パソコン交換

早いもので、今年もとうとう大晦日となりました。
年末の慌ただしい時期でしたが、6年ぶりぐらいにパソコンを買い替えました。

マロニエ君はパソコンをMacでスタートしたので、Macでなくてはならないということ以外、特にこれといったこだわりはなく、周りの人たちがどなたも適当な時期にパソコンを買い替えていくのが不思議なほど、ずっと一つのマシンを使い続けます。

だって興味がないんだもん。
パソコンに関しては、新しいものにはまったく関心もありません。そうはいってもパソコンはユーザーを愚弄するほど寿命の短い機械で、ハードディスクからカリカリというような雑音が出てきたりと、なにかと危ない雰囲気が出てくるのは嫌なものです。

仕事にも絡んでいるものなので、壊れたら壊れたとき…なんてことはいっていられません。
パソコンを取り替えるということは、いろいろな設定やら何やらがあるだけでなく、従来の環境とは否応なしに変化してしまうのが鬱陶しくて仕方ありません。
実をいうと、使い始めの面倒臭さがイヤで、昨年買ったiMacを一年以上物置に置きっぱなしにしてしまっていたのですが、ついにそれを引っ張りだしたというわけです。

つまり買い替えたといっても買ったのは去年で、正確には一年放っておいたものを使い始めたというわけで、放置しておいても何かが熟成するわけじゃなし、そのぶん古くなるというのにバカな話です。
パソコンは本体のみでは用をなさず、周辺機器や、ソフトや、データなどの問題がついてまわります。これだからパソコンのお引っ越しはマロニエ君にとってストレスを詰め合わせで抱えるようなもの。

それが嫌さに一年間古いマシンで粘りましたが、プリンターが故障して新しいのを買いにいったら、もはやOSが古すぎてそれで使用できるプリンターはもう買えないことがわかり、おそらく他の周辺機器やソフトも同様とのこと。
これはもういけない…と覚悟を決めて、ついに物置にしまい込んだiMacを引っ張りだすことに。
マロニエ君の場合、IllustratorやPhotoshopが必須なのですが、手許にある古いバージョンは新しいOSでは使えないため、これらのソフトを新規にそろえるだけでも大変です。

それらのソフトはまともに買おうとしたら、パソコン本体よりも高額なため、そのハードルを越えることにもずいぶん手間取りましたが、ついに覚悟を決めたわけです。

思い切っていざやってみると、昔に比べて初期設定が飛躍的に向上していることに驚きました。
当分は新旧マシンを併用することになりそうで、これがまたいちいち面倒くさいのです。
本来、Mac同士は中を一気に引っ越しすることが可能で、それをやればいいのでしょうが、そんなことをしているとまた何か予期せぬトラブルなどに遭遇しそうで、これをする勇気もないし、そもそもやり方もわからず、調べてまでやろうとも思いません。

とまあ、いろいろと不便はあるものの、それでも新しいパソコンというのは根底のパワーや技術がアップしていているためか、やはり気持ちがいいことも事実ですね。

ただし困ったこともあり、キーボードのキーの間隔がこれまでのノート型より広くなっているため、ちょっとした文章を打つにもミスタッチの連続です。
ピアノどころか、パソコンでまでミスタッチの連続とは、なんとも情けない限りですが、指先は無意識の加減までを記憶しているらしく、どうしても以前のようなペースで文章が綴れないのは困ったことです。
さらにワープロソフトもことえりが標準で、ATOKを長年使った経験からすると、ちょっとしたことが使いにくいものです。
だからといってATOKを買って入れ直すのも面倒で、現状に慣れるしかありません。


というわけで、いつものことながらしまらない話で今年も終わりですが、来年もよろしくお願い致します。
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おもてなし?

シトロエンという一台のフランス車を20年近く乗り続けていることは、折りに触れこのブログにも書いていますが、何より大変なのはメンテナンスに関する部分です。
これといって人気車種ではないため、当然ドイツ車のようは販売台数は見込めず、輸入元はいつもやる気がなく、ディーラーはころころ変わります。国内のパーツのストックなど無いに等しいのはいつものことで、さらにはメンテを受けてくれるサービス工場というか、いわゆる主治医を確保するだけでもオーナー諸氏はいつも苦労をさせられています。

ここ10年ほどの主治医は、看板さえあげていない個人の整備工場で、有名な輸入車店の工場長をされていた方が独立してやっているところですが、ここには普通の工場は診てくれそうにない珍車・稀少車が年中あふれています。
その主人というのが大変な変わり者で、よくいえばマイペース、その上に一人でやっているものだから、その仕事ぶりはますます不規則で、約束などはほとんど役にたちません。さらには仕事が立て込むと電話にも出なくなり、それが延々何日間も続くなど、そのお付き合いの流儀は一通りではありません。

故障で困っていようが、車を預けて約束の日を過ぎていようが、ひとたび音信不通状態に入るとこれが一週間でも十日でも続きます。友人の中には、遅々として進まぬ作業のため、ついには半年間も車を預けるハメになったりと、およそ常識では考えられない世界で、さすがに最近では少し客離れが起きているような気配です。

マロニエ君もひとえに愛車のため、ここに出入りし、ひたすら忍耐を続けました。

ところが最近になって、以前この車のディーラー(今は存在しない)でメカニックをやっていた人が紆余曲折の末、福岡市内のBMWのディーラーに勤められることになったらしく、驚いたことにはシトロエンも受け付けるという情報を仲間内から得たので、二三修理を抱えていたことでもあり連絡を取ってみました。

