もうひとつの戦い

NHKのBS1で『もうひとつのショパンコンクール〜ピアノ調律師たちの闘い〜』が放送されました。

これまでコンクールのドキュメントというと、演奏者側にフォーカスするのが常道で、コンクールにかける意気込みやバックステージの様子など、悲喜こもごもの人生模様を密着取材するものと相場が決まっていました。

ところが、今回は公式ピアノとして楽器を提供するピアノメーカーおよび調律師に密着するという、視点を変えたドキュメントである点が最大の特徴で、途中10分間のニュースを挟んで、実質100分に及ぶ大きなドキュメンタリーでしたから、その規模と内容からみて、これまでには(ほとんど)なかったものではなかったかと思います。

テレビ番組の情報などに疎いマロニエ君は、だいたいいつも、後から気が付くなり人から聞くなりしてガッカリなのですが、今回はたまたま当日の新聞で気がついたおかげで、あやうく見逃さずに済みました。
こんな珍しい番組を見せないのもあんまり可哀想なので、今回ぐらい教えてやるかというピアノの神様のお計らいだったのかもしれません。

前半は主にファツィオリとカワイ、後半はヤマハが中心になっていて、スタインウェイは必要に応じて最小限出てくるだけでしたが、とくにスタインウェイ以外の調律師が全員日本人というのも注目すべき点だろうと思います。

ヤマハとカワイは日本のピアノだから日本人調律師が当たり前のようにも思いますが、だったらファツィオリはイタリア人調律師のはずであるし、もし本当に必要ならヤマハもカワイも外国人技術者を雇うのかもしれません。それだけ、日本人の調律師がいかに優秀であるかをこの現実が如実に物語っているとマロニエ君は解釈しています。

さて、近年あちこちのコンクールでも健闘している由のファツィオリは、今回のショパンコンクールでは戦略の誤り(と言いたくはないけれど)から弾く人はたったの一人だけ、しかも一次で敗退するという結果でしたが、現在のファツィオリを支える越智さんの奮闘ぶりが窺えるものでした。

ショパンにふさわしい温かな深みのある音作りをしたことが裏目に出てしまい、ほかの三社がパンパン音の出るブリリアント系の音と軽いタッチであったことから、ピアノ選びでは皆がそっちに流れてしまいます。そこで、急遽派手めの音を出すアクションに差し替えることで、限られた時間内にピアノの性格を修正しますが、時すでに遅しといった状況でした。
しかし、よく頑張られたと思いました。

カワイは小宮山さんというベテランの技術者が取り仕切っておられ、ピアノの調整管理以外にも演奏者へのメンタル面のケアまで、幅広いお世話をひたすら献身的にされていたのが印象的でした。フィルハーモニーホール内には通称「カワイ食堂」といわれるお茶やおやつのある小部屋まで準備されており、そこはコンクールの喧騒から逃げ込むことのできる、安らぎの空間なんだとか。

しかし一次、二次、三次、本選と進む中、最後の本選でカワイを弾く人はいなくなり、そこからはヤマハとスタインウェイ2社の戦いとなります。

ファツィオリの越智さん、カワイの小宮山さん いずれも技術者であり楽器を中心とするこじんまりとした陣営で奮闘しておられたのに対し、ヤマハはまるで印象が異なりました。
ヤマハは人員の数からして遥かに多く、見るからに勝つことにこだわる企業戦士といった雰囲気が漂います。
まさにショパンコンクールでヤマハのピアノを勝たせるための精鋭軍団という感じで、周到綿密な準備と、水も漏らさぬ体制で挑んでいるのでしょう。

各メーカーいずれも真剣勝負であることはもちろんですが、その中でもヤマハの人達の独特な戦士ぶりは際立っており、ときにテレビ画面からでさえ言い知れぬ圧力を感じるほどで、こういう一種独特なエネルギーが今日の世界に冠たるヤマハを作り上げたのかとも思います。

ファツィオリも、カワイも、各々コンテスタントのための練習用の場所とピアノなどを準備はしていましたが、ヤマハはまず参加者(78人)が宿泊するホテルの全室に、80台の電子ピアノを貸出しするなど、ひゃあ!という感じでした。
また、いついかなるときも、ヤマハのスタッフは統制的に動いており、カメラに向かって言葉を選びながらコメントする人から、何かというと必死にメモばかり取っている人など、組織力がずば抜けていることもよくわかりました。

ステージ上でも、何人ものスーツ姿の男性達がわっとピアノを取り囲んでしきりになにかやっている光景は、一人で黙々と仕事をする調律師のあの孤独でストイックな光景ではなく、まるで最先端のハイテクマシンのメンテナンス集団みたいでした。

はじめは本戦出場の10人中3人がスタインウェイ、7人がヤマハということでしたが、直前になって2人がスタインウェイへとピアノを変えたことで5対5となり、優勝したチョ・ソンジンが弾いたのはスタインウェイでした。

大相撲で「気がつけば白鵬の優勝…」というフレーズが解説によく出てきますが、気がつけばスタインウェイで今年のショパンコンクールは終わったというところでしょうか。

それにしても、コンテスタントはもちろん、ピアノメーカーも途方もないエネルギーをつぎ込んでコンクールに挑んでいるわけで、それを見るだけであれこれ言っていられる野次馬は、なんと気楽なものかと我ながら思いつつ、番組終了時には深いため息が出るばかりでした。
いずれにしても、とても面白い番組でした。
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さらにひと手間

タッチが軽く生まれ変わったディアパソンでしたが、喜びもつかの間、想定外の変化が待っていました。

本当に軽くてごきげんな状態にあったのは、厳密にいうとはじめの一日のみで、その後は弾くにつれ、時間が経つにつれ、しだいにまたも粘りのようなものが出てきて、ちょっと様子がおかしくなってきたのです。
「ん?」とは思っているうち、数日後にはあきらかに状態が変わっていることを認識せざるを得ないまでの状態に後退してしまいました。

かといって、完全に昔のタッチに戻ったわけではないものの、軽やかさは潮が引くがごとくみるみる失われてしまったのは事実でした。ダウンウェイトを量るとおしなべて数グラム増加しており、やはりなんらかの変化が起きているようです。
ちなみにダウンウェイトを量る錘は、このピアノをOHしてくださった技術者さんが昔プレゼントしてくださったもので、こういうものがあると、なにかと重宝します。

さっそくBさんに報告すると、すぐに様子を見てくださることに。
果たして、ほぼ全域にわたって粘りのようなものがでているのは、キーを触るなり確認・同意され、さっそく再調整がはじまります。

概ねの見立ては次のようなものでした。

キャプスタンと接するウィペンのヒール部分のフェルトが、キャプスタン位置の修正によって、これまで接触していなかった毛羽立った弾力のあるフェルトの一部を含んでいたため、そこが使われ始めたことで短時間で凹んでしまい、結果的に打弦距離が伸びるなどして変化を起こしたのではないかということですが、あくまで推測の域を出ず断定ではありません。

結局、打弦距離などはたらきと言われる部分の再調整などをあれこれされたようです。

で、3度目の正直ではないですが、再び軽快なタッチを取り戻し、それから一週間ほど経ちますが、今度はとても落ち着いているようです。

タッチも音色も整ったことで、現在はとてもまとまりのあるピアノになりました。
ダイナミックでもゴージャスでもない、むしろ渋みのある控えめな音ですが、これまでが音色がバラバラでまとまらないイメージもあるディアパソンでしたので、いまはかなり端正なフリをして取り澄ましているようにも見えます。

細かい点をあげつらえばキリがないけれど、いちおうの完成形にかなり近づいたと思います。
これでもマロニエ君はあまり深追いはしない質なので、とりあえず満足ですし、やはりBさんのお仕事は見事だと思います。

それにしても、ピアノのタッチというものは、いまさらながら繊細精妙な領域で、各部のフェルトのわずかな馴染みひとつでも全体のタッチ感に思わぬ影響があるなどは驚きでした。
こういう経験は、日常のあれこれの場面においてもものを見る目が変わるようで、たとえば料理でも、素材の切り方、わずかな火加減、調味料のほんのひとふりでたちまち味は変わり、ひいては全体の印象を左右するということにも繋がるような気がします。


さて、昨夜は車仲間のお茶会があり、まったく同じ型の車でも、わずかな製造年の違いなどによって、微妙な、しかし明らかな乗り味の違いがあるのはなぜかということが話題になりました。
その中で一人が言うには、設計からスペック、タイヤやホイールのサイズまでまったく同一であっても、例えばホイール(アルミ)のデザインが違うことで、アルミ素材の違いがあったり、形状の違いから回転時の質量のバランスが微妙に違う、あるいはそもそも重さが僅かでも違えば、それは即ハンドリングや乗り味に影響する可能性があるというのです。

車のバネ下重量(サスペンションに取り付けられるタイヤやブレーキ装置などの重さ)は、一説によれば車体側の重量の15倍に匹敵するといわれており、これはピアノのハンマーの重量が、鍵盤側では5倍に増幅されるのと似ています。やはりすべての複雑で精密な機構というものは、わずかの違いや変化が、思いもよらぬ結果となって現れることは「ある」ようです。

ディアパソンに話を戻すと、タッチの問題なども考慮していることもあって、現在はどちらかというとこじんまりとした穏やかなピアノになっていますが、奥行き210cmのピアノという点からいうなら、もうひとつ腹に響くものが足りていないようにも感じます。
しかし、ディアパソンの醍醐味は、変な色付けのされていない、素材そのものの味を味わう料理のようなものだと思います。それをいうなら、果たして使われた素材がどれほどのものかという疑問もあり、いうまでもなくこのピアノは高級品ではありません。

それでも、現代のピアノが化学調味料満載の味付けによる、コンビニスイーツみたいな設計された味だとすると、ディアパソンには化学によるトリックはなく、素朴で普及品なりの本物であることは間違いなく、だからこそ気持ちがホッとさせられるピアノなのだろうと思います。
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ショパンの本

書店で『ショパンの本 DVD付』というのが目に止まりました。
これは音楽之友社から出ているムックで、この手はどちらかというとあまりそそられないマロニエ君ですが、今回はパラパラやって読んでみたい気になり買ってみることに。

ちなみに、ムックとはWikipediaによれば「雑誌と書籍を合わせた性格の刊行物で、magazineとbookの混成語、和製英語。」とあります。へええ。

本自体は、ショパンの生涯のダイジェストからはじまり、主要作品の解説、エディションや装飾音などについての記述など、ひとつひとつが深く掘り下げているわけではないけれど、ちょっと読むぶんにはそれなりに面白くできていると思います。
とりあえず半分ほど読んだところで、とくに印象に残ったのは矢代秋雄さんの「私のショパン」という文章で、ショパンをピアニズムや響きの美しさでばかり捉えるのは間違いで、その卓越した作曲技法や構成力のすばらしさ、対位法の手腕に高い価値を認める内容はさすがだと思いました。
言い古された安全な内容を、ただ並べ替えるだけのありふれた音楽評論家とはまったく違った、作曲家という創造者としての独自の視点と考えには、学ぶ点が多々ありました。

そうこうしているうちに、付属で綴じられたDVDがスムースにページを繰るにもじゃまになるし、その内容はどんなものだろうかと思い、読むのを一時中断してこっちを見てみることに。

果たしてピアニストの高橋多佳子さんによる演奏と、上記のショパンの一生のダイジェストをさらにダイジェストしたようなものの組み合わせで約60分の音と映像でした。

冒頭、ショパンの生家の写真を背景に初期のポロネーズが流れてきますが、そのピアノの音にぎょっとしてしまいました。かなりギラついた派手な感じの音で、ピアノは調整の仕方や演奏される環境によって音はかなり変わるものだとしても、まずスタインウェイとは思えないし、ベーゼンドルファーはさらに違う、ベヒシュタインのようなドイツ臭さもないし、むろんプレイエルでもない。
消去法でファツィオリか…とも思いましたが、残念ながらその短時間ではついにわかりませんでした。

で、そうこうしているうちにピアノごと演奏シーンが映しだされましたが、なんとそこにあるのはヤマハのCFXで「うわあ、そういうことか!」と思いました。なぜかヤマハというのはまったく念頭になかったので、答えを知ってみれば「なるほど」と思いましたが、あとからそんなことを言っても遅いですね。

善意に解釈すると、ショパンを意識した甘酸っぱい音作りがなされたのかもしれません。
戦前のプレイエルが、ふわっとやわらかな軽い響きの中で、一種独特の、腐敗しかけた果物のような甘い音を出し、それがショパンの音楽に見事にマッチングするのですが、しかしそういう複雑な音色とも違った印象でした。

さて、このDVDを見ていて、ふと目が釘付けになったことがありました。
カメラが鍵盤近くまで寄るシーンが何度かあり、ゆっくりした曲のときにそこで見えた鍵盤の動きです。

ヤマハのCFXなので必然的にピアノも新しいし、鍵盤は一分の隙もなく完璧な一直線に並んでおり、弾かれたキーだけがえらく従順に軽々と下にさがるかと思うと、指の力が抜けたとたん、一気にサッと元に戻ります。
これ、ごく当たり前のことを書いているようですが、その当たり前の動きをつぶさに観察していると、なんだか恐ろしいまでに磨きぬかれた、洗練の極致に達した精巧さというものの凄味をひしひしと感じずにはいられませんでした。

下に降りるときも、ただストンと下に落ちるのではなく、奏者の力加減を常に斟酌しながら、それが正確なタッチの動きとして反映されていて、まるで人間の指とキーのメカニズムがつながっているような動きと言ったらいいでしょうか。
さらに驚くべきは、返り=すなわち鍵盤が元の高さに復帰しようとする動きで、その際のこれ以上でも以下でもないというまさに適正な素早さといったら、見ているだけでほれぼれするような美しい動きで、「指に吸いつくような」とはまさにこういうことなんだと思いました。

マロニエ君はCFXは弾いたことはありませんが、視覚的にこれほど弾きやすそうな様子がこぼれ出ている映像は初めて見たような気がします。
これだけでもこの本を買った甲斐がありました。

音には好みなど主観の部分もあり、単純な優劣を決めるのは難しいものですが、その点でいうと、奏者の意のままになるアクションおよび鍵盤周りというのは、優劣の明快な領域ではないかと思います。
とりわけヤマハのアクションは、おそらく世界最高の精度を持つ逸品なのだろうとあらためて感じ入ったしだいで、ヤマハピアノを買うことの中には、ヤマハの優秀なアクションを手に入れるという意味も大きいのかもしれません。
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ショパンコンクールのピアノ

今年はショパン・コンクールの年だったにもかかわらず、詳しい日程などもよく知らないうちにコンクールは始まり、そして終わっていました。

ネットニュースで韓国のチョ・ソンジンが優勝というニュースを見るにおよんで、ああ彼か…と思うと同時に、ソンジンは日本でもかなりコンサートなどをやっていたこともあり、ショパンコンクールからまったく未知の新人が登場したという新鮮味もないのはいささか残念でもあります。
ですが、最近はすでにステージの経験も積んだセミプロのような同じ顔ぶれが著名コンクールを渡り歩くのが常のようでもあり、まあそういうところか…と思うことに。

終了しているのに今更という感じもありましたが、逐一配信されているはずの動画を探してみると、コンクールのホームページには行き当たったものの、最近はサイトの作りも大掛かりなわりに、単純に動画を見ることが意外に容易ではないようです。

こういうことの得意な人には雑作もないことかもしれないが、めっぽう苦手なマロニエ君にしてみれば、あれこれ苦労している間に興が削がれてきて、だんだんどうでもいいような気になってきたりで大変です。

コンクール自体が終了して、サイトの内容も日ごとに変わっているのどうかわかりませんが、あるとき、出場者と使用ピアノが記された表のようなものを見ることができました(もう一度見ようと思っても、もうわかりません)。それによると例の4社のピアノのうち、今年はヤマハとスタインウェイが大半を占め、カワイはほんの僅か、ファツィオリに至っては一人か二人で、後半の出番は皆無だったようです。

以前どこかのコンクールでは、ファツィオリに人気が集中したというようなことも聞きましたがが、今回はまた一転どうしたわけなのでしょう。

せめて限られた動画だけでも見てみようと、たまたまあった第1次で8人ぐらい出てくる4時間ちょっとの映像があったので、それをかい摘んで見てみました。果たしてそこに聴くヤマハ、スタインウェイ、カワイの順で出てきたピアノは、どれもかなりきわどい感じでマロニエ君の好みとは程遠いものでした。

共通しているのは、コンクール用の特別仕様なのか、やたらパンパン鳴るばかりで深みのない、どちらかというと電子ピアノ的な音で、とくにヤマハなどはいささか疲れてくる感じの音に聴こえますが、そのヤマハを選ぶ人がずいぶん多かったようです。
スタインウェイも似たような傾向で、キーを押せばたちまち会場内に鳴りまくるといった感じで、馥郁たる響きやタッチによる音色の妙などというものは感じられません。
カワイはそこにちょっと東欧的な郷愁のようなものがあるけれど、基本的には似た感じで、3台とも極限までチューンナップされたコンクール用マシンのようなイメージでした。
極端な話、コンクールの間だけ保てばいいというような考え方なのかもしれません。

こうなると、ファツィオリはどんな音だったのか、いちおう聴いてみたくなったものの、これがなかなかうまくいきません。

あれこれ探しているうちに、どなたかのブログに行き当たり、コンクールのピアノを担当した技術者にインタビューというのがあって、それを読んでいると、ファツィオリの有名な日本人技術者によれば、ショパンらしくあたたかい音に調整したアクションと、もうひとつチャイコフスキーコンクールで使ったアクションを準備していたところ、他社のピアノの傾向からショパン用のアクションは陽の目を見なかったというようなコメントが目に止まりました。

ピアノメーカーも戦いというのはわかりますし、出る以上は選ばれて弾かれないことにははじまらないのもわかります。でも、それがあまりに過熱してしまうと、それぞれのピアノの本来の持ち味というより、ショパンコンクール仕様の特別ピアノの戦いという限定枠バトルという感じで、そう割り切っておけばいいのかもしれませんが、なんとなくマロニエ君は釈然としないものも残ります。

もちろん企業たるもの、きれい事では立ち行かないのが世の常ですが、理想のピアノの追求というものとは、少し方向が違っているような印象を覚えます。むろん現地で聴けば素晴らしいものかもしれませんが。

気になったのは、あれだけ製品に自信満々だったファツィオリは、more powerをもとめて早くもフレームなどのモデルチェンジを敢行したとのことで、奇しくもマロニエ君がパワーピアノだと感じたチャイコフスキーコンクールでのファツィオリはそのニュータイプだったそうで、どうりでと納得でした。

コンサートグランドたるもの、大きなホールでオーケストラにも伍して使われるピアノなので、力強い鳴りというのもわかるけれれど、だんだんラグビー選手のようなマッチョピアノになっていくとしたら、個人的には嬉しいことではありません。

どんなピアノが選ばれるのか、どんなピアニストがどんな演奏で入賞するのか、どんな絵や小説が賞をとるのか、すべてはまず情報戦というか、それに特化した戦いの色合いを帯びてきているこの頃、やたらと先鋭化するばかりで、どうも素直に楽しめないものになってしまったようです。
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軽くなりました!

9月の中旬からスタートした調律師Bさんによるタッチの改善作業は早くも5回目を迎えました。

ピアノの調整というものは、やりだすと際限がないものですが、いちおうの山も見えてきたことでもあり、マロニエ君としては願わくはここらで一区切り(終りという意味ではなく、あくまでも区切り)をつけていただければと考えて、できれば整音と調律までやっていただきたいとお願いしてみました。

今回はキャプスタン位置修正後、未完となっていた調整作業の続きが第一の目的でしたが、このさい調律もしてもらって、いちどきれいに整った音で弾いてみたくなったのです。
その結果を含めながら先に進みたいという目論見です。

今回は約4時間ほどの作業となりましたが、その結果はというと、懸案であったタッチ改善は大成功で、長年背負ってきた荷を下ろしたように軽快になり、めでたくこのピアノのオーバーホール以来、最も弾きやすい均一なタッチを獲得するに至りました。

さらに整音と調律がなされたことで、これまでとはかなり違った表情をみせるピアノへと変貌し、ついにここまで来たか!と思うと、その長かった道のりは感慨もひとしおでした。

ダウンウェイトを計ってみると、概ね50g未満となっており、もはやスタインウェイ並の数値です。
もともと重い部類に属するディアパソンとしては、これは望外のものであるし、タッチの感触も軽快で、フレーズの終りなど手首を上へ抜いていくような局面でも、細やかにきちんと表現できるものになったことは予想以上でした。

なにより特筆大書すべきは、鍵盤の鉛調整であるとか、ハンマーを軽いものに交換もしくは整形によって軽くするなどの方法は一切とられていないという点です。
以前にも書いたように、ずれていたキャプスタンの位置を修正した以外は、ひたすら各部各所の調整によって達成されたもので、これはピアノの整調において、最もオーセンティックなやり方であったと思います。

マロニエ君は、Bさんの技術者としての思慮深さと、結果に対して尊敬と感謝の念を禁じえません。やはり中途半端に諦めてはいけないということであり、単に嬉しいだけでなく、いい勉強にもなったというのが率直なところです。

重く暑苦しいタッチに慣れてしまったためか、はじめは戸惑うほど楽々とキーが沈み、かつ速やかに元に戻ります。しかもpやppもなめらかでコントローラブルであることは、Bさんの技術の奥深さと技術者魂をまざまざと感じます。

軽くてもストンと一瞬で下に落ちてしまうタッチでは、強弱や音色のコントロールがしづらく楽しくありませんが、入力に対していかようにも反応してくれるタッチは、自分の体とアクションがダイレクトにつながっているみたいで、とくに装飾音などがきれいにキマってくれたりすると、弾いていて俄然楽しくなります。

実はマロニエ君は、以前にも経験があったのですが、冴えないタッチを改善するための策としては、特にこれという特効薬のような技法があるのではなく、セオリー通りのきちんとした調整を忍耐強く積み上げることによって、ようやく達成できるものということを理解したことがありました。
そうはいっても、ピアノの調整はプロの専門領域なので、技術者の方の判断こそが決め手となり、持ち主は何の手出しもできません。そのためにこういう難所を越えられないまま、ずっと弾きにくい状態が続いているピアノはものすごくたくさんあるはずです。

そういう意味では、ホールのピアノの保守点検などは、いわば調整領域のオーバーホールみたいなところを含んでいると思われ、これは確かに必要なんだということが痛感させられます。

我が家のディアパソンでは、結果として対症療法的な解決ばかりを探っていたのかもしれず、かくなる上はタッチレールというアシスト装置の取り付けすら考えていたわけで、今回は、そのタッチレールを取り付けるかどうかを判断する、最終確認という意味もあったので、きわどいところだったという気もします。

ではこれで終りかというと、どうでしょう…そうでもあるような…ないような、問題がないわけではないけれど、あまりそういうことにばかり気持ちが行っていると、一番大切な「ピアノを楽しむ」という部分が置き去りになってしまうので、しばらくはこの状態を楽しむべきだと思っているところです。

持ち主が楽しめば楽しむだけ、当人はむろんのこと、ピアノも幸せであるし、なにより技術者さんも腕をふるってくださった甲斐があるというものですから。
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『ピアノのムシ』3

『ピアノのムシ』の中に描かれているあれこれの内容は、多くのピアノ技術者および業界が抱える内なる心情が澱のように堆積していること、すなわちピアノを取り巻くの社会の恒常的不条理をマンガという手段を得て、おもしろおかしくフィクション化したものだと思います。

主人公の蛭田は、とてもではないけれど実社会では通用しそうにない不適合人物として描かれながらも、このマンガの中の真実を伝えるナビゲーターとして縦横に動き回ります。ここでの蛭田のワルキャラは、いわば意図された偽悪趣味なのであって、本当のワルはいずこやという点が、まるで対旋律のように流れており、これこそがこのマンガの核心であることは明白でしょう。

大手メーカーと小さな販売店の関係。あるいは販売店同士の戦い。
いたるところに見え隠れする卑怯で悪辣な手口。
ホールの官僚的な管理体制と、そこにつけこんで結託する指定業者の壁。
すべてを調律師のせいにするピアニストはじめピアノを弾く人達。
無理難題をサディスティックに押し付けてくる大メーカーや各関係者。
実力もないのに勘違いでピアノを弾くピアニスト。

いっぽうで、専門性を武器にお客にウソをも吹き込んで、無用の修理や買い替えを迫る技術者。
楽器の特質を知らず、却ってピアノをダメにしてしまう技術者。

とりわけお門違いの要求やクレームをつけてくる演奏者側のくだりは、マロニエ君も伝え聞いて知っていることも少くないし、いずこも同じらしいことを痛感させられます。

また調律師ばかりが被害者というのでもなく、これ自体もピンキリで、ピアノの修理に疎い客が、悪徳技術者に弄ばれることにも警鐘を鳴らしています。これをして「調律師と詐欺師は紙一重」だとまで言い切っているのは痛烈です。
調律師の個人的な悪行もあれば、メーカーの営業サイドの思惑を背負わされたケースもあり、まあどんな世界でも油断はできないということですね。

各場面で発射される蛭田の暴言の中には、実はとても聞き逃すことのできない、物事の深いところを突いた言葉が散見されます(具体的には書くのは控えますが)。
蛭田は、楽器メーカー、大手販売店、ホール、ピアノのユーザー、ピアニスト、ピアノ教師、さらには今どきの同業者など、ピアノ業界を生きていく上で避けては通れないもろもろの人物の大半を、一様に見下して軽蔑しているのでしょう。

しかも、それが本質においては勝手な決めつけではなく、蛭田の主張のほうがよほど常識的で、正当な根拠のある場合が多く、いちいちニヤリとさせられます。
それを蛭田というはみ出し者のキャラクター、さらには一見無謀な態度にかぶせながら、実はちゃっかり真実を語っているあたりは、なるほどマンガの世界にはこういう表現方法があるのかと感心してしまいます。

蛭田の痛烈な罵詈雑言の数々は、まともな技術者なら一度は言ってやりたい誘惑(衝動?)にかられる本音であり、場合によっては「叫び」なんだろうと思います。

蛭田には、調律師の国家資格もなければ、エメリッヒ(おそらくスタインウェイ)の認定技術者でもなく、調律師の協会すら所属していません。
肩書なんぞ「うそっぱち」というところでしょう。
実力ひとつで勝負しているまさに一匹狼というわけですが、その勝負にすら積極的ではなく、ほとんど世捨て人同然の生き方をする中で、唯一熱中するのが格闘技観戦というのもわかる気がします。
自分の身を置く世界には何ひとつ希望はないという諦観の表れかもしれません。

そういえば、マロニエ君の知る調律師さんの中にも、ピアノの音や響きには人一倍のこだわりがありながら、いわゆる群れをなさず、趣味はなんとボクシングという猛者がおられるのを思い出しました。
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うたかたの軽快

