主治医さがし

ピアノが好きな知人で、マロニエ君とはまったく違う地域に在住される方が、昨年、東奔西走の末にめでたく中古グランドピアノを購入されました。
購入にあたって、弦やハンマーなど主立った消耗品が交換され、その上での納入ということになったようです。

納入後の調律も終わり、これからいよいよ自分好みのピアノに育てるべく、春ごろから主治医さがしが始まった様子でしたが、なかなかこれだという人が見つからないようです。
まったくのエリア違いから紹介もできず、せめてマロニエ君もネット検索を一時期お手伝いしましたが、これもやってみると簡単ではないことを痛感しました。

ピアノ業界に限ったことではありませんが、ブログなどでそこそこ好印象が得られても、それはあくまでネット上でのことで、実際に会って、顔を見て話をしてみないことには人というのはわかりません。
また、ひとくちに技術者(一般にいうピアノ調律師)といっても、技術の巧拙だけでなく、人柄、流儀、価値観、料金等々が実にさまざまで、要するに当たり外れがあるのも事実です。

長いスパンで釣り糸を垂れておけば、いつの日か自分が求める技術者と出会うこともあるかもしれませんが、これを短期集中的に探し、しかもハズレがないようにするとなると、これは一筋縄ではいきません。

そもそも技術者のHPやブログなどは宣伝目的であることがほとんどで、当然いいことしか書かれていないのは業種を問わず同じでしょう。さらに信頼できる業界筋の話によれば、本当に一流のピアノ技術者として周囲から認知されている人は、決してネット上には出てこない(一部例外あり)というジンクスがあるそうです。
それもあって、その人達の自意識としては、HPを持たないことが逆のステータスでもあるそうで、こうなるとますますもって主治医さがしは困難を極めます。

すでに、これまでにも数名の有名無名の技術者が下見にやって来たそうですが、各人でその見立てや価格にも少なくない違いがあったり、人間的にソリが合わないなど、決め手を欠いているとのこと。

ブログとはかけ離れた雰囲気であったり、技術者としての見識を疑うような発言、買ったばかりというのにいきなり別のピアノのセールスをする、やたら部品交換を必要と言い立てる、あるいはしっかりと自分の自慢話ばかりして帰った…等々で、どれも決め手に欠ける方のオンパレードのようでした。

さらに驚いたのは、費用もそれなりのものになるため、よく検討したいと伝えたら、いきなり逆ギレされた、あるいは穏やかな人が他の技術者の話題になったとたん態度を一変したなど、ちょっと信じがたいような内容が続いたことです。

いまや医師でも患者への丁寧な説明が求められ、セカンドオピニオンなども快く受け容れる時代であるのに、ピアノの技術者の世界では、素人は専門家の云うことに盲目的に従って当たり前といった旧態依然とした体質が根底に流れているのだろうかとも思います。

専門分野というものは、一般人がわからない世界だけに、なにより信頼できる人柄であることは特に大切な要素になります。
人によっては、相手が素人となると、専門知識を武器に成り行きをコントロールしようとする傾向が往々にしてあるのも否定できません。ご当人はアドバイスだといいたいところでしょうが、コントロールとアドバイスは似て非なるもの。
ここで言っておきたいことは、人は専門知識がなくても、自分がコントロールを受ける対象になると、本能的にそれを察知する能力があること、さらにそこに必ずしも専門知識は要らないということです。

つまり専門家が思うほど、シロウトは実はバカではありません。
専門知識はなくても、どこかが変、なにかが腑に落ちない、腰は低いが印象が良くない、言行一致していないなど、危険を知らせるシグナルが心の奥で点滅することが時として発生し、そんなときは潔くやめておいたほうが賢明です。

相手が専門家でも決して言いなりになることなく、自分の「勘働き」というのもは大事にすべきだというのがマロニエ君の持論です。
自分の勘に背いて、欲望を先行させたり、理屈を後付けしたようなとき、大抵は失敗しているなぁと自分で思うのです。
続きを読む

ディナースタイン

近ごろ、バッハ演奏で頭角をあらわしているシモーヌ・ディナースタインのゴルトベルクを買ってみました。
どうもモダンピアノで弾くゴルトベルクは、グールド以来、ニューヨークから発信する作品であるかのようで、以前書いたジェレミー・デンクも同様でした。

さて、このディナースタインはニューヨーク生まれのニューヨーク育ちで、学校もジュリアード、デビューもカーネギーホール、録音も、なにもかもがニューヨーク一色です。

グールドがレコードデビューしたゴルトベルクもニューヨークで録音され、その驚異的な演奏が世界中に衝撃を与えたことはあまりにも有名ですが、以降、まるでこの作品だけは住民登録をニューヨークに移してしまったかのようです。

さて、そんなニューヨークずくめのディナースタインですが、ゴルトベルクを録音するにあたってひとつだけニューヨークでないものがありました。これだけニューヨークずくしなのだから当然ピアノもニューヨーク・スタインウェイだと思いきや、なんと彼女が弾いているのは1903年製のハンブルク・スタインウェイで、これには却ってインパクトを感じます。

このピアノは、北東イングランドのハル市役所に所蔵されていたという来歴をもつ有名なピアノだそうで、数々のエポックなコンサートで使われ、2002年にはニューヨークのクラヴィアハウスというところで修復作業を受けたもののようです。
その音はとても温かみのある美しいものでしたが、どう聴いても響板が新しい音なので、修復の際に貼り替えられたのだろうと推測されます。マロニエ君としては、古いピアノ特有の枯れた楽器の発する美しい倍音に彩られた、威厳と風格に満ちたトーンを期待していましたが、そこから聞こえる音は無遠慮なほど若い響板の音のようにマロニエ君の耳には聞こえました。

