森の中

芸術の分野に限ったことではありませんが、新しいことに挑戦することは、古典を尊重することと同様に大切なことで、これを失えば何事も息絶えてしまうでしょう。

モーツァルトが当時の人が受け容れられないほど新しい音楽を書いたこと、ベートーヴェンが常に新しいものへの挑戦のスピリットを失わず果敢な創造行為に挑んだおかげで、こんにちの私達はどれだけその恩恵に浴したかしれません。

そういう前提を踏まえたにしても、どちらかというとマロニエ君(もとより創造者ではありませんが)は音楽に関しては、ある意味の保守派だろうと認識しています。
これは音楽そのものというよりは、おもに低下の一途を辿る評価基準への抵抗といえるのかもしれません。とりわけ現代の興行としての演奏および演奏家の在り方には、強い違和感を覚えることが多く、なかなかそれに馴染めないことは否定できません。

リヒテルが蕉雨園でコンサートをしたり、アフェナシェフが日本のどこかのお寺にスタインウェイを持ち込んで演奏したり、五嶋みどりが各地のお寺をまわってバッハを演奏するというようなことをやりますが、あのセンスがマロニエ君自身はどうもしっくりこないのです。

またコラボというのも個人的にはあまり歓迎の気分は持ち合わせません。むろん全面否定ではないのですが、そこにはよほどの主題とか必然性など、興味を喚起する要素がなくては、ただの意外性狙いの無節操な取り合わせになるばかりです。

スポーツの世界にも異種格闘技というものがあるそうですが、イベントとしてはおもしろくても、真のファンにとってそのジャンルの醍醐味が味わえるようなものとは思えませんし、いわばちょっと酔狂であったり、余興的な世界に属するものだと思います。

ところが、近ごろは変わったことをしないと人が関心を示さないという、音楽市場においてもやむにやまれぬ事情があるようです。それはわかるのですが、だからといってあまりに話題作り目的であったり目立てばいいという心底が透けて見えるようなイベントが多すぎるように感じて仕方がありません。

つい先日もビジュアル系ピアニスト?のブニアティシヴィリが、ドイツのどこだかの森の中へスタインウェイを運び込み、木立の中でピアノを演奏するということをやっていました…が、まるで何かのCM撮影のようで、そのいかにも上っ面の発想という印象しか抱けませんでした。

ピアノの前には形ばかりのわずかな聴き手がいて、この演奏を彼女の「お母さんに捧げる」と銘打った体裁になっていましたが、森、ピアノ、演奏、作品、どれもがバラバラで馴染まず、ひとつとして溶け合っているようには見えませんでした。ただただ空疎な感じが拭えず、聴いている人の後ろ姿もしらけ気味に見えました。

ブニアティシヴィリの演奏は好みではない上に、なにしろ森の中なので、音は悲しいばかりに周囲に散ってしまい、果たしてこの企画にどういう意味や狙いがあるのか、マロニエ君にはさっぱりわからないままでした。

そもそもピアノを野外に持ち出して演奏するということが、まず自分の体質には合いません。映画『アマデウス』では庭園のようなところでコンチェルトを弾くというシーンがありましたが、あれは音楽家が宮廷のお抱えだった時代の話でしょうし、なにしろ映画です。

わざわざ現代のコンサートグランドを森の中なんぞに持ってこなくても、森や自然にはそれにふさわしい楽しみ方、味わい方があると思います。あれだけの美しい森ならば、ただ自然の音に耳を澄ませながらゆっくり散策するだけでもじゅうぶんに感銘を受け、心の中でいろいろな思いや音楽が鳴り響くはずで、なにもそこで実際にピアノを弾いていただかなくても結構ですという感じでした。

要は森でもお寺でも、安易な思いつきだけで変な使い方や取り合わせをすると、その透徹した美はかえって反発し合い、殺し合い、魅力が損なわれてしまうように思えてなりません。
すべての世界には侵してはならない見えざる境界が自ずとあるはずで、それが作法だと思いました。
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楽器と天候

今年の夏の異常気象といったらありませんね。
梅雨明けというのも言葉の上だけで、実際は夏全体が熱帯地域の雨期さながらです。これほど鬱陶しい天候に覆われたことは、過去にもちょっとなかったように思います。

通常なら梅雨が明けると、おおむね強い陽射しによる夏日が続き、その暑さにぐったりするというのが例年のパターンですが、今年は晴れ間そのものが無いに等しい状態です。

数日に一度、本来の夏らしい陽射しがあると、思わずなつかしいものを見るようでそれだけでパッと気分も明るくなりますが、それも1〜2時間もすると怪しくなり、ウソのようにあたりは暗くなってザーッと雨が容赦なく降り始める。

考えてみれば今年の夏、一日でも安定して晴れた日があったかどうか…たぶんなかったように思います。まだ夏が終わったわけではないけれど、新聞やネットの週間予報はいつ見ても曇り/雨マークがズラリと並んでいて、これを見るだけでウンザリします。

マロニエ君はもともと夏は好きなほうではないし、これといって野外活動をするわけではありませんが、それでもお天気というものが日々の生活の中でいかに大きい影響があるかということを、今年の夏ほど切実に感じたことはなかったように思います。

広島をはじめ、痛ましい被害が出たところもあるとおり、地鳴りのするような猛烈な雨が夜中じゅう降り続いて、かなり恐怖を感じたことも幾度かありました。

こんな状況ですから除湿器にも休む間がありません。
我がディアパソンは、予想以上に湿度に左右されやすいピアノであることもこの夏しみじみとわかりました。
エアコン+除湿器でガードしていても、終日激しい雨が降り続くとさすがに調律も乱れぎみになり、焦点の定まらない鳴り方をします。あるときなど、ちょっとした油断から半日ほど除湿器の水を捨て忘れて止まっていたことがありましたが、そのときは変なうねりが出てくるほど大きく乱れてしまいました。

