メールのご紹介

ベーゼンドルファーに携わるヤマハの方から下記のようなメールをいただきました。
ヤマハ自身がピアノの製作会社であるにもかかわらず、この老舗の親会社となってからも、ウィーンの名器の伝統工法と志は大切に受け継がれているようで、さらにはヤマハの社員の方まで、こうしてベーゼンドルファーを熱愛していらっしゃることは、このメーカーの最も幸せで偉大なところだと思われます。

ぜひともこのブログでもご紹介したく、ご当人様の了解を得ましたので下記の通りその文面を掲載致します。この方は現在ウィーンに来ておられる由、ウィーンからのメールとなりました。
個人名のみ控えますが、それ以外は、改行なども一切手を加えず「オリジナル」のままお届け致します。

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突然にメイルを差し上げて失礼します。 時にこのブログを拝見し、
内容の濃さにいつも感心しております。 

私はヤマハに勤務するものですが、2008年初めよりベーゼンドルファーに
関わっております。 当初、ヤマハが経営することに、ベーゼンドルファーが
変わってしまうのではと、多くの方が心配されました。 

しかし、自信を持って言えることは、ベーゼンドルファーの独特な音色を
維持することを第一義に考え、現在も開発から製造まで
オーストリアのベーゼンドルファー本社で全てを執り行っていることです。
逆に言えば、ヤマハの一番恐れることは、ベーゼンドルファーの
性格が変わってしまうことです。 此れからもウィーンの至宝と呼ばれる
ベーゼンドルファーを、しっかり守って行きたく存じます。

お書きになったようにインペリアルは100年以上の歴史を持つモデルですが、
これ以外にも現行モデルの中、170/200/225も100年以上も
継続して生産しています。

今年発表した155も基本的な構造は、伝統的なベーゼンドルファーの
製造方法を踏襲しております。 例えば支柱の構造や材質、
側板の組立て方や材質、アクション、鍵盤など。 尚、鍵盤やアクションは
170と同じであり、サイズから来る演奏性を犠牲にしていません。

また、肝心な音は小型ピアノとは思えない豊かなものになりました。
これは製造方法が他の大きなモデルと同様なため、当たり前のことかも
しれませんが。 

こんな風に書きますと自慢話になってしまい恐縮です。 ただ、
ベーゼンドルファーの独特な音色に魅かれると、仕事を離れても
つい声が大きくなってしまいます。 

残念ながら、九州にベーゼンドルファー特約店が無く、試弾して頂く
機会が少ないかと思います。 ただ、八女市オリナス八女ホールに
ベーゼンドルファー280が昨年納品されました。 それ以来、八女市では
ベーゼンドルファーを大変愛して下さり、これはとても嬉しく思っております。

勝手にベーゼンドルファーのことばかり書いてしまいましたこと、
どうぞお許し下さい。 東京にお越しならば、是非声を掛けて下さい。
中野坂上のショー・ルームをご案内したく存じます。 また、
ベーゼンドルファーに関してご意見があれば、どうぞお聞かせ下さい。

宜しくお願い申し上げます。
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調整が目指すもの

連日におよぶスピーカー作りを一休みして、週末は再び知人のスタインウェイの調整を見学させてもらいました。
このピアノは、もともと大変素晴らしい楽器なのですが、オーナーがこのピアノにかける期待にはキリがないご様子で、さらに上を目指して素晴らしいピアノにしたいというその熱意はたいへんなものがあり、より高度な調整を求めていらっしゃるようです。

前回と同じピアノ技術者さんで、この日はやはり各所の調整や針刺し、とくに弦の鳴りをよりよくするための作業などが進められましたが、技術者さんが仰るには、やり出すと調整の余地はまだまだ大いにあるのだそうで、今後(果たしていつまでかわかりませんが)を楽しみにして欲しいというものでした。

確か前回が8時間ほど、今回も5時間ほどが作業に費やされましたが、ピアノの調整というのは精妙を極め、しかも部品点数が多いということもあってなにかと時間がかかるし、明快な答えがあるわけでもないため、これで終わりということのない無限の世界だということを再認識させられました。

とりあえずこの日の作業終了後にマロニエ君も少し触らせてもらいましたが、その変化には一瞬面食らうほどで、たしかに音には芯と色艶が出ているし、以前よりもたくましさみたいなものが前に出てきたように思います。さらにはよりダイナミックレンジの大きな演奏表現をした場合に、ピアノが無理なくついてくるという点でも、音の出方の限界を後方へ押しやったのだろうと思われます。

しかし、楽器というものが極めてデリケートで難しいところは、以前このピアノがもっていたある種のまとまり感みたいなものもあったように思い出され、あれはあれでよかったなぁ…なんてことを感じなくもありませんでした。
ピアノも云ってみれば一台ずつに「人格」があり、そこにいろいろな個性がうごめいているのだと思います。生まれながらに持った性格もあれば、あとから技術者によって意図的与えられる性格もあるでしょう。

たしかに、基本的なところから正しい調整がされることは非常に大切で、変なクセのあるピアノだったら一度ご破算といいますか、一旦リセットされたようになる場合も多く、とりあえず楽器としての健康な土台みたいなものが新しく打ち立てられるというのは、作業の流れとして順当なところだろうと思います。

しかし、それ以前にあった、そこはかとないやさしみや味わいみたいなものはひとまず洗い流されてしまって、ちょっと残念さも残ったりと、このあたりが人の主観や印象の難しいところです。しかし、新たに鍛え直されて健康なたくましさが出てきたことはやはり歓迎すべきで、弦の鳴りから細かく調整されたことで、さらにサイズを上回るパワーが出たのも事実でしょう。

ただし発音が溌剌とはしているけれど、どんなときでも背筋を伸ばして、正しい発声法で一直線に歌っている人のようで、マロニエ君はそこにもう少し陰翳があるほうを好む気がします。
音色そのものはいじっていないので同じ方向の音にあるといわれますが、総体としてのピアノと見た場合、後述する要素を含めて前とはあきらかに別物に変化してしまったというのがマロニエ君の印象です。

もともとよく鳴っていたピアノでしたから、それがさらにパワフルに鳴るようになることは技術者サイドで見れば順調かつ正常な進化なんだろうとは思いますが、弾く側にしてみると、心に触れる「何か」を残しておいてほしいのも事実かもしれません。

また、別物に変化したというもうひとつの大きな要因は、タッチがぐんと重くなったことと、音の立ち上がりを良くしたとのことでしたが、それはたしかに体感できたものの、タッチコントロールがかなり難しくなってしまったことも小さくない驚きでした。
このピアノには比較的大きめのハンマーが付いているようで、重いのはそのためだと云う説明でしたが、もしかすると以前の調整はそのあたりも含めて絶妙の調整(メーカーの設定とは違っていたにしても)がされてたということかもしれません。

このピアノの以前の状態が良くも悪くも職人の感性も含んだセッティングであったのか…そのあたりはマロニエ君のような素人にはわかるはずもありませんが、ただ、あれはあれでひとつの好ましいバランスがあったというのはおぼろげな印象としてのこりました。要するにそれなりの帳尻は合っていたと云うことでしょうか。

ひとつの事に手を付け始めると、そこから全体がドミノ倒しのように変わっていく(変えざるを得ない)のはピアノ調整で日常的にあることです。このあたりは技術者さんの考え方や作業方針にもよるし、弾く人の好みの問題もあり、ひじょうに判断の難しい点だと思いますね。
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ピアニストの意見

音楽雑誌の記事やメーカーのホームページなどでしばしば目にすることですが、楽器メーカーはピアノの新機種の開発、とりわけコンサート用のピアノの製作にあたっては、かなり積極的に外部の人物の意見や感想などの、いわば聞き取り調査を行っている由で、それらを検討し、反映させながら開発を進めていくのだそうです。

中でも重きを置かれるのがピアニストの意見で、メーカーに招いて試弾をしてもらって、その感想や要望、アドバイスなどを拝聴するというもののようです。

では実際の現場でそれがどの程度の重要性をもっているのかということになると、マロニエ君はそれを見たわけではないのでなんともわかりませんが、少なくともそういうことをしばしばやっていると書いてある文章を何度も目にするので、それならそうなのだろうと思っているわけです。

たしかにピアニストこそは実際にピアノを演奏し、訓練された身体と感性を駆使して直接的に楽器を鳴らす現場人という意味で、メーカーとしても一目置くべき格別な存在であるのは頷けます。演奏者なくしてピアノはピアノの価値や魅力を広くあらわす機会はないわけで、だからこの人達の意見は尊重され、深く受け止められるのは当然だろうとも思います。

ただし、まったくマロニエ君の個人的かつ直感的な意見ですが、だからといって、これも度が過ぎるといかがなものかと思わないでもありません。
ピアニストも様々で、本当にピアノのことをわかっている優秀な人も中には少数いらっしゃいますが、逆な場合が実は大多数だという印象があります。何曲を弾きこなすことは得意でも、楽器としてのメカニズムの知識はまったく素人並みで、それでも自分はピアノの専門家という自負があるので、ときにとんちんかんな意見となり、これはよくよく注意すべきでしょう。

いろいろ耳にすることですが、ピアニストのピアノに対する要望というのは、多くがまったく個人的な事情に基づいたものであることが多いし、中にはとんでもないことを真顔でまくし立てる人もいらっしゃるそうです。とりわけホールのピアノにそういう個人的な感性を要求し、場合によっては元に戻せない状態になってもなんの斟酌もないというのはどういうことかと思います。

ましてや、これが普遍性をもった全体の響き、広い意味での音色、様々な特性を持つホールで、いかに理想的に音が構築され、あらゆる環境に適合する最も理想的に音が鳴り響くかという点においては、ピアニストにそれが適切にわからないのは当然です。

別にピアニストに判断力が頭から無いと云っているのではなく、その分野の判断力は、彼らの専門とは似て非なるものだと云いたいわけです。

だいいちピアニストは誰でも、永久に、自分の生演奏を客席で聴くことはできません。
要するにピアニストの好みと都合で作られたピアノというものが、聴衆にとって理想的な楽器であるとはマロニエ君はどうしても思えないわけで、もちろんメーカーがそういう側面だけでピアノを作っているとは思いませんが、あまりそれに翻弄されないほうが、むしろ素晴らしい楽器が生まれるように感じてしまいます。

優秀な専門家達のコンセンサスと科学の力によって、キズのない、上質な、優等生的な楽器を作ることはチームの力でできるかもしれませんが、果たしてそれで聴く者の魂が真に揺さぶられるかというと、大いに疑問の余地あると思います。

やはり、楽器造りはそれそのものが芸術だとマロニエ君は思いますので、すこぶる優秀な、できれば天才級の製作家が、自ら厳しく追求し判断し最終決定することだとしか思えないのです。煌めく楽器造りのためにはどこかにエゴがあってもいいと思うのですが。
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旧時代の設計

過日、ベーゼンドルファー最小の新機種がでたということを書いたことをきっかけに、あらためて同社のホームページを見てみたのですが、そこには意外なことが書かれていました。

Model 280 の説明文の中に、新型は「鍵盤の長さを低音から高音へと変化させ、それに従うハンマーヘッドの重量配分で最適なバランスを実現」とあるのですが、これまでベーゼンドルファーのアクションなどをしげしげと見たことがなくて知らなかったのですが、わざわざそう書いているということは、旧型のModel 275 では鍵盤は92鍵もあるにもかかわらず、鍵盤の長さはすべて同じだったのか!?と思いました。

ふつうグランドピアノの場合、おおよそですが2m未満の小型グランドの場合、鍵盤の長さ(ハンマーまでの長さ)は全音域で大体同じですが、それ以上のピアノでは低音側がより長くなり、さらにはピアノのサイズ(奥行き)に比例するように、鍵盤全体の長さもかなり長いものとなります。
もちろんそれは鍵盤蓋から奥の、普段目にすることのない部分の長さですから、演奏者にはわかりませんが。

確証がないので何型からということは控えますが、スタインウェイでもヤマハでもカワイでも、中型以上では鍵盤長は低音側がより長くなるというは常識で、これはてっきり現代のモダンピアノの国際基準かと思っていました。

そういう意味では、ベーゼンドルファーは旧き佳き部分があり、それ故の美点もあった代わりに、現代のピアノが備えている基準とは異なる点があって、そこを現代の基準を満たすべく見直すという目的もあったのかもしれませんね。
マロニエ君はいまだに新しいシリーズのベーゼンドルファーは弾いたことがありませんが、これまでに何台か触れることのできたModel 275 やインペリアルは、その可憐でピアノフォルテを思わせるような温かで繊細な音色には感銘を受けながらも、現代のホールなどが要求するコンサートピアノとしてパワーという点では、どちらかというとやや弱さみたいなものを感じていました。

もちろんマロニエ君のささやかな経験をもって、ベーゼンドルファーを語る資格があるとは到底思いませんけれども、それぞれの個体差を含めても概ねそのような傾向があったことは、ある程度は間違いないと思ってもいます。

そのあたりを思い出すと、鍵盤の長さなども旧時代の設計だったのかもしれないと考えてみることで、なんとなくあの発音の雰囲気や個性に納得がいくような気がしてきます。

そういう意味では、新しいモデルがどうなっているのかは興味津々です。
福岡県内にもModel 280 を早々に備えている新ホールがありますが、なにぶんにも距離もあるし、開館前の話ではピアノを一般に解放するイベントも検討中とのことでしたが、なかなか腰も上がらないままに時間が流れました。そのイベント自体も実行されているのかどうかわかりませんが、もしやっているようならいつか確かめに行ってみたいところです。
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楽器の受難

今年8月、堀米ゆず子さんの1741年製のグァルネリ・デル・ジェスが、フランクフルト国際空港の税関で課税対象と見なされて押収されたというニュースは衝撃的でしたが、翌9月にはさらに同空港で有希・マヌエラ・ヤンケさんのストラディヴァリウス「ムンツ」が押収されたと聞いたときには、さらに驚かされました。

「ムンツ」は日本音楽財団の所有楽器でヤンケさんに貸与されており、入国の際の必要な書類もすべて揃っていたというのですからいよいよ謎は深まるばかりでした。

それも文化の異なる国や地域であるならまだしも、よりにもよって西洋音楽の中心であるドイツの空港でこのような事案が起こること自体、まったく信じられませんでした。
しかも税関は返還のためには1億円以上の関税支払いを要求しているというのですから、これは一体どういう事なのかと事の真相に疑念と興味を抱いた人も少なくなかったことでしょう。

その後、幸いにして2件とも楽器は無事に返還されるに至った由ですが、これほどの楽器をむざむざ押収されてしまうときの演奏家の心境を考えるといたたまれないものがありました。
背景となる情報はいろいろ流れてきましたが、そのひとつには高額な骨董品を使ったマネーロンダリング(資金洗浄)への警戒があったということで、途方もなく高額なオールドヴァイオリンは恰好の標的にされたということでしょうか。さらには折からの欧州の不況で、税徴収が強化されている現実もあるという話も聞こえてきます。

それにしても、こんな高額な楽器を携えて、世界中を忙しく飛び回らなくてはいけないとは、ヴァイオリニストというのもなんとも因果な商売だなあと思います。
マロニエ君だったら、とてもじゃありませんが、そんな恐ろしい生活は真っ平です。

その点で行くと、ピアニストは我が身ひとつで動けばいいわけで、至って気楽なもんだと思っていたら、ピアノにもすごいことが起こっていたようです。
そこそこ有名な話のようで、知らなかったのはマロニエ君だけかもしれませんが、あの9.11同時多発テロ発生の後、カーネギーホールでおこなわれるツィメルマンのリサイタルのためにニューヨークに送られたハンブルク・スタインウェイのD型が税関で差し押さえられ、そのピアノは返却どころか、なんと当局によって破壊処分されたというのですから驚きました。

破壊された理由は「爆発物の臭いがしたから」という、たったそれだけのことで、詳しく調べられることもないままに処分されてしまったというのです。関係者の話によれば、塗料の臭いが誤解されたのでは?ということですが、なんとも残酷な胸の詰まるような話です。

この当時のアメリカは、どこもかしこもピリピリしていたでしょうし、とりわけ出入国の関連施設は尋常でない緊張があったのはわかりますが、それにしても、そこまで非情かつ手荒なことをしなくてもよかったのでは?と思います。
現役ピアニストの中でも、とりわけ楽器にうるさいツィメルマンがわざわざ選び抜いて送ったピアノですから、とりわけ素晴らしいスタインウェイだったのでしょうが、当局の担当者にしてみればそんなことは知ったこっちゃない!といったところだったのでしょう。

そのスタインウェイに限らず、この時期のアメリカの税関では、似たような理由であれこれの価値あるものがあらぬ疑いをかけられ、この世から失われてしまったんだろうなぁと思うと、ため息が出るばかりです。
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信頼できる技術者

現在、ヤマハのアーティストサービス東京に在籍される曽我紀之さんは、ピリスやカツァリス、仲道郁代さんなど多くのピアニストから絶大な信頼を寄せられるヤマハのピアノ技術者でいらっしゃるようで、マロニエ君もたまに雑誌などでそのお名前を目にすることがありました。
小冊子「ピアノの本」を読んでいると、その曽我さんのインタビューがありました。

それによると、なるほどなぁと思わせられたのが、曽我さんがヤマハのピアノテクニカルアカデミーの学生だった頃に、『調律は愛だ。愛がなければ調律はできない。』というのが口癖の先生がいらしたとのこと。
当時の曽我さんたちは、それを冗談だと思って笑って聞いていたそうですが、今ではその意味がわかるとのこと。

これは素人考えにもなんだか意味するものがわかるような気がします。
調律に愛などと言うと、なんだか意味不明、ふわふわして実際的な裏付けがない言葉のような印象がありますが、調律という仕事は甚だ繊細かつ厳格であるにもかかわらず、ある段階から先はむしろ曖昧な、明快な答えのない感覚世界に身を置くことになるような気がします。
このインタビューでも触れられていましたし、通説でもあるのは、同音3本の弦をまったく同じピッチに合わせると、正確にはなっても、まったくつまらない、味わいのない音になってしまいます。

そこでその3本をわずかにずらすというところに無限性の世界が広がり、味わいや深みや音楽性が左右されるとされていますが、いうまでもなくやり過ぎてはいけないし、その精妙なさじ加減というのはまさに技術者の経験とセンスに基づいているわけです。それは、云ってみれば技術者の仕事が芸術の領域に変化する部分ということかもしれません。
そのごくわずかの繊細な領域をどうするのか、なにを求めてどのように決定するか、その核心となるものをその先生は「愛」と表現されたのだと思います。

この曽我さんの話で驚いたのは、彼には技術者としての理想像となる方がおられたそうで、その方はピアノ技術者ではなく、なんとかつての愛車のメンテナンスをやってくれた自動車整備士なんだそうです。
しかもその愛車というのはマロニエ君が現在も腐れ縁で所有しているのと同じメーカーのフランス車で、信頼性がそれほどでもないところにもってきて非常に独創的な設計なので、なかなかこれを安心して乗り回すことは至難の技なのですが、曽我さんはその人に格別の信頼を寄せていて、「彼がいる限りこの車でどこに出かけても大丈夫だと思っていることに気がついた」のだそうです。
そして、自分もピアノ技術者として、ピアニストにとってそのような存在でありたいと思ったということを語っておられます。

マロニエ君もふと自分のことを考えると、2台それぞれのピアノと、ヘンなフランス車、そのいずれにも非常に信頼に足る素晴らしい技術者がついてくれている幸運を思い出しました。このお三方と出逢うのも決して平坦な道ではなく、回り道に次ぐ回り道を重ねた挙げ句、ついにつかまえた人達です。

この3人がいなくなったら、今のマロニエ君はたちまち不安と絶望の谷底に突き落とされること間違い無しです。お三方ともそれぞれにとても個性あふれる、やや風変わりな方ばかりで、相性の悪い人とは絶対に上手くいかないようなタイプですが、本物の仕事をされる方というのは、えてしてそういうものです。
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Model 155

