女性の進出

長いデフレのトンネルから抜け出すのは容易なことではなく、安倍さんをリーダーとしてさまざまな努力がなされているのでしょうが、なかなか目に見えるような効果は出てきません。

経済評論家の言うことなどは半分も信じていないマロニエ君ですが、ときには「なるほど」と唸ってしまう発言があったりするものです。

デフレ脱却が難しい理由はさまざまでしょうが、そのひとつは、世の中の人間が「倹約の味を覚えた」からなのだそうで、これはある意味では贅沢の味以上に切り替えが難しいものだというのです。
いうなれば「倹約・節約」というパンドラの箱を開けてしまったと云えるのかもしれません。

本質的に人間は欲深でケチな生き物なのかもしれませんが、自分だけでは体裁や恥ずかしさ、さらにはいろんなかたちの欲が絡んでこれを断行するのはなかなか勇気がいるものです。着るものひとつにしても、あまり安物では恥ずかしいというような心理が働くでしょう。

しかし不況を機に世の中全体が節約ムードになり、みんながそっちを向いて、お店も何もが自虐的な低価格や無料といったものであふれかえると、それが当然のようになり、しだいに個々のケチも恥ではなくなり、いわば木を森に隠すようなものになる。
それが長期化すると、いつしかそれしか知らない世代まで育ってきます。

もうひとつは、女性の社会進出だそうです。
一般的に考えれば妻が専業主婦になるより、女性も働いて収入を増やすほうが消費も拡大するように考えがちですが、これがそうではないらしいのです。
ひとつは男性の平均的な収入が昔に較べて相対的に落ちていて、男だけの稼ぎでは一家を経済的に支えることが難しくなっていて、たしかにそんな印象があります。

それに加えて、そもそもでいうと消費の主役は女性なのだそうで、たしかに家や車といった大きな買い物をべつとすれば、その他の日常的な消費はほとんどが女性に委ねられていたというのも頷けます。
「夫が必死に働いて得たお金を、妻が平然と使う」というのが景気のよかった時代のスタイルです。

では、なぜ女性の社会進出が消費拡大に繋がらないのかというと、女性が自分でも働くことでお金を稼ぐことの大変さを身をもって経験するようになり、夫が稼いでくる時代のように無邪気な消費ができなくなったというのです。

昔の女性の消費は男性の稼いでくるお金に依存しており、その労働の辛苦にはあまり斟酌していなかったのかもしれませんが、今の女性は働いて報酬を得ることの厳しさをよく知っており、鷹揚な支出や買い物は激減したというのも納得でした。

たしかに、稼ぐ人と使う人が別でいられた時代のほうが、人々の心には単純な明るさがあって、消費にも勢いがあったのだろうと思います。高度成長の時代は、なんだかわからないけれどもみんな希望があり、給料も銀行振込ではなく、お札の入った月給袋を内ポケットに入れて帰宅し、それをそっくり奥さんに渡すというのがひとつの形でした。

現代とくらべて、社会学的にどちらがいいのかはわかりません。
ただ男女いずれも、低い賃金/不安定な雇用環境の中でせっせと仕事をせざるを得ない社会環境では、やはり消費が伸びないのも致し方のないことだろうと思います。
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平衡感覚

いつだったかNHKのプロフェッショナル?とかいう番組で、五嶋みどりの現在を追った番組が放送されました。

10代前半という若さでアメリカからセンセーショナルに世に出た天才少女も、すでに40代半ばに差しかかり、演奏家としてのみならず、いろいろな意味でも、いま人生の絶頂期に差しかかっているのかもしれません。

彼女はその圧倒的な名声にもかかわらず、演奏活動のみをひた走ることを早い時期から拒絶し続け、自身のスタイルを押し通し、とうとうそれで周囲を納得させてしまった人だと云っていいのでしょう。

天賦の才があり、ニューヨークという最難関の場所でメータやバーンスタインから認められ、さらには演奏中に2度も弦が切れるという、いかにもアメリカ人好みのアクシデントにも恵まれ(?)、当時望みうる最高のデビューを飾ったのは間違いないでしょう。

多くの場合、これほどのスター街道が目の前にパックリと口を開けて広がれば、迷うことなくそこに飛び込み、以降、忙しく世界中を飛び回る生涯を送るはずです。

しかし彼女は演奏活動だけに邁進することを頑として拒み、他の勉強をはじめたり、のちにはヴァイオリンを使っての奉仕活動などにも打ち込むほか、アメリカの音大で最も若くして教授になるなど、何本かの柱によってしっかりとバランスが保持されているようです。
教育者でもあり、アメリカの弦楽器の組織の理事のようなこともやっている由で、勢い彼女の生活は演奏以外の仕事も目白押しで、演奏活動はその中の一つという位置付けのようです。

立派といえばもちろん立派ですが、そこにはいろいろな理由があってのことなのだろうと推察します。

マロニエ君のような凡人からでも、おぼろげにわかる気ようながするのは、いわゆる音楽バカ(といったら言葉が悪いですが)で世界を飛び回り、超多忙な演奏を繰り返すだけの薄っぺらなタレントにはなりたくないという心情と必然があったのではと思われます。

一流演奏家として認められれば、年がら年中演奏旅行に明け暮れ、人生の大半を飛行機とホテルとホールで過ごすばかりで、他の文化に触れたり、豊かな旅や時間を満喫すること、あるいは自身の時間の中で思索するといったこととは縁遠くなるでしょう。
寸暇を惜しんで効率よく練習し、次々に待ちかまえる移動とリハーサルと本番、拍手のあとでは各地の主催者や地元の名士と交流することも義務という、見る者が見ればまったく馬鹿げた生活を繰り返すことを意味しており、それが五嶋さんには耐えられないのだと思います。