位置のズレたキャプスタンを調整するため、ディアパソンの鍵盤一式を持ち帰っていただいて1週間余、作業は無事に終わったとのことで、いよいよ「矯正」されて戻ってくる日を迎えました。

我が家は外の入り口から玄関まで階段があり、調律師さんと二人、これをエッサエッサと抱えて上まで登るのはなかなかに骨の折れる力仕事です。無事にピアノ前の椅子に置いて手を離したときは、両肩が上下するほど息遣いも荒くなりました。

近ごろは女性のコンサートチューナーも増えていると聞きますが、さらに奥行きのあるフルコン用の鍵盤一式を自在に動かせないとこの仕事はできないでしょうから、かなり大変だろうなあと思ったり。

さてさて、果たしてどんな結果になるか興味津々ですが、さすがにマロニエ君も、この領域は期待した通りに右から左に事が進むことはなかなかないことを自分なりに経験してきているので、単純にさあこれで解決というようには思わないぐらいの覚悟は一応ついています。

それでも、ズレていたものが正しい位置に戻ったことによる良さはきっとあるはずなので、期待はまず半分ぐらいに抑えながらキーに触れてみると、ん?!?
ホ、かるい!
少なくともこのピアノと過ごした数年の中で、一度も経験したことのなかった軽さに到達できていることに、嬉しいとも驚いたともつかない、むしろじんわりした達成感が遅れてやってくるような…不思議な気分になりました。

長らく預けていたこともあって、あれこれのチェックや調整もしていただいたようで、この軽さがキャプスタンの位置の修正のみによるものではなかろうと思いますが、とにかく、軽くなったことは間違いなく今眼の前にある事実なわけで、ひとまずは大願成就というところで胸を撫で下ろしました。

マロニエ君としては、ひとまずこれで充ーー分満足なのですが、調律師さんとしては、仕上げた鍵盤一式をポンとピアノへ放り込んでハイ終わりというわけにもいかないようで、ここからまたピアノに合わせてさらなる現場調整と相成ったのはいうまでもありません。

こちらは何はともあれ、軽くなったことばかりを喜んでいるわけですが、聴けば鍵盤がやや深めになっているとかで、工房での作業時の状態と、実際のピアノの棚板に置いた状態では微妙な違いが出てくるのだそうで、要するにそのあたりの調整作業に取りかかられました。

しばらくののち、一区切りついたところで弾いてみると、ん?んんん?
軽くなったはずタッチがまた少しネチャっとしてきたようで、さっきのはつかの間の喜びだったのかと思いました。
調律師さんももちろんこの変化はすぐに感じ取られ、その後もあれこれの調整をされましたが、あいにくとこの日は時間切れとなり、少し挽回したところでまた次回へ持ち越しということになりました。

不思議なのは、最低音から五度ぐらいの間はひじょうに軽やかなのに、そこから上になると、しだいに変な粘りみたいなものが出てくるという状況です。一度はひじょうに軽快になったことは事実だったので、状態としてはそこまできていると思われ、再度の調整に期待することになりました。
本音をいうと、軽くなったところで微調整はそこそこにして、整音と調律をしてもらって、ひとまず気持よく弾いてみたいものですが、要はここらが自宅での作業の限界を感じます。我が家がクレーンの必要ない環境なら、ピアノごと調律師さんに預けたいところです。


余談ですが、季刊誌『考える人』の2009年春号に掲載された松尾楽器の技術部長の方の談よると、整音に使うピッカーの針は通常3本なのに対して、この方がフェルトの幅に沿ってより均等にゆるませるために針数をふやしたピッカーを作ってみたところ、良い結果がでたというようなことが書かれています。

雑談中、たまたまそんな話になったところ、「あ、私も自分で作って持ってます」と無造作に工具かばんをゴソゴソされて、果たして何本もの「それ」が目の前に出てきたのにはびっくりでした。

技術者というのは皆さんすごいもんだとあらためて思いました。
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『ピアノのムシ』2

マンガ『ピアノのムシ』は、順調に読み進んでいますが、いろいろな意味で感心させられるものでした。

まず読み始めから驚くのは、主人公がピアノ技術者というだけあって、いたるところでアクションや弦や鍵盤など、絵にすることが極めて困難と思われるピアノの内部構造が頻出し、それはほとんどごまかしもなく、あきれるばかりに正確に丁寧に描かれていることです。アップライトの上下前板を外したところひとつ描くのも並大抵の手間ではないでしょう。
この点だけでも、漫画家というのは秀でた画力はもちろん、たいへんな忍耐労働ということがわかります。

また、ピアノを口実にした成功物語やラブストーリーの類ではなく、各章が独立したピアノ技術上あるいは業界に巻き起こるあれこれの裏実情のたぐいが話のネタになっており、勢いかなり専門性の高い内容となっている点にも驚かずにはいられません。

マロニエ君などのピアノ好きが喜ぶのは当然としても、世間一般を見渡せば、ピアノなんてほとんど誰も興味のないものであるし、ましてその調律がどうしたこうしたなんて意識したことさえないでしょう。そんな世間を相手に、このマンガが訴え問いかけて行くものは何のか?さらにはメインターゲットとなる読者はだれかという疑問が終始つきまといます。
たしかにマロニエ君を含む一部の好事家や調律師さんなど業界関係者にはおもしろいととしても、まさかそんな超少数派を相手に、雑誌に連載するマンガとして成り立っていくものだろうかと不思議な気分。

もし自分なら、まったく興味のないジャンルで意味もわからない専門的なことの羅列だったら、きっとページを繰る気もしないでしょう。しかるに連載が継続し、順次単行本(現在6巻まで刊行)になっているのですから、果たしてその購読層というのはどういう人達なのか…まあここが最大の不思議です。

また、一読するなりわかりますが、そのストーリー立てやそこで取り沙汰されている内容は、とても一漫画家の書けるようなものではなく、よほど専門家が張り付いて指南と確認を繰り返しているに違いないと思っていましたが、巻末のページに取材協力をした調律師さんやピアノ店などの名前が列記されており、やはり!と納得でした。

巷ではよく「マンガの影響で」とか「あれはもともとマンガがルーツ」などというような話を耳にすることがありますが、その流れでいうと、これを読んで、一流調律師を目指す若者が出てくるのでしょうか?…だとしたら、それはそれでおもしろいと思います。というのも、普通に調律学校や養成所などにいってそれなりの技術者になるより、どうせやるなら始めから一流を目指して挑むというのは大事なことだと思うからです。

マロニエ君の認識では、おしなべてマンガの主人公というのは、何らかのかたちで「英雄」である場合が多いのだろうと思われますが、その点でいうと、主人公である調律師の蛭田は、業界(とりわけ技術者)の間で作り上げられた一種の「英雄」なのだろうという気がします。

物事に拘束されず、昼から酒を飲み、超のつく無礼者、相手が誰であろうと言いたい放題、仕事も選びたい放題、嫌なものはイヤだと完膚なきまでに拒絶しまくる、正道から外れた一匹狼、それでいて技術者としての腕は突出して天才的で、おそろしく繊細な耳を持ち、どんな難題難所でもたちどころに原因を突き止め解決してしまうという、いわばカリスマ的超一流調律師とくれば、(数々の振る舞いはともかく)これはもう調律師の理想の姿でありましょう。

並外れた才能と実力ゆえに、人の顔色をうかがうこともなく、組織の一因として汲々とすることもなく、三船敏郎演ずる素浪人のように、哀愁を秘めつつ好きなように生きていくニヒルなサムライの姿に通じるのかもしれません。

これは裏を返せば、蛭田の取っている行動は、世の調律師さんのの置かれた忍従の世界を、逆写しにしているようにも受け取れます。
忍従のちゃぶ台をひっくり返すように展開されていく一流調律師の目の前に広がる数々の出来事、それがこの『ピアノのムシ』なんだろうと思いますし、そんな奇想天外が許されることこそマンガの醍醐味というところでしょう。

それにしても、繰り返すようですが、よくぞこんなマンガが出てきたもんだとその僥倖には素直に驚き、素直に喜びたいと思います。
ありきたりの発想では商売もままならない世の中、ニッチ商品なる言葉を初めて聞いたのがいつ頃の事だったわすれましたが、これはまさにマンガのニッチ作品なのかもしれません。
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『ピアノのムシ』

以前から書こうと思いつつ、つい書きそびれていたこと。

マロニエ君は本はそれなりに買うものの、マンガは日本の誇るサブカルチャーなどと云われていますが、基本的に興味がありません。
ただ、いつも行く福岡のジュンク堂書店は、4Fが音楽書や芸術関連の売り場なので、1Fからエレベーターで直行し、そこから下りながら他のフロアにも立ち寄るというのがいつものパターン。

4Fでエレベーターのドアが開くと、そこはものすごい量のマンガ本売り場で、狭い通路を左に右にとすり抜けたむこうが音楽書や美術書のエリアとなっているため、よく通る場所ではあったのです。

最近はクラシック音楽やピアノを題材にしたマンガもあるようで、その最たるものが「のだめ」だったのかどうか…よく知りませんが、楽譜やCDまでマンガから派生したアイテムが目につくようになり、もはや「ピアノ」という単語の入ったタイトルぐらいでは反応しなくなっていました。
ところが、あるとき本の表紙を見せるように並べられた棚を通りかかったとき、一冊のマンガ本の表紙には、グランドピアノを真上から見たアングルで男性が調律をしている様子が描かれているのが目に入りました。しかもそれが、やけに精巧な筆致で、フレームの構造およびチューニングピンの並び加減から、描かれているのはスタインウェイDであることが明白でした。
「えっ、これは何…?」って思ったわけです。

フレームに「D」と記されるところが「E」となっているのは、まさに内容がフィクションであるための配慮で、歌舞伎では忠臣蔵の大石内蔵助が大星由良之助になるようなものでしょう。
これがマロニエ君が荒川三喜夫氏の作である『ピアノのムシ』を認識したはじまりでした。

そういえば、アマゾンで書籍を検索する折にも、近ごろは関連書籍として「ピアノの…」というタイトルのマンガが多数表示されてくるし、それもいつしか数種あることもわかってきていたので、いったいどんなものなんだろう?…ぐらいは思っていましたが、もともとマンガを読む習慣がないこともあって、ずっと手を付けずにきたというのが正直なところです。

さらに店頭ではマンガは透明のビニールでガードされて中を見ることができず、「見るには買うしかない」ことも出遅れの原因となりました。

話は戻りますが、その表紙の絵ではアクションを手前に引き出したところで、そもそも、あんなややこしいものをマンガの絵として描こうだなんて、考えただけでも大変そうでゾッとしますが、それが実に精巧に描かれているのは一驚させられました。
察するに、これは弾く人を主人公としたメランコリーな恋愛や感動ストーリーではなく、あくまで調律師を主軸とした作品のようで、帯には「ピアノに真の調律を施す唯一の男」などと大書されており、さすがにここまでくると興味を覚えずにはいられません。

「買ってみようか…」という気持ちと「いやいや、バカバカしいかも」という思いが入り乱れて、とりあえず時間もなく、この日買うべき本もあったので、このときはひとまず止めました。

その後はちょっと忘れていたのですが、アマゾンを開くと、過去に検索したものや、頼みもしないのにさらに関連した商品が延々と提案されるのは皆さんもご存知の通りで、その中に再び『ピアノのムシ』があらわれました。
いちど興味が湧いたものは、どうも、その興味が湧いたときの反応まで記憶されるものらしく、書店であの表紙を見たときの気分が蘇り、やっぱり買ってみようかという気に。

こうなると、書店に出向いて、あの膨大な量のマンガ本の中から1冊を探す億劫を考えたら、とくにアマゾンなどは1クリックですべての手続きが済むのですから、ついにポチッとやってしまいました。

こうして、我が家のポストに『ピアノのムシ』第1巻が届き、以降続々と増えているところです。
感想はまたあらためて書くことに。
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もう少し弾く…

「できれば、もう少し弾いてください」
先日ディアパソンの続きの調整にこられた調律師さんは、帰りしなマロニエ君にこう云われました。

以前も同じようなことを書いたかもしれませんが、よろず機械ものというのは、適度に使うことで好ましいコンディションを維持できるものだということを、今また、あらためて感じさせられています。
人の体や脳も同様で、これが関係ないのはデジタルの世界だけかもしれないですね。

むろん使うといっても酷使ではいけないし、機能に逆らう過度な使い方もいけない。
逆に使い方が足りない、あるいは放ったらかしというのも、消耗がないというだけでこれまた良いことはありません。

最も良い例が家屋で、人のいなくなった家というのは、恐ろしいスピードで荒れ果て、朽ちていくのは誰でもよく知るところです。人が住んで使われることで、家はその命脈を保っている典型だと思います。

これはピアノにもある程度通じることです。
ピアノも長年ほったらかしにされると、弦はさび、フェルト類は虫食いの餌食になり、可動部分は動かなくなるかしなやかさを失ってしまうのはよく知られています。かといって教室や練習室にあるピアノのように、休みなくガンガン酷使されるのも傷みは激しいようで、バランスよく使うというのは意外に難しいもの。

マロニエ君宅のピアノはそのどちらでもないけれど、強いていうなら、弾き方が足りないのは間違いないと自覚しています。もともとの練習嫌いと、技術的な限界、さらには趣味ゆえの自由が合わさって、つい弾かなくなることが多いのです。

楽譜を見て、パッと弾けるような人ならともかく、マロニエ君などはひとつの曲を(自分なりに)仕上げるだけでも、相当の努力を要します。しかも遅々として上達せず、それをやっているうちにテンションは落ち、別の曲に気移りし、結局どれもこれもが食い散らしているだけで、なにひとつものになっていないというお恥ずかしい状態です。

知人の中には、ひとつの曲を半年から一年をかけてさらって仕上げていくという努力一筋の方もいらっしゃいますが、あんなことは逆立ちしてもムリ。見ていて、ただただ感心するばかりで、「よし、自分もがんばろう!」などという心境にはとてもじゃないけどなれません。
むしろ、どうしたらあんな一途なことが出来るのか不思議なだけで、むろん自分のがんばりのなさもホトホトいやになるのですが、そこまでしなくちゃいけないと思うと、ますますピアノから遠ざかってしまいます。

心を入れ替えて、一つの曲の練習に没頭するなどということは到底できそうにもないし、だいいち自分には似合いません。たぶん死ぬまで無理で、これがマロニエ君の弾き手としてのスタイル(といえるようなものではないけれど)だと諦めています。

根底には、いまさらこの歳で、ねじり鉢巻で練習したところでたかが知れているし、根本的に上手くなれるわけはないのだから!という怠け者特有の理屈があるのですが、どこかではこれはそう悪い考えでもないとも思っています。

話が逸れましたが、だからピアノにはあれこれこだわるくせして、実際どれくらい弾いているのかというと、毎日平均すると5分~10分弾かれているに過ぎないというのが実のところですし、それも厳密に言えばダラダラ音を出しているだけで、「弾いている」と胸を張って言えるようなものでもない。

で、冒頭の話にもどれば、これではやはり使い方が少なく、楽器の状態としても理想ではないと思うわけです。本当ならきちんと弾いて使って、その上で技術者さんにあれこれ要求するのが順序というものでしょう。

ところがごく最近のこと、たまたま楽譜が目についたので、ショパンのマズルカを1番から順々にたどたどしく弾いていると、ちょっとおもしろくなって、珍しく2時間ほど弾いたのですが、後半はピアノがとても軽々と鳴ってきたし、アクションも動きが良くなったように感じました。

また30分以上弾くと、弾かないから日ごとに硬化してくるように感じていた指も、いくらかほぐれて活気が戻り、ちょっとは動きも良くなるし、そのぶん自由がきいて脱力もできてくるのが我ながらわかって、こういうときはさすがに嬉しくなってしまいます。
この壁を突破すると、いささか誇張的な言葉でいうなら陶然となれる世界が広がるわけです。

普段からきちんと練習を積んでいるような人は、いつもこの「楽しい領域」に出入りしていて、だから練習もモリモリ進むものと思われますが、マロニエ君の場合、滅多なことではこの状況は訪れてくれません。何ヶ月に一度あるかないかの貴重な時間ですが、たしかにこの刹那、やっぱり練習もしなくちゃいけないし、楽器も弾かなくてはと思うのは嘘偽りのないところです。

そうなんですが、その気分が持続しているのはせいぜい翌日ぐらいまでで、それも前日より弱くなっていて、3日目にはきれいに元に戻ってしまいます。マロニエ君自身がそうなってしまうのは一向に構わないけれど、それにつれて、ちょっぴり花ひらいたかに思えたピアノが、また少しずつ眠そうになってくるのはもったいない気がします。

谷崎潤一郎の何かの文章の中に「怠惰というのは東洋人特有のもの」というような意味のことが書かれていて、読んだときはたいそう意外に思った記憶がありますが、その点で言うとマロニエ君はまぎれもなく東洋人なんだということになるんだろうなぁと思います。
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まんべんなく

使いすぎる害と、使わなさすぎる害。

来る日も来る日もふたは閉じたままの使われないピアノも哀れですが、逆にあまりに繁忙を極めるピアノというのも、どこかブラック企業に就職した人のような痛々しさを感じることがあります。

先日もある調律師さんからお電話をいただいて、近くのファミレスでお茶をしていたときのこと。
この方は、福岡のあるホールの保守管理をされているのですが、今年も弦とハンマーの交換をされたらしく、驚いてしまいました。

たぶん20年以上経ったスタインウェイDですが、これまでにも何度か弦とハンマーは交換されており、稼働率の高いホールのピアノというのは、こうも消耗が激しいのかと思うばかりです。

年がら年中、本番のステージとして、力の限りを尽くすピアニストによって本気で演奏されるピアノは、見方によってはピアノ冥利に尽きるとも言えそうですが、リハーサルから含めると、そのピアノが鳴っている時間と密度は恐ろしいほどのものだろうと思いました。

同じスタインウェイDでも、殆ど使われることもないまま何年もピアノ庫で眠っている個体があるかと思えば、このようにひっきりなしに使わ続けるピアノもあるわけで、同じ工場で製造出荷された同じモデルでも、行先によって本当にさまざまな生涯を送るようです。

どちらが幸せかといえば、それはもちろん頻繁に使われたピアノのほうだと思いますが、そうはいってもあまりの酷使で数年おきに弦やハンマーを交換されるとなると、なんとはなしに可哀想な気もしてしまいます。
しかも、ホールで本番に供されるピアノともなると「言い訳」は通用しないことから、換えたてのハンマーでもいきなり豊麗で熟成した音でなくてはならず、勢い不本意な調整もしなくてはいけないとのこと。
使われるピアノにも、それなりの大変さはあるようです。

先日、マロニエ君の乗るフランス車のパーツのサプライヤーの方と電話でしゃべっていると、話題は古い車の維持管理に及び、その方いわく、「結局は、なんだかんだ言っても、やたら走行距離の多い車と高速などで猛烈に飛ばす人の車というのは、どうしようもなく傷んでいますね」と云われました。

一般的には、遠出もせず渋滞などでノロノロ運転ばかりさせられる車は気の毒で、その点でいうと、ヨーロッパ大陸に生息する車達は大陸間の移動や旅行に供され、高速道路などを縦横無尽に駆けまわって幸せなイメージですが、現実はどうやらそういいことばかりでもないようです。
全力を振り絞るように使われた時間の多い機械は、それだけ至る所にストレスがかかっているというのは、まぎれもない事実のようです。

それがそのまま、そっくりピアノにあてはまるかどうかはわかりません。
でも、稼働率の高いホールのピアノは高速道路や山道を飛ばしまくった車に、レッスン室のピアノはタクシーのように昼夜休みなく走り回る多走行車といったイメージと重なり、消耗もそれなりに激しいことは間違いないでしょうね。

むろんそれはそれで意味のあることなので、決して否定しているわけではありませんが、なんでもぬるま湯式の感覚で、自分のピアノとの使われ方のあまりの違いを考えると、ついこういうことを考えてしまうのです。

そういえば知人のピアノ好きで、大人になってピアノをはじめ、好ましい時代のスタインウェイをもっているひとりは「自分はハノンはやりたくない」というのです。
その理由というのが普通とは違っていて、「ハノンは特定の音域の白鍵ばかり使っておこなう指の訓練なので、あんなものを毎日15分とか30分とかやっていたら、弾かれる白鍵のハンマーばかり傷んでしまって、楽器としておかしなことになるから嫌だ」というのですが、これはマロニエ君もまったく同様のことを考えていたので、へぇぇ同じことを考える人もいるのか!と大いに共感したものです。

だったら黒鍵を交えて半音階全音域でやっていけばいいのでしょうけど、それはまた相当難しいことになるので、なかなかそうもいきません。
だいたいこういうことを考えてあれこれ悩むのは決まって男のようで、女性はあまり気にならない領域のことなのかもしれませんが…。
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ディアパソン続き

Bさんの初回診断によれば、ダウンウエイトの数値じたいが極端に重いというものでもないということで、差し当たり基本的なところから整えていくべきということでした。

そこで、まずは建築でいうところの基礎工事をしっかりやるということです。まあこれは調律師さんならどなたでも異口同音におっしゃることではありますが、特に今回は早急に見直すべき部分がそこここに確認されたことも事実でした。
基礎がしっかりしていないことには何も先に進めないというわけで、至極ごもっともなことです。

というわけで、初回は正しい土台を作るための「整調」に5時間近くを費やされましたが、それでもまだ時間が充分とはいえず、こちらの都合で時間切れとなったため、また後日続きをやっていただくことで、とりあえずこの日は一区切りつけていただきました。

マロニエ君は、ピアノの調整中にちょっと弾いてみてくださいといわれても、普段と違って大屋根は開いているし、譜面台はなく、鍵盤蓋も左右の拍子木も外されて、いたるところから音がドバドバ出てくるため、これだけ違う条件の中で僅かな違いを感じとるのは、あまり自信がありません。
大きな違いはわかっても、繊細なところ(しかも、そこが非常に肝心なところ)はすぐにはわからないので、帰られた後しばらく弾いてみるのが恒例ですが、まずはずいぶん弾きやすくなったことは確かでした。
一番の目的であるタッチが軽くなったわけではないけれど、その動きに滑らかさと好ましい質感がでていることはよくわかり、これまでのタッチがいくぶん高級になったという感じです。

機構や消耗品を入れ替えるのではなく、整調のみによってタッチに高級感を作り出すというのは、考えてみるとかなり大変なことではないかと思いました。ただ軽くとか早くとか、動かないものを動くようにするのとは違い、高級なフィールというのは繊細な事々の積み上げでしか成し得ないもので、この点にまず感心しました。

翌日、現段階での感想を報告しようと電話したついでに、全体的な印象というか評価を聞いてみました。
というのも、マロニエ君は現在のディアパソンは個性やポテンシャルとしては気に入っているけれど、その音色はもう一つ納得できないものがあったので、この点をディアパソンのスペシャリストとしてはどうお考えか聞いてみました。
しかし、それはなかなか言われません。
長所ならすんなり言えても、その逆は言いにくいのだろうと推察され、そこをあえて忌憚なく言っていただきたいと頼むと、ようやくこちらの心情を理解され率直な感想を聞くことができました。その内容はマロニエ君が感じていることとほぼ同じもので、この点でも大いに納得できました。

こういう印象が一致していないと、今後の進展にも不安が残りますが、そういう意味でも却って安心感が得られました。

余談ながら、マロニエ君は新たな調律師さんにお願いする際には、普段面倒を見てもらっている調律師さんにも必ず事前にお断りを入れて、了解を得るようにしています。現在の調律師さんも、タッチ問題に悩む先代調律師さんが別の方に「セカンドオピニオンを聞いて欲しい」と言われたことがきっかけでした。
というわけで、今回も快く承諾していただき、その方がどういうことをされるか興味があるので後日ぜひ教えてほしいということで、マロニエ君のピアノは、こうしていつも、いろいろな技術者の方に触っていただくようになっています。

中には調律師さんとの関係をよほど特別で厳粛なものと思っておられるのか、かなりの不満があるにもかかわらず、まるで江戸時代の貞操観念のごとく、じっと耐えに耐えながら、ピアノの操を守られる方も結構いらっしゃいます。
しかし、そんなことは甚だしい時代錯誤だとマロニエ君は思います。車の整備でもケースバイケースで、オーナーの判断でディーラーに行ったり専門ショップに行ったりと、そこは所有者の全く自由裁量の領域であるはずです。
その点では楽器メンテの世界はというと、多少の閉鎖性があるともいえるでしょうが、それなりのマナーを守っていれば基本は自由であるはずで、それでも機嫌を損じるような調律師さんなら、もともと大したことない方だと思います。

Bさんは仕事に関しては信念があり厳しさが漲っているけれど、同時にとても気さくで正直で愛嬌のある素晴らしいお人柄の方でいらっしゃる点も併せて嬉しい点でした。技術者である以上は、むろん技術が大事なのは当然としても、やはりそこはお互いに生身の人間なので、人としての波長も合えばそれに越したことはありません。

素晴らしい方との出会いは無条件に嬉しいもの、今後のディアパソンの変化が楽しみです。
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4台ピアノ

ディアパソンの続きを書こうと思っていましたが、ちょっと珍しいコンサートに行ってきたので、そちらを先に。

「浜松国際ピアノアカデミー 第20回開催記念コンサートシリーズ ピアノの饗宴 ピアニッシシモ!!」という長たらしいタイトルのコンサートで、なにがどうピアニッシシモなのかよくわかりませんが、要は過去にこのアカデミーを受講した経歴を持つピアニスト4名が出演されて、それぞれがカワイ、ベーゼンドルファー、ヤマハ、スタインウェイという4台のピアノを弾くという趣向でした。

同じ会場で、違う銘柄のピアノを聴き比べることができるというのは、めったにないことなので、これは行くしかない!と覚悟を決めた次第。会場はアクロス福岡シンフォニーホール。

ちなみに、聞いたところではカワイのみSK-EXが持ち込まれ、残り3台はホールのピアノが使われたようです。

トップはカワイですが、演奏開始早々、このホールの野放図な音響にはいきなりのカウンターパンチというか、あらためて度肝を抜かれました。
音響といえば言葉はもっともらしいけれど、要はだだっ広い空間で音は乱反響を繰り返すばかりで、響きの美しさとか収束感などはみじんもありません。ピアノの音は盛大なエコーがかかったようで、はっきり言って何を聞いているのかさえわからないほどで、よくもまああれで苦情が出ないものだと思います。

ホールというより、銭湯か温泉の大浴場にピアノを置いて弾いているようで、聴き手の耳に到達するのは、ピアノから発せられた音があちらこちらで暴れまわったあげくのピンボケ写真みたいなもの。音楽の輪郭もあやふやで、むろんピアニストのタッチの妙などもほとんどが霧の中で伝わらず、ただ音が団子状になって聞こえてくるだけ。
あれだったら古い市民会館で聴いたほうが、よほどマシです。

第一曲が始まった時、「これはえらいことになった…」と思いましたが、とりあえず忍耐しかありません。…というか、これだからコンサートは行きたくないのです。なんでお金を払って、時間を使って、そのあげく「忍耐」にエネルギーを費やさなきゃいけないのか、これは単純素朴な疑問ですね。