ベーゼンドルファーは、製品ラインナップを長い時間をかけながら順次新しい設計のモデルに切り替えているようで、現在生産モデルは新旧のモデルが入り乱れているというのはいつか書いたような覚えがあります。

そんな中で最大のインペリアルは古いモデルの生き残りのひとつであると同時に、今尚ベーゼンドルファーのフラッグシップとしての存在でもありますが、あとは(マロニエ君の間違いでなければ)Model 225を残すのみで、それ以外は新しい世代のモデルに切り替わってしまっているようです。

新しいシリーズでは、ベーゼンドルファーの大型ピアノで見られた九十数鍵という低音側の鍵盤もなくなり、現在のコンサートグランドであるModel 280では世界基準の88鍵となるなど、より現実的なモデル展開になってきているようです。いまさら88鍵に減らすというのは、従来の同社の主張はなんだったのかとも思いますが、ある専門業者の方の話によると、さしものベーゼンドルファーも新世代はコストの見直しを受けたモデルだとも言われています。

どんなに世界的な老舗ブランドとはいっても、営利を無視することはできないわけで、それは時勢には逆らえないということでしょう。完全な手作り(であることがすべての面で最上であるかどうかは別として)であり、生産台数も少なく、製造番号も「作品番号」であるなど、高い品質と稀少性こそはベーゼンドルファーの特徴であるわけですが、そんなウィーンの名門にさえ合理化の波が寄せてくるというのは、世相の厳しさを思わずにはいられません。

そんな中にあって、つい先月Model 155という小型サイズのグランドが新登場して、これはスタインウェイでいうSと同じ奥行きが155cmという、かなり小型のグランドピアノです。ヤマハでいうとC1の161cmよりもさらに6cm短く、日本人の考えるグランドピアノのスタンダードとも言うべきC3の186cmに較べると、実に31cmも短いモデルということになり、このあたりがいわゆるグランドピアノの最小クラスということになるようです。

この一番小さなクラスが加わったことで、ベーゼンドルファーのグランドは大きさ別に8種ということになり、そのうちすでに6種が新世代のピアノになっているようです。
合理化がつぶやかれるようになっても、お値段のほうは従来のものと遜色なく、この一番小さなModel 155でさえ外装黒塗り艶出しという基本仕様でも840万円という、大変なプライスがつけられていますが、どんな音がするのやらちょっと聴いてみたいところです。

マロニエ君は以前から思っていることですが、メーカーは各モデルで演奏したCDを音によるカタログとして作ったらいいのではないかと思います。
もちろん楽器のコンディションや録音環境、演奏者によっても差が出ると言われそうですが、しかしそれでもすぐに現物に触れられない人にとっては、ひとつの大きな手がかりにはなる筈です。
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表情過多

昨年6月にパリのサル・プレイエルでおこなわれたパリ管弦楽団演奏会の様子が放送されました。
指揮は日本人の若手で注目を集める(らしい)山田和樹で、曲はルスランとリュドミーラ序曲、ハチャトゥリヤンのピアノ協奏曲、チャイコフスキーの悲愴というオールロシアプログラム。

山田さんは芸大の出身で小林研一郎の弟子、2009年のブザンソンコンクールの優勝者とのことで、このコンクールで優勝する日本人は意外に少なくなく、その中で最も有名なのが小沢征爾だろうと思います。

マロニエ君は実は山田さんの指揮を目にするのは(聴くのも)初めてだったのですが、いろいろな感想をもちました。演奏は、現代の若手らしく精緻で隅々にまで神経の行き届いた、いかにもクオリティの高いものだと思いますし、とくにこの日はロシア物とあってか、パリ管も最大級の編成でステージに奏者達があふれていましたが、その演奏は完全に山田さんによって掌握されたもので、どこにも隙のない引き締まった演奏だったと思います。とりわけアンサンブルの見事さは特筆すべきものがあったと思います。

ただ、そこに音楽的な魅力があったかということになると、少なくともマロニエ君にはとくにこれといった格別の印象はなく、悲愴などでは、どこもかしこも、あまりに細部まで注意深く正確に演奏しすぎることで流れが滞り、これほどの有名曲にもかかわらず、却ってどこを聴いているのかわからなくなってくるような瞬間がしばしばありました。
そういう意味では、山田さんに限ったことではないかもしれませんが、今どきの演奏はクオリティ重視のあまり作品の大きな輪郭とか全体像というような点に於いては逆にメリハリの乏しいものに陥ってしまっている気がします。ひたすらきれいに仕上がったピカピカの立派なものを見せられているようで、もっと率直に本能的に音楽を聴いて、その演奏に心がのせられてどこかに連れて行かれるような喜びがない。

ちょっと気になったのは、山田さんの指揮するときのペルソナは、いささか過剰ではないかと思えるような情熱的・陶酔的な表情の連続で、これは少々やりすぎな気がしました。
指揮の仕方もどこか師匠の小林研一郎風ですが、彼の風貌および年齢ではそれが板に付かないためか演技的になり、いちいち目配せして各パートを指さしたり、恍惚や苦悩、歓喜や泣き顔などの連発で、いかにも音楽しているという自意識が相当に働いているようで、あまり好感は得られませんでした。

マロニエ君の私見ですが、そもそも演奏中の仕草や顔の表情が過剰な人というのは、パッと見はいかにも音楽に没頭し、味わい深い誠実な演奏表現をしているように見えがちですが、実際に出てくる音楽とは裏腹な場合が少なくありません。ヨー・ヨー・マ、小山実稚恵、ラン・ランなど、どれも音だけで聴いてみるとそれほどの表情を必要とするほどの熱い演奏とは思えず、むしろビジュアルで強引に聴衆の目を引き寄せる役者のようにも感じてしまいます。
小山さんなども、その表情だけを見ていると、あたかも音楽の内奥に迫り、いかにも深いところに没入しているかのようですが、実際はサバサバと事務仕事でも片づけるようなドライな演奏で、その齟齬のほうに驚かされます。

ハチャトゥリヤンのピアノ協奏曲では、ジャン・イヴ・ティボーデが登場しましたが、このピアニストもこの曲も、昔からあまりマロニエ君の好みではないので、とりあえずお付き合い気分で第1楽章だけ聴きましたが、あとは悲愴へ早送りしてしまいました。
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驚愕の模型

模型を作る人達のことを、俗に「モデラー」というようですが、この人達の作り出す作品の凄さには、子供のころから人一倍強い憧れを持っていたマロニエ君です。
どれほどガラスケースの外側からため息を漏らしたことか…。

マロニエ君はもっぱら完成したものを眺め尽くすのが好きなクチで、とても自分からその世界に入って、自らから挑戦してみようなどと思ったことはありませんでした。これはきっと自分の特性には合わない世界であり、たぶん無理だということを本能的に感じていたからだろうと思います。

それでも、飛行機やお城などの完成模型を欲しいと思ったことは何度あったか。でも完成模型というのはいつも「非売品」で買ったことは一度もありませんし、もし売られることがあっても、相当に高額なものになるに違いないでしょう。
いちおうはプラモデルなども相当数作りましたが、その出来はとても自分が満足できるようなものではありませんし、それでも自分の技術を高めようという思いにはついに至りませんでした。

あるとき、なにげなくネットを見ていると、「ピアノを作ろう!」というブログに行き当たりました。これまでに見たこともないフレーズで、しかも「1/10で」となっているのは、はじめは何のことやらまったく要領を得ませんでした。

さっそく見てみると、なんとその方はスタインウェイのD型(コンサートグランド)の1/10のサイズの模型を数年かけて作られたようで、その製作の過程や、完成後の動画などが見られるようになっていましたが、そのあまりにも見事な出来映えには、ただただ驚き、感銘さえ覚えました。
ディテールなどもここまでできるものかと思うほど忠実で、ぱっと見た感じは、写真の撮り方によっては本物に見えてしまう可能性が十二分にあるほど、それは抜群によくできています。

もちろんプラモデルなどではなく、すべて自分で型を取るなどされて、100%手作りによってここまで完成度の高いものが作り出せるという、その技と情熱には驚きと敬服が交錯するばかりです。
ここまで精巧なピアノの模型というのは初めて見ましたが、これまでのマロニエ君の経験では、よくできた車や飛行機の模型でさえ、ディテールの細かな形状が不正確であったり、全体のシルエットにちょっと違和感があったりと「残念」が散見されるのが普通ですが、このスタインウェイにはまったくそういったところがないのです。

なんでも一台完成させるのに5年近くを要されたとのことで、それも驚きですが、その作品は完成後まもなくさるピアニストのところへ行ってしまい、現在は2台目を制作中とのことですが、その制作過程からも窺える見事さにはまったく呆れるほかはありません。

さっそくその作者の方と連絡を取って、リンクの承諾を得ていますので、論より証拠、どうぞみなさんもその素晴らしい作品をみてください。
リンクページの一番下に『ピアノを作ろう!1/10で』というのがあります。
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CXシリーズ

ヤマハのグランドピアノのレギュラーシリーズとして、長年親しまれてきたCシリーズがこのほどモデルチェンジを行い、新たに「CXシリーズ」として発売開始されたようです。

サイズごとの数字がCとXの間に割って入り、C3X、C7Xという呼び方になりました。
外観デザインも何十年ぶりかで変更になり、鍵盤両サイドの椀木の形状はじめ、足やペダル部分のデザインはCFXに準じたものとなっています。個人的にはどう見ても(登場から2年経ちますが)美しさがわからないあのデザインがヤマハの新しいトレンドとなって、今後ラインナップ全体に広がっていくのかと思うと、なんとはなしに複雑な気分になってしまいます。

先週ヤマハに行ったとき、はやくもこの新シリーズの人気サイズになるであろうC3Xの現物を目にしたのですが、正直いってあまりしっくりきませんでした。
しかも一見CFシリーズと同じデザインのように見せていますが、よく見ると椀木(鍵盤の両脇)のカーブはえらく鈍重で、足も、ペダルの周辺も微妙に形が違っており、これはあくまでレギュラーモデルであることを静かに、しかしはっきりと差別化されていることがわかります。
決してCFシリーズと同じディテール形状なのではなく、あくまで「CFシリーズ風に見せかけたもの」でしかないことは事実です。

いずれにしろ、新型の意匠はどことなく、今やヤマハの子会社であるベーゼンドルファー風であり、より直接的に酷似しているのはドイツのグロトリアンのような気がします。
とりわけヤマハのC6Xとグロトリアンの同等サイズ(チャリス)、C7Xと同等サイズ(コンチェルト)は全体のフォルムまでハッとするほど似ているとマロニエ君には思われて仕方がありません。

もうひとつ、C3Xの現物の内部をのぞいてドキッとしたのがフレームの色でした。近年のヤマハのグランドのフレームは、シックで美しい金色だったのですが、それがCXシリーズでは、一気に赤みの強い金になり、この点も弦楽器のニスの色に近いとされるベーゼンドルファーの色づかいをヒントにしたのかとも思ってしまいますが、それにしても色があまりにもハデで、ちょっと戸惑います。

この色、見たときまっ先に連想したのは、ウィーンの出自という名目で、現在は中国のハイルンピアノで生産されている格安ピアノのウエンドル&ラングのそれでした。
ウエンドル&ラングの赤味の強いフレーム色は、中国的なのか、ちょっと日本人には抵抗のある色だと思っていたところへ、なんとヤマハが似たような色になったのは驚きでした。

全体的には、そこここに昔(Cシリーズ)のままの部分も多く、マロニエ君の目には要するにちぐはぐで中途半端な印象でしかなく、なんとなく釈然としないものを感じるばかりでした。
なかでも足の形などは、シンプルというより、ただの3本の棒がボディを支えて、下には車輪がついているだけのようで、その造形の良さや狙いが那辺にあるのか、これはデザインなのかコストダウンなのか、一向に理解できないでいます。

本当にその気があれば、もっとヤマハらしい個性に沿った美しいピアノのデザインというものはいくらでも作り出せたのでは…と思うと残念です。
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診断力

ピアノ好きの知人が、自宅のスタインウェイの調整に新しい技術者の方を呼ばれることになり、その作業の見学にということでマロニエ君もご招待をいただいたので日曜に行ってきました。

狭い業界のことなので、あまり具体的なことは書けませんが、その方はお仕事のベースは福岡ではなく、依頼がある毎にあちこちへと出向いて行かれるとのことでしたが、地元でもいくつものホールピアノを保守管理されている由で、周りからの信頼も厚い方のようでした。

作業開始早々から、あまり張り付いて邪魔をしてもいけないと思い、マロニエ君は4時過ぎぐらいから知人宅へと赴きましたが、到着したときはすでに作業もたけなわといったところでした。
はじめてお会いする技術者さんですが、事前にマロニエ君が行くことは伝わっていたらしく、とても快く受け容れてくださり、作業をしながらいろいろと興味深い話を聞くことができました。

また、このお宅にあるピアノに対する見立てもなるほどと思わせられるところがいくつもあり、当然ながらその診断によって作業計画が立てられ、仕事が進められるのは云うまでもありません。つくづくと思ったことは、技術者たる者のまずもって大切な事は、何が、どこが、どういう風に問題かという状況判断が、いかに短時間で適切に下せるかというところだと思いました。
作業の内容や方向は、すべてこの初期判断に左右されるからです。

どんなに素晴らしい作業技術の持ち主であろうと、事前に問題を正しく見抜く診断能力が機能しなくては、せっかくの技術も意味をなしません。いまだから云いますが、マロニエ君も昔はずいぶん無駄な労力というか、不適切だと思われる作業を繰り返されて、こんな筈では…とさんざん苦しんだこともありました。そんなことをいくら続けても、決して良い結果は得られるものではないのですが、技術者というものは誰しも自分のやり方やプライドがあり、とりわけ名人と言われるような人ほどそうなので、そういうときは無理な要求はせず、思い切って人を変えるしか手立てはありません。

ピアノに限りませんが、技術者が問題点を見誤って、見当違いの作業をしても、依頼者はシロウトでそれを正す力も知識もないまま、納得できない結果を受け容れる以外にありません。少しぐらい疑問点をぶつけても、相手はいちおうプロですから、あれこれと専門用語を並べて抗弁されると、とてもかないませんし、おまけに「仕事」をした以上、依頼者は料金を支払う羽目になるわけで、こういう成り行きは甚だおもしろくありません。

そういう意味では、技術者の技術の第一のポイントは「診断力」であるといっても過言ではないと思われます。これさえ正しければ、結果はそれなりについてくるように思われます。とりわけ専門的に鍛え上げられた鋭い耳と、指先が捉えるタッチの精妙さは(ピアノの演奏はできなくても)、いずれも高度に研ぎ澄まされたカミソリのようでなくてはならないと思いました。

それなくしては、作業の目的も意味も立ちませんし、これを取り違えると核心から外れた作業をせっせとすることになりますが、この日お会いした方は、この点でまずなかなかの鋭い眼力をお持ちのようにお見受けしました。
驚いたことは、調律の奥義の部分になると、使う工具(チューニングハンマー)によって、作り出す音が変わってくるということでした。なんとも不思議ですが、きっとチューニングハンマーにも「タッチ感」みたいなものがあるんでしょうね。

素晴らしいピアノ技術者さんと新たに知り合うことができたことは望外の喜びですし、それはピアノを弾く者にとってはなによりも心強い存在で、有意義な一日でした。
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アヴデーエワ追記

ユリアンナ・アヴデーエワのことを商業主義に走らない本物のピアニストと見受けましたが、それはショパンコンクール後の彼女の動静を見てもわかってくるような気がします。

大半のピアニストはコンクールに入賞して一定の知名度を得たとたん、このときを待っていたとばかりに猛烈なコンサート活動を始動させ、大衆が喜びそうな名曲をひっさげて世界中を飛び回り始めます。中でも優勝者は一層その傾向が強くなります。そして大手のレコード会社からは、一介のコンクール出場者から一躍稼げるピアニストへと転身した証のごとく、いかにもな内容のCDが発売されるのが通例です。

ところが、アヴデーエワにはまったくそのような気配がありません。
コンサートはそれなりにやっているようですが、他の人に較べると、その内容は熟考され数も制限しているように見受けられますし、CDに至っては、まだ彼女の正式な録音と言えるものは皆無で、どこかのレーベルと契約したという話も聞こえてきません。
すでにショパンコンクールの優勝から2年が経つというのに、これは極めて異例のことだといえるでしょう。同コンクールに優勝後、待ち構えるステージに背を向けて、もっぱら自らの研鑽に励んだというポリーニを思い出してしまいます。しかもポリーニのように頑なまでのストイシズムでもないところが、アヴデーエワの自然さを失わない自我を感じさせられます。

とりわけ現代のような過当競争社会の中で、ショパンコンクールに優勝しながら、商業主義を排し、自分のやりたいようなスタイルで納得のいく演奏を続けていくというのは、口で言うのは簡単ですが、実際なかなかできることではありません。それには、よほどのゆるぎない信念が不可欠で、芸術家としての道義のあらわれのようにも思われます。

選ぶピアノもしかりで、ショパンコンクールでは一貫してヤマハを弾き続けた彼女でしたし、ヤマハを弾いて優勝者が出たというのも同コンクール史上初のできごとでした。折しもヤマハは新型のCFXを作り上げ、国際舞台にデビューさせたとたんヤマハによる優勝でしたから、きっと同社の人達は嬉しさと興奮に身震いしたことでしょう。これから先は、この人がヤマハの広告塔のようになるのかと思うと、内心ちょっとうんざりしましたが、事実はまったく違っていました。
まさかヤマハがさまざなオファーをもちかけなかったというのは、ちょっと常識では考えにくいので、アヴデーエワがそれを望まなかったとしか考えられません。

事実、コンクール直後の来日コンサートをはじめとして、その後のほとんどの日本公演では、さぞかし最高に整えられたCFXが彼女を待ち構えているものと思いきや、なんと予想に反してスタインウェイばかり弾いています。あれだけヤマハを弾いて優勝までしたピアニストが、ヤマハの母国にやって来てスタインウェイを弾くというのも見方によっては挑戦的な光景にさえ見えたものです。
さりとて、まったくヤマハを弾かないというのでもないようで、要するにいろいろな事柄に縛られて、ピアニストとしての自分が無用の制限を受けたくない、楽器もあくまで自由に選びたいということなんだろうと思います。
現に昨年の日本公演の重量級のプログラムなどは、ヤマハではちょっと厳しかっただろうと思われ、スタインウェイであったことはいかにも妥当な選択だった思います。

これはピアニストとして最も理想的というか、本来なら当たり前の在り方だと思いますが、それを実行していくのは並大抵ではない筈で、アヴデーエワがまだ20歳代のようやく後半に差しかかった年齢であることを考えると、ただただ大したものだと思うしかありません。
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感動のアヴデーエワ

一昨年のショパンコンクールの映像やCDを見聞きしてもピンとくるものがなく、さらには優勝後すぐに来日してN響と共演したショパンの1番のコンチェルトを聴いたときには、ますますどこがいいのか理解に苦しんだユリアンナ・アヴデーエワですが、彼女に対する評価が見事にひっくり返りました。

BSで放送された昨年11月の東京オペラシティ・コンサートホールでのリサイタルときたら、そんなマイナスの要因が一夜にして吹っ飛んでしまうほどの圧倒的なものでした。

曲目はラヴェルのソナチネ、プロコフィエフのソナタ第2番、リスト編曲のタンホイザー序曲、チャイコフスキーの瞑想曲。当日はこのほかにもショパンのバルカローレやソナタ第2番を弾いたようですが、テレビで放映されたのはすべてショパン以外の作品で、そこがまたよかったと思われます。

どれもが甲乙つけがたいお見事という他はない演奏で、久々に感銘と驚愕を行ったり来たりしました。やはりロシアは健在というべきか、最近では珍しいほどの大器です。

あたかも太い背骨が貫いているような圧倒的なテクニックが土台にあり、そこに知的で落ち着きのある作品の見通しの良さが広がります。
さらには天性のものとも思える(ラテン的でも野性的でもない)確かなビート感があって、どんな場合にも曲調やテンポが乱れることがまったくない。政治家の口癖ではないけれども、彼女のピアノこそ「ブレない」。

