心も春霞

すでに何度も書いたことですが、マロニエ君は日毎に空気が蒸して膨張してくるような春の到来が苦手で、今年もついにこの季節をむかえなくてはならない今がうんざりなのです。

春は喜びの代名詞のようで、概念としても良いことのように云われますが、現実的には本当にそうなのだろうかと思います。
マロニエ君に限らず、この季節を苦手とする人は知るかぎりでは結構多くいて、冬に馴染んだ身体は大気に温められて違和感を覚え、体調管理にもとくに気を遣います。春がいやだなんて現代病のひとつのようでもありますが、むかしのように花が咲いて蝶が舞う季節として無邪気に喜ぶことができない自分が自然に背いているようでもあります。

そうはいっても、世の中が活動的になる季節であることは否定しがたく、とりわけ先週土曜はそれを痛感させられました。車の感じを確かめる目的があって、午後四時頃だったと思いますが漫然と車で街中に出てみると、道がどこも混雑していてなかなかスムーズに走ることができません。

幹線道路は縦も横も車がひしめき合っており、これを避けようと都市高速に入りました。
福岡は都市高速の環状線があり、これを一周するのは結構な距離があるので、適当に走って適当なランプを出ればいいぐらいに軽く考えていましたが、ETCをくぐって本線に出てみると、意外やこちらも想像以上の交通量であることに少し驚きました。
しかし都心部を離れるにしたがって次第に道は空いてきたので、そのまま順調に(深く考えることもなしに)走っていると、突如として渋滞の最後尾が目前に迫り、電光掲示板にはこの先が「渋滞」であることを告げています。

「うわ、これはたまらない!」とばかりに最寄りのランプを出たのですが、果たして下の道はさらに大変な渋滞で、それでもまだ事の次第が呑み込めないマロニエ君はいったい何事かと思いました。
目の前にはヤフオクドームがあり、それを見て、どうやら野球の試合がはねたところに運悪くハマってしまったことに気づきましたが、とき既に遅しで、すべての方向が大渋滞となっていました。

野球観戦にいったいどれぐらいの人たちが訪れるのか一向に知りませんが、少々のコンサートなどとはケタが違うぐらいのことはわかります。野球に関心のないマロニエ君にしてみればまったく予想もできなかったことですが、この状況ではドームから流れ出た人たちの大波が過ぎ去るまでは、為す術のないことは察知できました。

諦めて渋滞の中でじっと耐えますが、それでも大変な渋滞で、もともと渋滞気味の街中の道路を避けて入ったはずであった都市高速環状線でしたが、まわりまわって最もハードな渋滞エリアへと落とし込まれることになろうとはまったく想像もしていなかったことでした。

どうにか渋滞の外に出たのは、それからどれくらい経ったころだったか正確な時間は覚えていませんが、かなりの長時間止まっては進みを繰り返したことは間違いなく、自宅に帰り着いた時には疲れでフラフラになってしまっていて、ついにその日は完全に回復できないまま終わりとなりました。
わざわざ外に出て、時間とエネルギーを使って、ガソリンをまき散らし、あげくに疲れて帰ってきただけでした。

これを読まれた方は、たかが渋滞ごときでなにを言ってる!と呆れられそうで、まあそれは確かにその通りなのですが、その要素のひとつとして春に入りかけの季節であったことも折悪しく重なってのことだったと思います。

春はなにかにつけて幕開けの季節ではあるのでしょうが、春霞という言葉があるように空気は決して清澄ではなく、まして花粉症だのPM2.5だのと良からぬ環境に身をさらすなど、これが苦手な身には甚だ厳しい季節ですから、どうしても警戒心のほうが先に立ってしまいます。
すでにあちこちでお花見もはじまっていて、やれやれという気分にしかなれないマロニエ君は、やはりよほど偏屈なんだろうなあと我が身を恥じ入る季節でもあえるのですが、いくら恥じ入ってもこれは生涯変わることはないでしょう。

春先に比べたら、猛暑でも真冬でも、よほど過ごしやすいと今年も思ってしまうマロニエ君でした。
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古本いまむかし

近頃はあちこちに古本店やリサイクルショップができているのが、やけに目につくようになりました。

古本店といっても昔の風情のあるそれとはずいぶん違います。
むかしあった古本屋は独特で、狭い店の奥には本にやたら詳しい店主がいて、そこに出入りするお客さんにも一種独特な趣があり、マロニエ君は決してこの雰囲気が嫌いではありませんでした。
とりわけ神田の古本街はさすがは東京と思えるだけの規模があり、古本というものが文化や学問のバックボーンとしても存在しているようなところがあって、新品では買えないような文学や美術の全集物、貴重な専門書なんかが紐で括られて魅力的な価格が付けられていたりすると、わかりもしないくせに心が躍ったものでした。

いっぽういまどきの古本店は、多くが郊外型のチェーン店で、マンガや雑誌や実用書などを中心とした品揃えで、ひとつの書籍が役目を終えて次の読み手を待っているといった気配はまったくなく、不要になった本の束を車に積んでゴミ同然のようにして売り買いされているようです。

