演奏会雑感

福岡市の南の丘に佇む芸術空間、日時計の丘ホールの企画公演である『バッハのクラヴィーア作品全曲演奏会』も5回目を迎え、今回は場所を福岡銀行本店ホールに移して、少し大きな規模で行われました。

ピアノはこのシリーズ唯一のピアニスト管谷怜子さん。
前半はパルティータ第1番、6つの小前奏曲、フランス風序曲、後半は弦楽五重奏を迎え入れてのピアノ協奏曲第1番というものでした。
このシリーズで協奏曲が登場したのは初めてのことです。

演奏はいつもながらの端正かつふくよか、まったく衒いのない、真摯なバッハが描き出されます。
終始一貫、気品にあふれつつ音楽的な迫りも十二分にあり、作品がピアニストの手によってみずみずしい養分を与えられ、それが生きた音となって自然に語りかけてくるようです。

フォルムの端然とした美しさ、適切なダイナミクス、決して潤いを失わないしなやかな音色は、このピアニストの大きな美点のひとつであることを聴くたび毎に感じさせられます。

いつもと異なる点は、会場が大きいぶん、日時計の丘のブリュートナーを至近距離で聴くときのような細かな表現のあれこれや、走句や表情の弾き分け、妙なる息づかいなどが、完全には聴き取れないというもどかしさがあった反面、こういう響きの素晴らしいホールだからこそのリッチな音響に与る楽しみもあり、どちらにも捨てがたい魅力があるものです。

管谷さんも会場の大きさを考慮してか、いつもより打鍵が強めになっているように感じましたが、なにぶんマロニエ君は後方の席で聴いたので、たまたまそういうふうに聞こえただけかもしれません。

この日は全曲を暗譜で演奏されましたが、始めから終わりまでバッハだけで弾き通すというのは並大抵のことではなく、通常のリサイタルよりも数段しんどいだろうなあというのが率直なところでした。


さて、いささか迷いましたが、聴衆の一人としてあえて少し触れておくと、この日の調律はどちらかというとこの日のプログラムに適ったものだったかどうか…そこが個人的にはやや疑問に感じたことは否めません。
休憩時間はロビーに出たし、席に戻ったあともピアノの調整はなかったので、どなたがされたのかわからずじまいでしたが、ともかくこれはマロニエ君の率直な感想です。

知らないことを幸いとしているわけではありませんが、まったくありきたりな平凡な調律だと感じたことは少々残念というべきでした。とりわけコンサートでは、わずか2時間の本番に全力を尽くすピアニストと、それを聴きにやってくる聴衆、その両者のために、いかにピアノを音楽的に好ましく鳴らすかというのがピアノテクニシャンの勝負だろうと思います。

オール・バッハ・プログラムというからには、当然それにフォーカスした調律がなされて然るべきで、それによって演奏は際立ち、助けられ、より深い説得力をもつものになる筈です。
今回そういうものがあまり感じられなかったのは、もしかしたらマロニエ君の耳のほうがおかしいのかもしれませんが…。

一般的にピアノのコンサートは、ピアニストの技量や音楽性ばかりが問題にされますが、それを一方で強く支えているのは楽器です。とくにスタインウェイは、最もオールマイティなピアノだといわれますが、それはあくまでも潜在力の話であって、普通に調律しておけば何を弾いてもOKということではない筈です。
同じピアニストでも、バッハとラフマニノフでは弾き方を変えるのは当然ですが、おなじことが調律にも云えるとマロニエ君は思うわけです。
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小兵の魅力

N響定期公演に中野翔太という若いピアニストが登場し、はじめてその演奏を聴きました。
曲はグリーグのピアノ協奏曲。

一見して、ステージ人という雰囲気のまったくない、日本のどこにでもいそうな青年ですが、そのピアノには好感をもちました。

いやなクセがどこにもなく、はじめは今どきのいわゆる無味乾燥な楽譜通りの演奏のようにも感じますが、聴き進むうちに必ずしもそうでもないことが少しずつ伝わります。

日本人的な精度の高さと繊細さが支配的ですが、その中になんともいえない均整感のよさのようなものがあり、ディテールの閃きや華やかな技で聴かせるのではなく、全体を通じてじわじわと染み込んでくる心地よさが印象的でした。

その風貌や体格、あるいは指さばきをみても、いわゆる大器というタイプではありませんが、全体に好ましい配慮の行き届いた、いわば小さな高性能という印象です。ピアノは大きな楽器ではありますが、誰でも彼でもロシア人のようにパワフルで技巧的なことが絶対ではないことはいうまでもありません。

相撲でも小兵力士というのが格別な魅力を持つように、細やかな息づかいやアーテキュレーションで音楽の深いところにいざなってくれる、気の利いたピアニストというのも捨てがたい魅力を感じます。

マロニエ君はこの中野さんのピアノはこの1曲しか聴いたことがないので断定的なことは云えませんが、作品の隅々まできちんと見通しがきいて、それが演奏へと緻密に反映されているようです。それでいてメリハリもきちんとあり、必要なアクセントや輪郭はぬかりなく押さえているのは立派でした。