というわけでエコーまみれの音の中から、そのピアノの音色をイマジネーションを働かせて探すしかありませんが、カワイはブリリアンスとパワーを重視しているのか、音の中にある暗いものと華やかなものが相容れず、まだその決着がついていないという印象でした。
ちなみに、カワイはホームページによればフラッグシップはEX-Lに変更されているにもかかわらず、いまだSKシリーズがステージで活躍しているのはどういうわけなのか…。今年開催されたチャイコフスキーコンクールでもカワイはSK-EXでしたから、EX-LとSK-EXの違いがよくわかりません。もしかしたら…いやいや憶測はやめておきましょう。

次に弾かれたのはベーゼンドルファー・インペリアル。カワイの後だけあって音に輪郭と透明感があるのが印象的で、やはりこのピアノ固有の美の世界があることが頷けます。ただ、音色の変化が乏しいのか(確かなことはわかりませんが)、しばらく聴いていると、その艶やかな音にも少々飽きてくる…といったらベーゼンのファンの方に叱られそうですが、マロニエ君の耳にはいささか一本調子に聞こえてしまいます。
もちろん好みもあるでしょうが、マロニエ君はもう少し美音の中にも陰影がある方が好きだなぁと思ってしまいます。

後半最初はヤマハ。最新のCFXでなはく、おそらくCFIIISだろうと思いますが、これが意外に好印象でした。カワイとベーゼンを聴いた耳には、音の構成というかまとまりがそれなりにあるためか、演奏におさまりがつくようです。個人的にはヤマハのコンサートグランドは現代の好みを追いすぎたCFXよりは、少し前のピアノのほうが懐もそれなりに深いものがあり、きれいに調整されていればこれはこれだと思います。
それでも随所で聴こえてくるのは、日本人の耳に深く浸透した、あのヤマハの音ではありますが。

最後はスタインウェイでしたが、こうして順に聴き比べてくると、やはり一台だけ次元が違うというのが偽らざるところでした。ピアノの音に必要な各音域の美しさ、深み、フォルム、バランス、強靭さなどは、やはり抜きん出ていることが一聴するなりわかります。とりわけ重音やフォルテになるほど音が引き締まり、破綻や乱れとは無縁になっていくあたりはさすがという他ありません。
また、異論もあろうかとは思いますが、どのピアノより音はやわらかなのにヤワではなく、シャープな中に甘いトーンが混在します。
偽善的でダサい木の響きでもなければ、神経に障るような金属音とも全く違う、スタインウェイだけの孤高のサウンドが広がると、不思議な安堵と快感を覚えます。
スタインウェイの音はこうしたいくつもの要素が複雑に折り重なることで達成された、まったく独自の境地だと思いました。

最後は4台揃って、ミヨーの4台のピアノのための組曲「パリ」から数曲が演奏されましたが、そこには混沌とした騒音のかたまりがあるばかりで、熱心に弾いてくださったピアニストには申し訳ないけれど、どことなく喜劇的でした。
こんなにもホールの響きが演奏者の足を引っ張るとは、出るのはため息ばかりです。
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好きという強み

調律師のAさんとのご縁がきっかけとなって、福岡にディアパソンを得意とされる、知る人ぞ知る技術者さんがおられることを教えていただいたのは、ずいぶん前のことでした。

「ディアパソンなら自分はBさんが一番だと思います。」と静かに、しかし自信をもって迷いなく言われたことがとても印象的でした。
どんなふうにいいのか聞いてみると、「とにかく丁寧で、Bさんが調整したピアノはとても弾きやすい。あの方はすごいと思います。」と事もなげにいわれました。言っているご本人もれっきとした調律師さんなのですから、同業者がそこまで太鼓判を押すというのは、よほどであろうと思いました。

マロニエ君のディアパソンはというと、懸案のタッチの重さを含む問題は未だ解消には至らず、それがあって、音色などの詰めの調整ももうひとつその気になれないという状態です。それでも今どきのピアノにくらべると、本質においてはそれなりに楽しいものだから、なんとなく現状でお茶を濁してきたというのが正直なところ。
しかし、別のピアノの調律などがパリッとできたりすると、やはりディアパソンのコンディションはタッチを含めて、とても本来のものとは言いがたい事は認識せざるを得ません。

また、以前書いたようにタッチレールというキーを軽くするための製品があることも、関東のピアノ店の方がわざわざ教えてくださり、一時はこれの装着をかなり真剣に考えました。
しかし、ここはやはり基本的なことをもう一度洗い直してしてみることが先決で、それらのことをやりつくし、万策尽きた時にそのタッチレールも使うべきだろうという結論に達しました。

連休中に再度調整をお願いするはずだった調律師さんが、たまたまこの時期の予定が確定できない状況になったということで延期になり、ならばこの際、思い切ってディアパソンがお得意のBさんに一度診ていただき、ご意見を伺えたらと思いました。

そういう流れでAさんを通じてBさんへ連絡していただきました。
「話はしているので、どうぞいつでも電話をしてみてください。」と番号を教えていただき、さっそくお電話したのは言うまでもありません。

電話に出られたBさんは、とてもあたたかで礼節あふれるお人柄という印象でした。
さっそくこちらのピアノの状況と希望を電話で伝えられるだけ伝えると、「どこまでご期待に応えられるかはわかりませんが、ともかく一度見せていただきましょう」ということになり、日時を約束することに。

さて、ここからはちょっとウソみたいな話ですが、そのBさんが来られるわずか2日前というタイミングで、まったく見知らぬ方からメールをいただきました。
メールの主は、ありがたいことにこのくだらないブログを読んでくださっている方らしく、その方もディアパソンのグランドをお持ちで、福岡市に隣接する市にお住まいの方でした。文面によると「(自分は)いい調律師さんに恵まれていて、その方は某区のBさんという方で「ディアパソン大好き」で、お客さんもディアパソンの愛用者が多いようです。」と書かれているのにはびっくり!

マロニエ君もBさんとは一度電話で話しただけで、まだお会いしたこともなく、たまたま名前だけの一致ということもあるかもとは思いましたが、メールの方とは翌日電話で話をする機会を得て、やはりBさんは同一人物であることが判明し、先方も驚かれているようでした。
やはりこのBさん、ディアパソンにはかなり精通した方のようで、ますます期待は高まりました。

約束の日時、ついにBさんがいらっしゃいました。
実際にお会いして、さっそくピアノを診てもらいつつこれまでの経緯を説明します。

非常に驚いたことには、電話でごく簡単に説明しておいた話から、タッチに関するあれこれの可能性を想定され、そのための部品や道具などを幾つも準備されていたことで、どれもがこれまでの調律師さんとは一味も二味も違っており、しかもそれがかなり核心に迫ったものであるだけに驚いてしまいました。
こういうところに技術者としてのスタンスというか、心構えのようなものが表れているようでした。

それらをひとつひとつ書きたいところですが、それはとりあえずここでは控えておきます。

Bさんのやり方は、ピアノを触って、考えて、また触って、またじっと考えるということを繰り返され、しだいに方向性が収束していったのか、「どこに問題があるか」「作業の手順として何を優先するか」、そして「今日はなにをやるか」ということが見えてきたようでした。

何度も「…ちょっと考えさせてください」とおっしゃるあたり、静かに自問自答しておられる様子です。

以前、医者の娘だった友人が、「いい皮膚科のお医者さんっていうのは、患部をジーッと時間をかけて観察する人なんだって…」と言っていたのをふと思い出しました。
パッと見て、即断即決して、対症療法的な作業をされると、却って本質的な解決が遠のいてしまい、こちらにとっては一番困るのですが、その点でもBさんはずいぶん違うように感じました。

さらには「ディアパソンが好き」というのはなにより強みです。
いかに優れた技術でも、それを嫌いなものへ仕方なく向けるのと、好きなものへ向けるのとでは、結果は格段の違いが生じる筈ですから。
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で、つけました。

いよいよアマゾンにでも注文しようか、あるいはダンプチェイサー肯定派の調律師さんに連絡して購入を打診してみようかと迷っていたときのことでした。

別件で物置で探しものをしていると、壁の隅から、なんと、使っていないダンプチェイサーが思いがけなくワンセットそっくり出てきました。
探しものそっちのけで驚いたのはいうまでもありません。

で、よくよく考えたら、別のピアノに縦横2つ付けていた時期があり、それを乾燥の進む冬場にその片方を外してみたとき、床に放っておいたら、家人に片付けるように言われて、とりあえずという感じで物置に放り込んでいたのをすっかり忘れていたのです。
あやうく「購入する」をクリックしていたかも…と思うと、おマヌケもいいところですが、ともかく危ないところでした。

ひゃー、嬉しや!とばかりに、さっそくディアパソンへ取り付けることに。

本当は梅雨から夏場での急激な状態の変化を避けるため、あえて湿度の少ない冬場に取り付けて、徐々に慣らしていくことを推奨している技術者さんもおられ、その慎重を期する姿勢には敬意を覚えますが、マロニエ君ときたら低血圧なクセにめっぽう短気で、ゆっくり構えて待つというようなことが大の苦手です。
冬まで待って、取り付けて、その効果が出るのは来年の梅雨以降だなんて、とてもじゃありませんが、そんなに待っていられるか!というわけで、そこは強行突破して取り付けることに。

ピアノ下部のペダルのすぐ後ろぐらいの位置で、左右二ヶ所の支柱へ針金を通して、鍵盤と並行になる向きに吊り下げます。
針金で吊り下げるのは、このほうが作業じたいも簡単であるし、ピアノに無用な加工をしなくて済むので、マロニエ君は必ずこの方法を採っています。

その点では、調律師さんは仕事なので、キチッと作業として仕上げるためにも、そのための費用を取ってビシッと取り付け作業される方がほとんどのようです。調律師さんにとってはそれも商売のうちなので仕方ないですが、本当はいきなり固定せず、あれこれ場所を変えて試してみるのもいいと思います。

頼んで取り付けてもらう場合、「見えない場所だから」ということで、付属の取付パーツを使ってピアノ本体へネジ止めされることになりますが、実はマロニエ君はあれがイヤで、見えない場所でもピアノのリムや支柱にネジ穴を開けるなんて、理屈なしにとにかく感覚的に受け容れられないのです。

それもあるし、そもそもダンプチェイサーの取り付けなんて、いわゆる「取り付け」のうちにも入らないもので、わざわざ作業代を払って人に頼むような種類のものではありません。
それに支柱から、物干し竿のように針金で吊り下げるだけなら、気が変われば、また別の位置や方向に付け替えも簡単で、高さも自分が納得の行くように調整できます。

さて、結果はというと、取り付けたのは夜だったのですが、翌日夕方にはハッキリとした違いがあらわれたのには、さすがのマロニエ君も予想以上でした。まず音に芯が出たというか、艶が出たというか、ややピンボケ気味になっていた音色に精気が戻りました。さらにはアクションの動きが若干スムーズになり、その相乗作用でずいぶんといい感じになりました。

もちろん激変というようなものではなく、微妙な違いでしかありません。
しかし、ピアノにとってはこの微妙な違いでかなり世界がかわるものです。

それともうひとつ確かなことは、閉ざされた箱のなかに取り付けるアップライトならともかく、外部にむき出しになるグランドでは効果は期待できない、「あんなものは気休めだ」という説がありますが、それは完全な誤りで、効果にいくらかの差はあるにせよ、グランドでもかなり有効だということは確かです。
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賛否両論2

前回、飛び入りで「エンブレム騒動」を書いたので、前々回からの続きを。

ある調律師さんがダンプチェイサーに否定的ということで、それはそれでひとつの見解なのでしょうから、お考えはしっかり承っておこうと思いました。

よって、あえて反論する必要もないし、それでもこちらの気が変わらなければ自分で入手すればいいこと。
で、ご意見をふまえてよくよく再検討してみましたが、やはりディアパソンにダンプチェイサーをつけるという考えは変わりませんでした。

いい忘れていましたが、この調律師さんがダンプチェイサーの装着例として目にされたものの一つが、グランドのアクションのすぐ上というか、要するに鍵盤奥のボティ内部にこれを取り付けたピアノだったようで、それがよくない結果になっていたというものでしたので、それはそれで納得でした。

アップライトの場合、ダンプチェイサーをピアノの内部に取り付けますが、位置的には鍵盤よりずっと下で、アクションとはずいぶん距離もありますが、グランドでは、アクションやピン板に接近した極端に狭い空間ということになり、これはたしかにやり過ぎだろうと思います。
ダンプチェイサーは、あくまで補助的かつ間接的に用いるべきで、何事も過ぎたるは及ばざるが如しです。

マロニエ君はグランドで下に吊るすカタチ以外の使い方の経験はありませんが、そのやり方ならば効果は上々で、実際に使った人からもよくないという類の話は聞いたことがありません。

なにより自分で数年間使ってみて一定の効果があることと、これによる音の悪化というものは、今のところまったく感じられませんが、わずかの変化を感じきれていないという可能性もむろん否定はできません。
少なくとも使用経験の範囲では、気づくほどの悪影響はなかったと言っていいと思います。
いずれにしろ調律が狂いにくい状態が保持できるということは、基本として、ピアノにとってそう悪いことではないと考えるわけです。

そもそもホールのピアノ庫のような特別な環境ならいざしらず、通常、ピアノは日本の四季の移り変わりや温湿度の変化、それに伴うエアコンやらなにやらで、冷え冷えサラサラになったかと思うと数日留守で猛烈な温湿度にさらされるとか、人がいる間の暖房と夜中の凍てつく冷気がくるくる入れ替ったりと、すでにかなりの悪条件にさらされているのですから、いまさらダンプチェイサーの副作用を問題視しても意味があるのかと思ってしまいます。

むしろ、これほど安く簡単にピアノへの悪影響を緩和できるダンプチェイサーは、やっぱり利用価値は大きいと思われ、ここはピアノのために何が良いかを、トータルで考えることが大事ではないかと思った次第。

それと前後して、以前マロニエ君がおすすめしたことでグランドピアノにダンプチェイサーを使っている知人と電話で話をする機会がありましたが、ちょっとニンマリする話を聞きました。
その方のところへは、松尾系のとても優秀な調律師さんが来られているとのことですが、その調律師さんはピアノにダンプチェイサーが取り付けられていることについて、はじめはあまり肯定的な反応ではなかったとのこと。

装着前に相談すればおそらく反対された口でしょうが、既に付いていたものなので、ご自分としては懐疑的という程度のニュアンスで、とくに目立ったコメントはなかったそうです。ところが、定期的にそのピアノを調律するようになり、知人いわく、「うちは温湿度管理が必ずしも理想的ではない」にもかかわらず、調律の狂いが少ないことが少し意外だったようで、ポツリと「これ(ダンプチェイサー)が効果あるんでしょうかねぇ…」というようなことを言われたそうです。

「ほほう、やっとこの人も効果がわかってきたか」と内心ほくそえんだのだとか。
というわけで、ダンプチェイサーはその信奉者でなくても、一定の効果は確認できるもののようではあるようです。
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賛否両論1

技術者と呼ばれる人達は、それぞれに持論や流儀をお持ちです。

マロニエ君はピアノに限らず技術者というものを尊重しているので、やり方やこだわりもそれぞれで、要はどれが正しくてどれが間違いというものではないと考えています。
いろいろな価値観や性格、目指すもの、細部に見え隠れする妙技、考え方の違いなどが決して一律なものではないところが興味深く、まして容易に正誤優劣を付けられる世界ではないというのが率直なところ。

わけてもピアノは、もともと精密かつ巧緻な世界であり、加えて楽器特有の幅やあいまいさがあり、どれが絶対ということがありません。ひとつの事柄に対する意見や解決法も各人各様で、ときに唖然とするほど意見が真逆であったり、それはときに凄まじいばかりです。

あまりこのあたりに触れているとなかなか本題に入れないので、そこは飛ばして話を進めると、久々ですが、ダンプチェイサー(ピアノの中や下部に取り付けて、湿度を自動調整する棒状の電気製品)に関する話です。
ダンプチェイサーに関しては、マロニエ君自身も数年来の使用経験があり、絶対とまではいわないものの、一定の効果があることは確認済みです。さらには自分の経験をもとに友人知人にも推奨したり、一度など共同購入というかたちで5~6本安くまとめ買いしたことさえありました。

調律師の中では、当然ながらこのダンプチェイサーにおいても賛否両論があり、賛成派のほうの顧客はその熱心な奨めにより多くがこれを購入し取り付けられているのに対し、こういう後付けの機器に関してはやたらと懐疑的スタンスをとる方もおられます。
技術の世界では保守的な人も少くなく、伝統的な技術やセオリーを信奉しているぶん新しいものには拒絶が先に立つのか、その効能より害のほうに目が先んじるようです。これを取り付けることによる弊害をイメージし、中にはすでに取り付けられたものさえ、自説を展開して外してまわるといった方さえあるようです。

では、具体的に何が悪いのかというと、これがあまりはっきりせず、一部だけが乾燥するとか、熱で木材が傷むなどの「可能性」ばかりを説かれますが、もうひとつ説得力がありません。ひとつには技術者としての防御本能なのか、自分があまり知らないもの、検証ができていないものに対しては、とりあず否定してしまうという心理が働くのかもしれません。
(ちなみにダンプチェイサーの作動時の熱は素手で触ってもほんのり暖かいぐらいのソフトなもので、湿度によってON/OFFは自動制御されます)

こういった後付の商品には安直なアイデア先行で効果の疑わしいもの、あるいはピアノ本体に害を及ぼすものもあるでしょう。のみならず便利な機器を安易に頼るようでは、基本を疎かにするお安い技術者という印象さえ与えかねません。だからか、その手のものはすべて「邪道」のように捉えてしまうのかも。

たしかにその手の思いつきみたいな商品はあるでしょうから、そうやすやすと信用はしないほうが安全でしょうし、謳い文句にのせられて、万一お客さんのピアノに害があっては一大事。信頼を旨とする技術者にとっては、よほどの自信がない限り、そんなものに手出ししたくないという意識がはたらくのだろうと思われます。

ただ、ダンプチェイサーは実績のある「本物」のひとつだろうとマロニエ君は思っています。

マロニエ君自身、すでに何年もダンプチェイサーを使っていますが、少なくともそれによる弊害を感じたことは一度もなく、調律の狂いが少ないことはかなり感じていて、できれば付けておいたほうがいいというのが正直なところ。ところが、なぜかディアパソンについてはとくにこれという理由もないまま「そのうちに…」ぐらいの感じだったのです。

そこへ今年の厳しい夏の湿気となり、さすがにピアノが全体にたるんだ感じもあったので、ふとダンプチェイサーを使っていなかったことを思い出し、遅ればせながらこれを購入しようと、さる調律師さんに購入の問い合わせをしました。通販で買っても良かったけれど、近々来られる予定もあるので、だったらついでに持ってきてもらおうかというぐらいの軽い気持ちでした。

すると、「購入はできますが、私はダンプチェイサーはおすすめしません」というメールが届きました。
うわー。来たかぁ、と思いましたが、とりあえずどんなご意見なのか聞いてみようと電話したところ、だいたい次のようなものでした。
「あれは確実に音が痩せる」「響板にヒーターの熱風があたったのと同様になる」「床暖房と同じ」「独特の音になる」「以前は使ってみたこともあるが、今はお客さんにも外すことを薦めています」「グランドは外にむき出しなので効果がないのでは」「アップライトは逆に悲惨なことになる」「やめたほうがいいですよ」「だったら乾燥剤をいれたほうがまだいいですよ」
と、だいたいこんな感じでした。

この方は大変優秀な調律師さんであることは間違いないのですが、ことダンプチェイサーのことは…あまり正確なことをご存知ないのかもしれません。いや、間違っているのはこっちで、もしかしたらそれが正しい可能性もあるかもしれません。

マロニエ君は調律師さんのご意見はいつも尊重するし、謙虚な気持ちでいろいろな教えを請うているつもりです。しかし、だからといって何でも鵜呑みすることは決してせず、最終的には自分の判断を優先させることはよくあります。

だって、自分のピアノなんですから、自分が納得できることをしなくちゃ面白くありません!
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ウナコルダの効用

先日、さる調律師さんから聞いた話。

ピアノのウナコルダ(グランドピアノの左のシフトペダル)の隠れた効果について。
これを踏むと鍵盤全体が右に移動して、3本の弦を打っていたハンマーが2本だけを打つようになることはよく知られています。

曲想やppなど必要に応じてこれを遣うことは一般的で、単純にいうと、鳴らす弦が少なくなるのでそのぶん音が小ぶりになるわけですが、のみならずハンマーの弦溝の位置をわずかにずらすことで、音色の変化をつけることができます。

下手な人がこれを使うと、ただこもったような音になるだけですが、ピアノのペダルは左右ともに、いかにそれを必要量適確に使うことが出来るかのコントロールの妙がポイントでしょう。
ペダル操作は、ある意味、指運動よりよほど繊細な耳と感性が必要で、アマチュアもプロも、ただバンバン弾くことだけが念頭にある人には最も難しい領域だろうと思います。
むろんマロニエ君なんぞはできませんが、それほど精妙かつ重要な領域であることはわかります。

これを天性の美意識と神業的な技巧によって、多彩な音色を自在に創りだすことができた代表格がミケランジェリで、彼のあの濃密な絹織物のような音の世界は、精緻を極めた自在なペダルに負うところも大きいのは間違いありません。

何年か前にラ・フォル・ジュルネの小さな会場で行われたコンサートで、ある女性ピアニストがベートーヴェンの中期ソナタを弾くのに、このシフトペダルをやみくもに使うのには閉口したことがあります。
どう考えてもまずはタッチで表現を変えるべき場所で、いちいちシフトペダルを踏むので、そのつど音色がこもったり鮮明になったりの行ったり来たりだけで、それが肝心の演奏表現に結びついているとはとても思えないものでした。さらにこのピアニストは、ガバッと踏むか、離すか、つまりON/OFFだけの踏み方で、その途中の段階が微塵もないのには呆れました。

あっと…、話が逸れました。
その調律師さんによる通常見落とされているウナコルダの効果とは、これを踏んだ時のほうが音が減衰しにくくなるという、これまで思ってもみなかったことで目からウロコでした。…いや、でも、よくよく考えてみたら、本能的にはまったく感じていないわけではなく、かすかに心当たりのようなものがあるような気も…。深夜などにこのペダルを踏んで遠慮がちに弾くときに、ある独特な心地良さというか豊かさみたいなものがあることは、かすかな自覚がありました。
単に音が小さいとかソフトということ以外に、なにか言い知れぬ心地よさがあったのは、そう言われてみると、この通常より伸びる音のせいだったのかもしれません。

これは音響学的にも証明されていることだそうです。
弦から駒を通して響板に広がって増幅される音は、3本打弦されたときより、2本打弦されたときのほうがエネルギーが小さくて音に変換されるにもやや時間がかかり、それだけ減衰の速度も遅くなるということだそうです。
急峻な山に対して、なだらかな山裾の稜線がどこまでも続くようなものでしょうか。
さらには左の打弦されない弦も隣の弦の振動にひきずられて逆位相に動くのだそうで、これも減衰にしくくなる要素のひとつだとか。

比較に単音を聴いてみたところ、ウナコルダを踏んだときのほうが明らかに音が伸びるのはびっくりでした。

音響学などの専門領域はチンプンカンプンですが、自分なりの印象としては、お寺の鐘なども力任せに叩くより、ほどよい力で突いた方が音がきれいなだけでなくその余韻がいつまでも続くようなものかと思いました。
また、想像ですが、3本弦より、2本弦のほうが音になるパワーが少ないのは当然としても、そのぶん入力に対する響板の面積も、相対的に大きくなるのかとも思いましたが、どうでしょう…。

後日、この件に関する資料を送っていただきましたが、そこにあるグラフによれば、シフトペダルを踏んだ時とそうでないときでは、立ち上がりでは約10dBの差があって当然ペダル無しのほうが音が大きいわけですが、3秒後にはグラフの線はクロスし、右肩下がりに減衰する一方のペダル無しに対して、ペダル有りのほうは70dBあたりを保持して、5秒後には10dB近くもペダルを踏んだ音のほうが大きな音が持続していることに驚かされます。

こうなると、ウナコルダをピアニシモや音色の変化だけでなく、音の持続性という目的をもって巧みに用いることができれば、伸びのある独特な響きや音像を作り出すことができるのだそうです。しかるに、これはプロのピアニストでも知らない人が多く、貴重な表現手段のひとつを知らぬまま演奏していることになるわけです。

尤も、そこまでデリケートな表現を必要とするような、真に創造的なピアニストが果たしてどれくらいいるかとなると、甚だ疑問ですが。
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不思議な演奏

ピアニストには「その人固有の音」があると言われます。
楽器自体がもっている音とはべつに、その人のタッチや演奏の律動が生み出すもうひとつの音色というべきもので、「その人」が弾けばどんなピアノでも「その人の音」になってしまうのは実に興味深いことです。

これを思いがけないところで思い出させられることになったのが小山実稚恵のピアノでした。

今年6月、N響の定期公演でチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番を弾いた映像を見ましたが、好みの問題もあるでしょうし、なかなかコメントが難しいと感じる演奏でした。

昔からですが、この人はどうしても楽器を豊かに鳴らせないピアニストなんだということを、この演奏を聴きながら、沈んでいた記憶がふわっと浮かび上がってくるように思い出しました。
どのピアノを弾いても、CDでも、実演でも、不思議なほど音が痩せて固い音になるのは、まさにこのピアニストの固有の現象だと思います。それを小山さんの音と呼ぶべきかもしれません。

また、どんなに力もうとも、音に厚みや迫力が増してくることはなく、だからいよいよ叩きつけてしまうのか、要するに弾き方に問題があるのだろうと思った次第。

たしか何かの記憶では、芸大時代に名伯楽・田村宏氏に師事したところ、田村氏は「もしかしたら、将来ものになるかもしれない学生」としながらも、指ができていないので、その方面の専門家である御木本澄子さんに一時彼女を預けたということを読んだことがありました。

もしかすると、それでも完全な克服には至らず、現在も何かを引きずっているのか…とも思ったりしますが、むろん確かなことはわかりません。

30年ほど前のチャイコフスキー(コンクール)3位、ショパン4位という受賞歴がこの人の知名度をあげるきっかけになったのでしょうが、小山さんを聴くたびに感じることは、その頃からほとんど何も変わっていないことでしょうか。
年齢的に言っても、多少は演奏が熟成してくるのが普通というか、聴く側もそういう期待をするのが自然だと思うのですが、この人にはそれがほとんど感じられないところにむしろびっくりさせられます。もしかすると多くのファンの方々は小山さんのそんなところを、いつまでも失われない初々しさと好意的に捉えておられるのかもしれません。

