居住地再編?

東京・沖縄を除く全国放送として人気の番組、「そこまで言って委員会NP」は世相を斬る番組の中では筆頭の影響力をもつ位置を確立していると思います。
各界の話題の人物がゲストに呼ばれるのはもちろん、安倍さんも昔からこの番組にはずいぶん顔を出していて、総理になってからも何度か出演されているのは多くの方がご存知のことと思います。

先日のこと、そこで興味深い発言がありました。
一時的に収まったかに思えた東京への一極集中が、ここへきて再燃しているのだそうです。

理由はさまざまのようですが、主なところでいうと、若い世代の人たちが不便なロケーションの一戸建てマイホームより、利便性の高いマンションでの快適生活を好む傾向がここ最近は顕著なのだそうです。
家をもつという情緒に見切りをつけた、より現実的な考え方のあらわれなのかもしれませんね。

さらに、その背景となる要因のひとつとして、地方や郷里に戻ろうにも仕事が無いことから、やむなく都市部での生活を強いられているという社会構造にも理由があるようでした。

これは今や800万戸を突破するという「空き屋問題」にもつながっているであろう現象で、田舎でのんびりといったら語弊があるかもしれませんが、ともかくそれぞれが生まれ育った土地で普通に生活を成り立たせるということが、現実として困難になってきているということも見過ごすことのできない問題であるようです。

小泉さんの時代の「聖域なき構造改革」で提唱された地方の活性化は、ほとんど機能しないまま終わってしまっているのか、都市部とそれ以外との改善の兆しのない二極化は今後どうなっていくのだろうと思います。

あるコメンテイターの話では、東京以外では、福岡・名古屋・仙台の3都市では人口が増加しており、それぞれのエリアでの一極集中現象が起こっているのだそうで、逆に大阪などは減少傾向にあるんだとか。

たしかにマロニエ君のまわりでも、近年はやたらとマンションが増えていることは紛れもない事実です。
古い家や建物は、取り壊され更地になったかと思うと決まってマンションかコンビニになるし、より規模の大きな、昔つくられたビルや体育館やホールなどの施設も惜しげもなく解体され、何が出来るのかと思えば、ほぼ例外なく無味乾燥な見上げるようなマンションになってしまいます。

そんな目で街中を見てみると、まあともかく驚くばかりにマンションが増殖乱立しており、しかも昔のそれに比べると規模が大きく高層化が進み、どれも竣工前に完売などという話を聞きますので(本当かどうか知りませんが)ただただ驚くばかりです。
完成すれば一挙に人が入って生活がはじまり、それでもまだあちこちに大きなマンションが建設中ですから、こんなことがいつまで続くのかと思います。

先日はマロニエ君の音楽の先生から聞いた話ですが、この方のお嬢さんが結婚され、数年前に川崎にマンションを買われたのだそうで、そのマンションというのが川崎の昔の工場地帯がマンション群になり変わったエリアにあるとのことでした。
むろん今時の例にもれず、数十階もある高層マンションばかりで、それがはじめのころ何棟かが立っているだけだったのが、行くたび行くたびにその数が増えて、今では文字通りの林立状態となり、いざ駅に降り立っても、はたしてどこが娘の暮らすマンションなのか、すぐにはわからず迷ってしまってかなわないという話をされていました。

人が大挙して越してくれば、それに付随するスパーやらなにやらの入るモールが作られ、あっちにもこっちにも大きなスポーツジムがあったりして、夜になると仕事帰りに多くの人がジムでせっせとなにかトレーニングをやっているのだそうで、とてもじゃないけどついていけない世界が広がっているという話を聞きました。

日本の人口は減っているというのに、ある地域だけがそんな勢いで人が増えているということは、それと同じ速度であちらこちらの過疎化が進んでいるということでもあり、はてさてこの国のかたちはどんなものになっていくのだろうと思います。
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続・ネット問答

ヤマハのSとスタインウェイの比較にも面白い回答がありました。
ここに書くことは、ひとつの答えではなく、いろいろな答えの中から印象に残ったものを集めたものですが、ある回答では、「ヤマハのSあたりになると全面ウレタン塗装となり、見た目は美しいが非常に硬度のある材質なので、果たして木材の呼吸にそれが相応しいかどうか疑問に感じる」「日本人は音楽の歴史が浅く、どうしても高価なピアノを美術品的に捉える傾向がある」のだそうです。ウーンなるほどと思いつつ、そもそもウレタン塗装ってピアノにとってそんなに高級でいいのかといきなり疑問です。

また、ピアノ運送の仕事をしているという方からの回答でしたが、これが含蓄に富んだおもしろい答えでした。
まず「製品精度としてはダントツにヤマハ」と太鼓判を押していました。
「必要があってパーツを取り寄せても、ヤマハは同じモデルなら一発で装着できるのに対して、スタインウェイなどでは年式やモデルによって調整や加工が必要だったりで、メーカーに問い合わせをしても「そっちで合わせろ」というような答えが返ってくる」とのことですから、ヤマハのそういう面での優秀さと確かさはやはりすごいものがあると思わせられます。