とりわけ協奏曲の場合は、ソロとオーケストラの音量のバランスも大切ですが、この点もほんのちょっとだけ弱いぐらいの印象があり、けなげにピアノが鳴っているという感じが絶妙でした。
それが却ってひとつの作品としての一体感を生み出し、これはこれで聴いていて非常に心地よいものだということが良くわかります。

それにしても昔はグリーグのピアノ協奏曲といえばこのジャンルの定番で、似たような演奏時間とイ短調ということもあってか、多くがシューマンのそれとカップリングされて録音されていたものですが、近年はどちらかというとあまり演奏されない曲になってしまった気がします。

以前、キーシンが弾いたのを聴いたときも非常になつかしい、忘れていたものを聴いたような記憶がありましたが、それいらいのグリーグでした。
あまりにも有名な和音とオクターブによる冒頭部分などが、幻想即興曲のように、ちょっと恥ずかしい感じの名曲に分類されてしまったのかもしれません。

その点では中野さんは、そういった名曲についてしまった長年の汚れや手あかを洗い落として、すっかりきれいにクリーニングでもしてくれたようでした。
こういう派手ではないけれど良質な演奏家が、たんなるピアノを弾く有名人としてではなく、その美しい演奏が評価されることによって愛聴されていくことが必要だと思いました。

演奏以外のことで有名になり、タレントみたいなピアニストなんてもううんざりですから。
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スマホの支配

携帯のことをもう少し。
携帯(=ケータイ)の普及は、実は「普及」というおだやかな言葉は似つかわしくない、異常繁殖とか侵略と云いたいぐらいの、とてつもない勢いで世界中が呑み込まれました。

まるで、穏やかだった池や湖に、獰猛な外来種を放り込まれることでそれまでの環境が激変するように、突如、ケータイという新種によって従来の社会の多くのものが食い尽くされ、絶滅させられているという印象さえ抱いています。
まさに生態系が変わったというべきか、これにより人の精神まで変化をきたし、一部は破壊もしくは死滅させられたというほうが適当なのかもしれません。

ケータイやネットの恐ろしいところは、人が誰でも自分の幸福を望んだり、お金が欲しいのと同じように、その圧倒的な機能や利便性を武器に、否応なく社会に侵食してきたという点です。すでに世の中がケータイ/ネットを前提とした構造に様変わりしてしまった現在、よほどの変人でもない限り、これを拒絶することは不可能です。

ひと時代前のことですが、嫌がる高齢者に家族がケータイを持たせるようになりましたが、これなどは「持っていてもらわないと周りが迷惑だ」というレベルにまで到達したことのあらわれでした。

ここまで徹底してケータイが社会を侵食していったその苛烈さが、まさに獰猛で手に負えない外来種同様だとマロニエ君には思えるのです。もはや身を守る術はないも同然と見るべきで、ここまで社会環境が変化した中で、我一人ケータイを持たないと踏ん張ってみたところで、ほとんど意味は見出せません。

そうまでして便利になった世の中のはずですが、話はそう簡単ではないのも皮肉です。便利になるということは、その代わりの不便がちゃんと身代わりのように発生していることを、近ごろ痛感させられて仕方がありません。

例えばつくづく思うのは、昔のように気軽に人に電話をするということが甚だ難しくなっているのは、便利が生んだ不便そのもので、いちいちもう…面倒臭いといったらありません。

とりわけ30代以下の世代では、電話をしてもまずすぐに出ることはない。
電話に出るタイミングとかけてきた相手を向こうで「選んで」いることはあきらかで、こういう微妙な失礼はいまや日常茶飯です。
おそらくは自分が必要と思った相手にだけ、自分の都合のいいタイミングにかぎって出るか、あるいはコールバックするわけです。このため事前に電話する旨をメールでお伺いをたてるなど、実際に会話に漕ぎ着けるまでには、毎度々々そういうプロセスや手順を踏まなくてはならないような空気があるのは、面倒臭いのみならず、気分的にも鬱陶しい。

仕事関連の電話でさえ、スムーズにサッと連絡が取れることは当たり前ではなく、多くがまずは出ない、メールをしても返事に時間を要することが多く、じかに話ができるのは、早くても最初のアクションから1時間後ぐらいであったり、ひどいときは数日も後になってようやく短い事務的な連絡が来たりで、時間がかかって仕方ありません。これじゃ世の中、流れもテンポも停滞するのは当たり前です。
現にマロニエ君は人に連絡を取ることが、以前よりはるかに面倒な手続きが増えたせいで、昔にくらべて遥かに煩わしく億劫になりました。

驚くべきは、例えば生徒を募集する音楽教室なども、ホームページはあっても電話番号は書かれていないケースが多く、中には「メールを送っても返信がない場合は、2〜3日してもう一度メールしてください。」とあり、やる気があるのか?と思ってしまいます。
言葉では音楽教室とはいってみても、要は人様からお金をいただく商売なんですから、こんな身勝手なスタンスで繁盛するわけありません。

人と人との関係は生き物で、それなりのテンポと熱気と感性なしでは、良好な関係や快適な時間を送ることはもうできないだろうと思います。現に若い世代は誤解を恐れずにいうなら、話をしていても、頭の回転があまりよろしくないと感じることは少なくありません。