果たして快く受け入れてくれることになり、さっそく車を持ち込み、二週間ほど預けてつい先日引き取ってきたところです。

くだんのマイペースおやじのファクトリーに比べれば、距離もグッと近くなり、電話には必ず出る(ディーラーなので当たり前ですが)、しかも腕も良いのですっかり気が嬉しくなりました。

それだけ状況は好転したのだから十分ではありますが、気になる点も少しありました。
ひとくちにBMWのディーラーといっても市内にはずいぶんあちこちにあって、しかもそれぞれ母体となる親会社が違っていたりと、どこがどうなっているのやらさっぱりわかりません。

今回の店舗・工場は比較的最近オープンしたところですが、敷地内に入って車を止めようとするや、ショールームの中から若い女性が二人と男性一人、計三人もが脱兎のごとく飛び出してきて、寒風吹きすさぶ中を車外で待機して御用伺いをします。ドアを開けるなり、来意とメカニック氏の名を告げましたが、こういうことをあまり過剰にやられるのは却って快適とはいえないものがあります。

修理が終わり車を受け取りにいったときも同様で、手厚いお出迎えとともにショールームの一隅に案内され、希望するドリンクをもってきてくれるなど、ありがたいことではありますが、そのいっぽうで、たかだか修理明細を作るのに延々と長時間待たされるのはどうかと思いました。
ついにしびれを切らし、今日のところは支払いだけ済ませて明細は後日送ってもらうことになりましたが、今度は領収書を出すのにも再び待たされます。

上質な「おもてなし」のかたちをとるのは結構だけれども、何時ごろ行くというのはあらかじめ伝えた上でのことなので、こういう肝心なことはもう少し迅速に願いたいところです。
たしかに車(とくに輸入車)の顧客の中には、ディーラーで受ける接待がよほど心地いいのか、これをひとつの楽しみにして、なにかというと店に出入りしているような人も少なくないようなので、店側も迅速に事務処理をするという必要性がないのかもしれませんが、マロニエ君のようにその手のことに興味がない側にしてみれば、いささか鬱陶しいのも事実です。

快適というのは形ではなく、精神の領域にあるものだということをあらためて思いました。
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続・それぞれの道

長い歴史の中で、職人や物作りの最前線で圧倒的に男性が多いのは、たしかに昔の男社会的な悪しき感性を引きずっている面もあると思いますが、現実問題として仕事のクオリティなどが男性向きであったことも要因のひとつであったと思います。

男性の仕事が正確で美しいのは、べつに男のほうが能力があるからとは思いません。
もてる能力の総量においては、男女でこれといった差はないというのが一般的な認識ですし、そこはマロニエ君もまったく同様の考えです。要は、その能力の用い方、運用の手順や方法が男女ではかなり違うのだろうと思います。

男はなんにつけてもあれこれの気を遣いますし、前後左右に注意の意識が働きますが、これは悪くいうなら臆病で心配性ということもできるかと思います。

それはまさに一長一短で、指導者とか人の上に立つリーダー的なものには、そういった周囲に気が回りバランスをとろうとする性質は良い場合に働くことも少なくありません。
仲間意識というものもこれに類するものでしょうが、時として互いをかばい合ったり、悪しき慣習の是正や改革ができないのも男性の方が強いと言えるようにも感じます。

いっぽう、マロニエ君が個人的に感じているところでは、医師などは意外にも女性は好ましい性質を発揮する職業ではないかということです。
個人的な経験が中心になりますが、これまでの人生の中で自分が医師の診察を受けたことがあるのはもちろん、身内や家族が入院というような状況にも何度か直面しましたが、そのいずれの面でも女性医師の素晴らしさというものが強く印象に残っています。

いろいろ理由はありますが、まず女性医師には変な欲があまりない(もしくは平均して男より少ない)ということがあるのか、医師として目の前の患者に対して必要なことはなにかを、真摯に考えてくれると感じるのは多くが女性医師でした。
もちろん男性がそうではないというわけではないのですが、男性医師はどちらかというと自分本位で、患者の状況説明などを注意深く耳を傾けることより、専ら自分の知識や経験、それに基づく判断や能力が優先されます。

家族が入院などした場合に於いても、女性医師は思いのほか責任意識が強く(と感じる)、労を厭わずに必要なことを地道にやろうという意志が読み取れます。
必要に応じて説明はきちんとしてくれるものの、その説明が簡潔で過不足なく、よけいなことは省略され、必要以上に患者の家族にもストレスをかけないのも女性医師だったと思います。

では男性医師はどうかというと、ひとことでいうといちいち自慢の要素があり、必要な説明と、不必要な説明の選り分けがなされていません。徒に専門性を帯びた言葉や論理、仮定の話などを延々と繰り返し、それを聞かせたがるのが男性医師という印象です。
今どきということもあって表向きの語り口はいちおうソフトだけれども、どこかに支配的/権力的な響きが混ざっているのも決まって男性医師です。

なにかで読んだことがありますが、男というものは三度のメシより自慢が好きなのだそうで、それを何らかのかたちで出さないでは生きていけない生き物のようです。
優秀だなあと思うことがある反面、男のこういう部分は、根本が幼稚だとも思うわけです。

