高級の概念

書店に行くと、雑誌のコーナーでは音楽関係と自動車は習慣的に足を止めてしまいます。

音楽も車も共通しているのは、内容に重みや深みがなくなったということでしょうか。
雑誌といえども昔のような読み応えとか書き手の信念みたいなものはなく、どれもそつのない上っ面の記事ばかりが紙面を埋め尽くしています。対象の本質に迫るとか辛辣な批判も辞さないというような気骨ある記述などむろんお目にはかかれません。
どれもこれも広告収入を念頭に置いたゴマスリ記事ばかりですから、惰性で購読を続けている一誌以外、購入してじっくり読みたいと思うようなものはほとんどありません。

そういうわけで、大抵はパラパラ頁をめくるだけで事足りてしまいます。
マロニエ君は本は買いますが、雑誌に関してはほとんど立ち読みばかりで終わっています。

立ち読みしかしたことがなく、一冊も買ったことがないもののひとつに、クルマ好きの個人ガレージを取材して、それを一冊にまとめた雑誌が存在します。
たしか三ヶ月に一度ぐらい発行され、いつも自動車雑誌の目立つところに置いてあります。
車の雑誌も種類がずいぶん減りましたが、そんな中、今だに廃刊に追い込まれないところをみると、人の露出欲を満足させるものには一定の需要があるということなのでしょうか。

敢えてその雑誌名は書きませんが、これが見ようによってはお笑い満載の本なのです。
世のクルマ好きのお金持ち達が、これでもかとばかりに高級車を買い集め、それを陳列する夢のガレージを作ってはこの雑誌の取材を受け、掲載されるのがひとつのステータスになっているんだろうと思います。
中には、あきらかにこの雑誌を念頭において設計されているとしか思えない物件があり、そんな脂がしたたり落ちるような猛烈な自己顕示欲を集めて一冊の本にすると、全国の書店でビジネスとして成り立つだけの部数が売れるということでもあるんでしょうね。

取材される人たちが、その車のコレクションやガレージ建造に投じた費用は莫大なものに違いありません。
とりわけ毎号巻頭を飾るいくつかのガレージと車は、まさに億単位の「巨費」がかけられているのは明らかで、趣味という個人の内的な世界など遙かに飛び越えて、あくまで人に見せて自慢することを前提として設計され建造されたものばかりです。
よく芸術の世界で「猥褻」が論争の的になりますが、こういう雑誌を見ると「滑稽」という概念に対する考察を提起をされているようでもあり、いつも笑いを押し殺しながら頁をめくるのに難儀します。

本物の滑稽というのは、やっている本人が大真面目であればあるだけ、笑いの純度は上がるもの。
これらのガレージに居並ぶのは、大抵がフェラーリ、ランボルギーニ、ポルシェにはじまり、ロールスやベントレーなど、要するにすこぶる高額なわかりやすい高額車ばかりで、それも1台や2台では終わりません。そしてガレージの設計や内装は、まさにディーラーのショールーム風スタイリッシュでまとめられるのが少なくありません。フェラーリが居並ぶ壁には、馬がヒヒンと立ち上がった有名なマークの巨大なやつがほぼ間違いなく取り付けられるなど、お約束アイテムの羅列ばかりで独創性はほとんどナシ。
私費でメーカーの宣伝を買って出ているつもりか、はたまたどこぞの宗教のシンボルのようでもあり、個人宅のガレージというものを完全に逸脱した感性で塗りつぶされ、しかもそこが自慢のポイントであることが伝わってくるあたりは、この本は見るたびに全身がむず痒くなります。

大抵はガラスで仕切られた一角などがあり、そこに高級な椅子とテーブル(多くはイタリア製!)、場合によってはワインセラーやホームバーのようなものが設えられていたり、あるいはリビングのソファに体を埋めながら常に愛車を目線の先で舐め回すことができるよう、人と車がガラスひとつで仕切られた動物園のような設計だったりと、普通なら冗談かと思えるようなものが、大まじめに「男の夢の実現」として、大威張りで強烈な主張をしています。
しかも、それら憩いの設備は「ここの主の、友人への心配り」などと修辞されているのですから、そのセンスがたまりません。

クルマ好きが愛車を駆って会するのに、バーまであるとは、アルコールが入って酒気帯び運転にならないのかと気になりますが、そこはきっとホテル顔負けの宿泊施設も準備されているのかもしれません。

知らない人が予備知識ナシにこの手の超豪華ガレージを見せられたら、おそらくショールームか店舗の一種ではと思うはずです。ここでマロニエ君がいいたいことは、高級とか贅沢というものは、決して「店舗のようなしつらえにすること」ではないということです。

例えば、社会的地位のある人などが家を新築したりする際、純和風というテーマのもとに建ち上がったそれは、まるで粋な料亭のような趣で、個人の住宅に求められる品性とは何かという本質や作法がまるきり理解できていないことが少なくありません。どれほどの地位や経済力があろうとも、教養や文化的素養はまた別の話のようです。
これらの和風住宅にしろガレージにしろ、その建て主の心の中にある「高級」という概念の源泉がどこからきているか…それが悲しいほどに顕れてしまっているわけですが、まあご当人はご満悦の極みなのでしょうから、もちろん結構なことですが。
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前後で聴き比べ

NHKのクラシック倶楽部は、通常はひとつのコンサートを55分の番組に収めて放送しているものですが、ときどきその割り振りに収まらなかった曲などを拾い集めるようにして「アラカルト」と称し、とくに関係も脈絡もない2つのコンサートが抱き合わせで放送されることがあります。

先日も番組の前後でニコライ・ホジャイノフとアンドリュー・フォン・オーエンの取り合わせというのがありました。
以前見た覚えのあるホジャイノフのリサイタルから放送されなかったベートーヴェンのソナタop.110とドビュッシーの花火、オーエンのほうは悲愴ソナタと月の光という、どちらも現代の若手ピアニスト、近年の来日公演、さらにはベートーヴェンとドビュッシーという、どうでもいいような組み合わせで無理に共通項をつくったようでした。