自分より、遥かに若くて体力もあり、しなやかな脳細胞ももっているはずの若者が、何を言っても聞いても、飲み込みが悪く、理解できないことが多いと感じます。やっても老人のようにトロいスピードでしか対応できない様は、ほんとうに奇妙です。
そんな連中が、ひとたびスマホの操作となると、目にも止まらぬスピードで操作する姿を見るにつけ、ほとんどグロテスクな感じを受けてしまうこともあるのです。
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振り返えれば

マロニエ君は自分なりの考えもあってスマホは持たない主義なので、いまだに通称ガラケーを使っていますが、スマホの進化はどこまで行くのか、そのうち腕時計型なんてものまで出てくるらしく、聞いただけで疲れます。

スマホを敬遠する理由はひとつではありませんが、実用の点からいうと、必要時にパソコンがほぼいつでも使える環境であることがあるように自分では思います。
裏を返せば、スマホは電話機能つきの携帯パソコンだと思っているわけで、なにかとネットのごやっかいにはなっているものの、外出先でまでこれを「やりたくない」という自分なりの線引きがあるわけです。

それと個人的なセンスとして、人がスマホを操作しているあの姿がどしても好きになれず、自分がそのかたちになりたくないという、つまらぬこだわりも多少あるでしょう。さらには過日のiPhone6発売日の騒動などを見るにつけ、完全にそのエリア外にいる自分がむしろ幸せなような気がしています。

それにしても、公衆電話が当たり前だった時代を思い出すと、この分野の進歩は恐ろしいばかりだったことをいまさらながら思わずにはいられません。

むかし携帯電話が登場した頃は、大げさな発信器のようなものに大きな受話器がちょこんとくっついた、そのいかにも重そうな機械一式をショルダーがけにして、当時の先端ビジネスマンやある種のお金持ちなどが、得意満面でこれを持ち歩く姿が記憶に残っています。

まるで昔のスパイ映画に出てくる爆破装置のように大げさなものでしたが、当時これを持っている人は、その重い装置の持ち運びも、その圧倒的優越感の前では、まったく苦にならなかったことでしょう。

そうこうするうちに自動車電話が登場、走行中、車の中で電話がかけられるというのは007のボンドカーなどでしか見たことのないもので、その利便性もさることながら、多くの人の虚栄心にも一斉に火がついたようでした。
またたく間に多くの高級車のリアのトランクリッドには、電話用の甚だ不恰好なアンテナが取りつけられていきました。しかし、人間の認識とはふしぎなもので、このヘンテコなアンテナが高価な自動車電話をつけている証となると、そのダミー(電話はないのに見せかけのアンテナだけをつける)製品まで売り出される始末で、街中にこのアンテナをつけた車が溢れかえりました。

中でも中型以上のベンツやBMWなどは、これがあるのが当たり前といった状況だったのは思う出すだけでも笑ってしまいます。

やがて携帯電話も日進月歩で小型化され、わずか数年の間に爆破装置サイズから、わずか数分の1の、片手で持てるサイズにまで縮小されます。
初期費用も格段に安くなり、マロニエ君がはじめて携帯電話を持つようになったのもこの時期でした。

しかし縮小されたとはいっても、普通のようかんぐらいの大きさと重さはあり、まだとてもポケットに入れるような代物ではありませんでした。
音質は悪く、通話料は高く、不通エリアなんてそこら中で、家の中でも、窓辺に行かないと使い物にならないといった状況でしたが、それでも、線のない電話があって、それを自分用として持ち歩くことができるというのは大いに感激したものです。

これがたかだか20数年前の話ですが、今から思えばほのぼのした時代でした。
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秋吉敏子

過日は知人から事前に教えてもらって、日本の現役最高齢ジャズピアニストである秋吉敏子の現在を追った番組を見ることができました。

ニューヨーク在住、御歳84だそうで、普通なら健康に毎日を過ごすだけでも難しくなるというのに、いまもって新しい編曲やステージに挑戦しているのですから、その驚くべきタフネスと音楽に対する情熱には恐れ入りました。

とりわけジャズにとってパッションやビート感は命で、これが弛緩することは許されないことでしょうし年齢が言い訳にはなりません。毎日の欠かさぬ練習や本番ステージという勝負の場を抱えながら、それが維持されているのは驚異というほかありません。

有り体にいえば感心だなんだという言葉になるのかもしれませんが、ここまでくると、生涯ひとつの道を歩んできた人の「本能」なんだろうとマロニエ君は考えます。
もちろん大変なことではあるけれど、おそらくは「やっていないと調子が悪い」というところにまで脳や身体がすっかりそういう作りになっているんだろうと思いました。

なんとなく思い出したのは90歳を越えた瀬戸内寂聴で、いつだったか伊藤野枝や平塚らいてうなどを中心とする明治の情熱的な女性達を語る番組をやっていましたが、そこで話をする寂聴さんの驚くべき饒舌、記憶力、古びない感性、立て板に水を流すようなトークのスピードなど、それはもう大変なものでした。
世の中にはこういう例外的な存在というのがあるもんだと感嘆させられますが、秋吉さんもおそらくそっちの部類なのでしょう。

