手頃価格でゲット

中古車店のことを書いたついでにもう少々。

マロニエ君の勝手な思い込みかもしれませんが、長引く不景気故か、価値観の変化か、ピアノや輸入車のような付加価値品目の中古価格は、昔に比べると安くなっているような気がしてなりません。

売る側にしてみれば贅沢品に類する品目の中古品は、時代のニーズからちょっと外れて売りにくいのか、かなり良いものが安く売られているようで、かなりお買い得感を感じます。

その一例がアップライトピアノで、タダ同然のオンボロは別として、お店でまともなものを買うとしても、うるさいことを言わなければ、20万円ぐらいでもきちんと整備されたピカピカの良い物が買えるのは驚くべきことです。
現在の主流である電子ピアノに比べても、こちらはなにしろ本物のアコースティック・ピアノであり、それもヤマハやカワイのようなれっきとしたブランド品が買えるのですから、これは市場自体がかなりのバーゲン状態ではないかと思います。

電子ピアノというのは近隣の騒音問題をクリアできるということ以外にあまり見るべきものがないし、はっきり言ってしまえばあれは楽器ではなく電気製品と心得るべきでしょう。聞くところでは、それなりの時期に、それなりの故障やトラブルが出てくるのだそうで、その際、高い修理代を出してまで使い続けることはほとんどないのだとか。

電気製品となれば、テレビや洗濯機のように新しいものへ買い替えが必要で、古いものは粗大ゴミとして処分することなどを考えれば、やっぱり生ピアノというのは価値や存在感からして違います。
上記のような中古であっても本物のピアノは寿命は遥かに長く、その気になれば何十年も使えるものがほとんどです。モノとしての価値はおよそ勝負にならないと思うのですが、それでも生ピアノというのはなかなか買う人がいないのは何故なんでしょう。

話が脱線しかかりましたが、マロニエ君の少ない知識と印象でいうと、日本はこの種の中古品に関しては、突出して恵まれた国だと思います。
大ざっぱに云っても諸外国では中古品の価値というものは、日本人が考えているよりはるかに高く、それだけ価格もずっと割高だという印象があります。その点、日本は中古というと何かやましいもののようなイメージがつきまとい、あくまで新品がエラくて無条件に好まれるというメンタリティの土壌があるのでしょう。

また、全般的にものを長く使うということがあまりなく、どんなにきれいでも要らなくなれば直ちに処分するとか、一定期間が過ぎると買い替えの対象になることが少なくありません。ともかく新品もしくは新しいものが大好きで幅を利かせる日本では、非常に状態の良い中古品の宝庫であもあるわけで、しかもそれらは一様に「中古」ということで値打ちがずいぶん下がるので、ジャンルによってはそこに目をつけている外国人も少なくないようです。

例えば車の場合、最近目にした専門誌の記述によれば、ドイツでは中古車の走行距離が10万キロ程度では、多走行の部類にすら入らないのだそうで、この一点だけでも彼我の違いに口あんぐりでした。
日本なら、中古車で10万キロといえば、ほとんど賞味期限の切れたボロ同然の扱いで、まともな商品価値はないのが普通です。

たしかにドイツのアウトバーンをはじめ、陸続きのヨーロッパでは高速道路網が発達しており、走行距離の数字だけで同じ判断をすべきでないという見方も以前はありました。いっぽう日本の道路は慢性渋滞で、高温多湿の中をノロノロ運転で、距離は伸びていなくても機械的なストレスが大きいなどとまことしやかにいわれたものです。
ところが最近では、エンジンや駆動系に強い負荷をかけて高速道路を飛ばしまくった車こそが最も傷みが激しいということが指摘されるようになりました。

まあ、そりゃあそうでしょう。ヨーロッパでバンバン飛ばしまくって、わずか数年で10万キロ走った車なんて、我々日本人が見たらかなりくたびれた車と感じるでしょうし、そんな車は日本人ならまず嫌がりますね。

というわけで良いものは日本にこそあって、しかもちょっとでも型落ちすればかなり安いみたいです。
実は以前から耳にするところでは、ヨーロッパから、ちょっと古い中古のドイツ車などを探しにわざわざ日本へやって来るらしいという話は耳にしていました。そして昨年のこと、マロニエ君の友人(関東在住)が乗らなくなったあるドイツ車を中古車店に預けていたところ、ドイツ人ブローカーがやってきて、見るなり望外の高値で購入、ドイツへ送る手続きを行なったというのですからウワサは事実として裏付けられてしまい、たいそう驚きでした。

やはりそれだけ、日本には外国人から見たら飛びつくような上物の中古品が安値でたくさんあるということなんだろうと思います。日本人の丁寧な扱いや、ちょっとしたキズでも許さないこだわりの民族性、それでいて新しいものが好きとなると、状態の良い中古品をぞくぞくと生み出すための条件が見事にそろっているのかもしれません。

というわけで、品目によっては良いものが手頃価格でゲットできる好機のような気が…。
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今どきの中古車店

このところ、輸入車専門の中古車店へ2軒ほど行く機会(購入ではなく)があったのですが、昔とはずいぶん様子が違っており、それぞれの店では車種や得意分野を絞り込み、厳格な商品構成がされている点が非常に印象的でした。
中古車店の在り方もまさに時代とともに変化しており、今昔の感に堪えませんでした。

ひとつ目の店は、すべての車が比較的高年式で、走行距離はすべて15000km以内のものに限られていることにまずびっくり。当然どの車もとてもきれいで、中古車というものにありがちな古さや使用感など、いわゆる人の手垢のついたネガティブなイメージというのがほとんどありませんでした。
さらには車種も人気のあるメーカー/モデルに絞られ、確実に売れるであろうものだけしか在庫もしないという徹底ぶりが窺われました。輸入車といっても珍車/希少車の類は見当たりません。

