うわさのこわさ

むかし、「ウワサを信じちゃいけないよ!」と歌い出す歌謡曲がありましたが、ウワサというのはえてして信じやすく、とくに悪いほうのそれは一種魔物のような恐さを感じることがあるものです。

それが真実であっても、なくても、ある段階を超えると、いつしか事実以上の力をもってしまうのがウワサの恐いところです。とくに否定的な内容であればあるだけ、そのウワサには勢いがついて闊歩するさまは、ほとんど竜巻みたいなものかもしれません。

ある調律師さんに関するウワサを耳にしましたが、この方は調律の際の音出しで、フォルテを多用して仕事をされるのが特徴のひとつです。
マロニエ君もよく知っている人ですが、この方の調律はたしかに独特で、いわゆる平均的・標準的な調律ではなく、長年にわたり独自の調律を追求されてきた方です。

ひとことで云うなら遠くへ美音を飛ばすことを旨とされ、この調律を嫌いな人もいる反面、これがいい!という熱烈な支持者も少なくなく、この人を指名してコンサートや数多くのレコーディングを続けている有名ピアニストもあるほどです。

ところがどういう理由からなのか、この方に否定的なウワサが立っているようで、長いお付き合いの音楽の恩師(しかもピアノではない)からまで、この人の仕事を非難する内容の話が出てきてびっくりしました。

この先生は長年にわたりお世話になった、とても生徒思いの立派な方ではあるし、しかもピアノの調律がこのときの話題の中心でもなかったので、マロニエ君もこのときは空気を読んで敢えて口を挟みませんでしたが、その技術者が保守管理をされているホールのピアノがいきなり槍玉にあがりました。どうやらこの会場でコンサートをしたピアニストの話などがベースになっているようです。

その内容は惨憺たるもので、あまり具体的なことは書けませんが、とにかく話だけ聞いていれば「そんなひどい調律師がいるのか」と誰もが思うような話になってしまっていました。

しかし、マロニエ君はその人の調律を悪くないと感じていた時期もあるし、今は好みが少し変わりましたが、すべてをダメと決めてしまうのは、いくらなんでも極端すぎて「こわいなあ」と思いました。
その方は、ご自身の信念と美意識に基づいて、理想とするピアノの音や響きを追求して来られた人であることは確かで、少なくともただ音程合わせしかしない(できない)調律師でないことは素直に認めるところです。
したがって好き嫌いの話ならわかるのですが、技術者としての価値を全否定するようなウワサとなっているのはさすがに驚きでした。

繰り返しますがこの先生はピアノの方ではありません。
そもそもピアノを弾く人の世界というのは、他の器楽奏者のように楽器の状態や音に敏感でもなければこだわるほうではないのが一般的で、本当にピアノの音や状態の良し悪しがわかる人、もしくはわかろうとする意欲のある人は驚くほど少数派なのが現実です。

ピアニストは向かった先にどんな楽器が待ち受けていようと、ひるまず、不平も言わず、与えられた「その楽器」で正確に弾き通せる逞しさを備えることが必要とされ、下手に楽器に敏感でないほうが身のためだという側面もあるかもしれません。

さて、くだんの調律師に話を戻すと、そんな人達に囲まれたピアノであるだけ、行き過ぎた悪評が冷静な判断によって修正されることなどまず望めません。いったん悪評やマイナスのウワサが広がると、もうそれを止める術はないわけです。
悪評の根拠となるまことしやかなエピソードには尾ひれがついて象徴的に語られ、「そんなひどい人がいるのか」「そんな人には絶対に任せられない」と誰しも思ってしまうのが聞かされた側の人情です。

しかもだれも責任はとらないのがウワサです。
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驚倒

「CD往来」というタイトルで、知人との間でオススメCDのやりとりをしていることを書きましたが、いまだにときどき続いています。

過日送っていただいた中には、コンスタンティン・リフシッツの「フーガの技法」、ドイツの若手であるダーヴィッド・テオドーア・シュミットによるブゾーニの編曲ものばかりを集めたアルバムが含まれていました。

この二つに共通しているのは、いずれもベヒシュタインを使っているという点で、それを事前に聞いていたので興味津々でした。

手許にあるリフシッツの「音楽の捧げもの」はとくに記載はないものの、ほぼ間違いなくスタインウェイと思われるものだったので、それから数年を経た録音でベヒシュタインを使っているということは、きっとそれなりの理由あってのことだろうと大いに期待したわけです。

小包が届き、御礼メールをしたためながら、まずフーガの技法を鳴らしてみることに。
果たしてそこから出てくる音は、伸びのない、ただ茫洋とした古い感じのピアノの音で、メールを書く間の20分ほど鳴らしていましたが、てっきり旧型のベヒシュタインが使われたものだと思い込んでしまいました。その旨の感想を書いたところ、後刻、先方からジャケットの裏表紙の写真がメールに添付され、そこにはD282と書かれていたのには驚倒しました。

D282といえば現行のベヒシュタインのコンサートグランドで、エルバシャの平均律や近藤嘉宏のベートーヴェンなどもこのピアノが使われており(いずれも日本での録音)、そこで聴く音は、ベヒシュタインらしさを残しつつも、それ以前のモデルにくらべれば遥かに現代的かつ折り目正しく整ったピアノであることが確認されていました。
今どきの好みや要求を適度に汲み取ってパワーと安定感が増し、美しい音を併せ持ったなかなかのピアノという印象を得ていたのです。