夫はサックス奏者、娘はヴォーカルといずれもジャズミュージシャンで、孫もその道の修行を始めつつあり、まさに音楽に囲まれた生活のようです。忙しく家事をこなし、人に料理をふるまい、そして練習や創作を怠らない生活はさぞや充実したものだろうと映りました。

マロニエ君はどうしても出てくるピアノにも目が行ってしまい、ときどきそんな自分が嫌にもなりますが、秋吉さんのニューヨークの自宅にあるのは意外にもヤマハでした。意外というのは、以前も何かでこの場所の映像を見たことがありましたが、そのときはメーカーは忘れましたがビンテージ系のピアノだった覚えがあったからです。

意外ついでに云うと、置かれたピアノの向きが不思議で、レンガ状の壁に高音側をくっつけるようにして置かれていることです。通常ならグランドは、直線のある低音側を壁と並行もしくは斜めに置くのが一般的で、大屋根も高音側に開くのでどうしてもそっち向きになるものですが、これは余人には窺い知れない理由があるのでしょう。

郊外の仕事場や秋吉さんが演奏するジャズクラブにはニューヨーク・スタインウェイ、日本でのコンサートではベーゼンドルファーやファツィオリなど、いろいろなピアノが入れ替わりに出てくるのも楽しめました。
中でも圧巻だったのは、秋吉敏子を中心に日本の各ジャンルのピアニスト達が集まった様子で、サントリーホールのステージには実に6台のヤマハCFXが並べられ、いかにもこの公演のため会社の威信をかけて運び込んだという感じでした。

秋吉さんは車のドライバーとしても現役のようで、ニューヨークの道をドライブしながら話します、「ジャズミュージシャンは反射神経が猛烈に発達しているから事故はあまりないと思う」。
へええ…クラシックでは、ミケランジェリやグールドの運転は、同乗者の証言によると「生きた心地がしなかった」ほどお粗末なものだったようで、その点でジャスは違うということなんでしょうか。
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アブドゥライモフ

ウズベキスタン出身のベフゾド・アブドゥライモフは、近ごろ少し注目されているらしい若いピアニストで、すでにメジャーレーベル(デッカ)から2枚のCDが発売されています。

協奏曲ではチャイコフスキー1番/プロコフィエフ3番、ソロアルバムでは、プロコフィエフのソナタ6番、悪魔的暗示、サン=サーンス:死の舞踏、リストのメフィストワルツなど、その曲目を見るだけでおよそどんなタイプのピアニストか、なんとはなしに察しがつきそうです。

ジャケットを見てそれほど「何か」は感じなかったので、そのうち聴けるチャンスはあるだろう…ぐらいに思っていたところ、その機会は早々にやってきました。

今年6月のN響定期公演に出演し、ラフマニノフの3番を弾いた様子が『クラシック音楽館』で放送されました。指揮はアシュケナージ、会場はNHKホール。

出だしユニゾンの第一主題は、ねっとりと間を取りながらの歩みで、ピアノを中心に右の聴衆と左のオーケストラの両側を同時に牽制しているようで、この若者から「慌てなさんな」と云われているようでした。が、そこを抜け出すとアブドゥライモフの指は忽ち解放されたように疾走をはじめます。

その手は大きく厚く、楽々と動いては確かなタッチに結びついて、発音にはその骨格からくる力強さが漲り、それが随所で心地よく感じることも事実でした。スタミナもあり、轟然たるフォルテッシモの連続投下などはお得意のようで、大舞台で大曲難曲を弾かせるにはうってつけのピアニストというのは間違いないでしょう。

この人の魅力は、なんといってもその力強い芯のあるタッチと、密度感のある冴え冴えとした音にあるのではないかと思いました。近年のピアニストの多くは、いろいろなことに配慮するあまり、ある種の覇気を失ってしまい、燦然と輝くようなピアノの音を出さなくなりました。
叩きまくるピアノが否定され、知的に統御されたピアニズムが良しとされる風潮もあってか、悪くいうとしっかり音を出さぬまま弾いています。そんな風潮に反旗を翻すような筋力を魅力とした演奏で、オーケストラのトゥッティにも決して負けない打鍵の逞しさは、どこか英雄的でなつかしくもあります。

ただし、アブドゥライモフが肉食系だといっても、昔のように無邪気な筋肉自慢のそれではなく、正確な譜読みやコントロールされた打鍵など、周到な準備には怠りない上でそのマッチョなテクニックを披露していく周到さは、いかにも今風のぬかりのなさを感じます。

ただ、聴いていると、一本調子でだんだん飽きてくる感じもあったのは事実です。
弱音や繊細なパッセージなども、あとに待ちかまえるフォルテッシモや随所での炸裂にいたる伏線のようでしかないのは、音楽の深いところに触れるというより、やはりどこか鍛えられたアスリートのパフォーマンスを見るようです。

終始激しく、際限なく飛び散る大量の汗の飛沫も、そんな印象に拍車をかけたかもしれません。曲が曲だったせいもあるでしょうが、むしろオリンピックの男子体操競技を見ているようで、難所難所を通過するたび、スポーツ解説のように「C難度!」「E難度!」「うーん、ここも見事にクリア!」「残るはコーダのみ!」といった実況中継を付けたくなりました。