あわてて除湿器のスイッチを入れたことはいうまでもありませんが、驚いたのはその後で、一夜明けて湿度も元に戻ることでピアノの狂いもかなりのところまで回復しており、これにはちょっと感動しました。このような変化と復元は、理屈ではわかっていても、自分でその一部始終を体験してみるとやそれなりの感慨があるものです。

外部からホールなどに運び込んだピアノが開梱されると、急激な温度差などでせっかく調整されていたピアノが狂ってしまい、数時間たつと自然に元に戻るという話をよく耳にします。そのとき技術者は何もしないで「待つこと」が必要のようで、ピアノがステージの環境に馴染まないことには何をしても無駄だというのが実感としてわかります。

こういう環境の変化に楽器がプラスにもマイナスにも反応して、調子を崩したり復調したりというようなことに接すると、これも生の楽器ならではの魅力だと思います。

スイッチさえ入れれば季節も調律も関係ない電子ピアノは確かに便利でしょうが、このように維持管理に一定の手間暇がかかるところも楽器と付き合う上での面白さではないかと思います。

天候不順で楽器が調子を崩すのはむろん困りますが、そうかといって、もし降っても照っても、夏でも冬でも、温度にも湿度にも、なんら影響を受けないピアノがあるとしたら、それはそれでつまらないだろうと思います。
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宮崎国際音楽祭

今年の宮崎国際音楽祭から、総監督である徳永二男のヴァイオリン、野平一郎のピアノでシュニトケのヴァイオリンソナタ第1番と、漆原啓子、川田知子、鈴木康浩、古川展生による弦楽四重奏とソプラノの波多野睦美による、シェーンベルクの弦楽四重奏曲第2番が放映されました。

いずれも12音で書かれた20世紀の作品ですが、これが思いのほかおもしろい作品で、終始集中して楽しむことができました。

いずれも徳永氏の解説で述べられたとおり、演奏される機会は極めて少ないものの興味深い作品で、シュニトケのヴァイオリンソナタ第1番は「芸術音楽と軽音楽が融合し、さらには映画音楽やジャズの要素まで混ざり込んでいる」というものでしたが、かといって決して娯楽一辺倒のものではありません。

またシェーンベルクの弦楽四重奏曲は全4楽章からなり、彼の30代中頃の作品ですが、なんと第3/4楽章にはソプラノが加わるという驚きの作品でした。徳永氏によれば、第1楽章ではまだ調性音楽の要素を留めているものの、これが第2楽章以降に進むに従い、次第にそれが危うくなって12音音楽に到達するということで、この一曲の中で、19世紀後期ロマン派の調性音楽から20世紀に台頭する無調の音楽への変遷が凝縮されているようでした。

シュニトケのソナタでは、聴き込んだ曲ではないので断定的なことは云えませんが、徳永、野平両氏の演奏は四角四面すぎて、まあ立派ではあるけれど、個人的にはもう少し表現の幅を持った雄弁なアーティキュレーションがほしかったと思いました。
とはいえ、まずは充分に楽しめたことは収穫でした。

続くシェーンベルクの弦楽四重奏曲では、まず上記4人によるクァルテットのアンサンブルが見事で、いまさらながら日本人の演奏精度の高さを感じずにはいられません。
第3楽章からは、背後の椅子に控えていた波多野さんが前に出て、朗々と、そしてどこか怪しげな世界を歌い上げます。

第1楽章からしてどこか荒廃した地の果てを垣間見るような空気感があふれ、それが後半への布石となるのか、ソプラノの登場によってさらに決定的なものへと展開していくようです。
ただ、独特な魅力ある作品だとは感じつつも、ソプラノが加わって以降というもの、マロニエ君の耳には歌曲としか認識ができず、これを弦楽四重奏として受け取るほど自分の耳が鍛えられてはいないことを実感します。まあ良い音楽であることの前では、音楽形式の枠組みがどうかということは大したことではありませんが。

全編を通じて感じたことは、東京の演奏会などより、演奏者もこころなしか気合いが入っているようで、音楽というものは奏者の気合いとか本気度で、その魅力はまるで変わってしまいます。
冷めたような義務的な演奏が横溢するなか、音楽への情熱と作品の真髄を聴衆に伝えようとする意気込みはなによりも大切で、その点で今回の演奏は大変立派なものだと思いました。

ピアノは20数年前にこの文化施設竣工時に収められたと想像される、ちょっと古いスタインウェイですが、これがまたなかなか音に深みと艶のあるピアノで、この時期が本当にスタインウェイらしい音をもっていた最後の世代ではないかという気にさせられます。

良いピアノというのは、聴いていて、一音一音に重みがあり、個性と艶があり、それだけでも聴くに値するものだということをいまさらながら感じました。
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自虐マスコミ

かねてより思うことですが、世の中を必要以上に不幸にしている、あるいは間違った方向に誘導している要因のひとつに、マスコミの不可思議な体質もかなり責任があるのでは?と感じます。

なにもここで、集団的自衛権や沖縄の基地問題に触れようとは思いませんが、どうして日本のマスコミは日本人の心をあえてざわつかせるようなネガティブなことばかり言い立てるのだろうと、この点はまったく理解に苦しむことがあまりに多すぎるよう思います。

そもそもマスコミの体質の底流にあるものは、体制批判であり、権力に対する抵抗精神かもしれませんが、それがいささか不健全というか、そのことと国民の利益を考えることは本来矛盾するものではない筈だと思います。

外交や防衛といったハードなものでなくても、たとえばニュースで連休やお盆など長期休暇に流れる内容は、ここ数年というもの「倹約ネタ」がずっと主役の座を占めていて、休暇の過ごし方、楽しみ方ひとつが、いかに節約ムードであるかということばかり、くどいばかりに採り上げます。

「元気をもらう」などという歯の浮くような言葉は巷にあふれていますが、本当の意味で元気の出るようなニュースなんてまるでなく、どこそこの温泉は通常価格に対して何人限定で○○円とか、あちこちで開催される「無料体験」「無料イベント」にいかに多くの人が列を作るかというようなことを、これでもかとばかりに言い立てます。

