趣味というもの

「趣味」というものの正しい定義や概念は未だによくわかりません。

少なくとも実用とは一線を画したものであることは間違いなく、余人から見れば無駄な、非生産的な、精神や情熱をむやみに濫費するもので、場合によっては愚かな行為であることだとさえ見なされかねません。

岩波の国語辞典(広辞苑が階下にあるので)によれば、趣味は『専門としてでなく、楽しみとして愛好する事柄』とあります。もちろんそれが高じて職業になる人も中にはおられますが、それはあくまで結果であり、そもそもの成立事情としては衣食住から外れた「楽しみ」が大前提です。

趣味は、実利とは無縁の世界の内奥に分け入って、楽しみの回廊をさまざまに歩き回ることにあるともいえるでしょう。いわば純化された情緒が主役となる世界で、こればかりは定年後時間ができたから何か適当な趣味を持とうか…というほど、趣味の扉を開くことは簡単なものではありません。
多くの場合、それなりの知識、経験、感性、努力、そして尋常ならざるエネルギーが必要で、しかもそれは趣味である限り一文の得にもなりません。

趣味とは、正当性や客観的価値と一切無関係に存在し、無駄を山積みにし、せっせとそれに向かって奉仕することそれ事態が喜びであるというところに、真の価値があるのだと思います。

いうまでもなく趣味はお金で安易に手に入れることはできず、手間暇のかかるもの、いや、手間暇そのものを楽しむものだともいえるでしょう。そこに一朝一夕には到達できない深さがあるわけで、だから価値があるのかもしれません。一見無駄だらけに見える趣味ですが、物事の真髄に触れるという点では、趣味を通じて学ぶことの多さという点でもきわめて偉大な教師にもなりうると思います。

趣味をお金で買うことはできないけれども、趣味のためにお金を使うことは必要なことだというのがマロニエ君の持論です。金額は人によって違うでしょうが、その人にとってかなりきわどい出費を趣味に投じることができるかどうか…ここがポイントのような気がします。

実はマロニエ君の知り合いで、音楽趣味が高じて近年ヴァイオリンを始められた方がおられます。それなりの良い楽器を買われたということは聞いていましたが、ごく短期間のうちにグレードアップして、なんとクレモナの新作ヴァイオリンへ買い換えられたと聞いて驚きました。

しかも、その方は持論として「分不相応な楽器を持つこと」への疑問をお持ちの方だったのですから驚きもなおさらでした。その「分不相応な楽器不要論者」の方が、自説をかなぐり捨てての購入だったわけで、マロニエ君はそこがいかにも趣味人としておもしろいじゃないかと思いました。

たしかに、まともに理屈で考えれば初心者からせいぜい中級レベルの腕しかない者が、名器云々というのはナンセンスでしょう。しかし、趣味人が冷静な理屈だけで心がおさまるかといえば、そんなことはあるはずがないのです。だって趣味なのですから!
技量と道具のバランスを計るべきは、むしろプロのほうかもしれません。

したがって、趣味が真っ当な正論の範囲にちんまり収まっている限り、その人の趣味は趣味であるかどうかも疑わしいとマロニエ君は思うのです。
出費や犠牲を厭わず、趣味にへの熾烈な欲求があることも趣味人の特徴のひとつで、実際にそれだけの気構えがあるかどうかという点でも、趣味に対する覚悟のほどが窺われます。

マロニエ君の知人に鉄道マニアがいて、彼は全国のすべての鉄道を乗るためだけに、休みの大半を使って年中旅をしていました。しかも上下線すべてというのですから、まったくもって恐れ入るところ。

ただ「好き」というだけでは、なかなかできることではない次元の話です。
趣味はある種の壮絶と孤独が混ざり込んできたとき、真の輝きを放つものかもしれません。
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Bの魅力

ラ・フォル・ジュルネ音楽祭の音楽監督、ルネ・マルタンによるレーベル「MIRARE」からリリースされる、アダム・ラルームというピアニストの弾くブラームスの作品集のCDを購入しました。

中を開けてみると、ジャケットの最後の頁に掲載されている写真は、以前から見覚えのあるもので、「ああここか」と期待とも落胆ともつかない思いが込み上げてきました。
見覚えというのは、以前買ったアンヌ・ケフェレックによるヘンデルやヌーブルジェのハンマークラヴィールのCDがここで収録されたもので、フランスのヴィルファヴァール農場 (la Ferme de Villefavard) というホールに於ける録音です。

農場という言葉から推察されるように、見るからに巨大な納屋だか倉庫だかを音楽ホールに作り替えたとおぼしき施設で、レンガの壁とむき出しの梁などがいかにも無造作で、おもしろいといえばおもしろいけれど、こういう危うい取り合わせには絶妙なセンスが必要で、ヨーロッパならではのものだと思います。

彼の地では、それだけの文化的土壌を拠り所として「なるほど」と感じるものがありますが、近ごろは日本でも田舎の古い家屋などを改修し、そこで拙い商売やイベント開催といった事が流行っているようですが、あれはどうも個人的には馴染めません。
むろん中には稀にいいものもあるのかもしれませんが、多くはコンセプトもなにもない素人の趣味の延長のような趣で、当事者だけの自己満足の域を出ていない印象です。


話が逸れましたが、ヴィルファヴァール農場のホールには比較的新しいスタインウェイのBがあって、音響の素晴らしさなどから、ここでいろいろなコンサートや録音が行われているようです。

響きはたしかにクリアでひろがりのある素晴らしいものだと感じますが、ピアノの音があまりにブリリアントなキラキラ系の音で陰翳がなく、それがちょっと好みではありません。
ひとつひとつの音が磨かれたように美しいのは結構なようですが、まるで屈託のない美人みたいな音で弾かれると、どことなく作品が浅薄な奥行きのないものに感じてしまいます。また、ピアニストの演奏から出てくる表現の妙なども聞こえづらく、俗っぽく聞こえてしまうのは残念な気がします。