ところが「フーガの技法」に聴くピアノの音は、それらとはかけ離れたもので、おそらくピアノの調整、弾き方、録音環境/技術などが絡み合っての結果だろうとは思われました。
とりわけピアノの調整についてはピアニストの要求もあったのか、それともよくある「お任せ」なのか…。

レーベルはオルフェオで、これは「音楽の捧げもの」も同様ですが、どうもこのレーベルの音質じたいにどこかアバウトさがあり、音に核がなく平坦、しかも残響が多くてフォルム感がなく、あまりその点に厳しくこだわるほうではない傾向なのかもしれません。

それにしても、日本で録音されたD282が、あれほど正常進化ともいうべき要素を備えていることを訴えていたにもかかわらず、場所や技術者が変われば、ただ古いだけのベヒシュタインみたいな音にもなるというのは、まったく予想だにしていませんでした。
一皮剥けばこんな旧態依然とした地声だったのかと思うと、好印象を得ていたのは特別な技術者によって入念に作られたよそ行きの声だったみたいで、なんだかがっかりしてしまいました。

別の見方をすれば、根底にはこのメーカーのDNAが脈々と受け継がれているということでもあり、その遺伝子こそが伝統なのだと言えないこともないのかもしれません。
ENからD282への進化は、むき出しのピン板がフレーム下に隠されたり、デュープレックスシステムを備えるなど、いかにもドラスティックなもののような印象がありましたが、実際には単なるマイナーチェンジに過ぎなかったのかもしれません。

CD往来では、いろいろな刺激や発見が次から次で、とても勉強させられます。
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アンリ・バルダ

青柳いづみこさんの著作『アンリ・バルダ』は、読者レビューによれば評判はそれほど芳しいものではなく、むしろ否定的な意見が多く見られたようでした。

普通ならこういう書き込みを見ると購入意欲を削がれるものですが、アンリ・バルダというピアニストは一度テレビで視たきりで、よく知らなかったこともあるし、そもそも青柳女史が一冊の本として多大な時間と労力を賭して書き上げるからには、それなりの意味と価値があったのだろうと思われ、敢えて購入に踏み切りました。

果たしてマロニエ君にとっては、否定的どころか、この本は青柳氏の数々の著作の中でも出色であったように思われ、始めから最後まで、概ねおもしろく読むことができました。

バルダという気が弱いのに我が儘な、傲慢なのに優しげな、いかにもヨーロッパにいそうな昔気質の音楽家の姿がそこにあり、傷つきやすい繊細な心象を抱きつつ、それを守ろうともせず矛盾の渦の中に自分をつき落とし、後悔を繰り返しながら、それでも本能のようにピアノを弾いている、はや初老のフランス人ピアニストの半生でした。

本を一冊読み終えてみると、無性に演奏が聴きたくなるものですが、手許には一枚もCDがありません。オペラ座バレエのジェローム・ロビンスの舞台では長年ショパンを弾いていた由ですが、以前マロニエ君がこれを見たときは別の女性ピアニストになっていて、そこでのバルダも聴いてみたかったなどあれこれと興味ばかりが沸き立ちました。

本によると、ときどき来日してはコンサートやレッスンをやっているようではあるし、そのうちまたクラシック倶楽部でもやるかもと思っていたら、その念願が通じたのか、それから早々のタイミングで「アンリ・バルダ・ピアノリサイタル」が放映されたのには却ってこちらのほうが驚きました。

2012年の浜離宮でのリサイタルで、ラヴェルの高雅で感傷的なワルツ、ソナチネ、ショパンのソナタ第3番というものでしたが、不機嫌そうにステージに現れたバルダは一礼をするとサッと椅子に座り、一呼吸する間もなく演奏を始め、見ているほうが大丈夫か?と不安になるほどです。

本を読んでいたこともあると思いますが、次第にわかってきたのは、このバルダのステージ上の素っ気ない態度は、ひどく緊張している自分との戦いのようにも思われました。

バルダのピアノはタッチの多様さというものが少なめで、悪く言うとタイプライターのように容赦なくキーを叩いて演奏をひたすら前進させ、その疾走するスピードにときどきバルダ自身さえもが煽られているようなときもあるようです。

あまりに出たとこ勝負的な演奏なので、途中で本人もマズいと思っているのかもしれないけれど、笛が鳴って飛び込んだら、ともかくゴールを目指して泳ぎ続けなくてはいけないスイマーのように、遮二無二、終わりに向かって進んでいくといった感じでもあります。
よく聴いていると情感はあるのだけれど、それを正面から出すのが彼のセンスに合わないのか、むしろドライぶって仮面を被っているようでもありました。

ラヴェルは彼の十八番のひとつのようですが、現代の演奏に慣れてしまった耳で聴くと、すぐにその良さは伝わりません。むしろデリカシーのない、思慮を欠いた、荒っぽい演奏のように聞こえてしまうでしょうし、事実マロニエ君もはじめのうちはそんな印象で聴いていましたが、だんだんにこの人が紡ぎ出す音楽の美しさと、作品そのものの美しさが和解してくるようです。
音楽が奏者の感性を通して演奏となり、それが音として実在してくるという一連の流れが、とても芸術的だと感じるようになりました。