弾いているのは確かにチャイコフスキーの1番という超メジャー曲にもかかわらず、ほとんどこの曲を聴いているという実感がなく、とくだんの思い入れもないレパートリーの中の1曲をたまたま今弾いているという印象。
小山さんにとっては初めて国際コンクールの決勝で弾き、さらには冒頭でご本人も言っておられましたが、オーケストラと共演したのもこのときが初めてだったということで、若い時にしっかり弾き込んだ曲らしい、手慣れた演奏だろうと思っていたら、その予想はスルリと外されてしまいました。

とりわけこの曲の大仰な叙情性は敢えて排除されたのか、印刷された音符の世界だけがパチャパチャとひろがる様は不思議です。視覚的には、いかにも演奏に集中し、作品からさまざまなことを感じているといった顔の表情とか、いかにもな両腕を上に上げたりとかのモーションであるのに、聴こえてくる音はというと、驚くほどあっけらかんとした無機質なもので、そのビジュアルと音の差にも戸惑ってしまいます。

そうかと思うと、ところどころで盛大に間をとって「ほら、こんなふうに繊細で大切にすべき箇所ではちゃんと一音一音いつくしむようにやっているでしょう?」といった表現もあるけれど、全体と細部が照応せず、辻褄がまるきり合っていないという印象でした。

いっぽう音楽的に要所と思える部分では、えらくスイスイと素通りしてしまうなど、マロニエ君にはおよそ理解のできない演奏のように聞こえるばかりでした。
それでも、音が自分の好みなら、そちらにだけ耳を傾けるという方法もありますが、それは冒頭に書いたとおりで、要するに何もかもがよくわからないまま終わってしまいました。
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ピアノは優等生

この夏の酷暑のせいで、人だけでなく、機械類まで不具合やトラブルが多発していることを前回書きました。

わけでも車は存外熱に弱く、暑さによって被る機械的ストレスは相当なものだと推察されます。
とりわけ熱害を受けるのは、プラスチックで出来たパーツだとか、ゴム系の素材で作られたホースやベルト関係で、日本の夏は車にとってもかなり過酷な使用環境であることは間違いありません。

車は一部の例外(100%趣味のための車)を除けば、通常は気候に関係なく、春夏秋冬全天候のもとで実用に供されなくてはならないという役目を生まれながらに持っていますが、現実はなかなか理想通りにはいかないようです。

だから完璧に実用品と割り切って、この点では図抜けた信頼性耐久性を誇る日本車に乗っていれば問題はないと思いますが、ここに少しでも感性を求めるとか趣味性を覚えてしまうと、多くの場合、輸入車や旧車など、つまり乗りっぱなしができない車が関心の対象になるわけです。
ヤマハ/カワイの新品より、ヴィンテージピアノに惹かれるようなものでしょう。

時代のせいで、輸入車といえども以前ほど虚弱体質ではなくなってきているのも事実ですが、それでも日本車にくらべればまだまだで、オーナーがボンネットなど一度も開けたこともなく、ただガソリンさえ入れていれば何事もなく走れるというところまでは到達していません。

輸入車でも、車検ごとに好みの新車に買い換えられるようなリッチな方ならあまり問題ないと思いますが、大半はそれなりの懐事情や各車へのこだわりなど、あれこれのいきさつから、手のかかる車を、手をかけながら乗り続けることになると、ここで悲喜劇が巻き起こり、精神的経済的にもかなりの出費や負担が否応なくのしかかります。

あまり比べてみたことはなかったのですが、あらためて考えてみると、クルマ趣味を経験した側から言わせてもらうと、同じ趣味でも、ピアノはなんだかんだいっても本当に手がかかりません。
手がかからないというのは、究極的には維持費がかからないということに言い換えてもいいかもしれません。

ピアノはどんなに細かい調整や整備をやってもらっても、しょせん車とは大変さの次元が違いますし、修理や整備にかかる料金もケタ違いに安いので、そういう意味でオーナーを翻弄しまくり、ときに地獄へ突き落としたりといった大迷惑をかけるとか、経済的苦境に陥れるということはまずないというのが実感です。
モノとしての寿命も次元が違い、長年の使用に耐え、経年変化も軽微。故障なんて無いに等しく、あってもたかが知れています。
よく中古ピアノで「1年間保証付き」などというものがありますが、ピアノで保証を適用するほどの深刻な故障なんてまず考えられませんが、中古車でそんな保証をした日には、場合によってはもう1台買うよりも高額な修理代なんてことはザラですから、売る側はとてもそんなことはしません。

というわけで、ピアノは近隣への騒音問題さえクリアできれば、これほど安全堅実な趣味もないというのがマロニエ君の意見です。せいぜい半年か年1回の調律や調整をやるだけでなんとかなるし、燃料も要らず、保険や税金もないわけで、考えてみたら夢みたいですね。

人間でいうなら、面倒などかけたこともない真面目な優等生と、いつも問題を起こしては騒動になる放蕩息子ぐらいの差があると思います。

でも、ピアノ趣味の人は意外にそのありがたさを知りません。
ピアノの人と話をしていると、わずかな調律代の差であるとか、少しこだわりのある人でも各調整や消耗品の交換と作業代にいくら掛かるかという問題には、かなり細かいシビアな心配をされ、いささか過剰では?と思うほど悩まれます。むろんそれはそれでわかるのですが、内心では「同じ好きなことでも、車の維持費・修理代にくらべたらアナタ、ものの数じゃありませんぜ!」とつい言いたくなってしまいます。

ピアノで最も大金を要するのはオーバーホールぐらいなものですが、それはよほどのことで、日本人のメンタリティからいうとそれぐらいするなら買い換えるほうに向かうようです。
買い換えるお金にはかなり寛大でも、修理や整備にかかる出費となると、一挙に財布の紐が固くなるというのが大方の日本人の感覚なのかもしれません。

日本にも、もう少し道具に対する修理や整備に対する価値観というか、いうなればモノと長く付き合う文化が根づいたら、精神的にももっと豊かになるような気がするのですが…。
京都の街並みの美しさは、ちょっと古くなったらすぐに壊して建て替えたほうが合理的というような、利便性とコスト優先の安直な発想からは決して生まれないものでしょう。
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コンクールのピアノ

今年はチャイコフスキー・コンクールの開催年で、コンクール自体はすでに終了していますが、ネットで演奏動画を見ることができるとは、ありがたい時代になったものです。

むろん全部見るような時間も気力もなく、ちょこちょことかい摘んで見ただけですが、この手の動画と音声も年々精度がアップしているようで、2010年のショパン・コンクールなどに比べて格段の違いがあるように感じました。

カメラワークも巧みになり、鮮明な映像は容赦なくコンテスタントの至近距離へと迫り、指先の動き、吹き出す汗、果ては各人の肌質まで鮮明に見ることが出来るのは、ある意味で会場にいる人以上かもしれません。

音もよく捉えられており、個々のピアノの個性をつぶさに比較することができたのは、大いに収穫だったと思います。

ピアノはハンブルク・スタインウェイ、ヤマハ、カワイ、ファツィオリという最近のコンクールでは毎度お馴染みの4社。

実はこのような同一の条件下で代るがわるに聴いてみると、これまで抱いてきた印象も修正しなくてはならない部分が出てきたりして、自分なりにとても楽しく有益でした。

オープニングのガラ・コンサートで使われるピアノは、前回2011年の優勝者であるトリフォノフの意向によってファツィオリが使われたようですが、聞くところではスタインウェイ以外の3社は、コンクールのために選りすぐりの1台を最高の技術者とともに現地へ送り込んでくるらしいので、このようなメジャーコンクールのステージで鳴り響くピアノは(コンクール向きということはあるにせよ)基本的には各社の「最高」の音だと考えてもさほど間違いではないだろうと思われます。

ファツィオリに関しては自分なりにさらに理解が得られたといえば言葉が大げさですが、たとえばそのひとつは、このピアノは、そもそも美音は目指していないらしい…と思えること。
4台中、ファツィオリは最も音に馬力があるといえばそうかもしれないけれど、美しく澄んだ高級酒がグラスの中で揺らめくような音色ではなく、他社より粗っぽさが際立ちます。
このピアノは艶やかさ、格調高さ、清楚さといったものより、むしろ汗臭いぐらいのパンチが魅力なのかもしれません。

ファツィオリはイタリアという固定観念があるものだから、どうしてもあの国独特の美意識とか芸術の遺伝子のようなもの、すなわちイタリア的な要素を追い求めて聴こうとするのはマロニエ君だけではなかろうと思われます。しかし、それが却ってこのピアノを判りづらくしてきたのかもしれず、こうしてモスクワ音楽院のステージに置かれ、ロシア人によって奏されるその音を聴くと、豪快を旨とするスタミナ系ピアノだと考えると腑に落ちます。

これに対して、以前ファツィオリとヤマハはどこか通じるものがあるというような意味の印象を記した記憶がありますが、直接比較してみるとずいぶん違っていることにびっくりしました。
ひとつには、ヤマハの音の方向性が従来のものとはかなり変わってきているようでもあり、すでにCFXでさえ、出始めの頃のリリックなテノール歌手みたいな音ではなく、やたらと倍音が嵩んだ、むしろ輪郭に乏しい音になっていはしまいかと思います。
いろいろな味付けが過剰で、結果ミックスジュースみたいになってしまったのかもしれません。

それに較べるとカワイはずっとピアノらしさが残っているようで、まだしも正直なピアノだと思いました。…とはいうものの、あまりに洗練を欠いた音色で、いささか野暮ったく、もう少しどうにかならないものかと思ったことも事実。
それでも一点光るものとか、何か突き抜けた特徴があればいいのでしょうが、要するにカワイでなくてはならない積極的理由がなく、どうしても主役を張れない名脇役みたいなものでしょうか。

こうやって比べて聴いてみると、日頃は不満タラタラで、「もうだめだ」「終わった」と嘆息するばかりのスタインウェイが、やっぱり勝負の場になるとハッキリ優れている点は瞠目させられました。
まずなんといっても、その音は明らかに美しさと気品があり、メリハリがあって雄弁でした。弾かれた音が音楽として収束されていく様子は、やはりこのメーカーが長年一人勝ちをしてきたことが、けっして不当なことではなかったということを証明しているようでした。

以前のような他を寄せ付けない孤高のピアノではないにしても、相対的には依然として最高ブランドの地位を守っていることに、納得という言葉はあまり適当ではないとしても、でも、そういうことなんだという事実はわかった気がしました。

それを反映してか、はたまた別の理由なのか、真相はわかりませんが、今回はヤマハ、カワイ、ファツィオリの出番はずいぶんと少なかった感じでした。
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シャマユとバラーティ

N響定期公演の録画から、ベルトラン・シャマユのピアノでシューマンのピアノ協奏曲を聴きました。

シャマユは近年注目されるフランスの若手で、マロニエ君もすでにシューベルトのさすらい人や、リストの巡礼の年全曲などをずいぶん聴いており、それなりに親しんだ感のあるピアニスト。
ただし、演奏の様子は見たことはなく、この時がはじめてでした。
CDの印象では、趣味の良い演奏に終始して、必要以上に語りすぎたり主張が強いといったことなく、こまやかな感性がバランスよく行き届いた演奏で、耳に心地よいピアニストという印象でした。

節度をもってサラッと行くところがフランス人らしいといえばらしいけれども、シューベルトなどではもうひとつ滋味につながらなかったり、作品の内奥を覗き見るような精神性を求め得る人ではないようですが、繊細で気の利いた演奏をする人というのは確かなようです。
それが最もいいほうに出ていたのが巡礼の年(全曲)で、ペトラルカのソネットのような芸術性の高い作品が含まれるいっぽうで、全体的にはなんだかやけに大仰でワーグナーのようなこの作品にあまり共感を得られないマロニエ君としては、シャマユの演奏はリストの作品に潜む、なんだか誇張的で混沌とした部分がすっきりと整頓され、見通しの良い景色になってくるような心地よさがありました。

そんなシャマユでしたから、シューマンの協奏曲ではリパッティのようなといえば言い過ぎかもしれませんが、均整と節度がおりなす美演のようなものをイメージしていたところ、残念ながらそうではなく、あきらかにピアノが負けて埋没してしまっており予期したような感銘には繋がりませんました。
ところどころに彼らしい語りの美しさも垣間見えはしたものの、全体的には骨格の弱い、いささか心もとないピアニストという印象に終わったのは非常に残念でした。

趣味が良いとか、繊細な表現とか、さまざまな個性があることとは別に、人には生まれ持った器というものがあるようで、その点でシャマユはあくまでもコンパクトに聴かせるサロン系のピアニストであって、腕力も問われる大舞台には向かないようだと思いました。


別の週にはクリストフ・バラーティをソリストに迎えての、バルトークのヴァイオリン協奏曲第2番で、こちらは呆れるばかりにうまい人でした。
とりわけその自在なボウイングには唖然!

正直にいうと、マロニエ君はいくら聴いてももうひとつバルトークというのが自分には馴染みません。
人に言わせると、これ以上ないというほど素晴らしいのだそうですが、なんだか理屈先行の作曲家という頭でっかちな感じも否めませんし、その傑出した作曲技法も、聴く者の五感に直訴してくるものが後回しになっているようで、専門家だけが唸るなにかの設計図のような気がします。
さらには、バルトークがこだわった民謡というのがそもそもマロニエ君好みではなく、どうも相性がよくないというか、客観的には理解できないと見るべきなのかもしれません。

どんな名人の手にかかっても、バルトークが鳴り出すと「早く終わって欲しい」と思ってしまう自分が情けなくもありますが、唯一の救いは、かのグレン・グールドが「20世紀の最も過大評価された作曲家」としてバルトークの名を挙げている点です。

マロニエ君にとってはそんなバルトークですが、バラーティのヴァイオリンにかかっては、なんとかこの「好みではない大曲」を最後までそこそこ楽しむことができたのは、自分でもちょっと意外でした。

なにより腰の座った技巧と、奇をてらわない表現は、この複雑怪奇?な難曲を、ぶれることなしに終始一貫した調子でものの見事に弾いてのけたという点で感銘を受けました。
その音色は常に適確で冴え冴えとしており、NHKホールのような大会場でも、ものともせずに響きわたっていたようです。

アンコールはイザイのヴァイオリン・ソナタ。
この人のイザイはCDでも持っていますが、CDよりずっと落ち着きがあって好ましい印象でした。

調べたところ使用されるヴァイオリンは、1703年のストラディヴァリウス「レディ・ハームズワース」だそうで、それじたいが超一級の楽器のようですが、だとしても小さなヴァイオリンひとつがあれだけ大会場でも朗々と鳴り響くのに、最近の新しいピアノときたら、それこそ泣きたくなるほどふがいない音ばかり聴かせられている現状には、あらためてピアノという楽器の危機を感じずにはいられませんでした。

シャマユの演奏も、ピアノがひと時代前のものであったらずいぶん違っていただろうと思います。
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むしろ実務派

ネットでCDを注文しても、どうかすると入荷待ち状態が果てしなく続き、そのうち注文したことすら忘れてしまうことが少なくないのは以前に書いたような気がします。

ときおり、お店から「キャンセルする」か「購入希望を継続する」かというメールが来ることで、ああそうだったと思い出すような始末です。そんな中でも、たぶん4ヶ月ぐらい待たされ、メールに返信するたびさすがにもう無理だろうと諦めかけていたら「発送しました」という連絡がきて、その翌々日に届いたのがヴァインベルグのピアノ作品全集でした。

ヴァインベルグは最近になって交響曲などが一般に知られるようになった(ポーランド出身ロシアの)作曲家。ショスタコーヴィッチとも交友関係あったというだけあって、いくつか聴いてみたオーケストラ作品ではかなりショスタコーヴィッチに似通った作風が感じられました。
ピアノ作品はむろん耳にしたことがなく、どんなものかと興味本位で買ってみることにしたものが、これが大変なお待たせをくらうことになったわけです。

届いたCDは4枚組、主に第6番まであるソナタが中心で、あとはさまざまな小品でした。演奏はアリソン・ブリュースター・フランゼッティというアメリカの女性ピアニスト。

とりあえず1枚目を聴いてみましたが、未知の曲に接する面白さはそれなりにあるものの、とくに何か特別なものが訴えかけてくるというほどのでもなく、とりあえずひと通り聴いてみただけで結構時間もかかりました。

音を出す前にブックレットを見てみると、このピアニストがファツィオリを演奏している写真がいきなり目に飛び込んで、データを見るとなんとF308で演奏しているらしいことがわかりました。「あー…」と思いましたが、これはこれで面白いかもと思いながら再生ボタンを押しました。
ソナタ第1番の開始早々、ファツィオリらしい(というかだいぶこのピアノの音に耳が慣れてきたような…)平明でアタック音の強い硬質な音が聞こえてきました。はじめはフムフムと思って聴いていましたが、曲のほうにも興味があるため始終ピアノの音ばかりに耳を傾けているわけにもいきませんが、ときどき思い出したようにピアノにも意識が行くものです。

たしかにファツィオリには違いないけれど、このところかなり聴いたF278とはやや異なるものがあること開始早々からわかりました。全般的には同一のDNAをもつピアノですが、F308のほうがキャラクターがやや穏やかで、その点ではF278のほうがずいぶん攻めてくるピアノだなあと思います。

以前、トリフォノフのショパンで、この両器を弾き分けているデッカのCDがあり、F278のほうが鳴るように感じたのですが、これは霞のかかったようなライブ録音であったのに対して、今回のヴァインベルグは録音がとてもクリアで、目の前にピアノがあるような感覚で隅々まで詳しく聴くことができ、おかげでファツィオリにより近づけたように思えました。
それによればF308はいくぶん発音が柔らかいためか、相対的にF278のほうがいかにも元気よさげで、パワフルに聞こえるのだろうとも思いました。

一般的にも、大型のピアノより、小型のグランドのほうがある意味でレスポンスが良く、バンバン鳴るような印象を受ける場合がありますが、これと同じことなのかもしれません。とくに印象的だったのは、低音は電流のような迫力があることで、このあたりは3mを超える巨大ピアノの面目躍如といったところでしょうか。

ただ、やはりこのF308でもパワー重視というか、音色そのものの美しさというのは二の次なのか、聴いたあとに残る印象はやはりこれまでのファツィオリと大きな変化はありません。まるで獰猛なパワーでライバルを挑発してくるランボルギーニみたいなピアノだと思います。

鮮明な録音による4枚のCDを通して聴いても、ファツィオリのこれぞというトーンや色合いは依然掴めぬままでしたが、もしかすると、敢えて個性や色合いを排除することで、よりニュートラルというか普遍性の高い現代的なピアノの音を目指しているのかもと深読みさえしてしまいます。

何かを探そう探そうとしてファツィオリを聴いたあとでは、おなじみの老舗メーカーのピアノ達はもちろん、カワイのSK-EXなどでも特徴的なトーンのあることがスッとわかるようで、これってなんだろうと思います。

もちろんすべてのステージや録音がスタインウェイ一色となるような状態にはまったく不賛成で、ファツィオリのような新興メーカーのピアノが最前線に躍り出てくることはひじょうに刺激的で面白いし、またそうでなくては他社もほんとうの意味で切磋琢磨はできませんから、ファツィオリの登場というのは意義深いものだったと思います。

ただ個人的には、ほかならぬイタリアの楽器なのですから、もっと濃厚な音色や官能を撒き散らすような特性があったらもっと楽しめただろうにと思います。すくなくともあのスマートなロゴマークや、金のラインの入った足、ボディ内側の木目などに見るイタリア式贅沢のイメージとは裏腹の、むしろパワー指向の実務派ピアノだとすれば、すんなり納得できる気がします。
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アメリカン

BSで、クリーヴランド管弦楽団のブラームス演奏会というのがありました。
指揮は音楽監督のフランツ・ウェルザー・メスト、ピアノはイェフム・ブロンフマン。

間にハイドンの主題による変奏曲と悲劇的序曲などを挟み、前後にピアノ協奏曲第1番と第2番を配するという驚くべきプログラムで、アメリカではこんなすごいプログラムをやるのかと思っていたら、数回に分散していた曲目を放送用に合わせたもののようでした。どうりで…と納得。

クリーヴランド、メスト、ブロンフマンとくれば、たしかに世界の一流プレイヤーなのでしょうが、なんとなく自分の趣味ではない気配で普段ならあまり近づかないところです。が、なにせブラームスのコンチェルトとあっては、つい誘惑に航しきれず見てしまうことに。

個人的にどうしても期待してしまうピアノ協奏曲第1番は、出だしからやはりというべきか好みではなく、ブロンフマンのピアノも面白みがまったくといっていいほどありません。
この一曲を聴いて、すっかり疲れてしまい、続きを聴く気も失せて、ひとまずその夜はここまで。

体質的か、感覚的か、アメリカのオーケストラがあまり好みではないマロニエ君にとって、クリーヴランド管弦楽団といえば長年ジョージ・セルが振っていたことぐらいで、何かを語れるほどよくは知りません。そういえば、内田光子の2度目のモーツァルトのピアノ協奏曲シリーズもクリーヴランドで、これがかなり高く評価されているようですが、マロニエ君はまったくそうは思えず、断固としてテイト指揮イギリス室内管弦楽団との初回全集を評価しています。

クリーヴランドはアメリカのオーケストラとしては「精緻なアンサンブル」で「最もヨーロッパ的」なんだそうですが、ふ~んという感じで、たとえばアメリカにあるヨーロッパ調の壮麗な建築のようで、それっぽいけど何かが違うという印象。

数日後、続きをどうするか、迷ったあげくとりあえず間を飛ばしてピアノ協奏曲第2番を見てみましたが、こちらのほうが第1番に比較すると格段に良かったのは意外でした。迷いが多く消極的だった第1番に対して、第2番ではカラッと晴れ上がったように爽快な演奏となり、ずっと弾きなれた感じもあり、少なくとも大してストレスもなく聴き進むことができました。

ブロンフマンというピアニストには以前からあまり興味が無いので、彼のレパートリーはどんなものかも知りませんが、少なくともブラームスの2つの協奏曲では、ずいぶん仕上がりに差があったという印象でした。
守りに徹した第1番とは対象的に、第2番ではピアノが前に出ていこうとする活力があり、それなりのノリの良さもあって、前回途中でやめて消去してしまわないでよかったと、とりあえず思いました。

ウェルザー・メストも有名なわりにどんな音楽を作るのかよく知らないままでしたが(むかし小泉首相に似ているなあと思ったぐらい)、この演奏を聴いた限りではオーストリアの音楽家とはイメージが結びつきません。音楽を紡ぎ出すというより、仕事でやっているという感じを受けてしまいます。

ブロンフマンは大曲をこなすスタミナはあるようですが、この人なりの表現というよりは規則通りの流暢な演奏処理をするだけという印象。演奏者の感性に触れるような面白味が感じられず、どこが聴きどころなんだかよくわかりません。思い起こせばディビッド・ジンマンの指揮でベートーヴェンのピアノ協奏曲全曲を入れたCDがありましたが、あれもただサラサラと弾かれていくだけで、せっかく買ったのにほとんど聴かずに終わりました。

オーケストラ、メスト、ブロンフマン、いずれも一流プレイヤーとして認められ、おそらく現在のアメリカで望みうる最高の組み合わせのうちのひとつだろうと思うと、それにしてはなにか心に残るものが感じられなかったのは残念でした。

ついでに言ってしまえばクリーヴランド管弦楽団の本拠地であるセヴェランス・ホールも、かなり大掛かりな改修を受けたのだそうで、ステージ側面から背後にかけての意匠など、わざとらしく遠近法を使ったオペラかバレエの舞台装置みたいで、あんな甘ったるい華美な装いはアメリカのセレヴ趣味を連想させられるだけで、マロニエ君はクラシック音楽のステージとしてはあまり好みではありません。

オペラで思い出しましたが、巨漢のブロンフマンはピアニストというよりどこかオペラ歌手のようでもあり、とくに最近少しお歳を召した感じが、まるでトスカを恐怖と絶望のどん底に落としいれるスカルピア男爵のようでした。
ま、そんなことは余談としても、アメリカのコンサートというのは、なんとなく雰囲気が違うなあという気がしないでもありません。実情は知りませんが、画面から受けた印象では、なんとなくその地域のお金持ちや名士の集まり的な感じというか、日本などのほうがよほど音楽そのものをサラリと聴きに来ているような空気があるようにも感じました。

ピアノはかなり新しいハンブルク・スタインウェイで、いわゆる今どきのこのピアノでした。
むかしはアメリカのステージではアメリカ製のスタインウェイが当たり前で、ハンブルクを使うことは滅多なことではなかったものですが、近ごろはカーネギー・ホールのステージでさえ普通の感じでハンブルクが使われていたりするところをみると、なにかこの会社の事情があるのかと勘ぐりたくなってしまいます。
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BARENBOIM-2

現代に生まれた並行弦によるコンサートピアノ、BARENBOIM-MAENEの写真をためつすがめつ観察した感想など。

ベースはスタインウェイDでも、ディテールはずいぶんとあちこち変えられており、簡素な仕立ての椀木や譜面台の形はヤマハのCFX風でもあり、足に至ってはCFXそのままのようにも見えました。ただ、いかにも日本人体型のようなドテッとしたCFXに比べると、元がスタインウェイの細身なプロポーションであるだけ、ずいぶん軽快な印象ですね。

バレンボイムの主張としては、このピアノは音がブレンドされておらず、それは演奏者に委ねられているというような意味のことを言っているようです。現代のピアノの音が化学調味料で作られたコンビニスイーツみたいな表面だけの音になってしまい、ピアニストの感性や技量によって音色が作られていくという余地がかなり失われていることはマロニエ君もかねがね感じていたことです。

演奏者が音色や響きのバランスに対して、創造的な感性や意識を発揮させるということは、いうまでもなく演奏行為の本質にあたる部分だと思われますが、それを必要としない、もしくは受け付けない、無機質な美音だけでお茶を濁す現代のピアノ。そこに危機を感じるのは至極当然というか、彼の意図するところはおおいに共感を覚えるところです。

以前、フランスの有名なピアノ設計者であり、ピアノ制作も手がけているステファン・パウレロのホームページを見ていると、コンサートグランドと中型グランドという2つのサイズのほかに、交差弦と平行弦のふたつの仕様(それぞれボディのサイズも違う)があり、計4タイプが存在することに驚いたものでした。

クリス・マーネのホームページでは「BARENBOIM」ピアノのいくつかの写真も公開されていますが、リムの基本形はスタインウェイであるものの、裏側の支柱などもフレーム同様に並行となっていて、ここまでくるとほとんど別のピアノだと思います。
車の世界では同じプラットフォームを共有しながら、まったく別の車を作ることは近年よくあることですが、ついにピアノにもそんな考え方が到来したかのようです。
おやと思ったのは、スタインウェイの特徴のひとつであるサウンドベルがしっかり残っているところで、このパーツにはボディへの響かせ効果として(諸説あって、確かなことはいまだに知りませんが)、残しておくべき理由が、平行弦ピアノにおいてもあったのだと推察されます。

