偽造楽器

マロニエ君の友人にはフルートが好きで、いまだ独身であるのをいいことに、何本ものフルートを収拾している馬鹿者がいます。
それもありきたりのフルートではなく、パウエル、ヘインズ、ハンミッヒ、ルイロット、ムラマツといった世界に冠たるメーカー品ばかりです。

ところがフルートのような小さな楽器というのは、価値の高いとされる昔の名工の作品など、いわゆるヴィンテージ楽器になるとニセモノをつかまされるという危険性が付きまといます。
完全な模造品もあれば、中にはニセモノではないものの、いくつかの本物の楽器のセクションをつなぎ合わせただけといったいかがわしいものなど、なにかしら疑念の残るものがあったり、あるいは何人ものオーナーの手を経るうちに勝手な改造がほどこされていたりと、このあたりになると実に怪しい、人間不信になるようなダーティな世界に突入してしまいます。

さらに恐ろしさもケタが違うのはヴァイオリンなどの弦楽器で、よほど出所やルーツが確かなものでないと、うっかりニセモノに天文学的大金を支払って購入するなんてこともあるわけです。
現実にストラディヴァリウスやグァルネリといった名を語る精巧なコピー楽器も出回っているとかで、どうかすると鳴りも本物並みのものさえあったりするとかで、虚実入り交じる、まったく恐ろしい世界のようです。一挺が途方もない金額の世界ですから、さぞやニセモノ作りにも熱が入るということでしょう。

その点では、ピアノ好きは自分の楽器が持ち運びできないという決定的なハンディがある反面、まさかピアノのニセモノなどというのはないから、その点ではずいぶんと健全な世界だと思っていました。
恐いのはせいぜい好い加減な修理をされたブランド楽器が、本来の能力を発揮できないような出鱈目な状態で、高値で販売されるというぐらいのもので、楽器本体がニセモノなんていうのは見たことも聞いたこともありませんでした。

ところが、つい最近聞いたのですが、ある技術者の方の話によると、スタインウェイの模造品というのがあって、現にその方がそれを一度買ってしまい、手許に届いてニセモノとわかり大騒ぎになったことがあるという話でした。これにはさすがのマロニエ君も、まさかそんな事があるのかと驚いてしまいました。
それは楽器に無知な人の仲介によってアメリカから輸入されたピアノだったそうなのですが、鍵盤蓋のロゴマークはもちろんのこと、フレームにまでちゃんとそれらしい立体的な文字まであるという手の込んだものだったそうです。

仲介者も含めて騙されたということが判明し、なにがなんでもその人が責任をとろうとしたらしいのですが、悪意でないことは明白だったので、結局双方で痛み分けということになり、そのピアノはそれを承知の上で購入した人があったとか。
可笑しいのは、その偽スタインウェイが、そう悪くはないそれなりのピアノだったということでした。

こんな話を聞いてしまうと、そのうち、ご近所の大国あたりからこういう冗談みたいなピアノが出てくることも、可能性としてはじゅうぶんあり得そうな話ですね。現に冒頭の友人のフルートコレクションの中には、ヘルムート・ハンミッヒのスタイルを真似ただけの、例の国の粗悪品もあるということです。
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島村楽器

天神に出たついでに、久しく行っていなかった島村楽器を覗いてみました。
このビルの同じフロアには以前、銀座山野楽器が入っていて、マロニエ君もずいぶんCDを買ったものですが、すでに撤退して久しく、いまはその面影もありません。

山野が出店していた場所のすぐ近くに島村楽器ができたのはいつごろのことだったでしょうか。
そのころはポピュラー音楽系の楽器などがメインでしたが、その後売り場を拡大してピアノなどを置くようになりました。

ずいぶん久しぶりでしたが、その理由のひとつは商業施設ビルの5階にあるためわざわざそこへ上がらねばならず、通りすがりにちょっと立ち寄る感じというわけにはいかないためです。
知らぬ間に売り場面積はいよいよ拡大したようで、とりわけギター関連の商品の充実は著しく、まさしくぎっしりと並べられていて、これは以前に書いたパルコに出店している何とかいう楽器店の向こうを張った処置だろうかと思われました。

そのすぐ隣がピアノと電子ピアノと、あとはヴァイオリンやフルート、楽譜など、片方のポピュラー系に対してこちらがクラシック系というような感じになっています。
マロニエ君は元来こちらにしか興味がないものの、しかしギター関連の品数もただ事ではない数なので、思わず店内を一巡してみましたが、いやはや色とりどりのさまざまなギターなどが立錐の余地もないほど展示されている様は壮観でした。

ピアノ関連の売り場とは壁一枚隔てており、いちおうの区別がしてあります。
こちらのほうがとくに売り場面積が増えているようで、平面には実にさまざまな電子ピアノがズラリと置かれており、本物のいわゆる生ピアノは何台あったか詳しくはわかりませんが、少なくともグランドは2台ありました。

一台はプレンバーガーの新品で、もう一台はスタインウェイのS(奥行き155cmの最小グランド)が展示してあり、これはシリアル番号から察するに実に70年ほどの前のピアノですが、見たところ完全なオーバーホールがされていて、塗装もなにもかもがピカピカで、何も知らない人が見れば新品と思うような美しい仕上がりでした(もちろんこれは見た限りの話です)。
タッチや音は弾いてみないとわかりませんが、店のちょっと奥には店員が3〜4人じっと待ちかまえているのがわかったので、とてもそんなことをする勇気はありません。

とくにピアノ関連の売り場というのはお客さんが少ないので、一人でも入店するとたちまち注目の的になってしまいますが、できることならもう少しだけ自由に商品を見られる雰囲気を与えてくれたらと思います。あまりにも「待ちかまえている」といった格好なので、あれではよほど気の強い人か図太い神経の持ち主、あるいは買う気満々の人でなければ、ゆっくり見て回って、ましてや音を出してみるなんて事はできませんから、もしマロニエ君が経営者ならちょっとスタンスを変えてみるかもしれません。

まあ、そうはいっても、こっちは見るだけなので、よけいにそこのところが痛切に感じられてしまうのかもしれませんが…。それでもそのスタインウェイのSがあまりにきれいな仕上がりだったので、ちょっと感心してジロジロみていると、店員の中から一人の女性が、まるで意を決したナンパ師のように決然とこちらに歩み寄ってくるのがわかりました。
「グランドピアノをお探しですか?」と声をかけられてしまいました。

「ちょっと見せていただいているだけです」と答えたら、どうぞ!と笑顔で少し距離を置いてくれました。
でも結局は話しかけられたお陰でザウター(南ドイツのピアノメーカー)のオールカラーの分厚くて立派なカタログをもらってしまいましたので、結果的にはラッキーでした。

この島村楽器は関東ではかなり輸入物のピアノ販売にも力の入った会社なので、できることならせめてグランドを5〜6台は置いてほしいところです。というのは、いくら店構えが大きくてもグランドが2台ではいわゆる専門店というイメージには至らず、たんに主力の電子ピアノの脇に本物の高級品もいちおう置いてますよという印象しか抱けません。
それが一定数まとまればお客側にもインパクトとなり、専門店としての認識も得られ、ひとつの勢力にもなるような気がしますが…そのためには天神の一等地では難しいかもしれませんね。
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駐車場劇場

駐車場といえば、おかしな話を思い出しました。

過日、天神のいつも利用するソラリアビルの駐車場に車を止めようと入りましたが、いつになく混んでいてなかなか空きがなく、通常より上の階まで来てしまいました。

ある車がヘッドライトをつけているので、さすがにその車は出るのだろうと思い、近くで待機していましたが、待てど暮らせど動く気配がありません。
また例の意地悪かと思って少し近づくと、車内で60ぐらいの男性が携帯電話をいじっていましたが、マロニエ君と視線が合うなりヘッドライトが誤解のもとだと気が付いたとみえて、パッとライトを消してしまいました。

そのうち、別の場所が空いたので、そこに止めて車を降り、エレベーターホールに向かいましたが、さっきのおじさんはまだ車内で携帯を操作中でした。

さて、それから約1時間半後、用事が済んで車に戻るとまだその車がいるので、「まだいるんだ…」と思ったと同時に、なにやらただ事ではない様子の人の声が響いてきました。

声の方向はその車の後ろの壁のあたりからで、いつの間にか女性が現れていましたが、その女性相手にさっきのおじさんがたいそう興奮した様子で必死に詰め寄り、大声で文句を言っています。
直感で、痴話げんかであることがわかりましたが、根が野次馬のマロニエ君ですからこういうことは当事者には悪いのですが嬉しくなるほうで、こりゃあなんともジャストタイミングなところに出くわしたもんだと咄嗟に我が身の幸運を思い、できるだけ気づかれないよう、自分の車までの長くはない距離を、まるで時間を惜しむように歩きました。

こちらの好奇心とは裏腹に、当人達はかなり深刻な様子で、言葉の感じからどうやら女性に別の愛人がいるようで、そのためにそのおじさんは自分のお金まで勝手に使われて、怒り心頭して張り込みを決行し、ついにこの女性をキャッチしたという、まさにそんな場面のようしでした。
思いがけない出来事に遭遇し、はじめはこちらもつい興奮してしまいましたが、事情がわかるにつれだんだんそのおじさんが可哀想になりました。
こういう場面で男が、腹をくくった女性に挑んでも負け戦になることは目に見えています。

マロニエ君が自分の車に乗ってエンジンをかけるころには女性のほうがサッとその場を離れ去り、おじさんは仕方なく一人自分のベンツに乗り込みました。
ベンツの立派な顔が泣いているようでした。

「俺は一生懸命オマエに尽くしてきた!」「あの金はどうしたのか!」「ここで何時間待ったと思ってるのか!」というおじさんの切羽詰まった声がいつまでも耳に残りました。
いらいその駐車場に行くと、そのおじさんはその後どうしたんだろうと思い出してしまいます。
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駐車場の暗闘

土日など非常に混み合った駐車場では現代人の嫌な習性を目にすることがよくあります。

満車状態の場合、どこか出ていく車はないものかとほうぼうで待機している車があるのは、どこでもよく目にする光景です。
駐車場内が一方通行になっているところも珍しくありませんが、ある場所から車が出ていって空きができると、こちらもそこに止めようとするわけですが、いきなり向こうから逆走してきて、強引に場所を取られたりすることがあります。

みんな空くのをじっと待っているのに、なんともお行儀のいい話です。
だいたいそんな事をするのは、ゴテゴテ飾りを付けた御神輿みたいな軽自動車か、はたまたいかにも中古で買って、派手なパーツだけくっつけて乗り回しているような年式遅れの「新車の時は高級車だった車」などがよくありますね。
それよりも気分的にいやなのは、買い物袋などをさげて車に戻ったにもかかわらず、乗ってから異様なほど時間をかけてまるで動こうとしない、明らかにいじわるな性格の人が少なくないということです。

こちらが待っていて、出たらそこに止めようと思っているというのが状況的に向こうにもわかるから、なおさら、どうでもいいようなことで最大限時間を取ってなかなか動こうとしません。
後ろを向いて荷物の整理のようなことをしたり、子供の世話のようなことをしたり、バッグの中をいじりまわしてみたり、まあとにかくいろんなことがはじまります。
ひどいのになると、さあいよいよもう終わりだろうと思いきや、今度は携帯電話をチェックしはじめたりします。こうやって動かないいじわるをするのは女性のほうが多く、このときの粘りは大したものです。

もういい!と思ってこちらも場所を変えたりすると、意地悪の対象がなくなってつまらないのか、あっけなく動き始めたりしますから、余裕があるときはこちらもテクニックとして一度姿を消してみせたりします。