どの曲が特によかったと言おうにも、それがどうしても言えないほど、どの作品も第一級のすぐれた演奏で、まさに彼女は次世代を担うピアニストの中心的な存在になると確信しました。
こういう演奏を聴くと、ショパンコンクールでのパッとしない感じは何だったのだろう…と思いつつ、それでも審査員のお歴々が彼女を優勝者として選び出した判断はまったく正しいものだったと今は断然思えるし、やはり現場に於いてはそれを見極めることができたのだろうと思います。

アヴデーエワに較べたら、彼女以外のファイナリストなんて、ピアニストとしての潜在力としてみたらまったく格が違うと言わざるを得ません。その後別の大コンクールで優勝した青年なども、まったく近づくことさえできないようなクラスの違いをまざまざと感じさせ、成熟した大人の演奏を自分のペースで披露しているのだと思います。

彼女の演奏は、ピアノというよりも、もっと大きな枠組みでの音楽然としたものに溢れていて、器楽奏者というよりも、どことなく演奏を設計監督する指揮者のような印象さえありました。
良い意味での男性的とも云える構成力の素晴らしさがあり、同時に女性ならではのやさしみもあり、あの黒のパンツスーツ姿がようやく納得のいく出で立ちとして了解できるような気になりました。

さらには、いかなる場合にもやわらかさを失わない強靱な深いタッチは呆れるばかりで、どんなにフォルテッシモになっても音が割れることもないし、弱音のコントロールも思うがまま。しかも基本的には、きわめて充実して楽器を鳴らしていて、聴く者を圧倒する力量が漲っていました。芯のない音しか出せないのを、叩きつけない音楽重視の演奏のようなフリをしているあまたのピアニストとはまったく違う、本物の、心と腹の両方に迫ってくる大型ピアニストでありました。

それにしても、他のピアニストは大コンクールに入賞すると、ぞくぞくとメジャーレーベルと契約して新譜が発売されるのに、アヴデーエワはショパンコンクールのライブと、東日本大震災チャリティーのために急遽作られたライブCD以外には、未だこれといった録音がなく、そのあたりからして他の商業主義と手を結びたがるイージーなピアニストとは一線を画していて、あくまでも独自の道を歩んでいるようです。

ああ、実演を聴いてみたい…。
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調律師という言葉

家庭のピアノにおけるピアノの調整について少し補足を。

いまさらですが、ピアノの健康管理に欠かせないのは、技術者による入念な調律・整調・整音の各作業、およびオーナーによるピアノを置く場所の温湿度管理という2つが大きいと思われます。

この際、調律を何年もしないような人は論外として、一般的にピアノに必要なケアといえば年一回の調律だと思い込んでいる人は少なくありませんし、これが大半だろうと思います。
したがって多くのピアノが本格的な整調・整音などの作業を受けないないまま、長年に渡って使われて、やがて消耗していくようです。

この作業がおこなわれないのは、決して技術者の怠慢というわけではありません。
人によっては調律だけを短時間で済ませて、他のことは一切手出しをしないで、さっさと帰ってしまう儲け主義の方もあるとは聞きますが、マロニエ君の知る範囲でこの手の方は皆無で、みなさんピアノに対する理想理念をお持ちの良心的かつ強い技術者魂のある方ばかりです。

整調や整音が正しく理想的におこなわれない理由は、ひとことで言うと、その必要性がピアノの持ち主にほとんど認識されていない点にあると思います。極端な話、これらをまともにやろうとすれば、調律どころではない時間と手間がかかり、料金もそれに応じたものになるので、とても現実的に浸透しないのでしょう。

多くのピアノユーザーの認識は、調律師さんにきてもらってやってもらうのは文字通りの「調律」なのであって、それ以外の調整なんて、ついでにサービスでちょこちょこっとやってもらうもの…ぐらいなものです。
だから調律師さんサイドでも、要請もない、調律以上に大変な仕事をすることはできず、ましてやそのために調律代以外の技術料を請求することもできないというジレンマがあると思われます。
いっそ明確な故障とかなら別ですが、ピアノは少々タッチに問題があっても弾けないということはほとんどなく、整音に関しても同様の範疇にあるので、時間的にもコスト的にも、なかなか仕事として成り立たないというのが現実だろうと思います。

そもそも、まず一番いけないのは「調律師」という言葉ではないでしょうか。
この名称では、あたかも調律だけをする人というイメージで、はじめから仕事内容を規定してしまっているように思います。つまり調律師という言葉の概念が先行して、本来の正しい仕事に制限を与えてしまったということかもしれません。

かくいうマロニエ君も、慣習にならってつい調律師さんと言ったり書いたりしていますが、やはり本来は「ピアノ技術者」もしくは、もうちょっと今風にいうなら「ピアノドクター」などでなくてはいけないような気がします。

英語ではTunerというようですが、そこにはきっと「調律」にとどまらない、もっと広義の意味が含まれているような気がするのですが…。
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調整の賜物

「ニューヨークスタインウェイの音にはドラマがある」ということで思い出しましたが、マロニエ君が塩ビ管スピーカーの音を聴きに行った知人のお宅には、実はニューヨークスタインウェイがあるのです。

この日は、あくまでスピーカーの音を聴かせてもらうことが目的でしたから、前半はそちらに時間を費やしましたが、それがひと心地つくと、やはりピアノも少しということになるのは無理からぬことです。

今回驚いたのは、その著しいピアノの成長ぶりでした。
このピアノは比較的新しい楽器で、以前は、強いて言うならまだ本調子ではない固さと重さみたいなものあり、タッチやペダルのフィールもまだまだ調整の余地があるなという状態でした。
といっても、納入時には調律や調整などをひととおりやっているわけで、それでピアノとして特に何か問題や不都合があるというわけではなく、普通なら取り立てて問題にもならずに楽しいピアノライフが始まるところでしょう。

しかし、オーナー氏は早くもそこに一定の不満要因を見出しており、その言い分はマロニエ君としてもまったく同意できるものでした。
マロニエ君として伝えたアドバイス(といえばおこがましいですが)は、これを解決するには再三にわたって粘り強く調整を依頼して、それでもダメな場合には技術者を変えるぐらいの覚悟をもってあたるということでした。
そもそもピアノの整調(タッチなどアクションや鍵盤の精密な調整)は、家庭のピアノでは慣習として調律の際についでのようにおこなわれることがせいぜいで、それはあくまでもサービス的なものなのでしかなく、当然ながらあまり入念なことはやらないのが普通です。

しかし、ピアノを本当に好ましい、弾いていて幸福を感じるような真の心地よさを実現するための、最良の状態にもっていくには、整調は絶対に疎かにしてはならないことですし、作業のほうもこの分野を本腰を入れてやるとなると、調律どころではない時間と手間がかかります。

そのために、整調を調律時のサービスレベルではなく、それをメインとして作業をして欲しいということを伝えたようで、そのために調律師さんは数回にわたってやって来たそうです。
数回というのは、一回での時間的な限界もあるでしょうし、その後またしばらく弾いてみて感じることや見えてくることもあるからで、どうしても望ましい状態に到るには、とても一日で終わりということにはならないだろうと思います。

そんな経過を経た結果の賜物というべきか、ピアノは見違えるような素晴らしい状態に変身していました。

まずタッチが格段に良くなり、なめらかでしっとり感さえ出ていましたし、以前はちょっと使いづらいところのあったペダルも適正な動きに細かく調整されたらしく、まったく違和感のない動きになっています。
そして、なにより驚いたのは、その深い豊かな音色と響きの素晴らしさでした。
ハンブルクスタインウェイの明快でブリリアントなトーンとはかなり異なるもので、どこにも鋭い音が鳴っているわけではないのに、ピアノ全体が底から鳴っていて、良い意味での昔のピアノのような深みがありました。

このピアノは決してサイズが大きいわけではないのですが、その鳴りのパワーは信じられないほどのものがあり、あらためてすごいもんだと感銘を受けると同時に、このピアノの深いところにある何かが演奏に反映されていくところに触れるにつけ、過日書いた別の技術者の方の「ドラマがある」という言葉の意味が、我が身に迫ってくるような気がしました。

やはり誠実な技術者の手が丹念に入ったピアノは理屈抜きにいいものですし、すぐれた楽器には何物かが棲みついているようです。
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ドラマがある

いつも思いついたように電話をいただくピアノ店のご主人にして技術者の方がいらっしゃいますが、この方は昔から米独それぞれのスタインウェイをずっと手がけておられます。

以前はニューヨークのスタインウェイにも、ハンマー交換の際にはご自身の経験と考えに基づいて、敢えてハンブルク用のハンマーを付けるといった、この方なりの工夫をしていらっしゃいました。
いまさらですが、この米独ふたつのスタインウェイには様々な違いがあり、ハンマーもそのひとつで、むしろここは著しく異なる部分といっていいようです。

ドイツ製の硬く巻かれたハンマーを、針刺しでほぐしながら音を作っていくハンブルクスタインウェイに対して、ニューヨーク用の純正ハンマーは巻きそのものがやわらかく、それを奏者が弾き込みながら、時には技術者が硬化剤を使いながら音を作っていくというもので、そもそもの出発点というか、成り立ちそのものがまったく違うハンマー理論に基づいているようです。

この技術者の方がニューヨークスタインウェイにもハンブルクのハンマーを使っていた理由は、とくに聞いたわけではありませんが、マロニエ君の想像では、やはりくっきりとした輪郭のある音を求めた結果ではないかと思っています。
この試みは、ある一定の効果は上がっていたようにも思いますが、では双手をあげて成功だったか?というと、その判定はひじょうに難しく、少なくとも、ある要素を獲得したことの引き換えに、失ったものもあったようにも思いますが、何かを断定することまではマロニエ君にはできません。

それが、いつごろからだったか定かではありませんが、ニューヨーク製にはニューヨーク用の純正ハンマーを使われるようになりました。きっと好ましい状態のオリジナルハンマーをもったニューヨークスタインウェイに触れられたことで何か心に深く触れるところがあったからではないかと思います。

その深く触れるところがなんであったのかはともかく、ニューヨークの純正ハンマーには他に代え難い良い点があることに開眼されたのは確かなようでした。とくにピアノとの相性という点で格別なものがあったらしく、その点への理解をこのところ急速に深められ、最近も一台仕上がったピアノがやはりニューヨーク製で、思いもよらないような独特の響きを醸し出すことに、誰よりもまず、ご自身が深い感銘を受けておられる様子でした。

音にはことのほか拘りがあり、その面での執拗な探求者でもあるこの方は、一気にニューヨーク製の音色の素晴らしさを悟り、お客さんの家にある何度も触れてきたピアノからも、今また新たな感銘を受けておられるようです。
たしかに、人間の感性というものは不思議なもので、理解の扉というものは突然開くようなところがあり、そのあとは雪崩を打つように広まっていくという経験は誰しもあることです。

それからというもの、すっかりニューヨークの音色や響きに魅せられておられるようで、抑えがたい興奮を伴いながら電話口から聞こえた言葉は「ニューヨークの音にはドラマがある!」というものでした。
たしかに全般的に響きがやわらかいぶん、温かみがあり、今どきのキラキラした音とはまったく違う価値観の音であり、音がゆらゆらと立ちのぼっていくのがニューヨークスタインウェイの特徴のひとつだろうと思います。

その店には、すでに次なるB型も到着した由ですが、曰く、そのB型にはそのニューヨーク製が備えているべき味がまったく失われている由。上記の仕上がったピアノと併せて、ぜひ見に来るようにとの再三のお言葉ですので、今度は思い切って行ってみようかと思っています。
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練習用には

我が家のピアノのハンマーヘッドに1gほどのウェイトを追加したことで、タッチ/音色ともに激変して驚いたことはマロニエ君の部屋に書いた通りですが、いらいひと月以上が経過しましたが、予想に反して今でもそのままの状態を続行しています。

音も太くなって気分がいいし、腰砕けな指をわずかなりとも鍛える良いチャンスだとも思っているわけで、ある一面においては、このように楽ではないタッチのピアノで練習するというのも一片の意味はあるように思うこの頃です。

弾きやすいことだけを主眼に置いたピアノでは、練習の中のひとつの要素である肉体的鍛錬という点でいうと、身体は必要以上のことはしないので、目の前にあるピアノが弾きやすい分だけ、指は逞しさを失っていくという事実はあると思うようになりました。
もちろんマロニエ君のようなアマチュアのピアノ好きにとっては、指の逞しさがあろうがなかろうが、大勢に影響はないわけですが、それでも、まがりなりにも弾くという行為に及ぶ上においては、少しでも余裕を持って弾くことが出来るなら、やっぱりそれに越したことはないわけです。

このひと月半というもの、以前よりもずっと重い鍵盤に耐えながら弾いていると、やはりそれだけ指に力が付くらしく、別のピアノを弾いてみたときに、遙かに楽に、余裕を持って弾けるということがわかり、まあこれは至極当然のことではあるでしょうが、やはり身体というものは甘やかさず適度に鍛えなくてはいけないということを痛感した次第です。

もちろんピアノの練習とは指運動だけではなく、フレーズの繊細な歌い方や、デュナーミクにおけるタッチコントロールの多彩さなど、あらゆる要素が複雑に絡み合っているわけですから、一元的な要素だけでものを云うわけにはいかないことはわかっているつもりです。
一例を云うと、長年、鈍感なピアノで練習してきた人は、やはり耳も感性も鈍感なのであって、ドタ靴で走り回るような演奏を疑いもせず繰り広げてしまうことは珍しくありません。自分の出している音を常に聴いて、そこに注意を払う習慣を養うためには、タッチに敏感なデリケートな楽器に慣れ親しんできた人のほうが強味です。
しかし、その点ばかりを音楽原理主義のようにいっていると、やはり指のたくましさは必要最小限に留まり、どうしても筋力に余裕がなくなるのは否めないと、今あらためて思います。

とりわけピアニストは、普段の練習用のピアノがあまりに楽々と弾けてしまう楽器だとすれば、どうしても身体はそのフィールを中心としてしか反応しなくなり、さまざまなピアノにまごつくことなく対応する能力が落ちてしまって、そのぶん本番は辛いものになるでしょう。

ピアノは自分の楽器を持ち歩けないぶん、いろいろな楽器を弾きこなせるだけの、ある意味で図太さみたいなものが必要で、その図太さ、言い換えるなら楽器が変わったときに慌てないだけの余力を養うためにも、練習用のピアノはちょっと弾きにくいぐらいがちょうど良いのかもしれません。

今回のことでわかったことは、軽いキーのピアノから重いほうへと変わるのはかなりの苦痛と忍耐と時間が必要ですが、その逆はまったく楽で、むしろ面白いぐらいにコントローラブルになるというものでした。
ピアノも他の楽器のように、目的に応じて何台も持ち揃えることができればいいのですが、サイズの点だけからも、なかなか難しく悩ましいところのようです。
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ひびしんホール

この夏、北九州市黒崎に新しくオープンした北九州市立ひびしんホールに行きました。

ここには3台の異なるメーカーのコンサートグランドが納入されたようで、7月のオープンに続き一連のピアノ開きのためのコンサートがそれぞれおこなわれ、トップを小曽根真さんがヤマハCFXを、次が小山実稚恵さんでスタインウェイDを、そして今回は最後で及川浩治さんがカワイの新機種EX-Lをお披露目されました。

以下、簡単に感じたところです。

【ホール】大ホールは、今どきのコンサートにちょうど良い800人強のサイズですが、すぐ近く(およそ3kmぐらい?)に同規模の、こちらも「北九州市立」の響ホールがあるにもかかわらず、当節のような景気の低迷とコンサート不況の続く中で、何故いま、このようなホールがもうひとつできたのか、その真相はよくわかりません。

それはそれとして、久しぶりに新しいホールに行くのは興味津々というところでしたが、率直に言って、ちょっと期待はずれなものでした。
その建物は、残念なほうの意味でおそろしく今風で、内も外も、ただパーツを組み上げただけのような無味乾燥なもの。どこをどう見渡しても、低コストに徹したという印象ばかりが目につき、ホールに求める文化的な雰囲気とか有難味のようなものがまったくありません。
その点、ずっしりと作られている響ホールは、何年経っていようが、まるで格が違います。

ホール内にはロビーらしきものもなく、ちょっとリッチな公民館といった風情だと云ったほうが話は早いかもしれません。ホールの内装は木の趣を凝らしたというところだとは思いますが、まるで竹ひごで編んだ虫籠のようで、そのモチーフがステージ上の反響板にまで連続して続くため、大きな虫籠の中央にポンとピアノが置いてあるようで、マロニエ君の目にはちょっと奇異に映りました。

コンサートというよりも、どことなくホタルや浴衣なんかが似合いそうな感じで、ホームページの写真で見るのと、実際に現場で見るそれは、相当イメージが異なるものだというのも痛感。
響きは、取り立てて変な癖やストレスもなく、それなりに素直でよかったとは思いましたし、新しい建物は空調などの効きがよく、その点はこの季節でもあり快適でした。

【ピアノ】カワイのコンサートグランドがシゲルカワイの名を返上し、再びKAWAIを名乗ることになった新機種が今回このホールに納入されたEX-Lです。
それを証明するように、サイドのロゴは鍵盤蓋と同様のがっちりとした書体でシンプルに「KAWAI」となっていますが、以前のいささか安っぽい装飾文字を思い出すと、ようやく本来あるべき姿に落ち着いたようで、この会社の良識的判断にホッとした思いです。

さて肝心の音は、かなりの期待を込めていたのですが、マロニエ君の耳には、従来型に較べてなんら進歩の後がないものでしかなく、これまでとまったく同じようにしか感じられなかったことは甚だ残念でした。 
基本的な音色が暗く(重厚とは違う)、音にザラつきがあるところまで、すべてが引き継がれていて変化らしきものが何も感じられませんでした。

とくに中音域でそれが顕著で、ピアノの個性が決まるともいうべきこの大事な音域が、なんの色気も麗しさもない、濁った水のような音しか出てこないのはどうしてだろうと思います。
それに対して、低音はやや鈍さはあるものの、カワイらしい響きの豊かさとパワーがあり、せめてこの点は評価したいところです。
中音域を中心として、もっと澄んだ音、艶のあるふくよかな音が出たら、格段に良いピアノになると思うのですが、メーカーは不思議なほどそこには目を向けないようです。ちなみに、音の色艶とか美しさというのは、そのピアノのキャラクターに合わない整音をして、耳障りな音にすることとはまったく違うもので、やはり根本的にボディの問題だろうと思われます。

【ピアニスト】については…やめておきます。
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『はじける象牙』

先日書いた、ピアニスト兼文筆家のスーザン・トムズの『静けさの中から〜ピアニストの四季』には、とりどりの面白い文章が満載ですが、その中で、驚いたことのひとつ。

スーザン・トムズはイギリスを代表するピアニストの一人であるばかりか、幅広い知識を持ち合わせたインテリでもあるようで、その深い教養とピアニストとしてのキャリア、そのトータルな文化人としての存在感にも英国の人々は大いに注目しているところのようです。
さらに夫君は音楽学者の由。

そんな、なにもかもを兼ね備えたようなスーザン女史ですが、こと自分のピアノの管理に関する著述では、ちょっと信じられないようなことが本の中で語られていました。
それによると、部屋の環境のせいで、鍵盤の象牙があちこち反り返っているらしく、ひどいものは剥がれしまうという信じられないような現象が起こり、ときにそれ(象牙)が大きな音を立てて部屋の中をすっ飛んでいくのだそうで、ピアノの横にはそれらを拾い集めるお皿まであるとのこと。