実際の運搬に際しても、「ミシリともいわないヤマハに対して、スタインウェイはゆるゆるで、製品としての頑丈さは文句なくヤマハです」ということでした。
しかし、つけ加えられていたこと(ここが重要!)は、「しかし、製品精度と感銘を与える音の響きは比例しない。」「仕事はヤマハのほうがしやすいが、音は個人的にスタインウェイのほうが好み」と言っているあたりは、運送屋さんながらピアノの本質がわかっていらっしゃるなかなかのご意見だと思いました。

以前、スタインウェイに心酔する関西の大御所に聞いたところによれば、スタインウェイはただのボディの段階ではゆるゆるに作られているそうで、フレームを組み入れ、弦を張ってテンションがかかった段階ではじめてすべてが収束し、ピアノにかかる全体のバランスがこのとき取れるようになっている、非常に凝った、奥の深い設計をしているということでした。だからボディだけの状態と、フレームを組み入れ弦を張った状態とでは、わずかに寸法さえ変わるのだとか。

氏はその事に関して「断崖絶壁のぎりぎりのところに不安定な椅子を置いて、それに座ってバランスを取りつつ平然とコーヒーを飲んでいるようなもの」と喩えたものでした。
それに対して、ヤマハはボディと支柱にいきなり蟻組などを施して、初手からガチガチに作り過ぎるからダメで、しょせんは大工仕事の発想で、楽器製作の根本がわかっていないと、その巨匠は熱く語っていたのを思い出します。

したがってスタインウェイの場合は運搬時、とりわけクレーンで吊って搬入するようなときに、間違ってもピアノの支柱(裏側にある大きな数本の柱)にロープをかけてはならないのだそうで、スタインウェイのことを良く知る運送会社は絶対にこれをせず、ピアノが括りつけられた台座ごとロープをかけるが、ときどき無知な業者がこれをやってしまって最悪の場合はピアノに深刻なダメージを与えるとも言われていました。

そこで思い出すのは、あるピアノ店のホームページで「スタインウェイを納品しました」ということで、マンションの上階へクレーンで吊ってD型を搬入している写真が掲載されていましたが、なんとピアノは搬入前に歩道で梱包を解かれ、大屋根さえ外した状態の丸裸の状態、しかも支柱にしっかり太いロープが巻き付けられた状態で空中につり上げられており、思わず背筋が寒くなってしまいました。

話が脱線しましたが、ヤマハのSシリーズとスタインウェイのどちらを購入するかで悩んでいる人というのは結構いらっしゃるようで、値段が倍以上違うのでそれに見合う価値が本当にあるのかといったところなんでしょう。おもしろいのは弾く本人は試弾してヤマハを気に入っているのに、音楽に興味のないご主人のほうがスタインウェイの音を敏感に聞き分けて、断然こっちだと言い出すケースもあるようです。

また、不思議なことに、ヤマハの高級機種は検討範囲であるのに、カワイのSKシリーズは視野にも入っていない例がいくつもあり、回答者の一人が、カワイのSKは弾くとかなり心がぐらつくので一度試してみてはどうかというアドバイスをしていました。やはり一般的にヤマハとカワイではお客のほうにも相当な意識の差があるというか、端的に言えば客層が違うということなんでしょうか?
すくなくともヤマハのユーザーにとってカワイは眼中にないようで、このあたりはカワイユーザーでもあるマロニエ君としては複雑な心境です。

訳がわからなかった回答としては、しきりにヤマハをすすめる人がいて、しかもその人はスタインウェイのBとベーゼンドルファーの225を持っているということでした。
この人のアドバイスは、高級輸入ピアノは維持費が大変だからヤマハをオススメというのがその理由で、ずいぶんと上から目線なご意見で、それ自体にも違和感を感じましたが、そもそもスーパーカーじゃあるまいし、維持費ってなにがそんなにかかるのだろうと思いますが、具体的にはなにも記述はされていませんでした。
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ネット問答

ネットを見ていると、ピアノ購入予定者がいろんな質問コーナーにいろんな質問を寄せていることがわかり、いくつかアトランダムに読んでみました。

たとえば数件見たのは、「ヤマハとカワイの違いは何か?」ということです。
それぞれに回答者がいろんな説明をしていますが、楽器としての特色や優劣にはこれといった決定的な回答はそれほど見あたりません。それだけ基本的には両者の実力は拮抗しているということかもしれません。

むしろ楽器それ自体がどうというよりは、ブランド力とか販売網や教室の充実度、一般的な信頼感、リセールバリューなどに話が及ぶことが多いような印象を持ちました。
意外だったのは、カワイを押す人には「音がいい(好き)、音楽的、低音が良く鳴る」といった意見が見られたのに対して、ヤマハを押す人は音や響きですすめる人はあまりなく、「信頼性、精度、安心感、弾きやすさ、数が多いので慣れている」などの理由が主流である点でした。

それでも強いて言うと、ヤマハは高音がきらびやか、カワイは暗いというような回答もいくつかあり、これはイメージとしてはわからないでもありません。
マロニエ君に言わせれば、普及品のグランドの場合はカワイのほうが個体差(調整の差?)が多く、やわらかい音色の良いピアノがあるかと思うと、ちょっとご遠慮したいような個体もあるけれど、ヤマハの場合はそういう意味では安定しているという印象です。
ただし「このピアノのこの音がいい」とことさら感じさせるようなピアノもなく、ほとんどが平均した水準はもっているという印象です。