ホジャイノフは音楽的に嫌いなピアニストではありませんが、さすがにベートーヴェンのソナタは力不足が露呈してしまう選曲で、まったく彼のいいところがでない演奏だと思いました。これだけ有名で、内在する精神性そのものが聴きどころである後期のソナタを奏するからには、それぞれのピアニストなりの覚悟であるとか、収斂された表現など…それなりのなにかがあって然るべきだと思ってしまいますが、ただ弾いているだけという印象しかなく、練り込みやひとつの境地へ到達の気配がないのは落胆させられるだけでした。

曲の全体を演奏者が昇華しきれていない段階でディテールにあれこれの表情などを凝らしてみたところで、ただ小品のような色合いを与えるだけで、聴いているこちらの心の中が動かされるようなものはどこにもありませんでした。
まだ花火のほうが無邪気な自由さがあってよかったようです。

この時の会場は武蔵野市民文化会館の小ホールでピアノはヤマハのCFX、とくに好きなタイプの楽器ではないけれど、非常によく整えられておりヤマハの技術者の矜持のようなものは感じる楽器でした。

変わって、映像は紀尾井ホールへと場所を変え、オーエンの悲愴が始まります。
冒頭の重厚なハ短調の和音が鳴ったとたん「アッ」と思いました。
こちらはやや古いスタインウェイですが、ヤマハとはまるきり発音の仕方が違うことが同じ番組の前後で聞き分けられたために、まるで楽器の聴き比べのように克明にわかりました。
スタインウェイだけを聴いているときにはそれほど意識しませんが、こうして前後入れ替わりに聞かされると、スタインウェイは弦とボディを鳴らす弦楽器に近いピアノであり、ヤマハは一瞬一瞬の音やタッチで聴かせるピアノだと思いました。

ヤマハはいうなれば滑舌がよく単純明快な音ですが、スタインウェイはより深いところで音楽が形成されていくためか、ヤマハの直後に聞くとどこか鈍いような感じさえ与えかねません。

腕に自信のある人が、その指さばきを聴かせるにはヤマハはもってこいで、弾かれたぶんだけピアノが嬉々として反応し、もてる美音をこれでもかとふりまきます。とくにCFXになってからは美音のレヴェルも上がり、洗練された現代のブリリアントなピアノの音が蛇口から水が出るように出てきます。

これに対して、スタインウェイはタッチ感というものをそれ以外のピアノのように前に出すことはありません。
むしろそこを少し控えめにして、作品のフォルムを音響的立体的に表現します。
個々の音もCFXを聞いた直後ではむしろ物足りないぐらいで、ピアニストの演奏に対して過剰な表現は僕はしません!と言っているようです。そのかわり全体としての演奏のエネルギーが上がってきた時などは、間違いなくその高揚感が腹の底から迫ってくるので、ある意味で非常に正直というかごまかしの効かない楽器であるけれども、力のある人にとっては決して裏切られることのない確かな表現力をもった頼もしいピアノだと思いました。

とくに音数が増えたときの結晶感と透明感、低音の美しさ、強打に対するタフネス、それに連なる高音のバランス感などは、まさに優秀なオーケストラのようで、スタインウェイというピアノの奥の深さを感じずにはいられません。
同時にヤマハの音を体質的に好む人の、その理由もあらためてわかるような気がしました。
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勝負か体質か

たまに行くステーキ店があります。
むろんマロニエ君が行くくらいですからリーズナブルな価格の店ですが、分厚く柔らかいお肉が気軽に食べられるのがここの魅力です。

メール会員になると、毎月何度か開催されるサービスデーの類の案内が送られてくるので、先日家人と行ってみようかということになりました。今回の特典は「サーロインステーキのみ通常価格の半額」というもので、「半額対象は8オンス以上」となっています。
1オンスが28gですから、およそ220gのステーキということです。

通常のメニューでは、一番小さいのが4オンス(約110g)、そこから2オンス刻みで肉の量が増え、最大は16オンス(約450g)となっていますが、今回は半額なのですから対象とされるのが「8オンス以上」というのも当然だろうという気がしました。

マロニエ君は10オンスぐらいすぐに食べますが、少食の家人が少し分けてくれるというので8オンスを2つ注文。
ほどなくして斜め前のテーブルに若いカップルがやってきましたが、しばらくするとそちらへも焼きあがったステーキが運ばれ「お待たせいたしましたぁ。サーロインステーキ12オンスになりまぁす!」という店員の声がすぐ傍で聞こえます。なるほど若いお兄さんはそれぐらい食べるだろうなぁと、このときはなんの疑問もなく思いました。

ところがあとにはライスが2つ運ばれてきただけで、ステーキはそれ1つきり…。すると店員は「以上でご注文はお揃いでしょうか?」と尋ねると、カップルのうちの女性のほうが軽い笑顔で「はい」と小さく答えました。

その12オンスのサーロインステーキはテーブルの中央に置かれ、向い合う二人がそれを食べ始めたのにはびっくり!
一瞬の後、彼らのやっていることが了解できました。半額対象は8オンス以上となっているため、6オンスは対象外、だから12オンスを1つ注文、それを二人でつっついて「8オンス以上」というを壁をまんまと突破するワザを思いついたというわけでしょう。
店側のルールで8オンス以上が半額というのなら、それを2つ頼むか、それが嫌なら来るなよ!と思いますし、そもそも、小さなお店でそんなことをして、単純に恥ずかしくないのかと思います。さらにはこのとき二人がついたテーブルは、4人用に空きがなかったために6人用でした。これは偶然としても、店側はさぞかし苦々しく思ったことでしょう。

たしかに送られてきたメールには「一人分のステーキを二人で食べてはいけない」とは書いてありませんでしたから、このやり方は店が定めた条件に違反していないのかもしれませんが、まるで法の網をかいくぐるがごとく、そんな言葉の裏をかいたようなことをしてどういう気分なのか。ちなみに二種類の味が並んだステーキソースなどはしっかり二人分もらっていました。
みたところ、そんなことをしそうな感じではなく、いかにも善良そうなおとなしいカップルという印象でした。しかし若いくせに知恵を絞ってまで少量ですませるという、そのいかにも痩せ乾いた感性が、よけい「凄み」を漂わせていました。

