ディーゼル

ヨーロッパで走っている乗用車の大多数はディーゼルエンジン搭載車です。
ディーゼルエンジンとはガソリンの代わりに軽油を燃料とし、日本ではほとんどのバスやトラックがこれを使っていて、あのガラガラという特徴的な音はこのディーゼルエンジンならではのもの。

ヨーロッパのディーゼル志向は少なくとも30年以上続いているものと思われ、メーカー各社はどのモデルにもディーゼル仕様を必ずラインナップするのが当然というほど猛烈な勢力です。加えてトランスミッションはこれもまたオートマは少数派で、大半がマニュアル仕様だといいますから、車に関する感性もずいぶん異なるようです。

もともとディーゼルエンジンは音がうるさく、独特の振動があって、しかもパワーが無いという特性があります。その半面、燃費がよく、しかも燃料の軽油はガソリンに比べて安いということがヨーロッパで強く支持される主たる理由です。さらには税制などの点でも優遇されいるのか、こういう点で驚くほどドライな考え方をするヨーロッパ人にとって、彼らがディーゼルを選択することは必然なのでしょう。

これとは趣を異にするのが日本やアメリカ市場で、多少燃費の点ですぐれていようと、あの音や振動は耐え難く、とりわけ高級車の分野では、パワーや静粛性、スムーズなフィールを重視する点からも、ほとんど受け入れられませんでした。

そんなディーゼルエンジンでしたが、技術の進歩によって飛躍的な発展を遂げ、ガソリンエンジンと遜色ないパワーとスムーズさを手にするまでになり、以前のようなディーゼル=ガマンとは隔世の感があると自動車雑誌などで報告されるようになりました。
マロニエ君自身も数年前、ある輸入車のディーゼル仕様を一般道から高速道路まで運転させてもらったことがありましたが、たしかにこれならばと納得できるぐらい洗練されたものでした。
ディーゼルエンジン固有のビート感と太いトルクはある種の味わいさえあり、ガソリンとは違った魅力があることも確認でき、大いに感心した経緯がありました。

その後、乗用車のディーゼルが根付かなかった日本では、ようやく勇気あるメーカーによって意欲的な開発がなされ、ともかく傑出したエンジンができたようでした。
すでに発売もされ、評判も上々、その後はこのメーカーはフラッグシップである高級車からコンパクトカーにいたるまでディーゼル仕様が拡充されています。車の省エネがハイブリッドに集約されつつある中、既存のエンジンの高効率化によって新しい選択肢を加えて行こうというこのメーカーの技術力と挑戦の意気込みは注目に値するものかもしれません。

過日、わけあってそのメーカーのディーゼル搭載の最高級車を試乗するチャンスに恵まれました。
全営業マンが接客中ということから基幹店の店長さん自ら説明にあたってくださったのはいいけれど、それはもう大変な自信に満ちた長広舌でした。車を前に講釈は止めどなく続き、シートの作り、ペダルの位置や構造、さらにはあらゆる操作に関する配慮など、人間工学に基づいたクルマづくりを徹底しているということなどを延々と聞かされました。

メーカーの方が自社の車に強い自信をもっているというのは素晴らしいことですが、説明があまりにも長いと疲れてしまい、いつしか唯我独尊のように聞こえてくるのは逆効果では?という気がしなくもありません。
どうにか説明がおわると「試乗のご準備をします」というわけで、ショールームでしばしまっていると、今度はさっきの店長さんが若い営業レディを伴ってあらわれ、テストドライブは彼女が同乗しますということで、目をやればいつの間にか試乗車が玄関前にとめられていて我々を待ち受けています。

さて、技術大国の我が日本が作った、最新のディーゼルエンジンとはいかなるものか。
期待と同時に、下手をすれば乗ってきた自分の車が色あせてしまうほど素晴らしいのだろうか…などと多少の不安も抱きつつ車に歩み寄ります。するとすでにエンジンが掛けられており、その大柄で流麗なボディとはいかにも不釣り合いなカカカカカという明確なディーゼル音を発しているのにちょっとびっくり。「静粛なディーゼル」「言われないとわからないほど静かでなめらかなディーゼル」という言葉から想像したものとは、まず違いました。

運転席に座り簡単なコックピットドリルを受けて、いざスタート。
目の前の片側2車線の国道に出て一息加速したら右折というコースですが、「車は数メートル転がせばわかる」といわれるように、音楽でいうところの最初のワンフレーズで、これは期待が強すぎたか…と早くも内心思ってしまいました。

この車は同社の高級車の中でも上級グレードのようで、19インチというかなり大径のホイールと薄いタイアを装着していますが、そのタイアから発せられるゴーッというロードノイズが室内を満たしてくるのも???でした。スポーツカーならともかく、全長5m近い上級サルーンでこれはないだろうと思います。
それよりなにより敬遠したくなる点はやはり振動でした。走っているときはまだしも、信号停車中はぷるぷるした独特の振動を全身に受けるのは、やはりまぎれもなくディーゼルでした。むろんそれは技術的努力によって極力抑えられてはいるはずですが、それでもガソリンエンジンではありえない強いバイブレーションはどこかマッサージ器のようで、マロニエ君には脳神経に達するようでした。