これはケフェレックのヘンデルでも同じような印象がありました。
このディスクは極めて高い評価を得ているようですが、マロニエ君にはキラキラした音の羅列ばかりが耳について、演奏そのものへ意識を向けるのに難渋した記憶があります。
(ヌーブルジェはベートーヴェンの収録に際してはヤマハを運び入れているようですが)

それはそれとして、スタインウェイのBは完結した個性を有する素晴らしいピアノだと思います。音の輝きや表現性はそのままに、全般に響きがコンパクトで、これが弾く側にも目配りが利いて扱いやすいのか、いわゆるまとまりが良いと評される所以だと思います。

B型で収録されたCDというのは滅多にありませんが、ピアニストがより内的な表現を目指す、あるいはDの響きが過剰というような場合に、これはひとつの賢明な選択のようにも思います。
音色自体もピアノのサイズからくる軽さと親密感があり、コッテリ系を嫌うフランス人などは状況に応じてこちらを好んでも不思議ではないと思います。

オーケストラでいうと室内管弦楽団のようなキレの良さで、よりピアノらしくもあり軽い身のこなしが身上というところかもしれません。
大規模なステージではDが欲しいところですが、このように静寂の中へマイクを立てて行われる録音では、Bは私的でデリケートな音楽作りを可能にしてくれるのかもしれません。
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コンビニスイーツ

世の趨勢に反して(いるのかどうか知りませんが)、マロニエ君は自分の日常生活の中ではコンビニを利用することはほとんどありません。
食料はスーパーその他で買うし、基本的に感性が合わないのだと思います。

ところが、ここ数年でしょうか、コンビニで売られているデザートというか、要はスイーツのたぐいが美味しくなったと口々にいわれるようになり、はじめの頃は半信半疑でしたが、騙されたつもりで買ってみると、たしかに…と思うようになりました。

その後はさらに進化して、かなり本格的な商品が並ぶまでになりました。
はじめはコンビニ会社によっても美味しさに優劣があったようですが、最近は競争もよほど熾烈なのか、しだいに克服されて、おおむねどこで買っても似たようなものが買えるまでになったように感じます。

こうなると、どの店でもそれなりのスイーツが時間を問わず街のいたるところでパッと買えるという環境があることは、たしかに魅力だと思いました。

というわけで、一時はいい気になってかなり頻繁に買ってみたのですが、そのマイブームは意外にも早々に終息を迎えることになります。
ちょくちょく食べていると、だんだんその実体がわかってくるもので、さすがは横並びの日本だけのことはあり、どこも似たり寄ったりで味も結局はウソっぽく、種類も価格も拮抗しています。
人によっては印象も異なるかもしれませんが、少なくともマロニエ君はたちまち飽きてしまいました。美味しいものは常習性がありますが、不思議にそれがありません。

はじめのうちは、コンビニとは思えないような贅沢さが演出されていて、いかにも本格派のような風情ですが、いずれもうわべのものでしかないことが判るのにそう時間はかかりません。クリームなどもあきらかに安い植物性のものだし、使われている素材もCMなどでは尤もらしいことを言っていますが、嘘にならないぎりぎりのところだろうと思われます。

こういうことは、食べているときはもちろんですが、とくに顕著にわかるのは食べた後の「食後感」にあらわれきます。いかにもまがい物を食べたようだという、うっすらした不快感と後悔が心に漂います。

徹底的なコスト管理はもちろん、運搬に耐えるだけの形状やパッケージ、さらには売れ残りも前提として価格が決定されるのでしょうから、そう思うと廃棄される分まで販売価格に上乗せされたものをまんまと買わされているのかも…。
ひとたびそれを感じ始めると、パティシエの味覚や技術どころではない、企画書と試作品と会議室とボールペンで作られた巧妙な製品というイメージで頭が一杯になってしまいます。

価格もいかにも良さげな印象を与えるべく計算され尽くしたもので、高くもないが安くもない。とりわけ内容に対する、コストパフォーマンスは大いなる疑問で、あれだったらもうちょっとがんばって普通のケーキ屋で買ったほうがどれだけ満足は大きいかと思うわけです。

それにしてもここ最近のコンビニの数の増え方は尋常ではないですね。
なにかの建物がなくなって更地になっていたかと思うと、そのうち工事が始まり、大抵はまたひとつ新しいコンビニが姿をあらわします。

こんな現象は日本中の都市圏ではどこも同じだろうと思いますが、それだけ需要があるということなのでしょう。
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コスト戦争

ピアノ選びや優劣論で話題となるのが、品質に関するものではないかと思います。

音色の好みを別とするなら、ピアノの品質とは何が違うかといえば、優れた設計、使用される材料の質、そして製造・仕上げの手間暇につきるのではないかと思います。

極めて夢を削ぐ話ではありますが、ピアノという楽器は、非常に多くの制約と妥協の中で産声を上げている製品ということは間違いありません。それは主に需要とコストという実利的な問題に縛られ、それらは絶え間なくピアノ生産の在り方と方向性に重くのしかかる最重要課題だからです。

多少なりとも最高級品に許されるのは、まずはコストの余裕でしょうが、それとても「金に糸目はつけない」というようなものとは程遠い、常に厳しい制約がかかっている枠内での相対的な話です。

さらに制約のレベルが一気に引き上げられるのが量産ピアノです。
どれほど有名メーカーの高品質な製品とは云っても、それは表向きのこと。根底にある製造上の思想は、「いかに徹底して安く作るか」というひと言につきるのだと思います。
言い換えれば、ブランド力を損なわないギリギリのラインで、どこまで品質を落とすことができるか、その限界点を探ることが量産ピアノ製造の最大の使命であり、そのためのあらゆる試行錯誤がおこなわれていると云っても過言ではないでしょう。

日本の大手メーカーは、とりわけ優良な量産ピアノ作りの面では、世界的にも先駆者の部類であることは自他共に認めるところです。その技術力は大変なもので、現在ではありとあらゆるノウハウを知悉しているはずです。