聞くところでは、ドイツの高級車でも、大型車の部類、あるいはエンジンが大排気量のモデルなどは、端から取り扱いをしないというあたりにも、今どきの購入者のニーズがはっきり見えるようで、その割り切りには時代の厳しさがにじみ出ているようで、思わず圧倒されるようでした。

つまりどんなにいい車でも、走行距離の多い車、大型車、大排気量の車は売れにくい=商売にならないということらしく、店頭に並ぶことはもちろん、仕入れることもないのだそうです。
もちろんごく一部の例外的な人気モデルなどでは少し条件が外れることもあるようですが、全体としては、おおよそ輸入車中古店の基本的な営業スタンスはこういう方向を向いているようでした。

昔の車好きは、その車に惚れ込んだらかなり情熱的かつ盲目的で、分不相応な車だろうとなんだろうと、買えるものなら必死になって購入して単純に悦に入っていたものですが、今の人達は車は好きでも基本が冷静で、実用性を重視し、駐車場の問題、周りの目、ランニングコスト、故障した場合の修理代などのリスクをトータルに考えて、いわゆる無謀な車選びはしないというのが主流のようです。

聞くところでは、たとえばメルセデス・ベンツでいうと大型車であるSクラス、もしくは3200cc以上の車は、それ以下のモデルに比べて売れ足が一気に鈍るのだそうで、今どきはあまり人気がないのだそうです。
だからそのあたりのモデルは、お客さんからリクエストがあるような場合以外は仕入れないし、むろん在庫はしない方針だと店長さんがキッパリ言い切ったのがきわめて印象的でした。

もうひとつの店は、ドイツ、フランス、イタリアの車をずらりと並べていましたが、価格はおしなべて100万円台、それもほとんどが150万円以下というものでした。
上記の店よりは多少走行距離も嵩んではいるものの、それでもせいぜい3~4万キロ止まりという感じで、どれもシャンとしていて決してくたびれた感じではありません。

こちらもやはり自店の売れ筋という基準を設けて、それにそった車のみを置いていることが一目瞭然でした。

昔は、輸入車を取り扱う中古車店というのは、一部の専門店を別にすれば、多くは何でも屋のような状況で、いろんな車が並んでいたものです。手頃なものから高級車/高級スポーツカーまで、なんでもありでしたし、とりわけ高額車はお店の看板商品でもあり、常にぐっと前面に出されていた感がありますが、それが現在ではすっかり様変わりして、安くて手頃なモデルなどに特化し、気軽なオシャレ感や現実性をアピールするという方向に変わってきていることを痛感しました。

さらには昔の感覚でいうと、全般にかなり安めの価格になっているようで、それだけ輸入車が売りにくい時代になっていることを物語っているようでした。
輸入車が贅沢品で、それでもどんどん売れていた時代は遠い昔の話です。加えてネット社会の到来で、個人が全国の中古車情報を網羅的にチェックすることも可能となり、競争は格段に厳しいものになっていったんだろうと推察されます。

おそらく世界的にも、ドイツをはじめとするヨーロッパ製の高級車の中古は、質・価格ともに日本が最も有利な買い物ができるという説もあるほどです。2つ目の店ではひと世代前のBMWの3シリーズで、かなり程度の良いものが5台並んでいましたが、ほとんどが150万円以下でした。これって軽の新車と同じ価格帯でもあり、思わずウーンと唸ってしまいました。

逆にいうと、日本車の軽やコンパクトカーって、相対的に結構高いんだなぁとも思った次第です。
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ロマノフスキー

少し前の放送でしたが、Eテレのクラシック音楽館・N響定期公演で、アレクサンダー・ロマノフスキーが登場しました。この人はベートヴェンのディアベッリ変奏曲のCDを購入して以来、マロニエ君がそれなりに興味を持っていたピアニストのひとりでした。
とくに目立った個性というほどではないけれど、しっかり感があって、涼しい感じのする演奏だったことが印象的でした。

演奏したのはラフマニノフのパガニーニ狂詩曲。
もっているCDは一枚きりで、それなりに聴いていたものの、演奏する姿を見るのは初めてです。

いきなり驚いたのは演奏前のインタビューのシーンで、コメント自体は別に大したことは言っていませんでしたが、大きな手の持ち主らしく、カメラの前でピアノの鍵盤に手を広げて見せてくれました。
するとオクターブからさらに5度上(もしくは下)、つまりドからひとつ上のソまで12度!届くわけで、さらに余った指で和音をならしたりできるようでした。大変な偉丈夫でもあったラフマニノフは、手の大きいことでも有名だったようですが、きっとこんな具合だったのだろうかと思います。

ピアノの鍵盤はどれもほぼ同じなので、老若男女から子どもから、手指の大小長短さまざまな人達が同じフィールドで指を動かすことに奮励努力しているわけですが、ロマノフスキーの大きな手を見ると、これは天が与えた大変な武器であり、もうそれだけで手の小さな人は出だしから不利だということを思わずにはいられませんでした。

そんな大きな手の持ち主なら、どれほどの体格の持ち主かと思うところですが、それはごく普通のロシア人にすぎず、いわゆる長身痩躯という部類の優男タイプで、袖口から出ている手だけが、体に対してふたまわりほど大きいような印象でした。
グールドもそうでしたが、体つきに対して、手首から先がバランスを欠くほど大きな人というのは、それだけでピアノを弾くことを運命づけられた特別な人のように見えてしまいます。

実際の演奏は、音楽的に特筆大書するほどのものではないけれど、普通にすばらしい、充分満足のいくものでした。
それよりもしみじみ思ったことは、やはりステージに立つ人というのは、誤解を恐れずにいうなら、まずはテクニックだと思いました。