とくにひどいのは、一見普通の主婦層で、だいたいユニクロかなにかのパンツをはいていて、小中学生ぐらいの子供がいて、表情も普通にしててもどこかイライラしているような、あのタイプですね。
たいていワンボックスやワゴンタイプなど、どう見ても「あなたには大きすぎるのでは…」と言いたくなるような車を顎を突き出して二階から運転するみたいに乗っています。

あるとき、180度方針転換して相手に一声話しかけてみる作戦にでました。
車に戻ってきた人へ窓越しに「すみません、出られますか?」ときくと、一瞬意外な顔をしますが、なんとも素直に「はい、でます!」と返事して、車に乗るなりえらく速やかに車を発進させてくれます。

みんな根は悪い人ではないのでしょうが、それだけに人の心理というのは、ほんとうにちょっとしたことなんですね。
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松葉ぼうき

「松葉箒(全国的には「熊手」というようですが、博多では昔からこう呼びます)」はどこにでも売っている落ち葉を掻き集めるための箒ですが、これにも良し悪しがあるのです。
これまではホームセンターなどで買ってきたものを普通に使っていましたが、あるとき知り合いから一本の松葉箒をもらいました。

なんでも近くに住む老人が好きで作っているというもので、毎年数本ほどもらっているのだそうですが、見た目がまずなんとなく繊細で上品な感じだなあというのが第一印象でした。

ところが驚いたのは実際に使ってみたときの絶妙の感触でした。
箒の先が地面に当たりこちらに引き寄せようとするときに、なんともいえないわずかな弾力があって、やわらかくしなるように作ってあるのです。このしなりがあるために使い心地が良いだけでなく、地面(とくに苔など)を必要以上に傷つけず、使い手も掃くたびに手や肩につたわる小さな感触に丸みが加わって、疲れがとても少ないわけです。

しばらくこれを使ってみて、またもとのホームセンターの松葉箒を使ってみると、そのいかにもラフでがさつな感触にすっかり嫌気がさしました。見た目はいっぱしですが、やたらと固いばかりでしなやかさというものがなく、掃いたあとも粗っぽい感じがします。
使い心地の悪さがあまりに明らかで、いらいこの一本しかない松葉箒を大事に使うようになりました。

ところがつい先日のこと、他の用でホームセンターにいったところ、金属の柄の先に柔らかいプラスチックを使った松葉箒が売っていました。価格は竹のものに較べて3倍ぐらいするし、見た目は柄は緑、先はプラスチック特有のオレンジ色でなんとも趣がありません…というかはっきり言って下品です。
しかし、店の床(フローリング)で感触を試してみたところ、あの手作りの松葉箒にも似た優しい弾性があって、これは良さそうだと感じ、とりあえず買ってみることにしました。

翌日、さっそく期待を込めて試してみたところ、しかし結果は「まあまあ」というレベルに留まりました。
弾性がある点は予想通りよかったのですが、プラスチック特有の感触が竹に較べてなんとも無機質で味がなく、一番の違いはそれまで意識したこともなかったことですが、竹の松葉箒はひと掻きするたびに竹から発せられるシャアシャアという乾いた音がするのに対して、プラスチックはほとんど無音なのです。

たかが落ち葉を掃くための松葉箒にも、実はこういうこまやかな、一見どうでもいいような風情があるわけで、人は無意識のうちにいろんなことを感じているものだということがわかりました。

マロニエ君はこれまで枯葉を掃く箒の音にも風情があるなんて考えてみたこともありませんでしたが、実際にこうして音のしない松葉箒を使ってみると、そういう何気ないことが人の心に伝わる感覚にはとても大切なのだということがわかりました。
たかだか箒ひとつにも味わいというものが、あるいは道具には微妙な使い心地というのがあるようです。
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自己愛性人格障害

精神分析によって一人の音楽家を論じる本を読んでいると、注目すべき記述が目に止まりました。

マロニエ君は以前、ある人物とほとんど不可抗力的に関わりができるハメになり、一目見たときから強烈な苦手意識と嫌悪感が、まるで電流のように全身を走ったのを今でも覚えています。
こういう第一印象はどんな理屈よりも確かなもので、むろん覆ることはありませんでした。

もともと棲む世界のまったく異なる、出会うはずのない人物で、幸いにしてその人とのご縁も既に消滅し、ホッとしているところですが、考えようによっては哀れを誘うところもありました。
むろん具体的なことは一切書きませんが、世の中にはこういう人もいるのかと社会勉強にさえなったというところでしょうか。

さてその本を読んでいると、まさにこの人のことではないかと思えるような下りがあり、一般論としても非常に興味深いことだったので、ちょっとご紹介してみようと思います。

その章では医学的に言う「自己愛性人格障害」という精神科領域の問題を取り扱っており、著者が精神科の現役の医師であるところから、個人的な性格の範疇ですまされるか、あるいは加療を要する精神疾患の領域とみなすかという区分のための症例が、分析的に整理・表現されています。
自己愛性人格障害の診察基準として次の9つの項目を列挙しており、これに5つ以上該当すればこの症状だと医学的に診断認定されるそうです。

1)自分の重要性に関する誇大な感覚。(例:業績や才能を誇示する。十分な業績がないにもかかわらず、自分が優れていると認められることを期待する。)
2)限りない成功、権力、才気、美しさ、あるいは理想的な愛の空間にとらわれている。
3)自分が「特別」であり、独特であり、他の特別なまたは地位の高い人達にしか理解されない、または関係があるべきだと、と信じている。
4)過剰な賞賛を求める。
5)特権意識、つまり特別有利な計らい、または自分の期待に(他者が)自動的に従うことを理由なく期待する。
6)対人関係で相手を不当に利用する、つまり自分自身の目的を達成するために他人を利用する。
7)共感の欠如:他人の気持ちや欲求を認識しようとしない。またはそれに気付こうとしない。
8)しばしば他人に嫉妬する、または他人が自分に嫉妬していると思いこむ。
9)尊大で傲慢な行動、または態度。

果たして、冒頭の人物は5つどころか、なんとほぼすべてに該当すると思われ、なるほどあれは病理的な根拠のある病気だったのかと思えばいくらか納得もでき、今は陰ながらご同情申し上げるしだいです。

自己愛がとりわけに障害に結びつくのは、「誇大な自己が危機的状況になったとき」だそうです。
簡単に言えば危機的状況になったらなんらかのかたちで大暴れするというわけでしょう。

また、「自分の弱さを隠したい人は威嚇的な言動をとる」さらには「自己愛性人格障害の患者は、自己不信を補強するために誰にでも見えるような外的価値に強く依存する」というのはまったくもってなるほどと思いました。

みなさんのまわりにも程度の差こそあれ、こういう人物がいるかもしれません。
もしお付き合いに苦痛を感じる人がいるときは、ちょっと上記の9項目をチェックしてみられたらどうでしょう?
決して貴方が間違っているのではなく、相手が精神疾患ということがあるようですよ。
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ピアニストは世襲?

最新号のクラシック音楽関連の雑誌は、どれもほとんどショパンコンクールを巻頭で特集しています。
どれか一冊は買おうと思って見くらべてみた結果、その名にかけて力の入った特集を組んだと見えて、雑誌ショパンの12月号が最も読み応えがありそうなので、これを買いました。

音楽の友はややおざなりな感じがするし、先月のスタインウェイ特集で印象を良くしていたモーストリー・クラシックは、予想に反して先月ほど充実した特集とは思えなかったので、いずれも立ち読みだけにしました。

ショパンコンクールの結果についてはいまさらどうこう言うつもりはありませんが、ファイナリストのひとりひとりへのインタビューを読んでいると、ちょっと気になる発言がありました。
今回は2位が2人いるのですが、そのうちのひとり、ロシアのルーカス・ゲニューシャスの発言です。

『いろいろな演奏会のお話もいただけて、自分の求めていたものが得られました。僕はこのコンクールに1位をとるためにきたわけでも、膨大な演奏会契約が欲しくてきたわけでもありませんから。それに「2位」のほうが、もしかしたら音楽業界ではより魅力的な位置かもしれない。』

──???
3つの発言はすべてが矛盾しているように感じますし、それなら自分の求めているものとはなんなのでしょう? しかも2位という結果が出たあとから「1位をとるためにきたわけではない」というようなことを未練がましく言うあたりが、こちらからすればいかにも見苦しい。
「膨大な演奏会契約が欲しくてきたわけでもありません」と言ったかと思うと、「2位のほうが、もしかしたら音楽業界ではより魅力的な位置かも」などと、次々に妙なことを言う青年です。

現代では、個々の演奏家が自らの修行とか音楽芸術に没頭することより、わずか20歳の若さで、こういう建前&業界人のようなことを平然と口にすることも珍しくはないのかもしれません。氾濫する情報をもとに手堅いプランを練り、したたかに自分の進む道を計算しているみたいで、あまりいい気はしませんでした。
すでに今後の自分を音楽ビジネスのタレントとして捉えているのか、若いのになんとも抜け目ないというか、こういう言葉を聞くと、すでにこの人のピアノを聴いてみたいという気が起きなくなってしまいます。

実はこの人、かのヴェラ・ゴルノスターエヴァ(モスクワ音楽院の有名な教授)の孫なのだそうで、本人曰く『僕がピアノをはじめたのは、本当に自然の流れでした。親類縁者、過去までさかのぼって見まわして、家族の90%が音楽家です。たぶん、音楽家でないのは今は2人しかいないかな。この状況になると、音楽家にならないほうが難しい。』と自信満々に言っていますが、サーカスの一座じゃあるまいし、マロニエ君は過去の経験から、こういうたぐいの出身の人というのをあまり信用していません。
代々音楽一家というようなところから出てきた人というのは、一見いかにもサラブレットのようですが、実は意外に大した人はいないものです。

これは政治家や俳優でも二世三世というのがもうひとつダメなのと同じ事のような気がします。
たしかに環境の力によって、人よりも優れた教育を早期に効率的に受けるチャンスも多いので、才能があればそこそこには育つのですが、本物の音楽家や天才というのは(ようするに芸術家は)、どこから出てくるかわからない、いってみれば存在そのものが奇跡的なものなのです。
つまり、とくだんの理由や必然性もないところから突然変異のようにして姿を現す本物の才能というのは、やはりそのスケールがまるで違うというのがマロニエ君の見解です。
音楽一家だの政治家一家だのというのは、ほとんど場合、親を追い越すこともできません。

まあそれが通用するのはせいぜい梨園ぐらいなものでしょうが、こちらもいま騒がしいようですね。
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ピアノの置ける物件

知人がグランドピアノ購入を決断したことはこのブログの11月9日付けで既に書いた通りです。
ピアノはおそらく日本に向っている最中だと思われますが、知人はすでに新しい部屋探しをはじめたようです。

聞くところでは、不動産屋に行ってピアノの置ける物件を探しているという意向を伝えると、何故かグランドかアップライトかをしきりに聞いてくるそうです。
どちらでもピアノはピアノであるはずなのに、思いがけない質問を受けて知人は困惑したらしいですが、仕方がないので「家庭用の小さなグランド」というふうに控えめに答えたとか。

ところがマロニエ君も今になって知ったことですが、ピアノOKのマンションでもグランドはダメというところがあるんだそうです。
理由は明確な根拠があるわけではなく、専らオーナーの意向だとか。やはりグランドピアノというと言葉の響きも手伝って、アップライトより大きくて、本格的で、音もうるさいというイメージなんだろうと思います。