驚くべきは、今どきの古本店には文庫本を別にすれば、きちんとした装丁の文学書や専門書などはほとんどないことです。美術書も同様で、重く大きく、置く場所も必要とする美術全集など、今や一般的には興味もニーズもないらしく、よほどの変わり者でなければ関心さえないものに成り果ててしまっていることが時勢として見て取れます。
稀にあってもウソのような安い値段がつけられていて、買い手のないものの哀れを感じずにはいられません。

マロニエ君は幼児体験もあってか、壁一面が本でびっしりというような環境が好きなので、とくに文学書などは全部読みもしないのに全集が欲しくなります。たしかに場所を取るのも事実で、いまどきの住宅事情や生活スタイルからすればこれらは大半が消滅していく運命だと思うと、なんともやるせない気分にさせられます。

何年か前、ネットで岩波の漱石全集を買いましたが、大きな段ボール箱2つにギチギチに詰め込まれた立派なものだったにもかかわらず、価格は1万円前後というものでした。ちゃっかり安く買っているのだから、つべこべ言う資格はないのですが、得をした気分と隣合わせに「なんたることか!」と憤慨したことがありました。

昔の古本屋には古本屋なりの文化の香りがあって結構好きでしたが、いまのそれはまったくの別物、リサイクルショップに至ってはさらに苦手です。人が使ったものだからということもないわけではないけれども、あれがもしガレージセールのようなものだったらさして抵抗はないと思いますが、毎日営業する店舗となると陰気でなんとなく気が進みません。

何度か覗いたことはありますが、いわゆる「掘り出し物」的なものはほとんどなく、システムの上できちんと整理され、価格も精査されつくしたもので、これだったら新品を安く買ったほうがよほどいいと思えるものが少なくない印象です。
周到に新品の最安値のさらにひとつふたつ下あたりを狙っているようで、中古品ということを考えると個人的には決して安いとは感じられないのです。

それに本であれ、リサイクルショップであれ、共通して苦手なのは、店内に入ったときの一種独特な臭いがプンと鼻につくことでしょうか。使われたモノ特有の、人の汗や脂や手垢が混然一体となった、犬の耳みたいなあの臭いにつつまれてしまうと理屈抜きに気持ちがめげてしまうのです。

一度など、友人がシリーズで探している本があるからというのでしぶしぶ付き合ったところ、帰り道、腕などがチクチクしてきて、これは間違いなくダニの類をおみやげにしてしまったようでした。

古いものを廃棄せず、大事に使いということは結構なことですが、世の中全体が慢性的な不景気におちいった象徴としてのリサイクルショップの乱立というのは、澱んだ時代そのものの証のようで、なかなか歓迎の気持ちにはなれそうにもありません。
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技術と才能

懇意にしていただいている調律師さんの中には、これまで他県で活躍されていた方もおられます。

その地域では、調律はもとよりホールのピアノの管理なども複数されていた由で、当然コンサートの仕事も数多く手がけられ、一部は現在も遠距離移動しながら継続している由です。ご縁があって我が家のピアノもときどき診ていただくようになりましたが、驚くほど熱心で密度の高いお仕事をされるのには感心しています。
しかしエリア違いのため、その方が調整されたピアノによるコンサートを聴いた経験は一度もなく、ぜひ聴いてみたいという思いが募るばかりでした。

そこで、もしライブCDがあれば聴かせてほしいと頼むと、4枚のCDをお借りすることができました。
いずれも第一線で活躍する名のあるピアニストのリサイタルですが、その中でもゲルハルト・オピッツの演奏会はとくに印象的でした。ピアノは1990年代のスタインウェイで、この技術者さんが管理されていたことに加えて、当日の調律も見事で、まったくストレスなく朗々と鳴っていることは予想以上でしたし、スケールが大きいことも印象的でした。

一般的に、日本の技術者のレベルはきわめて高いものの、どこか「木を見て森を見ず」のところがあり、いざコンサートの本番となるといまひとつピアノに動的な勢いがなく、どこかこぢんまりしたところがあるのは、何かにつけて我々日本人が陥ってしまう特徴のひとつなのかもしれません。
これは技術者が、つい正確さや安全意識にとらわれて、ある意味臆病になるためだと思います。マロニエ君は精度の高い基礎の上に、一振りの野趣と大胆さが加わるのを好みます。このわずかな要素にピアニストが反応することでより感興が刺激され、迫真の演奏を生み出す、これが個人的には理想です。

ところが多くの日本人技術者は比較的小さな枠内で作業を完結させる傾向があり、正確な音程と、まるで電子ピアノのような整った音やタッチにすることを好ましい調整だと思い込んでいる場合が少なくないのでしょう。ピアノ技術者の技術と感性は、究極的には職人的な才能と音楽性が高い接点で結びついていなくてはダメだと思うのは、やはりこんな時です。

最近は、見た目やマークは同じでも、演奏がはじまるや落胆のため息がでるような空っぽなピアノが多い中、久々にスタインウェイDによる、他を寄せ付けない独壇場のような凄まじさに圧倒されました。
優れた演奏によってはじめて曲の素晴らしさを理解するように、優れた技術者とピアニストを得たとき、スタインウェイはあらためてその真価をあらわすのだと思いました。