また響板の木目も、通常の斜め方向ではなく、弦と平行(すなわち前後)に揃えられており、駒も低音と中音以上のふたつの駒がそれぞれ独立して配されているのも特徴のようです。独立といえば、並行弦ピアノなのに駒とヒッチピンの間にアリコートが存在し、それがスタインウェイとは違って独立式になっているのもへぇぇという感じです。

また、フレームと弦の間に配されるフェルトが深みのある紫色となっており、これがフレームの節度ある淡い金色と相俟ってなかなかに美しく、リムの内側も古典的な明るい色に細いラインが水平に二本入るなど、どことなく高貴な印象さえありました。

鍵盤蓋には「BARENBOIM」、フレームには「CHRIS MAENE」と互いの名誉を尊重し合うように表記され、二者の合作であることが伺われます。
鍵盤蓋に埋め込まれるロゴはそのピアノのシンボル的なものなので、そこは知名度も高い世界的巨匠の顔を立て、フレーム上のエンボス加工では技術的貢献者であるマーネの名が記されているのだろう…と、そんな風にマロニエ君は解釈しました。
また、STEINWAYの文字が一切ないところをみると、むしろそれがメーカーのプライドであったのかもしれません。

このピアノ、完全なワンオフと思いきや、ここまで本格的な作りに徹したということは、そうではない可能性もあるような気がします。相当な額に達するであろう開発製造費なども、より数を作ったほうが1台あたりの価格が安くなるでしょうし。

マーネのHPから得た写真では、このピアノの並行弦用フレームが2つ重ねて代車で運ばれるショットがあり、やはり数台作られるようにも見えますが、どうせ鋳型を作ったのだから出来の良い物を選ぶために複数作ったということもあるかもしれません。
尤も、今時の正確な作りのフレームが、個体によって優劣や個性があるのかどうか、さらにはそれほど豪快に金に糸目をつけないやり方が可能かどうか…そのあたりはわかりませんが。

いずれにしろ、ここまでして出来上がった自分の名前を冠したピアノですから、さしものバレンボイムもじばらくはこれを使わないわけにはいかないでしょうね。
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BARENBOIM

ホームページを見ていただいただけで、これまで一度もコンタクトを取ったことのないピアノ店から、グランドピアノのタッチを調整するための面白い製品がある旨のお知らせを頂きました。
遠方ゆえ、その店に購入や取付を依頼することはないでしょうから、ただ純粋に教えてくださったというわけで、ご親切には心より感謝するばかりです。

「タッチレール」という名のアイテムは、鍵盤蓋のすぐ向こうにある「鍵盤押えレール」を外してそこへ装着するだけというもの。ピアノ本体にはなんの加工も必要とせず、すぐにオリジナルに戻せるというなかなかの優れもののようです。

それついては、もし購入・装着すればいずれご報告するとして、そこのお店のブログなどを奨められるままに見せていただいたところ、驚くべき情報を発見しました。


さきごろ、ピアニストで指揮者のダニエル・バレンボイムが、なんと自らの名を冠した新しいピアノを発表したとのこと。

大屋根のカーブ、支え棒、3ヶ所の蝶番の形状と位置などから、スタインウェイDに酷似していると思ったら、やはりそれがベースのようですが、このピアノで最も注目すべきは、単なるスタインウェイのカスタマイズといったありふれたものではなく、驚くなかれ中は並行弦!!となっている点です。

現代のモダンピアノが交差弦であることはもはや常識で、当然ながらあの見慣れたスタインウェイのフレームとはまったくの別物がボディ内部に鎮座しています。スタインウェイDのリム(外枠)の寸法に合わせて新造されたもののようで、加えて、弦はディアパソンやベーゼンドルファーで有名な一本張仕様。

バレンボイムがナポリかどこかで昔の並行弦のピアノを弾いたことがきっかけで、スタインウェイにこのアイデアを持ち込んだところ、クリス・マーネという古今のピアノに精通した特別な技術者を紹介され、その工房とスタインウェイ社の協力のもとに作られたピアノのようです。

クリス・マーネは調べたところ、とても個人の技術者という枠で収まりきる人物ではないようで、その工房たるや、立派なピアノ製造会社の工場のようで、広大な工房内にはピアノのためのあらゆる設備が整っており、これだけでも圧巻です。
マーネ氏は現代のピアノは言うに及ばず、チェンバロからフォルテピアノなど、あらゆる種類の鍵盤楽器に精通し、制作や修復などにも大変な手腕を発揮しているようで、スタインウェイ社もここに託すのが最良と判断したのでしょう。

ホームページではその製造過程の様子が写真で見ることができますが、まさにメーカーレベルの仕事のような大規模で整然としたものであるところは、ただもう唖然とするばかりで、ピアノのためのこういう会社が存在しているというところひとつみても、やっぱりヨーロッパはすごいなぁ!というのが実感でした。

このピアノは今年の5月にロンドンで発表され、BBCなどで映像も公開されているようです。

発表の場では、バレンボイムがシューベルトのソナタなどを軽く弾いていましたが、わずかな音の手がかりから感じたことは、純度の高い、真っ直ぐで、簡素で、繊細な感じの音。それでいて現代のピアノらしい豊かさと、スッと減衰しない伸びの良さを兼ね備えているようでした。
さらにはスタインウェイにくらべて音の立ち上がりがいいように感じました。
この点、もともとスタインウェイは、どちらかというとやや音が遅れて出てくるようなところがあるので、それが普通になっただけかもしれませんが。
彼はこれからしばらく、このピアノであれこれのコンサートを行うそうですから、そのうちCD化などもされるものと思います。

スタインウェイも昔のような大上段に構えた商売はやりにくくなっている筈ですから、今後はこういう目的に特化したカスタムピアノの制作にも協力姿勢をとっていくのかもしれませんね。
もし成功すれば、第二のシリーズとして、ラインナップされることもあるんだろうか?などと想像が膨らみます。

それにしても鍵盤蓋の中央には金色で「BARENBOIM」の文字が輝き、それをちっとも臆しないところは、やはり世界の巨匠といわれる人の感性は違うんだなあと感心しました。

知り合いの某調律師さんは、シゲルカワイをして「いくら会社の社長とはいえ、そのフルネームをそのままピアノのシリーズ名にするっていうのは、そのセンスが驚くなぁ!」と苦笑していらっしゃいましたが、その流れで言えば、バレンボイム氏はピアノメーカーの社長でもなければ開発技術者でもなく、偉大とはいっても演奏側に立つピアニスト/指揮者なのですから、さすがにそのネーミングにはいささか驚いたのも事実です。

ま、ネーミングの件はともかくとして、早くこのピアノの音をじっくり聴いてみたいものです。
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巨匠と若手

N響定期公演から、フェドセーエフの指揮によるロシアプログラムというのがNHK音楽館で放映され、ラフマニノフのヴォカリーズとピアノ協奏曲第2番、リムスキー=コルサコフのシエラザードが演奏されました。

始めに演奏されたヴォカリーズから、やや遅めのテンポが感じられ、ピアノ協奏曲になってもその印象は続きました。フェドセーエフも82歳だそうですから、やはり歳とともにテンポは遅くなるのだろうかと思います。
カラヤンもベームも、ルビンシュタインもアラウもそうであったように、晩年はテンポを落としたくなるものかもしれません。

ピアノはアンナ・ヴィニツカヤで、CDでは聴いていたものの、映像を見るのは初めてでした。
手許にあるCDは難曲で知られるプロコフィエフのピアノ協奏曲第2番で、なかなかスタミナ感のある演奏だったこともあり、こういうロシア系のヘビーな作品を得意とするピアニストだろうという予測をしてしまいます。

曲の冒頭、凄まじくクレッシェンドしていく和音とオクターブによって幕が上がると、息つく間もなく、うねる波のように無数のアルペジョが押し寄せますが、情熱的に前進しようとするヴィニツカヤに対し、フェドセーエフは雄渾で恰幅の良い第1主題を描こうとしているようで、すでにこの時点からピアノとオーケストラは噛み合わず、しばしば行き違いが生まれました。

直接のテンポもさることながら、各所でのアーティキュレーションや呼吸感など、求める演奏の方向性の違いがあり、それが和解できないまま本番を迎えたという感じでしょうか。

フェドセーエフにすればソリストは同じロシア人、しかも孫のような歳の女性となれば遠慮なく自分が手綱を握り、それに異議なくついて来るはずというところだったのかもしれません。
少なくともソリストの意向を汲み取って尊重しようという気配は感じられませんでした。

30代前半のヴィニツカヤは、この名曲をロマンティックかつ情熱的に追い込んでいこうとするものの、フェドセーエフもN響も、まるでそんな彼女の意向を無視しているかのようで、なんとはなしにピアノが空転気味というか、どこか気の毒な感じにも見えました。

ヴィニツカヤはある意味で少し前のロシアスタイルというか、その美貌とほっそりした体型からは想像できないほどの豪腕ぶりで、すべての音をがっちり掴んで、力強く積み上げていくタイプのピアニストで、ラフマニノフの2番みたいな作品は結局こういう演奏が合っているようにも思えます。

マロニエ君の好みとは少し違いますが、これはこれで楽しめますし、実際の演奏会では、聴衆をそれなりに満足させることのできる人なんだろうと思いました。
むしろこんな曲を、中途半端に知的処理されて消化不良にさせられるよりは、よほど素直で好感がもてるというものでしょう。

そういう意味では、もうすこし彼女の意を汲んだ指揮であったなら、もっと充実したドラマティックな演奏になっていただろうと思われる反面、終始噛み合わないオーケストラに追従して、あれだけの難曲を弾いていくのは、気分が乗っていけないのに一定のテンションを保つのはさぞ大変だろうと、いささか同情的になりました。

そのせいかどうかはわかりませんが、第3楽章の佳境の部分でゾッとするような、あやうく事故に近いようなことが一瞬起こり、きわどいところで回避されたものの、思わず心臓が凍りつきそうになりました。
ピアノが出るべきところで出ずに空白が生じ、一瞬の間を置いてなんとか出たという、いわば重大インシデントといったところでしょうか。
やはりどんな腕達者であっても、ステージというのは何が起きるかわからないものですね。
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ベーゼンドルファーの美

ネットでCDを注文する際は、本当に欲しいものがメインになるのは当然としても、せっかくなので「ついでにこれも」というようなものも一緒に購入することがよくあるものです。

『RUSSIAN PIANO RARITIES』という3枚組もそんな「ついで買い」のひとつで、輸入盤で、もう忘れましたがたぶん値段もずいぶん安かったと思います。ロシアの珍しいピアノ曲集というような意味かと思っていますが、確かなことはよくわかりません。

メトネル、スクリャービン、ショスタコーヴィチ、ラフマニノフという4人の作曲家によるソロ、もしくは2台ピアノのための作品などがごった煮のように入っており、ピアニストもいかにも二軍選手といった人たちが4人、ごく普通のしっかりした演奏という感じで、普通に曲を聴くにはちょうどいい塩梅といえなくもありません。

こういう掻き集め的なCDで面白いのは、演奏者、録音年月、使用ピアノがバラバラな点でしょうか。
ただし、どれもが新しい録音なので、極端に雰囲気の異なる音源が隣り合わせというような不都合はなく、録音も場所もちがう割には比較的違和感なくまとまっており、たまにはこういうCDも悪くはないなあというところでしょうか。

とくに思いがけなかったのは、ピアノの違いを楽しむことができる点でした。
使用ピアノなどの記載はないものの、多くがスタインウェイであることは音からも明白ですが、ラフマニノフに関してだけは2台ピアノもソロも、録音場所がベーゼンドルファー・ザールとなっており、そこに聴くピアノはまぎれもなくベーゼンドルファーであることは曲目からして非常に意外でした。

さらに意外だったのは、それがなかなかいい音だったのです。
このところの音質低下はベーゼンドルファーにまで及んだのか、このブランドにふさわしい音を聴くチャンスが少なくなったと感じていたところ、このCDで聴くそれは、ハッとするほど美しいものでした。
艶やかで柔らかいのにみずみずしい音で、ひさびさにこのメーカーのいい部分を堪能できた気がして、これはまさに思いがけない収穫でした。

しかも弾かれているのはラフマニノフですから、本来ならどう考えてもマッチングの良い取り合わせではない筈ですが、ほんとうに美しい音で鳴っているピアノというのは、それだけでもじゅうぶん魅力的で、作品との相性なんてそれほど気にならないのは実に不思議でした。

艶やかな弦楽器のような濁りのない音で、美しいものは理屈抜きに美しいということ、それを聴くことの驚きと喜びにストレートにわくわくさせられました。
こういう素晴らしい音があるかと思うと、インペリアルで録音されたCDなどには期待はずれなものが少なくないし、コンサートなどでもまったく納得しかねるような、どこか間延びした、不健康な感じの楽器があるのも率直な印象です。

最近で印象に残っているのは、アンドラーシュ・シフが東京オペラシティーで行ったメンデルスゾーンやシューマンによるリサイタルで、シフほどの名人の手にかかってもピアノの反応がいまいちで、引きこもったような不鮮明な音を出すばかりでした。
会場とピアニストはいずれも一流であることから、楽器も管理も悪かろうはずもないし、第一級の技術者がおられるに違いなく、それだけに近年のベーゼンドルファーとはこんなものかと思わざるをえませんでした。

マロニエ君はベーゼンドルファーのことは、あまり知りませんし、弾いた経験も多くはありません。
まろやかな音色のピアノがあるかと思うと、かなりエッジの立った際どい音であったりと、どれが「らしい」のかよくわかりませんが、共通して感じるのは、音量が比較的小さく、サロン的な音色の質や調子から、自ずと作品も選ぶピアノといったところでしょうか。

イメージとしては弱音域の美しさが際立っていることと、整音が非常にデリケートであるのか、スイートスポットが非常に狭いのか、好ましいコンディションを作り出し、維持するのが容易ではないのでは?というもの。
メリハリがないほど音が柔らかいかと思うと、少しでも硬すぎればチャンチャンしたやや下品な音になり、マロニエ君はいずれの音も好みませんが、ツボにはまった時のベーゼンドルファーの美音は、まるで熟れきった果実から極上の果汁がしたたり落ちるようで、なまめかしい純度の高い美音が撒き散らされ、聴く者を圧倒してしまうものがあるのも事実でしょう。

マロニエ君はアルコールはてんでダメで、ワインの良否などまるでわかりませんが、この道にうるさい人が最高級だ年代物だと興奮するのは、きっとこんな豊饒な音のようななものだろうか…などと想像を巡らせてしまいます。

残念な点は、そういう麗しい音のピアノが非常に少ないと感じる点でしょうか。
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アンデルジェフスキ

今年からN響の首席指揮者にパーヴォ・ヤルヴィが就任したのは驚くべきニュースでした。
あんな売れっ子をよくぞ連れてこられたものだと思いますが、お陰で、ひさびさにN響に喝が入ったように感じました。

たしかデビューコンサートのプログラムだったと思いますが、マーラーの巨人を振るのを聴いて、へーぇ…と思ってしまいました。
ブロムシュテットでも、デュトワでも、アシュケナージでも、ノリントンでも、与えられた仕事をそつなくこなすよう淡々と弾いていたN響。唯一、珍しく本気になっていると感じたのは、昨年だったか一昨年だったか、ザルツブルク音楽祭に出演したときだったけれど、日本に戻ると同時にパッションも元に戻ってしまったようでした。

そんなN響が、ヤルヴィを前にするとさすがに気持ちが引き締まるのか、あきらかにこれまでにない熱気のようなものが漂っているのが感じられ、これは面白いことになったと思いました。

すでにN響とのコンサートも異なるプログラムで数回おこなわれたようで、先日はR.シュトラウスとモーツァルトが放映されました。冒頭の「ドン・ファン」は見事な演奏で、サントリーホールのステージからこぼれ落ちんばかりのフルオーケストラから繰り出される豪華な響きと精緻なアンサンブルによって、この熱気に満ちた交響詩を演じきりました。

後半はメインである「英雄の生涯」が待ち受けますが、その谷間におかれたのがモーツァルトのピアノ協奏曲第25番でした。演奏前の説明にもあった通りモーツァルトの作品中、最もシンフォニックなピアノ協奏曲で、傑作第24番の悲劇的なハ短調と表裏をなすように、ハ長調の盛大なトゥッティで始まるあたりは、いかにもモーツァルトらしい変わり身で、悲しみに打ち沈んだあとはパッと明るく切り替える、対照的な同主調といえるかもしれません。

ソリストはピョートル・アンデルジェフスキで、マロニエ君はこの人のCDは何枚か持っているものの、巷ではそれなりに高い評価を受けているようではあるけれど、個人的には彼の演奏の目指すところがよくわからないまま理解が進みません。
モーツァルトの協奏曲は何枚かリリースされているようですが、シマノフスキやシューマン、カーネギーのライブなどのCDを聴く限りでは、この人のモーツァルトを聴いてみたいという意欲がわかず、手許にはまだ一枚もなしです。その意味でも、初めて彼のモーツァルトを聴けるという点でも楽しみと言うか…ともかく興味津々ではあったわけです。

しかし、危惧したとおり、何をどうしたいのか、まったくその表現意図がマロニエ君にはわかりかねる演奏でした。やはりこうなんだなぁ…という、当たり前のような印象。

この人は通り一遍のピアノを弾くことを良しとせず、いわば演奏を標準語で語らないのがこだわりなのか、一言でいえばやりたいようにやるのが彼の流儀のようです。その異色なスタンスからアンデルジェフスキこそはピアニストという枠を超えた真の表現者であり芸術家であるというふうに書かれた文章もいくつか読んだこともありますが、正直、聴こえてくる演奏に納得がいかず、マロニエ君には彼の演奏の真価がさっぱりわかりません。
この日の演奏を聴いて、その疑問は疑問のまま上書きれて終わりました。

だいいちに重くて鈍いです、モーツァルトには、あまりにも。
テンポも安定感を欠き、アーティキュレーションもデュナーミクもまったく予測もつかなければ、あとで腑に落ちてくることもなく、全編を通じて不明瞭感みたいなものがつきまとい、ほんとうにこれがこの人の本心なんだろうかと思いました。

音楽というものはいまさらいうまでもありませんが、自分とは感性や好みが違っていても、その人なりの音楽が言語となって語られ、収支のバランスがとれていて、一定の完成度があるものなら、それはそれでじゅうぶんに楽しめるものです。
べつにモーツァルトはこうあらねばならないというお堅いことをいう気はないし、いいものはどう型破りであってもいいと思うのですが、ロマン派ともなんともつかない恣意的な弾き方をすると音楽の型が崩れてしまい、聴いていてまったく乗っていけません。
自己流でも型破りでも、最終的になにかに支えられ、どこかに発見があり、けっきょく帳尻があっていなければ、それは個性だとは言えないような気がします。

ピアノの入りなども遅れが目立つところが散見され、わけてもモーツァルトの掛け合いにおいては、ひと息の遅れがその楽句の鮮度を残酷なほど落とし、意味や輝きが失われてしまいます。また、いわゆるミスタッチとは言えない音の飛びやつまづきが多々あったのも、彼の名声にはそぐわないたぐいのものだったことは意外でした。

どうも顔色もよくないようで体調でも悪いのか、はたまた御酒でも召されてステージにお出ましだろうかと思ってしまうような、何か訳ありのような気配が漂っていて、なんとなく気持ちのよいものではありませんでした。
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ファツィオリ検証

以前、アンドレア・パケッティの弾くゴルトベルク変奏曲のCDの感想から端を発して、ファツィオリのことにも触れたところでしたが、その後、BSクラシック俱楽部でボリス・ギルトブルグという若手ピアニストの来日公演の様子が放映され、会場であるトッパンホールのステージに置かれていたのはファツィオリのF278でした。

ついひと月ほど前に、CDから聴こえてくるファツィオリの音についてあれこれ書いたばかりなので、そこに綴ったものが時間をおき、音源を変えてみて正しかったかどうか、あるいは何かが修正されてくるか、その点を(自分なりに)検証する意味もあって、意識的にこのピアノの音に耳を傾けました。ピアノ、ピアニスト、会場、曲目、録音が異なれば、受ける印象にも多少の変化がある可能性は大きいのでは…というわけです。

曲目はグバイドゥリーナのシャコンヌ、ラフマニノフの楽興の時第1番と第3番、プロコフィエフのソナタ第2番。
グバイドゥリーナのシャコンヌはよく知らない曲だったため、主に作品自体を楽しんだものの、ラフマニノフ以降はピアノにも注意を向けてみました。

果たしてそれは、パケッティのゴルトベルクで聴こえたものと、つまらないぐらい同じ印象でした。
自分の書いた感想に対する検証という意味では少し安堵の気持ちも覚えはしましたが、やはりファツィオリほどの最高級にランクされるピアノですから、なにか印象が好転するような要因があればと期待していたのですが、とくにそれらしい要因は見当たりませんでした。

ラフマニノフの楽興の時第1番などはゆったりした曲調であるぶん、落ち着いて音を聴くことができるのですが、やはりその音には奥行きというか、濃淡や立体感みたいなものが感じられません。
緩徐部分でも響きが固く、表現が難しいところですが、曲線的な歌唱の要素がなく、むしろメカメカしい感じばかりが耳についてくるように感じました。
演奏という入力に対してのレスポンスはたしかによさそうで、低音などまるで筋肉が隆起するようです。この点で弾く人には刺激的なのかもしれませんが、楽器に人格のようなものを感じたり、そのピアノなりの声や響きの構成にわくわくさせられるようなものはやはり感じませんでした。

楽器の音には「抜ける」という要素があるのかどうか専門的なことはしりませんが、神経に何かが溜まっていくのか、しだいに息苦しい感じのするところが気にかかります。もしかすると無機質でデジタルな時代感覚に合わせ、意図的に味わい深さやリリカルな要素を排した性格が与えられているのかもしれません。

ピアノの音に馥郁としたものや交響的なものを求めるとしたら、そういう性質のピアノではないのでしょう。それはこの日弾かれたロシア音楽、わけても遙かなる大地と哀愁の漂うラフマニノフにはまったく不向きという印象で、大きなロシア人が異国でアルファロメオにでも乗せられているようでした。

ファツィオリはスカルラッティのような鮮烈な花束みたいな作品には最良の面を発揮するのかもしれませんが、壮大さや憂いを内包する重厚な音楽には向いていないのかもしれません。

ピアニストのボリス・ギルトブルグは、初めて聞く人でしたが、ピアノを演奏するという行為をとても真摯に受け止めて、終始良心的な演奏に徹するタイプのようでした。
小柄な人でしたが、テクニックも見事で、プログラムに対する準備も怠りなく、まさに誠実な演奏家という印象を抱かせるに十分です。とくにその表現は繊細かつ大胆で、ロシア人ピアニストも時代のせいか、このようなデリケートな配慮の行き届いた表現ができるようになったということを痛感させられました。

リヒテルだギレリスだといっていた頃の、分厚くこってりした、力でねじ伏せるような演奏がロシアピアニズムだった時代を思い起こせば、この点でもずいぶんと近代化が進んでいることを思い知らされます。
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いずれが大切か

音楽性とテクニック、いずれが大切か。

これはピアノ演奏上の価値基準に対する、永遠のテーマかもしれません。
コンクールの功罪や在り方も、煎じ詰めればこのテーマに抵触するとき、あれこれの論争が巻き起こるといっていいのかもしれません。

どんなに腕達者であっても、そこに一定の音楽性が伴わなくては聴くに値しないという基本は揺らぐものではないけれども、先日のロマノフスキーの演奏は、技巧と音楽性(広義では芸術性)の関係についてあらためて考えさせられる契機にはなりました。

よほどの悪趣味であるとか、体育会系腕自慢は論外としても、やはり水際立ったテクニックというものは正しく用いられている限りは、それ自体もストレートな魅力であることを認めないわけにはいきません。

ここでいうテクニックというのは、厳密には「メカニック」との区別を厳格にすべきかもしれませんが、そんな言葉の微妙なところはどうでもいいというか、要はその言葉の微妙な意味の違い以前の根本的な問題のような気がします。

技巧VS音楽性、いずれを大事と見るかは譲れぬ意見があるようで、それぞれ言い分はわかります。マロニエ君の結論としては、少なくともステージに立って演奏するようなピアニストであれば、この二つはどちらが欠けてもダメだということです。

技巧を第一に考える人は、ピアノといえばまずは指の技術ありきであって、曲をまともに弾くこともできずに音楽性云々と言うのは詭弁であり、キレイ事にすぎないということでしょう。
たしかに豊かな音楽性も、繊細な感性も、悲喜こもごもの心的描写も、それらはすべて鍛えられた技巧を通してはじめて表出させられ音楽にのせて具現化することの出来るもので、それなくしては表現もなにもはじまらないという主張で、その点はマロニエ君もまったく同感です。

ただ、現実には、技巧が表現のための手段として、いわば表現の裏方に徹しているかというと、そうは思えないところも多々あることが問題です。
ピアニストであれ素人であれ、長年にわたり技巧の習得に邁進してきた人の中には、音楽性云々は建前で、本心では技術がすべてに優先するという人が大勢いるのは事実でしょう。技術こそが優劣の絶対尺度で、それをまるで偏差値のように捉えてしまうやり方です。

音楽的趣味や感性の重要性にはほとんど目を向けようとせず、そちらがまったく育っていない人(というかむしろ抜け落ちている)というのは音楽の世界では最も恥ずべきことのはずですが、高い技術さえあればとりあえず威張っていられるのがこの世界の現実で、それだけテクニックを持っていることはエライことなんでしょう。
そういう人達に限って、ショパコンとかプロコとかベトソナなどと疑いもなく口にするようにも思われ、これらは直接の関連はないはずですが、やっぱり何かはっきり説明できないところで繋がっているような気がするのです。

ピアニストの演奏スタイルも時代とともに変遷があり、二三十年前まではあからさまな技巧派タイプがいたものですが、近年は一捻り二捻りされて、ぱっと見は非常に精度の高い知的な演奏が主流で、そこへ自分の演奏表現(のようなもの)を織り交ぜて個性とするスタイルが主流のようです。しかし、ときに不自然なほどの「間」を取ってみたり、変なアクセントをつけたり、意味のないような内声を際立たせたり、極端なpppとfffの対比でコントラストをつけたりと、必ずしも聴き心地の良い音楽とはなっていないものを見かけるのも事実。
それもよくよく聞いていると、結局は自分の技術的都合にそった解釈めかしたものであったり、評価のための演奏であったりと、その企みが透けて見えてしまうと、たんなる個人的な野心を見せられているようで気分はシラケてしまいます。

そんな中、技巧の優れることが音楽性に勝るとは思いませんが、現実的に抜きん出た技巧を持っている人のほうが、精神的にも余裕があり、情緒面も落ち着いているのか、音楽もどちらかというとストレートであるのはひとつの特徴だと思います。

結局のところ、技術や才能に足りないものがある人ほど、小細工を散りばめてあれこれを企んだり辻褄合わせをする必要があるようで、正攻法でいけば、自分の欠点が忽ちバレてしまうという恐れがあるんでしょうね。
そういう意味でも、やはり余裕ある技巧はどうしても必要になることは否めないように思います。

