賛否両論1

技術者と呼ばれる人達は、それぞれに持論や流儀をお持ちです。

マロニエ君はピアノに限らず技術者というものを尊重しているので、やり方やこだわりもそれぞれで、要はどれが正しくてどれが間違いというものではないと考えています。
いろいろな価値観や性格、目指すもの、細部に見え隠れする妙技、考え方の違いなどが決して一律なものではないところが興味深く、まして容易に正誤優劣を付けられる世界ではないというのが率直なところ。

わけてもピアノは、もともと精密かつ巧緻な世界であり、加えて楽器特有の幅やあいまいさがあり、どれが絶対ということがありません。ひとつの事柄に対する意見や解決法も各人各様で、ときに唖然とするほど意見が真逆であったり、それはときに凄まじいばかりです。

あまりこのあたりに触れているとなかなか本題に入れないので、そこは飛ばして話を進めると、久々ですが、ダンプチェイサー(ピアノの中や下部に取り付けて、湿度を自動調整する棒状の電気製品)に関する話です。
ダンプチェイサーに関しては、マロニエ君自身も数年来の使用経験があり、絶対とまではいわないものの、一定の効果があることは確認済みです。さらには自分の経験をもとに友人知人にも推奨したり、一度など共同購入というかたちで5~6本安くまとめ買いしたことさえありました。

調律師の中では、当然ながらこのダンプチェイサーにおいても賛否両論があり、賛成派のほうの顧客はその熱心な奨めにより多くがこれを購入し取り付けられているのに対し、こういう後付けの機器に関してはやたらと懐疑的スタンスをとる方もおられます。
技術の世界では保守的な人も少くなく、伝統的な技術やセオリーを信奉しているぶん新しいものには拒絶が先に立つのか、その効能より害のほうに目が先んじるようです。これを取り付けることによる弊害をイメージし、中にはすでに取り付けられたものさえ、自説を展開して外してまわるといった方さえあるようです。

では、具体的に何が悪いのかというと、これがあまりはっきりせず、一部だけが乾燥するとか、熱で木材が傷むなどの「可能性」ばかりを説かれますが、もうひとつ説得力がありません。ひとつには技術者としての防御本能なのか、自分があまり知らないもの、検証ができていないものに対しては、とりあず否定してしまうという心理が働くのかもしれません。
(ちなみにダンプチェイサーの作動時の熱は素手で触ってもほんのり暖かいぐらいのソフトなもので、湿度によってON/OFFは自動制御されます)

こういった後付の商品には安直なアイデア先行で効果の疑わしいもの、あるいはピアノ本体に害を及ぼすものもあるでしょう。のみならず便利な機器を安易に頼るようでは、基本を疎かにするお安い技術者という印象さえ与えかねません。だからか、その手のものはすべて「邪道」のように捉えてしまうのかも。

たしかにその手の思いつきみたいな商品はあるでしょうから、そうやすやすと信用はしないほうが安全でしょうし、謳い文句にのせられて、万一お客さんのピアノに害があっては一大事。信頼を旨とする技術者にとっては、よほどの自信がない限り、そんなものに手出ししたくないという意識がはたらくのだろうと思われます。

ただ、ダンプチェイサーは実績のある「本物」のひとつだろうとマロニエ君は思っています。

マロニエ君自身、すでに何年もダンプチェイサーを使っていますが、少なくともそれによる弊害を感じたことは一度もなく、調律の狂いが少ないことはかなり感じていて、できれば付けておいたほうがいいというのが正直なところ。ところが、なぜかディアパソンについてはとくにこれという理由もないまま「そのうちに…」ぐらいの感じだったのです。

そこへ今年の厳しい夏の湿気となり、さすがにピアノが全体にたるんだ感じもあったので、ふとダンプチェイサーを使っていなかったことを思い出し、遅ればせながらこれを購入しようと、さる調律師さんに購入の問い合わせをしました。通販で買っても良かったけれど、近々来られる予定もあるので、だったらついでに持ってきてもらおうかというぐらいの軽い気持ちでした。

すると、「購入はできますが、私はダンプチェイサーはおすすめしません」というメールが届きました。
うわー。来たかぁ、と思いましたが、とりあえずどんなご意見なのか聞いてみようと電話したところ、だいたい次のようなものでした。
「あれは確実に音が痩せる」「響板にヒーターの熱風があたったのと同様になる」「床暖房と同じ」「独特の音になる」「以前は使ってみたこともあるが、今はお客さんにも外すことを薦めています」「グランドは外にむき出しなので効果がないのでは」「アップライトは逆に悲惨なことになる」「やめたほうがいいですよ」「だったら乾燥剤をいれたほうがまだいいですよ」
と、だいたいこんな感じでした。

この方は大変優秀な調律師さんであることは間違いないのですが、ことダンプチェイサーのことは…あまり正確なことをご存知ないのかもしれません。いや、間違っているのはこっちで、もしかしたらそれが正しい可能性もあるかもしれません。

マロニエ君は調律師さんのご意見はいつも尊重するし、謙虚な気持ちでいろいろな教えを請うているつもりです。しかし、だからといって何でも鵜呑みすることは決してせず、最終的には自分の判断を優先させることはよくあります。

だって、自分のピアノなんですから、自分が納得できることをしなくちゃ面白くありません!
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ウナコルダの効用

先日、さる調律師さんから聞いた話。

ピアノのウナコルダ(グランドピアノの左のシフトペダル)の隠れた効果について。
これを踏むと鍵盤全体が右に移動して、3本の弦を打っていたハンマーが2本だけを打つようになることはよく知られています。

曲想やppなど必要に応じてこれを遣うことは一般的で、単純にいうと、鳴らす弦が少なくなるのでそのぶん音が小ぶりになるわけですが、のみならずハンマーの弦溝の位置をわずかにずらすことで、音色の変化をつけることができます。