パワーも自慢のひとつでしたが、この試乗中はそれほどとも思いませんでした。
まだまだありますが、これ以上は慎みます。お店に戻って丁重に謝意を伝えて帰ろうとすると、店長さんがご挨拶されるとかで、再びショールーム内に連れて行かれ、しばし待たされました。
なんと助手席にいた女性は、マロニエ君が走行中に漏らした感想を陰の部屋で逐一報告していたらしく、再び現れたときは笑顔の中にもやや硬い表情が加わって「振動を感じられますか?」というような調子で印象を聞かれたのには弱りましたが、でもまあいい体験ができました。
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響板のホコリ

以前、洗車が我が健康法というようなことを書きましたが、そこに楽しみを見出すには、掃除する対象が自分の趣味性のあるものだからということも関係があるのかもしれないと思います。

しかし、そうだとすれば、好きなピアノも磨きの対象になってもおかしくはないようなものですが、なぜかこちらはまったくそうはなりません。

こう書くとまるでピアノの掃除はせずに、いつも汚れた状態のようですが、決してそんなことはなく、少なくとも人並みにはきれいにしている「つもり」です。それでも洗車のようなハイレベルを目指してピアノ掃除をやったことはありません。

これは自分でも不思議で、その理由を考えてみたところ、いくつか挙げられるようです。

まず大きいのは、当たり前ですがピアノは常に屋内に置かれるものなので、車のように「汚れる」ということがあまりありません。せいぜい水平面にうっすら溜まったホコリを取り除く程度で事足ります。
それにマロニエ君はよくあるピアノ用シリコンみたいなケミカル品はできるだけ使いたくないので、これぞというものを必要最小限しか使いませんし、普段は毛羽たきか、ごくたまに柔らかい布を固く絞って丁寧に水拭きする程度です。

また鍵盤も、毎日専用のクリーナー液をつけて拭く人もいるそうですが、入れ替わりにレッスンをやっているようなピアノでもないのでそれもしませんし、そもそもボディカバーもしない、鍵盤用の意味不明な細長いフェルトのカバーなども、むろんありません。

これがマロニエ君のピアノに対するスタイルで、それでいいと自分が思っているわけです。

もう一つ、マロニエ君にピアノクリーニングから遠のかせる原因は、グランド内部の構造も大きく関係しているのです。
グランドピアノをお持ちの方ならおわかりだと思いますが、最もホコリが溜まりやすく、それなのに掃除の手立てがないのが響板です。響板は直に手がとどくのは低音側の弦とリムのわずかな隙間ぐらいなもので、大半は無数に張られた弦に遮られてほとんど掃除ができません。
響板のように広い部分にホコリがたまっているのに、それをとり除くことができないのは甚だ面白くありませんし、外側だけキラキラ磨きたてたところで意味がない…というわけで、いわば興が削がれるのです。
よってピアノの掃除にはむかしから力が入らないのかもしれません。

調べると、響板のホコリ取り用具が全く無いわけではないようです。
細い棒の先端にフェルトみたいなものが貼られ、その中央に針金のような細い取っ手が直角にけられていて、それを弦の間から差し込んで動かすことでホコリを除去するというもののようです。しかし、こういう道具類はよほど需要がないのか、技術者相手の業者がひっそりと取り扱っているようです。
ところが、この手の店はネットでも排他的で、一般のピアノユーザーが簡単に手に入れたらいけないということなのか何なのか、技術者だけがコミットできるようになっているようで、値段もなにもわからないようになっています。
一見さんお断りならぬ素人さんお断りサイトで、なにやらもったいぶった印象で、これだけで面倒臭くなります。

あれこれのパーツ(たとえばハンマーやシャンクなど)も価格表示は一切されず、しちゃまずいほど安いのかとも思いますが、この世界は相身互いなのか、そうやっていろんなことが秘密にされているようなので、そこに敢えて部外者として分け入って行こうとも思いません。

それに昔の並行弦のピアノならともかく、現代のグランドは交差弦なので、中音域(響板の中央部分)はどっちみその器具も使えないか、甚だ使いづらいということは目に見えているので、やはり掃除の意欲が湧いてこないのです。

だったら自作でもして、低音弦側から差し込んで、それを左右に動かすことで一挙にホコリが取れるような用具を考案してみようかと思っていますが、これも、何年も前から思っているばかりで、実行には至っていません。

いっそピアノ響板用小型ルンバでもあればいいのですが。
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わざとらしさ

ブラームスのピアノ協奏曲第1番は、多くのピアノ協奏曲の中でも、マロニエ君にとって特別なもののひとつです。
何が特別かということをここでくどくどと書いてもはじまりませんが、ひとことで言うなら格別で、随所に心奪われるようなたまらぬ要素が散在し、喜びと味わいと陶酔に満たされるということかもしれません。

この曲はブラームスの若い時の作品で、紆余曲折を経ながら苦心の末に完成された大作という点では、交響曲第1番と似ているかもしれません。おまけに初演当時は一向に評価されなかったようで、春の祭典ならともかく、このような美しく味わい深い曲がなぜ不評だったかは理解できません。
というか、現在においてもこの作品の価値から考えるなら、人気はいまひとつという状況が続いているともいえるでしょう。とっつきにくい面があるのはわからないでもなく、いわゆる誰からも愛される名曲らしい名曲という範疇にはどの作品も入らないところこそブラームスの魅力なのかもしれません。

強いて言うなら、長すぎるということはあったのかもしれませんし、現に今でも、演奏される頻度はかなり低く、やはり演奏家や主催者にとっては敬遠したくなる要素があるのだろうとは思います。コンクールの課題曲でもブラームスのピアノ協奏曲を選んだら優勝できないというジンクスまであるとか。理由はやっぱり長すぎるからの由。