政府の急務は景気回復というようなことを口ではいいながら、市井の話題となるとタダもしくは異常とも思える破格値の話題などにカメラを向け、早い話が世の中がケチになったという話ばかりを追いかけ回し、これを視聴者へ無制限に垂れ流します。

「無料の工場見学が人気で、連日何千人が訪れ、帰りにはお土産までもらえる」というようなことばかり聞かされると、まともな出費をすることさえ馬鹿らしいような気分になって、いつまでたっても精神的デフレから脱却できるはずはないでしょう。
これじゃあ世の中が内向きで倹約指向になるのも当然です。

お金を使うことが単純にエライだなんてむろん思いません。しかし、人は過度の倹約節約にとらわれると、だんだん嫌な人間になっていくものです。ほどよい無駄は人を柔和にするものなのに、それをあれもこれもカットしていると、いつしか心がすさんでしまいます。

あるていど購買意欲が湧いて、消費行動へと繋がっていかないことには景気もGDPもあったものではないでしょうし、それは人間性の保持のためにも必要なことだと思います。

しかるに、次から次へと浅ましいことを考えついて、そのための情報を手繰りよせることがまるで賢いことであるかのような、そんな価値観と思考回路を作った責任の一端は、間違いなくマスコミの報道にもあると思うのです。

日本人は自虐趣味などとしばしば言われますが、それを生み育てたのもマスコミではないかと思います。どんなに頑張っても良かったとは言わず問題点ばかり探し出し、ダメの解説ばかり聞かされているようで、これじゃあいじけてしまうのも無理はありません。

少しは世の中のことを明るく捉えて、元気を取り戻させてほしいものです。
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下味つきピアノ

古い録音などを聴いていると、つくづくピアノの音が今とは違うことを痛感させられます。
うわべの派手さを追い求めず、質実剛健でありながら、腹の底からピアノが力強くふくよかに鳴っていることがわかります。

その点では、現代人のピアノの音色に対する好みは、明るくブリリアントな音であることで、これがほとんど当然のような尺度になっているようです。

この点ばかりが強調される陰で、基音は痩せ細り、楽器としての器は萎んでしまっているのに、ムラのない甘ったるい音を出すピアノがもてはやされ、賞味期限を過ぎたら迷わず新しいのに買い換えるのが正しいといわんばかりです。
しかも、もともと賞味するに値するほどの音でもないのが笑止です。

この流れをつくったのはやはり利益優先の企業体質のようにも思いますし、高級ピアノに追いつけ追い越せとダッシュをかけてきた日本のメーカーにも責任の一端はあるのかもしれません。

今や覇者であるスタインウェイでさえ理想的なピアノ作りの道筋が怪しくなって久しく、この先さらにどうなっていくのかと思わずにはいられません。

個人的な印象ですが、今のピアノの大半は、いわばはじめら下味の付いた売出用の食材みたいで、しかもその味が本当に好ましいものであるかどうかも疑わしく、奏者の表現に対する意欲や情熱を大いにスポイルしているように思われます。

だいいち、あらかじめ下味の付いたピアノの音色なんて、どことなく不気味です。
それを「いい音」だと感じているうちはいいのでしょうが、いったんその不自然に気がついてしまうともうノーサンキューで、ここから後戻りはなかなかできません。

まるで、ピアノが揉み手をして擦り寄ってくるようで、「あなたはただキーを押すだけ。あとはこちらで上手くやっておきますよ。」とでもいわれているようです。

その点では、佳き時代のピアノはまったく奏者に媚びを売りませんが、そのかわりに楽器と共に音楽をする喜びやいろんなアイデアを与えてくれるようです。
むろん前もって砂糖をまぶしたような甘味もなければ、貼り付けた笑顔みたいな変な明るさもなく、すべては作品と演奏によって表現されるものという楽器としての本分を備えているということでしょう。

現在のピアノの「おもてなし」に慣れた人が古いピアノを弾くと、くだらない欠点とか愛想のない無骨さばかりを感じてしまい、いい面がすぐには理解出来ない可能性があります。しかし、そういうピアノでいろんな表現をして音楽が姿をあらわしたときの深い説得力というものは、現代のピアノとは比較にならないほど純粋で濃密なものがあります。

もう一度原点回帰して、ピアノ音はあくまでも実直な性格に留めおいて、あとは甘いも辛いも演奏によって表現されるべきものという基本に立ち帰ってほしいものです。

そもそもピアノメーカーなんて、経営が大変なほど大きくなること自体が間違っているのではないかと思います。むろん小さければやっていけるというものでもないでしょうけれど…。
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泡発生器

昨今の100円ショップの商品の充実ぶりは目を見張るばかりで、ここで新製品に出会うことも珍しくはありません。先日、シャンプーなどのボトルが並んでいる中に、「泡の出る容器」というのがありました。

そういえば、我が家にはないけれど、お店などの洗面所などで使った覚えのある、ノズルを押すとシュワシュワときめの細かい泡が出てくる手洗い用の洗剤があり、これは市販もされていますから、すでにご自宅などでお使いの方も多くいらっしゃることでしょう。

あれはたぶんノズルの構造に秘密があるのだろうと思っていたのですが、まさにそういうものが100円ショップで売られているということは、やはり泡の正体は洗剤そのものではなく、洗剤が通るノズル部分であるということを直感しました。

おもしろそうなので、さっそくこれを買ってみたのですが、説明書きによると、使う洗剤の指定や制限はとくになく、何かしらの洗剤を容器に入れて、それを「10倍に薄める」と指示されていました。
ここでなるほどと思ったことは、使用時に瞬時に細かい泡を発生させるには、濃い洗剤だと却ってその妨げになるようで、これは例えばシャボン玉遊びをする際にも、使う石けん水の濃度というか、薄め具合が重要なポイントになることを思い出しました。

さて、手を洗うのに中性洗剤というわけにもいかないので、とりあえずボディソープを入れて、それを指示通りに(厳格にではありませんが)約10倍になるまで水を加えました。よく振り混ぜた後、いよいよ問題のノズルを数回押してみると、果たしてかわいらしい雲のような泡がモコモコとでてくるのに思わず感心しました。同時に、こんなカラクリによって泡の手洗い洗剤などが市販されていることにも、なーんだ!という気分でもありました。

