主治医繋がり

先日、あるピアニストの方とお話をする機会があって、たまたま話題が調律やピアノ管理に関することに及びました。
すべてではないものの、多くのピアニストは自分の弾くピアノという楽器に関して、本気で関心を寄せている人というのはそう多くはないので、この方は非常に珍しいと思い、ちょっと嬉しくなりました。

ピアノにまつわるさまざまな要素は、どれもが単独で語ることができないほどそれぞれの要素が互いに絡み合い、関係し合い、依存し合っている面が多く、これはいいはじめるとキリがなく、マロニエ君ごときでは言い尽くすこともできません。

例えばどんなに素晴らしい楽器でも、弾く人の音楽性や美意識しだいではその良さはほとんど出てきませんし、ピアノの置かれている場所の環境など管理状態が悪くてもダメ。調整などの技術面での技量や意識レベル。さらにはそれらが揃ったにしても、ピアノが鳴る部屋や音響という問題もあって、これらのことを考えはじめると、とても理想的な状態を作り出すなど、少なくとも通常は不可能に近いものがあると思われます。

しかし、そんな諸要素の中のどれか1つか2つでも持ち主がそこを理解して保守に努め、改善できるものは改善したりすると、それだけでも状況は大きく異なります。
その方はとある極めて優秀な技術者さんとの出会いによって、ピアノに対する接し方やスタンスに変化が起こり、ついには弾き方まで変わったとおっしゃるのですから、やはり技術者というものの存在の大きさを感じずにはいられません。
とりわけ調律はその要素がきわめて大きい部分を占め、ピアノの機械的な技術面でも調律ほどピンキリの世界もないというのがマロニエ君のこれまでの経験から得た結論です。

整調、整音、調律はどれが欠けてもいけないものですが、とりわけ調律は技術者側におけるセンスと才能が最も顕著に発揮される領域で、これはいうなれば技術領域から芸術領域に移行していく次元だといっていいと思います。

整調整音が上手くいっているとしても、調律こそが最終的に楽器に魂を吹き込む作業といいますか、極論すれば、それによって音の出る機械から真の楽器に変貌できるかどうかの分かれ目になると思うのですが、この点がなかなか理解が得られないところのようです。
一般的に調律といえば、ただ2時間弱ぐらいピッチを合わせて、ついでに気がついたところをちょこちょこっとサービス調整してハイ終わり。代金をもらって「ありがとうございました」と言って去っていくというのが大多数でしょうし、ピアノオーナーのほうも調律とはそんなものと思っている人のほうが圧倒的に多いようです。さらには、ピアノの先生や演奏の専門家でさえ、ピアノだけはほとんど素人並の認識しかない場合が決して珍しくないのです。

ですから、その方は大変珍しい方だなあとマロニエ君は思ったわけです。
同時にコンサートなどで方々に行かれる先にあるピアノの管理の悪さには、ずいぶんと辟易されているようで、この点はほとんど諦めムードでした。
同じ福岡の方だったので、そんな素晴らしいピアノ技術者の方が、やはりひそかにいらっしゃるんだなあと内心思いつつ、敢えてお名前は聞かないで話をしていたら、さりげなく向こうのほうからその方の名前を云われたのですが、なんと我が家の主治医のおひとりだったのにはびっくり仰天。
やっぱり世間は狭いというべきでしょうか。

この技術者の方は、別にスーパードクターのように威張っているわけではないけれど、非常に強いこだわりと自我をおもちの方で、ある意味気難しく、頼まれればどこにでもヒョイヒョイ行かれる方ではないので、マロニエ君としても我が家に来ていただけるのは幸いとしても、軽々しく人にご紹介はできないと思っていました。
そういうこともあって、数少ないその方繋がりのピアニストと知り合うことができたことは、不思議なご縁と嬉しさを感じたところです。
続きを読む

正しきお姉様

ひと月以上前のNHKのクラシック音楽館で放映されていたN響定期公演から、ヴィクトリア・ムローヴァのヴァイオリンで、ショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲第1番が演奏されたときの映像を見てみました。指揮はピーター・ウンジャン。

ムローヴァはロシア出身で、年齢も現在50代半ばと、演奏家として今最も脂ののりきった時期にある世界屈指のヴァイオリニストといって間違いないでしょう。
昔からマロニエ君は熱烈なファンというのではないものの、ときどきこの人のCDを買ったりして、「そこそこのお付き合い」をしてきたという自分勝手なイメージがあります。

その演奏は「誠実」のひと言に尽きるもので、バッハなどで最良の面を見せる反面、ドラマティックな曲ではともするとあまりに端正にすぎて、情感に揺さぶられてはみ出すようなところもなく、見事だけれどもどこか食い足り無さが残ったりすることもしばしばです。
ロシア出身のヴァイオリニストといえばオイストラフを筆頭に、コーガン、クレーメル、レーピン、ヴェンゲーロフなど、いずれもエネルギッシュかつ濃厚な演奏をする人達が主流ですが、そんな中でムローヴァは、突如あらわれたスッキリ味のオーガニック料理を出すお店のようで、それは彼女のルックスにさえ見て取ることができます。

長身痩躯の金髪女性が、スッとヴァイオリンを構えて、淡々と演奏を進めていく様はとてもロシア出身の演奏家というイメージではないし、とりたてて味わい深いというのもちょっと違うような、なにか独特の、それでいて非常にまともで信頼性の高い演奏に終始し、一箇所たりともおろそかにされることはないく、彼女の音楽に対する厳しい姿勢が窺われるのは見事というほかはありません。
耳を凝らして聴いていると、非常に深いところにあるものを汲み上げていることも伝わりますが、彼女は決してそれをこれみよがしに表現しようとはしないのです。

とりわけ最近では、ガット弦を用いて演奏するなど、古楽的な方向にも目を向けているようで、この人の美質は本来そちらにあるのかもしれません。
さて、ショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲は、終始一貫した、まったくぶれるところのない、いかにもムローヴァらしい快演ではあったものの、曲が曲なので、やはりそこにはマロニエ君個人としては、もうすこし大胆な表現性、陰翳感やえぐりの要素とか、エレガンスと毒々しさの対比などが欲しくなるところでした。

このショスタコーヴィチの演奏を聴いてまっ先に思い出したのは、もうずいぶん昔のことですが、小沢征爾指揮でムローヴァがソリストを努めたチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲をCDを買ったことがありましたが、マロニエ君もまだずいぶん若かったこともあり、そのあまりの端正な無印良品みたいな演奏には大いに落胆を覚えたことでした。

最近ではピアノのアンデルジェフスキと共演したブラームスのソナタ全3曲がありますが、こちらもやはりムローヴァらしいきちんと整理整頓された解釈と遺漏なき準備によって展開される良識的演奏で、この素晴らしい作品をじっくり耳を澄ませて集中して勉強するにはいいけれども、作品や演奏をストレートに楽しむにはちょっと違う気がするところもあり、やはりどこかもうひとつ聴く者を惹きつける何かがないという印象は変わりませんでした。
ソロでは個性全開のアンデルジェフスキも、このCDではムローヴァの解釈に敬意を表してか、至って常識的に節度を保って弾いているのが、お姉様に頭があがらない弟のようで微笑ましくもありました。

と、こんなことを書いているうちに、マロニエ君としたことが、ムローヴァのバッハの無伴奏パルティータとソナタのCDを買っていなかったことに気が付き、これぞ彼女の本領発揮だろうと想像しているだけに、はやいところなんとか入手しなくてはと思いますが、この「つい忘れさせる」というのがムローヴァらしいところなのかもしれません。
続きを読む

ラベック姉妹

多くの皆さんもきっと同様ではないかと思いますが、いわゆる人間の第一印象といいましょうか、初めに受けたイメージや、そこから発生した好みというものは、これが意外なことに自分が考えている以上に正確で、途中で覆るなんてことは非常に稀というかむしろ例外的です。

大半の場合においては、何十年経ってもその印象が変わることはまずないのが自分を振り返っての結果ですし、少なくとも自分という主体においては、ある意味、第一印象ほどぶれがない信用度の高い情報は他にないように思います。

マロニエ君にとっては、ピアノのラベック姉妹がそのひとつで、彼女達が楽壇に華々しく登場したのはもうかなり昔のことでしたが、そのころから何度かその演奏を聴いてみましたが、彼女達の何がどんな風にいいのか、当時からまったく理解ができませんでした。

ビジュアルとしては美しいフランスの女性ピアノデュオで、姉妹であるにもかかわらず二人のキャラクターはまったく異なり、お姉さんは饒舌で、演奏の様子もジャズマンのように情熱的で野性的、片や妹はもの静かで黒髪を垂らしたひっそりとしたタイプ。

それはさておいても、その演奏には、マロニエ君は初めて聴いたときから、良いとか悪いとか好きとか嫌いとかいうものが不気味なほど発生せず、ひとことで云うなら「何も、本当になんにも」感じませんでした。フランス人の演奏家にはいろいろなタイプがいて、初めは違和感を感じても、なるほどそういうことかと、好みとは違ってもこの人が何をやりたいのかや、どういうところを目指しているかということは、日本人以上に強いメッセージ性をもっているので、だいたいわかってくるものです。
それがこの姉妹の演奏には、まったくなにも感じるところができないし、ま、どうでもいいようなことですがずっと自分なりにひっかかっていたように思います。

つい先日、久しぶりにそのラベック姉妹を見たのです。
NHKのクラシック音楽館でデュビュニョンという現代作曲家による「2台のピアノと2つのオーケストラのための協奏曲“バトルフィールド”作品54」というものが日本初演されました。
なんでもラベック姉妹の委嘱によって作曲されたものらしく、2台のピアノとオーケストラが舞台上で二手に分かれ、しかもこの音楽は戦争であると公言し、それぞれが「戦う」というのですから、これはなかなかおもしろい試みじゃないかと思いました。
ピアニストはそれぞれの軍を率いる隊長という設定なのだとか。

指揮はビシュコフで、初めて聴く異色の作品であるにもかかわらず、ピアノが鳴り出すと昔の印象がまざまざと蘇り、早い話が、曲がどうとか、楽器編成の面白さがどうということなどもそっちのけで、とにかくまたあの「何もない、何も感じない」演奏が延々と続き、かなり我慢してみましたが、とうとうこらえきれずに途中で止めてしまいました。

お姉さんのほうは、左足でパッタパッタとリズムをとりながら、獲物に噛みつくような表情をしばしば見せながら、オンガクしてます的な弾き方をし、妹のほうは常に冷静沈着、何があろうと淡々と指だけを動かしているようで、両人共に見た感じも音楽的必然がないのであまり惹きつけられるものがないし、何より肝心なその演奏はというと、マロニエ君にとっては好きも嫌いもない、ひたすら退屈というので、本当に不思議なデュオだと思いました。

ラベック姉妹の魅力がどこにあるのか、おわかりの方がいらっしゃれば教えて欲しいような気もしますが、そうはいってもたかだかマロニエ君にとっては趣味の世界のことですから、人から教わってまでこの姉妹の演奏の魅力を追求する必要もないというのが正直なところです。
続きを読む

趣味の条件

先日、ピアノ趣味の同好の士を募ることの難しさを書きましたが、それはひとくちにピアノといっても、その楽しみ方があまりに多岐に渡っているため、まとまりを取ることが非常に困難という、ピアノの特殊性があるという意味のことでした。

それはそれとして、趣味道というものは可能なら仲間が集い、その魅力はもちろんのこと、苦楽や悲喜劇をも楽しく語り合って共感を得、同好の士との親睦を深めつつ情報交換にもこれ努めるなどがその醍醐味だということに今でも異論はありません。

そのいっぽうで、専ら人前で弾くことが好きな人という種族もあるわけで、これはあくまでも聴く人(もしくは見てくれる人)を必要とするのが、マロニエ君に云わせれば通常の趣味道とはちょっと趣が異なるような気がします。こういう人の中には、家にも立派なピアノがあり、その気になれば存分にそれを弾くことも可能であるにもかかわらず、それでは精神的に飽き足らないようです。

それも拙いながらも人に聴かせたいという純粋な動機ならまだ微笑ましいと解釈もできるのですが、人前で弾いている自分やそれに伴うある種の緊張や興奮の虜となり、それがために自分が主役となるための互助会的関係で人と繋がっているというのは、純粋な音楽の演奏動機とは似て非なるもののように感じます。

そうはいっても反社会的行為でない限りは、個人の自由であることはいうまでもなく、その範囲内でどのように楽しみを見出そうとも、それは咎められるものではないでしょう。ただ、ピアノのある場所を借りて互いに何時間も取り憑かれたようにただ弾きまくるということが、果たして趣味といえるかどうかとなると、少なくともマロニエ君には甚だ疑問です。

趣味というものに、附帯的に仲間がいるということは嬉しいことであり、心強いことでもありますが、そもそも趣味の根本にあるものは突き詰めれば「孤独」ではないかと思います。
もちろんスポーツなど、集団であることが必要とされるものも中にはありますが、それはレクレーションであったりイベントであったりで、マロニエ君の認識で云うところの趣味の概念からいえば、趣味というものはもう少し違った精神世界であるし、基本的には仲間がひとりもいなくてもじゅうぶん楽しめるという自分自身の基盤を持っていないと趣味とは呼びたくないというこだわりが自分にはあるようです。

その上で、好ましい仲間がいれば、もちろんそれに越したことはありませんし、そこから趣味の道も人間関係も広がればこんな幸福なことはないわけです。
ただ、同じピアノでも、互いに弾き合うイベントや教室の発表会だけを唯一最大の目標にするようでは、これは趣味人としてもずいぶん浅瀬ばかりを這い回る遊び方のように思います。もちろんそれを否定しているわけではないですが。

繰り返しますが、趣味というものは基本的にひとりでじっと楽んで、それでじゅうぶん愉快でなくては本物じゃないというのがマロニエ君の持論です。同時に、どんな楽しみ方があっていいとは思いますけれども、そこに一筋の純粋さが貫かれていなくてはマロニエ君自身はおもしろくないわけです。

マロニエ君は理屈抜きに人と関わることは人一倍好きですが、趣味の合わない人と趣味を語り、不本意に価値観や歩調を合わせることはまったく不本意で、正直疲れてしまいます。
きっと自分が一番好きなことは、他者から土足で踏み荒らされることが嫌で、自分にとって理想の形態で温存しておきたいという防衛本能が働いているのかもしれません。
続きを読む

ピアノ趣味の困難

これまでに、いくつもの趣味のクラブに属したことがあり、中でも車のクラブはいったい幾つ入ったかわかりません。既存のクラブに入会したのはもちろん、自分が発起人となって作ったものもいくつかあり、その中のひとつは設立から20年以上を経て、今尚存在しているほどで、最盛期には実に200人近い会員数を誇りました。この間、多くの素晴らしい人達と出会ってきたことを思うと、趣味というものの素晴らしさをこれほど切実に感じたこともありません。

そんな趣味のクラブには慣れっこの筈のマロニエ君ですが、その多くの経験をもってしても、入っても、作っても、どうしても上手くいかないものがあり、それが何を隠そうピアノのクラブなのです。

ピアノのクラブでは既存のクラブに入会したものの価値観が合わずに退会したものがあるほか、自分でもこの「ぴあのピア」を立ち上げて作ってみたものの、さてどう動いて良いのやら、ピアノに関してだけはまったく動きの取り方がわからないし、運営方法が皆目掴めないという状態が今尚続いています。
もちろん、マロニエ君の力不足、能力不足、努力が足りないと云われたらその通りなのですが…。

趣味のクラブというものは、いまさら云うまでもなく、趣味を同じくする者同士がつどい、その苦楽を共にし、語り合い、情報交換に興じ、そしてなによりもその素晴らしさを深く共感し合えるところにあり、さらにそこから趣味人同士の友誼や連帯が生まれて、それを軸にした人間関係が構築されていくところに醍醐味があると思います。

しかし、ピアノに関してだけはその趣味性という点に於いても、まるでつかみどころが無く、いっかな焦点さえ定まりません。ひとつの主題の元に全体がゆるやかに結束することが、ピアノほど困難な世界も経験的に珍しいというのが偽らざるマロニエ君の実感です。

それというのも、ひとくちにピアノと云っても、自分が弾くことがが好きな人、音楽が好きでピアノにも興味がある人、いろいろなピアニストや楽曲に強く興味を覚える人、はたまた楽器そのものへ興味を持つ人など、そこには、そのアプローチにはおよそまとまりというものがないわけで、これは裏を返せば、ピアノは弾くけど音楽にそれほど関心はない、CDは買わない、コンサートには行かない、楽器の個性や構造なんてどうでもいい、電子ピアノでじゅうぶんという、まさに十人十色の接し方があるということです。

さらには「弾くことが好き」な人も、その内容はさまざまで、愛聴する曲をなんとか自分でも演奏しようと努力をしつつ楽しむ人、ある程度技術に自信があって難易度の高い曲を弾くことにプライドを持っている人、とにかく有名どころの通俗的な曲を自分で弾いてみたくて練習に励む人、ピアノなんて安い電子ピアノで充分という人、いや絶対に生ピアノに限るという考えの人、あるいはとにかく人前で弾くのが快感でステージチャンスを欲しがっている人、中にはピアノといえば女性が多いと当て込んで、ピアノは二の次で彼女探しに来る人など、まあとにかく書いていたらキリがありません。

さらに付け加えるなら、たとえ簡単な曲でもいいから、少しでも音楽性あふれる素敵な演奏を目指して、CDを聴いたり、あれこれと工夫をしたり、少しでも自分の理想とする演奏に近づけようと精進する人は意外なほど少数派だと思いました。

趣味の有りようはまさに各人各様で、どのような切り口から楽しんでもそれは個人の自由なのですが、ピアノの場合その実態はあまりに多様を極め、共通点はただひとつ「ピアノ」という単語以外には見あたらず、それでは集まっても、それぞれ別の方向を向き、別のことを考えているようなものでしょう。

これほどまでにその目的や楽しみの中心点が定まらないということは、上記のように「苦楽を共にし、情報交換に興じ、素晴らしさを共感し合う、趣味人同士の連帯」などという趣味人の交流はなかなか生まれようもありません。
ピアノは弾くのも、趣味として集うのも、なかなか難しいものです。
続きを読む

技術者の音

メールをいただくようになったディアパソンファンの方は、ついにご自分の好みの1台に対象が絞られ、その購入を前提とした交渉を続けておられるようです。

ただ、この方によると、お店によってはとても丁寧に整備されたピアノであっても、なぜかそれがディアパソンが本来持っている個性と、調整の方向が乖離してしまっている(という印象を受ける)ために、せっかくの技術がピアノに必ずしも反映されない場合もあるようでした。

せっかく良いもので、きちんとした工房が併設され、高い技術を有する技術者によって仕上げられたピアノでも、最終的に判断するのは購入者であって、その人の心に触れるものがなければ購入には結びつかないというのは、当たり前といえば当たり前ですが、主観に左右される点も大きいために、技術者側にしてみれば難しいところでもあるのだろうと、この分野の微妙さを感じてしまいます。

あるお店では、Y社のグランドなどと並んでディアパソンも店頭に並べられ、その店の自慢の技術者がずいぶんと腕をふるった調整をされていたようでした。どのピアノもとてもよく調整され、中には望外の響きがあって感激さえしたということでした。
その話は聞いていましたが、ネットからもその音が聴けるとのことで、マロニエ君もさっそく聴いてみました。この時ばかりはさすがにパソコンのスピーカーというわけにもいかないだろうと思い、このところあまり使っていないタイムドメインのLightを引っぱりだして、パソコンに接続して聴いてみましたが、たしかに非常によく整えられたピアノだという印象でした。

同時に、本体や消耗品が平均的なコンディションを持つピアノなら、高度な技術を持った技術者がある程度本気になって手を入れたピアノは、だいたいあれぐらいの音にはなるだろうと思ったことも事実です。
技術者の仕事としてはもちろん素直に敬意を払いますが、同時に、今が調整によって最高ギリギリの状態にあるという断崖絶壁の息苦しさみたいなものもちょっと感じました。このピアノがこれからコンサートで使われるというのなら話は別ですが、お客さんが普通に購入して自宅に運び込むとなると、この特上の状態がはたしてどこまで維持できるのかという逆の心配も頭をよぎります。個人的には、あまり詰めすぎず、もう少し可能性ののりしろというか、どこか余裕を残した調整であるほうが楽器選択もしやすいような気がします。

一流の技術者さんに往々にしてあることですが、各楽器の個性とか性格を重んじることより、ご自分の技術者としての作業上のプライドと信念がまずあって、もちろんそれを正しいことと信じて、結果的にはやや強引かつ一律な調整をされてしまう場合があるとも思います。それでも技術がいいから、ピアノはどれもそれなりのものにはなりはするものの、悲しいかなどれも同じような音になってしまう傾向が見受けられる気がします。

おそらくはその方の中に「理想の音」というものがあって、それが常に仕事を進めるときの指針となっているのだろうと思います。Y社K社のようなピアノであれば、ある意味それもアリで、いい結果が得られることもある程度は間違いないだろうとも思われますが、ディアパソンのようなピアノの場合は、やはり楽器の特性を念頭に置いた上での調整でないと、理屈では正しいことでも、場合によっては裏目に出る場合もあるわけで、本来の能力や魅力が押し殺されてしまう危険性がないとは言い切れません。

どんなにスタインウェイに精通した技術者でも、それがそのままベーゼンドルファーに当てはまるわけではないのと同じようなものでしょうか。航空機はいかに優れたパイロットであっても、機種ごとの免許がなくては操縦できませんが、それは人命がかかっているからで、ピアノで人は死にませんからね。

だれからも平均して評価され、好まれるということももちろん立派なことで、それを技術によって音に具現化するのは簡単なことではありませんが、でも、本当におもしろいもの、尽きない魅力に溢れるものは、なぜか好き嫌いの大きく分かれるものの中に見出すことが多いようにマロニエ君は思いますし、ディアパソンそのひとつだと思います。
願わくば、その特性や長所を理解した調整であってほしいのが我々の願いでもあります。

ディアパソンの最大の弱点は、多くの人がこの素晴らしいピアノに接する機会が、現実的にほとんどないということに尽きるだろうと思います。
接することがなければイイと思うことも、嫌いだと感じることも、両方ないわけですから。
続きを読む

各店各様

マロニエ君の部屋に書いた、ディアパソンの210Eを購入予定の方とは、その後もずいぶん頻繁に連絡を取るようになりました。その方もディアパソンには格別な惚れ込みようで、購入されるのはもはや時間の問題だという強い意気込みを感じます。ディアパソンを心底気に入っているマロニエ君としては、こういう方の存在は大変うれしい限りです。

ほとんど市場に出回る個体はないに等しいとメーカー自身が言って憚らない210Eですが、ネットの普及とこの方の情熱、そして優秀な調査力の賜物か、数台の候補が挙がってきているのは驚きでした。
価格もバラバラですが、お店のほうも各店各様で、話を聞いているだけで興味深いものを感じてしまいました。