スタインウェイ社に連絡をしても、もはや象牙パーツはないとのことで、古いピアノから調達してくるか、ダメな場合には最終的にプラスチックに甘んじるかということ。

ところが、スーザン女史がフランスで19世紀のプレイエルを使ったコンサートをすることになり、その際にずっと付き添ってくれた、古いピアノの修復などに詳しい技術者にこの事を相談したそうです。すると、その技術者曰く、象牙は温湿度の影響は受けにくいもので、原因は象牙ではなく、その下に隠れている木材が伸縮している!ということを知らされるのでした。

スーザン女史は、自分が大きな思い違いをしていたことに気付くのですが、そのピアノはというと、暖炉の側に置いてあるらしいことが書かれています。
なにぶん現場を見たわけではないので、断定的なことはなにも言えませんが、彼女ほど、良心的な演奏活動をこなし、文化人としての深い教養を持ち、コンクールの審査員の中でもひときわ静かな威厳をただよわせて、周囲からも一目おかれているという彼女をもってして、ことピアノの管理となるとこんなものかというのが驚きだったのです。

何枚もの象牙が我慢の限界に達して、音を立てて、空中を飛んで、剥がれ落ちてしまうほどまで、下の鍵盤の木材が盛大に伸縮をしている環境というのは、ピアノにとって、どう考えても尋常ではない状況だと思われます。

この話は、数ある器楽奏者の中でも、ピアニストほど自分の奏する楽器に対して無頓着、もしくは間接的な関心しか寄せていない、あるいは技術者任せの専門領域のような意識でいる人が、なんと潜在的に多いか!という証左のように思いました。
もちろんそうでない人もわずかにはいらっしゃるでしょうし、中にはピアノオタク的なピアニストもいるにはいますが、それはあくまでも「珍しい」ほうで、圧倒的にピアノに対して愛情不足という人が多いというのがマロニエ君の認識です。

しかも驚くべきは、このスーザン女史が、ピアノをただの道具のようにぞんざいに使うようなタイプの人物ではなく、路傍の花にも必ず温かな手を差し伸べるような深い愛情の持ち主ということがこの本を通読してわかるぶん、この章に書かれていることは、より衝撃的な驚きを伴って迫ってくるのでした。
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音の3要素

あるピアノ技術者の方からいただいたメールに、面白いことが書かれていました。

これは「マロニエ君の部屋」の実験室という拙文に関することなのですが、つまるところ、ピアノの音はハンマーの「形」と「硬さ」と「重量」でほとんど決まってしまうということでした。

これはなるほどそうだろうと、素人のマロニエ君も直感的に思いました。
ピアノは、自分で設計して一から製作でもしない限り、既存のピアノに自分なりの音色の変化を与えるには、(調律を別とすれば)行きつくところはハンマーしかなく、そのハンマーとはこの3要素の兼ね合いによって成り立っているわけです。

響板やボディが健康な状態なら、あとはせいぜい弦の違いでしょうが、これは古ければ定評のあるメーカーの製品に張り替えるだけですし、巻き線も名人の巻いたものを張るのがせいぜいで、技術者の感性や技によって音を作り出すというような余地はほとんどないと思われます。もし仮にあったにしても、それはハンマーの3要素ほど劇的なものではないのかもしれません。

ハンマーの形は主にダイヤモンド型、洋ナシ型、たまご型で、その形状からしておおよその音の方向性は察しがつくというものです。ベヒシュタインのボムというドイツ語の発生そのものみたいな音がたまご型ハンマーであるなどは、いかにもイメージそのままで嬉しくなってしまいます。

フェルトの硬さは製造時に硬く巻かれたものと、そうでないものがあるし、あとは技術者が作り出すクッションのさじ加減という、これこそ芸術的な領域によるものだと思われます。

そこへ、今回その重要性がマロニエ君にも痛感できた重量の問題が掛け合わせれてくるのでしょう。
これはハンマーヘッドそのものの重さとそれを支えるシャンクとの合計ですが、たとえ総量は同じでも各部の重さの配分によっても音は当然変わってくるはずです。

あとはハンマーのメーカー固有の個性とか、使用されるフェルトの素材そのものがもつ性質からくる違いもあると思いますし、シャンクのしなりの特性によっても変わるでしょう。

この技術者の方が教えてくださったのですが、アメリカにはデイビッド・スタンウッドさんという、ハンマーの重さとタッチや音色の関係を研究している技術者がいらっしゃるのだそうで、ホームページもあるようです。
(LINKページの「海外のピアノ関連サイト」に掲載済み)

アメリカ人でこういう領域のエキスパートがいるというのは、ちょっと意外な印象を持ちましたが、日本人も本来得意な分野のはずで、実は深いところまで突き進んでいる方がいろいろとおられるのではないかと思います。ただ、あまり表にはあらわれず、そこがまたいかにも日本的なのかもしれません。
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静けさの中から

わりに最近出た本ですが、スーザン・トムズ著『静けさの中から〜ピアニストの四季』を読みました。

スーザン・トムズはイギリスのピアニストでありながら、すでに何冊かの本を出版するほどの文筆家としての顔も持っているようです。
女性として初めてケンブリッジ大学キングス・カレッジに学んだというインテリだそうで、またピアニストとしても極めて高い評価を得ているらしく、ソロのほか、フロレスタン・トリオのメンバーとしても多忙な演奏活動をおこなっているそうです。CDも室内楽などでかなりの数が出ているとのことですが、残念ながらマロニエ君はまだこの人のピアノを聴いたことはありません。

ピアニストにして文筆家といえば、日本では青柳いづみこさんをまっ先に思い出しますが、世の中には大変な能力の持ち主というのがいるもので、どちらかひとつでも通常なかなか出来ないことを、ふたつながら高い次元でやってのける人間がいるということが驚きです。

この本は、いわゆる随筆で、彼女が日々の生活や演奏旅行の折々に書きためられたものが本として出版されたものですが、その内容の面白いこと、強く共感すること、教えられることが満載で、大いに満足でしたが、もうひとつびっくりしたのが翻訳の素晴らしさでした。

訳者はなんとロンドン在住の日本人ピアニスト、小川典子さんで、彼女がこの本を読んでいたく感銘を受け、すぐに自分が翻訳をしたい!という気持ちになったといいます。
この衝動から、すぐにスーザン女史にその旨を申し出たのだそうで、めでたく諒解が得られ、日本語版の出版への運びとなり、やがてそれが書店に並んで、現在の我々の手に届くようになったということです。

ピアニストとしての小川典子さんはマロニエ君は実は良く知りません。CDも棚を探せばたしか1、2枚はあったと思いますし、リサイタルにも一度行きましたが、とくにどうというほどの印象はありませんでした。
しかし、この本の文章の素晴らしさに触れることで、こちらの側から小川さんの人並み外れた能力を見た気がしました。

なによりそこに綴られた日本語は、力まずして雄弁、適切な語彙、自然なリズムを伴いながら、どこにも不自然なところがないまま、もとが英語で書かれたものであることを忘れさせてしまうような、心地よい品位のある文章で、頗る快適に、楽しんで読み終えることだできました。

以前、このブログで、技術系の専門書で、愚直すぎて読みにくい翻訳文のことを書いたことがありましたが、まさしくそれとは正反対にある、活き活きとした流れるような日本語での訳文に触れることができたのは、望外の驚きでした。
小川さんによる巻末のあとがきによれば、彼女の翻訳作業には、もうひとり春秋社のプロによる編集の手を経ていたのだそうで、やはりそれだけの手間暇をかけなくては本当に淀みのない美しい文章は生まれないということを痛感しました。
もちろん原文を綴ったスーザン・トムズ女史のずば抜けた頭脳と感性、小川さんの広い意味での語学力があってのことではありますが、さらに編集によって丁寧に磨かれることで、ようやくこの本ができあがったのだということをしみじみと思うのです。

あたかも、ピアノが優秀な技術者の手をかけられればかけられるだけ素晴らしくなっていくように。
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行ってみたい!

いまや中国は世界最大のピアノ生産国であるばかりでなく、ピアノを習う子供の数も桁違いに多く、それは必然的に世界最大のピアニスト生産国ということになるのかもしれません。

ラン・ラン、ユジャ・ワン、ニュウニュウ、ユンディ・リなどはみな逞しいメカニックの持ち主で、ここ当分は、この国からスターピアニストが登場してくる状況が続くのだろうと思われます。
現在の学習者の数は、一説には2000万人とも3000万人とも言われますので、それはもう途方もない数であることに間違いなく、世界中の権威あるコンクールには中国人が大挙して参加してくるのは当然の成り行きなのでしょうね。

かたや欧米ではピアノを幼時より始めて音楽家を目指すという流れが、ここ20年ぐらいでずいぶん変わったと聞いています。まず根底には欧米における若者のクラシック離れの風潮に歯止めがかからず、多くの若者はより実利的になってステージから客席へと移動してしまったと言われます。
つまり音楽を演奏する側から、観賞する側に、自分達の居場所を変えてしまったというわけでしょう。

それに変わって台頭したのがアジア勢で、いまや中国を筆頭に韓国なども、次から次へと傑出した才能を世界のステージへ送り出しているようです。

そんな中国ですから、当然ながら大都市では楽器フェアだのピアノフェアだのといった見本市の類が開かれているようで、しかもそこは中国のやることですから、その規模も大きなものであるらしく、マロニエ君もいつかは一度行ってみたいものだと思っているところです。

そんな中国のピアノフェアですが、最近ネットで偶然にもその様子を捉えた写真を見かけたのですが、それはやはり期待にたがわぬ驚愕の光景でした。
まずピアノは黒というような、固定したイメージのある日本とは真逆の世界がそこにはあり、無数に並べられたあれこれのピアノはアップライトもグランドも、まるで遊園地かおもちゃ売り場の商品のようにカラフルな原色であるばかりでなく、それぞれのピアノには、奇抜などという言葉では足りないほどの、度肝を抜くアイデアや様々な趣向が凝らされ、あらんかぎりの装飾の数々が散りばめられていたりします。

少し前にヨーロッパのツートンのピアノのことを書きましたが、ここにあるのはそんな生易しいものではありません。
赤、青、黄などの原色に塗って模様があるぐらいは当たり前、グランドピアノ全身が陶器の絵柄のようなもので埋め尽くされていたり、全身ヒョウ柄のピアノだったり、極め付きはさすがに展示用とは思いますが、UFOらしき物体の一部がくり抜かれてそこに鍵盤がついていたり、ロケットかスペースシャトルのような形のグランドピアノで後ろのエンジンの部分がかろうじて鍵盤になっているなど、その発想は日本人が逆立ちしてもできないものばかりで、その底抜けな無邪気さにはただもう楽しんで笑うしかなく、世界中でこんなおもしろピアノフェアが見られるのは中国をおいて他ではまず絶対ないでしょう。

中国といえば、いうまでもなく日本の隣国で、漢字や仏教なども中国から伝わったものであるし、だいいち同じ東洋人ということで、肌の色から顔立ちなども近似していますから、つい東洋という共通点があるように思いがちですが、マロニエ君に言わせれば、かの民族は最も日本人とはかけ離れた、欧米よりもさらに遠いところにあっても不思議ではないほどの異国のそれであり、とくにそのメンタリティは悉く我々とは根本から違ったものを持っているようです。

その最たるもののひとつは美意識に関するジャンルで、これはもう我々にはまったく理解の及ばない世界があり、美術の世界などでも、彼らの作り出すものには何度腰を抜かすほど驚いたかわかりません。

いつの日か、機会があれば恐いもの見たさに、ぜひ覗いてみたいものです。
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ホジャイノフ

ロシアの若手ピアニスト、ニコライ・ホジャイノフのリサイタルがBSで放映され、やっとその録画を見ました。

今年の4月19日に行われた日本公演の様子で、会場は武蔵野市民文化会館小ホール。
曲目はプロコフィエフのソナタ第7番、ショパンのバラード第2番、シューベルト幻想曲さすらい人で、初めのプロコフィエフの演奏が始まってすぐに、これはなにかありそうだと直感しました。

全体に実のある、流れの美しい演奏で、戦争ソナタでさえも非常に澄んだ叙情性を保ちながらこの暗いソナタの内奥に迫りました。全体的に3つの楽章が自然と繋がっているような演奏で、プロコフィエフの蔭のある香りのようなものが、叩きつけるような攻撃的な表現でなしに、気負わず自然に(しかも濃密に)描き出してみせるその手腕は若いのに大したものだと思いました。

さすらい人でも詩情が豊かで、衒いのない、自然に逆らわない流れが印象的でした。しかも繊細さや作品の意味などをわざと誇張してみせるようなことはせずに、攻めるべきところはどんどん攻めながら果敢に弾いているのですが、その合間からシューベルトの作品が持つ悲しみがひしひしと伝わってくるのは見事だったと思います。

彼はまだ20歳で、モスクワの学生とのことですが、すでにはっきりとした自己を持っており、単なる訓練の成果をステージ上で再現しているのではなく、音楽の内側にあるものを自分の知性と感性を通して表現しているピアニストでした。
テクニックなども立派なものですが、いかなる場合も音楽上の都合と意味が最優先され、そのために僅かなミスをすることもありますが、ひたすらキズのないだけの無機質で説明的な演奏ばかり聴かされることの多いなかで、ホジャイノフの内的な裏付けのある演奏を聴いていると、そんなことはほとんど問題ではなく、純粋にこの人の演奏を聴く喜びが味わえたように思いました。

唯一残念だったのは、真ん中で弾いたショパンで、これだけは評価がぐんと下がりました。
合間のインタビューでは、バラードの2番が持つ静寂と激しさのコントラストが好きだというようなことを言っていましたが、それを表現しようとしているのはわかるものの、作品とのピントが合っているとは言い難く、このバラードの本来の姿があまり聞こえてこなかったのが残念でした。他の作品であれだけ見事な演奏をしているわけですから、おそらく彼の資質とショパンの音楽がうまく噛み合わないだけかもしれません。

ショパンの作品は本当にたくさんの人が弾きますが、実際にショパンと相性のいいピアニストというのは滅多にいないことがまたも証明されてしまったようでした。ショパンは演奏者の多様な個性に対してあまり寛容ではありませんから、そこにちょっとでも齟齬があると作品が拒絶反応をしてしまうようです。

このホジャイノフは、2年前のショパンコンクールでファイナルまで進みながら、入賞できなかったのですが、それはこのバラードひとつを聴いてもわかるような気がしました。
どんなに優れた演奏家にも作品との相性というものがあり、彼は今のままでも十二分に素晴らしい演奏家だと思いますし、ピアノのレパートリーは膨大ですから、今後が非常に楽しみな逸材だと思いました。

ピアノはヤマハのCFXでしたが、印象はこれまでしばしば述べてきたことと変わりはありませんので、とりあえずおなじことを繰り返すのは控えますが、陰翳が無く不満が残ります。
ただし、シューベルトのような曲では、このピアノの良い部分がでるように思います。
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ピアノフェスタ

博多駅のJR九州ホールで開催されるようになった島村楽器のピアノフェスタが今年も3連休に合わせておこなわれ、覗きに行きました。

マロニエ君が行ったのは3日間ある開催期間中の最終日で、この日はザウターピアノの6代目社長ウルリッヒ・ザウター氏による同社の紹介と、ザウターピアノを使った島村楽器のインストラクターによる演奏も聞くことができました。

入口からロビーにかけては電子ピアノの数々、さらにホール内部にはアコースティックピアノが数多く展示されていましたが、最終日の夕刻ということもあってか売約済みのピアノもちらほら目に止まりました。

昨年と違っていたのは、とりわけ輸入物のグランドピアノが数多く並べられているエリアでは、若干の「厳戒態勢」が採られ、ピアノのまわりには物々しい赤い布のテープが張り巡らされて、容易にはピアノへ近づけないように配慮されている点でした。
これらのピアノを見ようとすれば、たとえそれが目の前にあっても、いちいち赤いテープの途切れる地点まで回って、そこから「入場」しなくてはならず、ちょっと煩わしいという印象。

さらにはいずれのピアノにも「試弾ご希望の方は係員に…」という札が鍵盤の上に立てられており、ちょっと音を出してみるのも厳重に管理されている雰囲気でした。

わずかな音出しでも係員に断りを入れなければいけないというのも面倒臭いので、マロニエ君は忽ちどうでもいいような気になりましたが、同行者もあるし、わざわざ駐車場に車を止めて、休日でごった返す苦手な駅の人混みの中を掻き分け掻き分けした挙げ句にやっとここまで辿り着いたのだから、その労苦に対してもやはりちょっとぐらいは音のひとつも聞いてみなくては、なんのためにやって来たのかわかりません。
やむを得ず、近くに立っている係員に許しを請うと、はるか向こうで弾いている人が一人いることを理由に「もうしばらくお待ちください」と制される始末。

こんなにも、どれもこれもが「触れられないピアノフェスタ」というのも、なにやら諒解しがたいものがありましたが、かくいうマロニエ君も覗きに来ただけなので、べつに何か困るわけでもなく、それならばそれで構いません。

ところがその後で状況は一転することになります。
夕刻の1時間、ウルリッヒ・ザウター氏のお話と演奏によるイベントが終了した後は、社長自らステージ上にあるザウターピアノを「みなさん、お時間の許すかぎり、どうぞ弾いてください!」という試弾おすすめの言葉があり、それがきっかけとなって、その場に居合わせた多くの人々は、以降ピアノに自由に触れて歩く許可を得たかたちとなりました。

するとザウターピアノに留まらず、会場にあるピアノが弾かれはじめ、次第に騒然とした雰囲気に変わりました。
さも厳重な感じに張り巡らされていた仕切りの赤いテープも、この時点ですっかりその意味を失って、とくにベヒシュタインやスタインウェイが居並ぶエリアでは、入れ替わり立ち替わり腕に自信のあるらしいピアノ弾きの人達の自由演奏会のような光景と化してしまったのはびっくりでした。

何人もの人が難易度の高い曲をずいぶん熱心に弾いていらっしゃいますが、隣り合わせにズラリと並べられた何台ものピアノがそれぞれの弾き手によって、同時にまったく違う曲を弾かれているカオスが延々と続き、あれでは自分が弾いているピアノの音色や響き具合などわかるはずもありません。

このときに至って、ようやく厳かなる赤いテープの意味が少し理解できた気がしました。
ピアノの展示会では「無礼講」になったが最後、それはもう収拾のつかない状況が繰り広げられてしまい、限られた時間の中で本当に購入を検討する人は、到底その目的が達せられないだろうと思います。

そのあたりのお店の判断も難しいところでしょう。
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強力な助っ人

昨日あたりからようやく少し晴れ間が覗くようになったものの、今年の梅雨が、こんなにも長くて重苦しいものとは想像もしていませんでした。

梅雨の入口あたりから酷使されていた我が家の除湿器ですが、購入後わずか数年にして明確な故障ではないものの、いまひとつ除湿能力に翳りが出てきたように感じていました。

これは以前にも少し書きましたが、これを故障であるかどうかの診断を仰ぎ、もし故障の場合は修理をするとなると、本体をメーカーへ送るなど、その手間暇と時間、さらにはコストを考えるならとてもそんなことを実行する気にはなれず、思い悩んだ末に新しい除湿器を購入しました。

これまでのものよりより除湿力の高い機種を選ぶことで、少しでもその能力に余裕を持たせたいという目論見もありましたし、そのほうがトータルでは得策だろうと判断しました。

マロニエ君はCDなどを購入するときは、巷の評判など人の言うことはまず信じませんが、こと家電製品などを選ぶ場合は一転してネット上のユーザーの評価などを大いに参考させてもらっています。
とくにサイトによっては機種毎の評価や口コミなどが事細かに寄せられており、しかもこういう場所には普通のユーザーからやたら詳しいマニアックな人まで、いろんな人達がたくさんいて、いいことしか書かないメーカーのホームページよりも格段に頼りになるという印象です。

そこでは、さまざまな評価をもとにしながら、これだと思える機種を絞り込むことができるだけでなく、購入の意志が固まれば、そのまま一般の電気店で買うよりかなり安く購入できる点も併せて便利でありがたいところです。

注文すると数日で届き、さっそく使っていますが、これまでの除湿器が本調子ではなかったということもあってか、まったく次元の違う除湿能力にはすっかり満足していると同時に、今年の厳しい梅雨の途中で、この強力な助っ人があらわれたことは本当に幸いでした。

やはり家電製品などは、全般的に新しいもののほうが効率が良く、性能にも余裕があるような気がしますが、確かなことはわかりませんし、耐久性という点に於いては疑問もあるかもしれません。先代ではほとんど休みなく回りっぱなしでかろうじて40%後半を維持していたのが、新機種では、油断すると湿度計の針が30%台になることもあって、ときどきOFFにしたりしていますから、やはり潜在力が違うようです。

この除湿器が稼働しはじめてからほどなくして、北部九州は各地で被害が出るほどの猛烈な雨に見舞われることになり、当然のように家全体、街中全体がジメジメしたジャングルのようで、連日の分厚い雨と高湿な空気に包まれ続けています。しかもそれがとてつもなく長期間にわたっているところが今年の梅雨の厳しさだったように感じますし、未だ終わったわけでもありません。

マロニエ君としては他のことはさておくとしても、ピアノだけはなんとか湿度から保護したいわけで、今年の手強い梅雨を相手になんとかそれができているのは、ひとえにこの新しい除湿器のお陰であって、買って正解だったとしみじみ思っているところです。
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遊びごころ?