高度経済成長はもちろん、バブル景気も知らない世代は、せめて半額のときぐらい豪快に食べようじゃないかという発想すらないのかと思うと、なんだかこちらのほうが悲しくなりました。あるいは与えられた特典があっても、それで満足したら負けなのか、さらに細かく切り刻んでいじりまわして、ルール上の盲点を突いて、合法的にさらなるお得をゲットすることが、まるでゲームに勝ったような気にでもなっているのでしょうか。


そしてさらに数分後、こんどは通路を挟んですぐ前のテーブルに30代ぐらいの若いお母さんが二人と子供が二人(合計4人)がやってきました。子供は幼稚園児ぐらいの男の子と、もう一人はやっと小学校にあがったぐらいの女の子。
しばらくして運ばれてきたのは、二人のお母さんがいずれも10オンスのサーロイン、小学校低学年の女の子でさえ同じく8オンス!、ステーキが食べられそうにない男の子には、ハンバークを中心とした大きなディッシュが目の前にどっかりと置かれました。

これを4人はいかにも楽しげに食べ始めましたが、そんな単純さが、さすがにこのときはことさら眩しく輝いて、つい拍手でもおくりたい気分でした。だって半額なんですから、そのぶん普段より大胆な注文ができる、美味しいお肉がたらふく食べられる、そう反応するのが健全でほがらかというもの。それをあれこれの策を弄してみみっちい頭脳を働かせて、それでいったい何が楽しいというのか…。

いまどきの若い人は、表向きはおとなしくて善良そうに見えますが、その思考回路はわずかのリスクでも排除し、目先の損得に執着、物事をあまりにも小さい単位でしか処理できない構造なのかもしれません。とりわけ財布の紐が堅いのは一通りではなく、この体質はアベノミクスが期待する「消費の拡大」の前に立ちはだかる最強のバリケードのようなものかもしれないと思いました。
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夜毎熱中

以前このブログに書いた「CD往来」は今もまだ続いています。

とはいっても、マロニエ君側の環境は、すでに何度も書いた通りパソコンの入れ替えという、いわば「閉店改装」みたいなことになりやむなく中断していました。
少し詳しく言うなら、それらを中断せざるを得ないほどまで、古いパソコンはくたびれ果てて、思い通りに使用できないところまで問題が深刻化しており、もはや否も応もありませんでした。
まずはこれに専心、新しいパソコンが一段落をまってCD往来のための作業はすぐに再開しました。

マロニエ君は昔からクルマの中でも必ずCDを聴きますが、家の外にCDを持ち出すというのは好きではありません。ましてやクルマの中でバラバラなCDをあれこれいじりまわすのは嫌な上に、車内にあれば今度は家で聴けなくなる。それならコピーしてファイルにまとめていたほうが使いやすいし、そうしたほうがオリジナルが傷む危険もないとなれば、これをしない理由がありません。

それに加えてこの半年ほどは音楽マニアの方との「CD往来」という新たな目的もできたので、このところのCD作りにはいつになく拍車がかかっていたところ、そんなさなかでのパソコンの不調となり、やむなくマシンの入れ替えというマロニエ君にとっては上へ下への大騒ぎとなったのです。

それから約一月を経たでしょうか、ようやく新しい環境にも慣れてきて、基本的なパソコン機能が使えることになると、待ってましたとばかりにCD作りを再開させました。

新しいパソコンというのは自分にとっての環境が構築できるまでは、周辺機器やソフトの問題など際限なく不便があるものですが、個別の機能や性能はなるほど従来型より格段に進歩しているのも事実で、ここらは新しくなればやはり嬉しい点でもあります

以前、CD/DVDのドライブはあまりの酷使からこの部分が壊れてしまった経緯があり、その後は外付けのドライブを購入して使っています。これらもむろんOSの関係で新規買い直しとなりましたが、それに要するソフトなど必要なものがそろうと、いよいよCD作りを再開、しかもそれは以前よりさらに熱を帯びたものになりました。

曲や演奏、あるいは使用楽器によって、差し上げる相手はいろいろとかわりますが、新しい環境のもと、いぜんからやってみようと思いつつ実行していなかった「全集」に挑戦することに。
というのは最近しばしば聴くバロック・ヴァイオリンの名手によるモーツァルトのヴァイオリン・ソナタを購入したのですが、なんとこの全集、めったにないほどのクオリティの高い、少なくとも現在の同曲においては最高ランクの演奏だと思われるのに、ライナーノートなどは最低限のものしか添えられておらず、なんと各曲や楽章のトラックの番号など表記が一切ないのには唖然としました。

一枚のCDには5曲前後のソナタが収められていますが、各CDにはソナタの番号とケッヘルしか書かれておらず、曲によって楽章数も異なるので、何番のソナタの第◯楽章が聴きたいと思っても一発でそれを鳴らすことはできないし、ただ漫然と聴いていても、知らない曲だと今どれが鳴っているのかトラック番号から確認することができないわけです。作り手の手抜きもここまできたかという感じです。

そこで、この全集を聴いて欲しい人が数人おられたことと、トラック不記載の問題を自力で解決すべく、全CDを一枚ずつ調べて、それを一覧表にしてまとめるという作業にとりかかりました。それをこれまた今回新調したAdobe Illustratorでデザインして、CDケースのサイズにまとめて、これも一緒にお付けするかたちで差し上げることに。

それと全集というのは大変で、ちょっとでも油断していると整理がつかなくなって、アッと言う間にどれがどれだかわからなくなります。ですから各CDには識別番号のシールをこれまたIllustratorで作り、これらをプリントしたのも新しいプリンターでしたが、操作に習熟せず、印字が不鮮明なものになったのが甚だ心残りでした。

気がつけば、寸暇を惜しんでこのための一連の作業をやっていて、たかだかこんな作業のために毎夜これに没頭し、子供じみた熱を入れてしまったことはいささかやり過ぎというか後悔の念がなくもありません。
ふと「一体自分は何をしているんだ!?」という疑問の声も心の中に去来しましたが、元来こういう作業を丁寧にやっていくのが嫌いな方ではないので、かなりきつかったけれどとにかく完成することができました。

全集はもうこりごりと思っていましたが、終わって1日経ってみると、もう次に挑戦したくてウズウズしてきて、ついにベートーヴェンのピアノソナタを始めたのですから、さすがに自分でも呆れます。
でも、詭弁のようですけれど、何かに熱中するのは楽しいものです。
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はじめが肝心