「ブランド力を損なわずどこまで品質を落とすことができるか」という、高度な課題に日々取り組んでいるということは、逆に云えば、良いピアノはどうやったらできるかと云うことも、彼らは百も承知のはずです。

真に芸術的なピアノということになれば容易なことではないにしても、普及品のピアノをそこそこランクアップさせる程度ならわけもないことです。
すべてが必要最低限の品質で作られているとすれば、そこにわずかでも付加価値を作り出すのは造作もないことでしょう。

好ましい材料をふんだんに使って、手間暇を惜しまず、細心の注意を払って組み立て、いかようにも時間をかけて調整すれば、設計に欠陥でもない限り、それなりのピアノには間違いなく仕上がる筈です。

とりわけ、理想的な響板と旧来の工法によるフレームなどは今日のピアノの多くが手放してしまったものでしょうし、木材やハンマーのフェルトなどもしかりで、かなりの部分は解明できていても、それが実践で使えないだけという状態だろうと思います。

彼らの叡智は利益率の良い、優秀な商品を作ることへ多くのエネルギーが注ぎ込まれているというのが現実ですが、これはピアノに限らず、工業製品というものには、コストに対する非道なまでの要求がついてまわり、現場と営業サイドとの確執は、常に後者が勝利であるようです。

イタリアのFなどがこれほど躍進できているのも、現代は真の意味での高級ピアノ不在の時代環境だからこそ、そこにあえて手間暇のかかる正攻法を貫いてみせた鮮烈さの結果だとも感じてしまいます。
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エデルマン

オクタヴィア・レコードからリリースされているセルゲイ・エデルマンの演奏がすこぶる高評価のようで、そんなにいいのならちょっと聴いてみようと購入しました。

曲目はショパンのバラード全曲、舟歌、幻想曲、幻想ポロネーズという重量級の主要作品ばかりをドーダ!といわんばかりに並べたもの。
バラードの1番からして、いやにものものしい入りで、ひとつの予感がかすめます。

いわゆる既存のショパン観に一切とらわれることなく、「純粋に楽譜に記された音符を音楽として起こしたらこうなる」という主張を込めたような演奏で、現代のショパンによくあるパターンだと思いました。

ショパンを少女趣味のメランコリックな音楽のように捉える愚かの向こうを張って、詩情を排し、むやみに構造的で、劇的で、マッチョに仕上げられたショパンというのも、所詮は少女趣味の対極に視点を移したというだけで、その履き違えという点では五十歩百歩だと思います。

糖尿病の食事療法ではあるまいし、ショパンの作品から「甘さ」を徹底除去して、内装材を剥ぎ取って、構造物の骨組みばかりを見せるような演奏がこの偉大な作曲家の真髄に迫ることができるというのなら、いささか短慮ではないかと思います。

打鍵もむやみに強すぎるし、語り口にもくどさがあり、まるで大仰な芝居の台詞まわしのように聞こえてしまいます。ショパンがこういう演奏を歓迎するとはとても思えません。

すっかり忘れていましたが、そういえばずいぶん昔、東京でエデルマンのリサイタルに行ったことがありました。長身で、まるでスローモーションを見ているような一風変わったステージマナーであったことが印象にあるのみで、何を弾いたかまるで覚えていません。

オクタヴィア・レコードは、その音質のクオリティが高く、オーディオマニアの間ではたいそう有名なんだそうですが、マロニエ君はそっちの方面はてんで不案内で、もうひとつその真髄がよくわかりません。

たしかに素晴らしいと感じる、充実した音質を楽しめるCDがある一方で、えっ?というような、とても高音質がウリのCDとは思えないようなものもあって、いうなればむらがあり、一貫した方向性が定まっているところまでは行っていない印象です。
今回のCDは、録音はすごいとは思うものの、いかんせんピアノが近すぎて生々しく、さらに強打の連続とあっては、かなり耳が疲れるアルバムだったと感じました。ところが、伊熊よし子氏の解説には「ショパンコンクールでは若手ピアニストは攻撃的な演奏する」「戦闘的な演奏は耳を疲れさせる」ということを引き合いに出し、それと対比させるように、このCDの演奏を「耳が疲れず、心が浄化される」とあったのにはエエー!と驚くばかりでした。

それでもピアノは少し前のコクのある音をもった好ましいスタインウェイで、ここはせめて楽しめたところでしょうか。
とはいえ、演奏と録音が生々しいぶん、まるでハイビジョンで人の顔の皮膚を見るようで、ピアノがいささか迷惑がっているようにも聞こえます。もう少し詩的な演奏と広がりのある録音であってほしかったけれど、どうもエデルマンはピアノの音の最も美しいところを察知しながら弾くことはなく、あくまでも自身の気迫と打鍵だけで構わず押してくるので、ピアノにストレスがかかり、しばしば音がつぶれ気味になるのは残念でもあり、マロニエ君には「耳が疲れ、心が圧迫される」演奏でした。

でも、矛盾するようですが、久しぶりにいい楽器だなぁという印象が残りました。
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二つの自衛権

時事問題の放言番組である『たかじんのそこまで言って委員会』では、折あるごとに旬の話題である集団的自衛権の行使がテーマとして取り上げられます。

ここで政治問題に言及するつもりはありませんが、レギュラーコメンテイターの竹田恒泰氏がおもしろいことを言いました。
彼は議論も煮詰まったころにお笑いでオチをつけるというのがお得意のスタイルのようです。
正確ではありませんが「最近ですねぇ、これぞ集団的自衛権の典型というべき事例が、なんと国内で起こったんですよ」というような前置きをつけて、話をはじめました。

マロニエ君も覚えがありますが、どこだったか野生の熊が出没して人を襲おうとしたところ、連れていた犬が果敢にも熊に挑みかかり、自分も軽傷を負いながら見事に熊を退散させたというニュースがありました。
竹田氏は、その犬の取った行動こそ集団的自衛権の行使であり、これを「集団的自衛犬」と韻を踏んで一同を笑いに引き込みました。
上手いことを言うもんだ感心ししました。

