ふたつのSTEIN

ほぼ同時期に買った2つのCDが期せずしてシューベルトのピアノ曲となり、驚くべきは「さすらい人」「3つのピアノ曲」など、収録時間にして全体の約半分が重複しており、この偶然にはびっくりでした。

そもそもマロニエ君は曲云々で選ぶというより、直感的に「聴きたいと思う決め手がある」かどうかが購入のポイントです。
その結果、思いがけない直接比較が出来ることと相成りました。

ひとつはフランス人のベルトラン・シャマユで、ピアノは2005年あたりに製造されたスタインウェイD-274を弾いたもの、もうひとつは先日も書いたロシア人のユーラ・マルグリスの演奏で、ピアノはバイロイトの名器、シュタイングレーバーの弱音器つきD-232です。

共通しているのは、両者共に男性の中堅ピアニストであり、ソナタ以外のシューベルトを演奏しているという点でしょうか。

弾く人によって、同じ曲でも大きく印象が異なることは当然ですが、ほぼ同時期購入という意味で、否応なく比較対象となってしまいました。

両者の演奏は、まず洗練と無骨という両極に分かれます。

【ベルトラン・シャマユ】
シューベルトの息づかいや心の揺れをセンシティヴに音にあらわし、泡立つような可憐な音粒で演奏。そこにある洗練は専らフランス的なセンスと明るさが支配して、ある意味ではショパンに近いようなスタイルを感じることもある。隅々まで細やかな歌心と配慮に満ちた神経に逆らわない演奏。
リストによるトランスクリプションでは折り重なる声部の歌いわけも見事。
大きすぎないアウディかレクサスでパリ市内を流してしているようで、目指すはオペラ座かルーブルか。

【ユーラ・マルグリス】
作曲者や作品の研究や考証というより、むしろ自分の意志やピアニズム表現のためにシューベルトの作品を使っているという印象。緩急強弱、アクセント、ルバートなど、いずれも、なぜそこでそうなるのか、しばしば意味不明な表現があり、恣意的な解釈を感じる。
ロシア的感性なのか、重々しい誇張の過ぎた朗読のようで、何かを伝えたいのだろうがそれが何であるかがよくわからない。
ベンツのゲレンデヴァーゲンで田舎へ出むき、何か専門的な調査しているかのよう。

ただし、ピアノという楽器の素朴な魅力に満ちているのはシュタイングレーバーで、スタインウェイは比較してみるとピアノというよりは、もう少し違う音響的な世界をもった楽器という印象をさらに強めました。

全体を壮麗な音響として変換してくるスタインウェイとは対照的に、シュタイングレーバーは聴く者の耳に、一音一音を打刻していくような明瞭さがあります。ハンマーが弦を打ってその振動が駒を伝わり響板に増幅されるという、一連の法則をその音から生々しく感じ取ることができるという点では、いかにもピアノを聴いているという素朴な喜びが感じられます。

むしろシュタイングレーバーにはピアノを必要以上に洗練させない野趣を残しているのかもしれません。良質の食材もアレンジが過ぎると素材の風味が失われるようなものでしょうか。
これに対して、スタインウェイははじめから素材の味を飛び越えて、別次元の音響世界を打ち立てることを目指し、それに成功した稀有なピアノという印象。

それはそうだとしても、このCDに使われた時期のスタインウェイには、もはやかつてのようなオーラはなく、不健康に痩せ細った音であることは隠しようもありません。公平なところ、このメーカーの凋落を感じないことはもはや不可避のように思われます。
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ティル・フェルナー

ことしの2月、サントリーホールで行われたN響定期公演から、ネヴィル・マリナー指揮のモーツァルト・プロによる演奏会の模様が放送されました。

前後の交響曲の間に、ピアノ協奏曲第22番KV482が挟まれました。
ピアノはウィーンの新鋭(中堅?)、ティル・フェルナー。

この曲はマロニエ君がモーツァルトのピアノ協奏曲の中でもとくに好きな作品のひとつで、この時期はフィガロの作曲もしていたためか、どこかオペラ的でもあり、フィガロの折々の場面を連想させるような部分も個人的にはあると感じています。

ネヴィル・マリナーの指揮は、とくに深いものを感じさせるのではないけれども、音楽がいつも機嫌よく、流れるような美しさに彩られています。
なにかというと演奏様式だの解釈だのということが前に出てくる最近では、単純にこういう心地よい素直な演奏というのもたまにはいいなあと思いますし、理屈抜きにホッとさせられるものがあります。

そんなオーケストラと共演したティル・フェルナーですが、その見事な演奏には久しぶりに満足を覚えました。
気品があって、折り目正しく、それでいてちっとも教科書的な演奏ではない新鮮さに満ちていました。最近はただ弾くだけではダメだからといわんばかりに、なにやら無理に個性的な演奏や解釈を提示して、聴く者の印象に食い込もうとする人が少なくありませんが、フェルナーの演奏はまったくそういった邪念がなく、ひたすらモーツァルトの世界に敬意を表しながら自らの重要な役割を見事に果たしたという印象でした。

モーツァルト独特な、和声進行ひとつ、スケールひとつ、あるいはたった一音で、音楽の表情や方向がガラリと変わるような、単純なようで実は重要なポイントも、ごく自然で丁寧に表現してくれるので、なんの違和感もなしにモーツァルトの音楽に身を委ねることができました。

音の粒立ちもよく、ひとつひとつの音符が明瞭ながら、全体の流れもきちんと保持されている。よくよく検討され準備されていながら、あくまで自然で軽やかに聞こえなくてはならないという、このバランスこそモーツァルトの難しさのひとつとも云えるでしょう。
それを見事に両立させたフェルナーのピアノは稀有な存在だと思います。

アンコールでは一転してリストの巡礼の年から一曲を披露しましたが、こちらも非常に節度のある、美しい演奏でした。フェルナーについてはあれこれと聴いた経験はないし、おそらく何でも来い!というタイプではないと思いますが、まことに好感の持てる、素晴らしいピアニストであり音楽家だと深く感銘を受けました。
まだこういうピアニストが存在するというのは嬉しいことです。

ピアノはスタインウェイで、今やウィーンのピアニストが来日してモーツァルトを弾くというのに、それでもベーゼンドルファーのお呼びはかからないのかと思うと、これも時代かと考えさせられました。