バルダの主観によって捉えた音楽を、ありのまま出してみせるという、まるで画家の自由奔放な筆使いを見るようで、他のピアニストでは決して味わうことのできない面白さを満喫することができました。

もちろん欠点はたくさんあるし、「それはあんまりでしょう!」といいたくなるような部分も随所にありました。でも例えばショパンの第三楽章の悲しみの中に沈殿する透明な美しさや、それを隠そうとする恥じらいなど、バルダの心中のさまざまなうごめきが伝わってくるようで、もっとこの人の演奏に付き合ってみたいような気になるのは、まったく不思議なピアニストだと思いました。

アンコールではショパンのノクターンが弾かれましたが、これがまたエッ!?!というような賛同しかねるもので、最後の最後まで苦笑させられました。

でも、マロニエ君はいつも思っていることですが、物事の良し悪しというのはその残像としてとどまるものに証明されると思います。その点で言うとバルダは、結局は非常に後味の良い、魅力あるピアニストであったことは間違いないようです。

甚だ辛辣で偽悪趣味のパリジャンもなかなかカッコイイものです。
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プライドもどき

プロフェッショナルのスタンスに関連して思い出したことを少々。

世の中にはビジネスをやっているにもかかわらず「ありがとうございました」という言葉、もしくはそれに準ずる挨拶を決してしない人が(ごく稀に)いるというのは首をひねるばかりです。

医療関係や学校関係がそれをいわないのは、まあなんとなく社会の慣習として定着していますが、それにも当たらない大半の業種では、これなしではなかなか場が収まりません。

であるのに、毎回どうにかしてこの言葉をすり抜け、あげくには、あま逆さまにお客側に御礼を言わせてしまうという摩訶不思議な状況になるのは、呆れると同時に、なぜそこまでこだわるのか理解に苦しみます。

その理由は、きっと心の深いところにわだかまっていて、体質や細胞にまで染み込んでいるのだと思います。
ふと振り返っても、通常の仕事はもちろんお客さんを紹介するなどしても、一度としてその言葉を聞いたためしがないとなると、これはよほど重症なのだろうと思われます。

「ありがとうございました」という言葉は通常の人間関係でも日常語であり、ましてやビジネスともなれば、ほとんど呼吸同然に身についているのが普通です。食べ物屋に行っても、モノを買っても、金融でも、技術でも、サービスでも、100円ショップでさえも、この言葉は過剰ともいえるほど繰り返し聞かれ、言う側も、言われる側も、これなしでは関係が立ちゆきません。

心からの感謝の気持ちかどうかは別にして、皆ごく当然の流れで「ありがとうございました」を口にしていますし、これは商行為のケジメであるし、仕事というものはどのみちそんなものの筈です。
それでも、この言葉を極力発したくないというこだわりがあるとしたら、そんな人はそもそも商売なんかせず、勉学に励み、医者か官僚にでもなればいいのです。

ビジネスに対する意欲や情熱は人一倍あるのに、この言葉を頑として口にしないというのは、明らかに意識的としか思えません。きっとそこには心の屈折がある筈で、ひとくちに言ってしまえば、よほど自信がないことの証明だと思って間違いないでしょう。
御礼を言うことは自分が頭を下げて負けるようであり、そのぶん相手が上に立って優勢になるというような、卑屈で脅迫的なイメージが固定されているのかもしれません。

これと同じことは、「申し訳ない」や「すみません」にもあらわれ、これがスッパリ言えない人にはやはり卑屈さがあり、むやみに勝ち負けを意識する思考回路になっているのでしょう。

コンプレックスから意識過剰になり、卑屈になって、挨拶が挨拶以上の意味に感じられて、それを口にしたくないということもありそうです。
子供が好きな女の子にかえって意地悪をするように、人間は本心は悟られたくないときに場違いな強気の態度をとってしまうという防衛本能があるのかもしれません。
とはいえ、ビジネスの現場にまでそれを持ち込むのは、いかがなものかと思います…。

そもそも、自分に自信のある人というのは、心にも余裕があるからおおらかで気持ちも明るく、何事も偉ぶらず、御礼やお詫びなども、臆せずに、堂々と、盛大に言うものです。

自信のある人は、どんなに感謝やお詫びの言葉を口にしても、それで自分の立ち位置がけっしてブレることがないことを知っています。
逆にそういう言葉を避けたり惜しんだりする人は、自分ではそれこそがプライドのつもりなのかもしれません。しかし、悲しいかな目論見どおりには人の目には映ることは決してなく、むしろ力んでばかりいる臆病な小動物みたいに見えてしまいます。
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プロの矜持

今年、縁あって知るところとなった自動車のメンテナンスショップがあります。
ここのご主人がたいへん立派というか、見上げた心がけの持ち主で、すっかり感心してしまいました。

それは故障の修理にあたって、いろいろな可能性や方策が講じられ、「それで結果がでたら、これこれの料金で…」というスタンスを取ることです。

故障しないことが当たり前の日本車にお乗りの方はご存じないかもしれませんが、輸入車に乗ると、ほかに代え難い魅力がある反面、信じられないような故障やトラブルに悩まされることになります。とくに保証期間が切れると、以降は何があっても費用は自腹を切らなくてはなりません。