ほぼ同じ頃、NHKのBSで1984年制作の『ゴジラ』が放映されて、さらに同時期、伊福部昭のゴジラの音楽を採り上げた番組もやっていたので、ちょっと録画しておこうという気になり、それらを見てみました。

なんと、すでに30年も前の映画であることに愕然としましたが、たしか有楽町マリオンが竣工したばかりで、それをいきなり壊してしまうゴジラの暴れっぷりと、マリオンの鏡のような外壁にゴジラが映るところが当時話題だったことを思い出しました。

ゴジラ映画では毎度のことですが、この未曾有の事態に時の内閣や科学者が総出で知恵を絞り、いわば一丸となって日本を救おうとする人々の姿が描かれます。
そこには左傾も市民運動もありません。
当然のように自衛隊には出動命令が下り、陸から空からゴジラめがけて雨あられのごとく発砲しまくりですが、悲しいかなゴジラの圧倒的な強靱さにはまるで歯が立ちません。

昔はちっとも思いませんでしたが、近ごろのように集団的自衛権が取り沙汰され、自衛隊の軍事活動に対する憲法上のくびきがあると、これほど抵抗も躊躇もなく自衛隊が堂々と表に出てきて、人々を守るために果敢に行動し、あらゆる兵器を使用する姿が、なんだか奇異なものに写ってしまいます。

そんなことを思いながら画面を見ていると、俄に納得できたのです。
「ああ、これが個別的自衛権の行使なのか!」…と。
そう納得すると、急に理由のよくわからない可笑しさが込み上げてきて仕方がありませんでした。


さて、なんとはなしに期待していた伊福部昭のあの有名な音楽は、残念なことにこの映画で聴くことはできませんでした。
あの、ジャッジャッジャッジャッというストラヴィンスキー風の原始的なリズムの上に、ラヴェルのピアノ協奏曲の第三楽章を思わせる無機質な音型が重なって、我々のゴジラのイメージの中では視聴一体のものになっています。
恐怖と楽しさがないまぜになった、まるでゴジラの凹凸のある皮膚そのものみたいな音楽。これのないゴジラというのは、どうにも収まりが悪いような気がしてしまいました。
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廃物利用は美徳?

以前にも少し触れましたが、最近の普及品ハンマーには、意図的にかなりの固さに仕上げられているものがあるようです。

これまで長らくマロニエ君の抱いてきた認識では、新しいハンマーはフェルトが柔軟で、弦溝も付いていないため、どうしてもはじめは音に芯がなく、鳴りもイマイチという期間を耐えてて過ごさねばならないというものでした。

そのため仕上げの整音では、弦の当たる部分にコテをあてるとか、適宜硬化剤などを用いるなどして、できるだけ明晰な音に近づけるよう、まずは技術者が尽力する。それが及ばない部分については、しばらく弾き込んでいくことで、徐々に本来の鳴りにもっていくという流れで、要はある程度の時が必要なものだと思っていたのです。

ところが最近のハンマーの中には、新品でもカッチカチの、はじめから硬質な音を出すものがあることは知りませんでした。よほど巻きが固いのかと思いきや、そうではないらしく、質の良くないフェルトを固形物のように固めてしまっているようです。

これじゃあ技術者の整音も高度な意味でのそれではなくなり、ただ硬い肉を突いたり叩いたりして柔らかくするような作業になるような気がしてしまいます…。

使い古したハンマーが、整音してもすぐにペチャッとした耳障りな音に戻ってしまうように、フェルトそのものに本来あるべきしなやかさがないとすれば、音質はもちろん賞味期限もたかがしれているでしょう。深みのある音などは望むほうが無理というべきですが、作る側も、使う側も、それをじゅうぶん承知の上なのかもしれません。

取りつけるピアノの品質もそこそこなのにもってきて、いきなり派手な音が出るし、価格も安い、×年ぐらい保てばいいとなれば、それで良しということなのか。

ピアノメーカーにしてみればそこそこの時期で買い換えてもらうためにも、ひょっとすると最近はこういうハンマーのほうがある意味主流なのかもしれません。
考えてみれば、新品ピアノでも、昔のようにモコモコ音しか出ないものは最近はまずお目にかかりません。自動打鍵機のような機械のお陰かとも思っていましたが、どうやらそればかりではないのでしょう。
新しいうちから、いかにも滑舌の良さげな明るくパリッとした音がいとも安易に出るのは、こういうハンマーで鳴らしているということなのか…。尤もハンマーに限らず、ボディや響板などもほぼ似たような品質で全体のバランスがとれているとすれば、別の意味ですごく良くできているということでもあり、そのあたりの技術力というのは大変なものなのかもしれません。

さらに、お客さんは弾いてみたときの、短時間で受ける印象が購入への重要な決め手になるでしょうから、売る側にしてみれば1年ガマンして弾いてくださいなどという悠長なことは云っていられないんでしょうね。

また天然資源は軒並み品薄で量産には適さず、価格も高値安定となれば、昔だったら検査ではねられて使わなかったようなものでも、今は加工して徹底的に使うのが常識なのだと思われます。ということは、響板はじめあらゆる部位も、およそ似たようなレベルだと考えていいのかもしれません。

大概のことなら廃物利用は美徳かもしれませんが、楽器作りもそれがあてはまるのかどうか…マロニエ君にはなんとも云えません。
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出しゃばりすぎない

2006年に「ピアニスト休止宣言」をしたミハイル・プレトミョフが、シゲルカワイとの出会いをきっかけに活動再開に至ったことは以前に書きました。

彼は今年5月、ピアニストとして久々の来日を果たし、そのことに関する本人のコメントが音楽の友の最新号のグラビアに掲載されていました。

それによれば、ピアニスト休止宣言をした理由を『当時のどのピアノの音にも我慢できなくなり、ピアニスト活動を止めました。けれども私はあるとき偶然にシゲルカワイに出会った』と語っています。