そのスタインウェイは、まさにこの一曲のために調整されたといわんばかりのソフトに徹した音造りのされたもので、ときにちょっとやり過ぎでは?と思えるほどのほんわかしたピアノでした。
深読みすれば、サントリーホールも新しいスタインウェイが納入されているようなので、第一線を退いたピアノには調整の自由度がぐっと広がったということかも…と思ってしまいました。
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弱音器

ユーラ・マルグリスによるシューベルトのCDを聴きました。

マルグリスは親子数代わたるピアニスト/音楽家で、派手な人ではないけれど、自分なりの道を行く人だという印象です。
楽器としてのピアノにも興味やこだわりがあるのか、ホロヴィッツのピアノを使ったライブCDもあるようですが、これは残念ながらまだ入手できていません。
ただこの人、どちらかというとマロニエ君の好みのタイプではありません。

そしてこのシューベルトのアルバムは、マルグリスの演奏ではなく、そこで使われるピアノに興味がわいて購入したものです。
CDの説明によると、歴史的楽器を使う予定だったが求める響きが得られず、現代の楽器に「当時の楽器の特徴である弱音器を組み込んで」の演奏であることが記されており、さらに「試行錯誤の結果生まれた独自の響き」とあり、いったいどんなものか聴かずにはいられなくなりました。

帰宅して中を開けてみたところ、それはシュタイングレーバーの協力を得て作られたCDであることが判明、録音も同社の室内楽ホールというところで行われたようです。
ピアノはD-232というわりと近年に出たモデルで、それ以前にあった225とかいうモデルの後継機かと思われます。

カバー写真には、さりげなくこのピアノの秘密が写されています。
ハンマーの打弦点に接近したところへ幅にして数センチの赤いフェルトが帯状に仕組まれ、おそらくはペダルを踏むと、この薄いフェルトの帯が弦とハンマーの間に介入してソフトな音色を生み出すのだろうと思われます。
だとすれば、これはアップライトの真ん中の弱音ペダルと同じ理屈のようにも思えますが、写真で見るフェルトはごく薄いもののようで、その目的があくまで「音の変化」にあることが推察できます。

さてその音はというと、耳慣れないためかもしれませんが、このペダルを使ったときの音とそれ以外の音との対比が極端で、一台のピアノとしてのまとまりという点で個人的にはやや疑問が残りました。
弱音器を使ったと思われる音はウルトラソフトとでも表したい、きわめて美しいまろやかなものでした。ただその変化に気持ちがついていけず、これを耳が受容するにはもう少し時間がかかるのか…ともかく現在はむしろバラバラな感じに聞こえてしまうというのが率直なところです。

ちなみに最近のシュタイングレーバーの「CD」から共通して聞こえてくるのは、フォルテ以上になるとエッジが立って少し音があばれるような印象があるためか、よけい弱音器使用時とのコントラストが際立って感じられてしまうのかもしれません。

個人的にはもう少し抑制の利いていた以前の音のほうが濃密な感じで好ましかったように思いますが、シュタイングレーバー社で録音された演奏であることから、これが現在の同社が考える最良の音のひとつ、もしくはこのメーカーが是としている音の方向性であると解釈していいのかもしれません。

ここで使われた「弱音器」と同類のペダルといえば、ファツィオリの大型モデルには4番目のペダルとして打弦距離を変化させる機構があるようです。これも弱音域の手数を増やして、より多様な表現を可能にすべく開発されたものでしょうから、それぞれ方法は違いますが、そのチャレンジ精神には敬服させられます。
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いったい何者?

先週末のこと、天神の大型書店でまたしても思いがけない光景を目の当たりにすることになり、どうもこの書店はいろいろあるようです。

ここは市内でも最も品揃えの充実した書店で、音楽や美術の関連書籍は4階にあり、音楽に関してもヤマハや島村楽器などを凌ぐ量のさまざまな書籍が揃っています。
1階の喧噪がウソのように芸術関連の書棚周辺はいつ行っても人は少なく、このときも週末でしたが、人影もまばらでほとんどマロニエ君一人のような状態がしばらく続きました。

そこへ長身でスラリとした30代ぐらいの女性が靴音をコツコツいわせながら、決然とした足取りでやってきて、なんの迷いもなくすぐ後ろの書棚の前でしきりにあれこれの本を手に取り始めました。
そこはバレエを中心とするダンス関連の本が並んでいるところです。

すると背後から、ガサゴソパラパラという尋常ならざる音がひっきりなしに伝わってきて、それが静かな売り場ではえらく耳について、なんだか嫌な気配を感じました。

ただ本を見るのに、この異様な空気感はなんなのだろうと思い、ときどきふりかえってそちらを見ると、その女性はいやにツンとした感じが全身に漲っており、なにか目的があるのか、手当たり次第に商品の本を荒っぽく手にとってはパラパラとものすごい勢いでページをめくっています。
それがずっと繰り返され、本を棚に戻す際にも、あまりの勢いで本が書棚にぶつかる音まで発しており、まあ上手く表現できませんが、ともかくけたたましい本の取扱いで、マロニエ君はとくに本を乱雑に扱うというのが体質的に嫌なので、たちまち不愉快になってしまいました。

ま、世の中にはいろんな人がいるのだからと自分を説き伏せて、気にかけないように努めてみますが、すぐ後ろではあるし一向に収まる気配がないので気になって仕方がありません。ひっきりなしにガサゴソ、パラパラ、ドン、バサッという音が背後から聞こえてきます。

さらに信じられないことが起こります。
ピーッ、シャラシャラという音がはじまり、思わず振り返ると、なんと1冊ごとにセロファンに包まれた本を、なんの躊躇もなくひき破って中の本を取り出し、同じ調子でパラパラみては、ポンと激しく棚に戻し、それが何冊か続きました。

さすがにこれはひどい!と思い、あからさまにその女性を非難の目で見てしまいました。
マロニエ君との距離は1mもないのですが、こちらの眼差しなどなんのその、その女性はまったく意に介することなくこの行為を止めようとはしません。
この行為はいくらなんでもと思ったので、言葉で注意しようかと決断を整えようとしていたまさにその瞬間、なんとそこにエプロンをした店員が通りかかり、この女性の様子に不信感をもったようでした。

すぐにセロファン入りの本を何冊も開けていることがわかり、その女性へ静かな調子で「お客様、無断でセロファンを開けられては困るんですが…」と言いましたが、まず、その女性はまったくこれを無視しました。
店員もこれはただ者ではないと直感したようで、再度「これらの本は出版社より指示がありまして、開封されると困るんです…」と言いますが、その店員と女性の顔は30cmぐらいまで近づいていますが、女性はまったく店員の顔を見ようともせず、目線も動かさず、声もまったく発しません。