オピッツ氏も好ましいピアノに触発されてか、マロニエ君が数年前に聴いたときとはまるで別人のように、集中度の高い、それでいてじゅうぶんに冒険的で攻める演奏をしており、聴く者の心が大きく揺すられ、いくたびも高いところへ体がもって行かれるようでした。これこそが生の演奏会の醍醐味!といえるような一期一会の迫真力が漲っていることに、しばらくの間ただ酔いしれ感銘にひたりました。

CDを受け取る際、つい長話になってしまい、最後になってフッと思い出したように「あ、ぼく、一級の国家資格、受かってました」といってハハハと軽く笑っておられました。ずいぶん難しい試験だと聞いていましたが、すでに九州でもかなりの数の合格者が出ているらしく、そう遠くない時期に「持っていて当たり前」みたいなものになるのかと思うと、何の世界も大変だなあと思います。
曰く「…でもあれは、本当に技術者として一級云々というものでは全然ないですね。ただ単にその試験に対応できたかどうかという事に過ぎませんよ」と穏やかに言っておられたのが印象的でしたが、そのときマロニエ君が手に持っていたのは、まさにその言葉を裏付けるようなCDだったというわけです。たしかにコンサートの現場経験を積んで世間から認められることのほうが、はるかに難しいし大事だというのはいうまでもありません。

スタインウェイをステージであれだけ遺憾なく鳴り響くよう、いわば楽器に魂を吹き込むことのできる技術者は、マロニエ君の知る限りでも、そうそういらっしゃるものではありません。単なる技術を超えた才能とセンスがなくては成し得ない領域だからでしょう。
いまさらですがスタインウェイDは潜在力としては途方もないものを持っているわけですが、その実力を真に発揮させられるような技術者は本当にわずかです。

しかもそういう方々が、その実力に応じた仕事をする機会に恵まれているのかというと、必ずしもそうではない不条理な現状もあるわけで、ますます憂慮の念を強めるばかりです。

どんなに立派なホールに立派なピアノがあっても、肩書だけの平凡な調律師がいじくっている限り、一度も真価を発揮することなくそのピアノは終わってしまいます。中にはステージ本番のピアノに、まるで家庭のアップライトみたいな調律をして、平然としてしている人もおられますが、それでもほとんどクレームのつかないのがこの世界の不思議ですね。
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自分の楽器なら

先日のNHKクラシック音楽館でガヴリリュクを独奏者としたプロコフィエフのピアノ協奏曲第3番をやっていたのでちょっとだけ見てみました。
会場はNHKホール。ガヴリリュクは開始早々から、いささか過剰では?と思えるほどの熱演ぶりでしたが、さてそうまでして何を表現したいのやら狙いがもうひとつわからない演奏という印象でした。

上半身はほとんど鍵盤に覆いかぶさるようで、終始エネルギッシュなタッチでプロコフィエフのエネルギーを再現しようとしたのかもしれません。渾身の力で鍵盤を押し込み、湧き出る大量の汗は鍵盤のそこらじゅうに飛び散りますが、出てくる音としてはそれほどの迫力とか明晰さ、表現上のポイントのようなものは感じられません。

ガヴリリュクはあまり自分の好みではない人だということは以前から思っていましたが、この日は第一楽章を聴くのがやっとで、残りは視ないまま終わってしまいました。

音が散って消えるNHKホールであることや、録音編集の問題もあろうかとは思いますが、これほど汗だくのスポーツのような熱演にもかかわらず、ピアノ(スタインウェイ)が一向に鳴らないことも聴き続ける意欲を削いでしまった要因だったろうと思います。
鳴らないピアノの原因がなんであるかはわかりませんが、まるで押しても引いても反応しない牛のようで、かなりストレスになることだけは確かです。

それから数時間後、日付が変わってのBSプレミアムでは、パリオペラ座バレエ公演から、このバレエ団総出による『デフィレ』があり、ベルリオーズのトロイ人の行進曲に合わせて、バレエ学校の子供から、バレエ団の団員、さらにはエトワールまでが、ガルニエ宮の途方もなく奥行きのあるステージ奥からこちらへ向かって、バレエの基本的な足取りで行進をする演目は楽しめました。

なぜこんなことを書いたかというと、その『デフィレ』に続く演目は『バレエ組曲』で、舞台上にスタインウェイのDが置かれ、ピアニストが弾くショパンのポロネーズやマズルカに合わせてバレエ学校の生徒たちが踊るというものですが、この時のピアノがとても良く鳴ることは、前述のガブリリュクが弾いたピアノとはいかにも対照的でした。

ピアノのディテールから察するに、おそらくは30年前後経った楽器と推察されますが、低音などはズワッというような太い響きが遠くまでハッキリと伝わってきますし、全体的にもつややかな明瞭な音が健在で、もうそれだけで聴いていて溜飲の下がる思いでした。
このピアノをそのままNHKホールのステージにもってきたなら、ガブリリュクの演奏もやっぱり全然違っただろうと思わないではいられないというわけです。