マロニエ君はいうまでもなく、それらのどの一台も現物を見たわけではないので、聞いた話からだけしか判断できませんが、210Eあたりになると必然的に製造後30年前後を経過したピアノということになり、そのコンディションもそれぞれ著しく異なる筈です。
ピアノには生まれながらに個体差があるといいますが、このぐらい古くなると、そんなことよりはこれまでどういう時間を過ごしてきたかのほうが圧倒的に問題であり、どんな所有者からどんな使われ方をしたか、きちんと技術者の手が入れられ大切にされてきたか、学校のような場所で容赦なく酷使されたか、置かれていた場所はどうだったかなど、いうなればピアノが嫁いだ後の環境差こそ問題とみるべきでしょう。
さらに今現在の整備状況や消耗品の状態などが重要な要素として加わります。

聞くところでは、販売価格こそ安いものの、話だけではちょっと躊躇したくなるようなものや、すでに売れ筋から除外されているのか、倉庫内に梱包したまま置かれているだけなのでお店側も詳しいことは確認不足であるなど、この日本の名器の扱われ方も実にさまざまのようです。

さまざまといえば、ピアノ店の在り方も同様で、規模は小さくとも技術で勝負をして、一台一台をきちんとした状態で(もちろん商売なので、採算に合わないことはできないにしても、できるだけ良心的な状態に仕上げて)売っている店があるいっぽう、やたら在庫数にものを云わせ、高級ブランド高額ピアノを前面に押し出している店、あるいはその中間的な性格の店など、お店によってピアノに対するスタンスも大きく異なるのは以前から変わらないようです。

意外なことには、ほとんど何も手を入れずに、酷い(と想像される)コンディションのピアノを売ることにも、いわゆる大型店のほうが畏れ知らずで、しかも価格はその状態に見合ったものとは思えない金額を堂々と提示してくるかと思うと、モノが売れない世相を反映してか、だんだん条件が好転してくるなど、逐一報告していただくお陰で、まるで連続ドラマを見るようにおもしろい思いをさせてもらっています。

聞けば、店によってはメールで問い合わせなどをしても、なかなか返事がないなど、あまり本気度が少ないようなお店があるいっぽう、技術者の工房系のお店などは、メールなどにもすぐに明快な応答があるようで、こういう部分の反応というものはお客さんの心証に大きな影響や先入観を与えてしまうのはやむを得ない要素です。ピアノ販売に限りませんが、問い合わせに対して迅速な対応というのは人間関係の基本だと思わずにいられません。

とりわけディアパソンは、お店によってその捉え方が相当違いますし、極端なところでは仕入れも販売もしないようですが、そのいっぽうで極めて高い評価をしている店があるのも事実で、どうかするとお店の看板商品的(新品)な扱いをしているところもあったりと、考えてみれば、日本のピアノでこれほど評価の別れるブランドも珍しいと思います。
続きを読む

語る演奏家

先のブログに関連することですが、N響定期公演でベートーヴェンの皇帝を弾いたポール・ルイスは、番組の冒頭でNHKのインタビューに答えていました。

いつごろからだかわかりませんが、昔に比べると、演奏者はインタビューに際してだんだんと音楽学者のような語り口になり、演奏作品について、より学究的な内容を披瀝するのがひとつの風潮であるように思います。
それも、一般の聴衆や視聴者に向けたものというよりは、自分は演奏家であるけれども単なる演奏家ではなく、音楽史や作曲家のことを常に学び、それらと併せて楽曲も深く掘り下げて分析し、しかる後に演奏に挑んでいるのですという姿勢。ただ単に曲を練習しているのではなく、それにつらなる幅広い考察を怠っていないのですよというアピールをされているように感じてしまうことがあります。

もちろんそこには個人差があり、どうかすると専門的な言及が行き過ぎて、ただ単に音楽を楽しんではいけないような印象さえ与えてしまい、逆にクラシックのファンが離れていくのでは?と感じるときも少なくありません。
そうかと思えば、近年流行りのトーク付きのコンサートでは、チケットを買って会場にやってきてくれたお客さんに向かって、ほとんどわかりきったような、いまさらそんな話を聞かされなくても…といいたくなるような初歩的な話を延々と繰り返したりで、どうせ話をするのなら、どうしてもう少し聞いていて楽しめる内容のトークができないものかと思うことがしばしばです。

つまり専門的過ぎるか、初心者向け過ぎるかの二極化に陥っているという印象です。

その点でいうと、この番組冒頭でのポール・ルイスの話はそれほど専門的なものではないのは救いでしたが、「誰でもこの曲を大きな音で弾いてしまうし、それはそのほうが楽だから」とか「協奏曲でありながら室内楽的要素が多く、そこに注意すべき」とか「オーケストラの中の一つの楽器とピアノの対話の部分が多い」など、いかにもブレンデル調の切り口だと思いました。しかし、それが皇帝という名曲の本質にそれほど重要なこととも思われないような事という印象でもありました。

そもそも、演奏家自ら曲目解説をするようになったのは、やはりブレンデルあたりがそのパイオニア的存在であったし、ポリーニや内田光子などを追うように、より若い世代の演奏家もしだいに専門性を帯びた内容に言及するようになり、それがあたかも教養ある演奏家であることを現すひとつのスタイルになっていった観は否めません。

そんな中にも、もう好いかげん聞き飽きた、すでに錆びついたようなコメントがあり、残念ながらポール・ルイス氏もそれを回避することはできなかったようです。
それは「ベートーヴェン(他の作曲家でも同じ)は演奏するたびに新しい発見があります。」というあのフレーズで、これはもはや演奏家のコメントとしては賞味期限切れというべきで、聞いていてなるほどというより、またこれか…としか思えなくなりました。

少し前のアスリートが、オリンピック等の大勝負を前にして「まずは自分自身が楽しみたい」などと、ほとんど決まり文句のように同じことを云っていたことを連想してしまいます。

往年の巨匠バックハウスが『芸術家よ、語るなかれ、演奏せよ』というけだし名言を残していますが、今はまるきりそういった価値観がひっくり返ってしまったのかもしれません。
『芸術家よ、語るべし、演奏する前に』…。
続きを読む

師匠譲り

Eテレのクラシック音楽館で少し前に録画していたヒュー・ウルフ指揮のNHK交響楽団の定期演奏会から、ポール・ルイスをソリストにベートーヴェンの皇帝を聴きました。

ポール・ルイスはイギリス出身で、ブレンデルの弟子と云うことで有名なようで、そのレパートリーもブレンデルとかなり共通したものがあるようです。とりわけベートーヴェン、シューベルトを中心に置き、後期ロマン派にはあまり積極的でないような点も似ています。尤も、ブレンデルは若い頃にショパンをちょっと録音したり、円熟期にはリストを弾いたりはしていましたけれども。

まずさすがだと思われた点は、ポール・ルイスのピアノは自分は二の次で、あくまでも音楽や作品に奉仕しているという一貫した姿勢が崩れないことで、テンポも非常にまともで、最近流行の意味不明の伸縮工作などは一切なしで、気持ちよく音楽が前進していくところでした。
そのためか、演奏を通じての自己顕示欲をみせつけられることもなく、安心してこの名曲を旅することができました。

ただ、師匠譲りなのはマロニエ君から見れば好ましくない点までそのまま引き継がれているようで、たとえばその音は、音楽表現のための必要最小限の朴訥なもので、ピアノの響きの美しさとか、肉感のある音やニュアンスで聴かせるというところはほとんどありません。

また、あくまでもそのピアニズムは作品の解釈を具現化するだけの手段でしかなく、精緻な音の並びとか、音色を色彩豊かに多様に表現するといったところはありません。そういう意味では良くも悪しくも技巧で聴かせるピアノではなく、そちらの楽しみは諦めなければなりません。

また冒頭のインタビューでは、「皇帝には室内楽的な要素がある」と云っていましたが、それはそうなのかもしれませんが、それを大ホールの本番であまり過度にやりすぎるのもどうかと思いました。皇帝だからといって終始ガンガン弾くのが正しいとは思いませんが、やはり決めるべき場所ではビシッときめてもらわないことにはベートーヴェンが直に鳴り響いているようには聞こえないし、この曲を聴くにあたっての一定の期待も満たされないままに終わってしまいます。

とくにフォルテッシモや、低音に迫力や重量感がないのも、ピアニストとしてもうひとつ食い足りない気分になり、第三楽章の入りなどにも、あの美しい第二楽章からそのまま引き継がれながらも突如変ホ長調の和音の炸裂が欲しいところですが、これといった説得力もないままに、ヒラヒラッとアンサンブル重視の姿勢をとられても、聴いている側は当てが外れるだけでした。

音色の使い分けとか、タッチの妙技によって深い歌い込み、細部に行きわたるデリカシーが少ないために、第二楽章の美しすぎる「歌」もただ通過しただけという感じで、その感動も半減となってしまいます。全体として好ましい演奏であるだけに残念な印象が残ってしまいます。
そうそう、これもブレンデルそっくりだと思ったのは、例えばトリルの弾き方で、マロニエ君の考えではトリルにはトリルのさまざまな弾き方、あるいはそのための音色や意味があると思うのですが、ポール・ルイスのそれは単なる音符のようにタラタラタラタラと平坦で無機質に弾いてしまうところで、ブレンデルにもこうしたところがあったなあと思い出しました。

望外の出来映えだったのはN響で、いつもはどこかしらけたような、予定消化のための義務的な演奏をしているかにみえるこのオーケストラが、この日はいかにも音楽的な、厚みと覇気のある、つまり魅力的な演奏をしてみせたのは驚きでした。指揮のヒュー・ウルフの手腕といえばそうなのかもしれませんが、そうだとしても、いざとなればそれだけの結果が出せる潜在力を持っているということはやはり大したものだと思いました。
日本の誇るオーケーストラにふさわしい、聴く者を音楽の魅力にいざなうような演奏をもっともっとやってほしいものです。
続きを読む

ベヒシュタインウェイ?

読む人が読めばわかるでしょうから、大した意味もないとは思いつつ、それでも敢えて名前は伏せますが、さる日本人のイケメン(という事になっているらしい)男性ピアニストが、いまベートーヴェンのピアノソナタ全曲を録音進行中で、先ごろ最後の3つのソナタが発売になったようです。

マロニエ君はピアノの音を聞くのが目的で、興味のない演奏家のCDをしぶしぶ買うことがありますが、この人のCDとしては、以前、日本のあるピアノ会社所有のニューヨーク・スタインウェイで演奏したということで、ラヴェルのコンチェルトと夜のガスパールなどのアルバムを買ったことがありました。
そのどことなく幼稚な演奏にはあれれ?とは思ったものの、その時は正味のピアニストというよりも、どちらかというと女性人気から売り出した観のある人だったので、まあこんなところだろうぐらいに思ったものでした。

そんなアイドル系ピアニストの弾くベートーヴェンの最も神聖なソナタなど、普通ならまず絶対に寄りつきもしないところですが、それに寄りつくハメになりました。
この人は、一時期は非常に癖のあるニューヨーク・スタインウェイをコンサートにも録音にも愛用していて、自らその楽器のことをF1などと呼びながら、ネット上にそのピアノを褒め称える文章まで書いていたほどでしたが、しばらくするとパッタリそのような気配はなくなり、録音も常套的なハンブルク・スタインウェイでおこなっているようでした。

ところが、現在のベートーヴェンのソナタ録音にあたっては、なんとベヒシュタインのD280を使用ということで、えらく大胆な方向転換をしたものだと思いましたが、ベヒシュタインで弾くベートーヴェンというのは、バックハウスが晩年におこなったベルリンでのコンサートライブでそのマッチングの良さに感嘆感激していたので、その強烈なイメージがいまだにあって、どうしても聴いてみたくなりました。

とはいえ価格は例によって割引適用無しの3000円で、そこまでして買うのもアホらしいような気分だったのですが、たまたまネット上で見かけたこのCDのレビューによれば、以前はこのピアニストのことをある種の偏見を持っていたけれども、人から進められて聴いてみると、本当に素晴らしい演奏云々…という激賞文でもあったため、ついついマロニエ君も少しばかりのせられてしまいました。

そうは云っても、以前の経験があるので、演奏には過度の期待はしていませんでしたが、まあ音を楽しむぐらいのものはあるのだろうという程度の気持でついに購入してしまいました。やはりどうしてもベヒシュタイン&ベートーヴェンが紡ぎ出すあの感激を現代の録音で聴いてみたい!という欲求に負けたというわけです。

しかし、結果はまったくの失敗で、アーできるものなら返品したい…と思うばかり。
むかし買ったラヴェルの印象がそのまま生々しく蘇るようで、この人はなんにも変わっていないんだなと思うと同時に、曲が曲であるだけに、いっそう分が悪い感じです。
彼はいま何歳になるのか知りませんが、ただ指の動く学生が音符の通りに平面的に弾いているようで、この世の物とは思えぬop.111の第二楽章の後半など無機質な指練習のようで唖然。

ピアノは上記の通りベヒシュタインのD280ですが、どちらかというと普通で、期待したほどベートーヴェンでの相性の良さは感じられませんでした。このピアノはよくよく考えてみると、おそらくはマロニエ君も一度触れたことのある「あのピアノ」だろうと今になって思われます。伝統的なベヒシュタインのピアノ作りを大幅に見直して、今風のデュープレックススケールを装着した新世代のベヒシュタインですが、あきらかにメーカーには迷いのあるピアノだと当時感じたことを思い出しました。

ベヒシュタインほどの老舗ブランドであるにもかかわらず、スタインウェイ風の華やかな音色とパワーをめざしたのでしょうが、結局はこのメーカーの個性を大幅に削り取ったピアノになっているとしかマロニエ君の耳には聞こえませんでした。バックハウスがベルリンで弾いたのは、Eという古いモデルで、その後のENを経て、現在のD280になりますが、モデル表記もまるでスタインウェイのD274そのままで、もう少し工夫はなかったものかと思います。

しかし、逆にいうと、ベヒシュタインと思うから不満も感じるわけで、一台のコンサートグランドとして素直に聴いてみれば、これはこれでなかなか素晴らしいピアノだと思えるのも事実です。とくに過度に洗練されすぎていない点が好ましく、ドイツピアノらしい剛健さの名残なども感じて悪くないとも思いますが、いささかスタインウェイを意識しすぎた観が否めないのは惜しい気がします。
続きを読む

人前演奏の魔力

人前でなにかのパフォーマンスをすることには、そこに魅力を覚えた人達にとって、抗しがたい強烈な魅力があるのだろうと思われます。

「舞台には魔物が棲んでいる」という言葉は音楽家に限らず、俳優などもしばしば使うフレーズで、どんな失敗や苦労をしても、もうこりごりだと思っても、嫌だ嫌だと言って逃げ出したいと足掻き苦しんでも、舞台が終わったとたん、もう次がやりたくなるのだとか!?

こういう気分というのは、人前で何かをすることが極端に嫌いなマロニエ君にはなかなか理解の及ぶところではありませんが、折にふれそういう話を耳にする(だけでなく目にする)につれ、果たしてそういうものなんだろうなぁという認識だけは持つようになりました。おそらくは一種の依存症的な、独特な脳神経の作用があるのだろうと思われます。

こうなると客観的実力とは無関係に、我欲と自己愛に溺れ、定期的にステージに立ちたがる人がいて、こちらからみればただ唖然とするばかりなのですが、ある種の人達がこの味を覚えてしまうと、なまなかなことでは止められないようです。まさに毒に侵されたとしか思えない世界です。

たぶんカラオケマニアの熱中ぶりがその最もわかりやすい端的な現れだろうと思います。

ピアノでも、マロニエ君などから見ると、ほとんど常軌を逸しているとしか思えないほど、人前で弾くことに喜びを感じている人達がいるのは、いかにそれが人それぞれの嗜好であり自由だと云ってみたとしても、普通の平衡感覚(とマロニエ君が思っているもの)ではおよそ理解が困難なことだらけです。

こういう人達を見ていると、純粋にピアノが弾きたいのか、人から注目を集めるためにピアノを弾いているのか区別がつきません。その熱意に圧倒された結果は、家でひとりピアノを弾く行為でさえも、なにか自分は変なことをしているのではないかという疑いの気持のようなものが忍び寄ってくるようなときがあるのは困ったものです。
やはりマロニエ君の頭の中には、ピアノなどの人前演奏は、それに値する人だけが行うべき特別な行為だという大原則というか、ほとんど本能みたいなものが強く根を張っていて、どうもこういうことを微笑ましいことと捉えることが難しいのです。

そんなマロニエ君の気分とは裏腹に、人前で弾きたい人の欲望というのは、それはもう並大抵のものではなく、驚くべきことにわざわざそのために時間を工面してはあちこち出かけていって、そのための出費も厭わず、そのささやかなチャンスを逃すまいとします。
そんなに弾きたいなら自宅で思う存分やればいいようなものですが、たぶん根本的にそれとは違う感覚で、恐ろしいことですがオーディエンスのいない自宅では満足できないのでしょう。

こういう点を考えると、こういう心理には、どこかセクシャルな要素さえ絡んでいるようにも思います。
おかしな喩えで恐縮ですが、あちらの趣味のご盛んな人の中には、複雑な心理の絡むところがあり、独特なある一定の条件を満たさないと気分が燃えないのだとか。

ありきたりなエロティックなものではダメで、なにかそこに一種の屈折した条件が整ってはじめて満足を見出しているようなのです。
限られたわずかな状況、ある種の不自由感の中で、その欲望がかすかに報いられる刹那、猛然と気分は高ぶり燃焼してくるのでしょう。
したがって、ピアノを弾くにも、きっとただひとりで自由に無制限に弾くのではダメなようです。
自分以外の人達が見守る中で、時間的にも回数的にも限られた条件下での演奏環境でないと「燃えない」「興奮しない」んだというふうに考えると、少しは理解できるような気がしてきます。

べつにマロニエ君が人前演奏したがる人の気持ちが1%もわからないというのではありませんが、それにしても、あまりにもそれが強烈な人の多いのには驚く意外にありません。

小難しいことは抜きにしても、これは人の心の中にある露出願望のひとつの形体なのだと思われます。
まさかピアノが、そういう願望を満足させる手段にもなり得るということを知ったのはそう古いことではありません。
続きを読む

ピリスの奏法

今年3月、すみだトリフォニーホールで行われた、ピレシュ&メネゼスのデュオ・リサイタルの録画を見ました。
ピレシュは日本では長らく「ピリス」といっていたポルトガル出身のピアニストで、グラモフォンなどはいまだにCDの表記はピリスで通しているようです。本来はピレシュというのが正しいのかもしれませんが、これまで長いことピリスと云ってきたので、ここでも敢えてその呼び方で書きます。

前半はホセ・アントニオ・メネゼスによるバッハの無伴奏チェロ組曲第1番で、ピリスはそのあとのベートーヴェンのチェロ・ソナタ第3番で登場しました。

演奏はさすがにある一定のクオリティというか、音楽的な誠実さ、質の高さを感じますが、実際のステージとなるとピリスのピアノはいかんせん軽量コンパクトに過ぎて、CDで聴くような繊細な表現は伝わりません。というか、そもそもこの時はそれほど気合いの入った演奏をしていないという感じだったというほうが正しいかもしれません。
少なくともマロニエ君は、彼女がいま獲得している高い名声に値する演奏をしたようにはどうしても思えないものでした。

それとは別に、この人の演奏を聴いていて、CDなどでも以前から気になっていたことが少しわかったような部分があり、これはこれで収穫でした。

それはピリスの演奏に潜む、ある矛盾についてでした。
弱音域で展開される、目配りの行き届いたデリケートな演奏はたしかに上質なものがあるけれど、フォルテやスタッカート、あるいは弾むようなパッセージになると、たちまち音やリズムが粗雑になり、この人のみせる(聴かせる)芸術性にどこかそぐわない、ちぐはぐな印象を受けるところがあったのです。

それは、少しでも強い音や小刻みなリズムを必要とする場所になると、必ずといっていいほど上から鍵盤を叩くことで、それが音にも反映されていることがわかりました。
それは彼女が小柄で手も小さいということもあるかもしれませんが、ピアノのアクションを含むすべての発音機構はこの点でも非常によくできており、叩いたりはじいたりすれば、正直にそういう音になる。

また、ピリスの場合、叩くときはえらく敏捷に手を上げ下げしていますが、その小さくない上下運動によるロスを取り戻そうとするのか、そのときに若干リズムが乱れ、結果として逆につんのめるように早くなっている気がしました。同時に、これをやるときは注意がそちらに逃げるのか、音楽的な配慮がやや散漫になってしまうのだろうと思われました。

そのためか、弱音のコントロールで非常に高度な演奏表現を達成しているのに、こういう場面では粗い音色と性急なリズムが顔を出し、全体の素晴らしさは感じつつ、どこかもうひとつ引っ掛かる感じが残るのだろうと思います。ピリスは、表向きはいかにも筋の通った高尚な音楽を描き出す数少ない音楽家のようなイメージになっていますが、この点ではまさに技巧上の事情があるのか、矛盾を抱えたピアニストだと思いました。

叩く音は、どうしても硬質な衝撃音となり、音量の問題ではなく、ピアノの音が割れる、もしくは割れ気味になってしまいます。深みのある静謐な弱音コントロールが売りのピリスの演奏の中で、随所にこうした配慮を欠いた音色が紛れ込むのは、他がそうでないだけに一層耳に違和感を与えるのだろうと思います。

小柄で手が小さいと云っても、ラローチャは潤いのある充実した響きを持っていましたし、誰も聞いたことはないけれど、かのショパンも女性のように小さな手であったにもかかわらず、その演奏は一貫して絹のようななめらかさがあったと伝えられていますから、やはりそこは演奏家自身の価値観と美意識によって決定される問題ではないかと思いました。

ピアノはヤマハのCFXですが、どうもこのピアノはデビュー当時のような輝きを感じなくなり、響きがだんだん平凡で薄っぺらになってくるような気がします。ピリス以外でもこのところホジャイノフなどいくつかの演奏で聴きましたが、ちょっとフォルテになるとたちまち限界が見えるようで、そのあたりがいかにもピンポイントで性能を磨いた現代のピアノという印象。生産開始直後の個体はよほど気合いを入れて作られたということかと、つい勘ぐりたくなります…。
続きを読む

125周年記念ガラ

今年の4月10日、オランダのロイヤル・コンセルトヘボウ125周年記念ガラという催しがあり、この時点では退位間近であったベアトリクス女王と、即位を目前に控えたオラニエ公ご夫妻のご臨席のもと、盛大なコンサートイベントが行われ、その様子がBSのプレミアムシアターで放送されました。

指揮はマリス・ヤンソンス、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団で、このガラコンサートはワーグナーの楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」序曲で始まりました。
ところが、これは奇妙なほどあっけらかんとした陰翳のない演奏で、およそワーグナーのようには聞こえませんでした。マロニエ君の好みとしては、ワーグナーはもう少し不健康で壮大、そして陶酔的な響きがなくてはそれらしく聞こえないように思いました。

打って変わってトマス・ハンプソン(バリトン)の独唱によるマーラーのさすらう若者の歌などの3曲は、まったく素晴らしいもので、表現力、力強さ、安定感など、どれをとっても立派でした。聴き手が安心して音楽に身を委ねることのできる現代では数少ない音楽家というべきで、作品世界への引き込みが際立っており、大変満足でした。