もちろんボディやフレームは昔のものですから、それなりの味は残っていると見るべきでしょうが、どちらかというとアメリカという国はやわらかなピアノの音を好み、響板の張替にたいしても他国よりこだわりなくやってしまう印象があります。
個人的な印象では、やはりアメリカ人は本質的に消費の感性が染み込んだ民族で、響板も消耗パーツと見なして、問題がある場合はさっさと取り替えてしまう傾向を感じます。
先人の創り出したオリジナルを尊重し、それを極限まで損なわないよう心血を注ぎこむ日本人とは、目指すものが根本に於いて違うのかもしれません。

これが100年以上前のピアノ音だといわれても素直にそう思う気持ちにはなれませんが、単なる音としてはとても上品で豊かさに満ちた上質なものだとは思いました。ただ、響板という中心部分が新しいものに変わっているという違和感はマロニエ君にはどうしても拭えず、もう少し時間が経つとなじんでくるのかなぁという気がしないでもありません。

ディナースタインの演奏に触れる余地がなくなりましたが、母性的な包容力でこの大曲をふわり包み込み、やさしげな眼差しを注いでいるような演奏でした。そよ風のような穏やかなゴルトベルクで、この演奏にはこのピアノの馥郁たる音がよく似合っていることは納得です。

これはこれでひとつの完成された演奏だと思われますが、さりとて、とくに積極的に支持するというほどでもないのが正直なところです。
ゴルトベルクの複雑な技巧に対する手さばきや高度な音の交叉や躍動を期待すると、ちょっと肩すかしをくらうかもしれません。
この作品を弾くあまたの男性ピアニストのような技巧の顕示は一切ないけれども、逆に、この難曲からそれらの要素を徹底して排除して見せたという点が、もしかすると彼女なりの顕示なのかもしれません。
続きを読む

カテゴリー: CD | タグ:

慢心と油断

気に入っていた飲食店などで味が落ちるといった変化があると、心底がっかりするものです。

とくに長年親しんだお店で、質やサービスになにかしらの変化がおきると、それによる落胆と幻滅は、おそらくは店側が予想しているより遥かに大きなものとなります。

変化といっても、良いほうに変化することはそうはないわけで、大半は「低下」の方向を辿ることが通例です。それがわずかの違いであっても、お客側にとっては大問題となることに経営者は意外に鈍感で、むしろ僅かな差なら気がつかないだろうぐらいに高をくくっていたりします。
もうバレバレなのに、バレていないと思い込んでいる愚かしさは他人事ながら哀れです。

たとえば、マロニエ君が贔屓にしていたあるケーキ店があります。
ここは価格も法外ではないけれど、それなりに安くもない店です。それでも、たまに美味しいケーキを食べたいと思ったときは、その美味しさを優先してときどき買っていました。

ところが、ある時期から、すぐには気がつかないぐらいの微妙な変化が起こりました。ほんのわずかにサイズは小ぶりになり、味も表向きは変わっていないことを装っていますが、明らかに以前のような熱意やこだわりが感じられなくなりました。
あとから知ったことですが、このころデパ地下にも進出したようでした。

そこそこお客がついてくると、人はつい油断するものなのか、その味や営業姿勢に慢心の影が差し込んでくるのはがっかりします。ひとつ成功するとたちまち次の欲が出て、事業拡大やさらなる利益のことばかり考えているとしたら、もうそれだけで気持ちは冷めてしまいます。

そもそも美味しさとか魅力なんてものは、楽器のいい音と同じで、決して雲泥の差ではありません。「普通」との差はたかだか薄紙一枚の違いであったりするもので、つまりは、そのわずかのところに人は期待と価値を置いているものです。

レストランなども、店側の都合で料理人が変わったり、事実上の値上げなどで、質や量にわずかな変化が現れることがありますが、お客というのは、だから決してその「わずか」を見逃しません。

そもそもある店を贔屓にしているのも、いろいろな要素のトータルのところで「たまたま」そうなっているだけで、ある意味、ひじょうに微妙で危ういバランスの上に立っているにすぎません。よって少しでもそのバランスが崩れると、忽ちそこでなくてはならない理由が失われます。

つまりささいな変化は深刻で、いったんその変化や翳りを嗅ぎ取ると、まるで魔法がとけたようにその店に対する好感度が失われてしまいます。
これは飲食店以外にも言えることで、少しでも下降線を感じてしまうと、それが嫌でいっそ別のものへ流れます。少なくとも質の落ちた対価しか得られないとわかってしまうと、もう継続する気にはなれないのがお客の気分ではないかと思います。

「一度でも不味いものを食わせると、二度とその客は来ない」と云われるように、マロニエ君もずっとご贔屓にしていても、一度とは云いませんが、二度味が変わればやはりもう行く気になれません。
もちろんお店側にしても、そこにはいろいろな事情もあることでしょう。商売をする以上、利潤追求を否定することはできませんが、そういうとき、ある種の「勘違い」や「雑な判断」「見落とし」をしてしまっているように感じます。

馴染みのお客さんを維持していくことは、ある意味では新規の客を獲得するより、もっと難しいことなのかもしれません。
続きを読む

日本製表示

先日、久しぶりにヤマハに行くと、書籍売場の配置が変わっており、グランドピアノのすぐ傍まで音楽書が並ぶようになっていました。

C6Xの置かれたすぐ脇の棚を見ていると、ふとピアノの低音側の足の側面になにか金色の文字が書かれていることに気付きました。

何だろうと近づいて見ると、小さめの金文字で「Made in Japan」とありました。
ヤマハピアノは、云われなくても日本製だと思うのが普通で、だれもが日本の楽器の聖地である浜松およびその周辺で製造されているものと長らく思い込んでいたものです。