唯一の変化は、手先の動きだけが完全に止まったことです。
店員はその後も一二度声をかけましたが、まったく返事はないばかりか完全な無視で、ほんのわずかでも店員のほうに顔を向けることはせず、ただならぬ意地の強さが現れているようでした。店員はこの女性との会話は諦めたのか、あたりに散らばったセロファンの屑を掻き集めながら、電話でだれかと連絡を取り始めました。

それを機に女性はまたあれこれの本を見始めましたが、店員から発見される前と違って、あきらかに直前までの勢いは失っていました。それでも「私はまったく動じていない!」という必死のポーズをとりながら、少しずつこの場を離れて行きましたが、それでもしばらくは5mぐらい先でまだ本を見ているフリをしていたので、相当に歪な負けん気があるのでしょう。

ああいう人は、本に限らず、お店の商品に損傷を与えたりということをあちこちでやっているんだろうと思います。ふう…。
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暇つぶし

日曜に出かけて買い物をしていると、携帯に懐かしい方から電話がありました。

かつてマロニエ君宅のピアノの主治医だった方ですが、ここに書いても意味のないような込み入った事情があって(むろんトラブル等があったわけではなく)、現在はその方に調律などはお願いしていない状態です。

それでも、ちょこちょこと交流は途絶えることはなかったものの、さすがにこの数ヶ月はご無沙汰状態が続いていたところでした。

電話に出るなり、「ハハハ、ちょっとヒマなので失礼かと思いましたが電話しました。」と云われました。マロニエ君としては、むろんお話ししたかったのですが、なにぶん出先で買い物の真っ最中とあってどうしようもなく、あとからまた電話する旨をお伝えしていったん電話を切りました。

帰宅後にかけ直すと、近くまで来られていて時間があったのでコーヒーでもと思ってお電話されたそうでしたが、今からあるホールの仕事に行かなくてはいけないとのことでしたので、しばらく電話でおしゃべりし、お茶はまた次回ということになりました。

特段の用があるわけでもなく(しかも現在は調律をお願いしていないのに)、気軽にこういうお電話をいただくのはマロニエ君としてはとても嬉しいことです。というか、むしろ用のないときに連絡をいただけることのほうが気持ちの上では遥かに嬉しいものです。

ピアノというのは、同業者を別にするなら、それなりの話の通じる相手というのはなかなかいないので、その点でマロニエ君は珍しい存在なのかもしれません。
…いやいや、この方はホールやコンサートの第一線でお仕事される方なので、マロニエ君ごときシロウトが「話が通じる」などと云っては申し訳ないでしょう。ここで云うのは深い意味ではなく、ただ純粋にピアノの話ができる(あるいは興味を持って聞きたがる)相手というほどの意味合いです。

ピアノの世界は非常に奥が深く、かつ専門領域なので、普通の人は興味もないし、話をしても理解できないので、潜在的に話のわかる人を渇望しているという部分はあるように感じます。その点、同業者ならそんなことはないでしょうが、そういう交流があるのかと思いきや、意外にそうでもないようです。

ピアノに限ったことではないかもしれませんが、業界人同士というのはともすればライバル関係でもあり、とりわけ技術者にはプライドや競争心もあるでしょう。各人で仕事への考え方やスタンス、価値観も違ったりすると、これはこれでいろいろとややこしい問題を孕んでいるとも云えます。

そもそもピアノ技術者というのは、他者と共同でする仕事でもなければ、仲間の連帯がものをいう世界でもなく、基本的に一匹狼的な要素が他より強い仕事なのかもしれません。
また、仕事にはお得意さんやテリトリー、販売店などの絡みもあって、かなり閉鎖的で気を遣う世界でもあるようです。ちょっとしたことが思わぬウワサや不利益に繋がるということも珍しくないでしょうし、そういう意味ではピアノの技術者さんというのは、常に心のどこかに用心深さがあることが職業病のようになっていることをときおり感じます。

その点で云うと、マロニエ君は同業者でもなく、当然どこにも利害関係のない人間で、しかもピアノは大好きとなれば、暇つぶしには最適なのかもしれません。
ついでにいうと、マロニエ君の興味の対象はクラシック音楽からピアニスト、そして下手なりに弾くこと、さらには楽器としてのピアノというものにも及んでいるので、これでも、専門家が却ってご存じないようなくだらないことを知っていることもあり、まあそれなりに話し相手にはなるのかもしれません。

そういう意味でも、もともとはこの「ぴあのピア」がプロとアマチュアの垣根を超えた「広義のピアノクラブ」になれたらと思っているのですが、気持ちばかりでなかなか手をつけられない状態が続いているのは申し訳ないことです。
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自由な気分

マロニエ君はとくに相撲ファンというものではありませんが、祖父が大変な相撲好きであったためか、なんとなく場所がはじまるとダイジェスト的な番組は見るような習慣がありました。

決して熱心というわけではなく、主だった力士の顔と名前は覚える程度で、なんとなく中入後の大まかな行方や、今場所の優勝争いは誰と誰ぐらいは掴んでいるというのが普通でした。

ところが、今場所はまったくといっていいほど大相撲からは距離をおいていて、意志的に見ないことにしています。
これは先場所が終わった直後から決めていました。理由は今場所から横綱が3人になり、そのうちの2人がマロニエ君の嫌いな力士で、ほとほとイヤになったという至極単純なものです。

横綱というのは大相撲の顔であり象徴でもあるので、そこに居並ぶ顔はイメージの上でも非常に重要だと思っています。
これがもし、筋金入りの相撲ファンなどであれば、そういう個々の好き嫌いは超越して相撲そのものをウォッチするのでしょうが、その点で普通の人間は、もともと大した関心事でもないだけに、ちょっとしたことでひょいと背を向けてしまいます。

「ファンというものは無責任で、その心は移ろいやすいもの」といいますが、ファンではないけれどまさにそれです。これが野球やサッカーならコアなファンも多く、彼らがしっかりと支えていくのかもしれませんが、大相撲の場合「なんとなく見てるだけ」という程度の人が実際には多いのではないかと思います。


ちなみに、むかしは横綱昇進には強さと成績が問われることはむろんとしても、ただ白星の数だけ積み上げればいいというわけではないグレーゾーンもあって、そこは横綱審議委員の裁量などが大きく働いたようです。しかし今の時代はそれを許さず、横審の旦那衆的な意向を中心に事が左右されることはないようです。より明確で平等な基準がもとめられ、昇進の条件もよりシステマティックになったように感じます。