まず大変なのはトラブルの原因究明ですが、これがやっかいです。
ライトが切れたとか、タイヤがパンクしたというのなら話は早いのですが、現実のトラブルはとてもそんなものではありません。機械の奥深い部分に、考えられないような原因があることは珍しくなく、それを正確に突き止めることが至難の技です。

さらに現代の車は大小様々なコンピュータまみれで、これが悪さをすると、なにが原因かを特定するのは困難を極め、そのためのテスターなども実は限界があって決して万能ではありません。

突き止められなければどうなるかというと、問題の可能性がありそうなパーツを交換して、あっちがダメならこっち、こっちがダメならそっちといった具合で、オーナーは車が直って欲しい一心でその成り行きを見守ることしかできまません。

実際、部品を換えてみないとわからないということも確かにあることはあるのですが、多くはメカニックが独断的な見立てをして部品を発注、さてそれを交換してみたものの一向に改善されない…といったことがよくあるのです。
これはつまり、結果からすれば交換の必要がなかったパーツだったということになり、じゃあその部品代や交換工賃はどうなるのかというと、これは車のオーナーの負担になります。

常識で考えれば、「プロの見立てが悪いのだからそっちの責任」ということになって然るべきですが、実際はなかなかそうもいかないのです。
修理する側にしてみれば、直すための努力をやっている過程で発生したやむを得ない手順のひとつというわけで、それを容認できないようなら「うちじゃ診きれません」というようなことになるわけです。

しかも、輸入車の場合は診てくれる工場も多くはなく、見放されては困るという乗り手側の事情もあって、理の通らない請求にもじぶしぶ応じることになるわけです。

ところが、このショップでは工賃もリーズナブルな上に、結果に対して責任を持つ姿勢であることは、本来なら筋論として当たり前のことですが、それがほとんど実行されない現状に慣らされているぶん、マロニエ君は大いに感激してしまいました。
今の世の中、当たり前が当たり前として機能し、実行されることはそうはないのです。

プロというものは、基本として結果に責任をもち、そこに報酬を得ることのできる専門職のことであって、結果に至るまでの未熟さや紆余曲折の過程で発生した部品代や手間賃をいちいち請求するのは、ほんらいプロとして恥ずべき事だと思います。

ピアノの世界でも、せっかくいい仕事をされるのに、作業内容や料金に対して一貫したポリシーをもてない人がいたりすると、それだけでしらけてしまいます。
はじめに聞いたことと、いざ請求するときの金額や内容が微妙に違っていたりするのも、こちらは敢えて追求はしないけれども、内心ではむしろ鮮明にきっちりわかっているだけに、そんなとき見たくないものを見せられるような気がします。

小さなことは実は決して小さくはないということでしょうか。
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コンラッド・タオ

いつだったかCD店の処分セールのワゴンの中から買ってみたもののひとつに、コンラッド・タオという中国系アメリカ人のアルバムがあり、このとき初めて聴きました。

ピアニストで作曲家、おまけにヴァイオリン演奏もプロ級という大変な才能の持ち主のようで、このアルバムでもラフマニノフのプレリュードやラヴェルの夜のガスパールのほかに自作の作品もいくつか含まれていました。
すでにダラス交響楽団からケネディ大統領暗殺50年のための委嘱を受けるなど、作曲家としてもすでにかなりの評価を受けているようです。

まだ二十歳前という若さにもかかわらず、非常に洗練されたスタイリッシュかつ雄弁な演奏であるのは印象的で、技巧的にも申し分なく、あらためて音楽の世界は若い時期にその才能が決定してしまうことをはっきり思い知らされるようでした。

いかにも中国人という感じの、あまり期待させるジャケットではなかったので、よけいにその趣味の良い完成された演奏、さらには自作の作品もなかなかのもので、こういう優れた才能が存在していることに驚かされました。

気をよくしてyoutubeで検索したところ、その中の映像ではさらに若い頃のものか、リストかなにかを弾いているものがありましたが、なんとそこでの彼は中国節全開で、到底CDの演奏と同一人物とは思えないようなものであるのに愕然とさせられました。

この点はたいへん不可解ではあるけれども、善意に解釈すれば、その後の研鑽によって一気に国際基準の語り口を身につけ、現在のようなスマートな演奏が確立されたということかもしれません。真相はわかりませんが、今のところはそう思っておきたいと思うのです。

マロニエ君の好む演奏のひとつに、繊細なのに音楽的な熱気があるというスタイルですが、コンラッド・タオのピアノにはそれを感じ、中国の才能も大したものだと思います。
ああ、またか、と思われる向きもあるでしょうが、これだけいろいろな才能がある中で、なぜランランのような人がひとりスター扱いを受けるのか、この点が甚だ納得がいきません。

ランランで思い出しましたが、どうして中国人青年の若い頃というのは、だれもかれも昔の板前さんみたいな五分刈り頭で、まわりから浮いてしまうほど場違いな雰囲気を発散するのかと思います。

ある意味で、いまや伝説の映像となっている、若いランランがデュトワ指揮N響と共演したラフマニノフ3番のときもこれだったし、ニュウニュウもはじめはそれ、そしてアメリカで育った筈のコンラッド・タオでさえやはりこのスタイルなのは唖然としてしまいます。
例外はユンディ・リだけでしょうか…。