そしてその自慢に対する押さえがたい欲求が、切磋琢磨のモチベーションになっているという一面はまちがいなくあると思います。

それでも最近では男女の特性にも多少の異変があって、従来は男の牙城のように思われた分野に、ぞくぞくと気鋭の女性が頭角をあらわしているようですから、はてさてこの先はどうなっていくのだろうと思います。
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それぞれの道

ジェンダーフリーが叫ばれる今日、あまり近づかない方がいい内容かもしれませんが、決して思想的な話ではありません。

基本的な権利や能力の問題とはまったく無関係に、女性と男性とでは、根底のところにあれこれ違いがあることを近ごろことさら痛感させられ、だからこそ人間はおもしろいなぁと思います。
どんなに気の合う女性でも埋めがたい溝を感じることがあるいっぽう、苦手な男性であっても本能的にスッと共有できる感性があるのは、これがまさに男女の染色体の差だろうと思われ、それは個人差・世代差を突き抜けたところに存在するもののようです。

なにかにつけて同性・異性はかなり違う作りになっていると思います。
何を云っている!そこには性格的なものや個人差もあるのであって、そういう見方をすることが偏見ではないかと叱られそうですが、けっしてそうではないのです。ある程度の数をみていると、やはり大まかな男女の違いの傾向というものは掴めてくるものです。

一般的なことを例に取りますと、例えば整理整頓とか掃除です。
少なくとも現代の女性、とりわけ外で仕事をする女性というのは呆れるばかりに掃除がお嫌いのようです。嫌がるものをやらせるのは至難の技で、相手も取り立てて抵抗しているわけではないようなのですが、そもそも身についていないものは、なかなか実行するのが難しい。

これは育った時代や環境などさまざまな要因があるようです。そもそも整理整頓や掃除というものをほとんどしたことがない由、当然それが生活習慣として身についてもおらず、これは一朝一夕に解決する問題ではありません。

生活習慣としては男も同じのはずですが、それでも敢えてやってみると、男のほうがだいたい丁寧できれいですし、物入れに物を入れるという単純な行為に於いても、大抵の女性はそのつど放り込むというパターンで、その限られた空間を効率よく使うという考えがないようですが、どちらかというと男はパズル的な頭を使います。

テレビで収納の達人のような女性とか、要らない物を処分して家の中をいかにきれいにするかを声高らかアドバイスするような女性がいたりしますが、あれはたまたま仕事として技を磨いているだけで、実生活でそんなことをやっているのは、はたしてどれぐらいいるでしょう。

緻密さとかマニアックというのもだいたい男の特性で、要するに感性、価値観、思考回路など、脳の働き方が違うことを悟りました。

つい先日も驚いたのは、ある設備工事のために来た作業員の数名(全員男性)が、高いところに並べた何十もの装飾品をすべて下におろして作業をやっていました。

これを元に戻すのは大変であるし、工事は延べ3日間にわたっておこなわれる予定なので、全部終わってから並べようと覚悟していました。
ところが初日の工事が終わり作業員の方達が帰られたあと現場を覗いてみると、目に入ってきた光景は工事前と寸分違わぬまでに完璧に元通りに片づけられていて、その日一日工事をしていたことが信じられないほどきれいなことにまずビックリ。
さらにマロニエ君を驚嘆させたのは、高いところを見上げたときのこと、その装飾品が魔法でも使ったのかというほどきれいに並べられ復元されていることで、さすがにこのときは男性の仕事の見事さ、質の高さというものに舌を巻き、おもわず感動してしまいました。

対照的に、女性は忍耐力や男の数倍はあろうかと思う強靱な精神、あるいは度胸などはずば男の適うものではないと思います。ものごとの本質を瞬時に捉える直感力に優れるのも女性で、その現実感覚は男性脳のこまかな動きを一挙に抜去るものがあり、ただただ敬服するばかりです。

まだまだありますが、とりあえずこのへんにしておきます。
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わからぬまま

来年はショパンコンクールの開催年ですが、このコンクールの歴史にはポリーニやアルゲリッチのようなスーパースターを排出した経緯があるいっぽう、優勝者の該当なしで幕を閉じるという珍事が1990年と1995年に立て続けに起こりました。

このため2000年の第14回では「なんとしても優勝者を出す」という強い方針のもとでコンクールは開かれ、ブーニンいらい15年ぶりに優勝を飾ったのがユンディ・リであったことは良く知られているところです。

優勝者を出すか否かは非常に難しい問題だと思います。
ショパンコンクールといえばまさにピアノコンクールの最高峰で、そこには自ずとコンクールの権威というものが深くかかわってくるでしょう。
相対的1位が優勝か、あるいは真に優勝に相応しい才能だとみとめられた者が名実ともに優勝者となるのか…。

若いピアニストの質を問うという厳格な観点から見るなら、その栄冠に値する者がいないとみなされた場合、優勝者なしという結果で終わらせるべきかもしれません。しかし、いかにショパンコンクールといえども運営という側面があり、優勝者不在となれば5年にいちど世界が注視するこのコンクールがぱったりと盛り上がらなくなるのも現実です。
もっとも注目度の高い、国をあげてのお祭りイベントでもあるだけに、その主役が空席になることは許されないのかもしれません。

つい先日ですが、その優勝者不在の1990年と1995年に連続出場し、二度目に第2位となったフィリップ・ジュジアーノのコンサートを聴くため、福岡シンフォニーホールに行きました。