下手な人がこれを使うと、ただこもったような音になるだけですが、ピアノのペダルは左右ともに、いかにそれを必要量適確に使うことが出来るかのコントロールの妙がポイントでしょう。
ペダル操作は、ある意味、指運動よりよほど繊細な耳と感性が必要で、アマチュアもプロも、ただバンバン弾くことだけが念頭にある人には最も難しい領域だろうと思います。
むろんマロニエ君なんぞはできませんが、それほど精妙かつ重要な領域であることはわかります。

これを天性の美意識と神業的な技巧によって、多彩な音色を自在に創りだすことができた代表格がミケランジェリで、彼のあの濃密な絹織物のような音の世界は、精緻を極めた自在なペダルに負うところも大きいのは間違いありません。

何年か前にラ・フォル・ジュルネの小さな会場で行われたコンサートで、ある女性ピアニストがベートーヴェンの中期ソナタを弾くのに、このシフトペダルをやみくもに使うのには閉口したことがあります。
どう考えてもまずはタッチで表現を変えるべき場所で、いちいちシフトペダルを踏むので、そのつど音色がこもったり鮮明になったりの行ったり来たりだけで、それが肝心の演奏表現に結びついているとはとても思えないものでした。さらにこのピアニストは、ガバッと踏むか、離すか、つまりON/OFFだけの踏み方で、その途中の段階が微塵もないのには呆れました。

あっと…、話が逸れました。
その調律師さんによる通常見落とされているウナコルダの効果とは、これを踏んだ時のほうが音が減衰しにくくなるという、これまで思ってもみなかったことで目からウロコでした。…いや、でも、よくよく考えてみたら、本能的にはまったく感じていないわけではなく、かすかに心当たりのようなものがあるような気も…。深夜などにこのペダルを踏んで遠慮がちに弾くときに、ある独特な心地良さというか豊かさみたいなものがあることは、かすかな自覚がありました。
単に音が小さいとかソフトということ以外に、なにか言い知れぬ心地よさがあったのは、そう言われてみると、この通常より伸びる音のせいだったのかもしれません。

これは音響学的にも証明されていることだそうです。
弦から駒を通して響板に広がって増幅される音は、3本打弦されたときより、2本打弦されたときのほうがエネルギーが小さくて音に変換されるにもやや時間がかかり、それだけ減衰の速度も遅くなるということだそうです。
急峻な山に対して、なだらかな山裾の稜線がどこまでも続くようなものでしょうか。
さらには左の打弦されない弦も隣の弦の振動にひきずられて逆位相に動くのだそうで、これも減衰にしくくなる要素のひとつだとか。

比較に単音を聴いてみたところ、ウナコルダを踏んだときのほうが明らかに音が伸びるのはびっくりでした。

音響学などの専門領域はチンプンカンプンですが、自分なりの印象としては、お寺の鐘なども力任せに叩くより、ほどよい力で突いた方が音がきれいなだけでなくその余韻がいつまでも続くようなものかと思いました。
また、想像ですが、3本弦より、2本弦のほうが音になるパワーが少ないのは当然としても、そのぶん入力に対する響板の面積も、相対的に大きくなるのかとも思いましたが、どうでしょう…。

後日、この件に関する資料を送っていただきましたが、そこにあるグラフによれば、シフトペダルを踏んだ時とそうでないときでは、立ち上がりでは約10dBの差があって当然ペダル無しのほうが音が大きいわけですが、3秒後にはグラフの線はクロスし、右肩下がりに減衰する一方のペダル無しに対して、ペダル有りのほうは70dBあたりを保持して、5秒後には10dB近くもペダルを踏んだ音のほうが大きな音が持続していることに驚かされます。

こうなると、ウナコルダをピアニシモや音色の変化だけでなく、音の持続性という目的をもって巧みに用いることができれば、伸びのある独特な響きや音像を作り出すことができるのだそうです。しかるに、これはプロのピアニストでも知らない人が多く、貴重な表現手段のひとつを知らぬまま演奏していることになるわけです。

尤も、そこまでデリケートな表現を必要とするような、真に創造的なピアニストが果たしてどれくらいいるかとなると、甚だ疑問ですが。
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不思議な演奏

ピアニストには「その人固有の音」があると言われます。
楽器自体がもっている音とはべつに、その人のタッチや演奏の律動が生み出すもうひとつの音色というべきもので、「その人」が弾けばどんなピアノでも「その人の音」になってしまうのは実に興味深いことです。

これを思いがけないところで思い出させられることになったのが小山実稚恵のピアノでした。

今年6月、N響の定期公演でチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番を弾いた映像を見ましたが、好みの問題もあるでしょうし、なかなかコメントが難しいと感じる演奏でした。

昔からですが、この人はどうしても楽器を豊かに鳴らせないピアニストなんだということを、この演奏を聴きながら、沈んでいた記憶がふわっと浮かび上がってくるように思い出しました。
どのピアノを弾いても、CDでも、実演でも、不思議なほど音が痩せて固い音になるのは、まさにこのピアニストの固有の現象だと思います。それを小山さんの音と呼ぶべきかもしれません。

また、どんなに力もうとも、音に厚みや迫力が増してくることはなく、だからいよいよ叩きつけてしまうのか、要するに弾き方に問題があるのだろうと思った次第。

たしか何かの記憶では、芸大時代に名伯楽・田村宏氏に師事したところ、田村氏は「もしかしたら、将来ものになるかもしれない学生」としながらも、指ができていないので、その方面の専門家である御木本澄子さんに一時彼女を預けたということを読んだことがありました。

もしかすると、それでも完全な克服には至らず、現在も何かを引きずっているのか…とも思ったりしますが、むろん確かなことはわかりません。

30年ほど前のチャイコフスキー(コンクール)3位、ショパン4位という受賞歴がこの人の知名度をあげるきっかけになったのでしょうが、小山さんを聴くたびに感じることは、その頃からほとんど何も変わっていないことでしょうか。
年齢的に言っても、多少は演奏が熟成してくるのが普通というか、聴く側もそういう期待をするのが自然だと思うのですが、この人にはそれがほとんど感じられないところにむしろびっくりさせられます。もしかすると多くのファンの方々は小山さんのそんなところを、いつまでも失われない初々しさと好意的に捉えておられるのかもしれません。