そして、シゲルカワイについては『このピアノは私がずっと求めていた、決して出しゃばりすぎない、そして繊細きわまりない音色をもっていました。そして何より私が100%コントロールできるポテンシャルがあって、しかもそれが自然。このピアノなくしてピアニストとしての私はありません。』
…とのこと。

プレトニョフほどのメジャーピアニストが活動の休止宣言したにもかかわらず、日本製の優れたピアノとの出会いが再開するきっかけとなったとなれば、もちろん日本人としてはそこを喜びたいわけですが、これを読んで、なんというか…その理由というのが…もうひとつ手放しで喜べるようなものかどうかよくわからない気がしました。

「どのピアノの音にも我慢できなくなり」に対して「ずっと求めていた、決して出しゃばりすぎない」というのは、どう受け止めればいいのか…。ピアノはピアニストの道具なんだから、分をわきまえてよけいな主張はするなという意味にも受け取れます。
これは考えてみるとプレトニョフが指揮活動に重点を置いてきたことにも関係があるのだろうか…と思ってみたりもしました。『私が100%コントロールできるポテンシャル』というのもしかりで、ちょっと悪い言い方をすれば、優秀なオーケストラは指揮者の指令通りに音楽を生み出す集団でもあるし、しかも団員一人ひとりが意志と技術をもって指揮者の意に添って演奏すれば、かなり高い要求を満たすことはできるでしょう。

ただ、カラヤンのような極端な例もあるように、指揮者は往々にして権力者と揶揄されます。権力は魔物であって、しだいにイエスマンを求めるようになり、その体質が個性あるピアノさえも彼の意向に背くものになっていったということなのかとも勘ぐってしまいました。

日本のピアノが褒められるのは嬉しいとしても、褒められている内容が最も肝心なところでしょう。シゲルカワイはピアノがでしゃばるほどの個性が無く、その点が素直で大変よろしいと、まるで命令通りにせっせと働く従順な社員がワンマン社長から頭を撫でられているみたいで、少しでも出過ぎたことがあったなら、たちまちお払い箱になるのかという気がします。

ふと家臣を道具としか見なさない織田信長を連想しましたが、はてプレトニョフに信長ほどの稀代の独創性や異才があるのかどうか…。

どうせなら、気に入った理由がもっと積極的にそのピアノの個性や魅力であってほしい気がして、これではまるで、自分のじゃまにならない程度に控え目で地味なピアノがいいといっているように解釈してしまうマロニエ君はへそ曲がりなんでしょうか?

個人的には、SK-EXより、その前のEXのほうがある意味でまとまりがあったようにも思いましたし「でしゃばりすぎない良さ」もむしろこちらのような気がしますが、それはともかく、マエストロはSK-EXを「ういやつじゃ」とお気に召したということのようです。

でも、あまり、でしゃばる云々を言い出したら、突き詰めればマエストロの演奏だって、作曲者から同じことを云われかねません。ベートーヴェンの第4協奏曲などはプレトニョフの解釈がでしゃばりまくりだったという印象しかないのですが…まあ自分はいいんでしょうね。
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リストの番組

先週のこと、BSジャパンで『フランツ・リストの栄光と謎 〜なぜ史上最高のピアニストと言われるのか〜』という2時間番組があり、大抵こういうものは見逃してしまうマロニエ君ですが、このときは運良く直前に気付いて録画することができました。

俳優の中村雅俊氏がナビゲーター役としてヨーロッパに赴き、リストの軌跡を追うというもので、この番組は生誕200年を記念した2011年の制作、今回はその再放送だったようです。
中村氏には適度な存在感と節度感があり、訪問先でも物怖じせず自然、よく頑張られたと思いました。

民放でこういう番組をやるのは珍しいこともあり、いちおう最後まで見ましたが、構成がいまひとつというか、ただあちこちに行ってはそこで待ち受ける人の話を軽く聞いて、ところどころで演奏を差し挟むという繰り返しで、期待したほどのものでもありませんでした。

こういうものを作らせると、やっぱりNHKは一枚も二枚もうわ手で、まずは中心となる主題があり、構成や監修が格段にしっかりしていることを痛感します。視る者の興味をうまく誘導する作りになっており、ところどころで深い部分に迫ったりしながら、番組進行がダレたり冗長になったりすることがないのが逆にわかります。
最大の違いは、ひとことで云えばクオリティで、番組制作にかける綿密な事前調査と企画力、さらにはお金と時間のかけ方がまったく違うということが如実に現れてくるようです。

その制作費に関連することで思い出しましたが、出だしからして映像に不可解な細工が施されているのが目につきました。冒頭の映像はピアニストによるラ・カンパネラの演奏の様子でしたが、このときのピアノはベヒシュタインだったものの、鍵盤蓋のロゴは遠目にもぼかしが入れられ、ピアノメーカーがわからないようになっています。

その後は、何度もスタインウェイが出てきましたが、ある一瞬を除いて、それ以外はすべて徹底的にロゴにはぼかしが入れられ、これらピアノメーカーの名は出さないという意志が働いているようでした。今やNHKでさえピアノメーカーのロゴは隠さない時代になっているというのに、このぼかしはちょっと異様でした。

ところが驚いたのはその後で、訪問先の音楽院などにあるヤマハにはぼかしはなく、二台並んでいるとなりのスタインウェイはしっかりぼかしを入れるという念の入れようです。その後、別の場所でもヤマハは堂々とロゴが写し出され、この露骨なまでの「差別」には恐れ入りました。さらには歴史的なピアノとして登場したベーゼンドルファーもぼかしは入りませんでしたが、2007年以降はベーゼンはヤマハの子会社なのでこちらはオッケーということがわかりやすいほどわかります。

エンディングのクレジットなどを見てもヤマハの名が出てくることはありませんでしたが、これはもう明らかにヤマハの意向が働いていることは明々白々です。
さらにいうと、なぜそれほど不自然なまでに他社の名を隠蔽しなくてはいけないのか、その偏狭さには驚くばかりです。

