懐かしい雰囲気

クシシュトフ・ヤブウォンスキのピアノリサイタルに行きました。

今回はちょっと珍しいコンサートで、会場が通常のコンサートホールではなく、カワイ楽器の太宰府ショップ内で開かれた百数十人規模のコンサートでした。
いつもならグランドピアノが所狭しと並んでいる店舗内は、ものの見事にピアノが片づけられて椅子が整然と並び、正面のカーテンの前にはこの店のシゲルカワイ(SK-6)だけが置かれています。

ヤブウォンスキはポーランド出身のピアニストで、1985年のショパンコンクールで第3位になった実力派で、こういう世界的なピアニストが通常のコンサートホールではなく、このような形でのコンサートをおこなうというのが非常に珍しく感じられて、チケットを購入したのでした。

ちなみに1985年のショパンコンクールといえば、あのブーニンが優勝し、2位がフランスのマルク・ラフォレ、4位が日本の小山実稚恵、5位がフランスのジャン=マルク・ルイサダという、全員が今も現役で活躍している実力者を数多く輩出した年でした。

開演前にお手洗いに行って廊下に出たとき、ドアの真向かいにある控え室(たぶん事務所)の扉が開いていて、そこにヤブウォンスキ氏が立っていて、ある女性の挨拶をにこやかに受けているところでした。
テレビやCDのジャケットで見覚えのあるその顔は、いかにも優しげな笑顔に溢れており、しかもおそろしく長身なのに驚きました。

プログラムはオールショパンで、そのパワフルなポーランドのピアニズムには久々に舌を巻きました。
演奏時間もたっぷりで、19時の開演、アンコールまで終わった時にはほとんど21時半でした。
音楽的にはいささか野暮ったいところがあり、いかにもかつての東側の演奏そのもので、現代的な洗練はありませんし、同意しかねる点も多々ありましたけれども、なにしろ、その圧倒的な迫力と技巧はそれを身近に触れられただけでも充分に行った甲斐があったというものです。

最近のピアニストがいかにも効率的な訓練によって、器用にまとまった演奏ばかりを繰り広げる中で、こういうちょっと昔流の訓練と修行を経た、器の大きい演奏家に接したのは実に久しぶりという気がして、音楽そのものを聴いてどうというよりも、なんとなくその醸し出す雰囲気がひどくなつかしいもののように思えました。

とりわけ強く激しいパッセージやオクターブの連打などは重戦車のようで、しばしば風圧を感じるほど。あきらかに素人のそれとは大きく隔たりのある、いかにもプロらしいプロの技を堪能することが出来ました。
とにかく、まったくなんの心配もなしに聴けるという、大船に乗っているような安心感だけでも、やはりこういう人こそが人前で演奏すべきピアニストと呼べるのではないかと思いました。
昔はコンサートといえば、だいたいこのような格付けの実力者だけがステージに立っていたわけで、好みは別にしても、その大きさから来る聴きごたえとか充実感がありましたが、最近は玉石混淆で見た目から演奏まで素人の延長線上にあるような演奏家が多いことは、それだけでもコンサートというものの意義や感銘を薄くしていると思いました。

ただしヤブウォンスキのショパンは当然ながらポーランドのベタなショパンであり、ある見方をすればこれぞ本物のショパンということになるのかもしれませんが、マロニエ君は残念ながら全く好みではありません。
先述したように、ショパンといえばまっ先にイメージする洗練されたピアノの美の結晶、気品と情熱とデリカシーが共存した他を寄せ付けない世界とはとは無縁の、泥臭い麦わらの香りのするようなショパンで、いわゆるフランス的なショパンとは対極にあるものでしょう。

ステファンスカ、エキエル、ハラシェヴィッチ、ツィメルマンなどに通じるあの雰囲気であり、そう考えるとブレハッチなどはポーランドとはいっても、若いだけずいぶん今風に磨かれているということに気付かされます。

ヤブウォンスキのスタミナあふれる大排気量のエンジンが回っているようなピアノを聴いていると、ショパンよりはベートーヴェンなどのほうがよほど聴いてみたい気がしました。

ピアノに関しては、感じる点は多々あれども、もう今回は止めておきます。
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ヤマハとリスト

ナポリ出身のピアニスト、マリアンジェラ・ヴァカテッロによるリストの超絶技巧練習曲のCDを聴きましたが、残念なるかな、とくにこれといった印象を受けるものではありませんでした。

若い女性のピアニストで、指はよく動きますが、この難曲集を弾いて人に聴かせるにじゅぶんな分厚い表現性とか力量みたいなものには乏しいというのが率直なところでした。曲そのものがもつスケール感や壮麗さが明確にできておらず、ただ技術的にこの作品を勉強してレパートリーになったという感じが拭えません。
本来この12曲はリストの中では無駄が無く表情が多彩、非常に充実した緊張感の高い作品群だと思いますが、悲しいかなどれも演奏が痩せていて、本来の量感に達していないと思いました。

もうひとつ興味深かったことは、このCDは昨年イタリアで収録されていますが、ピアノはヤマハのCFIIISが使用されています。
まあ、音もそれなりで目立った欠点というのはないものの、このCFIIISまでのヤマハは響きのスケール感という点においては、楽器としての器の限界がわかりやすいイメージでした。
いま、フランスをはじめとするヨーロッパではヤマハが多く使われる傾向にあるのは、何度か書いた通りですが、そこで使われるヤマハの特徴のひとつに現代的でオールマイティな音色と均一性と軽さがあります。ただそれが重量級の作品にはあまり向きません。

車の省エネ小型化じゃありませんが、録音技術の発達で音はクリアで克明にとれるから、ピアノ全体のパワーは小さめでも構わないといわんばかりの印象。

リストの作品は、ものによるとも思いますので一概には言えませんが、超絶技巧練習曲は詩的な面もじゅうぶんあるものの、全体としては張りの強いドラマティックな要素も濃厚に圧縮された、かなり精力的な作品だなので、この作品に聴くヤマハの音には、なんとなく中肉中背というか、ただお行儀よくまとまったピアノだという印象が拭えませんでした。
ピアノのパワーがもたらすところの迫りが稀薄で、人を揺さぶるような圧倒的な力がない。

ヤマハがいいのは、ロマン派ではシューマンやショパンまでで、リストになるとヴィルトゥオージティの発露を楽器が懐深く逞しく表現しなくてはなりません。ところが響きの中の骨格に弱さを感じるわけです。
まるで往年の名女優が演じた当たり役を、現代の可愛いけれども線の細い女優さんの主演でリメイクしたようで、まあそれの良し悪しはあるとしても、所詮は軽さばかりが目立ち、黙っていても備わっていた肉厚な重量感・存在感が不足してしまうようなものでしょうか。

そういう意味では、リストはそれ以前の作曲家と違うのは、先端のピアノの性能を縦横無尽にぎりぎりまで使いこなして作曲をしていたのだということが察せられることです。
このところ、日本製のピアノによるピアニストの演奏をあれこれと聴いてみて感じたことは、ヤマハにはもうひとまわりの逞しさと音響的な深みを、カワイには知的洗練を期待したいと思いました。

それでもなんでも、日本のピアノが海外で人気が高いのは、やはりその抜群の信頼性と最高レベルの製造クオリティによる安心感、それに価格がそこそことなれば、総合評価とコストパフォーマンスで選ばれているということのようです。

基本的に西洋人は、どうかすると芸術文化の地平を切り開くようなとてつもないことをやってみせる反面、バッサリと割り切ったようなものの考え方をする場合も少なくないようで、そういう際の合理主義とドライな部分は、我々にはとても及ばない苛烈さがあるようです。
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ゆずれないもの

ある調律師の方のブログでの書き込みがマロニエ君の心を捉えました。

概要は次の通り──歳を取るにつれ、少量でもいいから本当に美味しいものだけを口に入れたいように、音楽も同様となり、だからアマチュアの演奏会は「本当にごめんなさい」というわけだそうです。
つまりアマチュアの演奏は聴きたくない、申し訳ないけれどもこればっかりはもうご遠慮したいというようなことが書いてありました。

しかもこの方は調律師という職業柄、我々のように音楽上の自由な趣味人ではないだけに、そこにはいろんな意味でのしがらみなどもあっての上だろうと思われますから、それをおしてでも敢えてこういう結論に達し、しかもそれをブログに書いて実行するということは、よほどの決断だったのだろうと推察されます。

本来ならば調律師という職業上、ときにはそうした演奏も浮き世の義理で、我慢して聴かざるを得ない立場にある人だろうと思われるのですが、それでもイヤなものはイヤなんだ!と言っているわけです。
これをけしからん!と見る向きもあるかもしれませんが、マロニエ君は思わず喝采を贈りたくなりましたし、このように人には最低譲れないことというのがあるのであって、そのためには頑として信念を通すという姿勢に、久しぶりに清々しい気分にさせられました。

同時に、この方はただ単に調律師という職業だけでなく、ブログではあれこれのCDなどに関する書き込みなども見受けられますから、そのあたりを総合して考えると、これはつまり、よほど音楽がお好きな方ということを証拠立てているようです。

音楽というのは知れば知るほど、聴けば聴くほど、精神はその内奥に迫り、身は震え、耳は肥えてくるもので、そうなるとアマチュアの自己満足演奏なんて聴けたものではないし、たとえプロであってもレベルの低い演奏というのは耐えがたいものになってくるものです。

とりわけクラシックのピアノは、弾く曲は古典の偉大な作品である場合が多く、それらの音楽は大抵一流の演奏家による名演などによって多くの人の耳に深く刻みつけられていたりするわけですから、それをいきなりシロウトが(どんなに一生懸命であっても)自己流の酔っぱらいみたいな調子で弾かれたのでは、聴かされる側はいわば神経的にきついのです。

つまり弾いている人にはなんの遺恨はなくとも、苦痛の池にドボンと放り込まれるがごとくで、塩と砂糖を間違えたような食べ物を口にして美味しいというのは耐えがたいのと同じかもしれません。
そんなものに拍手をおくってひたすら善意の笑顔をたたえているというのは、実はこういう気分を隠し持つ者にしてみれば、ほとんど拷問のように苦しいわけです。

それでも、子供の演奏とかならまだ初々しい良い部分があったりしますが、大人のそれには耐え難い変な癖や節回しがあったりで、場合によっては相当に厳しいものであることは確かです。
いっそ思い切り初心者ならまだ諦めもつきますが、始末に負えないのは、中途半端に指が動いて楽譜もいくらか読めるような人の中に、むしろ自己顕示欲さえ窺わせるものがあり、これを前に黙して耐え抜くのはかなり強烈なストレスにさらされることになります。
弾いている本人にお耳汚しですみません…という謙虚な気持ちが表れていたらいくらか救えるのですが。

この調律師さんの言っていることは、本当に尤もなことだと思いました。
ときたま、こういう気骨のある人がいらっしゃるのはなんだかホッとさせられます。
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モーツァルトの極意

『集中力が大事です。どの作曲家でもそうですけど、特にモーツァルトの時は、過敏ではない集中力といいますか…。過敏になってはいけない。ゆったりとしたものが必要な集中力なんです。そこから音の響きができるわけですから、体が緊張していてもいけないし。そういう意味でモーツァルトの演奏は大変です。』

これはずいぶん昔のものではありますが、ピアニストの神谷郁代女史がモーツァルトの演奏に際して語ったもので、さいきん雑誌をパラパラやっているときに偶然これを目にして、それこそアッと声が出るほど激しく同意しました。
…いや、「激しく同意」などというと、まるでさも同じことを認識していたようですが、これは正しい表現ではありません。なんとなくずっと直感的に感じていたものが、明確な言葉を与えられて、考えが整理され、よりはっきりと認識できたというべきでしょう。

それにしても、これは名言です。
これほどモーツァルトの演奏に最も必要な精神的な根底を成すものを的確に見事に表した言葉があっただろうかと思います。まるでその無駄のない言葉そのものがモーツァルトの音楽ようでもあります。

これはすでにひとつの哲学といっても差し支えない言葉であり、モーツァルトへの尊敬と理解をもって弾き重ねた人でなければ表現できるものではありません。弾き手の考察と経験が長い年月の間に蓄積され、そこに自然の息吹が吹き込んで、ついにはこのような真理を導き出すに到達したものと思われます。

マロニエ君はモーツァルトの理想的な演奏(ピアノの)としてまっ先に思い浮かぶのは、ヴァルター・ギーゼキングのモーツァルトですし、ヴァイオリンソナタではハスキル、コンチェルトではロシアの大物、マリア・グリンベルクの24番などがひとつの理想的な極点にあるものだと思っています。

その点では、評価の高いピリスにもある種の固さを感じますし、内田光子などはその極上のクオリティは充分以上に認めつつも、いかにもゆとりのない張りつめた緊張の中で展開されるモーツァルトであることは否定できません。

多くのピアニストがモーツァルトを怖がってなかなか弾こうとしないのも、この神谷女史のいうところの、集中と緊張の明確な区別がつけきれない為だろうと思われるのです。
とりわけモーツァルトのような必要最小限の音で書かれた作品は、一音一音に最大限の意味を持たせようと、あまりに言葉少なく多くを語らねばならないという脅迫観念に苛まれるのだろうと思われます。

神谷女史のお説に依拠すれば、ギーゼキングのモーツァルトなどは、なるほどまったく気負ったところがないばかりか、モーツァルトにおいてさえこの巨匠の磊落な語り口には今更ながら圧倒されてしまいます。
グリンベルク然りで、まさに呼吸と重力に一切逆らうことなく、モーツァルトをありのままにひとつの呼吸として描ききっているのはいまさらながら舌を巻いてしまいます。

どのみちマロニエ君などは、モーツァルトを弾こうなどという大それた考えは持っていませんが、それなりのテクニックと音楽性のあるピアニストであれば、「過敏にならない集中」を旨とすれば、素敵なモーツァルトが演奏できるはずだという気がしてきます。

神谷女史のこの言葉は、どれほどのレッスンにも勝るモーツァルト演奏の極意を授けられたような気がして、なんだかたいそう得をしたような気分になりました。
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2台ピアノの第九

近藤嘉宏&青柳晋の2台のピアノのコンサートに行きました。

前半は両者のソロで、愛の夢だのカンパネラだのと、ひとまずお土産売り場みたいなプログラムが5曲並んでいましたが、それはこの日のあくまでも序章に過ぎません。
メインはリスト編曲によるベートーヴェンの交響曲「第九」で、はっきり時計を見たわけではありませんが、おそらくは1時間を超過する長丁場でした。まあ第九の全楽章ですから、それも当然といえば当然です。

実は、2台のピアノによる第九というのはCDはあるものの、実演で聴いたのは初めてです。
開始直後こそ特段どうということもなく、やはり耳慣れたオーケストラの音に較べたらずいぶん薄く小さいなあという感じでしたが、しだいにつり込まれて、第3楽章の世にも美しい調べに到達したあたりではベートーヴェンの壮大な世界の住人となり、第4楽章ではつい2台ピアノということも忘れて、すっかりこの曲と共に呼吸することに没入させられてしまいました。

近ごろでは、コンサートに行ってもめったなことでは感動が得られなくなってしまっている中で、めずらしくこの言葉を使うに相応しい気分になりましたが、それだけやはり圧倒的な作品でした。
演奏はソロでは近藤氏のほうが幅があって好ましく思いましたが、第九ではプリモを弾いた青柳氏が常に流れをリードしていたようで、近藤氏はむしろ脇に回っている印象でした。

作品が作品だけに、終わったときにはちょっとした感動的な拍手が起こりましたが、さすがにお疲れなのかアンコールはなしで、これで終わりだというアナウンスが早々に流れました。
ピアニストの肉体的疲労だけでなく、聴衆も長い時間聴き続けたということもあるし、そもそも第九のあとに弾くべき曲があるかと言われたら…ちょっと思いつきませんよね。
かてて加えて2台のピアノともなれば、いかにクラシックの膨大なレパートリーをもってしてもそこに据えるべきアンコール曲は皆無だと思われます。

ベートーヴェンはピアノソナタでも同様で、最後のop.111の精神的地平を見るような第2楽章が終わった後に弾くべきアンコールは、ピアニストが最も悩むところだと思われます。
この曲では昨夜同様、一切アンコールを拒絶するピアニストも少なくないほか、日本公演でのシフなどは、熟考の末と思われたのは、バッハの平均律から、op.111と調性を合わせてハ長調で、しかも幕開けの気配に満ちた第1巻ではなく、第2巻のそれを演奏したのはなるほどと思わされました。

昨夜のピアノはソロでもデュオでも両氏の弾いたピアノは固定されていて、ソロでは途中で関係者総出でピアノの入れ替えをおこなったのはちょっと珍しい光景だと思いました。
2台ともスタインウェイのDで、おそらく年代的にも同じものだと思いますが、ピアノの個性なのか調律の違いなのか、そのあたりは判然とはしなかったものの、ともかくずいぶんと音の違うピアノでした。

マロニエ君的には迷いなく片方のピアノが好きで、もう一方はほとんど感心できませんでしたが、それはこれ以上書くのは止しましょう。
座席は12列目のセンターでしたが、この会場の音響がふるわないのはほとほと嫌になりました。
もっと後方であれば多少は違ったのかもしれませんが、常識的な位置としては決して悪い席ではなく、出し物によってはGS席にあたるエリアですから、これはいかにも承服できないことです。

ピアノのアタック音が壁に激突して反射してくるのがあまりにも露骨で、まるで音が卓球かビリヤードの玉の動きみたいで、いわゆる美しい音による心地よさとは無縁です。
これがそのへんの体育館とかであれば致し方ないとしても、ここは地域を代表する本格的なコンサートホールなのですから、ただただ残念というほかありません。
つい数日前に行った福銀ホールは、その点では夢のようでした。
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福銀ホールの変身

土曜は考えてみるとずいぶん久々の福銀ホールだったのですが、会場に入ってリニューアルされていることをはじめて知って驚きました。
なんと座席がすべて一新されおり、ずいぶん立派なブラック基調のシートへリニューアルされているではありませんか! 調べてみると1年以上経っている様子で、それだけご無沙汰だったということでもあり、なぜか誰からもこのことを聞かなかったのです。

このホールの最大の自慢はなによりその素晴らしい音響で、とりわけピアノリサイタルなどには最良の響きを持つホールだと言えることは、以前もこのブログに書いたような気がします。

開館当時はホールの音響というものにそれほど注意が払われない時代だったこともあり、音楽雑誌などでもこのホールの音の素晴らしさが何度も話題になったりしたものですが、それは現在も第一級のレベルとして健在なのは嬉しい限りです。

しかしながら音響以外ではこのホール固有の欠点もあり、福銀本店が天神の一等地という恵まれた立地にありながら、そのホールはやみくもに地下深くにあり、しかも人を下へと運ぶためのエレベーターなどが一切ないため、このホールを訪れる人はまるで音楽を聴くための苦行のように、延々と連なる下り階段の洗礼を受けることになります。
まるで地下鉱脈へでも赴くように黙々と階段を降り続けると、ようやくホールロビーに到達。
ホールの入口にはロダンの考える人(本物で福銀が購入したもの)が鎮座し、その左右両脇の2ヶ所のみから会場に入るわけですが、そこはしかし客席のあくまでも最上部に過ぎず、着席するにはさらに地底へと階段を降り重ねなければなりません。

しかも、設計が古いためか、細かいところが今どきのように人に優しい作りではなく、その会場内の段差の間隔が不規則でバラバラなために、一瞬たりとも気が抜けずに、まるで探検隊のように足元が悪いのです。

この日もマロニエ君の背後で中年の女性が足を引っかけてものの見事に転倒する一幕があり、主催者のほうがそれを聞きつけてきて、ケガなど無かったかどうかなど大変な気の遣いようでした。折しもこのホールでは足元に用心しなくてはとしゃべっていた直後のことで、まったく言葉通りのアクシデントでした。

さらに終演後は、さんざん降りた分だけ今度は上らなくてはならず、ここへ来たときは、帰りは決まって登山感覚で一気呵成に階段を上り続けなくてはならず、地上へ出たときは、それこそ体がじっとりと汗ばみ息はハァハァとなるほどです。
身体的に辛いのは2時間前後ずっと座って音楽を聴くと、それだけでも疲れるし体は動かない状態になっていますが、その態勢からサッと腰を上げていきなりビルの4〜5階分の階段を登るのは相当ハードです。

階段の話ばかりになりましたが、このホールのもうひとつの弱点が、時代故のサイズの小ぶりな貧相な座席で、色も朱色系のあまり趣味のよろしいものとは言いかねるものでした。
それがこの度、見るも立派なシートに変わっており、シート自体も大型化している上に、その間には立派な木製の肘掛けが備わり、余裕もずいぶん生まれたのは目も醒めるような驚きでした。

おそらく座席数は減少したはずですが、掛け心地もよく、以前のことを思うと本当によくなったと、嬉しいような気分になりました。
階段はむろん以前のままですが、このホールの欠点のひとつが見事に改善されたことは間違いありません。

残るは最大の欠点である階段問題ですが、なにしろ大きな銀行なのですから、この際思い切ってエレベーターをつけて欲しいし、高齢者はもちろん体の弱い人にもどうぞ来てくださいという態勢を作って欲しいものです。
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SK-EXのコンサート

昨日は福銀ホールで行われたカワイ楽器主催のピアノリサイタルに行きました。

演奏者は川島基(かわしまもとい)さんというドイツ在住のピアニストでしたが、偶然チラシを見て行ってみる気になりチケットを購入したのですが、驚いたことにはカワイに連絡すると、すぐに自宅に持ってきてくれるサービスの良さで、このあたりに主催者の力量の違いを感じずにはいられませんでした。

おかげでプレイガイドまでわざわざ行く手間が省けただけでなく、チケットぴあなどは、表示されたチケット代金に追加して、安くもない「発券手数料」なるものを一枚毎に取られるのはかねがね納得がいかない気がしていましたから、この点も助かりました。
チケット屋がチケットを売るのは当然なのに、あれは一体なのでしょうね?