ロマノフスキーの演奏を視聴していると、技巧に余裕がある(もちろんその手の大きさも彼の余裕ある技巧を可能にしている要素のひとつであることは言うまでもない)ために、あわてず、無理せず、追い詰められず、常にいろいろな試みをしようという余裕があることが伝わってきます。
自然に前に進んで行けるため、呼吸や音楽的な潮の満引きが奏者の心身の波長と重なり合って、すっきりはかどり、聴いている方も安心して音楽の旅に身を任せることができ、無用な不快感やストレスを感じずに済みます。

技巧に余裕のない人は弾くだけで手一杯で、そこに付随すべき表現とかアーテキュレーションなども、事前にしっかり準備したものを無事に披露することだけに全エネルギーが傾注され、即興性とか意外性、問答の妙味みたいなものが立ち入る隙がありません。結果的に魅力のない感興に乏しい演奏に終始してしまうのは当然です。

その点でいうと、ロマノフスキーとてむろんしっかりと練習を積んでステージに出てきた筈ですが、実際の演奏行為としては一期一会の反応や表現をそのつど試みてやっていることが感じられます。音楽という、一瞬一瞬の時間の中で生まれるものに携わる者として、どう音を発生させ、重ねたり展開させたり解決させていくか、そこで生じるさまざまな反応を試しつつ、その醍醐味を聴衆にも提供しているようです。

つまり圧倒的なテクニックは、創造的な可能性を広げるものだということを痛感しました。

音楽は演奏される現場で生まれるもので、そのための周到な準備は必要ですが、その演奏のどこかに「どうなるかわからない」という部分を孕んでいないものにはマロニエ君は魅力を感じません。過日、ヒラリー・ハーンの演奏について書いたのは、あまりにそういう要素に乏しいということでした。

オーケストラや共演者がどうくるか、ソロでも、ひとつのテーゼをその瞬間どう出たかによって、あとにつながる部分は変わってくるわけで、それらひとつひとつが反応して変わってくることが音楽の魅力の根幹ではないかと思われます。

感心したのはそればかりではなく、ピアノというのはやはり演奏者の奏法と骨格がストレートに反映されるものだということで、ロマノフスキーのような西洋人としては普通の体型で、やや痩身、しかも手が大きいというのは、もっとも美しい音を出す条件ではなかろうかと思いました。日本人では岡田博美あたりでしょうか。

あまり体格そのものが良すぎると、どうしても腕力でピアノを制してしまい、そうなると音が潰れて意外にピアノは鳴りません。また小柄な人や多くの女性では骨格が弱いため、どうしても必死にピアノに食い下がっている感じがあって、これらもあまり朗々と鳴ることは少ないです。

その点でいうと、ロマノフスキーの音は、とくに激烈な音などは出さないけれど、いつどこを聴いても明晰で、常に輝きと張りが漲っており、聞くものの耳へ労せずして音が届いてくるのは感心させられました。

つくづく思うのは、趣味がよく、技巧がとくに優れた人というのは、音楽が素直で、演奏もいい意味でサッパリしているということです。もちろん中には際立った指の動きに任せてスポーツ的に弾き進む人もないではないですが、全体的には、やはり上手い人は演奏ももったいぶらず、楽々と進んでいくのが心地良いと感じます。

あちこちで変な間をとったり、大見得を切ってみたり、聞こえないようなppで注目を惹いたり、音楽全体の流れを停滞させてまで意味ありげな強調をしたりするのは、たいていはどうでもいいような、ないほうがいいような表現のための表現であることが多いものです。
それは意図して自分の個性づくりをしているなど、元をたどれば、つまりは技巧に対する弱さをなんとか別の要素でカバーしようとしているにすぎず、本当にうまい人というのは、自然に自信もあるからそんな小細工をする必要がないのだと思われます。

それにしてもロマノフスキーとは、ロマノフ王朝を思わせる、なんとも豪奢で印象的な名前ですね。
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ウォールナットのD

前回のキット・アームストロングのリサイタルについては、途中からブレンデルに話が及んでしまい、もうひとつ大事なことを忘れていました。

なによりも珍しかったのは、実はピアニストではなくピアノのほうでした。
この演奏会では、浜離宮朝日ホール所有の艶消しウォールナット仕上げによるハンブルク・スタインウェイのDが使われていたのです。ここにそのピアノがあることは薄々知っていましたが、その全容をつぶさに見たことも、音を聴いたこともなかったので、その意味では思いがけず念願が叶ったというところです。

放送された当日だったようですが、たまたま友人と電話でしゃべっていると「今朝のクラシック倶楽部は、浜離宮の木目のピアノだった」と教えられ、一も二もなく見てみたものです。

期待に胸膨らませて再生ボタンを押したところ、なるほどウォールナットのDがステージに据えられています。
その結果はというと、ピアニストに続いてピアノのほうもマロニエ君の好みではなく、とくにピアノは期待が高かったぶんかなりがっかりしてしまいました。
日頃より、マロニエ君は木目のピアノに対しては、格別の魅力を感じているひとりです。現在手許にあるディアパソンも深い赤みを帯びたウォールナット仕上げである点も大いに気に入っている点ですが、そんな贔屓目で見ても、この木目のDは不思議なぐらいピンとこない印象でした。

やはり現代のコンサートグランドというのは、まずは黒であることが無難なんだろうかと考えさせられます。
とくに艶消しのウォールナットという外皮は、明るい木目があらわで、あえてピアノの外装の格式みたいなものでいうなら、ずいぶんくだけた装いなのかもしれません。
明るい木目でも、たとえばスタインウェイ社がピアノの素材構成を見せるために作った無塗装のシステムピアノのDなどは、ある意味とても洒落ているし垢抜けた印象さえあるのですが、このウォールナットはそれとも違い、木目なのに木目の明るさを感じない不思議な雰囲気でした。

家に置くピアノだったら、木目のピアノは文句なしに好ましく、黒はむしろ無粋だとも思いますが、ステージでは必ずしもそうとは限らないという事実をこのピアノのお陰でちょっとわかった気がしました。黒のほうがビジュアルとして遥かに収まりがいいし、ステージ用にはフォーマルであることも知らず知らずのうちに求められるのかもしれません。