しかもオファーがあって体力が続く限り、それは老いるまで延々と続きます。数年先までの予定が決まっていて、それに従って各地と予定を飛び回るだけの生活。そしていったんこの流れに乗れば、止めるに止められない状況に呑み込まれていく。
そこに疑問を持つ人間にとっては、まさに地獄のような生活です。

しがない演奏家からみれば夢のようなスターの生活でも、それが10代から一生続くとなるとやはり尋常なことではなく、まともな平衡感覚をもっていたらできることではありません。昔で言うサーカスの空中ブランコのスターと、いったいどこが違うのかとも思えます。
いかに素晴らしい演奏をして、それに見合った喝采を受けても、そんな生活を一生続けるなんて一種の狂気であるような気がします。

五嶋さんは非常に頭のいい人のようで、だから自分の人間性と精神のバランスを保つためにも、あえていろんなことを「自分のために」やっているんだと私は見ています。もちろんそれが結果としては世の中のためにもなっているとは思いますが、出発点は、まずは自分が「人がましく生きたい」という主題から出発した事だったのだろうというのが、この番組を見て感じたことでした。
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晩年の秀吉

NHKの大河ドラマ『軍師官兵衛』を見ていると、つくづくと考えさせられるところがあります。

これまで幾多の太閤記はじめ戦国乱世の物語が書かれて本になり、映画やドラマ化が繰り返されました。
太閤記といえば、日本史の中でも立身出世のナンバーワンで、裸一貫から天下人という最高権力者に登りつめるその物語は、読む者、見る者をおおいに楽しませるものです。

しかし、マロニエ君からみると太閤記がおもしろいのは、本能寺の変の急報を得て、手早く高松城を水攻めにし、息つく暇もなく中国大返しを敢行。光秀が討たれたのち、清州評定の場で秀吉は信長の遺児である三法師を抱いて現れ、自らが天下人になる布石を打つ…あのあたりまでだと思います。

天下統一を成し遂げた後の秀吉は、およそ同一人物とは思えぬほどすべてにおいて精彩を欠き、常軌を逸し、老いには勝てずにこの世を去ることで、豊臣の天下は一気に衰退、物語は家康を中心とした関ヶ原へと軸足が移ります。

しかしその前にある利休の切腹、関白秀次の処分など、解釈の余地を残しつつも、天下人となってからの秀吉を正視し、ここに時間を割こうという流れはあまりなかったように思います。さらには無謀の極みともいうべき朝鮮出兵についても、その顛末を正面から語られることがあまりないのは、痛快なヒーローである秀吉のイメージが変質することで、映画やドラマの魅力が損なわれるのを避けたようにも感じます。

信長の死後、秀吉の天下は駆け足で過ぎ去り、関ヶ原/大阪の陣を経て家康が権力を手中にするという流れで話が進むのが毎度でした。

ところが今回の『軍師官兵衛』では、天下人となった後の秀吉がしだいに崩壊していく様がかなりリアルに描かれており、この点では出色のできだったと感じます。
最も信頼を寄せるべきかつての仲間をことごとく退け、代わりに石田三成という現代でいうところの霞ヶ関のキャリア官僚みたいな人物があらわれて、無謀なまでに政の多くがこの男へと丸投げされます。

無学で政治力統治力に疎かった秀吉は、そのコンプレックスから三成のような官吏肌の人間に精神的な負い目があったともいえるのでしょう。

いかに下克上の世とはいえ、文字通り裸一貫からのスタートですから、信長の家来のうちはまだいいとしても、天下人ともなれば家格もなく、譜代の家臣もないまま頂点へと成り上がったツケがまわって、一気にその歪みがあらわれます。家中はバラバラ、反目の視線ばかりが飛び交います。

信長に使えていた頃の秀吉はなにより殺生を好まず、数々の難所でも知恵を絞り、和睦などを巧みに用いて平和的に解決していったことは有名ですが、晩年は別人のように家来でも身内でも容赦なく首をはねまくります。

マロニエ君が興味を持つのは、出世という上り坂の活劇ではなく、人は器に見合わぬ力や権威を得ると、豹変して猜疑心ばかりが募り、ときにそれが狂気へと突っ走る部分かもしれません。

この狂気の部分が今回の大河ドラマではよく描かれており、これは、人がその前半生や器にそぐわぬ不釣り合いな地位や権力を得た為に、もろい建物のようにガタガタとすべてが崩壊していく典型のようにも思います。
おそらくその人を構成してきた多くのファクターに齟齬や矛盾が生じ、機能不全を起こすためでしょう。パソコンでいうとOSとソフトがまったく相容れないようなものでしょうか。

明るく陽気なイメージばかりが先行する秀吉ですが、晩年の暗い陰惨な所業にあらためて驚かされ、そういえばこの点を背景として描いていた作品に、有吉佐和子の『出雲の阿国』があったことを思い出しました。
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小さな巨人

ピアノ仲間が久しぶりに集まりました。

ピアノ弾き合いサークル系は苦手なマロニエ君ですが、こうして個人同士で声かけあって顔を合わせるのは大歓迎で、楽しい時間を過ごすことができました。

今回は戦前のハンブルク・スタインウェイをお持ちの方の自宅に集まっておしゃべりをし、気が向いた人がピアノを弾くというゆとりある時間のすごし方でした。

ここにあるのはスタインウェイのグランドの中では一番小さなModel-Sで、奥行きはわずか155cmに過ぎませんが、ドイツでリニューアルされており内外はピカピカ、木目もあでやかで、なにより全身が発音体のように鳴り切るのは、いまさらながらスタインウェイの伊達じゃない凄さを感じずにはいられません。
まさに小さな巨人と呼びたくなるような極上のピアノです。