さて、このリサイタルはカワイ楽器の主催なので、当然ピアノはカワイで、福銀ホールにはカワイがありませんから、最新(たぶん)のSK-EXを持ち込んでのコンサートでした。

おそらくカワイ楽器所有の貸出用のSK-EXでしょうから、ものが悪いはずもなく、最初の曲(シューベルト=リスト:「春の想い」「君は安らぎ」)が始まったときには、緩やかな曲調だったこともあり、おお、なかなか良いじゃないか!というのが第一印象でした。

しかし、コンサート全体を通じて感じたことは、やはりCDなどで抱いていた印象に戻ってしまい、残念に感じる部分を依然として残しているというのも率直なところでした。

気になるのは、ハンマー中心部にコアを作るという思想なのかもしれませんが、はっきりした打鍵をした際には、音の中に針金でも入っているような強くて好ましからざる芯があることで、そのためかどうかはわかりませんが、全体にツンツンペタペタした印象の音になり、だんだんうるさく感じてきてしまうことです。

ヤマハとはまた違った意味で、もっと深いところからピアノを鳴らして欲しいというのが偽らざる印象です。
というのも、ピアノ自体はそんな音造りはしなくても、非常によく鳴っていると思いましたし、パワーも昔に較べるとかなりあると思いました。
ただし、全体のまとまり感があきらかに欠けており、その点ではヤマハが一歩上を行くような気もします。
そうはいっても潜在力は非常に高いピアノだと思えるだけに、画竜点睛を欠くのごとく、却ってそこが残念に感じるのでしょう。

もう一つは、これはカワイの普及品にまで等しく言えることですが、根本的に音質が暗いのはこのメーカーのピアノの生来の特徴という気がしましたし、この点はSK-EXにまで見事に受け継がれているようです。
ひとくちに言うと、単音で聴く音に、甘さやふくよかさがなく、どこか寂しい響きがあるということ。
ステージで活躍するコンサートグランドには、当然ブリリアントな面も持たせようとしているのでしょうが、地味な目鼻立ちの顔に、無理に派手なメイクをしているようで、どこか不自然さがつきまといます。

ドイツピアノの中には決して甘い明るい音は出さないけれども、毅然とした音色を持っているピアノがいくつかありますが、そういうピアノでもなく、このあたりがカワイの個性がもうひとつはっきりしない点かもしれません。

構造的な音の印象としてはフレームが硬すぎるという感じも…。
このどこか寂しげで冷たい印象が取り払われたときに、カワイの逆転劇は起こるような気がしました。
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ベーゼンとクラヴサン

最近はちょっと変わったCDを聴いています。

演奏がイマイチなので、演奏者の名前は敢えて書きませんが、日本人の女性ピアニストのもので、ドビュッシー、ショパン、ラヴェル、グリーグ、リストなどの作品が弾かれているもの。
なんで買ったのか、よくはもう覚えていませんが、おそらくベーゼンドルファーのインペリアルでなく275を使っている点と、もうひとつはマロニエ君がドビュッシーの中でもとくに好きな作品のひとつである「沈める寺」が入っているので、それが275で演奏されるとどういう感じになるのかという興味があったのだろうと思います。

ところが演奏にがっかりしてそのまま棚の中に放り込んでいたのです。
曲を聴くにも、ピアノの音を味わうにも、演奏がちゃんとしてなくてははじまりません。
それを再挑戦のつもりで、もう一度ひっぱり出して聴いてみる気になったのです。

ピアノ自体は素晴らしい楽器で、コンディションもまことによろしく、艶やかさと気品が両立しており、この点では理想的なベーゼンドルファーではないかと思われます。とくに「沈める寺」で度々登場する低音はスタインウェイとはまた違った金色の鐘のような響きだし、全体にはひじょうに明確な色彩にあふれていたと思います。

ショパンのバルカローレなどもひじょうに美しい世界で、それなりに納得させられるものがあったのは事実ですが、それはこのピアノの調整、とりわけ整音が素晴らしく良くできている点に尽きるという気がしました。
それは、変な言い方ですが、ある意味ベーゼンドルファーらしくない音造りをされていて、このピアノの持つウィーン風のトーンのクセみたいなものがほとんどないために、その音はただひたすら美しいデリケートな楽器のそれになっていたようです。あと一歩ウィーン側に寄ったらショパンは拒絶反応を起こすのではないかと思われます。
そんな中ではラヴェルとリストが最もベーゼンドルファーに相性がいいようにも感じました。

全体としてはとても美しいけれども、根底にフォルテピアノを感じさせる要素があるのも間違いなく、そこがまたベーゼンドルファーが何を(誰が)弾いてもサマになる万能選手ではないことがわかり、そのピアノはその儚い美しさこそが魅力だろうと思われます。

もう一枚は、フランスのジャック・デュフリによるクラヴサンのための作品集で、演奏はインマゼール。
デュフリは1715-1789年の生涯ですから、クープランやラモーの後に続く宮廷音楽・クラヴサンの名手というとこになるでしょう。フランス以外ではバッハとモーツァルトの中間の時代を生きたことになります。
デュフリがもっとも影響を受けたというのがラモーだそうですが、なるほどその曲調はどれもラモー的でもあり、この時代のクラヴサン作品の中ではやはりフランス的な華やぎと、それでいてどこか屈折した享楽が全体を覆っています。

またバッハのような厳格なポリフォニックの作品ではなく、すでにメロディーと伴奏という様式と後に繋がるロマン派的な萌芽も随所に感じることの出来る、聴いていてなかなか面白い作品です。
デュフリの作品は当時の王侯貴族にも受け入れられ人気があったといいますから、当時の貴族社会を偲ぶ手立てとしてもこれは聴いていておもしろいCDだと思いました。
そしてなによりもマロニエ君の耳を惹きつけたのは、そのクラブサン(チェンバロ)の音色でした。

大抵のチェンバロは弦をはじく音が主体で響板がそれを小さく増幅させていますが、ここに聴くチェンバロには思いがけない肉厚な響きがあり、しかも弦楽器のように、響板がぷるぷると振動しいているのが伝わってくるほどのパワーがありました。しかもきわめて色彩的。

ただツンツンと寂しい音しか出さないチェンバロも少なくない中で、ここで用いられている楽器はなんともゴージャスで艶やかな潤いのある音を出すのには驚きました。
1600年代に作られた楽器のコピー楽器で、1973年に作られたものだそうですが、なんとなくその色彩感や華やかさがベーゼンドルファーの響きにも通じるものを感じたところでした。
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仮の嫁入り

日曜は、現在ピアノ購入を検討している知人のご夫妻がマロニエ君宅に来られて、しばらく我が家のピアノを弾いていただきました。
ピアノは(他の楽器もそうかもしれませんが)、自分が弾いているときに耳に聞こえてくる音と、人が弾いている音を少し距離を置いて聞くのではかなり印象が違い、とても客観的に聞くことが出来るので、マロニエ君自身にも大いに楽しめる体験でした。

とくに大屋根を開けることは普段まずないので、こういう機会を幸いに全開にして弾いていただきましたが、普段とはまったく違う自分のピアノの一面を知ることができて有意義でした。

我が家で2時間近く過ごしてから、楽器店に移動。

そこにあるピアノは小型のグランドで、既に弾いたことのあるものではあったものの印象が良かったために再度見に行くことになったのでした。
前回とは別の場所に置かれていたましたから、置かれた環境によってピアノがどのような変化をするか、つまりピアノそのものがもつ基本的な特徴がどの程度のものであるかまで確認することが出来たわけですが、場所が変わってもまったくその長所が衰えることも影を潜めることもなく、はっきりと我々にその力強い魅力を訴えてきたように感じました。

驚いたことには、席を外された奥さんが再び店に戻ってくる際に、遠くまでこのピアノの音が周辺の喧噪を貫いて朗々と鳴り響いてきたとかで、やはりスタインウェイの遠鳴りは大したものだと思いました。

知人は、ついにピアノ自体については概ね納得するに至りましたが、残るはこのピアノを購入して自宅に置いた場合、同様の鳴りや音色がこのまま得られるかという点で悩み始めたところ、この日はたまたま決定権のある営業の人物が先頭に立って対応していたこともあり、だったら家にピアノを入れてみましょうか?という思い切った提案をしてきました。

購入するかどうかもわからない高額なピアノをいきなり自宅に運び入れるというのは、驚きもあり抵抗感もあったようですが、マロニエ君はこれ幸いだと思いました。
まさかこっちからそれを頼むわけにはいきませんが、店側が自発的にそれをやってくれるというのなら、現実的にこれに勝る確かな確認方法はないわけですから、この際そうしてもらったらどうかと、すかさず小声で言いました。

果たしてそのような手続きを取ることとなり、後日このピアノは知人の自宅へと、いわば仮の輿入れをしてくることになりましたが、はてさて結果はどうなりますことやら。

購入すればきっと一生の宝になること間違いなしだとマロニエ君は思いますが、あとは細かな条件的なものもあるのかもしれません。
いつもおなじことを書いて恐縮ですが、ピアノを買うというのは実にいいもんですね!
人の事でも楽しくなってしまいます。
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コンサート会場の規模

ヨーロッパ人の有名ピアニストによるプライベートなコンサートがあり、仲間内と聴きに行ってきました。
雰囲気のある美しい会場で、コンサートも楽しめるものでしたが、その暑さには参りました。

このところエアコン依存症のことを書いていた矢先だっただけに皮肉だったのは、会場の空調が思わしくなく、暑苦しさにめっぽう弱いマロニエ君は、正直音楽なんてどうでもよくなるほどフラフラになってしまいました。なにかの修行のように暑かった。

ところで、小さな会場のコンサートには、一般的なホールのそれとは違った味わいがあるといわれますが、定義としてはいちおう理解はしても、ホールのほうが優れている面も多いとは思います。
しかし、巷では普通のホールでのコンサートにめっぽう否定的で、小さなサロンコンサート的なものを必要以上に有り難がって称賛する一派があるのは、いささか考えが偏りすぎじゃないかと思います。

(今回のコンサートとは直接関係はない話ですが)この手の人達の主張としては、音楽とはそもそもそれほど大きな会場で大向こうを唸らすためのものではなく、小さな会場で行われるものこそが、もっとも本来的に正しく、味わい深く、音楽の感動も深く、演奏者の息づかいを直に感じ、生の感動が得られる理想的なもので、それがいかにも贅沢だというようなことを胸を張って言いますし、心底そう信じているようにも見受けられます。

これは、言い分としてはわからないでもない部分もあり、例えばNHKホールとか東京国際フォーラムみたいな巨大会場でピアノなんぞ聴いても、音は虚しく散るばかりで、たしかにこれが本来の姿ではないでしょう。

しかしながら、大きめのホールの演奏会すべてに批判的で、小さな会場のコンサートばかりを最良のものと言い募る主張にも、現実的には大いに疑問の余地ありだと思うわけです。
マロニエ君自身、小さな会場のコンサートにはもうあちこちずいぶん出かけてみましたが、結果として納得できるものであった記憶は、実をいうとほとんどありません。
理由はそのつどさまざまですが、ひとつ共通して言えることは、小さい会場には小さい会場固有の弱点が多々あり、けっして上記のような良いことばかりではないからです。

具体的には、やはり狭いところに人が鮨詰め(一人あたりの前後左右の寸法はホールの固定席より遙かに狭い)となり、息苦しい閉塞感に苛まれること、イスが折り畳みなど小型の簡易品になるので、これにずっと座り続けることの身体的苦痛(骨まで痛くなる)、奏者も含め大抵は同じ高さの平床なので最前列以外は見たくもない他人の後ろ姿ばかりが眼前に迫り、演奏の様子など満足に見えたためしがない、小さな空間では響きらしきものも望めず、楽器との距離が近すぎて音は生々しく演奏が響きによって整えられない、ピアノもほとんどがコンサートに堪えるような楽器ではないなど、現実はやむを得ない妥協と忍耐の連続なわけです。

だからサロンコンサートなんて言葉だけは優雅なようでも、現実には快適なホールにはるかに及ばない厳しい諸要素が少なくないわけです。遊びならどんなに素晴らしいスペースであっても、それがひとたびコンサートともなれば、ちっちゃな空間故の限界が露呈するというのが掛け値のない現実だと感じます。

要するに、普通の住環境でも、なにも豪壮広大な邸宅で暮らしたいとまでは思いませんが、できることならゆとりのあるそこそこの広さをもった住居が望ましいわけで、狭くて小さなマンションこそが理想的で贅沢で味わい深いなんてことはまさかないでしょう。
これと同じで、音楽がゆっくりと翼を広げられるだけの、ゆとりのある場所にまず奏者や楽器を据えてから、しかる後に奏される音楽に身を浸したいものだと思うのです。

そういうわけで、べつにマロニエ君は小さなコンサートというものを頭から否定するものではありませんが、最終的・総合的に最も心地よくコンサートが楽しめるサイズがどれくらいかと考えた場合、一般的に言うところの中ホール(500人〜800人ぐらいな規模)ぐらいで行われるコンサートだろうと、個人的には思うのです。

東京では紀尾井ホールや東京文化会館小ホール、福岡なら福銀ホールぐらいのサイズです。
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電子ピアノのタッチ

ピアノクラブの方から電子ピアノのオススメはないかと尋ねられました。
この方はマンションのご自宅にグランドをお持ちなのですが、練習用に電子ピアノの購入を決心されたようです。

ご当人が試弾してみて、このあたりかなあと思ったのが「カワイ CA13(15万くらい)、同CA63(20万くらい)、ヤマハ CLP440(18万くらい)」だそうで、「指を動かすくらいに練習したいので、あんまり高いのは考えてない」とのことなので、ほぼ下記のような意味の返信をしました。

まず、基本的にマロニエ君は電子ピアノのことはぜんぜんわからないということ。
以前聞いた話では、このジャンルでは断然ローランドなんだそうで、へぇそんなもんかと思うだけです。

ただ、もしも自分が買うとなると、もっぱら情緒的な理由だと思いますが、電子ピアノを楽器に準ずるものと捉えれば、やはり楽器メーカーの製品を買いたくなってしまいます。

電子ピアノで最も大事な点はなにかと考えた場合、電気製品としての機能は横に置くとして、あくまで個人的な印象ではタッチの優劣にこそあると思います。
これが安物になればなるほどプカプカとした安っぽい単純バネの感触に落ちぶれてしまい、高級品ほどタッチのしっとり感や深み、コントロールの幅などがあるようです。
音はどうせ多くはスタインウェイからのサンプリングで、ヤマハ/カワイは自社のコンサートグランドから採っていますが、所詮は電子の音なのでこの点はどうでもいいと言っちゃ語弊がありますが、それよりは物理的なタッチ感がいかに本物のピアノに少しでも近づけているかという点に興味の的を絞ると思います。

その点で言うと、本物のグランドピアノのアクションをほぼ使っているヤマハのグランタッチなどは電子ピアノのいわば究極の姿で、現在はアヴァングランドに受け継がれているようですが、お値段も立派。
グランタッチは以前は中古でもかなり高価で、それでもタマ数のほうが不足しているくらいでしたが、最近は世代が進んだせいか、中古価格も一気に安くなり、どうかするとネットオークションなどで10万円台のものもチラホラ見かけます。もっとも何年も使用された中古の電気製品という意味では、故障の心配もないではないでしょうが。

また、安めの現行品の中から探すなら、私の最近の微々たる経験で言うとカワイの電子ピアノの中に「レットオフフィール」という機能がついた製品が頭に浮かびました。

レットオフというのは、本物のピアノのキーを押し下げたときに、最後のところでカクンと一段クリック感みたいなものがあり、これはレペティションレバーがローラーを介してハンマーを押し上げたときにジャックという部品が脱進してハンマーを解放するときの感触(だと思いますが間違っていたらすみません)ですが、この本物っぽいタッチ感を電子ピアノで作り出している機種があるわけです。
これにより、少しなりとも電子ピアノの味気ないタッチに生ピアノ風の(とくにグランドに顕著なこの感触を)演出しようという試みでしょう。
私なら練習用として割り切って買う電子ピアノなら、専らこの点と価格を重視するような気がします。

調べてみると、候補に挙げておられたCAリーズならCA93という最上級モデルでないと付いていませんが、CN33という機種なら標準価格17万弱の製品にはこれが搭載されてています。

その結果、この方は再度あれこれ試してみられた結果、CN33よりもCA13のほうが実際のタッチが良いと感じられたそうで、ついにこれを購入されたとのこと。
ちなみにCAシリーズは木製鍵盤がウリとのことで、電子ピアノでそれはポイント高いと思いました。
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福岡ピアノクラブ2周年

ピアノクラブの発足2周年の節目に当たる定例会が行われました。

会場はパピオビールームという福岡市が運営する音楽練習場で、そこの大練習室。
この施設を利用するにはすべて抽選での申し込みが必要で、数ヶ月だか半年だか忘れましたが、抽選に参加して、どうにかこの日この会場が当選しての利用というわけです。

大練習室はオーケストラの練習が楽にできる広さがあり、この施設内でも文字通り最大の練習室で、ちょっとしたコンサートなども行われており、ピアノはスタインウェイのDとヤマハのC7があります。
ここのピアノはずいぶん昔(まだ新しい頃)に数回弾いた事があり、そのころはまだ気軽に利用できていたのですが、ここ最近はすべて抽選になるほどの高い利用率の会場であるだけ、ピアノもさぞ酷使されているだろうと思っていましたが、これが思いのほか状態がいいのは嬉しい誤算でした。

この施設が出来た時に収められたピアノで、すでに20年以上経過したはずのピアノですが、なかなか甘い音色と柔らかな響きを持っていて、現在のスタインウェイにはない麗しさがありました。

ただスタインウェイには、このメーカー独特のタッチやフィールがあるために、メンバーの各人ははじめはちょっと弾きづらいというような声も聞こえましたが、マロニエ君に言わせると、むろん完璧とはいいませんが、むしろ良い部類のスタインウェイだったと思いました。
とりわけ公共施設の練習場のピアノとしてはモノも状態も文句なしというべきでしょう。

弾き心地というか、いわゆる弾き易さの点でいうと、たしかに日本のピアノは弾きやすいのも事実で、それが標準になっているのはマロニエ君を含めて多くの日本人がそうだろうと思われますが、ストラディヴァリウスなども初めはどんなに腕達者でもてんで鳴らないのだそうで、その楽器固有の鳴らし方や演奏法を身につけるには、最低でも一ヶ月はかかるといわれますから、ピアノも同様、すべての楽器は本来そういうものだと思われます。

その点では日本の楽器はピアノに限らず、管でも弦でも、あまりにイージーに過ぎるという意見もあるようです。誰が弾いてもだいたい楽々と演奏できるのは、日本製楽器の特徴でそれはそれで素晴らしいのですが、そのぶん何かが鍛えられずに甘やかされているといえば、そうなのかもしれません。

クラブのほうは、定例会が行われる度に新しい方が加わり、いまやかなりの大所帯になってしまっていることが驚くばかりです。

こんな一幕も。
ある方が演奏を終えて席に戻ろうとされたとき、新しく参加された方がその人に歩み寄ってしきりと挨拶をしておられて、一瞬何事かと思いましたが、なんとクラブ員の方が一年前にピアノを新しく買い換えられた時に、前のピアノをネットで売りに出して、そのピアノを買った人が偶然クラブに入ってこられたというわけで、その売買のとき以来はじめて顔を合わされたようでした。

世間は狭いという、まさにそんな光景でした。

いつも通り、定例会終了後は懇親会の会場へと場所を移して、大いに飲み食いして、大いに語り合ってのお開きとなりました。
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この夏の技術者

この夏の間に、期せずして数人のピアノ技術者に直接会ったり、あるいは電話であれこれと話をしたりする機会がありましたが、同じ調律師という職業でも本当にさまざまな方がいらっしゃるものです。
いろいろ障りがあるといけませんので敢えてお名前は伏せますが、接した順番にご紹介。

Aさん。
数年前に知人を通じて紹介された方。多芸で非常に営業熱心な方。我が家のピアノも見ていただいたことがあり、長時間かけて細かい調整などをしていただいたことがあります。ある会場で偶然にお会いしましたが、あいかわらず熱心なお仕事ぶりでした。この方に全幅の信頼を寄せる方も少なくないようで納得です。技術もさることながら、そのいかにも謙虚な態度がお客さんの心を掴んでいるんでしょう。短い時間でしたが久しぶりにあれこれと話ができました。

Bさん。
我が家のピアノの主治医のお一人で、大変真面目で、ホールの保守管理やコンサートの調律などもやっておられる本格派ですが、決して自分の腕をアピールされないところにお人柄が現れています。あくまでもマイペースを守りながら納得のいく仕事をされる方で、多方面からの厚い信頼を獲得されているのも頷けます。とくにオーバーホールなどでは一般的な技術者の3倍近く時間をかけられるようで、仕事に対する情熱とひたむきさは特筆ものです。その人柄のような整然とした調律をされ、ときどき我が家のピアノのことを心配してお電話くださいます。

Cさん。
あるヴィンテージピアノによるリサイタルに行ったところ、そのピアノ状態がいいので感心していたら、なんとこの調律師さんの調律でした。我が家のピアノの調律も以前やっていただいたことがあり、とてもきちんとした素晴らしい仕事をされます。それが高く評価されてのことでしょうが、いろいろなところでお見かけしますが、ご当人は至って控え目な優しい方です。コンサートでお会いした数日後のこと、あることで何十年も前の古い雑誌を見ていたら、この方がまだうんと若いころに小さな写真付きで、対談に出ておられるのを見つけて、偶然の連続にびっくりしました。

Dさん。
この方も我が家の主治医の一人で、全国で広く活躍するかたわら、本を出したり主催コンサートのCDを出したりと、果敢な精神の持ち主で、業界の不正とも戦う闘士の側面を持っておられます。それでいて非常に純粋な心の持ち主で、およそ駆け引きなどのまったくできない直球勝負の方です。この方の音に関するこだわりは並大抵のものではなく、自分が理想とする音色を作り出すためにはあらゆる労苦を厭わないスタンスを長年貫き、この方の支持者は全国に大勢いらっしゃいます。見方によっては風変わりな方でもあるけれど、話していると少年のようでとても味のある愉快な方です。

Eさん。
マロニエ君がある意味最も親しくしてもらっている調律師で、普段から多岐にわたってお世話になっている方。あかるくおおらか、声も大きく、まるで調律師という雰囲気ではありませんが、ひとたびピアノに向かうと別人のように研究熱心で誠実な仕事師に変貌します。なにかと頼りになる技術者で、ちょっと疑問を投げかけるとすぐに飛んできてくれますし、何かがわかればわざわざ専門的な内容でも説明付きで電話をくださったりですが、何事も決して断定されないところが謙虚です。マロニエ君のよき相談相手で師匠でもあります。奥さん共々家族ぐるみのお付き合いがもう長いこと続いています。