弾いているのは確かにチャイコフスキーの1番という超メジャー曲にもかかわらず、ほとんどこの曲を聴いているという実感がなく、とくだんの思い入れもないレパートリーの中の1曲をたまたま今弾いているという印象。
小山さんにとっては初めて国際コンクールの決勝で弾き、さらには冒頭でご本人も言っておられましたが、オーケストラと共演したのもこのときが初めてだったということで、若い時にしっかり弾き込んだ曲らしい、手慣れた演奏だろうと思っていたら、その予想はスルリと外されてしまいました。

とりわけこの曲の大仰な叙情性は敢えて排除されたのか、印刷された音符の世界だけがパチャパチャとひろがる様は不思議です。視覚的には、いかにも演奏に集中し、作品からさまざまなことを感じているといった顔の表情とか、いかにもな両腕を上に上げたりとかのモーションであるのに、聴こえてくる音はというと、驚くほどあっけらかんとした無機質なもので、そのビジュアルと音の差にも戸惑ってしまいます。

そうかと思うと、ところどころで盛大に間をとって「ほら、こんなふうに繊細で大切にすべき箇所ではちゃんと一音一音いつくしむようにやっているでしょう?」といった表現もあるけれど、全体と細部が照応せず、辻褄がまるきり合っていないという印象でした。

いっぽう音楽的に要所と思える部分では、えらくスイスイと素通りしてしまうなど、マロニエ君にはおよそ理解のできない演奏のように聞こえるばかりでした。
それでも、音が自分の好みなら、そちらにだけ耳を傾けるという方法もありますが、それは冒頭に書いたとおりで、要するに何もかもがよくわからないまま終わってしまいました。
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かかわらない

いまどきだなぁ…と思ったこと。

スーパーに行ってレジで並んでいると、どこからともなく何かを訴えているような男性の声がとぎれとぎれに聞こえてきました。
おさまったかと思うとまた聞こえてくるので、あたりを見回してみると、3列ほど左のレジで、やや高齢とおぼしき男性がレジ係の女性に向かってしきりに何か抗議をしているようでした。

スーパーの喧騒の中なので、内容はまったく聞き取れないのでわかりませんが、どうやら何かに憤慨のご様子で、ずっとその女性に訴えていますが、ときどき頷く程度で、ほとんど対応らしい対応はせずに、手先は商品のバーコードを読み取る作業だけが休みなく続けられています。
強いて言うなら、非常にソフトな方法で無視しているといったほうがいいような感じです。

まわりを見ると、男女あわせて5、6人はいた従業員は皆そのことに気がついているようで、表情は皆平静を装っていますが、どこか固まったような表情で各自作業をしながら成り行きを耳で追っているといった感じでした。

そんな折、マロニエ君も自分の買い物のレジがはじまりましたが、その間もその男性はずっと文句を言っており、ときおりその口調には激しさが加わりました。

そこへ、溜まってきたカゴを回収にきた男性が、作業をしながらレジ係にそっと耳打ちしました。
するとそのレジ係は無言のままちょっとだけ後ろを振り向いて、男性の方へ視線をやりましたが、すぐにまた仕事に復帰。

レジを担当している人はともかく、それ以外の作業をしている人(とくに男性)は、ちょっと向こうの対応の加勢に行ってやったらどうかと思うのですが、しだいに激しい口調で文句を言われる女性のレジ係はというと、たったひとりで硬直した表情のまま、仕事の手だけが動いています。

抗議している男性は、その態度がまた気に入らないようで、何を言っても暖簾に腕押し状態であることがさらに怒りを増幅させるのか、怒りはいよいよ募っているようです。
このころになると周辺の人達はお客さんも、みんなそのただならぬ様子に気がついていたようですが、周囲の店員たちはまったく助け舟を出そうともしないのは、ある意味怒っている男性以上に異様な感じがして、これは何なのかと思いました。

今どきですから、あるいは男性客のほうが理不尽なクレームをつけているという可能性もあるでしょう。
言葉の内容が聞き取れないので、そのあたりのことはわかりませんが、仮に無茶な主張だとしても、近くでレジ以外の作業している男性などはちょっと割って入って収めてやったらどうかというのが率直な印象でした。
それでも、その男性は憤慨しながらも一定の買い物をして、レジを押し出され、次のお客の精算が始まったことでいちおう幕引きとなったようでした。

こんなことを書いちゃいけないかもしれませんが、もともとマロニエ君は根が不真面目で物見高いので、こういうトラブル事に野次馬として行きあわせるのは嫌いではありません。内心「もっとやれ!」ぐらいに思ってもすぐに収まってガッカリなんてこともしばしばです。一度など、とある店舗内で、若い男女のカップルが大ゲンカとなり、とりわけ女性が男性に猛烈な罵詈雑言をあびせて、男のほうがタジタジという場面に遭遇した時など、もう面白くて、できるだけいつまでも聞いていたいと思ったほどです。

そんなマロニエ君ですが、この光景はまるで後味がよくありませんでした。

おそらく店内の規定があって、そういう場合の取り決めもあり、それに沿った対応だったのかもしれませんが、なんであそこまでレジの女性を見捨てて、ひとりの応援も出て行かないのか、まったく不可解でした。
男性にしてみても、衆目の中でだれからも相手にされず、ただひとり恥をかいたという事実が残るのみ。

あれが今どきよくいわれる「オトナの対応」なのかと思うと、大いに首をひねるばかりです。
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ピアノは優等生

この夏の酷暑のせいで、人だけでなく、機械類まで不具合やトラブルが多発していることを前回書きました。

わけでも車は存外熱に弱く、暑さによって被る機械的ストレスは相当なものだと推察されます。
とりわけ熱害を受けるのは、プラスチックで出来たパーツだとか、ゴム系の素材で作られたホースやベルト関係で、日本の夏は車にとってもかなり過酷な使用環境であることは間違いありません。