泡というのはおもしろいもので、最近は下火かもしれませんが、ひところブームだった美白用洗顔石鹸などがしきりにCMなどで宣伝されていましたが、それによれば、石鹸そのものの成分もさることながら、専用のネットに石鹸を入れて両手で数回こすると、まるでメレンゲのような泡ができて、それをお肌にどうこうするというものでした。

マロニエ君宅でも、一度だけ(1個だけ)これを購入して家人が使ってみたことがありましたが、なんだか顔がヒリヒリするというので、それっきりになってしまったのですが、その価格は決して安くはないものでした。そのふわふわの泡を作る専用ネットというのが箱に入っていましたが、どう見てもただのナイロン網を何枚かに折り重ねて袋状にしただけのものにしか見えず、はああ?といった印象でした。

すぐに変なことをしてみたくなるマロニエ君としては、どうも、その特別な石鹸の性質だけがあのなめらかな泡を作り出すとは思えず、その網袋に普通の石鹸を入れてみたのですが、果たしてまったく同じような濃密なクリームのような泡がいとも簡単にできました。
では、その網袋が特別なものかと云えば、これもさにあらず。色が白で、石鹸サイズに縫われているという以外、とくにどうということもなく、極端にいえば、台所の排水口用ネットと大差ないもののようにも思えました。
そこで、これに普通の石鹸を入れて、適当に折り畳んで両手でこすってみると、いとも簡単に洗顔石鹸専用の網袋の場合と同等の、きめの細かいふわふわした泡がいくらでもできることが判明しました。

要するに、どんな石鹸や洗剤からでも、あの手の泡は作り出せるというわけです。
だからどうした…ということもないのですが、意外になんでもないことってあるんだなあという、まことにくだらない確認をしたという話でした。
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リピート

過日クラシック倶楽部で、ゲルハルト・オピッツとN響のメンバーによるシューベルトの室内楽演奏会をやっていました。

時間の関係からアルペジョーネ・ソナタ(第一楽章)と、ピアノ五重奏「ます」(第三楽章抜き)が採り上げられ、いずれも引きこまれるような魅力はないけれども、安心して聴くことのできる大人のプロの演奏である点が好ましく思いました。
本来ならテレビ収録されるぐらいの演奏家にとって、「安心して聴かせる」ことは当たり前とも思うのですが、実際には…。

とくに解釈やアーティキュレーションで奇を衒わず、まずは真っ当に曲が流れる演奏であるだけでホッとさせられ、それが実行できているだけでもポイントが上がります。

さて、アルペジョーネ・ソナタは今回はヴィオラとピアノでの演奏で、素晴らしい作品であることは疑いないところですが、第一楽章だけでもかなり長い曲で、提示部の終わりまで行くと、リピートでパッとまた振り出しに戻ってしまうのは正直云ってちょっとうんざりしてしまいます。「ます」も同様で、要するにリピートリピートで疲れてくる。
曲そのものは心底すばらしいと思っているのに、リピートはうんざり…というのはなぜだろうと思うことが少なくありません。

アルペジョーネはマロニエ君も下手ながら友人とやったことがありますが、練習は別にして、合わせるときはリピートなしでやっていました。弾いても聴いても、提示部の終わりまでやっと来たのに、また始めからというのは、体育の先生から「もう一週してこーい!」といわれているようです。

リピートのうんざりで他にも思い出すのは、たとえばベートーヴェンのクロイツェルの第一楽章などがマロニエ君の感性としてはこれに該当します。この場合、曲想の点からも提示部が進めば進むだけ激しい情念が増幅してきて、もはや前進あるのみという気分であるのに、くるりとまた第一主題冒頭へ引き返すのは、うんざりというより「あらら…」と気が抜けてしまうようで、この曲の切迫感というかテンションがガクンと落ちてしまう気がします。

ショパンのソナタでも3番の第一楽章はまだいいとして、2番の第一楽章提示部のリピートはいただけません。ここでも後戻りできないまでに疾走してきているのに、それを断ち切って、またはじめに戻るのはどうしても興ざめします。
ピアニストの中には、なんと序奏部分にまで引き返す人がいて、やはりこれもうんざりしてしまいます。なので、たまにこれをしないで一気に展開部へ突入していく人がいると、もうそれだけでよしよし!という気になってしまいます。

ところが同じベートーヴェンのヴァイオリンソナタでもスプリングになると、こちらはリピートがあったほうが収まりがいいし、ワルトシュタインや最後のソナタなどでは、逆になくてはならないものだと思います。
シューベルトも最後の3つのソナタなども、長大ですがこちらは必要な気がしますから、リピートとはなんとも不思議なものです。

そういえば思い出しましたが、ショパンの第2ソナタの第一楽章のリピートは、自筆譜にある筆跡を専門家が見ると、その書き方が微妙で、リピートではない可能性もあるのだそうで、だとするとそもそもショパンの意図したものではないということにもなるようです。

グールドのゴルトベルクなども、各変奏ごとにリピートしたりしなかったりということをやっているようで、ここは演奏者が随時判断ということが最良なのかもしれません。

要は先に行きたい気分の強いものと、そうではないものの違いなのかもしれず、音楽は聴く人の気持ちの自然の運びにあまり逆らわないことも大切ではないかと思います。
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検索の極意

ネット検索はいまや日常的に誰でもやっていることですが、どうもマロニエ君は自分でこれが得意ではないという思いが以前からありました。

理由は簡単、自分が探せなかったものを他者が探してくるということが多々あるからです。

その中の一人、ピアノ関連の知り合いの方で、ネットの情報を教えていただくことがとても多いことにいつもながら感心させられていました。

同じようなキーワードを打ち込んでいるつもりでも、その方が教えてくれる情報は自力では到達できないものだったことが、これまでにも何度もありました。
そんな情報を教えてもらう有り難さもさることながら、どうしたらそんなに探せるのか不思議なくらいで、ついには自分の検索の仕方が根本的に間違っているのでは…とまで思い始めました。