奥行き155cmといえば、ヤマハでいうならC1よりも小さく、定番のC3とくらべると31cmも短いのですから、いかにスタインウェイとはいえ、そこはサイズなりのものでしかないと思うのがふつうでしょう。
ところが、そんな常識がまったく通じないところがスタインウェイのすごさで、サイズからくるハンディは実際には微塵も感じません。もちろん同様コンディションのより大きいモデルを並べればさらなる余裕が出てくるでしょうが、一台だけ弾いているぶんには、まったくそれを感じさせない点はスゴイ!というよりほかありません。

とくに通常の小さなピアノでは避けられない低音域の貧しさ、音質の悪さは如何ともしがたく、あきらめるしかない点ですが、このピアノではそんな言い訳もあきらめもまったく無用です。

このピアノの購入にあたっては、マロニエ君もいささか関与した経緯もあって、それがあとから疑問を抱くようなことになれば責任を感じるところですが、このピアノは弾かせていただくたびに新鮮な感銘を覚えます。
実はこのピアノのオーナーは、購入時このピアノの存在は知りつつも、スタインウェイ購入ともなれば大型楽器店からの購入を本意とせず、むしろ名のある技術者がやっている専門店から、その技術もろとも買いたいというこだわりを持っておられました。

むろん名人のショップにも足を運び、そこにあるハンブルクのA(こちらもリニューアル済み)にかなり傾いておられたのですが、マロニエ君としてはもうひとつ納得が行かず、大型楽器店にあるSのほうが断然いいと感じたので、こちらを強く推奨しました。

もちろん最終的にはご当人が正しい決断が下されてこのピアノを買われた次第ですが、それは数年を経た今でもつくづく正解だったと思います。
このピアノは商業施設のテナントである有名な大型楽器店の店頭に置かれていましたが、ずいぶん長いこと売れない状態でした。おそらく店の雰囲気とスタインウェイという特別なピアノのイメージがどこかそぐわず、このピアノの有する真価が見落とされてしまったものと思います。

今どきのような表面上のキラキラ系の音ではなく、輪郭と透明感がある太い音、加えてコンパクトなサイズをものともしないパワーがあって、このピアノなら、会場しだいではコンサートでもじゅうぶん使うことが可能だと思います。

とくに、ちょっと離れた位置で聴くその艶やかな音は感動ものです。
この日、全員が体感したことですが、ピアノに手が届くぐらいの距離で聴いているといろいろな雑音が混ざって生々しい音がするのですが、そこからわずか2〜3m離れただけで音は激変、まるでカメラのフォーカスがピシッと決まるように美しい音となり、流れるように広がります。
それはスタインウェイがどうのと云うより、純粋にみずみずしく美しいピアノの音で全身が包まれるようで、マロニエ君もいつかこんなピアノが欲しいものだと思ってしまいます。

もちろん戦前のピアノには長年の管理からくる個体差も大きく、リニューアルの仕方によっても結果はさまざまで、すべてのヴィンテージスタインウェイが同様だと云うつもりはありません。
でも、丹念に探せば、中にはとてつもない魅力にあふれた個体があることも事実です。
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エル=バシャの平均律

アブデル=ラハマン・エル=バシャによるバッハの平均律第二弾である『第2巻』が発売され、先に書いたエマールの『第1巻』と同時購入しました。

エル=バシャのバッハは前作『第1巻』での望外の快演にすっかり心躍ったものです。これはもう何度聴いたかわからないくらい気に入ってしまい、ほぼ似たような時期に発売されたポリーニのそれがすっかり色褪せて感じられたのとはいかにも対照的でした。

演奏そのものの素晴らしさに加えて、このときの録音にはベヒシュタインのD280が使われており、その音や響きにも併せて心地よい印象を覚えたものでした。

これに続いて第2巻が収録・発売されるものと思っていたところ、なかなかそうはならず、第1巻(2010年)から実に4年近く待たされたことになります。

はやる気持ちを抑えつつ、再生ボタンを押して最初に出てきた音はというと、正直「ん?」というもので、第1巻にあったような輝きがないことに耳を疑いました。
よく見ると前回とは収録に使われたホールも違えば、ピアノもD282に変わっています。

演奏そのものはエル=バシャらしい大人の落ち着きと余裕を感じるもので、やわらかな語り口の中にも確かな音楽の運びがあり、安心して聴けるものではあるけれども、強いて言うなら第1巻のほうがより集中力が強くて引き締まっていたようにも思います。
もちろん今回も素晴らしい演奏であることは確かですが…。

むしろ気になるのは今回の録音で、第1巻とはあまりにも録音の性格が違いすぎて、同じピアニスト/レーベルであるにもかかわらず、これでは「両巻が揃った」という収まりのよいイメージには繋がりにくいようにも思われました。
とくに気になるのは残響が多すぎて響きに節度感がなく、各声部の絡みやピアニストの繊細な表現の綾が聞き取りづらいのは大いに疑問だと言わざるを得ません。
録音の常識から云うと、これは到底ホールの違いのせいとは思えません。

また、使用ピアノも第1巻がベヒシュタインのD280だったのに対して、第2巻ではD282になっています。聞くところでは、ベヒシュタインのコンサートグランドはざっと2年前ぐらいにモデルチェンジをしているようで、D282ではよりパワーアップが図られている由です。
フレームの設計が違うようで、具体的には弦割りが変わったという話です。

CDを聴く限りではパワー云々の違いはわかりませんが、純粋に音として見れば、マロニエ君はあれこれのCDからの判断にはなりますが、D280のほうがずっと好みでした。
D280にはベヒシュタインの味わいを残しつつ、ほどよい洗練とスマートさがあり、現代的な輝きがありましたが、D282では再びそれを失ったという印象。