Fさん。
以前、このホームページを見て連絡をくださった他県の有名な調律師の方。メインはベーゼンドルファーのようですが、九州のホールにはまだないファツィオリなども経験しておられるなど、いろんな輸入ピアノの経験が豊富な方。我が家のピアノが抱える問題を見に、わざわざ寄ってくださいました。ご自身、ピアノがとてもお好きということで、興味深い話をあれこれと聞かせていただきましたが、やみくもに世間に媚びることのない、自分らしいスタンスをお持ちの方とお見受けしました。海外のメーカーにも自費で留学するなど、ピアノにかける情熱は並々ならぬもので、またゆっくりお会いしたいものです。

存じ上げている技術者の方はもっとおられますが、とりあえずこの夏に接した方々です。
ただピアノが好きと言うだけで、こんなにもたくさんの技術者の方がお付き合いくださり、なんだかマロニエ君のピアノの味方がたくさんいてくださるようで心強い限りです。
篤く々々御礼申し上げます。
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グールドのピアノ

「グレン・グールドのピアノ」という本を読みました。

グールドはその独特なタッチを生かすために、終生自分に合ったピアノしか弾かず、それがおいそれとあるシロモノではないために、気に入ったピアノに対する偏執的な思い入れは尋常なものではなかったことをあらためて知りました。

彼がなによりも求めたものは羽根のように軽い俊敏なタッチで、これを満足させるのがトロントの百貨店の上にあるホールの片隅に眠っていた古びたスタインウェイでした。
グールドはこのCD318というピアノで、あの歴史的遺産とも言っていい膨大な録音の大半を行っています。

1955年に鮮烈なデビューを果たしたゴルトベルク変奏曲は別のスタインウェイだったのですが、これが運送事故で落とされて使えなくなってからというもの、本格的なグールドのピアノ探しがはじまります。
そして長い曲折の末に出会ったのがこのCD318だったわけですが、実はこのピアノ、お役御免になって新しい物と取り替えられる運命にあったピアノだったのです。

ニューヨークのスタインウェイ本社でも、グールドの気に入るピアノがないことにすっかり疲れていたこともあり、この引退したピアノは快くグールドに貸し与えられ、そこからグールドは水を得た魚のように数々の歴史的名盤をこのピアノを使って作りました。

グールドはダイナミックなピアノより、音の澄んだ、キレの良い、アクションなど介在しないかのような軽いタッチをピアノに求めました。驚くべきは1940年代に作られたこのピアノは、グールドの使用当時もハンマーなどが交換された気配がありませんでしたから、ほぼ製造時のオリジナルのピアノを、エドクィストという盲目の天才的な調律師がグールドの要求を満たすよう精妙な調整を繰り返しながら使っていたようです。

しかし後年悪夢は再び訪れ、このかけがえのないCD318がまたしても運送事故によって手の施しようないほどのダメージを受けてしまいます。フレームさえ4ヶ所も亀裂が入るほどの損傷でした。録音は即中止、ピアノはニューヨーク工場に送られ、一年をかけてフレームまで交換してピアノは再生されますが、すでに別のピアノになっており、何をどうしても、以前のような輝きを取り戻すことはなかったのです。

それでも周囲の予測に反してグールドはなおもこのピアノを使い続けるのです。しかしこのピアノの傷みは限界に達し、ついにグールド自身もこのピアノを諦め、あれこれのピアノを試してみますがすべてダメ。そして最後に巡り会ったのがニューヨークのピアノ店に置かれていたヤマハでした。この店の日本人の調律師が手塩にかけて調整していたピアノで、それがようやくグールドのお眼鏡に適い、即購入となります。
そして、死の直前にリリースされた二度目のゴルトベルク変奏曲などがヤマハで収録されました。

ただし、グールドがこだわり続けたのは、なんといってもタッチであり、すなわち軽くて俊敏なアクションであって、音は二の次であったことは忘れてはなりません。音に関してはやはり終生スタインウェイを愛したのだそうです。
この事を巡って、当時のグールドとスタインウェイの間に繰り返された長い軋轢はついに解消されることはなく、ヤマハを選んだ理由も専らそのムラのないアクションにあったようで、やがてこのピアノへの熱はほどなく冷めた由。

たしかに、アメリカのスタインウェイ(とりわけこの時代)の一番の弱点はアクションだと思いますが、これを当時のスタインウェイ社に解決できる人、もしくはその必要を強く認めた人がついにいなかったのは最大の不幸です。

のちにアメリカの調律師でさえ、現在の最先端修復技術があれば事態は違っただろうと言っていますし、当時のグールドの要求を実現してみせる技術者は、実は40年後の日本にこそいるのではとマロニエ君は思いました。
現在の日本人調律師の中には、グールドが求めて止まなかったことを叶えてみせる一流の職人が何人もいるだろうと思うと、タイムマシンに乗せてトロントへ届けてやりたくなりました。
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ピアノは気楽

もし自分が天才的な才能に恵まれて、世界中を駆け回るほどの演奏家になれるとしたら、ピアニストとヴァイオリニストのどちらがいいかと思うことがあります。世界的な奏者になるということはヴァイオリンの場合、当然それに相応しい楽器を必要とする状況が生まれてくることを意味するでしょう。

しかし、オールドヴァイオリンにまつわる本を読めば読むほどそういう世界とかかわるのは御免被りたいというのが正直なところです。
そしてピアノは、ともかくも楽器の面では遙かに健全な世界だと思わずにはいられません。

いまさら言うまでもなく、ピアニストは世界中どこに行っても会場にあるピアノを弾くのが基本ですから、そこに派生する悩みは尽きないわけで、リハーサルなどは寸暇を惜しんで出会ったばかりのピアノに慣れることに全神経を集中するといいます。
ピアノに対していろんな希望や不満があっても、技術者の問題、管理者の理解、時間の制約などが立ちはだかって、ほとんどは諦めムードとなり、残された道はいかにその日与えられたピアノで最良の演奏をするかということになるようです。

あてがいぶちのピアノに対する不安や心配、愛着ある楽器で本番を迎えられない宿命、こういうときにピアニストは、どこへ行こうとも自分の弾き慣れた楽器で演奏できる器楽奏者が心から羨ましくなるといいます。

しかし、何事も一長一短というがごとく、ヴァイオリンの場合、手に入れようにもほとんど不可能と思われるような巨費が立ちはだかります。あるいは大富豪やどこかの財団のようなところから貸与の機会を得るなどして、めでたく名器を弾ける幸運に恵まれたにしても、さてそれを自分自身で持ち歩かねばならず、さまざまな重い責任が生じ、そんな何億円もする腫れのものみたいな荷物を抱えて世界を旅をして回るなんぞまっぴらごめん。
ましてやそれが借り物だなんて、マロニエ君なら考えただけで気が滅入ってしまいます。

実際にあるヴァイオリニストが2挺のオールドヴァイオリンを持って楽屋入りし、1挺を使って演奏中、使われなかったほうの1挺が盗まれたというようなことも起こっているそうです。
しかもそのヴァイオリンが再び世に姿をあらわしたのは、奏者の死後のことだったとか。

貴重品扱いでホテルのフロントなどが預ってくれるかどうかは知りませんが、いずれにしろ四六時中気の休まることがないはずで、とてもじゃありませんがマロニエ君のような神経の持ち主につとまる行動ではありません。
ちょっと食事をする、人と会う、買い物をする、ときには音楽から離れてどこかに遊びに行くこともあるでしょう。
そんなすべての時間でヴァイオリンの安全が頭から離れることはないとしたら、これは正に自分がヴァイオリンの奴隷も同然のような気がします。
しかも相手は軽くて小さな楽器で、簡単に盗めるし、足のひと踏みでぐしゃりと潰れ、マッチ一本でたちまち炭になってしまうようなか弱いものです。楽器の健康管理にも気を遣い、定期的に高額なメンテに出さなくてはいけない、そんなデリケートの塊みたいなものと一緒に過ごすのですから、弾けばたしかに代え難い喜びもあるでしょうが、それ以上に鬱々となりそうです。

こういうことに思いを巡らすと、その点ピアノは、なんとまあ気楽なものか。
多少のガマンもあるにせよ、持って歩く楽器特有の管理などという煩わしさは一切なく、身の回りの物以外は手ぶらで会場に行って、演奏をして、また体ひとつで身軽に帰っていけばいいわけです。
ああ、なんという幸せでしょうか!
これだけでもピアノを選びます。
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ヴァイオリンの闇

最近、ヴァイオリンの名器にまつわる一冊の本を読了しました。
著者はヴァイオリンの製作者にして調整や修理なども行うヴァイオリンドクターでもあり、さらには鑑定や売買の仲介などもやっておられる方でした。

長年こういう仕事をやっている人ならではのおもしろい話がてんこ盛りで、世界中の有名演奏家やオーケストラの多くからもその方の技術には多くの期待と信頼が集まっているようでした。
出てくる名前だけでもびっくりするようなアーティストが続々と登場し、ピアノの調律と同様、このような高等技術の分野における日本人の優秀さは今や世界的なものであることが痛感されます。

本そのものは内容も面白く、平易な文体で、まさに興味深く一気に読んでしまいましたが、読了後の気分というのはなんとはなしに快いものではありませんでした。
それはヴァイオリンという楽器が持つ一種の暗い、得体の知れない、ダーティな部分にも触れたからだろうと思います。
とりわけクレモナのオールドヴァイオリンの世界は、骨董品の世界と同様で、どこか眉唾もののヤクザなフィールがつきまとうのです。
その途方もない価格と、怪しげな価値。
真贋の境目がきわめて不明瞭で、世にも美しいヴァイオリンの音色は、常にその怪しい世界と薄紙一枚のところに存在しているという現実がよくわかりました。
鑑定などといっても絶対的なものはほとんどなく、大半が欧米の有名な楽器商が発行したものや鑑定家の主観の域を出ないこともあり、状況証拠的で、狂乱的な価格を投じても真贋が後に覆ることもあるとかで、とてもじゃありあませんが堅気の人間が足を踏み入れるような世界ではないというのが率直な印象です。

この本を読んでいると、次第にこの世界すべてのものに不信感を抱くようになる自分が読み進むほどに形成されつつあることに気付きはじめました。
要するになにも信頼できるものは定かには存在せず、こういうヴァイオリンに関わる人すべてに不信の目を向けたくなってきます。もちろん演奏家も含めて。

ヴァイオリンには悪魔が宿るというような喩えがありますが、まさにその通りだと思いました。
そもそも300年以上経っても現役最高峰の楽器として第一線にあるという生命力ひとつとっても、なにやら魔性の仕業のようだし、あの正気の沙汰とは思えぬ億単位の価格なども、げに恐ろしい世界であることは容易に嗅ぎ取れるというものでしょう。

むかし車の世界にも「ニコイチ」というのがあって、例えばポルシェやフェラーリの事故廃車の同型を二台切ってつなぎ合わせて一台の中古車を作り上げるという詐欺まがいの行為が横行した時期がありました。もちろん大変な作業ですが、それだけの手間とコストをかけても、高値で売れて儲かるからこういう悪行が発生するわけです。

これと似たような発想で驚いたのが、なんと1挺のストラドを解体して3挺のストラドを作り上げるなどという、まるで映画さながらのことがおこなわれていたらしく、それも過去の話だと言い切れるでしょうか。
一部でも本物のパーツが存在すれば本物として通用するという発想で、それぞれ他のオールドヴァイオリンと精巧に合体させて一流の技術をもって作り上げれば、3挺のストラドが存在することになり、儲けも3倍というわけでしょう。

さらには歴史に残るヴァイオリン製作の過去の名匠達は、精巧無比なストラドやグァルネリのコピーを作っているのだそうで、それが後年真作として売買されるケースがあるとか。しかも困ったことに、これらがまた本物に勝るとも劣らぬ申し分のない音を奏でるのだそうで、その真贋騒ぎはますます混迷の度を深めるようです。

ここまで来るとコピーといえども相当の価格が付くのだそうで、いやはや大変な世界です。

最近ではデンドロクロノジー(年輪年代法)というハイテク技術を用いることで、使われた木の伐採年代などを調べられるようになり、それによって300年前の製作者が使っていた木の膨大なデータと照合するのだそうです。
科学技術の力でこの世界の闇のいくぶんかは光りを得たといえるのかもしれませんが、まさに指紋照合みたいなもので、美しい音楽の世界というよりは、専ら警察の犯罪捜査に近いものを感じてしまいます。
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あんぷ

自分のクセとか気質は容易なことでは訣別できるものではありませんね。

札つきの練習嫌いだったマロニエ君は、このところまたしてもその過去の悪癖が覆いようもなく顔を出して、練習なんててんでまっぴらゴメンだという気分に陥っています。
その理由は様々ですが、そのひとつに、どうも暗譜力が衰えたということもあるようです。
もともと読譜力も弱いし、暗譜も得意ではなかったマロニエ君ではありますが、それでもむかしは何度か弾いているとある程度自然に覚えていたものが、だんだん難しくなってくることを痛感しています。

歳を取るのはイヤなもんだと思うのはこういうときですね。
むかしはそれなりに暗譜できていたこともあって、しばらくすると楽譜を見ないで練習することが多かったのですが、最近はなんとか弾けるようになったと思った曲でも、楽譜がないとパタッと止まってしまいます。
こういうときに気分は一気に落ち込んで、練習そのものまでイヤになります。

続けるには、仕方なく楽譜を見て弾くことになるわけですが、暗譜していくテンポのトロさが自分で気になりだして、それがまたやる気を失うわけです。とくにイヤになるのは同じ箇所がいつまでも覚えられない。
こんな調子では自分なりの効率的な練習などできない、人にはできることが自分にはできないと思ってしまい、それでまた練習がますますイヤになる一因となってしまうのです。
暗譜ができにくくなってくると、腹立ちまぎれに、暗譜の方法が間違っているんじゃないか?そもそも暗譜って音と指の運動で覚えるものか、はたまた楽譜そのものを写真で撮ったように記憶することなのだろうかなどと、いまさらそんなことを考えはじめてしまいます。

よく優秀なピアニストの中には、楽譜だけを読んで、それだけで暗譜が出来てしまい、ピアノの前に座ったときにはある程度弾けるなんて人があるものですが、そんなこと、マロニエ君から見たら宇宙人としか思えません(笑)。
やはり音符は実際の音と自分の指の動きをつき合わせながらでないと、到底できることではありませんし、しかも大いに苦労している次第。

それでも、懲りもせず新しい曲を弾いてみたいという意欲ばかりは多少なりとも持っているのはせめてもの救いかもしれませんが、それらはいずれも人前で弾くなんてことはまったく念頭にはなく、すべて自分一人の楽しみのためでしかありません。
でも、これが楽しくなければ本当のピアノ好きとはいえないような気がするのですがどうでしょう。

人前で弾く、何かの折に発表するといったことが練習の目的になるというのを頭から否定するつもりはありませんが、それがないと練習もしないというのではピアノを弾く動機が不純すぎると言いたいのです。基本的にはあくまでその曲と自分が交信しているその瞬間こそがピアノを弾く喜びの中核でありたいものです。

例えばマロニエ君はろくに弾けないくせにコンチェルトなどもしばしば弾いてみます。
いくらかやってみて、よしんば上達しても、それを人前で弾くとか、ましてやオーケストラと共演なんて天地がひっくり返ってもないことですが、ただそれでじゅうぶん楽しいわけです。

オーケストラの序奏部を長々と弾いた末にやって来る、ソロの出だしなどは、ちょっとたまらないものがありますが、こんなこともひとり遊びだからこそできることでしょう。

今更ですが、有効な初見の上達法、暗譜の上達法などはあれば挑戦してみたいものですが、ま、無理でしょうね。
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好ましいホール

知人から誘っていただいて、過日、福岡の郊外にあるホールへピアノを弾きに行ってきました。

道が空いていればマロニエ君の自宅から3〜40分ほどの距離にある総合文化施設で、ここの音楽室はピアノクラブの定例会でも何度か利用したことがあるのですが、今回の会場は600席弱のメインホールで、ピアノはスタインウェイのD274がありました。
ここに限らず、今どきは郊外のあちこちに作られた各ホールにも、多くの場合スタインウェイが収められている気前の良さには今更のように驚かされます。

マロニエ君の知る限りにおいて、このホールではこれというコンサートがあまりないため、これまで内部に入ったことがなかったのですが、それが思いがけず、予想外の良いホールであったのは驚きでした。
ホール内の趣味も良く、とりわけ余裕のある大きめの客席のシートの立派で上質なことには目を見張りましたが、これは福岡市内のコンサートがしばしば行われている、いかなるホールと較べても突出して優れたものでした。

さらに音響がなかなかいい。
近ごろの新しいホール(とくに新しいものは)はやたらめったら響きすぎる、残響という名のただ音がワンワン暴れるだけのホールが多くて好きになれないのですが、ここの響きには音の輪郭を崩さない節度があり、この点がたいへん好ましく感じました。
音楽専用ホールには残響の数値などにこだわりすぎるのか、結果として非音楽的なもの、あるいは演奏家の妙技が伝わらない場合が多いのですが、その点ではいわゆる多目的ホールのほうが音がまだしも自然で、マロニエ君としては遙かに好ましく感じる場合が多いという印象です。

ホールというのはあらためて大したものだなあと感じたのは、最後列に座っても、そこへ到達してくる音は前方に較べてほとんど遜色なく、空間全体が豊かな音に満たされるのは今更ながら感銘を覚えます。
お客さんの入ったコンサートでは演奏中にひょいひょい席を移動するなどの聴き比べはしたくでもできませんので、そういう意味でもこういう機会にいろんなことがわかります。

このような好ましいホールで行われるピアノリサイタルなどもぜひ聴いてみたいものですが、悲しいかなアクセスが不利なため、催しの中身のほうが施設設備に追いついていない観があるのはなんとも残念なことです。
コンサートの情報はそれなりにアンテナを立てているつもりですが、ここのホールとピアノに相応しいコンサートが行われたという記憶はあまりありません。
大半が地元レベルのイベントやコンサートに留まっているようで、なんとももったいない話です。

これぐらいのホールこそ(規模の点でも、音響の点でも)市内中心部にぜひもうひとつ欲しいもんだと思わせられる、そんな素敵なホールでした。

ピアノは製造後7ー8年ぐらいしか経っていない比較的新しいものでしたが、なかなかバランスの良いピアノでしたし、調整もきちんとなされていることが弾いてすぐわかるものでした。
少なくとも現在の新しい同型よりは、まだ「らしさ」が残っており好ましく感じました。ただこの頃のピアノから、次第に基礎的なパワーは少しずつ落ち始めているように感じるのも事実で、中音域の厚みとか、低音の鐘のような迫力などはやや薄味になっているようです。
それを補うように、全域ブリリアントな音色ですが、できたらもう少し腹の底から歌って欲しいところ。
こうして様々な年代の異なるDを弾いてみると、それぞれの製造時代ごとの僅かな違いが手に取るようにわかり、それは多くのCDなどから得た記憶ともほぼ正確に一致するものなので、ピアノ好きとしては興味深い体験させてもらえる気がしています。

管理や調整にもそれぞれ差がありますが、生まれ持った器というのは、それを超えたところにあるもののようです。
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ベーゼンの販路拡大

月曜の読売新聞の朝刊文化欄には、ずいぶん広々と紙面(6段抜きで大小3枚の写真付き)をとって「ウィーンのピアノ継承」というタイトルでベーゼンドルファーの記事が載っていました。

この伝統あるピアノメーカーをヤマハが買収したというニュースは衝撃的でしたが、あれから3年半が経ったらしく、経営合理化も完了して、今後は世界的な販路拡大へ本格的に乗り出すのだそうです。

ベーゼンドルファーはピアノ製作に関して例外的に手間のかかる作業を熟練職人がすべて手作業でやっているということを、事ある毎に標榜するメーカーで、例えば、完成した楽器には付けられるのは製造番号ではなく、作品番号である云々など、それらは執拗に繰り返されるフレーズだという印象さえありました。
ところが実際には手作業は8割だそうで、裏を返せば2割は機械化されているということでしょうか…。

「なあんだ、スタインウェイと大体おなじじゃん!」って思いました。
もちろんベーゼンドルファーの隅々にまで行きわたる工芸的な美しさは抜きんでたもので、この点ではまさに世界の一流品というに相応しいものであることは間違いありませんが。

ベーゼンドルファーといえばピアノ界の至宝のように言われて、何かといえばウィーンの伝統、独特のトーン、貴婦人のよう、というような言葉が今もこの楽器のまわりには朝靄のように漂っています。
さぞかし世界的な需要もあるのかと思いきや、販売台数はヤマハの助力を得てもさほど伸びていないようで、2009年/2010年はそれぞれ220台に留まっているとか。損益分岐点が260台の由で、なおも赤字ということのようです。

製造に手間暇がかかるというのもあるでしょうが、販売量が伸びない理由のひとつには、あの独特な個性とピアノとしての汎用性の薄さに原因があるようにも思います。
あれだけ音色的にもスイートスポットが狭く、弾く作品も選ばざるを得ないとなると、オールマイティであることがピアノにとっては現実的性能とも同義になりますから、好きでも諦めるという人は少なくないような気がします。
よほどのお金持ちならいろんなピアノをそろえて、モーツァルトとシューベルトのためのピアノということで一台買うのも一興でしょうが、普通はなかなかそうもいきません。
また以前はホールでもちょっと贅沢なところはスタインウェイとベーゼンドルファーを揃え置くのが通例のようになっていましたが、今はそのあたりも少し変わってきている印象です。

驚いたのは、ヤマハがベーゼンドルファーの買収のきっかけになったこととして、そもそもヤマハがウィーンフィルの管楽器製作を請け負っていることからウィーンとの関わりを深めていったという側面があったらしく、これはまったく知らなかったことでした。
ウィーンフィルの管楽器がヤマハ…、これは考えたらすごいことだと思います。
その関わりの中でヤマハの高い品質への理解が深まったことで、そこからヤマハがベーゼンドルファーの伝統を守ろうという考えに繋がったようなことが書かれていました。
ま、そのあたりは冷徹非情なビジネスの世界のことなので、あくまで表向きの話かもしれず、半分聞いておけばいい気もしますが。