いまさらそんなことをしなくても、リストが存命中にヤマハを弾いたわけでなし、欧米にはスタインウェイはじめいろいろなピアノがあるのは現実なんですから、歴史的名器に混ざってヤマハも数多く見ることができるということのほうが、むしろヤマハの国際性が感じられて、よほど視る人の印象もいいと思うのですが…。

こういうことをあまり過度にやりすぎると、むしろ逆効果にしかならず、却ってこの世界に冠たるメーカーが未成熟な幼児的体質をもっているように見えて残念でした。
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お詫びのプロ

最近テレビを視ていて気になること…。

例の号泣県議や、逮捕された芸能人など、不祥事があるたびに「お詫びの仕方」についてあれこれの批判が聞こえてきます。
しかもそれが、一般的な礼節としてのお詫びとはどこか趣の異なるところに奇妙さを感じます。

近ごろはテレビ画面に露出するようなお詫びには一種のマニュアルのようなものがあるようで、その型に添ったものでないと批判の対象になるという気配を感じるのです。

薬物で逮捕された芸能人が仮釈放で出てきたときも、とりあえず逃げ隠れせず、スーツ姿で警察の正面玄関をまっすぐに出てきて、居並ぶマスコミのカメラに向かって深くお辞儀をし、その後横向きに立ち去っていきました。

すると後から「お詫びの言葉がなかった」「ファンへの謝罪の言葉があるべき」というような批判が飛び交います。しかしマロニエ君は個人的に、別にこのときの彼の態度がとくに問題とは思いませんでした。有名人ではあっても公人ではないし、犯した罪は専ら個人的なもので、だからこんなものだろうと思うわけです。
問題なのは彼の犯罪行為であって、いまさらわかりきったようなお詫びの言葉を並べてみたところで、それでどうとも思いません。神妙な面持ちで姿をあらわし、深く頭を下げたというのは、これはこれなりのお詫びと反省の態度だったと思います。
すでに社会的な制裁は受けているし、今後は法に基づいた裁判があり、それで償いを科せられるわけで、それでじゅうぶんではないかと思います。

ところが、最近は何かというと「お詫びのプロ」という人物が出てくるのは理解に苦しみます。
まるで、お詫びというものが専門分野であるかのようで、その指南役というような扱われ方でテレビに堂々と登場し、訳知り顔であれこれ発言するのは強い違和感を感じます。

歌舞伎役者が暴力事件を起こしたときも、企業や公的組織の不祥事に際しても、大抵この種のプロという人の指南が入っているようで、服装からお詫びの口上、お辞儀をする角度から、何十秒それを維持するなど、見ている側は、どれも決められた形ばかりを追っているようにしか見えません。
心底お詫びをしているというよりも、少しでも世間の心証を害さぬよう、マイナスイメージを最小限に食い止めるべく最良とされる演技をしているようです。

少なくともそれをやっている人の一連の所作と心底が一致したもののようには、マロニエ君の目には見えません。

それでも日本は建前が大切なので、表向きそういうお詫びと反省の態度をとりましたということが大切なのかもしれませんが、いかにも打ち合わせと練習によるシナリオ通りの演技をみせられているだけといった印象で、これで本当に納得する人がいるのかと思います。

号泣会見でいまや世界的にも話題になった県議の場合でも、この「お詫びのプロ」という人が番組に出てきて、プロ(お詫びの)の目からみて「あれは0点でした」などと、いちいち専門家目線でコメントをするのは著しい違和感を感じてなりません。誰の目にも著しく常識を欠いた振る舞いであったことは、わざわざ「プロ」の意見を聞かずとも明白で、そこにあえてコメントを取りにいくテレビ局の見識さえ疑います。

お詫びというものは、まさに心を尽くして許しを請うのが本質であって、それをプロの指南のもと型通りに進めようというのは、むしろ詫びるべき相手への精神的非礼を感じてしまいます。
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初期モデルが最高?

ふとしたきっかけで、さる知人から聞いた意外な話を思い出しました。

それによると、なんとピアノは「初期モデルこそ買い!」なのだそうです。

「初期モデル」というものは、例えば車のような機械ものでは敬遠すべきが常識であって、これを最初に聞いたとき、どういう意味なのか皆目わかりませんでした。

車では、新型にフルチェンジしたモデルなど、見てくれや数々の機構こそ新しさが満載ですが、その裏に製品としての不安定や、初期トラブルを多く抱えており、これを買うのは大枚はたいてメーカーのモルモットになるようなものだという共通認識があります。

メーカーではかなりの走行実験などを繰り返していますが、それでも実際に市場に投入され、多くのユーザーが使ってみることではじめてわかってくるものがたくさんあります。
とりわけ現代の車はコストと効率のせめぎ合いでぎりぎりに作られており、耐久性などもミニマムスペックで登場するとも云われています。

実際に車が販売され、ユーザーが使った結果がデータとして上がってきて、ここから対策が講じられて、必要が認められれば改良され、以降の生産にも反映されます。
必要に応じて、すでに販売された車にも問題箇所は改良パーツに交換されたり、もっと酷い場合にはリコールなどの対象にもなるわけで、自動車マニアでもこだわりの強い人達は、新型発表から最低2年は様子見をするというのがこの世界の常識でした。

そしてモデル末期は乗り味も向上し、最も完成度が高く、モデルによっては初期型と最終モデルでは基本は同じ車でも、別物のように磨かれています。洗練され、併せて信頼性もアップしているというわけで、マニアの中には、わざわざモデルチェンジ直前のモデルを狙い打ちに購入したりする人も少なくありませんでした。

ところが、ピアノでは「初期モデルこそ買い」という、車とは真逆の定理があるのはいかなることなのか。その根拠を聞いてみると、なるほどと納得させられるものでした。

ピアノの基本構造は100年以上前に完成形に達したもので、早い話が車のように新しい設計や機能が次々に投入されるわけでもなく、言葉ではニューモデルなどといっても、機構上の新しさなんてたかがしれています。