専門家(たぶん技術者でしょうが)の意見も同様で、ヤマハの特徴は、音に関する言及はそこそこで、これという明確な言及はほんとんど見あたりません。むしろ製品としての確かさ、商品性、ブランド力などであり、わけても耐久力は圧倒的なものがあり、いまさらながら受験や音大生、あるいはそれなりのプロなど、膨大な練習量を必要とする人達のためのツールとしては、ちょっとやそっとの音の優劣を云々するよりも、強くて逞しいヤマハは最も頼りになるピアノのようですね。

また、カワイを推す人は、あくまでも音色などの好みで自分はカワイのほうが好きだが、それは人それぞれという主観が判断する余地を残して、ヤマハの非難はほとんどしていません。
これに対して、ヤマハを推す側は、ヤマハが良いのが当然で、カワイはダメだ格落ちだというような非難を堂々としているところが印象的でした。

グランドのレギュラーモデルの購入を検討している人達は、新品でも中古でも、わりにヤマハとカワイ(そしてたまにボストン)を比較しているようですが、高級モデルの話になると一気にカワイの名が挙がらなくなるのはどういうわけだろうかと思ってしまいます。ヤマハには高級というイメージもあるのだろうかと考えさせられてしまいました。

笑ってしまったのは、ラフマニノフのある作品を例にとって、その何小節目のフォルテが出せるか否かを、ヤマハ、カワイ、スタインウェイなどのあらゆるサイズのピアノを分類整理して論じ立てる人もいたことです。なんだか無性にくだらない気がしたものの、こんなことを真剣に論ずる人がいて、それを真面目に呼んで参考にする人がいるというのが妙な気持ちになりましたね。

実際に、ヤマハのSシリーズとスタインウェイだったらどちらを買うべきかというたぐいの質問がいくつもあって(そんなことを人に聞くのも妙ですが、おそらくは自分の好みよりも客観的な価値判断が欲しかったのだろうと思われる)、そこにシゲルカワイがほとんど出てこないのは不思議というほかありませんでした。

おそらくシゲルカワイの価値を認めている人は、一般論に惑わされることなく、本当に自分の耳や指先で判断している人達が多いのかもしれません。よって人の意見を求める必要もないのかもしれませんし、ましてやネットの質問コーナーに「どちらがいいか?」という質問をするような人は極めて少ないのかもしれません。

マロニエ君の印象でも、シゲルカワイを買う人は実際にはこのピアノに惚れ込んだ人が多く、他との比較があまり意味がないのかもしれません。
個人的には、ピアノ選びは同クラスの比較で検討するより、自分の好みや感性に響いてくるピアノを選びたいし、そうあるべきだと思っているのですが、受験とか練習目的のある人というのは、そういう自由な選び方をしちゃいけないのかもしれませんし、だとしたらピアノを買うというのはとても楽しいことなのに、なんともったいないことかと思ってしまいます。
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不幸中の幸い

広島空港で起こったアシアナ航空の事故は、その全貌が明らかになるにつれて驚きも増してくるようです。

天候その他の理由から超低空で最終進入し、滑走路脇の無線設備に接触しながら着陸したにもかかわらず、ひとりの死者も出さず、全員が生還しています。

通常、着陸したあとのオーバーランなどであれば、犠牲者もなく機体の損傷のみということはないことではありません。
しかし、いかに着陸進入中のこととは言え、まだ空中を飛んでいる段階で何かに機体が接触し、それが原因で事故が発生し、にもかかわらずひとりの犠牲者も出ないで済んだということは、これこそまさに僥倖といえるのではないかと、この点でとくに感心してしまいました。

事故以降の報道を見ていますと、滑走路脇の無線設備はアシアナ機の接触によって、かなり激しく損傷しているし、はるか遠くの草地で向きを変えながら停止した機体の左エンジン付近には、この無線設備のものと思われる何本ものオレンジ色の棒状のものが突き刺さっており、衝撃の凄まじさが偲ばれます。

また、マロニエ君はこのニュースを聞いたとき、滑走路のはるか手前に設置された無線設備に激突したということは、それがなければ滑走路手前の地面に突っ込んでいたのでは?と思ったものですが、翌日報道ヘリから撮影された周辺の映像によれば、アシアナ機はこの設備に接触した直後に、滑走路手前の草地のようなところにまず着地しており、その車輪による爪痕がはっきりと残っていました。

つまり無線設備に激突した直後にそのまま滑走路手前の地面に着地し、草地から滑走路へ乗り上げ、いったんは滑走路を西に進行しますが、再び左に大きく逸れて滑走路を逸脱、草地を爆走したあげく機体が停止した位置というのは、あとわずかで空港のフェンスを突き破り外に飛び出すまさに直前の位置でした。

詳しい事故原因がなにかはわかりませんが、状況から察するに、少なくとも事故発生以後だけの状況を見ると、幸運の連続だったのではないだろうかと思わずにはいられません。
通常なら、飛行中の旅客機が地上施設に接触などしようものなら、そのまま無事に着陸なんてできるわけもなく、凄まじいスピードと相俟ってバランスを崩し、でんぐり返ったり、機体が折れたり、火災が発生したりで、これまでに私達が目にした数多くの航空機事故のような事態におちいる可能性が高かっただろうと思います。