いい例が、ちょっと大関が優勝でもすると、NHKはすかさず次の場所は「綱取り!綱取り!」とうるさいほど言い立てるし、今では二場所連続優勝もしくはそれに準ずる成績であれば、ほぼ間違いなく横綱になるようです。

星勘定による成績至上主義というべきで、白星の数がすべてのようです。
しかし、マロニエ君は個人的には相撲は勝負であると同時に娯楽であり興行であり、そこには歌舞伎などに通じる享楽性がなくてはならないと思います。茶屋があって贔屓筋があり、きれいな髷を結い、常に掃き清められる美しい土俵、華麗な行司の装束を見ただけでもそれは察せられます。むろん八百長はいただけませんが。

だから、嫌いな役者の芝居を見たくないように、今は見たくないという気分なのかもしれませんが、正確なところは自分でもよくわかりません。

もし大相撲を純粋のスポーツであり格闘技としてみるなら、力士は総当たり制の勝負に出るべきで、同部屋同士の対決がないというのも理を通せば納得がいきません。

相撲には神道の要素やエンターテイメントの要素も色濃く、それでいて真剣勝負でもあり、それを確たる言葉で表現するのは甚だ困難なものがあることは、日本に生まれ育った者なら自然にわかることです。

大江健三郎氏ではありませんが、あいまいな日本のあいまいさが絶妙の世界を作り出し、長きにわたって継承されてきた部分が大きいとも思いますが、そういうものは現代の価値基準に合わなくなってきているのでしょう。
現代の尺度で分類すれば、所詮はスポーツなのであり、格闘技なので、その勝敗がものを云うのは致し方のないことだと理屈では思います。

それはそうだとしても、人の気持ちばかりはどうにもなりません。
イヤなものはイヤなのであって、それを押してまで見る気にはなれないのです。
今日は今場所の中日ですが、力士の成績がどうなのかもまったく知りませんが、不思議にとても自由な気分です。
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最良の嫁ぎ先

10年ぐらい前だったか、友人が当時幼稚園ぐらいの子どものためにピアノを買いたいということで、ヤマハの小型アップライトを知り合いのピアノ店を通じてお世話したことがありました。

ところが、その子があまりピアノを弾くこともないまま月日は流れて、今年は高校に通う歳となり、もう要らないから手放したいということになりました。
マロニエ君としても購入時にお世話した経緯もあったので購入した店にその意向を伝えてみたものの、買い取り価格は相当安いものでしかなく、それならばということで欲しい人を当たってみることになりました。

その友人宅は遠方ということもあり、その後そのピアノがどういう使われ方をしたかは知りませんでしたし、たしか小型の木目ピアノだったことを覚えているぐらいでした。

手放すことになってから、そのピアノの写真が送られてきたのですが、そこに写っているのは、ザウターなどにありそうな明るい木目の、小さくてなんとも愛らしい素敵な姿でした。
高さも最小限で、デザインもシンプルで明快、良い意味で日本のピアノ臭さがない、いかにも垢抜けた感じ。インテリアとしてもまことに好ましく、見るなりその魅力的な姿に引き込まれてしまいました。

もちろん、買ってくれそうな相手がいればお世話はするとして、こんな可愛いピアノなら、音は二の次で自分で欲しいなぁ…などといけない思いがふつふつと湧き上がりました。それからというもの、ずいぶん空想を巡らせましたが、結局どこをどう考えてもマロニエ君宅にこのピアノをそれらしく置く場所はないことを悟ります。

物理的にどうにか置けたにしても、やはりピアノは弾かれることが前提ですから、ただ物置のようなところに放り込むわけにもいきません。ピアノにはピアノに相応しい、それなりのしつらえというものが必要ですが、それは現状では無理でした。
まあ下手に置き場所があってはろくなことになりませんので、これは幸いだったと見るべきかもしれません。

そんな折、ピアノが好きなある友人と電話でしゃべっていて、ついこのピアノの話になりました。マロニエ君はただの雑談のつもりでしたが、電話の向こうの相手は、たちまちこの話に乗ってきたのは思いがけないことでした。
その人はすでに好ましいグランドを持っており、距離も遠いので、まったく対象外だったのですが、マロニエ君にも変な気持ちが起こったように、本当にピアノが好きな人は、要らなくても欲しいという気持ちが湧き上がるのも自然な心情でしょう。マニアというものは、無駄なもの、不必要なものに、ナンセンスな情熱を傾けて喜ぶ種族のことでもありますから、これはちっとも不思議ではないのです。
ならばというわけで写真を送ると、その気持ちにはいよいよ拍車がかかり、「ぜひ欲しい」「買う」「決定」というところまでいきました。

しかし、翌日になって自宅の置き場所を検討した結果、どうしても床暖房の上にしか該当するスペースがないことが判明したらしく、床暖房はピアノの大敵でもあり、この一点で諦めることになりました。

これがバイオリンやフルートなら、置き場所の苦労はありません。この点がいかに小型アップライトとはいってもピアノという楽器の生まれもつ不自由さだと思います。

その後、このピアノはこれからピアノをはじめるかわいい姉弟のもとへ嫁ぐことになりました。
まあ、冷静に考えれば、マニアからペット飼いされるより、それが一番良かったと思います。
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古びた新しさ

マリア・ジョアン・ピリスはとくに好きでも嫌いでもないピアニストですが、個人的には、どちらかと云えば積極的に聴きたくなるタイプではないというのが偽らざるところでしょうか。

すでにピリスも70歳を目前にした最円熟期にあるようですが、マロニエ君はこの人をはじめて知ったのは、高校生の頃、日本で録音したモーツァルトのソナタ全集を出したときからで、そのLPレコードは今も揃いで持っています。

DENONの最新技術によりイイノホールで録音されたのが1974年で、たぶんこれを初めて聴いたのはその2、3年後のことだろうと思いますが子供でしたし、正確なことは覚えていません。それまでのモーツァルトといえば、ギーゼキングを別格とするなら、当時の現役では圧倒的にヘブラーで、それにリリー・クラウスだったように思いますが、とりわけヘブラーのモーツァルトはこの時期の正統派と目された中心的存在でした。