最近、新しいピアノが入荷した旨、あるピアノ店から写真付きメールをいただきましたが、そこには荷を解かれたばかりのヨーロッパ製の美しいグランドピアノが写っていました。

以前、マロニエ君もちょっと触らせていただいて好印象を得ていたメーカーのピアノで、より大型のものが入荷してきたようでした。以前のものよりもよりやわらかな音がするとのことです。

今回のピアノの特徴は、その外装の仕上げでした。
黒と木目(赤っぽいブビンガ)のツートンで、木目は主に内側に貼られており、大屋根の内側、ボディ垂直面の内側、譜面台、鍵盤蓋の内側などが派手な木目になっています。

このスタイルはヨーロッパのピアノではときおり目にするものですが、国産ピアノでは一度も見たことがありません。もともと日本人はピアノといえば厳かな黒というイメージがあることに加えて、木目仕様では安くもない追加料金も発生することもあってか、それほど人気があるようには思えません。
ましてやツートンなどとんでもないというところかもしれませんが、たしかカワイなどは輸出向けモデルには、あらゆる色やスタイルの外装がラインナップされていて驚いたこともあります。

ヨーロッパの人達は、ピアノを置く際にもインテリアとの調和を大事にするようで、部屋の雰囲気や他の調度品とのバランスなどにも大いに意を注ぐのは、それだけ自分達の居住空間には東洋人よりも強い拘りと伝統に根ざした美意識があるのだろうと想像します。

そんな中で、この「内側だけ木目」という仕上げのピアノがどのような位置付けなのかは東洋の島国のマロニエ君にはわかりませんが、ひとつの遊び心でもあるような気がします。
蓋を閉めている状態では普通の黒のピアノが、演奏するために蓋を開けると、そこへ強い調子の鮮やかな木目が現れるのは、それだけでも人の心をハッとさせる意外性が込められているように思います。

というのも、このツートン仕上げは、マロニエ君の個人的な印象でいうと、普通の木目ピアノよりもさらに鮮烈な印象を与えるようで、それは主に黒と派手な木目の強いコントラストが生み出す独特な雰囲気のせいなのは間違いないでしょう。まるでネクタイやカマーバンドだけ色物を使ったタキシードのようで、多少の遊び心もありますが、それだけ好き嫌いの分かれるところかもしれません。
ちょっと前に流行った言い方をすると「ちょい悪オヤジ」みたいな感覚でしょうか。

見方によっては一種のエグさみたいなものがあって、そこがこういうセンスの心意気であり魅力だと思うのですが、たぶん日本人にはそのエグさがあまり幅広くは受けないのかもしれません。

しかし、考えてみれば日本人もむかしのほうが遊び心というのもあったようで、地味な羽織の裏地に目もさめるような派手な柄をあしらったり、琳派の絢爛たる屏風や襖絵などをみると、今よりよほど遊びに対するセンスと文化意識があったようにも思われます。

その点では現代のほうがよほど保守的で堅実になってしまった観がありますね。
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好ましい変貌

一昨日の夜は久しぶりの田中正也ピアノリサイタルに行きました。

曲目はショパンの英雄、子守歌、op.48のハ短調のノクターン、ベートーヴェンの熱情、ラヴェルの夜のガスパールからオンディーヌ、ラフマニノフのエチュードタブローop.33-9、スクリャービンの3つの小品、プロコフィエフの7番の戦争ソナタ、アンコールはワーグナー=リストのイゾルデの愛の死、リストのカンパネラという、ずっしりしたものでした。

田中正也さんのピアノはすでに何度も聴いていたので、ある程度の予想はしていたところ、わずか2、3年の間に著しい変化が起こっているのは驚くべきことでした。冒頭の英雄で「んっ?」と思い、ノクターンに至ってそれはやがて確信に変わりました。

10代の半ばからロシアに渡り、モスクワ音楽院で修行され、とりわけパーヴェル・ネルセシアンに師事したことが彼の根底となるピアニズムを決定したという印象があり、良くも悪くもネルセシアン臭を感じないわけにはいかない演奏であったことが、これまで聴いた彼の特徴だったように思います。

ところが今回の田中さんはかなり違っていて、見事に一皮剥けたというか、独りよがりではない客観性が備わり、いずれの作品も磨かれたレンズではっきりと見通せる好ましい演奏に変化しているのには驚きました。
どこか恣意的で自己完結風でもあった演奏が、あきらかに人に向けて聴かせるに演奏になり、説得力のある堂々たる音楽を紡ぐピアニストへ変貌していました。

テクニックは以前から見事なものがありましたが、それに心地よい曲の運びと情感が加わったのは、まさにそこが以前の彼には足りないと思っていたものだっただけに瞠目しました。
さらには、ほどよい緊張とリラックス感の調和が取れており、聴く側もまったく安心してその演奏に身を委ね、彼の演奏に乗って音楽を旅することができました。

ごまかしのない丁寧さがありながら、音は決して痩せることがなく、分厚い響きや、ときには轟音のような力強さも兼ね備えているし、クオリティも高くなかなか立派なものです。

終始ゆるぎのない、筋の通った見事なピアノリサイタルで、過去に聴いた田中正也さんの演奏会中、最もよい出来映えであっただけでなく、おそらくマロニエ君があいれふホールで聴いたコンサートの中でも最高レベルのものだったと思われ、久しぶりにピアノらしいピアノを聴いた気分で会場を後にしました。

そのあいれふホールですが、マロニエ君は後ろから2列目の席で聴きましたが、あいかわらず音が鋭くわめくような響きのホールで、音響的には快適とは言えないものでしたが、これは如何ともしがたいところです。

ピアノはここのスタインウェイで、ちょっと違和感のある調整でしたが、田中さんはそれをものともせず、まったく手抜きのない素晴らしい演奏によってホールやピアノの不備を見事に覆い隠してしまい、途中からそんなこともまったく気にならなくなりました。
逆説的な言い方ですが、少しぐらいの不備があったほうが却って演奏家は真価を発揮しやすいのでは?という気さえしました。完璧に調整されたピアノを、理想的な響きのホールで弾くのでは、なにやらあまりに条件が整いすぎという感じで、弾く方も聴く側もどことなく居心地が悪いようにも思います。

もうひとつ、改めて感銘を受けたのはスタインウェイの底知れない真価でした。少々の不調などものともせず、重量級の曲をどれだけ壮絶に追い込んでも、激しい和音がどれほど折り重なっても、決してピアノが崩れるということがないのは呆れるばかりで、その比類ない音響特性の逞しさは、まさに圧倒的なものがありました。
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家内工業の音

ピアノの音で、時おり感じることですが、それは良し悪しの問題ではなしに、2つに大別できるのでは?と思うことがあります。
上手く言えませんが、きっちり計算されたメーカーの音と、より感覚的でアバウトさも残す家内工業の音があるということになるでしょうか。

純粋な音の良し悪しとは別に、たとえレギュラー品でもある一定の計算が尽くされたメーカーの音を持ったピアノがある一方で、どんなに素晴らしいとされるものでも、よしんばそれが高額な高級ピアノであっても、家内工業の音というのがあるように思います。これはちょっと聴くぶんにはまことに凛とした美しい音だったりしますが、残念なことにしたたかさというものがなく、いざここ一発というときの強靱さや、トータルな音響として形にならないピアノがあるようにも感じます。

車の改造などに例えると、専門ショップなどの手で個人レベルのチューニングされたものは、パッと目は局部的に効果らしいものがあらわれたりもしますが、トータル的に見た場合、深いところでのバランスや挙動でおかしな事になっていたり、性能に偏りが出たりして、本当に完成された効果を上げるのは、それはもう生半可なことではありません。

その点、メーカーが手がける設計や変更は、おそろしく時間をかけ、いくつもの異なるパーツやセッティングを試して、テストと改良をこれでもかと繰り返したあげくのものですから、その結果は膨大な客観的データやテストなどの裏付けの上にきちんと成り立っているものです。
すなわち街のショップのパーツ交換とは、どだいやっていることのレベルが違うというわけです。

同じことがピアノの音にも感じることがあり、どれほど最良の素材で丹誠込めて作り上げられたピアノであっても、家内工業規模のピアノには手作り的な温もりはあるものの、どこか未解決の要素を感じたり、全体として一貫性に欠けていたりします。

その点でいうと、大メーカーのピアノはそれなりのものでもある種のまとまりというか完成度というものがあり、ある程度、客観的な問題点もクリアされているので、そういう意味では安心していられる面がありますね。
とりわけ観賞を目的としたコンサートや録音ではそれが顕著になります。

大メーカーのピアノは、広い空間での音響特性や各音域のパワーや音色のバランス、強弱のコントラスト、楽曲とのマッチングなど、あらゆる項目が繰り返し厳しくチェックされていると思われますし、問題があれば大がかりな改修が入るでしょう。そのためには多くの有能なスタッフや高額な設備なども欠かせません。必然的に試作品も何台も作ることになりますが、このへんが工房レベルのメーカーでは、どんなに志は高くてもなかなかできないことだと思われます。

家内工業のピアノは材料や作り込みは素晴らしいけれども、弱点は完成度のような気がします。
素人がパラパラっと弾いた程度なら、たとえば中音から次高音にかけてなど、なんとも麗しい上品な音がして思わず感銘を覚えたりしますが、プロのピアニストが本気で弾いたら、思いもよらない弱点が露見することも少なくありません。
プロの演奏には、表現の幅や多様性に対する適応力、重層的な響きにおける崩れのない立体感などが求められますが、そういう場面でどうしても破綻したり腰砕けになってしまうことがあり、それを徹底して調査して、場数を踏んで補強してくるのが大メーカーなのかもしれません。
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オールソン&尾高

ずいぶん久しぶりにギャリック・オールソンの演奏を映像で見ました。

先日放送されたBSのオーケストラライブでのN響定期公演で、ショパンのピアノ協奏曲の2番を弾いていましたが、ステージに現れたオールソンはもうすっかりおじいさんになっていて月日の流れを感じます。

演奏はいかにも手の内に入ったベテランのそれという印象で、ショパンコンクールに優勝したときから早40年以上が経過しており、彼の身体がショパンの演奏を覚え込んでいるといったように見えました。

まったく自己顕示欲のない、とても誠実な演奏でその点は感服しますが、惜しむらくはコンサートピアニストとしての存在感や華がないことでしょう。それでも、この世代のアメリカ人としてはよくぞここまでショパンの音楽に真摯なスタンスで己を捧げてきたものだと思います。
普通なら、ショパンコンクールにアメリカ人として初めて優勝し、それ以降のキャリアを積み上げるとなれば、もう少し華やかなピアニストを目指して喝采を得ることはいくらでもできただろうと思いますが、決してその道には進まず、節度をもった、良心的な活動一筋に努めてきたことには、人間的に敬意を払いたいところです。

尤もそれがオールソンの信念によって厳しく選び取られた結果だったのか、それともそういう道を進むことのほうが性に合っていたから自然にそうなったのか、そこのところはわかりませんが。

今回、オールソンの姿に接してみてあらためて思ったのは、大変な偉丈夫だということで、この点はまぎれもないアメリカ人だと思わずにはいられません。身長も高く恰幅も大変立派で、そのいかにも優しげな表情と相俟ってまるでサンタクロースのように見えました。彼を前にすると、ピアノもどことなく小さくなったようで、なんとなく身をかがめるようにして弾いているのが印象的でした。

ショパンの音楽を彼なりの細やかさでひじょうに注意深く、さらにはこの体格から来るところもあると思うのですが、常に遠慮がちに弾いているという風に見えました。音もその体格から期待されるような太く逞しいものではなくて、むしろ肉付きのない、さっぱりした音色だったことが少し気にかかりました。

全体にはこの人なりの首尾一貫したものがあって、安心して聴いていられるものでしたが、強いて云うならあまりにもおとなしくて善良すぎるきらいがあり、ショパンにはもう少し洗練や洒落っ気やエゴが欲しいものだと思いました。


指揮はN響の正指揮者である尾高忠明氏でしたが、これが思いがけずなかなかの演奏で驚きました。
普通なら、ピアノ協奏曲の中でも、とりわけオーケストレーションの脆弱さを指摘されるショパン、しかもより詩的な2番とくればオーケストラは大半において甘美に歌うピアノの伴奏をやっているだけといったところですが、そんなオーケストラがハッとするほど美しく、しかも聴いていて自分の好みにごく近いもので、やわらかでメリハリがあり、潤った感じに鳴り響いたのはまったく意外でした。

オーケストラはいつもと変わらぬN響ですから、これはひとえに尾高氏の音楽性とセンスの良さに負うものだと思う他はありません。告白するなら、オールソンのピアノもそこそこにオーケストラについ耳を傾けてしまうことしばしばで、ショパンのピアノ協奏曲でオーケストラのほうを有り難く聴いたというのは初めての経験だったように思います。
この美しいオーケストラに支えられて、オールソンもさぞ満足だっただろうと思います。
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カタログ比較-追記

このような場所で価格の話をするのもどうかとは思いますが、前回価格のことに少々触れたついでに、参考までに一例を書いておきますと、ヤマハの現行モデルには奥行き212cmのグランドが3種類も存在し、価格は次の通りです。C、S、CFというシリーズ名は、平たく云えば梅、竹、松とでも思っておけばいいでしょう。

C6=2,730,000円
S6=5,040,000円(Cの約1.8倍)
CF6=13,200,000円(Cの約4.8倍)
というわけで、まったく同じサイズのヤマハグランドピアノ(外装はいずれも黒艶出し)であっても、グレードによってこれほどの価格差があるのは、単純に驚くほかありません。C6とCF6では、同じメーカーの同じサイズのグランドピアノでありながら、価格はほとんど5倍、差額だけで10,470,000円にも達するわけですから、誰だって驚くでしょう。

これはCF6がよほど高級なピアノだという印象を与えると同時に、じゃあC6はよほど廉価品なのか…という気分にもなってしまいますね。世界広しといえども、同じメーカーの、同じマークの入ったピアノが、グレードの違いによってここまで猛烈な価格差があるというのは、少なくともマロニエ君の知る限りではヤマハ以外には無いように思います。

また、CFシリーズとSシリーズはひとつのカタログにまとめられていますが、それでも価格は同サイズで約2.5倍となり、これもかなり強烈です。そこで生じる疑問としては、何がどう違うのかということだと思いますが、その価格差に対する説明らしきものはどこにも見あたりませんでした。

要は「材料と手間暇」ということに尽きるのかもしれませんが、それにしても…。
これが稀少なオールドヴァイオリンとか骨董の世界ならともかく、れっきとした現行生産品の話なのですから、その価格は製品の価値を裏付けるはずのものであり、そのためにも、もう少し具体的な説明によって納得させてほしいものだと思うのはマロニエ君だけでしょうか?


おもしろかったのは、ヤマハ、カワイ両者に共通した巻末のピアノのお手入れに関する記述ですが、ピアノにとって望ましい環境は、
カワイでは「室温15-25℃、湿度50-70%」とあるのに対して、ヤマハは「夏季:20-30℃/湿度40-70%、冬季:10-20℃/湿度35-65%」と夏冬二段階に分かれている点でした。
いずれも湿度に関してはかなり許容量が広いなあというのが印象的でした。

壁から10-15cm離して設置するようにというのは共通していますが、へぇ…と思ったのは弦のテンション(張られる力の強さ)に関してで、ヤマハは「弦1本あたり90kgの力が張られています」とあるのに対して、カワイでは「1本あたり80kgの力が掛けられています」という記述でした。

昔からスタインウェイの張弦は比較的テンションが低いことで有名ですが、現行のヤマハCF&SシリーズとカワイSKシリーズでは、一本あたり10kgもの違いがあるとは意外でした。これを全弦数(平均約230本)の合計にしてみると相当の差になるでしょうね。
一般論としてテンションが低い方が設計に余裕があり、耐久力もあるとされますが、最近のピアノではどうなのでしょう…。
いずれにしろカタログを見ているといろいろと発見があっておもしろいものです。
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カタログ比較

ヤマハの知り合いの営業の方にお願いしてCFシリーズのカタログを入手しました。
さんざん眺め回したあげく、さてこれをシゲルカワイのカタログを比較してみるとなかなか面白い違いが出てくることに気がつきました。

本来はレギュラーシリーズも比較するといいのかもしれませんが、そこまでするのは面倒臭いし、どうせカタログの上だけなんだから、ここは気前よく上級シリーズ同士を較べました。

共通していることは、A4版の横開きのオールカラーで、カワイは表紙を含む28頁に対してヤマハは24頁と若干ながら薄いようです。
いずれも豪華さや高級感を強調したもので、重厚さを全面に押し出している点は甲乙つけがたいものがあるようです。

ヤマハはCFシリーズとSシリーズ、併せて5機種が紹介されているのに対して、カワイもSK-2,3,5,6,7という5機種が掲載されていますが、その重点の置き方にはいささか違いがあるようです。
カワイが新SKシリーズ全体を紹介説明する、ある意味でオーソドックスなカタログであるのに対して、ヤマハは頂点に君臨するコンサートグランドのCFXの存在をメインにして焦点が合わせられているようで、よりイメージ戦略的だという印象です。

それを裏付けることとして、ヤマハではピアノの機構や技術的な解説はほとんどなく、あっても必要最小限に留められて、専らエモーショナルで抽象的な文章が全体を包んでいます。
マロニエ君などにしてみれば、CFIIISからCFXへの移行についてはどのような点で変化・進歩をしたのか、あるいはCFシリーズは具体的にどういうところがどう素晴らしいのかという点についてメーカーとしての主張が欲しいと思いましたが、そういう個別の説明はほとんどありません。
主に美しい写真を見せて、それに沿うような観念的な文章がナレーションのように添えられているだけで、あとは見る者がイメージするものに委ねるというところでしょうか。

これに対して、カワイのカタログではヤマハに較べると文字が多いことが特徴で、文章もより具体的で、わかりやすい説明が必要に応じて記載されています。
もちろんそこはあくまでもカタログですから、専門的になりすぎるようなことは一切ありませんが、その許される範囲の中でのきちんとした技術解説もあって、こちらのほうがいろいろな面から商品を知る手がかりになるという点では、見応え・読み応えがあるように感じました。

ヤマハは技術的なことはいうなれば舞台裏のことであって、カタログは広告の延長のようにイメージ主導に徹しているのかもしれませんし、その点はカワイのほうがカタログはカタログらしく作るという生真面目な一面があらわれているようでもありました。

ただし、ヤマハの敢えて多くを語らない戦略は一応わかるものの、いささか納得できないものが残ります。例えばCFシリーズとSシリーズはよほど意識しないとわからないほど黒バックのほとんど同じ意匠による連続するページによって連ねられていますが、驚くべきはその価格差です。