こういう人の弾くラフマニノフの3番というのはあまりにもベタな印象で意外性がなく、もしかするともっと軽い曲を弾かせてみると、そこでどんな味わいがでてくるのかと思ったりもします。

それにしてもNHKは、オーケストラの録音となるとなぜああまでくぐもったような、ショボショボした小さい音にしてしまうのか、わけがわかりません。視聴者に音楽を楽しませようという意志がないのか、普段の5割増ぐらいのボリュームにしてもダメで、なんのための音楽番組かと思います。
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違いはいずこ

ネットの書き込みというものはまさに玉石混淆の世界です。
貴重で有効な情報が得られるいっぽうで、無責任な憶測や独断に満ちたものが無数にうごめいており、それをどう選び取るかが読者に科せられた課題でしょう。

いつもそういう前提を忘れないようにしながら読んでいるつもりですが、日本製ピアノに関する書き込みを見ていると、ふと注目すべき内容が目に止まりました。

すでに安定した評価を得ているプレミアムシリーズに関するもので、業界の方らしき人物による一種の暴露的コメントでしたが、それによると、材質面だけでいうならレギュラーシリーズとの差はほとんどないという衝撃的なものでした。「設計は同じでも、材質こそ最大の違いのはず」と思っていたマロニエ君にしてみれば目からウロコでした。
しかし、その説明は納得できる面もある気がします。

それによれば、響板も違うとされているけれど特別なものではなく、基本的には同じだといいます。となると「響板はどこそこの何々」というのはどういうことか?と思いますが、その中から多少いいところを選んでシーズニングにより時間をかけているといった程度で、言われるほどの違いはほとんどないのだといいます。

では、あの価格差を裏付けるだけの何が違うのか…。
最も大きな違いは、製造および調整段階に於ける、人手を使う割合だと述べられています。
ひとことでいうなら、プレミアムシリーズはより多くの手間暇がかけられている点がプレミアムたるゆえんで、レギュラーシリーズとプレミアムの差は基本的にここなんだそうです。
それほど楽器にとって、熟練職人の入念な手仕事がもたらす効果は大きいという証しともいえるのでしょうし、少々の材料の差より入念な技のほうがよほどコストがかかるというのもわかります。

マロニエ君は少なくともピアノ制作に関しては、「単純に機械化が悪い」とも、「なんでも手作り手作業が最上だ」とも思いません。機械と人手は、それぞれに長所短所があるわけで、最良の使い分けをすることが理想だろうと思います。
精度と均一さが要求されるパーツ制作などは機械化できるものならそれがいいに決まっていますし、発音に影響する部位の精妙な組み付けや調整などは熟練の職人技がものをいうでしょう。

以前からA社のプレミアムシリーズには大変懐疑的で、弾いても聴いても、普及型との価格差はとても納得のいくようなものではないというのが率直なところでしたし、B社のそれは非常に評判がよく、確かに普及品より明らかな上質感があるのはわかりますが、そこにはピアノが生まれもった素晴らしさというより、より良い響板の存在と、職人による入念さの勝利という印象が拭えませんでした。

日本製ピアノの出荷前の調整は近年はますます最小限で済まされているのだそうで、工作精度の高さに依存したコスト削減だとも聞こえてきます。もし高級外国製並に入念な職人の調整をやったら、それだけコストは跳ね上がるでしょう。鍵盤の鉛詰めなども、一斉かつ均等な作業と、一鍵々々を確認しながら適材適所でやっていくのとではぜんぜん違いますから。

この時点で、レギュラーとプレミアムを差別化するだけの違いはかなり明確に生まれるような気がします。そして見事に調整されたピアノは、それ自体が大きな魅力であり、そのことがプレミアムであるのは否定できません。でも、その奥に所詮はレギュラーと同じ本質が透けて見えてしまうとなるとそれでも満足が得られるものなのか…。

やはり高級ピアノを名乗るからには、基本的な構造など設計そのものから特別なものであってほしいとマロニエ君は考えますし、大衆車にどんなに高級パーツを奢っても、根本の生まれを変えることはできません。

今や海外の一流メーカーも、ビジネスとして廉価モデルを併売する時代ですが、マロニエ君の知る限り、両者の基本設計が同じというのは外国製ではひとつも知りません。

レギュラーシリーズをベースに、そこからプレミアム云々を派生させるというやり方は、いかにも日本的なモデル構成で、だからなんとなく基本が弱く、かつ物欲しそうな気配が漂ってしまうのかもしれません。
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シェプキン

このところバッハ弾きとして頭角をあらわしているらしいアメリカ在住のロシア人ピアニスト、セルゲイ・シェプキンのバッハとはいかなるものか、聴いてみたくなり、まずは1枚CDを手に入れました。

店頭でもシェプキンのアルバムは何度か目にしていましたが、バッハではなくブラームスのop.116/117/118/119というもので、曲はいかにもいいけれど、そのジャケットの写真はブラームスというより酒場っぽいイメージで、どうもそそられずに買いませんでした。

