいということかもしれませんが、それにしても、こうも露骨にその場限り、前後のつながりなんて完璧にないよという反応をされてしまうと、これはやっぱり無礼ではないかと思います。しょせんはそんなもの、くだらないとは思いながら、やはり胸の内でいやなものが駆け巡ることは事実です。
商売には商売なりのルールというものがあるわけですが、こういう消極的無礼は、今どきの社会には蔓延横行していることをこれまでにも何度か経験させられています。

結局、二度目に取りに行った時も同様で、その男性はこちらを認識しつつなんの挨拶も反応もなしで、マロニエ君もあえて目が合わないように意識していました。こんなことがあると、店全体の評価を甚だしく下げることになり、今後はその店で買う気持ちを完全に失いました。
向こうが一回限りというなら、こちらも一回限りにしてやらぁと思います。
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らららでピアノ

普段見る習慣のないNHKの「ららら♪クラシック」ですが、他の番組を録画する際に、たまたまこの番組も目についたので気まぐれにセットしてみたところ、通常の1曲解説ではなく、「楽器特集~ピアノ」がテーマで、思わずラッキー!という感じでした。

このテーマでは、ほとんどお約束ともいえる「ピアノという名前はなぜそう呼ばれるようになったか」というところから、300年前にピアノはイタリアのクリストフォリという人が云々というあたりまでは、はいはいという感じです。

意外だったのは、フランスの代表的な二人のピアノ製作者、エラールとプレイエルの名が出てくるところですが、この番組では、リストはエラールを好み、ショパンはプレイエルを好んだと、あまりにきっぱり色分けされていたことでした。
さらにリストはエラールの革新的な音や性能を高く評価したのに対して、ショパンがプレイエルを好んだのは、例のダブルエスケープメントの登場前の、シンプルな機構から生まれる音色にあった由で、マロニエ君はこれに反論するほどの材料は持ち合わせないので、いちおう「そうなんだ…」と思うことに。
ワルツ第1番のあの特徴的な連打を、古い機構のアクションで弾いていたということなのか…。

古典的なさまざまなピアノが出てきたものの、それらは映像ばかりで音はほとんど聴かせてくれなかったのはとても残念でした。
マロニエ君の注目を引いたのは、ある時期のプレイエルには第二響板というのがあって、開けられた大屋根の一部にそれは格納されており、必要時には留め具を外すと大屋根の内側に取り付けられた板が下に降りてくるようになっており、中音から下あたりの弦の上に覆いかぶさるようになります。

この状態でピアニストがショパンのバルカローレの一部を弾いていましたが、「第二響板をつけると、高音から中音、低音までバランスよく響くようになる」とのことで、音色はいうに及ばず、弾かれた音の余韻にこだわるプレイエルには、むかしこんなアイデアがあったのかと唸ってしまいました。

この第二響板なるものは、一見すると本来の響板から出る音にフタをしてしまうような印象もありますが、響板と呼ばれるからにはそれなりの木材が使われているのでしょうし、それによって絶妙のニュアンスが生まれるのだとすると、これはぜひ実物の音を聴いてみたいものだと思いました。
とっさに連想したのはバイロイトの祝祭劇場で、オーケストラピットがそっくり舞台下に隠されて、ここ以外ではあり得ない独特な音響を作り出すことで有名ですが、そんなものなんでしょうか。

たしかに現代は、楽器の性能や演奏技術、あるいは作品解釈においてはずいぶん研究が進んでいる(正しい方向か否かは別にして)ようですが、微妙な音色であるとか音響上のニュアンスというものについては、さほど意識が払われないよう気がします。
音楽あるいは演奏にとって、立ち現れてくる音のニュアンスというのはかなり重要なファクターだと思いますが、その点では現代ではくっきりはっきりブリリアントが首座を占めているようです。

後半には横山幸雄氏が登場し、ピアノの多様性を紹介するためか、ベートーヴェンの熱情、ショパンのノクターンop.9-2、リストのカンパネラをかなり割愛した形で連続して弾きました。が、どれもほとんど同じように聞こえてしまったのが正直なところで、えらく無感情な、まるで残業の仕事でも急いで片付けるように弾いてしまったのには、ちょっとびっくりでした。

ネットの動画では、どこかの音大での横山氏のレッスンの様子を見ることができますが、かなり細かい点までいちいち指示している当の本人が、このような弾けよがしな演奏をすることに、このレッスンの受講生やビデオを見た人はどんな感想を持つのだろうと思いました…。

ちなみに番組が進行するメインスタジオには、わりに新しめのスタインウェイDが置かれていて、横山氏もそこで話をしていましたが、演奏そのものは別のスタジオなのか、別のピアノ(30年近く前のスタインウェイD)が使われていました。
NHKの収録の都合でそうなったのか、横山氏の希望でこのピアノが使われたのか、そのあたりの事情は知る由もありませんが、いずれにしろ個人的にはスタインウェイではこの時期のピアノを好むため、つい期待したものの、そういうものを味わう余地もないまま、肉の薄いタッチでサササッと終わってしまったのは甚だ残念でした。

蛇足ながら、司会者の加羽沢美濃さんがスタジオに置かれたスタインウェイDを紹介する際、「このピアノはフル・コンサート・ピアノ、通称フルコンと呼ばれるもので、全長2m80cm、重量480kg…」と言い、併せて画面には文字でも数値が映し出されたのは、ん?と思いました。語尾に「ぐらい」がついていればまだしも、実際は274cmなのでいささか抵抗感がありました。