それと、浜離宮朝日ホールのステージの場合、背後の壁も似たような色の木目調だったこともあり、ピアノが保護色のようになって茫洋とした印象をあたえるばかりで、ときおりステージの備品のように見えてしまうのは予想外でした。
また、Dはボディが大きいためか、木目であることが妙にナマナマしく不気味にも見えたことも正直なところでした。

楽器自体もずいぶん古いもののようで、このホールよりもずっと年長のようですから、きっと何らかの事情で中古として運び込まれたピアノなのでしょう。
マロニエ君はいつも書いている通り古いピアノは本来は大好きで、新しいものよりはるかにしっくりくる場合が多く、とくにコンサートで年季の入ったピアノが使用されることはむしろ望むところなのですが、このピアノの音はというと…どれだけ好意的に耳を澄ませても、残念ながら納得しかねる音でした。

スタインウェイのD型としてはもどかしいほど鳴らないピアノであることはテレビでもよくわかり、賞味期限切れのような貧しい音しか出ていないのは大いにがっかり。このホールには他に黒のDが2台あるようなので、このピアノはその外観と相まってフォルテピアノ的な位置づけなのでしょうか…。
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ブレンデルの影

BSクラシック倶楽部で、キット・アームストロングという若いピアニストのリサイタルの様子が放映されました。

台湾系イギリス人だそうですが、人間には勘働きというのがあるようで、冒頭のインタビューの感じからして、直感的にこの人はマロニエ君の好みでないだろうことが伝わってきました。そして実際の演奏もある程度予想通りのものでした。

この人はブレンデルに師事しているのだそうですが、さもありなんという感じで、プログラムの構成や演奏家としての理念の示し方まで、師の影響がありありと出ており、実際の演奏にもそれは随所に見て取れました。
現在23歳とのことですが、実年齢よりはるかに幼く見え、まるで中学生が巨匠のような表情でピアノを弾いているようでした。

演奏中は、バッハでさえ、見ているこちらの頭がふらふらしてくるほど上体を揺らしまくりますが、聞こえてくる音楽には面白さというか興味をそそるものがマロニエ君には見当たりません。やたら抑制的、くわえて、ところどころに巨匠風の表現などが盛り込まれるあたりは、いかにもこの人の目指すところが透けて見えるようです。

演奏アプローチが思索的表現を前面に押し出そうとしているわりには、さほど知的な薫りが漂う風でもなく、単に理論統制型の良心的演奏をアピールしているだけに聞こえてしまうあたりは、却って音楽家としての謙虚さにかけているような気もしました。正論のようなものを誰彼なく得意気に弁じ立てる人こそ偏っているように…。

ネットで探したプロフィールによると、ブレンデルは「これまでに出会った最も偉大な才能の持ち主」と言い、「ロンドンの王立音楽院から音楽の学位を、パリ大学から数学の学位を授与されている。」などとありますが、そんな言葉を連ねるよりも、演奏によって聴く者を説得できるかどうかが演奏家たるものの本分ではないかという気もします。

バッハもリストも、マロニエ君にとっては楽しめるところのない演奏で、この人のどこがそんなに世界中の期待と話題をさらうほどのピアニストなのか、まるきりわかりませんでした。
メフィスト・ワルツでの両手のオクターブの跳躍など、まさにブレンデルのそれでした。

そもそもブレンデルが、マロニエ君はいまだによくわからないピアニストです。
演奏それ自体が、学問の講義を聞いているようで、こういうアプローチが流行った時期がたしかにありました。質素を旨とし、まるで抽斗の中を小ぎれいに整理整頓したような小料理屋みたいな演奏が、そんなに立派なことなのかと思ってしまいます。
最盛期には作品の最も深いところを探求する学究肌のピアニストとして、いつしか最高位の音楽家であるようにもてはやされ、ミシェル・ベロフに至っては「自分がほしいものは、ポリーニのテクニックとブレンデルの音楽性」などとコメントする始末でした。

マロニエ君はこの当時からあまり好きではなかったけれども、しっくりこないのは自分の理解が及ばぬ故だと思い込んだ一面もあり、この人のベートーヴェンのソナタ全集だけでも3種類ももっていることが、今思えばすっかり評判に乗せられてしまった証のようで我ながら恥ずかしくなってしまいます。
しかし、最後の全集の折は、全曲揃わなくなることを覚悟して途中下車したことは、せめてもの自分の意思表示だったように思います。

引退後のブレンデルは後進の指導にあたっているのか、何人ものピアニストを自分色に染め上げていることが、少々気にかかります。クーパー、ルイス、オズボーン、そしてこのアームストロング。いずれにも通底するブレンデルの影を、それがいかにも本物の上質なピアニストである証左のように美化されて見えてしまうのは、なにか得体のしれない危機感を覚えてしまいます。

いかにもウィグモアホールあたりの常連ですよという演奏ですが、今にして思えばちょっと時代遅れのようなスタイルになっているような気もします。

だからといって特にブレンデルを嫌いだというわけではありませんし、さすがだなと思うことももちろんあるのです。ただ、マロニエ君の目には、努力の人という程度で、現役時代の彼の名声はいささか過大だったように思えてならないのだと思います。
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しらぬ顔

マロニエ君のように徹底して移動の手段をクルマに依存していると、ときどきは人を乗せるという機会があるものです。

そんなとき、今どきの流儀に著しく違和感を感じることも少なくありません。
せこい話だと思われるかもしれないけれども、昔とはずいぶん様子が変わってきたと思うシーンがあります。

外で人と会えば、流れでその人を車に乗せる状況になることは珍しくありませんが、マロニエ君に言わせるなら、車に乗せてもらう側にもそれなりの作法というものがあって然るべきで、実際、昔はそれはあったのですが、これが時代とともに衰退し、今はほとんどゼロに近いような状況に達してるというのが偽らざるところでしょう。