ああ、なんでこんな場所にまで、この人は必ず出てくるのだろう…と思うのがラン・ランで、朝起きたそのまんまみたいなヘアースタイルで意気揚々と登場し、プロコフィエフのピアノ協奏曲第3番の第3楽章をいちおう演奏。いつもながらの曲芸風で、しかも線の細い響きと、解釈というものが不在のような演奏ですが、彼にはそれは「小さなこと」なのかもしれず、終始「どうだい!」といわんばかりの自信満々なエンターテイナーぶり。スターとしての自分の存在やふるまいを重視して、それでお客さんを喜ばせるというスタンスなんでしょう。ピアニストとしてみるから違和感がありますが、芸人として見れば立派なのかもしれません。

ここ最近、ますます顕著になってきたラン・ランの特徴としては、ちょっとでも空いている左手などを、まるでベテラン・マジシャンの手つきのようにくるくると踊らせて、いかにも演奏に没入している証のように振る舞うなど「見せるピアニスト」としての要素をますます強化しているように感じました。
ほかにも以前からやっていることでは、結構難しいパッセージなどを弾く際など、「ボクにはこんなことなんてことないよ」と言わんばかりに、顔はあえて会場の遠くあたりを見つめるなど、余裕があるから必死になる必要もなくて、つい他のことを考えちゃった、みたいなパフォーマンスで、こんなことを女王の前でも臆せずやってしまう図太さは大したものとしか言いようがありません。

続くチャイコフスキーの弦楽セレナードから「エレジー」では、祝祭アンサンブルと称してウィーンフィル、ベルリンフィル、ミュンヘンフィル、アムステルダムからの団員が集まって演奏しましたが、これはロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団の出す音とはまったく違う、腹の据わったふくよかな響きだったのは、同じ会場でこんなにも違うものかと驚きでした。
その点ではロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団は伝統あるオーケストラではありますが、いささかギスギスした音が気になります。

続くサンサーンスの序奏とロンド・カプリツィオーソではジャニーヌ・ヤンセンという若い女性ヴァイオリニストが登場してきましたが、演奏はやたら気負い立つばかりで粗さがあり、生命感あふれる演奏も魅力は半減というところでした。演奏に熱気というものは必要ですが、そこには品位と必然性が無くては本当の音楽の息吹は伝わらず、マロニエ君の好みではありませんでした。
ソリストとしてラン・ランとはちょうど良いバランスだと感じたところ。

この日のホスト役で、カーテンコールで何度も往き来しては笑顔をふりまくヤンソンスですが、意外にも小柄で、その笑顔の中に覗く白い歯の具合などが誰かに似ていると思ったら、麻生太郎氏にそっくりなのにはびっくりして思わず笑ってしまいました。
続きを読む

ファツィオリ雑感

前回書いた、昨年のチャイコフスキーコンクール優勝者ガラで使われたピアノは、ピアニストがトリフォノフということもあってか、ファツィオリのF278がステージに据えられていました。
これまでの印象では、この若いピアニストとイタリアの若いピアノメーカーはずいぶんとWin-Winの関係にあるようですから、それも当然のことだったのかもしれません。

なにぶん演奏が演奏だったおかげで、正直いってピアノどころではなく、もうどうでもいいような気もしましたが、ついでなので少しだけ。

音や響きの印象は以前と変わりませんので省略して、視覚的な印象です。
サイドに書かれたFAZIOLIの文字は、一般的な真鍮の金文字だとステージの照明や反射の具合で見えづらくなることがあるための対策なのか、常にくっきり目立つ白文字となっており、しかも遠目にも判読できやすくするためか、少し肉厚に書かれているのはビジュアルとしてあまりいいとは思えません。

もともとファツィオリのロゴは、デザインの美しさと個性が両立した素晴らしいもので、この点では、新興メーカーとしては出色の出来だと思っていますが、しかしそれはあの繊細でスリムなラインの微妙なバランスがあってのこと。これを少しでも肉厚(しかも白!)にすれば、あの雰囲気はたちまち損なわれるとマロニエ君は感じるわけです(少なくともピアノに彫りこむ文字としては)。

さらにはピアノの左サイド(客席側は右サイド)にまでこの白い肉厚ロゴを入れるのはちょっとくどすぎるし、あまりにも宣伝効果ばかりが表に出てしまい、却って好感度を削ぐような気がします。
この点はヤマハも同様ですが。

三方向にまでメーカー名を入れて、なにがなんでもその名をアピールしたいのなら、いっそ後ろのお尻部分にもタトゥのようにロゴマークを入れて、この際全方位対応にすればどうかと思います。

また細かい点では、ピアノソロの場合、多くは譜面台は外したスタイルで、その譜面台を差し込むためのボディ側のガイド部分が丸見えになりますが、これがいかにも安物っぽいただの金属棒(ファツィオリお得意の純金メッキなどが施されているのかも知れませんが)になっているのは、まるでアジア製の大量生産ピアノみたいでした。
ファツィオリは生産も少数で価格も最高級、何から何まで贅沢ずくめのセレブピアノを標榜し、それに沿った巧みな宣伝にも努めているメーカーのようですが、これはちょっとイメージにそぐわないというか、案外つまらないところで割り切った造り方をするんだなあと思いました。

それにしても、舞台上手(つまりピアノの後方から)のカメラアングルで驚くのは、そのお尻部分の大きさ幅広さで、これは圧巻です。女性で云うなら安産型体型とでもいうべきで、ボディからなにから、徹底して華奢なスリム体型を貫くスタインウェイとは対照的な豊満なプロポーションだと痛感させられます。
たぶん、ファツィオリは響板面積も他社よりかなり広く取る設計なのかもしれません。

使われていた椅子は、見慣れたポールジャンセンでも、バルツでも、ランザーニでもないもので、確認はできていませんが、おそらくはスペインのイドラウ社のコンサートベンチだろうと思います。
ずいぶん肉厚の大ぶりなベンチで、個人的にはあまり好ましくは思いませんでしたが、ファツィオリのむちむちした雰囲気とプロポーションには妙に合っていたと思います。
続きを読む

ゲーマー?

演奏家としての道義が感じられない演奏というのは今や珍しくもないので、少々のことなら慣れているつもりですが、ひさびさにそんなものでは処理できない演奏に出逢いました。

BSのクラシック倶楽部で昨年のチャイコフスキーコンクール優勝者ガラというのがあり、ピアノではダニール・トリフォノフがショパンの作品10のエチュード全曲を弾いていました。

あの素晴らしいハ長調の第1番からして、まさに無謀運転のはじまりで、華麗にして精巧なアルベジョの美しい交叉は、ただの粗雑でうるさい上下運動と化し、いきなり度肝を抜かれました。
どの曲も呆れるばかりにぞんざいで、やたら早く指を動かし、高速で弾き飛ばすことだけがエライということしか、この人の感性にはないのでしょう。

まあ、広い世の中にはそんな単純思考のオニイチャンもいるとは思いますが、そんな人があのショパンコンクールで3位となり、続くチャイコフスキーで優勝というのですから、いかにこのところのコンクールの権威が失墜しているとはいえ、ちょっと信じられないというか、この現実をただ時代の波や風潮として受け容れることはマロニエ君にはなかなか困難です。

あれではまずショパンに対してというだけでなく、栄冠を与えてくれたコンクールに対しても、コンサートのチケットを買って聴きに来てくれた聴衆に対しても、さらにはファツィオリのピアノやその様子を収録して放送しているNHKに対しても、礼を失しているのではと思ってしまいました。

中でも最も驚いたのは最後の「革命」で、ただもうめちゃくちゃなロックのステージか、はたまた格闘技でも見ているようで、それを生で聴かされている会場のお客さんの気持ちを思うといたたまれない気分になりました。

その演奏は強引な自己顕示欲の塊で、技巧的な曲では自分の能力をはるか超えたスピードで飛ばしまくり、当然コントロールはできていないし、それで音が抜けようが破綻しようが知ったことではないという様子です。またスローな曲では執拗にネチョネチョした気持ち悪さで、身体のあちこちが痒くなってくるようで、ともかくこの人の音楽的趣味の悪さといったらありません。

ふつう若くして世に出たピアニストには神童といわれる人が多く、彼らはその技巧もさることながら、若さに不釣り合いなほどの老成した音楽性と抜きん出た個性を持っているものですが、トリフォノフはその点ではただの幼稚で凡庸な子供というべきで、むしろ実年齢よりも遙か幼い感じにしか見えません。

ピアノを弾いている姿も、終始背中を丸めて汗だくで遊びに熱中している小学生のようで、最後に弾いた自分の編曲によるJ.シュトラウスの『こうもり』の主題による変奏曲などは、まるでテレビゲームの難易度の高い技を競い合う子供が、嬉々として技のための技を繰り広げて悦に入っている痴呆的な姿のようにしか見えませんでした。

マロニエ君はファツィオリのF278とF308が比較して聴けるという理由とはいえ、たとえ一枚でもこの人のCDを購入して持っているということさえ恥ずかしくなりました。
こんな人がコンサートピアニストとしてやっていけるのだとすれば、今のピアニスト稼業は、ある一面においてはずいぶん甘いんだなぁと思います。

夜中にもかかわらず、口直しならぬ耳直しをしないではいられなくなり、自室に戻るや、とりあえず目についたものの中から関本昌平氏のショパンコンクールライブCDを流してみましたが、なんというまともで立派な演奏かと感銘を新たにしましたし、こういう演奏をする人もいることにとりあえず安堵しました。
続きを読む

蛮行CM

北米在住の方がおもしろいCM映像を紹介してくださいました。
正確に云うと、おもしろいというよりもおぞましいと云うべきかもしれませんが、GMのキャデラックの開発にどういうわけか使用されたというグランドピアノの破壊シーンです。

いかにアメリカが物質社会・消費社会とは云っても、こういう文化意志の欠落したCMを作るという感性そのものが驚きですし、しかもそれがアメリカで最高の高級車であるキャデラックのCMというのですから、まったく開いた口がふさがりませんでした。
キャデラックのユーザーは、開発や宣伝ためにピアノを破壊しても何も感じない、傲慢な人種だと示しているようなものです。

https://www.youtube.com/watch?v=rwLMOB6s2ps&seo=goo_%7C_Cadillac-Awareness-YouTube_%7C_YT-LUX-ATS-PIANO-DUMMY-TVST_%7C_Dummy_%7C_

こんなものが一般消費者にとって何の役に立つのか、あるいはどういう意味があるのか、さっぱりわかりませんし、彼らは人々が愛でて大切にするものを敢えて踏みにじり破壊することに、一種の快楽と嘲笑的なよろこびをもっているようにさえ感じます。

以前、ふとした偶然からみつけたのですが、アメリカにはいろいろなジャンルの高級品を破壊しまくって楽しむという悪趣味極まりないクラブがあって、その中にはピアノも含まれており、なんとスタインウェイのグランドピアノを鉄の大きなハンマーを手にした数人の会員(?)によってめちゃくちゃに壊すというのがあってさすがに気分が悪くなりました。原型をとどめないまでに無惨に破壊されたピアノの残骸の前で、ヤッタゼ!といった様子で悦に入っている様子には、なんという悪趣味な思い上がった民族かと思いました。

イラク戦争の折にも、イラク人の捕虜に対して宗教上人前で肌をさらすことを戒める彼らを、敢えて全裸にし、まことに破廉恥な行為を集団で強要し、挙げ句に勝ち誇ったようにその前で写真まで撮っていたのは記憶に深く刻まれる出来事でした。

ほかにもピアノでは、Youtubeの投稿映像でアメリカの若者が、家から運び出したピアノをピックアップの荷台に乗せ、それに縄をかけ、ある程度の速度に達したところで一気にピアノを地面に落とし、ロープで引きずられながらピアノはまたたく間にバラバラに崩壊してしまいますが、その様子に若者達は熱狂的な雄叫びをあげ、爆笑を繰り返すというものでした。
まさに西部劇に見る悪党の残忍な仕業そのものです。

アメリカだけではなく、山下洋輔氏も若気の至りだったのかどうかは知りませんが、恥ずべき過去の行為があることはご存じの方も多いと思います。
海辺にグランドピアノを置き、それに灯油か石油かをぶちまけて火をかけて、燃えさかるグランドピアノを山下氏がガンガン弾きまくるという、音楽家として最低のパフォーマンスでした。

ネット動画で探せば、現在でも見ることは可能なはずです。
私はもともと彼のことはあまり興味もなく、好きでも嫌いでもありませんでしたが、それを見てからというもの、いまだにこの蛮行が頭に焼き付いていて彼のことは好きになれません。

マロニエ君は、なにも「ピアノ愛護団体」のようなことを言い立てるつもりは毛頭ありません。
ただ、実用品とは一線を画すべき楽器を粗末にし、ときに破壊さえするという行為は、個人的には食べ物を粗末にする以上にその人の人格や教養を疑われる恥ずかしい行為だと思いますし、理屈でなく体質的感覚的に不快感を覚えてしまいます。

とりわけミュージシャンと名の付く人がそれをするのは許しがたいものがあり、外国のロックグループにもステージ上のピアノに火をつけて、その炎の周りで狂人のように歌い踊るシーンを見た記憶がありますが、なにをどう説明されようともマロニエ君にはその手の行為は受け容れることはできません。

それをGM(ゼネラルモータース:アメリカ最大の自動車会社)がCMとして堂々と広告媒体に載せるのですから、宣伝のためならペットでも虐待するのかと思います。
続きを読む

上原彩子

今年の3月にサントリーホールで行われた上原彩子さんのピアノリサイタルから、ラフマニノフの前奏曲op.32とリラの花、クライスラー=ラフマニノフ編曲の愛の喜びがBSで放送されました。

このリサイタルは、オール・ラフマニノフという精力的な取り組みだったようです。

上原さんはチャイコフスキーコンクールに優勝したときから、さまざまな噂や憶測が飛び交い、日本人による同コンクールの優勝は史上初ではあったものの、世界的コンクールの優勝者の扱いはあまり受けられなかったような印象があります。そういう事は抜きにしても、マロニエ君はテレビなどで断片的に垣間見るこの人の演奏には、まったく興味が持てず、まさに関心の外といった存在でした。

最近で云うと、ヤマハホールのオープンに伴うコンサートでは、風水の金運ではないのでしょうが全身真っ黄色のドレスを纏い、真新しいホールで最新のCFXを弾いていましたが、そんなお祝いイベントとは思えないネチネチと愚痴るばかりのようなショパンで、ちょっといただけない感じを受け、このときもまともに最後まで聴くには至りませんでした。

ところが、今回のサントリーではプログラムのせいかどうかは自分でもわかりませんが、なぜかちょっと聴いてみる気になったのです。結果から云うと、マロニエ君の好みの演奏ではないにしても、この人なりの良さや持ち味のようなものが少しわかった気がして、そのぶん見直してしまいました。

ラフマニノフが上原さんに合っていたのかもしれませんが、まず今どきの演奏にありがちな薄っぺらい表面的な感じがなく、よほど丹念に準備をされたのか、そこには深いところから滲み出るものがあり、これはこれで説得力のある収まりのついた演奏だと思いました。
見るところ、椅子はかなり高めで、ピアニストとしては小柄な方のようですが、それに反して出てくる音はなかなか堂に入ったもので、最近では珍しいぐらいピアノをよく鳴らし、プロの音色が聴かれたのはまずそれだけでも評価に値するものでした。

上原さん固有の特色としては、音楽に対するスタンスに一種独特な暗さと厳しさが支配しているように思います。今どきのピアニストには珍しい、滾々と湧き出るような深い悲しみと孤独感が立ちこめて、それが少なくともラフマニノフでは、この亡命作曲家の深い哀愁にも重なり、独特な効果となっていたように感じました。
クライスラー原曲の『愛の喜び』でさえ、ほとんど悲しみの音楽のようでした。

音楽に限らず、よろず芸術に携わる者は、自分が幸せいっぱいでは人間的真実の本物の表現者とはなり得ない場合が多いのは紛れもない事実で、あくまでマロニエ君が感じたことですが、この人の心には何かがわだかまっていて、それが演奏上のプラスにもマイナスにもなっているように思いました。

音色の面で感心したのは、音が繊細かつ大胆で潤いがあり、フォルテでも決して音ががさつにならず、常に安定した輝きと重みをもっていることや、各声部の音の強弱のバランス感覚は非常に優れたものがあると思いました。少なくともあの小柄な体つきからは想像も出来ない充実した厚みのあるサウンドが、きっちりコントロールされながら広がり出るのは立派です。

アーティキュレーションも細緻で、東洋人特有の非常に行き届いた配慮のある点はこの人の美点だと思いますが、惜しむらく弾むような色合いやスピード感という点ではあまり期待ができないようで、言い換えるなら作品の喜怒哀楽すべてを自在に表現できるプレーヤーではないように思いました。
したがって自分に合った作品を選ぶことは、上原さんにとっては非常に重要なファクターだと思います。

この日のピアノはまったく素晴らしい朗々と鳴るスタインウェイで、とりあえず文句なしという感じでした。聴くところによると上原さんのご主人は松尾楽器のピアノテクニシャンなのだそうで、もしかしたら、その方の手になる渾身の調整だったのかもしれませんが、これはあくまでマロニエ君の想像であって事実確認はできていません。
いずれにしろ、美しい響きのピアノでした。
続きを読む

ラルス・フォークト

リッカルド・シャイー指揮のライプチヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の今年2月の演奏会が放送され、曲目はグリーグのピアノ協奏曲(ピアノはラルス・フォークト)とマーラーの交響曲第5番。

会場も、その名の示す通りこのオーケストラのホームグラウンドであるライプチヒ・ゲヴァントハウスですから、通常の定期公演のようなものだろうかとも思いますが、そのあたりの詳細はよくわかりません。

実を云うとマロニエ君がラルス・フォークトの演奏を聞くのは、映像としても音としても初めてだったので、そういう点でも興味津々ではありました。
というのも、このピアニストの存在はずいぶん前から知ってはいましたが、CDのジャケットなどに見る表情があまり恐くて気分が萎えてしまい、それなりの人かもしれないとは思いつつも、つい躊躇してしまっていたので、今回ついにその演奏に触れることが出来たというわけです。

この超有名曲は、湧き上がるティンパニの連打の頂点に、独奏ピアノのイ短調の鮮烈な和音が閃光のごとく現れて降りてくることで幕を開けるのが一般的ですが、その一連の和音のありかたが一般的なものとはやや異なり、妙に抑えたような、ちょっと違った意味を持たせたようなものであったことに、冒頭小さな違和感を覚えました。

しかし、聴き進むにつれてこの人なりのスタイルと表現の意志力がはっきりしていることがわかり、次第にその音楽に馴染むことができました。ひとことで云うなら柔と剛が適切に使い分けられながら迷いなく前進し、演奏を通じての自己表出より、専ら音楽に奉仕するタイプの演奏であると思いました。
様々なかたちはあっても、結局は自分自分というタイプの演奏家が多い中で、フォークトはまず音楽を第一に置き、作品をよく咀嚼し、慎重さをもって演奏に望んでいるようでした。根底には音楽に対する情熱があるものの、それを恣意的な方法であらわすことはせず、あくまでも抑制が効き、作品に対する畏敬の念が感じられました。

印象的だったのはピアノが表面に出るべきところと、そうではないところをきっちりと区別し、必要時には潔くオーケストラの裏にまわることで、常に作品のバランスを優先させようと努めているのは好感が持てました。
いわゆる英雄タイプの華々しい演奏でアピールするのではなく、協奏曲の中にあっても内的で繊細な表現が随所に見受けられ、聴く者は集中してそれらに耳を澄ませることを要求するタイプの演奏家であったと思います。

それでいて強さや激しさが必要なところでは作品が要求するだけのことが充分できる器があり、まさにテクニックを音楽表現の手段として適材適所に使っているという点は立派です。だからといって個人的には双手をあげて自分の好みというわけでもないのですが、今後は曲目によってはフォークトのCDなども買ってみるかもしれません。

それにしても、なんとなく感じたのは、ドイツの聴衆というのは一種独特なものがあります。
客席にはほとんど空席もなく、座席は整然とむらなく埋まっていて、しかもほとんどがある一定の年齢の大人ばかり。さらには体のサイズまで揃えたような立派な体格の男女が、きちんとした服装で整然とシートに着席しており、それがいつ見ても微動だにしません。笑顔も私語もなく、一同がカッとステージの方を見守っており、肘掛けも使っていないような姿勢の良さはほとんど軍隊のようで不気味でした。

要は音楽に集中しているという事なのかもしれませんが、東洋の島国の甘ちゃんの目には、このえもいわれぬ雰囲気はどうしようもなく恐いような気がします。
要するにドイツ人というのはそういう民族なのかもしれません。

むかし親しいフランス人が言っていましたが、フランス人とドイツ人は基本的歴史的に仲良しではないのだそうで、明確にドイツ人は嫌いだと言っていました。とくに彼らがビールなどを飲んで騒ぐときや外国に出たときのハメの外し方といったら、それはもう限度がないのだそうで、あの聴衆の姿を見ていると、確かにそういう両極両面が背中合わせになっているのかもしれないと思いました。

ヨーロッパでもとりわけ西側のラテン系の人達とはそりが合わないようでしたが、まあそれも理解できる気がします。しかし、彼らが作り出すもの、わけても音楽や機械や医学などあらゆる分野の優れたものは、この先もずっと世界の尊敬を集めることだろうと思います。

そんな中で見ていると、明るくせっせと指揮をするシャイー(イタリア人)は、ひとりだけヘラヘラしたオッサンのように見えてしまいますから、お国柄というのはまったくおもしろいものだと思います。
続きを読む

さすがエマール

少し前にクラシック倶楽部で放送され、聴くのが遅れていたピエール・ロラン・エマールの昨年の日本公演から、ドビュッシーの前奏曲集第2巻をようやく観ました。

まず最初に、エマールのような世界の最高ランクであろうピアニストがトッパンホールのようなサイズ(400席強)のホールでコンサートをすることに驚きました。
どうやらこれはホール主催の公演だったようですから、それならまあ納得というところでもありますが、本来ならこのクラスのアーティストともなると、東京ならサントリーホールぐらいのキャパシティ、すなわち二千席規模の会場でコンサートをやるのが普通だろうと思いますし、最低限でも紀尾井ホール(800席)あたりでないと、この現役の最高のピアニストのひとりであるエマールのチケットを買えない人があふれるのは、いかにももったいないという気がしました。

しかし世の中には皮肉というべきか、逆さまなことがいろいろあって、実力も伴わずして分不相応な会場でコンサートをしたがる勘違い派が後を絶たないかと思うと、意外な大物が、意外なところでささやかなコンサートをやったりするのは、なんとも不思議な気がします。

まあ、大物ほど自信があり、余裕があるから、気の向くままどんなことでも平然とやってしまうのでしょうし、その逆は、やたら背伸びをして格式ある会場とか有名共演者と組むことで、我が身に箔を付けるべく躍起になっているということかもしれません。

さて、エマールの演奏は予想通りの見事なもので、堂に入った一流演奏家のそれだけが持つ深い安心感と底光りのするような力があり、確かな演奏に身を委ねていざなわれ、そこに広がり出る美の世界に包まれ満足することができました。
基本的には昨年発売された前奏曲集のCDで馴染んだ演奏であり、エマールらしい知的で抑制の利いた表現ですが、音楽に対する貪欲さと拘りが全体を支えており、久々に「本物」の演奏を聴いた気がしました。
しかもそこにはピリピリと張りつめた過剰な緊張とか、知性が鼻につくということがなく、あくまで音楽を自然な息づかいの中へと巧みに流し込んでくるので、聴く者を疲れさせないのもエマールの見事さだと思います。

さらにいうなら、演奏家も一流になればなるだけ、その人がどういう演奏をしたいのか、どういう風に作品を受け止め、伝えようとしているかということが聴く側に明確かつなめらかに伝わって来て、芸術が表現行為である以上、このメッセージ性はいかなるジャンルであっても最も大切なことであろうと思います。しかし、現実にはそれの出来ていない、名ばかりのニセモノのなんと多いことか!