さて、いつごろからだったか、中国製などのピアノが尤もらしいヨーロッパ風のブランドを名乗って安価に販売され、営業マンの強引な口車に乗せられてこれを買ってしまい、あとから大後悔というような話もずいぶんありました。
その後は、やっぱり日本製のピアノが安心という認識が広がってきたものの、今度はその日本製の出自が怪しくなってきたということなのか…。

人件費など製造コストの問題から、近年は日本の大手メーカーのピアノまでも、一部はアジアに生産拠点を移すなどして、いわゆる日本製ではない日本ブランドのピアノが逆輸入されるようになっているそうですが、なかなかそんな裏事情まで詳しくはわからないものです。
本来、製造物には生産国表示が義務づけられていますが、ピアノは素材が輸入品であったりするためか、必ずしもこれがわかりやすく明示されているとは言い難い状況が続いています。

エセックスやウエンドル&ラングなども、中国製のピアノですが、そのことを隠してはいないにしても、正面切って明示されているとも思えません。少なくとも、その点についてはそう積極的には触れないでおきたいという売り手側の本音を感じてしまいます。
尤も、中国製を言いたくないのは、なにもピアノに限ったことでもありませんが。

ヤマハなども一部のアップライトなどはアジア工場製だったりすることが次第に知られるようになりましたが、そうなると全製品が疑いの目をもってみられることにもなるのかもしれません。

また、日本製であっても、内部のパーツやアッセンブリーは輸入品である場合も少なくないわけで、これはヨーロッパ製ピアノにも同様のことが云えるようです。要は世界中のピアノが世界中のパーツを使って作られているということでもあり、こうなると純粋に○○製と言い切ることはどのピアノに於いても難しくなっているようです。

そう厳密な話でなくても、主にどこで製造されているかという点では、日本の大手のグランドは日本製のようで、そこのところを明確にするためにも上記のような「Made in Japan」の文字がピアノ本体に明記されるようになったのだろうと思われます。
これはこれで、日本製ということがはっきりするのかもしれませんが、裏を返せば日本製じゃないヤマハピアノがありますよとメーカーが認めているようにも感じられました。
ともかくそんな時代になったということでしょう。

ちなみに、過日書いた「黒檀調天然木」の黒鍵は、新品のC6XやC5Xで見る限り、一時のような安物チックな代物ではなく、とても立派で、一見したところでは黒檀と見紛うばかりの仕上がりになっており、この点は驚きとともに認識をあらためなくてはと思いました。

ただし、先々の経年変化でどうなるのかまではわかりませんが…。
続きを読む

梅雨の辛抱

今年の梅雨は、全国の多くの地域が大変な大雨に見舞われ、ニュースではしばしばその状況などが報道されています。

「平年の1ヵ月分の雨がわずか1日で…」といったフレーズを短期間のうちにずいぶん聞いたような気がしますが、どういうわけか今年の福岡地方は降雨エリアから外れているようです。
まるで布団の中から足の先がわずかに出ているように、天気図に広がる低気圧から福岡はいつもちょこんと抜け出ていて、梅雨入りしたにもかかわらず、むしろ雨とは縁遠い毎日が続いていました。

ところが、月曜午後あたりから今度ばかりは「降りそうだ」という気配を感じました。
こんなブログの場で自分の健康に言及するのは甚だ趣味ではないのですが、マロニエ君は以前から慢性的な喘息体質で、とりわけ湿度に大きく影響されてしまいます。

湿度が高いと呼吸が楽ではなくなり、そういう意味では、マロニエ君が除湿器を始終回しているのはなにもピアノのためだけではないと云えそうですが、自分ではもっぱら「ピアノのため」という意識だけでONにしていて、結果として自分もちゃっかりその恩恵に与っているというかたちです。

不思議なのは湿度がいけないと云っても、だったら入浴などで不具合があるのかというと、それはまったくありません。専ら天候がもたらす湿度+αがいけないようで、その差がなんなのか自分でもよくわかりません。

さらに気が付いたことには、いっそ雨が降り出してしまえばまだしも落ち着く喘息ですが、雨になる直前のあのムシムシする状態が最も身体に悪いように思います。
おそらくは気圧やらなにやら、大自然が生き物に与える何らかの影響があるのかもしれません。

赤ん坊の出産とか人の最期も潮の満ち引きなどに関係があるとも云われますし、低気圧が近づくと古傷が痛むなんて人もあるようですから、私達はそういう大自然の法則の中に生かされていて、それに抗うことはできないようになっているのかもしれません。
だからこそ、なんとか梅雨の時期と仲良くやっていきたいところですが、その努力の甲斐もないほど影響があって嫌なので、それに較べると真夏や真冬はむしろサッパリした気分で過ごすことができるようです。
むろん個人差が大きいと思いますが。

そんなわけでこの季節のエアコンは、いわばマロニエ君の健康維持装置ともいえますが、エアコンも万全ではなく、一定温度に達するとサーモが働いてぬるぬるした空気が入ってきたりしますから、今度はそういう死角のないエアコンに交換したいところです。

もしマロニエ君が人も羨むような大富豪なら、べつに夏の避暑はしなくてもいいけれど、梅雨を避けるためにこの季節だけカラリとした外国へ行って、ピアノ屋巡りやオペラ三昧でもやってみたいものです。
朝の連続ドラマで主人公が「想像の翼を広げる」としばしば云いますが、マロニエ君がそれをやるなら、ヨーロッパをほうぼう回って、気に入ったものがあれば、戦前のプレイエルなどと一緒に帰国できれば、そりゃあもう、この世の極楽ってもんです。

…そんな夢物語を云ってみても、現実の梅雨はまだまだ当分は続きそうですし、そこから逃げ出す術はないわけで、なんとかこの時期を無事通過するよう気張るほかはなさそうです。
続きを読む