ピアノはパワーを求めすぎると、音が荒れるという側面があるのか、昔のベヒシュタインのような「ぼつん」とか「ぼわん」という音が耳につきます。あえて先祖帰りさせたというのなら目論見通りということになるのかもしれませんが、音にも時代感覚というものがあり、その点でどっちに行きたいのかよくわからないピアノになってしまった気がしました。

ベヒシュタインの発音を「あれはドイツ語の発声なんだ」という言う人もあり、確かにそうなのかもしれません。
でも普通に聴く限りでは、どちらかといえば無骨で、板っぽさを感じさせる、打楽器的な音にしか聞こえず、なんだか、やっと街の生活に慣れてきた人が、また田舎に帰って行ったようなイメージです。

音の個性を、渋みや落ち着きなどの味わいとみるか、野暮ったさとみるか、ここが聴く人の好みや美意識による分かれ目でしょう。

エル=バシャもどことなく気迫がない感じで、ラヴェル全集なども高評価のわりには温厚路線で、もともとこの人はそういうピアノを弾く人で、むしろ前作の第1巻のときがちょっと違っていたのかもしれませんし、あるいは録音のせいで活気が削がれて聞こえるのかもしれません。
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エマールの平均律

他の人はどうだかわかりませんが、ピエール=ロラン・エマールは不思議なピアニストだと思います。

はじめてこの人を認識したのはもうずいぶん前のことでしたが、当時、リゲティの複雑なエチュードとかメシアンなどをつぎつぎに弾きこなす、現代フランスの前衛的なピアニストというイメージでした。

そんなエマールが次第に有名になるに従い、ラヴェルの夜のガスパールやドビュッシーを録音し、そのあとにはアーノンクールの指揮でベートーヴェンのピアノ協奏曲を全曲録音していきますが、個人的にはこのベートーヴェンにはそれほどエマールのいいところが出ているようには思えないというか、要するに何度聴いても「もういちど聴きたい」という気にさせるものではありませんでした。

それからはこの人のCDを買う意欲がいささか薄れ、シューマンのシンフォニックエチュードとか、リストのロ短調ソナタなどは聴いていません。

そのあとだったか、バッハのフーガの技法が出て、こればかりは無視して通ることができず再びエマールを買い始めることに。この演奏には賛否両論あるようですが、マロニエ君はとても好きな演奏で、もはや何度聴いたかわからないほどです。

近年ではドビュッシーのプレリュードなどをリリースしますが、個人的にはバッハを待ち望んでいたわけで、このたびその念願叶って平均律第一巻が発売されました。

エマールという人は、とりたてて分かり易い感性の切れ味とかセンスの良さ、あるいは目も醒めるような指さばきなど、いわば表層的な部分で聴かせる人でない点は徹底しています。
その演奏には、常に必要以上やりすぎない知的なバランス感覚とか、身についた節度みたいなものがあり、その中で内的密度を保って展開されていく音楽だと思います。瞬間的な表現やテクニックに心を奪われたり酔いしれるということはなく、そのぶん直接表現を控え、音楽をあくまでも抽象的なものとして普遍性を崩さぬようエマールの美意識による歯止めがかかっているように窺えます。

そのためか、エマールの演奏には、聴く者がそれぞれに解釈したり感じたりする余地がふんだんに残されており、これこそがこの人の魅力だとマロニエ君は思うところです。

そういう演奏なので、はじめに聴いたとき、いきなり衝撃を受けるとか、深い感銘へと引き込まれるということはさほどなく、繰り返し聴いて何かを感じ取ることがエマールの(すくなくともCDの)前提になっているように思うのです。

今回の平均律も、その例に漏れませんでした。
平均律ともなると、その演奏には名だたるピアニストの傑出した演奏に耳が慣れているものですが、はじめは固くて面白味のない、特徴のない演奏のように聞こえました。

しかし終わってみるとなんとも言い難い味というか風合いのようなものが残っており、「もういちど聴いてみようか…」という気になります。そして幾度もこれを繰り返すうちに、エマールの不思議な魅力に取り憑かれていくようです。

マロニエ君の感じるところでは、この人はどちらかというと人に聴かせるためというより、自分のためにピアノを弾いている感覚が伝わってきて、それが心地いいのかもと思います。
むろんこれだけコンサートピアニストとしてのキャリアを積んで、現在進行形で世界的に活躍している人ですから、まさか純粋に自分のために弾いている…などとウブなことを思っているわけではありません。

当然ながらコンサートでは聴衆の、CDではそれを買って聴くスピーカーの前のリスナーを意識しない筈はありませんが、それでも、この人の基本のところに身についたものとして、どうしても自分の満足や納得が先行してしまうという、いかにもプライヴェートな感覚があって、ピアニストの自宅練習室へ透明人間になって忍び込んだような面白さがあるのだと思います。
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ラッカーとポリエステル

我が家のカワイはGS-50というモデルで、カワイの系譜として見ればことさら特殊でもないけれども、いわゆる保守本流でもないという、いわば過渡期的なシリーズのようです。
中途半端といえばそれも否定できません。

製造年は1985年あたりで、すでに約30歳ですが、この時期のカワイグランドはKGシリーズ全盛期で、そこへ別流派として発生したモデルというべきでしょうか。

聞くところでは、ヤマハがGシリーズと同時並行的にCシリーズを発売し、より華やかな音色のピアノが支持されたことで、同じ市場を狙ってカワイが対抗機種として発売したものだとか。
GSシリーズはスタインウェイを意識してか、弦のテンションを低めに設定するなど、さまざまな新基軸を盛り込んだようですが、それがどういうわけかアメリカで高い評価を受けたといいます。