事故といえば脈絡もなく思い出しましたが、つい先日の深夜、所用で郊外へ出かけた際、帰り道をドライブがてら四王寺という小さな山を迂回するひと気のないルートがあるので、そちらを走っていたときのことでした。

カーブのむこうでヘッドライトの先にいきなり照らし出されたのは、ひとりの男性の姿で、手には懐中電灯をもち、道路脇に停車した車の脇に立って、しきりに走ってくる車の誘導のようなことをやっています。
何事かと思いつつ、あたりにはちょっと異様な気配が立ち込めて、事故らしきものが発生したらしいことがわかりました。引き返すこともできない状況なので、その脇を通過するしかなくドキドキしながら徐行して近づくと、なんとその車の前には、ある程度の大きさのある動物らしきものがぐったりと横たわっていました。

見なけりゃいいのに見てしまうマロニエ君の困った性格で、こわごわと目を右にやると、茶色の体毛に覆われたイノシシが車に轢かれて血まみれで絶命していました。
人気のない山裾の道で、夜でもあり、車も相当のスピードを出していたところへ運悪くイノシシが突っ込んできたのか、かなり凄惨な状況で、対向車線はかなりの距離(といっても20メートルぐらいですが)にわたって、血痕と肉片が飛び散っているのが夜目にもわかり、相手は人ではなかったとはいえ、交通事故とはかくも悲惨なものかということをあらためて思い知らされて、心臓がバクバクしてしばらくおさまりませんでした。

それと結びつけるわけではないですが、アシアナ航空の事故は、一歩間違えばそんなイノシシの事故どころではない、ケタ違いの大惨事になる可能性だってじゅうぶんあったわけで、それがわずかの偶然が重なることで地獄絵図にならずに済んだことは、なによりの慶事だったと考えなくてはいけないようにも思います。

「いそがばまわれ」というように、天候などによる視界不良が原因なら、なぜゴーアラウンド(着陸のやり直し)をしなかったのかという指摘が多いようですが、パイロットにも性格があって、それで安全運行に差が出るとしたら恐ろしい話です。

折しもセウォル号事故から一年のわずか2日前の出来事でしたから、多くの人が肝を冷やしたことでしょう。
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フォーレ四重奏団

ビデオデッキに録画されたままになっているものには、わけもなく手付かずの状態でずっとおいているものがありますが、その中にBSのクラシック倶楽部で2月に放送された驚くべきコンサートがありました。

昨年12月にトッパンホールで行われたフォーレ四重奏団の演奏会で、曲目はブラームスのピアノ四重奏曲第1番。
マロニエ君にとってフォーレ四重奏団ははじめて聞く名前で、てっきりフランスの室内楽奏者だろうと思っていたら、冒頭アナウンスなんと全員がドイツ人、しかも世界的にも珍しい常設のピアノ四重奏団とのことでした。

たしかに、ピアノ四重奏曲というものはあっても、ピアノ四重奏団というのは聞いたことがなく、これでは演奏する作品も限られるだろうと思いますが、今どきはなんでもアリの時代ですから、そういうものもあるんだろうと思いつつ、演奏を聴いたところ、果たしてその素晴らしさには打ちのめされる思いと同時に、一流の演奏に触れた深い充実感で満たされました。

まずなにより印象的なことは、ひとことで言って「上手い!」ことでした。
選り抜きの一級奏者が結集しているにもかかわらず、4人はみなドイツ・カールスルーエ音楽大学卒なのだそうで、これほどの実力が比較的狭い範囲から集まったということにも驚かされます。

メインのブラームスは、堂々としていて深みがあり、生命感さえも漲っています。細部の多層な構造などもごく自然に耳に達し、なにより音楽が一瞬も途切れることなく続いていくところは、聴く者の心を離しません。
巧緻なアンサンブルであるのはもちろんですが、よくある目先のアンサンブルにばかり気を取られた細工物みたいな音楽をやっているのではなく、4人それぞれが情熱をもって演奏に努め、秀逸なバランスを維持しながら、作品を生々しく現出させます。
必要に応じてそれぞれが前に出たり陰に回ったりと、本来のアンサンブルというものの本質というか醍醐味のようなものを痛烈に感じるものでした。

しかも全体としても、作品の全容が、素晴らしい手際で目の前に打ち立てられていくようにで、最高級の音楽とその演奏に接しているという喜びに自分がいま包まれていることを何度も認識しないではいられませんでした。開始早々、このただならぬ演奏を察して、おもわず身を乗り出して一気に最後まで聴いてしまったのはいうまでもありません。

ブラームスのピアノ四重奏曲は聞き慣れた曲ですが、これほどの密度をもって底のほうから鳴りわたってくるのを聴いたのはマロニエ君ははじめてだったように思います。知的な構築的な土台の上に聴く者を興奮させる情熱的な演奏が繰り広げられ、それでいて荒っぽさは微塵もなく、これまで見落としていた細部の魅力が次々に明らかにされていくようでした。

フォーレ四重奏団は、4人各人が個々の演奏の総和によってこの四重奏団の高度な演奏を維持しているという明確な意識と自負があるようで、普通はヴァイオリンの影に隠れがちなヴィオラなども、まったくひるむことなく果敢に演奏しているし、しっかり感に満ちたピアノも過剰な抑制などせず、思い切って演奏しているのは聴き応えがありました。