アラウの偉大さ

真嶋雄大氏の著作『グレン・グールドと32人のピアニスト』という著作の中で、意外な事実を知りました。

グールドといえば、まっ先に頭に浮かぶのはバッハであり、とりわけゴルトベルク変奏曲です。レコードデビューとなる1955年の録音は世界中にセンセーションを巻き起こし、ここからグールドの長くはない活躍が本格的なものになっていったのはよく知られている通りです。

マロニエ君がゴルトベルクを初めて耳にしたのも、むろんグールドの演奏からでした。

グールドよりも先にこの曲を全曲録音したのはチェンバロのワンダ・ランドフスカであることは知られていますし、ランドフスカと同時期にゴルトベルクを録音したアラウが、敬愛するランドフスカへの配慮から自分の録音の発売を辞退したことは、それからはるか数十年後にアラウのCDが発売されたのを購入して解説を読んで知りました。

ところが、この本によると、さらに驚きの事実が記されています。
なんと、ゴルトベルクの全曲録音はランドフスカこそが「史上最初の人」なのだそうで、それまではこの作品を全曲演奏し録音した人はいなかったというのです。さらに録音から40年間お蔵入りになったアラウのゴルトベルクは、モダンピアノで弾かれた、これもまた「史上最初の録音だった」ということで、今日これほどの有名曲であるにもかかわらず、その演奏史は思いのほか浅く、たかだかここ6〜70年の出来事にすぎないことには驚かされます。

ランドフスカのゴルトベルクはずいぶん昔に聴いてみたことはありますが、グールドの切れ味鋭い演奏が身体に染みついていた時期でもあり、そのあまりのゆったりした演奏にはショックと拒絶感を覚えてしまって、その後は聴いた記憶がありません。

それに対して、アラウのほうは特につよい印象はなかったものの、「モダンピアノでの初録音」というのを知ると、俄に聴いてみたくなりました。
ホコリの中からアラウ盤を探し出し、おそらくは20年以上ぶりに聴いてみましたが、モダンピアノ初などとは思えない闊達な演奏で、今日の耳で聴いてもほとんど違和感らしきものはありません。いかにもアラウらしい信頼性に満ちた演奏でした。

アラウについての記述にはさらに驚くべきものがあり、20世紀前半まではバッハをコンサートのプログラムに据えるというのはまだまだ一般的ではなかったにもかかわらず、彼は11歳のデビュー当初から平均律グラヴィーア曲集などを弾き、1923年にはバッハ・プログラムで4回のリサイタル、さらにベルリンでは1935年から翌年にかけてバッハの「グラヴィーア作品全曲」を弾き、しかも史上初の暗譜によるバッハ全曲演奏だったとありました。

かつての巨匠時代、アラウといえば、どこかルビンシュタインの影に隠れた印象があり、よくルビンシュタインを春に、アラウを秋に喩えられたことも思い起こします。
しかし、いま振り返ってみると、個人的な魅力やスター性とかではなくて、純粋にピアニストとしての実力という点でいうと、マロニエ君はアラウのほうが数段上だと思います。

アラウの膨大なレパートリーは到底ルビンシュタインの及ぶものではないし、味わい深く誠実でごまかしのないピアニズムは、今日聴いても充分に通用するものだと思われます。
そこへ一挙にバッハのグラヴィーア作品全曲がその手の内にあったとなると、その思いはいよいよ強まるばかりです。
続きを読む

カテゴリー: CD | タグ:

輸出で流出

海外における日本製ピアノの人気は、日本人が考えるものよりも、ずっと高いもののようです。

日本製ピアノは、日本国内ではべつにどうということもない普通の存在ですが、ひとたび海外に出ると事情は一変。とくにアジアではヤマハやカワイは中古でも高級品としての高いステータスを有して、ダントツの人気だとか。

だからかどうか不明ですが、朝、新聞を見るたびに驚くことは、ピアノ買い取りのためのド派手な広告が数日に1度というハイペースで掲載されていることです。
しかもその大きさたるや、全面広告(新聞の1ページをすべて使った大きさ)で、これほどの巨大広告をこれほど頻繁に繰り返し掲載するというのは、ちょっと異様というか、ただならぬ威力を感じてしまいます。

新聞広告の掲載料は安くはありません。
通常、全面広告はよほどの大企業などが、たまに出すことがある程度で、おいそれと掲載できるようなものではない。
ちなみにネットで広告料を調べてすぐにでてきたのが日経新聞で、全国版の朝刊での全面広告料は、なんと1回2千万を超えています。(ちなみに我が家は日経ではありませんが)

もちろん新聞社によっても、地域によっても、あるいは掲載の回数によっても多少の違いはあるようですが、いずれにしろとてつもない金額であることは間違いありません。

ピアノ買い取りはいうまでもなく、家庭などで弾かれなくなったり、いろいろな事情からピアノを手放す人からピアノを安く買い取って(中にはタダ、もしくは処分料を請求されるケースもある由)、その大半が近隣国などへ輸出するための、いわば商品仕入れです。
それがこれほどの広告料を払ってでも成り立っていくと云うことは、相当大きなビジネスであろうことは察しがつくというものです。

この中古ピアノ輸出業者も大小あるらしく、中には単なるピアノ販売店だったところがピアノ輸出業に転じたというようなケースもあるようです。市場規模が縮小するいっぽうの日本国内で地味な商売をするよりは、よほど利益も上がってやり甲斐があるということなのでしょう。

とくにアジア諸国では、日本のピアノは高級ブランド品であり、中古でも圧倒的な人気があるようです。日本ではもうひとつその実感はありませんが、中国でピアノ店などを覗いた経験でも、そこで見る日本のピアノは特別な存在感があり、その人気のほどをひしひしと感じることができます。