曲目はショパンの前奏曲op.45、バルカローレ、バラード全曲、スクリャービンのop.8のエチュード全曲他というものでしたが、聞こえてきたのは、まるで軽いランチのような演奏で、このピアニストの聴き所はいったいどこなのか、ついにわからぬまま会場を後にしました。ショパンはもちろん、スクリャービンに於いても作品の真実に迫るものはあまりなく、表現も強弱も、小さな枠の中でかろうじて抑揚がつくだけで、ほとんど変化に乏しいものでした。

当然ながら聴衆もテンションが上がることなく、マロニエ君の近くでもかすかな寝息が左右から聞こえてきたほか、休憩時間に会場でばったり会った知人も「寝てましたね」とこぼしていたほどでした。これでは、わざわざチケットを購入し会場に足を運んだ側にしてみれば、満たされないものが残るのもやむを得ません。

ジュジアーノ氏は長身のフランス人で現在41歳、心身共にもっとも力みなぎる時期だと思われますが、そんな男性ピアニストが、淡いレース編みのような演奏に終始することに不思議な印象を覚えてしまったのはマロニエ君だけではなかったはずです。

ピアニストの中には大きな音を出してヒーローを目指す向きもありますが、それは腕自慢なだけのいわば野蛮行為で、むろんいただけません。そのいっぽうで、立派な体格の男性が、骨格のないタッチでさらさらと省エネ運動みたいな演奏をすることは、これはこれでかなりストレスです。

コンサートというものは、演奏者の個性や才能を通して出てくる音楽の現場に立ち合うこと。その演奏に導かれ、酔いしれ、あるいは翻弄され、心が慰められたり火が灯ったり、場合によっては打ちのめされたいということもあるでしょう。それが何であるかは、演奏によっても受け止める側によっても異なりますが、なんらかのメッセージを得られないことにはホールに足を運ぶ意味がありません。

厳寒の公園を早足で駐車場へ向かいながら、優勝の「該当者なし」という判断が二度も続いた当時の審査員の苦悩がわかるような気がしました。
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展覧会の絵

「ウマが合う/合わない」という言葉があります。
人間関係の中には互いにそこそこ尊敬し、関係も良好であるのに、どうしても呼吸というか波長というか、何かが合わない相手というのがあるものです。
わだかまりもなく、むしろ積極的に親しくしようとしているのに、なぜか気持ちがしっくりこないといえばいいでしょうか。

これがウマが合わないということだと思います。
取り立てて理由もないのに、どうしても好きになれないと言うのはある意味深刻で、これはどうしようもないことで、運命とでも思って諦めるよりほかはないようです。

歯車の噛み合わないものは、もともとの規格が違うのだからつべこべいうことでもない。

こんな事が、実は音楽の中にもあると思います。
いかなる名作傑作の中にも好きになれない曲というのがあって、これはきっと、どなたにもそんな曲のひとつやふたつはあるだろうと思います。

中には、自分が未熟なためにその作品の魅力を理解できなかったというような場合もあれば、理想的な演奏に恵まれず、良い演奏に出会ってようやく好きになるというようなパターンもあるでしょう。

あるいは自分の年齢的なものにも関係があり、若い頃好きだった曲がそうでもなくなったり、逆にある程度の年齢になって興味を覚える作品もあるわけです。
マロニエ君の場合は、ベートーヴェンの弦楽四重奏やブラームスのピアノ曲、マーラーやブルックナーのシンフォニーなどは、若い頃はもうひとつ魅力を感じず、遅咲きだった記憶があります。

さらにはモーツァルトやシューマン、チャイコフスキーなどのめり込んだ時期があったかと思えば、その反動から聴くのが嫌になって長いこと遠ざかったりと、まあ自分なりにいろんな山坂があるものです。

ところが、中には時代/年齢その他の理由を問わず、終始一貫どうしても好きになれない曲というものがあります。
マロニエ君にとって、その代表格が例えばムソルグスキーの展覧会の絵で、これは何回聴いても、いくつになっても、どうしても好きになれません。あれだけの作品なのですから、悪いものであるはずはなく、自分の耳がおかしいのか、理解力が及ばないのだろうなどとあれこれ思ってはみるものの、要するに嫌なものは嫌なのであって、いわば生理的に受けつけないのです。

有名なラヴェルの管弦楽版も、だからまともにしっかり聴いた覚えがないほどです。
しかし、オリジナルのピアノソロは演奏会でもしばしば弾かれる(それもプログラムのメインとして!)ことがあり、あのプロムナードの旋律が鳴り出すや、条件反射のようにテンションが落ちてしまいます。
このときはできるだけ気を逸らし、会場のあちこちを観察したり、楽器や音響のことを思ったり、あるいは明日の予定はなんだったかなどまったく別のことを考えながら、ひたすら終わるのを待ちますが、音楽というのは待っていると長いものです。

今年のいつごろだったか、ファジル・サイが福岡でリサイタルをやりました。最近では珍しく「聴いてみたいピアニスト」であったにもかかわらず、プログラムに「展覧会の絵」の文字を見たとたん気分が萎えてしまい、けっきょく行きませんでした。

マロニエ君は基本的にプログラムは二の次で、誰が弾くのかという点がコンサートに行く際の決め手ですが、ここまでくると二の次というわけにもいかないようです。
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ごりっぱ