マロニエ君がいまだガラケーユーザーであることは折々に書いてきましたが、バッテリーにまつわることを。

今どきの電子機器は付属のバッテリーを電源として使いますが、とくにケータイにおけるバッテリーは毎日使うものであるだけに、これが消耗してくるのは困りもので、できるだけ寿命を延ばして使いたいところです。

このところケータイのバッテリーの減りが早くなってきたようで、だいぶ使ったことでもあるし、いっそ機種変更でもしようかと思い立ってショップに行ってみました。
予想通り、いまやスマホが主流の時代で、ガラケーはいちおう義務で最低量を作っているだけという感じでした。隅の方に置かれた数種類のそれは、機能の点では数年前のものと比べてもほとんど見るべきものがないようで、ショップの人もすんなり認めています。
「機能的には機種変更の意味があまりないので、もしバッテリーの問題だけでしたら、それを交換されたほうがいいですよ」と言われてしまい、だったらそれでお茶を濁すことにしました。

ショップで聞いたところによれば、バッテリーの寿命のもっとも主なところは「使用期間/時間」よりも「充電回数」なのだそうで、これが概ね500回を過ぎると性能が低下してくるそうです。

以前にも、バッテリーはできるだけ使って空にしてから充電するのが理想的で、少ししか減っていない状態で充電すると、それだけでもバッテリーの性能が落ちるというのは聞いたことがありました。
さらに過充電がバッテリーに負担をかけるのだそうで、充電ランプが消えたらすみやかに本体を充電器から外すこともかなり大きいポイントだそうです。

毎夜、ケータイを充電器に繋いで就寝するというパターンは少なくないと思われますが、これはバッテリーにとって好ましくない使い方の3点セットのようなもので、「充電回数が増える」「あまり減っていないのに充電する」「朝まで充電器に繋がれて過充電になる」を連日繰り返すことで、早々に寿命が来てしまうんだとか。

さて、ネットから新しいバッテリーを注文したところ、バッテリーの製造会社から「発送しました」の連絡とともに、興味深いメールが届きました。
そこには、新しいバッテリーが届いたら以下のことをするのが、バッテリーを長くお使いいただくために望ましいと書かれています。

「バッテリーが到着後、すぐに満充電をし、普通の使用で残量が空になるまで使用、その後、再度満充電。この充放電の繰り返しを3回~5回する。」とありました。

新品を使い始めるにあたり、はじめにこういう使い方をしておくことで、フルに性能を発揮できるよう、機能を躾るということのようです。

クルマにも新車は慣らし運転というのがあったり、新しいブレーキパッドは交換後にかなりの速度からフルブレーキを数回繰り返すことで熱遍歴を与えて、ディスクへの食いつきをよくするというようなやり方がありますが、バッテリーも同じようなものだと勉強になりました。

一説にはピアノ(少なくとも昔の名器など)も製造後の数年をどのような環境で過ごしたかで楽器としての能力が大きく変わるとも言われますし、新しいハンマーなども初期の整音の巧拙が、その後をあるていど決定付けてしまうと云いますから、何事につけてもはじめが肝心なんだとつくづく思います。

考えてみれば人間様だって、幼児期の躾や育った環境がその後の人生を大きく左右するわけですから、なるほどと納得です。
人も機械も、良い環境で過ごしてきたものは健康で幸福なんだという話のように思えました。
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印刷体の演奏

日頃から自分が感じていることが、上手く言葉に表現できずにもどかしく思っているところへ、適切に表現された文章に邂逅するとハッとさせられ、胸につかえていたものが消えたような気になるのは、誰しも経験しておられることだと思います。

マロニエ君もそういうことはしばしばなのですが、つい最近も、音楽評論で有名な宇野功芳氏の著書『いいたい芳題』の中に次のような一文があり、思わず「その通り!」だと声を上げたくなりました。
ただしこれは宇野功芳氏自身の文章ではなく、同じく音楽評論家の遠山一行氏(昨年末に亡くなられ、夫人はピアニストの遠山慶子さん)の『いまの音、昔の音』というエッセイから宇野氏が引用紹介されたものです。

「いまの演奏家には草書や行書は書けなくなっており、楷書で書く場合でも、それはほとんど印刷体に近いものになっている」

これにはまったく膝を打つ思いでした。
オーケストラを含めたいまどきの演奏は、表面的にはきれいに整っており、ある種の洗練もあれば技術的裏付けもあるけれど、そこには不思議なほど音楽の本能や実感がありません。サーッと耳を通り過ぎていくだけで、当然ながら深い味わいなども得られない。
これを内容の欠如だとか、情感不足、主体性の無さ等々、あれこれの言葉を探し回っていたわけですが、まさに印刷体という、これ以上ないひと言で言い表された適切な言葉に行き当たったようでした。

いまの演奏は、解釈もアーティキュレーションも流暢な標準語のようだし、技術の点でも科学的裏付けのある合理的な訓練のおかげで非常に高度なものが備わり、その演奏にはこれといった欠点もないように思えるものです。しかし、肝心の音楽の本質に触れた時の喜びとか陶酔感、聴き手の精神が揺さぶられるような瞬間がないわけです。
これはまさに印刷体であって、美しいと思っていたのは、活字のそれだったというわけでしょう。まったく言われてみればその通りで、このなんでもない比喩がすべての違和感を暴きだしてくれたようでした。

これは考えてみればすべてのものが似たような経過を辿っているようにも思えます。
美術の世界もそうで、緻密で色彩の趣味も悪くない、構成力もあって、いかにも考え抜かれた作品というのが近年は多いのですが、作家の生々しい顔とか感性の奔流のようなものがない。
いわゆる作者自身の本音とは違った、計算された企画性のようなものを感じてしまって、すごい作品のようには見えても、精神が反応するような作品はほとんどありません。

芸術作品は破綻するのが良いといったら言い過ぎですが、破綻しかねないぐらいの危険性は孕んでいなくてはつまらないし魅力がないものです。その点で云うと最近の作品や演奏にはそういった危うさがないわけです。

情報の氾濫によって、よけいな知恵は付くし、そうなると評価の取れそうな結果だけを目指すのでしょう。
ある程度の結果が想像できるということは、その結果を見据えて仕事を進めて行くことが、最短距離の賢いやり方のように思えてしまうのが我々人間の思考回路なのかもしれません。