車は一部の例外(100%趣味のための車)を除けば、通常は気候に関係なく、春夏秋冬全天候のもとで実用に供されなくてはならないという役目を生まれながらに持っていますが、現実はなかなか理想通りにはいかないようです。

だから完璧に実用品と割り切って、この点では図抜けた信頼性耐久性を誇る日本車に乗っていれば問題はないと思いますが、ここに少しでも感性を求めるとか趣味性を覚えてしまうと、多くの場合、輸入車や旧車など、つまり乗りっぱなしができない車が関心の対象になるわけです。
ヤマハ/カワイの新品より、ヴィンテージピアノに惹かれるようなものでしょう。

時代のせいで、輸入車といえども以前ほど虚弱体質ではなくなってきているのも事実ですが、それでも日本車にくらべればまだまだで、オーナーがボンネットなど一度も開けたこともなく、ただガソリンさえ入れていれば何事もなく走れるというところまでは到達していません。

輸入車でも、車検ごとに好みの新車に買い換えられるようなリッチな方ならあまり問題ないと思いますが、大半はそれなりの懐事情や各車へのこだわりなど、あれこれのいきさつから、手のかかる車を、手をかけながら乗り続けることになると、ここで悲喜劇が巻き起こり、精神的経済的にもかなりの出費や負担が否応なくのしかかります。

あまり比べてみたことはなかったのですが、あらためて考えてみると、クルマ趣味を経験した側から言わせてもらうと、同じ趣味でも、ピアノはなんだかんだいっても本当に手がかかりません。
手がかからないというのは、究極的には維持費がかからないということに言い換えてもいいかもしれません。

ピアノはどんなに細かい調整や整備をやってもらっても、しょせん車とは大変さの次元が違いますし、修理や整備にかかる料金もケタ違いに安いので、そういう意味でオーナーを翻弄しまくり、ときに地獄へ突き落としたりといった大迷惑をかけるとか、経済的苦境に陥れるということはまずないというのが実感です。
モノとしての寿命も次元が違い、長年の使用に耐え、経年変化も軽微。故障なんて無いに等しく、あってもたかが知れています。
よく中古ピアノで「1年間保証付き」などというものがありますが、ピアノで保証を適用するほどの深刻な故障なんてまず考えられませんが、中古車でそんな保証をした日には、場合によってはもう1台買うよりも高額な修理代なんてことはザラですから、売る側はとてもそんなことはしません。

というわけで、ピアノは近隣への騒音問題さえクリアできれば、これほど安全堅実な趣味もないというのがマロニエ君の意見です。せいぜい半年か年1回の調律や調整をやるだけでなんとかなるし、燃料も要らず、保険や税金もないわけで、考えてみたら夢みたいですね。

人間でいうなら、面倒などかけたこともない真面目な優等生と、いつも問題を起こしては騒動になる放蕩息子ぐらいの差があると思います。

でも、ピアノ趣味の人は意外にそのありがたさを知りません。
ピアノの人と話をしていると、わずかな調律代の差であるとか、少しこだわりのある人でも各調整や消耗品の交換と作業代にいくら掛かるかという問題には、かなり細かいシビアな心配をされ、いささか過剰では?と思うほど悩まれます。むろんそれはそれでわかるのですが、内心では「同じ好きなことでも、車の維持費・修理代にくらべたらアナタ、ものの数じゃありませんぜ!」とつい言いたくなってしまいます。

ピアノで最も大金を要するのはオーバーホールぐらいなものですが、それはよほどのことで、日本人のメンタリティからいうとそれぐらいするなら買い換えるほうに向かうようです。
買い換えるお金にはかなり寛大でも、修理や整備にかかる出費となると、一挙に財布の紐が固くなるというのが大方の日本人の感覚なのかもしれません。

日本にも、もう少し道具に対する修理や整備に対する価値観というか、いうなればモノと長く付き合う文化が根づいたら、精神的にももっと豊かになるような気がするのですが…。
京都の街並みの美しさは、ちょっと古くなったらすぐに壊して建て替えたほうが合理的というような、利便性とコスト優先の安直な発想からは決して生まれないものでしょう。
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酷暑の波紋

毎年同じようなことを書いているようですが、日本の夏の暑さはやはり厳しいです。

それも年々勢力を増していくようで、今年の猛暑といったらありませんでした。現在も終わったわけではないけれど、それでもお盆を境に、少しだけひと息ついたような気がします。

関東では明治以来の観測史上、連日猛暑の記録を更新したとも言っていたし、北海道でさえ35°とか36°という数値が記録されたというのだからもうたまりません。

今年だけのこととも思えず、今後はだいたいこんな感じの夏になるのかと考えるとげんなりします。

暑さのみならずおかしいのは、これまで台風は9月に入ってからのもので、これの心配をする頃には、やがて秋が近づいてくるというものでしたが、今年は2ヶ月前倒しで、梅雨の時期からいくつもの台風が列島をかすめたり横断したりと、やはりどう考えても昔とは気象条件も変わってきているようです。

これと連動しているんだろうなあと思われるのが、外気温度のみならず多湿もそれに伴って厳しいものになっているようで、マロニエ君宅の加湿器は一般の家庭用の中では大きい方なのですが、以前なら2日間で3回ぐらいの頻度で溜まった水を捨てていればよかったものが、今年は毎日確実に2度、どうかすると3度捨てる必要が出てきています。

さらには、以前なら湿度計の数値は50%切ることもちょくちょくありましたが、今年は一度もそれがなく、ずっと50%台に留まり、水を捨て忘れて少しでも除湿機が止まってると、たちまち60%台に突入してしまいます。

これでは、よほどピアノも調子が悪いかというと、実はそれほどでもなく、なんとなく毎日の環境に慣れているのか、そこそこ普通にしてくれているところをみると、やはり湿度の数値だけでなく、変化を最小限に留めて一定していることも大事だということがわかります。
それでもディアパソンはヤマハやカワイより湿度に敏感のようで、終日強い雨というような日にはあきらかに変化しており、良く言えばソフトというか、普段よりいくぶんまろやかになったり元に戻ったりを繰り返しているようです。