まあ、それは余談としても中国の音楽家の良いところは、演奏がぶつぶつ切れるような縦割りではなく、好き嫌いはあるとしても、みんなある一定の流れを持っているところのような気がします。
ひょっとすると、これは複雑な発音を流暢にしゃべる中国語にその源流があるのかもしれません。

なにかにつけ優秀な日本人ですが、こと外国語の発音だけは本当に苦手で、今回のノーベル賞受賞者といい小沢征爾さんといい、もう少し上手くて当たり前だと思うような国際人でも、どこかカタカナを並べたようで、やはり日本語という言語に深い理由があるのかもしれません。
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予報と結果

今年も台風の季節となっています。

とりわけ沖縄や九州は、多くがその最前線に立たされる地勢的な運命にあり、やっと夏の暑さから解放されると思うのも束の間、お次は台風の到来を覚悟しなくてはなりません。

むかしから春の陽気が体調に合わないマロニエ君にしてみれば、春→梅雨→夏→台風と一年のほぼ半分が過ごしにくい時期となるわけで、考えてみればうんざりの時期も長いはずです。

むかし毎年のようにメキシコへ旅する知人がいましたが、彼の地は「常春」すなわち年中春なのだそうで、蒸せるような夏の暑さも、肺と血管が収縮するような冬の寒さもない、温良な季節ばかりが年がら年中続くのだそうです。
なんと羨ましいことかと思ったのですが、どうやら現地の人はそれほどでもないのだそうで、あちらから見れば(とくにメキシコ在住の日本人によると)、日本のように四季の移り変わりがあることにある種の憧れみたいなものもあるらしいという話を聞いてとても意外だったことを思い出します。

年中過ごしやすい春というのは、差しあたってはいいのでしょうが、その反面変化に乏しく、そこに住み暮らす人々もどことなく怠惰で、いつも平坦で刺激もなく、これが必ずしも人間の暮らしにとって最良とは言い切れないということを聞いたとき、そんなものかなぁ…と思ったものです。

そうはいっても、日本の四季も、言葉だけは美しくて叙情的な響きがありますが、実際にはけっこう苛酷だなぁ…とも思います。天候だけでいうなら、日本は必ずしも住みやすい地域とは云えないような気がするのですが、かといって世界を知らないマロニエ君には本当のところはよくわかりませんが。

さて、冒頭の台風に戻ると、今年は梅雨の延長のようだった夏から、季節外れの台風の情報に翻弄されたように思います。
今月も18号に続いて19号が北上、九州付近から右折して、列島を嫌がらせのように横断していくというパターンが二週続き、土日や連休は台風一色で終わってしまいました。

自然現象はどうすることもできないとしても、これに際しての気象庁の発表する台風情報、あるいはテレビが報道する台風の情報には、個人的にはいささか疑念をもつようになりました。

早い話が、いくらなんでも大げさに言い過ぎる傾向が以前よりも強くなり、毎回どれほどの巨大台風がやってくるのかと、過ぎ去るまでの数日間は右往左往させられるのですが、実際はほとんど予報や報道とはかけ離れた平穏な状態です(少なくとも九州は)。

もちろん用心に越したことはないし、結果的に大事に至らなかったのはなにより結構なことではあるけれども、あまりにそれが毎回で、さすがにどういうことなのか?と思ってしまいます。

夏の台風でも「かつて経験したことがない規模の猛烈な」というフレーズが何度も繰り返され、それは福岡地方も完全に含まれており、学校の類はすべて休校、街はすべてが台風にそなえた形となりましたが、実際は台風どころか、むしろ無風といってもいい状態のままそれは通過していきました。

先週もやや強めの風が少し木の枝を揺らしていた程度ですし、さらにそれよりも北にコースをとった19号も、いつどうなったのかほとんどわからないまま東へ進んでいき、あとから多少の風雨となった程度でした。
宮崎・鹿児島が最も危険な進路上にありましたが、宮崎市内に実家のある友人が電話をしてみたところ、「なにもなかった」とのことで、これほど甚だしく予報と実際の食い違いがあるというのはちょっと問題ではないだろうかと思います。

気象観測の技術も昔にくらべれば格段の進歩を遂げているはずですが、もう少し、リアリティのある予報であってほしいものだと思います。

もちろん防衛費などに代表されるように、社会の安全や、人々の健康というものは、ほんらい何もなくて当たり前、その当たり前を実現し維持ためには多大なコストやエネルギーを要するのはわかりますが、それにしてもこのところの台風情報はどこかおかしいのでは?と思えてなりません。
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続・CD往来

前回書いた通り「CD往来」のおかげで、聴いたことのなかったヴァイオリンのCDを一気に楽しむことができました。

2度にわたって送っていただいたCDは実に21枚!にも達していますが、とりわけ集中しているのはパガニーニの24のカプリスとイザイのソナタ全6曲で、いずれも無伴奏の作品です。
これらが各6枚ずつで12枚、さらにバッハの無伴奏ソナタとパルティータが2枚、ロッラという作曲家のヴァイオリンとヴィオラの二重奏など、無伴奏のアルバムが多くを占めました。

パガニーニのカプリスは昔パールマンのレコードをよく聴きましたが、その後はそれほど熱心に探してはいなかったこともあり、五嶋みどりなど数枚がある程度でした。
そこへ今回一気に6人もの超一流奏者によるカプリスを手にすることとなり、急なことで耳が驚いているようです。