ただ、ヤマハは管楽器の分野でもその品質や鳴りの良さには定評があり、最近ではヴァイオリンなどでも高い評価を得ているといいますから、電子楽器を含む、ほんとうにあらゆる楽器を一つのメーカーが一つのブランドのもとに作っている(しかもどれもがクオリティの高い上級品!)という点で、これは史上例を見ない会社ではなかろうかと思います。
もしかしたら、そのうちヤマハの楽器だけを使ってのオーケストラやピアノコンチェルトなんかもできるかもしれませんね。そうしたらギネスものです。
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レクチャー&コンサート

横山幸雄氏によるレクチャー&コンサートに行ってきました。

チケットが千円というのが信じられないほどの内容で、前半は2人の生徒を相手に公開レッスンがおこなわれ、後半は横山氏のリサイタルという構成で、休憩を挟んで2時間を優に越す内容でした。
指導も演奏もして、自らマイクを持っておしゃべりもすれば、ロビーにはCD販売コーナーが設置され、終演後はサイン会まであるのだそうで、有名ピアニストもいまや多角経営とサービスの時代のような印象。

安く聴いておいて不満を言ったら叱られそうですが、こっちだって遠くまで頑張って行ったわけだし、この世界は安ければなんでもいいというわけでもないので、そこは申し訳ないけれども敢えて率直なところを書いてみます。

レッスンでは小学生と中学生の2人が指導を受けましたが、横山氏の声量がマイク付きでもずいぶん小さく、話し方もぼそぼそとつぶやくようで、言葉が聞き取りづらいのが残念でした。ホールにお客さんを入れて衆目の中でレクチャーをする以上は、もう少し広く見せて聞かせるに値する性格のものであってほしいと思いました。
レッスン自体は頷ける内容も多々ありましたが、細かい指示を矢継ぎ早に出しすぎるという印象で、もう少し音楽全体に通じる本質に迫るほうがこういう場には好ましいように感じましたが、まあそこは横山氏のやり方なのでしょう。

音楽家である以上、その話し方にも抑揚や強弱などのメリハリ、もう少しその本業からも汲み取ったであろう表現があればと思いますが、その話しぶりはピアノでいうと機械的な演奏みたいでした。
生徒に「あまりシステマティックにならないように」と指示した箇所がありましたが、それは貴方の話し方にも言えることでは…とつい思ってしまいました。

後半のソロ演奏は、指のメカニックはなるほど達者ですが、やっぱり音楽もどちらかというと平坦でドライ、作品に対する愛情深さが感じられずに、もう一つ満足が得られなかったのが正直なところです。
曲目はショパンの第1バラード、エチュード5曲、リストのカンパネラや献呈など5曲と、アンコールにもリストとショパンが演奏されましたが、すべてに共通するのがさらさらと譜面が進行していくだけで、もう少しの深みと、路傍の花にも目を向けるような情感があったらと思いました。

メモリーに余裕があってサクサク動くパソコンみたいな爽快さはありますが、少なくともマロニエ君は聴いている人間への語りかけとか、心にぐっと食い込んでくる何かが欲しいと思うわけです。
あれだけの秀でた才能とメカニックがあるのだから、もうひとつ踏み込んだ味わいがあったらどんなにか素晴らしいだろうかと思います。

ピアノはベーゼンドルファー275とスタインウェイDが使われて、レッスンでは生徒がスタインウェイを、リサイタルではショパンをベーゼンドルファーで弾き、途中でピアノを入れ換えて、続くリストではスタインウェイを弾くという面白い趣向で、この点は大いに楽しめましたが、いかんせんマロニエ君の好みではいまさらながらベーゼンドルファーでのショパンはいただけませんでした。

ベーゼンドルファーが大変優れたピアノであることはまぎれもない事実ですが、このピアノでショパンを鳴らすと、まるでピアノの音色がしわがれた老婆の声のように感じられてしまいます。
ミスマッチというのはまったくこの事で、良し悪しの問題ではなく、世の中にはどうしてもソリの合わないものがあるのだと思います。
逆に使ったらずいぶん違っていただろうと思いますが。

会場が遠かったことや、折からの台風の影響による終日の悪天候も加勢して、帰宅したころにはずいぶんとぐったり疲れてしまいました。
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中古スタインウェイ

知人がピアノ購入を検討しているらしく、大手楽器店にある戦前のスタインウェイのS型を先日見に行きました。
戦前のモデルですが、ほぼ完全なオーバーホールがされており、見た感じではパリッときれいな印象で、とても70年以上経ったピアノには見えないものでした。

とくにきれいだと思ったのはボディの塗装で、赤みがかった美しいマホガニーの上にクリアーが上手く吹き付けられており、こういうことは直接音とは関係ない部分ですが、やはり購入を検討する中古品の場合、楽器としての内容もさることながら、視覚的な美しさは大きな魅力になると思います。

人間にとって、視覚的要素というのはやはり小さくない部分で、その影響を受けるのが普通ですし、逆にそれを完全に度外視するということの方が極めて難しいと思われます。
とりわけピアノは中古でも輸入物の一級品となるとかなり高額な買い物ですから、心情として見た目の美しさもたいへん重要になり、音や響きはもちろんのこと、目を楽しませるものでもあってほしいものです。
見た瞬間の第一印象というのは後々までその影響を引きずりますから、もしマロニエ君が中古ピアノ販売の経営者なら、内容の充実は当然としても、見た目も重視するでしょう。そのために少し値が張っても、視覚的な要因にもじゅうぶん堪えるような仕上げをするだろうと思います。
どんなに麗しい音色を紡ぎ出す楽器であっても、見た目がぼろぼろの傷だらけでは購入意欲もそがれますから。

さてこのピアノ、率直にいうと整調面でまだまだ手を入れるべきと思われる部分もありましたから、現状のままでもろ手をあげて勧める気にはなれませんでしたが、基本的には大変健康な元気のあるピアノだと思いました。
驚くべきは、とにかく良く鳴る溌剌としたピアノで、その音はとても戦前生まれの奥行きが僅か155cmしかない小さなピアノとは思えません。いまさらながらスタインウェイの持つパワーと、その持続力には脱帽させられました。
(ちなみにこれ、ヤマハのCシリーズ最小のC1よりもさらに6cmも短いサイズで、もっとも一般的なC3などは186cmですから、それより31cmも短いピアノです)

日本のピアノ(少なくとも現行普及品であれば)なら、もっと何サイズも大きなモデルでも、このスタインウェイの最小モデルに、ピアノとしてのパワーの点ではとても敵わないという印象でした。
もちろん音質然りで、とくに少し距離を置いて聴いていると、その密度の高い聴きごたえのある音ときたらさすがというほかなく、つい欲しくなるピアノでした。
先日の練習会での100歳のブリュートナーの枯れた感じもとてもよかったけれど、この73歳のスタインウェイのパワーはまだまだ若々しく、さらに次元の違いを感じます。

外装やフレーム、響板なども全塗装され、内部の消耗品や弦までかなりの部分が新品の純正パーツ(という話)に交換されているので、総合的にみるとじゅうぶん納得できる価格設定のように思われました。
ここの営業マンが主に関東に集中する同社の在庫表を見せてくれましたが、大半のピアノが純正パーツを使ってOH(オーバーホール)されており、これが真実言葉通りなら、その販売網と相まって輸入ピアノ業界では脅威だろうなあとも思いました。

普通はスタインウェイの本格的なOHともなると、国産の新品グランドが買えるぐらいの費用がかかりますから、それを思うと、一気にコストパフォーマンスが増してくるようです。
ただし、真正な作業であるかどうか、本当に純正パーツを使っているかどうかまではマロニエ君にはわかりかねますが。

すくなくとも「オリジナル」と称して、消耗部品にはなにも手を付けず、表面的な調整だけでお茶を濁して、ずいぶん立派な値段で売っている輸入ピアノはごろごろしていますから、それよりはよほど良心的な気がしました。
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ダルベルトの迫真

フランスの中堅だったミシェル・ダルベルトも、もはや50代後半、ある意味では今が絶頂期にあるピアニストかもしれません。
彼のリサイタルの様子がBSで放送されました。

この人は昔から名前は聞くものの、なんだかもうひとつわからない人という印象で、CDなどもいまいち買う気になれない人でした。少なくともマロニエ君にとっては。

今年、すみだトリフォニーホールで行われたリサイタルから、シューマンの「ウィーンの謝肉祭の道化」と「謝肉祭」が放送されました。この人の演奏を見ていて最も気になるのは、フレーズの間でもやたらパッパッと手を上げることで、あんな奏法がフランスの伝統的奏法にあるんだろうかということです。

パリ生まれのパリ育ちで、コルトーの影響を受け、ペルルミュテールに師事したといいますが、そこから想像されるフランスらしさみたいなものは感じられませんし、そもそもそういう演奏を期待するとまったく裏切ってくれるのが決まってこのダルベルトでした。
いわゆるフランスピアニズムとは故意に外れた道を行こうとしている印象。
レパートリーもいわゆるドイツロマン派を得意とする、フランス人の音楽的ドイツコンプレックスというのはわりにあって、現在もグリモー、古くはイーヴ・ナットなどもその部類でしょう。

ただし、フランスピアニズムといっていることその自体がこちらの勝手な思い込みかもしれません。堅固な構成力とか論理性よりも、フランス人は流れるような線の音楽を描き出したり、どこか垢抜けたセンスを表出させたりするというイメージが我々に根強くあるからでしょう。

ところがこのダルベルトはそういった要素から全くかけ離れた、その見た目の甘いマスクとも裏腹に、木訥でごつごつとした肌触りの悪い音楽です。洗練の国フランスどころか、むしろそれは無粋で益荒男的で、音楽はフレーズごと、否フレーズの中のさらに小さな楽句によって途切れ、寸断され、そこにいちいち上げた手が、これでもかという無数のアクセントや段落を作り出すのは、聞いていてちょっとストレスになることがあります。

こういう具合で、ダルベルトのピアノはあまり好きではないのですが、それでもひとつだけ大変満足させられるものがありました。
それは迫真的にピアノを良く鳴らし、演奏を決してきれいごとでは済まさないという点で、この点は最近では希少価値の部類だと思います。
ダルベルトはどちらかというと小柄で、手足の長さも日本人と変わらないような体型ですが、それでも椅子が低く、そこから上半身の重さと筋力のかかった硬質な深みのある音を出します。
激しいパッションが燃え立ち、低音なども迫力ある深いタッチが随所に現れ、ピアノがいかんなく鳴らされているのは聴きごたえがあり、この点だけでも近ごろではめったにない充足感に満たされました。

最近の若いピアニストは、楽々と難曲を弾きこなして涼しい顔をしていますが、そのぶん音楽に迫力がない。
その日その場での演奏に何かをぶつけているというナマの気概というか、情熱のほとばしりがないのです。
たしかに汚い音もあまり出しませんが、全身全霊をこめて絞り出すフォルテッシモもなく、淡々と合理的な練習成果を披露するのみ。まるでスーパーで売っているカタチの揃ったきれいだけど味の薄い、小ぶりな野菜みたいで、土と水と太陽の光で育まれたという真実味がない。

その反対のものを見せてくれただけでもダルベルトを聴いた価値があったように思いました。
とりわけ左手の強いピアニストというのは、それのないピアニストにくらべると何倍も充実した響きを作るようです。
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ペトロフ

ペトロフのグランドを弾ける機会があり、知人と連れ立ってお試しがてら行ってきました。

小型グランドで外装は木目のチッペンデール、音も含めて個性的なピアノでした。
ペトロフのユーザーに言わせると、このピアノはスタインウェイなどとは目指す方向が違うもので、いわば「木の音」がするということを強く主張されている方などもあるようです。この意見にはマロニエ君の少ないペトロフ経験でいうと、いささか疑問に感じる面もありましたが、今回もその疑問が覆ることはありませんでした。

スタインウェイと方向性が違うことには異論はありませんし、いわゆるデュープレックスシステムを持たないピアノなので、響き自体にある種の直線的な率直さを感じる音色ではあると思います。

しかし、ペトロフの音には倍音と雑音の両方がむしろ多めで、しかもかなり金属音を含んだするどい発音のピアノだという印象があり、これがペトロフ独特の音色を作り出していると思います。
そしてその音は、東欧に流れる気質そのものみたいな響きで(チェコじたいは中央ヨーロッパに位置する国ですが)、こういう音を好む人も多くおられると思います。
ひとつひとつの音に重さがあり、いわゆる明るい現代的なトーンの対極にあるピアノでしょう。
また、ドイツ的な理性と秩序の勝ったピアノでもなく、生々しい野性味さえ感じる音ともいえそうで、やはりこれはまぎれもなくドヴォルザークやスメタナを生んだ国の、深い哀愁に満ちた音だと思います。

ペトロフは価格に比して材料がよいピアノであることも有名でしたが、それはその通りだと思います。
ただしそれはあくまで音に関する部分だけかもしれません。
とりわけ白っぽい目の揃った響板などはそれを如実に物語っていたように思いますし、音自体にも良い材質を使ったピアノならではのパワーがあり、音が太く、よく鳴っていたと思います。

ただし、工作や仕上げのレベルは率直に言ってそれほどでもなく、この点では中国やアメリカのピアノ並で、全体の作りとか仕上げは残念ながら一級品のそれには及ばないものがありました。
製品としての仕上げには価格に対して必要以上のことはしないという、はっきりした割り切りがあるようにも感じられ、ピアノはここから先を工芸的に美しく仕上げるとなると一気にコストが上昇するという感じが伝わってくるようでした。
その点では日本のピアノが大量生産でありながら、あれだけの(仕上げの)クオリティを保っているのは、なるほど世界が目を見張るだけのものがあると理解できます。

さて、今回弾いたピアノはタッチ面で無視できない大きな問題を抱えていました。
キーが重めで、しかもストロークの比較的浅い部分で発音してしまうので、指先とハンマーの反応に一体感が得られず、コントロールがおおいにしづらい状態でした。大音響でバンバン弾く分にはともかく、デュナーミクや表情の変化に重きを置く演奏にはまったく向きません。

ただし、現代のペトロフはアクションはすべてレンナー製のごく標準的な基準で作られているらしいので、これは調整次第でじゅうぶん解決できることだと思われました。
それだけピアノに本来の輝きを与える役どころは技術者の熱心な仕事にあるということでもあります。

どんなに鳴りの良いピアノでもタッチコントロールが効かないことには魅力も半減ですが、しかし、逆を言うと生来鳴る力のないピアノを鳴るようにすることはまず不可能ですから、この点でペトロフの潜在力は旺盛で、おおいに可能性を秘めたピアノだという印象でした。
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なんちゃってスタインウェイ

知らぬ間にポスティングされているフリーペーパーの中には、60ページに及ぶオールカラーのそれこそ写真週刊誌ぐらいの立派なものもありますが、今回は下記のような内容のため、あえてその冊子の名前は書くことは遠慮します。
内容は大半が食事の店の紹介などで、後半にはエステなどの広告に至るという、わりによくあるタイプです。

新聞を見た後、朝ポストに入っていた9月号とやらをぱらぱらやっていると、この冊子のプロデューサーという人物が、あるレストランを訪問して、そこの若いオーナーと誌面で対談をやっていました。
その内容はここでは関係ないのですが、そこに掲載されている大きな写真がマロニエ君の目を惹きつけました。

このレストランは食べ放題形式で、音楽のライブ演奏をやっているらしく、対談する二人は店内に置かれたグランドピアノの前で、プロデューサーは手振りを交えてさも何かを語っているところ、迎えるオーナーはスッと左手をピアノに添えて、両者かっこよく立ち話をしている感じの写真が大きく載っていました。

ピアノは大屋根を閉じた状態で、斜め後ろからの角度でしたが、普通の小型グランドにもかかわらず、サイドに金色の文字とマークがあり、そこには明らかに「STEINWAY & SONS」の文字とその中央上に例の琴のマークがあるのです。
はじめはへええと思ってみていたのですが、んー?という違和感を覚えるのに大した時間はかかりませんでした。

マロニエ君はごく有名どころのピアノであれば、マークを見なくてもディテールの特徴などから、だいたいどこのメーカーかはわかります。
その上でいうと、この写真に写ってるピアノはどうみてもヤマハだと思いました。
それで写真を凝視すると、果たして4つの点でヤマハである根拠が見つかりました。それはとりもなおさずスタインウェイではないという証明にもなるわけです。

対談にはピアノのことは触れられていませんでしたが、このレストランのホームページを見てみると、やはり後方から大屋根を開けた状態の写真があり、そこでさらに3つの点でスタインウェイにはない特徴を見出しました。
合計7つの根拠をもって、このピアノがスタインウェイでないことは明白なのですが、なぜそんな偽装表示みたいなことをしているのか…単なるブランドのパクリでしょうか。

ピアノのロゴマークは真鍮のパーツきちんと入れるなら塗装屋など専門家に依頼しないと、とても素人が出来ることではありません。あるいはもし、これがレーザーカッターなどで作られたデカール(ステッカーのたぐい)だとすれば、鍵盤蓋にあるロゴマークはどうなっているのかと思います。
正面には「YAMAHA」、サイドには「STEINWAY & SONS」というのもちょっとねぇ、考えにくいです。

もし両側に真鍮のロゴパーツを埋め込んでいるのなら、これはもうかなり本格的な作業です。
お店では毎週木曜から日曜までディナータイムにジャズや映画音楽の生演奏をやっている由ですが、演奏する人達はこういうピアノを前にしてどんな気分なのかと思います。

できれば実物を見てみたい気もするので、近くだったら見物がてら食事に行ってもいいのですが、あいにくと北九州方面なので、そうまでしてわざわざ行く気にもなりませんが、こんなピアノ1台があるというだけで、なにやらお店の印象まで変わってくるようです。

このなんちゃってスタインウェイ、だれか北九州方面の人にでも頼んで、偵察してきてほしいところです。
くだらないけれども、そうざらにはないピアノだとは思います。
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動物の謝肉祭

フランス人のセンスに感服することは折に触れてあるものですが、またしても驚かされるハメになりました。

サンサーンスの動物の謝肉祭がひとつの可愛らしい、あっさりとした白の世界に作り上げられた素晴らしい映像を見ました。
指揮はチョン・ミョンフン、フランス国立放送フィルハーモニー管弦楽団と二人の若い女性ピアニストによる演奏ですが、床も周囲も真っ白のスタジオで演奏され、別所で収録された子供部屋での親子が動物の謝肉祭の絵本を見ることで、ページを繰るごとに音楽が引き出されていくというスタイルです。
この父親役となったのはフランスで有名な人気喜劇役者スマインで、彼の名演技がこの映像をより素晴らしいものにするのに一役買っていたことは間違いないでしょう。

さらに圧巻なのは、その演奏中の現実のオーケストラの中に、なんとも可愛らしいアニメーションの動物たちが現れ、のしのし歩いたり、飛んだり跳ねたりと、さまざまにデフォルメされた動物たちの動きが実にまた精妙で、よほど周到な準備がされたものだろうと思われます。この絵の動物たちが、親子が見ている本の中から飛び出して、チョン・ミョンフンの傍に行ったり、奏者の間であれこれの動きや遊びを展開します。

後半には父親役のスマインがやってきて指揮棒を振る場面がありますが、それがまたなんともサマになっていて、いわゆる役者の俄仕込みとは思えない、そのいかにもコミカルで音楽的な動きには感心しました。

全体に横たわる趣味の良さ、垢抜けた感性はさすがはフランスというべきで、日本人にはどう転んでも作り出せない世界だと思います。動物といえば緑をふんだんに使ったりと、うるさいような装置がごてごてと並ぶことになるような気がします。
とりわけ白の使い方は絶妙で、日本人が白の世界を作ると、雪の世界か、さもなくば温かみのない殺伐としたビルの内装のような冷たい世界か、あるいは味も素っ気もない病院みたいな世界になるように思われます。
フランス人は白を他の色と対等な、白という色として捉えているような気がしますが、どうでしょう。

親子を登場させるにしても、こんな絵本の世界でやさしく子供に読み聞かせる愛らしい情景となると、日本ではゴツイおじさんと小学生ぐらいの息子という設定はまず絶対に考えられない。
まず思いつきもしないでしょうし、誰かが提案しても、理解が得られずまっ先にボツになるに違いありません。
おそらくは猫なで声を出す若くてきれいなお母さんと、幼稚園ぐらいの可愛い子供のペアといったところでしょう。

しかしそれではただきれいな作り物の世界になるだけで、ここで見られるような自然な親子の間にある触れ合いとか味のある情感が自然に滲み出てくるということがないと思います。
この映像を見ていて、常に対照的なものとして頭から離れなかったのが、NHKの音楽番組などで使われるスタジオの野暮ったいセットの数々でした。いかにもあの紅白歌合戦に通じるような、くどくてわざとらしい、結婚式の披露宴的な世界を次から次に作り出しては、そこでクラシックからポピュラーまでの様々なパフォーマンスが収録されますが、一体全体あのセンスはどこから来るのかと思います。

この映像の監督はアンディ・ゾマー、ゴードンということでしたが、まさにその首尾一貫したあっぱれな仕事ぶりには脱帽でした。
くやしいけれど、やっぱり彼らにはどだい適わないと思います。

ちなみに、ここで使われた2台のピアノはヤマハのCFIIISで、やっぱりフランス人はよほどヤマハが好きらしいことはここでも確認できました。
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演奏は誰のため?