そんなマロニエ君は、一度教えてもらったものでも、再び見ようとしたときにはあっというまにわからなくなるので、ちょっとしたことでも「お気に入り」に入れておかなくては危険なのです。お陰でお気に入りはいつも大入満員状態で、ひどいときにはそのお気に入りの中からひとつを探し出すのにさえ苦労する始末で、我ながら情けないといったらありません。

非常に珍しいピアノやピアノ店の情報を教えていただき、見てみるとなるほどというピアノや、派手ではないけれども興味深いお店があることがわかり、これまでにも自分なりに全国のピアノ店のHPは相当見てきたつもりですが、まだまだ掘り起こせばディープなお店はあるのだと認識をあらたにしているところです。

電話で話をしている折でしたが、どうやって検索すればあんな珍しい情報が出てくるのか、いわばその秘訣を聞いてみました。すると、その方はべつになにも特別なことはしていないという返事がかえってくるばかりで、はじめは肩すかしをくらったようでした。
ところがその先にアッと驚く検索の極意がさりげなく語られたのでした。

その方曰く、自分が検索する場合は、とにかく10ページぐらいは見てみるようにしていると言われました。「えっ!? 10ページも??」

多くの方が経験がおありでしょうが、なんらかのワードで検索すると、その結果はアクセス数の多いなどの順(かどうか知りませんが)にズラリと表示されます。
しかし、ほとんどの場合は1〜2ページにこそ欲しい結果が集中し、それ以降はだんだん質が落ちたり同じものが何度も繰り返し出てきたりで、大半が無用なものばかりになってしまいます。

考えてみると3ページ以降を見たことなんてほとんどなく、その方のような丹念さが自分には欠けていたことを痛感しました。

本当に貴重な情報とは、そんな無用なものの中に埋もれるようにひっそりと存在しているものだということで、まるで森の中でトリュフでも探すようなもんだと思いました。
要するに、何事においても粘り強さが必要だということなのでしょうが、悲しいかなそこがマロニエ君の一番苦手なところなのです。
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ケフェレック

今年の5月、王子ホールで行われたアンヌ・ケフェレック・ピアノリサイタルを録画からみてみました。

曲目は、演奏順にショパンのレント・コン・グラン・エスプレッシオーネ、幻想即興曲、子守歌、舟歌、リストの悲しみのゴンドラ第2番、波を渡るパオラの聖フランシス、ドビュッシーの月の光、ヘンデルのメヌエット。

やはりというべきか、この人は大曲より、小品を弾くことで作品に可憐な真珠のような輝きを与えるタイプだと思いました。ただ大曲でも、波を渡るパオラの聖フランシスはよく弾き込まれていて感心させられ、逆に舟歌などは作品の重量が意図的に削り落とされたような印象でした。
幻想即興曲は全体に雑な印象で、これほど誰でもが知っている曲は、弾く側もそれなりの準備がなくては却って不利になると思われます。いっぽうドビュッシーやヘンデルでは、ケフェレックの小兵故のハンディが出ず、もっぱら彼女のセンスの良さで聴かせる佳演でした。

月の光は、技術的にも困難ではなく、これまた超有名曲のわりには満足のいく演奏がなかなかない作品だと思いますが、ケフェレックのそれはフランス人らしい趣味の良さと、いわばネイティブの響きが俄然光りました。
しっとり歌う部分とサラリと流す部分、音を滲ませる部分と個々の音の輝きを強調する部分、アクセントをつけてはならない部分とつけるべき部分の見極めなどがいちいち的を得ているのは、さすがというべきで、この曲を弾く、多くの人が学ぶところの多い演奏でした。

ショパンは全体にあまりにさらさら流しすぎて、せっかくの凝った響きや音型がすっとばされていくようで、もうすこしショパンが作品に込めたひとつひとつの端正な言葉とか精緻の限りをつくした音の組み立ての妙を味わわせてほしいという不満が残ります。

その点で、リストは演奏者に与えられた自由度が比較にならないほど広いことを実感します。
白状するなら、どちらかというとマロニエ君はあまりリストが好きなほうではないというか、率直にいうと苦手なのですが、その中では、この日弾かれた2曲は比較的嫌いではないほうの作品です。

むろんリストが音楽史の中で果たした功績の大きさ、とりわけピアノを語る上では欠くべからざる存在というのはわかっていても、理屈でなしに苦手なものはやっぱり苦手なのです。

画家にもありますが、並外れた才能と卓越した筆致力はあるとしても、片っ端から多作乱作するタイプというのがあって、なんだかそういう要素を感じます。フェルメールのように作品が少ないのも残念ですが、やたらと数ばかりが必要というものでもありません。
レスリー・ハワードというピアニストがリストのピアノ作品録音をしていますが、その数なんとCD約100枚ですから驚くべき作品数で、これでは個々の作品に手間暇をかけているわけにもいかなくなるでしょうね。

詳しい方からは叱られるかもしれませんが、この2曲も終始大げさで芝居がかったようで、リストの作品にはある種のいかがわしさを感じてしまうのです。ものものしいわりに途中で何をいいたいのやらわからない意味不明な時間が長く続き、ようやくなにかが見えてきたと思ったらそれが押し寄せるクライマックスと解放といういつものパターン。

よくわからないのは、フランス人というのはおよそフランス趣味とはかけ離れたリストを採り上げる機会が意外に多いという点です。メルセデス・ベンツとか、もっと昔はキャディラックなどを口では大いに軽蔑しながら、実際はそれらをとても好むという一面をもっていましたから、同じようなものかとも思います。
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乱乱

クラシック不況というのをやたら耳にする昨今ですが、そんな実情を表しているように感じるのが、西洋音楽の本拠地であるウィーンやパリで近年催される一見派手な野外コンサートです。

ベルリンフィルなどは以前からやってはいましたし、イタリアでもヴェローナの野外オペラなどがありますが、ここ最近の新しい野外コンサートは、どうも趣が少々違っているように感じられて仕方がありません。