それでも、ごくたまにはシリーズ名がちょっと変わったり、プレミアムモデルが追加されたりということはあるわけで、その際メーカーは新シリーズの高評価を獲得する目的で、シリーズ出始めのモデルは、とくに入念に作られているということらしいのです。

はじめに高い評判を得ておくことが、その後の売れ行きに影響するのだそうで、だからピアノの場合は新型が出てしばらくの間のモデルは、格別気合いの入った出来映えなのだとか。

そこでの違いは材料であったり仕上げの手間などであったりするのでしょうが、たしかにピアノが基本の設計から変更になることなんて、そうめったにあることではなく、あとは材質や、製造時・製造後の手間(コスト)のかけ方が大きくものを云うようです。

すなわち発売初期に頑張っておいて、あとは少しずつ手を抜いていくということだろうかと思いますが、たしかにピアノはそれを少しずつやられても、なかなかバレない性質の製品ですから、これは大いに考えられる話だと思いました。

そういえば、デビュー当時より明らかに質が落ちてきたと感じるピアノが思い浮かぶので、やはりそうなのかもしれません。
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衝撃映像

すでに大勢の方がご覧になったと思いますが、兵庫県議会議員の野々村竜太郎氏が、政務活動費から不明朗な支出があることを指摘され、マスコミやテレビカメラを前に、47歳といういわば最も脂ののった男盛りの男性が、ママを探してさまよう幼児のように盛大に号泣したのはちょっとした見ものでした。

マロニエ君はこれを見て唖然としたのはもちろん、すっかりその様子にハマってしまい、何度でも見たくなる爆笑映像が天から降ってきたようでした。

2013年度の「政務活動費」として、なんと195回、約300万円にのぼる日帰り出張の交通費が税金から支出され、提出が義務づけられている領収書やメモは破棄したとのこと。
しかも、その大半が片道100kmほどの温泉への交通費だった由で、その凄まじい頻度は俄には信じられません。特別の予定がなければ、ほぼ毎日のように温泉に行っていたことになり、そもそも県議会議員とは、それほどヒマなのかとも思いましたが、とにかくそのあまりのお馬鹿ぶりには開いた口がふさがりませんでした。

温泉とはそんなにいいものなのか、あるいは温泉以外の行き先があったのか、真相はともかく、いずれにしろまことにチマチマした幼稚な仕事放棄ぶりでもあるし、来る日も来る日もこんなことに時間とエネルギーを注ぎ込むという感覚も尋常ではありませんね。

むろん政務活動費なるものを不正利用したとなれば怪しからぬ事ではあるけれども、ともかくその釈明会見があれだというのは、ただもうおかしいばかりで、腹も立ちませんでした。
というか、お陰で我が家もその話でもちきりで、ずいぶん笑わせてもらいました。

しかも4回の落選の後、5回目にしてようやく当選を果たしたのだそうで、「やっと議員になれたのにぃぃ…」という発言も、さらに幼児的で笑いに拍車がかかります。

いっぽうで、違和感を覚えたのはテレビの番組で、これを「おもしろかった」といったのはマロニエ君が見た限りではタレント風の女性一人だけで、あとはスタジオはもちろん、街の声も含めて、もっぱら不正支出の問題、義務づけられている領収書やメモがないことばかりを難しい顔をして云うだけで、野々村議員のこの常軌を逸した「特別の振る舞い」についてはあまり触れません。

せいぜい触れても、「恥ずかしいですね」「見ているこちらのほうが泣きたくなりますよ」などという真面目くさった言い方をするだけで、どうしてこんなにおもしろいものを素直におもしろいと云わないのかと不思議でなりません。

手当たり次第に道徳家よろしく尤もらしいことを云っておけば間違いないという体質が皮膚の奥まで染み込んでいるのか、あんな映像を笑わないほうがどうかしているとマロニエ君は思うのです。

おそらく外国だったら、大爆笑の渦が湧き起こることだろうと思いますし、泣き顔のTシャツのひとつやふたつ発売されてもおかしくはないでしょう。

社会の不正を追及することは大事ですが、笑うべきときに大いに笑うというのも、健全な社会の在り方として大事なことのような気がします。
日本人というのは、いざという場面でどうしてこうネチッと暗い民族なのかと思ってしまいます。

通常なら、兵庫県議という一地方の問題でしかなかった話を、全国的にはまったく無名の人物が、たったひとり、しかも一回だけの会見で、これだけ全国を注目させたのですから、いずれにしてもタダモノではないようです。
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ハンマーの違いは

ピアノのハンマーには様々な種類があるようですが、実際の違いとはいかなるものなのか…。
プロの技術者でさえ、この点を明確に把握している人は果たしてどれだけおられるのかと思われ、ましてや一般のピアノユーザーがそれを具体的に知る術はないに等しいでしょう。

多くの場合、名の通ったメーカーのものならまずは安心だろう、さらに価格の高いものほど上質だろうという、しょせんは「だろう、だろう」の世界ではないでしょうか。

ヤマハのような大メーカーはフェルトのみを輸入して、木部への巻き加工などは自社で行って自社製ハンマーとするそうですが、他のメーカーはどうなのか…。
カワイは、レギュラーモデルをベースに、海外メーカーの響板やイギリスのロイヤルジョージ社のハンマーを装着したモデルも販売しています。そうなるとレギュラー品はそれよりは劣っているような印象を受けてしまうユーザーも少なくないでしょうが、実際のところどの程度の違いなのか…。

このロイヤルジョージ・ハンマーは、以前ネット上で見かけたところでは、日本のフェルトメーカーがブランドごと傘下に納めて日本で作っているようでもあり、そうなると日本製ということになるのか。そのあたりの詳細は一向に明らかにされず、表向きは英国から輸入された特別なハンマーですよというイメージになっていますが、よくわかりません。