ピアノクラブという、いわゆるピアノの弾き合いクラブに所属して秋に丸二年を迎えようとしていますが、その間、以前なら想像だにできなかった赤面の極みであるところの人前演奏というものにも挑戦しました。

それを前提としたクラブに入る上はやむなしとして、ここに一定の覚悟をもって入会に及んだわけです。

そのための必要に迫られて、長年親しんできた「自分流」のピアノ遊びを一部棚上げし、まことに微々たる量ですが、人前で弾くということを念頭においての練習に時間を割くようになったことは、以前もどこかに書いたような気がします。

クラブの定例会はほぼ毎月開催され、その都度、人の居並ぶ会場の正面に置かれたピアノに向かってひとり歩を進め、そこでなにがしかの曲を弾かなければならないということは、マロニエ君にとっては相当にハードなことです。
こんな状況に追い込まれたというべきか、要は自分の意志で入会したわけですから、つまりは自分の意志によって己を追い込んだということになるわけですが、いまだそれに馴染まない自分がいることは、もはやどうにも手の施しようがありません。

人が聞いたら一笑に付されるかもしれませんが、正直言って、自分でもよく頑張ったもんだと感心しているほどで、それはささやかな練習をしたことではなくて、人前でピアノを何回も弾いたという点においてすこぶる感心しているわけです。
十人十色という言葉があるように、人前でピアノ弾くということに対する感覚の持ちあわせ方もさまざまで、それを無上の喜びのようにしている人を何人も目撃するにつれ、自分との違いに呆然とするばかりでした。

自分がおかしいのか、はたまたその逆か、そこのところは敢えて追求しないとしても、その甚だしい違いはどうみても解決する見込みのないことだと悟らずにはいられません。

さて最近、ちょっとそんな自分の様子が変化してくるのを薄々感じ始めていました。
本来の自分とは違うことをやっていると、場合によってはこれが習慣となって身に付く場合もあるかもしれませんが、ピアノの人前演奏だけはそうはいかないようです。

やっぱり本来自分にない無理を続けたのが祟ってきたのか、切り落とした枝がまた伸びてくるように、もとのスタイルに戻りつつあるのを自覚しはじめました。あるときふとそれを自覚するや、まさに坂道を転げるように、そのための練習がすっかり苦痛になりました。
マロニエ君には、人前で弾くためではなく、ただ単に自分がやってみたい曲がいろいろあって、どうもピアノの前に座るという限られた時間内にやりたいことの優先順位が元に戻りつつあるようです。

ピアノ教室などは、ともかく発表会だけは是が非でもやらなくてはいけないご時世だそうですから、やはり今は誰も彼もが平等にスポットライトを浴びて、一時の主役になるということが大切だとされているのでしょうが、そのあたりがまたマロニエ君の理解困難な部分なのです。
スポットライトなんてものは、一握りのそれに値する人達だけが浴びるものだという認識自体が、お堅くて古くてズレているのかもしれません。むかし竹下登が考案提唱した永田町の総主流派なんてものがありましたが、今は一億総主役というわけなのでしょう。

先日さる御方が、「音楽は自分一人でやっても意味がない、それを人に聴かせるということが大事なんだ。」という言葉をさも深い含蓄ありげに発せられました。むろんその場で反論はしませんでしたが、マロニエ君はまったくそれには不賛成でした。

そういう美しげな尤もらしい言葉を鵜呑みにし盾にして、現実にはどれだけの勘違いが発生しているかと思うと、そんな言葉も絵空事のように響きました。
むろん演奏の心得として、人に聴かせるぐらいな気持ちで演奏しなくてはいけないとは思いますが、それを現実に実行するとなると、これはまた別の話でしょう。
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増幅と収束

このところ個人所有のスペースにもかかわらず、ひじょうに音響の素晴らしいふたつの場所でほんのちょっと弾かせていただく機会に恵まれて、その響きの美しさに感心させられました。

そのうちのひとつでは、音響のためのさまざまな工夫がなされており、そこには専門家の助言なども反映されているそうですが、最終的に決定を下すのはオーナー自身の耳でしょうから、やはりまずはよい耳、つまり判断力を持った敏感な耳を持つことが何よりも大切だろうと思われます。

音響の素晴らしい場所では、その響きに助けられて、ピアノなども大いにその能力を発揮するのはいうまでもありませんから、同じ楽器でも果たしてどういうところで使われるかによって、まさに運命が決まるといえるようです。

逆に、巷にあっていかがなものかと思うのは、れっきとしたピアノ店の店舗などであるにもかかわらず、音響的な配慮という点で、まったくなんの配慮もなされていないところがあるのは、なんとも腑に落ちないところです。
しかもマロニエ君はそういう場所を何カ所か知っています。

コンクリートやツルツルした石材などに囲まれた店内は、見た目はともかくとして、響きすぎる銭湯みたいな場所にピアノを並べているようなもので、音はビリヤードの玉のようにあちこちに跳ね返って暴走するばかり。とても本来の音を聴くことなどできません。
とりわけお客さんが弾いてみて音を確認する場としては、著しく不適合な環境だと思うのですが、それでも商売として成り立っていくというのであれば、なにか違った要素や事情で売れていくのかもしれませんが。

とりわけマロニエ君が個人的に感じるところでは、ピアノの音の一番の敵はガラスだということです。
もちろんガラスといってもその面積によりますが、例えば広い壁一面がすべてガラスといったような状況では、ピアノの音はことさら鋭く反射して、とてつもなく攻撃的な音になってしまいます。

ピアノの音は本体の塗料の質や仕上げによっても大きく影響を受けますが、ましてやいったん発生した音がどういう環境で鳴り響くかということは極めて重大な影響があると思われます。
ガラスや光沢のある石材はおそらく最悪で、次がコンクリート。これもかなり厳しい音になりますが、しかしガラスよりはいくぶんマシな気がします。
ただし、カーペットなどを敷いているところは、いくぶん相殺されているようですが。

福岡県内には、驚くべきことにホール内部にガラスの内装材を多用したホールがありますが、そこの響きは音楽愛好家の耳には極めて厳しいものだと言わざるを得ません。

その点、木はいくぶん良いものの、それも程度によりけりで過信は禁物だと思います。
「木は音に良い」という盲信があるのか、木のホールなどと言って、やたら木材で床や壁を覆い尽くしたような空間がありますが、これがまた必ずしも好ましい音で鳴ってはいない場合があるように感じます。
木であってもやりすぎれば音はやはり相当暴れてしまい、節度ある響きではなるということでしょう。

その暴れ方がガラスやコンクリートに比較すれば木であるぶん多少マイルドという程度の差であって、ただ音がワンワンするだけの音の輪郭も定かでないような状態でも、関係者は「木だから響きが良い」などと信じ込んで自慢さえしているような場合もあるようです。

必要なのは発音された音を響きとして増幅させることと同時に、そのあと、その音がどのように収束されるかという点にも注意を向けるべきだろうと思います。
上記のふたつはその点、すなわち増幅と収束が優れていると思いました。
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イスの高さ調整

週末は内輪の練習会に参加しました。

会場へのアクセスがひじょうにわかりにくいところだったために、各々はネットなどを使って参集しましたが、やはり心配した通り、ストレートに来られない人などもいて揃うのに少々時間を要しました。

マロニエ君はこのところろくに練習らしい練習もしておらず、さらには人前でピアノを弾くことに対する苦手意識がまたしても再燃してきていましたので、今回はピアノを弾くつもりはなく、それでも予備的に楽譜だけはちょっとバッグに偲ばせての参加となりました。

この会場の素晴らしさはすでに何度かこのブログに書きましたので敢えて繰り返しませんが、たくさんの絵画に囲まれた会場の雰囲気、さらにその響きと古い名器のピアノが醸し出す絶妙な音色は、心安んずる清澄な空間でした。
そして、空間の響き如何も楽器のうちだとつくづく思いました。

どんなに良いピアノでも、響きの悪い場所におけばその魅力は半減です。
ましてや防音室などにピアノを入れるのは、もちろん現実的な面で致し方のないことで、それを好んでやっている人はいないと思いますが、それでもやはり楽器の魅力を敢えて封じ込めてしまう、響きの面からだけ言えばなんとも残念な現実だと思います。

音響のよい空間では、ちょっとCDなどをかけても、それがべつに大した再生装置やスピーカーでなくても、出てきた音が空間の響きに助けられて、とても素晴らしい音となって聴く者の心を潤してくれますから、ある意味でこれに勝るものはないかもしれません。

この会場にはヴァージナルというチェンバロの一種ともいえる楽器のレプリカもあるのですが、その繊細な音色も、もちろんこの会場の好ましい響きもあって、意外なほど耳に迫る音色を発していたのが印象的でした。

今回ちょっと残念だったのは、このヴァージナルとピアノが同時に別の曲を弾かれてしまったということでした。
いやしくも楽器を弾く人は、楽器の音が汚い騒音になるような心ないことだけは厳に慎みたいものです。

さて、弾かないつもりでいたマロニエ君でしたが、とうとう一曲だけ弾くハメになり、まことにお粗末な演奏を披露することになりました。
そのとき思ったのですが、椅子の高さがやや気になったものの、ちょっと弾くだけのためにおごそかにダイヤルをグルグル回して高さを調整するのも躊躇われ、まあいいや…という気で弾いたのですが、これがとんでもない失敗でした。

普段のマロニエ君の椅子よりは少々高めだったのですが、慣れないピアノである上に、お尻の高さが違うというのは、猛烈な違和感となり、それで気分的にもガタガタに崩れてしまいました。
個人差もあるとは思いますが、やはり椅子の高さというのはマロニエ君にとっては予想以上に大事なことで、ここを疎かにするととんでもないことになるという、いい教訓になりました。

その点でいうと、ピアノクラブのように多人数で代わるがわるピアノを弾く場合は、背もたれ付きのトムソン椅子であるほうが高さも瞬時に変えられるので適しているようです。
昨日はあいにくダイヤルを回すタイプなので、面倒臭くてなかなか調整まではしませんでした。

自宅では生意気にもコンサートベンチを使っていますが、マロニエ君以外にピアノを弾く者はいないので、いつでも自分にちょうど良い高さになっており、それが当たり前のようになっていたこともあり、こういうちょっとしたことが変わるだけでも、冷や汗が出るほど焦ってしまいました。
とりわけ、低すぎるより高すぎるほうが個人的にダメだということを肝に銘じたしだいです。

こんなことがあると、ますます人前で弾くのが恐くなるばかりですが、そこは自分の性格もあるでしょうから、こればっかりは変えようもないので仕方がありません。
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ストラヴィンスキーのバレエ

NHKのBS番組、プレミアムシアターの7月は、4週にわたってバレエの特集が放映されました。

いわゆるお馴染みの古典バレエはほとんどなく、唯一のものとしてはアメリカン・バレエ・シアターの日本公演から「ドン・キホーテ」があったのみで、他はすべてパリ・オペラ座の新作がいくつかとかベジャールの作品など、近現代の新しいものがいろいろ紹介されました。

すべてを見たわけではありませんが、なんといっても圧巻だったのは最後のロシアバレエで、これには久々に感銘を受けることになりました。

4週目の最後を飾ったのが「サンクトペテルブルク白夜祭2008」から、ストラヴィンスキーの『火の鳥』『春の祭典』『結婚』の3作で、ボリショイと並び称せられるロシアの最高峰、マリインスキー劇場バレエ団(旧キーロフバレエ)、演奏はなんとワレリー・ゲルギエフ指揮によるマリインスキー劇場管弦楽団による、この上ないような豪華な顔ぶれでした。

その直前にやってたのが「ドン・キホーテ」で、マロニエ君は一向にこの中身のない、ただのうるさいお祭り騒ぎを舞台上でドンチャンやるだけみたいな演目が昔から一度たりとも好きになったことがありません。
よくバレエのガラコンサートのようなときに、最後のグラン・パ(グラン・パ・ド・ドゥではない)がアクロバット的な派手さから単独に踊られることがありますが、それで充分。それ以外はなんの魅力もないし、ミンクスの音楽がまたなんの芸術性もない表面的なもので、目も耳も疲れてしまいます。

そうしたら、後半が上記のサンクトペテルブルク白夜祭になり、いきなり姿勢を正したというわけでした。

まずなんといっても素晴らしいのストラヴィンスキーの音楽で、これを聴くだけでも価値があり、とても普通のいわゆるバレエ音楽ではない。
ソリストでは火の鳥を踊ったエカテリーナ・コンダウロワが突出して素晴らしく、その音楽と相まって一瞬たりとも目が離せない美しく躍動的でありながら、役が乗り移っているがごとく妖しげで、見ているこちらまでその魔力に引きこまれるような火の鳥を見事に踊りました。
ロシアにはいまだにこういう踊り手がいるのだなあとあらためて感心させられます。

春の祭典は一般的に有名なのはベジャールの演出振付による、あの男女の裸のようなタイツ姿の舞台をイメージしがちですが、オリジナルはむしろ普通のバレエよりもすっぽりと民族的な衣装で全身を覆い尽くしていて、ダンサー達の体が見えることがありません。きっとベジャールはその真逆の発想をしたのかもしれないと思いました。

音楽的に圧巻だったのは結婚で、これはレコードでは聴いていましたが、舞台を見たのは初めてでした。
30分足らずの短い演目で、とくに言うべき物語性はありません。花嫁と花婿がいて、彼らが結婚するという、ただそれだけのもので台本もストラヴィンスキーが書いています。
その演奏のために準備されるのは、通常のオーケストラに加えて、ソプラノ、メゾ・ソプラノ、テノール、バスという4人の独唱者、さらには7人にも及ぶ打楽器奏者たち、とどめはこれに加えて4台のピアノが加わります。しかもバレエ公演となると、すべて舞台下のオーケストラボックスに入れるのですから、もうそこはすし詰め状態に違いありません。
さらに、必要なのは男女のソロダンサーと、強靱なコールドバレエです。

それらが渾然一体となって、休むことなく30分近くを踊りまくり、演奏家達は演奏しまくります。
それはもうなんとも圧倒的な世界で、世にもこんな贅沢な30分があるだろうかというものでした。

ストラヴィンスキーの音楽には、今更ながらその不思議な魅力に打ちのめされました。他の作曲家なら不快感になるような和声やリズムに満ち満ちていますが、それがストラヴィンスキーの手にかかると、聴き手の本能的な何かを刺激されてくるようで、無性にわくわく興奮してくるのが彼の作曲の魔術だと思いました。

春の祭典に代表されるダ、ダ、ダ、ダという如何にも原始的なリズムが随所に出てきますが、これがいかにも野蛮なものの鼓動のように聞こえながら、その魅力に魅せられてしまうのは、ストラヴィンスキーの芸術性のみならず、人間の記憶の奥にはこうした野生がまだまだ眠っているからかもしれません。
やっぱり我慢して録画していれば、たまにはこういう拾いものがあるということです。
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ショパンの椿姫

NHKのBSで、7月はモダンバレエが毎週のように取り上げられ、先週の演目のひとつにはパリ・オペラ座バレエ団の新作で「椿姫」というのが放映されました。
公演自体は2008年の7月でパリ・オペラ座のガルニエ宮で行われたものを収録したものでした。

名前は椿姫でも、音楽はヴェルディではなく、なんと全編にわたってショパンの作品が使われているというのが意外な点で、果たしてどんなものか見てみました。
振付・美術・照明はアメリカ出身の振付家ジョン・ノイマイヤーによるもので、同時に放映された「人魚姫」も彼が手がけたものですが、正直言ってマロニエ君は全く感心できない主題のない作品でした。

ノイマイヤー自身、ダンサーの出身で、男性舞踊家で振付家になるというのは決して珍しいことではなく、アメリカバレエの礎を創ったジョージ・バランシンや、ロシアでもボリショイやマリインスキー劇場のバレエ団の歴代の監督は、大半がダンサー出身であるし、あのルドルフ・ヌレエフもロイヤルバレエやパリ・オペラ座バレエでしきりと振付などをやっていましたから、これは野球選手が監督になり、力士が親方になるようなものかもしれません。

この「椿姫」でのジョン・ノイマイヤーの振付は、あまりコンテンポラリーなものではなく、あくまでもクラシックバレエの動きを基軸に置いているのは見ていてホッとさせるものがありましたが、いかんせん感心できなかったのは、「椿姫」のような陳腐かつ前時代的な題材をいまさら新作バレエに取り上げるという発想と、しかもその音楽をショパンにしたという点でした。

開幕からしばらくは、舞台上の人々があちこちに動き回るばかりで、まったく音楽がありません。
これが何分も続いた後に、舞台下手に置かれたピアノを、これも扮装をした一人がしずかに弾きはじめることで、音楽がようやく始まります。
オペラでいうところのヴィオレッタはすでに病没しており、その肖像画が舞台中央に置かれている設定ですが、それを慈しみ思い出すように開始されるはじめの曲がソナタ第3番の第3楽章の再現部の部分でした。

このバレエはピアノのソロだけで行くのかと思うとそうではなく、ほどなく第2協奏曲がはじまり、それに合わせて舞台上ではさまざまな踊りや劇の進行が速度を増して進行していくのでしたが、まず声を大にして言いたいこのバレエの最大の問題は、バレエとショパンの音楽がまるで噛み合っていないことでした。

ショパンの音楽というものは、手の施しようがないほどそれ自体が圧倒的な主役でしかなく、いかなる場合もバックに使われる類のものではないということがひしひしと伝わり、あくまでも聴くための作品であることがいまさらのように痛感させられました。
映画などで断片的に使ったりする場合には効果的な場合もあるかと思われますが、こうしてバレエ全体の音楽として使われるのはまったく不向きで、ステージと音楽が齟齬を生むばかりで、両者が溶け合い手を握ることはありませんでした。
ショパンのあの気品ある眩しいような音楽が流れ出すと、バレエとは関係なしに耳がそちらに集中することしか出来ず、それに合わせてやっているバレエが、悲しいほどに無意味でなんの必然性もない空虚なものにしか見えませんでした。

第2協奏曲はついに全楽章演奏され、その後もワルツやプレリュード、休憩後には普段演奏会では聴かないオーケストラ付きの作品であるポーランド民謡による幻想曲などがはじまりましたが、ついに見続けるエネルギーが尽きてしまい、最後まで見通すことはできませんでした。

ショパンとバレエで唯一成功しているのは、有名な「レ・シルフィード」だけだと思います。
これには物語性がなく、音楽もすべてバレエに適するよう管弦楽用に編曲され、ゆったりとしたテンポで流れる中を、古典的な白の衣装をつけたダンサー達によって繊細優美に踊られる幻想的なもので、これは稀な成功作だと思われます。

さて、「椿姫」で使われたピアノはフランスでは珍しくスタインウェイのB型でしたが、やはり大劇場で聴くにはやや力不足という印象が否めませんでした。全体的な音はそれなりでしたが、やはり小さなピアノ故か大きな舞台で鳴らすには基礎体力が不足し、響きに底つき感みたいなものが出てしまうのが残念でした。

オペラ座バレエの素晴らしい点は、ロシアバレエとは一線を画する垢抜けた個性を持っている点と、このように常に新作の演目に取り組んでいることでしょう。あの有名な春の祭典のスキャンダラスな初演もマロニエ君の記憶違いでなければこのガルニエ宮だったはずです。それだけにこのような失敗もあるということですが、それよりも新しいものを作り出すというこのバレエ団自体が持つ創造的な活力には敬意を表したいと思います。
フランスの誇る世界屈指のバレエ団であることは異論を待ちません。
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昨日に引き続いた内容になりますが、プロのピアニストの演奏の見た目というものは、単純な体格差においても言えるような気がしました。

マロニエ君は昔からある方の演奏会にお義理で行かなくてはいけない立場にありましたが、その方は教育界の功労者ではありましたが、ピアニストとしてはそれほどでもなく、しかも極端なあがり性で、さらには体格が小柄と来ているので、演奏会ではいつもハラハラドキドキで、そんなときのステージ上のピアノは残酷な黒い怪物のように大きく見えたものでした。

この経験から、ピアノが大きく見えるときの聴く側の苦しみというのもずいぶん刷り込まれていたようで、いらいマロニエ君はあまりにも小柄なピアニストがステージで演奏するのは、まるで子供が座布団を敷いて車を運転しているみたいで、不安感が先行するようになりました。

小柄なピアニストはそれなりに名を成した人であっても、体格からくる制限があるのか、出てくる音もきつい感じであまり好みではないし、音楽もどうしてもスケール感のないものになってしまいます。
以前にショパンコンクールで優勝したポーランド男性も、一定のファンはいるようですが、どうも今以上のピアニストに成長していく予感がしないというか、体格からくる制限みたいなものがあるように思います。

逆に、あまりにも大柄な男性、見るだけで圧倒されるような偉丈夫がピアノを弾くのも、これもまた見ていてあまり心地よくはありません。
こちらは名前を出してもいいかもしれませんが、子供のころに行ったクライバーンのリサイタルなども、まずステージに現れたときからその長身ぶりに驚かされましたし、演奏中も膝が鍵盤下につっかえているのが気になって仕方ありませんでした。なにしろこの体格ですから、フォルテッシモともなると肉眼でもピアノが小刻みに揺れているのがわかるほどで、一夜の見せ物としては面白かったけれども、純粋にピアニストとしては疑問も残りました。

現役でもベレゾフスキー、ブロンフマン、エリック・ル・サージュなどは、演奏の良否はさておいてもなんだか見ていて、いかにもピアニストがXLサイズという感じで、どうしても大味な印象が否めません。

いっぽう女性ピアニストでは、上半身の肌もあらわな衣装を着て演奏する方も少なくありませんが、女性の目から見るとどうなのかは別としても、あまりに痩せこけた腕とか肩の骨なんかがゴツゴツして皮膚の下で動いているような人は、やはりどうしても演奏家としての見栄えがいいとは思えません。ついでながら、あまりに化粧やヘアースタイルや衣装がキマり過ぎなのも逆効果となり、演奏家としての品位に欠けるような気がします。

ピアニストではありませんが、指揮者でも身長はそれほどではない痩身の小澤征爾などは、よく練り込まれた鮮やかで細緻な指揮はしても、どこかその姿と同じで幅広いスケール感というものが不足しがちですが、その点では過日ベルリンフィルにデビューした佐渡裕はその長身と堂々たる体躯そのもののように、音楽にも厚みと腰の座った雄渾さがあり、安心して彼の音楽に身を委ねることができたように思います。

このように、音楽には演奏者の体格が直接・間接にもたらす何かが必ずあるような気がします。
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視覚的要素

楽器と演奏者の間には、傍目に不思議なバランスというものがあります。
バランスといってもさまざまな要素がありますが、ここでいいたいのは主に視覚的な問題です。

先日もある日本人の人気女性ピアニストの弾くコンチェルトの映像を見ていて、なんというか構図としての収まりの悪さを感じてしまい、どうにも違和感を拭うことができずにいる中、あることを思い出しました。