よく調律師の説明に聞くフレーズですが、「弾き手は、鳴らないピアノでは、自分のイメージに音がついてこないため、よけいムキになって強く弾こうとする」といわれるように、ピアノが違っていれば、ガヴリリュクもあそこまで意地になって格闘する必要はなかったのでは?と思ってしまいました。

楽器販売に関わる技術者は、新しいピアノを肯定することに躍起になっているとみえて、新しいほうがパワーが有るなどと口をそろえて主張します。
それは新しいピアノ特有の若々しさからくるパワーのことで、これもパワーというものの要素のひとつとも言えるでしょうが、厳密に言うならピアノのパワーの本質というのはそういう局部的一時的な問題ではない筈だと思います。

べつに今の新しいスタインウェイを否定しようという考えはありません。マロニエ君にはわからないだけで新しいスタインウェイにしかない魅力もきっとあるのでしょう。しかし、少なくとも、かつてしばしば聴かれた芳醇で澄明で余裕に満ちたあのスタインウェイのサウンドというものは、その時代のピアノにしか求め得ないことだけは確かなようです。

もしも、ピアノが往年のホロヴィッツのように自分専用の楽器をどこへでも自由自在に持っていけて、少しでも気に入らなければ別の楽器に交換できるとしたら、きっとピアニストたちはこぞってお気に入りの楽器を探しまわり、それぞれの個性や美意識に基づいた調整を施し、それ以外のピアノには手も触れないようなことになる気がします。

そんな自由が与えられ、ステージという真剣勝負の場で弾く楽器を選ぶとなると、それでも新品ピアノを本心から好むピアニストがどれだけいるのか…これを想像してみるのは面白いことだと思いました。
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拾われた命

車にも運命というものがあります。

友人が古いメルセデス・ベンツのC240(W202)というのに乗っていましたが、勤めの関係などで普段ほとんど乗る機会がないという現在の生活パターンを考えた場合、それでも駐車場を借り、税金や任意保険を払いながら車を維持していくことにあまり意味がないのでは?という考えが濃厚となっている由のこのごろでした。

というのも今月で車検が切れるというタイミングでもあり、追い打ちをかけるように、数年間にわたる野外駐車が災いしてか、天井の内張りが落ちてきて、パッと目はわかりにくいものの触ってみると天井と内張りの間に空間ができています。これは内装屋できれいに張替えができますが約4万円ほどの修理費用がかかるとのこと。
車検費用に加えて内装の張替えなどが必要となり、ほとんど使わないものにそれだけの出費も負担に思えてきたようで、ここを節目についに手放す決心をするに至りました。

この車は1998年型で現在17年経過しており、新車から10年間は車庫保管され、その後は野外駐車となるも、走行距離は6万キロ台後半で、古いというだけで機関は至って快調で健康体の車です。

友人から廃車の手続きをしてくれる業者への連絡を頼まれたので、その手配をし、週明けには車を取りに来るばかりになっていましたが、そんなときになって「乗らないとはいえ、愛着もあり、どこも悪くない車を廃車(つまりはスクラップ)にするのは忍びないものがある」というような言葉を漏らしはじめました。

だったらもっと早く言えばいいのに!と思いましたが、悩んだ末の流れだったのでしょう。むろん気持ちは理解できるので、友人知人に「これこれのクルマがあり、車検はないが、車本体はタダでいいから乗ってみようという人はいないか?」と急ぎ何件か打診してみました。

その翌日、日曜だったこともあり、車関係の知人2人が問題のメルセデスを見てみようかということになり、マロニエ君宅に車もろとも集まることになりました。しばらく試運転などをしたところ、この時代のメルセデスならではの堅牢な作りとおっとりした身のこなし、ドイツ的な作り込みの良さからくる高品質感など、17年も経っているとは信じられないとその健在ぶりに、ストレートな感銘を受けたようでした。

この試乗でそのうちの一人の心はほぼ固まったのか、出てくる言葉はいつしかユーザー車検の段取りなどに及んでいます。

その後、オーナーである友人から書類と車の受け渡しへと話は正式にみ、めでたく新しいオーナーのもとでしばらく過ごすことになりました。17年という歳月の中でみると、翌日には廃車の手続きが始まる運命にあったこの車は、断崖絶壁ギリギリのところで再び車としての役目を与えられることになり、まずはなによりというところでした。

更に先週木曜には、新オーナーの手によってユーザー車検に一発合格し、重量税と自賠責の6万円ほどでともかく向こう2年間、天下の公道を走り続けることができるようになったようです。
マロニエ君も、長年身近に見てきた車が、とくに故障でもないのに鉄くずになってしまうのかと思うと、哀れなものを感じないわけではありませんでしたが、危ないところで拾われたこの車には、もしかしたら幸せの運が付いているようにも思います。

車やピアノのようなサイズと重量のあるモノは、たとえタダでも置き場の問題などがついてまわるために、相手にも受け入れる環境やタイミングというものが事を決する大きな要素となり、そのせいで泣く泣く処分されていくものも少なくないだろうと思うと、なんとも切ないものだと思いました。