人が純粋に燃え上がることができるのは、案外結果が見えないとき、行き着く先がどうなるかわからないとき、混沌としたものの中に身を浸しているときなのかもしれません。
はじめから表現の割り振りが決まっているようなものは、どう説明されてもつまらないものです。

純粋な表現行為の中には無駄やひとりよがりも多く含まれてリスクも高い。効率よく結果だけがほしい現代人は、なにより無駄や回り道を嫌います。だから印刷体の演奏になるのも頷けます。
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空き家

ちっとも知らなかったのですが、いま大きな社会問題として浮上しているのが、急増する空き家の問題なのだそうで、最近NHKでそれを採り上げた番組をたまたま見て非常に驚きました。

現在日本中で「空き家」がなんと820万戸!!!にも達していて、有効な手立てもないまま、今後も増え続けることは確実というのですから、これはちょっとしたショックでした。

主な理由は、人口減少に加えて生活形態の変化などが重なってこのような現象に至っているとのこと。

親の家があっても、子供が大きくなって社会人となり、結婚して家庭を持つと、利便性の良い新しい住まいを見つけるのだそうで、多くの実家は通勤に不便であったり、家としての機能が古いなど、要は次の世代からみて魅力がないのだそうです。その結果、親の代に買った(あるいは建てた)せっかくの家は、大半が親の世代のみの役割で終わってしまうというのです。

戦後、新時代/新生活の明るい希望の象徴のごとく建てられたあまたのマイホームやニュータウンの類は、現在はその隆盛も過ぎ去り、寂しい建造物の群れのようになっているのがいくつも紹介されました。

家というものにも、流行り廃りもあるし、数十年も経てば古くなり朽ちていくという現実をまざまざと思い知らされます。その点においては、いくらか寿命が長いというだけで、所詮は家電製品や車と変わらない運命にあるという厳しい現実を突きつけられるようでした。

専門家によれば、空き家というのは極めて好ましくないものだそうで、空き家が増えてくると、その周辺の環境は急激に悪化し、治安も悪くなり、当然のように地価も下がっていくとのこと。さらに住む人が少なくなれば自治体最大の収入源である税収が減ってしまうことで、既存のインフラの維持費さえままならないようになり、これが悪循環となって、最後には街そのものが破綻してしまうというのですから、これは他人事ではすまされない、かなり深刻な問題だということがよくわかりました。

これまでは「空き家」があるからといって、それで街全体が衰退するなんて思いもしませんでしたが、たしかに空き家一つが周囲に撒き散らすマイナスイメージはかなり甚大なものであるとわかってきました。
ひとつの空き家は次の空き家を作り出し、細胞分裂のように広がっていくようで、いったんこの流れができると止めようがないのですから、ある種のパンデミックのようで恐ろしいことだと思います。

そもそも、人の棲まない家ほどいやなものはありません。
草木は生い茂り、窓も戸も閉まったっきりの家というのは、まさに家が死んでいる状態で、要するに街のあちこちに家やマンションの死体がゴロゴロしているようなもの…といっても過言ではないでしょう。

何事もそうですが、いいイメージを積み上げていくのは大変ですが、悪い方はあっという間です。

高度成長期に建造された多くのアパートなどが、次第に廃墟のようになっていくことを当時の人達は誰も想像しなかったでしょう。スタジオのゲストの一人が言ったことは衝撃的でした。
要するに家というのは建てた人一代限りのものであって、子育てが終わったらその子どもたちはまずそこに住むことはない。…ということは、いま次々に建てられている臨海地域のタワーマンションなんかでさえ、4~50年すれば同じようなことになる!と言っていたのは、こわいような説得力がありました。

また空き家を空き家のままにしておくことは、みっともないだけでなく、犯罪者のネグラになったり、放火の危険にさらされるなど、良いことは何一つないとのことですが、それがわかっているのに所有者は解体にさえ踏み切れないのだそうです。
解体するにも費用がかかることももちろんですが、最大のネックになっているのは税制でした。
そもそも国は国民が家を建てることを推奨するための政策として、土地に上モノが乗っていれば固定資産税が安くなるという優遇措置をとったのだそうですが、解体時はこれが裏目に出て、更地にすると税金が一気に6倍!にもなるのだそうで、これではなにも事が進まないのは当たり前だと思いました。

さらに空き家になるようでは物件としての魅力もないわけで、借り手も買い手もなく、所有者もなすすべがないわけです。スタジオ参加者の女性のひとりは、最後の手段として市に寄付することを申し出たのだそうですが、寄付さえもあっさり断られたというのですから、唖然とするほかありません。

やはりスタジオに来ていたお役人の説明によれば、自治体がその土地を使用する目的や見通しがある場合は「いただく」こともあるが、そうでない限りは寄付であっても受け付けないというのですから、ひぇぇ、まさに泣きっ面に蜂といった話です。

驚くべきは、そんな空き家が増大するいっぽうで、新築住宅のための宅地開発は止むことなく続いているのだそうで、このような住宅政策そのものを「焼き畑農業」といっていた専門家もありましたが、将来のことも考えない無節操な住宅開発のツケがいま回ってきているということなのでしょうか。
ともかくいやな話でした。
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さらば!ことえり

新しいパソコンを使い始めるのは、マロニエ君にとって生活の一部を入れ替えるほどの一大事です。
こう書くと、まるで精神的にパソコンに依存しているようですが、ただ単に苦手だから気が重いわけです。それでももはやこれナシでは済まされないところまで生活全般に浸透しているので是非もないわけです。

それに、こんなくだらないブログ遊びをやっていられるのもパソコンとネットのおかげですし。

パソコンを入れ替える面倒から逃げるため、買ったのに一年間も放置してしまったことはすでに書きましたが、周辺機器、ソフト、保存されたファイルなどが複雑に連動し依存しあっているため、パソコンを新しくするということは、新しいマシンを中心に元の環境を再構築することを意味します。OSの関係で使えないものも出てくるし、とにかく手間暇がかかります。