日本で売れないものが他国では超人気となってバンバン売れるとなれば、それっとばかりに中古ピアノの輸出ビジネスに人が群がり、夥しい数の日本製ピアノが海を渡っていったようです。
さすがにピークを過ぎた観もありますが、上記のような新聞広告を数日に一度は目にさせられると、依然としてその流れは止まっていないようにも思います。

この怒濤のような中古ピアノ輸出の煽りから、まるで伐採のし過ぎで森がはげ山になるように、日本ではとくに中古ピアノの流通量がかなり減ってしまっているようです。
当然のように需給バランスで価格は上がり、とりわけグランドはいまや業者間の卸価格が高騰しているという話さえ聞きます。

売れる相手に売るというのはビジネスの厳しい掟であって、そこに感傷を差し挟む余地はないのでしょう。しかし国内の中古ピアノが枯渇して価格変動をおこしてしまうまで海外へ売り尽くすというのは、どことなくやりきれないものを感じます。
続きを読む

これでいいのだ

大型電気店といっても、昔のように純粋に音楽用のオーディオ売り場が堂々と店内に陣取っているわけではないのが当節で、むしろこれがない店舗のほうが多数派のようです。
とりあえずDALIの取り扱いのある店を調べ、聴いてみたいCDをいくつか選び、いざ出発。

ネットでずいぶん読んだのは高い評価がほとんどでしたから、さぁどれ程すばらしい音だろうかと期待を胸に売り場に行くと、危惧していた以上にそこは雑音と喧噪に満ちた環境で、早々に怖じ気づいてしまいました。

こんな中でスピーカーの微妙な特徴とか良し悪しがわかるとも思えなくなりましたが、さりとて他に試す場所があるわけでもありません。

せっかく足を運んだことでもあり、仕方がないのでとりあえず聴いてみるしかないと覚悟を決め、お店の人に来意を告げると、快く持参したCDを鳴らしてくれました。

壁一面には40種ほどの小型スピーカーがぎっしり並んでおり、目指すスピーカーの番号をボタンで押しました。…が、やはり周りの雑音がじゃまをしていまいち判断できません。
お店の人はすぐに立ち去りましたので、「あとはご自由に」ということだと解釈して、ボリュームも好き勝手に調整しながらあれこれのスピーカーを試しました。

たしかにDALIのスピーカーは相対的に悪くないとは思うけれど、スピーカーの判断基準などもわかりませんし、もっぱら自分の好みだけが頼りです。
その好みで云うと、わざわざ何万も出して買う価値があるだろうか…というのが率直な印象でした。(もちろんこの試聴環境の中では繊細さなど、伝わらなかった面も大いにあろうかとは思いますから断定はできませんが。)

もうひとつの理由は、どのスピーカーも通常の箱形スピーカーなので指向性があり、音がこっちめがけて向かってくるわけですが、無指向型に身体が慣れて、それがどうも嫌になってしまっている自分に、ようやくこのとき気がつきました。30分以上聴いたところでひとまずおいとますることに。

福岡には、なんでも全国のオーディオマニアの間で知られた有名店があるようで、なんと自宅から車で5分ほどの距離であること、さらに、そこではこのDALIにこの店独自のカスタマイズをしたスペシャル仕様まで販売していることも、ごく最近知りました。

価格もそれほどでもないので、いよいよとなればここに行ってみようかとも思いつつ、オーディオマニア御用達の店など、門外漢のマロニエ君には敷居が高くて入店するのはどうにも気が進みません。あげくにそれを中国製デジタルアンプとポータブルプレーヤーに繋ぐなんて云おうものならどんなことになるやら…と思うとさらに気が重くなります。

電気店の帰りに、このお店の前を車で通ってみると、見るからに一見さんお断り的な、用のない人は近づくことすら拒絶しているような雰囲気でした。建物の多くは分厚い壁に覆われていて、中の様子はまったく窺い知ることはできません。唯一、細長いガラス戸と灯りがあるのみ。少なくとも気軽に入れる店ではないことはわかりました。

…。
帰宅して、食事をして、自室に戻ってアンプをONにし、電気店であれこれのスピーカーで聴いたフーガの技法を自作のスピーカーを鳴らしてみると、やっぱり悪くないなぁというのが偽らざるところでした。
音質はともかく、やはり円筒形の無指向型スピーカーから出てくる、やさしい自然な音の広がりによる快適さは、極端にいうなら何時間でも聴いていられるもので、一度これを耳が覚えるとなかなか脱することはできないようです。

かくして、しばらくはまたこのスピーカーで音楽を聴いていくことになりそうです。
続きを読む

これでいいのか

マロニエ君は人一倍音楽やピアノが好きなのに、オーディオにはさっぱり凝らないことは自分でも不思議ですが、興味が薄いものはしかたがありません。

メインのオーディオはずいぶん昔に買い揃えたもので、そのときに一応それなりのものを揃えて満足しており、それ以上、あれこれと手をかけようとも思いません。

それどころでないのが、もっぱら自室で聴いている装置です。
スピーカーは自作の円筒形スピーカーで、アンプは中国製のデジタルアンプ、CDプレーヤーに至っては長らくDVDプレーヤーを繋いで聴いていましたが、これがあまりの酷使で壊れてしまい、現在は丸いポータブルプレーヤーに変わっています。

まるでハチャメチャな取り合わせで、どんな酷い音かと思われそうですが、自分ではそれほど悪いとも思っていません。部屋の広さにも合っているし、ここで以前使っていたそこそこのヤマハのミニコンポよりも遥かに好ましい音だと勝手に思い、これに切り替えて既に2年ほどが経ちました。

メインの真っ当な装置で再生するのとは小さくない差があるものの、自分ではそれなりに気に入ってはいるので、これはこれで良しとしていましたが、最近はDALIなどのコストパフォーマンスに優れた評価の高いスピーカーがあるようで、これがちょっと気になりだしたのです。