知り合いの調律師さんの中には、ずいぶん小さな車で頻繁に高速での長距離往復をされる方がおられるので、高速走行を最も得意とするメルセデスこそうってつけではないかと話を向けたのですが、わずか数日前に「車検を取ったばかり」ということでこちらの手許に行く流れにはなりませんでした。

こういうことを考えると車やピアノって、つくづく「ご縁」なんだなぁと思わずにはいられません。
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がっかり

最近はいわゆるスター級の演奏家というのがめっきり出てこなくなりました。

これは音楽に限ったことではなく、芸術家全般はもちろん、政治家や役者なども同様で、そこに存在するだけであたりを圧倒するような大物はいなくなり、とりわけ音楽では没個性化と引き換えに技術面では遥かに平均点は上がっていることが感じられます。
音楽ファンとしては平均なんてどうでもいいことで、これぞという逸材を待望しているわけですが…。

この流れはピアニストも同様で、少なくとも現在活躍している中堅~若手の中でスター級のピアニストというのはどれだけいるでしょう。その筆頭はキーシンあたりだろうと思いますが、それ以降の世代では記憶を廻らせてもぱったり思い浮かばなくなります。

上手い人はたくさんいてもスターが不在という現状です。
むろん非常に好ましい演奏をするピアニストは何人もいるわけですが、しかしステージに存在するだけで有無を言わさぬオーラをまき散らし、名前だけでチケットが売れてしまうような人はほとんどいなくなりました。
そんな中で、マロニエ君がやや注目していた若手の一人に、ユジャ・ワンがありました。

この数年で頭角を現した彼女ですが、何年か前のトッパンホールで行われたリサイタルの様子は圧巻で、なかでもラフマニノフの2番のソナタは忘れがたい演奏でした。ここから彼女のCDを何枚か買ってみたものの、あまりに録音用テイク特有のお堅い演奏という印象で、期待するような魅力が身近に迫るところまでには至らず、協奏曲でもこの人ならではの輝きを感じさせるにも一歩足りず、もしかするとライブ向きの人なのかなぁと思ったりしていたものです。

そうはいっても最近のCDは制作コストの削減から、ライブ演奏をベースに制作されることも少なくありませんが、製品化にあたってレコード会社の修正が介入しすぎるのか、どちらともつかないような微妙なCDが多いとも感じます。

さて、先日のNHKクラシック音楽館ではそのユジャ・ワンが、デュトワの指揮するN響定期演奏会に登場し、ファリャのスペインの夜の庭とラヴェルのピアノ協奏曲(両手)を弾きました。
これまで、若手の中ではいちおうご贔屓にしていたユジャ・ワンでしたが、この日の演奏は期待ほどないものでがっかりでした。ひとくちに云うとなにも惹きつけるところのない内容の乏しい演奏で、ただあの無類の指を武器に弾いているだけという印象しか得られなかったことはがっかりでした。

それでもスペインの夜の庭のほうがまだよく、もともと捉えどころのない幻想的な性格の曲であるが故か、きっちりした技巧でピアノパートが鳴らされるだけでもひとつのメリハリとなって、なんとか聴いていられたわけですが、ラヴェルでは開始早々からこれはちょっとどうかな…という思いが頭をよぎりました。

経験的に、はじめにこういうイヤな影が差してくると、それが途中で覆るということはまずありません。
ユジャ・ワンの感性とこの曲はどこを聞いても焦点が合わないというか収束感がなく、終始ボタンの掛け違えのような感じでした。演奏前のインタビューでは13年前日本のコンクールで弾いて以来なんだそうで、そのときよりラヴェルの音楽語法もわかったし、様々な経験を積んでより自由に表現できるようになったと言っていましたが、実際の演奏ではどういう部分のことなのかまったく意味不明のまま。
彼女にしては珍しくあれこれの表情や強弱をつけてみるものの、それらがいちいちツボを外れていくのはまったくどうしたことかと思いました。
あの耽美的な第2楽章も、やみくもなppで進むばかりで旋律は殆ど聞こえず、どういう表現を目指しているのかまったく理解できないし、左手の3拍子とも2拍子つかない独特のリズムにも拍の腰が定まらず、終始不安定な印象を払拭できなかったことはこれまた意外でした。

健在だったのはやはりあの規格外の指の技巧で、この点では並ぶ者のない超弩級のものであることがユジャ・ワンのウリのひとつですが、それも音楽が乗ってこそのもので、技巧がスポーツのようになってしまうのは大変残念としか言いようがありません。

彼女は北京の出身ですが、現在もアメリカで学んでいるらしく、あの妙に円満な収まりをつけてしまう、いわば音楽的優等生趣味はそのせいではないかと思いました。もともとアメリカは西洋音楽の土壌がないところへ大戦などによって多くの偉大な音楽家がヨーロッパから移住した地ですが、それらは皆すでに功成り名を遂げた巨匠たちばかりで、アメリカそのものに西洋音楽の土壌があったとは言い難いのかもしれません。

そのためか、アメリカの音楽教育はどこか借りもの的というか、型にはめて画一化されてしまう観があり、個性や独自の表現を尊重し伸ばそうという度量や冒険性が感じられません。そう思うとユジャ・ワンのピアノにも「アメリカ的臆病と退屈」がその教育によって根を下ろしているようでもあり、納得と同時に、非常に残念な気がしてなりません。
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掃除は人柄?