何年も前のことですが、東京のある有名なピアノ輸入元の看板調律師の方といろいろ話をしているうち、なるほど一理ある!ということを言われたことを思い出しました。
それはプロのピアニストに関することでしたが、ステージ上で演奏しているときに、ピアノが大きく見える(感じる)ピアニストは、概して余り上手くない、実力不足の人だという一種のジンクスでした。

彼が言ったのは体格の問題ではありませんでしたが、要するに、ピアノが大きく見えるというのはそれだけピアノを十全に弾きこなすことができていないために、むやみに格闘することになり、演奏に苦労が滲み出てしまって、それがピアノを大きく見せるものだという意味の話でした。
ひと言でいうなら、人間がピアノに負けているということになるでしょうか。

実に納得のいく話でしたし、だいたい目をつり上げてピアノと格闘するように弾く人は、どうしても人間ばかりが空回りしているように見えるからピアノが大きく感じてしまうのだろうと思います。

とくにある時期の日本の女性ピアニストの中には、全身に悲壮感が漂い、表情もひどくこわばりながら、ちょっと荷が勝ちすぎるような大曲などを、まるで我が身を苛むようにして必死に弾く姿が珍しくありませんでした。
こういう人が弾くと、楽しげな明るい曲でも、どうしようもない暗さが影を落としてしまいます。
いかにも小さい時分からピアノこれ一筋に生きてきて、ピアノ以外のあらゆる事を犠牲にしてここまで来ましたという、その人の努力と苦しみの半生が負のオーラとしてあたりに漂うのですが、こうなると音楽を楽しむというより、その人の精一杯の演奏が、ともかくも無事に終わって、お互いにそんな時間から開放されることを願いつつ聴いている自分に気がついてしまいます。

こういうとき、本当にピアノは無情な大きさを感じます。
そしてそのピアニストのがむしゃらな一生懸命さに、なんだかピアノまで同情して困っているようにも見えたりするから不思議です。

ところが、このタイプは近年わりに減ってきたような気もしています。
男女の区別なくみんなわりあいに熱血努力的な雰囲気がなくなり、比較的すんなりと調和的にピアノを弾いているように感じることも少なくありません。これは昔の努力一辺倒の甲子園的な練習地獄から脱却して、合理的なメソードの発達によって効率よく育てられるようになったからだと思います。

ただ、楽々と弾くのは結構だけれども、表現まであえて無理のない枠内に音楽を収めてしまう傾向があり、そのぶん出てくる音楽のテンションまで下がってしまって、いちおうきれいな曲の形にはなっているものの、聴いていて一向に聴きごたえのない、キズも少ないけれども無機質な演奏に終わってしまうのが残念です。

音楽には、感情の奔流や詩情の綾、なにかがギリギリのところまで迫ってくるような訴えかける要素がなくては意味がありません。
心の内側を垣間見るかと思えば、打ち寄せる波と波が激突するような、そういう生々しい迫真性がないまま、こぎれいにまとまったきれいなだけの音楽など、聴いてもなんの面白味もありません。

あまりに無理のない指さばきで淡々と弾かれるのも、見ていてこれほどつまらないものはありませんし、演奏者が今そこでやっている演奏に本気で燃焼している白熱した姿が欲しいものです。
ピアノとやみくもに格闘ばかりするのはもちろんいけませんが、あまり仲の良すぎるお友達というのも大いに問題かもしれません。
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コンサート探し

グルーポンとやらをときどき利用している友人がいます。
いつごろのことだったか忘れましたが、その友人からチケットぴあのギフトカードが半額であるという話があり、1万円分が5千円で買えるというので、とりあえず買ってもらいました。

これという目当てのコンサートがあったわけではないものの、そのうち使うだろうぐらいに軽く考えていました。
ところが、そのギフトカードが届いてからというもの、行ってみたいと思うコンサートがなかなかありません。

マロニエ君にとって、気の進まないコンサートのチケットを買って行くなど、考えられないことです。
やはり長引く不況に東日本の震災がダメ押しとなって、目に見えてコンサートの数が減ったのは間違いありません。
とくに小ホールで行われるピアノリサイタルのようなコンサートが激減しているようです。

一方で、ドカンと大きな来日演奏家のコンサート、とりわけオーケストラ関係はいくらなんでもという価格の高騰に呆れてしまいます。
秋にキーシンがシドニー響とショパンの1番を弾くのですが、GS券はなんと2万円!二人で行けば4万円ですから、そこまで出して行く気にはなれずに断念しました。
もちろん席によってはもっと安くはなりますが、マロニエ君はコンサートに行く以上はある程度の席でないとイヤなのです。演奏者が豆粒のようにしか見えない席で、輪郭のないブワブワした音を聴くだけなら、そこにあまり個人的には価値を見出せないからです。
よく、安い席のほうから売り切れていくことがありますが、あれは実のある倹約とは思えません。

シドニー響に限らず、海外のオーケストラのコンサートなどはもはや以前のように気軽に行けるものではない価格となり、逆にコンサート離れが起きるのではないかと思います。
これがもっと有名な指揮者とか格上の楽団になると、さらにチケット代は上昇し、一度来れば日本各地を巡演するのですから、本来の素晴らしい音楽を聴けるというよりは、なんだか荒稼ぎに来たという印象しかありません。

よほどのお金持ちならともかく、ちょっと一回のコンサートを聴くのに、家族などと行くとなると何万円もの出費となると、いかに音楽が好きでも、よほどのものでないと躊躇してしまうのが普通の感覚ではと思います。
しかもそれらは、昔のように歴史的演奏会に立ち会えるかもというような期待感はなく、だいたいどんな演奏会になるのか今どきは結果が見えてしまうところが、いよいよ憎たらしくて気分が高ぶりません。
とりあえず立派な演奏だけれども、ビジネスの臭いがしていて、山場も感動もちゃんと計算され準備されているような、それでいて気持ちのこもらない仕組まれたシナリオ通りみたいな演奏。
そう思うと「やーめた」という気になってしまうのです。

それはともかく、上記のギフトカードは使用期限が9月いっぱいですから、だんだん猶予もなくなって来た気がして、先日など地元のオーケストラの定期演奏会に行こうかと思い、ほとんど妥協的にチケットを買う気になっていましたが、やはりどうしても指揮者が気に入らずまたしても断念。

まだ使用期限まで2ヶ月近くあるので、そのうち秋のコンサートが少しは出てくるだろうという期待を込めて、静観することにしました。
安く買えたのは結構なことでしたが、かえって変な悩みの種を抱え込んだ形になりました。
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メナヘム・プレスラー

メナヘム・プレスラーというピアニストをご存じの方も多いことでしょう。

世界的なピアノトリオであったボザールトリオの創設者で1923年の生まれですから、今年で88歳、日本でいう米寿にあたり、現役最高齢のピアニストの一人といえるでしょう。

このボザールトリオは実に53年間という長きにわたって世界トップクラスのピアノトリオとして輝かしい活動を続けましたし、リリースされたCDなども果たしてどれだけあるのでしょうか。
このトリオは2008年に惜しくも解散されましたが、その理由などはマロニエ君にはわかりません。
マロニエ君にとっても、メナヘム・プレスラーはなにしろボザールトリオの中心的な名ピアニストでしたから、もちろんそのCDも我が家にはたくさんありますが、実際の演奏会は聴かずじまいでした。
映像などでいかにも印象的だったのは、音楽に没入しつつも常にあとの二人を気にかけてアンサンブルをいささかも疎かにしない、プレスラーの真摯なそしてひじょうに闊達な演奏態度は、見ているだけで音楽そのものという印象を受けたものです。

そんなプレスラーが、今年6月、東京でソロリサイタルを開いたというのですから、いやはや驚きです。
これまでにプレスラーの演奏はずいぶん聴いた気がしますが、それはすべてボザールトリオの演奏であって、ソロは一度も聴いたことがありませんでした。
プログラムはベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第31番/ショパン:マズルカ/ドビュッシー:版画/シューベルト:ピアノ・ソナタ第21番 変ロ長調 D960というものだったようですが、そこから後半のドビュッシーとシューベルトの演奏がNHKの音楽番組で放映されました。

インタビューにも答えていましたが、何を聞かれてもサッとタイミング良く話し始めるその様子ひとつとっても、とても90歳近い人物とは思えません。
とくにシューベルトの最後のソナタに関しては、大変な曲なのでずっと避けていたが、弾かなくてはならない時が来たという答えが印象的でした。

演奏は大変立派なもので、とくにドビュッシーには気品と輪郭があって素晴らしかったと思います。
シューベルトは第2楽章の寂寥感が印象的でしたが、後半は若干お疲れを感じないでもありませんでしたが、それでもよくこんな大曲を弾き通せるものだと感嘆させられました。強いて言えばもう一歩深さがあればという印象…。
また舞台上での足取りなどは実にしっかりしていて、まったくふらついたところなどありません。
他日は室内楽なども演奏したようで、まことに精力的なスケジュールです。

いかに矍鑠としているとは言っても、現実の歳は歳なのですから、それでいまだに海外へ演奏旅行に出かけ、その地でこのような重量級の演奏会をするとは、世の中には凄い人物がいるものです。

会場はサントリーホールのブルーローズ(小ホール)で、ここはホールといってもフラットな床の広間に椅子を並べただけの、いわばホテルの宴会場のような場所ですが、プレスラーほどのピアニストのリサイタルなら、もっと相応しい会場が東京にはいくらでもあったように思われて、ちょっとその点は納得がいきませんでした。

ちなみにピアノはスタインウェイでしたが、正確なことはわかりませんが、見たところ10年経つか経たないかぐらいのピアノだったように感じました。ごくごく最近のものとは違い、まだいくらか良さが残っていたと思います。
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今こそ狙い目

円高が止まりません。
こんな書き出しは、まるでテレビニュースのつかみのセリフのようですが、実際にそのようですね。

アメリカドルばかりを基軸に見てしまいますが、ユーロも一時期に較べるとかなり安くなっているようです。
その原因や仕組みはマロニエ君に詳しいことはわかりませんが、政府の信じがたい無策も大いに関係があると思われますし、一方でドルやユーロに対する信頼が低下していることもその一因だと思います。

むろん、輸出に経済の大半を依存している日本にとって、この円高はタチの悪い慢性病のようなもので、これ以上円高が進むことは、どう見ても好ましくないことは誰の目にも明らかでしょう。

子供でもわかる理屈で言うと現在の円高は、海外で物を買えば大いに得をし、逆に海外で物を売る側は大いに損をするということになります。

そこでピアノの話ですが、お金を持っている人は、今のこの時期に海外からピアノを買えば、かなり安く買えることは間違いありません。
たとえばアメリカで定番のニューヨーク・スタインウェイを買うとします。
アメリカで売られているニューヨーク・スタインウェイは日本で通常売られているハンブルク・スタインウェイとは新品価格そのものが違いますが、ではこれをニューヨークの本社に行ってパッと買えるかどうかとなると、そこはわかりません。
というのもスタインウェイ本社はスタインウェイ・ジャパンという現地法人を作っていて、そこが日本での輸入元みたいなものですから、単純に個人相手にアメリカでピアノを売って運送手配までしてくれるかというと、そう簡単ではないかもしれません。

でも、仮にそうだとしてもいくらでも抜け道があるのであって、全米にたくさんあるスタインウェイ取扱いのピアノ店に行けば、そこのオーナーは相手がだれであれ商売なんですから喜んで売るはずです。

また、ぴあのピアのホームページにもいくつかの海外のピアノ店をリンクしていますが、それらの多くは中古価格などを載せていますから、おおよその相場というものがわかります。
とくに戦前の素晴らしい楽器がたくさんあることはさすが本場というべきで、あれこれ見ているだけで時間を忘れてしまいます。
日本の有名な専門店なども、この手のピアノ店から仕入れをしているというウワサで、彼らの仕入れ値はまた少しは違うのかもしれませんが、いずれにしても現在の円高を武器に挑めば、かなり有利な価格で憧れの名器を我が物にできるという、現在はそんな恰好の時期でもあると思われます。

時間さえあれば、アメリカの往復航空券など10万以下でもありますし、語学に自信がなくても現地で通訳を雇ってもたかが知れています。
しかも現在は航空便の値が下がり、ピアノもこちらがメインの時代になりましたから、気に入ったピアノがあれば、出荷から一週間で日本に届き、前後の時間を考慮しても、一ヶ月みておけば自宅にピアノが届くのはほぼ間違いないと思われます。

アメリカはああ見えてもピアノ大国で、スタインウェイの本社もニューヨークなのですから、修復やリビルドの技術も高く、新品のように美しく修復されたマホガニーのピアノなど、見るだけでもため息がでるようです。
美しく再生された黄金時代のスタインウェイは、マロニエ君などはもはや文化財のようにさえ思っています。

繰り返しますが、こういうピアノも日本よりも相場が安い上に、なにしろこの円高ですから、おおよその円の適性価格といわれる1ドル120円を基準にすれば、それだけでも今は本来の2/3の価格で買えるというわけで、どのモデルでも、きっと望外の価格で購入できると思います。旅費や運送費を考えても元は取れるどころの話ではありません。

おまけにピアノを買いにアメリカに行くというのも、なんともオツなものじゃありませんか。
たぶんヨーロッパでもある程度似たような状況かもしれません。
ああ…やってみたい。
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日時計の丘

福岡市南区の丘の上にある「日時計の丘」に行きました。
来月ここを使わせていただくので、下見を兼ねて知人と2人でいきましたが、オーナーの方はご不在で奥さんが対応してくださいました。

往きの車の中で、知人は、ああいう文化的な空間を作る人はきっと芸術家なのではないだろうかと言いましたが、マロニエ君は直感としてそんなはずはないだろうと思いました。そんなことを話しながら約束の時間にやや遅れながらも現地へ向かいました。

まずこの点は、やはり想像通りで、ここのオーナー殿は地元の大学で哲学の先生をされていたらしく、近年退官された御方だということを夫人から伺いました。
マロニエ君がなぜ芸術家ではないと思ったかと言えば、芸術家は自分が芸術の創り手なのですから、芸術全般に過度の美しい憧れのようなものをいだいているはずがないし、苦闘は絶えず、芸術界の裏表や実情も知るところとなり、芸術をあれほど美しい崇高な理想として捉え続けることはできるわけがないと思われたからです。

芸術分野における趣味人の出自をみると、大学でいうところの文系は極めて少数派で、圧倒的に理系の人が多いのは、一見意外なようで驚くべき事かもしれません。一説には音楽と数学は隣同士などともいいますし、美術と化学もひょっとしたらお近いかもしれませんが、概して理科系と芸術界は真逆の世界に位置するのであって、だからこそ純粋な鑑賞者のスタンスでこれらに手を伸ばし、その内なる美に酔いしれることができるのかもしれません。

日時計の丘の夫人はドイツの方で、ご主人との日常会話はドイツ語の由。ご自分の日本が拙いことをしきりと詫びておられましたが、それはまったくの謙遜で、とても品の良い日本語を話されることにも驚かされました。

まずは全体を案内してくださり、ピアノのあるギャラリーを一巡した後は、中ほどに設置された階段を上って二階へ向かいます。二階は小さな図書館ということで四方の書架の中央にテーブルがあり、ここで定期的に朗読会やさまざまな勉学のためのイベントがおこなわれているようです。更にその奥には、文字通りの文庫があり、無数の書籍で部屋中の書架という書架をぎっしりと埋め尽くされていました。
ちらりとしか見ませんでしたが、文学書からおそらくは哲学などの専門書まで、高尚な本が見事に蒐集されている、いわばそこは知性の空間でした。

さらに二階にはコンサートのときの出演者の控え室というか楽屋にあたる部屋もあり、専用の化粧室まで準備されているのは驚きでした。

階下では先日のコンサートのときと同様、L字形の空間には無数の絵画が展示されています。
その特徴は大型の油彩画などではなく、どちらかというと小ぶりな版画などが主体ですが、それがかえって好ましい軽快さにもなっているようです。夫人の話によると作品はときどき掛け替えられるとかで、奥の扉の向こうにはさらに多くの作品が収蔵されているということでした。

マロニエ君はずいぶんこの夫人と話し込んでしまいましたが、この建物はいわばご主人の趣味の集大成といえるもので、その構想から細部にいたるまで夫人の出る幕はないとのこと。そのご主人の猛烈な凝り性と情熱の前ではさしものドイツ女性も匙を投げているといった様子だったのが妙に笑ってしまいました。

ここにある101歳のブリュートナーはたいへん元気で、3年前にウィーンから日本にやってきたそうです。
ブリュートナーはドイツピアノの中でも艶やかな美しい音色であるのに加えて、天井が高いので、ふわりとした響きがあり、思わずうっとりするような美しい音の空間が広がります。
戦前の古いピアノというのは、弾く側がごく自然に楽器を慈しむような気持ちにさせられてしまう魔法のようなところがあり、こんなピアノをガンガンと心ないタッチで弾かれることのないようにと願うばかりです。

またこの空間は人の背丈よりも遙か高い位置にある大きな窓が採光の役目を果たし、そこから入ってくる自然の光りは、いったん周りの白い壁やらなにやらに繰り返し反射しながらこの空間をやわらかに照らすので、心地よい自然の間接照明となり、それはまるで宗教画に降り注ぐ光のようで、なんとも心が洗われるような気分になるのでした。
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カラオケ族

マロニエ君は自慢でありませんが、これまでに一度もカラオケというものを歌った経験がありません。
これを言うと、へええ!と呆れられることもありますが、人前でピアノを弾くのが超苦手のマロニエ君としては、まさかカラオケでマイクを片手に人前で熱唱するなど、絶対に無理です。
あるとすれば家族が強盗に出刃包丁でも突きつけられて「歌え!」と脅されたときぐらいのものでしょう。

ところが世の中には、このカラオケがのめり込むほど大好きで、我こそはとマイクを奪い合い、中には大会に出るために芸能人張りの衣装まで拵えてステージに挑む人も少なくないというのですから、いやはやその鋼鉄のような心臓には、ただただ恐れ入るばかりです。

最近つくづくと思うのは、シロウトが人前でピアノを弾くという行為を見ていると、下手をすると、このカラオケのマイクの争奪戦に通じる要素が潜んでいるのではないかということです。
歌がピアノになり、マイクが椅子になるというだけの違いではないかということ。

ピアノクラブの定例会では弾く曲も事前に伝えてあり、一定の流れと制約がありますが、それでも余り時間になれば空気が自由になり、ある種の兆候はやや見て取れるものです。
そして、それが一気に噴出するのは「練習会」という、すべてが自由時間のピアノを弾く会などです。
この練習会に限らず、なにかの折に素人がピアノを弾く姿を見ていると感じるのが、上記のカラオケ好きと類似した状況ではないかということです。

マロニエ君もピアノが好きな者の一人として、そこにピアノがあれば弾きたいという単純素朴な気持ちが湧きおこるの理解しているつもりですが、同時に遠慮や気後れがあるのが普通かと思っていました。ところが、むしろ控え目な感じの人などが、ピアノを前にすると人が変わったように、弾きたがり屋に変身するのは唖然とさせられます。

何事においても、ひとつのものをみんなで共用して楽しむ場合には、本質的に遠慮と譲り合いの精神が求められますし、何度か弾けばもうそれで充分じゃないかと感じますが、現実はそうではないようです。
これは一定のところで自制しないことにはキリがないし、それ以上弾きたいのなら自宅か別所でやるべきです。

もうひとつは、趣味の集まりなのだから腕前の巧拙は当然不問ですが、それでも、少なくとも人前で弾く以上は、その人なりの最低限の練習を経たものだけにすべきだとマロニエ君は考えます。

たしかに名前は「練習会」ですが、そこは自分ひとりの空間ではなく、じっと聴いて(くれて)いる人がいるわけですから、ただ自宅と同じような練習のようなことをしたら完全な迷惑行為といえるでしょう。
ピアノのサークルやクラブは、お互いの演奏を我慢して聴くという、いわば「相互我慢会」なわけですから、その認識と平衡感覚だけは失ないたくないものです。
周りの人の善意の気持ちにも限界があることも考慮すべきでしょう。

ごく普通のマナーとして、聴いている人への礼節と謙虚な気持ち、誠実さみたいなものが感じられるものであってほしいのですが、くどいほど何度も弾いたり、ほとんど譜読みの段階のような状態をさらしてまであえて人前でピアノを弾くことに、いったいどんな意味や満足があるのか…マロニエ君にはわかりません。
それでも人前演奏が快感で止められないというのなら、それはビョーキです。

それでも、まだ陽気に楽しく笑いながらやるぶんは周りも救われますが、表向きは真面目派で態度も控えめなのに、実は静かに露出好きというのでは、なんだか暗いマグマが潜んでいるようで恐いです。

ピアノが音を出すものである限り、気を遣うべきはマンション等の近隣だけでなく、同好の周囲に対しても一定の抑制と気遣いが必要ないはずはなく、これはピアノを嗜む者として、常々に認識しておきたいものです。
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続・練習の変化

練習といっても別に大したことをやっているわけじゃありませんが、それでもいろんな発見や新たな挑戦があることも事実です。

たとえば仕上げる気などさらさらなくて、ただ楽譜を置いて漫然と弾いていたときに較べると、指の練習は当然としても、曲の細部に関してもいろんな注意を細かく払うようになり、楽譜上の指示が果たして適切かどうかとか、その真意を探ったり表現の適切性を試してみたり、あるいは版による指示や考え方の違いを比較して、それに自分の解釈(というのもおこがましいですが)をあれこれと重ねて思案してみて、最良と思われる結論を導き出す過程はとても楽しいものだということがいまさらながらわかりました。
というか、これこそ演奏する人間だけが経験することの出来る、音楽を取り扱う際の楽しみだと思うのです。自分と作品がいかに和解し、作品のしもべとなってどこまで理想的な音としてそれを表せるか。

指使いなども版によっていろいろ異なりますが、マロニエ君の場合は必ずしも楽譜に書いてある指使いが最良とも思っておらず、いろいろと検討してみて、最終的には自分にとって一番しっくりくる、自分にとっての合理的なものを決定します。
これは、一般論からいえば、正しいとは言えないような指使いになる場合も当然ながらあるわけで、頭の固いピアノの先生などは絶対に許さないことだろうと思いますが、しかし指使いというものは最終的には弾く人の技量や手の大きさや指の構造などにも大きく関わってくることなので、本当の意味での正解が必ずしも楽譜の指示通りではないと思っているわけです。