驚いたのはもう一つの理由です。グランドのほうが重量も重いうえに足が3本で、一本当たりにかかる重量が大きくなるというもので、あまりにくだらなくて呆れてしまいました。
現に大きな131cm級のアップライトピアノに比べると、小型のグランドのほうが重量も軽いことがあるわけですし、部屋の隅などに重量物を偏って置くよりは、より床を広く使って満遍なく重量をかける方が構造力学的にも遙かにバランスが良く、結果として傷みも少ないように思いますが。
さらに、きちんとインシュレーター(足の車輪を乗せるお皿)を使えばピンポイント的に重量がかかることもないし、だいいちピアノを置いたぐらいで床がどうかなるなど、いまどきの鉄筋建築でそんなことってあるだろうかと思いますが。

マロニエ君にいわせると、そんなことよりも誰が弾くかという点こそが問題で、ピアニストは論外としても、本格的にピアノを学ぶ子供や受験生・音大生などなら練習量も多く、警戒されるのは当然かもしれませんが、趣味の勤め人が、たまの仕事の休みに1、2時間弾くのならそう目くじらをたてるようなことではなかろうと思います。
もちろん弾く時間帯などの近隣への配慮が大切なことはいうまでもありませんが。

不動産屋によるとその判断は、各物件のオーナーの理解度にかかっているとのことだそうです。
トラブルや床の破損を避けたいという心情はわかりますが、現実的に今、賃貸マンションの入居率は猛烈に低く、家主は入居者の獲得に躍起になっていると聞きますから、あまり厳しいことを言っていては大事なお客さんを逃してしまうことになるようにも思いますけど…。

現にマロニエ君の友人が居住しているマンションは、ほぼ都心部の、電車の駅も歩いて5分という好立地にもかかわらず、みごとに3分の2が空室になっていると聞きます。

ある知り合いなどは、何の相談もせずにマンションにグランドを運び込んで子供が弾いているそうですが、とくになにも問題はないそうですから、すべてとはいいませんが意外と黙ってそうすればすんなりいくということもあるかもしれません。
管理者のほうの心理も、あらたまって許可を求められると、逆に不安になってつべこべ言ってしまうのかもしれませんね。
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ドラマ『球形の荒野』

TVドラマといえばもうひとつ。

先月下旬、フジテレビで2夜連続の松本清張ドラマ『球形の荒野』というのがあり、録画していたので観てみました。
ドラマ自体はマロニエ君にとってはあまり面白いものではなく、やたら冗長なばかりで流れが悪く、なんのために2夜仕立てにしたのかも説得力がなくて、決して出来がいいとは感じませんでした。
ところが本編の内容とは直接関係のない部分で、思いがけず感銘を受けてしまいました。

ドラマは2夜合わせて4時間を超えるもので、内容は太平洋戦争末期、敗戦が色濃くなった日本は隠密裡に敵国側との終戦工作をします。その矢面に立ったことで自らの存在さえも抹消され、やむなく家族と離ればなれになった一人の男とその妻子の苦悩を軸としたストーリーでしたから、わりにシビアで社会性の強い内容でしたが、全編を通じて流された音楽はすべてがバッハであったのは驚きでした。
それもごく一部に無伴奏チェロ組曲と管弦楽に編曲されたシャコンヌがあった他は、大半はグールドのピアノによるバッハだったのはちょっとした聴きごたえがありました。ピアノ協奏曲第1番のニ短調がドラマ全体を支配し、他にもパッと思い出すだけでもゴルトベルク変奏曲、パルティータ、平均律、フーガの技法など、これでもかとばかりのバッハ三昧、グールド三昧の4時間強でした。

クレジットにはバッハの名もグールドの名も一切出てきませんでしたが、グールドの比類ない鮮やかなタッチとセンスはいやが上にもそれとわかりますし、彼の弾く古いニューヨーク・スタインウェイの独特な黄金のハスキーヴォイスにも思わずため息が出るばかりでした。

ドラマを観ながらにしてこれだけグールドを聴くというのは、普段CDで聴くのとはまた違った新鮮さがあり、あらためてこの天才に酔いしれました。とりわけフーガの技法の深遠な美しさは思わずゾッとするようでした。
いまさらながらクラシック音楽、わけてもバッハの偉大さを痛感し、これだけの遺産を過去から受け取っておきながら、今何故クラシック離れなどが起きるのか、まったく理解できないという気になってしまいます。

もう一つは、時代設定が東京オリンピックの開幕直前の1964年というものでしたが、小道具のひとつとして日本を代表するグラフィックデザイナーである亀倉雄策氏の作である、東京オリンピックの公式ポスターが随所にあしらわれていましたが、いま見ても感嘆する他はないその圧倒的な美しさと存在感、和洋を融合させ、簡潔な美の世界を凝縮させた気品と芸術性には深い感銘を新たにしました。
これに較べると、最近のオリンピックのポスターやロゴは似たような書き文字ばかりで、こういう本物の芸術家が大舞台で腕をふるうということがなくなってしまったようです。

テクノロジーの分野はものすごいスピードで進化している現代ですが、芸術の分野は停止どころか、後退しているのではなかろうかとつい思ってしまいました。
振り返れば、バッハもグールドも亀倉雄策も遙か昔の人物ですが、なんとも圧倒的な才能を縦横に駆使して、人を無条件に黙らせるような偉大な仕事をしたのかと思うと、現代の芸術家はあまりにも小さくなったように思います。
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NHKドラマより

ピアノが出てくるという予告に反応して、NHKの『心の糸』というドラマを録画していました。
ところが、内容はてんでマロニエ君の好みではなく、実はまだ最後まで見通してもいません。

主人公の男の子は母親と二人暮らしですが、ピアノが上手く、もっか芸大を目指す高校生で、狭い借家にグランドピアノを置いて練習に励んでいます。
母親はろうあ者で、聞くことも話すこともできないのですが、息子の練習中、床にそっと手を当てて、その振動で息子の弾くピアノを感じ取っています。

母親は息子を立派なピアニストに育てるという一念で、障害者であるにもかかわらず、必死に海産物の工場で身を粉にして働いており、暮らしは決して恵まれてはいません。

そんな中、主人公がピアノのレッスンに行った折、いかにもというツンツンした感じの女の先生が自分のリサイタルのチケットを強制的に買わせるため、各生徒に振り分けているのですが、彼には「(事情を配慮して)普通よりも少なくしてあるから安心して…」といいながら、一枚4000円のチケットをそれでも15枚!渡されます。

主人公はチケット代6万円を先生に払わなくてはならなくなって困り果て、ただでさえ苦労の絶えない母親にそのことを言い出せず、ついアルバイトの募集広告などにも目が止まります。
ところが次の週、主人公がレッスンを休んだために、生徒の身を案じてではなく渡したチケットの件がどうなったかが気になって彼の自宅へ問い合わせのファックスを送り付けます。
それがもとでチケット代が必要なこともレッスンをサボってしまったことも、いっぺんに母親にバレてしまうというシーンがありました。

マロニエ君には、ピアノの先生の悪い面というのが、世間一般でこういうふうに捉えられ、ドラマであるぶん多少の誇張をもって描かれているように思いました。
まあ、これはいささか極端だとは思いますし、リサイタルをするほど「弾ける先生」もめったにいないものですが、それでもある種の核心は突いているように思えました。

しょうもないリサイタルをするような人は、普段だいたい先生をしていて、慢性的に不満を抱え、自己愛と自己顕示欲が強く、人の気持ちも、物事の道理も、社会常識もろくにわからない人物が珍しくなく、発想は常に一方的で、物事を「お互い様」という力学で判断することのできない自己中人間が多いわけです。
リサイタルをするとなれば、自分と関わりのある人間は当然来るものと算段し、そこには基本的に感謝の気持ちも申し訳ないという心遣いもありません。

ピアノが弾けて、生徒の先生で、リサイタルをするのだからエライというわけでしょう。

自分は極力お金は使わず人の為に何かをするということがないのに、他人が自分のためにお金を出したりタダ働きするのは当然という感覚。
そういう社会性の欠落した人物が他人に容赦なく迷惑をかけるという役どころとして、ピアノの先生が起用されたところにプロデューサーの的を得た思惑が感じられ、思わず笑ってしまいました。
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落ち葉の吹き溜まり

うちに来られた方を車まで見送ろうと外へ一緒に玄関を出たところ、ぽつりと「ここはお掃除が大変ですね」と言われてしまいました。
やはりというべきか、これでも決してサボっているわけではないのですが、我が家はほうぼうから落ち葉の集まってくる場所のようで、この季節は家人も日課のごとく毎朝掃き掃除をやっているのですが、それをあざ笑うかのように連日とめどもなく大量の枯葉が落ちてきます。
午前中きれいに掃いても、夕方にはびっしりと次の葉が落ちています。

こう書くと、まるで広い庭でもあるかのようですが、そうではなくて、隣の家には幸か不幸か、めったにないような大きな木が何本もあり、それがマロニエ君の家のほうに向かって傘をさしかけたように枝を伸ばしていますし、さらには道を挟んで向かい側は、以前は県の古い団地だったものが、昨年建て替えられて新しいマンションになりましたが、そこの地所内にあった道路沿いに植えられた数本の樹木はそのまま残されました。
建物が変わっても、大きな木が切り倒されずに生き続けることは望ましいことなのですが、そのために数本の木が落とす膨大な量の枯葉が風の具合もあって、どんどん我が家のほうへ吹き寄せられてしまうのです。

今年もはや12月となりましたが、この季節からお正月にかけて落ち葉もいよいよ佳境を迎えます。
我が家のガレージ前は道路から少し奥に引いていることが災いして、そこが皮肉にも吹き溜まりとなり、周辺の落ち葉はわざわざ集められたようにここで止まって、我が家よりも先には行きません。

どうかするとあたり一面枯葉の海で、しかも大半はよそから飛んでくる枯葉なのですからその理不尽たるや甚だしいわけです。
本音を言うと、マンションの管理費の一部で清掃人でも雇ってほしいぐらいなところですが、現実にはそういうわけにもいかないでしょうから、半ば諦めて毎日掻き集めた枯葉を押し込んだポリ袋の数を着々と増やしています。

片や隣家からは、様々な枯葉やむろんのこと、春には木の実がコツコツと音を立てるほど落ちてきて、こっちはこっちでその始末だけでもかなりの労働となっています。

今どきはたき火をするのも憚られる時代ですが、我が家の場合、そんなことを言っていたら有料のゴミ袋が何枚あってもキリがなく、枯葉ならばいいだろうと天気の良い日には燃やすしかありません。
たき火の威力は絶大で、45Lのゴミ袋10個ぶんの枯葉が、わずか洗面器一杯分ぐらいの灰になってしまいます。

一度など、向かいが県営住宅だったころに、県の敷地内の木による落ち葉を毎日のように始末しているのだから、せめてゴミ袋ぐらい提供してもいいのではないかと県相手に掛け合ったことがあるのですが、なんとその担当者は、袋を提供する代わりに、ご迷惑ならそれらの木々を全部切ってしまいます!といったので、木を切ることは木を殺すことと同じ事ですよ!と言ってやめさせました。
役人というのは、まったくどうしようもない感性の持ち主です。
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徹子の部屋

有名な長寿番組である「徹子の部屋」にユンディ・リが出るというので、昼間は見られませんから録画していました。

いきなりで恐縮ですが、ひさびさに見た黒柳徹子さんでしたが(外観は例のヘアースタイルと厚化粧ですからわからなかったものの)、知らぬ間にすっかりお年を召したとみえて、彼女の何よりの武器だった、立て板に水のあのスーパートークが、すっかり衰えているのにはちょっとしたショックを覚えました。