さて、高温多湿は楽器のみならず、いいことは差し当たり、ひとつもないようです。
マロニエ君のまわりでも、この気候のせいで体調を崩す人はひとりやふたりではないし、とくに呼吸器系の疾患には悪影響があるようで、ある意味、冬場よりも体調管理にはナーバスにならざるを得ないんだなあと思いました。

機械類も例外ではなく、車の故障なども自他共に相次ぎました。
とくにこの季節でやられるのは電気系統で、エアコンの酷使や渋滞によってエンジンルームは凄まじい熱にさらされ、そこからあれこれのトラブルが発生するようです。
エアコンはじめエンジンの冷却ファンなどの多くの電装品も動きっぱなしとなり、電気の使いすぎでバッテリーがパンクすることも多く、仲間内で立ち往生の話はいくつもありました。
また、強い湿気によって点火系統にも悪影響があり、エンジンがかからないなどの不具合が出るようです。

ある人は早朝の通勤時間に何度もエンストして周囲の顰蹙を買うかと思えば、別の車で真夜中のメインストリートのど真ん中の車線で立ち往生。さらに別の知人は出先でセルモーターが回らなくなり、この炎天下で救援に4時間以上もかかったあげく車載車に乗せてディーラーに運ばれるなど、明日は我が身かと思っていたら、なんと現実に!
マロニエ君のフランス車もこのところかなり大掛かりな整備が完了し、差し当たりこれで一安心かと思っていたら、出先でエンジンがかからないという現象が起こり(そのうちかかる)、これを何度か繰り返すので、すっかりビビってしまい乗るのを止めました。

ほうぼうに意見を求めた結果、どうやらセルモーターの劣化ということらしく、まだなんとかエンジンがかかるうちに自宅ガレージに戻っておかないと、出先で寿命が尽きれば、その手間と苦痛は大変なものになります。
おまけにヘンテコな古いフランス車ともなると、部品ひとつも右から左には手に入りません。

というわけで6月から部品待ちで1ヶ月半おやすみしていた我が愛車は、7月終わりから8月はじめの一週間ほどを走ったのち、ふたたび「運航停止状態」となりました。

むろん今回もあれこれパーツの発注をしてなんとか揃ったものの、今度はメカニックが超多忙の由で、再び動き出せるのはいつになることやら…。
その点じゃ、ピアノは故障なんてまずないし、どこか不具合があっても、それでまったく弾けないなんてことはないわけで、車目線で見れば楽なもんだとつくづく実感した次第。
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コンクールのピアノ

今年はチャイコフスキー・コンクールの開催年で、コンクール自体はすでに終了していますが、ネットで演奏動画を見ることができるとは、ありがたい時代になったものです。

むろん全部見るような時間も気力もなく、ちょこちょことかい摘んで見ただけですが、この手の動画と音声も年々精度がアップしているようで、2010年のショパン・コンクールなどに比べて格段の違いがあるように感じました。

カメラワークも巧みになり、鮮明な映像は容赦なくコンテスタントの至近距離へと迫り、指先の動き、吹き出す汗、果ては各人の肌質まで鮮明に見ることが出来るのは、ある意味で会場にいる人以上かもしれません。

音もよく捉えられており、個々のピアノの個性をつぶさに比較することができたのは、大いに収穫だったと思います。

ピアノはハンブルク・スタインウェイ、ヤマハ、カワイ、ファツィオリという最近のコンクールでは毎度お馴染みの4社。

実はこのような同一の条件下で代るがわるに聴いてみると、これまで抱いてきた印象も修正しなくてはならない部分が出てきたりして、自分なりにとても楽しく有益でした。

オープニングのガラ・コンサートで使われるピアノは、前回2011年の優勝者であるトリフォノフの意向によってファツィオリが使われたようですが、聞くところではスタインウェイ以外の3社は、コンクールのために選りすぐりの1台を最高の技術者とともに現地へ送り込んでくるらしいので、このようなメジャーコンクールのステージで鳴り響くピアノは(コンクール向きということはあるにせよ)基本的には各社の「最高」の音だと考えてもさほど間違いではないだろうと思われます。

ファツィオリに関しては自分なりにさらに理解が得られたといえば言葉が大げさですが、たとえばそのひとつは、このピアノは、そもそも美音は目指していないらしい…と思えること。
4台中、ファツィオリは最も音に馬力があるといえばそうかもしれないけれど、美しく澄んだ高級酒がグラスの中で揺らめくような音色ではなく、他社より粗っぽさが際立ちます。
このピアノは艶やかさ、格調高さ、清楚さといったものより、むしろ汗臭いぐらいのパンチが魅力なのかもしれません。

ファツィオリはイタリアという固定観念があるものだから、どうしてもあの国独特の美意識とか芸術の遺伝子のようなもの、すなわちイタリア的な要素を追い求めて聴こうとするのはマロニエ君だけではなかろうと思われます。しかし、それが却ってこのピアノを判りづらくしてきたのかもしれず、こうしてモスクワ音楽院のステージに置かれ、ロシア人によって奏されるその音を聴くと、豪快を旨とするスタミナ系ピアノだと考えると腑に落ちます。

これに対して、以前ファツィオリとヤマハはどこか通じるものがあるというような意味の印象を記した記憶がありますが、直接比較してみるとずいぶん違っていることにびっくりしました。
ひとつには、ヤマハの音の方向性が従来のものとはかなり変わってきているようでもあり、すでにCFXでさえ、出始めの頃のリリックなテノール歌手みたいな音ではなく、やたらと倍音が嵩んだ、むしろ輪郭に乏しい音になっていはしまいかと思います。
いろいろな味付けが過剰で、結果ミックスジュースみたいになってしまったのかもしれません。

それに較べるとカワイはずっとピアノらしさが残っているようで、まだしも正直なピアノだと思いました。…とはいうものの、あまりに洗練を欠いた音色で、いささか野暮ったく、もう少しどうにかならないものかと思ったことも事実。
それでも一点光るものとか、何か突き抜けた特徴があればいいのでしょうが、要するにカワイでなくてはならない積極的理由がなく、どうしても主役を張れない名脇役みたいなものでしょうか。