そんなブラームスのピアノ協奏曲第1番ですが、先日のNHK音楽館でパーヴォ・ヤルヴィ指揮のドイツ・カンマーフィルの来日公演からこの曲が放映されました。ピアノはドイツの中堅ラルス・フォークト。会場はオペラシティコンサートホール。

フォークトは好みじゃないし、ドイツ・カンマーフィルというのもあまり関心のないオーケストラなので期待はしていませんでしたが、それでも「ブラームスの第1番」という文字を見れば、やっぱり見てみないではいられません。

やはりというべきか、演奏はまるきりマロニエ君の好みとはかけ離れたもので、普通なら10分でやめてしまうところですが、それでもこの50分におよぶ協奏曲を最後まで聞き終えたのは、ひとえに作品の魅力によるものだと思います。

ドイツ・カンマーフィルというのも何が魅力なのかよくわからず、耳慣れの問題もあろうかとは思いますが、ブラームスをこんな薄手の夏服のような軽い響きで演奏されても、不満ばかりが募ります。最近は室内オーケストラの類があちこちに結成されていますが、これが音楽的な必然なのか、大オーケストラの運営上の問題がこんな流れを生み出しているのか、真相は知りませんけれど。
マロニエ君はブラームスには柔らかで重厚な、それでいて大人の情感で満たされるような響きが欲しいのです。

それ以上に不可解なのはフォークトのピアノで、以前もベートーヴェンの3番を聴いた記憶がありますが、それどころではない違和感の連続でした。
聴く者を作品世界にいざなうことをせず、ただステージの上で自分だけ何かと格闘しているようにしか見えません。

音の分離も要所での歌い込みもなく、かといって厚いハーモニー感もないのにフォルテだけはやたら張り切って音は荒れまくります。スタインウェイはもともと強靭なピアノで、いかなるフォルテッシモにも持ちこたえるにもかかわらず、フォークトの粗雑な強打はさすがに拒絶してしまうらしく、珍しいほど音が割れてしまうのも驚きでした。

驚きといえば、会場のホワイエで、ヤルヴィとフォークとの両氏によるブラームスのピアノ協奏曲第1番に対するやりとりの一幕でした。この二人は長年の付き合いということで、さりげなく立ったまま、あくまで自然な会話のような仕立てにはなっていますが、どうみても撮影のために前もって準備された作られた台本があるとしか思えず、マロニエ君の目には完全なヤラセ芝居に見えて正直シラケました。

今や世界で活躍するクラシックの音楽家でも、カメラの前では役者のような演技ができなきゃいけないのかと思うと、なんだか誰もかれもが音楽以外のことに並々ならぬエネルギーを投じているようで、ここでも時代が変わったことを痛切に思い知らされました。
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一石二鳥

たとえ運動嫌いの人間でも、適度に体を動かすことで心身が良い方向に整えられ、爽快感を得られることが実感できる瞬間は理屈抜きにいいものです。

とりたてて「これが私の健康管理法」というような大げさなことではありませんが、マロニエ君にとっての「それ」は洗車ということになっており、インドア派の怠け者にとっては、これが唯一の全身運動の機会といっても過言ではありません。

洗車といえば当然外での作業となり、寒さが身にしみる今の季節など、始める前はどうしても億劫になりがちなのですが、一旦始めてしまえばウソみたいに活力が出るのは自分でも不思議です。トレーナー等をちょっと重ね着をしただけで、極寒の夜でも「寒い」と感じたことはこれまでに一度たりとも無く、作業中はまるきり寒さのことなど頭から消えています。

日中に洗車することはまずありませんが、幸い自宅ガレージが屋根付きで照明があることもあって、やるときは決まって夕食後に始めます。着手するまではグズグズするくせに、始めるといつも時間を忘れるほど没頭し、細部まで際限なくやってしまいたくなります。
きっとこの時ばかりは普段の雑事やストレスからも開放される数少ない機会なのだと自分で思います。

以前、テレビで健康に関する何かの専門家(名前も顔も思い出せません)が言っていたことですが、中年からの運動というものは、やみくもに激しいことや為の為の運動をすることではなく、無理をせず効果的に行うことが肝要とのこと。
それによれば、健康のための運動はただ毎日何千歩あるくとか、機械的に体を動かすことの繰り返しでは期待するほどの効果は疑わしく、大事なのは、常に脳と身体の連携によってこれを行う必要があるのだそうで、それができた時が効果も著しいということでした。

これまで運動らしいことをしてこなかったような人が、ある程度の年齢に達して、病気をしたり健康志向に目覚めるなど何かのきっかけから一念発起し、突如、人が変わったように毎日1時間歩くとか、スポーツクラブに通うなどのケースも少なく無いようですが、その専門家によれば、そういうものは全てが無駄とは言わないまでも、それによるマイナス面も大きいことが多々あることを認識し、努々無理は禁物とのことでした。

さらにその人が言ったことは印象的でした。
スポーツが好きでこれを楽しむのは別のようですが、あくまでも健康を目的として行う運動であるのなら、家の内外の掃除は大変好ましいというもので、これは目からウロコの意見でした。