人間、歳を取れば体の機能が低下するのは致し方ないとは思いますが、それでもプロが公の場で仕事をする以上は保証すべき一定水準というのはあるはずで、モタついて滑舌の悪い黒柳徹子というのは、なんとも収まりが悪く、かつてはあの機関銃のような一気呵成なトークが売り物だっただけに、見ているこちらが痛々しい気分になってしまいました。
せっかくの記録的な長寿番組ですが、しかしあれではもう引退も遠くはないでしょうね。

いっぽう感心したのはユンディ・リで、マロニエ君は正直言って彼のピアノはあまり好みではないのですが、それはちょっと置いておくとして、非常におだやかで、態度も紳士的。とてもあの大国の御方とは思えぬ上品で控えめな態度は意外で、むしろ地味すぎてオーラがないぐらいな印象でした。

もうひとりの同国の世界的ピアニスト、ラン・ランがなにかにつけ派手で、控えめというのとは真逆のキャラでバンバン売っているのとはあまりに好対照であるのが面白いぐらいで、少なくとも日本人はラン・ランの陽気にはじけたエンターテイナー的な雰囲気より、ユンディ・リのどこか日本人的とも言えるような静かで落ち着いた雰囲気を好むだろうと思います。

マロニエ君はすぐに、相撲に於けるモンゴル出身の両横綱であった朝青龍と白鵬の、あまりにも対照的な個性の違いを思い出したほどです。

番組内では、一曲だけ演奏をするということで、有名なショパンのノクターンのOp.9-2が披露されましたが、スタジオに持ち込まれたピアノが???でした。
これは東京にある主にピアノ貸出を専門にやっている業者所有のハンブルクスタインウェイのDで、この番組のために持ち込まれたものでしょう。ピアノのサイドにはその会社名が書かれていましたが、ここは以前は主にニューヨークスタインウェイの貸出をメインにやっていたからかどうか、そのあたりの詳しいことはわかりませんが、少なくともマロニエ君にはまったくその良さが理解できないピアノでした。

ピアノ自体は見たところ20年前後経ったピアノで、本来なら脂がのって味が出て、とてもいい時期のピアノのはずだと思うのですが、全体に響きも沈みがちで、この点は非常に不可解でした。
もちろんテレビ局のスタジオという場所での演奏ですから、必ずしも好条件とは言えませんが、中音から高音にかけてやたらキンキンするばかりの深みのない音など、とてもこのピアノが本来持っているものとは思えず、調整や音の作り手の感性なのだろうと思いました。

マロニエ君は以前からこの会社のピアノの音はあまり好きではないのですが、よくテレビだのコンサートだのと、立派なピアノのある会場にも、敢えて自社のピアノを持ち込んでいる会社ですから、よほど営業力があるのか、なにか別の事情があるのかはよくわかりませんが…。
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福岡市の銀杏並木

今の季節、車で市内を走っていると、福岡は銀杏並木が縦横に張り巡らされていることがよくわかります。
とくに博多駅周辺の幹線道路はどの通りに出ても見事な銀杏並木が今まさに絶頂の黄色に染まって、見る者に冬の到来を華やかに告げています。

詳しいことは覚えていませんが、3〜4代前の市長さんは、長期政権なだけでこれといった突出した政治力はありませんでしたが、彼が福岡市に残した業績のひとつが、街中に緑をひたすら植え続けたことだと言われていたのを思い出します。
別名「緑の市長」などといわれたように、福岡市内の幹線道路などに相当量の街路樹が植え続けたことは小さな話題ではあったものの、当時は市長としての手腕に欠けるということのほうが問題にされ、木を植えたからといって別にどうということもありませんでした。

しかし、それから30年ちかく経ってみると、はじめはか細かったあちこちの街路樹も、すでに立派な大人の木に成長しており、それが街の美しい景観を際立たせるのに大いに役立っていることが明らかなようです。

とくに銀杏の木は、成長がいいのか既に堂々たる大木となり、それが一斉にいま美しい黄色に変わって、街は季節の色に鮮やかに包まれている感があります。それらの銀杏は一定間隔でどこまでも並んでおり、街のあちこちに華やかな彩りを添えてくれています。
歩道には扇形のかわいらしい無数の黄色の落ち葉がメルヘン画のように降り積もり、見ているだけでもなんとなく楽しげな気分になるものですね。
場所によっては路上がハッとするような黄色に埋め尽くされ、紙吹雪のように分厚く積もっていたりすると、ふと掃いてしまうのがもったいないような気になるものです。

ふつうは銀杏並木などと言えば、一本の通りだけだったりするものですが、博多駅周辺ともなると幹線道路であれば、どこをどう曲がっても、そこにまた延々と銀杏並木が続いているところに驚かされます。
たかが木を植えただけとはいっても、これだけの距離と夥しい数になると、これはこれで大変な偉業であり功績だったのだなあと、今にして感慨深く思うものです。

思えばケヤキ通りのケヤキもずいぶん立派な木になっていますし、大きな街路樹のある街というのは、それだけで街の歴史と格式を表す指標となるものですが、それは一朝一夕につくることのできるものではないからでしょう。
歴史ある都市と、新興の都市の違いは、街路樹の大きさひとつ見てもわかるというわけです。

例えば東京なども、マロニエ君はイメージよりははるかに緑の多い街という認識があるのですが、それは皇居をはじめとする、東京ならではの緑を擁する大型の建造物や公園などが点在するのはもちろんのこと、立派な街路樹が際限なく植えられている点が、さすがだと思うところです。

銀杏並木といえば全国的にも有名な神宮外苑の絵画館前はたしかに立派ですが、実はあれ、銀杏の種類が違っていて、葉がとても大ぶりできれいではなく、いささか風情に欠けるところがあります。
その点でも福岡市の銀杏は、みんなが良く知るかわいいあの銀杏ですから、よけいに愛らしく繊細に見えるのかもしれません。
山の景色を臨まなくても、すっかり季節の気配を満喫した気分ですが、あと一週間ほどが見所でしょうか…。
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天才と家族

昨年のクライバーンコンクールに優勝して以来、辻井伸行さんの人気はますます上がり、彼を取り扱ったドキュメンタリー番組など、もう何本見たことか、その数さえはっきり覚えられないほどです。
最近に限っても、NHKの番組でショパンの軌跡を辿ってマヨルカ島に行くものや、民放ではクライバーンコンクールの優勝者としてアメリカに再上陸し、コンサートに明け暮れる彼の様子などが放映されました。

マロニエ君も辻井伸行と聞くとつい見てしまうわけですが、その一番の理由は彼のあの衒いのない、その名の通りのびのびと我が道を歩み、心底から湧き出てくる希有な音楽の作り手だからだと思います。
すこしも見せつけてやろうという邪心がなく、いきいきと輝く清純そのもののような音楽を耳にできることは、ピアニスト辻井伸行を聴く上で最大の魅力だと思います。

人間的魅力にもあふれ、全盲という大変なハンディがあるにも関わらず、むしろ健常者よりも明るく快活で、良い意味で前向きなところは、むしろこちらのほうが反省させられてしまうことしばしばです。
会話の端々にも彼の人柄のすばらしさが表れ、そしてなによりとてもカワイイ人だと思います。
また彼は、ピアノはもちろんのこと、話す日本語も、非常にまともな美しい日本語である点も、彼の話を聞くときの心地よさになっているように思います。
間違いだらけの日本語が大手を振って氾濫する中で、こういう若い人の口から発せられる、正しい美しい日本語を聞くと、失いかけたものがまだ残っていいるというかすかな希望の念と、一時的にせよホッとする気分になるものです。

その点では彼のお母さんは大変苦労されたとは思いますが、やはり出自が元アナウンサーということもあり、この世界の人達に共通する独特な調子のトークで、いつでも人に聞かせるよう鮮やかに話をされるのが、彼の作り出す音楽の世界とは、ちょっと雰囲気が違うような気もします。

また彼が演奏家として独り立ちしつつある現在、お母さんの付き添いを辞退し、そこには長年自分に付きっきりだったお母さんにはこれまでになかった自分の時間を持ってもらいたいとの気持ちがあるのだそうで、なんとも彼らしい麗しいことだと思っていました。
ところが、やはり今風だなあと思ってしまったのは、息子の付添の手が離れたぶん、ゆっくりと自分の時間を楽しんでいらっしゃるのかと思いきや、今度は自分が主役となって子育てなどをテーマとする講演活動のため演壇に立ち、東奔西走しているという事実にはちょっと戸惑いを感じてしまいます。

元アナウンサーの母上殿にしてみれば、マイクを前に大勢の人に向かって話しをするのは、いわば本能なのかもしれませんし、あるいはよほど仕事がお好きなのかもしれません。
すでにこのお母さんの執筆による本もマロニエ君の知る限りでも2冊出版されていますし、その手際の良さには感心するばかりです。

ちょっとでもチャンスがあれば、それを逞しくビジネスに繋ぐのが現代では最善の価値なのだろうかと思います。
辻井伸行のあの明るい人柄と、その音楽的天分、そしてなによりも彼が紡ぎ出し、歌い上げる輝く音楽のために、身内としてなすべきことはなんだろうかと、つい考えてしまうのはマロニエ君だけでしょうか。
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電気店の怪

友人達と食事をしていて、ひとりから意外なことを言われました。

というのは、マロニエ君はここ最近のことですが、大きな電気店に行くと体調がおかしくなるのです。
具体的にどういう症状かといいますと、大型電気店に行ってものの5分か10分も経つと決まって全身がチクチクしてくるのです。
しだいにそれはひどくなり、30分も経った頃には全身が針でつつかれるようにチクチクして、ちょっとしたパニックになりそうになります。

テレビ購入のときなどは、なにやかやと時間をとり、都合一時間近く滞在したために、最後は走って外に出るほど症状がひどくなりました。

電気店というのはモワッとした独特な熱さがあるので、はじめは秋口のことでもあり、たまたまそのときの温度のせいだろうぐらいに軽く考えていました。
ところが、強めにヒーターが効いているところでもそういうことになるわけでもなく、いっぽうで大型電気店に行くと、そう暑くなくてもやはりこの症状が出るので、しだいにこれはちょっとおかしいと思うようになったのです。

つい先日も、びくびくしつつ電気店に入ってみると、やはり数分すると同じ症状が現れ始め、さっさと外に出ましたが、ようやく原因は電気店特有のなにかだとわかりました。

で、マロニエ君はシロウト考えで、これは電気店ならではの製品から放出される、いわゆる電磁波の影響だろうとさももっともらしく結論づけていました。現に電磁波に体がものすごい反応をしてしまう体質の持ち主で、普通に日常生活を送ることもできないほどの人に一度会ったことがあったので、とっさにその人のことを思い出して、その類に違いないと勝手に納得していたのです。

ところが、先日食事をした友人の一人はかなりの家電通(笑)で、まあとにかく家電に詳しいことといったらありません。彼にその事を話すと、即座にそれは電磁波ではないと、ほぼ断定するのです。
曰く、液晶テレビなどは電磁波をまったく出さない由で、その他の製品も電気店にあるもので外部に電磁波を出すようなものは実はほとんど無いはずで、電磁波があったにせよそれはごく微量だと言い切るのです。

それでは原因はなにかといえば、化学製品から発せられる特有の物質が店内に充満しているせいだというのが彼の見解でした。
とりわけ電機店では製造後間もない製品に電源が入っているので、科学的な素材とか製造に使われた各種の接着剤などが電気や熱を帯びることで、体に良くない物質が漂っているのからだということでした。

これは科学的な物質の、とくに新しいものが発する揮発性化学物質に顕著なことらしく、大別するとシックハウス症候群も同系統のもので、こういう物質に人の体が拒絶反応を起こすというものだそうです。
そう言われれば、ふうん、そういうものかと思いました。