こうやって比べて聴いてみると、日頃は不満タラタラで、「もうだめだ」「終わった」と嘆息するばかりのスタインウェイが、やっぱり勝負の場になるとハッキリ優れている点は瞠目させられました。
まずなんといっても、その音は明らかに美しさと気品があり、メリハリがあって雄弁でした。弾かれた音が音楽として収束されていく様子は、やはりこのメーカーが長年一人勝ちをしてきたことが、けっして不当なことではなかったということを証明しているようでした。

以前のような他を寄せ付けない孤高のピアノではないにしても、相対的には依然として最高ブランドの地位を守っていることに、納得という言葉はあまり適当ではないとしても、でも、そういうことなんだという事実はわかった気がしました。

それを反映してか、はたまた別の理由なのか、真相はわかりませんが、今回はヤマハ、カワイ、ファツィオリの出番はずいぶんと少なかった感じでした。
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違和感

ほんらい、このブログで書くべき内容ではないと思いますが、少しだけ感じたところを。

8月6日と9日は、テレビはどの局を見ても、トップは「原爆投下から70年」関連のニュースで埋め尽くされています。

しかもその内容は、いずれも「原爆の恐ろしさ」「悲惨さ」「命の大切さ」「二度とあやまちを繰り返さない」「忘れてはならない」「語り継ぐ」といったような言葉であふれかえり、我々日本人は毎年この日この時期になると、一斉に広島と長崎に向かって罪を悔い、国民全員が懺悔をしなくてはいけないかのごとき重い空気が堂々と流れます。

…少なくともテレビではそうなっています。

でも、この二ヶ所に原爆を落としたのはアメリカであり、罪を悔い懺悔をすべきはあちらのはずで、日本は被害者だという厳然たる事実が、長い時をかけながら骨抜きになっているように思います。
日本が被爆国という立場から原爆の恐ろしさを訴えるのであれば、国内より核保有国に向けておこなうべきでは…。しかるに原爆の罪の源流が、まるで日本側にあるかのような文脈は、とうてい受け容れることはできません。

「原爆投下は国際法違反」という意見もあるほどで、そこには落とした方と落とされた方は雲泥の差があるはずだと思います。だからといって、どこぞの国のように際限のない謝罪要求などすべきとも思いませんし、いまさら友好国であるアメリカを責め立てろとは思いません。が、少なくとも、毎年この時期になるといつも何かボタンを掛け違えているような空気に違和感を覚えます。

アメリカは謝罪はおろか、大統領が一度でも両都市を訪問したこともなく、駐日アメリカ大使のキャロライン・ケネディなどVIPのお客さんみたい。

なぜ日本のマスコミは、原爆の悲劇についてまで、その罪科がつまるところ日本人にあるかのごとくねちねちと言い立てるのでしょう。
少なくとも、他国では絶対にあり得ないであろう、不可解な現象ではないでしょうか。

無辜の民間人が住み暮らす、空爆などしていない無傷の都市を敢えて選び出し、ためらいなく原爆投下という蛮行をやってのけたのは、まぎれもなくアメリカであるという事実を、みんな知識として知っているのに、意識として忘れているように感じるのです。

いつまでも憎悪の念をもたないという点では日本人の奥ゆかしさだとも言えるでしょう。でも、それがいつしか原爆の災禍までもが日本人の犯した過ち故といった色合いが、日本人の手によって作られて、それが世相の中央を闊歩するのはどうにも共感できません。

以前、何かの本で読んだことがありますが、広島の平和記念公園に行くと、石碑に『安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから』という文字が刻まれ、ここには主語がなく、あたかも日本人の過ちによって、もしくは日本の犯した罪の報いとして、原爆の悲劇を招いたかのようなニュアンスになっていると記されていたことを思い出しました。

終戦70周年を迎えて、一連の報道は、いまだにその路線を踏襲したものだということがあらためてわかりました。
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最善をつくすか

BSプレミアムシアターで佐渡裕の振ったコンサートが二本、続けて放映されました。
ひとつ目は先般書いたトーンキュンストラー管弦楽団への音楽監督就任を記念した野外コンサート、もう一つがパリのサル・プレイエルで行われたパリ管の演奏会でした。

こちらでは、ベレゾフスキーをソリストとしたラフマニノフのパガニーニ狂詩曲が演奏されました。
ベレゾフスキーは見るからにロシア男といった感じの大柄なピアニストで、それにふさわしい余裕あるスタミナとテクニックをもっているようですが、彼のピアノは粗さも目立ち、演奏家として作品の隅々まで熟考を重ね、細心の注意を張り巡らすといったことが苦手なのだろうと見るたびに思います。

彼が「オレは弾きたいように弾くだけ、それ以上のことはしたくない」と思っているのかどうかわからないし、実際の彼の心中がどのようなものであるのかは知るよしもないけれど、すくなくとも彼のピアノを聴くたびにそういったメッセージを送りつけられているような気がしてしまうことは毎度のことです。

まず、いつもながらの早すぎるスピード。ネット動画で見るロシア人の荒っぽい運転さながら、テンポをきちんと守ることさえ面倒くさそうで、作品に込められた作曲者のあれこれの工夫や聴かせどころなど、オレの知ったことか!とばかりにガーッとアクセル踏んでぶっ飛ばしていくようで、だからこの人のピアノで作品の内奥を覗き見るような経験はまったく望めません。

不思議なのは、ベレゾフスキーというピアニストには、あれだけの技術と体格があるのに、音はいつも平坦で薄く、楽器を鳴らしきることができないのはどうしてなんだろうかと思います。
かつてのロシアピアニズムのような、重量の伴った「こってりした豪快」ではないし、出てくる音にも不思議なほど「音圧」がないのがこの人の特徴のように思います。