GSシリーズは30を皮切りに次第にサイズを拡大し、ついにはGS-100というフルサイズのコンサートグランドまで作られます。これはEX登場までのカワイのフラッグシップでしたし、EX登場後も長いこと、GS-100はちょっとお安いコンサートグランドという、よくわからない立ち位置でカタログに載っていました。

実際にGS-50を長年使ってみて、そんな逸話がふさわしいほどのピアノだとは…正直思っていませんが、それでもカワイの沈んだような音色がそれほど顕著ではないし、かといってキンキンうるさいタイプの音でもないのがこのシリーズの特徴かもしれません。特筆すべきは、キーがカワイとしては例外的に軽いなど、いわゆる「これぞカワイ!」という基準からは、あちこち外れたところのあるピアノだとは思います。

積極的にこれを選ぶ理由もないけれど、意に添わないヘンなピアノよりは、よほど良心的といったところでしょうか。このGSシリーズが後のCAシリーズに受け継がれます。

すっかり前置きが長くなりましたが、わけあってこのピアノを一度磨いてもらうことになり、ピアノの塗装の専門業者の方に来ていただきました。
下見のときにわかったことですが、このピアノはなんと今はほとんど使われることのないラッカー塗装で、いわれてみるとなるほどと思う音の響きがあることに気がつきました。
もともと大したピアノではないので、たかが知れているものの、ラッカーはそれなりに音が柔らかくふわっと響くと思います。

その点、ポリエステル塗装はやはり響きが固い印象です。固いのみならず、むしろボディのもっている響きというか、全身が振動しようとするのを、ポリエステルで押さえ込んでしまっているという印象です。

近年はスタインウェイでさえポリエステル塗装が当たり前のようになっていますが、その理由はまさにコストと強靱さのようです。塗りの工程も簡単かつ塗装面が強くておまけに製品的に美しいので、多少の響きを犠牲にしてでもこちらが選ばれるのは現代の価値観からすれば当然なのでしょう。
全般的な材質の低下などと併せて、要はこういう要素が幾重にも積み重なることによって、現代のピアノのあの感動からほど遠い音ができているのだということが納得できるようです。

さて、そのGS-50ですが一時間ほどの手磨きでしたが、かなりピカピカになって気分も新になりました。本格的な磨きになれば機械を使っての大々的な作業になるようです。

ピアノの木工や塗装を得意とする職人さんとはじめてお話しできましたが、なんとなれば黒から好みの木目ピアノにもリニューアルできるなど、なかなかおもしろそうな世界のようで、聞いていてウズウズしてしまいました。
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デセイとルグラン

少し前のBSプレミアムから、今年の6月にヴェルサイユの庭園で行われた、ナタリー・デセイとミシェル・ルグランらによる野外コンサートの様子を見てみました。

ミシェル・ルグランはフランスジャズ・ピアニストの雄で、同時に『シェルブールの雨傘』などの映画音楽も数多く手がけたこのジャンルの巨星です。

広い庭園に設えられた広いステージには、無造作に大屋根が半開きにされたスタインウェイDと、その他ジャズのためとおぼしき機材が置かれていますが、そこへミシェル・ルグランが登場。
簡単な挨拶のあと、まずは最近作ったというピアノ協奏曲を弾き出しましたが、この時点ではべつにどうということもない印象しかありませんでした。

しかし、その後にナタリー・デセイが登場して歌い始め、その他のメンバーが加わってきて、ミシェル・ルグラン本来の世界がやわらかに展開されて行ったのは圧巻でした。

ナタリー・デセイはフランスを代表するソプラノ歌手ですが、この日はオペラのアリアなどは一曲もなく、ルグランの作品などをいかにも手慣れた調子で歌いきったのには感心しました。
通常は、オペラ歌手がポピュラー系のものを歌うと、むやみに一本調子に声を張り上げるばかりの、まるで柔軟性のない「でくの坊」みたいな歌唱に失笑させられてしまうものですが、デセイには一切そんなところがなく、シャンソンの有名歌手であるかのような堂に入った歌いっぷりは見事でした。

さらに驚いたのは、ルグランはこの2時間近いコンサートを、最初から最後まで、休むことなくピアノを弾き続けたことです。
すでに82歳という高齢ですが、そのピアノにはまるで老いたところがなく、軽やかで、品位があって、バツグンのセンスが漲り、ミスもなく、これだけの長時間を一気呵成に弾き続けるその途方もない才能とスタミナには、ただただ脱帽でした。

普段はほんのごくわずかのジャズを除いては、ほぼクラシックしか聴かないマロニエ君は、こんな放送にでも巡り会わないかぎり、なかなかこういうコンサートを耳にするチャンスはないのが正直なところですが、ここには音楽にほんらい宿っているべき楽しさや喜び、心に直に訴えてくる様々なファクターに満ちていて、久々に新鮮な感動と満足を得ることができました。

わけても注目すべきは、ピアノ、ドラム、ベース、ギターのいずれもが、いついかなる場合もリズムが弛緩することなく、生演奏故につきものの、ちょっとした加減で互いの呼吸に乱れが出たりということさえもなかった(少なくともマロニエ君にはそのように思われた)点は驚くべきで、作品や演奏の素晴らしさと併せてその点にも大きな感銘を受けました。

かねがね思っていたことで、この際だから言ってしまいますが、ことリズムや呼吸というものに関しては、クラシックの演奏家はまったくだらしがないと言わざるを得ないというのが率直なところです。

器楽奏者は高度で複雑なテキストをつぎつぎに課せられ、演奏として処理していくだけで神経の大半をすり減らしているのはわかります。しかし、しばしば大筋の流れを停滞させてまで、自分の演奏や解釈を見せつけたり、必然性のない強調をしてみたりというのは、趣味としてもいかがなものかと思います。
のみならず、音楽が本来の拠り所とする、聴く者の気分を音楽によって喜びへといざない、楽しませるという、最も根元のところの使命感が稀薄になっていると思わざるをえません。