大型電気店などそうしょっちゅう行くわけではないものの、用があるときあるわけで、こういう症状が出るとなると困ったもんだと思いますが、こればかりは打つ手がありません。
店員でもしもこういう体質の人がいたら、退職するしかないでしょうね。
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衝撃映像諸行無常

昨日の青蓮院とは打って変わった話題です。

マロニエ君は普段、テレビはあまり見ないほうなのですが、それでも告白すると子供じみた趣味があって、「衝撃映像」の類の番組は嫌いじゃないので、それらしい番組があるときは録画をしておいて、ときどき見ています。

先日録画した番組を見たところ、ちょっと予想したものとは内容が違うのでもう止めようかと思っていたとき、ゴールデンタイムの全国放送番組にもかかわらず「福岡の…」という言葉に反応して、つい何事かと我慢して見るはめになりました。

さてそこに出てきたのは真っ赤な特別なフェラーリに乗ってあらわれたある人物でした。
よくある露出好きなお金持ちの持ち物自慢のような内容で、いきなりそのフェラーリがいくら、今はめている腕時計がいくら、来ているスーツがいくらといった調子で、番組はその億を超えるという特別なフェラーリに同乗して自宅へ行き、さらに驚愕のお宅拝見という流れです。
マロニエ君はこの手の番組は嫌悪感を覚えるので普段なら絶対に見ないのですが、それでも福岡にそんな凄まじい人がいるとは思わなかったために、つい驚いて、怖いもの見たさに見てしまったのです。

自宅は人の住む場所というより、どこかのブランドショップか夜のクラブかと見まごうような強烈な趣味で埋め尽くされており、車も超高級車がズラリと並んでいるあたりも、いかにもこの手の人達のお決まりのパターンです。

広大な敷地内には、メインの建物のほかにも庭を隔てて二つの別棟があり、屋内プールだの高級料理店を出張させ友人を招いてのホームパーティだのと、これでもかという自慢のオンパレードで、スタジオのタレント達もお約束通りに感嘆詞を連発しています。挙げ句にはアメリカに所有しているプライベートジェットでどうのこうのと、こんなことをこれ以上詳しく説明するのもナンセンスですから止めますが、とにかくドバイの金持ちかなにかが突如我々の住む街に現れたという印象でした。

やはりというべきか、この人も借金取りから追われるほどのどん底からのし上がったとのことで…納得です。

ところがあることで(具体的なことは控えますが)、ちょっと心のどこかに、なにか小骨がひっかかるような感じを覚えました。
そこで、さっそくネットの情報やグーグルの衛星写真などで確認したところ、やはり予感は的中。
なんとここは以前マロニエ君の大叔父の家だったところだったのです。この人物が購入後に、昔の純日本式の家屋や庭園を根こそぎ消し去って、ゼロから作り替えたことで出来上がったド派手な家だということがわかり、そのショックには思わず鳥肌が立つほど胸がバクバクしてしまいました。

はじめはてっきり郊外の広い土地にでも建てられたものだろうと思っていたのですが、現実は我が家から車で10分もかからない場所だったわけで、昔の住宅街の奥まったところなので、普段車で通ることはないのです。
よせばいいのにその前を何年ぶりかで通ってみると、テレビで見たあの強烈な家は間違いなくそこにありました。

ここはマロニエ君が子供のころにはよく遊びに行っていた思い出深い家でしたが、その大叔父も5年ほど前に老衰で他界し、その後は遺族がマンション建設をやりかけたものの周囲の反対運動に遭って実現せず、やむなく売りに出されていることは知っていました。
それが結果的にこういう人物の手にわたり、しかもあんな姿に変わってしまったというのは、上手く言葉で表現はできませんが、予想だにしない意味での「衝撃映像」となってしまいました。

もちろん普通にマンションになったとしても昔の家や庭園は無くなってしまうわけですが、あまりにも思いもかけない結末で、平家物語に記された諸行無常とはさてもこういうことかと思いました。
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青蓮院のブリュートナー

友人が新聞の切り抜きをくれました。
マロニエ君がピアノ好きであることを知って、ときどきこういうことをしてくれるのでありがたいことです。

それによると京都の青蓮院(天台宗の寺院)で今月10日、ブリュートナーのグランドピアノを使ったフジコ・ヘミングによる奉納演奏が行われたそうです。
そのブリュートナーは1932年製のもので、青蓮院にこのようなピアノがあるのは先代門主の東伏見慈洽(今年満100歳)がピアノを嗜んだという思いがけない理由があるからのようです。

この東伏見慈洽は久邇宮邦彦王の三男で、香淳皇后(久邇宮良子女王)の弟にあたります。
大叔父である東伏見宮依仁親王に子がなかったために、曲折の末に東伏見宮を継承することになり、戦後の臣籍降下を経て、仏門に入り青蓮院の門主となったようですが、ピアノは昭和7年(22歳のとき)に近衛秀麿指揮の新交響楽団(NHK交響楽団の前身)でハイドンの協奏曲のピアノの録音演奏を行うほどの腕前で、それはCDにも復刻されているとか。
ちなみにこれは、ハイドンのピアノ協奏曲の世界初の録音となったそうです。

慈洽氏(猊下と言うべきか…)は仏門に入ってからもピアノを弾いておられたようで、子息で現門主の慈晃氏によると、ベートーヴェンのワルトシュタインなどの譜めくり役で演奏に随行したこともあるとか。

ところが、このピアノはあるころから経年による疲労が見え始め、いつしか内部はカビが生え、鍵盤を押しても鳴らない音があったり、鍵盤そのものが最初から下がりっぱなしのものがあるなど、ここ20年ぐらいは弾かれない状態になっていたといいます。
それでも慈洽氏がこのピアノを手放さなかったらしく、終戦の直前などは居所を転々として財産をあれこれ処分する中にあっても、このピアノだけは慈洽氏の手元を離れることは決してなかったということです。

そのピアノが製造から80年近く経って、ついに修復を受けることになり、青蓮院の書院からクレーンでつられて搬出され、1年がかりで全面的な修理を受けたというものでした。費用は新品のグランドが一台買えそうな金額になったとか。

それにしても皇族でこのようなピアノの名手がこの時代に存在したということも驚きでした。
しかし思えば、今上天皇はチェロをお弾きになり、東宮殿下もヴィオラを弾かれるのは有名ですから、西洋音楽に対する造詣も深いという一面は日本の皇族の隠れた伝統なのかもしれません。

記事にはマッチ箱ほどの大きさの写真がありましたが、それから察するにこのブリュートナーはコンサートグランドのようで、このピアノ一台で購入当時は小さな家が4軒建ったといわれていたそうです。

以前も岡山かどこかで見事に修復されたグロトリアン・シュタインヴェークをルース・スレンチェンスカ女史を招いてお披露目するという番組をやっていましたが、最近は日本でも高度なピアノ修復の技術が珍しくないものになってきたようですから、こういう由緒あるピアノがあちこちで息を吹き返していくのは嬉しい限りです。
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おせちは不味い

毎年この時期になると予約だなんだとうるさくなるのが「おせち料理」です。
新聞の広告やチラシにもおせちの写真が登場しはじめ、12月に入ればそれはさらにクレッシェンドしてくるはずで、マロニエ君などはあの鬱陶しい写真を見るだけでもうんざりしてしまいます。

だいたいやっと夏が終わったと思ったあたりのタイミングで、もうテレビなどは今年の御歳暮商戦スタートだのお年玉付き年賀ハガキの予約がどうのという言葉が聞こえはじめるのは、マロニエ君にいわせるとこれはもはや季節感というようなものではなく、ちょっとの間も人に休息を与えてくれないマスコミによって、次から次に人心を煽り立てられるような印象しかありません。

そのおせちですが、このところ受注数が下降線気味という話を聞いたのですが、当然だろうと思いました。
最大の理由はおしなべて見た目ばかりで美味しくないのと、不当に高いその価格でしょう。
どんなに有名店のものでも、要するに作ってからかなりの時間が経過し、冷めて固くなっているような料理は美味しいはずもなく、せっかく準備しても誰も食べないというような話は何度聞いたかしれません。

業者はこの時期だけの稼ぎ時とばかりに力を入れ、中には10万、20万といった信じられないようなものまで登場してきて、それをまたテレビなどが業者の片棒を担ぐようにニュースとして声高に紹介するので、一時期価格はどんどん上がりましたが、このところの不景気を反映してか、再び価格は押さえ気味になっているとか。

それでも家人がデパ地下などにいくと、早くもおせちのコーナーがあり注文を受けつける態勢ができているそうですが、だれも見向きもしない様子だったということでした。

マロニエ君の家でも昔は数回付き合いで買わされたことがありました。
各店には従業員に振り当てられたノルマがあって、それを達成するために知り合いなどに泣きついてくるわけです。
たまたま知り合いなどにこういう人がいると、そう無下にも断れず、お付き合いさせられたことがあったのを思い出します。
一度などある有名なホテルのおせちとやらで、それを頼み込まれて、しかたなくお付き合いで注文したところ、大晦日に恭しく届けられましたが、果たして中はとりたててどうということもなく、海老やいろんなものをあれこれ巻いたようなものが並べられているだけでした。どれも冷たくて固くて、はっきり言ってぜんぜん美味しくもなんともありませんでした。

だれも積極的に食べず、もったいないからという理由で無理して口にするのがせいぜいです。
これでも高い方ではなかったものの、それでも数万円はしたはずで、あんなものにそんなお金を使うぐらいなら、何回普通に美味しいものが食べられるか知れやしません。

だいたい季節に限定したものというのは、昔ならたしかに風情があってよかったと思いますが、現代ではそこに目を付けた業者の商魂まみれの汚い手がいやらしいほどに突っ込まれているので、そんなことならあんな悪習は止めてしまった方がいいような気がします。
あとひと月ちょっとですが、お正月なんて、お雑煮を食べてゆっくりできればそれでじゅうぶんです。
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ショパンの手形

今年の夏ごろのこと、東京にいる音楽好きの友人によると、彼の知り合いが今年のショパンコンクールに行くというので、ショパンの有名な手形を買ってきてくれるように頼んだという話を聞いて、それなら申し訳ないがぜひもう一つと言ったところ、すでにマロニエ君の分まで頼んでくれていました。

ご当人が帰国されてずいぶん経ちますが、なかなか会う機会がなかったというので、先日ついにその手形が送られてきました。

わかってはいても、実物を見るまではまさにドキドキものでした。
果たしてそれは実物大のショパンの左手の立体モデルで、知る限りではブロンズ(金属)と石膏の二種類があるようです。
もちろんどちらでもよかったのですが、受け取ったのはブロンズのほうでした。

マロニエ君はショパンコンクールの会場にでも行けば、こういうものはたくさん売っているのかと勝手に思っていたのですが、全くそうではないらしく、こんなお願いをしたばっかりにその人はワルシャワ市内をあちこち探し回ってくれて、苦心の末にやっとあるところで見つけて買ってきてくれたという事を聞き、感謝感謝です。

ショパンが小さな手をしていたことはつとに有名です。
むかし東京のショパン展でガラス越しに見た手形の記憶でも、えらく小さいという印象だけが残っていましたが、ついにその実物が我が家に届き、じっくりみてみると、なるほどショパンらしい繊細な細長い指ですが、全体の大きさは、どちらかといえばやや小柄な女性の手ぐらいといったところです。
マロニエ君も身長に較べると手は大きい方ではないので、ピアノを弾くにはあまり恵まれていないと思っていましたが、それでもショパンの手とくらべるとまるで大きさが違います。
よくぞこんな小さな手で数々の演奏会を開き、そしてあんなにも複雑で指の届かないような曲を書いたものだと、ショパンの傑出した天才には驚きを新にさせられます。