それに指使いは当然ながら解釈によってもいかようにも変わります。フレーズの歌い方、アクセントの置き方、音節の区切り方、強弱のバランス、前後の対比、各パートの重要性の順序など、あらゆるアーティキュレーションの総和によっても、そのつど最良の指使いというのは微妙に変わってくるものだと感じるわけです。

それらを総合的に検討して、ひとつの結論とか形に収束していく過程というのはとてもおもしろいもので、以前はそれほどでもありませんでしたが、要するにピアノクラブで弾かなくてはいけないという義務が課せられたことで、どの曲を弾くにもこういうことを以前よりもより明確に意識してピアノに向かうようになったというのは、マロニエ君にとって最も大きな収穫だったと言える気がしています。

解釈の意義をひとことでいうなら、いかにその曲がその曲らしくあるかを探り、すべての音符と指示が有機的に必然的に流れるように持っていくか、これにつきると思うのです。
そういう目標をおくと、音色や強弱は当然としても、響きの明暗、休符ひとつ、アクセントひとつがどれも見逃せない意味深なものであることが迫ってくるわけで、それを考察し解明していくのはたとえ自己満足でも面白いものです。

練習を重ねていると大いに困ることもあります。
場所によっては、何度練習しても自分にはどうしても向かない音型、苦手なパッセージなどがあり、これを乗り越えるのはちょっとした努力が必要になりますが、性格的に粘りもないし、納得できる結果に到達することがあまりないことは、つくづくと自分の拙さを嫌というほど思い知らされます。
要するに、単純に、ひとことで言えば「下手クソ」なんですね。

さらには、練習とは細部をくまなく点検して、ゆっくりネガ潰しをしていくという一面もありますが、これをあまりやっていると、どめどがなくなり、どこもここも問題ありと思うようになり、変更に変更を重ねます。
すると、不安が全体に広がって、弾けていた場所まで弾けなくなってしまうということがよくあるのです。

これはつまり、それまでの練習が好い加減で甘かったということの顕れなのですが、ここに落ち込むと脱出にはかなり難儀させられます。
要は、下手なものはどこまでも下手だということでもあるわけですが、それでもピアノを弾くという魅力は尽きません。
ただ、ここに来て再び人前での演奏には強い拒絶感が増してきていますから、どうなることやらです。
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練習の変化

ピアノクラブに入ってはや2年近くが経ちますが、その結果なにが違ったか、ピアノに関して自分でなんらかの変化が「あったか」「無かったか」と考えてみると、やはりそれなりの変化はあったと思います。

それは、ほんのわずかではありますが、自分なりに少しばかり集中して練習をするようになったということです。
練習の内容も若干変わりました。
以前からマロニエ君の主な弾き方は、山積みにしている楽譜からあれこれ引っ張り出して、自由気ままにトボトボと弾き散らす、ただそれの繰り返しでした。

もともとが上手くもない上に、こんな弾き方をしていれば、当然ながらレパートリー(というのもおこがましいですが)は広がらず、少なくとも自分なりに仕上がった曲というのは、手を付けている曲の数に対してギョッとするほど少ないものにしかなりません。
というか、もっとハッキリ言うとこの調子ではどれひとつとして仕上がりません。
仕上がりに近づく前に、曲はあっちに飛びこっちに飛びで、それで時間ばかり経って、疲れて終わりというのが長年のパターンでした。

しかしピアノサークルに入っていれば、まがりになりにも人前で何か弾くという義務を背負わされ、それが契機になってちょっとこれまでとは違う練習を少しするようになりました。

たとえば、目的もなく勝手に弾いているときは、難しい部分などを充分にさらうことなしに済ませたり、ひどいときはそこは避けて先に行ったりするのですが、人前演奏が前提ともなるとそんなこともしてられません。

そういうわけで、以前に較べるとひとつの曲に集中的に取り組むようになりましたが、そこで発見したのは、自分一人での楽しみでなら、なかなかそこまでしないような突っ込んだ練習をする必要が生じ、どうしても部分練習など、いわゆる楽譜を見ながらだらだら弾いているときとは違う、本来の練習らしい練習をせざるを得ないということです。

難しいパッセージは出来るようになるまで速度を変えるなどして繰り返しさらって困難を克服しなくてはいけませんし、好い加減に済ませていたところも洗い出して、問題をひとつひとつ解決して行かなくてはならず、気がつけば柄にもなく練習らしいことをやっている自分に、へええと驚いてしまいます。

しかし、嬉しいことは、最終的にそれが人前で弾けるものになるかどうかは別として、集中した練習で曲と自分を追い込んでいくことにより、それなりに曲が自分の手の内に入ってくるのはやはりピアノ好きとしては理屈抜きにうれしいことです。こうして得たものはささやかでも自分だけの特別なものです。

一度深く弾き込んだ曲というのは、簡単な練習でなんとか復帰出来るものですが、そんなものが極端に少ないマロニエ君としては、なにもかもを一からやり直しさせられているようです。
まあそれも、所詮は遊びという気楽さがあるのでなんとかやっていることだろうと思います。

これで昔のように試験とか恐いレッスンなんてことになれば眠れない夜が続いて、これまで以上にピアノの前に座ることがイヤになるでしょうけれども、最終的には遊びであり、無理なときはいつでも自分の意志で中止できるという、逃げ場がある点が、かろうじて今のマロニエ君を支えているようです。

実をいうと、最近はだんだん怠け者の虫がうずきだして、またやる気が薄らいできた気がしています。
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偉大なダンプチェイサー

しつこいようですが、ダンプチェイサーの効果をこのところしみじみ感じ入っています。

この時期は年間を通じて最もピアノにとって過ごしにくい時期であることはいまさら言うまでもありませんが、それがウソのようにピアノは至って普通に、あっけらかんとしてくれています。
とりわけ九州地方は湿度が高く、ひどいときは熱帯地方のようで、ピアノ管理には苛酷なエリアだと思われます。

最近は気温の面でもエアコンを入れていますから、それなりに除湿効果もあるものの、これとて24時間つけっぱなしというわけではないし、夜中はエアコンがない状態。おまけに一台のほうは毎回片づけるのが面倒で、ずっと譜面立てを立てたまま、フタを開けた状態でほったらかしですから、本来ならかなり湿度にさらされていることだと思います。

このピアノは奥行き2m以上ある中型のグランドですが、ダンプチェイサーはペダルの後ろに鍵盤と平行に一台しか付けていません。
本来ならアクション用と響板用に、前後二つ使ってもいいようなものですが、とりあえず一台だけでも至って快調なのは、本当に驚くばかりです。

ダンプチェイサーの存在は昔から知っていたのに、なんで使わなかったのかと今ごろ思っているところですが、考えるに、大した根拠もなく効果の程に疑いを持っていたことと、なんらかの「副作用」があるのではという警戒心があったと思います。

それと、なによりも自分のイメージだけで実体を知ろうとせず、専門家にも確認しなかったことが大きいと思います。
以前も書きましたが、親しい調律師さんにダンプチェイサーのことを尋ねたら、ピアノ管理においてはこれぞ一大革命と言っていいほどの優れものだという返事が速攻で返ってきたことは、聞いたこちらが驚きましたし、これが最終的に決め手になりました。

想像段階では、とりわけ電気によって熱を発生させるというところが、なにやら本能的に「木に悪い装置」では?というイメージでしたが、この点は取り付けてみてわかりましたが、スイッチオンの状態でもほんわか暖かいぐらいで、とても熱いというようなものではないし、さらには本来の取り付け位置よりもうんと離して装着していますから、まずピアノがダメージを受ける心配はありません。
スイッチが入っているかどうかは、実際に触ってみないとわからないほど軽いもので、よくこんなものでこれだけの効果があるもんだと感心します。

思い返せば、一時は除湿器を2台体制でフル稼働させていましたから、自分なりにやるべきことはやっているという自負があったのかもしれませんね。つくづく自分が馬鹿みたいです。

しかし、実際にダンプチェイサーを使ってみると、どんなに除湿器をガンガンまわしたところで、たった一本のわずか25Wのダンプチェイサーにはるか及ばないことがわかり、あー、ずいぶん長いこと損をしたような気分です。

何事も効率のよい方法、賢いやり方というものがあるのだというのが、いまさらながらわかりましたし、努々決めつけはいけませんね。
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喜びから苦痛まで

過日のクラシック番組で、ある女性ピアニストのコンサートの様子が放送されましたが、それを見ていてなんというか…気が滅入ってくるというのか、いたたまれない気分になりました。

その女性は海外のコンクールで優勝歴などもあり、コンサートやCDなどでも一応は活動らしきことはしているようですが、悪い意味で現代のピアニストの欠点を寄せ集めたような要素を持っています。

まず姿がよくない。
音楽家なんだから美人である必要は全くないし、その点では最近のビジュアル系みたいな方向性には大いに異を唱えるマロニエ君ですが、人に演奏を聴かせることを本業とするアーティストなのだから、そこにはある一定の雰囲気というか、文化の担い手としての最低限の顔つきというのは持っていなくてはいけません。

繰り返しますが、これは決して美醜の問題ではありません。
ピアニストはいやしくも音楽家で、いわば芸術家の端くれなのですから、その佇まいもあまり品格がないのは困るということが言いたいわけです。

あまり見てくれのことばかりいうのもなんでしょうから、演奏のことを言うと、ただ楽譜を見て、暗譜して、練習して、ミス無く弾いているだけ、ただそれだけという感じで、聴く側はなんの喜びも感興も湧かず、あまりのその不感症のような演奏に接していると、こんな演奏を聴いたばっかりに却って不満と疲れを感じてくるのです。

ツンとして、まるでオフィスで事務仕事でもこなすかのようにピアノを弾いていて、この人にはなにひとつ音楽的なメッセージ性みたいなものが無いことが、こっちまで無惨な現実を見るような気分にさせられます。

また、この女性は非常に大きな恵まれた手をしていますが、それもまるで活かしきれず、ただ蜘蛛のように長い指が鍵盤の上で不気味に足を広げているようで、それらが淡々と音符を処理していくだけで、如何なる場合も作品が聴き手に語りかけてくることがありません。
ドビュッシーなどは非常にぎこちなく固く弾いたかと思うと、リストでは随所にある甘い囁きもなければ、ここぞという場所での迫りも情念も解放もなく、ひたすら退屈で、出来の悪い機械のような演奏でした。

こういう位置にいる中途半端なピアニストというのは、この先、まずどんなことがあってもこれ以上先に伸びることもたぶんないし、音楽的な深まりを見せる可能性もまずないでしょう。
つまり今以上の知名度を上げることも人気を得ることも、申し訳ないが99%無理です。
だからといって、指のメカニックにはやはりそこは素人とは一線を画するものがあり、いまさら市井のピアノの先生になる決断もつかないだろうし、ピアノをやめてしまう気もないだろうと思います。

そもそも、ここまで来てしまった人がいまさらピアノ以外の何ができるわけでもないでしょうから、やはりこうしたなんともしれない演奏のようなことをしながら、人前に出る行為を繰り返すのだと思うと、見ているこちらのほうがやるせない気分になってしまいました。

世の中がどんなに民主化され、平等の社会を是としても、芸術の世界ばかりは才能と実力がものをいう不平等社会で、B級C級というものになにがしかの価値があるとは思えません。
あまたの才能が惜しげもなく切り捨てられてこそ、輝ける一握りの才能だけが生き残るのです。

とりわけマロニエ君のような純粋な鑑賞者の立場になれば、芸術こそは一流でなくては到底気が済みませんし、それ以外のものに甘んじるつもりのない自分にあらためて気が付きました。

音楽において、つまらない演奏ほど不愉快なものはないのです。
そういう意味では、ひとくちに演奏といっても、人を至福の喜びに誘い込むものもある反面、不快の極みに突き落とすこともあるわけで、まさに天国から地獄までこれ以上ないほど幅広いものだと言えるでしょう。
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ピアノフェア

大手楽器店の主催によるピアノフェアがこの連休期間中に開かれており、ちょっと覗きに行ってみました。

会場は今春オープンした博多駅・新ターミナル内の、阪急百貨店の上にあるJR九州ホールで、広い会場には電子/アコースティック合わせて実に100台以上ものピアノと名の付く楽器が展示されていました。
この会場はホールといっても床をフラットな体育館のようにもできる貸しスペースで、さまざまなピアノがズラリと展示されていましたが、なかなかめったにない壮観な様子だったことは確かです。

どうせ見るだけですが、これだけの台数を一堂に展示するピアノの催しは普段まずないので、一見の価値はあったというものです。
ただし、どうしてもグランドピアノは数が少ないのが残念ですが、それでもスタインウェイ4台(C/B/O/M)、ベーゼンドルファー、ベヒシュタイン、ザウター、ヤマハ2台、カワイ2台の11台が展示されていました。
とりわけ輸入ピアノはお値段も大そう立派なものでした。

ところで、会場に近づくと、中から盛んにジャズピアノらしき音が聞こえてきたので、一瞬、デモ演奏でもやっているのかとも思いましたが、いや待て、誰か腕自慢のあるお客さんが弾いているのでは?と思い直しました。中に入ると、案の定それは当たっており、ひとりの中年男性が熱心に1台のスタインウェイを弾いていました。

このところ人前でピアノを弾く人に対して、ちょっとあれこれと思うところのあるマロニエ君としては、ああまたか…というのが率直な印象です。
これがまた、人目も憚らず(というよりは人目を意識して?)ずいぶん熱の入った演奏で、側に近づいてもまったくなんのその、一心不乱に陶然となって弾いているその姿はちょっと異様な感じでした。

たまたま同行していた友人がその様子に驚いたのか、すかさず小声で「見られてることを意識してるね!」とマロニエ君に耳打ちしましたが、まさにその通りで、どうだ!といわんばかりに臆せず熱っぽい演奏を続けています。
奥では、別のピアノの調律が行われていましたが、そんなことも一向にお構いなし。
この御仁の演奏はしばらく続きました。

いやはや、たいした度胸の持ち主というか、そもそも神経の作りそのものが違うのかもしれません。

コンサートや発表会ならそれなりのスタイルも大儀もあるからまだわかるのですが、こうした単なるピアノの展示即売会の広い会場の中で、我一人、任意の状態であれだけ堂々と弾きまくるというのは、こういっちゃ悪いですが、やっぱりピアノを弾く人(すべてではないけれど)の感覚は、ちょっと普通とは違うと思います。

そのマロニエ君はといえば、ほとんど単音を出すぐらいで、弾くというような次第にはとても至りませんでした。
もちろん個々のピアノには関心があるので、弾いてみたいという気持ちはありますが、周りの空気をみたらそんなこと、とてもできる状況ではありませんでした。

奥で調律している人がたまたま顔見知りというか、我が家のピアノも一度見ていただいたことのある方だったので、その人とちょっと言葉を交わしている中で、「あのピアノは弾いてみられましたか?」などと言われますが、幸か不幸か、マロニエ君はそんな勇気は持ち合わせていません。

そうこうしているうち、やがて小さなコンサートが始まり、この楽器店の教室の講師の人達が代わるがわる演奏をはじめましたが、フルートの伴奏やソロでショパンのエチュードを弾いた講師の方は、ピアノクラブ内で3人ほどが習っていた、よく名前を聞く名前の先生その人だったので、おやと思ってとくと拝聴しました。

ピアノクラブといえば、このコンサートを聴いている中にも、クラブの方がご夫妻でおられたし、前日には同会場でリーダー殿がまた別のサークルの方と遭遇した由で、みんな同じような行動を取っているということでしょうか。
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ネット販売

アマゾンで書籍の検索していたら、たまたまある本が関連商品として表示されてきました。

なんでも、インターネットでピアノを販売している人が成功して、そのノウハウを紹介する本が出版されているようでした。
最近は本によっては中が数ページのみ覗き見ることができるようになっており、どんなものかクリックしてみると、前書きから目次にいたる数ページには、「信用」「人間力」「人間の善の部分」「社会貢献」というような言葉がうねうねと躍っていました。とくに「人間力」は何度も繰り返し現れます。

マロニエ君はどんな職業であれ、こういう人生訓めいた言葉をやたら使いたがる、熱血漢ぶった経営者というのがどうもあまり馴染めません。
これはピアノビジネスに限ったことではなく、いかなる業種であっても本業の話そっちのけで、必要以上に自分達の誠実さとか満足だのお客様の心云々…といったことを前面に押し出して言い立てられると、それだけで聞く気がしなくなり、逆に気分が白けてしまいます。

まずその「人間力」とやらでお客をじわじわ囲い込んで相手の判断力を奪い去り、あとはどんなものでもいいなりに買わせてしまうといった、そんな印象を覚えてしまいます。
少なくとも商品それ自体の素晴らしさというよりは、その店に携わる人間が皆真面目で努力家で、だから素晴らしい店だという訴えが先行していて、まず店そのものに共感を得させて、しかる後に商品を売る手法という気がします。

だいたい商売人というものは、なによりも商売がこれ第一で、それはいうまでもなく金儲けのため、利益を追求するためにやっているのにもかかわらず、まるで利益を犠牲にしてでも社会貢献とか人助けなどの、さも美しい事をやっているかのごとくで、人々から愛されるために日夜努力をしていますみたいな、歯の浮くようなことを言われると却って不自然に感じるものです。

さっそくその、本ができるほど話題のホームページというのを見てみましたが、マロニエ君は正直いって到底ノーサンキューなお店でした。

過去の販売分も含めて、すべてのピアノに動画による解説が付いていて、そこの社長とおぼしき人物が怪しい笑顔と語り口でピアノの説明をしますが、それがほとんど説明になっておらず、ただメーカーと型番、外装色などをいうばかりで、鳴りがすごいとか、これはめったに入りませんといういうような、どれも似たり寄ったりなセリフのオンパレード。
ピアノのディテールの映像でも、けっこうホコリまみれだったり弦が錆びていても「どうです、きれいでしょう~?」などと堂々と言い切ってしまいます。

そして、いつもお得意のセリフが「入ってきたばっかりなので、まだ調律はしていませんが」「まだファイリングができていませんので」「調整すればまだよくなるはずです」などと、必ず言うのはなんなのかと思います。
いやしくもピアノ販売の専門家で、それを商品として販売するのであれば、せめて最低限のクリーニングと調律ぐらいしてビデオ撮影するのが当然だろうにと思います。根気よく何台も見てみましたが、一台も「調律も調整もバッチリ、どうですこの音!」というビデオにはついに行き当たりませんでした。

専門技術者も数名いるようで、いちおう技術も売り物にしており、スタッフ全員の笑顔の記念写真まで公開されていて、さも何事も包み隠なさいオープンな会社であるかのようにアピールするのですが、なぜか肝心のピアノとなると、いつもどれも調整前の未完成状態ばかりとは、そのあまりなギャップに呆れてしまいます。
「うちはリピーターのお客さんも多いですよ!」といいますが、ネットの中古ピアノ店のリピーターって、どういう人達だろうかと思います。

でも、中にはあんな動画を見て「安心感」を覚えて買ってしまう人がいるんでしょうね。
マロニエ君は見れば見るほど「不安」が掻き立てられました。
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黒い用心棒

なんともまあ、嫌な雨が続くものです。
明日(7日)は晴れ間が出るような事も言っていますが。

マロニエ君にとってはこの季節、ピアノ管理が大事とはいいながらも、しょせんは一般家庭のことなので、ホールのピアノ庫のようなわけにはいきません。
いかにエアコンを入れようと、除湿器を回そうと、そこには自ずと限界というものがあり、このところのこれでもかといわんばかりの鬱陶しい雨天続きでは、とりあえず少々の抵抗は試みるものの、最終的には太刀打ちできないものです。

しかし、今年はなにしろダンプチェイサーのお陰で、ずいぶん助けられていることは実感しています。
もちろん季候そのものがいい頃に較べれば幾ばくかのコンディション低下は避けられませんが、それでも例年のことを思い返してみると、頼もしい助っ人のお陰でたしかに違います。

とりわけ今年の梅雨は悪性とも呼びたいほどで、これだけ長期間に及ぶしつこい雨と高い湿度の集中攻撃を受けると、ピアノはかなりくたびれた疲れた感じになるものです。
例年なら、梅雨はマロニエ君とピアノは一心同体とでもいうべき疲れを見せるのですが、今年は心なしか、いや確実に、ピアノはある一定の元気さを保っており、確実に人間のほうが負けていることは間違いありません。

まあ、ピアノ好きのマロニエ君としては自分よりもピアノのほうが多少でも元気でいてくれることは、歪んだ喜びがあるもので、やはりダンプチェイサーを取り付けたことは正解だったと思っています。

それにしても、このところの悪天候はなんなのかと思うばかりで、ようやく晴れ間が出たかと思えば、それもつかの間、すぐにまた激しさを伴う雨が数日続くというパターンの繰り返しです。昔は梅雨といっても、ここまで厳しく過ごしにくかった覚えはあまりないのですが、他の皆さんはどうお感じなのだろうかと思います。

ちょっと玄関を出ると、そこはまるで風呂場かサウナのようなムシムシ状態で、聞くところによると北海道でもかつて無かったほど確実に気温が上昇しているのだとか。
もしかしたら日本は熱帯化しているのではとさえ思ってしまいます。

車に乗って驚くのは、ガレージのシャッターを開けて外に出ると、ガレージの内外だけでさえ湿度差があるらしく、バックで路上に出た途端、前後左右のガラスが一斉に曇ってしまい、前に進むにはいきなりワイパーの出番となります。
これは走り出すとほどなく消えて無くなりますが、今度はエアコンで車内が冷えてくると、これで再びガラスが曇ってしまいます。

というわけで家も、塀も、なにもかもが雨に濡れそぼって重い病気のように見えてしまいますが、そんな中に湿度大敵のピアノを置いている現実を思うと、なんだかもう無性に気が滅入ってしまいます。
とにかく、今年もしもダンプチェイサーをつけていなかったらどうなっていたかを考えると、思わずぞっとしてしまいます。

実をいうとあと1~2本追加購入しようかという誘惑にかられましたが、それもあんまりなようで、さすがにそれは止めました。
でも、ここ毎日の天気からすれば、一台のピアノに3本ずつぐらいつけたいような気がするのは事実です。
もちろん「過ぎたるは及ばざるがごとし」ですが、効き方は非常にマイルドである上に、自動調整機能が付いていますから、感触としてはピアノを痛めるやはり心配なさそうです。