昔の印象と違ったのは、この曲集はやはり技巧ありきの作品で、演奏はどれも卓越したものであるのは云うに及びませんが、作品としては意外に飽きてくるという事でした。

その点では、イザイのソナタにはそれがありません。
どれもが濃密な人間ドラマのようで、聴くたびにわくわくさせられるし、演奏者によってもその台詞まわしやカメラアングル、演出がみな異なり楽しめました。
とはいっても、無伴奏ばかりを延々と聴いていると、ときどき疲れてきて違うものが聴きたくなりますが、やはりおもしろいので、一息つくとまたプレイヤーに入れてしまいます。

さらに飽きさせないのはやはりバッハです。ポッジャーというバロックヴァイオリンの名手がはっとするような清新な演奏を繰り広げるのにはかなり驚きました。
昔は、フィリップスから出ているクレーメルのこれが一番だと思っていたし、最近になってイザベル・ファウストの鮮烈がこれを抜き去ったように感じていました。そこへこのポッジャーというファウストに勝るとも劣らぬ名演が加わり、充実のラインナップと相成りました。

これまでにもイザイやバッハは買ったはいいが大失敗で、演奏者の名前すら覚えていないというのもいくつかあり、その点ではヴァイオリンに通じた方が選ばれたCDはまさに精鋭揃いでした。

ヴァイオリンの音色もさまざまですが、これに関してはマロニエ君はどうこういえるほどよくはわかりません。ただ好きな音、それほどでもない音があるのはピアノと同様ですが、それが演奏によるものか、楽器によるものかなどはもうひとつ判然としないというのが正直なところです。

ちなみに最近ここに書いた樫本大進の演奏でも、チャイコフスキーでは終始音がつぶれ気味で美しさがなかったのに、アンコールのバッハでは違う楽器のような美しさを感じたのはちょっとした驚きでした。やはり楽器の美しさを楽しむには無伴奏は最適ということなのかもしれません。

ひとつ発見したのは、無伴奏ヴァイオリンのCDは、どれも録音が素晴らしいという点です。リアリティがあって立体感があって、しかも全体像も掴みやすいし、楽器から出ている直接の音と残響の区別もつけやすいし、まるで楽器が目の前にあり、演奏者の息づかいに直接接しているようで生々しい高揚感があります。
こんな面白さや魅力は、ピアノの録音ではなかなか望めないことだと思いました。

考えてみれば、ピアノという楽器は、音域もダイナミックレンジも異様に広く、それをひとつの録音作品として遠近をまとめ上げるのは並大抵ではないのだろうと思われます。
むかしオーディオマニアだった友人が尤もらしく言っていたところでは、録音技術者はピアノのソロを満足に録れるようになったら一流なのだそうで、それが今ごろになって納得させられるようです。

ピアノの場合は、録音の巧拙が残酷なまでに明らかで、それは定評のあるレーベルに於いても、アルバムごとに音質というか、要するに録音ポリシーみたいなものが常に不安定なことでも察することができるようです。
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CD往来

遠方の音楽好きの知人と電話をしているとき、ピアノの調律に話が及び、調律師によって実にいろいろなやり方や個性があることが話題になりました。

とりわけ一流どころになると、調律は明らかに芸術性が問われる高尚な領域に突入します。ひたすら職人技に終始するか、はたまたそこから芸術の領域に足を一歩踏み入れるか、ここが分かれ目です。

しかしこればかりは、どんなに言葉を労してもその音を伝えることはできません。
『百聞は一見にしかず』のごとく、聴覚もこの点は同様です。
そこで、オクタビアレコードからリリースされているCDで、我が主治医殿がピアノの調律を担当しているものをコピーして送ることになりました。だって聴いてもらうしかないのですから。

CDのコピーというものはあまり大っぴらに云っていいことかどうかはわかりませんが、パソコンなどはそれができる機能を有しており、べつに販売するわけでもなく、とりあえず「個人が楽しむ」という制限付きならば許されていることだと解釈しています。

マロニエ君は車の中の音楽はすべてコピーCDで聴いているので、ときどき車用を作るのですが、考えてみると、このところずいぶん長いことこれをやっておらず、これを機に久しぶりにCD作りに精を出しました。

どうせ送るのなら、ほかにも話の種に聴いて欲しいものもあり、思いつくままにコピー作業をやったのですが、これが案外楽しかったのは自分でも妙な発見でした。
車用を兼ねて2枚ずつ作るというのも合理的であるし、なんだか貴重な音楽CDを自分の手で作っているような子供じみた面白さもあって、数日というもの、夜はすっかりこれにはまってしまいました。

ある程度の枚数を送ると、なんと先方でも同様のことをしてくださり、ほどなく分厚いCDの包みが届きました。中を開けると予想を遥かに上回る枚数のCDが出てきてびっくり!
相手の方はヴァイオリン出身の方なので、ヴァイオリンのCDを相当お持ちで、そこには自分ではまず買わなかったであろうCDがズラリ! 一通り聴くだけでも大変な量です。

その「自分では買わなかったであろうCD」というのがポイントで、自分だけでは趣味趣向がどうしても偏ってしまって限界があります。マロニエ君ならどうしてもピアノが優先になるし、その取捨選択も、知らず知らずのうちに同じような尺度でばかり選んでしまうようです。