例えば出先で一緒になり、帰りに駅や家まで「送りましょう」となることがあるものです。
その際、車を有料の駐車場に止めていれば、昔なら間違いなくその駐車料金の支払いをめぐって一騒動があったものでした。
もちろんその騒動とは、「ここはワタシが!」「いやいや結構です!」「乗せてもらうんだからこれぐらい当たり前ですよ!」というような支払い合戦で、車の持ち主はこれをご遠慮というか拒絶するのが一仕事でした。人を何人か乗せて駐車場を出ようとすれば、助手席や後部座席から一斉に何本もの手が伸びてきて、それはもう数匹のコブラから狙われているようでした。

それがわかっているものだから、こちらの方でも予め小銭なんかを密かに準備して、サッと支払いができるようにするなど、今から思えばなんとも奥ゆかしいというか、麗しい美徳が互いに満ち溢れていたものだと思います。それが特別でもなんでもない、ごくごく普通の感覚でした。

それがいつ頃からだったかは判然としませんが、こういうやりとりはすっかり廃れて現在はほぼ絶滅に等しく、駐車場代を払わんがための攻防などまったくありません。それはもう、不気味なまでに静かでスムーズなものです。
今の人は、人の車に乗せてもらっても、遠回りして家まで送ってもらっても、あるいは迎えに来てもらってこちらの車で行動を共にしたとしても、その行為に対して言葉で「すみません」とか「おじゃまします」などの最小限の言葉が出るのがせいぜいで、実際の行動として駐車料金ぐらい出そうとする、あるいはせめてワリカンでという気持ちなど「微塵もない」ところはまったく驚くばかりです。

こちらが駐車場代の支払いをしていると、横でその作業が終わるのを静かに待っています。
こちらもちょっと送ってあげるからといって、それでいちいち駐車場代を払ってもらおうなどとケチなことを思っているわけではありません。ただ、普通の感性として、乗せてもらうからには、ささやかな駐車料金ぐらい出すのが普通で、これは専ら倫理やマナーの問題の筈ですが、そういったものが一切介在してこない乾き切った感覚が当然のように流れると、内心「…すごいな」と思ってしまうわけです。

こちらもむろん自分で出す気ではいるものの、せめて出そうとする態度ぐらい示したらどうかと思います。
電車やバスで帰ってもそれなりの料金はかかるわけで、これではまるまるタダ乗りということになるでしょう。もちろんタダ乗りで結構なんですが、そのどこかにお互い様の心の機微が機能しないことには、こちらの善意までちゃっかり利用されているみたいです。

はじめの頃は「なんという図々しさ!」「どういう感覚してるんだろう?」と呆れたりしたものですが、必ずしもそういう無作法をするような相手でもないし、それほど悪気ではないらしいこともしだいにわかってきました。しかし、わかってくるにつれ、さらに別の驚きが上塗りされるようでした。

要するにこう思っているんだろうと考えられます。
駐車料金(有料道路なども同様)などは車にかかるもの、よって、それらはすべて車の所有者が負担するのが当然で、乗せてもらう人間には一切かかわりのないこと。これらは車の持ち主の責任(あるいは負担)領域内で発生しているものであり、他人には無関係であるという、乗せてもらう側に都合のよい理屈だろうと考えられます。

同時に、その根底には、ここでちょっと知らん顔をしておけばそれで済むわけだし、わざわざ進み出て金を出すこともないという、あさましさがあることも透けて見える場合もあるのです。
実際には、ものすごくその人のイメージダウンになるわけですが、こちらもポーカーフェースを貫くわけですから、肝心のご当人には、そのイメージダウンがどれくらい深刻なのかはわからないままになるのでしょう。
たかだか数百円で、そんなに自分の値打ちを下げるなんて、そんな割に合わない事、マロニエ君なら嫌ですけれど。
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疲れさせない…

前回、バケッティの演奏によるファツィオリの音の印象を書きましたが、それはあくまでマロニエ君の個人的な印象であることはいうまでもありません。

ネットでのCD購入にあたっては、複数のアイテムを選んだ場合、ひとつでも入荷が遅れると発送は見合わされ、一定期間を経過したときにだけ、入荷を待つか、キャンセルするか、既に入荷済みのものの見送るかなどを選択することになっています。

今回はさらに入荷待ちのCDがあり、それ以外のものをとりあえず発送するという選択をしたために、バケッティのゴルトベルクを含めて3つのCDが送られてきていたのですが、最も興味をそそられるバケッティから聴きはじめました。

音楽というものは不思議なもので、はじめの5分でおおよその演奏の判断はつくもので、それが後に覆ることはないということはしばしば書いてきましたが、もっと大きなくくりで云うなら、CDの場合、通して何度か聴いているうちに若干の修正があったり、多少の理解が深まるとか全容がつかめるというようなこともあるため、マロニエ君の場合、よほど気に入らないものでない限りは、とりあえず4〜5回は聴いてみることにしています。

それもあって、バケッティのゴルトベルクもとくに自分の好みではないことは認識した上で、とりあえず3回ほど聴いたところ、さすがに疲れてしまい、これを一旦お休みにして一緒に送られてきた別のCDに取り替えました。

セルゲイ・シェプキンの新譜で、バッハのフランス組曲(全曲)などが入った2枚組でした。
出だしから衝撃的だったのは、シェプキンのバッハ固有な清冽な演奏もさることながら、スタインウェイの生み出すトーンのなんと耳に心地よいことかと思える点で、やはりこのメーカーが世界の覇者となったのは必然であったことをまたも悟らされることになりました。

いまさらマロニエ君ごときがスタインウェイの音の特徴を言葉にしてみたところで意味があるとも思えませんし、そんなことはナンセンスだろうと思いますが、それでもあえて一言だけ言わせていただくなら、なにより直接的な違いは、とにかく「耳に優しい」ピアノだと断言できると思います。より正確にいえば「脳神経に優しい」というべきかもしれません。