詳しい方はパッパッとわけもなくやってしまうのでしょうが、この手が甚だ苦手なマロニエ君は何日たっても望むような環境にはなかなか到達できません。そればかりか次から次に不慣れなトラブルやわけのわからない問題が発覚し、その対処に追われることの繰り返しで、まったくバカバカしいエネルギーだと思います。

そればかりでなく、かなり深刻な問題も発生しました。
パソコンが変わったことで眼精疲労というのか、とにかく目が疲れ、パソコンの前に座ると視界がボーっとする、ひどい時には不快感が増して頭痛へと拡大します。見え方自体は前のものより良くなっているはずなのに、なぜそうなるのか不思議でしたが、最近やっとその理由がわかってきました。

以前使っていたのはノート型で画面も狭く感じていたので、今回はデスクトップのiMacにしたところ、むやみに画面が大きく、以前の3倍近くはあろうかという迫力です。
画面が広大になったぶん快適なようですが、自分の視界の大半が液晶画面で占領されることになり、要するに目の逃げ場がなく、これがどうやら疲れの原因らしいということがわかりました。「過ぎたるは…」の喩えのとおりの新たな苦痛が発生です。

さらにストレスに拍車をかけたのが日本語入力システムの「ことえり」で、昔もこれが馴染めないからといって同種のIM(インプットメソッドという由)で定評のあった「ATOK」を知人のススメで使っていました。そういうわけで、ずいぶん久しぶりに接した新しい「ことえり」でしたが、それなりに改良されているだろう…という淡い期待は見事に外れ、その使いにくさときたらあらためて呆れるばかり。
多少のことは割り切って機能だけで乗り切っていく構えでしたが、入力のたびに「ことえり」に介入されることだけはガマンができません。変換のテンポが鈍いうえに、まったく賢くない、入力する側との呼吸感がまったくないなど、これなら昔のワープロでもまだマシだったような感じです。

ことえりのおかげでイライラとミスは倍増し、これではまずいながらも文章になりません。
もはやATOKを買うのは必至となり、そうなると居てもたってもいられずにバージョンなどを調べていると、おや?というブログに遭遇しました。

この世界で仕事をされているプロの方の書き込みで、どうやらATOKを長年愛用してきた方らしいのですが、グーグルによる同種の日本語入力システムが存在するとのこと。しかもすこぶる使い心地が良く、これが世に出てきた日がATOKの命日になったとまで書かれていますから、相当の秀才なんだろうと思いました。

あまつさえ、その秀才が無料でダウンロードできるとあり、半信半疑でインストールしてみると、果たして書かれている通りにすんなり出来ました。
おそるおそる使ってみると、アッと声が出そうになるほどレスポンスはいいし、変換も思い通りにスイスイできるし、こちらの考えを先読みさえしてくれるようで、これは本当に思いがけない嬉しい驚きでした。少なくともマロニエ君が以前使っていた古いATOKの数段上を行くもので、まるで別次元の快適性能がいきなりタダで手に入ったというわけです。

ATOK購入のため、一万数千円の出費を覚悟していたのですが、むろんその必要もなくなりました。
とにかくこの日本語変換システムというのはパソコンを使う上(とくに文字入力)ではなにより大切で、何日も続いていた灰色の空が、あっと言う間に鮮やかな青空へと変わったようです。
ことえりをお使いの方はぜひお試しになられてはどうでしょう。
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ひとりだけの危険

故障知らずの日本車と違い、数の少ない輸入車に乗るのは、劣悪な条件の下での維持管理との戦いでもあり、いかに趣味とはいえ時としてしんどいものです。

古いシトロエンという特殊性と、それを乗り続けたい弱みから、相当な変わり者のメカニックとのお付き合いを続けていましたが、その忍耐にもさすがに限界が来ていたところ、ふってわいたようなチャンス到来で別のディーラーへ行くようになり、少しばかり状況が好転したことは以前このブログで書きました。

それいらい、ふと感じるようになったことがあります。
というのも、いちおう悦ばしいことに、新しいメカニックの手が入ってからというもの、車の調子が明らかにワンランク上がり、乗っていて楽しい、買った頃の魅力が我が手に戻ってきたような変化が起こったことでした。いまさら前のメカニックの腕を糾弾しようというのではありませんが、技術者というものにも流儀/くせ/センス、あるいはその人の性格や人格までもがその仕事ぶりにかなり出てしまうものです。

これは技術と名のつくすべてのものに通じることでもあると思います。

そしてしみじみ思ったことは、一人の技術者だけに頼り切ることは決して正解ではないということ。
医療の世界でも、医師はいわば人体における技術者です。医療現場ではセカンドオピニオンという言葉があるように、最近では複数の医師の診察を受けて最良と思われる治療を選び取る権利が患者側にも認識されています。

これはピアノも同様のはずですが同様とは言い難いものがある。
調律師とお客さんの関係というのは、いかにも日本的閉鎖的な人のつながりで、ジメッとした人間関係が主導権を握り、技術が優先されることはなかなかありません。なにかというと「お付き合い」が幅を利かせますが、そうはいってもタダでやってもらうわけではなく、それはちょっとおかしくないかと思うのです。
ひとつには、調律師の技術というものがなかなか判断しにくいという事情も絡んでいることもあり、それだけに「お付き合い」といった要素が一人歩きしやすいのかもしれません。

マロニエ君の知る限りでも、あきらかに仕事の質が疑問視されるような場合においても、依頼者は長年のお付き合いという情緒面ばかりを重要視する、もしくは過度の遠慮をして、なかなか別の人にやってもらうという試みをしたがりません。別の人に変えたら、今までの調律師さんに悪い、申し訳ないというような気持ちになるらしいのです。

そういう気持ちがまったくわからないわけではありませんが、基本的にはそんな本質から外れたことでずっと縛られるなんて、こんな馬鹿げたことはないというのがマロニエ君の持論です。
もちろん調律師さんも人間ですから、お客さんが別の人に仕事を依頼したと知ればいい気持ちはしないでしょう。しかし、そこは意を尽くした処理の仕方でもあるし、詰まるところ何を優先するのかという問題でもあるでしょう。

忘れてはならないことは、ピアノはれっきとした自分の所有物なのであって、調律師さんとのお付き合い維持のために調律をやっているのではなく、自分が気持ちよくピアノを弾くことができるように楽器を整えてもらうということです。そのための調律を含むメンテナンスなのであるし、その仕事にはきちんと対価を支払うわけですから、ここで変な遠慮をして、弾く人がガマンをすることになるのは本末転倒というものです。