意外なのは、全体のマッチョなイメージとは裏腹に、服の袖口からでたその手は、どっちらかというと女性的なぷわんとしたもので、台所用のゴム手袋に水を入れたみたいで、これが彼の出す音色に関係しているのだろうかとも思いますが、よくわかりません。

それでも、このときはパリのサル・プレイエルであるし、収録のカメラも入ったコンサートということで気が締まったのか、これまで見た中では明らかにキチンとしたものだったように見受けられました。つまりベレゾフスキーなりに襟を正し最善をつくした演奏だったようには感じられました。いちおう。
むろん、ピアニストとて生身の人間ですから出来不出来もあれば、ノリの良さ、気合の入れ方にも差があるのはわかりますが、どうも日本での演奏は、おおむね緊張感を欠いたものが多すぎるように思います。


ここから先はあくまで一般論ですが、ラ・フォル・ジュルネのようなコンサートの大量販売会とでもいうべき環境下で、次から次へとポンポン弾かなくてはならない場合は知らないけれども、平生からステージに立つ機会が多い人の中には、通常のコンサートでもしだいに慢心するのか、本気の演奏をなかなかしなくなり、あきらかに手抜き演奏でお茶を濁していることが少なくありません。
もちろん「一部の人」という限定はしておくべきですが。

マロニエ君がいやなのは、品位のないレベルの低い演奏はもちろんですが、出来る人が、あきらかに最善を尽くしているとは思えないような演奏に接するときです。
そんなとき、ただもう無性に不愉快で、馬鹿にされたようでもあるし、人間のいやなところを見せられてしまったようで、実際の演奏会はもちろん、テレビでみる演奏でもその不快感は拭い去れません。

日本人ピアニストの中にも、ちょっと有名になると売れっ子気分になるのか、ほとんど練習らしい練習もしないですむようなポピュラーな名曲ばかり携えて、あちこち飛び回っているような人もあるようで、こういう人の演奏スタンスは聴くに値しないばかりか、本当に実力あるピアニストのステージチャンスすら間接的に奪っていると思います。

演奏というのは表現行為であり、そこには怖いくらい本人の人柄や気構え、折々の心理やテンションが浮き出るもの。生まれて初めてピアノのコンサートに来たという人ならともかく、そこそこの数を聴いていれば一目瞭然です。

いわゆるミスタッチは少くても、聴衆を甘く見たような演奏をすることは、演技的な表情をうかべてキレイ事を言うのと同じことで、表立ってクレームが付けられないぶん、その罪は深いと思います。
こういうことの膨大なる集積も、コンサート離れの一因だとマロニエ君は思うのです。
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三つのヴァイオリン

クラシック倶楽部で堀米ゆず子のヴァイオリンを聴きました。
ブラームスのヴァイオリン・ソナタ第3番と、バッハの無伴奏パルティータ第2番など。

昔から、この人は知名度のわりには「らしさ」がどこなのかがよくわからず、ただきちんと弾く人というイメージばかり先行していました。とりたてて独自の演奏表現だとか、ものすごい技巧というわけでもなく、なにもかもが中庸という感じで、むかしエリザベートコンクールで優勝したということが長らく一枚看板になっているという印象でした。

ブラームスはやはりそんな印象そのままで、悪くもないけれど、ここがすばらしいというポイントも見い出せない、今どきの有名演奏家ならこの程度は弾くだろう…という範囲に留まった気がしました。

ちゃんと準備をして弾いているのだろうけど、全体に四角四面な印象で、もう少し情の深さとかしなやかさがあればと個人的には思います。バッハでも基本的には同じ印象ですが、こちらのほうが一段とテンションが高いようで、そのぶん、聴き応えみたいなものは勝っていました。

このパルティータは最後にあの有名長大なシャコンヌを抱えており、演奏するのも並大抵ではないと思われますが、堀米さんはしゃにむに一気に弾いたという感じが残り、呼吸感がないのは本人はもとより聴く側も疲れるので非常に気になるところでした。
でもやっぱりバッハにはいまさらながら圧倒されてしまったのも事実です。


そのまま、先日の日曜夜中にやっていたBSプレミアムシアターをみると、佐渡裕がトーンキュンストラー管弦楽団の音楽監督になったとかで、そのガラ・コンサートが野外コンサートとして行われた様子を早送りしながら見ました。

そもそもトーンキュンストラー管弦楽団なんて聞いたこともなく、佐渡さんの演奏もあまり好みではないので、そのあたりの事情はまったく知らなかったのですが、どうやらオーストリアのオーケストラのようでした。
ガラ・コンサートということで、あまりにベタな名曲集になるのは日本以上では?と思いつつ、ここにヴァイオリンのソリストとして登場したのがユリア・フィッシャーでした。サラサーテの「カルメン幻想曲」を聴いただけで、まったく苦手なタイプの演奏だとわかり、二度目の登場で弾く「序奏とタランテラ」まで見てみる意欲は失ってしまいました。

ここまでやるかという、これ見よがしの技巧露出のオンパレードで、いやしくも音楽の都であるウィーンを擁するこの国で、あんな演奏が受容されるのかとびっくりです。
ユリア・フィッシャーはヴァイオリンとピアノの両方が弾ける異才の持ち主として楽壇に出てきた女性で、マロニエ君も1枚だけCDを持っています。シューベルトのふたつの幻想曲、すなわちヴァイオリンとピアノのD934、ピアノ連弾のD940、いずれも大変な作品ですが、彼女はD934ではヴァイオリンを弾き、D940ではピアノを弾くといったことをやっています。

CDでは、よほどよそ行きの演奏だったのか、とくにどうということもない「あそう」というだけの演奏でしたが、まさかステージであんな演奏をする人とは思ってもみませんでした。破廉恥すれすれな衣装にもびっくり。


このまま終わっても気が滅入るだけなので、さらにクラシック倶楽部にもどって、かなり前の録画でほったらかしにしていた『長原幸太☓田村響 デュオ・リサイタル』を見てみることに。
…すると、これが思いがけなくおもしろい演奏でした。