いわゆる運動はさして頭を使わず機械的かつ単調なものですが、掃除にはその手順とかやり方など、常に頭を使いながら作業をすることになり、これが先に述べた体と脳が連携して活動することになるのだとか。さらに掃除はそのつど工夫をしたり、やればやったぶんそこが綺麗になって、その結果が嬉しいとかスッキリしたりと、情緒面まで加勢してくるといいます。
またよほどの事でない限り、掃除なら身体にそれほど無茶な負担にもならず、それでいて動きは全身多元的で、ただ歩くのとちがって体のいろんな動きも必要となり、総合的に適度な運動という点でも好ましく、とにかく理想的なんだそうです。

だとすれば、掃除をしたところが綺麗になるという実利まで加わり、これはまさに一石二鳥です。
というわけでマロニエ君の場合の洗車は、自分なりの貴重な運動の機会でもあるし、心身のリフレッシュに大いに役立っていることは身をもって感じています。
その証拠に、洗車をスタートするときよりも終わったときのほうが心身ともに溌剌としているのが、はっきり実感できるのは毎度のことで、このときいつも運動の価値を痛感します。じゃあ、そんなに効果があるのならもっと頻繁にやればいいようなものですが、そこがそうならないところが、つくづく根がダメだなあと思うばかり。

掃除を、最も効果的かつ安全で、実用性まで兼ね備えた最高のフィットネスだと思えば、こんなにいいことはないと思います。

すくなくとも、いい年をして、似合わぬトレーニングウェア一式を着込んで、左右くの字に曲げた腕をわざとらしく振りながら夜な夜な独善的ウォーキングに専心するよりは、よっぽどいいじゃないかとマロニエ君は思っているわけです。
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ピアノのサイズ

ピアノはアップライトもグランドも、ごく単純かつ原則的に言ってしまうなら、要は響板の面積と弦の長さによって、余裕ある響きが得られるという基本があります。

それによってより豊かな音色や響きが得られるわけで、これは当然ながら演奏上の表現力の違いとしてあらわれてくるでしょう。
もちろん、そこは秀逸な設計と好ましい製造技術が相俟って、楽器としてのバランスがとれていればの話であるのはいうまでもありませんが。

現にアップライトでも背の低い小型モデルと、より大型のものを比べると音質や響きの差は歴然ですし、グランドでもギリギリの設計がなされたベビーグランドと大型グランドでは、潜在力に差があることは異論を待ちません。

では、それほど響板面積は少しでも広く、弦は少しでも長いほうがいいというのであれば、価格や置く場所の問題を別にすれば、高さが2mもあるアップライトを作ったり、奥行きが4mぐらいのコンサートグランドを作ったらどうなるのかと考えるのはおもしろいことです。

この点で、以前、何かで(それがなんだったかは思い出せません)読んだことがありますが、例えばアップライトの場合は、そのサイズは130cmあたりが一応の限界点にあるようです。
それはピアノには理想的な打弦点というものがあり、アップライトの場合、背を高くすれば打弦点も上に移動しなくてはならず、これ以上になるとアクションや鍵盤が現在の場所では不可能ということを意味するようです。

どうしても背の高い大型アップライトを作るとなれば、鍵盤、アクション、演奏者の位置は、すべて上に移動しなくてはならなくなり、それは非現実的で簡易性が売り物のアップライトの存在意義を揺るがす事態となるようです。
そんな問題を無視して何メートルもあるアップライトを作っているのが、クラヴィンスピアノで、これは奏者が遙か上部にある椅子まで、ハシゴだか階段だかをよじ登っていく怪物アップライトですが、要はこうなるという象徴的存在でしょう。

また、グランドの場合は、奥行きが長いほど響板は広く、弦も長くなるわけですが、こちらもやみくもに長くすれば良いというものではなく、現在のコンサートグランドのサイズ、すなわち280cm前後を境にそれ以上になると逆にバランスが崩れてくるのだそうです。

この法則をオーバーするコンサートグランドは、主だったところではベーゼンドルファーのインペリアル(290cm)と、ファツィオリのF308があるのみですが、インペリアルはどちらかというとコンサートピアノの通常の法則からは外れていると見るべきで、この巨躯から期待するようなパワーに出会ったためしがありません。

ファツィオリでは、マロニエ君は弾いたことはありませんが、コンサートで聴いた限りでは308cmというダックスフンド体型が、それだけの効果を発揮しているかとなると甚だ疑問に感じました。
印象としてはF278のほうがより健全で元気があるように感じますし、それはトリフォノフがデッカからリリースしているショパンのアルバムでも感じられ、この二つのサイズのファツィオリが使われていますが、サイズとは裏腹にF278のほうが明らかに力強く鳴っている感じがあるのに対して、F308はむしろおとなしい地味な感じのピアノに思えました。

さらにはグランドではバランスよく鳴るサイズというのがあるようで、210cm前後のモデルは各社がもっとも力を発揮できるサイズだと云われています。このサイズでがっかりというピアノには(少なくともマロニエ君は)あまりお目にかかったことがないし、弾いていて独特な気持ち良さがあるように思います。

スタインウェイのB211などはその代表格でしょうし、ヤマハも大型ピアノの代表格は昔からC7というようなことになっていましたが、後発のC6(212cm)はあまりヤマハと相性の良くないマロニエ君でさえ、どの個体でも別物のような好印象を感じますから、やっぱりこのサイズは特別なんでしょうね。

ピアノのサイズも「過ぎたるは及ばざるがごとし」ということのようです。
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武者修行?