ウィーン仕込みの典雅で節度ある、いかにも女流らしいスタイルで、わかりやすい型のようなものがあり、モーツァルトはかくあるべしといった自信と格式にあふれていました。
そんな時代に登場してきたピリスのモーツァルトは、それまでの既成概念というか、モーツァルトを演奏するにあたっての慣習のようなものを取り払ったストレートで清純な表現で、これがとても新鮮な魅力にあふれていて忽ちファンになったものでした。

LPレコードのジャケットには、一枚ごとに録音時に撮られたピリスの写真が多数ありましたが、それまでの女性が演奏するレコードのジャケットといえば、ロングドレスなどフォーマル系の衣装であるのが半ば常識だったところへ、ピリスはまるで普段着のようなセーターにジーンズ、ペダルを踏む足はスニーカーといったカジュアルな服装であることも強いインパクトがありました。
さらにはこのときおよそ30歳だったピリスは、まるでサガンか、あるいはその小説に出てくるような多感で聡明そうなボーイッシュなイメージで、なにもかもが新時代の到来を感じさせるものでした。

その演奏は因習めいたものや権威主義的なところから解放された、専ら瑞々しいセンスによって自分の感性の命ずるまま恐れなくモーツァルトに身を投げ出しているように感じたものです。
その後、ピリスは着々と頭角をあらわし、ドイツグラモフォンと契約をして90年代に再びモーツァルトのソナタ全曲録音に挑みますが、マロニエ君はなんとなく瑞々しさの勝った初期の全集のほうが好みでした。

とはいその初期の全集も、もうずいぶん長い間聴いていなかったので、CD化されたBoxセットを手に入れ、実に数十年ぶりに若いピリスが日本で録音したモーツァルトを耳にしました。ところがそこに聞こえてくる演奏は、記憶された印象とは少なくない乖離があったことに予想外のショックを覚えました。

当時あれほど清新な印象で聴く者をひきつけた若いピリスでしたが、そのモーツァルトには意外な固さがあり、アーティキュレーションも古臭く聞こえてしまいました。
全体がベタッとした均一な印象で、モーツァルトの悲喜こもごもの要素が滲み出てくる感じが薄く、あれこれの旋律が聴く者に向かって歌いかけてくるとか、弾力にあふれたリズムが表情のように思えるような要素が少なく、一種のそっけなさを感じてしまいました。
モーツァルトは、できるだけ彼に寄り添って演奏しないと微笑んでくれないようで、作品そのものが寂しがり屋のようです。

考えてみれば、この数十年というもの、古典派の音楽はピリオド楽器と奏法の台頭によって、その演奏様式までずいぶん変化の波が押し寄せたわけで、それはモダン楽器の演奏にも少なくない影響があり、聴く側にも尺度の修正が求められたようにも思います。

新しさというものは、普遍的な価値を獲得して生き延びるか、さもなくば時代の変化によって、古いファッションみたいな位置付けになってしまうことがあるということかもしれません。
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量産品

このところ立て続けに真新しいスタインウェイによるコンサートの様子をテレビで見ました。

ひとつは京都市交響楽団の定期公演から、ニコライ・ルガンスキーによるラフマニノフの2番、もうひとつは北海道北見市公開収録による、宮田大チェロ・リサイタルで、ピアノはフランスのジュリアン・ジェルネ。

いずれも、今流行の巨大ダブルキャスターを装備した、ピッカピカのスタインウェイですが、京都と北海道と場所もホールも、ピアノもピアニストも、録音も違うし、なにより協奏曲とチェロとのデュオという編成もまったく異なるという、むしろ共通項を見出すことのほうが難しい2つでした。

マロニエ君の持論ですが、実演主義の方からは叱られそうですが、どんなに条件が異なっても、楽器や演奏家の本質は、意外にも機械はよく捉えている場合が珍しくなく、そこで抱いた印象は実演に接してもほとんど変わらないという自分なりの経験があります。
もちろん大雑把なものではありますが、でも、これを修正しなくてはいけないような事例がほとんどないのも正直なところです。

さて、この二つのコンサートで使われたスタインウェイは、その本質において、マロニエ君の耳にはほとんど同じという印象でした。それだけ近年は製品のばらつきも極力抑えられ、それだけ意図した通りの均等な製品が着々と生み出されているということでもあり、これは同時に欠点さえも見事なまでに共通しているように思いました。

まず往年のスタインウェイ固有のカリスマ性はもはや無く、ピアノとしてのオーラとパワーはかなり薄められ、コンパクトになったピアノという印象。
まるでかつての大女優が、普通の美人になった感じでしょうか。
スタインウェイとしての名残はあるとしても、音の美しさも表面的で機械的。だんだんに無個性な、日本製ピアノともかなり似通った性格のピアノになっていると思います。

とりわけハンブルク製にもアラスカスプルースが使われるようになってからは、音に輝きとコクがなくなり、深い響きや透明感、音と音が重なってくるときの立体的な迫真性みたいなものが、もうほとんど感じられません。
昔のスタインウェイはたとえ拙い演奏でも、どこか刃物にでも触るような興奮と、底知れないポテンシャルに畏れさえ感じたものですが、その点では普通の優秀なピアノに過ぎなくなった気がします。

コンチェルトなどでオーケストラのトゥッティの中から突き抜けて聞こえてくるスタインウェイの逞しさと美しさが合体したあのサウンドは、すっかり痩せ細ってもどかしさすら覚えます。
ラフマニノフの第二楽章のカデンツァでは、最も低いH音から上昇する属七のアルペジョがありますが、昔のスタインウェイはここで鐘が鳴るようなとてつもない音を出したものですが、今回のピアノはゴン…という普通のピアノの音でしかなく、あまりのことに悲しくなりました。
チェロとのデュオでは、マイクが近かったせいもあって、よりダイレクトな音が聞かれましたが、深みのないブリリアント系の音色が耳障りであったこともあり、一緒に見ていた家人はこのピアノは○○○?と日本製のメーカーの名前をつぶやきました。

最近のスタインウェイはたまに実物に接しても、仕上がりの完璧な美しさには驚かされます。でもそれは、職人の丹精が作り出した美しさではなく、無機質で機械的なものです。その音と同様に工業製品としての生まれであることを感じてしまうのは寂しさを感じてしまいます。

ここまで書いたところで、さらにブフビンダーがN響と共演したモーツァルトの20番を聴きましたが、またまた同じ印象で、立て続けに3度驚くことになりました。会場はサントリーホールですが、ここも新しいピアノに変わっており、モーツァルトであるにもかかわらず、ピアノが鳴らず、まるで蓋を閉めて弾いているみたいでした。
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ムラロと偉丈夫