いつになったらこの「黒い用心棒」が要らなくなることやら。
当分それはないことは間違いないでしょうね。
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混濁の恐怖

このところ、ピアノを弾く場合のマナーを考えさせられることがありますが、あることを思い出しました。
以前、知人達とあるピアノ店に行ったときのことですが、これは少々まずい…という状況になりました。
ここのご主人はとても気のいい方で、店内のピアノを弾くことについてはいつも快く解放してくださいます。

はじめは遠慮がちでしたが、しだいに各々がちょろちょろと弾きだしたところまではよかったのですが、時間経過とともに緊張が薄れ、気が緩み、しだいに各人バラバラに自分の弾きたい曲を同時に弾いてしまうという状況が発生しました。

マロニエ君はこれが苦手で、一種の恐怖さえ覚えてしまいます。
だいいちあまり感心できることではないですよね。

読書やパソコンと違い、楽器は音を出すものであるだけに、複数の人が複数のピアノを同時に鳴らすということは、息を合わせるアンサンブル以外はただの騒音以外の何ものでもありませんし、この瞬間から美しいはずのピアノの音は耐えがたい混濁音になってしまいます。

これの最たるものは楽器フェアなどで、せっかくの良い楽器を試そうにも、一瞬も止むことのない耳を覆いたくなるばかりの大騒音の中では、個々の楽器への興味もすっかり失ってしまいます。

今はまったくお付き合いも途絶して久しい方で、以前マロニエ君の家にピアノの好きな方をお招きしたところ、そのうちの一人は実に3時間近くを、ほとんど休むことなしに我が家のピアノを弾き通しに弾き続けました。
あとの一人とマロニエ君は呆気にとられ、つい目と目が合ってしまいますが、やめろとも言えず、なす術がありません。

わずかな曲の合間などになんとか分け入って弾くという、せめてもの抵抗を試みますがまるで効き目はなく、すぐに構わずその人もまた自分の弾きたいものを弾きはじめる有り様で、もう部屋は音楽とは程遠いただのピアノの騒音で溢れかえりました。
それでもその人はまったくひるむことなく、ひたすら弾き続けるのですから、自分さえピアノが弾ければいいというその図太さにはほとほと参りましたし、ピアノ弾き特有の特種な無神経さを感じました。

いずれにしても、ひとつの場所で同時に違う曲を弾くという野蛮な行為だけは理屈抜きに御免被りたいものです。

ピアノが好きな人は、目の前にピアノがあることは一種の誘惑で、触れてみたい、弾いてみたいという気持ちになるのはよくわかります。
しかし、誰かが弾いている間ぐらい、自分が音を出すのはちょっと遠慮する程度のけじめはほしいものです。

そんなことを考えていると、マロニエ君は最近、家でさえピアノを弾くことに、なにやら家族の迷惑が気になりだして、このところは無邪気に弾くことができなくなっています。
それは、同じ場所にいて嫌でも音を聞かされる側の立場になってみれば、それは弾いている当人とは大違いであって、どんな理屈をつけても、基本的にはただの騒音であろうと思うわけです。
とりわけ練習ともなると、通して音楽が流れるわけでもないし、ましてやプロの演奏でもない、アマチュアのヨタヨタ弾きでは、他者(たとえ家族でも)が快適であろうはずがないからです。

音の苦痛というものは、煙や臭いと並んで、どうしても強烈な部類の苦痛源であるということはピアノを弾く人は心しておくべき事だと思いますし、間違ってもピアノの音は美しいはずなどと勘違いしてはなりません。
これはピアノを弾く者、すなわちピアノの音を出す側に強く求められる基本認識の問題だと思います。

ピアノは、人前で弾くには一線を踏み越える度胸が必要ですが、その線の先には、今度は音の野蛮人にならぬよう、遠慮をするというバランス感覚を持つことも、弾く度胸以上に必要であるような気がします。
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道楽の殿堂

ピアノクラブの中に、なんと自分のスタジオをお持ちの方がおられ、そこでの練習会という名のお招きをいただき、マロニエ君も参加しました。

北九州市のとある一角にあるそこは、外観は普通の住宅街の中に半ば正体を紛らわすかのごとく静かに建っていますが、中に入ると大きく重い金属製のドアが目前に現れ、そこを開けると、さらにもう一枚同様のドアがあり、まるで金庫の中にでも入るがごとくこの厳重なドアを2枚くぐり抜けてようやくスタジオ内に入ることができます。

ベタベタとした鬱陶しい外の天気から見事に遮断されたそこは、爽やかな澄んだ空気の流れる別世界でした。
広いコンクリートの建物の中には優しげな木の床が敷き詰められ、随所に共鳴板や吸音目的の布の塊などが散見され、音響のためのあれこれの方策が練られては、試行錯誤を繰り返されている様子がわかり、ここのオーナーがいかにこだわりを持ってこの空間を作り上げておられるかが一瞥するなり伝わりました。

ピアノの音を出すと、一音一音の音には、まるで楽器の呼吸のような微かな余韻までがこの空間に鳴り響きます。
しかし鳴り響くとはいっても、決して音が暴れるような野放図なものではなく、響くべきものと余分な響きとが見事に峻別されており、人のイメージの中で「こうあってほしい」と思い描く、まさにそんな美しい音響空間が実現されていたのには深く感心させられました。

ピアノはディアパソンのDR500ですが、これがまた素晴らしいピアノでした。
コンサートグランドがカタログから落ちた現在、この奥行き211cmのモデルが現行ディアパソンの最高級モデルです。
以前、同社の社長と電話で話したときに聞いたことを思い出しましたが、鹿皮のローラーを使っているのがカワイとの違いのひとつだと言っていましたが、その恩恵なのか、タッチには奥に行くほど好ましい弾力があり、この特性とコントロールのしやすさという点では、むしろ優秀なドイツピアノを連想させるものがありました。

このDR500は、ディアパソンの生みの親である大橋幡岩氏の設計とは完全に訣別した新しいモデルで、ボディと響板はカワイのグランドRX-6そのものですが、そこにレスロー製の弦が一本張りされていることや、ハンマーはレンナーを、そしてなによりもディアパソンの技術者によって入念な出荷調整(これはピアノにとって非常に大切な点)されている、いうなればディアパソンの手によるスペシャル仕上げというべきピアノです。
そのために、大橋デザインでは見られなかったデュープレックスシステムなどもカワイと同じく備わり、音は良い意味で限りなくカワイに近いもので、昔のディアパソンのいささか攻撃的で厚ぼったい発音や、クセの強かった響きは完全に消滅し、代わりになめらかで美しい標準語を話すようなピアノになっており、ショパンなどを弾いても違和感なく収まりのつく、洗練された理想的なピアノになっているように思いました。

もうひとつ、たしかこのピアノはカワイでありながらアクションは従来の木製を貫いている点がディアパソンブランドのこだわりで、この点でも弾いていて樹脂製にはないナチュラル感と柔らかさがあり、極めて好ましい弾き心地であることも見逃せません。
まさに布団でくるんで持って帰りたいようなピアノでした。

いやしかし、こんな素晴らしい環境に住み暮らす非常に恵まれたピアノですから、これ以上の住処はないはずで、本当に幸せなピアノといえますし、このスタジオの出来映えも個人の道楽としてはまさに最高レベルもの。
こんな空間で思うさま練習ができるなんて、ここのオーナーはなんという幸せを独り占めしておられるのだろうかと思わずにはいられません。

現在のような言葉のインフレからすれば、ここはもはや堂々とホールを名乗っても良い場所で、巷にはこれとは比較にならないただの部屋みたいなものをホールと呼んでいるものをマロニエ君はいくつも知っています。
ここのオーナーはピアノはもちろん、ヴァイオリンも弾かれる由なので、いつかベートーヴェンのソナタでもお手合わせ願いたいと密かに企んでいるところです。

ともかく驚きの一日でした。
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S社の凋落

アルゲリッチの東日本復興支援チャリティCDで、もうひとつ感じたことを少し。

実はこのCDでのマロニエ君が最も残念に感じたのはピアノそのものでした。
ただし、これはこの演奏会だけのことではありませんので、その点は念のため。
とにかくピアノが絶望的に鳴らないことです。
もちろん録音物は会場の条件やマイクの位置や性能、あるいは技師の指向など、あらゆる要素が絡みあっていることなので、それだけを聴いて軽々な事は言えないことはこの世界の常識として重々わかっているつもりですが、ただ、そんな微妙さの問題ではなく、ピアノが悲しいほど、ただ単純に鳴っていないことは誰の耳にもあきらかです。

つい先日もテレビで、ロジャー・ノリントン指揮するN響の定期公演(サントリーホール)で、オール・ベートーヴェン・プロをやっていましたが、いつも義務的なしらけた演奏しかしないN響が、さすがにこの大家を迎えて渇を入れられたのか、普段にはない気合いの入った重厚な演奏をしているのは嬉しい驚きでした。
冒頭の「プロメテウスの創造物」序曲からしていつものN響とは響きと厚みが異なり、続く交響曲第2番では、ベートーヴェンの全交響曲中この最も知名度の低いこの作品を、大いに手応えのある堂々たるドイツ音楽として披露してみせました。
そして最後を飾るのが、ドイツの俊英マルティン・ヘルムヒェンを独奏者に迎えての「皇帝」でした。

ところが冒頭のピアノのアルペジョが鳴り出すや、もうひっくりかえりそうになりました。
ここで聞こえるピアノの音も、上記のCDとまったく同じ音で、耳栓でもしているようにくぐもった精気のない細い音しかせず、とても皇帝のあのエネルギッシュな前進する音楽を聴いている気がしないのです。ヘルムヒェンはまだ若くて未熟なところはあるのもも、キレの良さと作品に対する献身的な演奏姿勢は概ね好感の持てるものでした。

しかし、彼がどんなに力んでも気持ちを込めてもピアノがそれに応えきれず、自然と音楽そのものが沈殿していくのが手に取るようにわかって気の毒でした。オーケストラも前2曲で見られた覇気がなくなり、いつものしらけた調子に戻ってしまったのは演奏者も聴衆も大変不幸なことだと思います。

さらに言えば先日のショパンコンクール入賞者達によるガラコンサート(こちらはオーチャードホール)でも同様でした。
すべて会場も違うのでピアノも違うはずですが、どれも「同じ音」なんです。

これはもちろん有名なS社のピアノですが、どうもここ最近の新しいピアノ特有の、ほとんど量産品としかいえないような深みもパワーも輝きもない、貧相にやせ衰えたあの音は個体差でもなんでもない、このモデルに共通する特徴であることが間違いないようです。

アルゲリッチのCDの演奏会場はすみだトリフォニーホールで、ここは1997年の開館ですから、その当時導入されたピアノなら、まだまだこんな状況になる時代のピアノではないはずですから、そのピアノだとはマロニエ君はまず思いません。
もしかすると10数年経過したということで新しいピアノに買い換えたのかとも思いますが…。

それにしても、ひどいです…。
まともに曲の輪郭も描くことができず、かろうじてS社の音の残像のようなものだけが弱々しく聞こえていました。
まるでフタを閉め、カバーを掛けて弾いているように音がこもり、聴いていて虚しくなります。
先人達が築き上げたブランドにあぐらをかいて、あんなものを堂々と作って販売しているようでは、他社にそう遠くない時期に追い越されてしまうのではないでしょうか。いや、すでに現在がもうそうなのかもしれません。

マロニエ君は子供のころから、なにしろこのメーカーのピアノが好きで、心底惚れ込んだピアノでしたが、しかし同社の新しいピアノをあちこちで聴く(弾く)につけ、ついにここまできたかと思わせられることがありすぎです。
メーカーが企業体である以上、利益を追求するのを責める気はありませんが、そのために、これほど露骨に品質を落とすのはとても納得できません。

サイドのロゴが大きくなってからのピアノ、さらには下面の支柱が黒から木肌色になって以降、さらにもっと言うとここ1〜2年の新しい大型キャスターが付いて以降のピアノは、いかに贔屓目に見てもいただけません。
メーカーがあんなものを平然と作る以上、ファンがどんなに善意の解釈をしてみたところではじまりませんね。
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カワイ軍団

ピアノクラブ内では、俄には信じられないような事実があります。

クラブ員は皆ピアノを弾くわけですから、当然ながら電子ピアノ、アップライトピアノ、グランドピアノまで、様々な楽器を使っている人がいらっしゃいますが、その中で、グランドピアノだけに限ると、信じがたい事実が浮かび上がり、これは果たして偶然か必然か…。

全員をくまなく確認したわけではありませんが、マロニエ君が現在把握しているだけでも、カワイが5台、シゲルカワイ2台、カワイが製造しているディアパソンが2台に対して、ヤマハはわずか2台!で、圧倒的にカワイ系の健闘が目立ちます。

これは一般的なヤマハ優勢の流れからいうと、真逆の情勢で、なにが理由だろうかと思いますが、はっきりしたことはわかりません。一般的な人がごく自然に選ぶピアノがヤマハだとするなら、われわれはひどく不自然な一般人からかけ離れた人間の集まりということになるかもしれません(笑)。

普通はどこに行っても置いてあるピアノは十中八九ヤマハですから、ピアノクラブの定例会でもこれまで利用した会場のピアノはことごとくヤマハで、カワイだった場所はたった一箇所しかありませんでした。
その一箇所というのも、地元のオーケストラの弦楽器奏者の方が作られた貸しスタジオなので、やはりなにかのこだわりがあって意図的にカワイを導入されたものだろうと思われます。

日本はピアノといえばまずはヤマハで、どこに行っても判で押したようにヤマハ、ヤマハ、ですから、ピアノクラブの個人所有のグランドピアノが、これほどの猛烈な比率でカワイ系のピアノだというのは本当に驚いてしまいました。

別に我々はカワイ楽器の回し者でもなければ、なにかそれに類する系列に属しているわけでもなんでもない、単なる個人の集まりであるし、お互いに話し合って買ったわけではなければ買った時期もバラバラで、知り合ったときには皆ピアノは持っていたことを考えると、この事実は実にまったく注目すべきものがあるようです。
もう一度繰り返しますが、ディアパソンを含むカワイ系が9台に対して、ヤマハが2台というのはやはり尋常なことではないようで、もしマロニエ君が学者なら即席の研究テーマにしたいところです。

彼らに共通しているのは、カワイ(およびその系列)のグランドには、皆一応の満足をしている様子で、最大手のピアノにはほとんど関心がないように見受けられる点でしょうか。

これに対して、一般的な施設の備品として置かれているピアノや、ピアノの先生には圧倒的にヤマハが多いようです。
もちろんカワイ系列の音楽教室に連なる先生達はカワイかもしれませんが、いわゆるフリーの先生やピアニスト、音大生などはマロニエ君の知る限りでは圧倒的にヤマハです。

カワイを選んだ人の動機を一人ひとり聞いてみたわけではないし、それもまたいろいろだろうとは思われますが、単純に音の好みということは、やはりあるのではないかと思われます。
ただ現実には、ピアノを買う人というのは、とにかく何を買ったらいいのかわからなくて、ヤマハとカワイの違いもわからないという人が多いのも事実で、わからないからヤマハを買っておけば間違いないだろうというのが一般的です。
そんな中で、少なくとも自分の好みがあり、それをカワイのほうに感じたというのであれば、これはもう立派なひとつの見識で、ここは最も注目すべき部分だろうと思います。

マロニエ君は決してヤマハを否定するものではありませんし、ヤマハの良さも自分なりにわかっているつもりです。
同時にカワイがすべて良いなどと思っているわけでもありませんし、カワイの欠点もむろん知っています。

ただ、それでも、もし新たにヤマハかカワイのいずれかを買うとしたら、機種はさておいても、マロニエ君なら迷うことなくカワイを選ぶことだけは間違いありません。
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音楽本蒐集

音楽関係の書籍、わけてもマロニエ君の興味の対象であるクラシック音楽関係の書籍というのは、発行部数も少ないのか、数年もすると書店や楽器店から姿を消してしまいます。
ピアノ関連でも、レッスン関係の本は比較的ありますが、文化論的なものはそれほど多くはありません。

すぐに買って読みたいというほどのものではなくても、一定の関心を抱いて、そのうち購入しようなどと油断していると、ついその本のことを忘れてしまい、何かの拍子に思い出して買う気になったときは、もう無くなっていて、調べてもらったら廃刊になりましたなんていうことも何度か経験しました。

一般性があって売れ行きが見込めれば、版を重ねて再販もされるでしょうが、クラシック音楽関係の書籍でそれが行われるようなものはめったにない気がします。
つまり、目についたときには、ある程度のタイミングで買っておかないと、後からはもう手に入らなくなるというのがマロニエ君の体験から得た認識となりました。今目の前にあるものは、できる限りサッサと買っておくべしという掟です。

それいらい、どうしようかな?と思うぐらいのものはできるだけ買うようにしていますが、買ったにしても、本というのはすぐにそれを読みたい気分の時と、そうではないときがあるものです。
さらに読みかけの本などがあると尚更です。
というか、そもそも本はすぐに読みたいときに買うものですが、音楽書はそれが難しいということになるでしょうか。

そういうわけで興味を惹くものがあったときは、できるだけ早めに購入するようにして、すぐに読まない場合はひとまず本棚に入れておくというスタイルが出来上がりました。
ところが、これはこれで意外な落とし穴があったのです。

買ってすぐに読んでおけば、その本に対する記憶や印象というものが何か残るものですが、ただ買ってきて本棚に入れただけでは、印象がスーッと消えてしまうことがあり、そうなるとどうなるか?
もうおわかりだと思いますが、買ってしばらく未読のままにしているとその本のことは完全に記憶から抜け落ちてしまい、書店でまた同じ本を見たときに誤って重複買いしてしまうという、まことに阿呆なことをやらかしてしまいます。

つい最近もこれがあり、しかも二度続いたのには我ながら嫌になりました。

大したものでもなく、2冊持っていても仕方がないので、先月に一人、今月もう一人と、ピアノの友人にこれらの本を進呈しました。尤も、大したものならきっとすぐに読むはずですが、中途半端なものだけに放置してしまうのかもしれません。

逆に、ちょっと値段が高めなので次に来たときに買おうぐらいに思って、いったんは購入を見合わせて引き上げて帰宅してみると、なんとそれ、既にもう買っていて、今日書店で悩んだはずの本がちゃんと自分の本棚に入っていてびっくりしたこともあるのです。

高い本を重複買いしなくてよかったとホッと胸を撫で下ろしたことも一度ならずありました。
いいかげん健忘症かとも思いますが、それほど買ってすぐ本棚(しかも普段目に触れる場所ではないので)直行というのは危険だということのようです。
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ホールの惨状

新聞によると、3.11の震災では各地のホールや劇場などにも様々な被害があったようです。
これはある程度予想はしていたものの、やはりそれは予想では終わることはない、まぎれもない「事実」のようです。

全国約1200の公立ホールで構成する「全国公立文化施設教会」が発表したデータによると、今回の震災で大小何らかの被害を受けた公立ホールは197にものぼり、そのうち「甚大な被害」を受けたホールは31ということで、中には建物ごと流されたものもあるということでした。
この数字には挙がらない公立以外のホール、プライヴェートホールなどを含めるとさらにその大変な数になるはずです。

また、建物に被害がなくても、震災以降は予算のめどが立たなくなるなどして再開の見込みが立てられないホールもあるということでした。ホールや劇場は使わなくても維持管理だけでもおそらくかなりの費用を必要とするため、このような問題が次々に発生しているものと思われます。

今ごろになって、「ははあ、そういうことだったのか」と納得がいったのは、例年ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポンの会場となっている東京国際フォーラム(大小7つのホールと会議室などを擁する)も余震による電気系統の不具合から貸し出しに著しい制限が発生し、昨年の来場者数約81万人から、今年は一気に15万人弱までに激減せざるを得ないほどの規模の縮小を強いられたというのです。
鳥栖や新潟のような、これまでこの音楽祭とは縁もゆかりもない地域で突如開催されることになった地方版開催の背景には、メイン会場である東京国際フォーラムでこのようなことが発生したという裏事情があったようです。

また、新聞にはその内部写真まで掲載されていて驚いたのが、川崎市最大の音楽拠点、ミューザ川崎シンフォニーホールでした。
東北ではないものの、やはり3月の地震で客席上の天井仕上げ材がすさまじく落下して、写真ではまるでホール全体が崩壊したかのような無惨な光景であったのには驚かされました。
さらに照明やパイプオルガンにも大きな損傷があるとかで、なんと、むこう2年間の閉館を決定したそうです。

当然ながら公演のキャンセルも相次ぎ、多くのホールが運営面でも大きな打撃を被ることは避けられず、さらにそのもうひとつの問題は、多くのホールが竣工したのが1995年前後が最も多いのだそうで、震災とは別問題に、それらが一斉に改修の時期を迎えているということも折悪しく重なっているようです。しかも費用は優十億から100億かかるとかで、まさに泣きっ面に蜂という状態のようです。
仮に無事改修などが終わったとしても、現在の社会状況から見て、以前のようにお客さんが来てくれるという見込みが立てられないようで、なにもかも震災以前と同じというわけにはいかないという深刻な問題を抱えているらしく、音楽ファンとしてもなんとも心が暗くなるような状況のようです。

福岡でもこの1年ほどは、なにやらすっかりコンサートの数が少なくなっていると感じていたところ、3月の震災を境に、さらにそれが激減しているのが目立つようになりました。
むろん福岡のホールは幸いにして今回の地震の被害はないわけですが、現在の社会の雰囲気がなかなかコンサートなどを盛んに行おうという流れではないようで、この状態はここ当分は解消されそうにもない感じです。

テレビニュースをみれば、あいもかわらず福島原発事故や被災者の深刻なニュースが冒頭から流されますが、これはもちろん大変な社会問題であることはよくよくわかるものの、すでに災害発生から100日以上が経過して、1日も休むことなく連日連夜、このような先の見えない暗い話題ばかりをトップニュースとして際限もなく流すばかりでは、世の中に与える精神面での過剰なストレスという、いわば第二の人災のような気がしてくるのです。

もちろん福島原発は収束を見ておらず、抱える課題も甚大ですが、もう充分に国中が喪に服したことでもあるし、そろそろ動きの取れるエリアでは、被災地の為にも前向きに腰を上げてもいい時期に来ているような気がしますが。
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