最近のピアニストは、指は動くし譜読みも得意だけれど、音楽的な熱気やスタミナを欠いた退屈な演奏が多すぎます。しかもそれを恥じるどころか、あたかも音楽への奉仕の結果であるかのように事をすり替えてしまうウソっぽさがあり、無味乾燥な演奏があまりに多いと感じるのはマロニエ君だけでしょうか。
とりわけ室内楽になると、アンサンブルを乱すなどの批判を恐れるあまり、どこもかしこも真実味のない臆病な演奏に終始して、それがさも良識にかなった高尚な演奏であるかのようにごまかしています。
このフォーレ四重奏団は、そんな風潮に対するアンチテーゼのような存在だと思いました。

稀にこういう大当たりの演奏に出くわすことがあるものだから、普段どんなにつまらない演奏で裏切られても、凝りもせずやめられないのだと思います。これは一種のギャンブル好きの心理にも通じるものなのかもしれません。

さて、またCD探しが始まりそうです。
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ドビュッシーの前奏曲

ドビュッシーの前奏曲といえば、フランスのピアノ音楽の中でも最高峰に位置づけられる傑作のひとつとして広く知られているものですが、マロニエ君はもうひとつこの曲集に近づきがたいものを感じていて、しっくりこないまま長い時間を過ごしてきました。

ずいぶんむかし、はじめてこの曲集のレコードを買ったのはミケランジェリの演奏で、その透徹した演奏や美音に感心というか、ほとんど服従に近いものがあり、長らく他のピアニストの演奏に触れる機会が少なくなってしまいましたが、その後はずいぶん種類も増えて、リヒテルも弾いていたし、近年では青柳いずみこやエマールなどをいちおう聴いてはいました。

それでもこの曲集に対する基本的な印象を覆すまでには至らず、ましてやポリーニのそれなど聴きたいとも思いませんでした。

そんなドビュッシーの前奏曲ですが、知人からおすすめCDのコピーを頂いた中に、フィリップ・ビアンコーニのそれがあり、これが思いがけず良かったことは嬉しい驚きでした。まずなにより、ハッとするような清新さと自然さをはじめてこの作品から感じとることができたように思ったのです。

この曲を弾く多くのピアニストは、ことさらドビュッシーを意識しすぎるのか、個々の違いはあるにせよ、掻い摘んでいうとしゃにむに印象派絵画のような仕上がりにしたいのか、ピアノという楽器の実態からあえて遠ざかるところに重きをおいたような、いささか芝居がかった演奏だったようにも思えます。
演奏は、演奏家の自然発生的に出てくるものなら聞き手の側にも自然に入ってくるものなのかもしれませんが、悪く云えば、ドビュッシーに同化する自分を演じているようで、本当に演奏者がそういう心境に達した上での演奏であったのか…となると、どうも鵜呑みにもできないような居心地の悪いものがついてまわる気がしていたというところでしょうか。
これがマロニエ君のこれまでのこの曲に対して(正確に言うならこの曲の演奏と言うべきかもしれませんが)、ようするにそんなふうな印象を抱いていたのです。

その点、ビアンコーニはもっとありのままというかストレートな音楽としてこの24曲を弾いており、そのぶん聴くものにも身構えさせない親しみが備わっているような気がします。なんというか、ようやくにして作品が、少しですが自分に近づいてきてくれたようでした。
つまりこれは、脚色されないドビュッシーというべきか、適当な言葉はよくわかりませんけれども、なんとなくドビュッシーがプレリュードで伝えたかったものは、こういうものだったのかも…と思えるような、そんな演奏に初めて接することができて、霧が少しだけ晴れてむこうの景色が少し見えたような気になりました。

音楽の演奏全般にいえることかもしれませんが、程よい自然さというか、要するに必然的な音の発生を感じるものには、それだけ好感を抱けるし、聴く者なりではあるけれど、曲を理解するについても最も早道になると思います。

ドビュッシーでいうなら過度なデフォルメをするのではなく、ラヴェルでいうなら過度なクールさを強調するのではない、音楽としての佇まいに対してもう少し作為的でない謙虚さのようなものを感じさせる演奏であってほしいと思います。

ピアノはヤマハが使われていますが、これがまたとても好ましく思いました。
というか、ドビュッシーには意外にもスタインウェイはまありフィットしないように思います。よくドビュッシー自身の言葉を金科玉条のように引用して、ベヒシュタインこそ最適なピアノのように言われますが、それもマロニエ君個人は心底納得はしていません。
ベヒシュタインの音はドビュッシーにはどこか野暮なところもあって、これが必ずしも理想とは思えない。

ただ、スタインウェイのすべてを語ろうというような豊穣な音色は大抵の場面ではプラスに作用するものの、ドビュッシーの和声や音色は、楽器から出た音がいったん聴くものの耳に入ったあとで、個々の感覚の中で遅れるように混ざりこみ収束していく過程が必要で、そのため楽器から出た瞬間の音はむしろ硬い、単調な音であるほうがいいのかもしれない気がするのです。
その点では少し前のヤマハは、現代的な音色と機械的な冷たさが、意外にもドビュッシーに合っている印象をもちました。

こんなことを書くとドビュッシーに詳しい方からは叱られるかもしれませんが…。
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アスリート