NHKのコント番組、LIFE風にいうと「これはちょっとまずいですね、NHKなんで!」というところでしょうか。
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何のためのポイント

先月最後の週末、福岡市の天神にあるタワーレコードの福岡パルコ店に行った折、ポイントや駐車券発行をめぐって甚だ納得できかねる事態に遭遇しました。

そもそもマロニエ君は、さまざまなお店が発行するポイントカードのたぐいが基本的に好きではなく、以前は束のようにあったものの大半を破棄してしまい、現在ではわずか二三枚になっています。
その理由は、本来お客さんをお店に繋ぎ止めるためのサービスであり魅力アップのためのポイント制度であるべきものが、往々にして逆の事態を招くからです。店側に都合の良いルールが一方的に定められ、その運用を巡ってはむしろ高慢な振る舞いとなり、結果、利用する側が不快な思いをする事象が多いことは多くの人達が大なり小なり経験されているのではと思います。

そして、やっぱり起こりました。
そもそも買い物を通じてせっせと貯めたポイントが「失効」することは、それまでのささやかな努力や積み上げが一瞬にして破棄される如くで、有り体に言えば、あたかも恩を仇でかえされるような、突然、なにか逆さまの現象が起こってしまうようないやな感触を覚えます。ポイントカードなんかあったばかりに、却って不愉快な事に直面することになるという、割り切れなさでしょうか。

前々回タワーレコードに行ったとき、ポイントを使おうとすると、新しいシステムなのか「1000ポイント単位」でしか使えないのだそうで、わずかに足りませんでした。1万円買って何ポイント付与されるのかいまだ知りませんが、いずれにしろ1000ポイント貯めるのはそう容易なことではありません。

ところがレシート内に書かれた「失効予定」をみると、5月末日でその1/3ほどがその対象となっています。
ここにひとつ重要な事実があるのですが、福岡パルコ店は昨年の夏ごろから店が閉鎖となり、今年になっても再開の予定さえまったく告げられませんでした。閉鎖から数カ月後には別フロアに、申し訳程度の小さな仮店舗のようなものは出来ましたが、その中のクラシックなんて、どこかの廉価CDシリーズが並んでいるほどの微々たる量で、なんの役にもたちませんでした。

それから年が明け、今年の春になって、福岡パルコの増床と合わせて突如再開されたわけで、一年近くもの間、こちらとしては行きたくても「店がない」という状態に置かれていたわけです。にもかかわらず、そのあたりの事情はポイント失効期日と一切無関係というのですから、これはもう出だしから商道徳にも背くスタンスだと思いました。

店側にしてみれば、このポイントカードは全国のタワーレコード共通のものなので、他店では使用可能である筈という理屈なのかもしれませんが、福岡でいうと近くに代替店舗といえる規模のものはまったく存在せず、せいぜい郊外のモール内の店舗ぐらいですが、とてもではありませんがクラシックの選択肢など無いに等しいものです。

さらに驚きは追加され、これに駐車券のサービス券が絡みました。
福岡パルコ店では、購入額2000円以上で30分、4000円以上で60分のサービス券が出ることを、口頭で質問して「繰り返し確認して」いましたので、この日も駐車券のことも意識しながら4402円の買い物をしました。
ここで1000ポイント達成となり、失効わずか2日前にしてポイントを使うことに。

ところが、清算が終わってみると、差し出された駐車券は30分券が1枚のみでした。
おかしいではないかと質問しますが、レジの若い女性では答えにならず、すぐさま責任者のような男性が出てきましたが、店が定めた規定によって、この日の買い物は1000ポイントが先ず差し引かれ、3402円とみなすことになる由。

専らそのルールを繰り返すだけで、あとは無言、話はまったく噛み合いません。
そこまでルールが厳格なのであれば、駐車券のことを「繰り返し聞いた」ときに、ポイント使用分は含まないという点を併せてはっきり伝えるべきですが、それはいずれの場合にもまったく伝えられませんでした。
にもかかわらず、いよいよそれを発行する段になって、いきなりポイント分は除外となることを告げるのは、あまりに不親切かつ一方的で、もしや消極的カラクリかとさえ疑りたくなります。

いまどきの接客力も応用力もない店員を相手に、レジで抗議するのはみっともないし自分も虚しいので、この場はサッと引き上げましたが、何度反芻してみても納得できませんでした。どう考えても、店の都合のみが優先され、客側の利益や心情はまったく蔑ろにされており、まるで店側が権力を握りそれを上意下達ごとく行使している構図にしか見えません。

べつにきれい事を言うつもりはありませんが、純粋な価格でいうなら、ネットで買うほうが格段に安くもあるし、選択肢に及んでは店頭とは比べ物になりません。それでも、地元にあるCD店を利用することで、ささやかなりとも店の売上に貢献したいという思いがあることも事実で、だからあえて店頭でも購入をしているつもりでした。

むろんマロニエ君ひとりが買う量など、微々たるものかもしれませんが、深刻なCD業界の不況の中にあって、わざわざ店まで足を運んでCDを購入する人を、もう少しは大事にしたらどうかと思います。
「貧すれば鈍する」という言葉があるように、台所事情が苦しいからといってサービスの適用条件を上げるばかりでは、ますます人の足は遠退いていくだけだと思います。
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