ピアノはおそらくトッパンホールのスタインウェイだと思いますが、なにしろ調律が見事で、やはり楽器にもうるさいエマールが納得するまで慎重に調整されたピアノだったのだろうと思いました。
基本的に全音域が開放感に満ち、立体感の中に透明な輝きが交錯するようでありながら、音そのものは決してブリリアントな方向を狙ったものではない、いわば非常にまともで品位のあるところが感銘を受けました。低音は太く、ボディがわななくようなたくましさをもった音造りで、マロニエ君の好みの調律でした。

つい先日、グリモーのブラームスを聴いたばかりでしたが、同じフランス人ピアニストでも格が違うとはこのことで、まさに真打ち登場! ゆるぎないテクニックに支えられた他者を寄せ付けない孤高の芸術を、聴く者に提供してくれるのはなんともありがたい気分でした。

ピアニストがピアニストで終わるのではだめで、やはり真の芸術の域に到達しているものでなくてはつまらないとあらためて思いました。
続きを読む

グリモーのブラームス

毎週、日曜朝にNHKのBSで放送されていた『オーケストラ・ライブ』が4月からの番組編成でなくなり、事実上その代わりとも云うべき番組が、ずいぶん出世して、日曜夜の9時からEテレで2時間、『クラシック音楽館』として始まりました。

マロニエ君はいつも録画を夜中にしか見ませんから、個人的には朝でも夜でも構わないのですが、世界的なクラシック離れの流れの中にあって、これまで早朝にほとんどお義理のように放送されていたクラシックの番組が、日曜夜9〜11時という、このジャンルではまさにゴールデンタイムに復活してきたことは嬉しいことです。

その第一回放送は、デーヴィッド・ジンマン指揮によるN響定期公演で、ブゾーニ:悲しき子守歌やシェーンベルクの浄夜のほか、メインとしてブラームス:ピアノ協奏曲第2番というものでした。
ピアノはエレーヌ・グリモー。

グリモーは20代の後半にブラームスの第1番の協奏曲をCDで出していますが(共演はザンデルリンク指揮ベルリンシュターツカペレ)、それはいかにも曲に呑まれた、このピアニストの器の足りなさと、さらには若さから来る未熟さみたいなものが全面に出てしまうもので、ちょっと成功とは言い難い演奏でした。
それもやむを得ないというべきか、ブラームスのピアノ協奏曲は両曲とも50分前後を要する大曲で、まともに弾き通すだけでも大変です。ましてやそれを説得力のある演奏として、作品の意味や真価を伝え、さらには音楽としての張りを失わずに、聴く者を満足させることは並大抵のことではないので、そもそもピアニストはブラームスのコンチェルトはあまり弾きたがりません。

一説には、コンクールでもブラームスのコンチェルトを弾くとまず優勝は出来ないというジンクスがあるようです。それは音楽的にも技巧的も難しいばかりでなく、その長大さから審査員の心証もよくないし聴衆も疲れて人気が得られないからだそうです。

しかしマロニエ君は、ブラームスのコンチェルトは楽曲として最も好きなランクのピアノ協奏曲に位置するもので、もし自分がコンサートで活躍するような大ピアニストだったなら、主催者の反対を押し切ってでも弾いてみたい曲だと思います。ヴァイオリン協奏曲も同様。

冒頭のインタビューで、グリモーはブラームスの協奏曲は第1番が書かれた25年後に第2番が書かれており、それは偶然自分でも、若い頃にアラウの演奏で第1番に接しその虜になったものの、第2番はもうひとつ掴めず、これが自分にとってなくてはならないものになるにはちょうど25年を要したなどと、なんとも出来過ぎのようなことを喋っていましたが、そこには今の自分がピアニストとして成熟したからこそこの曲を弾く時が来たというニュアンスを言外に(しかも自信たっぷりに)含ませているような印象を持ちました。

「それでは聴かせていただきましょう!」というわけで、じっくり聴いてみました。
開始後しばらくは、それなりに良い演奏だと思いましたが、次第に疲れが見えてくることと、やはりこの人には曲が巨大すぎるというのが偽らざる印象で、とくに後半では、大きなミスをしたというわけではないけれども、かなり無理をしている様子が濃厚になり、演奏としても破綻寸前みたいなところが随所にありました。

もともとグリモーは、フランスのピアニストであるにもかかわらず伝統的なショパンやドビュッシーのような系統の音楽を弾くことに反発し、10代のころからロシア文学に親しみ、音楽もロシア/ドイツ物などを多く取り上げてきたという、いわば重量級作品フェチ少女みたいなところがありました。

まるで、子犬がいつも大型犬に臆せずケンカを挑んでいるようで、それが見ようによってはほほえましくもあるのですが、やはり器というものは如何ともしがたいものがあるようです。
第一、弾いている手つきがどうしようもなく幼児的で、とても世界で活躍するピアニストのそれとは思えないものがあり、とにかくよくここまできたなあ…というのが正直なところですが、それだけ彼女には光るものがあって、あまたいる腕達者に引けを取らないポジションを獲得しているのだと思います。

ブラームスで云うと、グリモーはソナタでも曲が勝ちすぎますが、この作曲家には極めて高い芸術性にあふれた多くの小品集・間奏曲集等があるので、そのあたりでは彼女の本領が発揮されると思います。
続きを読む

一級ピアノ調律技能士

「ピアノ調律技能士」という言葉をご存じでしょうか?

これまで、ピアノの調律師というものにこれといった明確な資格があるわけではなく、専門学校や養成所で調律の勉強をした人が卒業後社会に出て、メーカーや楽器店の専属になるなどしてプロとしての経験と修行を積み、さらにはフリーの技術者として独立する人などがあるようですが、そこに特段の基準や資格があるわけではありませんでした。
それだけに、逆に技術者としての実力が常に問われるとは思いますが。

これは何かに似ていると思ったら、ピアニストもそうなのであって、音大を卒業したり、コンクールに入賞したり、あるいは才能を認められるなど、各人いろいろ経過はあっても、ピアニストを名乗るのにこれといった資格や免許などの基準はありません。
まあピアニストのほうがさらにその基準は曖昧かもしれませんが。

資格がないというのは音楽に限らず、文士や絵描きも同様で、そのための公的資格などを必要としないのは当たり前といえば当たり前で、それによって人や社会に著しい不利益や損害を与えるわけでもなく、突き詰めていうなら「人命にかかわる仕事ではない」からだろうとも思います。

つまり、なんらかの方法でただ調律の勉強をしただけの人が、現場経験もないまま、いきなり自分は調律師だと称して仕事をしたとしても、これが違法ではないわけです(ただし、そんな人に仕事の依頼はないとは思いますが)。
それだけ技術的な優劣を客観的に判断する基準というものがなかったということでもあり、新規で良い調律師を捜すことは難しい面があったかもしれません。

ところが、この分野に国家資格というものが創設され、社団法人日本ピアノ調律協会の主導のもとで2011年にその第1回となる試験が行われたようです。

1級から3級まであり、受験者は誰しもこの国家資格に挑もうとする以上、目標はむろん1級にある筈ですが、1級の受験資格は「7年以上の実務経験、又はピアノ調律に関する各種養成機関・学校を卒業・修了後5年以上の実務経験を有する者。」と規定されており、それに満たない人は自分の実績に応じたランクでの受験となるのでしょう。

さて、このピアノ調律技能士の試験は予想以上に狭き門のようで、第1回で1級に合格した人は全国でわずかに32人、受験者数は252人で、合格率は実に13.3%だったようです。筆記と実技があるようですが、とくに実技は作業上の時間制限などもあって相当難しいようです。
ちなみに九州からも、多くの名のあるピアノ技術者の皆さん達が試験に臨まれたようですが、結果は全員が不合格という大変厳しい結果に終わったようです。

これは九州の技術者のレベルが低いということではなく、どんな試験にもそのための「情報」と「対策」という側面があるわけで、この点では東京などの大都市圏のほうがそのあたりの有益な情報がまわっていて、受験者に有利に働いたのは否めないということはあったのかもしれません。

さて、我が家の主治医のお一人で、現在ディアパソンの大修理もお願いしている技術者さんも、第1回で不合格となられ、翌年(2012年)秋の第2回に挑まれました。
その結果発表が今春あって見事に合格!されました。なんでも、九州からの合格者はたった2人(一説には1人という話も)だけだったそうで、これにはマロニエ君も自分のことのように喜びました。ちなみに今回は、前回よりもさらに合格率は低く9.1%だったようで、まさに快挙というべき慶事です。

ディアパソンの修理の進捗を見るためにときどき工房を訪れていますが、先日は折りよく合格証書が届いてほどない時期で、さっそく見せていただきました。
御名と共に、「第一級ピアノ調律技能士」と恭しげに書かれており、現厚生大臣・田村憲久氏の署名もある証書でした。

この主治医殿が、昔から事ある毎に次のように言っておられたことをあらためて思い起こします。
『ピアノ技術者で最も大切なことは実は技術ではありません。技術は必要だが、それはある程度の人ならみんな持っている。それよりも、いかに当たり前のことをきちんとやっているか。要はその志こそが問題だと思いますよ』と。

まさに、今回はその志が結実したというべきでしょう。
続きを読む

インゴルフ・ヴンダー

過日のアヴデーエワでの落胆に引き続いて、NHKのクラシック倶楽部ではインゴルフ・ヴンダーの日本公演から、紀尾井ホールでのモーツァルトのピアノソナタKV.333が放送されており、録画を観てみましたました。

放送そのものはアヴデーエワのリサイタルよりも前だったようですが、マロニエ君が観るのが遅くなったために、こちらを後に続くかたちになったわけです。

このソナタは、出だしの右手による下降旋律をどう弾くかがとても大切で、マロニエ君なら高いところから唐突に、しかもなめらかに降りてくる感じで入ってきて、それを左が優しく受け止めるように、繊細でこわれやすいものを慈しむように弾いて欲しいと願うところですが、いきなり不明瞭で、デリカシーも自然さもない、なんとも心もとないスタートだったことに嫌な予感が走りました。

その後もこの印象は回復することなく、安定感のない、ひどく恣意的なテンポに満ちた美しさの感じられないモーツァルトを聴く羽目になりました。
驚くべきは、ヴンダーはモーツァルトと同じくオーストリアの生まれで、しかも2010年のショパンコンクールでは堂々2位の成績を収めた、かなり高い戦歴を持つピアニストです。

少なくとも、昔ならいやしくもショパンコンクールの上位入賞者というのは、好き嫌いはともかく、世界最高のピアノコンクールの難関をくぐり抜けてきた強者にふさわしい高度な実力を備えており、それなりの演奏が保証されていたように思いますが、最近はそういう常識はもう通用しなくなったのかもしれません。

モーツァルトのソナタをステージで演奏するには、音数が少ないぶん、他の作曲家の作品よりも明確な解釈の方向性を示し、そのピアニストなりに磨き込まれた完成度の高い演奏が要求されるものですが、ヴンダーの演奏は、いったい何を言いたいのかさっぱりわからないし、技巧的にも安定感がなくふらついてばかりで、好み以前の問題として、プロのピアニストの演奏という実感がまるでありませんでした。

テンポや息づかいにも一貫性がなく、フレーズ毎にいちいち稚拙なブレスをする未熟な歌手のようで、聴いていて一向に心地よさが感じられず、もどかしさと倦んだような気分ばかりが募ります。
また、ヴンダーに限ったことではありませんが、マロニエ君はまず楽器を鳴らせない人というのは、それだけで疑問を感じますし、墨のかすれた文字みたいな、潤いのない音ばかりを平然と連ねることが、思索的で知的な内容のある演奏などとは思えません。

ひと時代前は、叩きまくるばかりの運動系ピアニストが問題視され軽んじられたものですが、最近はその逆で、まずは自然な音楽の呼吸と美しく充実した音の必要を見直すべきではないかと思います。
音色のコントロールというのは様々な色数のパレットを持っていて、必要に応じて自在に使い分けができることですが、ヴンダーなどは骨格と肉付きのある豊かな音がそもそも出ておらず、いきおい演奏が貧しい感じになってしまいます。

本来、ピアニストともなると出てくる音自体に輪郭と厚みと輝きが自ずと備わっており、それひとつを取ってもアマチュアとは歴然とした違いがあるものですが、近ごろはタッチも貧弱、音楽の喜怒哀楽や迫真性もなく、ただ訓練によって外国語が話せるように難しい楽譜が読めて、サラサラと練習曲のように弾けるというだけの人が多く、音色的にはほとんどアマチュア上級者のそれと大差ないとしか思えないものです。

アヴデーエワ、ヴンダー、ほかにもトリフォノフなどを聴いていると、もはやコンクールそのものの限界がきてしまっているというのが偽らざるところで、そういえば一流コンクールの権威もとうに失墜してしまっているようですね。これからは、なにかの拍子に才能を認められて世に出てくるような異才の持ち主などにしか芸術家としての期待はもてない気がします。
続きを読む

技術者しだい

このところ、ついついアップライトにも関心を持ってしまい、すでに二度もこのブログに駄文を書いてしまっているマロニエ君ですが、先ごろ、実になんとも素晴らしい一台に出逢いましたので、その印象かたがたもう少々アップライトネタを書くことにしました。

それはヤマハのUX300、十数年前のヤマハの高級機種とされたモデルで、背後にはX支柱(現在はコスト上の理由から廃止された由)をもつモデルです。外観で特徴となるのはトーンエスケープという鍵盤蓋よりも上に位置する譜面台を手前に引き出すと、その両脇から内部の響きが左右に漏れ出てきて、奏者はより楽器の原音をダイレクトに聴きながら演奏できるというもの、さらには黒のピアノではその譜面台の左右両側にマホガニーの木目が控え目にあしらわれ、それがこのピアノのお洒落なアクセントにもなっています。
このデザインは好評なのか、今もYUS5として生産されているばかりか、それが現行のカタログの表紙にもなっているようです。

話は戻り、このUX300は望外の素晴らしいピアノだったのですが、それはヤマハの高級機種だからというよりも、一人の誠実な技術者が一貫して面倒を見てこられたピアノだからというものでした。
以前のブログに書いたようなアップライトらしさ、ヤマハっぽさ、キンキン音、デリカシーのなさ、安っぽさなどどこにもない、極めて上質で品位のある音を奏でる好ましいピアノであったことは予想以上で、少なからぬ感銘さえ受けました。

おまけにこのピアノはサイレント機能つきで、通常はこの機能を付けるとタッチが少し変になるのは不可避だとされていますが、この点も極めて入念かつギリギリの調整がなされているらしく、そのお陰で言われなければそうとは気づかないばかりか、むしろ普通のアップライトよりもしっとりした好ましいタッチになっていたのは驚くほかはありません。
これぞ技術者の適切な判断と技、そしてなによりピアノに対するセンスが生み出した結果と言うべきで、まさに「ピアノは技術者次第」を地でいくようなピアノでした。

このような上質でしっとりした感じは、外国の高級メーカーのアップライトではときどき接することがありますが、国産ピアノでは少なくともマロニエ君の乏しい経験では、初めての体験だったように思います。

海外の一流メーカーのアップライトは、その設計や作りの見事さもさることながら、調整も入念になされたものが多く、あきらかにこの点にも重きをおいているのは疑いようがありません。それが隅々まで見事に行き渡っているからこそ、一流品を一流品たらしめているともいえるでしょう。

ちなみに、海外の老舗メーカーの造る超高級アップライトは価格も4ー500万といったスペシャル級で、普通ならそれだけ予算があれば大半はグランドに行くはずです。いったいどういう人が買うのだろうと思わずにはいられない一種独特の位置にある超高級品ということになり、それなりのグランドを買うよりある意味よほど贅沢でもあり、勢い展示品もそうたやすくあるものではありません。

当然ながら、そんなに多く触れた経験はないのですが、スタインウェイやベーゼンドルファーなどは、たしかに素晴らしいもので、この両社がアップライトを作ったらこうなるだろうなぁと思わせるものがありますが、しかし個人的にはとりたてて驚愕するほどのものではなく、あくまで軸足はグランドにあるという印象は拭い切れません。

ところが中にはそうでないものもありました。これまでで一番驚いたのはシュタイングレーバーの138というモデルで、とにかく通常のアップライトよりさらにひとまわり背の高いモデルですが、その音には深い森のような芳醇さが漂い、威厳と品格に満ち、その佇まい、音色とタッチはいまだに忘れることができません。2番目に驚いたのはベヒシュタインのコンサート8という同社最大のアップライトで、これまた美しい清純な音色を持った格調高いピアノでした。
ベヒシュタインは、実はアップライト造りが得意なメーカーで、背の低い小さなモデルでも、作りは一分の隙もない高級品のそれですし、実に可憐でクオリティの高い音をしていて、むしろグランドのほうが出来不出来があるようにさえ感じます。

アップライトでも技術者次第、お値段次第でピンキリというところですが、最近驚いたのはヤマハのお店には「中古ピアノをお探しの方へ」的な謳い文句が添えられて、なんと399.000円という新品のアップライトが売られていることでした。
ヤマハ・インドネシア製とのことですが、これが海外の老舗メーカーのように別ブランドにすることもなく、堂々とYAMAHAを名乗って、ヤマハの店頭で他の機種に伍して売られているのですから、ついにこういう時代になったのかと思うばかりです。
続きを読む

アヴデーエワを聴く

「演奏とは、誰のためのものなのか。何を目的とするものなのか。」
こういう素朴な疑問をしみじみ考えさせられるきっかけになりました。

ユリアンナ・アヴデーエワのピアノリサイタルに行きましたが、期待に反する演奏の連続で、虚しい疲労に包まれながら会場を後にしました。

ショパンコンクールの優勝後に初来日した折、N響と共演したショパンの協奏曲第一番では、まるで精彩を欠いたその演奏には大きな落胆を覚えたものの、その一年後のリサイタルでは見事に挽回、ワーグナーのタンホイザー序曲やプロコフィエフのソナタ第2番などの難曲を圧倒的なスケールで弾いたのには度肝を抜かれました。
そして、これこそが彼女の真の実力だと信じ込み、いささか疑問も感じていたショパンコンクールの優勝も当然だったと考え直し、ぜひとも実演に接してみたいと思っていた折の今回のリサイタルでしたから、半ば義務のようにチケットを買った次第。

プログラムはバッハのフランス風序曲、ラヴェルの夜のガスパール、ショパンの2つのノクターン、バラード第1番、3つのマズルカ、スケルツォ第2番、さらにはアンコールではショパンのワルツ、ノクターン、マズルカを弾きました。

全体を通じて云えることは、作品を深く読み解き、知的な大人の音楽として構築するという主旨なのだろうと推察はするものの、あまりに「考え過ぎ」た演奏で、そこには生の演奏に接する喜びはほとんどありませんでした。
冒頭のバッハでいきなり違和感を感じたことは、様式感が無く、度が過ぎたデュナーミクの濫用で、いかにもな音色のコントロールをしているつもりが、やり過ぎで作品の輪郭や躍動感までもが失われてしまい、全体に霞がかかっているようでした。さらには主導権を握るべきリズムに敬意が払われず、これはとくにバッハでは大いなる失策ではないかと思います。お陰でこの全7楽章からなるこの大曲は退屈の極みと化し、のっけから期待は打ち砕かれました。

続く夜のギャスパールは、出だしのソラソソラソソラソこそ、さざ波のような刻みでハッとするものがありましたが、それも束の間、次第にどこもかしこもモッサリしたダサイ演奏でしかないことがわかります。
ラヴェルであれほどいちいち間を取って、さも尤もらしいことを語ろうとするのは、マロニエ君にはまったく理解の及ばないことでした。
終曲で聴きものとなる筈のスカルボでも、終始抑制を効かせた、意志力の勝った、ことさらに冷静沈着で燃えない演奏で、不気味な妖怪などついに現れないうちに曲は終わってしまいました。

かつてのロシアピアニズムの重戦車のごとき轟音の連射と分厚いタッチの伝統への反動からか、この人はやみくもにp、ppを多用し、当然フォルテもしくはフォルテッシモであるべき音まで、敢えてmfぐらいの音しか出さないでおいて、それが「私の解釈ではこうなるのです」と厳かに云われているようでした。
彼女にすれば、メカニックや力業で聴かせないところに重点を置いているということなんでしょうけれども、いくら思索的であるかのような演奏をされても、そこになにがしかの必然性と説得力がなくては芸術的表現として結実しているとはマロニエ君は思いません。
それぞれの個性の違いはありながら、本当に優れたものは個々の好みを超越したところで燦然と輝くものですが、残念ながらアヴデーエワの演奏にはそれは見あたりませんでした。

この人の手にかかると、リピートさえ鬱陶しく、ああまた最初から聴かなくちゃいけないのか…と少々うんざりして体が痛くなってくるようでした。
音楽というものが一期一会の歌であり、踊りであり、時間の燃焼であるというようなファクターがまったくなく、何を弾いても予めきっちりと決まった枠組みがあり、その中で予定通りに自分の考えた解釈や説明のようなものを延々と披露されるのは、音楽と云うよりは、ほとんどこの人独自の理論を発表する学界かなにかに立ち会っているようでした。

開場に入ってまもなく、CD売り場があり、終演後にサイン会があるというアナウンスを聴いて、ミーハーな気分からサインを頂戴すべく一枚購入しましたが、前半が終わった時点で、これはチケットもCDも失敗だったことを悟りました。
それでも、ちゃっかりサインはしてもらいましたから、自分でも苦笑です。

この日はなにかの都合からか、福岡国際会議場メインホール(本来コンサートホールではない)での演奏会ということで、ここでピアノリサイタルを聴くのは二度目ですが、出てくる音がどれも二重三重にだぶって聞こえてくるようで、響きにパワーがなく、つくづくと会場の大切さを痛感しました。

ピアノはヤマハを運び込むような話も事前に耳にしていましたが、フタを開けてみればこの会場備え付けのスタインウェイDで、久々にCFXを聴けるという楽しみは叶いませんでした。見ればこの日の調律師さんは我が家の主治医殿で、なかなかこだわりのある美音を創り上げていらっしゃるようでしたが、なにしろこの音響と???…な演奏でしたから、その真価を味わうこともあまりできなかったのが残念でした。

アヴデーエワに質問が許されるなら、ひとこと次の通り。
「貴女の演奏は、本当に貴女の本心なんでしょうか?」
続きを読む

アップライトの音

アップライトピアノの音というのは、個々のモデルで多少の違いはあるのは当然としても、基本的なところでは楽器としての構成が同じだからか、ある意味どれも共通したものを感じるところがあります。

また、国産ピアノで云うなら(あくまで大雑把な傾向として)より上級モデルで、且つ製造年が古い方が潜在的に少しなりともやわらかで豊かな音がするのに対し、スタンダードもしくは廉価品、新しいモデルではよりコストダウンの洗礼を受けたものほど、キンキンと耳に立つ、疲れる感じの音質が強まっていくように感じます。