よろず掃除というものは、大部分の人にとって進んでやろうとは思わない事だろうと思います。
稀に楽しくなって集中するというようなことはあるにせよ、できることならやりたくないというのが一般的でしょう。

それでも世の中には掃除が好きで生きがいのような方もおられる由で、掃除機も高価で高性能なものにこだわり、窓の桟の僅かなゴミも完全除去、トイレやシンクはギンギンに磨き上げ、水道の蛇口にはワックスがけまでする人もいるようですが、ま、そんな人は例外中の例外(と思います)。

TV のコマーシャルなども、やれ除菌だの消臭だのと、まるで世の中すべてが清潔できれいで、それが常識でしょ?と言わんばかりですが、さて実際の今どきの人の掃除嫌いのレベルというのは想像以上に深刻で、掃除嫌いのマロニエ君をもってしても閉口させられます。
とくに目につくのは女性のそれで、自分のビジュアルにはかなり気を使っても、掃除や整理整頓となると男顔負けの野放図で、生まれてこのかた掃除というものをしたことがないのではないか…と本気で思ってしまうケースがあまりにも多いことに愕然としてしまいます。

忙しく仕事をしている人間は掃除なんかしているヒマはないというのが一般的な言い分なのかもしれませんが、マロニエ君からみれば忙しいことをこれ幸いに口実としているだけで、端からその気がないことが見て取れるのです。
べつに本格的な清掃作業をやるわけでなし、ちょっとした心がけでできる事というのは実際にはたくさんあるわけで、本棚に積もったホコリをサッと備え付けのモップで払うとか、枯れた花は適当なタイミングで片付ける、出した道具は元の場所に片付けるといったことは、すべて心がけの問題です。

清掃会社が入っているような大きな会社はともかく、普通はちょっとした掃除や整理整頓を済ませてから何かをするというのは、それが勉強であれ仕事であれ、何かの製作であれ、料理をつくることであれ、すべてに共通した作法だと思います。
そもそもある程度きれいにした上でないと、いい仕事、質の高い作業はできません。
修業をするにも「雑巾がけから」というのは長らく日本人の心にあった基本姿勢だったような気がしますが、いまやそんなものはどこへやらという感じです。

外に向けて作り上げたもっともらしい姿とは裏腹に、一歩家に帰れば足の踏み場もないような乱雑不潔はけっして珍しいものではないのだそうで、なんでもが嘘っぱちに見えてしまいます。

そういえば最近は、個人の自宅にお邪魔するという機会もずいぶんなくなりました。
人と会うときは外で会い、自宅は「プライヴェート」とかなんとか言って、要するに他人を立ち入らせないエリアになり、それがさらに掃除をしない方向へと向かわせているのかもしれません。マロニエ君の目には、どんなに素敵な人でも、最低限度の掃除さえしないで平気でいられる人というのは、もうそれだけでだらしなく感じてしまいます。
これは決して封建的な感性でいっているのではなく、むろんそこには男女の区別もありませんが、だからたまに「普通に」掃除をしたり整理整頓する人を見ると、もうそれだけで一目置いてしまいます。こういうことはその人の品性や人柄など、心の在りように直結する部分だから、人格教養のもっともベーシックなことだと思うわけです。

掃除をしないのと対極にあるのが、一時期「断捨離」などという言葉が流行ったように、何でもかんでも物を捨てまくって、それで心を開放しリセットするというような考え方がありました。知り合いの奥さんに一人その手合いがいて、ご主人の話では郵便物から何から、あらゆるものを片っ端からズバズバ処分していくのだそうで、なるほど家の中はよけいなものが一切なくていやにスッキリしていました。
しかし、物事には程度というものがあり、スッキリも行き過ぎると、その雰囲気は寒々しい殺風景なものとなり、却って落ち着かない感じがしたのも事実で、きれいといえばきれいだけれど、なんだかニトリのカタログでも見ているようでした。

「ほどよさ」というバランスは、よほど難しいものなんだろうかと思います。
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引退か現役か

昔の大晦日はベルリン・フィルのジルベスターコンサートを生中継でやっていましたから、毎年これを見るのが習慣でしたが、いつごろからだったか、この番組はなくなってしまいました。
アルゲリッチ/アバドによるR.シュトラウスのブルレスケを初めて聴いて感激したのもこの大晦日(正確には元日)の夜中だったことなどが懐かしく思い出されます。

現在はおそらく有料チャンネルなどに移行したのだろうか?と思いつつ、マロニエ君宅にはそんなものはありませんから、いつしかこのコンサートは自分の前から遠のいてしまったようでした。

つい先日、2014年の大晦日に行われたラトル指揮の同コンサートの模様がNHKのプレミアムシアターで放送されましたが、その中から、メナヘム・プレスラーをソリストに迎えたモーツァルトのピアノ協奏曲第23番について。