この両シリーズにはサイズの共通した奥行き212cmと191cmのモデルがそれぞれ存在していますが、価格はCFシリーズはSシリーズの実に2.5倍以上!!!というとてつもない開きがあって、思わず口あんぐりになってしまいます。
カタログの表紙には恭しく「PREMIUM PIANOS」と書かれていますが、同じプレミアムピアノでもこれだけの甚だしい価格差については、見る側としてはもう少々説明が欲しいと思いました。
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リシッツァ

こんなくだらないブログでも読んでくださる方がいらっしゃることは、ありがたいような申し訳ないような気分です。先ごろは北海道の方から、ヴァレンティーナ・リシッツァというピアニストをどう思いますか?というメールをいただきました。

>私の素人耳には、型に囚われない自由な音を出すピアニストに聴こえるのです。
>ところが、日本のメディアには完全に無視されている人です。
>この人には目ぼしいコンクール歴がありません。

というような事が書かれています。(引用のお断り済み)

リシッツァというピアニストはマロニエ君もYouTubeで見た覚えのあるピアニストだったので、名前を見たときにあの女性ではないか?と思ったのですが、あらためて動画を見てみるとやはりそうでした。

長いストレートの金髪を腰のあたりまで垂らしながら、ものすごい技巧で難曲をものともせず演奏しているその姿は、どこかジャクリーヌ・デュ・プレを思い出させられますが、調べるとウクライナはキエフの出身で現在42歳とのことです。
その指さばきの見事なことは驚くばかりで、とくにラフマニノフやショスタコーヴィチなどの大曲難曲で本領を発揮するピアニストのようです。そして、このメールの方がおっしゃるように、実力からすれば応分の評価を得られているようにも思えません。

このメールが契機となって、マロニエ君も動画サイトでいくつかの演奏に触れましたが、その限りの印象でいうならリシッツァの魅力はコンクール歴がないという経歴が示す通り、こうあらねばならないという時流や制約からほとんど遮断されたところに存在しているように思います。自然児が自分の感性の命じるままに反応しているようで、彼女の飾らぬ心に触れるような演奏だと感じました。
それでは、よほど自己流の破天荒な演奏をしているみたいですが、そんなことは決してなく、きちんとした音楽の法則や様式を踏まえた上で、あくまでも自分に正直な自然な演奏をしているのだと思います。

今どきのありふれたピアニストと違うのは、既存のアカデミックな解釈やアーティキレーションに盲従することなく、あくまでも自分が作品に対して抱いたインスピレーションによって演奏し、音楽を発生させているということだろうと思います。これは本来、音楽家としてはむしろ自然の法則に適ってようにも思うのですが、世の中がコンクール至上主義になってしまってからというもの、訓練の過程で「点の取れる演奏」を徹底的に身につけさせるという傾向があり、その結果若い演奏家の中から面白い個性が出てこなくなってきたことで、逆にこういう人が珍しい存在のようになってしまっているのかもしれません。

事実コンクールでは自分の色や表現を出し過ぎたために敗退することも多いのだそうで、その結果、教師も生徒も個人の個性や主観という、本来芸術の中核を成す部分に重きを置かず、ひたすら審査員に受け容れられる演奏を身につけるために奮励努力するのですから、その結果は推して知るべしです。

その点ではリシッツァという女性は、自分の作り出す演奏だけを元手に果敢に勝負をかけているピアニストのようで、それに値する才能も度胸も自我もあって実にあっぱれな生き方だと思います。そういう意味では単なるピアニストというよりはクリエイティブな芸術家のひとりだと云うべきかもしれません。

日本で評価されないのは、知名度が低く、いわゆるタレント性がないこと、そしてコンクール歴というわかりやすい肩書きを持たない故だろうと思います。さらにいうなら彼女の得意のレパートリーには重厚長大な難曲が多く、そこも日本人にはやや向いていないのかもしれません。
他国のことは知りませんが、少なくとも日本の聴衆ほど発信された情報のいいなりになるのも珍しく、マスコミの注目を集め、チケットをさばき、CDを買わせるには、コマーシャリズムと手を結ぶしかないのでしょう。

評判に靡かず、頑として自分の耳だけを信じるという人は専門家もしくはよほどのマニアということになり、これはほとんど絶滅危惧種みたいなものです。

リシッツァには、どこかそういう不遇を背負ったアーティストの悲哀のようなものがあり、そこがまた彼女の支持者には堪らないところかもしれません。
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音を望む

小冊子「ピアノの本」をパラパラやっていると、イタリア人ピアニストにして徳島文理大学音楽学部長であるジュゼッペ・マリオッティ氏のインタビューが掲載されていました。

氏は自身がベーゼンドルファー・アーティストでもあるため、主にこのピアノを中心とした話になっていましたが、曰く、ピアニストにとって「音をつくる」ことは容易なことではないし、学習者でも音をつくるところから始めなければならないと述べています。

ヴァイオリンやフルートなどの楽器では、はじめから音をつくることと同時に練習を進めて行くのに対して、「ピアノは正しい音程のきれいな音が簡単に出るので、音をつくることへの意識が希薄になる」とおっしゃっていますが、これはいまさらのように御意!だと思わせられました。

マリオッティ氏の友人のドイツ人ピアニストは生徒に「音を望みなさい」としばしば言うそうです。
音を望むということは、マロニエ君の解釈では実際の楽器が発音するよりも前に、どのような音を出すかをイメージして極力それに近づくように気持ちを入れて演奏するということだと思いますし、この手順を身につけるということは、そのままどのような演奏をするかというイメージにも繋がるような気がします。

しかし、これは意外と日本人には苦手なことのようで、プロのピアニストはひとまず別としても、アマチュアの演奏に数多く接してみると、ほとんどの人が音色のイメージというものをまったく持たないまま、ピアノの音はキーを押せば出るものとして油断しきっており、そういうことよりも、ひたすら難曲に挑戦しては運動的に弾くことにばかりにエネルギーを注ぎ込んでいるようです。
そこには音色どころか、解釈も曲調も二の次で、とにかく最後まで無事に弾き通すことだけが全目的のように必死に指を動かしているように見受けられます。

マリオッティ氏の言葉にもずいぶん思い当たることがあり、「日本人は体を硬くして、ピアノの鍵盤を叩くように弾く傾向があるので、肩や腕、手首、指の緊張を解いてリラックスして弾けるようになるといい…」とのことです。

日本人がある独特な弾き方をするのは、ひとつには日本のピアノにも原因があるのかもしれないと思わなくもありません。日本のピアノは間違いなく良くできた楽器だと思いますが、強いて言うなら音色の微妙な感じ分けやタッチコントロールの妙技をあまり要求せず、誰が弾いてもそこそこに演奏できるようになっています。
これはこれで我々のような下手くそにはありがたいことではありますが、やはり楽器である以上、そこには音色に対する審美眼とか演奏表現に対する敏感さや厳しさがあるほうが、より素晴らしい演奏を育むことにもなると思います。

人間の能力というものは、必要を感じないことには、無惨なほど無頓着となり、ついには開発されないままに終わってしまいますから、汚いタッチをしたら汚い音が出てしまうピアノに接することで、より美しい音をつくる必要を身をもって体験するのかもしれません。

驚いたことに徳島文理大学には大小合わせて9台ものベーゼンドルファーがあるのだそうで、このようなタッチに対して非常にデリケートかつ厳格な楽器に触れながら勉強できることは、将来的にも大いに役立つ貴重な修行になるだろうと思われてちょっと驚いてしまいました。
家庭での親のしつけと同じで、成長期に叩き込まれたものは、その人の深いところに根を下ろして一生をついて廻るものだけに、こうした体験の出来る学生は幸せですね。
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雨にまみれて

全国的に水の被害が出ていますが、北部九州も日曜日は明け方から夕方まで滅多にないほどの猛烈な雨でした。

雨足は終始強く、おまけに雨間というものがまるでなく、よくぞ上空にはこれだけの雨があるもんだと感心するほど、降って、降って、降りまくりでした。
深夜のニュースによれば九州の多いところでは300ミリの雨だったとか。

そんな日に、チケットを買っていたものだから九響のコンサートを聴くために宗像まで車で往復するという、マロニエ君のような怠け者にしてみれば、とてつもない行動をした一日でした。
朝からただ事ではない激しい雨模様で、これはよほど断念しようかと何度も思ってみたものの、この日登場する白石光隆さんの演奏を聴くことを以前から楽しみにしていたことでもあるし、彼はそれほどメジャーなピアニストでもないため、今回を逃すと次はいつまた聴けるかわからないという思いもあって、手許にはチケットがあるし、思い切って車のエンジンをかけました。

福岡市の中心部から会場の宗像ユリックスまでは距離にすれば30kmほどですが、普段より早めにお昼を済ませて、15時の開演に間に合うよう到着するにはかなり厳しい時間的スケジュールになります。

なにしろこの悪天候である上に、途中には新たな渋滞ポイントとして予想されるイケアと新規オープンしたイオンモールがあるので、遠回りになることを承知で高速で迂回するなどしながら、なんとか開演20分前に会場入りすることができたものの、出発から到着までの一時間半近く、一瞬も衰えることのない強い雨足には参りました。オーディオの音も邪魔になるほどの、ルーフやフロントガラスを雨滴が叩きつけるバシャバシャいう音、路面から水を巻き上げる音、せわしいワイパーの動きだけでもいいかげん疲れました。

濡れた合羽や傘をまとめつつ席について開演を待ちますが、こんなお天気にもかかわらずほとんど満席に近いのは驚きでした。
曲目はバッハ=レーガーの「おお人よ、汝の罪の大いなるを嘆け」に始まり、続いてベートーヴェンの「皇帝」で、白石さんの登場となります。

これまでCDでのベートーヴェンのソナタで感嘆していたほか、TVでもトランペットリサイタルのピアノなどで見ていましたが、とても品の良い丁寧な演奏であるし、やはり上手いというのが印象的でした。
ただし、ご本人の性格的なところもあると思いますが、どちらかというと穏やかなキッチリタイプの演奏で、個人的には、そこへもう一押しの迫りがあるならさらに好ましいように感じました。
でも、自己顕示欲のない、とてもきれいなピアノでした。

後半は同じくベートーヴェンの「運命」でしたが、久々に聴いた九響はやっぱり九響でした。
迫力はあるけれども、全体に粗さが目立ち、とりわけ弦の音色にはなんとなく細かい砂粒でも噛み込んだようなざらつきがあって、やわらかさ、艶やかさに欠けており、いささかうるさい感じに聞こえました。
アンサンブルにもより高度なクオリティが欲しいところですが、ここから先のもう一段二段というのが難しいところなのでしょう。

ピアノは新しいスタインウェイで、この日の悪天候のせいもあるとは思いたいものですが、鳴りが芳しくなく、白石さんの敏腕をもってしてもピアノの音はしばしばオーケストラに掻き消され、まったく精彩がないのは聴いていてなんとももどかしいような気分でした。

終演後はロビーで白石さんのサイン会がある由で、新しくリリースされたハンマークラヴィーアなどのアルバムが目を惹きましたが、そこに白石さんの姿はまだなく時間がかかりそうでした。外を見るとさらに激しい雨足で、帰路のことを考えるとなんだか気が急いて、結果的に後ろ髪を引かれる思いで傘を開き、横殴りの雨の中を駐車場へ向かいました。

ともかく無事に帰宅できてやれやれというところですが、今思えば、やっぱりCDを買って少し待ってでもサインしてもらえばよかったなあ…と思っているところです。
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ノリントンの世界

日曜朝のBSプレミアムのオーケストラライブには、このところ3週続けてロジャー・ノリントンがN響定期公演に登場しています。

曲目はお得意のベートーヴェンがほとんどですが、最後にはブラームスの2番(交響曲)もやっていました。
面白かったのは4月14日のNHKホールでの演奏会で、マルティン・ヘルムヒェン(ピアノ)、ヴェロニカ・エーベルレ(バイオリン)、石坂団十郎(チェロ)をソリストにしたベートーヴェンの三重協奏曲で、これはなかなかの演奏だったと思います。

マルティン・ヘルムヒェンはドイツの若手で、以前もたしかN響と皇帝を弾いていたことがありましたが、その時は気持ちばかりが先走っていささか独りよがりという感じでしたが、今回はピアノパートも軽いためかとても精気のある適切な演奏をしていましたし、ヴェロニカ・エーベルレはソリストの中心的な重しの役割という印象でした。
石坂団十郎は確かドイツ人とのハーフですが、まるで歌舞伎役者のようなその名前に恥じない、なかなかの美男ぶりで、なんだかステージ上に一人だけ俳優がいるようでした。

ノリントンの音楽はいわゆるピリオド奏法でテンポも遅めですが、どこか磊落で、彼なりの解釈と信念が通っており、マロニエ君の好みではありませんが、しかし確信に満ちた音楽というものは、それはそれで聴いていて心地よく安心感があるものです。

また、4月25日のサントリーでの演奏会では河村尚子をソリストに、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番が演奏されましたが、これが実に見事な演奏で非常に満足でした。

正直言うと、マロニエ君はこれまで河村尚子さんの演奏にはあまり良い印象がなく、以前これもまた皇帝を演奏した折に、あまりに曲の性格にそぐわない自己満足的な演奏にがっかりして、それをこのブログに書いた覚えがありますが、それが今度の4番ではまるで別人でした。

まずなんと言っても感心したのは、ノリントンの演奏様式に則った、バランスの良い演奏で、ほとんどビブラートをしない古典的演奏スタイルによるオーケストラとのマッチングは素晴らしいものでした。しかも音楽には一貫性があって、呼吸も良く合っており、妙にもったいぶって自分を押し出そうとする以前の振る舞いはまったく影をひそめて、いかにも音楽の流れを第一に置いた姿勢は立派だったと思います。

おそらくはノリントンという大家の監視が厳しく効いていて、勝手を許さなかったということもあったのでしょうし、事前の打ち合わせと練習もよほど尽くされた結果だと思いますが、だからこそ、先のトリプルコンチェルト同様に聴く側が違和感なく音楽に身を委ねることができたのだろうと思われます。
そういう意味では、音楽上の民主主義的な指揮者は結果的にダメな場合が多いし、近ごろは練習不足の本番が多すぎるようです。

河村さんはベートーヴェンの偉大な、しかも繊細優美なこの作品の大半をノンレガートを多用して極めて美しく、かつ熱情をもって弾ききり、こういう演奏をやってのける能力があったのかと、一気にこのピアニストを見る目が変わりました。

印象的だったのは、上記いずれの演奏会でも、ピアノは大屋根を外して、オーケストラの中に縦に差し込んで、ノリントン氏はピアノのお尻ちかくに立って指揮をしていましたが、まさに彼の音楽世界にオケもソリストも一体となって参加協力しているのは好ましい印象でした。

さらにおやっと思ったのは、いずれもピアノはスタインウェイでしたが、あきらかに発音が古典的な、どこかピリオド楽器を思わせる不思議な調整だったことで、そこまで徹底してノリントンの音楽的趣向が貫かれているのはすごいもんだと思いました。
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復元か新造か

つい先日、あるスタインウェイディーラーから送られてきたDMによると、1878年製の「The Curve」という名のニューヨークで製造されたスタインウェイのA型が、メーカー自身の手で修復されて販売されているというもので、なんとケースとフレーム以外の主要パーツはすべて新品に交換されている旨が記されています。

単純計算しても134年前のピアノというわけですが、修復というよりは骨組み以外は新規作り直しという感じで、楽器の機械的な耐久性という意味ではなんの心配もなく購入することができるということでしょう。
当然ながら、ボディやフレームにも新品と見紛うばかりの修復がされていると思われますので、旧き佳き時代のピアノとして見る者の目も楽しませるでしょうし、今やこのような選択肢もあるというのはなにやら夢があるような気になるものです。

たとえ世界屈指の老舗ブランドといえども、現今のピアノに使われる材質の低下、それに伴う音色の変化などに納得できない諸兄には、このようなヴェンテージピアノをメーカー自身がリニューアルすることによって、新品に準じるような品質で手にできるということ…一見そんな風にも思われますが、厳密にはその解釈の仕方は微妙なのかもしれません。

ともかくリニューアルの施工者がメーカー自身というのなら、一般論としての価値や作業に対する信頼も高いでしょうし、それでいて価格もハンブルクのA型新品より3割近く安いようですから、こういうピアノに魅力を感じる人にとっては朗報でしょう。

ただし、強いて言うなら、新しく取り替えられた響板やハンマーフェルトの質が、1878年当時と同じという事はあり得ず、少なくともその質的観点において、当時のものと同等級品であるかといえばそれは厳密には疑問です。枯れきったよれよれの響板が新しいものに交換されれば、差し当たり良い面はたくさんあるでしょうが、ではすべてがマルかといえば、事はそう簡単ではないようにも思います。

また作業の質や流儀にも今昔の違いがあるでしょうから、現代の工法に馴れた人の手で、どこまで当時の状態の忠実な再現ができるのだろうとも思います。仕上がった状態を、もし昔の職人が見たら納得するかどうか…。まあそういう意味合いも含めて、おおらかに解釈できる人のためのピアノと云うことになるのかもしれませんね。

やみくもに古いものは良くて新しいものはダメだと決めつけるつもりは毛頭ありませんが、おそらく19世紀後半であれば、良いピアノを作るための優れた木材などは、当時の社会は今とは較べるべくもない恵まれた時代だったことは確かです。

聞くところによれば、現在ドイツなどは環境保護の目的で森林伐採は厳しく制限され、ピアノ造りのための木の入手も思うにまかせないという状況だそうですが、そんな時代に新品より安く販売されるリニューアルピアノのために、オリジナルに匹敵する稀少材が響板に使われるとは考えにくいし、それはハンマーフェルトも同様だろうと思います。

さすれば、スペックの似た現代のエンジンを積んだクラシックカーのようなものだと思えばいいのかもしれません。そう割り切れば、パーツの精度などは上がっているはずで、もしかしたら部分的な性能ではオリジナルをむしろ凌ぐ可能性さえもあるでしょうね。
これはつまり、新旧のハイブリッドピアノと考えれば理解しやすい気がします。
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あいまいな国境

楽器メーカーのゼネラルマネージャー兼技術者として海外で長く活躍された方をお招きして、ピアノが好きな顔ぶれと食事をしながらあれこれの話を伺うことができました。

ピアノビジネスの黄金時代は過ぎ去って久しく、今はメーカーも生産台数も激減、さらにはアジアの新興勢力の台頭によりピアノ業界の様々な情勢にも、かつては思いもよらなかったような変化が起こっているようです。

少し前に、チェコのペトロフピアノの社長さんが「ペトロフはすべてヨーロッパ製」と発言されたらしいという事を書いたところ、さるピアノ技術者の方から「建前はそうなっているけれども、一部に中国の部品を使っている」ということを教えていただきました。

どんな世界にも表と裏があるようで、様々な事実は、事柄によってセールスポイントにされたり、はたまた積極的に語られないなどいろいろのようです。

考えてみれば、日本のピアノでもヤマハがヨーロッパのハンマーフェルトを輸入して自社工場で加工して使っているとか、カワイにも機種によってはイタリアのチレサの響板やロイヤルジョージのハンマーを使ったモデルもあるし、両者共に多くのモデルはアラスカスプルースを使うなど、海外からの輸入品を必要に応じて使っていることは昔から当たり前です。

こう考えると、純粋に一社は言うに及ばず、一国、もしくはひとつのエリア内だけで産出された材料を使って一台のピアノを作り上げると云うことのほうが、もはや難しいのかもしれません。
フランスのプレイエルに至ってはコンサートグランドのP280は、丸々ドイツのシュタイングレーバーに生産委託しているというし、そのシュタイングレーバーやシンメルは以前から日本製のアクションを使っているとのことで、その実情は様々なようです。