その点では、他者が他者の興味や価値観によって手に入れたCDというものは実におもしろいもので、ドキドキの連続、予想外の音楽や演奏に出会える恰好のチャンスとなりました。
はじめて聴くことができた演奏家や作曲家もあって、やはり所詮一人で動いていては限界があることを痛切に感じます。

マロニエ君は、趣味は基本的に、孤独でもじゅうぶん楽しんでいけるだけのものでなくてはならないと思ってます。たしかに同好の仲間がいるのは楽しいけれど、趣味という名のもと、価値観の違う者同士が無理して肩寄せ合って、口にはできないストレスを感じながら妥協的な時間を過ごすのは本末転倒で、好きではありません。

車などは同好の士が集まるのはとても楽しいのですが、こと音楽とかピアノになると、何故か知らないけれど、何かが違うというか、最も大切な核となる部分が悲しいまでに噛み合わないことがあまりに多いというのが偽らざるところでしょうか…。

むろん中にはそうではない方も僅かにおられますが、これは本当に一握りの方々です。
そういう方との交流や情報交換はやはり貴重ですし、それによって自分が大きな恩恵に浴していることは確かです。
とくにヴァイオリンのCDに関しては、おかげでグッと視界が広がったような気がしています。
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男の自意識?

今年7月にサントリーホールで行われた山田和樹指揮のスイス・ロマンド管弦楽団の演奏会から、樫本大進のソリストによるチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲をNHKクラシック音楽館の録画から聴いてみました。

全般に力の入った演奏で、会場はたいそう拍手喝采でしたが、個人的にはそれほど好みではなかったというのが正直なところです。

音楽的にも、これという個性やメッセージ性があまり感じられないにもかかわらず、自分という存在の主張だけは怠りないものが感じられました。

マロニエ君の印象としては、樫本氏は、現在の彼が背負っている肩書きというか、手にしているポストの高さを日本の舞台でも立証してみせることのほうに意識が向いているようで、演奏もそちらの要素が主体のものであったような気がしました。

もちろん、それは目先の技巧ばかりを見せつけるような単純なものではなく、各所での思慮深さなどを充分考え、深めた上でのものだという体裁にはなっているものです。なんだかそこまでのしたたかな思惑が見えてくるようで、要するに、聴く側に演奏が深く染み込んでくると云うことがあまりなかったのが個人的な印象でした。

ソリストでも名を馳せ、それになりの活躍をして実績を積んだ上で、さらにはベルリンフィルの第一コンサートマスターに就任したということが、飛躍的な地位の格上げになったものは間違いないでしょう。

ただ、真実それにふさわしい演奏ができているのか、あるいはそれに値する器の持ち主かということになると、マロニエ君は正直よくわかりません。

チャイコフスキーの協奏曲ではオーケストラの序奏に続いて、すぐにヴァイオリンのソロが入りますが、それがあまりに意味深で芝居がかったようで、いきなり曲の流れが途絶えたようでした。この気配というのは、ほんのわずかのことではあるけれども、そのわずかはとても重要で、聴く側にとっても独奏者がこれからどういう演奏で行こうとしているのか、おおよそ方角が決定されるように思います。

そして、なんとなく、あのフレンドリーな笑顔が印象的な樫本氏にしては、かなり自分を前に出すなぁ…という印象でした。

ナレーションで言っていましたが、樫本氏と指揮の山田和樹氏はドイツでも親しい間柄なんだそうですが、終演直後のステージマナーのちょっとした所作では、名門スイス・ロマンドと山田氏に対して、かすかに上から目線な態度だったように感じられたのは、思わず「ほぅ」と思ってしまいました。

男の競争心というのは、どんな世界でも上を極めるほどに凄まじいものがあるものですが、ここにもチラッとそれを見てしまったようでした。

ちなみに、山田和樹氏の演奏には、これまで好感の持てるものにもいくつか接していましたが、このチャイコフスキーではまるで作品にLED照明でも当てたみたいで、あまりに憂いがなく、この点にはちょっと馴染めないものを感じてしまいました。
オーケストラはサイトウキネンではなくスイスロマンドなのですから、もしかするとこれが最近の明晰な演奏のトレンドなのかとも思われました。

かつてのロシアのオーケストラのような、どこかアバウトだけれど、叙情的でやわらかな響きのチャイコフスキーというのは、もはや時代に合わないものになったのか…いろいろと考えさせられました。
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北アルプス文化センター

エデルマンのショパンアルバムに聴くスタインウェイが、久々に逞しいパワーと深いものをもったピアノだったので、このところ虚弱体質の新しい同型が多い中、まだまだこういうピアノも存在していることがわかって溜飲の下がるような、あるいはホッとするような思いがしたものです。

エデルマンの演奏はやや強引なところがあるものの、この好ましい英雄的なスタインウェイサウンドを聴く快感を味わいたくて、ずいぶん繰り替えし聴きました。
データには収録場所が、富山の北アルプス文化センターと記されており、なんでそんなところへわざわざ遠征して録音するのだろうとはじめは思っていました。以前も同じレーベルで、ある日本人が弾くリストのアルバムを購入してたところ、これが演奏といい録音といい、およそマロニエ君の好みからかけ離れたもので、我慢して2回聴いてあとは完全なほったらかしとなっていたのです。