現代のバッハの名手であるエフゲニー・コロリオフの弾くシューベルトを聴きました。

曲目はピアノソナタD.894「幻想」とD.959という、晩年および最晩年の大曲。
D.894は1826年に書かれ同時期には交響曲のザ・グレートがあり、翌年にはドイツリートの金字塔である「冬の旅」が、さらに翌年には3つの最後のソナタD.958─960を書いたのち、同年11月、31才という若さでシューベルトはこの世を去ります。

ディスクには2012年12月の録音とあり、この感じなら追ってD.958とD.960もカップリングされてリリースされるような気がします。

コロリオフは1949年モスクワ生まれのロシア人ですが、すでにロシアよりもはるかに長い時間をドイツで過ごしており、その演奏から聴こえてくるのは、音楽的には完全にドイツ圏に帰化したピアニストと云って差し支えないと思われます。

さて、このシューベルトの2曲ですが、さすがにコロリオフらしく一音たりともゆるがせにしない真摯さにあふれ、解釈もきわめて正統的で注意深く、すべての音は磨き抜かれています。それでいて尊大さがないのはこの人の良心的な人柄のなせる技なのかもしれません。

コロリオフこそはピアノに於けるノイエ・ザハリカイト(芸術を主観に任せず、客観的合理的にとらえる考え方。音楽では楽譜を尊重し解釈演奏する)の現役旗手とでもいうべき人で、楽譜に忠実な演奏がそこに広がり、ここまでやられるとぐうの音も出ない感じです。

まるでドイツの最高権威の演奏とはこういうものですよという模範が示されているようでもあり、加えて聴きごたえじゅうぶんの濃厚さと、全体を貫く気品が見事に両立している点もいつもながらさすがです。
おそらく音楽の研究者や、直接の演奏行為に携わるピアニストなどは、専門的関心や解釈など何かと参考になりやすく、こういう演奏を崇拝する向きも多いだろうと思われます。

ただ個人的には、このような全方位的完璧を達成した演奏は、100点満点の答案用紙を束で見せられるような気もしないでもありません。純粋に音楽を聴く喜びや意義という点からいうと、音符に対してすべてが正しく吟味された演奏であることだけが必ずしも正解か否かを考えさせられるところ。

それぞれが4楽章からなるソナタで、CDには計8つのトラックがありますが、どこを取り出して聴いても理路整然とした折り目正しい解釈と、それを実現した演奏がそこに確固として存在し、最高級の工芸品が8つ、整然と並べられているようでもあります。

悲痛に満ちた晩年のシューベルトの生身の心に触れる演奏というより、すべてが確信を持って書き上げられた堅固な芸術作品のようで、それを最高の精度で再生するというところに特化された演奏のようでもあり、そこに一種の単純さを感じなくももありません。

いまさらですが、やはりマロニエ君はシューベルトの歌やうつろいの要素を随所で感じさせてほしいというのが正直なところで、コロリオフの演奏が本当にシューベルトの本質に迫っているものかどうかは判じるだけの自信は持てません。でも素晴らしい演奏というものは、もうそれだけで途方もないパワーと魅力があるもので、そんなことを感じつつ何度も何度も聴いてしまいます。

ふと、デヴィッド・デュバル著の『ホロヴィッツの夕べ』(青土社)に、次のような一節があったことを思い出したので、それを付記します。
「現代の演奏は、十九世紀後半の自己耽溺への反動で、作曲家の楽譜を神聖視する。─略─ 楽譜の文字を信じ、それはしばしば作曲者への尊敬になった。この姿勢と完璧な録音は、音楽の解釈を単一化することになり、無感動の元になった。これは音楽の生命を脅かし、多くの若い演奏家たちを音楽の心から切り離した。」
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演奏姿勢と音楽

いつだったかNHK日曜夜のクラシック音楽館で、我が地元である九州交響楽団の演奏会の様子が採り上げられ、小泉和裕氏の指揮で演奏機会の少ないブルックナーの交響曲第1番のほか、前半にはアンドリュー・フォン・ オーエンをソリストに迎えてシューマンのピアノ協奏曲が演奏されました。

会場はアクロス福岡シンフォニーホールで、見慣れた会場がテレビカメラを通して見ると、実際より立派なところのように見えることに驚きました。映像というのは不思議で、立派なものがしょぼくれて見えることがあるかと思えば、このようにそれほどでもないものがやけに立派に映し出されたりするようです。

九州交響楽団は福岡市に拠点を置く九州でもっとも歴史あるオーケストラですが、なかなかコメントする気にはなれないというのが正直なところ。

ピアノのアンドリュー・フォン・ オーエンは、少なくともマロニエ君にとっては特別な個性や魅力をもったピアニストとは言い難く、かろうじて回る指をもっていることからなんらかのチャンスを得てピアニストになってしまったのか、どちらかというとプロ級の腕をもったアマチュアといったら悪いけれども…そんな印象です。

最近は女性の演奏家の中には明らかにビジュアル系で売っている人が少なくありませんが、このオーエンも失礼ながらそちら系というか、ピアノの弾けるイケメンでステージに立っている人という気がしなくもありません。

彼を見ていて、今回はあるひとつのことに気がつきました。
いい演奏というものは、そのパフォーマンス中の姿勢や身体の動きにも現れるということです。
演奏姿勢の美しい人は演奏それ自体も無理がなく、音もリズムものびのびしていますが、身体の動きのおかしな人は、それが演奏になんらかの影響が現れているといえるようです。