純アメリカ産モーターサイクルとして名高いハーレーダヴィッドソンも、そのホイールは長らく日本のエンケイなんだそうですし、多くのヨーロッパ車が日本のデンソーのエアコンやアイシン製オートマチックトランスミッションを載せているのは今や普通のことで、イギリスのミニに至ってはBMW製で既にドイツ車に分類されているなど、驚かされると同時に、ときに我々はそれを「安心材料」として捉えている場合さえあるほどです。

エセックスが中国で作られ、ボストンもディアパソンもカワイ製、ユニクロもアップル製品も中国製だし、要するに今や政治的な国境線を遙かに跨いで、さまざまなビジネスが自在に往来しながら効率的に成り立っていると云うことだと思います。驚いたのは、ニューヨーク・スタインウェイの純正ハンマーは日本の有名なハンマーメーカーが作っているという話まであるらしく、中には虚実入り混じっている部分もあるかもしれませんが、マロニエ君はこれを追求しようとは思いません。
ことほどさように物づくりの現場においては良いと判断されれば(品質であれ価格であれ)、現代の製造業はどこからでもなんでも調達してくるのが当たり前になったということを、我々は認識すべき時代になったことは間違いないようです。

とりわけピアノ製造のようにきわめて存立の難しいビジネスでは、理想論ばかりを振りかざしていても仕方がなく、相互に補助し合い、需給を生み出すことでコストや品質を維持するのは自然でしょう。

まあ、日本などは食糧自給率が40%と、ピアノなんぞのことをつべこべいう前に、自分達の食べ物の心配をしろということになるのかもしれませんが。
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チャイコフスキーガラ

昨年のチャイコフスキーコンクールの優勝者のうち、声楽を除くピアノ、ヴァイオリン、チェロの優勝者(および最高位)によるガラコンサートの様子をテレビから。
今年4月に行われた日本公演のうち、サントリーホールでの23日のコンサートです。

それぞれダニール・トリフォノフ、セルゲイ・ドガージン、ナレク・アフナジャリャンという3人でしたが、最も好感を持ったのはヴァイオリンのドガージンで、ロシア的な厚みのある情感の豊かさが印象的でした。

しかし全体としては、3人とももうひとつ演奏家としての存在感がなく、世界的コンクールを征した青年達とは思えない精彩に欠けた演奏だったことは残念でした。おまけに合わせものでのトリフォノフは練習不足が露わで、コンサートの企画ばかりが先行して肝心の準備が追いついていないのはちょっと感心しません。

最近の欧米の若い演奏家全般の特徴としては、音楽に対する情熱やエネルギーがどうも以前より痩せていて、ビート感などはむしろ弛緩して劣ってきているように感じることがしばしばです。
全体を見通したがっちりした構成力、その上での率直な感情表出などの聴かせどころなど、音楽を聴く上での醍醐味がないことが大変気にかかります。よく言えば小さく整った優等生タイプで、悪く云えば強引なぐらいの喜怒哀楽の波しぶきなどもはやありません。

自分が表現したい何かではなく、書かれた通りの音符を音に再現し、無事に弾き終えることに目的があるようで、だから聴き手に伝わってくるメッセージ性がない(あるいは薄い)。ただ練習を重ねたパーツとパーツがネックレスのように繋がっているようで、これでは聴くほうも音楽に乗ろうにも乗れません。
具体的な傾向としては全体に確信と流れがなく、それなのに速いパッセージに差しかかるとやたら急いで見せたり、反対に、間の取り方などはさも恭しげで意味深ぶって、そこがまたウソっぽい。

現代は、科学の裏付けのある合理的なメソードが発達しているので、練習を開始した子供の中から難しい曲を弾けるようになる人は昔より高い確率で出てくるはずですが、それと引き換えにオーラのある天才の出現は久しくお目にかからなくなりました。
とくに欧米は音楽を志す人そのものが激減しているそうで、つまり畑が狭くなり、育てる種の数が少なくなれば、それだけ光り輝く才能が出にくくなるのもやむを得ない事でしょう。
これでは楽器を習う子供の数が桁違いに多いアジア勢が優勢なのも当然だと思います。


トリフォノフは一昨年のショパンコンクールのときからファツィオリにご執心のようで、この日もサントリーのステージにはF278が置かれていました。

右斜め上からのアングルで映したときのフレームや弦やチューニングピンなどの工芸品のような美しさは印象的ですが、楽器としての危うさみたいなものがない。ディテールの造形も鈍重で、全体のフォルムはとても大味ですね。
ピアノを造形で語っても仕方ありませんが、音は華やかですが硬くて立体感に乏しく、しばらくすると耳が疲れてくる感じに聞こえました。

遠鳴りのスタインウェイをホールで弾くと、むしろ音は小さめなぐらいな印象がありますが、その点でファツィオリは弾いているピアニストに力強い手応えを与えるのかもしれません。やはり好みの分かれるピアノだと思いました。
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ヴンダーの日本公演

2年前のショパンコンクールで第2位だったインゴルフ・ヴンダーの、今年4月の日本公演の模様が放送され、録画をようやく見ました。

紀尾井ホールでのリサイタルで、リストの超絶技巧練習曲から「夕べの調べ」、ショパンのピアノソナタ第3番とアンダンテ・スピアナートと華麗な大ポロネーズというものでした。

率直に云って、なんということもない、むしろ凡庸な、まるで手応えのない演奏でした。
普通はショパンコンクールで第2位という成績なら、好みはさて置くとしても、指のメカニックだけでも大変なものであはずですが、テンポもどこかふらついて腰が定まらず、ミスをどうこう云うつもりはないけれどもミスが多く、この人の大きくない器が見えてしまって、なんだか肩すかしをくらったような印象でした。
全般的に覇気がなく、楽器を鳴らし切ることもできていないのは、デリケートな音楽表現をやっているのとは全く別の事で、聴いていてだんだんに欲求不満が募りました。

音楽の完成度もさほど感じられず、彼が果たしてどのような芸術表現を目指しているのか、さっぱり不明でした。
見ようによっては、まるで軽くリハーサルでもやっているようで、こういう弾き方なら、ピアノもさぞ消耗しないだろうと思います。

この人はコンクールの時には聴衆に人気があったというような話を聞いた覚えがありましたが、このリサイタルを聴いた限りでは、到底そのような片鱗さえ感じられませんでしたし、むしろ惹きつけられるものがないことのほうを感じてしまいます。この人の聴き所がなへんにあるのか、わかる人には教えて欲しいものです。

見た感じは人の良さそうな青年で、映画「アマデウス」でモーツァルトに扮したトム・ハルスのような感じです。演奏しながら細かく表情を変化させながら、いかにもひとつひとつを表現し納得しながら演奏を進めているといった趣ですが、実際に出てくる音はあまりそういうふうには聞こえません。

たしかコンクールが終わって程なくして、上位入賞者達が揃って来日してガラコンサートのようなものがあり、その様子もTVで放送されましたが、このときヴンダーはコンチェルトではなく、幻想ポロネーズを弾いたものの、別にこれといった感銘も受けなかったことをこのブログにも書いたような記憶があります。
やはり第一印象というものは意外に正確で、それが覆ることは滅多にありませんね。

これで2位というのはちょっと承服できかねるところですが、聞くところでは彼はハラシェヴィッチ(1955年の優勝者でポーランドのピアノ界の大物のひとり)の弟子らしいので、そのあたりになにか影響があったのか、詳しいことはわかりませんが、コンクールには常に裏表があるようです。
直接の関連はないかもしれませんが、4位のボジャノフがえらく憤慨して表彰式に出なかったというのもなんとなくわかるような気がしました。

その点で、優勝したアブデーエワは通常のリサイタルではコンクール時よりもさらに見事な演奏を披露し、彼女が優勝したことはピアニストとしての潜在力の点からも、とりあえず正しかったのだと今更ながら思うところです。
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名器は蘇る

夕方、時間が空いて、ちょっとうたた寝をしていると、5分も経ったかどうかというタイミングで電話がけたたましく鳴りました。

さるピアノ店のご主人からで、昨年秋にそのお店を訪問した際に、古くてくたびれた感じのニューヨーク・スタインウェイのM型が置いてあり、見た目も芳しくなく中はホコリにまみれて、調整もほとんど無きに等しい状態であったので、とくに意に止めることもしていませんでした。

ただ目の前にあるというだけの理由で、いちおう弾く真似のような事はしてみましたが、古くてくたびれたピアノというだけで、オーバーホールの素材にはなるだろうけれども、現状においては特に感想らしいものはありませんでした。

正直を云うと、個人的にはこれだったら日本製の新品の気に入ったものを買ったほうがどれほどいいかと思いました。それでもスタインウェイだからそれなりの値段はするのだろうし、果たしてこのままで買う人がいるんだろうか…と思ったほどでした。

そのピアノを、さすがにその状態ではいけないとここの社長さん(技術者)が思われたのか、はじめからそのつもりだったのかは知りませんが、ともかく今年に入ってオーバーホールに着手したという事は聞いていました。

マロニエ君がピアノの話なら喜ぶというのを知ってかどうか、別に買うわけでもないのに、とにかくそのオーバーホールの進捗を逐一報告してくださり、とりわけハンマーをニューヨーク・スタインウェイの純正に交換したことによる楽器の著しい変化については、熱の入った説明をたびたび(電話で)聞いていました。

ちなみに、スタインウェイのハンマーといってもハンブルク用はレンナーのスタインウェイ用で、フェルトの巻きが硬く、それを整音(針差し)によってほぐしながら音を作っていくのですが、ニューヨーク用ではまったく逆で、比較的やわらかく巻かれたフェルトに適宜硬化剤を染み込ませながら、輪郭のある音を作っていくという手法がとられます。

この社長さんによると、やはりニューヨーク・スタインウェイ用の純正ハンマーは楽器生来の個性に合っているという当たり前のような事実をいまさらのように強く体感された由で、弦も張り替え、塗装もやり直して、以前とは見た目も音も、まるで別物のようになったという話でした。
そして今回の電話によると、ある事情からこのピアノを吹き抜けのある天井の高い場所に設置してみたところ、アッと驚くような美しい響きが鳴りわたったのだそうで、「あれはなかなかのピアノだった!」と電話口で多少興奮気味に話されました。
つい「みにくいアヒルの子」の話を思い出しましたが、ともかくオーバーホールと調整と、置く場所によって、およそ同じピアノとは信じられないような違いが生じるという現実を、自分が案内をするからマロニエ君にもそこに行って、ぜひとも体験して欲しいというお話でした。

たいへん魅力的なお誘いで、近くならすぐにでも行きますが、そこは博多から新幹線で行くような場所ですから、いかにピアノ馬鹿のマロニエ君といえども二つ返事で行くわけにはいきませんが、やはり再び命を吹き込まれたスタインウェイというのは、元がどんなに古くてみすぼらしくても、ものすごい潜在力を秘めているんだなあと思わせられる話でした。
まだ自分でじかに触ったわけではありませんが、これが巷で云われるスタインウェイの復元力というものなのかと思うと、どんなものやらつい確かめてみたくなるものです。
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巻き線の名人

岡山の浜松ピアノ店の通信誌からもうひとつ興味深い話を。

浜松にある、巻き線の名人がおられる工場取材というものでした。
ピアノの低音部は、芯線に銅線を巻き付けた「巻き線」が使われることはよく知られていますが、この巻き方がとても重要であるにもかかわらず、現在では生産効率とコストの関係でしょうか、機械巻きが圧倒的に主流となっているようです。
しかし、本当にすぐれた巻き線は、名人の手巻きによるものだと云われています。

この道の名人に冨田さんという御歳67になられる方がいらっしゃるそうで、小学校の高学年の頃からこの仕事に携わり、すでに仕事歴60年近いという大ベテランだそうです。

どんなピアノでも気持ちのよい低音を確保するためには、巻き線の品質が重要だそうで、植田さんのお店では新品のピアノであっても、より良い響きを求めてこの冨田さんの巻き線に交換することがあるそうですし、修理の際の弦交換の場合はいつもこれを使っておられるそうです。

この名人冨田さんの談で、なるほど!と思ったのは、『ピアノの弦というものは、弦の材質もさることながら、同じピアノでも張る弦の太さで張力が変わり、張力が変わると音色も響き具合も変わる』というものでした。
品質はまあ当然としても、太さで張力が変わり、そこから音色や響きにも違いが出るというのは気がつきませんが、云われてみれば確かにそうだろうと、おおいに得心のいく気分でした。

現在の巻き線は機械巻きが圧倒的主流で、ピアノの聖地浜松でさえ、この手巻きのできる技術者が極端に少なくなっているのだそうです。さらにはその少ない技術者の方々は皆さん年配の方ばかりで、この分野の若い技術者が育っていないというのが現状とのこと。
これはつまり、将来、手巻きによる優れた巻き線は、よほどでないと手に入らなくなることが予想されます。

現代のピアノは製品としての精度はとても高いし、中にはなるほどよく鳴るものもあるようですが、いわゆる馥郁たる豊かな響きを持った、自然でおっとりしたピアノが生まれなくなってしまったという事を、こうした事実が裏付けているようでもあり、とても残念でなりません。

現代社会はどのようなジャンルでも効率や平均値は猛烈に向上しましたが、それは同時に一握りの輝ける「本物」を失ってしまうことでもあるような気がします。
その波が文化や芸術までも容赦なく呑み込んでしまうのは、どうにかして食い止めて欲しいところですが、時すでに遅しといった観があるようです。
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ペトロフと中国

岡山の浜松ピアノ店から、ここの植田さんとおっしゃる社長さんが書かれる「もっとピアノを楽しもう通信」という通信誌をいつも送ってくださいますが、今回も興味深い記述があれこれとありました。

このピアノ店の取扱いブランドのひとつであるペトロフの本社に視察に行かれたようですが、社長のペトロフさんが強調されるには、「ペトロフピアノはすべてヨーロッパ製である」ということだったとか。これは最近のヨーロッパピアノは一部の高級品を除くと、その多くがヨーロッパ圏外で作られるようになったということの証左でもあるようです。

そしておそらくその大半は、アジアの労働賃金の安い国々で作られているであろうことが推察できます。部分的なものから完成品に至るまで、そのやり方はメーカーによって様々だと思いますが、ともかくペトロフのような純ヨーロッパ産ピアノというのはずいぶん少なくなっているのは確かなようです。


もうひとつ紹介されていたのは、中国は大連から大学のピアノの先生が岡山のお店に来られて、中古のカワイを2台買って行かれたとのことでした。
そこでの話によると「中国製のピアノはすぐ壊れるし、中国にはまともなピアノ技術者がいないようで、中身にまったく手が入っていないのでダメ」とのことでした。

そのため、納入調律には「旅費・宿泊費を負担するので、ぜひ大連まで来て欲しい」という依頼まであったそうです。その先生の話によると、中国ではヤマハとカワイのブランド価値はほとんど同じで、国立大学の大半はカワイで色は黒が人気だそうです。
たしか中国の音大教授の間では、シゲルカワイを所有することがステータスになっているという話も思い出しましたが、なるほどそんな背景があるのかと納得です。

以前、別の方から聞いたところでは、中国製のピアノといっても品質はピンキリだそうで、外国メーカーによる技術や品質の管理も行き届いてかなり優秀なものもある反面、本当にどうしようもない粗悪品も珍しくないようで、まさに玉石混淆のようです。
ただし、マロニエ君も何度か中国に行った経験では、店に並んでいるピアノはどれも、およそ調整などとは程遠いという感じで、それは中国には高等技能をもったピアノ技術者がほとんどいないであろうし、美しいピアノの音の尺度もあまりないと思われ、その必要も未だ認識もされていないことをひしひしと感じさせるものでした。

どの街の、どの楽器店も、ホテルのピアノも、かろうじて音階のようなものだけはあるビラビラな音で、グランドもアップライトもあったものじゃありませんでした。
そんな中国のピアノ店でごくたまに見かけるヤマハやカワイは、それはもう大変な高級品という感じに見えたことを思い出しました。
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貧しい時代

昨日書いた音楽雑誌ですが、なにかこう…かすかに無常感を覚えるものとして繋がっていくことに、そのグラビアに見るウェイルホールのスタインウェイにもその要素を発見しました。

件の邦人のニューヨークでのリサイタルでは、ご当地のニューヨーク・スタインウェイが使われたようで、新しいモデルのようですが、なんとニューヨーク製の特徴である凝ったディテールのデザインにも、さらなる簡略化が進んでいました。
もはや、かつての威厳は感じられず、なんとなくしまりのないのっぺりした印象でした。

戦前のモデルに較べると、基本は同じなのに、その時代毎に装飾的なラインやデザインの大事な部分がだんだんに姿を消して行き、現在ではもうほとんどボストンピアノに近い感じにまで細部が省略されて、すっかりドライなデザインになってしまったようです。

むろん、ピアノは外観ではなく、音が勝負というのはわかっていますが、これほどはっきりとコストダウンの証を見せられると、音に関する部分だけは「昔通り」なんて夢見たいなことはとても思えません。
尤も、今はホロヴィッツやグールドのような超大物がいるわけでもなく、コンサートの世界も大衆化・平均化が進んだことも事実。それに呼応するように楽器であるピアノもかつてのような「特別」なものである必要はなく、製造・販売のビジネスが成り立つことこそが大儀であり、要するに商品としてはその程度で良いという企業判断と解釈すべきなのかもしれません。

まあそれが仮に正解だとするならば、なんとも虚しい現実なわけで、願わくは思い過ごしであってほしいものです。

その点に関しては、まだなんとか見た目の面目を保っているのはハンブルクです。
ハンブルクのほうは少なくとも外見上は、それほどの簡略化は今のところ見られませんが、内容に関しては風の噂では相当厳しいコストダウンの実体を耳にしますし、にもかかわらず最近ではアメリカのコンサートでも、以前とは比較にならないほどハンブルク製が使われることが多くなっており、そのあたり、一体どういう事情なのかと思ってしまいます。

米独両所のスタインウェイは、パーツに関しても以前より共通品がかなり増えたとも聞きますし、近年はついにハンブルクも響板にアラスカ産のスプルースを使うようになったらしく、ニューヨークは伝統のラッカー&ヘアライン仕上げの他に、黒の艶だし仕上げのピアノもかなり作っているようで、そこまで互いにおなじことをするのなら、そのうち製品統合でもするんじゃないかと思います。

来年は奇しくもスタインウェイ社の創業160年周年でもありますが、一台のピアノを作り上げるのに切り詰められた合理化やコスト削減は、おそらく歴史上最も厳しい時代ではないかとも思います。

まあ、要するに、金に糸目を付けないというのは極端としても、こだわりをもった製作者の良心の塊のような優れた楽器造りなどというものは、今のご時世にあってはほとんど夢まぼろしに等しいということなのかもしれません。
厳しい条件や限られたコストの中から、いかに割り切って、精一杯のものを作り出すかが現代の生産現場の最大のテーマなのだろうと思われますが、文化にとっては実に貧しい時代というわけです。
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ホールもブランド

書店で音楽雑誌を立ち読みしていると、ある日本人ピアニストがカーネギーホールデビューを果たしたということで、巻頭のカラーグラビアで大々的に紹介されていました。

さらにはその流れなのか、表紙もその人で、カーネギーホールとニューヨーク名物のイエローキャブ(タクシー)をバックに余裕の笑顔で写っていらっしゃいました。
まさに世界に冠たるこの街を実力で制覇したといった英雄のような趣です。

普通カーネギーホールというと、ホロヴィッツやニューヨークフィルで有名な「あの」カーネギーホールかと思いますが、実はカーネギーホールには大小3つのホールがあり、日本人の多くがコンサートをやっているのはウェイルホールという最小のホールのようです。

世界中のだれもがイメージするカーネギーホールといえば、あまりにも有名なメインホールのことだろうと思われ、ここは2800席を超す歴史的大ホールです。
19世紀末のこけら落としにはチャイコフスキーが指揮台に立ったことや、多くの名曲の初演(例えばドヴォルザークの交響曲「新世界より」など)がおこなわれるなど、まさに数々の伝説を生み出したホールです。