とくに、もともとの品質が大したこともなく、さらに状態の悪いものになると、ほとんどヒステリックといっていいほどの下品な音をまき散らし、ハンマーの中に針金でも入っているんじゃないだろうかと思ってしまいます。
もしも、こういうピアノを「ピアノ」だと思って幼い子供が多感な時期を弾いて過ごしたとしたら、本来の美しい音で満たされる良質のピアノに触れて育つ子供に比べると、両者の受けるであろう影響はきっと恐ろしいほどの隔たりとなるでしょう。

もちろん大人でも同様ですが、子供の方がより深刻な結果にあらわれると思います。
食べ物の好みや言葉遣い、礼儀などもそうですが、幼くして触れるものは計り知れないほど深いところへ浸透し、場合によってはその人が終生持ち続けるほどの基礎体験となることもあるわけで、これは極めて大切な点だと思います。

…それはともかく、国産の大手メーカーのアップライトでいうと、せいぜい1980年代くらいまでの高級機は、今よりもずっと優しい音をしていたと思います。これはひとえに使っている材質が良いとまでは云わないまでも、いくらかまともなものだったし、さらには人の手が今よりいくぶんかかっていたから、そのぶんの正味のピアノにはなっていたのかもしれません。

少なくとも、無理を重ねてカリカリした音を作って、いかにも華やかに鳴っているように見せかけるあざといピアノを作る必要がなかったように思います。ダシをとるのにも、べつに高級品でなくても普通の昆布や鰹節を使って味を出すのと、粉末のダシをパッとひとふりするのとでは、根本的にどうしようもない違いが出るのは当然です。

今はネットのお陰で、いろんなピアノをネット動画で見て聴くことができますが、パソコンの小さなスピーカーというのは意外にも真実を伝える一面があるし、さらに信頼できる良質なスピーカーに繋げば、ほぼ間違いないリアルな音を聞くことができて、あれこれと比較することも可能になりました。

そこで感じたことは、マロニエ君は偏見抜きに自分の好みは少し古いピアノの出す音であることがアップライトに於いても確認できました。もちろん、いつも云うように、あくまでも良好な調整がなされていることが大前提なのはいうまでもなく、この点が不十分であれば古いも新しいもありません。

ただ、現実には大半の個体は調整が不充分で、そういうアップライトピアノには、たとえ高級品であっても一種独特の共通した声のようなものがあり、おそらくは構造的なものからくるのだろうと思いますが、それは状態が悪いものほど甚だしくなるようです。

当たり前のことですが、素晴らしい調整は個々のピアノ本来の能力を可能な限り引き出して、人を心地よく喜びに満たしてしてくれますが、これを怠るとピアノはたちまち欠点をさらけ出し、なんの魅力もないただの騒音発生機になってしまいます。

その点では、誤解を恐れずに云うなら、グランドはまだ腐ってもグランドという面がなくもないようで、アップライトの方が調整不十分による音の崩れは大きいように感じます。そこが潜在力として比較すると、グランドのほうがややタフなものがあるのかもしれません。

そういう意味では常に好ましく美しく調整されていることが、アップライトでは一層重要なのかもしれないという気もしないでもありません。
続きを読む

ヤマハビルとの別れ

先の日曜は、福岡のヤマハビル内で行われた室内楽などの講習会へ知人から誘っていただき聴講してきました。

数日間行われたシリーズのようで、マロニエ君が聴講したのはN響のコンサートマスターである篠崎史紀氏が自らヴァイオリンを弾きながら、合わせるピアノの指導をするというものでした。
小さな部屋でしたが氏の指導を至近距離で見ることができたのは収穫でした。

しかし、この日はなんとも虚しい気分が終始つきまといました。
それは博多駅前にある大きなヤマハビル自体が今月末をもって閉じられることになり、一階にあるグランドピアノサロン福岡も見納めになるからでした。
全国的にもヤマハのピアノサロンは大幅に縮小されるようで、東京と大阪を残して、それ以外はほぼ似たような処遇になるようです。これで福岡(というか西日本の)のきわめて重要なピアノの拠点が失われることになるのは、まったくもって大きな喪失感を覚えずにはいられません。

講習の帰りに、知人らと一緒にグランドピアノのショールームにもこれが最後という思いで立ち寄りましたが、昨年発表されて間もないCXシリーズがズラリと並んでいる光景もどこかもの悲しく、惜別の気持ちはいよいよ高まるばかりでした。

社員の方々もさぞや無念の思いで最後の日々を過ごしておられるだろうと思いますが、ショールームではコーヒーをご馳走になったことで最後のお別れがゆっくりできたような感じでした。

ピアノには片っ端から触るわけにもいかないので、数台あったC5Xと、C6X、C7X、S6などに触らせてもらいましたが、この中では、マロニエ君の主観では圧倒的にC6Xが素晴らしく、それ以外の機種が遠く霞んで見えるほどの大差があったのは驚く他はありません。
通常、同シリーズであれば、サイズが大きくなるにつれて次第に音に余裕と迫力が増してくるものですが、このC6Xの完成度というかキラリと光る突出のしかたは何なのか…と思うほどでした。

C5XとC7Xには互いに共通したものと、その上でのサイズの違いが自然に感じられますが、C6Xはタッチも音もまったく異なり、DNA自体が違う気がしましたが、これは久々に欲しくなったヤマハでした。
また価格も倍近くも違うS6は、個人的にはどう良いのかがまったく理解できず、目隠しをされたらこの両者は価格が逆なんじゃないかと思ってしまうだろうと思います。

最後の最後に、自分でも欲しいと思えるような好みのヤマハのグランドに触れることができたのは、せめてもの幸いというべきで、マロニエ君の中では良い思い出の中で幕が降りることになりそうです。

聞くところによると、現在のピアノの全販売台数のうち、電子ピアノが実に85%を占めるまでになり、アコースティックピアノはアップライトが10%、グランドはわずかに5%なのだそうで、いわば模造品に本物が駆逐されてしまった観がありますが、見方を変えれば電子ピアノの普及によってピアノを気軽に習う人が増えたという一面もあると解釈できるのかもしれません。

折しも日本は、やっと暗い不況のトンネルの出口が見えつつあり、景気回復の兆しがあらわれ始めたところですから、近い将来、少し郊外でもいいので、もう一度ヤマハのショールームが復活する日の来ることを願わずにはいられません。
続きを読む

アップライト考

このところ、いささか訳あって国産のアップライトピアノのことを(ネットが中心ではあるものの)しばらく調べていたのですが、わかってきたことがいくつかありました。

もちろん自分ですべて触れてみて確認したことではなく、多くがネット上に書き込まれた情報から得られたものに拠る内容になりますが、それでも多くの技術者の方などの記述を総合すると、ひとつの答えはぼんやり見えてくるような気がしました。

まず国産ピアノの黄金期はいつごろかと云うことですが、それぞれの考え方や見方によるところがあって、ひとくちにいつと断定することは出来ないものの、概ね1970年代からバブル崩壊の時期あたりまでと見る向きが多いような印象がありました。

バブルがはじけた後あたりから、世の中すべての価値が一変します。あらゆるものにコスト重視の厳しさが増して、とりわけ合理化とコストダウンの波というものが最重要課題となるようです。それに追い打ちをかけるように、21世紀になると世界の工場は中国をはじめとする労働賃金の安いアジアに移ってしまい、ピアノ業界もこの流れの直撃を受けたのは間違いありません。
さらには、少なくとも先進国では情報の氾濫によって人々の価値観が多様化するいっぽう、鍵盤楽器の世界では安価で便利な電子ピアノが飛躍的な進歩を遂げて市場を席巻するなど、従来の本物ピアノが生き残って行くには未曾有の厳しさを経験することになります。

ピアノを構成する素材に於いても、一部の超高級機などに例外はあっても、全体的には製造年が新しくなるほど粗悪になり、もはや機械乾燥どころではない次元にまで事は進んでいるようです。具体的には、集成材やプラスティックなどを多用するようになり、ピアノはより工業製品としての色合いを強くしていくようです。

逆に、バブル期までは様々な高級機が登場して、中には木工の美しさなど、ちょっと欲しくなるような手の込んだモデルもありますが、それ以降はメーカーのモデル構成も年を追う毎に余裕が無くなってくるのが見て取れます。

技術者の方々の意見にも二分されるところがあり、例えば1960年代に登場したヤマハアップライトの最高機種と謳われたU7シリーズあたりを最高とする向きがあるいっぽうで、技術者としてより現実的な観点から、よほどひどい廉価モデルでもない限り、製品として新しいモデルの安心を薦める方も少なくありません。

マロニエ君の印象としては、後者はピアノの音を職業的な耳で聞き、機械部分の傷みや消耗品の問題などを考えると、新しい楽器の持つ確かさ、手のかからなさなどを重視して、道具としてコスト的にも機械的にも新しいピアノが好ましいと考えておられるようです。
いっぽうで、前者の主張には、以前の良質の素材が使われた楽器には、素材だけでなく作り手の志も感じられ、楽器としてもそれなりの価値があり、ひいては所有する喜びもあるというものです。その点で、新しいピアノにはプロの目から見ても落胆とため息ばかりが出るということのようです。

概して、前者のほうは人間的に詩情があり多少の音楽的造詣もある方で、後者はより現実的で、専ら技術とコストの関係を正確に割り出すことに長けた人だと思います。両者共に一理ある考えで、いずれのタイプであっても優秀な技術者の方であることに変わりはないと思いますが、要するに基本となる思想が違うんですね。

マロニエ君はいうまでもなく前者の方々の意見に賛同してしまいます。
なぜなら、やはり少し古いピアノの音のほうが、国産ピアノであっても明らかに「楽器の音」がするし、それはつまり音楽になったとき人の耳に心地よいばかりか、音としての芸術が奥深くまで染み込む力をいくらかはもっていると思うからです。

その点、新しいピアノはそれなりのものでも基本は廉価品の音で、それを現代のハイテク技術を駆使してできるだけもっともらしく華やかに聞こえるように、要はごまかしの努力がされているようにしか感じられません。
実は先日もあるお店で新品を見たのですが、一目見るなり、その安っぽさが伝わりました。アップライトでは最大クラスとされる高さ131cmのモデルも何台かありましたが、その佇まいにはきちんと作られたものだけがもつ重み(物理的な重量のことではなく)や風格が皆無で、傍らに置かれた高級電子ピアノと品質の違いを見出すことはついにできませんでした。

上部の蓋にも、なにひとつストッパーも引っかかりもなく、ただ上に抵抗なく開くだけだし、中低音の弦にもアグラフなども一切ありません。良い楽器を作ろうという作り手側の志は微塵も感じられず、そこに信頼あるメーカーの名が変に堂々と刻まれているぶん、なんだかとても虚しい気がしました。

それなら、いっそ良質の中国製の最高級クラスを買ったほうが、まだ潔い気もしますし、楽器としての実体もまだいくらかマシかもしれません。
続きを読む

調律師ウォッチング

ピアノリサイタルに出かけるときの楽しみは、云うまでもなく素晴らしい演奏をじかに聴くことであり、その音楽に触れることにありますが、脇役的な楽しみとしては、会場のピアノや音響などを味わうという側面もあります。

そしてさらにお菓子のオマケみたいな楽しみとしては、ステージ上で仕事をする調律師さんの動向を観察することもないではありません。
もちろん、開場後の演奏開始までの時間と休憩時間、いずれも調律師がまったくあらわれないことも多いので、この楽しみは毎回というわけではありませんが、ときたま、開演ギリギリまで調律をやっている場合があり、これをつぶさに観察していると、だいたいその日の調律師の様子から、その後どういう行動を取るかがわかってきます。

開場後、お客さんが入ってきても尚、ステージ上のピアノに向かって「いかにも」という趣で調律などをしている人は、ほぼ間違いなく休憩時間にも待ってましたとばかりに再びあらわれて、たかだか15分やそこらの間にも、さも念入りな感じに微調整みたいなことをやるようです。

ある日のコンサート(ずいぶん前なのでそろそろ時効でしょう)でもこの光景を目にすることになり、この方は以前も見かけた記憶がありました。
開演30分も前から薄暗いステージで、ポーンポーンと音を出しては調律をしていますが、開演時間は迫るのに、一向に終わる気配がないと思いきや、もう残り1分か2分という段階になったとき、あらら…ものの見事に作業が終わり、テキパキと鍵盤蓋を取りつけて、道具類をひとまとめに持って袖に消えて行きます。…と、ほどなく開演ブザーが鳴るという、あまりのタイミングのよさには却って違和感を覚えます。

前半の演奏が終わり、ステージの照明が少し落とされて休憩に入ると、ピアノめがけてサッとこの人が再登場してきて、すぐに次高音あたりの調律がはじまりますが、こうなるとまるでピアニストと入れ替わりで出てくる第二の出演者のような印象です。

面白いのはその様子ですが、何秒かに一度ぐらいの頻度でチラチラと客席に視線を走らせているのは、あまりにも自意識過剰というべきで、つい下を向いて小さく笑ってしまいます。
あまりにもチラチラ視線がしばしばなので、果たして仕事に集中しているのか、実は客席の様子のほうに関心があるのか判然としません。

調律の専門的なことはわからないながらも、出ている音がそうまでして再調律を要する状態とも思えないし、その結果、どれほどの違いが出たとも思えません。
この休憩時もフルにその時間を使って「仕事」をし、15分の休憩時間中14分は何かしらピアノをいじっているようで、まあ見方によっては「とても仕事熱心な調律師さん」ということにもなるのでしょう。

コンサートの調律をするということは、調律師としては最も誇らしい姿で、それを一分一秒でも多くの人の目にさらして自分の存在を広く印象づけたいという思惑があるのかもしれませんが、何事にも程度というものがあって、あまりやりすぎると却って滑稽に映ってしまいます。

もちろんそういう俗な自己顕示には無関心な方もおられて、マロニエ君の知るコンサートチューナーでも、よほどの必要がある場合は別として、基本的にはお客さんの入った空間では調律をしないという方針をとられる方も何人もいらっしゃいます。

だいいちギリギリまで調律をするというのは、いかにもその調律は心もとないもののようにマロニエ君などには思えます。ビシッとやるだけのことはやった仕事師は、あとはいさぎよく現場を離れて、主役であるピアニストに下駄を預けるというほうが、よほど粋ってもんだと思います。

どんな世界でもそうでしょうが「出たがり」という人は必ずいるようで、これはひとえに性格的な問題のようですね。
続きを読む

松田理奈

NHKのクラシック倶楽部で、岡山県新見市公開派遣~松田理奈バイオリン・リサイタル~というのをやっていました。
なんだかよく意味のわからないようなタイトルですが、岡山県の北西部にある新見市という山間の田舎町でおこなわれたコンサートの様子が放送されました。

演奏の前に町の様子が映像で流されましたが、山を背景に瓦屋根の民家ばかりがひっそりと建ち並ぶ風景の村といったほうがいいようなところで、ビルらしき物などひとつもないような、静かそうで美しいところでしたが、そんなところにも立派な文化施設があり、ステージにはスタインウェイのコンサートグランドがあるのはいかにも日本という感じです。こういう光景にきっと外国人はびっくりするのでしょうね。

松田理奈さんは横浜市出身のヴァイオリニストとのことで、マロニエ君は先日のカヴァコスに引き続き、初めて聴くヴァイオリニストでした。
よくあるポチャッとした感じの女性で、とくにどうということもなく聴き始めましたが、最初のルクレールのソナタが鳴り出したとたん、その瑞々しく流れるようなヴァイオリンの音にいきなり引き込まれました。

良く書くことですが、いかにも感動のない、テストでそつなく良い点の取れるようなキズのない優等生型ではなく、自分の感性が機能して、思い切りのよい、鮮度の高い演奏をする人でした。
なによりも好ましいのは、そこでやっている演奏は、最終的に人から教えられたものではなく、あくまでも自分の感じたままがストレートに表現されていて、そこにある命の躍動を感じ取り、作品と共に呼吸をすることで生きた音楽になっていることでした。

わずかなミスを恐れることで、音楽が矮小化され、何の喜びも魅力もないのに偏差値だけ高いことを見せつけようとやたら難易度の高い作品がただ弾けるだけという構図には飽き飽きしていますが、この松田理奈さんは、その点でまったく逆を行く自分の感性と言葉を持った演奏家だと思いました。

音は太く、艶やかで、とくに全身でおそれることなく活き活きと演奏する姿は気持ちのよいもので、聴いている側も音楽に乗ることができて、聴く喜びが得られますし、本来音楽の存在意義とはそのような喜びがなくしてなんのためのものかと思います。

全般的に好ましい演奏でしたが、とくに冒頭のルクレールや、ストラヴィンスキーのイタリア組曲などは出色の出来だったと思います。

後半はカッチーニのアヴェマリア、コルンゴルトやクライスラーの小品と続きましたが、非常に安定感がある演奏でありながら、今ここで演奏しているという人間味があって、次はどうなるかという期待感を聴く側に抱かせるのはなかなか日本人にはいないタイプの素晴らしい演奏家だと思いました。
惜しいのはフレーズの歌い回しや引き継ぎに、ややくどいところが散見され、このあたりがもう少しスマートに流れると演奏はもっと質の高いものになるように感じました。

アリス・紗良・オットもそうでしたが、この松田理奈さんもロングドレスの下から覗く両足は裸足で、やはり器楽奏者はできるだけ自然に近いかたちのほうが思い切って開放的に演奏できるのだろうと思います。

このコンサートで唯一残念だったのはピアニストで、はじめから名前も覚えていませんが、ショボショボした痩せたタッチの演奏で、ヴァイオリンがどんなに盛り上がり熱を帯びても、ピアノパートがそれに呼応するということは皆無で、ただ義務的に黒子のように伴奏しているだけでした。

そんな調子でしたが、ピアノ自体はそう古くはないようですが、厚みのある響きを持ったなかなか良い楽器だと思いました。
続きを読む

NHKの変化

金曜日のBSプレミアムで、旅のチカラ「“私のピアノ”が生まれた町へ ~矢野顕子ドイツ・ハンブルク~」という番組が放送されました。

ニューヨーク在住のミュージシャン、矢野顕子さんがニューヨーク郊外の「パンプキン」という名の自分のスタジオに、プロピアノ(ニューヨークにあるピアノの貸出業/販売の有名店)で中古でみつけたハンブルク・スタインウェイのBをお持ちのことは、以前から雑誌などで知っていました。

番組は、そのお気に入りのピアノのルーツを探るべく、ドイツ・ハンブルクへ赴いてスタインウェイの工場を尋ねるというものでした。ただ、なんとなく奇異に映ったのは、ニューヨークといえばスタインウェイが19世紀に起業し、有名な本社のある街であるにもかかわらず、そういう本拠地という背景を飛び越えて、敢えてドイツのスタインウェイに取材を敢行するというもので、ここがまず驚きでした。

また、あのお堅いNHKとしては、はっきりと「スタインウェイ」というメーカー名を言葉にも文字にもしましたし、番組中での矢野さんもその名前を特別な意味をもって何度も口にしていました。
このようなことは以前のNHKなら絶対に考えられないことで、ニュースおよび特別の事情のない限り特定の民間企業の名前を出すなどあり得ませんでした。とりわけマロニエ君が子供のころなどは、そのへんの厳しさはほとんど異常とも思えるものだった記憶があります。

例えばスタジオで収録される「ピアノのおけいこ」などはもちろん、ホールで開かれるコンサートの様子でも、ピアノは大抵スタインウェイでしたが、そのメーカー名は決して映しませんでした。とはいっても、ピアノはお稽古であれコンサートであれ、演奏者の手元を映さないというわけにはいきませんから、その対策として、黒い紙を貼ったり、スタジオやNHKホールのピアノにはSTEINWAY&SONSの文字を消して、その代わりに、変なレース模様のようなものを入れて美しく塗装までされていたのですから、その徹底ぶりは呆れるばかりでした。

さすがに最近ではそこまですることはなくなって、はるかに柔軟にはなったと思っていましたが、こういう番組が作られるようになるとは時代は変わったもんだと痛感させられました。

同じ会社でもハンブルクの工場は、ニューヨークのそれとは雰囲気がずいぶん違います。やはりドイツというべきか、明るく整然としていて清潔感も漂いますが、この点、ニューヨークはもっと労働者の作業場というカオスとワイルドさがありました。

番組後半では、創業者のヘンリー・スタインウェイの生まれ故郷にまで足を伸ばし、彼の家が厳寒の森の中で仕事をする炭焼き職人だったということで、幼い頃から木というものに囲まれ、それを知悉して育ったという生い立ちが紹介されました。
ヘンリーがピアノを作った頃にはこの森にも樹齢200年のスプルースがたくさんあったそうですが、今では貴重な存在となっているようです。

またハンブルクのスタインウェイでも21世紀に入ってからは、ドイツの法律で楽器製作のための森林伐採が規制されたためにニューヨークと同じアラスカスプルースに切り替えられたという話は聞いていましたが、ハンブルクのファクトリーでも「響板はピアノの魂」などといいながらも、アラスカスプルースであることを認める発言をしていました。

昔に較べていろいろ云われますが、スタインウェイの工場はそれでもいまだに手作り工程の多い工房に近いものがあり、その点、いつぞや見た日本や中国のピアノ工場は、まさに「工場そのもの」であり、楽器製作と云うよりも工業の現場であったことが思い出されます。

番組中頃で矢野さんがある演奏家の家を尋ねるシーンがありましたが、ドアを入ると家人が第二次大戦中に作られたという傷だらけのスタインウェイでシューベルトのソナタD.894の第一楽章を弾いていて、それに合わせて矢野さんがメロディーを歌うシーンがありましたが、そのなんとも言い難い美しさが最も印象に残っています。
続きを読む

レオニダス・カヴァコス

少し前の放送だったようですが、録画していたNHK音楽祭2012から、ヴァレリー・ゲルギエフ指揮マリインスキー管弦楽団の公演をようやく観てみました。

プログラムはメシアン:キリストの昇天、シベリウス:ヴァイオリン協奏曲(ヴァイオリン:レオニダス・カヴァコス)、プロコフィエフ:交響曲第5番変ロ長調。

中でも、初めて観るヴァイオリン独奏のレオニダス・カヴァコスは、こういってはなんですが、見るからに陰鬱な印象で、長身痩躯で黒のチャイナ服のみたいなものを着ており、むさ苦しい髭面に長い黒髪、黒縁のメガネといった、なんとも風変わりな様子で、ステージに現れたときはまったく期待感らしきものがおこらない人だと感じました。

ところが静かな冒頭から、ヴァイオリンの入りを聴いてしばらくすると、んん…これは!と思いました。
あきらかにこちらへ伝わってくる何かがあるのです。
今どきのありきたりな演奏者からはなかなか聴かれない、深いもの、奥行きのようなものがありました。

とりわけ耳を奪われたのは、肉感のある美しい音が間断なく流れだし、しかも聴く者の気持ちの中へと自然な力をもって染み入ってくるもので、まったく機械的でない、いかにも生身の人間によって紡がれるといった演奏は、密度ある音楽の息吹に満ちていました。
演奏姿勢は直立不動でほとんど変化らしいものがなく、いわゆる激しさとか生命の燃焼といった印象は受けませんが、それでいて彼の演奏は一瞬も聴く者の耳を離れることがなく、ゆるぎないテクニックに裏打ちされた、きわめて集中力の高いリリックなものであったのは思いがけないことでした。