極端に低い椅子で演奏したG.G(グレン・グールド)などは、その点で例外ともいえそうですが、彼の腕から指先の動きはきわめてまともで、とりわけ手首から先の無駄のない動きに至っては見ているだけでも惚れ惚れするほど美しいことこの上ありません。

オーエンの上体は意味不明な動きを繰りかえし、それが音楽的な必然とも思われず、見ていて気にかかります。左手など、なにかというとシロウトのようにだらしなく手首を下げたりと、いわゆるプロとしての修行をきちんと積んだ人なのか疑わしくなります。
音楽的にも線が細くて一貫性に乏しいのは、この人がこれといった根幹を成していないためではないかとも思えました。

そういえば、朝の番組で放送された日本音楽コンクールのピアノ部門でも、上位4名が抜粋で紹介されましたが、演奏にあまり好感のもてない人は、やはり姿勢や動きが不自然で、気合いだけでピアノをねじ伏せるように弾いているようでした。
ひとりだけまあまあと思える女性がいましたが、その人はピアノと格闘せず、音楽の波に乗った演奏ができていたと思いましたが、やはり姿勢もとてもきれいなことが印象的でした。

ピアノに限りませんが、楽器や機械を操作する、あるいはなにかの動作をするというときに、その姿が美しいのは、単にみてくれが良いというだけではなく、そこには機能美としての裏付けがあるからだと思います。
ゴルフのスイングひとつ見てもわかりますが、プロはまったく無理のない最小限の動きでボールをいとも軽々と遠くへ飛ばしますが、政治家などアマチュアのそれは変なくせがあって無惨なばかりのフォームです。

演奏の姿勢や動きがどこかおかしい人は、やっぱりそこから紡ぎ出される音楽も、姿形があまり美しくはないという、考えてみれば当たり前のようなことを確認できたということでした。
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無個性の心得

TVニュースなどを見ていると、現代人は一億総役者か総タレントではないか?と感じることが少なくありません。

政治・経済・事件・事故などあらゆる場合に応じて、一般人がふいにカメラとマイクを向けられても、大半の人が、概ね似た感じの、きわめて無個性なありきたりな内容のコメントをするのは何なのかと思います。

しかも、おおよその口調や、語尾に「かな…」「みたいな…」をつけて、自分の意見としてきっちり結ばないところにも、大きな特徴があるようです。

まるでマイクを向ける側が、こういう答えを欲しがっているというのを察しているのか、それに添って答えているようにも感じられます。みなさん申し合わせたように何かを心得ておられて、まるで大雑把な台本があるかのようです。

それが練習の必要もないほど、一般的な意識として浸透しているのだとしたら、これは考えてみたらすごいことだと思います。

もしマロニエ君が同じようなシチュエーションに遭遇したら、まず間違いなく逃走してしまうでしょうけれど、万が一にもなにか答えるとしたら、とてもあんなふうな言い回しはできないと思うばかり。

どんなにつまらぬ意見であっても、話すからには自分のオリジナルの考えを述べるべきで、多くの人がこう考えるであろうというあたりを自分の考えとして滔々としゃべるなんて芸当は、そもそもマロニエ君にはできもしませんが、それじゃ何の意味もないと思います。

さらに戦慄するのは、そんな言い回しや思考回路が子供世代にまで波及していて、小学生ぐらいのコメントを聞いていても、そのしゃべり方・内容・ちょっとした間の取り方や調子まで、今どきのオトナのそれのようで思わず背中に寒いものが走ります。

自分の意見というものは、もっと素朴で正直で自由があっていいのではと思います。
しかるに多くの人達は、正直どころか、できるだけ一般的な感性から逸れないよう発言にも妙な折り合いをつけるよう努めているようで、もしかすると自分が一般的な意見の代弁者たることを目指しているのかとも思います。

すべてはご時世かとも思いますが、ひとつだけそれは違う!と声を大にして言いたいことがあります。
時あたかも衆院選を控えている時期で、若い世代の投票率がいよいよ低いことが問題視されていますが、若い人にインタビューすると恥じる様子もなく投票には「行かなーい」「行かないですね」とあっさり言い放ちます。
そこまでならまだしものこと、いかにもさめたような調子で「誰がなっても同じだから」として、だれもかれもがこれを選挙に行かない理由としています。

しかし、まさかそんなことがあるでしょうか。
たしかに55年体制まっただ中における慢心した派閥政治の時代ならまだいくらかわかりますが、現在の自公政権と先の民主党政権は誰が見てもまったく違うし、安倍さんと菅さん、どちらが総理でも同じだと本気で思っているのでしょうか?
何をいいと思うかは各人の判断するところですが、誰がやっても「同じではない」ことだけはハッキリと言いたいわけです。その違いはウインドウズとマックどころではないですよ。

投票に行かないことは、これはこれでひとつの意思表示かもしれませんが、己の無知を恥じぬままスタイルとして蔓延するのはきわめて憂うべきことだと思います。
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見えていない自分

人の言動の中には、あくまでもさりげなさを装いつつ、なんでそんなに自分を上に見せようとするのかと感じることがあるものです。

ある病院に行ったときのこと、終って駐車場に向かっていると、偶然向こうからそこの先生の奥さんとばったり会いました。
この奥さんとはべつに知り合いというわけではなく、ときどき受付などにもすわっておられるので、しだいに顔見知りになったというだけの間柄です。