むかしこれと同じ物の石膏の手形に、アルトゥール・ルービンシュタインがサインをしてほしいと求められたところ、「ショパンの手に私がサインなどできない」と言って、代わりに小さなハートを書き込んでいるところの写真があるのを思い出しました。
いかにも彼らしい気の利いた振る舞いですね。

知人に聴いたところでは、北九州市立美術館の分館で行われている「ポーランドの至宝・レンブラントと珠玉の王室コレクション」でも同じ物が展示されていたといいますから、それが我が家にあるのだと思うと妙に嬉しくなりました。
もしやネットオークションあたりでは買えるのだろうかと思い、あれこれ検索してみましたが、かすりもしませんから、やはり日本ではまだまだ貴重なもののようです。

さて、どこに置くかをずいぶん悩みましたが、やはりピアノの上しかありません。
その手を置いたピアノでショパンを弾くのは、なんだか厳粛な気分になってしまいます。

皆さんにも見ていただくべく、表紙の写真のひとつをこの手形に差し替えました。
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平均の功罪

いろいろなCDを聴いていると感じることも様々ですが、昔のほうがすぐれていると感じる点はたくさんあるわけで、とくに演奏家の音楽に対する純粋な情熱、芸術家としての在り方、真摯で個性にあふれた大胆な演奏などは、圧倒的に過去の演奏家に軍配が上がると思います。
とりわけこれはと思わせる巨大な芸術家が20世紀まではたしかにいたことです。

現代の演奏家は、ミスのないクリアな演奏で難曲でもスムーズに弾きこなすのは大したものですが、情報の氾濫した複雑な社会に生きる故か、個性の面ではスケールが小さく、まるでニュースキャスターのトークを聞くような演奏をするので、どこか計算ずくのようで、聴く側も生々しい感動が薄くなるわけです。

現代のほうが圧倒的に優れているのは、CDの場合まずなによりもその平均的な録音技術で、この分野の発達は途方もないものがあるように思います。だからといって、ではそれがすべて音楽的であるかといえば、必ずしもそうではないのが芸術の難しいところで、ものによっては昔の録音のほうにえもいわれぬ味わいのある録音があったりする場合もあります。

そうはいっても、やはり単純な意味での音は細かな響きまで捉えて臨場感があり、透明感や広がり感、分離などにも優れ、平均して断然きれいになったと思います。しかしオーディオの専門家に言わせると、LPのほうが音の情報量は多かったなどとも言われるようで、そのあたりの次元になるとマロニエ君にはもうわかりませんが、単純な意味ではやはり美しくリアルな音が収録されるようになったと言えると思います。

現代が優れていると思うのはもうひとつ、使用ピアノの状態と調整です。
潜在的な楽器の能力としては、昔のピアノのほうにほれぼれするような逸物が多数あり、その点では現代のピアノはピアニストと同じで機械的な性能は上がっていても、音に太さや深みがなく、いささか固い人工美といった趣がありますが、昔の録音に聴くピアノの音にはまさに気品あるふくよかな音色であったり、荘厳な鐘の音がこちらへ迫ってくるような低音の鳴りがあったり、あるいはこのピアノは生き物では?と感じるような名器があったりと思わず唸ってしまうことがよくあります。

そのかわりにひどいものもあり、中にはなんでこんなピアノを使ったのだろうかと思わず頭を捻ってしまうようなヘンテコな楽器もかなりありました。とにかく演奏も録音も楽器もバラツキというのはたしかに多かったと思います。

現代にはそういうバラツキが極めて少ないわけです。
ピアノも精度が上がって楽器の均質性に優れ、コンサートグランドを納入するような場所は管理もよくなり、ピアノ技術者の仕事も平均的なレベルがうんと上がったように思います。
平均点が上がったということは、ピアニストが難曲でもとりあえず弾きこなすようになったのと同様ですが、技術者の場合は職人であって芸術家ではないので、こちらは平均点が上がることは素晴らしいことだと思います。

逆にピアニストはこれでは困るのですが、時代の流れが必然によって産み落とす現象というのは、すべてをひっくるめて顕れてくるものですから、なかなかすべてに都合よくというわけにはいかないようですね。
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エリア情報誌

つい先日のこと、ポストに赤い小さな情報誌のようなものが2冊入っていました。
真っ赤な表紙の可愛らしい冊子ですが、よく見てみるとマロニエ君の居住する地域に限定したエリア情報誌であることがわかりました。
季刊誌のようですが、すでに4号になり、ハガキよりやや大きい程度のポケットサイズで、厚さも100ページにせまる豪華なオールカラーです。

こんなものがあることをマロニエ君はまったく知らなかったのですが、発行元ではこの冊子の知名度をより
上げるべく、このようなポスティングを敢行したのだろうと思われます。
それにしても、ついに世の中はこんなものまで出てくる時代になったのかと思いました。

中を見ると、作り自体はまぎれもないプロの仕事で、きちんと作られたフリーペーパーなのだから驚きです。
発行元は地元の商工連合会ということになっており、そんなものがあることさえも知りませんでしたが、発行費用はここに加盟する会員達によって賄われているのでしょう。

飲食店を中心に、その他の様々な店、あるいは学校や病院などが情報として満載されています。
知っている店、知らない店など様々ですが、しかしエリアを代表するような肝心のところがいくつも抜け落ちていたりと、必ずしも地域すべての店舗や病院を網羅しているわけではないようで、これらを説き伏せるのに営業陣はさぞかし苦労していることだろうと推察できます。

とりわけこのエリアは開業医の激戦区なのですが、そのわりには載っていない病院が多く、どこも費用対効果を見極めようということで静観しているのでしょうか。
逆に有名店などはいまさらその必要を感じないのか、まったく出ていませんが、その地域で大きな商売をしているのならこういうことにもお付き合いがあってもいいような気もするのですが、それは甘い考えでしょうか。

現在の発行数は3万部とありますから、それなりの数のようです。
はたして実際の営業にどれぐらいの効果があるのかは知りませんが、みなさん商売のために連携して頑張っておられるのだなあと思いました。

中にはピアノ教室まで記載があり、写真によると譜面立の形状から察するにシゲルカワイを使っている先生も近くにいらっしゃるということがわかりました。
それにしても、写真で見る限りピアノの先生のレッスン室の独特な趣味は、みんな感性が似ているような気がします。
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モネ展

一昨日は北九州市で開催中のモネ展にいきました。
その日その時間が指定されるコンサートと違って、美術館の催しは日程に余裕があるのが裏目に出て、過去に何度か行かずじまいになってしまったものがありますので、残り一週間となったのを潮に腰を上げました。

会場の北九州市立美術館はマロニエ君の好きな美術館のひとつで、磯崎新の設計による山の傾斜を上手く利用したモダンな美術館ですが、30年以上前の開館当時は、福岡市は小さな県立美術館のみで福岡市美術館ができる数年前だったこともあり、子供心になんとも羨ましい気がしたのを覚えています。

日曜だったこともあり大変な人出で、展覧会そのものはいちおう楽しめましたが、実をいうと期待はずれな部分もありました。
というのは、マロニエ君はてっきりモネ展とばかり思っていたら、実際は「モネとジヴェルニーの画家たち」というもので、モネと、彼を慕ってジヴェルニーに集まった多くの画家たちの、いわばグループ展覧会でした。

それならそれで、もちろん構わないのですが、あちこちで見かけるポスターやチラシ、あるいは新聞広告などはモネという字ばかりがあまりにも大書されてモネというインパクトだけが一人歩きし、ジヴェルニーの画家たちという文字はその数分の一のサイズで、しかも見落とすことを狙ったかのような地味な色でしかないので、あれではモネ展と思うのもやむを得ないというか、いささか良心的でない広告の打ち方だと思います。
会場の入口付近には「来場者数6万人突破」などと書かれていましたが、こういう内容をじゅうぶん承知の上で来た人が、はたしてどれぐらいいたのかと思ってしまいます。
最近はちょっとでも油断していると、うっかりこの手でやられてしまうのは嫌な風潮ですね。

驚いたのはモネ以外の画家達の作品が、どれもモネの画風をひたすら手本としてあまりに酷似しており、これらを見たモネ自身はどう感じていたのだろうかと思いました。それはとくにアメリカの画家に多く、アメリカは音楽でもそうですが、芸術面では基本的にヨーロッパ・コンプレックスが強く、オリジナリティの薄い傾向があるようです。

そんな中で見るモネの作品は、むしろこの画風の張本人であるぶん自由奔放で躍動的にさえ感じ、有名な「つみわら(日没)」などもマチエールやタッチは予想を覆すほど大胆で、むしろ荒々しく感じるほどのものであったことは大変意外でした。
基本的にはもちろん素晴らしいとは思いましたが、マロニエ君にとっては全体として不思議に実物の感激というのがあまりなく、むしろ画集などの印刷物で見るほうが圧縮感があり、どこかありがたいもののように見えるのはどうしたわけだろうと思いました。
普通ならば実物でこそ得られる感激や充実があり、それらは印刷物ではとうてい表現できない凄味があるものなんですが。

それと、全体的に作品の質がもうひとつで、これという圧倒的な作品が少なかったように感じました。
展示作品数も思ったよりも少なく、いささか宣伝過多のような印象は免れません。
とくにモネ本人の作品はこれだけモネの名を前面に掲げていながらわずか11点にすぎず、それも最上級の作とはいいかねるものでしたから、いろいろと制約はあるのかもしれませんが、もう少し全体を上質なものにまとめて欲しいというのが偽らざる印象でした。
それでなくともモネは多作でも有名な画家なのに…。

年明けには九州国立博物館で始まるゴッホ展も、こういう経験をするとちょっと心配になりますし、同じころ、北九州では「琳派・若冲と雅の世界展」というのがはじまるようですが、事前調査が必要な気がしてきました。
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続・プレイエルに呼ばれて

昨日のプレイエルの余談です。

実は、この古民家に着いたときから薄々感じていたことがあるのですが、それは昔、母や叔母達がこのあたりを車で通るときに戦時中祖母達が疎開した家がまだあると話していたことでした。
とはいっても、ずいぶん昔のことで、走っている車の窓ごしに見ただけですから、具体的にどの家ということまではマロニエ君には正確にはわからないままでした。

カーナビの命じるままに走ってきていよいよ目的地に近づくと、明らかにそのエリアであることがわかったので、おやっと意外な気がしていたわけです。この気分は帰宅するまでずっとつきまといました。

家に帰るなりさっそく母に話をしたところ、なんとその古民家は戦時中、マロニエ君の曾祖母ら数人が戦禍を逃れて一足先に疎開をしていた家そのもの!であることが判明し、まだ子供だった母達も当時たびたび博多からそこを訪れたということで、家の姿形まで正確に覚えているのにはびっくりしました。

そして、そこへまた70年近い時を経てマロニエ君がこうしてピアノを見るためにそこを訪れることになろうとは、なにかの因縁めいたものを感じました。

その築180年という古民家もたいへん大きく立派なもので、なんと母の記憶によれば現在の喫茶店部分に当たるところが曾祖母達が疎開で一時期暮らした部屋があった場所であることもわかり、まるで曾祖母がマロニエ君を行かせてくれたような気さえしてしまいます。

今度コンサートで演奏される方もその家のご子息で、こんな偶然があるのかと深い感慨を覚えました。

あたりは文字通り一面の緑で、建物のすぐ脇には小さな山の斜面が迫り、その頂上近くには写真でしか見たことがないような巨大な桜の木があり、まるで屏風絵のようなその威容は思わず息をのむような存在感で、その桜の巨木がこの一帯の主のごとくで圧巻でした。