先日もエッシェンバッハ指揮のウィーンフィルで、『シェーンブルン夏の夜のコンサート2014』というのをやっていましたが、こう言っては何ですが、派手さだけが売り物の大イベントというだけで、およそ良質の音楽を聴くためのコンサートとは思えません。

あのシェーンブルン宮殿を上品とは言いかねるライティングで染め上げ、オーケストラの入る透明屋根の小屋とその周辺の作りは、ほとんど安っぽいサーカスのようで、ウィーンの至宝であるウィーンフィルがこんなことをやらざるをえない状況というのが、なにより現在のクラシック音楽の置かれた状況を物語っているようです。

プログラムの中ほどにリヒャルト・シュトラウスのブルレスケがあって、ピアノは〝またしても〟ラン・ランでした。
オーケストラも指揮者も、そしてピアニストも、だれも本気で演奏している気配はなく、この異色の作品が、お気楽で平面的な音の羅列に終わっていることに驚かされます。
この難曲を安全に進めるためか、テンポもマロニエ君の耳には遅めでキレがなく、ラン・ランも以前にくらべてもいよいよその演奏は粗製濫造の気配を帯びてきたように感じます。

エッフェル塔の下で似たような野外イベントがあったときもやはりラン・ランがソリストで、この時のラヴェルのコンチェルトはほとんど破綻していて、それなのに、なんでこの人ばかりにオファーがあるのか不思議でなりません。
もはや演奏の質や音楽性などどうでもよく、ただ知名度のあるタレントであることだけが必要ということなのでしょう。

シェーンブルン夏の夜のコンサートで驚いたのは、ピアノの詰まったような、音とはいえないような音でした。
よく見ると、鍵盤サイドの右手(客席側)に水滴のようなものがあって、よくよく目を凝らしてみると、やはりそれはまぎれもなく水滴であったのは「まさか!」という感じでした。
ピアノが置かれる前縁は雨が降り込んでくるのか、ボディもあきらかに濡れてサイドのSTEINWAY&SONSの文字のあたりはキラキラ光っているほどで、さらには大屋根の傾斜に沿って水滴がザーッと斜め下に落ちているのも確認できました。

マロニエ君も数多くスタインウェイを使ったコンサートや映像を見てきましたが、ピアノが雨に濡れながら演奏される光景は初めて見ましたし、なんというか…とても嫌なものを見てしまった気分でした。
きっと今のピアノは材質も昔のそれとは違い、おまけにボディ、響板、フレームなど大半の部分がほとんどコーティングのような分厚い塗装をされていて、もしかすると濡れても大した問題ではないのかもしれません。…が、やっぱり見ていて強い嫌悪感を覚えました。

のろのろテンポのブルレスケのあとは、アンコールにモーツァルトのトルコ行進曲を弾きましたが、こちらは打って変わって超ハイスピードの、ほとんどやけっぱちみたいな演奏で、名前を乱乱と変えたほうがいいような、そんな雑な演奏ぶりでした。

宮殿の庭に陣取る大勢のオーディエンスは、おそらく本気で音楽を聴きにきた人々ではなく、大半が観光客などであろうとは思います。
世の中、むろん経済発展は大切ですが、だからといって文化がここまで身を落として蹂躙されるのは納得がいきません。
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天才のゆくえ

いまからおよそ30年近く前、キーシンの登場をきっかけとして、いわゆる「神童ブーム」というものが湧き起こったように記憶しています。

パッと思い出す代表的な名前だけでも、エフゲーニ・キーシン(P)、コンスタンツィン・リフシッツ(P)、セルジオ・ダニエル・ティエンポ(P)、ヴァディム・レーピン(Vl)、マキシム・ヴェンゲーロフ(Vl)、五嶋みどり(Vl)、サラ・チャン(Vl)、マット・ハイモヴィッツ(Vc)などで、まだまだ忘れている名前がたくさんあると思います。

こうした神童ブームは、声楽の世界にも及んで、アレッド・ジョーンズなど天才と呼ばれる少年が幾人か含まれていましたが、その中で破格の才能を示していたのがアメリカのベジュン・メータでした。

彼を知ったのはデビューCDを購入してみたことで、そこにはヘンデルやブラームスの歌曲が収められており、記憶違いでなければ収録時の年齢はたしか14、5歳ぐらいだったと思います。

天才少年少女達は、とてもそんなティーンエイジャーとは信じられないような老成した音楽性とテクニックで世間の注目を集めたものでした。そんな中でベジュン・メータの何が特別だったかというと、すでにこの歳にして人間の憂いと悲しみ、そして人の心の中にわだかまる深いものを見事に演奏に投影していた点だと思います。

とくに歌には歌詞があり、歌詞は器楽曲に較べると楽曲の意味するものに、言葉という具体性が附随しています。そこに多く語られているものは、愛と悲しみ、歓喜と絶望であり、それはつまるところ人間の抗うことのできない宿命のようなものを土台としています。

ベジュン・メータは歌唱力という点においても格別でしたが、それに加えて彼の天才を最も表しているのは、すさまじいばかりの表現力で、そこには他の追従を許さぬ圧倒的なものがありました。繊細かつ大胆、聴く者の心の中に手を突っ込まれて縦横無尽に引き回されるようでした。

ところがマロニエ君がベジュンを聴いたのはこの十代の頃のCD一枚きりで、その後は名前も耳にしなくなったので、とても気になっていました。

ロシアに、アリーナ・コルシュノヴァといったか…、闇夜に一条の蝋燭の火が灯るような暗い雰囲気を持ったピアノの天才少女がいて、彼女のデビューCDを聴いたときも、その鳥肌の立つような世界に圧倒されたものでした。

ショパンの嬰ハ短調のワルツなどは、マロニエ君はこれ以上の憂いと美しさに満ちた演奏を聴いたことはなく、いまだにこれを凌ぐ演奏に出会ったことはありません。
このとき彼女はたしか十代前半で、この先どんなふうに歳を重ねていくのやら、無事に大人になることができるのか想像ができず、まさに天才ならではの心の闇と悲劇性を一身に背負ったような少女でした。