クラシックの演奏家がこの「聴く者を楽しませる」という課題にぶつかると、ただ大衆向けの名曲プログラムに差し替えることだけにしか頭が回らないのは、まったくの思い上がりと勘違いと怠慢であって、まずは自分が音楽を楽しまなければ聴く側が楽しいはずはないのです。

そういうことを、けっして押し付けがましくないやり方で、サラッと教えてくれたコンサートでもあった気がします。
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謎の自転車

昨日の午前中、我が家のガレージのシャッター前に見知らぬ自転車が止まっていました。

ここは、すみに寄せるかたちで、うちに通勤してくる人の自転車が2台と原付バイク1台を止めるようになっているのですが、そこへもう一台、普段ないはずの自転車が、さも当たり前のような感じて止まっていました。

てっきり誰か来ているのかと思ってしばらくそのままにしていましたが、午後になっても一向に動きがなく、誰に聞いても心当たりがないようでした。

ガレージ前といっても、道路ではなく、れっきとした我が家の敷地内のことなので、どう考えても人が間違って置くような場所ではありません。
しかも、他の自転車ときれいに並べるようにして奥側に止められており、おまけに車輪には鎖で施錠までされているので、単なる放置自転車とも思えません。よって、この自転車をめぐって持ち主探しにかなりの時間と神経をとられることになりました。

しかし、まるで手がかりナシで、数時間経過するとだんだん気持ち悪くなってきました。なにしろ、よその敷地内に侵入して平然と自転車を置き、鍵をかけてその場を立ち去るというのは、まともな神経の持ち主のすることではなく、こちらとしてはかなり不気味です。

のみならず、中の車の出入りも非常にしづらい状況となっており、現実的な迷惑でもあるわけで、午後には道路までは移動だけはしました。もちろん片輪は施錠されているので、そちらを持ち上げながらですが、触るだけでもいい気はしません。

そうこうするうちに、あたりは暗くなる時刻(午後5時半過ぎ)となり、ついに警察に通報することにしました。
警察官が来てくれたのは6時少し前で、もうすっかり暗くなっていました。
状況の説明や確認をやっていると、そこへなんと、ひとりの若い女性が突如としてあらわれ、無言のままその自転車の鍵をさっさと外し、平然とした調子でその場を立ち去ろうとしています。

これを見て、あわてた警察官は、「貴女が止めたんですか?」「ここは他人の敷地内ですよ」と声をかけますが、それで動作が止める様子はありません。
捨てぜりふみたいな不機嫌な言い方で、小さく「すみません」という言葉は聞き取れましたが、警察官がちょっと待って!というのも無視して、サーッと走り去っていきました。

???…これってどういうこと…信じられない光景でした。

つくづく自転車のタチが悪いのは、こういう状況でも警察官はその人が立ち去ることを強制的に阻止するとか、追いかける権限がないということだろうか…と思いました。
少なくとも車やバイクは免許証というものがあるので、こんな勝手な行動(というか逃亡)なんてぜったいに許されませんが、どうやら自転車はその限りではないのでしょう。

あとに警察官とマロニエ君はポカンと取り残されたのみ。

そして、それ以上、どうすることもできません。
「もし同様のことがあったら、交番でも、110番でも構わないので、すぐに連絡してください。」と言い置いて帰っていきました。

それにしても、警察官相手にとっさにこういう態度をとるというのは、まともな市民の感覚とは思えませんが、つい今の若い人の悪しき行動パターンの典型のようにも受け取れました。

あとから考えれば、道路上に移動させないでおいたほうが警察官も明確な態度が取れたのかもとも思いましたが、それはあくまでも結果論に過ぎず、再び敷地内に入られることのほうがやはりイヤですね。

釈然としない、後味の悪い出来事でした。
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玉石混淆

これは名前を出すべきではない内容だと思われるので、一切の固有名詞は伏せての文章となることを予めお断りしておきます。

あるピアニストのことを採り上げた本を読んでいると、マロニエ君もむかし一度だけ行ったことのあるピアノ店の名前がしばしば出てきました。この店ではピアノを販売するかたわら、音楽教育にも熱心なようで、様々な先生や演奏家を招いて講習会などを開催したり、中には海外のピアニストを招いてのレッスンまでやっているということが書かれています。

どんなものかと興味を覚え、この店の名を検索してみると、すんなりホームページにアクセスすることができました。

そのトップページに、なんだかちょっと気になるピアノの写真が出ていますが、詳細に見るには小さくてよくわかりません。全体としてはスタインウェイのように見えるものの、どうもそうでもない…。

そこでこの会社の取り扱いピアノを見てみると、その中に、これまで聞いたこともない仰々しいネーミングのピアノが紹介されているのを発見。それは世界的に有名なある建造物の名で、そんなブランドのピアノがあるなんて、すくなくともマロニエ君はまったく知りませんでした。

説明によれば、ずいぶん古い歴史のあるブランドのような記述があるものの、ほどなくこれは中国製ピアノであることが判明。
中国メーカーがよく使う手で、廃絶したヨーロッパのピアノブランドの商標を安く買い取ってはなんの繋がりもないピアノにその名を冠し、さも由緒正しきピアノであるかのようにでっち上げるというもの。

このピアノ、実を言うとマロニエ君にはちょっとした心当たりがありました。
数年前、上海のあるピアノ店を覗いたときのこと、スタインウェイのA型と瓜二つの外観をもったピアノが置かれていましたが、鍵盤蓋に刻まれた名前は日本のある県名のようでまったく意味不明、書体もダサダサ、音はビラビラのまさに三流品以下といったものでした。
しかし全体のフォルムから細かなディテールにいたるまでハンブルク・スタインウェイそのもので、まさに外観はModel-Aのコピーといって差し支えないものでした。
さすがは中国!ピアノもここまでやるのかと呆気にとられたものでした。