メナヘム・プレスラーが半生をかけて演奏してきたのは有名なボザール・トリオであったことはいまさらいうまでもありません。
その素晴らしい達者な演奏は名トリオの名に恥じないもので、中でもピアノのプレスラー氏はこのトリオの立役者であり、その功績の大きさは大変なものです。彼なくしはこのトリオは間違いなく存在し得なかったものといって差し支えないでしょう。

50年以上の活動を続け、2008年にトリオは解散。その後のプレスラーは人生の晩年期にもかからわずソロピアニストとしての活動を始めます。近年でも思い出すのはサントリーの小ホールでのシューベルトのD960や、庄司紗矢香とのデュオなどですが、残念ながらマロニエ君はそれほどの味わいや魅力を感じるには至りませんでした。
ボザール・トリオの時代の自由闊達、円満で音楽そのものの意思によって進んで行くようなあの手腕はどこへ行ったのか思うばかりでした。

今回のモーツァルトのピアノ協奏曲では必要なテンポの保持さえも怪しくなっており、痛々しささえ感じてしまいました。あのエネルギッシュな快演を常とするベルリン・フィルも普段とは勝手が違っているようで、この老ピアニストの歩調に合わせようと努力しているのがわかります。

でも、音楽というのは、こうなるともういけません。
一気にテンションが落ちてしまいつつ、高齢の巨匠に敬意を払ってなんとか好意的に受け止めようとしますが、それは殆どの場合むなしい結果に終わります。とりわけ最盛期の活躍が華々しい人ほど、それが聴く人々の記憶にありますから、よりいっそう厳しい現実を突きつけられるようです。

すでに御歳90を超えておられるわけですから、個人としてみればもちろん信じ難いほどに大したものだと思います。しかし厳しいプロの音楽家として見れば、もはやこういう大きなステージでの演奏をやり遂げることは厳しいなぁと思わざるを得ません。

巷間「離婚には、結婚の数倍ものエネルギーが要る」といわれるように、プロ(しかも一流になればなるだけ)の引退はデビューよりも難しいものかもしれません。できれば、まだまだやれると誰もが思えるだけの余力を残した時期に、惜しまれながら引退することが望ましいように思いますが、最近はそんな引き際の美学も失われているような気がします。

ハイフェッツ、ワイセンベルク、最近ではブレンデルなどはきっちりと引退の線が引けた人ですが、マロニエ君の知る限り、最晩年に真の感銘を与えてくれた唯一の例外では、ミエスチラフ・ホルショフスキーただひとりです。
ただ、だれもがホルショフスキーのようにはいかないのが現実というものでしょう。
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買えない加湿器

冬場はヒーター多用のため、我が家では数台の加湿器を使っていますが、そのうちの1台が古くて調子がおかしくなってきたために、1台新しく買うことになりました。

ところが、ホームセンターに行くと、加湿器らしいものが1台もなく、別の店に行っても同様でした。
ついこの前までは、大小いろいろの加湿器がズラリと並んでいたように思うのですが、ウソみたいにひとつもないのです。
たかが加湿器、買えば済むことと思っていましたが、どうやらそれが甘かったようです。

あらためてある店(最もたくさん売っていた記憶がある)に電話してみたところ、家電売場の担当者によると「もうなくなりました。今季はもう入ってきません。」とあっさりいうのにはびっくり。
桜の咲く頃ならともかく、これは2月の後半のことで、まだまだヒーターを使いまくっている真っ最中であるにもかかわらず、加湿器の販売は終了したというのです。

しかも、どこの店でも同様ということがわかってくるにつれて、この足並みの揃い方に異様さを感じて思わずゾッとしてしまいました。ナマモノではあるまいし、たかだか加湿器の1つや2つあってもよさそうなものと思います。
というか、以前はこんなことはなく、春前まで普通に売っていましたし、そのころちょっと安くなったのを買った記憶もあったぐらいですが、現在では商品自体が売り場から一斉に姿を消してしまい、買うべき時期に買わなかったらもう手に入れることもできないということのようです。

こんなところにも、世の中がちょっとした余裕もない厳しい環境へと年々なりつつあることを感じないではいられません。
追加で入ってくる予定は「ない」のだそうで、メーカーから入ってこないから仕方がないというようなことを言っていましたが、それはどうでしょう…。
メーカーは何であれ売りたいのが基本ですから、店が必要だといえばすぐにも商品を納入してくるはずですが、季節ものは後半になると売れ行きが落ちるため、店側が拒絶するのだろうと思います。
売れ残りの在庫を抱えてディスカウントするより、確実に売れるだけの数に絞って完売にする道を選んでいるといった気配を感じましたし、そのほうが商売としても無駄を出さずに効率的だということなんでしょう。

…だとしても、なんという慌ただしさかと思います。

今どきはなにかにつけてこうなので、買う側もぐずぐずしていると、このように買いそびれてしまいます。たかだか家電製品ぐらいでなんでそんなにピリピリしていなきゃいけないのかと思いますが、世の中がこぞってそんなふうになってくるのはどうしようもないわけです。