ただし、これはあくまでもプロの話であって、アマチュアの場合は断じて音楽性が優先だと思います。
アマチュアの場合、多くは技巧といってもたかが知れています。所詮は人よりちょっと難易度の高い曲を弾けますよといった程度で、どっちにしろピアニストに敵うはずもなく、他人にとってはほとんど意味のないことです。

聴かせてもらうなら、小さな一曲でもいいから、きれいに弾いてもらったほうがよほど気持ちがいいですね。
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らららでピアノ

普段見る習慣のないNHKの「ららら♪クラシック」ですが、他の番組を録画する際に、たまたまこの番組も目についたので気まぐれにセットしてみたところ、通常の1曲解説ではなく、「楽器特集~ピアノ」がテーマで、思わずラッキー!という感じでした。

このテーマでは、ほとんどお約束ともいえる「ピアノという名前はなぜそう呼ばれるようになったか」というところから、300年前にピアノはイタリアのクリストフォリという人が云々というあたりまでは、はいはいという感じです。

意外だったのは、フランスの代表的な二人のピアノ製作者、エラールとプレイエルの名が出てくるところですが、この番組では、リストはエラールを好み、ショパンはプレイエルを好んだと、あまりにきっぱり色分けされていたことでした。
さらにリストはエラールの革新的な音や性能を高く評価したのに対して、ショパンがプレイエルを好んだのは、例のダブルエスケープメントの登場前の、シンプルな機構から生まれる音色にあった由で、マロニエ君はこれに反論するほどの材料は持ち合わせないので、いちおう「そうなんだ…」と思うことに。
ワルツ第1番のあの特徴的な連打を、古い機構のアクションで弾いていたということなのか…。

古典的なさまざまなピアノが出てきたものの、それらは映像ばかりで音はほとんど聴かせてくれなかったのはとても残念でした。
マロニエ君の注目を引いたのは、ある時期のプレイエルには第二響板というのがあって、開けられた大屋根の一部にそれは格納されており、必要時には留め具を外すと大屋根の内側に取り付けられた板が下に降りてくるようになっており、中音から下あたりの弦の上に覆いかぶさるようになります。

この状態でピアニストがショパンのバルカローレの一部を弾いていましたが、「第二響板をつけると、高音から中音、低音までバランスよく響くようになる」とのことで、音色はいうに及ばず、弾かれた音の余韻にこだわるプレイエルには、むかしこんなアイデアがあったのかと唸ってしまいました。

この第二響板なるものは、一見すると本来の響板から出る音にフタをしてしまうような印象もありますが、響板と呼ばれるからにはそれなりの木材が使われているのでしょうし、それによって絶妙のニュアンスが生まれるのだとすると、これはぜひ実物の音を聴いてみたいものだと思いました。
とっさに連想したのはバイロイトの祝祭劇場で、オーケストラピットがそっくり舞台下に隠されて、ここ以外ではあり得ない独特な音響を作り出すことで有名ですが、そんなものなんでしょうか。

たしかに現代は、楽器の性能や演奏技術、あるいは作品解釈においてはずいぶん研究が進んでいる(正しい方向か否かは別にして)ようですが、微妙な音色であるとか音響上のニュアンスというものについては、さほど意識が払われないよう気がします。
音楽あるいは演奏にとって、立ち現れてくる音のニュアンスというのはかなり重要なファクターだと思いますが、その点では現代ではくっきりはっきりブリリアントが首座を占めているようです。

後半には横山幸雄氏が登場し、ピアノの多様性を紹介するためか、ベートーヴェンの熱情、ショパンのノクターンop.9-2、リストのカンパネラをかなり割愛した形で連続して弾きました。が、どれもほとんど同じように聞こえてしまったのが正直なところで、えらく無感情な、まるで残業の仕事でも急いで片付けるように弾いてしまったのには、ちょっとびっくりでした。

ネットの動画では、どこかの音大での横山氏のレッスンの様子を見ることができますが、かなり細かい点までいちいち指示している当の本人が、このような弾けよがしな演奏をすることに、このレッスンの受講生やビデオを見た人はどんな感想を持つのだろうと思いました…。

ちなみに番組が進行するメインスタジオには、わりに新しめのスタインウェイDが置かれていて、横山氏もそこで話をしていましたが、演奏そのものは別のスタジオなのか、別のピアノ(30年近く前のスタインウェイD)が使われていました。
NHKの収録の都合でそうなったのか、横山氏の希望でこのピアノが使われたのか、そのあたりの事情は知る由もありませんが、いずれにしろ個人的にはスタインウェイではこの時期のピアノを好むため、つい期待したものの、そういうものを味わう余地もないまま、肉の薄いタッチでサササッと終わってしまったのは甚だ残念でした。

蛇足ながら、司会者の加羽沢美濃さんがスタジオに置かれたスタインウェイDを紹介する際、「このピアノはフル・コンサート・ピアノ、通称フルコンと呼ばれるもので、全長2m80cm、重量480kg…」と言い、併せて画面には文字でも数値が映し出されたのは、ん?と思いました。語尾に「ぐらい」がついていればまだしも、実際は274cmなのでいささか抵抗感がありました。

NHKのコント番組、LIFE風にいうと「これはちょっとまずいですね、NHKなんで!」というところでしょうか。
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ロマノフスキー

少し前の放送でしたが、Eテレのクラシック音楽館・N響定期公演で、アレクサンダー・ロマノフスキーが登場しました。この人はベートヴェンのディアベッリ変奏曲のCDを購入して以来、マロニエ君がそれなりに興味を持っていたピアニストのひとりでした。
とくに目立った個性というほどではないけれど、しっかり感があって、涼しい感じのする演奏だったことが印象的でした。

演奏したのはラフマニノフのパガニーニ狂詩曲。
もっているCDは一枚きりで、それなりに聴いていたものの、演奏する姿を見るのは初めてです。

いきなり驚いたのは演奏前のインタビューのシーンで、コメント自体は別に大したことは言っていませんでしたが、大きな手の持ち主らしく、カメラの前でピアノの鍵盤に手を広げて見せてくれました。
するとオクターブからさらに5度上(もしくは下)、つまりドからひとつ上のソまで12度!届くわけで、さらに余った指で和音をならしたりできるようでした。大変な偉丈夫でもあったラフマニノフは、手の大きいことでも有名だったようですが、きっとこんな具合だったのだろうかと思います。

ピアノの鍵盤はどれもほぼ同じなので、老若男女から子どもから、手指の大小長短さまざまな人達が同じフィールドで指を動かすことに奮励努力しているわけですが、ロマノフスキーの大きな手を見ると、これは天が与えた大変な武器であり、もうそれだけで手の小さな人は出だしから不利だということを思わずにはいられませんでした。

そんな大きな手の持ち主なら、どれほどの体格の持ち主かと思うところですが、それはごく普通のロシア人にすぎず、いわゆる長身痩躯という部類の優男タイプで、袖口から出ている手だけが、体に対してふたまわりほど大きいような印象でした。
グールドもそうでしたが、体つきに対して、手首から先がバランスを欠くほど大きな人というのは、それだけでピアノを弾くことを運命づけられた特別な人のように見えてしまいます。

実際の演奏は、音楽的に特筆大書するほどのものではないけれど、普通にすばらしい、充分満足のいくものでした。
それよりもしみじみ思ったことは、やはりステージに立つ人というのは、誤解を恐れずにいうなら、まずはテクニックだと思いました。

ロマノフスキーの演奏を視聴していると、技巧に余裕がある(もちろんその手の大きさも彼の余裕ある技巧を可能にしている要素のひとつであることは言うまでもない)ために、あわてず、無理せず、追い詰められず、常にいろいろな試みをしようという余裕があることが伝わってきます。
自然に前に進んで行けるため、呼吸や音楽的な潮の満引きが奏者の心身の波長と重なり合って、すっきりはかどり、聴いている方も安心して音楽の旅に身を任せることができ、無用な不快感やストレスを感じずに済みます。

技巧に余裕のない人は弾くだけで手一杯で、そこに付随すべき表現とかアーテキュレーションなども、事前にしっかり準備したものを無事に披露することだけに全エネルギーが傾注され、即興性とか意外性、問答の妙味みたいなものが立ち入る隙がありません。結果的に魅力のない感興に乏しい演奏に終始してしまうのは当然です。

その点でいうと、ロマノフスキーとてむろんしっかりと練習を積んでステージに出てきた筈ですが、実際の演奏行為としては一期一会の反応や表現をそのつど試みてやっていることが感じられます。音楽という、一瞬一瞬の時間の中で生まれるものに携わる者として、どう音を発生させ、重ねたり展開させたり解決させていくか、そこで生じるさまざまな反応を試しつつ、その醍醐味を聴衆にも提供しているようです。

つまり圧倒的なテクニックは、創造的な可能性を広げるものだということを痛感しました。

音楽は演奏される現場で生まれるもので、そのための周到な準備は必要ですが、その演奏のどこかに「どうなるかわからない」という部分を孕んでいないものにはマロニエ君は魅力を感じません。過日、ヒラリー・ハーンの演奏について書いたのは、あまりにそういう要素に乏しいということでした。

オーケストラや共演者がどうくるか、ソロでも、ひとつのテーゼをその瞬間どう出たかによって、あとにつながる部分は変わってくるわけで、それらひとつひとつが反応して変わってくることが音楽の魅力の根幹ではないかと思われます。

感心したのはそればかりではなく、ピアノというのはやはり演奏者の奏法と骨格がストレートに反映されるものだということで、ロマノフスキーのような西洋人としては普通の体型で、やや痩身、しかも手が大きいというのは、もっとも美しい音を出す条件ではなかろうかと思いました。日本人では岡田博美あたりでしょうか。

あまり体格そのものが良すぎると、どうしても腕力でピアノを制してしまい、そうなると音が潰れて意外にピアノは鳴りません。また小柄な人や多くの女性では骨格が弱いため、どうしても必死にピアノに食い下がっている感じがあって、これらもあまり朗々と鳴ることは少ないです。

その点でいうと、ロマノフスキーの音は、とくに激烈な音などは出さないけれど、いつどこを聴いても明晰で、常に輝きと張りが漲っており、聞くものの耳へ労せずして音が届いてくるのは感心させられました。

つくづく思うのは、趣味がよく、技巧がとくに優れた人というのは、音楽が素直で、演奏もいい意味でサッパリしているということです。もちろん中には際立った指の動きに任せてスポーツ的に弾き進む人もないではないですが、全体的には、やはり上手い人は演奏ももったいぶらず、楽々と進んでいくのが心地良いと感じます。

あちこちで変な間をとったり、大見得を切ってみたり、聞こえないようなppで注目を惹いたり、音楽全体の流れを停滞させてまで意味ありげな強調をしたりするのは、たいていはどうでもいいような、ないほうがいいような表現のための表現であることが多いものです。
それは意図して自分の個性づくりをしているなど、元をたどれば、つまりは技巧に対する弱さをなんとか別の要素でカバーしようとしているにすぎず、本当にうまい人というのは、自然に自信もあるからそんな小細工をする必要がないのだと思われます。

それにしてもロマノフスキーとは、ロマノフ王朝を思わせる、なんとも豪奢で印象的な名前ですね。
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ウォールナットのD

前回のキット・アームストロングのリサイタルについては、途中からブレンデルに話が及んでしまい、もうひとつ大事なことを忘れていました。

なによりも珍しかったのは、実はピアニストではなくピアノのほうでした。
この演奏会では、浜離宮朝日ホール所有の艶消しウォールナット仕上げによるハンブルク・スタインウェイのDが使われていたのです。ここにそのピアノがあることは薄々知っていましたが、その全容をつぶさに見たことも、音を聴いたこともなかったので、その意味では思いがけず念願が叶ったというところです。

放送された当日だったようですが、たまたま友人と電話でしゃべっていると「今朝のクラシック倶楽部は、浜離宮の木目のピアノだった」と教えられ、一も二もなく見てみたものです。

期待に胸膨らませて再生ボタンを押したところ、なるほどウォールナットのDがステージに据えられています。
その結果はというと、ピアニストに続いてピアノのほうもマロニエ君の好みではなく、とくにピアノは期待が高かったぶんかなりがっかりしてしまいました。
日頃より、マロニエ君は木目のピアノに対しては、格別の魅力を感じているひとりです。現在手許にあるディアパソンも深い赤みを帯びたウォールナット仕上げである点も大いに気に入っている点ですが、そんな贔屓目で見ても、この木目のDは不思議なぐらいピンとこない印象でした。

やはり現代のコンサートグランドというのは、まずは黒であることが無難なんだろうかと考えさせられます。
とくに艶消しのウォールナットという外皮は、明るい木目があらわで、あえてピアノの外装の格式みたいなものでいうなら、ずいぶんくだけた装いなのかもしれません。
明るい木目でも、たとえばスタインウェイ社がピアノの素材構成を見せるために作った無塗装のシステムピアノのDなどは、ある意味とても洒落ているし垢抜けた印象さえあるのですが、このウォールナットはそれとも違い、木目なのに木目の明るさを感じない不思議な雰囲気でした。

家に置くピアノだったら、木目のピアノは文句なしに好ましく、黒はむしろ無粋だとも思いますが、ステージでは必ずしもそうとは限らないという事実をこのピアノのお陰でちょっとわかった気がしました。黒のほうがビジュアルとして遥かに収まりがいいし、ステージ用にはフォーマルであることも知らず知らずのうちに求められるのかもしれません。

それと、浜離宮朝日ホールのステージの場合、背後の壁も似たような色の木目調だったこともあり、ピアノが保護色のようになって茫洋とした印象をあたえるばかりで、ときおりステージの備品のように見えてしまうのは予想外でした。
また、Dはボディが大きいためか、木目であることが妙にナマナマしく不気味にも見えたことも正直なところでした。

楽器自体もずいぶん古いもののようで、このホールよりもずっと年長のようですから、きっと何らかの事情で中古として運び込まれたピアノなのでしょう。
マロニエ君はいつも書いている通り古いピアノは本来は大好きで、新しいものよりはるかにしっくりくる場合が多く、とくにコンサートで年季の入ったピアノが使用されることはむしろ望むところなのですが、このピアノの音はというと…どれだけ好意的に耳を澄ませても、残念ながら納得しかねる音でした。

スタインウェイのD型としてはもどかしいほど鳴らないピアノであることはテレビでもよくわかり、賞味期限切れのような貧しい音しか出ていないのは大いにがっかり。このホールには他に黒のDが2台あるようなので、このピアノはその外観と相まってフォルテピアノ的な位置づけなのでしょうか…。
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疲れさせない…

前回、バケッティの演奏によるファツィオリの音の印象を書きましたが、それはあくまでマロニエ君の個人的な印象であることはいうまでもありません。

ネットでのCD購入にあたっては、複数のアイテムを選んだ場合、ひとつでも入荷が遅れると発送は見合わされ、一定期間を経過したときにだけ、入荷を待つか、キャンセルするか、既に入荷済みのものの見送るかなどを選択することになっています。

今回はさらに入荷待ちのCDがあり、それ以外のものをとりあえず発送するという選択をしたために、バケッティのゴルトベルクを含めて3つのCDが送られてきていたのですが、最も興味をそそられるバケッティから聴きはじめました。

音楽というものは不思議なもので、はじめの5分でおおよその演奏の判断はつくもので、それが後に覆ることはないということはしばしば書いてきましたが、もっと大きなくくりで云うなら、CDの場合、通して何度か聴いているうちに若干の修正があったり、多少の理解が深まるとか全容がつかめるというようなこともあるため、マロニエ君の場合、よほど気に入らないものでない限りは、とりあえず4〜5回は聴いてみることにしています。

それもあって、バケッティのゴルトベルクもとくに自分の好みではないことは認識した上で、とりあえず3回ほど聴いたところ、さすがに疲れてしまい、これを一旦お休みにして一緒に送られてきた別のCDに取り替えました。

セルゲイ・シェプキンの新譜で、バッハのフランス組曲(全曲)などが入った2枚組でした。
出だしから衝撃的だったのは、シェプキンのバッハ固有な清冽な演奏もさることながら、スタインウェイの生み出すトーンのなんと耳に心地よいことかと思える点で、やはりこのメーカーが世界の覇者となったのは必然であったことをまたも悟らされることになりました。

いまさらマロニエ君ごときがスタインウェイの音の特徴を言葉にしてみたところで意味があるとも思えませんし、そんなことはナンセンスだろうと思いますが、それでもあえて一言だけ言わせていただくなら、なにより直接的な違いは、とにかく「耳に優しい」ピアノだと断言できると思います。より正確にいえば「脳神経に優しい」というべきかもしれません。

この点については、まるで別物のように言われる同社のハンブルク製とニューヨーク製のいずれにもはっきりと通底していることで、声が多少違うだけで、同一のアーキテクチャから紡ぎだされるそのトーンは、無理がなく、どれだけ聴いても神経が疲れるということがありません。音が楽々と空気に乗って飛来してくるようです。
スタインウェイ以外にも素晴らしいピアノはいろいろありますが、いずれも長時間、あるいは繰り返し聴くと、疲れたり飽きてきたり不満点が見えてきたりすることは不可避で、いずれもどこかに不備や無理があるのだろうと思ってしまいます。

そういえば思い出しましたが、もうずいぶんと前のことですが、エリック・ハイドシェックの宇和島ライブというのが話題になり、当時としてはきわめて高い評価を得ていたCDがありました。
マロニエ君もそのCDはすべてではないにしても、何枚か持っていましたが、その良さが今一つよくわからずに集中して聴いてみたことがあったのですが、どうもよくわからないまますっかり疲れてしまったことがありました。
記憶が間違っていなければ(確認もせずに書いてしまっていますが)、このとき使われたピアノが日本製ピアノだったようですが、なんだか耳に負担のかかるような音の砲列に疲れたというのが率直な印象だったのです。

その結果、無性に別のCDが聴きたくなって、とりあえずなんでもいいという感じで、手っ取り早くCDの山の一番上にあったのが弓張美樹さんのペトラルカのソネットでした。無造作にそのCDをデッキに放り込みましたが、出てきた音を聴いた瞬間、サッと血の気が引くほどそこに流れ出したピアノの音にゾクッとしたことを鮮明に覚えています。

このピアノは関西のヴィンテージスタインウェイの専門店が所有する戦前のニューヨーク製で、マロニエ君は個人的にはどちらかというと好みのピアノではなかったのですが、疲れるほど日本製ピアノの音を聴き続けた末に接したこのピアノの音は、まさに気品と落ち着きと自然さにあふれていて、スタインウェイの根底に流れるなにか本質的なものを、ひとつ諒解できたような気がしたものです。

というわけで、マロニエ君の良いピアノの判断は、音やハーモニーなどの個別具体的な要素のほかに、長時間の鑑賞に耐えられるかどうかということもかなり重要なファクターだと思っています。どんなに素晴らしいとされるピアノでも、1時間やそこらで飽きたり疲れたりするようでは、マロニエ君としては真の一流品とは思えないのです。
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続・ネット問答

ヤマハのSとスタインウェイの比較にも面白い回答がありました。
ここに書くことは、ひとつの答えではなく、いろいろな答えの中から印象に残ったものを集めたものですが、ある回答では、「ヤマハのSあたりになると全面ウレタン塗装となり、見た目は美しいが非常に硬度のある材質なので、果たして木材の呼吸にそれが相応しいかどうか疑問に感じる」「日本人は音楽の歴史が浅く、どうしても高価なピアノを美術品的に捉える傾向がある」のだそうです。ウーンなるほどと思いつつ、そもそもウレタン塗装ってピアノにとってそんなに高級でいいのかといきなり疑問です。

また、ピアノ運送の仕事をしているという方からの回答でしたが、これが含蓄に富んだおもしろい答えでした。
まず「製品精度としてはダントツにヤマハ」と太鼓判を押していました。
「必要があってパーツを取り寄せても、ヤマハは同じモデルなら一発で装着できるのに対して、スタインウェイなどでは年式やモデルによって調整や加工が必要だったりで、メーカーに問い合わせをしても「そっちで合わせろ」というような答えが返ってくる」とのことですから、ヤマハのそういう面での優秀さと確かさはやはりすごいものがあると思わせられます。

実際の運搬に際しても、「ミシリともいわないヤマハに対して、スタインウェイはゆるゆるで、製品としての頑丈さは文句なくヤマハです」ということでした。
しかし、つけ加えられていたこと(ここが重要!)は、「しかし、製品精度と感銘を与える音の響きは比例しない。」「仕事はヤマハのほうがしやすいが、音は個人的にスタインウェイのほうが好み」と言っているあたりは、運送屋さんながらピアノの本質がわかっていらっしゃるなかなかのご意見だと思いました。

以前、スタインウェイに心酔する関西の大御所に聞いたところによれば、スタインウェイはただのボディの段階ではゆるゆるに作られているそうで、フレームを組み入れ、弦を張ってテンションがかかった段階ではじめてすべてが収束し、ピアノにかかる全体のバランスがこのとき取れるようになっている、非常に凝った、奥の深い設計をしているということでした。だからボディだけの状態と、フレームを組み入れ弦を張った状態とでは、わずかに寸法さえ変わるのだとか。

氏はその事に関して「断崖絶壁のぎりぎりのところに不安定な椅子を置いて、それに座ってバランスを取りつつ平然とコーヒーを飲んでいるようなもの」と喩えたものでした。
それに対して、ヤマハはボディと支柱にいきなり蟻組などを施して、初手からガチガチに作り過ぎるからダメで、しょせんは大工仕事の発想で、楽器製作の根本がわかっていないと、その巨匠は熱く語っていたのを思い出します。

したがってスタインウェイの場合は運搬時、とりわけクレーンで吊って搬入するようなときに、間違ってもピアノの支柱(裏側にある大きな数本の柱)にロープをかけてはならないのだそうで、スタインウェイのことを良く知る運送会社は絶対にこれをせず、ピアノが括りつけられた台座ごとロープをかけるが、ときどき無知な業者がこれをやってしまって最悪の場合はピアノに深刻なダメージを与えるとも言われていました。

そこで思い出すのは、あるピアノ店のホームページで「スタインウェイを納品しました」ということで、マンションの上階へクレーンで吊ってD型を搬入している写真が掲載されていましたが、なんとピアノは搬入前に歩道で梱包を解かれ、大屋根さえ外した状態の丸裸の状態、しかも支柱にしっかり太いロープが巻き付けられた状態で空中につり上げられており、思わず背筋が寒くなってしまいました。

話が脱線しましたが、ヤマハのSシリーズとスタインウェイのどちらを購入するかで悩んでいる人というのは結構いらっしゃるようで、値段が倍以上違うのでそれに見合う価値が本当にあるのかといったところなんでしょう。おもしろいのは弾く本人は試弾してヤマハを気に入っているのに、音楽に興味のないご主人のほうがスタインウェイの音を敏感に聞き分けて、断然こっちだと言い出すケースもあるようです。

また、不思議なことに、ヤマハの高級機種は検討範囲であるのに、カワイのSKシリーズは視野にも入っていない例がいくつもあり、回答者の一人が、カワイのSKは弾くとかなり心がぐらつくので一度試してみてはどうかというアドバイスをしていました。やはり一般的にヤマハとカワイではお客のほうにも相当な意識の差があるというか、端的に言えば客層が違うということなんでしょうか?
すくなくともヤマハのユーザーにとってカワイは眼中にないようで、このあたりはカワイユーザーでもあるマロニエ君としては複雑な心境です。

訳がわからなかった回答としては、しきりにヤマハをすすめる人がいて、しかもその人はスタインウェイのBとベーゼンドルファーの225を持っているということでした。
この人のアドバイスは、高級輸入ピアノは維持費が大変だからヤマハをオススメというのがその理由で、ずいぶんと上から目線なご意見で、それ自体にも違和感を感じましたが、そもそもスーパーカーじゃあるまいし、維持費ってなにがそんなにかかるのだろうと思いますが、具体的にはなにも記述はされていませんでした。
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ネット問答

ネットを見ていると、ピアノ購入予定者がいろんな質問コーナーにいろんな質問を寄せていることがわかり、いくつかアトランダムに読んでみました。

たとえば数件見たのは、「ヤマハとカワイの違いは何か?」ということです。
それぞれに回答者がいろんな説明をしていますが、楽器としての特色や優劣にはこれといった決定的な回答はそれほど見あたりません。それだけ基本的には両者の実力は拮抗しているということかもしれません。

むしろ楽器それ自体がどうというよりは、ブランド力とか販売網や教室の充実度、一般的な信頼感、リセールバリューなどに話が及ぶことが多いような印象を持ちました。
意外だったのは、カワイを押す人には「音がいい(好き)、音楽的、低音が良く鳴る」といった意見が見られたのに対して、ヤマハを押す人は音や響きですすめる人はあまりなく、「信頼性、精度、安心感、弾きやすさ、数が多いので慣れている」などの理由が主流である点でした。

それでも強いて言うと、ヤマハは高音がきらびやか、カワイは暗いというような回答もいくつかあり、これはイメージとしてはわからないでもありません。
マロニエ君に言わせれば、普及品のグランドの場合はカワイのほうが個体差(調整の差?)が多く、やわらかい音色の良いピアノがあるかと思うと、ちょっとご遠慮したいような個体もあるけれど、ヤマハの場合はそういう意味では安定しているという印象です。
ただし「このピアノのこの音がいい」とことさら感じさせるようなピアノもなく、ほとんどが平均した水準はもっているという印象です。

専門家(たぶん技術者でしょうが)の意見も同様で、ヤマハの特徴は、音に関する言及はそこそこで、これという明確な言及はほんとんど見あたりません。むしろ製品としての確かさ、商品性、ブランド力などであり、わけても耐久力は圧倒的なものがあり、いまさらながら受験や音大生、あるいはそれなりのプロなど、膨大な練習量を必要とする人達のためのツールとしては、ちょっとやそっとの音の優劣を云々するよりも、強くて逞しいヤマハは最も頼りになるピアノのようですね。

また、カワイを推す人は、あくまでも音色などの好みで自分はカワイのほうが好きだが、それは人それぞれという主観が判断する余地を残して、ヤマハの非難はほとんどしていません。
これに対して、ヤマハを推す側は、ヤマハが良いのが当然で、カワイはダメだ格落ちだというような非難を堂々としているところが印象的でした。

グランドのレギュラーモデルの購入を検討している人達は、新品でも中古でも、わりにヤマハとカワイ(そしてたまにボストン)を比較しているようですが、高級モデルの話になると一気にカワイの名が挙がらなくなるのはどういうわけだろうかと思ってしまいます。ヤマハには高級というイメージもあるのだろうかと考えさせられてしまいました。

笑ってしまったのは、ラフマニノフのある作品を例にとって、その何小節目のフォルテが出せるか否かを、ヤマハ、カワイ、スタインウェイなどのあらゆるサイズのピアノを分類整理して論じ立てる人もいたことです。なんだか無性にくだらない気がしたものの、こんなことを真剣に論ずる人がいて、それを真面目に呼んで参考にする人がいるというのが妙な気持ちになりましたね。