後でこのピアノのことをネットで調べてみると、上海のピアノメーカーのようで、その日本的な名前が何に由来するのか、中国語ではまったく知ることはできませんでしたし、それ以上の努力をしてまで知りたいという意欲もありませんでした。

話は戻り、日本で売られているらしい、この仰々しい名の付いたピアノは、おそらく上海で見たあのスタインウェイもどきだと直感しました。むろん確たる裏付けはありませんが、細かいディテールに関することもあり、おそらくそうだと思います。さらに中国産ピアノでは、まったく同じピアノにあれこれの名前をつけ換えて別ブランドにするなど朝飯前です。

それにしても、それほど教育活動にも熱心で、海外の一流ブランド品まで取り扱うようなピアノ店が、なぜこんな怪しげなピアノを売るのか、そこが理解に苦しみます。
もちろん中国製ピアノは粗利が多いのだそうで、おそらく仕入れ値などは信じられないほど安価なんでしょうから、営業サイドからすれば儲かると判断したのかもしれません。でもこんなピアノを扱うことで店のイメージは大いに損なわれ、ひいては利益どころか取り返しのつかないマイナスだとマロニエ君が経営者だったら考えるでしょう。

ましてや世界的名器に混ぜ込むようにして、そんなピアノを販売するということは驚き以外のなにものでもありません。最高ランクのものを熟知している店が販売しているのだから、決して変なものではありません、良心的なピアノですよ、という言外の品質保証を匂わせているようなものです。

聞くところではウソの名人というのは、真実の中にウソを巧みに織り込んでいくのだそうで、世界的名器や著名ピアニストに混ぜてこんなピアノをお買い得品として推奨するのは、ある意味最も悪質という気がします。

動画でそんなピアノの宣伝の片棒を担がされている先生やピアニストも、ただただお気の毒というほかはありません。
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理性の采配

Eテレのクラシック音楽館では先月おこなわれたNHK音楽祭の模様がはやくも放送され、ユリアンナ・アブデーエワのピアノでモーツァルトのピアノ協奏曲第21番を聴きました。
指揮はマルティン・ジークハルト。

隅々までぬかりなく堅固な意志の行き届いた、お見事と云わせる演奏でした。
音の粒立ちが素晴らしく、とくに1/3楽章の速いパッセージなどでは音符のすべてが明晰かつ凛としており、アブデーエワの持つ演奏技術の素晴らしさをまざまざと見せつけられるようでした。

しかし、音楽の根底にあるものが歌であり踊りであるということを考えると、アブデーエワの演奏はいささかそれとは異なる目標が定められているのでは…とも感じられます。

あまり多くはない歌いまわしやルバートも、自然発生的というより台本で予定されている観があり、モーツァルトの音楽には少々そぐわない気がしたことも事実。基本的にはこの人の演奏は、遊びや冒険を排した理性の采配そのものと、随所に覗くピアニスティックな要素で聴かせる人だと思いました。

それなりの解釈の跡も見受けられますが、むしろ傑出した指の技術と、それを決してひけらかすためには用いないという自己主張が前に出ていて、「できるけどしない」というかたちでの力の誇示が、却って大人ぶっているようで鼻につく感じがあります。
それでも、これぐらい揺るぎなくきっちり弾いてもらえるなら、とりあえず聴くほうは演奏技巧の見事さに感心するのは確かです。

全体を振り返って感じるのは、この人に著しく欠けているのは音楽に不可欠の即興性や燃焼性、もっと単純にいえば率直さだろうと思います。
いかなることがあろうとも情に動かされない、不屈の精神の持ち主のようで、音楽家でが音楽的感情に動かされないということが、本来正しいのかどうか…。

ともかく、その日その場で反応していく「霊感の余地」を残さないのは、このピアニスト最大の問題点のような気がしますし、わけてもモーツァルトのような一音々々に神経を通わせて、センシティブな呼応を重ねていくような音楽で、事前にカッチリ錬られた作り置きみたいなパフォーマンスを完結させることはどうも感覚的にそぐわないものを感じます。

まあ、ひとことでいうなら、いかなる場合も決して波長がノッてこないのは聴く側の期待する高揚感をいちいち外されていくようで、なぜそんなにお堅く処理してしまうのかわかりません。

単に上手いだけでない、器の大きなピアニストを聴いたという印象には確かなものがある反面、いい音楽を聴いたという満足とはちょっと食い違った印象が手足を捉えて離してくれない…それがアブデーエワのピアノだという気がしました。

アンコールでショパンのマズルカを弾きましたが、こんな場面でちょっとした小品を弾くのにも、絶えず強い抑制がかかっているようですっきりできません。ひどく窮屈な感じがあり、少なくとも演奏によって作品が解き放たれる気配がないのはストレスを感じます。

余談ながら、黒のパンツスーツ姿がトレードマークのアブデーエワですが、それがさらに進化したのか、黒の燕尾服のようなものにヒールのある靴を履いた姿はまさに男装の麗人、川島芳子かジョルジュ・サンドかという出で立ちでした。
実はこれまで、服装は音楽とはとりあえず関係ないと思ってきましたが、彼女の優しげな眼差しはまるで少年時代のキーシンを思い起こさせるようでとても可愛らしいのに、そんなビジュアルの逆を行かんばかりのガチガチの服装は、その演奏の在り方にも通じるのではないかと、さすがの今回は思わずにはいられませんでした。
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うわさのこわさ3