案の定、その後、彼女の名前やCDを目にすることは一度としてありませんから、きっと何かが彼女の身の上に起こったのではないかと今でも思っています。

そしてベジュン・メータの場合も、ぱったりとその名を聞くことがなくなり、同様の危惧を感じていました。
ところが少し前にBSで放送されたグルックの『オルフェオとエウリディーチェ』でタイトルの写真を見たとたんアッと思いました。主役のオルフェオはすっかり大人になったベジュンその人で、昔とほとんどかわらぬカウンター・テナーとなって見事な歌唱を聴かせました。

十代の頃の美質はまったく損なわれることなく、その存在感は何倍にもなったようで、まさに圧倒的。この古典の名作オペラにもかかわらず、まるで彼一人が際立ち、他は添え物のようでした。
彼が歌うと、そこには得体の知れないエネルギーがあふれ、あたりには一陣の風が巻き上がるようでした。
まさに感銘の再会で、ひさびさに深い満足に浸ることができました。
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ルールと平等

先日もニュースで言っていましたが、最近はとにかく音楽CDが絶望的に売れないのだそうで、そんな話を聞くと、こちらまで暗い気分になるものです。

むろんこれはポップスなどの最も高い人気と購買力のあるジャンルでの話です。それをなんとかして販売へと結びつけるため、さまざまなイベントと抱き合わせにするなど、業界でも必死の知恵を絞っているのだとか。
もとよりクラシックなど、すでにものの数にも入っていないのでしょう…。

そんな世相の中、マロニエ君はCDだけは良く買うほうだと思いますから、この点だけは業界から頭のひとつも撫でられていいような気がします。購入はネットもしくは店頭の新品が主流で、中古品はよほどでないと買いません。
べつに潔癖性で中古が嫌だというわけでもないのですが、期待するほど安くもないことと、新品のほうがショップの情報や在庫の整理整頓などが洗練されており、要は見やすい探しやすいというのが一番の理由かもしれません。

ところが廃盤になっているCDの場合は、やむを得ずアマゾンやネットオークションで中古品を探すことになります。

最近も欲しいものが廃盤となっていたところ、幸いオークションで見つかり、購入しようと詳細を読むと、2品以上購入すると送料無料になると書かれています。
終了日までにはまだ幾日もあるし、同じ出品者のその他の商品を見てみると、どうやら業者のようで、実に5〜600枚ものCDが出品されています。

これだけあれば欲しいCDはあるだろうと思い、他日あらためて腰を据えて全商品を見てみた結果、まあそれなりに興味を覚えるものがいくつか見つかり、ざっとリストアップすると計9点ほどになりました。

そこで出品者にメールして、これだけの点数をまとめて購入したいと伝えたところ、先方から返事があり、商品は二週間取り置きができるという内容でした。
そうはいっても、9点もの商品をひとつひとつ連日連夜、パソコンの前に張り付いて落札していくのも大変だし、そこまでの気力もないので、できたら一括購入したい意向であることを伝え、検討をお願いしました。

ちなみに数百点の出品に対して、冒頭のごとくCD不況のせいか、入札されているのは数えるほどまばらで、そのほとんどが最低価格もしくはそれに準ずる価格で終了するように見受けられました。
もしマロニエ君が出品者だったらめげてしまうくらいでしたから、感覚的に一括購入はすぐに応じてくれるだろうと、なんとなく思っていたのです。

ところが再び届いた返信には、前置きもなく「オークションのルールにそって、皆さんに平等に参加して頂いております。」とにべもなく書かれており、その情感のひとかけらもないロボットのような反応には唖然としました。
できないならできないで、言葉の選びようもありそうなものだと思います。

とりわけ心外だったのは「ルールにそって、皆さんに平等に」というくだりで、これは購入希望者に対してほとんどお説教です。いきなり相手にこういう物言いをする人というのは、基本のところで何か大きな勘違いをしており、現代はこの手合いが蔓延していると思いました。

こういう人に限って、自分ではルール通りの正しい対処をしているつもりでしょう。
さらには、そちらに同調する人も結構いるはずで、こういう殺伐とした感性の前では人情の機微など一文の値打ちもないのでしょうし、そもそもそういうものの存在すらご存じないと思います。

いっぺんに気分も冷めて、ウォッチリストもすべて白紙撤回しました。
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カテゴリー: CD | タグ:

ハズレの機械

マロニエ君は体質的な事情もあって、ピアノに勝るとも劣らないほど湿度が苦手です。

当然ながら梅雨は人一倍苦手で、慣れるということがありません。今年は全国的にも大雨の被害が続出、それにともなって猛烈な湿度に見舞われました。この梅雨という名の長いトンネルをくぐり抜けるだけでも毎年の大仕事となっています。

ようやく梅雨明け宣言が出されたと思ったら、今度は入れ替わりにサウナのような猛暑となり、厳しい自然の試練に翻弄されるのは大変です。

そんなマロニエ君は、かなり重度のエアコン依存症であることはずいぶん前に書きましたが、もはや快適器具という枠をはるか飛び越えて、気持ちの上では生命維持装置のような趣です。

そんなに大切なエアコンですが、自室のエアコンは使い始めて10年ほどになり、信頼性バツグンの筈の日本の有名メーカーの製品であるのに、これが完全にハズレの機械でした。初めの2〜3年こそ問題なく使ったものの、その後は故障が頻発。水漏れしたり、冷房能力が低下したりの繰り返しで、そのつど修理依頼となり、メーカーの修理担当者と顔なじみになるほどでした。

修理代も馬鹿にならず、一度などはコンデンサーだかなんだか名前は忘れましたが、主要な部分の全交換などという事態にまで発展するなど、このエアコンに関する限り、高い信頼性を誇る日本製品とはほど遠いもので、いつも不安でだましだまし使うという状況が続いていました。