この点については、まるで別物のように言われる同社のハンブルク製とニューヨーク製のいずれにもはっきりと通底していることで、声が多少違うだけで、同一のアーキテクチャから紡ぎだされるそのトーンは、無理がなく、どれだけ聴いても神経が疲れるということがありません。音が楽々と空気に乗って飛来してくるようです。
スタインウェイ以外にも素晴らしいピアノはいろいろありますが、いずれも長時間、あるいは繰り返し聴くと、疲れたり飽きてきたり不満点が見えてきたりすることは不可避で、いずれもどこかに不備や無理があるのだろうと思ってしまいます。

そういえば思い出しましたが、もうずいぶんと前のことですが、エリック・ハイドシェックの宇和島ライブというのが話題になり、当時としてはきわめて高い評価を得ていたCDがありました。
マロニエ君もそのCDはすべてではないにしても、何枚か持っていましたが、その良さが今一つよくわからずに集中して聴いてみたことがあったのですが、どうもよくわからないまますっかり疲れてしまったことがありました。
記憶が間違っていなければ(確認もせずに書いてしまっていますが)、このとき使われたピアノが日本製ピアノだったようですが、なんだか耳に負担のかかるような音の砲列に疲れたというのが率直な印象だったのです。

その結果、無性に別のCDが聴きたくなって、とりあえずなんでもいいという感じで、手っ取り早くCDの山の一番上にあったのが弓張美樹さんのペトラルカのソネットでした。無造作にそのCDをデッキに放り込みましたが、出てきた音を聴いた瞬間、サッと血の気が引くほどそこに流れ出したピアノの音にゾクッとしたことを鮮明に覚えています。

このピアノは関西のヴィンテージスタインウェイの専門店が所有する戦前のニューヨーク製で、マロニエ君は個人的にはどちらかというと好みのピアノではなかったのですが、疲れるほど日本製ピアノの音を聴き続けた末に接したこのピアノの音は、まさに気品と落ち着きと自然さにあふれていて、スタインウェイの根底に流れるなにか本質的なものを、ひとつ諒解できたような気がしたものです。

というわけで、マロニエ君の良いピアノの判断は、音やハーモニーなどの個別具体的な要素のほかに、長時間の鑑賞に耐えられるかどうかということもかなり重要なファクターだと思っています。どんなに素晴らしいとされるピアノでも、1時間やそこらで飽きたり疲れたりするようでは、マロニエ君としては真の一流品とは思えないのです。
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バケッティとファツィオリ

アンドレア・バケッティというイタリアのピアニストの弾くバッハが評判のようで、ならばとCDを購入して聴いてみることにしたのはいつのことであったか…ネットから購入すると、ものによっては入荷待ち状態が延々と(ときに数ヶ月も)続いてしまうことが珍しくありません。

バケッティのゴルトベルクももう忘れていた頃ポストに入っていたので、それを見てようやく注文していたことを思い出す始末で、ならばと早速聴いてみるとことに。
実をいうとバケッティのCDはこれが初めてではなく、マルチェッロのピアノソナタ集というのを、こちらは曲のほうに興味があって以前購入していたのですが、よく知るバッハでこのピアニストを聴くのは今回が初めてです。

冒頭のアリアも、最近の平均的なテンポからすると少し早めで、まず感じたのは、硬質なピアノの音色とやたらと装飾音の多いこと、さらにはやや表面的で無邪気な演奏という感じを受けたことでした。

ピアノの音も明晰と聞こえなくはないものの、どちらかというと平坦で、深みやふくよかさみたいなものとは逆の単純な感じを受けました。
なにより気にかかるのはその固さであり、その演奏と相まって、しばらく聴いていると、どうしようもなく煩わしい感じに聞こえてしまうのには弱りました。
音に輝きはあるので、はじめはこういう感じのスタインウェイだろうかとも思いましたが、よくよくCDジャケットを見ていると、下のほうに豆粒みたいな小さな「Fazioli」の文字があり、ああ、なるほどそういうことか!と納得しました。

弾き方もあるとは思いますが、妙にパンチ感のある音の立ち上がりや、しっとりというか落ち着いた気配がしないメタリックな感じは、マロニエ君にとってのファツィオリの特徴のひとつです。
これを巷では色彩的などと表現されることを思うと、それが何に依拠するかよくわかりません。

いつも感じるところでは(以前にも書いたことがありますが)、マロニエ君の耳にはファツィオリの音は根底のところでヤマハを思わせる音の要素があって、そちら方面の反応の良さみたいなものがあるのは確かなようで、だから好きな人は好きなんだろうなぁと思ってしまいます。

それとバケッティの演奏も終始ブリリアントで娯楽的ではあるけれど、少なくとも聴き手を作品の内奥だとか精神世界に触れるような領域に連れ出してくれるタイプではないようです。いつも才気走っていて、でも全体が俗っぽいといった印象です。

ピアノ演奏に対して、快適で単純明快な音の羅列を求める人には、バケッティの演奏は好ましいかもしれませんが、マロニエ君の好みからすると憂いとか詩的要素がなく、いつも元気にかけまわる子どものようで、言い換えるなら、せわしなくおちつきのない こせこせした印象ばかりが目立ってしまいます。
ゴルトベルク変奏曲を聴いているのに、ちっともその実感がなかったのは驚きでした。

打てば響くような反応やきらびやかさを求める向きには、ファツィオリはたしかに最高のピアノとして歓迎されるのかもしれません。
ただマロニエ君から見ると、ファツィオリが単純にイタリア生まれのイタリア的なピアノかといえば、いささか納得できかねるものがあるのも事実です。イタリアの芸術のもつ太陽神的な享楽と開放、そのコントラストが作り出す光の陰翳、豊穣な色彩、宗教の存在、荘厳華麗でほとんど狂気的な喜びとも苦悩ともつかないような命の謳歌、それと隣合わせの死の薫り…そんなものがどうにも見つけることが難しい、掴みどころのないピアノという印象が何年経っても払拭されません。