ところがこの方、なぜかマロニエ君の自宅の場所などもご存じらしく、「あのあたりは…」というような話をしばしばされるのには以前から少し違和感がありました。

病院に行くには健康保険証などを提示するので、そこから個人の住所なども知るところとなるわけですが、それを情報源として患者への雑談のネタにしていいかというと…それはちょっと違うような気がします。

さらに驚いたことには、マロニエ君の知るお若い演奏家兼先生をその方も何かの繋がりでご存じだったようで、その人物のことを「○○クン」と何度も繰り返し口にされるのには、いささか驚きました。

若いといっても相手は学生ではありません。
コンサートで演奏を重ね、先生として教室の長としてやっているからには、それなりの呼び方があるはずですが、あえてそう呼ぶことで自分の優位性を作りだし、そこを相手に印象づけるかのような心底が見えてしまいます。
百歩譲って純粋に親しみをこめてだとしても、相手(マロニエ君)は身内ではないのですから、表向きは「さん」か「先生」と呼ぶのが見識というものですが、この場合は「くん」である必要があったのかもしれません。

そもそも、この「クン呼ばわり」というのはテレビなどでも見かける、発言者の浅薄な自己宣伝手段としてしばしば用いられる印象があります。
社会的に話題の人であるとか、スポーツでめざましい結果を上げて注目を浴びているようなスター級の選手などを語る際に、あくまで自分にとっては対等の友人、家族ぐるみの付き合いをしている、もしくは目下の若者にすぎないよ…といわんばかりに、むやみに親しげな口調で不自然なコメントすることは少なくありません。

その相手を、わたしは「くん」で呼ぶだけの資格があるんだという、たったそれっぽっちのことで、自分の立ち位置を高いところへ引き上げようという、あまり上等とは云えない狙いが透けてみえるのです。
これを言ってサマになるのは、直接指導に携わった文字通りの先生や恩師だけでしょう。

マロニエ君はこの手の人を見るたびに、なんとも教養のない、世俗的な神経の立った、ハッタリ屋のように思えて仕方がありません。
ほとんどの場合、「さん」で呼ぶほうがどれだけ自然かわからないのに、それでも意図してまでクンとかチャンといってしまうのは大抵自己アピールで、ひどく物欲しそうな小さな人物に見えてしまいます。

政界にも、かつての石原慎太郎氏や、引退した渡辺恒三氏などは、相手が総理であれ大臣であれ、だれかれ構わず○○クン○○ちゃんとぬかりなくいっていましたが、今はさすがにそんな手合いもいなくなりましたね。「ぬかりなく」というのは、クン呼ばわりする相手がエライほど、そこには意味と快感があったはずだからです。

本人は至ってさりげない発言のつもりのようで、だから相手は感服しているという読みなのでしょうが、その考えは甘いというものです。聞いている側は、そこがいちいちわざとらしく、よけい耳障りに響くのですが…。
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フーガの技法

まったく個人的な見解ですが、バッハのありのままの魅力というか、多くの作品を気負わず素直な気分で楽しむことを阻害してきたのは、ひと時代前に蔓延していた、大上段に奉られた、いかめしいバッハ像にあったような気がします。
過度の宗教性、厳格なスタンス、楽しむものとは一線を画する、聖典のような音楽といった趣で、これは時代そのものが作ったバッハのかたちであったように思います。

音楽の純粋な愉悦とは対極の位置に押しやられてしまったバッハ、荘重荘厳でなくてはならないバッハ、むやみに神聖化しすぎたバッハ像は、却ってこの偉大な大伽藍のごとき作曲家を人々から遠ざけてしまった一面があったのかもしれません。

これを打破した象徴的ひとりがG.Gであり、多くの音楽家がなんらかのかたちでそれに続いたことは否定できないでしょう。バッハ演奏にあたって、ポリフォニーの明晰な弾き分けは当然としても、随所に散りばめられた多くの歌、幾何学のモダンと斬新、舞曲としての遺伝子を無視した即興性に欠ける、西洋のお経のようなバッハは、マロニエ君はあまり聴きたくありません。

だからといって、ただ定見なく楽しく自由に演奏すればいいというものではなく、そこには切っても切れない宗教との絡みがあることは厳然たる事実でしょう。ただ、宗教とは人間全般の悲喜こもごもの生から死までの全般を引き受けるものであって、楽しみの要素のないことが宗教的敬虔さというふうには考えたくないのです。

ポリフォニーは音による緻密な編み物であり、その頂点に位置するのがバッハであることは異論の余地はありません。そしてその絵柄やモティーフは宗教的なものが多いとしても、それを教会の空間にばかり浸し続けるのは、この孤高の芸術を却って矮小化する行為のようにも感じてしまいます。

とくに晩年の傑作であるフーガの技法は、演奏する楽器の指定さえもないという、時空にひょいと放り投げられた崇高で謎めいた音楽のひとつでしょう。未完であることさえ、バッハの音楽が永久不滅であることをあらわしているかに思えます。
これはソロピアノによる演奏もあって、多くはないものの、いくつかのCDも出ています。

残念なことにG.Gはフーガの技法では前半をオルガンで弾いたり、ピアノで部分的な映像があったりするものの、ゴルトベルクのような決定的な録音は残していませんし、ニコラーエワのものももうひとつ決め手がない。
近ごろでは、幻のピアニストのように珍重されているソコロフのCDにもフーガの技法がありますし、コリオロフにもいかにも彼らしい名演があります。若手ではリフシッツもこれに挑んでいます。