前回書いたピアノの先生のピアノ音痴(楽器としてのピアノに対する理解が恐ろしく低い)の続きをもう少し。

本当の一流ピアニストを別にしたら、ピアノを弾くこと教えることに関わっている、市井のいわゆる「ピアノ弾き」の人たちは、器楽にかかわる全般からみても、きわめて特殊な位置やスタンスを持っていることは間違いありません。

楽器の性格を推し量り、微妙な何かを察知し、長短を見極め、その楽器の最も美しい音を引き出す、またはそれらを弾き手として敏感に感じ取ろうとする…なんて繊細な感性はピアノ弾きにはまずありません。
わかるのはせいぜいキンキン音かモコモコ音かの違いぐらいなものでしょう。

ピアノの整備や修理は調律師という専門家がするもの(それもほとんどお任せ)で、自分はひたすら練習に明け暮れ、目指すは指が少しでも早く確実に動くこと。盛大な音をたたき出し、技術的難曲を数多く弾きこなすことで勝者の旗を打ち立てるのが目標であることは、むしろアスリートの訓練に近く、この点はなんのかんのといっても昔から改善の兆しはないようです。

家具や家電製品、パソコン、あるいは自転車やクルマのように、ピアノも一度買えば寿命が来て買い換えるまで使い倒す器具といったところではないでしょうか。「ピアノはしょせんは消耗品、だからこだわること自体が無意味だ」と公言して憚らない有名ピアニストもいるほどですから、この世界では楽器にこだわったり惚れ込んだりしないほうがクールでカッコイイわけで、当然、新しいものが最良のもの。
ごく稀に古いピアノのいいものなんかに触れるチャンスがあっても、自分じゃその良さなんてあんまりわからず、ただのくたびれたオンボロピアノのようにしか思えない。要は楽器の音を聞く耳というか感性が死滅してしまっているのかもしれません。

こんなタイプがほとんどといっていいピアノの先生に、こともあろうに楽器選びの相談をするなんて、マロニエ君には悪い冗談のようにしか思えないわけです。

人から聞いた話をふたつ。
ということでご紹介していましたが、差し障るがあるといけないようで、消去します。

もうひとつはあるピアノ工房での話。
そこには古いプレイエルがあり、お店の人によれば、これまでに多くの先生方が弾いていかれたけれど、いずれも良さがわかってもらえなかったとか。ほとんどの方がただバリバリ弾くだけで、プレイエルの音を引き出そうとはしなかったそうです。
そして評価を得たのは、工房内にある新品のスタインウェイだけだったとのこと。

この話をマロニエ君に教えてくださった方いわく、「私が弾いた感じではそのスタインウェイはまだ花が開いてない感じで鈍く、工房の中では一番つまらなかったのですが、ずいぶんと感じ方が違うんだなあと思ったものです。」とあり、まさに目の前にその先生たちの様子が浮かんでくるようでした。

……。
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先生に聞くのが一番…

インターネットでは、その膨大なユーザーを相手に、森羅万象の質問やアドバイスを求めることができるのは、いまさらいうまでもない現代の常識のひとつかもしれません。

「Yahoo知恵袋」などがその代表格でしょうが、みていると、ありとあらゆることが質問され、必ずと言っていいほどアンサーが寄せられて、中には一読しただけでも勉強になるような質の高い内容さえ見受けられるのは、多くの方が経験されていることでしょう。
しかもそれらは無料で無制限に利用でき、現代はよほど専門性特殊性の高いことでない限りは、パソコンのスイッチを入れキーボードを叩けば大抵の答えはそこからゲットできるようになっており、便利であるのはもちろんですが、どこかついていけない気にもなってしまいます。

もちろん、中には何の参考にもならないようなものもあれば、頭からふざけたような回答もあり、匿名性の高い世界ではこれは致し方のないこととしても、大真面目に熱心に寄せられた回答であるかかわらず、なんだこれは?と思うようなものがないわけでもありません。

ピアノに関するQ&Aはたまに覗くのですが、これからピアノを購入しようという人と、それに答える人たちのやりとりには、いろいろな現場事情や認識が見え隠れして唖然とするようなものも少なくなく、こんなところからも、世の中の人がピアノというものを概ねどのように捉えているかの一端を垣間見ることができます。

たとえば、子供にピアノを習わせるのに、将来いつまで続くかわからないことを前提に、いつどんなタイミングでどんなピアノを買っておけば損得両面において最もリスクが少ないかというようなもの。あるいは今勉強中の曲はこれこれと書いて、それぐらいだったらヤマハなら何を買うべきか、というようなものが多く見られます。
同様のものでもう少し具体的に書くと、ショパンのバラードやエチュードを弾くようになったら、あるいは受験にはやはりグランドじゃないとダメでしょうか?といった具合です。

さらに驚くのはアンサーのほうで、いかにも親切で誠実な調子の文章ではあるけれど、「私も音大受験を機に◯◯にしました」とか、「できればC3以上にしてください」「コンクールに出るなら、C7あたりか、予算が許せばスタインウェイ」など、練習する曲の難易度に比例してこれこれ以上のピアノであるべきといった内容が大手を振って並んでいます。