昨日はよく集るピアノの知人が会してしばらくピアノを弾き、そのあと食事に出かけました。
その席では、あれこれの話題が飛び交いますが、最も中心になったのは恋愛から結婚に関する話題でした。

友人知人で楽しむ話題の中でも、この手の話は最も愉快痛快なテーマのひとつだと思います。

なぜなら、そこにはそれぞれの経験に基づいた人生ドラマが色濃く投影されており、まあなんというか…ひとことで云えば爆笑の連続で、恋愛観を通じて相手の価値観や感性、ものの考え方に触れることができ、話はめくるめく展開を繰り返し、退屈するヒマなんてありません。

そのうちの一人は、既婚者ですが、様々な経験を通じて、多くの地雷を踏まされ傷つきボロボロになり、尚もそれを乗り越えて現在があるということを確固として自認されています。
その方によれば、お知り合いの彼女募集中の後輩男性にも深い憂慮と同情の念をお持ちで、まるで江戸時代の剣術指南役のような精神を持たれているようでした。
ところが、その後輩の方は免許皆伝には程遠いご様子…。

様々な出会いから交際を経て結婚に至る過程というものは、マロニエ君が考えているような怠惰で甘ったれのそれとはまったく異なり、ライオンが我が子を谷底に突き落とすほどに厳しい現実を勝ち抜くことであると滔々と述べられるさまは、なかなかどうして一聴に値するものでした。

まるで荒武者か僧侶の過酷な修行談を聞いているようで、忍耐と諦観、悟りの境地も必要らしく、聞いている側は驚きと笑いが尽きることなく、あっという間に閉店近くの時間に突入してしまいました。
マロニエ君などは根が不真面目でもあるし、男女の出会いなんてしょせん自然に発生し消滅するものとしか思っていない側からすれば、その気合と面目さ真剣さにはただただ感服つかまつるばかりでした。

当然ながらピアノも不屈の精神で非常によく練習されており感心させられますが、それにひきかえ、マロニエ君の練習嫌いなど論外とも言える堕落した精神そのもので、爆笑しつつも我が身の甘さを痛感させられました。

本来はもう少し具体的なことを書きたいけれど、そうもいかないのが残念なところです。


やや話は逸れますが、いつごろからか就活から転じた「婚活」という言葉もごくごく一般的となり、いらい何事にも◯活という言い方が流行ってきて、その流れを世間がやすやすと肯定し受け容れているのは個人的にはあまり歓迎はしません。
言葉というものは当然内容を伴いますから、現代はことほどさように何事も目的のために計画を練り、それに沿って我慢の精神で「活動」することが当たり前のようになってしまいました。

その極め付きは、自分が死ぬときまでありのままは否定され、きっちり計画準備した上でこの世からおさらばしろといわんばかりの「終活」で、実際にそういう動きまで出てきているというのですから驚くばかりです。
アナ雪の「ありのままで…」が流行った裏には、すべての事柄にありのままが許されないという実情が反映されているのかもしれません。

そうなるについては時代環境に裏打ちされた必然性があるものとは思いますが、そうはいっても、なんでもかんでも積極的といえば聞こえはいいけれども、要するにガツガツした活動を通じて「自分のぶん」をゲットしなくちゃいけないことをすべてに義務付けられている現代は、やっぱりどこか自然の摂理に背を向けた、いびつな空気が横溢しているようにも感じられます。
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ケータイあればこそ

つい先日、ケータイは疲れるということを書いたばかりで、その舌の根も乾かないうちにこんなことを書くのもどうかと思いましたが、ケータイの威力を心底痛感させられる経験をするハメに。

実家に帰省していた友人が東京に戻るというので、空港まで車で送ってやることになりました。
19:20分発だそうで、日曜で道が混んで慌てるのもイヤなので、少し早めに出て話でもしながらゆっくり向かおうということで、17:30少し前に家を出ました。友人の家までは約15分。

表に出てこられたお母上に挨拶などしていざ出発。
福岡空港は市内東部にあるので距離もそれほどではなく、少し早すぎたかな…とも思いつつ外環状線に出ると、夕刻ということもあってか意外に道が混んでいました。それでも出発までは一時間半あり、ゆるゆる走って30分前に到着すればいいとしても1時間はあるわけで、いずれにしろ余裕でした。

雑談をしながら外環状線を東に走っていると、友人のケータイが鳴り、果たしてそれは彼のお母さんからの電話でした。なんと家に大事な物が全て入ったカバンを忘れているというのですから唖然呆然です。そこには財布から飛行機のチケット、各種カードや勤め先の通行証などまでのすべて入っているらしく、要するに絶対に今手元になくてはどうにもならないものでした。

そんな大事なカバンを玄関に忘れてくるだなんて、その友人の超オマヌケぶりにも開いた口がふさがりませんでしたが、いくつかの手荷物を車に乗せることに気を取られていたと言いつつ、顔は真っ青になっています。
ここでいくら文句を浴びせても事は解決しませんから、ともかくUターンするしかありません。このときすでに行程の半分以上来ていて、内心これはかなり厳しいことになったことを直感しました。さらに外環状線の逆方向は猛烈な渋滞で、このままではどう転んでも時間に間に合わないことは明らかでした。

友人は何度も実家に電話して状況を伝えていましたが、やむを得ずお母上がタクシーで空港まで持ってみえることになり、これでとりあえず一件落着かとも思われました。

ところが呼んだタクシーが10分経っても来ないとのことで、こんな調子ではタクシーも間に合う保証はありません。マロニエ君は再び空港に向かうか否かの判断に迫られました。すでにこのころ、マロニエ君は大渋滞の外環状線を外れて、別ルートを北進していましたが、焦る中でフル回転で考えた結果、ちょっと思い切った手段に出ることに。