今年の1月にトッパンホールで行われたロジェ・ムラロによる、ラヴェルのピアノ作品全曲演奏会の中から、クープランの墓、夜のガスパールなどがクラシック倶楽部で放映されました。

先に書いた「まるでスポーツ」はこれがきっかけとなった文章でした。

ムラロ氏は演奏に先立って、インタビューでラヴェルには音の明晰さが必要だと語っていましたが、その演奏を聴いてみて、彼の云う明晰と、聴く側がその演奏から感じる明晰との間には、いささか隔たりがあるように感じました。

全体にシャープさがなくもっさりしていて、ラヴェルに不可欠と思えるクールさとか、ガラスの光を眺めるような趣は、マロニエ君にはまったく感じられませんでした。というか、そもそもこのムラロ氏がフランス人であるというのも、どこか納得できないような田園風の雰囲気であり、その演奏でしたので、セヴラックならともかくラヴェルはちょっと…という感じです。

少なくとも、まったくマロニエ君のセンスとは相容れないラヴェルで、感性が合わないと1時間弱の番組を見るだけでもそれなりに忍耐になります。実際のコンサートはというと午後3時から6時45分終了予定とあり、うひゃあ!という感じです。

プロフィールでは『パリでのメシアン《幼な子イエスにそそぐ20の眼差し》を演奏の際に作曲家本人から激賞され、メシアン作品演奏の第一人者として認められた。』とあり、日本でも同曲の全曲演奏会をおこなったとありますが…ちょっとイメージできません。
テクニックにおいても、岩場のような堅牢さはあるけれど、音楽表現のためのあらゆるテクニックが準備されている人とは、このときは到底感じられませんでした。
聴いた限りでは「明晰さ」よりはむしろ「鈍さ」を感じる演奏だったというのが率直なところ。

ミスタッチも多く、べつにミスタッチをどうこういうつもりはないのですが、それは純然たるミスというより、あきらかな準備不足からくるものであると感じられ、やはり全曲演奏などろくなことがないと思ってしまうのです。

ところで、その明晰さにも繋がることですが、ムラロはコンサートグランドがひとまわり小さく見えるような偉丈夫で、長身かつそのガッシリした骨格は、まるでアメリカあたりの消防隊長のようで、ピアニストにはいささか過剰なもののように感じました。
こういう体格の人に共通するのは、そのビッグサイズの身体を少々持て余し気味なのか、背中を大きく曲げ、いつも遠慮がちで、その表現やタッチは抑制方向にばかり注意が向いているような、ある種のもどかしさみたいなものが演奏全般を覆ってしまいます。

その抑制が災いしてか、ピアノの音もどこか張りや緊迫がなく、モッサリした感じになってしまうのは彼ひとりではないように思いました。
偉丈夫のピアニストとして最も有名なのはかのラフマニノフでしょうが、まあ彼は別として、クライバーン、ブレンデル、現役ピアニストで頭に浮かぶのは、ルサージュ、ベレゾフスキー、パイク、リシェツキなどですが、やはりいずれも音楽が大味です。音にも鮮烈さや色彩感が乏しく、もっぱら強弱のコントロールと矮小化された解釈、それを骨格だけで演奏しているように感じてしまいます。

変な言い方をすると、その大柄な体格でピアノが制圧されているかのようです。
私見ながら、ピアノに限っては、ほんのわずかにピアノのほうが勝っていて、それをピアニストがなんとか克服しようとする関係性であるほうが、結果として魅力的な演奏になるような気がします。
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新たな一面

ゴールデンウィークは多くの方が旅行などに行かれるのでしょうが、マロニエ君の連休はいつもながら至って平凡なものでした。

普段できない掃除やらなにやら、とりとめのないことを少しずつでもやっていくのも、地味ではありますが、それはそれで結構たのしかったするものです。

マロニエ君の自宅は福岡市の動植物園の近くなのですが、こどもの日を含む連休中には無料開放日などもあって、折りよく天候にも恵まれ、大変な人出で賑わいました。
自分がどこへもいかずとも、近所がそんな人出で盛り上がっていると、なんだかそれだけで満腹してしまって、何かに参加したかのような錯覚に陥るようです。

現在福岡市の動物園では、随時リニューアルが進められているうえ、民間企業にお勤めだった方がイベントの企画を手がけておられる由で、次々に新しい魅力的な催しが打ち出され、以前にはなかったような活況を呈しているようです。

ちょうどそんな中、午後から数名のお客さんがあるので近くにケーキでも買いに行こうとしましたが、通りに出ると大変な渋滞で、往復にも普段より時間がかかりました。駐車場はどこも満車で、みなさん車が置けずに焦っておられて、なかなか関係ない車でさえ通してくれなかったりで大変でした。


お客さんというのは、マロニエ君宅の古いカワイのGS-50というグランドを、ちょっとしたきっかけでコンサートチューナーの方に10時間近く調整していただいたところ、想像以上の結果が出たのでその試弾にピアノの知人が来てくれたのでした。

このカワイのGS-50は製造後、既に30年近くが経過しており、それほど酷使しているわけではないのでなんとか今でも使える状態ではありますが、本当なら弦やハンマーなどの消耗品はそろそろ取り替えた方が望ましいことはむろん認識しています。
そんなピアノですから、いまさらあれこれと手を加える価値があるのかといえば甚だ疑問ではありましたが、ある技術者の方との出会いがあって、差し当たりこのピアノをやっていただくことになったものです。

いまさらですが、技術者の中にもいろいろなタイプの方がおられます。
特定のピアノだけを手がけるスペシャリストの方、どんなピアノでも獣医のようにやさしく面倒を見る方、ステージ上の音造りにこだわりを持つ方、むやみにお金をかけずに最良の妥協点を探る方、タッチや音色のためにはあらゆる創意工夫を試みる方、満遍なくバランスを取ることを最良とする方、基本に忠実できっちり定規で測ったような調律をされる方、儲けは二の次でとにかく自分が納得できる仕事を旨とする方、料金が第一でやったことすべてを有料の仕事に換算する方、入手できない部品は作ってでも正しく根本から再生する方、調律師という名の通り調律以外は何一つされない方など、まさに千差万別だと思います。

この方は、他県で多くのホールのピアノの管理をしておられるだけあって、ピアノを「改造」するというようなことは(条件的に許されないからか)されずに、あくまで目の前の状況の中から最良の状態を引き出すというところに猛烈な拘りと情熱を持っておられます。