それに、多くの音楽を聴くのが自作スピーカーとあっては、さすがに演奏者や製作者の方々にもなんだか申し訳ないような気がしないでもないし、一度ここらで一定の評価のあるスピーカーを揃えてみても良いだろうという考えが芽生えてきたのです。
スピーカーは直接音を出す機材で、ピアノでいえば響板に相当するところでしょうから、これが自作というのはそれなりに気に入っているなどとは云ってみても、やはり心もとないことも否定できません。

今はこれに耳が慣れているけれど、たまには同じ環境の中で普通のスピーカーを聴いて、感覚をリセットしておいたほうがいいような気がしてきたのです。
そのためにもDALIの高評価を得ているスピーカーあたりなら決して高いものではないし、いちおう買っておくことが意味のあることのようにも思われます。

DALIもいいけれど、その前に、とりあえず普通のスピーカーを一度聴いてみようと思いました。しかし、すでにヤマハのミニコンポは別所に移動してしまっていて、おいそれと元に戻すことはできなくなっています。

そこで、今は使っていないaiwaの小型スピーカーを引っぱりだしてひとまず繋いでみることにしました。しかしスピーカーコードなどは大掃除の折に処分してしまっており、やむを得ずホームセンターに行って切り売りのコードを買って来ました。

普通のコードでもそこそこのオーディオなら充分役立つし、むしろこちらを好むマニアの方もいらっしゃるようで、最近では商品タグにも「オーディオにも使用可能」ということが付記されています。なにより安いし、急場はこれに限ります。

というわけで久々に普通のスピーカーを鳴らしてみましたが、そこから出てきた音は、予想に反してとても耳に障る音質で、咄嗟に「これはお話にならない」と思いました。
昔ずいぶん使ったスピーカーであるだけに、こんなものを使っていたのかと思うと、昔の自分にゾッとするようで、もうその勢いでこのスピーカーを捨てたくなりました。

もっとも嫌悪した点は、音が耳の奥というか頭の中心に突き刺さってくるようで、これは聴くなり大変ショックでしたし、 さらにものの10分ぐらいで本当に頭が痛くなってくるようでした。

やはり変な事をせずに、さっさとDALIの人気モデルを試してみるしかないと、大型電気店に出向く決心がつきました。

─続く─
続きを読む

過熱するコラボ

BSプレミアムシアターで、今年4月ジャズピアニストの小曽根真氏が、ニューヨークのエイブリーフィッシャーホールのコンサートに出演し、ラプソディ・イン・ブルーを弾く様子を見ました。

エイブリーフィッシャーホールはニューヨークフィルの本拠地で、当然オーケストラはニューヨークフィル、指揮はアラン・ギルバート。当然といえば、ピアノも当然のようにヤマハでした。

マロニエ君は小曽根氏のジャズに於ける実力がどれ程のものか、わかりませんし、知りません。
ただ、数年前モーツァルトのジュノーム(ピアノ協奏曲第9番)ではじめてこの人のクラシックの演奏を聴き、折ある事にクラシックにも手をつけているのはよく知られているとおりです。
その後はショスタコーヴィチのピアノ協奏曲第1番、そして今回のガーシュウィンを聴くことになりましたし、ネットの情報では、ドイツではラフマニノフのパガニーニ狂詩曲まで弾いたとか。

最初のモーツァルトのジュノームでは、珍しさもあってそれなりに面白く聴くことができましたが、ショスタコーヴィチではピアノがあれほど華々しく活躍する曲であるのに、いやに引っ込み思案な演奏だった印象があります。
そして、今回のガーシュウィンではさらに慎重な、失言のないコメントみたいな演奏で、とてもジャズピアニストのノリの良いテンションで引っぱっていくというような気配は見られませんでした。
なにより演奏者がいま目の前で音楽を楽しんでいるという様子がなく、ひたすら安全運転に徹していたのはがっかりです。

それなのに、ときどき指揮者と満面の笑みでアイコンタクトをとったりするのが、なんだかとてもわざとらしく見えてしまいました。

こういう畑違いのピアニストが登場する以上は、少しぐらいルールからはみ出してもいいから、クラシックの演奏家にはないビート感とかパッションを期待しがちですが、ものの見事に当てが外れました。果たしてニューヨークの聴衆の本音はどうなのかと思います。

曲のあちらこちらには小曽根氏の即興演奏のようなものがカデンツァとして盛り込まれていましたが、前後の脈絡がなく、それなのに、すべては「台本」に入っていることのように感じます。しかもそれが何カ所にもあって、冗長で、ラプソディ・イン・ブルーとはかけ離れた時間になってしまったようで疑問でした。

ジャズピアニストの中にも本当に上手い人がいるのは事実で、小曽根氏の憧れとも聞くオスカー・ピーターソンなどは、それこそ信じられないような圧倒的な指さばきと安定感で、それが天性の音楽性と結びつくものだから聴く者を一気に音楽の世界に連れ去ってしまいます。
キース・ジャレットのバッハにも驚嘆したし、チック・コリアの演奏にも舌を巻きました。

せめてそういうジャズの魅力の香りぐらいはあってもいいのではないかと思うところですが、小曽根氏のピアノは、少なくともクラシックを弾く限りに於いてはむしろ活気がなく、個人的には退屈してしまいます。

それをまた「絶賛の嵐」というような最上級の賛辞で褒めまくりにされるのが今風です。
当節はその道のスペシャリストが高度な仕事をしても正統な評価はされず、人も集まらないので、主催者も話題性という観点からコラボなどに頼っているということなのか…。