実際に、ヤマハのSシリーズとスタインウェイだったらどちらを買うべきかというたぐいの質問がいくつもあって(そんなことを人に聞くのも妙ですが、おそらくは自分の好みよりも客観的な価値判断が欲しかったのだろうと思われる)、そこにシゲルカワイがほとんど出てこないのは不思議というほかありませんでした。

おそらくシゲルカワイの価値を認めている人は、一般論に惑わされることなく、本当に自分の耳や指先で判断している人達が多いのかもしれません。よって人の意見を求める必要もないのかもしれませんし、ましてやネットの質問コーナーに「どちらがいいか?」という質問をするような人は極めて少ないのかもしれません。

マロニエ君の印象でも、シゲルカワイを買う人は実際にはこのピアノに惚れ込んだ人が多く、他との比較があまり意味がないのかもしれません。
個人的には、ピアノ選びは同クラスの比較で検討するより、自分の好みや感性に響いてくるピアノを選びたいし、そうあるべきだと思っているのですが、受験とか練習目的のある人というのは、そういう自由な選び方をしちゃいけないのかもしれませんし、だとしたらピアノを買うというのはとても楽しいことなのに、なんともったいないことかと思ってしまいます。
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フォーレ四重奏団

ビデオデッキに録画されたままになっているものには、わけもなく手付かずの状態でずっとおいているものがありますが、その中にBSのクラシック倶楽部で2月に放送された驚くべきコンサートがありました。

昨年12月にトッパンホールで行われたフォーレ四重奏団の演奏会で、曲目はブラームスのピアノ四重奏曲第1番。
マロニエ君にとってフォーレ四重奏団ははじめて聞く名前で、てっきりフランスの室内楽奏者だろうと思っていたら、冒頭アナウンスなんと全員がドイツ人、しかも世界的にも珍しい常設のピアノ四重奏団とのことでした。

たしかに、ピアノ四重奏曲というものはあっても、ピアノ四重奏団というのは聞いたことがなく、これでは演奏する作品も限られるだろうと思いますが、今どきはなんでもアリの時代ですから、そういうものもあるんだろうと思いつつ、演奏を聴いたところ、果たしてその素晴らしさには打ちのめされる思いと同時に、一流の演奏に触れた深い充実感で満たされました。

まずなにより印象的なことは、ひとことで言って「上手い!」ことでした。
選り抜きの一級奏者が結集しているにもかかわらず、4人はみなドイツ・カールスルーエ音楽大学卒なのだそうで、これほどの実力が比較的狭い範囲から集まったということにも驚かされます。

メインのブラームスは、堂々としていて深みがあり、生命感さえも漲っています。細部の多層な構造などもごく自然に耳に達し、なにより音楽が一瞬も途切れることなく続いていくところは、聴く者の心を離しません。
巧緻なアンサンブルであるのはもちろんですが、よくある目先のアンサンブルにばかり気を取られた細工物みたいな音楽をやっているのではなく、4人それぞれが情熱をもって演奏に努め、秀逸なバランスを維持しながら、作品を生々しく現出させます。
必要に応じてそれぞれが前に出たり陰に回ったりと、本来のアンサンブルというものの本質というか醍醐味のようなものを痛烈に感じるものでした。

しかも全体としても、作品の全容が、素晴らしい手際で目の前に打ち立てられていくようにで、最高級の音楽とその演奏に接しているという喜びに自分がいま包まれていることを何度も認識しないではいられませんでした。開始早々、このただならぬ演奏を察して、おもわず身を乗り出して一気に最後まで聴いてしまったのはいうまでもありません。

ブラームスのピアノ四重奏曲は聞き慣れた曲ですが、これほどの密度をもって底のほうから鳴りわたってくるのを聴いたのはマロニエ君ははじめてだったように思います。知的な構築的な土台の上に聴く者を興奮させる情熱的な演奏が繰り広げられ、それでいて荒っぽさは微塵もなく、これまで見落としていた細部の魅力が次々に明らかにされていくようでした。

フォーレ四重奏団は、4人各人が個々の演奏の総和によってこの四重奏団の高度な演奏を維持しているという明確な意識と自負があるようで、普通はヴァイオリンの影に隠れがちなヴィオラなども、まったくひるむことなく果敢に演奏しているし、しっかり感に満ちたピアノも過剰な抑制などせず、思い切って演奏しているのは聴き応えがありました。

最近のピアニストは、指は動くし譜読みも得意だけれど、音楽的な熱気やスタミナを欠いた退屈な演奏が多すぎます。しかもそれを恥じるどころか、あたかも音楽への奉仕の結果であるかのように事をすり替えてしまうウソっぽさがあり、無味乾燥な演奏があまりに多いと感じるのはマロニエ君だけでしょうか。
とりわけ室内楽になると、アンサンブルを乱すなどの批判を恐れるあまり、どこもかしこも真実味のない臆病な演奏に終始して、それがさも良識にかなった高尚な演奏であるかのようにごまかしています。
このフォーレ四重奏団は、そんな風潮に対するアンチテーゼのような存在だと思いました。

稀にこういう大当たりの演奏に出くわすことがあるものだから、普段どんなにつまらない演奏で裏切られても、凝りもせずやめられないのだと思います。これは一種のギャンブル好きの心理にも通じるものなのかもしれません。

さて、またCD探しが始まりそうです。
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ドビュッシーの前奏曲

ドビュッシーの前奏曲といえば、フランスのピアノ音楽の中でも最高峰に位置づけられる傑作のひとつとして広く知られているものですが、マロニエ君はもうひとつこの曲集に近づきがたいものを感じていて、しっくりこないまま長い時間を過ごしてきました。

ずいぶんむかし、はじめてこの曲集のレコードを買ったのはミケランジェリの演奏で、その透徹した演奏や美音に感心というか、ほとんど服従に近いものがあり、長らく他のピアニストの演奏に触れる機会が少なくなってしまいましたが、その後はずいぶん種類も増えて、リヒテルも弾いていたし、近年では青柳いずみこやエマールなどをいちおう聴いてはいました。

それでもこの曲集に対する基本的な印象を覆すまでには至らず、ましてやポリーニのそれなど聴きたいとも思いませんでした。

そんなドビュッシーの前奏曲ですが、知人からおすすめCDのコピーを頂いた中に、フィリップ・ビアンコーニのそれがあり、これが思いがけず良かったことは嬉しい驚きでした。まずなにより、ハッとするような清新さと自然さをはじめてこの作品から感じとることができたように思ったのです。

この曲を弾く多くのピアニストは、ことさらドビュッシーを意識しすぎるのか、個々の違いはあるにせよ、掻い摘んでいうとしゃにむに印象派絵画のような仕上がりにしたいのか、ピアノという楽器の実態からあえて遠ざかるところに重きをおいたような、いささか芝居がかった演奏だったようにも思えます。
演奏は、演奏家の自然発生的に出てくるものなら聞き手の側にも自然に入ってくるものなのかもしれませんが、悪く云えば、ドビュッシーに同化する自分を演じているようで、本当に演奏者がそういう心境に達した上での演奏であったのか…となると、どうも鵜呑みにもできないような居心地の悪いものがついてまわる気がしていたというところでしょうか。
これがマロニエ君のこれまでのこの曲に対して(正確に言うならこの曲の演奏と言うべきかもしれませんが)、ようするにそんなふうな印象を抱いていたのです。

その点、ビアンコーニはもっとありのままというかストレートな音楽としてこの24曲を弾いており、そのぶん聴くものにも身構えさせない親しみが備わっているような気がします。なんというか、ようやくにして作品が、少しですが自分に近づいてきてくれたようでした。
つまりこれは、脚色されないドビュッシーというべきか、適当な言葉はよくわかりませんけれども、なんとなくドビュッシーがプレリュードで伝えたかったものは、こういうものだったのかも…と思えるような、そんな演奏に初めて接することができて、霧が少しだけ晴れてむこうの景色が少し見えたような気になりました。

音楽の演奏全般にいえることかもしれませんが、程よい自然さというか、要するに必然的な音の発生を感じるものには、それだけ好感を抱けるし、聴く者なりではあるけれど、曲を理解するについても最も早道になると思います。

ドビュッシーでいうなら過度なデフォルメをするのではなく、ラヴェルでいうなら過度なクールさを強調するのではない、音楽としての佇まいに対してもう少し作為的でない謙虚さのようなものを感じさせる演奏であってほしいと思います。

ピアノはヤマハが使われていますが、これがまたとても好ましく思いました。
というか、ドビュッシーには意外にもスタインウェイはまありフィットしないように思います。よくドビュッシー自身の言葉を金科玉条のように引用して、ベヒシュタインこそ最適なピアノのように言われますが、それもマロニエ君個人は心底納得はしていません。
ベヒシュタインの音はドビュッシーにはどこか野暮なところもあって、これが必ずしも理想とは思えない。

ただ、スタインウェイのすべてを語ろうというような豊穣な音色は大抵の場面ではプラスに作用するものの、ドビュッシーの和声や音色は、楽器から出た音がいったん聴くものの耳に入ったあとで、個々の感覚の中で遅れるように混ざりこみ収束していく過程が必要で、そのため楽器から出た瞬間の音はむしろ硬い、単調な音であるほうがいいのかもしれない気がするのです。
その点では少し前のヤマハは、現代的な音色と機械的な冷たさが、意外にもドビュッシーに合っている印象をもちました。

こんなことを書くとドビュッシーに詳しい方からは叱られるかもしれませんが…。
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アスリート

前回書いたピアノの先生のピアノ音痴(楽器としてのピアノに対する理解が恐ろしく低い)の続きをもう少し。

本当の一流ピアニストを別にしたら、ピアノを弾くこと教えることに関わっている、市井のいわゆる「ピアノ弾き」の人たちは、器楽にかかわる全般からみても、きわめて特殊な位置やスタンスを持っていることは間違いありません。

楽器の性格を推し量り、微妙な何かを察知し、長短を見極め、その楽器の最も美しい音を引き出す、またはそれらを弾き手として敏感に感じ取ろうとする…なんて繊細な感性はピアノ弾きにはまずありません。
わかるのはせいぜいキンキン音かモコモコ音かの違いぐらいなものでしょう。

ピアノの整備や修理は調律師という専門家がするもの(それもほとんどお任せ)で、自分はひたすら練習に明け暮れ、目指すは指が少しでも早く確実に動くこと。盛大な音をたたき出し、技術的難曲を数多く弾きこなすことで勝者の旗を打ち立てるのが目標であることは、むしろアスリートの訓練に近く、この点はなんのかんのといっても昔から改善の兆しはないようです。

家具や家電製品、パソコン、あるいは自転車やクルマのように、ピアノも一度買えば寿命が来て買い換えるまで使い倒す器具といったところではないでしょうか。「ピアノはしょせんは消耗品、だからこだわること自体が無意味だ」と公言して憚らない有名ピアニストもいるほどですから、この世界では楽器にこだわったり惚れ込んだりしないほうがクールでカッコイイわけで、当然、新しいものが最良のもの。
ごく稀に古いピアノのいいものなんかに触れるチャンスがあっても、自分じゃその良さなんてあんまりわからず、ただのくたびれたオンボロピアノのようにしか思えない。要は楽器の音を聞く耳というか感性が死滅してしまっているのかもしれません。

こんなタイプがほとんどといっていいピアノの先生に、こともあろうに楽器選びの相談をするなんて、マロニエ君には悪い冗談のようにしか思えないわけです。

人から聞いた話をふたつ。
ということでご紹介していましたが、差し障るがあるといけないようで、消去します。

もうひとつはあるピアノ工房での話。
そこには古いプレイエルがあり、お店の人によれば、これまでに多くの先生方が弾いていかれたけれど、いずれも良さがわかってもらえなかったとか。ほとんどの方がただバリバリ弾くだけで、プレイエルの音を引き出そうとはしなかったそうです。
そして評価を得たのは、工房内にある新品のスタインウェイだけだったとのこと。

この話をマロニエ君に教えてくださった方いわく、「私が弾いた感じではそのスタインウェイはまだ花が開いてない感じで鈍く、工房の中では一番つまらなかったのですが、ずいぶんと感じ方が違うんだなあと思ったものです。」とあり、まさに目の前にその先生たちの様子が浮かんでくるようでした。

……。
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先生に聞くのが一番…

インターネットでは、その膨大なユーザーを相手に、森羅万象の質問やアドバイスを求めることができるのは、いまさらいうまでもない現代の常識のひとつかもしれません。

「Yahoo知恵袋」などがその代表格でしょうが、みていると、ありとあらゆることが質問され、必ずと言っていいほどアンサーが寄せられて、中には一読しただけでも勉強になるような質の高い内容さえ見受けられるのは、多くの方が経験されていることでしょう。
しかもそれらは無料で無制限に利用でき、現代はよほど専門性特殊性の高いことでない限りは、パソコンのスイッチを入れキーボードを叩けば大抵の答えはそこからゲットできるようになっており、便利であるのはもちろんですが、どこかついていけない気にもなってしまいます。

もちろん、中には何の参考にもならないようなものもあれば、頭からふざけたような回答もあり、匿名性の高い世界ではこれは致し方のないこととしても、大真面目に熱心に寄せられた回答であるかかわらず、なんだこれは?と思うようなものがないわけでもありません。

ピアノに関するQ&Aはたまに覗くのですが、これからピアノを購入しようという人と、それに答える人たちのやりとりには、いろいろな現場事情や認識が見え隠れして唖然とするようなものも少なくなく、こんなところからも、世の中の人がピアノというものを概ねどのように捉えているかの一端を垣間見ることができます。

たとえば、子供にピアノを習わせるのに、将来いつまで続くかわからないことを前提に、いつどんなタイミングでどんなピアノを買っておけば損得両面において最もリスクが少ないかというようなもの。あるいは今勉強中の曲はこれこれと書いて、それぐらいだったらヤマハなら何を買うべきか、というようなものが多く見られます。
同様のものでもう少し具体的に書くと、ショパンのバラードやエチュードを弾くようになったら、あるいは受験にはやはりグランドじゃないとダメでしょうか?といった具合です。

さらに驚くのはアンサーのほうで、いかにも親切で誠実な調子の文章ではあるけれど、「私も音大受験を機に◯◯にしました」とか、「できればC3以上にしてください」「コンクールに出るなら、C7あたりか、予算が許せばスタインウェイ」など、練習する曲の難易度に比例してこれこれ以上のピアノであるべきといった内容が大手を振って並んでいます。

そこで取り交わされるやり取りを見ていると、不気味なほど音楽をやっている気配みたいなものがなく、体操の跳び箱の高さの話ばかりをしているようであるし、それに応じて使うべきピアノのメーカーやサイズまで決まっているかの如くの発言の数々には、おそらくこんなところだろうと予想はしていても、やっぱり具体的なやりとりを見ると、そのつど驚かされてしまうのです。

ショパンの何々、ベートーヴェンの何々、プロコ(この言い方が嫌い)の何々というのが、難易度の指針であるだけで、作曲家もしくは作品に対する冒涜のようでもあり、そうまでしてなんのために苦労の多い音楽なんてやろうとするのか、目指すところがまったく汲み取れません。

また購入にあたっては、いかにも説得力ある常識的意見として「ピアノの先生に相談してみるのが一番です」という意見は、一度ならず目にしたことがあります。素人があれこれと迷って楽器店のいいなりになるより、先生はピアノを長年弾いてこられたプロなのだから楽器のことも詳しい筈で、生徒の将来のことも考慮して選んでくださるだろうから、先生のアドバイスにしたがっていれば間違いないという主旨のものです。
それには、質問者の方も大抵は納得し、「それがベストですよね。ありがとうございました。」というような感じに話が収束してしまうのには、無知というものの喩えようもない虚しさを感じずにはいられません。

マロニエ君に言わせれば、ピアノの先生の多くはピアノのことなんてまったくご存知ない、むしろシロウト以下の人があまりにも多いという印象しかありません。中にはそうではない方も一部おられるかもしれませんが、それは例外中の例外であって、一般的平均的にはピアノの先生ほどピアノのことがわからない人たちも珍しいと思います。

音の善し悪しなどは、ピアノの先生のねじくれてしまった耳より、シロウトの方がよほど素直な感性をもっていて、何台か聴いていればその美醜優劣がまっとうに聞き分けられるのはまちがいありません。ピアノ技術者との雑談の中でも、先生の話が出るとみなさん決まって苦笑いになってしまいます。

それでもピアノ教師は、なまじ長年ピアノと係わってきただぶん「自分は専門家」という意識があり、だからピアノの見立てなどの相談にも臆せず応じてしまうようです。自分のピアノの良し悪しもわからないのに、それを自覚できておらず、人様のピアノ購入のアドバイスをするなんて無責任もいいところです。またそんな先生に自分の買うピアノを決められてしまうなんて、そんな無謀な話は考えただけでもゾッとしますが、これって結構あるんだろうなあと思います。

こうして、親、生徒、先生、楽器店といった本当に良いピアノを見極める能力や意志のない顔ぶれだけで事は決し、また一台無味乾燥で音楽性のかけらもないようなピアノが売れていくのでしょう。嗚呼…。
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技術と才能

懇意にしていただいている調律師さんの中には、これまで他県で活躍されていた方もおられます。

その地域では、調律はもとよりホールのピアノの管理なども複数されていた由で、当然コンサートの仕事も数多く手がけられ、一部は現在も遠距離移動しながら継続している由です。ご縁があって我が家のピアノもときどき診ていただくようになりましたが、驚くほど熱心で密度の高いお仕事をされるのには感心しています。
しかしエリア違いのため、その方が調整されたピアノによるコンサートを聴いた経験は一度もなく、ぜひ聴いてみたいという思いが募るばかりでした。

そこで、もしライブCDがあれば聴かせてほしいと頼むと、4枚のCDをお借りすることができました。
いずれも第一線で活躍する名のあるピアニストのリサイタルですが、その中でもゲルハルト・オピッツの演奏会はとくに印象的でした。ピアノは1990年代のスタインウェイで、この技術者さんが管理されていたことに加えて、当日の調律も見事で、まったくストレスなく朗々と鳴っていることは予想以上でしたし、スケールが大きいことも印象的でした。

一般的に、日本の技術者のレベルはきわめて高いものの、どこか「木を見て森を見ず」のところがあり、いざコンサートの本番となるといまひとつピアノに動的な勢いがなく、どこかこぢんまりしたところがあるのは、何かにつけて我々日本人が陥ってしまう特徴のひとつなのかもしれません。
これは技術者が、つい正確さや安全意識にとらわれて、ある意味臆病になるためだと思います。マロニエ君は精度の高い基礎の上に、一振りの野趣と大胆さが加わるのを好みます。このわずかな要素にピアニストが反応することでより感興が刺激され、迫真の演奏を生み出す、これが個人的には理想です。

ところが多くの日本人技術者は比較的小さな枠内で作業を完結させる傾向があり、正確な音程と、まるで電子ピアノのような整った音やタッチにすることを好ましい調整だと思い込んでいる場合が少なくないのでしょう。ピアノ技術者の技術と感性は、究極的には職人的な才能と音楽性が高い接点で結びついていなくてはダメだと思うのは、やはりこんな時です。

最近は、見た目やマークは同じでも、演奏がはじまるや落胆のため息がでるような空っぽなピアノが多い中、久々にスタインウェイDによる、他を寄せ付けない独壇場のような凄まじさに圧倒されました。
優れた演奏によってはじめて曲の素晴らしさを理解するように、優れた技術者とピアニストを得たとき、スタインウェイはあらためてその真価をあらわすのだと思いました。

オピッツ氏も好ましいピアノに触発されてか、マロニエ君が数年前に聴いたときとはまるで別人のように、集中度の高い、それでいてじゅうぶんに冒険的で攻める演奏をしており、聴く者の心が大きく揺すられ、いくたびも高いところへ体がもって行かれるようでした。これこそが生の演奏会の醍醐味!といえるような一期一会の迫真力が漲っていることに、しばらくの間ただ酔いしれ感銘にひたりました。

CDを受け取る際、つい長話になってしまい、最後になってフッと思い出したように「あ、ぼく、一級の国家資格、受かってました」といってハハハと軽く笑っておられました。ずいぶん難しい試験だと聞いていましたが、すでに九州でもかなりの数の合格者が出ているらしく、そう遠くない時期に「持っていて当たり前」みたいなものになるのかと思うと、何の世界も大変だなあと思います。
曰く「…でもあれは、本当に技術者として一級云々というものでは全然ないですね。ただ単にその試験に対応できたかどうかという事に過ぎませんよ」と穏やかに言っておられたのが印象的でしたが、そのときマロニエ君が手に持っていたのは、まさにその言葉を裏付けるようなCDだったというわけです。たしかにコンサートの現場経験を積んで世間から認められることのほうが、はるかに難しいし大事だというのはいうまでもありません。

スタインウェイをステージであれだけ遺憾なく鳴り響くよう、いわば楽器に魂を吹き込むことのできる技術者は、マロニエ君の知る限りでも、そうそういらっしゃるものではありません。単なる技術を超えた才能とセンスがなくては成し得ない領域だからでしょう。
いまさらですがスタインウェイDは潜在力としては途方もないものを持っているわけですが、その実力を真に発揮させられるような技術者は本当にわずかです。

しかもそういう方々が、その実力に応じた仕事をする機会に恵まれているのかというと、必ずしもそうではない不条理な現状もあるわけで、ますます憂慮の念を強めるばかりです。

どんなに立派なホールに立派なピアノがあっても、肩書だけの平凡な調律師がいじくっている限り、一度も真価を発揮することなくそのピアノは終わってしまいます。中にはステージ本番のピアノに、まるで家庭のアップライトみたいな調律をして、平然としてしている人もおられますが、それでもほとんどクレームのつかないのがこの世界の不思議ですね。
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自分の楽器なら

先日のNHKクラシック音楽館でガヴリリュクを独奏者としたプロコフィエフのピアノ協奏曲第3番をやっていたのでちょっとだけ見てみました。
会場はNHKホール。ガヴリリュクは開始早々から、いささか過剰では?と思えるほどの熱演ぶりでしたが、さてそうまでして何を表現したいのやら狙いがもうひとつわからない演奏という印象でした。

上半身はほとんど鍵盤に覆いかぶさるようで、終始エネルギッシュなタッチでプロコフィエフのエネルギーを再現しようとしたのかもしれません。渾身の力で鍵盤を押し込み、湧き出る大量の汗は鍵盤のそこらじゅうに飛び散りますが、出てくる音としてはそれほどの迫力とか明晰さ、表現上のポイントのようなものは感じられません。

ガヴリリュクはあまり自分の好みではない人だということは以前から思っていましたが、この日は第一楽章を聴くのがやっとで、残りは視ないまま終わってしまいました。

音が散って消えるNHKホールであることや、録音編集の問題もあろうかとは思いますが、これほど汗だくのスポーツのような熱演にもかかわらず、ピアノ(スタインウェイ)が一向に鳴らないことも聴き続ける意欲を削いでしまった要因だったろうと思います。
鳴らないピアノの原因がなんであるかはわかりませんが、まるで押しても引いても反応しない牛のようで、かなりストレスになることだけは確かです。

それから数時間後、日付が変わってのBSプレミアムでは、パリオペラ座バレエ公演から、このバレエ団総出による『デフィレ』があり、ベルリオーズのトロイ人の行進曲に合わせて、バレエ学校の子供から、バレエ団の団員、さらにはエトワールまでが、ガルニエ宮の途方もなく奥行きのあるステージ奥からこちらへ向かって、バレエの基本的な足取りで行進をする演目は楽しめました。

なぜこんなことを書いたかというと、その『デフィレ』に続く演目は『バレエ組曲』で、舞台上にスタインウェイのDが置かれ、ピアニストが弾くショパンのポロネーズやマズルカに合わせてバレエ学校の生徒たちが踊るというものですが、この時のピアノがとても良く鳴ることは、前述のガブリリュクが弾いたピアノとはいかにも対照的でした。

ピアノのディテールから察するに、おそらくは30年前後経った楽器と推察されますが、低音などはズワッというような太い響きが遠くまでハッキリと伝わってきますし、全体的にもつややかな明瞭な音が健在で、もうそれだけで聴いていて溜飲の下がる思いでした。
このピアノをそのままNHKホールのステージにもってきたなら、ガブリリュクの演奏もやっぱり全然違っただろうと思わないではいられないというわけです。

よく調律師の説明に聞くフレーズですが、「弾き手は、鳴らないピアノでは、自分のイメージに音がついてこないため、よけいムキになって強く弾こうとする」といわれるように、ピアノが違っていれば、ガヴリリュクもあそこまで意地になって格闘する必要はなかったのでは?と思ってしまいました。

楽器販売に関わる技術者は、新しいピアノを肯定することに躍起になっているとみえて、新しいほうがパワーが有るなどと口をそろえて主張します。
それは新しいピアノ特有の若々しさからくるパワーのことで、これもパワーというものの要素のひとつとも言えるでしょうが、厳密に言うならピアノのパワーの本質というのはそういう局部的一時的な問題ではない筈だと思います。

べつに今の新しいスタインウェイを否定しようという考えはありません。マロニエ君にはわからないだけで新しいスタインウェイにしかない魅力もきっとあるのでしょう。しかし、少なくとも、かつてしばしば聴かれた芳醇で澄明で余裕に満ちたあのスタインウェイのサウンドというものは、その時代のピアノにしか求め得ないことだけは確かなようです。

もしも、ピアノが往年のホロヴィッツのように自分専用の楽器をどこへでも自由自在に持っていけて、少しでも気に入らなければ別の楽器に交換できるとしたら、きっとピアニストたちはこぞってお気に入りの楽器を探しまわり、それぞれの個性や美意識に基づいた調整を施し、それ以外のピアノには手も触れないようなことになる気がします。

そんな自由が与えられ、ステージという真剣勝負の場で弾く楽器を選ぶとなると、それでも新品ピアノを本心から好むピアニストがどれだけいるのか…これを想像してみるのは面白いことだと思いました。
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がっかり

最近はいわゆるスター級の演奏家というのがめっきり出てこなくなりました。

これは音楽に限ったことではなく、芸術家全般はもちろん、政治家や役者なども同様で、そこに存在するだけであたりを圧倒するような大物はいなくなり、とりわけ音楽では没個性化と引き換えに技術面では遥かに平均点は上がっていることが感じられます。
音楽ファンとしては平均なんてどうでもいいことで、これぞという逸材を待望しているわけですが…。

この流れはピアニストも同様で、少なくとも現在活躍している中堅~若手の中でスター級のピアニストというのはどれだけいるでしょう。その筆頭はキーシンあたりだろうと思いますが、それ以降の世代では記憶を廻らせてもぱったり思い浮かばなくなります。

上手い人はたくさんいてもスターが不在という現状です。
むろん非常に好ましい演奏をするピアニストは何人もいるわけですが、しかしステージに存在するだけで有無を言わさぬオーラをまき散らし、名前だけでチケットが売れてしまうような人はほとんどいなくなりました。
そんな中で、マロニエ君がやや注目していた若手の一人に、ユジャ・ワンがありました。