それからしばらくして、彼がバッハ弾きとしても実績と評価を積んでいるようなので、ともかく一度は聴いてみたいという気になり、まずはネットで中古のディスクを買いました。
曲目はパルティータの第1番から第4番までの4曲。

シェプキンはバッハ演奏に際してさまざまな考察を行い、装飾音などにも自分自身の解釈や創案を織り込んでいるらしく、その独自性が非常に注目されているようです。また、すでにゴルトベルク変奏曲も2度録音し、新しいものでは新解釈を世に問うているようですが、こちらは新旧いずれも聴いたことがありません。

ともかく現在はパルティータしかないシェプキンのバッハを聴いてみることに。
あまりにも有名な第1番の出だしから、なるほど装飾音に異質なものを感じますが、それは保留のまま聴き進みます。
一通り聴くのに1時間強かかりますが、差し当たり、言われるほどの新鮮さは感じませんでした。このディスクの録音は1995年ですから、もしかするとシェプキンの演奏としては充分に熟してはいないということもあるのかもしれません。

その後、何度も繰り返し聴くうちに、少しこの人の演奏にも耳が慣れてくる自分を感じはするものの、正直なところ、彼の解釈が取り立てて斬新だとも創意に溢れているとも、さほど思いませんでした。
ただ、ロシアの優秀なピアニストの例に漏れず、相当のテクニックをもっていることは痛感させられましたし、シェプキン本人には悪いけれども、その音楽性云々というより、その技巧を楽しむことのほうがはるかに魅力だというのがマロニエ君の受けた率直な印象でした。

何がすごいかというと、その確かな打鍵による、ピアノを十全に鳴り響かせる男性的な音色と、瞬発力にあふれた指さばきでした。
最近は時代のせいか、ピアノを正面から鳴らしきることのできるピアニストが減ってきており、よりスマートで軽やかに弾くスタイルが主流ですが、その点ではシェプキンの演奏はその音色やダイナミズム、タッチそのものに男性の骨格でないと決して出てこない余裕と固い芯があって、これはこれで久々に胸の支えがおりるような爽快感がありました。

むろん叩きまくりのピアノは嫌いですが、なよなよした線の細い演奏であるのに、それをさも音楽的であるかのようなフリをした演奏が少なくないのも事実ですから、たまにはこういう根底の力強さに支えられた、スタミナあふれる演奏に身を委ねるのもいいなあと思いました。

ピアノはニューヨーク・スタインウェイが使われていますが、こちらのほうが強靱なタッチにも決して根を上げない鷹揚さがあり、多少ざらついた乾いた音色でありながら、こまかいことにはこだわらずにピアノが鳴りまくっているのは、これはこれで快感でした。

続けてパルティータの残り5/6番とフランス風序曲を入れたCDを買いましたが、おおむね似たような印象でした。なんとなくブラームスも少し聴いてみたくはなりました。
ブラームスの後期のピアノ曲は、あまりに枯淡の境地を強調しすぎるきらいがあり、それの行き過ぎない演奏を聴いてみたい思いがあり、もしかしたらシェプキンはそれに該当しているかもしれませんから。
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医者もどき

最近は大病院はむろんのこと、開業医やクリニックでも、その傍には必ずといっていいほど薬局が付帯していて、病院から出された処方箋を手にここに立ち寄り、そこで薬を受け取って終わりというパターンが定着しています。

院内処方でむやみに待たされるより、これはこれでシステムとしても簡潔でいいとは思うのですが、この手の薬局でときどき疑問に感じることがあります。

薬の受け渡しの際に、薬を取り扱う者としての責務上必要というところで、あれこれと立ち入った質問をしてくる人がときどきいて、そこに漂うニュアンスには薬剤師の領域とは似て非なる言動が見受けられることが時折あるのです。

どうみても薬剤師の立場を踏み越えたような質問をしたり、中には余裕たっぷりに処方箋を見ながら「えーっと、今回はどうされましたかぁ?」などと、ほとんど医師のような物言いで、内心思わずムッとしてしまいます。
そんなことは、直前に診察室で医師と充分しゃべったことで、その結果として出された処方箋なのですから、そこに疑問があるのなら、処方箋を書いた医師に連絡すればいいことでしょう。

年配の方などには、昔の「お医者さんは偉い人」というイメージを引きずっておられる方がときどきおられ、看護士さんから受付の事務員、果ては薬局に至るまで、ひたすら低姿勢で恐縮したような態度に終始する方もいらっしゃいます。

こういう相手と見るや、いよいよこの手の薬剤師は水を得た魚のように指導的な物言いを発揮して、ひどく勿体ぶった、自分が何かの権威者で上意下達のごとき振る舞いになるのは、傍目にも気持ちのいいものではありません。

たしかに薬剤師は薬のプロではあるでしょう。
薬事上のさまざまな知識が求められ、薬を渡す際に効能や飲み方、注意点など必要な説明を添えるというようなルールもあるでしょう。だからといって、それに乗じて医者もどきの言動に及んでいいということにはなりません。

真面目に仕事をしていますよという、いわば安全な建前の中で、それをわずかに踏み越えて、個人的な愉快を得ているのは、すぐに伝わってきて不快なものを感じます。あたりまえのことですが、薬剤師は医師ではないのですから、そこには厳然と守るべき一線があるはずです。