そしてついに恐れていたことが、最も困るタイミングで起こりました。
他の部屋の温度に較べて、いやに自室だけどろんとした効き方をしているなあと思ったら、その翌日には明らかに冷房力が低下していることが判明。
しかしこの日は事情があってどうしても動きが取れず、やむを得ずそのまま我慢しましたが、次の日にはさらに状況は悪化して、廊下との温度差もごく僅かとなりました。

とっさに不安を覚えたのは、梅雨明け早々の連日34〜5℃という猛暑の中、エアコン業者はどこも終日出払っているだろうということ。
以前我が家全体のエアコン工事をしてくれた業者に連絡しますが、予想通り、この猛暑のせいで電話に出る暇もないほど忙しいようです。どうにか電話は繋ったものの、案の定予約はびっしり、まさに東奔西走の毎日で、お店などは閉店後の作業開始となるのだそうで、寝る暇もない極限的な状態が続いている由で、今日明日はどうにもならないようです。

仕方なく、メーカーに電話をして出張修理の予約だけはとりつけたものの、あぁ、また場当たり的な対処をされたところで先が見えているし、それで今年の夏を安定的に乗りきれるかとなると、甚だ不安です。もう10年もこのエアコンを我慢して使ったのだから、もういやだと思い、この際買い換えることを決断しました。

善は急げとばかりに、あちこち電気店などに電話しましたが、工事に来てくれるのは早くても5日から一週間かかるらしく、それではとてもこっちの身体がもちません。
これは大変なことになったと、こんなときこそネットを駆使して業者を検索しまくり、電話をしまくりました。どこも似たような状況でしたが、一件だけ「明日の午後なら空きがありますから行けます」という真っ暗闇に一条の光を見るような声を聞きました。

ところが「機械はお客さんのほうで準備されているんですよね」と普通にいわれ、「えっ?いえいえ、してませんが」というと、なんでも最近はネット通販で機械を安く購入し、取り付けだけを依頼してくる方がほとんどだというのには驚きました。
機械もそちらでお願いしたいと云うと、それはすんなり手配してくれることになりました。
その翌日、マロニエ君の自室の壁に10年間へばりついていた薄汚い室内機はついに役を解かれて下に降ろされ、代わりに真っ白な新しいエアコンが取りつけられました。寸法は僅かに小さくなっていますが、冷房能力はひとまわり強力だそうで、そのピカピカした感じがなんとも頼もしげです。

それにしても、本体価格、古い機械の取り外し、新規取り付け、外した機械の処分やリサイクル費用などを含めても、望外の安さであったことは驚きでした。こんな値段なら、あんなに修理を重ねてきたこの数年間はなんだったのだろうと、その間の不愉快と手間暇と出費を考えるとドッと疲れがこみ上げますが、ともかく今は新しいエアコンがサワサワと冷風を送ってくれるので救われます。
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現代の優位性

楽器としてのピアノの質が材質と製造の手間暇につきるのだとすると、現代のピアノの優位性は無いと云うことなのか…。

優れたピアノを作るための基本的要素が、好ましい材料(天然資源)と、それを理想的に組み上げる人の手間暇(人件費)だとすると、いずれも今の時代に背を向けるような、効率重視の価値観にはまるでそぐわないものであることは明らかです。

手間暇に関しては、あとから技術者の努力によってまだしも挽回できる部分があるとしても、材質に関しては生まれもつものなので打つ手がありません。

とりわけボディを構成する材料は、そのピアノの生涯にわたる価値と個性を決定するもので、これはいったん作られてしまうと後手を差し込む余地がありません。したがって粗悪な木材や代用品など安価なまがい物で作るという方針である以上、どれほどの高度な技術を投入しようとも、本質に於いていいピアノができる筈はないと見るべきでしょう。

したがって木材や羊毛など優良品の確保が難しい現代では、ピアノの品質低下は当然の成り行きと云えます。この点に於いては少量生産のごく一握りの例外を除いて、ほぼすべてのピアノに見られる傾向だといえるでしょう。

どれほど技術の粋を凝らしても、好ましくない素材や工法で作られたピアノは、表面的な美しさや弾きやすさで一時の気を引くだけです。無機質で優秀な工業製品としての色合いが強まり、楽器の要素を大胆に手放してしまっているという事実は否めません。

ピアノには、天然素材を必要とするという前提が横たわっている限り、いかにテクノロジーが飛躍を遂げようとも、黄金期のそれを凌駕することは本質に於いてないのでしょう。

では、黄金期のピアノより現代のほうが優れている面がまるきりゼロかというと、必ずしもそうとも思いません。

たとえば廉価品のピアノに関して云えば、実はマロニエ君もよくは知らないのですが、昔のピアノの安物ときたらそれはそれは酷いものがあったようです。技術者が唖然とするような構造であったり、ほとんど冗談みたいなちゃちな作りのピアノも多々あったと云いますから、その点で云えば、すくなくとも量産ピアノの構造や品質は飛躍的に上がっているように思います。

高級品まで含めた範囲で云うなら、現代のほうが優れているだろうと思える部分は鍵盤からアクションに至るセクション、すなわち機械的部分ではないかと推察できます。アクションは要するに小さくて精密なパーツの集合体であり、それらの正確な作動は、つまるところ箇々のパーツの精度に行き当たります。

こればかりは、手作りや職人芸を尊ぶことより、機械による均一で精巧なパーツであることがなにより重要な分野だと考えられるからです。その点ではコンピュータによる正確な図面、さらには人の手の及ばぬ精巧無比の仕事をする工作機械の登場によって、昔とは比較にならないレベルへと向上した筈です。

おそらく昔のピアニストは、アクションやタッチに関してはかなりの妥協を強いられていたのではないかと思われますし、グールドなども現代のアクションがあれば晩年のピアノ選びの苦労はなかったのではと思われます。

と、ここまでは技術者的見地の話ですが、では、あまりにむらのない、限りなく完璧に近い理想のアクションがあったとして、それが即、芸術的演奏に直結するのかというと、これはまた別の話のような気がするわけで、かくも楽器とは難しいものということでしょう。
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