というわけで、ピアノの状態としては「現状」を変えずに、こつこつと小さな調整の見直しやセッティングの再構築などの微細な作業の積み重ねによって、そのピアノの最良の面を探し出し、それがときには新しい命を吹き込むことにもなるようです。
さて「新しい命」とまでは云いませんが、我がカワイも、記憶にある限りでの最良の状態を与えられて、このピアノにこんな一面があったのかというような素敵なピアノになりました。

一番の特徴は、まずとてものびやかで健康的になり、ひとまわりパワーが増したことと、併せて落ち着きまで出たことです。音には上品さが備わり、キンキン鳴る反対の、馥郁とした響きの中にしっとりした音の芯があり、やわらかさの中からメロディラインが明瞭に出るピアノになりました。
また、パワーが増したのに、繊細さの表現もより自在になっているのは望外のことでした。要は表現の幅が強弱両側に広がったと考えれば納得がいく気がします。

自分で弾いてもこれらのことは感じていましたが、ピアノは他の人に弾いてもらうことにより、より客観的に聴くことができるものです。
もともとが大したピアノではないという諦めがあるだけに、よくぞこのピアノをここまで復活させてくれたもんだと感心させられました。とくにコンサートの仕事をしておられるせいか、整音と調律はコンサートピアノのそれに通じるテイストがあって、しっとりした落ち着きと華やかさが同居し、全体の構成感みたいなものがうまくバランスしているのは感心させられました。

「ピアノはおもしろい」といまさらのように思いました。
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まるでスポーツ

最近は、何かというと全曲演奏会の類が大流行のようで、音楽や演奏の妙を味わうというより、演奏家の技量と記憶力を誇示するための耐久レース的な趣になり、こういう流れは個人的にあまり歓迎していません。

誤解なきように云っておきたいのは、しっかりと準備され、長期間をかけて行われる全曲演奏は壮大な目的をもったプロジェクトであり、その意義深さは理解できるのですが、ここで云いたいのは一夜で何々の全曲とか、あるいは数日間で怒濤のごとく行われる、これでもかという不可能への挑戦状を叩きつけるような演奏会のことです。

日本人の演奏家もこの手の体力自慢的コンサートに挑戦する人が後を絶たず、まるで、それができないようでは一流演奏家ではないといわんばかりの空気が漂っているのでしょうか。本人が話題作りをしたいのか、嫌でもやらなくちゃいけないご時世なのか、主催者が苛酷な要求をしているのか、そうでもしないとお客さんが来ないのか…。
真相は知りませんが、ずいぶんおかしなことになってきたなあ…というのが率直なところです。

演奏家もこういうことで能力自慢して、売名に役立てているのでしょう。

ステージ演奏家にある種のタフネスが必要なことは当然としても、そればかりがあまりに前面に出て、コンサートが記録挑戦を観戦するイベントのような要素を帯びてしまっています。演奏する側はもちろん、聴衆にとっても、まるで忍耐と達成感など、いわゆる音楽を聴く喜びとは似て非なるものに支配されていやしないかと思われます。

クラシックの作品を弾き、コンサートという体裁をとってはいても、きわめてスポーツ的な価値観と体質を感じるし、どこか自虐的であるところにも強い違和感を感じます。
演奏者も優れた音楽家であることより、一挙に名が売れ英雄になることを目指しているのかもしれません。芸能人は紅白歌合戦に出ることで、その後の1年の仕事に大きく反映するのだそうですが、クラシックの演奏家もこういう挑戦モノを通過した人のほうが、それ以降のチケットの売れ行きが変わるのだろうか…などと勘ぐりたくもなります。

いずれにしろ、なにかが歪んでいるという印象をマロニエ君は拭えません。

マロニエ君は、よほど心地よい演奏でもない限り、通常のコンサートで2時間前後、ホールの椅子に縛り付けられるのは、率直にいってかなり疲れてしまいます。単純なはなし、2時間身じろぎもせず、身動きや咳ひとつにも配慮しながら、強い照明のステージ上の演奏に集中するということはかなりハードです。

実演というものは、建前で云われるほど良いことばかりではありません。演奏者の技量や解釈などの音楽的なことはもちろん、あまり真剣でなかったり、ツアーの中のひとつとしか考えていない、聴衆をナメている、さほど練習を積まないままステージで弾いている、義務的になっている等々で、こういうことが透けて見えるような瞬間が決して少なくなく、そういうものを感じると、たちまち興味を失い苦痛が始まります。

いったんそれを感じ始めると、コンサートほど息苦しいものはありません。終わったら会場を飛び出して外の空気に触れ、その苦行から解放されることになりますが、最近は歳のせいか疲れが本当に回復するのは翌日へ跨ぎます。
通常のコンサートでさえこんな現状が多いのにもってきて、規模ばかり広げた弾けよがしの全曲演奏などされても、どこに喜びを見出していいのやらさっぱりわかりません。

演奏家にとっても、体力や暗譜など、この挑戦をともかく無事に達成することに目標は絞られ、演奏の質は二の次になることは致し方ないでしょう。
聴く側も「全曲を聴いた」ということに、箱買いでもして得をしたようなような気分になるのかもしれませんが、洗剤ではあるまいし、マロニエ君は音楽でそれは御免被りたいところです。
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NHKの都合

ETV特集「ストラディヴァリ〜魔性の楽器 300年の物語〜」という番組が放送されました。
昨年もストラディヴァリの番組がNHKスペシャルで放送されたので、てっきり再放送かと思っていたら、前回より放送時間が30分延長され、90分の番組になっています。

ということは前回の放送が好評で、単純に未発表映像を追加したロングバージョンだろうと考えたので、どんな映像が増えたのかと期待を込めて見てみました。

ところが、それは明らかに前回の番組をベースにしたものでありながら、同じシーンを探すほうが難しいくらい、多くの別映像で占められていました。表向きは未発表映像を放出するように見せつつ、その裏では隠された意図がさりげなく働いているようで、なんだか腑に落ちないような不思議な気分になりました。

ギトリスなどストラドを愛奏するヴァイオリニストのインタビューとか、船の事故でバラバラになった「マーラー」という名のチェロが見事に復元されて演奏されていること。19世紀に行われたネックの長さや角度の改造前の楽器の紹介など、今回はじめて目にする部分が随所にあった反面、前回あったはずのいくつものシーンが、あれもこれも割愛されてしまっているのは驚きでした。
そこにはある共通した要素があり、NHKの狙いというか、もっとはっきり云うと、後々問題になりかねないと判断されるシーンを徹底的に排除した結果だと推察されるものでした。