彼の家からタクシーで空港へ向かうなら、通常はこの道を来るはずというルートがあり、タクシーが来たら必ずその道を走るよう運転手さんに言ってくれと頼んでもらいました。そしてこちらはそのルートを逆方向から走って行けば、途中のどこかで接点が生まれ、カバンの受け渡しができる筈という目論見です。

ほどなく彼のお母上から「今、タクシーに乗りました」という一報が入ります。
こちらは目指すルートにはまだ乗っていませんが、この頃にはもう18:30分を過ぎており、時間的にはかなり厳しいものがあると思いつつ、それでもダメモトでできるだけのことはやってみるしかありません。
ちなみにチケットは格安購入のため時間の変更は不可だそうで、友人も紛れもなく自分の責任であるし、最悪の場合、次の便に普通料金で乗る覚悟はしていたようです。

その後、そのルートを東に向かっているというお母上からの電話が入り、そのころにはこちらもなんとか同じルート上に到達しようというところでしたから、あとは双方が路上で待ち合わせをするポイントを定めるのみ。これがなかなか難しく、気分も焦っていて冷静な判断ができませんが、かろうじて思いついたのは大きな池の畔の交差点にあるマクドナルドで、そこを受け渡し場所にすることに決定。
馴れない緊張感の連続で、やっていることはスパイ映画さながら、バクバクという脈動が明らかに普通ではないことも自分でハッキリわかります。

やがてマックの黄色いMの看板が見えてきたころ、タクシーのほうが一足先にマックの駐車場に入ったとの連絡がありましたが、もう目の前というのに信号がむやみに長く、いやが上にも手に汗握ります。転げ込むように駐車場へ入ると、寒い中、お母上はタクシーから降りてカバンを手に待機しておられました。
慌ただしくそれを受け取り、挨拶もそこそこに駐車場を飛び出すと、さあ一路空港を目指します。
このとき18:50分少し前で、とてもではありませんが10分やそこらで空港まで行くなんて無理だろうとは思いましたが、とにかくやれるだけのことはやるしかないというわけで、諦め半分にスピードを上げてダッシュをかけました。

非常に幸いだったことは、こちらのルートは外環状線よりは車の流れが多少よく、少なくとも信号以外では止まることなく進めたのですが、それを幸いにかなりミズスマシのような強引な運転をして、なんとか空港が近づいてきたときは19:00をわずかに過ぎていました。
空港の敷地内に入っても、東京行きはやや奥まったところにある第2ターミナルで、空港内があれこれの工事をやっていることもあり思ったより時間がかかります。ノロノロ走るタクシーをバンバン追い抜いて、第2ターミナル前の反対車線の赤信号に辿り着いたときは19:05分をわずかに過ぎていましたが、車の乗り降りが禁じられたエリアであるのは承知で強行突破を促し、友人は両手に荷物を抱えながら工事用の柵を乗り越え、横断歩道もない道路を渡ってターミナルへ走りました。

出発まで15分を切っていたので、間に合ったかどうかの確証は得られないまま帰途につきますが、よほど神経が高ぶっていたのか、もう急がなくてもいいのに、しばらくはなかなかゆっくり走ることができなくなっていました。ある種の興奮状態からすぐには抜け出せなくなっていたようです。
その後、やや落ち着きを取り戻して走っているとき、カーナビの電波時計は出発の19:20分になりました。その直後にケータイにメールが届き「おかげで間に合った」という一文をみてホッとしたのはいうまでもありません。
走りに走って機内に駆け込み、ケータイの電源を切る直前にメールをくれたようでした。

こんな命の縮まるような事はむろん二度とごめんですが、ケータイという文明の利器があったればこそできた綱渡りであったことも間違いありません。少なくとも公衆電話の時代なら、万事休すとなるのは間違いなく、ケータイの完勝です。

さすがの本人もとんでもない迷惑をかけたと思っているらしく「この罪滅ぼしは必ずする」のだそうで、「へーえ、それは楽しみだ」とメールを返しておきました。
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都市伝説

グランドピアノの鍵盤蓋を開いたとき、その上端が90°ほど畳むように折れ曲がるようになっているピアノがときどきあります。
現在は僅かな手間も惜しんで、徹底したコストダウンを敢行する潮流なので、現行モデルではほとんどなくなったと思いますが、昔はヤマハにも、カワイにも、ディアパソンにもこのタイプがありました。

スタインウェイでもハンブルクは通常のスタイルですが、ニューヨーク製は中型以上のモデルにはこの鍵盤蓋上端の折れ曲がり機構が標準仕様です。

さて、この鍵盤蓋の前縁が折れ曲がる理由は何かということですが、これには諸説飛び交うばかりでいまだ決定打らしきものがありません。

もっとも多数派なのは、演奏者が熱演極まって手の動きが激しくなった場合、通常の鍵盤蓋だと指先が縁に当たる恐れがあるので、それを避けるためにこの部分が折れ曲るようになっているというものです。
なるほどという感じですが、じゃあ熱演のあまりピアニストの指先が鍵盤蓋の縁に当たるというようなシーンを見たことがあるかと言われると…実はありません。
チェルカスキーやルビンシュタインなどは激しい動きで両手を垂直に上下させたものですが、指先が鍵盤蓋の縁に衝突するなんてことはまずないようでした。
となると、これはイマイチ説得力がありません。