この数年で頭角を現した彼女ですが、何年か前のトッパンホールで行われたリサイタルの様子は圧巻で、なかでもラフマニノフの2番のソナタは忘れがたい演奏でした。ここから彼女のCDを何枚か買ってみたものの、あまりに録音用テイク特有のお堅い演奏という印象で、期待するような魅力が身近に迫るところまでには至らず、協奏曲でもこの人ならではの輝きを感じさせるにも一歩足りず、もしかするとライブ向きの人なのかなぁと思ったりしていたものです。

そうはいっても最近のCDは制作コストの削減から、ライブ演奏をベースに制作されることも少なくありませんが、製品化にあたってレコード会社の修正が介入しすぎるのか、どちらともつかないような微妙なCDが多いとも感じます。

さて、先日のNHKクラシック音楽館ではそのユジャ・ワンが、デュトワの指揮するN響定期演奏会に登場し、ファリャのスペインの夜の庭とラヴェルのピアノ協奏曲(両手)を弾きました。
これまで、若手の中ではいちおうご贔屓にしていたユジャ・ワンでしたが、この日の演奏は期待ほどないものでがっかりでした。ひとくちに云うとなにも惹きつけるところのない内容の乏しい演奏で、ただあの無類の指を武器に弾いているだけという印象しか得られなかったことはがっかりでした。

それでもスペインの夜の庭のほうがまだよく、もともと捉えどころのない幻想的な性格の曲であるが故か、きっちりした技巧でピアノパートが鳴らされるだけでもひとつのメリハリとなって、なんとか聴いていられたわけですが、ラヴェルでは開始早々からこれはちょっとどうかな…という思いが頭をよぎりました。

経験的に、はじめにこういうイヤな影が差してくると、それが途中で覆るということはまずありません。
ユジャ・ワンの感性とこの曲はどこを聞いても焦点が合わないというか収束感がなく、終始ボタンの掛け違えのような感じでした。演奏前のインタビューでは13年前日本のコンクールで弾いて以来なんだそうで、そのときよりラヴェルの音楽語法もわかったし、様々な経験を積んでより自由に表現できるようになったと言っていましたが、実際の演奏ではどういう部分のことなのかまったく意味不明のまま。
彼女にしては珍しくあれこれの表情や強弱をつけてみるものの、それらがいちいちツボを外れていくのはまったくどうしたことかと思いました。
あの耽美的な第2楽章も、やみくもなppで進むばかりで旋律は殆ど聞こえず、どういう表現を目指しているのかまったく理解できないし、左手の3拍子とも2拍子つかない独特のリズムにも拍の腰が定まらず、終始不安定な印象を払拭できなかったことはこれまた意外でした。

健在だったのはやはりあの規格外の指の技巧で、この点では並ぶ者のない超弩級のものであることがユジャ・ワンのウリのひとつですが、それも音楽が乗ってこそのもので、技巧がスポーツのようになってしまうのは大変残念としか言いようがありません。

彼女は北京の出身ですが、現在もアメリカで学んでいるらしく、あの妙に円満な収まりをつけてしまう、いわば音楽的優等生趣味はそのせいではないかと思いました。もともとアメリカは西洋音楽の土壌がないところへ大戦などによって多くの偉大な音楽家がヨーロッパから移住した地ですが、それらは皆すでに功成り名を遂げた巨匠たちばかりで、アメリカそのものに西洋音楽の土壌があったとは言い難いのかもしれません。

そのためか、アメリカの音楽教育はどこか借りもの的というか、型にはめて画一化されてしまう観があり、個性や独自の表現を尊重し伸ばそうという度量や冒険性が感じられません。そう思うとユジャ・ワンのピアノにも「アメリカ的臆病と退屈」がその教育によって根を下ろしているようでもあり、納得と同時に、非常に残念な気がしてなりません。
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引退か現役か

昔の大晦日はベルリン・フィルのジルベスターコンサートを生中継でやっていましたから、毎年これを見るのが習慣でしたが、いつごろからだったか、この番組はなくなってしまいました。
アルゲリッチ/アバドによるR.シュトラウスのブルレスケを初めて聴いて感激したのもこの大晦日(正確には元日)の夜中だったことなどが懐かしく思い出されます。

現在はおそらく有料チャンネルなどに移行したのだろうか?と思いつつ、マロニエ君宅にはそんなものはありませんから、いつしかこのコンサートは自分の前から遠のいてしまったようでした。

つい先日、2014年の大晦日に行われたラトル指揮の同コンサートの模様がNHKのプレミアムシアターで放送されましたが、その中から、メナヘム・プレスラーをソリストに迎えたモーツァルトのピアノ協奏曲第23番について。

メナヘム・プレスラーが半生をかけて演奏してきたのは有名なボザール・トリオであったことはいまさらいうまでもありません。
その素晴らしい達者な演奏は名トリオの名に恥じないもので、中でもピアノのプレスラー氏はこのトリオの立役者であり、その功績の大きさは大変なものです。彼なくしはこのトリオは間違いなく存在し得なかったものといって差し支えないでしょう。

50年以上の活動を続け、2008年にトリオは解散。その後のプレスラーは人生の晩年期にもかからわずソロピアニストとしての活動を始めます。近年でも思い出すのはサントリーの小ホールでのシューベルトのD960や、庄司紗矢香とのデュオなどですが、残念ながらマロニエ君はそれほどの味わいや魅力を感じるには至りませんでした。
ボザール・トリオの時代の自由闊達、円満で音楽そのものの意思によって進んで行くようなあの手腕はどこへ行ったのか思うばかりでした。

今回のモーツァルトのピアノ協奏曲では必要なテンポの保持さえも怪しくなっており、痛々しささえ感じてしまいました。あのエネルギッシュな快演を常とするベルリン・フィルも普段とは勝手が違っているようで、この老ピアニストの歩調に合わせようと努力しているのがわかります。

でも、音楽というのは、こうなるともういけません。
一気にテンションが落ちてしまいつつ、高齢の巨匠に敬意を払ってなんとか好意的に受け止めようとしますが、それは殆どの場合むなしい結果に終わります。とりわけ最盛期の活躍が華々しい人ほど、それが聴く人々の記憶にありますから、よりいっそう厳しい現実を突きつけられるようです。

すでに御歳90を超えておられるわけですから、個人としてみればもちろん信じ難いほどに大したものだと思います。しかし厳しいプロの音楽家として見れば、もはやこういう大きなステージでの演奏をやり遂げることは厳しいなぁと思わざるを得ません。

巷間「離婚には、結婚の数倍ものエネルギーが要る」といわれるように、プロ(しかも一流になればなるだけ)の引退はデビューよりも難しいものかもしれません。できれば、まだまだやれると誰もが思えるだけの余力を残した時期に、惜しまれながら引退することが望ましいように思いますが、最近はそんな引き際の美学も失われているような気がします。

ハイフェッツ、ワイセンベルク、最近ではブレンデルなどはきっちりと引退の線が引けた人ですが、マロニエ君の知る限り、最晩年に真の感銘を与えてくれた唯一の例外では、ミエスチラフ・ホルショフスキーただひとりです。
ただ、だれもがホルショフスキーのようにはいかないのが現実というものでしょう。
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響板のホコリ

以前、洗車が我が健康法というようなことを書きましたが、そこに楽しみを見出すには、掃除する対象が自分の趣味性のあるものだからということも関係があるのかもしれないと思います。

しかし、そうだとすれば、好きなピアノも磨きの対象になってもおかしくはないようなものですが、なぜかこちらはまったくそうはなりません。

こう書くとまるでピアノの掃除はせずに、いつも汚れた状態のようですが、決してそんなことはなく、少なくとも人並みにはきれいにしている「つもり」です。それでも洗車のようなハイレベルを目指してピアノ掃除をやったことはありません。

これは自分でも不思議で、その理由を考えてみたところ、いくつか挙げられるようです。

まず大きいのは、当たり前ですがピアノは常に屋内に置かれるものなので、車のように「汚れる」ということがあまりありません。せいぜい水平面にうっすら溜まったホコリを取り除く程度で事足ります。
それにマロニエ君はよくあるピアノ用シリコンみたいなケミカル品はできるだけ使いたくないので、これぞというものを必要最小限しか使いませんし、普段は毛羽たきか、ごくたまに柔らかい布を固く絞って丁寧に水拭きする程度です。

また鍵盤も、毎日専用のクリーナー液をつけて拭く人もいるそうですが、入れ替わりにレッスンをやっているようなピアノでもないのでそれもしませんし、そもそもボディカバーもしない、鍵盤用の意味不明な細長いフェルトのカバーなども、むろんありません。

これがマロニエ君のピアノに対するスタイルで、それでいいと自分が思っているわけです。

もう一つ、マロニエ君にピアノクリーニングから遠のかせる原因は、グランド内部の構造も大きく関係しているのです。
グランドピアノをお持ちの方ならおわかりだと思いますが、最もホコリが溜まりやすく、それなのに掃除の手立てがないのが響板です。響板は直に手がとどくのは低音側の弦とリムのわずかな隙間ぐらいなもので、大半は無数に張られた弦に遮られてほとんど掃除ができません。
響板のように広い部分にホコリがたまっているのに、それをとり除くことができないのは甚だ面白くありませんし、外側だけキラキラ磨きたてたところで意味がない…というわけで、いわば興が削がれるのです。
よってピアノの掃除にはむかしから力が入らないのかもしれません。

調べると、響板のホコリ取り用具が全く無いわけではないようです。
細い棒の先端にフェルトみたいなものが貼られ、その中央に針金のような細い取っ手が直角にけられていて、それを弦の間から差し込んで動かすことでホコリを除去するというもののようです。しかし、こういう道具類はよほど需要がないのか、技術者相手の業者がひっそりと取り扱っているようです。
ところが、この手の店はネットでも排他的で、一般のピアノユーザーが簡単に手に入れたらいけないということなのか何なのか、技術者だけがコミットできるようになっているようで、値段もなにもわからないようになっています。
一見さんお断りならぬ素人さんお断りサイトで、なにやらもったいぶった印象で、これだけで面倒臭くなります。

あれこれのパーツ(たとえばハンマーやシャンクなど)も価格表示は一切されず、しちゃまずいほど安いのかとも思いますが、この世界は相身互いなのか、そうやっていろんなことが秘密にされているようなので、そこに敢えて部外者として分け入って行こうとも思いません。

それに昔の並行弦のピアノならともかく、現代のグランドは交差弦なので、中音域(響板の中央部分)はどっちみその器具も使えないか、甚だ使いづらいということは目に見えているので、やはり掃除の意欲が湧いてこないのです。

だったら自作でもして、低音弦側から差し込んで、それを左右に動かすことで一挙にホコリが取れるような用具を考案してみようかと思っていますが、これも、何年も前から思っているばかりで、実行には至っていません。

いっそピアノ響板用小型ルンバでもあればいいのですが。
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ピアノのサイズ

ピアノはアップライトもグランドも、ごく単純かつ原則的に言ってしまうなら、要は響板の面積と弦の長さによって、余裕ある響きが得られるという基本があります。

それによってより豊かな音色や響きが得られるわけで、これは当然ながら演奏上の表現力の違いとしてあらわれてくるでしょう。
もちろん、そこは秀逸な設計と好ましい製造技術が相俟って、楽器としてのバランスがとれていればの話であるのはいうまでもありませんが。

現にアップライトでも背の低い小型モデルと、より大型のものを比べると音質や響きの差は歴然ですし、グランドでもギリギリの設計がなされたベビーグランドと大型グランドでは、潜在力に差があることは異論を待ちません。

では、それほど響板面積は少しでも広く、弦は少しでも長いほうがいいというのであれば、価格や置く場所の問題を別にすれば、高さが2mもあるアップライトを作ったり、奥行きが4mぐらいのコンサートグランドを作ったらどうなるのかと考えるのはおもしろいことです。

この点で、以前、何かで(それがなんだったかは思い出せません)読んだことがありますが、例えばアップライトの場合は、そのサイズは130cmあたりが一応の限界点にあるようです。
それはピアノには理想的な打弦点というものがあり、アップライトの場合、背を高くすれば打弦点も上に移動しなくてはならず、これ以上になるとアクションや鍵盤が現在の場所では不可能ということを意味するようです。

どうしても背の高い大型アップライトを作るとなれば、鍵盤、アクション、演奏者の位置は、すべて上に移動しなくてはならなくなり、それは非現実的で簡易性が売り物のアップライトの存在意義を揺るがす事態となるようです。
そんな問題を無視して何メートルもあるアップライトを作っているのが、クラヴィンスピアノで、これは奏者が遙か上部にある椅子まで、ハシゴだか階段だかをよじ登っていく怪物アップライトですが、要はこうなるという象徴的存在でしょう。

また、グランドの場合は、奥行きが長いほど響板は広く、弦も長くなるわけですが、こちらもやみくもに長くすれば良いというものではなく、現在のコンサートグランドのサイズ、すなわち280cm前後を境にそれ以上になると逆にバランスが崩れてくるのだそうです。

この法則をオーバーするコンサートグランドは、主だったところではベーゼンドルファーのインペリアル(290cm)と、ファツィオリのF308があるのみですが、インペリアルはどちらかというとコンサートピアノの通常の法則からは外れていると見るべきで、この巨躯から期待するようなパワーに出会ったためしがありません。

ファツィオリでは、マロニエ君は弾いたことはありませんが、コンサートで聴いた限りでは308cmというダックスフンド体型が、それだけの効果を発揮しているかとなると甚だ疑問に感じました。
印象としてはF278のほうがより健全で元気があるように感じますし、それはトリフォノフがデッカからリリースしているショパンのアルバムでも感じられ、この二つのサイズのファツィオリが使われていますが、サイズとは裏腹にF278のほうが明らかに力強く鳴っている感じがあるのに対して、F308はむしろおとなしい地味な感じのピアノに思えました。

さらにはグランドではバランスよく鳴るサイズというのがあるようで、210cm前後のモデルは各社がもっとも力を発揮できるサイズだと云われています。このサイズでがっかりというピアノには(少なくともマロニエ君は)あまりお目にかかったことがないし、弾いていて独特な気持ち良さがあるように思います。

スタインウェイのB211などはその代表格でしょうし、ヤマハも大型ピアノの代表格は昔からC7というようなことになっていましたが、後発のC6(212cm)はあまりヤマハと相性の良くないマロニエ君でさえ、どの個体でも別物のような好印象を感じますから、やっぱりこのサイズは特別なんでしょうね。

ピアノのサイズも「過ぎたるは及ばざるがごとし」ということのようです。
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都市伝説

グランドピアノの鍵盤蓋を開いたとき、その上端が90°ほど畳むように折れ曲がるようになっているピアノがときどきあります。
現在は僅かな手間も惜しんで、徹底したコストダウンを敢行する潮流なので、現行モデルではほとんどなくなったと思いますが、昔はヤマハにも、カワイにも、ディアパソンにもこのタイプがありました。

スタインウェイでもハンブルクは通常のスタイルですが、ニューヨーク製は中型以上のモデルにはこの鍵盤蓋上端の折れ曲がり機構が標準仕様です。

さて、この鍵盤蓋の前縁が折れ曲がる理由は何かということですが、これには諸説飛び交うばかりでいまだ決定打らしきものがありません。

もっとも多数派なのは、演奏者が熱演極まって手の動きが激しくなった場合、通常の鍵盤蓋だと指先が縁に当たる恐れがあるので、それを避けるためにこの部分が折れ曲るようになっているというものです。
なるほどという感じですが、じゃあ熱演のあまりピアニストの指先が鍵盤蓋の縁に当たるというようなシーンを見たことがあるかと言われると…実はありません。
チェルカスキーやルビンシュタインなどは激しい動きで両手を垂直に上下させたものですが、指先が鍵盤蓋の縁に衝突するなんてことはまずないようでした。
となると、これはイマイチ説得力がありません。

次になるほどと思ったのは、縁を下に曲げていると、万が一ふいに蓋がバタンと閉まるようなことがあっても、この折れ曲がった縁が左右の木部に当たることで、指先をケガする危険がないというものです。
いわば安全機構というわけで、やってみると確かにそれも一理ありという感じでもあり、これはこれで、それなりにいちおう納得してしまいました。

果たして後者が真相かと思っていたら、先日来宅された技術者さんによると、また新しい説を披露されました。
それは上部から照明をあてると、ピアノの鍵盤は、光の角度によほど気をつけないと、鍵盤蓋の前縁のせいですぐに影になってしまうので、それを避けるために折り曲げることができるようになっているのではないか…という推量でした。

たしかにステージでは、照明のせいで、鍵盤に変な日向と日陰ができたら演奏者は弾きづらいかもしれません。でも、もしそうならコンサートピアノなどはもっと多くのモデルがこの機構を備えていそうなものですが、実際はない方が圧倒的に多く、やはりこれも決定的ではないような気がします。

マロニエ君個人は単に見栄えの問題ではないかと思います。
べつに縁が折れ曲がったほうが見栄えがいいとも思いませんが、なんとなく、ただ鍵盤蓋をカパッと開けただけよりは、さらにもう一手間かけて上部を下に向けて折り曲げたほうがいいというふうに、すくなくとも考えられた時代があったのではないかと思うのです。

もちろんこれも単なる想像にすぎませんが。

思い出すのは、ある大手楽器店のピアノ販売イベントに行った折、そこの最高責任者の人が意気揚々と案内してくれて、一台の中古のニューヨークスタインウェイのB型の前でことさら声高らかにこう言い出しました。
「このピアノは、もともとあるピアニストの方が特注されたものです。ほら、ここが折れ曲がるでしょう? これはピアニストの方の要望で、指先が当たらないように特別に作られたもので、スタインウェイでも非常に珍しいピアノなんです!」と、ずいぶん大きな声で言われました。

あまりにも自信たっぷりの説明で、しかも周囲には他にも人がちらほらいて、なるほどという感じに聞いておられたので、「ニューヨークスタインウェイでは、これは標準仕様ですよ!」とはさすがに言えませんでしたが、それにしても、こんな大手楽器店のピアノの最高責任者がこんな程度の認識なのかと思うと、非常に複雑な気分になったことは今も忘れられません。
こういう見てきたようなホラが一人歩きして、いつしかまことしやかに流布されていくのだろうと思うと、いわゆる都市伝説とはおおよそこんなものだろうと思いました。
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ブレンデル

1月のBSプレミアムシアターでは、昨年亡くなった名指揮者クラウディオ・アバドを追悼して、彼が晩年の演奏活動の拠点としたルツェルンのコンサートから、2005年に行われたコンサートの様子が放送されました。

ちょうど10年前の演奏会で、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番とブルックナーの交響曲第7番。
ソリストはアルフレート・ブレンデル、オーケストラはルツェルン祝祭管弦楽団。

最近はいわゆる大物不在の時代となり、そこそこの演奏家の中から自分好みの人や演奏を探しては、ご贔屓リストに加えるというようなちょこまかした状況が続いていたためか、アバド/ブレンデルといった大スターの揃い踏みのようなステージは、昔はいくらでもあったのに、なんだかとても懐かしさがこみ上げてくるようでした。

演奏云々はともかく、こういう顔ぶれが普通に出てくる一昔前のコンサートというものは、妙な安心感と豪華さみたいなものがあって、そんなことひとつをとっても、世の中が年々きびしく、気の抜けない時代になってきていることを痛感させられます。

アバドの指揮は歳のせいか、昔のように作り込んだところが少なく、もっぱら友好的に団員との演奏を楽しんでいるように見えましたが、この人もその音楽作りのスタイル故か、それが老練な味になるというわけではなく、どこか中途半端な印象を覚えなくもありません。

ブレンデルのピアノはずいぶん久しぶりに接したように思いましたが、いまあらためて映像とともに聴いてみると、いろいろと思うところもありました。
ブレンデルといえば学者肌のピアニストで名を馳せ、ベートーヴェンやシューベルト、あるいはリストでみせた解釈とその演奏スタイルは、まるで研究室からステージへ直通廊下を作ったようで、テクニックで湧いていた20世紀最後の四半世紀のピアノ界へ新しい価値と道筋を作ったという点では、偉大な貢献をした人だと思います。
生のコンサートでも極力エンターテイメント性を排除し、作品を徹底して解明し解釈を施し、それを聴衆に向けて克明に再現するということを貫いた人でしょうが、それでも現在のさらに進んだ正確な譜読み(正しい音楽であるかどうかは別)をする次の世代に比べると、ブレンデルのピアノはまだそこにある種の人間臭さがあることが確認できましたが、それも今だからこそ感じることだろうと思います。

オーケストラから引き継ぐピアノの入りとか、各所でのトリルなどは一瞬早めに開始されるなど、いい意味で楽譜との微妙なズレが音楽を生きたものにしていることも特徴的でしたし、なにしろ確固たる自分の言葉を持っているところはさすがでした。

ただし冷静に見ると、これほどの名声を得たピアニストとしてはその技巧はかなり怪しい点も多く、この点はブレンデル氏が生涯うちに秘めて悩んでいたところかもしれません。もしかすると技巧が不十分であったことが、彼をあれほど音楽の研究へと駆り立て、それが結果として一つの世界を打ち立てる動機にもなったのかもしれないと思うと妙に納得がいくようでした。
人は自らの背負った負い目を克服する頑張りから、思いもよらないような結果を出すということも多分にあるわけで、彼の芸術家としてのエネルギーがそれだったとしても不思議はありません。

ブレンデルのピアノを聴いているといつも2つの相反する要素に消化不良を起こしていたあの感触が今回もやはり蘇ってきました。ディテールの語りではさすがと思わせるものが随所にあるのに、全体として演奏がコチコチで、音色の変化は無いに等しく、ピアニシモの陶酔もフォルテシモも迫りもないまま、長い胴体をまっすぐに立て、顔を左右に震わせて弾いているだけで、要するに全体として釈然としないものが残ります。
音も終始乾きぎみで潤いというものがないし、ピアノ自体をほとんど鳴らせないまま、この人はただただ思索と解釈、それに徹底した音楽の作法、すなわち音楽的マナーの良さで聴かせる人だったと思いました。

そもそもあれだけの長身で、背中など燕尾服ごしにも非常にたくましい骨格をしており、手もじゅうぶんに大きく、身体的には申し分のない条件を持っていますが、指先にはいつもテープを巻き、不自然なほど高い椅子に座り、どこか窮屈そうにピアノを引く姿、さらにはピアノが乾燥した肌のような音しか出さないのは、見ていて一種のストレスを感じるわけですが、これは彼の奏法がどこか間違っているような気がしてなりません。

非常に才能ある聡明な方に違いありませんが、ブレンデルは専らその頭脳と努力によって、あれだけの名声を打ち立てたのかもしれません。あっけなく引退したのも、もしかしたらそういう限界があったのだろうかとも思いました。

印象的なのは、見る者の心が和むようなエレガントなステージマナーで、こういう振る舞いのできる人は若手ではなかなかありませんね。
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前後で聴き比べ

NHKのクラシック倶楽部は、通常はひとつのコンサートを55分の番組に収めて放送しているものですが、ときどきその割り振りに収まらなかった曲などを拾い集めるようにして「アラカルト」と称し、とくに関係も脈絡もない2つのコンサートが抱き合わせで放送されることがあります。

先日も番組の前後でニコライ・ホジャイノフとアンドリュー・フォン・オーエンの取り合わせというのがありました。
以前見た覚えのあるホジャイノフのリサイタルから放送されなかったベートーヴェンのソナタop.110とドビュッシーの花火、オーエンのほうは悲愴ソナタと月の光という、どちらも現代の若手ピアニスト、近年の来日公演、さらにはベートーヴェンとドビュッシーという、どうでもいいような組み合わせで無理に共通項をつくったようでした。

ホジャイノフは音楽的に嫌いなピアニストではありませんが、さすがにベートーヴェンのソナタは力不足が露呈してしまう選曲で、まったく彼のいいところがでない演奏だと思いました。これだけ有名で、内在する精神性そのものが聴きどころである後期のソナタを奏するからには、それぞれのピアニストなりの覚悟であるとか、収斂された表現など…それなりのなにかがあって然るべきだと思ってしまいますが、ただ弾いているだけという印象しかなく、練り込みやひとつの境地へ到達の気配がないのは落胆させられるだけでした。

曲の全体を演奏者が昇華しきれていない段階でディテールにあれこれの表情などを凝らしてみたところで、ただ小品のような色合いを与えるだけで、聴いているこちらの心の中が動かされるようなものはどこにもありませんでした。
まだ花火のほうが無邪気な自由さがあってよかったようです。

この時の会場は武蔵野市民文化会館の小ホールでピアノはヤマハのCFX、とくに好きなタイプの楽器ではないけれど、非常によく整えられておりヤマハの技術者の矜持のようなものは感じる楽器でした。

変わって、映像は紀尾井ホールへと場所を変え、オーエンの悲愴が始まります。
冒頭の重厚なハ短調の和音が鳴ったとたん「アッ」と思いました。
こちらはやや古いスタインウェイですが、ヤマハとはまるきり発音の仕方が違うことが同じ番組の前後で聞き分けられたために、まるで楽器の聴き比べのように克明にわかりました。
スタインウェイだけを聴いているときにはそれほど意識しませんが、こうして前後入れ替わりに聞かされると、スタインウェイは弦とボディを鳴らす弦楽器に近いピアノであり、ヤマハは一瞬一瞬の音やタッチで聴かせるピアノだと思いました。

ヤマハはいうなれば滑舌がよく単純明快な音ですが、スタインウェイはより深いところで音楽が形成されていくためか、ヤマハの直後に聞くとどこか鈍いような感じさえ与えかねません。

腕に自信のある人が、その指さばきを聴かせるにはヤマハはもってこいで、弾かれたぶんだけピアノが嬉々として反応し、もてる美音をこれでもかとふりまきます。とくにCFXになってからは美音のレヴェルも上がり、洗練された現代のブリリアントなピアノの音が蛇口から水が出るように出てきます。

これに対して、スタインウェイはタッチ感というものをそれ以外のピアノのように前に出すことはありません。
むしろそこを少し控えめにして、作品のフォルムを音響的立体的に表現します。
個々の音もCFXを聞いた直後ではむしろ物足りないぐらいで、ピアニストの演奏に対して過剰な表現は僕はしません!と言っているようです。そのかわり全体としての演奏のエネルギーが上がってきた時などは、間違いなくその高揚感が腹の底から迫ってくるので、ある意味で非常に正直というかごまかしの効かない楽器であるけれども、力のある人にとっては決して裏切られることのない確かな表現力をもった頼もしいピアノだと思いました。

とくに音数が増えたときの結晶感と透明感、低音の美しさ、強打に対するタフネス、それに連なる高音のバランス感などは、まさに優秀なオーケストラのようで、スタインウェイというピアノの奥の深さを感じずにはいられません。
同時にヤマハの音を体質的に好む人の、その理由もあらためてわかるような気がしました。
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