目に余る場合は、「たった今、病院で先生にお話ししたことを、もう一度ここでお話しするのですか?」と問い質すと、もともと忸怩たるものがあるのか「あっ、いえいえ…」と、いささか上気した感じですぐに質問を取り下げるあたりは、いかにそれが不必要であるかの証明のような気がします。

いちおう白衣は着ているし、医療機関という環境の中で一般人を相手に仕事をしていると、だんだん勘違いしてくるものだろうかと不思議です。

もちろん、こういう人は少数派で、大半は普通です。
しかし、この手合いがときどきいるのも現実で、マロニエ君は自分が、そんな他者の甚だ個人的な快楽の素材にされてはなるものかと、つい警戒してしまいます。
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ラトルのマノン

今年、バーデンバーデンの復活祭音楽祭で上演されたプッチーニの『マノン・レスコー』の録画を見てみましたが、まだ第二幕の途中までで、最後まで見続けられるかどうかは甚だ疑問です。

というのも、ここに展開される舞台と演奏は、およそマロニエ君の考えるイタリアオペラのそれとは、本質的なところでの齟齬を感じて消化不良ばかり感じるからです。

オーケストラはラトル指揮のベルリンフィルで、さすがにその名に恥じないハイクオリティな演奏だということは随所に感じられますが、そのことと、その作品に適った演奏というのはまた別の話です。

このオーケストラがオペラに慣れていないのか、その他の理由なのか、やたらきっちり交響的に整然と鳴らしていくばかりで、オペラの勘どころや息づかいというものがまるで感じられませんでした。

主役のデグリューはマッシモ・ジョルダーノというイタリア人ですが、ただ一直線に絶唱するだけで、この作品の主役であるデグリューという情熱的な青年の存在感は稀薄なものでした。スピント・テノールという力強い方向の歌い手ではあるようですが、柔軟性や演技力に乏しく、いつも客席に向かって棒立ちでフォルテで吠えまくるのみという印象。
タイトルロールのエヴァ・マリア・ウェストブレークもそうですが、ふたりともワーグナーの楽劇のほうが、よほどお似合いでは?と思いました。

全体としても大味で細かな配慮が感じられないものでしたが、唯一の救いは、それなりの舞台装置があったことでしょうか。近年は装置も何も簡略化され、登場人物も現代的な衣装であったり、どうかするとほとんど普段着のようなものを着てモーツァルトやヴェルディなどの大作を上演するのが流行で、さもモダンな主張があるようなフリをしつつ、実際は舞台のコストダウンもここまでやるかというもので、とてもオペラを見る醍醐味とは程遠いものが多すぎます。

マノンはプッチーニのオペラの中でも初期に書かれた作品ですが、最も旋律的であるのが特徴でしょう。
そのめくるめく劇的旋律の妙と物語進行が、これほど噛み合わず、舞台上の出来事と音楽が混ざり合わない演奏・演出も珍しく、とりわけ全体に感じられる無骨さは如何ともし難いものがありました。
いかにも融通のきかないドイツ的な調子で、根底にしなやかさや遊び心がありません。イタリアオペラとはまったく相容れない体質があまりにも前に出て、ひどく無骨で野暮ったいものにしか感じられませんでした。

そもそもイタリアオペラはドイツ人の資質とは対極のものかもしれません。
そういう意味では、ある種おもしろいものを見たとも言えそうですが、続きはもう結構という感じです。

マノンレスコーで忘れがたいのは、若くして世を去ったジョゼッペ・シノーポリがこのオペラに鮮烈な解釈で新たな命を吹き込んだ快演で、個人的にいまだにこれを凌ぐものは出ていないと思います。

CDではマノンをミレッラ・フレーニ、映像ではキリ・テ・カナワ、デグリューはいずれもプラシド・ドミンゴという最高の顔ぶれでしたが、いま聴いても圧巻で、やはり彼らは大したものだとしみじみ思います。
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価値を買う

価格というものが高いとか安いという判断は二つあるように思います。
ひとつはこれといった基準もないまま絶対額を差す場合。もうひとつは価格を分母、対価を分子においてなされるところの、いわゆるコストパフォーマンスの原理です。

何事においても、うわべの数字ばかりに目を奪われがちなのは凡人の悲しき習性ですが、数字の安さに誘惑されているだけで、本当に得をするなんてことは滅多にありません。
自分なりに正しく判断したつもりでも、結果的にそれなりのものでしかなかったという事が少なくないのも現実で、そうそう都合のいい話が転がっているわけがないのです。

とくに今は昔のように骨董屋で掘り出し物が見つかるようなのんびりしたご時世でもありません。
これでもかとばかりに無数のビジネスが出現し、ものの価値は隅々まで検証され、整理され尽くして価格へと反映されています。さらにネット社会が追い打ちをかけ、情報は溢れ、自分だけ甘い話に与ることなんてそうはないのが当たり前です。

だから、安いものには安いだけの理由があると考えるのが順当でしょう。
物品、食べ物、技術、サービス、安全等いずれに於いても、安いものはやっぱりそれだけのものしかないわけで、これは至って当たり前のことでなんですね。