次になるほどと思ったのは、縁を下に曲げていると、万が一ふいに蓋がバタンと閉まるようなことがあっても、この折れ曲がった縁が左右の木部に当たることで、指先をケガする危険がないというものです。
いわば安全機構というわけで、やってみると確かにそれも一理ありという感じでもあり、これはこれで、それなりにいちおう納得してしまいました。

果たして後者が真相かと思っていたら、先日来宅された技術者さんによると、また新しい説を披露されました。
それは上部から照明をあてると、ピアノの鍵盤は、光の角度によほど気をつけないと、鍵盤蓋の前縁のせいですぐに影になってしまうので、それを避けるために折り曲げることができるようになっているのではないか…という推量でした。

たしかにステージでは、照明のせいで、鍵盤に変な日向と日陰ができたら演奏者は弾きづらいかもしれません。でも、もしそうならコンサートピアノなどはもっと多くのモデルがこの機構を備えていそうなものですが、実際はない方が圧倒的に多く、やはりこれも決定的ではないような気がします。

マロニエ君個人は単に見栄えの問題ではないかと思います。
べつに縁が折れ曲がったほうが見栄えがいいとも思いませんが、なんとなく、ただ鍵盤蓋をカパッと開けただけよりは、さらにもう一手間かけて上部を下に向けて折り曲げたほうがいいというふうに、すくなくとも考えられた時代があったのではないかと思うのです。

もちろんこれも単なる想像にすぎませんが。

思い出すのは、ある大手楽器店のピアノ販売イベントに行った折、そこの最高責任者の人が意気揚々と案内してくれて、一台の中古のニューヨークスタインウェイのB型の前でことさら声高らかにこう言い出しました。
「このピアノは、もともとあるピアニストの方が特注されたものです。ほら、ここが折れ曲がるでしょう? これはピアニストの方の要望で、指先が当たらないように特別に作られたもので、スタインウェイでも非常に珍しいピアノなんです!」と、ずいぶん大きな声で言われました。

あまりにも自信たっぷりの説明で、しかも周囲には他にも人がちらほらいて、なるほどという感じに聞いておられたので、「ニューヨークスタインウェイでは、これは標準仕様ですよ!」とはさすがに言えませんでしたが、それにしても、こんな大手楽器店のピアノの最高責任者がこんな程度の認識なのかと思うと、非常に複雑な気分になったことは今も忘れられません。
こういう見てきたようなホラが一人歩きして、いつしかまことしやかに流布されていくのだろうと思うと、いわゆる都市伝説とはおおよそこんなものだろうと思いました。
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疲れる

これまでにも何度かケータイやメールにまつわることを書いてきましたが、さらに近ごろ感じたことから。

現代は各自ケータイという便利な機械をもっていながら、雰囲気としては、無邪気に直接電話することはよほど親しい関係でない限り遠慮をすべきという空気があり、はっきりした用件があるときのみその縛りはなくなるようで、もうこの時点で鬱陶しくなります。

しかも、その直接かける電話というのが、必ずしも一度で繋がるわけではありません。
ケータイというのは、言い換えるなら個人への直通電話です。
それなのに、昔よりも逆に相手の声を聴くまでに手間暇のかかることが多く、マロニエ君などはその点で気が短いほうなので、直に話ができるころには、たいてい気分的に(かなり)疲れてしまっています。
何が疲れるのかというと、着信履歴があってかけ直しても、これで相手が一発で出ることはなかなかありません。こちらも運転中など、すぐには出られないという状況があるにはあるからお互い様のようではありますが、最近の様子はどうもニュアンスが若干違うようです。

大抵の場合、多くの人が常時マナーモードにしているか、仮に着信があってもまずその場で出ることはないのです。もちろん出られない状況というのならわかります。早い話が勤務中などはそうなんですが、そうとばかりも言えないような気配を感じることがままあったりするのです。もちろん個人差はありますが…。

ひとつのパターンとして云うなら、いまやケータイに電話するということは、すぐに話ができればラッキーで、半分は相手の端末に自分が電話をしましたよという印をつけるだけ。実際に話ができるのはいつになるか不確定な状況におかれることになるといってもいいでしょう。
そして相手が電話ができる状態となり、さらには折り返し電話しようという意志が働いたとき、ついに直接会話が可能となるわけです。

要するに、たかが電話ひとつにいちいち手間暇のかかる時代になったということだと思います。
たまたまかかってきた時にこちらが電話がとれない状態だと、どうかすると着信履歴を残すことを双方で繰り返すことになります。驚くのはタッチの差で切れてしまった電話など、すぐにこちらからかけてももう繋がらないということも少なくなく、これはひとつにはマナーモードにすることが常態化して、かかってきた電話に出るという習慣をほとんど失っているからでもあるでしょう。
つまり電話は「鳴ってもまずは放っておくもの」という認識なのかもしません。

かくいうマロニエ君も出られない状況というのはいくつかありますけれども、今どきの人はどうも根本の感性が違う気がします。
すぐには出ないのが普通で、着信履歴を見て相手をチェック、自分が必要を感じたりそのときの気分次第でコールバックするなり、再度かかってきたときに出るといった趣。驚くのは自分が登録していない番号からだと、それだけで出ないことにしているなどは、いっぱしの有名人のつもりなのか何なのか…、ともかく電話というものへの認識が変質していることだけは確かなようです。