ただアンコールになると、人を楽しませる術を知っている人だということはわかりますし、本人も俄然本領発揮という趣でした。そういう意味ではなるほどエンターテイナーなのかもしれませんが、クラシックは伝統的に演奏そのものが勝負という一面がどうしてもあるので、その点ではいかにも苦しげに見えてしまいます。

コンサートって、やはりいろんな意味で難しいもののようですね。
続きを読む

本来の作法

モーストリー・クラシックの6月号をパラパラやっていると、へぇという記事に目が止まりました。

2006年、ベートーヴェンのピアノ協奏曲全曲をライブで収録した後、ピアニストとしての活動休止宣言をしていたプレトニョフが、モスクワ音楽院にあるシゲルカワイ(SK)-EXとの出会をきっかけに、再びピアノを弾く気になったというものです。

ロシアのピアニストで指揮者のミハイル・プレトニョフは、1978年のチャイコフスキーコンクールのピアノ部門で優勝、初来日公演にも行きましたが、そのテクニックは凄まじいばかりで、演奏内容もきわめて充実しており、ただただ驚嘆させられた記憶があります。

これは近い将来、間違いなく世界有数の第一級ピアニストの一人になるだろうと確信したほどです。ところが何年たっても期待ほどの活躍でもないように思っていたら、ロシアナショナルフィルを創設して、もっぱら指揮活動に打ち込むようになり、「ああ…そっちに行ったのか」と思っていました。

ピアニストとしてあれほどの天分を持ちながら、オーケストラを作って指揮に転ずるとは、ご当人はやり甲斐のあることをやっているのだとは思いつつ、ピアニストとしての活躍に期待していた側からすれば少々残念な気がしてたものです。

ところがそのプレトニョフ率いるロシアナショナルフィルは望外の演奏をやりだして、ドイツグラモフォンから次々にロシアもののCDがリリースされました。チャイコフスキーやラフマニノフのシンフォニーなど、かなりの数を購入した覚えがあります。
まったくピアノを弾いていないわけでもなかったようですが、オーケストラの責任者ともなればピアニストをやっている時間はないのだろうと思っていると、伝え聞くところでは、近年は自分が弾きたいと思うピアノ(楽器)がなくなってしまったことがピアニストとしての活動を減ずる大きな要因になっている旨の発言をしたようです。

その証拠に、2006年のベートーヴェンのピアノ協奏曲では、普段なかなか表舞台に登場することの少ないブリュートナーのコンサートグランドが使われています。聴いた感じでは、まあ楽器も演奏もそれなりという感じでしたが…。

プレトニョフがこの録音の後にピアニスト休止宣言をしたということは、ブリュートナーさえも彼の満足を得ることはできなかったということのようにも解釈できます。

そんなプレトニョフにSK-EXとの邂逅があり、昨年はそれが契機となってモスクワでリサイタルをやった由、よほどの惚れ込みようと思われます。その後はロシアナショナルフィルとの来日でカワイの竜洋工場を訪れ、そこでなんらかの約束ができたのかもしれません。

雑誌によれば今年5月には7年ぶりのアジアでのピアニスト再開ツアーを行う(すでに終了?)とのことで、カワイのサポートのもとにリサイタルやコンチェルトなどが予定されているということが記されていました。

マロニエ君はSK-EXによるコンサートは何度も聴いていますが、コンサートグランドとしては率直に云ってそれほどのピアノとも思っていませんが、それはそれとして、ピアニストが楽器にこだわるというのは非常に大切な事であるし、それが当たり前だと思います。
演奏家がこれだと思う楽器で演奏し、それを聴衆に聴かせるということは、少々大げさに云うなら演奏家たるものの「本来の作法」だとも思います。

例えばヴァイオリニストが身ひとつで移動して、各所で本番直前にはじめて触れるホール所有のヴァイオリンで演奏するなんて、そんな非常識はおよそ考えられませんが、ピアニストは実際にそれをやっているわけです。すべてはピアノの大きさに起因する物理的困難、さらにはそれが経済的困難へとつながり、多くのピアニストは理想の楽器で演奏することを断念させられ、楽器への愛情さえも稀薄になってしまっているように…。

でも、本来は人に聴かせるコンサートというものは、それぐらいの手間暇をかけるものであって欲しいと思います。
続きを読む

怪しい楽譜

マロニエ君はろくに弾けもしないのに楽譜を買うのは嫌いではありません。
楽譜は一度買えば半永久的で、できるだけたくさんあるほうが何かと役立つし、曲を知るための大事な手がかりにもなります。
従って、音楽好きにとっては、楽譜の蔵書は大げさに云うと一種の財産だと思います。

ところが、ここ最近の印象では楽譜はけっこう高額で、以前のようにおいそれと買えるようなものではなくなってきているように感じますし、知人なども皆同意見で「高い」「高すぎる」という声がすぐに返ってきます。
国内出版社のものならまだ大したことはないものの、それでもウィーン原典版などはそれなりで、さらに輸入物となると、プライスを見ただけで買う気が萎えてしまうようなものが少なくありません。

多売が期待できるものではないから、高価になるのは仕方がないという需給バランスの結果だと云われればそれまでですが、ほんらい著作権などが切れた歴史上の作曲家の楽譜であるのに、薄いペラペラの楽譜がン千円などというのがザラで、あんまりな気がします(校訂者の版権などがどうなるのかは知りませんが)。
それでも、プロの演奏家であれば楽譜はいわば商売道具であり、高くても買わざるを得ないでしょうが、アマチュアには絶対必要という理由もなく、そもそもよけいなものを買っているので、値段で断念してしまうこともあるわけです。

そんなときこそ、ネットが強い味方になりそうなものですが、実は楽譜に関してはそれほどでもなく、他の商品のように安くゲットするのは容易ではないようです。アマゾンなどは海外から直接送られるケースもありますが、楽譜はここでもやはり高価で、ヘンレ版などはそれほどお買い得のようにも思えません。