そこで取り交わされるやり取りを見ていると、不気味なほど音楽をやっている気配みたいなものがなく、体操の跳び箱の高さの話ばかりをしているようであるし、それに応じて使うべきピアノのメーカーやサイズまで決まっているかの如くの発言の数々には、おそらくこんなところだろうと予想はしていても、やっぱり具体的なやりとりを見ると、そのつど驚かされてしまうのです。

ショパンの何々、ベートーヴェンの何々、プロコ(この言い方が嫌い)の何々というのが、難易度の指針であるだけで、作曲家もしくは作品に対する冒涜のようでもあり、そうまでしてなんのために苦労の多い音楽なんてやろうとするのか、目指すところがまったく汲み取れません。

また購入にあたっては、いかにも説得力ある常識的意見として「ピアノの先生に相談してみるのが一番です」という意見は、一度ならず目にしたことがあります。素人があれこれと迷って楽器店のいいなりになるより、先生はピアノを長年弾いてこられたプロなのだから楽器のことも詳しい筈で、生徒の将来のことも考慮して選んでくださるだろうから、先生のアドバイスにしたがっていれば間違いないという主旨のものです。
それには、質問者の方も大抵は納得し、「それがベストですよね。ありがとうございました。」というような感じに話が収束してしまうのには、無知というものの喩えようもない虚しさを感じずにはいられません。

マロニエ君に言わせれば、ピアノの先生の多くはピアノのことなんてまったくご存知ない、むしろシロウト以下の人があまりにも多いという印象しかありません。中にはそうではない方も一部おられるかもしれませんが、それは例外中の例外であって、一般的平均的にはピアノの先生ほどピアノのことがわからない人たちも珍しいと思います。

音の善し悪しなどは、ピアノの先生のねじくれてしまった耳より、シロウトの方がよほど素直な感性をもっていて、何台か聴いていればその美醜優劣がまっとうに聞き分けられるのはまちがいありません。ピアノ技術者との雑談の中でも、先生の話が出るとみなさん決まって苦笑いになってしまいます。

それでもピアノ教師は、なまじ長年ピアノと係わってきただぶん「自分は専門家」という意識があり、だからピアノの見立てなどの相談にも臆せず応じてしまうようです。自分のピアノの良し悪しもわからないのに、それを自覚できておらず、人様のピアノ購入のアドバイスをするなんて無責任もいいところです。またそんな先生に自分の買うピアノを決められてしまうなんて、そんな無謀な話は考えただけでもゾッとしますが、これって結構あるんだろうなあと思います。

こうして、親、生徒、先生、楽器店といった本当に良いピアノを見極める能力や意志のない顔ぶれだけで事は決し、また一台無味乾燥で音楽性のかけらもないようなピアノが売れていくのでしょう。嗚呼…。
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プロ意識

マロニエ君の自室のビデオデッキはメーカーを誤ったのか、操作がやたら煩雑で、予約の仕方も消し方も未だにスイスイとはいきません。
ときどき昔の予約履歴の何かに引っかかってくるのか、まったく身に覚えがない番組が録画されていることも珍しくないので、ときどき番組を整理・消去するのですが、そんな中にNHKのドキュメントで歌手の北島三郎の公演を追った番組がありました。

本来ならまったく無関心どころか、むしろ甚だしく苦手なジャンルなのですが、ずいぶん前に友人から聞いた笑い話があったのをふと思い出しました。その友人の知り合いという人が、当時博多座にかかっていた北島三郎の公演にどうしても行かなくてはいけないことになり、はじめはずいぶん嫌がりながら出かけて行ったらしいのですが、結果はというと、その圧倒的な舞台を目の当たりにして「かなり感動して」帰ってきたんだそうで、予期せぬ変化に本人も友人も爆笑、そしてそれを聞いたマロニエ君も大爆笑でした。

いらい、そんなにすごい舞台とはいかなるものかという好奇心が頭の片隅に残っていましたので、これ幸いにちょっと番組を見てみることに。
北島氏は自身の舞台公演を長年にわたってやってきたらしく、前半は北島氏が主演、自ら脚本まで書くという芝居、後半は歌謡ショーという構成が長年のスタイルなんだとか。とりわけ歌謡ショーの舞台はこれでもかという絢爛豪華にして奇想天外なもので、見る者の度肝を抜くような仕立てで驚きました。そのための装置も相当のコストがかかっているらしいことは疑いがなく、これらは綿密な設計監修のもと川崎の専門工場で制作されているようでした。
近年は名門オペラの舞台でもコストダウンの波が押し寄せ、斬新なふりをした粗末な装置でお茶を濁す例が少なくないのに、一人の歌手のショーのためにここまでやるとは驚きです。
全国主要都市で40年以上続けられたというこの一ヶ月公演は、チケット完売も少なくないようで、今どき一夜のコンサートでも人が集まらないご時世に、いやはやすごいもんだと思いました。

観客はさすがに年配の方が大勢のようではありますが、その圧倒的な舞台とエンターテイメントに徹した作りは、まるでディズニーランドにも匹敵するような楽しさをチケット購入者に提供しているのかもしれません。

さて、なんのためにこんなことを書いたかというと、過日、このブログでベルリン・フィルのシルベスターコンサートに出演した老ピアニスト、メナヘム・プレスラーのことを書きましたが、それに連なる内容があったからです。