カヴァコスという奏者がきわめて質の高い音楽を内包して、作品の演奏に誠実に挑んでいることを理解するのに大した時間はかかりませんでした。

実を云うと、マロニエ君はシベリウスのヴァイオリンコンチェルトは巷での評価のわりには、それこそ何十回聴いても、いまひとつピンと来るモノがなく、いまいち好きになれなかった曲のひとつでしたが、今回のカヴァコスの演奏によって、多少大げさに云うならば、はじめてこの曲の価値と魅力がわかったような気がしました。こういう体験はなによりも自分自身が嬉しいものです。

しかし、この作品は、少なくとも1、2楽章はコンチェルトと云うよりは、連綿たるソロヴァイオリンの独白をオーケストラ伴奏つきでやっているようなものだと改めて思いました。
もちろんこういう作品の在り方もユニークでおもしろいと思いますし、なんとなくスタイルとしてはサンサーンスの2番のピアノコンチェルトなんかを思い起こしてしまいました。

カヴァコスのみならず、ゲルギエフ指揮マリインスキー管弦楽団もマロニエ君の好きなタイプのオーケストラでした。というか、もともとマロニエ君はロシアのオーケストラは以前から嫌いではないのです。

小さな事に拘泥せず、厚みのある音で聴く者の心を大きく揺さぶるロシア的な演奏は、いかにも音楽を聴く喜びに身を委ねることができ、大船に乗って大海を進むような心地よさがあります。
そのぶんアンサンブルはそこそこで、ときどきあちこちずれたりすることもありますが、それもご愛敬で、音楽を奏する上で最も大切なものは何かという本質をしっかり見据えているところが共感できるのです。

驚いたことには、マリインスキー管弦楽団の分厚い響きはあのむやみに広いNHKホールでも十分にその魅力と迫力を発揮することができていたことで、これにくらべるとここをホームグラウンドとする最近のN響などは、とにかく音も音楽も痩せていて、ただただ緻密なアンサンブルのようなことにばかり終始しているように思われました。

ソロの演奏家も同様で、力のない細い音を出して、無意味にディテールにばかりにこだわって一貫性を犠牲にしてでも、評論家受けのする狭義での正しい演奏をするのが流行なのかと思います。
続きを読む

猫足

このところ、ちょっとしたきっかけがあって中古のアップライトピアノのことをネットであれこれ調べていると、やはりここにもいろいろな事実があるらしいことが少しずつ分かってきたように感じます。

当然ながら主流はヤマハとカワイで、比較的新しいピアノが中古市場に出回っているようですが、ひとつハッキリと発見したことは、少なくとも黒が限りなく当たり前のグランドに較べると、色物というか、いわゆる木目調ピアノの占める割合がアップライトのほうが遙かに高いようです。

サイズはいろいろありますが、アップライトの場合は床の専有面積はどれもほとんど変わりませんから、もっぱら背の高さの違いということになり、マロニエ君だったら当然響板も広く弦も長い最大サイズの131cmを選ぶでしょうが、なぜか小さいものが人気だったりと不思議な世界です。逆に言うと、アップライトで敢えて小さいサイズを購入される方というのは、どういう基準でそうなるのか知りたいところです。

そんな折、遠方からピアノのお好きな来客があったので、ある工房に遊びに行きましたが、そこのご主人の話はマロニエ君にとってはまったく思いもよらない意外なものでした。

とりあえずアップライトに限っての話ですが、いわゆる「猫足」という例のカーブのついた前足を持つピアノが断然人気があり、そのぶん値段も高くなるのだそうで、これにはもうただビックリ。
マロニエ君はあくまで個人的な好みとしてですが、あのアップライトの猫足というのはまったくなんとも思わないといいますか、まあもっとハッキリ言ってしまうとむしろ好きではないですし、そうでないストレートな足のほうが凛々しくスマートで好ましいと感じます。

とりわけ昔ヤマハにあったW102という、アメリカン・ウォルナット/ローズウッドの艶消し仕上げのモデルなどは、数少ないマロニエ君の好みのアップライトなんですが、ここのご主人にいわせると、このあたりも猫足でないために値段は少々安めとのことで、その価値観には驚愕するしかありませんでした。

唐突ですが、マロニエ君はマグロのトロなんかが大の苦手で、大トロなど見るのもイヤ、あんなギラギラした脂のかたまりみたいな身なんかだれが食べるものかというクチで、食べるのは赤身かせいぜい程良い中トロまでですが、世の中の好みと、それに沿った価格差はまるで合点がいかないことを思い出してしまいました。

猫足に話を戻しますが、あまり驚いたので人気の理由を聞くと、ひとこと「決めるのはたいてい奥さんだから」なんだそうです。…。
ということは、あの猫足は、よほど女性のお好みということなのかもしれませんが、女性にとって猫足のどこがそんなにいいのかマロニエ君はまったくわかりません。

それに対して、グランドの猫足は別物という気がします。
グランドの場合は、バレリーナのように、三本の足がそのままデザインの大きな要素を担っており、あの特徴的なボディのカーブとも相俟って、いわばピアノ全体の佇まいを決定します。猫足ピアノの多くは、それに合わせてそれ以外の部分も細やかな手が入れられ、ときに細工や彫り物まであって、たしかに独特の優雅さを醸し出しているので、これを好むのはわかります。

しかし、アップライトの場合、基本はほとんどデザインとも言えないような鈍重で無骨な四角い箱であり、そこへ鍵盤がせり出しているだけ。その鍵盤の両脇から下に伸びる小さな足だけがちょっと猫足になったからといって、それがなに?と思いますが、まあそれでも価値がある人にとってはあるのでしょうね。
しかも、それだけで中古価格まで違うのだそうで、ときに格下のピアノが猫足という理由だけでワンランク上のピアノの価格を飛び越すこともあるというのはまったく呆れる他はなく、それが世に言うお客様のニーズというものかとも思いました。

ニーズがあれば相場も上がるというのは世の常なのでしょうが、しかし…いやしくもピアノであり楽器であるわけですから、色やデザインも大事なのはもちろんわかりますが、やはり第一には音や楽器としての潜在力を優先して選びたいものです。
続きを読む

すぐれもの

日曜大工の大型店をうろうろしていると、思いがけないものが目に止まりました。

各種の磨き剤が集められた売り場では、普通の店には置いていないような各目的に応じたさまざまな専用品がズラリと並んでいますが、そんな中に『ピアノ 家具 木製品 手入れ剤』というのがあり、とくにピアノというひときわ文字がドカンと大きく描かれていて「ん?」と思わず手にとって見てみました。

「美しい艶を与え、汚れやキズから守る!」とあり、ピアノ専用品というわけではないらしく、用途は光沢塗装をした木製家具には広く使えるようなことが書いてあり、メーカーを見るとソフト99とありました。

ソフト99は各種のケミカルクリーニング剤を出している会社で、車のワックスやコーティング剤に興味を持った人なら、その名を知らない人はまずいないほどの名の通ったメーカーです。

歯磨きより少し小さいぐらいのチューブ入りで、価格も500円ぐらいだったので、これはおもしろそうだと思いましたし、なによりこんな偶然はただならぬことのようで、マロニエ君としては買わずに素通りするというような無粋な振る舞いはできないという、半ば義務感のようなものまで感じながら購入したのはいうまでもありません。

裏面の使用法を見ても、グランドピアノの鍵盤蓋のところを布で拭いているところを写した写真があったりと、やはりピアノ専用ではないにしても、メインはピアノ用のようで、その他の類似製品にも応用できるというもののようです。

柔らかい布でうすく塗りのばすと汚れが取れて艶が出るとあり、塗布後2〜3分後、よくからぶきして仕上げるように指示されています。さっそく指示通りに柔らかい布で塗りのばし、2〜3分後に拭き上げるとちょっとムラが出て仕上がりが思わしくありません。そこで、塗りのばして間を置かず、すぐに別の布(メリヤスシャツ)で拭き上げると、今度はものの見事にきれいになりました。

このように書かれた使用方法と実体の違いはよくあることで、マロニエ君は長年洗車に凝っていたのでこの手の応用は利くのですが、説明書にあるからといって「2〜3分後」にこだわっているときれいな仕上がりは望めないでしょう。

さて、仕上がりですが自然でやわらかな艶が出て、かなり好ましいものだと思いました。
だいたいこの手のつや出しは、艶がわざとらしくて下品になったり、塗りムラが出て施行が難しい場合も珍しくないのですが、この製品はその点ではなかなか上品な仕上がりで好感が持てました。
ちなみに製品名は「FURNITURE POLISH」ですが、ほとんど目立たないようにしか書かれていません。

主な成分はシリコンとワックスというごくオーソドックスなものですが、その配分がいいのか仕上がりはなかなかきれいです。マロニエ君は最近こそ使ったことはありませんが、昔はピアノメーカーが出しているピアノシリコンみたいなクリーニング剤を使っていましたけれども、これがもう、なかなか思ったようにならず、脂っぽいしへんなムラが出たりと却って嫌な気分になることが多かったために、その後はすっかり使わなくなり、車用のケミカル品を流用したりしていました。

マロニエ君の場合、この手の製品でポイントとなるのは、仕上がりの清楚な美しさと作業性の良さです。これですっかり印象を良くしたものだから、ヤマハなどのお手入れ剤も俄に試してみたくなりました。
が、いったんこの手のものを試し出すと、結局あるものすべてみたいな感じになる危険もあり、自分の性格が恐いので、よくよく考えた上でやってみるべきですね。
続きを読む

許光俊氏の著書

許光俊氏の著書『世界最高のピアニスト』(光文社新書)を読んでいると、あちこちにこの方なりのおもしろい考察があり、たちまち読み終えてしまいました。

各章ごとに、世界で現在トップクラスで活躍するピアニストたちが取り上げられているのですが、最後の2章は「中国のピアニスト」と「それ以外の名ピアニストたち」という括りになっています。

当然ながらこの方なりの感じ方や趣味があり、マロニエ君も全面賛成というわけではなかったものの、許氏の書いておられることは概ね納得のいくものでした。

中でもラン・ランの評価などは大いに膝を打つものばかりでした。

ラン・ランの場合に限らず確かなことは、真の意味で優れたピアニスト・音楽家であるということは、入場券の料金や満席具合とはまったく一致しないということ、さらにはこの点(チケットの売れるピアニスト)と芸術家としての実力との乖離は年々悪化傾向にあるとさえマロニエ君は思います。
興行主からみればコンサートはビジネスなので、チケットの捌けるタレントであることは最良で、だからラン・ランなどは世界中どこでも満席にできるタレントは、チケット売りで苦労の絶えない音楽事務所からすれば神様のような存在なんでしょうね。

日本人にもその手の、本来のピアニスト・芸術家としての力量とはちょっと違ったところで話題を掴んだ人が人々の関心を呼び、チケットはいつも法外なほど完売になるというような現象をこのところ目撃させられています。

また、チケット問題でなく、人気のユンディ・リもレイフ・オヴェ・アンスネスもきわめて低評価でまったく同感。

おかしくて思わず声を上げそうになったのはアルフレート・ブレンデルについてでした。
マロニエ君はこの人が功なり名遂げて、最高級の称賛を浴びるようになったときから一定の疑問を抱き、この人の弾き方のある部分のクセなどは嫌悪感すら感じていたひとりだったので、この稿はとくに快哉を叫びたいほどでした。
一部引用。
『この人には、美的感覚が決定的に欠けていると思う。ダサいリズム、スムーズでない抑揚、汚い響き、とにかく悲しくなるほど感覚的に恵まれていない人だと思う。〜略〜 知的ではあるが肝心な音楽的才能がなかったのが彼の決定的な弱点だった。また、それに気づかぬ人が多いのが、クラシック界の不幸だった。』

この部分を目にしただけでも、この本を買った価値があったと思いました。

しかし、問題はブレンデルどころではない、少なくともマロニエ君などにはおよそ理解不能なピアニストが世界的にもぞくぞくと出てくる最近の傾向には戸惑いを禁じ得ません。
例えばカティア・ブニアティシヴィリも最近出てきた人ですが、美人で指はよくまわる人のようですが、どう聴いていてなにも感じられない。本当にそこになにもないという印象。
パッと見はいかにも情熱的な音楽をやっているような雰囲気だけは出していますが、音は弱く、いかにも疲れないよう省エネ運転で弾いているだけという印象。主張も言葉もなければメリハリもない、マロニエ君に云わせればまるで音楽的だとは思われないのですが、昨年も来日してクレーメルらとチャイコフスキーの偉大なトリオをやっていましたが、あんな名曲をもってしてもまったく退屈の極みで、耐えられずにとうとう途中でやめました。

以前もラフマニノフの3番など、やたら大曲難曲を弾くだけはスルスルと弾くようですが、本当にそれだけ。なんだかピアノの世界もだんだんスポーツ化してきているんじゃないかと感じますね。
続きを読む

続・重めのタッチ

自宅のピアノのタッチが適度に重いというのは、とりわけピアニストには有効なのではないかとあらためて感じているところです。
ピアニストのピアノはアマチュアの愛好品とは違いますし、大抵は複数のピアノを所有していらっしゃる方が多いと思われますので、一台は専ら練習機としての位置付けであることも有効ではないかと思います。

そして練習用ピアノは日頃からやや重めにしておくほうが、現代のやたら弾きやすい軽めのピアノばかり弾いて、それが知らず知らずのうちに基準になってしまうのは何かと危険も増すような気がします。本番となれば楽器もかわり、柔軟な対応も迫られるわけですが、これが最終的には指の逞しさにもかなり依存する要素のようにも思うのです。

その点、少し重い鍵盤に慣れた指は、軽い鍵盤のピアノに接しても比較的楽に対応できますし、その余力でいろんなコントロールができるなど、結果的にある種の自信になったり、思いがけない表現やアイデアを試してみることさえできますが、逆の場合は大変です。
軽いタッチに甘やかされた指はいざというときなかなかいうことを聞かず、滞りなく弾き通すだけでも大変でしょうし、出てくる音は芯のない変化に乏しいものにしかなりません。

聞いた話ですが、ピアニストの中にはやたらと繊細ぶって、ほんの少しでも重めのタッチのピアノを弾くと「こんなピアノでは、ぼくは、手を壊してしまいそうだ…」などと大仰に云われる方もおられて楽器店の人を慌てさせたりするんだそうですが、いやしくもプロのピアニストで、その程度のことで手を壊すなんて、一体なにが云いたいのかと思います。
グレン・グールドが云うのならわかりますけど。

ピアニストという職業は、一般にどれぐらい認識されているかどうかはわかりませんが、端から見るより極めて苛酷な、心身をすり減らす重労働であり、これに要するストレスは並大抵ではないと思います。
基本的な体力や精神の問題、繊細かつタフな指先の運動能力、暗譜や解釈はもちろん、最終的にどういう表現をしてお客さんに聴いてもらうかという最も大切な課題など、書き始めたらキリがない。

少なくとも人間の能力の極限部分をほとんど削るようにしておこなうパフォーマンスであることは間違いないと思われます。そんな極限の場において、最終的に頼れるものは才能と練習しかないわけでしょう。

そういうときに、会場のピアノが弾きにくいなどの問題があるとしたら大問題ですが、ピアニストの辛いところはここで文句がいえないばかりか、お客さんにはいっさいの弁解無しに結果だけをキッパリ聴かせなくてはなりません。
そんなとき、ただ楽な軽いタッチのピアノでばかり練習していた指が頼りになるかといえば、マロニエ君はとてもそうは思えません。

また、こういうことを言うとすぐに誤解をする人が出てきます。
日頃から重いピアノでばかり弾いていれと、筋力的には逞しくなっても、繊細な表現ができなくなるとか、叩くクセがつくというものですが、それはとんでもない間違いだと思います。音楽に限りませんが、チマチマした小さいことばかりすることがデリケートなのではなく、必要とあらばどうにでも対応できる本物の力量と幅広さを持つことでこそ、真に自在な、活き活きとした、時に人の心を鷲づかみにするような演奏ができるのだと思います。

リヒテルやアルゲリッチは基本的に美音で聴かせるタイプのピアニストではありませんが、彼らがしばしば聴かせる弱音の妙技は人間業を超えたものがあり、それはあの強靱この上ない指の中から作り出されているものだと云うことは忘れるべきではないでしょう。

マロニエ君のような下手クソの経験では説得力もありませんが、タッチを重くしたピアノを半年弾いた後のほうが、自分なりによりレンジの広い雄弁な演奏をするようになったと(自分だけは)思いますし、繊細さの領域に限ってももっと気持ちを注ぐようになりました。
これは間違いありません。
続きを読む

ヤマハの衝撃

日曜はヤマハの営業の方からのお招きで、新しいグランドのレギュラーシリーズであるCXシリーズのサロンコンサートがあるというので、これに行ってきました。
お馴染みのヤマハビルの地下のeサロンのステージ上には、いつものCFIIIにかわって、新型のC7Xが置かれていました。

ニューモデルの解説などがあるのかと思いきや、そういうものはなく、女性の方の簡単なご挨拶の後、宮本いずみさんという女性ピアニストが登場され、モーツァルト、ベートーヴェン、ドビュッシー、ショパンの名曲を弾かれました。

なんでも、この方はこちらの地元の方ではないようで、通常の演奏のほかに浜松で開発中のピアノの試奏も仕事としてやっておられる由で、演奏の合間にときおり挟み込まれる短いトークの中で、「このピアノには私の声も入っています」というようなことを言われていました。

このピアノの楽器としての感想/とりわけピアニストの演奏に関しては、マロニエ君はよく理解できないものでありましたので、今回は敢えてコメントは控えます。
ただ、コンサートのあとでピアノの中を少し覗いてみると、フレームをはじめ、内部の作りの巧緻な美しさにはいよいよ磨きがかかっていることは間違いなく、いかにも「日本の工業製品の作りの美しさ」という点では見るに値する出来映えだと思います。
良くも悪くも、昔の手作りピアノとは異次元の、高精度の極みのような作りは目にも眩しいばかりで、日本の技術力を見せつけられているようでした。


それよりも、終演後、営業の方から耳にした話は驚天動地な内容でした。
一階のショールームに立ち寄ってカタログなどをいただいていたときのこと、その営業の方は「ここも3月いっぱいです…」といわれ、マロニエ君は咄嗟にその意味が呑み込めませんでした。
ここはヤマハのビルで、博多駅前の一等地にあり、福岡のみならず西日本地区のヤマハピアノの一大拠点として長年親しまれた場所です。

問い返しなどをしながら、このショールームが3月いっぱいで終わりを迎えるということはひとまずわかったものの、てっきりどこかへ移転でもするのだろうかと思っていたら、そうではなく、ビル自体が売却され、代替のショールームを作る計画もないとのこと。
そのぶん教室などを、より充実させるなどの方策はとられるとのことですが、この駅前のヤマハのプライドともいうべき美しいショールームは、消えて無くなるということがようやくにしてわかり、大きなショックを受けました。

このショールームはとりわけグランドはいつ何時でも、ほぼカタログにあるフルラインナップに近いピアノがズラリと並び、九州におけるヤマハの大看板的スペースでした。
さらに地下にはこの日もおこなわれたように、コンサートや各種講演会など、音楽に関する使い勝手のよいイベント会場としても稀少かつありがたい存在でしたから、福岡およびその近郊の人達は、一気にこれらの場所までも失ってしまうことになるわけです。

今後は天神にあるヤマハが、ピアノでも中心的なショップになるようですが、なんとも残念としか言葉が見つかりません。
先の選挙では、自民党が大勝し、アベノミクスなどという言葉も飛び交うようになり、せっかくこれから好景気の兆しも見えてきたというのに、このヤマハの決断はあまりにも辛すぎるものです。
続きを読む

重めのタッチで半年

先日は、今年始めて調律師さんがタッチの件で来宅されました。
といっても、あまり具体的なことはブログには書かないようにと釘を差されていますから、こまかいことは控えます。

この調律師さん、マロニエ君の部屋の『実験室』にも書いたように、我が家のカワイのグランドを実験室ととらえて、マロニエ君の出す無理難題をなんとか克服すべく、まったく画期的な方法を考え出してくださるありがたい方です。

繰り返しになりますが、ハンマーヘッドのフェルトの下の木部前後に小さな鉛のおもりを両面テープで貼り付けるというもので、タッチが慢性的に軽すぎた我が家のカワイの場合は1鍵あたり約1gのおもり追加をしたわけです。
この部分の重さの増減は、鍵盤側ではなんと5倍に相当するわけで、ハンマー側で1g重くなれば、仮にキーのダウンウェイトが46gのピアノであれば51gへと一気に増加するというものです。

この結果、タッチが重くなったことは当然としても、副産物として音色までかなり変わり、好き嫌いはあるだろうと思いますが、音にエネルギー感が増して非常に迫力のあるものになりました。単純に言うと張りのあるガッツのある音になったわけで、長年ヤワな、か弱い音色だったピアノが、一気にベートーヴェンまでを表現できそうな迫力を備えることになったことは大いなる驚きでした。

いま流行のブリリアントでキラキラ系の音が好きな人には好まれないかもしれませんが、昔のドイツ系ピアノのような(といえば言い過ぎですが)、はるかにガッチリとした、良い意味での男性的な音が出てきます。

それはいいとしても、さすがに一夜にしてタッチが5g重くなるということは、なまりきっていたマロニエ君の指にとってはほとんどイジメに等しく、まさに鉄のゲタ状態であることは以前も書いた通りでした。
とくに初めの2〜3日はハッキリ失敗だったと思うほど、弾く気になれない(というか弾けない)ピアノになってしまっていましたが、この施行をしたピアノ技術者さんのすごいところは、そういう場合の対処の事も十分考慮しての方策であることです。

というのは、鉛は小さく、ハンマーヘッドのフェルトすぐ下の木部の前後に強力両面テープで貼っているだけなので、元に戻したいときには、これを剥がし取るだけで特殊技術も何もないのです。素人でもすぐにそれができるということで、つまりピアノを一切痛めないというところが最も画期的な点(なんだそうです)。

人間とは不思議なもので、「いつでもすぐに元に戻せる」ということがわかると妙に安心して、もう一日もう一日とその鉄のゲタ状態で我慢して弾いていたのですが、ひと月も過ぎた頃からでしたでしょうか、あまりそういった苦しさを感じなくなり、指への抵抗感はさらに減少を続け、その後はまったくこれが普通になってしまいました。
あまりに「普通」になったので、まさか両面テープが剥がれて鉛が下に落ちたのではないかと思うほどまで自分にとって自然なものになったのはまったく驚くべき事で、「人間ってすごいなあ」というわけです。

この日、約半年以上ぶりにアクションが引き出されると、果たして件の鉛はひとつとして脱落することなく、きれいに健気にくっついていました。
善意に捉えると、それだけマロニエ君のようなしょうもない指でも、毎日の積み重ねによって間違いなく鍛えられ逞しくなるというわけです。
逆に、ピアノのタッチは軽い方が弾きやすいなんて目先のことばかりいっていると、しまいにはそのピアノしか弾けなくなるのみならず、ショボショボした芯のない打鍵しかできなくなるのは間違いないと思われます。