そのときも北アルプス文化センターとあったので、きっと楽器も会場もよくないのだろうと思った記憶がおぼろげにありましたが、エデルマンに聴くピアノの音がただならぬものなので、もしやと思ってあれこれ検索してみることに。
すると、北アルプス文化センターは、そこにあるスタインウェイが評判がよい由、さらにはホール側も録音に協力的なためにここで録音するピアニストが多いというような書き込みを目にしました。

へえー…そうだったんだ!と思って調べてみると、ここは1985年ごろのオープンなので、おそらくその時代のスタインウェイが納入されていると考えていいでしょう。この時期は近代のスタインウェイではマロニエ君の最も好きな時代のひとつなので、聞こえてくる音の充実感に膝を打ちました。
こうなるといてもたってもいられず、別のディスクも聴いてみたくなり、とりあえずここで録音したピアノのCDを探すことに。

その結果、菊地裕介氏の弾くシューマンのダヴィッド同盟やフモレスケのアルバムが見つかり購入。レーベルはやはり同じオクタヴィアレコードです。
2日後ぐらいに届いて、さっそく鳴らしてみると、冒頭のアレグロh-mollが始まるや、なにかが上から降りそそいでくるかのような華麗で重厚な美音の雨に総毛立ってしまいました。

録音もエデルマンのショパンほどマイクが近すぎず、さらには菊地氏はエデルマンのように強引な打鍵ではなく、より自然な過不足のない鳴らし方をしており、音としてはずっと好ましいものだったことも収穫でした。

絢爛とした甘くてリッチな音色、美しい鐘のような低音、現代性と圧倒的なタフネスを兼備して、ひとつの完結された個性がそこにあり、まるで生命体が発するようなオーラを感じます。

こういう音に接すると、やはりある時期までのスタインウェイは他を寄せ付けぬピアノだったことを思い知らされますが、その後は音質はもちろん、ピアノとしての潜在力がじわじわと下降線を辿り始めたのはただただ残念というほかありません。

どの時代のスタインウェイがもっとも好ましいかという意見はいろいろあって、80年代のものでも厳しい人はダメだと一蹴されるでしょう。しかし、マロニエ君はせめてこの時代ぐらいまでの音質を維持していれば、他のメーカーの猛追に脅かされることもなかったように思います。

この時代までは、かりそめにもこのブランドに相応しい魔力のようなものを感じる雲の上のピアノでしたが、それ以降は少しずつ飛行機が高度を落としていくように、雲の下まで降りてきて、現在は高級な量産品の音になっているというべきかもしれません。

あとは賢明な判断力のあるホール管理者が、安易な買い換えなどをせずに、佳き時代のピアノをできるだけ大事に使っていってほしいと思います。
名のある演奏家などが、「ホールのピアノはほぼ10年で寿命となる」などと、堂々と発言したりするのを目にすると、楽器屋と結託しているのかと本当に驚いてしまいます。
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カテゴリー: CD | タグ:

水の音

マロニエ君の自宅の裏には、マンションが背中を向けてそびえ立ち、我が家とは土地の高低差があるので、マンションの土台部分は一面のコンクリートの壁状になっています。

これが幸いし、さらに両隣のお宅も住居部分がそれぞれ離れていため、ピアノの音でご近所に気兼ねすることがそれほどでもなく、控え目な音であれば深夜までピアノが弾ける環境であるのは恵まれていると思うところです。

そのマンションから、下水か何かよくわかりませんが、我が家との境界線付近にある排水口らしきところへかなりの勢いで水が流れ落ちてきて、その水の音は、隣人としては改善を願い出てもおかしくないほどの音量に達しており、それがどうかすると24時間連日続きます。

たまに我が家に訪れた人は、その絶え間なく流れ落ちる水の音に驚き、何事か!?と感じる向きもあるようです。

ところが我が家では、誰もそのことでマンションへ苦情を言ったことがありません。それは水の音というものが、うるさいと思えば確かにそうだけれど、どこか嫌ではない性質の音であるからで、勝手に自宅の裏に小川が流れているような風情を感じたりしています。

どちらかというとマロニエ君は不眠症ぎみで、ちょっとした事や物音でも寝付くことができずに苦労するほうなのですが、この川のせせらぎのような音だけは、たえず耳には届いてくるものの、なぜか心底イヤだと感じたことがありません。

これがもし別の種類の音だったらば、たとえ音量が半分でもとても我慢できるものではないでしょう。
それだけ、音にもいろいろあるというわけで、個人差はあるとしても、おおむね人は自然の発する音には寛大で、ときにはそこに心地よささえ覚えるものだということを感じないわけにはいきません。

その証拠に、春秋の季候のよいころになると、ごくたまにではあるけれども、そのマンションの住人が窓を開け放ってパーティみたいなことをやっているのか、ずいぶん楽しげにわいわいやっていることがあるのですが、こちらはそれほどの音量でもないけれど、たえず耳について気になって仕方がありません。

それに較べると、水の流れる音は音楽の邪魔にさえなりません。
人が木の感触に説明不要の感触を覚えるように、ちっともイヤではないばかりか、例えばベートーヴェンのシンフォニーやソナタの緩徐楽章のその向こうで水の音がするのは、その楽想に合っているかどうかは別として悪くはない感触です。

こういうことを考えてみると、この先、どんなにめざましい技術が生まれてピアノの響板などに流用できたとしても、それでは人の本能とか潜在的な部分を慰めることはできないだろうと、これだけは確信をもって思います。
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