そもそも調律師さんは何十人何百人という顧客を抱えており、プロとしてやっている以上、その微量が増減するのはどんな業界でも日常のことでしょう。ましてピアノだけが一人の調律師さんと生涯添い遂げる必要なんて、あるはずがありません。

調律師さんと一台一台のピアノの関係は、年に一度か二度、数時間のみと接するのに対して、ユーザーは年がら年中そのピアノとどっぷりつきあっているわけで、ここで変な妥協をしたところでなにも得るものはありません。また、上に述べた車や医者のように、違った調律師さんにやってもらうことで全然違った新しい結果を生むことも大いにあるわけで、それをあこれこれ試してみるのはピアノの健康管理のためには必要なことだと思います。

こう書くとマロニエ君はもっぱら技術優先で、ドライなお付き合いをしているように誤解されそうですが、調律師さんとの人間関係はおそらく平均的なピアノユーザーよりは、遥かに大切にしていると自負しています。
しかし、だからといって夫婦や恋人ではあるまいし、未来永劫その人一筋というわけにはいきません。むやみに技術者を変えるのがいいわけはありませんが、すっきりしないものがあるとか、これはという出会いやチャンスがあったときには、躊躇なく新しい方にもやってもらうのがマロニエ君のスタンスです。
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山葉と河合

NHK朝の連続ドラマ『マッサン』に登場する鴨居商店の大将とマッサンは、のちのサントリーとニッカの創始者であることは驚くべき話ですね。しかもそれぞれのウイスキー「山崎」と「竹鶴」は現在世界で最高位の評価を受けているというのですから呆れるほかはありません。

ウイスキーほどの一般性があるかどうかはともかく、ピアノもかなり似たような感じです。
伝えられることをかい摘むと、ヤマハの創始者である元紀州藩士の出である山葉寅楠は手先が器用で、たまたま浜松で医療器具の修理などをしていた腕を見込まれ、地元の小学校にあるオルガンの修理を引き受けます。それがきっかけで、当時非常に高価だった輸入物のオルガンを安く作ることを思い立ち、やはり浜松で職人をしていた河合喜三郎を誘って数ヶ月かけ、見よう見まねでついには一台のオルガンを作り上げるのです。

その出来映えを東京音楽学校で見てもらおうと、二人はオルガンを担ぎ箱根の山を越え、実に250キロもの道を踏破したというのですから驚きです。これが明治の中頃(1887年)の話。

果たして、この最初のオルガンは音階などが不十分で失敗作に終わったようですが、当時の校長であった伊沢修二は国内での楽器造りを大いに推奨し寅楠は猛勉強を開始。アメリカ留学を経た後、明治33年(1900年)には国産第一号のピアノの作り上げるのですから、今では考えられない活劇のようですね。

帰朝した後に始めたピアノ造りのメンバーには、さまざまな発明などをして浜松で有名だったという若い河合小市も入っており、彼の創立した会社が後にカワイ楽器となるあたりは、まさに『マッサン』のピアノ版といえそうです。

とりわけ最初のオルガン製作と、箱根越えなど苦心惨憺の末に東京までこれを担いで行った二人が、山葉と河合であったというのは、まるで出来すぎの三文芝居のようですが、どうやらこれは事実のようです。

山葉寅楠と河合喜三郎は共同で山葉楽器製造所を設立しているようで、喜三郎が河合楽器の創始者である河合小市とどういう関係であるのか(あるいは関係ないのか)がいまひとつよくわかりませんが、いずれにしろそのまま朝ドラか大河にしてほしいような話です。

当時の日本といえば、ピアノの製造の経験はおろか、音階も満足に理解できない西洋音楽の下地もなかった明治時代で、そんな時代の日本人が、最初のアップライトピアノを作り上げたのが1900年、つづく1902年にはグランドを完成させ、ここから世界的にも例の無いような急成長を遂げるのです。
この山葉と河合はのちにヤマハとカワイとなって世界的なピアノメーカーへ輝かしい階段を一気に駆け上り、奇跡のような成功をものにするのですから、やはり日本人の特質は尋常なものではないと思います。

自ら開発することなく、既製の技術力を外国から投下され(もしくは盗み取って)、物理的な生産にのみこれ努めるどこかの国とは根本的に違います。
はじめのオルガン作りからわずか百年後、東洋の果ての小さな島国で生まれたヤマハとカワイは、欧米の伝統ある強豪ピアノメーカーをつぎつぎに打ち破り、ついにはショパンコンクールの公式ピアノに採用されるなど、今ではこの二社はピアノ界で当たり前のブランドになっています。

わけても有能な設計者でもあった河合小市の存在は、日本のピアノの発展史に欠くべからざる能力を発揮したようで、複雑な精密機械ともいえるアクションの開発には特筆すべき貢献をしたといいます。
以前もどこかに書いたかもしれませんが、カワイのグランドピアノの鍵盤蓋にだけ記される「K.KAWAI」の文字はまさに河合小市この人のイニシアルなのです。

まさにピアノのマッサンですね。
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ヤマハの木目

ピアノの木工・塗装の工房では、ちょっと不思議な話も聞けました。

工房のすぐ脇には、作業を待つヤマハの木目のグランドが置かれていましたが、見たところアメリカンウォールナット(たぶん)の半つや出し仕上げで、楽器店の依頼で化粧直しのため運び込まれたピアノのようでした。

「ヤマハのグランドで木目というのは、意外に少ないですよね…」というと、その方いわく、ヤマハの木目グランドというのは不思議なことに買った人がすぐに(数年で)手放してしまうのだそうで、すでに何台もそういうピアノを見てこられたようでした。

かねてよりマロニエ君の中では、ヤマハのグランドってどういうわけか木目がしっくりこないピアノだというイメージがあったので、この言葉を聞いた瞬間に何かしら符合めいたものを感じてしまいました。
黒よりも価格の高い木目仕様をあえて選ぶ方というのは、ピアノに対して単に音や機能だけでないもの、すなわち木目のえもいわれぬ風合いとか色調など、これらの醸し出す雰囲気へのこだわり、あるいは真っ黒いツヤツヤした大きな物体が部屋に鎮座することへの抵抗感など、さまざまな感性を経た結果の選択だと想像します。
そういう情緒的な要求に対してヤマハのグランドというのは何か少し違うような印象があったのです。