曲はコルンゴルトの「から騒ぎ」、ミルシテインのパガニーニアーナ、ヤナーチェクのヴァイオリンソナタなど。

長原幸太氏のヴァイオリンは初めて聴くもので、必ずしもそのセンスに賛同するわけでもなく、やや才気走ったところなども見受けられましたが、いわゆる優等生的完璧を狙う人ではないようで、演奏している瞬間瞬間の反応だとか、沸き起こるような迫真力がある点は、思わず引きつけられてしまいました。

多くの場合、近ごろは演奏に対するスタンスもほぼ似通っており、先がどうなるかすぐ見えてしまうような安易なカタチだけの演奏が多い中、まったくそれがなく、現場での刺激やひらめきを積み上げていくタイプの演奏。今そこで弾かれて出てくる音そのものが音楽を作っていくという魅力、次がどう来るんだろうというワクワク感のようなものがあり、聴いていて少しも飽きませんでした。

なかでもヤナーチェクのソナタは久しぶりに聴いた気がしましたが、むしろまったく新鮮な印象で、こんなに面白い曲ということを気付かせてくれたということは…やっぱり「いい演奏」なんだと思います。
楽器もとても魅力的な音で、後でわかったことですがアマティだそうで、なるほどと納得してしまいました。
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続・便利の不便

前回「便利の不便」という事を書くつもりが、すこし変な方向に流れてしまったので続きを。

自動車の世界では、近ごろ当たり前になりつつある電子ずくめの制御および操作系は、車を運転するという人の生理の延長上にある行為を、おおいに阻害しているというべきです。
ブレーキなども年々オーバーサーボ(ちょっと踏んでもグワッとブレーキが効きすぎる)になり、スムースかつナチュラルな操作をするにはかなり繊細な操作を要求しますが、これなどは小柄な女性や高齢者であっても充分なパニックブレーキが得られるための「安全対策」だということになっているようです。

カーナビもどこか乙にすました純正品より、市販の後付のもののほうが、誰がなんと云おうと圧倒的に使いやすいのは紛れもない事実。
いくつもの機能をひとつのモニターに適宜表示させるなど、いかにも手際よく取りまとめられたかに思える現代の車は、肝心の点、つまりそれを使う人間の心地よさというものが二の次になっていると思われ、これは技術の進歩による明らかな操作性の後退であり、ひいてはドライバーのためのコンフォート性の低下ではないのかと感じます。

スタイリッシュなデザインの中に流し込まれた標準装着のナビゲーションはじめ、TV、電話、オーディオ、さらには車の出力特性やハンドリング/シフトタイミングなどを変化させる電子的機能が、センターコンソールのボタン群を中心にモニターを見ながら複雑かつ多層的な操作を要求するようになっていて、必要な項目を呼び出すだけでも一仕事というのはいかがなものか。さらにその横には指先で字を書くようになっているパッドのようなものであって、うっかり触れても思わぬ機能が反応したりと、もうなにがなんだかさっぱりです。

わけてもカーナビの使いにくさは並大抵ではなく、よほど使い慣れたタッチパネルのゴリラでも別につけようかと本気で思ったのですが、せり出してくる純正ナビがじゃまになって、どう見ても取り付ける場所がなく、この作戦は断念することに。

ほかにも前後左右に衝突の危険を知らせるためのセンサーが仕込まれており、これがまた車庫入れの時などピーピープープーと盛大な警告音がして、却って思い通りの駐車ができないのです。そもそもバックカメラなんて見ながら車庫入れするほうがよほど難しいのでは? 助手席の背後に手を回して後ろを向いてガーッとバックするのが早いし爽快だし運転技術も上がるというもの。

ハンドルにも正体不明のスイッチが居並び、しかも切り替えによってひとつのスイッチが何通りもの役を兼ねており、なんでたかだか車に乗るのにこんなややこしいものに取り囲まれなきゃいけないのかと、ふとばかばかしいような気になります。
とりわけ興ざめだったのは、せっかく気持よく音楽を聴いているのに、どうでもいいような交通情報とか「この先の交差点には右折専用車線があります」といった無意味なことを次々にしゃべり続け、しかもそのつど音楽は強制的にトーンダウンさせられるので、もう曲の流れはズタズタで、腹立たしいといったらありません。

ついに堪忍袋の緒が切れ、それらはディーラーに相談したら、「設定」の操作によって「黙らせる」ことにめでたく成功しましたが、中にはキャンセル出来ない機構というのもあるのが困ります。たとえばアイドリングストップは、機械の判断だけで信号停車中などで突如エンジンが止まってしまいます。
省エネは大事だけど、信号や渋滞のたびにいちいち強制的にエンジンが止められるのはどうしても嫌なのです。いちおう「アイドリングストップを機能させないボタン」というのはあるにはあるけれど、これは一度エンジンを切れば解除されるようになっていて、乗るたびに毎回このボタンを押さなくてはならず、忘れていたらすかさずエンジンはプツンと停止。

マロニエ君自身がそういう新機構にスッと馴染みきれないタイプだということはあるとしても、どうも最近の機械は「使う人」を中心にした思想が希薄で、多機能とスタイリッシュだけが宣伝効果としてカタログを飾り立てているような気がします。
その点では昔のメルセデスなどは、本当に人間中心の骨太の哲学が貫かれた車だったと思います。


不満ばかりを書き連ねましたが、もちろん良くなっている点もあるのは事実です。
たとえばこの車は通常のオートマティックではなく、Sトロニックという自動クラッチによる変速機構を持っています。簡単に言うとマニュアルトランスミッションのクラッチ操作を機械がやってくれるというもので、そのぶんアクセルワークにたいしてパワーがダイレクトに乗ってきます。

しかも繋がりは驚くほどスムースかつ瞬時に行われ、トルコン式のオートマやCVTはどれほどよくできたものでも、一定のロスがあることがわかります。さらに7段ものギアを千変万化させながら駆使するので、ダッシュもやたらと力強く、燃費にも優れているようで、たしかにこういうところは技術の進歩を痛感させられるところです。
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