ソコロフとコリオロフは個性は違えども、共にロシア出身のピアニストですが、その個性は対照的です。自己表出を極力押さえ、作品へのいわば滅私奉公を貫くことで、書かれた音符を生きた音楽に変換することの伝道者のようなコロリオフ。同じようなスタイルに見せながら、「音楽に忠実」を貫いている自分をいささか見せつけるふしのあるソコロフ。
ソコロフのサンタクロース体型に対して、コロリオフの痩身長躯も対照的。

共に驚異的なテクニックの持ち主ですが、ソコロフはリヒテルを彷彿とさせる巨人的な大きさで聴く者を制圧しますが、コリオロフはより緻密で論理的陶冶を旨としながら威厳があり、まろやかなのに張りのある音と細部までゆるがせにしない隙の無さで聴く者をしずかに圧倒します。

マロニエ君が本能的に聴きたくなるのはコリオロフとエマールです。

その理由をひとことでいうのは難しいですが、この2つはどうしても外せないもので、どちらも聴いていると「これが一番!」と思わせられてしまいます。
エマールの前衛と隣り合わせの時代を超越したバッハ、コロリオフの滑らかで緩急自在、優れた考証と最高度のバランスで聴かせるバッハ、どちらも捨てがたい魅力に溢れていて、このふたつがあれば今は大いに満足です。
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SKの使い道

ロシアのピアニスト、アンナ・マリコワによるスクリャービンのピアノソナタ全集を聴きました。

スクリャービンのソナタ全集は何種類か持っているものの、これという決定盤は思いつきません。名前もろくに思い出せないようなピアニストのものがいくつかある中で、ウゴルスキがようやく出てくる程度です。

ウゴルスキの演奏は見事ではあるけれど、どちらかというと重々しく芝居がかった朗読のようで、スクリャービンとピアニストの個性が合っているかにみえて、実はそうともいいきれないものがあり、こってりしたものをさらにこってり仕上げているようで、それほど好みでもありませんでした。

その点ではマリコワの演奏は、良い意味での現代的に整った演奏で、作曲家に充分な敬意を払いつつも必要以上の思い入れや表現を排した、客観性を優先した点が心地よく聞こえます。
作品が完成された音となって耳に届くのはありがたいというか、とりあえず快適であるし、ロシア人であるだけに、必要な厚みや熟考の後もあり、これといった演奏上の不満はありません。

非常に明晰かつ淀みなく流れるスクリャービンと言っていいと思います。

このCDでの聴き所はもうひとつあり、ドイツでの録音でありながら、ピアノはシゲルカワイEXが使用されている点でしょう。

驚いた事には、SK-EXとスクリャービンの意外な相性の良さで、これはまったく思いがけないことでした。
カワイの個性というのをひとことで云うのは難しいですが、少なくともコンサートグランドに関しては、ことごとくヤマハとは対照的だというのがマロニエ君の印象です。

誤解を恐れずにいうなら、ヤマハとカワイはそれぞれに日本的な暗さをもったピアノだと思います。これは、たんなる音の明暗ではなく、ピアノとしての性格や全体に漂う雰囲気です。
ただ、両者はその暗さの質がまったく異なります。

少なくともカワイはピアノ全体から流れてくるものが、朴訥で不器用、ある種の真面目さがあり、少なくとも洗練とかスタイリッシュといったものではないところに特徴があるように感じます。

このところ、プレトニョフをはじめとするロシアのピアニストの間でカワイの評価が高いのかどうか、はっきりしたことは知りませんが、カワイの持つどこか湿った感じの悲しげな響きが、ロシア人の感性にマッチするとしたら、これは大いに納得できることです。

それとヤマハと違う点は、カワイのほうがより演奏者にあたえられた表現の幅が広いという点で、ヤマハのほうがある程度の結果を規程してしまっている点が、演奏の可能性を狭めているように思います。

カワイが生まれもつ、どこかほの暗い雰囲気がスクリャービンとドンピシャリというわけで、これまでSK-EXがかなり高いところまで行きながら、あと一歩の決め手がないと感じてきましたが、ロシア音楽こそがその最良の着地ポイントであったとしたら、これはなかなかおもしろい事になってきたと思いました。

長年にわたってロシア御用達であるエストニアなどはもうひとつざらついていたり、ペトロフなどはあくまでも東欧であってロシア風とは似て非なるものを感じます。

その点でカワイ(とりわけSK-EX)は、ピアノとしての高いポテンシャルと完成度があり、日本製品としてのクオリティを持ちながらもキラキラ系で聴かせるピアノではない。さらに意外な懐の深さや逞しさもあり、ここにロシア方面からの注目が集まったとしてもなんら不思議はないと思いました。

現代のピアノは、やたら音の「明るさ」ばかりを重要なファクターであるかのよう強調されますが、何を弾いても職業的スマイルみたいな薄っぺらな笑顔ばかり見せるピアノより、渋いオトナの表現ができるピアノがあることは評価していい点だと思いました。

このCDで聴くスクリャービンには、スタインウェイでも、ヤマハでも、もちろんファツィオリでも聴く事のできない、カワイだからこそ結実した独特の雰囲気が漂っているとマロニエ君は感じます。

なんとなくカワイのピアノってロシア製の旅客機みたいで、ちゃらちゃらしない、質素な魅力があるのかもしれないと思いました。
和服でいうと結城や大島の紬みたいなものでしょうか。
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