これが正月ものとかバレンタインというならまだわかりますが、そういえば、昔に比べたら売れ残りのクリスマスケーキなどもゼロではないとしても、以前に比べたら激減しましたね。
とにもかくにも、いかなるジャンルも商売が厳しくなり、わずかの無駄をも嫌い、極限まで切り詰めたやり方をしているのは間違いありません。

加湿器は、唯一残っているのは電器店などにある多機能ハイブリッドなどのやたら高い機種だけでしたが、マロニエ君が欲しいのは最もベーシックなやつで、金額にして5000円以下のものなので、それをむざむざ買う気にもなりません。
とにかくどこにも売っていないからネットで調べて見るかとも思いますが、そうこうしているうちに3月になってしまい、あと少しこれで粘れば要らなくなるという気もしなくもありません。

何事も、表向きは便利な世の中になったようになってはいますが、同時に油断のできない、常に気を張っていなくちゃならない、ゆったりできない時代になったものです。
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主なき文化施設

NHKのクラシック倶楽部を見ていると、まわりが田畑に囲まれた住む人も決して多くはなさそうな田園地帯に、ずいぶん立派なホールや複合文化施設が建てられていることに驚くことが少なくありません。

さすがに近年の節約ムードではそうもいかなくなったでしょうが、一昔前までは、こうした使われる当てもないような文化施設が税金を使ってこぞって建設されたことは間違いないのでしょう。不景気というのももういい加減イヤですが、しかしこういう無謀なお金の使い方がまかり通る時代も遭ったかと思うと、なんとも複雑な気分です。

文化振興という名目で、見上げるような立派な施設は出来ても、実際の稼働率は驚くべき低さだそうで、維持費の捻出さえ怪しくなっている施設が無数にあるのかと思うと、ため息が出るばかり。ホールを作れば当然ピアノも必要ということになり、まともに弾かれることもないようなスタインウェイなどが納入されるものの楽器庫の中で虚しい時間を過ごしているようです。

ある方から聞いたことですが、田舎のホールでは管理者側のピアノの維持管理に対する認識はまったくのゼロといっていいのだそうで、中には輸入元が定めた技術者が保守点検することもなく、近隣の楽器店がときおり調律をするだけという事例もあるようです。
こうなると楽器のコンディションは年々低下し、たまさかコンサートというときにはピアニストが弾くのを嫌がって、やむなく別のピアノを遠路はるばる運びこむなどという一幕もあるようで、こんな馬鹿な話はないでしょう。

ピアノは一流品があまりにも無慈悲に酷使されるのも痛々しいものがありますが、逆に弾かれることもなく、長い年月のほとんどを眠っているだけのピアノというのも物悲しいものです。
そのいっぽうでは、一部のメジャーなホールでは数年ごとに新品ピアノに入れ替え、ようやく旬を迎えつつあるようなスタインウェイが、リハーサル用などに下げ渡されていくというのですから、これもいい気持ちはしません。ピアノのわかるピアニストの中には、ステージ用よりリハーサル室のピアノのほうがよほど好ましいと漏らすこともある由で、世の中おかしなことだらけです。

さて、冒頭の話題に戻ると、こうした地方の田舎に突如建設された文化施設やホールでは、年に一度ぐらい文化事業をやっていますよという、税金を使った言い訳のためのイベントをやらなくちゃいけないのか、なぜこんな場所でこういうコンサートがあるのか、よくわからないような演奏会があるらしいことをクラシック倶楽部を見ていて感じることがときどきあるわけです。

もちろんマロニエ君はクラシックのコンサートが特別なものとは思いませんし、ましてやこれに来る人が高尚な人たちともまったく思いません。高尚どころか、ものによっては逆の場合も珍しいことではなく、ばかばかしいようなものも少なくはないのも現実です。

ただクラシック音楽というものが、一般的にだれもがすんなり馴染めて好まれるものかというと、そこにも一片の疑問は残ります。演奏の質や魅力はさておいても、やはり取り扱う作品そのものは本物の芸術作品ですから、普段まったくクラシックとご縁のない人がパッと聞いて直ちに興味を覚えたり素晴らしいと感じるかというと、そんな瞬間がゼロではないにしても、やはり一定の経験を積んで楽しむに至る下地が求められることも否定できません。

プログラムも問題で、TPOというものをまるで欠いた、聴く人のことを考慮しない専門性の高い作品を無遠慮に並べるとか、逆に聴衆をバカにしたようなベタベタな名曲集のようなものになるなど、開催する側、あるいは演奏者達のセンスにも大いなる疑問を感じます。
すべてがこんな調子なので、そんなコンサートが支持されるはずもなく、莫大な費用をかけた施設やピアノは、当初の目論見通りに文化貢献をしていると言えるものはどれぐらいあるのか…、ただ時が流れ、朽ち果てるのをまっているだけかもしれません。

喜んだのはそれに携わった当時の建設会社やお役人、楽器販売店などでしょうが、こんなことが可能だった頃が世の中も好景気だったのかと思うと、なんとも複雑な気分です。
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