ピアノに関しての補足ですが、昔のモデルの復刻ということで、ルノワールの絵に『ピアノに寄る娘達』という有名な作品がありますが、これは同じモティーフの作品が3点存在し、それぞれオルセー美術館、メトロポリタン美術館、オランジュリー美術館に所蔵されている誰もが一度は目にしたことのある名画ですが、そこに描かれたピアノがこれだということでした。
まあ、昔のピアノには燭台がついているし猫足も木目の外装も珍しくないので、確実にそれが同型のプレイエルかどうかはマロニエ君としては確証は持てませんでしたが、少なくともそういうエピソードもあるようです。

そのプレイエルはこの家の立派なお座敷の床の間横に、響板を縁側に向けて置かれていましたが、この純日本式の空間にクラシックな木目のプレイエルが不思議に調和しているのが印象的でした。
次はぜひコンサートでその音色を聴いてみたいものです。
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プレイエルに呼ばれて

一週間ほど前の新聞紙上で、前原市の奥にひろがる田園地帯に佇む築180年という古民家で、プレイエルピアノ(歴史あるプランスのピアノメーカー)を使った小さなコンサートがあることを知りました。

プレイエルと聴くと思わず反応してしまうマロニエ君なので、詳細もわからないまま聴いてみたくなり翌日電話をしたところ、すでに定員の50名のチケットは売り切れていました。
しかし来年も同じような企画があるらしく、そのときは案内を出すので、まずは一度来てみられませんか?ピアノにも触ってもらっていいですしというお話をいただいて、ドライブを兼ねてともかく行ってみることにしました。

古民家の敷地内の駐車場に車を止めて外に出ると、いきなりピアノの音が聞こえてきて、どうやら調律の真っ最中のようでした。

すぐにオーナーの女性が出迎えてくださり、まずはこの建物の一角にある喫茶店に入りました。
あれこれと雑談など交わしているうちに、洩れてくる調律の音はしだいに高音部に差しかかり、終盤をむかえているようでしたが、すでに3時間以上やっているとのことでした。
その調律師の方はプレイエルの経験のある方ということで、わざわざ来られたとか。

コーヒーを飲み終わった絶妙のタイミングで調律が終わり、オーナーが店の裏にあるピアノのほうへ案内してくださいました。

するとなんと、またしても顔見知りの調律師さんがそこにおられ、数年ぶりにお会いできて、思いがけないところでお話ができました。
いまさらのようですが、つくづくとこの世界の人の繋がりの不思議さを感じずにはいられません。
ウワサなんてあっという間でしょうから、いやあ悪いことはできませんね!

ピアノは新しいものでしたが、左右両側に燭台のある昔のモデルの復刻ということでした。
プレイエルではすでにアップライトの生産は終了していますので、このピアノはおそらく最後期に生産された貴重なモデルだろうと思われます。(今後アップライトを作らないというのはグランドに特化した高級メーカーにシフトするという事でしょうから、大変思い切った方針のように思えます。ちなみにイタリアのファツィオリもグランドのみ。)

どうぞ弾いてくださいといわれても、まさか調律したてのよそ様のピアノをマロニエ君がまっ先に弾くのも憚られるので、ほんのちょっとだけ軽く音を出させていただきましたが、プレイエルらしい甘い音色が特徴的で、タッチは非常になめらかでしっとりしているし、ラウドペダルの感触やタイミングなども独特で、やはり日本のピアノとは根本的に異なる生まれだということを感じました。
ピアノの状態はまだ限りなく新品に近い状態で、もう少し経つと独特な味と落ち着きが出てくるだろうと思われ、今後の熟成が楽しみです。

オーナーのご厚意で大変貴重な経験ができました。
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パンクのメカニズム

用事で車を走らせていたいたところ、ほんのわずかに(車が)いつもと違う挙動をするような印象を持ちましたが、ごく些細なことで、用のほうに気をとられそのまま走っていました。

ある場所に着いて車を駐車場に止めてふと見ると、運転席側のうしろのタイヤの空気がえらく減っていて、ペチャンコではないものの、地面からホイールまでの高さが他のタイヤに較べて半分ぐらいまで減ってしまっていました。
さっきから薄々感じていた違和感の原因はこれだったのかとすぐに納得しました。

しかし、ここでジャッキなどを出してタイヤ交換するなんて、考えただけでもうんざりです。
実を言うと、日ごろパンクの心配なんてしてもいないので、今の車のどこにスペアタイヤとジャッキなどの工具類があるかもよく知りません。クルマ好きで、細かいことはあれこれこだわってうるさいくせに、こういうところは非常に杜撰でのんきなマロニエ君なのです。

幸い、パンク状態に気が付いた駐車場は、この車を買ったディーラーまで1キロあるかないかの近距離だったことと、タイヤもまだいくらか空気が残っているようなので、なんとかディーラーにたどり着くことが出来るかもと思いました。

急いで用事を済ませて、いざディーラーを目指しました。
とりあえず無事到着すると、出てきたメカニックがめざとく釘が刺さっていることを発見。
さっそく修理することになり、ショールームで待ちましたが、しばらくするとそのメカニックがやってきて、「これが刺さってましたよ」といって引き抜いた釘を見せてくれましたが、それは長さも4センチはあるたいそう立派な釘でした。メッキをしたように銀色につやつやして、その輝きがまるで悪意そのもののように見えました。

それにしてもなぜあんなものがタイヤに90度にスッポリと突き刺さるのか不思議でなりません。
地面に落ちているだけなら、ただ踏みつけて終わりのはずですが、あれだけ見事に突き刺さるには、釘のほうもでも一定の角度で待ち受けていなければとてもそんな風にはならないのでは…。

そこで思いついたのが、こういうことではないかと仮説を立てました。
フロントのタイヤがまずその釘を踏み、その勢いで釘は跳ね上げられ転がっているところに、すかさず後輪が来て、たまたま理想的な角度が付いたところへスポッと突き刺さったのではないかということです。
普通の速度で走っている車の前後のタイヤの通過時間の差なんて文字通りアッという間ですから、こんなことも起こりうるような気がしました。

真相はどうだかわかりませんがマロニエ君としては、すっかり解明できた気分になって悦に入っています。
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むかしは子だくさん

天神で用事を済ませ、駐車場に向かっていると、ばったりと知り合いの先生に会いました。
この方はマロニエ君の音楽上の母校である学院で、現在も先生と事務を兼任しておられますが、なにより無類の音楽好きで、これはピアノの先生の中では例外中の例外です。
恐かった先代院長が高齢で一線を引かれて久しく、現院長はドイツを拠点にした現役ピアニストなので、実質的にこの方が能力を買われて学院を切り盛りしていらっしゃいます。

出会い頭にばったり会って双方驚きましたが、ここしばらくお会いしてなかったので懐かしく立ち話ができました。
やはり学院も昔とはちがって人が少なくなったということでした。

そもそも現代は少子化で子供の数が減っている上に、今どきはピアノのお稽古といっても、この学院の体質である厳しいスパルタ式のピアノ教育を受けるべく身を投じるような時代ではなくなったので、これも止む得ない時の流れだと思いました。

今は普通の学校でもとにかく先生方はみなさん一様に優しいそうで、それは結構なことでしょうが、同時になんだかつまらない気もします。
マロニエ君の時代は、普通の学校でもとくに恐い憎まれ役の先生というのがひとりふたりは必ずいて、なにかしでかせば躊躇なくげんこつやビンタなんてのも珍しくはありませんでしたが、今そんなことでもしようものなら親が学校に噛みつき、校長はあわて、教育委員会のようなところが騒ぎ出す時代ですからね。

ましてや否応なくピアノを生活の中心中央に組み入れさせられ、学校さえ時間の無駄というような強烈なやりかたなど、もはや骨董的価値の世界でしょうね。
でも不思議と恐かった先生というのは恨んでいるわけではなく、むしろ懐かしい思い出には欠かせない人物になっていますが、現代の子供はそういう懐かしさを持てないのかと思うとちょっと気の毒な気がします。

少子化が引き起こす社会問題はあらゆる局面に波及して、これをなんとか食い止めようと政府もばかばかしい対策を講じているそうですが、文明が進み、医学が進歩して高齢化社会になれば、それだけ出生率は下がるという摂理があるような気がします。
現にマロニエ君の親の代では兄弟姉妹が多く、その中の必ず何人かは子供のころに亡くなっていたりするのが普通だったようです。どこの家もだいたい似たようなもので、そういう様々な要因が自然に折り重なって子供もたくさん産まれたのだろうと思います。

さらに昔でいうと、徳川将軍家でさえも世継ぎや姫達は幼少時に次々に病気などで亡くなり、無事に生き延びる方がはるかに少ないくらいです。
J.S.バッハなど20人近い子供がいても半分以上が亡くなっていますし、ヴァイオリンのカリスマ的名工、ストラディヴァリも11人の子供がいたというのですから、これはもう理屈ではなく時代の力という気がします。
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自己流準備運動

「水に入る前は必ず準備運動をする」というのは小学校のプールの時間などでは当然のこととされ、はやる気持ちを抑えながらしぶしぶ実行させられていたものです。

その必要性が、いまごろになってなってピアノでわかっていたような気がします。
むかしレッスンに通っていたころは、ハノンのような純粋の指運動からはじまり、ツェルニーなどの練習曲を経由して、最後になんらかの曲を弾くというのがパターンでした。

しかしレッスンに行かなくなってからというものは、そんな義務的な順序など守るはずもなく、いつもいきなり好き勝手に曲を弾いていましたが、だんだんとそういうやり方はよくないのでは?と(今さらあまりに遅いですが)感じるようになりました。

そもそもマロニエ君が下手くそということもあるのですが、いきなり曲に入るとなかなか指が思うように動いてくれません。しかし、たまに長時間弾き続けた時などは、途中からいやでも指がほぐれて、自分なりに指がよく動くようになるのを感じることがあるものです。この状態を人工的に短時間で作り出せないものかと考えるようになったわけです。

そこで、この一年ほどある連続運動を要する曲を、通常のテンポの2倍ぐらい遅いスピードで2回ほど丹念に通して弾くような習慣をつけてみると、これがはっきりと効果を上げたのは我ながら驚きました。
さらにごく最近は、弾きはじめる前に、5分ぐらいかけて両手を使ってお互いの指の間を縦横にゆっくりと押し広げるようにほぐす、あるいは左右互いの手で力一杯握ってみるなどすると、さらに効果があることがわかりました。

いきなり水に飛び込むのではなく、プールサイドでじっとガマンの準備運動というわけです。

これはゆっくり弾くからこそ効果があるようで、それを普通のテンポでやるとまるで効果がないことも経験的にわかり、これまたひとつの発見でした。
ちなみにマロニエ君がこの準備運動に使っている曲はショパンのエチュードop.25-1「エオリアンハープ」ですが、このめっぽう音数の多いアルペジオ地獄みたいな作品を、ゆっくりと老人のようなスピードで一定して弾いてみるのはそれなりに大変で、すべての音をきちんと出してあくまでも丁寧に弾くにはかなりのきつさがあり、一回弾き終えただけでも相当の運動になるものです。そして2回目は心もちスピードを上げます。

たとえばトントンと普通に降りられる階段を、敢えて3倍のスピードをかけてスローモーションのようにゆっくり降りろと言われたら、見た目は静かでも、これは筋肉を非常に使うきつい運動になるのと似ているような気がするのです。
ピアノには指を早く動かす訓練だけでなく、こういうスローな訓練も関節や筋肉のためには意外と役に立つように感じているのですが、実践しているという話はあまり聞いたことはありません。
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心理の力?