さて、このところシューベルトのヴァイオリンとピアノのための幻想曲D.934の楽譜がほしくなり、ヤマハを覗いてみましたが、お値段以前にその曲そのものがありませんでした。
べつに目的があるでもなし、ただなんとなく欲しかっただけなので注文してまで買うほどの熱意もなく、値段もわからないので、いったんお店を引き上げました。

帰宅して、ものは試しとばかりにアマゾンで検索してみると、なんと送料込み1000円強という望外に安い輸入楽譜を発見!「さすがアマゾン!!」と感激してさっそく注文しました。

10日ほども経ったころでしょうか、ポストにそれらしきものが投下されており、勇んで中を開けてみました。
取り出した瞬間の第一印象が、なんとなく普通の印刷物ではないような気配を感じました。もちろん、いちおう厚紙のカラーの表紙があって、中の製本もきれいですが、醸し出すものが、なんとなく正統なものではない気配を感じたのです。

中を見てみると、白い紙の上の、音符や五線の黒だけがピカピカと妙な光沢を帯びており、これはコピーでは?とまっ先に思いました。
まあ、値段は安いし、安く買えたのだからいいか…と半ば納得しながら、さっそくピアノに向かってポロンポロンと試し弾きしていると、数ページ進んだところで「ええっ!?」という箇所に出くわしました。

なんと、あちらこちらに手書きの指使いがたくさん書き込まれていて、その書き込みまでコピーになっていますから、やはり初めの危惧は当たっていたと思いました。

封筒の発送元をみてみると、日本のアマゾンから発送されていることがわかり、もともと、どこからやってきたものなのかはわかりません。
でも裏表紙には尤もらしくバーコードも付いているし、「Printed in the USA」とあって、いちおうは流通する商品のような気配も窺えないでもない。

とかなんとかいってみても、要はただの楽譜なのでマロニエ君個人はべつに構いませんが、これはやはり本来はまずい商品なのではという疑念も消えたわけではありません。
ふとアマゾンに問い合わせをしてみようかとも思いましたが、それで回収などという流れになったら、それはそれでイヤなので、それもしませんでした。

でも、中には「本書は、著作権があり、許可なしに複製することはできない。 この本のための資料は、大英図書館から提供されている。」というような意味のことが英語で書かれていて、しかるに指使いの書き込みがあるなど、ますますその怪しい感じが強まりました。
続きを読む

ご立派!

現在の日本では、もはや老大家の部類に入るであろうピアニストの著書を読了しました。

毎度のことで恐縮ですが、やはり今回も実名をわざわざ書こうとは思いませんので悪しからず。

マロニエ君は残念ながらピアニストとしてこの人の演奏が好きだったことはこれまで一度もないけれど、以前、この人のファンクラブのお世話役をされている方から、このピアニストが出した本をいただいて、せっかくなので読んでみたことがありました。

そのときの感想は、内容云々より、その自然な語り口というか、力まないきれいな日本語の文章で綴られているところが意外で、演奏よりそちらのほうがよほど好印象として残りました。

さて、今回の本は書店では目にしていたものの、まともに買って読む気はなかったところ、たまたまアマゾンで本の検索をするついでにこの人の名を入力してみると、あっさり中古本が出てきました。
価格もずいぶん安いので、ちょっと迷いつつも遊び半分に[1-clickで買う]を押してしまったのでした。

ほどなく、ほとんど新品のような本が届きました。

さっそくページを繰ってみると、ああこの人だと覚えのある文章でした。内容には感心がないのでさほど熱心に読む気にはなれなかったものの、別の本に飽きたときに、ちょっとこちらを開くという感じで、のろのろしたペースで流し読みのようなことをしていましたが、読み進むうちに、なんだかふしぎな違和感のような…なんともつかないものを感じ始めました。

文章そのものは相変わらずおだやかで、率直さと、いかにも文化人風の雄弁さがあるけれども、なにか根底のところに自分とは相容れないものがあり、それを意識しだすと、その違和感はしだいに確実なものとなりました。やがて本も佳境に入る頃には、もうそればかりが意識されます。

それをひとことで言うのは躊躇されますが、強いて云うと、その飄々とした自然な感じの文体が、まるで巧みなカモフラージュであるように、大半がご自分の自慢話に終始していることでした。
表向きは、ただ音楽が好きで、ピアノが好きで、美しい自然を愛し、名声や贅沢には興味もなく、常に自然体、心もすっかり脱力しているといわんばかりの語り調子に見えますが、その奥に確固とした野心の働きが見え隠れすることはかなり驚きでした。

やわらかな文章を思いつくままに綴っただけですよ…というその中に、狙い通りの裏模様を出す糸をそっと織り込むように、言いたいことはサラリと臆せず遠慮なく、しかも確実に語られていくのは呆気にとられました。
そんならそれで、こっちもその気構えをもって読むと、上辺のイメージと、巧みに隠されたマグマのような野心の対比は却って面白いぐらいでした。

人は歳をとれば丸くなるもの、俗な贅肉はそぎ落とされるものと思ったら大間違いで、慎みや遠慮や謙譲の心が失われているのは、なにも現代の若者だけではないことがわかります。むしろ今どきのスタミナのない若者なんぞ、とてもこのご老人には敵わないと思います。
それで思い出したのですが、この方の表面的なイメージからは俄には信じられないような噂を、これまでにもいくつか聞いたことがあり、そのときはへええと笑って過ごしましたが、今にして深く納得してしまいました。

誤解を恐れずに言うと、ピアニスト稼業なんてものは、それぐらいの図太さ逞しさがなくてはやっていけないものかもしれないとも思いました。
続きを読む