大きくは、やはり今どきの時代を反映してか、まず、何かを否定することに繋がりかねない部分はことごとく無くなっています。
前回にはあったクレモナの工房をナビゲーターのヴァイオリニストが訪ねて、そこで作られた新作ヴァイオリンを試弾し、「とても素晴らしかったが、ストラドはより…」といった感想を述べるシーンは、やはり新作を否定するものになるのか…。

あるいは元N響のコンサートマスターの徳永氏が、ある実験に際して「(無音響室でも)ストラドを弾くのは楽しいが他の楽器は楽しくない」という発言があり、これはマロニエ君も前回見たときに、ほんの少しおや?と思いましたが、それもなくなっています。

また、前回の放送では、ニューヨークだったか、ブラインドテストでカーテンの向こうでモダンヴァイオリンとストラドをアトランダムに弾いて、音だけで聞き分けるという試みがあったものの、そこに集まったヴァイオリンの研究家や製作者などの専門家達でさえ正しい答えが出せなかったというシーンも、今度はストラドの価値をおとしめるということになるのか、これもなくなっています。

さらには、最高傑作にしてほとんど演奏されたことがないため最も保存状態の良いストラドとして有名な「メシア」は、イギリスの博物館所蔵の特別なストラドですが、前回はこのメシアの美しい姿が鮮明な映像で映し出され、その来歴についてもかなり説明がありましたが、今回はすべてが削除がされ、「メシア」という名前さえ一切出てきませんでした。
これは一部の人達の間でささやかれる贋作疑惑があることに対する配慮ではないかと思いましたし、これ以外にも失われたシーンはまだまだあります。

その贋作疑惑ということにも繋がりますが、このところのNHKはしかるべき検証もないまま佐村河内氏の番組を制作・放映して謝罪した問題や、新会長の籾井氏の発言など、あれこれと失点が続いたために、かなり神経質になっているのではないかと思いました。

「あつものに懲りてなますを吹く」といいますが、このストラディヴァリの番組は、少なくとも前回のロングバージョンなどではなく、大幅な作り替えだったと思います。新しい映像が追加されて長時間視ることができたのは嬉しいとしても、はじめのバージョンを見た者にとっては、失われたものがあまりにも多く、NHKの都合でグッと安全重視の作りになっていたという印象です。
これはこれで面白く視ることはできたものの、前回の1時間のほうが、はるかにキレがよかったように思います。
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類は友を呼ぶ

『類は友を呼ぶ』という言葉があります。

マロニエ君は、近ごろの人達のように立派な振る舞いや発言を心がけて、それを最優先するような考えがさらさらないことは折に触れて書いてきたとおりです。くだらないこと、ばかばかしいことにも並々ならぬ興味があり、これはマロニエ君の体質そのものでもあり、そういう感性なしでは生きてはいけません。

先週末、とある大きな書店でのこと。多くの人で賑わう店内で、ひときわ大きな声で何かを強烈に主張している人がいました。しかもたったひとりで、まさに意味不明なことを次から次へと間断なくまくしたてるものだから、みんな警戒しながら通り過ぎています。
しかもその声というのが、舞台俳優のように太くてボリュームがあり、さらに通る声だったので、きっとこのとき店内に居合わせた人達のほとんどが、表向きは無関心を装いながらもこの声に気をとられていたことでしょう。

ときに叫びにも近いときがあり、こちらも自分ひとりなら大いに不安になったでしょうが、人は大勢いることでもあるし、マロニエ君も形こそ立ち読みをしているものの、そっちが気になって内容はあまり目に入らず、内心はこの声ばかりに集中していました。
しばらくそれは続きましたが、5分もすると、そのうちいなくなりました。

やれやれ終わったか…と思いながら、今度こそ本の内容に意識を向けて立ち読みをしていると、いきなり肩をトントンと叩かれ、むしろこっちのほうにびっくりしました。
振り向くと、友人がそこに満面の笑みをたたえて立っており、お互いにその偶然に驚きました。

聞けば友人も、さっきのあらぬ言葉を連発する人の存在がおもしろくて、ずっとそばで聞いていたんだそうです。いなくなったので場所を移動したらマロニエ君がいたというわけです。まあお互いに馬鹿だなあと思いますが、こういう気が合うと合わないとでは、友人といってもまたく関係の質がかわるものです。

近ごろは、自分の考えとか感想を無邪気に言えないという点では、精神的に暗く不健康な時代になりました。とくに話の対象が特定の個人であったりすると、露骨なくらい消極的な反応となり、スーッと話題を変えていく人が少なくありません。いまここで何かを言ったところで、困るような言質をとられるわけでもなし、別にどうということもないのに、そうまでして安全を選ぶのかと、相手の心底が透けて見えるようで嫌な気がします。しかし、それを荒立てても詮無いことなので、こちらも内心では舌打ちしつつ抵抗はしません。まるで表面だけ笑顔の、守秘義務を負った弁護士と話しているみたいで、ぜんぜん楽しくないし、そういう人とは本当に楽しい付き合いにはなりません。

マロニエ君のまわりにはそれでも比較的昔風の無邪気な輩がわずかに残っていて、たとえば別の友人が、ずいぶん前のことですが、バスに乗車中、なんとそのバスと車が接触事故になったとのこと。べつに怪我人がでるようなことではなく、ただ街中でちょっと車体同士が擦れたぐらいのことだったようです。
むろんバスは道の真ん中で停車し、それから前方であれこれと接触後の対処がはじまり、運転手も会社との連絡やらなにやらで乗客はそのままで、ずいぶん長いこと放置されるハメになったらしいのです。普通なら「何をしているんだ!」と文句のひとつも出るところでしょう。

ところが、さすがはマロニエ君の友人だけのことはあって、なんと、こういう状況が実がめちゃくちゃに楽しかったのだそうで、そこが笑えました。あまりにも嬉しくて、そのためには何時間ここで待たされても構わないと、腹をくくっていたのだそうですが(楽しいから)、結果は期待よりも早く降ろされてしまって残念だったとか。
平日のことで、そのために仕事にも遅れが出るわけですが、友人に云わせると「そんなのは関係ない」「だって自分のせいじゃないんだもん」なんだそうで、偶然そんなバスに乗り合わせた自分の幸運が、うれしくて仕方がなかったというのですから、あっぱれです。

こういう「けしからぬこと」を笑顔で堂々と言える人は絶滅危惧種になりました。
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