本のタイトルは忘れましたが、櫻井よし子氏の著書の中で、次のようなことが書かれていたのをふと思い出しました。

大まかな意味だけしか覚えていませんが、要するに、本当に大事な話とか、大切な内容をしっかり人に伝えるには、相手の目を見てゆっくりと静かに語りかけることが必要であるというようなことでした。

討論の場でも、大きな声を張り上げて自説をまくし立てるのは得策ではなく、あわてず冷静に、むしろ静かな調子で話をするほうが、相手は自然と耳を傾けるのだそうで、これはなんとなく「音楽的感動の多くがピアニシモに依存されている」という原理とも符合しているように思えました。

そして多くの調律師さんは、まさにそういった要素をある程度満たした語り術をごく自然のうちに身につけているようにも思えてしまいます。

一般論として、調律師さんの大半が話し好きであることは折に触れ書いてきました。
技術系の人が自分の技術の話をするのは、専門家としての自負と、一般に理解されないという欲求不満とがないまぜになって、ことさら語りたい願望があるのかもしれません。
わけても、調律師さんは仕事柄、お客さんと一対一で静かに話がしやすい状況にあり、その点では恵まれた舞台がけを持っているということになるようにも思えます。

なにかというと出てくる武勇伝は数知れず、他者の批判やさりげない否定は三度のメシよりお好きといった向きも少なくありません。しかも、一部例外はあるとしても、大半は言葉や態度はきわめてソフトであるし、いかにも慎重めいた言い回しをされるなど、これはまさに周到なトーク術というべきものだと思います。

マロニエ君などは聞いているぶんにはいろんな意味でおもしろく、じっさい勉強にもなるので調律師さんの話を聞くのは嫌いじゃないというか、むしろ好きなほうだと思います。
ただ、いかにも「ここだけの話ですが…」的な調子で、しかも自宅という閉鎖された空間で、他者に遮られることも反論されることもないまま、ひたすらひとりの技術者の話のみを聞いていると、つい相手に引きこまれてしまうという特別な状況下におかれることも否定できません。

とくにこの手のトークに免疫のない人にとっては、まさに赤子の手を捻るも同然で、一種の催眠術的…といえば大げさかもしれませんが、抵抗力の無い人間がいかに語り手の狙い通りに話を聞いてしまうかというのは人間の心理作用としてすでに証明されていることです。
少なくとも聞き手はこの時点で、一時的な痴呆状態に陥っているともいえるでしょう。

おまけに意味深かつ表現力のあるピアニシモで語られると、これは変な喩えですが、ある意味、くどきにも似たエロティシズムも加わって、イヤでも納得させられる状況に追い込まれます。同時に、そんなトークのネタにされる同業他者はたまったものではないだろうなぁ…と思うこともないではありません。
それでも楽しく聞いてしまうマロニエ君もマロニエ君ではありますが。

ウワサ話やおしゃべりは一般的には女性の得意分野のようにされていますが、本当にこわいのは男の知性でコントロールされた「それ」なのかもしれません。
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うわさのこわさ2

ピアノの調律の極意や判断基準がどこにあるのかは、マロニエ君もいまだにわかりません。

調律する際に出す音、もしくはタッチ如何によっても大きく違ってくるようで、我が家に来られる技術者のおひとりは、終始繊細なピアニッシモで調律をされ、それはそれで長い話になるほどの理由と根拠があってそうされているわけです。

しかし、おそらくはフォルテで行う調律にもある一定の理由があり、むやみに全否定してしまっていいものか…というのがマロニエ君の偽らざる印象です。
ウワサの対象になった方の調律によるコンサートは何度も聴いていますが、ピアノの音に感銘を受けたことも幾度かあったほか、まったく同じピアノ/ピアニストで別の調律師がおこなった調律では、明らかに音が平凡で輝きも迫りもなく、それに気付いた人も何人かおられたほどでした。
やはりこれは誰にでもできることではないと思います。

むろん好みはあって当然で、マロニエ君も素晴らしいとされるものにも自分の好みでないものはたくさんあります。しかしひとりの技術者としての在り方を根本から否定するのであれば、それがどこまで正鵠を得ているのかと、ここは強く疑問に思うのです。

…しかし、しょせんウワサや悪評というのは、そもそもが好い加減で、そのための検証とか真偽の確認なんてされることのほうが少なく、大抵は無責任で残酷なものだと相場は決まっています。することなすことすべてが否定や非難でおもしろおかしく語られ、人から人へと広まっていくのは、なんだかとてもやりきれないものを感じてしまいます。

それに拍車をかけるのは同業者による批判でしょう。
職人とか技術者というのは伝統的に閉鎖的かつ自己肯定型の世界です。それだけ他者や他の流儀を受け容れない本能みたいなものがあるのかもしれません。(中にはその体質を逆手にとって「自分は人の技術も大いに認めていますよ」という謙虚さを妙にアピールする人もいたりします。)

いずれにしろ、専門家は専門家であるが故に、いかにも説得力ありげな自説を展開でき、さらには門外漢にその判定は甚だ難しいために、反論もできずに一方的にお説を承ることになります。

おしなべてピアノ技術者は相手がなるほどと思ってしまうようなトークが不思議なほど上手いので、大抵の人は意のままにコントロールされてしまうでしょう。ここで言う「大抵の人」とは、技術者ではないほとんどの人達で、むろんピアニストや教師の類もこれに含まれます。

このような同業者のコメントによって、ウワサは単なるウワサではなくなり、いわば専門家によって裏書きされたものとなって、さらにエネルギーを増していきます。

この先生の場合も、ウワサの予備知識があったところへ、名人らしき出入りの調律師さんがこの件ではずいぶんいろいろなコメントをして帰ったようで、それが決定的となり、件の調律師さんの悪評はいよいよ不動のものとなってしまったようです。
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