自分に潤沢な経済力がないものだから、差し当たり、できるだけ安く済ませたいという誘惑があり、知らず知らずのうちにそちらに流れている自分が確かにいるようです。それを尤もらしく理由付けしたり正当化しているのは、要は身勝手な辻褄あわせに過ぎません。
他人のことなら「質は二の次で、安さを優先」などと批判的な目で見ているくせに、自分もよく考えてみたら同様だったりするわけで、これには思わず赤面してしまいます。

自分のことは、どうしてもそれなりの事情や理由に直面しているため、無意識のうちに都合のいい判断をしてしまいますが、冷静に考えたら、これは自分自身に対する詭弁だと思います。

電気製品などを買うなら単純に安さを求めてもいいかもしれませんが、技術や質、付加価値など、事としだいによっては、価格はちゃんとそれなりの裏付けがあると見るべきで、こういう局面での節約は、まったく節約にならないことをとりわけ痛感するこの頃です。

数字に惑わされることなく、冒頭のコストパフォーマンスをいかに正しく見極めることができるか、これが一番大切だと思います。

マロニエ君も自分を振り返ると、それなりに得をしたと思い込んでいたものが、実はそれほどでもなかったと後で気がついたことは一度や二度ではありません。

早い話が、大して必要もないものをバーゲンだからといってむやみに買ったりするのは無駄だと思いますし、あまり大事にもしませんが、本当に欲しいものを定価で買うと、静かな喜びと愛着がわくものです。
長い目で見るとこっちのほうがよほど価値があると思うのです。

今後も同じような失敗をしないという保証はまったくありませんが、できるだけ少なくするよう肝に銘じておきたいところです。
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再放送から

BSのクラシック倶楽部は、いつごろからか定かではありませんが、以前に較べると同じものの再放送がずいぶん多くなりました。
ものによっては3回ぐらい繰り返しやっているように感じます。

見逃したものや、あとになってもう一度見たいと思っている場合は、この再放送/再々放送によって大いに助けられる反面、できるだけいろいろなコンサートの様子を楽しみたい側からすれば、「あー、またこれか…」となるのも率直なところです。

それでも、録画を消してしまう前に、なぜかちょっと見てみようということも少なくありません。
つい先日も、女流として世界的に有名なピアニストとチェロとのデュオの再放送があって、これもすでに一度見てはいましたが、消去ボタンを押す前についまた見てしまいました。前回の印象がさらに強まり、小柄な人ということもあるのかもしれませんが、この人が得ている地位からみれば技巧的にも余裕がなく、しかも音らしい音がほとんど出ていないことにあらためてびっくり。

曲はベートーヴェンのチェロソナタ3番のような傑作ですが、まったく潤いも活気もないパサパサした演奏で、随所に散りばめられた聴き所とか、期待している和声進行などがまったく伝わらず、この演奏のどこに耳を傾けるのかポイントさえわかりません。坪庭の控え目な植木のように地味に小さな音で弾くことがさも精神的で正しいことのような気配であるのは、ある種の傲慢さのようでもあり、かなり欲求不満がつのりました。
驚くべきは、決して大きな音でもないのに、音にはいささかの潤いも色艶もなく、素人が弾いてももっと美しい音が出せそうなもんだと思いました。

このまま就寝してはすっきりしないので、口直しに、つづけて聴いたのはデュオ・アマルという若手の男性二人によるピアノデュオで(これも再放送)、シューベルトの4手のための幻想曲D940から始まりました。
セコンドが漕ぎ出す静かなヘ短調の伴奏に続いて、プリモの単音による第一主題が乗ってきますが、繊細に弾かれながらも、ピアノがきちんと鳴っていることに、のっけからまず胸のつかえがおりるようでした。
この喩えようもない悲しみの音楽に耳を委ねますが、タッチにはじゅうぶんな注意が払われて芯があり、肉がある。いかにも男性ピニストらしい力の余裕と音色の透明感があり、ああなんと美しいことかと、さっきまでとは気分が一変するのは大いに救われました。

それにしても、4手のための幻想曲という作品の素晴らしさには、あらためて感銘を覚えることになりました。自分なりにじゅうぶん聴き込んだつもりであっても、演奏によって、新たに作品の偉大さを認識させられるのは、それだけ優れた演奏であるということの証であるといえるでしょう。

もともとシューベルトの作品は構造感が見えやすいものではないけれど、晩年(といってもわずか31年の生涯ですが)になるほど、ますますそれはとらえにくく、ピアノソナタなどにもある種の冗長さがつきまといます。

確かな設計図とか、明確な着地点を定めた上で、そこに到達させるべく緻密にペンを走らせたというより、感興の命じるまま切々と音符がしたためられた印象です。

ふつう連弾というと、ソロよりも娯楽的であったりフレンドリーな要素の作品というイメージがありますが、少なくともこの4手のための幻想曲は、そういう既成の枠をはるか飛び越えてしまった、高い芸術性をもつ稀有な作品で、連弾というイメージからはかけ離れています。
よくよく考えてみれば、少なくともマロニエ君の知る連弾(1台4手)作品の中では、突出した傑作ではないかと思いました。
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