電子ピアノだけで練習している人の演奏で感じることは、とても努力はしていらっしゃるとは思うのですが、やはり深みとか表現の幅がとても小さいということです。これはご本人が悪いのではなく、道具の性能がそこまでのものでしかないから当然のことで、本物のピアノに移行した人でも、なかなかこの染みついたクセは直りにくいようです。それを考えると、とくに白紙から体が覚える子供にはぜひとも本物を弾かせたいもので、「まだ子供だから電子ピアノでも…」という発想はまったくわかっちゃいないと思います。
続きを読む

らららのピアノ特集

先日のNHK日曜夜の「らららクラシック」ではピアノ特集第2弾というのをやっていました。

番組では、現役のピアニストをいくつかのグループに分け、それぞれの特徴に合わせながら紹介していくという趣向でしたが、トップバッターは「圧倒的技巧グループ」というもので、演奏技術の極限に挑み続けるピアニストだそうで、ここで紹介されたのはロシアの格闘技選手みたいなピアニスト、デニス・マツーエフと、もうひとりはなんとピエール・ロラン・エマールということで、いきなりこの「なぜ?」な取り合わせに絶句してしました。

エマールはむろん大変な技巧の持ち主であることに異論はありませんが、かといって圧倒的技巧が看板のピアニストだなんてマロニエ君は一度も思ったことはありません。出だしからして番組に対する信頼を一気に失いました。

次は「知的洞察グループ」で、楽譜の研究を徹底的におこない、定番の作品にも新たな光りを当て観客にも発見の喜びをもたらすということで、ここではアンドラーシュ・シフひとりが紹介されていました。
この人選はなるほど間違いではなく、少し前ならブレンデルなどもこの範疇に入るピアニストであったことは間違いないでしょうね。むしろエマールはこちらに分類すべきだったとも思いますし、内田光子やピリスもそのタイプでしょう。

さらに次は「独走的独創グループ」で、伝統にとらわれず独自の音楽を作り上げ、観客に未知の世界を体験させるということでは、なんとラン・ランとファジル・サイが紹介されました。
サイには確かにこの括りは適切で大いに納得できますが、ラン・ランとは一体どういう判断なのかまったくわかりませんでした。彼の音楽に独自性なんてものがいささかなりともあるなどとは思えませんし、雑伎団的な目先の演奏で人を惹きつける点などは、せいぜい技巧グループで十分でしょう。また現存するこの分野の最高峰といえばマルタ・アルゲリッチの筈ですが、彼女の名前すら挙がらなかったのは到底納得できませんでした。ソロをなかなか弾かないというハンディはありますけれども。

次は「コンクールの覇者」ということで、ショパン・コンクールの優勝者であるユリアンナ・アヴデーエワとチャイコフスキーの覇者であるダニール・トリフォノフが紹介されました。
アヴデーエワの弾く、リスト編曲によるタンホイザー序曲は何度聴いても実に見事なものでしたが、トリフォノフには演奏家としてのなんら指針が見受けられず、このときの映像でのこうもり序曲は、ただの指の早回し競争みたいでテレビゲーム大会に興じる子供のようで、マロニエ君にはまったく感銘を受ける要因が皆無でした。

ちなみに、ファイジル・サイは数年前の来日時にNHKのスタジオで収録されたムソルグスキーの展覧会の絵の終曲が紹介されましたが、逞しい体格と、余裕にあふれたテクニック、すさまじいエネルギー、確信的な音楽へのアプローチなどは他を寄せ付けぬ圧倒的なモノがあり、この強烈さは、ふと在りし日のフリードリヒ・グルダを彷彿とさせるような何かを感じたのはマロニエ君だけでしょうか。
彼はNHKのスタジオにはたくさんあるはずのスタインウェイの中から、おそらくはディテールなどから察するに1970年代のDを弾いていましたが、現代のそれに較べると、明らかにイージーな楽器ではない厳しさと暗めの輝きがあり、こういう力量のあるピアニストはこういう楽器を好むのだろうという気がしました。

最後は昨年のポリーニの来日公演から、ベートーヴェンのop.110が全曲流れましたが、これについてはすでに何度も書いていますので割愛します。
また、メインゲストであった中村紘子さんのトークもあいかわらず健在で、番組冒頭で「これまでに何人ぐらいのピアニストを聴かれましたか?」という司会者の質問に「そうですね、数えたことがないんですが、1万までは行かないと思いますが…」すると司会者が「7、8000人は優に超える」「そうですね」という珍妙なやりとりがあり、なーんだ、ちゃんと数えてるじゃん!と思いました。

この日は、不思議なほど登場するピアニストに女性や日本人の名前が挙がらなかったのは、何かが影響したからだろうかと感じた人は多かったか少なかったか…どうでしょう。
続きを読む

丘の上のバッハ

福岡市のやや南にある小さなホールで現在進行中のシリーズ、バッハのクラヴィーア作品全曲演奏会第2回に行ってきました。

会場はもはやお馴染みの感がある日時計の丘ホールで、ここには1910年製の御歳103歳のブリュートナーが常備されていることは折に触れ述べてきた通り。バッハといえばライプチヒで、そのライプチヒで製造されるブリュートナーでバッハを奏するということには、明瞭かつ格別な意味があるようです。

演奏者はこのシリーズをたったお一人で果敢に挑戦しておられる管谷怜子さんで、この日は平均律第一巻の後半、すなわち第13番から第24番が披露されました。

いつもながら安定感のある達者な演奏で、癖がなくのびやかに音楽が展開していくところは、管谷さんの演奏に接するたびに感じるところです。いかにも朗々とした美しい書体のようなピアノで、それはこの方の生来の美点だろうと思われ、非常に素晴らしいピアニストだと思います。欲を出すなら、バッハにはさらに確信に満ちたリズムと音運びがより前面に出てきてほしいところで、ややふわりとした腰高な印象があったとも思いますが、もちろん全体はたいへん見事なものでした。

それにしても、バッハの平均律を通して弾くということがいかに大変なことかという事をまざまざと見せつけられたようでした。そもそもピアノのソロが息つく暇もない一人舞台というところへもってきて、バッハのみのプログラムというのはさらにその厳しさが狭いところへ、より押し詰められているような気がします。

通常CDなどでは平均律クラヴィーア曲集はほぼ例外なく第一巻、第二巻ともに各二枚組(合計四枚)の構成となっており、ちょうどCD一枚ずつに振り分けたコンサートとなっていますが、いかに耳慣れた曲でも、コンサートで通して弾くチャンスというのはそうざらにあるものではなく、実際よりも体感時間が長く感じられたようで、本当にお疲れ様でしたという気になりました。

マロニエ君は幸運にも最前列の席で聞くことができましたが、ここのブリュートナーは聴くたびにその音色には少しずつ変化があるようで、この日はいかにもブリュートナーらしい、ふくよかさの中に細いけれども艶というか芯が入った音で、ときにモダンピアノであり、ときにフォルテピアノにもなる変わり身のあるところが、バッハという偉大な作品を奏でられることで楽器も最良の面を見せているようでした。

コンサートは17時開演。演奏が始まったときにはピアノの上部にある大きな正方形に近い採光窓から見る空は淡い灰色をしていましたが、休憩後の第19番がはじまるころには美しいコバルトブルーになり、その後演奏が進むにつれて濃紺へと深さを増していくのはなんともいえない趣がありました。
最後のロ短調の長いフーガが弾かれているころには、ピアノの大屋根とほとんどかわらないまでの漆黒へと変化していったのは驚きに値する効果がありました。
この空の色の変化を音楽の進行と共に刻々と味わい楽しむことができたのは、まったく思いがけない自然の演出のようで、受ける感銘が増したのはいうまでもありません。

この日は演奏者の管谷さんはじめ、ホールのご夫妻、ヤマハの営業の方や知人、以前在籍していたピアノクラブのリーダーとも久しぶりに会うことができ、しばし雑談などをすることができました。

日時計の丘は、ここ数年で広く認知され、福岡の小規模な音楽サロンとしては随一の存在になっていると思われますが、素晴らしい絵画コレクションにかこまれた瀟洒な空間は趣味も良く、音響も望ましいもので、至極当然なのかもしれません。
続きを読む

アリス・紗良・オット

昨年のNHK音楽祭の様子が放送されていますが、13日は巨匠ロリン・マゼールの登場でした。
プログラムはベートーヴェンのレオノーレ第3番とグリーグのピアノ協奏曲、チャイコフスキーの第4交響曲というもので、ピアノは現在人気(らしい)アリス・紗良・オットでした。

マゼールはむかしマロニエ君の好きな指揮者の一人でしたが、さすがにずいぶんお年を召したようで、それに伴ってか、音楽にやや張りがなくなり(N響というこもあってか…)、テンポも全体的にゆったりしたものになっているようでした。

きっと開催者はじゅうぶんわかっているはずなのに、あえて音響の悪い巨大なNHKホールをこうしたイベントに使うのは、やはりそのキャパシティからくる収入面としか考えられませんが、あいかわらず音が散って散々でした。あそこは本来「紅白歌合戦専用ホール」というか、少なくともクラシックに使うのは本当に止めて欲しいものです。

アリス・紗良・オットはどちらかというとビジュアル系で売っているピアニストというイメージでしたが、トレードマークの長い黒髪をバッサリ半分ぐらいに切っており、なんとなく別人のようでした。
たしかに可愛いといえばそうなのかもしれませんが、いわゆるアーティストとしてのオーラのようなものは微塵もなく、とくに髪を切った姿はどちらかというとそのへんのおねえちゃんというか、せいぜい朝の連続ドラマの主人公ぐらいな印象しかマロニエ君にはありません。

それに、どうでもいいようなことですが、左右両方の指には無骨な指輪を1つずつ嵌めており、マロニエ君はピアニストでオシャレ目的のリングを付けるようなセンスはあまり好きではありません。
どうでもいいようなことついでにもうひとつつけ加えると、この日のオットはブルーのロングドレスの下から出た足はなんと裸足!だったということで、こちらはなんとなくその理由がわかる気がしました。革靴は微妙なペダル操作がラフになるのみならず、下手をするとズルッと滑ってしまうことがあるので、裸足ぐらい確かなものはないでしょう。

この日はNHK音楽祭ということで、ステージの縁は全幅にわたって花々が飾られていましたから、足の部分はそれに隠れて生では気が付かない人も多かったことと思いますが、カーテンコールの時にはわざわざカメラが裸足部分をアップしているぐらいでしたから、よほど異例のことだったのかも。
それにしても、足が裸足なのに指には左右リングというのもよくわかりません。

オットはそのスレンダーな体型に似合わず、手首から先はまるで男性のように大きく骨太な手をしています。メカニックもそれなりに確かなものをもっているようで、いわゆる技巧派的要素も備えているという位置付けなのかもしれませんが、残念なことにその演奏にはなんの主張も考察も情感も感じられず、ただ学生のように練習して暗譜して弾いているという印象しかありませんでした。

お顔に不釣り合いなガッシリした長い指には、指運動としての逞しさはありますが、肝心の演奏は彼女の体型のように痩せていて潤いがなく、音にも肉付きがまったくないと感じました。
オットには男性ファンが多いようですから、こんなことを書くと怒られるかもしれませんが、でも彼女は芸能人ではなくピアニストなのですから、そこは彼女の奏でる音楽を中心に見るべきだと思うのです。

これから先のピアニストが、可愛いアイドル的な顔をしながら難曲をつぎつぎに弾ければいいというのであればこのままでもいいのかもしれませんが、やはり最終的には演奏によって聴衆を納得させないことには長続きはしないだろうと思いましたし、またそうでなくてはならないとマロニエ君は強く思うわけです。

非常に残念だと思ったのは、第1楽章では硬さがあったものの次第に調子を上げてきたにもかかわらず、終楽章では老いたマゼールのちょっとやりすぎな大仰なテンポに足を取られて、ふたたびそのノリが失われてしまったことでした。
もしかしたらいいものを持っている人かもしれないので、もっともっと精進して欲しいものだと思いました。
続きを読む

ジョン・リル

過日、NHKのクラシック倶楽部でジョン・リルの昨年の日本公演の様子が放送されました。

この人はベートーヴェンを得意とするイギリスの中堅どころだと思われますし、我が家のCD棚にも彼の演奏によるベートーヴェンのピアノソナタ全集がたしか一組あったはずです。

もう長いこと聴いていませんでしたし、これまでにもとくにどうという印象もなく、たしか格安だったことが理由でその全集を買ったような記憶があるくらいで、今後もおそらく積極的に聴くことはないでしょう。

ステージにあらわれたリルはもうすっかりおじいさんになっていましたが、イギリス人演奏家らしい良くも悪くも節度があり、際立った個性も強い魅力もない、まさに普通のピアニストだと思われ、それ故に彼の演奏の特色などはまったく記憶にありませんでした。そんなリルの演奏の様子を見てみて、やはりその印象の通りで人は変わらないなあ…というのが率直なところでした。

お定まりに、この日は最後の三つのソナタを演奏したようですが、テレビでは放送時間の関係でop.109とop.111の2曲だけが紹介されました。

決定的に何か問題があるわけではないけれども、とくにプラスに評価すべきものもマロニエ君にはまったく見あたりませんでした。技術的にも見るべきものはなく、CDを出したりツアーに出かけたりするギリギリのランクといったところでしょうか。

まず最も気になったのが、キャリアのわりに解釈の底が浅く、まるで表現に奥行きというものが感じられませんでした。これはとりわけベートーヴェン弾きとしてはなんとしても気になる点です。
さらには音の色数が少なく、表現にも陰翳が乏しくて、ただ音の大小とテンポの緩急だけで成り立っている音楽で、作品に横たわる精神性に触れて聴く者が心を打たれ、高揚するというようなことがほとんどありませんでした。

ただ、二曲とも、なにしろ曲があまりに偉大ですから、どんな弾き方であれ、一通りその音並びを聴くだけでもある一定の感銘というものはないわけではありませんが、しかしそこにはより理想的な演奏を常に頭の中で鳴らしている自分が確実にいるわけで、この演奏ひとつに委ねてその世界に浸り込むということは到底できないと思われました。

こう云っては申し訳ないけれども、とくに最後のソナタop.111では、どこか素人が弾いているような見通しの甘さがあって、この点は大いに残念でした。この曲はマロニエ君の私見では第2楽章がメインであって、第1楽章はそれを導入するための激しい動機のようなものに過ぎないと思っています。

第1楽章の最後の音の響きが途切れぬまま、かすかに残響している中に第2楽章のハ長調の和音が鳴らされたときには「なるほど、こういう解釈もあるのか」と一瞬感心されられましたが、その第2楽章の主題があまりにテンポが遅く、間延びがして、この静謐な美を堪能することができませんでした。
とくにこの楽章の冒頭ではリピートを繰り返しながら少しずつ先に進みますが、そのリピートが煩わしくて「ああ、また繰り返しか…」とダルい気がするのは演奏に問題があるのだと言わざるを得ません。

この主題は大切だからといってあまりに表情を付けたりまわりくどいテンポで弾くと、却ってそこに在るべき品格と荘重さが失われてしまうので、これはよほど心して清新な気持ちで取り扱うべき部分だと思いました。

「二軍」というのは野球の用語かもしれませんが、どんな世界にもこの二軍というのはあるのであって、ジョン・リルの演奏を聴いていると、まさにピアニストにおける生涯二軍選手という感じがつきまといました。
続きを読む

調律師さんの共通点

これまで出逢ってきた調律師(本来はピアノテクニシャンというべきですが)の方々は、年齢も性格も出身も活動地も各々違うのに、その職業がそうさせるのか、彼らにはどこか共通した特徴のようなものがあるようです。

調律師さんというのは、ごく一部の例外を除くと、おおむねとても控え目で、どちらかというとちょっと地味な感じの雰囲気の方が平均的だと思います。さらに腰も低いなら言葉もかなり丁寧で、その点じゃちょっとやり過ぎなぐらいに感じることも少なくありません。

マロニエ君に言わせると、ピアノの調律師というのは技術者としても専門性の高い高度な職人なのだから、そこまでする必要があるのかと思わせられるほど低姿勢に徹して用心深い人が多い気がしますが、そこにもそうなって行った必然性のようなものはあるのだろうと察しています。

ところが、この調律師さん達の多くは初めの印象とは裏腹に、お会いして少し時間が経過して空気が和んでくると、大半の方はかなりの話し好きという、そのギャップにはいつもながら驚かされてしまいます。
専門的な説明に端を発して、その後は仕事には関係ないような四方山話にまで際限なく話題が発展するのは調律師さんの場合は決して珍しくはありません。

マロニエ君などは調律師さんと話をするのはとても好きですし楽しいので一向に構いませんし、加えてこんな雑談の中から勉強させてもらったことも少なくないので個人的には歓迎なのですが、だれもかもがそうだとは限らないかもしれません。
もちろんだから相手によりけりだとは思いますが。

職業人として気の毒だと感じる点は、非常に高度な仕事をされている、あるいはしなくてはならないにもかかわらず、それを正しく理解し評価する側の水準がかなり低いということです。
人間は自分の能力が正しく評価され理解されたいという願望は誰しももっているもので、これはまったく正当な欲求だと思います。

ところが、どんなに込み入った高等技術を駆使しても、そこそこにお茶を濁したような仕事をしても、多くの場合、どう良くなったのかもよくわからないまま、ただ形式的に調律をしてもらったこと以外に評価らしいものもされずに、規定の料金をもらって帰るだけという寂寥感に苛まれることも多いだろうと思います。

調律師さんが普通とちょっと違うのは、どんなに低姿勢でソフトに振る舞っても元は職人だからということなのかもしれませんが、それだけ話し好きというわりには、いわゆる基本的に社交性というものが欠落していて、どちらかというと人付き合いも苦手という印象を受けることが多いような気がします。
あれだけみなさん話し好きなのに社交性がないという点が、いかにも不思議です。

もうひとつはその盛んな話っぷりとは裏腹に、メールの返信などは直接会ったときとはまるで別人のように素っ気なく、メールでも返ってくるのはほとんどツイッター並みの最小限の文章だったりするのは甚だ不思議です。もちろんそうでない人もいらっしゃいますけどかなり少数派です。

そこにはやはり調律師という職業柄、知らず知らずに身に付いた特徴のようなものがあるのでしょうね。というか、逆に考えれば、調律を依頼するお客さんのほうの性質もあるから彼等をそんなふうにさせてしまっているのかもしれません。
続きを読む

追記の追記で最後

ポリーニの日本公演の様子を見てみて、今回あらためて思ったことは、彼は実はとても音量の大きなピアニストだという事でした。これはよく考えてみると新発見に近いものだったと思います。

同じボリュームでも、ポリーニの演奏になると音の鳴るパワーが全体に違うことがわかりました。
ポリーニは甘くやわらかな音のピアノに向かって、全体に均等に分厚い音を朗々と鳴らしますが、そのタッチ特性からくる発音に一定の品位がある上に、楽器にもうるさい彼はメタリックな音のするピアノを好みませんから、それらが合体して粗さのない、非常に充実したオーケストラ的な響きになるのだろうと思います。

若い頃のポリーニのリサイタルには何度も足を運びましたが、とにかくその圧倒的英雄的演奏に打ちのめされて、毎回上気した気分と深いため息を漏らしながら帰途についたものです。たった一台のピアノから、あれほど充実した響きと演奏を聴かされて、まるで何らかの記録樹立者が汗まみれになって目の前にいて、それを見守り熱狂する我々観衆というような感動と興奮を味わえることこそ、ポリーニの生演奏の特色であり最高の魅力でした。

それは煎じ詰めれば、彼のピアノ演奏が際立ったものであるのは当然としても、聴衆を圧倒する要素のひとつにあの音量があったとは気が付きませんでした。おそらく、通常の人なら音量が大きい場合に不可避的につきまとう音の割れや粗さが彼の音には微塵もないために、ただ演奏が筋肉的にしなやかで、ずば抜けたテクニックと迫真性ばかりに浸っていたように思います。

ポリーニは20世紀後半を代表する最高級のピアニストのひとりであったことは云うまでもありませんが、強いて不満を云うならば、彼の演奏には歌の要素やポリフォニックな要素が稀薄だというところでしょう。むしろピアノ全体を均等に充実感をもって鳴らし切ることと、正当で流麗な解釈、それを構造学的な美学志向で積み上げていくタイプのピアニストでした。

この点でもうひとつ気付いたのは、ある程度歳を取ってからのポリーニの指先です。関節が非常に固く、おまけに爪がおそろしいまでに上に反っています。
このジャンルの草分け的存在であり大御所でもある、御木本澄子さんの説によれば、芯のある強靱な音を楽に出せるピアニストの指に必要なものは固く固まった第一&第二関節なのだそうで、ケザ・アンダの指などはほとんどこの部分の関節は動かないまでに固まっているのだそうです。

ポリーニのあの独特なやわらかさを兼ね備えた甘くて強靱な美音は、まずはこの固い関節がタッチの土台を支えているからこそだと思いました。
また一般論として、肉付きと潤いのある美しい音色を出そうとすると、上からキーを高速で叩きつけるのではなく、ほとんどキーに接地している指を加速度的に静かに力強く押し下げていくしかないと思いますが、ポリーニの美音と迫力あるボリュームの両立は、彼がその奏法を用いながら、さらに類い希な指(特に指先)の強靱な力の賜物だと思われます。

この奏法であれだけの大音量を出すという演奏形態を長年続けてきたために、彼の指先はあのように上に反り上がってしまったものだろうと思いました。


気が付けばこれが今年最後のブログになってしまったようで、あわてて年内にアップします。
お付き合いいただいた皆様、ありがとうございました。
来年もよろしくお願い致します。
続きを読む

ポリーニ追記

今回のポリーニの来日公演、実際は知りませんが、少なくともテレビ放送ではベートーヴェンの5つのソナタが演奏され、出来映えは大同小異という印象でしたが、強いて云うなら27番がよかったとマロニエ君には思われ、逆にテレーゼ(24番)などは、どこか未消化で雑な感じがしました。

それに対して最後の三つのソナタ(30番、31番、32番)は、個人的に満足は得られないものの、ともかくよく弾き込んできた曲のようではあり、身体が曲を運動として覚えているという印象でした。
しかし、残念なことにこの神聖とも呼びたい、孤高の三曲を、いかにもあっけらかんと、しかもとても速いスピードでせわしなく弾き飛ばすというのは、まったく理解の及ぶところではありませんでした。

中期までのソナタなら、場合によってはあるいはこういうアプローチもあるかもしれませんが、深淵の極みでもある後期の三曲、それも今や巨匠というべき大ベテランが聴衆とテレビカメラに向かって聴かせる演奏としては残るものは失意のみで、甚だしい疑問を感じたというのが偽らざるところでした。

リズムには安定感がなく、音楽的な意味や表現とは無関係の部分でむやみにテンポが崩れるのは、聴く側にしてみるとどうにも不安で落ち着きのない演奏にしか聞こえません。まるでさっさと演奏を済ませて早くホテルに帰りたくて、急いで済ませようとしているかのようでした。
何をそんなに焦っているのか、何をそんなに落ち着きがないのか、最後の最後までわかりませんでした。
次のフレーズへの変わり目などはとくにつんのめるようで、前のフレーズの終わりの部分がいつもぞんざいになってしまうのは、いかにも演奏クオリティが低くなり残念です。

とりわけ後期のソナタになによりも不可欠な精神性、もっというなら音による形而上的な世界とはまるで無縁で、ただピアニスティックに豪華絢爛に弾いているだけ(それもかなり荒っぽく、昔より腕が落ちただけ)という印象しか残りません。