ピアニストに限っても、ラフマニノフやホフマン、ルービンシュタインなど音楽歴史上の綺羅星たちがこのステージに立って熱狂的な喝采を受けるなど、まさに100年以上にわたり音楽の歴史が刻まれた場所です。

さて、カーネギーホールとは云っても、ウェイルホールは座席数268と、規模の点でもメインホールのわずか10分の1以下の規模で、これで「カーネギーホールデビュー」というのも、まあ言葉の上ではウソではないかもしれませんが、ちょっとどうなんだろうか…と率直な感覚として思ってしまいます。
260席規模のホールというのはマロニエ君の地元にも有名なのがありますが、ニューヨークどころか日本の地方都市の尺度でも、それはもうかなり狭くて小さいところです。

現在のカーネギーホールは市の非営利運営だそうで、お金を出せば誰でも借りられて、さらに料金はどうかした日本のホールよりも安いぐらいだそうで、実際には無名に近い日本人演奏家なども箔を付けるため続々とこのウェイルホールでコンサートをやっているという話もあります。
そんな実態を知ると、ここでリサイタルをやったからといって、有名雑誌までもがそんな過大表現に荷担しているようでもあり、かなり異様な感じを覚えてしまいました。

これだから今の世の中、信用できません。
かつての歴史や権威性がブランドと化して、合法的に大安売りされるといった事例は枚挙にいとまがなく、なんとなくいたたまれない気分になってしまいます。

個人的には、カーネギーのウェイルホールで小さなリサイタルをするよりも、日本国内でも、例えば東京なら、サントリーホールや東京文化会館の大ホールでピアノリサイタルをすることのほうが、遙かに一人の演奏家としての真の実力と人気が厳しく問われると思いますが。
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愛情物語

いつだったかタイロン・パワーとキム・ノヴァーク主演の名画『愛情物語』をやっていたので、録画しておいたのを観てみました。

子供のころに一度見た覚えがうっすらありましたが、主人公がポピュラー音楽のピアニストで、やたらデレデレしたアメリカ映画ということ以外、とくに記憶はありませんでした。
1956年の公開ですから、すでに56年も前の映画で、最もアメリカが豊かだった時代ということなのかもしれません。ウィキペディアをみると主人公のエディ・デューチンはなんと実在のピアニストで、その生涯を描いた映画だということは恥ずかしながら今回初めて知りました。

あらためて感銘を受けたのは、この映画の実際のピアノ演奏をしているのがあのカーメン・キャバレロで、彼はクラシック出身のポピュラー音楽のピアニストですが、昔は何度か来日もしたし、まさにこの分野で一世を風靡した大ピアニストだったことをなつかしく思い出しました。

最近でこそ、さっぱり聴くこともなくなったキャバレロのピアノですが、久々にこの映画で彼の演奏を聴いて、その達者な、正真正銘のプロの演奏には舌を巻きました。指の確かさのみならず、その音楽は腰の座った確信に満ちあふれ、心地よいビート感や人の吐息のような部分まで表現できる歌い回しが実に見事。まさにピアノを自在に操って聴く者の感情を誘う歌心に溢れているし、同時にその華麗という他はないピアニズムにも感心してしまいました。

タイロン・パワーもたしかある程度ピアノが弾ける人で、実際に音は出していないようですが、曲に合わせてピアノを弾く姿や指先の動きを巧みに演じてみせたのは、やはりまったく弾けない俳優にはできない芸当だったと思います。

映画の作り自体は、もうこれ以上ないというベタベタのアメリカ映画で、その感性にはさすがに赤面することしばしばでしたが、きっと当時のアメリカ人はこういうものを理想的な愛情表現だと感じていたのだろうかと思います。

画面に出てきたピアノはボールドウィンが多かったものの、一部にはニューヨーク・スタインウェイも見かけることがありましたが、実際の音に聞こえるピアノが何だったのかはわかりません。
ただ、この当時のピアノ特有の、今では望むべくもない温かな太い響きには思わず引き込まれてしまい、こんなピアノを弾いてみたいという気になります。

今から見てヴィンテージともいえそうな時代には、ボールドウィンやメイソン&ハムリンなど、アメリカのピアノにも我々が思っている以上の素晴らしいピアノがあったのかもしれません。

今でもそんな豊かな感じのするピアノがアメリカには数多く残っているのかもしれません。
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EX-L登場!

新シリーズに移行したシゲルカワイ(SKシリーズ)では、EXは果たしてどのようになるのか、刷新されるのか、別の流れなのか、その動きをなんとなく傍観していたのですが、なんと、SK-EXはすでにラインナップから消えていることがわかりました。

はじめにあれっ?と思ったのは、北九州にまもなくオープンするひびしんホールですが、そこには3社のピアノが納入されるということで、スタインウェイDとヤマハのCFX(九州初納入?)、そしてカワイのコンサートグランドが納入される由でした。
カワイのピアノ開きのコンサートのチラシを見ていると、及川浩治さんの演奏でピアノのお披露目リサイタルが催されるものの、ピアノは単に『KAWAI EX』としか記載されていません。

てっきり、スタインウェイDとヤマハCFXを入れるので、カワイは格落ちの従来型EXなのかと思っていたところ、どうもそうではないようでした。

シゲルカワイの新しいカタログにもSK-EXの姿はなく、あくまでSK-7がシリーズ最高機種として扱われており、それはホームページを見ても同様で、SKシリーズとしてはSK-2からSK-7に至る5機種で完結しています。ところがその横のコンサートグランドには『EX-L』という見慣れぬ文字があり、???と思ってそこをクリックしてみると、なんとEX-Lという名の新しいコンサートグランドが登場しており、ボディ垂直面の内側には新SKと同様のバーズアイの木目が貼られた、新SKシリーズで先行した仕様になっています。

価格もヤマハとまったく同じ19,950,000円!
さらには全長も新SKと同様に2cm伸びて278cmになっています。
しかし、なによりも最も驚いたことは、SK-EXの場合はサイドにまで入れられたくねくねしたムカデみたいなロゴと、何の意味も見出せないピアノ形のなかにSKという二文字を入れただけの稚拙なマークが廃止され、伝統的な「K.KAWAI」がドカンと復活している点でした。

K.KAWAIは言うまでもなくカワイ楽器の創設者にしてピアノ設計者の河合小市を意味するもので、これは昔からカワイのグランドピアノだけに与えられた表記でした。そしてこの新しいコンサートグランドでは、サイドにはシンプルにKAWAIの文字が遠目にも見えるように大きく輝いており、もともとこうあるべきだと以前から思っていたので、そのことは「マロニエ君の部屋」にも書いている通りでしたが、まるで願いが叶ったようでした。

これをもって、カワイのグランドピアノの頂点に位置する旗艦モデルは、あくまでもK.KAWAIであるというヒエラルキーになり、シゲルカワイはレギュラーモデルの脇に立つスペシャルシリーズという位置付けになったようです。
海外のコンクールでも、あのロゴマークだけはどうしようもなく恥ずかしかったので、今後は堂々と、あらゆるシーンで胸を張って活躍して欲しいものだと思います。
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吉田秀和翁

音楽評論の大御所にして最長老であった吉田秀和さんが亡くなられたそうです。
御歳98だったとのこと、まさに天寿を全うされたわけでしょう。

最後まで現役を貫かれたことは驚くべきで、レコード芸術の評論をはじめ、氏の文章には長きにわたってどれだけ触れてきたか自分でも見当がつきません。
テレビにも折に触れて出演されましたが、老境に入ってからドイツ人の奥さんが亡くなったときは生きる希望を失い、自殺も考えたというほどの衝撃だったというようなことも語られていたのが今も印象に残っています。

それでもやがてお仕事に復帰され、執筆活動はもとよりNHKラジオの番組(題名は忘れました)は40年以上にも渡って継続して番組作りから司会までこなされるなど、その深い教養と尽きぬエネルギーにはただただ敬服していたものです。

また東京芸大と並び立つ、日本屈指の音大である桐朋学園は、この吉田さんや斎藤秀雄さんの尽力によって「子供のための音楽教室」としてスタートし、吉田さんはここの初代室長を務められるなど、いわば桐朋の生みの親でもあるといえるでしょう。
ここから小沢征爾、中村紘子など後の日本の主だった音楽家が数多く巣立っていったのは有名な話です。

私事で恐縮ですが、マロニエ君が子供の時、この桐朋の「子供のための音楽教室」の福岡での分校のようなところで音楽の勉強の真似事のようなことができたのはとても懐かしい思い出です。

吉田さんが日本の音楽界に与えた功績はとても簡単には言い表すことのできない規模のもので、優秀なオーケストラとして名高い水戸室内管弦楽団を結成したり、音楽を超えたジャンルにまで及ぶ吉田秀和賞の創設など、言い出すと知らないことまで含めてとてつもないものだろうと思います。

しかし、マロニエ君が最も吉田さんの仕事として尊敬尊重していたのは、やはり音楽評論という氏の本業の部分であって、その人柄そのもののような穏やかで格調高い文章、音楽評論という場において日本語の美しさをも同時に紡いで表現されたその文体は、気品に満ちた独特の吉田節のようなものがあり、これは誰にも真似のできないものだったと思います。

吉田秀和といえばあまりにも有名なのが、初来日したホロヴィッツの演奏を聴いて、その休憩時間にテレビインタビューに応じられた際のコメントでした。覚えているのは「彼はもはや骨董品になったな。骨董品は価値のある人には価値があるが、ない人にはもうない。ただしその骨董品にもヒビが入った。もう少し早く聴きたかったな。」というものでした。
まったくの記憶だけで書いているので、多少違っているかもしれませんが、ほぼこのようなコメントだったことを覚えています。

この寸評はたちまち世に喧伝され、ついにはこの神にも等しい世紀の大ピアニストに対していささか不敬ではないか?という論調まであらわれたのを覚えています。しかし、マロニエ君は頑として吉田さんの意見に賛成でしたし、彼はまったく正しいことを言ったのだと思い続けたものでした。

この時のホロヴィッツはそのカリスマ性、伝説的存在、魔性、突然の来日、当時(1983年)5万円也のチケット代など、なにもかもが話題沸騰という状況で、そんな中をついにこの圧倒的巨匠がNHKホールのステージに姿をあらわしました。プログラムにもそれまで彼のレパートリーにはなかったシューマンの謝肉祭があるなど、テレビの前に陣取るこちらも高ぶる期待に胸を躍らせながら、その画面を固唾を呑んで見つめたものです。

しかし、その演奏は呆気にとられるような無惨なもので、この状況にあっては吉田さんのコメントはきわめて妥当で誠実、むしろ知的な抑制さえ利かせたものだったと思いますし、むしろ不自然なほど素晴らしい!と褒めちぎる日本人ピアニストなどの発言のほうがよほど偽善的で、そんなことを平然と言ってのける人の神経のほうを疑ったものです。

今は音楽批評とはいってもいろんな制約に縛られており、おまけに半ばビジネス絡みでやっているようなものですから、大半の批評はマロニエ君はもはや信頼していません。そして最後の良心の象徴であった吉田さんが亡くなられたことで、ますますこの流れに歯止めがかからなるような気がします。

いずれにしろ吉田さんの著作や生き様はいろいろと勉強になった上にずいぶん楽しませてもいただいたわけで、ご冥福をお祈りすると共に謹んで御礼を申し上げたい気分です。
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2つのオペラ

このところテレビ放映されたオペラを2つ観ました。
…正確には1つとちょっとと云うべきかもしれません。

ひとつはボリショイ劇場で上演されたグリンカのオペラ『ルスランとリュドミラ』。
序曲ばかり有名なわりには、一度も本編を観たことがなかったのでこれはいい機会と思って見始めたところ、どうしようもなく自分の好みとは相容れないものが強烈だったために、全体で4時間に迫るオペラの、わずか30分を観ただけで放擲してしまいました。

これでもかとばかりのくどすぎる豪華な舞台には優雅さの気配もなく、音楽もなんの喜びも感じられないもので、とりあえずDVDには録画して、いつかそのうちまた…という状態にはしたものの、たぶん観ることはないでしょう。
ちなみに開始前の解説によると、初演に臨席したロシア皇帝ニコライ一世もこの作品が気に入らず、途中退席してしまった由で、いかにもと思いました。

いっぽう、6年という期間をかけて全面改修成ったボリショイ劇場ですが、建造物はともかくとして、新たにスタートした新しい舞台の数々には共通したものがあって、これがどうしようもなくマロニエ君の趣味ではありません。

以前も同劇場の新しい『眠りの森の美女』をやっていましたが、このルスランとリュドミラと同様の違和感を感じました。とくにやみくもに豪華絢爛を狙い、深みや落ち着きといったもののかけらもないド派手な装置や衣装は、目が疲れ、神経に障ります。新しいということを何か履き違えている気がしてなりません。

もうひとつはフランスのエクサン・プロバンス音楽祭2011で収録された『椿姫』でした。
マロニエ君は実はこの演目の名を見ただけで、あまりにもベタなオペラすぎて観る気がしないところですが、エクサン・プロバンスという名前にやや惹かれてつい観てしまいました。

というのもこのオペラの有名なアリア「プロヴァンスの海と陸」の、そのプロバンスで上演された椿姫ということになるわけですね。椿姫の恋人であるアルフレードはプロバンスの出身という設定で、第2幕ではヴィオレッタとの愛に溺れた生活を送る息子を取り返しに来たアルフレードの父親が、故郷を思い出せという諭しの意味を込めながらこの叙情的な美しいアリアを歌います。
あらためて聴いてみると、しかしこのアリアはやはり泣かせる名曲だと思いましたが、椿姫そのものが、全編にわたって名曲のぎっしり詰まった詰め合わせのようだと思わずにはいられませんでした。

ナタリー・デセイの椿姫、アルフレードはチャールズ・カストロノーヴォと現在のスター歌手が揃います。さらにはアルフレードの父親はフランスの名歌手リュドヴィク・テジエ、しかもフランスで上演されるオペラなのにオーケストラはなぜかロンドン交響楽団というものでした。

ジャン・フランソア・シヴァディエによる演出は、ご多分に漏れず舞台設定を現代に置き換えた簡略なもので、マロニエ君はこの手のオペラ演出を余り好みません。
やはり筋立てや出演者のキャラクターが、現代にそのまま置き換えるには随所に齟齬を生み、違和感があり、説得力がないからで、それは音楽においても舞台上の進行との密接感が損なわれるからです。

このような現代仕立ての演出の裏には、伝統的なクラシックな舞台を作り上げるためのコストの問題があるらしく、非日常の享楽であるべきオペラの世界までもコストダウンかと思います。
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楽器と名前

ストラディヴァリやグァルネリのようなクレモナの由緒あるオールドヴァイオリンには、それぞれに来歴やかつての所有者にちなんださまざまな名前が付いています。

そのうちの一挺である「メシア」は数あるストラディヴァリウスの中でも、ひときわ有名な楽器で、それは300年もの年月をほとんど使い込まれることもなく、現在もほぼ作られた当時のような新品に近い状態にある貴重なストラディヴァリウスとして世界的にその名と存在を轟かせています。
「メシア」の存在は少しでもヴァイオリンに興味のある人なら、まず大抵はご存じの方が多いと思われますし、マロニエ君ももちろんその存在や写真などではお馴染みのヴァイオリンでした。

現在もイギリスの博物館の所有で、依然として演奏されることもなくその美しい状態を保っているようですが、その美しさと引き換えに現在も沈黙を守っているわけで、まずその音色を聴いた人はいないといういわく付きのヴァイオリンです。

高橋博志著の『バイオリンの謎──迷宮への誘い』を読んでいると思いがけないことが書かれていました。それは「メシア」という名前の由来についてでした。

19世紀のイタリアの楽器商であるルイジ・タシリオはこの美しいストラディヴァリウスの存在を知って、当時の所有者でヴァイオリンのコレクターでもあったサラブーエ伯爵に直談判して、ついにこの楽器を買い取ることに成功します。
普段はパリやロンドンで楽器を売り歩くタシリオですが、この楽器ばかりは決して売らないばかりか、人に見せることすらしなかったそうです。自慢話ばかりを聞かされた友人が「君のヴァイオリンはメシア(救世主)のようだ。常に待ち望まれているが、決して現れない。」と皮肉ったことが、この名の由来なんだそうです。

あの有名な「メシア」はそういうわけで付いた名前かということを知って、ただただ、へええと思ってしまいました。

ピアノはヴァイオリンのような謎めいた楽器ではありませんけれども、古いヴィンテージピアノなどには、このような一台ごとの名前をつけると、それはそれで面白いかもしれないと思います。

そう考えると、自分のピアノにもなにかそれらしき根拠を探し出して、いかにもそれらしき名前をつけるのも一興ではという気がしてしまいました。自分のピアノにどんな名前をつけようと何と呼ぼうと、それはこっちの勝手というものですからね!
巷ではスタインウェイを「うちのスタちゃん」などと云うのが流行っているそうですが、せっかくならもうちょっと踏み込んだ、雰囲気のある個性的な名前を考えてやったほうが個々の楽器には相応しいような気もします。

名前というのは不思議なもので、モノにも名前をつけることでぐっと親密感が増し、いかにも自分だけの所有物という気分が高まるものです。こういうことは度を超すとたちまちヘンタイ的ですが、まあ、ひとつふたつの楽器に名前をつけるくらいなら罪もないはずです。

みなさんも気が向いたらピアノに素敵な名前をつけてみられたらどうでしょう?
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基本は同じでも

先週末はフランス車のクラブミーティングがあってこれに参加しましたが、この日はとくに同一車種が集合するというテーマが設けられ、とくに該当する車種だけでも5台が集まりました。

さて、同一車種が5台とは云っても、実は1台として同じ仕様はなく、エンジン、ボディ形状、サスペンション、A/T、生産時期などがすべて異なり、各車のテストドライブではそれぞれの違いが体感できて、貴重な体験となりました。

クルマ好きが集まっての「車前会議」が思う様できて、なおかつ自由に試乗もできる環境ということで、昔からしばしば利用している福岡市西区の大きな運動公園の駐車場が今回も会場となりました。
ここは広大な敷地があって、出入り自由な駐車場も第3まである余裕の施設で、おまけに駐車場は美しい芝生になっているので、このような目的には恰好の場所となっています。

同一車種であるために、5台の基本的な成り立ちはもちろん共通していますが、上記のような仕様の違いは車にとって無視できない違いを生み出しており、一長一短、それぞれに個性があって、こんなにも違うものかと思いました。

なんとなく、これはピアノにも共通していると思われることでした。
基本が同じ設計のピアノでも、材質や使われるパーツの仕様、技術者の違い、管理の仕方によってほとんど別物といっていい差異が生じるのは、むしろ車どころではないという気もします。

とくにピアノで大きいのは技術者の技量と仕事に対する姿勢、そして管理による優劣だろうと考えられます。
ピアノは車のような純然たる工業製品でなく、楽器というデリケートかつ曖昧な植物のような部分を多く内包しているため、技術者の技術力とセンスに多くを委ねられているわけです。

車や電気製品なら機能も明確で、故障や不調は明瞭な現象としてあらわれますが、ピアノのコンディションはきわめて微妙な領域で、判断そのものからして専門的になるので、どこからを好ましからざる状況だと判断するかは価値観によるところもあって大変難しいところといえるでしょう。

好調不調のみならず、そこには好みの問題も加味され、これを受け止めつつ常時ある一定の好ましさに維持するのは、もっぱら技術者の腕ということになりますし、どこまで要求し納得するかは使い手の精妙なるセンサーに頼るしかありません。
さらには、いかに使い手が一定の要求をしても、一向にそれを解さず、あるいは面倒臭がって仕事として着手しない技術者が少なくないのも現実ですし、逆にそういう領域にまで踏み込んだ高度な調整を施しても、まったくその価値に鈍感な使い手もいたりと、このあたりがピアノという楽器のもつ難しさなのかもしれないという気がしてしまいます。

車ぐらいの分かりやすさがあれば、必然的にもっと素晴らしいピアノの数も増えることだろうと思います。
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