滅多に見ないテレビドラマなどでも、今は電話といえばケータイのことであり、そのケータイに電話がかかってくるシーンはマナーモードであることも多く、唸るようなバイブ機能の音がするだけというのは、いかに多くの人がそれを常とし、電話する側も「出ない」ことを想定しながらかけているとしか解釈できません。

むろん勤務中に私用電話が鳴っては困るというような常識はありますが、そんな建前を口実にしながら、実際には見えないエゴが広がっていくようです。

なんにしても息苦しい、難しい時代になりました。
くだらないことに気を遣うべき項目が多すぎて、みんな疲れながらわがままになっているようです。
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ブレンデル

1月のBSプレミアムシアターでは、昨年亡くなった名指揮者クラウディオ・アバドを追悼して、彼が晩年の演奏活動の拠点としたルツェルンのコンサートから、2005年に行われたコンサートの様子が放送されました。

ちょうど10年前の演奏会で、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番とブルックナーの交響曲第7番。
ソリストはアルフレート・ブレンデル、オーケストラはルツェルン祝祭管弦楽団。

最近はいわゆる大物不在の時代となり、そこそこの演奏家の中から自分好みの人や演奏を探しては、ご贔屓リストに加えるというようなちょこまかした状況が続いていたためか、アバド/ブレンデルといった大スターの揃い踏みのようなステージは、昔はいくらでもあったのに、なんだかとても懐かしさがこみ上げてくるようでした。

演奏云々はともかく、こういう顔ぶれが普通に出てくる一昔前のコンサートというものは、妙な安心感と豪華さみたいなものがあって、そんなことひとつをとっても、世の中が年々きびしく、気の抜けない時代になってきていることを痛感させられます。

アバドの指揮は歳のせいか、昔のように作り込んだところが少なく、もっぱら友好的に団員との演奏を楽しんでいるように見えましたが、この人もその音楽作りのスタイル故か、それが老練な味になるというわけではなく、どこか中途半端な印象を覚えなくもありません。

ブレンデルのピアノはずいぶん久しぶりに接したように思いましたが、いまあらためて映像とともに聴いてみると、いろいろと思うところもありました。
ブレンデルといえば学者肌のピアニストで名を馳せ、ベートーヴェンやシューベルト、あるいはリストでみせた解釈とその演奏スタイルは、まるで研究室からステージへ直通廊下を作ったようで、テクニックで湧いていた20世紀最後の四半世紀のピアノ界へ新しい価値と道筋を作ったという点では、偉大な貢献をした人だと思います。
生のコンサートでも極力エンターテイメント性を排除し、作品を徹底して解明し解釈を施し、それを聴衆に向けて克明に再現するということを貫いた人でしょうが、それでも現在のさらに進んだ正確な譜読み(正しい音楽であるかどうかは別)をする次の世代に比べると、ブレンデルのピアノはまだそこにある種の人間臭さがあることが確認できましたが、それも今だからこそ感じることだろうと思います。

オーケストラから引き継ぐピアノの入りとか、各所でのトリルなどは一瞬早めに開始されるなど、いい意味で楽譜との微妙なズレが音楽を生きたものにしていることも特徴的でしたし、なにしろ確固たる自分の言葉を持っているところはさすがでした。

ただし冷静に見ると、これほどの名声を得たピアニストとしてはその技巧はかなり怪しい点も多く、この点はブレンデル氏が生涯うちに秘めて悩んでいたところかもしれません。もしかすると技巧が不十分であったことが、彼をあれほど音楽の研究へと駆り立て、それが結果として一つの世界を打ち立てる動機にもなったのかもしれないと思うと妙に納得がいくようでした。
人は自らの背負った負い目を克服する頑張りから、思いもよらないような結果を出すということも多分にあるわけで、彼の芸術家としてのエネルギーがそれだったとしても不思議はありません。

ブレンデルのピアノを聴いているといつも2つの相反する要素に消化不良を起こしていたあの感触が今回もやはり蘇ってきました。ディテールの語りではさすがと思わせるものが随所にあるのに、全体として演奏がコチコチで、音色の変化は無いに等しく、ピアニシモの陶酔もフォルテシモも迫りもないまま、長い胴体をまっすぐに立て、顔を左右に震わせて弾いているだけで、要するに全体として釈然としないものが残ります。
音も終始乾きぎみで潤いというものがないし、ピアノ自体をほとんど鳴らせないまま、この人はただただ思索と解釈、それに徹底した音楽の作法、すなわち音楽的マナーの良さで聴かせる人だったと思いました。

そもそもあれだけの長身で、背中など燕尾服ごしにも非常にたくましい骨格をしており、手もじゅうぶんに大きく、身体的には申し分のない条件を持っていますが、指先にはいつもテープを巻き、不自然なほど高い椅子に座り、どこか窮屈そうにピアノを引く姿、さらにはピアノが乾燥した肌のような音しか出さないのは、見ていて一種のストレスを感じるわけですが、これは彼の奏法がどこか間違っているような気がしてなりません。

非常に才能ある聡明な方に違いありませんが、ブレンデルは専らその頭脳と努力によって、あれだけの名声を打ち立てたのかもしれません。あっけなく引退したのも、もしかしたらそういう限界があったのだろうかとも思いました。

印象的なのは、見る者の心が和むようなエレガントなステージマナーで、こういう振る舞いのできる人は若手ではなかなかありませんね。
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