そういうイタリア芸術のあれこれの要素をこのピアノから嗅ぎ取ろうとするより、もっと単純によくできた高級な機械としてわりきって見たほうがこのピアノの本質に迫ることができるのかもしれません。

マロニエ君の思い込みかもしれませんが、もしヤマハが手作業をいとわぬ労を尽くして、チレサの最高級響板等を使ってピアノを作ったなら、かなり似たようなピアノが出来るような気がしてなりません。
この両者に共通しているものは、日本の工業製品が極めて高品質だといわれながら、どこかに感じるある種の「暗さ」みたいなものかもしれません。

近年のスタインウェイが次第に均一な量産品の音になってきているのに対して、ファツィオリは量産ピアノ的性格のものを、良質の素材と高度な工法で丹念に製造することで挑んだピアノという印象でしょうか。

腕に覚えのある技術者がヤマハなどにあれこれの改造と技を施したピアノに「カスタムピアノ」というようなスペシャル仕様が存在していますが、どことなくそんなイメージが重なってしまうのです。基音がそれほどでもないピアノのパーツやディテールにこだわって、鳴らそう鳴らそうとしたピアノは、ある面で素晴らしいと思うけれど、どこかボタンの掛け違いのような印象を残します。

ファツィオリにこれだという決定的なトーンが備わらず、調整技術だけで聴かされているような印象があるのは、未だになにか大事なものが定まっていないからかもしれません。
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ハーンの完璧

Eテレのクラシック音楽館で、エサ=ベッカ・サロネン指揮、フィルハーモニア管弦楽団の来日公演から、ヒラリー・ハーンをソリストをつとめた、ブラームスのヴァイオリン協奏曲を聴きました。

いうまでもなく、ハーンはアメリカ出身の現代を代表するヴァイオリニスト。
彼女を上手いと言わない人はまずいないはずで、デビューしたころの線の細い感じからすれば、ずいぶんオトナになって、風格もいろいろな表現力も身につけたことは確かなようです。
ただ、これだけの人に対して申し訳ないけれど、マロニエ君の好みからすると、どうしても相容れないところが払拭できません。

いつも書くことですが、始めの何章節を聴けば自分なりの印象の「何か」が定まります。
マロニエ君ごときが演奏の評価というような思い上がったことはするつもりもありませんし、また出来もしませんが、それでも自分の抱く感想というのは、開始早々に立ち上がってくるもので、それが途中で変化することはまずありません。

ハーンは世界的にも最高ランクのヴァイオリニストのひとりとして、揺るぎない地位を勝ち得ており、そこへ敢えて歯向かおうという気はないのですが、あまりにも現代の要求を満たした演奏で、音楽(もしくは演奏)を聴く上でのストレートな喜びがどうしても見い出せません。

うまいすごいりっぱだたいしたものだとは思うけれど、いつまで経ってもしらふのままで、一向に入り込めないというか、酔いたいのに酔えない苦しさのようなものから逃れられないといったらいいでしょうか。
またこれほど聞き慣れた曲であるにもかかわらず、なぜかむしろ作品との距離感を感じ、どこを聴いても威風ただようばかりで音楽的なうねりや起伏に乏しく、要するに感心はしながら退屈している自分に気づいてしまうのです。

今どきは、世界的な名声を得た演奏家であっても、すべからく好印象を維持しなくてはいけないのか、高評価につながる個別の要素も常に意識し、演奏キャリアと同時進行的にプロモーションの要素も積み上げていかなくてはならないのかもしれません。
自分々々ではなく、オーケストラなど共演者全体のことも常に念頭においていますという態度がいかにも今風。謙虚で、視野の広い、善意の教養人として振る舞うことにもかなり注意しているようで、それらがあまりにも揃いすぎるのは、却って不自然で、作られた印象となるのです。

ハーンの直接の演奏から感じるのは、あまりにも楽譜が前面に出た精度の高さ、演奏中いかなる場合もその点を疎かにはしていませんよという知的前提をくずさず、それでいて四角四面ではないことを示すための高揚感のようなものも見事につけられていて、必要なエレメントをクリアしています。

昔ならこれはすごい!と感嘆したはずですが、いろいろな情報や裏事情にも通じてしまった現代人には、市場調査と研究を経て開発された戦略的な人気商品のような手触りを感じてしまうのでしょうか。

どう弾けばどう評価されるかという事を知り尽くし、その通りに弾ける演奏家というか、どんな角度からチェックされても評価ポイントを稼げるよう、すべてをカバーするための完璧なスタイルに則った演奏…といえば言い過ぎかもしれませんが、でも、やっぱりそんな匂いがマロニエ君のねじれた鼻には臭ってきてしまいます。

耳の肥えた批評家や音楽愛好家は言うに及ばず、ヴァイオリンを弾く同業者からの評価も落とさぬよう、徹底的に推敲を重ねつくした演奏という気がして、そういう意味では感心してしまいました。
たぶん、マロニエ君のようなへそ曲がりでない限り、このハーンのような演奏をすれば、まず間違いなく大絶賛でしょうし実際そうでした。

喜怒哀楽のようなものさえ節度をもってきっちり表現するあたりは、いついかなる場合も決して本音を漏らすことのないよう訓練された、鉄壁のプロ根性をもつ政治家の演説でも聞かされているようでした。
もちろん素晴らしい音楽家の演奏がすべて純粋だなどと子どもじみたことを云うつもりはありません。生身の人間ですから、裏では狙いやらなにやらがうごめいていることももちろん承知です。いろんな欲得も多々働いていることでしょう。
…でも、その中に真実の瞬間もあると思うからこそ、せっせと耳を傾け、何かを得ようとしているようにも思います。