北島氏は50年連続出演した由のNHKの紅白を一昨年引退し、続いてこの一ヶ月公演にもついに自ら幕を引くのだそうで、番組はその最後を迎える公演に密着したドキュメントでした。
詳しい内情などはむろん知りませんが、番組を見る限りでは客足が遠のいたわけでないようで、固定ファン達はその公演の打ち切りをたいそう残念がっていましたが、それに関して北島三郎氏は(正確ではないけれど)おもに次のようなことを語っていました。

「そりゃあ、やりたいですよ。気持ちとしては止めたくないし、それこそ舞台で倒れるまでやりたいね。」「しかし、自分はプロとしてやっている。プロはお客さんからお金をいただいてやっているわけだから、そこでフラフラしたりみっともない姿は見せられない。だから辞める。」
つまりやりたいからやるというような甘っちょろい自由は、プロフェッショナルにはないんだという話しぶりで、マロニエ君は思わず膝を打ちました。

金額の多寡にかかわらず、プロと称する人たちの中には、人様からお金をいただくということの重みをまるで肝に銘じない、あるいはそもそも知らないような人たちがあまりに多く、平生苦々しく思っているところでしたから、この北島三郎氏の発言には拍手をしたい思いでした。
とりわけ歌舞伎役者など(全員とは言わないまでも)舞台人としては生涯甘やかされるばかりで、こういうことを一度でも考えたことがあるだろうかと思います。梨園に生まれたというだけで子役の時代から無条件に舞台を踏み、当たり前のように名跡を継ぎ、老いてセリフも忘れるほどになっても引退はせず、閉鎖社会ともいえる勝負性の希薄な舞台に立って、ぬくぬくと過ごすのが当たり前。
不倫をしてさえ「芸の肥やし」と許され、あげくに文化勲章をもらったり人間国宝に称せられたりするのは何なのかと思うばかり。

プロ意識というものの本質は、自らの裡に厳しいプライドをもって打ち立てられたものでなくてはならないことを、いまさらのように考えさせられました。
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中古品の地位

過日、リサイクルショップにまつわることを書きましたが、中古品に関しての認識は外国ではかなり異なる面もあるようです。

とはいってみても、すべてはマロニエ君が人から聞きかじった話なので、自分で経験したわけでもなければ、個々の検証ができていることではありませんが…。

ひとくちに外国とっても様々ですが、いちおうヨーロッパということに限定した上での話。
彼我の文化の違いからか、新品と中古品に関しては、相当感性が異なるのは間違いないようです。ヨーロッパはやはり伝統的に物質社会の繁栄以前からの脈々と続く歴史をもっているためか、印象としては、物を道具と割り切り、そこでは中古品もごく普通の選択肢であって、その頂点にいちおう新品もあるにはあるといったイメージなのかもしれません。

もちろん、食品や衣類ではそうとも言えない面が大きいとしても、食器や家具、車や家などは、驚くばかり中古品のオンパレードで、あくまで自分の生活スタイルや機能性・感性に合致し、かつ価格という部分で納得がいったら、本当に必要な物だけを慎ましく購入するようです。

いろいろなものが新たな使い手へと受け継がれていくのは彼らにしてみれば普通のことで、我々日本人のように、見ず知らずの他人が使ったと前歴を忌み嫌うというようなことは、あまりない(ゼロではないかもしれないが)ように見受けられます。
とりわけ食器などに至っては、日本人はどこの誰が使ったかもしれない中古の食器など、それを買って使うなんてことは普通まずないことですが、あちらの人たちはこのあたりもまったくに意に介さないようで、骨董のような趣で普通に使ったりするのには驚かされたことが何度もありました。

さらに家具、車、住居になればなるほど中古は当然の選択肢であって、中古家具!?と驚いたり、当然のように新車/新築を買い求める日本人なんぞは、もしかすると世界の非常識なのかもしれません。
マロニエ君は車やピアノに関してなら、自分が納得のいくものであれば中古でも厭いませんし、場合によっては中古のほうがよほど趣味性を追求できる場合も少なくありません。
ところが、世の中にはどんなに状態のいい、新品に近いようなスタインウェイの出物などがあっても、「中古」というだけで汚れたものであるかのように頑として受け付けず、新品を買ってしまうような人もおられるというのですから、このあたりの日本人の潔癖さときたらまるで昔の貞操観念並ですごいなあと思います。

ヨーロッパあたりでそんなことを言おうものなら、まあいろんな意味で口あんぐりされてしまうような気もします(むろん一握りの大富豪みたいな連中は別格でしょうけど)。

とにかく確かなことは、日本での「中古品」というものは、外国のそれよりも数段「地位が低い」もののようで、車の世界でも「壊れない日本車」の人気は当然としても、ドイツ製高級車なども、日本は中古になると値落ちが激しいから日本に買い付けに来る海外の業者が少なくないということを聞いたことがあります。

ピアノも、日本製の中古ピアノが物凄い勢いで海外に売られていくのが当たり前のようになってしまっていますが、その背景には日本でのピアノ需要の低下があるにせよ、そもそも中古品になるとその価値に見向きもしなくなる日本人の精神的特性も大いに関係しているように思います。

そうはいっても、マロニエ君もやっぱり生活必需品まで中古品を使うなんてできそうにもなく、そのあたりは民族性といえばいささか大げさかもしれませんが、体質的な部分でもあり、難しいなあと自分を含めて思うわけです。
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