それでも、日本人は昔からポリーニが好きで、こんな演奏でも拍手喝采!スタンディングオーべーションになるのですから、演奏そのものの質というよりは、今、目の前で、生のポリーニ様が演奏していて、その場に高額なチケット代を支払って自分も立ち会っているという状況そのものを楽しんでいるのかもしれません。
もはやポリーニ自身が日本ではブランド化しているみたいでした。

ピアノはいつものようにファブリーニのスタインウェイを持ち込んでいましたが、24番27番では、これまでのポリーニではまず聴いたことのないようなぎらついた俗っぽい音で、これはどうした訳かと首を捻りました。ポリーニの音はポリーニの演奏によって作られている面も大きいのだろうと思っていただけに、このピアノのおよそ上品とは言い難い音には、さすがのポリーニの演奏をもってしても覆い隠すことができないらしく意外でした。

日が変わって、最後の三つのソナタのときは、それよりもはるかにまともな角の取れた音になっていて、音色という点ではポリーニのそれになっていたように思います。
続きを読む

ポリーニ来日公演

今秋サントリーホールで行われたマウリツィオ・ポリーニ日本公演~ポリーニ・パースペクティブ2012の様子がBSプレミアムで4時間にわたって放映されました。

マンゾーニの「イル・ルモーレ・デル・テンポ(時のざわめき)~ビオラ、クラリネット、打楽器、ソプラノ、ピアノのための~」からはじまり、ところどころにポリーニがソロで出てくるというものでした。

この一連のコンサートは、そこに一貫した主題を与えるのが好きなポリーニらしく、ベートーヴェンの存命中のコンサートでは常に新しい音楽が演奏されていたという点に着目して、ベートーヴェンのソナタと現代音楽を組み合わせながら進行するという主旨のプログラム構成でした。

今回はポリーニの息子のダニエーレ・ポリーニ氏も来日し、父のインタビューの傍らに座ってときどき似たようなことを話していたほか、ステージではシャリーノの謝肉祭から3曲を日本初演する機会を得ていたようです。

ポリーニは現代音楽ではシュトックハウゼンのピアノ曲を2曲を弾いたのみで、それ以外はベートーヴェンの5つのソナタ、第24番、第27番、そして最後の三つのピアノソナタを演奏しました。

さて、このときのポリーニのことを書くのはずいぶん悩みました。
それはさしものポリーニ様をもってしても、そこで聞こえてきたものは、どう善意に解釈しようにも、もはや良い演奏とは思えなかったからなのです。しかし、彼を批判することはピアニストの世界では、なんだか神を批判するような印象があるから、やはり躊躇してしまいます。

しかしプロの世界、それも世界最高級のレヴェルの芸術家なのですから、やはり彼らは自分の作品(演奏家の場合は演奏)に厳しい批判を受けることも、その地位に科せられた責務だと思いますので、あえて控え目に書かせてもらおうという結論に達しました。

ポリーニの肉体の衰えはかなり前から感じていましたが、それはいかに天才とはいえ生身の人間である以上、だれでも歳を取り老いていくのですからやむを得ないことです。ただ、最高級の芸術家たるものは肉体の衰えと引き換えに、内的な深まりや人生経験の少ない若者には到底真似のできないような奥深い世界への踏み込みや高みへの到達など、ベテランならではの境地を期待するものですが、少なくともマロニエ君の耳にはそのようなものは一切聞こえてくることなく、何かがピタリと止まってしまっているような印象でした。

インタビューではどんなことに対しても、自説を展開し、歴史まで丹念に紐解いて論理的にながながと講釈をしますが、それほどの斬新な内容とも思われませんでしたし、とくにベートーヴェンの後期の作品に対する解説も、ピアノ曲以外の作品まで持ち出してあれこれとかなりやっていましたが、実際のステージでの演奏は、そういうこととはなんの関連性も見出せないような、こう言っては申し訳ないですが、むしろ表面的なものにしか感じられなかったのは非常に残念でした。

ベートーヴェンの音楽を聴いた後に残る、魂が高揚した挙げ句に浄化されたような気持ちになることもできませんでしたし、老いたとはいえこれほどの大ピアニストの演奏に接して、何かしらの感銘らしきものを受けるということもなく、ただただ若き日のアポロンのようなポリーニの残像を自分なりにせっせと追いかけるのが精一杯でした。
続きを読む

音にフォーカス

月刊誌『ピアノの本』では、このところ連続してヤマハの技術者の方を取り上げた記事が載っていて、マロニエ君も特に楽しみな連載コーナーなのですが、11月号は酒井武さんというヤマハアーティストサービス東京に在籍する方でした。

過日NHKのクラシック倶楽部で放映されたニコライ・ホジャイノフはヤマハCFXを使って好ましい演奏をしていましたが、記事にはホジャイノフと酒井氏のツーショットも掲載されていますから、日頃からコンサートの第一線で活躍されるヤマハ選りすぐりの技術者であるだろうことは容易に推察できます。(ホジャイノフは、この来日時にはCD収録もしたようです。)

ところで、この酒井氏の経歴で目についたのは、ある時期に「本社工場・特機制作室」という部署へ異動されたと書かれている点でした。ヤマハピアノの本社工場・特機制作室とは何をするところなのか…というのが率直な疑問で、マロニエ君なりにあれこれと察しがつかないでもありませんが、それは想像の域を出ませんから、それを敢えてここで書いたところで意味はないでしょう。
まあ、ともかくも、ヤマハにはそういう、なんとなく秘密めいた想像をかき立てる部署があるということは確かなようです。

今回の酒井氏の言葉にも、いろいろと含蓄のあるものがありました。
たとえば、調律師としての感性を磨くための心がけは?という問いに対しては、「生活のすべてにおける感動する気持ちが大切〜略〜些細なことにも五感を働かせて“感じる”ことで、センスや自分自身を磨いていく」というものでした。
ピアノを細かく調整して、芸術的な音を作り出すような職人が、仕事以外ではごくありふれたラフな気分で生活していたのでは、そういう至高の領域での仕事はできないということでしょう。タッチや音色の微細な違いを感じ分け、より良いものを作り出す能力は、まず自分自身がよほど性能の良いセンサーそのものである必要があるのでしょう。
そして、この高性能なセンサーと合体するかのように、ピアノ技術者としての専門的かつトータルな能力があるのだと思います。

マロニエ君もパッと思い起こしてみても、ピアノ技術者の皆さんはいうまでもなくそれぞれの個性をお持ちですが、わけても一流と感じる人達は、皆非常に繊細な感性の持ち主です。
この点に例外はないとマロニエ君は断定する自信があります。

もうひとつ興味深いお言葉は「楽器に入りすぎて視野が狭まり、思い込みによる調律をしてはいけません。」とあり、演奏を聴いていると、調律師という仕事柄どうしても“音”にフォーカスしてしまうことが多いのだそうで、これは技術者の方は多分にそういう方向に流れるだろうと思っていました。「しかし、聴きながら“音”への意識が消えるほどに良い音楽が流れていたとき、振り返るとそれはまさに“良い音”が鳴っている瞬間だったと気がつく」とあり、これこそ大いに膝を打つ言葉でありました。

調律師の中にはなかなかの能力をもっておられるけれども、自分の音造りに拘ってそのことに集中するあまり、逆に音楽的でないピアノになってしまうという例もマロニエ君はずいぶん見ています。
こうなると調律師が作り出した音や調律が主役で、ピアノは素材、ピアニストはただそれを弾いて聴かせる演奏係のようになってしまいます。

楽器は重要だけれども、あくまでも演奏を音にし、音楽を奏でるための道具という域を出ることは許されないと思います。パッと聴いた感じはいかに華麗で美しいものであっても、そればかりが無遠慮に前面にでるようでは結局音楽や演奏は二の次で、あとには疲れだけが残るものです。

本当に一流というべきピアノ技術者の方の仕事は、ピアニストや作品を最大限引き立てるようなものであり、楽器としての分をわきまえていなくてはならず、あくまで演奏や音楽を得てはじめて完成するという余地のようなものを残していなくてはならないと思います。
それでいて音や響きは美しく解放されて、印象深くなくてはならず、演奏者をしっかり支えてイマジネーションをかき立てるようなものでなくてはならないわけで、非常に奥深くて難しい、まさに専門領域の仕事であるといわなければならないでしょう。

中には派手な音造りをすることが自分の拘りであり、他者とは違う自己主張のように思い込んでいる人もいますが、この手は初めは美味しいような気がするものの、すぐに飽きてしまう底の浅い料理みたいなもんです。
要は「音にフォーカス」するのではなく「音楽にフォーカス」すべきだということで、これはまったく似て非なるもので、後者を達成するのは大変なことだろうと思います。
続きを読む

2台のスタインウェイ

タングルウッド音楽祭の創立75周年記念ガラ・コンサートでは、2人のピアニスト、すなわちピーター・ゼルキンとエマニュエル・アックスが登場しました。

ピーターがベートーヴェンの合唱幻想曲をトリで弾いたのは前回書いた通りでしたが、アックスのほうはハイドンのピアノ協奏曲のニ長調から2、3楽章を演奏しましたが、この両者は、同じ日の同じ会場ながら、オーケストラも違えば、使うピアノもまったくの別物が準備されていました。

アックスのほうはハンブルクのDで、それもおよそアメリカとは思えないような繊細で、純度の高い美しい音を出すピアノで、まずこの点は良い意味でとても意外でした。
というのも、以前のアメリカではハンブルク・スタインウェイでもニューヨーク的な音造りをされたピアノが珍しくなく、アメリカ人の感性の基準にある整音や調律とは、こういう音なのかと驚いたことがありました。

それでも以前のアメリカではハンブルクは稀少で、大抵のステージに置かれるピアノはほぼ間違いなくニューヨーク・スタインウェイだったものですが、近年はどのような理由からかはわかりませんが、ハンブルク製も続々とアメリカ大陸に上陸しているようで、聖地ともいうべきカーネギーホールでも今はハンブルクが弾かれることが少なくないようです。キーシンやポリーニなどはいうに及ばず、最近おこなわれたという辻井伸行さんのカーネギーホール・リサイタルでもステージに置かれているのはハンブルクのようでした。

アメリカ人で意識的積極的にハンブルク製を使うようになった最初のアメリカ人ピアニストは、マロニエ君の印象ではマレイ・ペライアだったように思います。アメリカ人の中にもハンブルクの持つ落ち着きと潤いのあるブリリアンスを好む人達がいるという流れの走りだったと思います。

いっぽう、今回のタングルウッド音楽祭でもピーター・ゼルキンはニューヨークを使っていました。
それも最近数が増えてきた艶出し塗装のニューヨークです。私見ですが、ニューヨーク・スタインウェイってどうしようもないほど艶出し塗装が似合わないピアノで、無理に気に沿わない礼服を着せられている気の毒な人みたいな印象があります。
ただし、見ていてああニューヨークだなと思われるのは、その塗装の質があまりよろしくないという点でしょうか。とくにピアニストの手をアップすべくカメラが寄ると、最近のカメラ映像と液晶テレビの相乗作用で鍵盤蓋の塗装の質まで手に取るようにわかるのですが、あきらかに塗装の質がハンブルクに較べて劣っているのがわかります。

逆に、ニューヨークの面目躍如とでもいうべきは低音のさざ波のような豊かさで、これは現在のハンブルクが失ったものがこちらにはまだ残っているような気がします。ただし欠点も欠点のまま残っていて、たとえば次高音あたりになると音のムラが激しくなり、音によってはほとんど鳴りと呼べないような状態のものまで混ざっていて、このあたりが格別の素晴らしさがあるにもかかわらず、ニューヨーク・スタインウェイの全体としての評価の下げてしまっている部分のように思われます。

おや?と思ったのは、真上からのアングルのシーンが何度が映し出されましたが、どうやらこのピアノはスタインウェイ社のコンサート部の貸し出し用のピアノと思われ、フレーム前縁のモデル名とシリアルナンバーが記されている三角形部分には、通常の6桁のシリアルナンバーはなく、代わりに「D」の文字に寄ったところに3桁の数字が記されていました。
想像ですが、コンサート部の貸し出しの年季が晴れて、外部に売却されるときに通常のシリアルナンバーへと書き直されるのではないかと思いましたが…これはあくまでも想像です。

それはともかく、アメリカのコンサートではなにかというと飽きもせずアックスやP・ゼルキンがいまだに出てくるようですが、もっと違った輝く才能もどしどし登場させて欲しいものです。
続きを読む

ピーター・ゼルキン

先日のBSプレミアムでは、タングルウッド音楽祭の創立75周年記念ガラ・コンサートの様子が放映されました。
出演者もさまざまで、ボストン交響楽団、タングルウッド音楽センター・オーケストラ、エマニュエル・アックス、ヨーヨー・マ、アンネ・ゾフィー・ムター、ピーター・ゼルキン、デーヴィッド・ジンマン、その他のスター達が入れ替わり立ち替わり演奏を披露しましたが、トリを務めたのはなんとマロニエ君にとってある意味鬼門でもあるピーター・ゼルキンをソリストとしたベートーヴェンの合唱幻想曲でした。

「やはり」というべきか、出だしから、マロニエ君にはまったく理解不能なピーターの演奏が始まり、私はこの人のピアノは何度聴いても、ご当人がどういう演奏をしたいのかまったくわかりません。ただ単に自分の好みではないということに留まらず、むしろ疑問と抵抗感ばかりが増してくるのが自分でも抑えられません。

テンポが遅いだけならまだしものこと、音楽であるにもかかわらずマロニエ君の耳にはリズムも語りもまるで恣意的な、一口でいうとめちゃめちゃなものとしか捉えられないのです。
指も何か病気なのではと思うほど動かないし、あちこちに?!?という意味不明なヘンな間があったり、聴いているこちらはまったく波長がズレてしまうばかりです。そればかりか、あきらかに鳴らない音なども頻発したりと、これではピアニストとしての基本さえ疑います。
それに、なにかというと打鍵した指を弦楽器奏者のヴィブラートのようにプルプル震わせる、あの仕草も神経に障ります。これをやるのは日本人有名女性ピアニストにもいらっしゃって見ていて鳥肌が立ちます。

さらにこのピーター・ゼルキンで驚くのは、彼を表現者として絶賛するファンがとても多いことで、彼の欠点には目もくれず、彼こそ真の芸術家というような調子の褒め言葉を濫発させるのには、いつもながら驚いてしまいます。
彼の価値がわからないということは、音楽そのものの真価がわからないとでも言いたげな論調で、まったく呆れるばかり。
まるでピアノは勝手にワガママにのろのろと下手に思いつきのようフラフラに弾いた方が、よほど芸術家扱いされるかのごとくです。

実はマロニエ君には苦い思い出があって、そこそこ親しくしていた関東在住のあるピアニストと雑談をしているときに、たまたまピーター・ゼルキンの話が出たのですが、私はあまり好きではないというような意味のことを言ったら、みるみるその人の態度が変わり、それ以降のお付き合いにまで距離ができてしまったことを思い出してしまいます。

しかし、今回もあらためて大編成の合唱幻想曲を聴いてみて、前半のピアノソロの部分なども、その遅いテンポをはじめとしてまったく彼個人の自己満足としか思えず、聴衆の顔にも明らかに退屈と困惑の表情が見て取れましたし、名門ボストン響のメンバー達もテンションが下がりまくりで、ともかくこのコンサートの最後だから無事に終わらせようとしているようにしか見受けられませんでした。
後半の歌手達の出だしなども、ピーターの勝手なテンポとフラフラのリズムのせいで、おっかなびっくりで歌っているのが明らかです。

それでも素晴らしい人にとっては素晴らしいのかもしれませんし、そこは主観なのでもちろんご自由ですが、マロニエ君の耳目には、ひどく鈍感で空気の読めない、偉大な父と自分の個性表出に汲々としてきただけの、歪んだエゴイストにしか見えませんでした。
フルオーケストラと6人の歌手、それをとりまく合唱団は、たったひとりのこのワガママ老人のようなピアニストのせいで、本来の実力とは程遠い演奏を余儀なくされたという印象を拭うことはできませんでした。
指揮者のジンマンにしたところで、彼の鮮烈デビューはキレの良い、まるでモーツァルトのようなシャキシャキとしたベートーヴェンだったものですが、当然ながら別人のような、まるでピアニストを指揮者という立場から介護でもしているような棒でした。

これだけ大勢の音楽が出揃っていながら、演奏には覇気がなく、とくにピアノパートではこんな肯定的な有名曲にもかかわらず、ふと何を聴いているのかさえわからないような箇所があちこちにありました。
むかし、交通標語に『荷崩れ一台、迷惑千台。』というのがありましたが、この合唱幻想曲はまったくそんな印象でした。
続きを読む

らららの辻井さん

先々週でしたか、NHK日曜夜の音楽番組『らららクラシック』に辻井伸行さんがメインで出演されました。
辻井さんの映像や演奏は、クライバーンコンクールでの優勝以降、折あるごとに接する機会が増えたことは多くの方々も同様のことだろうと思います。それも僅か3年あまりのことですが、もともとお若いせいもあるのか、見るたびに少しずつ感じが変わってくるところがあるように思います。

食べることが大好きというご本人の言葉にもありましたが、一時はかなり恰幅も良くなって「おや、大丈夫?」と思ったときもありましたが、先日見たところではそれほどでもなくなり、逆にどことなく少し大人っぽさみたいなものが加わったような気がしました。

さらに変化を感じたのは、その演奏でした。
辻井さんは今どき稀少な超売れっ子のコンサートピアニストのようですから、年間のステージの回数だけでも相当の数にのぼるものと思いますが、そういう場数や経験からくるものなのか、あるいはもっと奥深い辻井さん自身の内面から湧き出るものなのか、それはわかりませんけれども、以前に較べるとよりブリリアントでピアニスティックな演奏になっているように感じられて少々驚かされました。

それは番組のはじめに、スタジオで弾かれたショパンの革命にも端的にあらわれていたように思います。その後、番組が進行するにしたがって以前の映像などもいろいろ紹介されましたが、そこにあるのはたしかに以前の辻井さんらしい清楚であっさりした演奏でしたから、やはりなにか変化が起きているとマロニエ君は思いました。

もし今後、辻井さんがより華やかで力強いピアニスティックな方向の演奏にシフトしていかれるとしたら、きっと賛否が分かれるところかもしれません。昨年のN響とのチャイコフスキーなどはまだ以前の辻井さんという印象ですが、スタジオでの革命やラ・カンパネラ、あるいは最近のコンサートでの自作の映画音楽『神様のカルテ』などでは、ちょっと新しい辻井伸行を聴いた気がしました。

いっぽう、スタジオでの司会者とのやりとりなどを聞いていても、辻井さんの話にはとてもなつかしいような率直さがあり、これは今では逆に新鮮というか、ときにはちょっとハラハラするような発言が多いのもこの方の個性であるし魅力なのかもしれません。

すでに世界の著名な指揮者など一流の音楽家達との共演も重ねておられるわけで、当然といえば当然なのかもしれませんが、どんなに世界的な人物や先輩の名前などが出てきても、その都度、テレビ放送という場に於いても臆せず「ぜひ共演してみたいですね」とか、ご自身が作曲されることにも絡んで偉大な作曲家の話が出る度に「僕もそういうふうに…」という、現代人の標準的感性からすれば、かなり思い切りのいいフレーズが、自然な笑顔とともにサラリと出てくるのはドキッとしてしまいます。

これは辻井さんの純粋な心のありようと飾らない真っ正直な人柄はもちろん、彼がいかに心温かな人達に囲まれた豊かで恵まれた毎日を過ごしておられるかという事実を端的に裏付けているようで、どことなく羨ましいような気さえしてきます。
それに例によって、折り目角目のある美しい日本語を自然に話されることも、マロニエ君の耳には彼のピアノ同様、奇を衒わずまともであるということに、まず新鮮な心地よさを感じるところです。

一般的には、相当の天分や実力を持ってしても、そうそう無邪気な発言を自然にしてしまうと、俗人は無防備と考えるほうが先行して、とても恐くてできないことでしょう。
現代人は何かと計算高く、用心深くなりすぎて、まず大半のことでは本音を漏らさないクセが身に付き、それはほとんど常態化していますから、それだけでも率直に振る舞うことのできる辻井さんが眩しく感じられるのかもしれません。
続きを読む

偏見

ネット上にはいろんな質問や相談事を受け付けるところがあり、ピアノのことも結構取り上げられています。随時さまざまな回答者が登場しては思い思いの持論を展開していて、それは読む側も楽しいものです。

面白い質問&回答がたくさんありますが、そのうちのひとつに、スタインウェイの一番小さなグランドとヤマハのSシリーズだったらどちらを目標(購入するための)にすべきかという相談がありました。

この両者、価格はかなり違っていますが、スタインウェイでは最小モデルに対して、片やヤマハのプレミアムシリーズであり、サイズでいうと中型というところで、総合的見地からどっちがいいかというわけでしょう。

多くの回答者からさまざまな書き込みがあり、それを読んでいると面白いことがたくさん書いてあるのですが、そんな中に、この手の回答でよく目にする、いかにも正論のような論調ではあるけれども、ちょっと首を捻りたくなる主張があり、それはほかでもときどき見かけるお説です。

曰く、ピアノで最も大事なことは調整の問題であって、とくに調整如何によってピアノはどうにでも変わるのであるから、従ってブランドに頼ってはいけないという、とりあえず本質を突いたかのような意見です。
管理と調整がいかに大切であるかは、むろんマロニエ君も日頃から痛感していることで、調整の巧拙はいわばピアノの生殺与奪の権を握っているといっても過言ではないと思います。

ところが、この手の質問の回答者の多くに見られる傾向は、スタインウェイではなぜか調整は悪いであろうという予断と偏見があり、そこへ「ヤマハでも丁寧に調整されたものはじゅうぶん素晴らしい」のであって、従って問題はメーカーではない!という論理を展開される片がいらっしゃいます。
さらには「調子のいいヤマハは不調のスタインウェイを凌ぐ」的な発言もみられますが、調整の良否は個々の楽器の状態にすぎず、こういう較べ方はちょっとフェアでない気がします。

不可解なのはどうして同じコンディションでの比較をしないのかということです。
大事な点はそれぞれ理想的に調整されたスタインウェイとヤマハ(機種はともかく)を比較して、果たしてどちらがよいかという話になるべきで、不調のスタインウェイを基準として、だからそれを欲しがるのは名前だけが頼りのブランド指向では?…などと言ってもナンセンスだと思うのです。

調整はどんなピアノでも例外なく必要なものであるのは論を待ちません。
それぞれのメーカーのピアノが最も理想的な調整を受けて、その持てる能力を十全に発揮できている状態で比較したときに、果たしてどちらが弾く人にとって価格を含めた総合的価値があるかという点で冷静な判断をすべきだと思います。

スタインウェイというのは圧倒的なブランド力があるためか、どうかすると必要以上に叩かれるという一面はあるように思います。たしかにマロニエ君も、いつもトップに君臨して、それが当然みたいな在り方というのは人でも物でも嫌いで、ある種の反発さえ覚えますが、それでもその実力がいかなるのものかという点はやはり固定観念や偏見抜きに、真価を正しく理解する必要が大いにあると思います。

偏見を取り払って公正な判断ができたときにようやく見えてくるものこそが個性であり好みでしょう。
それがつまりは自分との相性だと思うのですが。
続きを読む