ただアメリカは根っからのショービジネスの総本山でもありますし、それに追い打ちを掛けるように時代も年々厳しいほうへと変わりましたから、その荒波を勝ち抜いてきた人はやはりタダモノではないのでしょうね。

自分の手が空いているときは、いちいち愛情深い眼差しで指揮者やオーケストラのあちこちに目配りするなど、そのあまりに行き届いた自意識と立ち居振る舞いを見ていると、マロニエ君のような性格はそんな芝居にまんまと乗せられてやるものかという、反発心みたいなものがつい刺激されてしまいます。
心底酔えないのは、やっぱり根底のところに何かが強く流れすぎているからだと個人的には思いました。

冒頭のサロネンとハーンのインタビュー(別々)でも、やたら相手を褒めまくりで却って不自然でしたし、お互いに「次に何をやろうとしているかがわかる」などと、さも一流の音楽家同士はそういう高度な次元で通じ合うものだといわんばかりですが、あれだけ冒険のないスタイルなら、だれだって次はどうなるかは見えて当たり前だろうとも思いました。

もうひとつ驚いたのは、ハーンが「ブラームスの協奏曲では、オーケストラはただの伴奏ではありません」みたいなことを言いましたが、そんなわかりきったことをいまさらいうほど日本の聴衆を低く見ているのかとも思って、おもわず腰の力が抜けました。
インタビューの答えも紋切り型で、独自の感性や考えに触れる面白さのようなものは皆無でした。

ただ、ハーンの名誉のために付け加えておけば、それでも本当に上手いことは間違いないし、アンコールで弾いたバッハの無伴奏は実に素晴らしいもので、このアンコールでだいぶ下降気味だったこちらの気分が、ちょっとだけ持ち直したのも確かでした。
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苦行は楽しみ?

先週のこと、出かける支度でひとりバタバタしている際、家人が夕刻のテレビニュースをつけていましたが、そこで気にかかるものをチラチラと目撃しました。

ゴールデンウィークを目前にしたタイミングで、これからでもまだ予約の取れる格安の宿泊プランというようなもので、人気のホテルや旅館であるにもかかわらず、まだ予約が可能で、しかも格安という裏には何があるのか…という特集でした。

なにぶん急いで出かける準備中ということで、じっくり視たわけではないので、詳しいことは違っていたら申し訳ないですが、たとえばある熟年夫婦が格安料金で泊まることのできるホテルだか旅館だかに到着します。
本当かどうか知りませんが、この二人には格安の理由がこの時点では知らされていない由。

部屋に通されてみると、一見してやや狭いとわかるツインの部屋で、ベッドがかなり部分を占領しているようです。
窓からの眺めはというと、建物の裏手かなにかの絶望的な光景が広がり、安いのはそれらかと思われました。ところが、ホテル側からはさらにとんでもない仕事を言い渡されます。

この施設にあるゴルフ練習場の「ボール拾い」を命じられ、年配の二人は旅装を解くと早々に練習場に行かされ、見渡す限り、水玉模様のように転がっているゴルフボールを手や熊手のような用具を使ってバスケットに拾い集めなくてはならないとのこと。
それも少々のことでとても終わるような量ではなく、見ていてこの夫婦が無性に気の毒になりました。記憶が確かなら、こんなことをさせられるとは思わなかった…というようなことをボソボソ言っていたように思います。

ほかにも、かけ湯式の温泉で出てくる、温泉のアクだかヘドロだか知りませんが、それを底のほうからすくい集める仕事をさせられるというのもあり、それらは「泥パック」などとして旅館で売られるのだそうで、こちらも宿泊客がせっせとそれを掻き集める作業をさせられるというものでした。
あるいは足元もおぼつかないような竹林の急斜面を登って、タケノコ掘りをさせられるというのもあったようで、いずれもテレビ画面を見ている限りでは、いわゆる「お客さん」とは名ばかりの、屈辱的肉体労働をさせられるようで、マロニエ君にとってはちょっと笑えないものでした。

こんなことが、どんな前提でなされる提案であり、それを承知の予約なのかは知りません。ただ、その料金はというと、それほどの破格なものとも思えるものでなかったことが、さらに驚きでした。
いまどきですから、もしかするとお客さんの方でも、「格安」であることのお得感と、「行った先で何が待ち受けているかわからない」というところに冒険心のようなものを感じて「楽しんでいる」のかもしれません。
さらに、この時期の格安とあらば、いかなることにも耐え抜こうという悲愴な覚悟があってのことかもしれず、そのあたりの個々の参加者の心情まで正しくはわかりませんでした。

しかし、いずれにしろマロニエ君の眼には、到底受け容れられないものとしか映らなかったことも事実で、こんなことを楽しんでいるのだとすると、これは相当なMというか自虐趣味としか言い様がないと思いました。

今どきは、法に触れず、相手の同意さえあれば何でもアリの時代ではあるし、お客さんをもてなすプロ意識だとか、商売をやる上でのルールだとかご法度のようなものも、すっかり様変わりしてきているのかもしれません。
以前なら、価格云々の問題ではなく、こともあろうにお客さんに裏方の労働をさせるなんぞ、無銭飲食の罪滅ぼしぐらいなもので、通常は発想にもなかったことだろうと思います。

どんなスキャンダルでもいくら相当の宣伝効果があった、などといちいち換算して損得勘定するような社会ですから、ホテルや旅館側にしてみれば、お客さんを安くこき使った上に、話題作りにもなり、うまくすればテレビの取材対象にもなるとなれば、一石三鳥ぐらいなことかもしれません。

まあ、マロニエ君だったら端からそんなデンジャラスなことに参加しようなんて思いませんし、まかり間違ってそんな場面に行き合わせようものなら、ほぼ間違いなくそんなところは出てくるでしょうし、それを楽しみに転換させるような物分かりの良さとか柔軟性な感性は持ち合わせてはいないでしょうね。
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