ヤマハのグランドといえば音大生とかピアノの先生、学校などが、訓練のための器具として使い切るためのピアノというイメージが強いのでしょうね。

こう書くとヤマハグランドのユーザーの方には叱られるかもしれませんが、そこにたたずむだけで何かしらの雰囲気が漂うとか、美しい音楽の予感とか、温かな心の拠りどころのようなものを連想させるキャラクターではないのかもしれません。せっかく買っても、わずか数年で多くの人が手放してしまうということは、実際に身近に置いてみて、予想と結果に何かしらの齟齬のようなものを感じてしまうからなのでしょうか…。

ふと、十数年以上も前のことで、すっかり忘れていたことを思い出しました。
当時、親しくしていたピアノの先生を車の助手席に乗せて走っていたときのこと、郊外にある当時としてはちょっとオシャレなレストランの前を通りかかると、その先生は「あ、ここ、ぼくが以前使っていたピアノが置いてある店だ。」と言いだしました。それによれば、以前ヤマハのウォールナットのグランドを持っていて、それを今のピアノに買い替えたというのです。

ところが、いきなり「木目ってよくないから…」と言い始めたのにはびっくりでした。
その理由というのが「木目ははじめは珍しさもあっていいんだけど、だんだん飽きてくる。あれはやめたほうがいい…」ということ。そして「やっぱり黒がいい!」というわけで、聞いていてひじょうに驚いたものの、あまりにも自信をもって断定的に言われたので、その空気に圧倒されて、その場では敢えて反論はしませんでしたが、これは当時かなりインパクトのある意見でした。

木目なんぞまるで邪道だといわんばかりで、ニュアンスとしては、だからピアノが主役じゃないレストランみたいな場所にはちょうどいいかもしれないが、本来はピアノは黒が正当な姿だと本心で思っているらしく、その感性にはただただ呆気にとられたものです。

メーカーの教室で多くの先生を統括する立場の先生でしたから、そのときはあたかもピアノの先生の代表的な意見のようにも感じてしまいましたが、むろんそれは彼固有のもので、木目のピアノを好まれる先生もおられることでしょう。しかし、きほんピアノの修行に明け暮れた人たちというのは、ピアノは愛情愛着をもって接する楽器というより、使って使って使い倒す道具という意識が強い方が多いのも確かなようです。こうなると実際に木目ピアノを所有しても、良さは感じないのでしょうね。

ただ、マロニエ君のイメージとしては、ヤマハのグランドはやっぱり黒で、どんなにガンガン使われても決してへこたれない逆境にも強いピアノという感じが一番です。なにしろタフで、そんな頼もしさが使い手/技術者いずれからも厚い信頼を得ている…そんな姿が一番似合うように思います。
そう考えると、木目の衣装を着こなすピアノではないというのも頷けます。
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2015新年

あけましておめでとうございます。
このブログも5年目を迎えました。
懲りもせず、よくもくだらないことを書き続けたものですが、もうしばらくは続けるつもりですので、おつきあい願えればこの上もない幸いです。


暮れの30日の夜は、ある調律師の方がやっておられる木工塗装の工房に呼んでいただいたので、滅多にない機会でもあり、ちょっとお邪魔させていただきました。

ピアノの技術者や店舗の中には自前の工房があり、そこでピアノの修理やメンテを手がけられる方がいらっしゃいますが、オーバーホールやクリーニングともなると、作業工程の中には塗装や磨きも外せない項目として含まれます。
しかし、塗装にまつわる技術というものは、ピアノ技術者にとってはいわばジャンル外の作業であり、こちらは大抵の場合アマチュアレベルに留まるのが現実でしょう。

全体としては、せっかくの丹誠こめた作業であるにもかかわらず、塗装に難ありでは最上級の仕上がりとは言えないピアノとなり、勢い商品価値は下がります。そこではじめからこの点はきっぱりあきらめて、塗装の専門業者へ任されるスタイルも少なくないようです。

オーバーホールなどでは、鍵盤とアクションを抜き取り、弦もフレームも外した、まさに木のボディだけを塗装の専門業者へ送るというスタイルの方もおられ、これは「餅は餅屋」の言葉の通りの各種分業で合理的ですが、逆にいえば一人あるいは一カ所で全部をこなすのは至難の業ということでもあるのでしょう。

当たり前ですが、木工・塗装というのは独立したジャンルであり、いわゆるピアノの修理技術の延長線上にはない別の技術であって、むしろ家具製作などの領域だといえるかもしれません。

少し話を聞いただけでもよほど奥の深い世界ということは察せられ、日々の研究も怠りないようで、いずれの道も究めるのは容易なことではありません。それだけに興味も尽きない分野だとも思いました。
プロの塗装作業のできる調律師さんというのは、いわば二足のわらじを履くようなもので希有な存在であるわけです。
この方は木工職人として、そちらの方面の全国大会にも作品を応募される常連の由ですが、その中でピアノ技術者はこの方だけというのですから驚きです。

その工房はピアノ運送会社の倉庫の一隅に塗装エリアを設けられたもので、倉庫内にはたくさんのピアノが並んでいましたが、やはりグランドは少なく、大半はアップライトでした。
マロニエ君はつい習慣的にグランドかアップライトかという目で見てしまいますが、現実はそんな甘いものではなく、最近は「ピアノ」といっても販売全体の実に8割までもが電子ピアノなのだそうで、アコースティックピアノは需要のわずか2割にまで落ち込んでいるとのことで、わっかてはいても衝撃でした。

昔のように無邪気にピアノをかき鳴らせる時代でないことは確かで、近隣への音の配慮や複雑な住宅事情など、複合的な理由からそうなっているのでしょうが、大筋では、やはり世の中が文化などの実用から外れたものに対する精神的な優先順位が低い時代になってきているというのは間違いないように感じてしまいます。

というわけで、今年はどんな年になるのやらわかりませんが、せめて大好きな音楽だけはなにがあろうと聴き続けていきたいところです。
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