使用する響板によって音が決定的に違うのは当然としても、ハンマーの場合はものによって具体的にどういう変化が起こってくるものか、イメージとしてはわかるようでも、実際はわかっているとは言い難い状況だと個人的には思います。もちろん大きさの違いや巻きの硬軟からくる違いがあるのは当然としても、同サイズで同じような固さのフェルトの場合、あとは音質にどのような影響が出るものなのか、その微妙なところがもう一歩踏み込んだかたちで知りたいものです。

羊毛の質の良し悪しというのが当然ありますが、実際にそれが音としてどの程度の違いとして現れてくるのか、オーディオのアンプやスピーカーのように付け替えて比較するわけにもいかないので、これは容易に判断のつくものではありません。

羊毛といえば、これをハンマーに成形する際、高温で加工するのだそうですが、その高熱によって羊毛の質が落ちるとも云われます。そこで少量生産のメーカーでは、ローヒートプレスという昔ながらの方法で羊毛の繊維を傷めないように作られたハンマーがあるようですが、製造に手間がかかるために量産には向かず高級品とされているようです。

逆に安いハンマーの中には、低質な羊毛をやたらガチガチに固めただけのようなものもあって、それは木材における自然乾燥と人工乾燥、あるいは一枚板と集成材の関係にも通じるものがあるように感じます。

ピアノの音は、ボディや響板などがもたらす複合的なものでしかなく、ハンマーの違いだけを音として独立して知ることはできません。取りつけるピアノとの相性や技術者のセンスもあるでしょう。
とくにハンマーはその品質に加えて、針刺しなどヴォイシングの技術に負うところもあり、それにより結果は一変するでしょうから、どこまでが純粋なハンマーの品質によるものかを判じるのは、少なくとも一般人にとってその手立てはほとんど閉ざされたも同然で、やっぱり「だろう、だろう」になってしまいます。

なんとなくイメージするのは書道に於ける筆です。
一本百円かそこらのものから、何十万もする逸品までありますが、百円の筆でもちゃんと字が書けるという点では、それなりの機能は持っているわけです。
最高と最低の判別は容易でも、もっとも需要が多い中間レベルの優劣判断というのは極めて難しいところでしょう。
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B級グルメCD

タワーレコードを覗いてみると、バーゲン品を集めたワゴンが並ぶ一角に、さらに特別とおぼしきひとまとまりがありました。

そこはどうやら最終処分場らしく、見たこともないようなレーベルや演奏家のCDばかりが集められ、なるほどこれは常設の棚はおろか、セール対象にしても簡単には売れないCDであろう事は察しがつきました。

あまのじゃくのマロニエ君としては、そういう場所こそ捜索してみる意欲が湧いてくるというもの。しかもお値段は、元が2千円台の輸入物ですが、すべて454円と、732円という2種で、これは滅多にないチャンスと決死の気分になりました。

その中に、大きなパッケージ入りのスクリャービンのピアノ作品集の4枚組があり、これのみ1280円ですが、これがなんと「Estonian Classics」というエストニアのレーベルで、ピアニストもエストニアのVardo Rumessenという聞いたこともない人でした。
スクリャービンは、古いものではソフロニツキー、現役ならソナタではウゴルスキ、それ以外ではベクテレフのもので一応の満足を得ていたので、いまさらよくわからないピアニストのCDを買ってまで聴く価値があるだろうかという気持ちはありました。
しかし、エストニアといえばロシア圏では有名なエストニアピアノの生産国であり、もしかしたらこれはエストニアピアノの音が聴けるかもしれないと思った瞬間、購入する気になりました。

帰宅してすぐ、何枚も厳重に包まれたセロファンを引きはがし、ようやく中を開きますが、そもそもこのCDのパッケージは普通のCDの2倍の面積はあろうかという大きなもので、それを三面鏡のように左右に開くと、両端に上下2枚ずつのCDが左右に配置された4枚組となっており、真ん中がブックレットになっています。

凄まじいのはそのデザインで、後年は神秘主義に傾倒していったスクリャービンを表現しているのか、内も外も黒バックに無数の星がばらまかれたようで、ほとんどSF映画かクリスマスのようなでした。

さて、データの覧に目を凝らしますが、1枚目はスタインウェイ、2枚目は録音時期が入り乱れており使用ピアノは明らかにされてません。3枚目の17曲のプレリュードもスタインウェイですが、後半のソナタ3/4/5、および4枚目のソナタ6/7/8/9/10ではなんとブリュートナーでした。

Rumessen氏の演奏はエチュードなどでは、いまひとつ詰めが甘いというか完成度がもうひとつという感じでしたが、ソナタでは一転して集中力と燃焼感のある演奏で、とくに好きな4/5番などはずいぶん繰り返し聴きました。

残念ながら録音のクオリティが高いとは言えず、ピアノも最良のコンディションとは云いかねるものでした。それでも、スタインウェイは少し古いものと思われ、大雑把な調整ながらもよく鳴っていたのは印象的でしたし、なによりもブリュートナーによるスクリャービンというのは、マロニエ君にとっては初の組み合わせだったので、これが聴けただけでも買った甲斐があったというものです。

ソナタの演奏が特にすばらしく感じられ、作品、演奏、ピアノを統合して堪能できましたし、スクリャービンとブリュートナーの相性の良さは、まったく思いがけないものでした。

ブリュートナー特有の、音の中に艶のある女性的な声帯が潜んでいるようなトーンが、スクリャービンの音楽の、襟元が乱れたような魅力に溶け込むようで、妖しさがより引き立っていたようでした。調整がそこそこなのか、音色があまり洗練さず時には混濁気味だったりするものの、必要以上に整えられた音でないのも、こういう音楽にはむしろ風合いを添えてくるようで、作品とピアノの相性の良さに唸りました。

Rumessen氏はこういう効果を狙ってブリュートナーを選んだのか、たまたま録音する場所にブリュートナーがあったからそれを弾いただけなのか、そのあたりは疑問ですが、結果としてはとてもおもしろいCDでした。
エストニアの音は聴けなかったけれど、ブリュートナーが立派に代役を果たしてくれた気分です。
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