人の心理というものは微妙なもので、思いもよらない現象が起こることがあるようです。

というのも、マロニエ君は夜にちょっとした買い物をしにスーパーに行くことがあるのですが、24時間営業だったある大きなスーパーが、夜間はだいたいいつ行ってもお客さんは少なく閑散としていていて(昼間のことはわかりませんが)、率直に言ってあまりはやっているとは言い難い感じでした。

その店は年中無休にもかかわらず、いつだったか数日間店を閉めたので、何事だろうかと思っていたら、ちょっとした化粧直しをして、店名も変えられて再オープンしました。
経営母体は以前と同じですが、営業時間がきっぱりと半分になり、9時から21時までの12時間になりました。

マロニエ君が行く時間帯はだいたい夜の9時過ぎなので、このスーパーに限ってはまずほとんど閉店時間を過ぎてしまうことが多くなってしまったのですが、たまたま外食したついでに夜の8時台だったので久しぶりにそこに立ち寄ったところ、なんと以前は見たこともないような数のお客さんで店内は溢れていて、かなりの賑わいというか、本来のスーパーらしい活気があって、この変身ぶりにはびっくりしてしまいました。

想像するに、夜の9時で閉店するという一線ができたことで、却ってお客さんが増えているといった感じで、経営者の作戦が見事に的中したかのように見えました。
内容的にはこれまでとほとんど何も変わっていないようにしか見えませんでしたから、9時をもって閉店するという事実が人の気持ちを刺激したのでしょうか? 
詳しいことはよくわかりませんが、これが人の心理というものなのかと思いました。

それで思い出したのが、以前テレビでやっていた話ですが、ある片側一車線ずつの比較的幅の狭い道が事故の多発地帯で、対向車同士の接触事故が後を絶たないという場所があったのですが、頻発する事故に頭を抱えた地元警察が施した策というのが驚きでした。
なんと道の真ん中にある中央線をぜんぶ消してしまったらしいのですが、その結果事故は見事に激減したというのです。
中央線が無くなったことで、逆に緊張感が生まれ、以前よりもみんなが対向車に注意して慎重に走るようになったという運転者の心理を見事に突いた処置ということでした。

こういうちょっとした心理の操作によって、人前でも緊張せず楽しんでピアノが弾けるようになればいいのですが、こればかりは永久に無理でしょう。
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世代の特徴

マロニエ君の家の周辺は、街の中心部にほぼ近い位置にもかかわらず、やや丘陵地になっているためにテレビ電波の受信状態が悪い地域ということで、以前からケーブルテレビを使わざるを得ないエリアでした。

さて、このたびデジタルテレビに移行したら、ひとつ困ったことが起こりました。
衛星放送は地デジには含まれないために、わざわざ昔のアナログ放送に切り替えないとこれを見ることができず、しかも来年7月までの命というわけです。マロニエ君にとってはNHKの衛星放送は音楽番組が多いので、普通のテレビはあまり見ないかわりに、これは必要不可欠のチャンネルなのです。

ケーブル会社に相談すると、衛星放送受信用のパラボラアンテナを付けるしかないとのことで、しぶしぶ価格などを調べていたところ、ある有料放送の受信契約をするとアンテナは望外の低価格で設置してくれることがわかり、テレビ購入時にもすすめられてこれに決め、さっそくその会社から工事に来てくれました。

ところが、あらわれたのは意外なほど年輩の、はっきり言えば完全におじいさんという感じの人で、見るなり大丈夫だろうか…と内心思いましたが、この人が設置場所の下見から線の取り回しやなにやらを、いかにも元気良くテキパキとやり始めたのには驚きました。

それに、この世代の人はよく話をするのも今どきでは大きな特徴だと思いました。
話というのも仕事とは直接関係のない、雑談でちょっとお世辞を言ってみたり、自分が屋根から落ちて足を痛めたなどといった、いわば無駄口なのですが、それが度を超さずにパッパッと入ってくるので、雰囲気がとても和むわけです。

一般的にこの手の仕事で現場を回っている人は20〜30代の人が多いように思いますが、彼らは必要以外のことはまず絶対に口を利きません。いわゆる無口とか寡黙というのとも少し違って、ごく自然な人との交流が出来きず、どこか余裕がないという感じです。仕事も型通りで応用がきかず、いつも伏し目がちでコミュニケーションにもまるで覇気がありません。

それに引き換え、このおじいさんは足などもすこし引きずっているようですが、いやはや元気で溌剌として大したものでした。
うちに来たのは昼過ぎでしたが、午前中数軒回って、これからあとも4軒まわると片付けながら言っていました。
「歳なんだけど、私は仕事が好きで、とくに現場が好きなんでね」という言葉が印象的でした。
荷物や工具を満載したワゴン車を一人で運転して、次の訪問先を書類で確認すると元気に去っていきました。
思いがけなく、お年寄りに元気づけられたような格好でしたが、心地よい残像が残りました。

折しも史上最年少という若いお兄さんが福岡市長に当選しましたが、どうなりますことやら。
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アジアの台頭

現在、世界には正確な数さえ掴めないほどの夥しい数のピアノコンクールがあるそうですが、そんな中でも最上級のというか最難関といえる名の通った権威あるコンクールは、せいぜい両手の数ぐらいではないでしょうか。

この国際コンクール。ある時期から日本人の参加者が猛烈な勢いで増加して、主催者はじめ周辺を驚かせているという時期があったのはマロニエ君も覚えがあって、ブーニンが優勝した1985年のショパンコンクールあたりから明瞭に耳にするようになった記憶があります。
当時審査員だった園田高広氏は、その日本人参加者の団体を引き連れてくる親分のように審査員仲間から言われたというような意味のことを、帰国後ご本人がしゃべっているのをテレビで観たほどです。

チャイコフスキーコンクールなども同様で、どこも名だたるコンクールのステージには日本人が大挙して参加し、客席はそれを応援する日本人聴衆で溢れかえり、使われるピアノも日本製があるなど、名だたるコンクールは今や日本人大会と思っていて間違いないなどと嫌悪的に言われた時期がありました。

その後は中国と韓国の台頭が目覚ましくなり、今ではこの二国が世界の主要コンクールの中心を占めるようになり、同時に日本人の参加者は減少傾向にあるようです。これらは一つには、ピアノに対する東洋勢のパワーというのもある反面、欧米のピアノ学習者の数が減少しているという二つの現象が合わさったでもあるのです。

あるピアノのコンクールに関する本を読んでいると、興味深い記述が目に止まりました。
欧米人の参加者が減少していったのは、ピアニストというものが幼少時から厳しい訓練と努力を課せられ、いわば青春時代までのほとんどすべてをピアノのために捧げて育つようなものですが、そうまで一途に励んでも、先がどうなるかはまったくの未知数という、いうなればあまりにリスクの高いピアニストへの道をもはや目指さなくなり、同じ人生をもっと効率よく確実に豊かに生きていこうという計算をするようになり、音楽は趣味が一番という考え方に変わったきているということでした。

まさにむべなるかなで、努力対効果という点でピアニストへの道ほど効率の悪い、理不尽なまでに報われない世界はこの世にないような気がします。
例えば、ショパンコンクールに出場し、さらに一次に受かるような力があれば、これはひとつのジャンルにおいて世界の中の若手40人ほどの精鋭に選ばれたことになるわけですから、他のジャンルでそれに匹敵する実力をつけて職業にすれば、おそらく確実にエリートであり、輝くような地位と報酬が約束されるのはおそらく間違いないでしょう。

ところが、ピアノに限っては、そんな程度ではなんということはありません。
ましてやコンサートピアニストとして認められ、演奏のみを職業として一生涯を送るとなると、桁外れの才能とよほどの幸運が味方しなければまず巡ってくることなどないでしょう。
現に著名コンクールに上位入賞しておきながら、そのあとがどうにも立ち行かなくなり、とうとうコンピューターのプログラマーに転身したというような人もいるとか。

マロニエ君も思いますが、ピアニストになる修行なんて、少しでも冷静に先が見えてしまっならできることじゃなく、まして親ならそんな報われない道へ我が子を進ませようとは思わないでしょう。
たとえ愚かであっても、いつの日か自分や我が子が晴れやかなステージで活躍し喝采を受けるシーンを想像して奮闘できなければ、あんなべらぼうな努力と苦しみの日々なんて耐えられるわけがありませんからね。
その本によれば、音楽の本場であるはずの欧米人(そろそろ日本人も?)はある時期から皆舞台を降りて、客席へと自分達の居場所を変えつつあるのだそうです。
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ある朝突然に

昨日の午前中のこと。
なにげなくテレビニュースを観ていると、今朝がた起こったという交通事故のニュースが流れました。
隣県の高速道路で深夜に発生したというその事故は、はじめに単独事故を起こした普通乗用車に、後続の大型トラックが二台続けて衝突したというもので、乗用車に乗っていた2名がともに死亡するという大事故のようでした。

現場の映像が流れましたが、車はほぼ原型をとどめないまでにグニャグニャに押しつぶされ、事故の苛烈さを物語っていましたが、そのボディーカラーや後部にかろうじて原型をとどめた一部分、さらにはホイールのデザインから、ふとある車種では?という思いがよぎりましたが、それでも損傷がひどくてほとんど判断はつきませんでした。

ところが亡くなったという二人の名前のうち、運転者と思われる男性の名前にちょっと聞き覚えがあったことと、マロニエ君が以前、車のクラブの名簿など作っていたこともあり、テロップに出た姓名の文字が知人と同じだったようなかすかな覚えがあり、思わず妙な気分になりましたがニュースはそれっきり終わりました。

こうなると、なんだかどうしても気に掛かりはじめて昔の名簿を探してみたところ、やはり同じ姓名で年齢も一致しています。その人はずいぶん前にクラブは辞めていましたが、事故の発生現場と住まいは同じ県でもあるので、さっそく友人に電話してみると、彼もそのニュースは見たらしいのですが、そこまで思いは至らなかったといいます。

で、事故現場の地元に近いメンバーに電話をしてみると、彼はまったく何も知りませんでしたが、マロニエ君の話を聞くうちに声がしだいに硬直してくるのがわかりました。
嫌な可能性はますます濃厚となり、ちょっと確認してみると言いはじめました。しばらくして向こうからかかってきた電話では、やはり亡くなったのはその元メンバーの方で、現在、車のディーラーであるその人の店では大騒ぎになっていたという話でした。

マロニエ君はその人とはとくだん親しいというほどの間柄ではなく、さらにここ数年は会っていませんでしたが、それでもある時期はしばしばお会いしていましたし、友人がその人の世話で車を購入して、その引き取りに同行したり、一度などは自宅にお邪魔して車などあれこれと見せていもらったり、クラブミーティングの幹事をやっていただいたりしたこともあるだけに、やはり静かな衝撃が時間とともに深まってくるような思いでした。

テレビドラマなどでは、平穏な茶の間のテレビニュースで知人が関係した事故や事件を偶然知るというシーンがあるものですが、あんなことはあくまでドラマの中の作り事で、実際にはまずないことだと思いこんでいましたが、ほとんどそのままの、生まれて初めての嫌な経験をしてしまいました。

決まり文句のようですが、心よりご冥福をお祈りするとともに、同じハンドルを握るものとして、安全にはくれぐれも注意しなくてはいけないと、事故の恐ろしさを再認識した次第です。
また、残されたご家族のことを思うとただただ胸が痛みます。
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ホールでの雑感

先日は知人からの急な誘いで、とあるホールのピアノを弾かせてもらいに行きました。
ここはすでに何度か足を運んだことのある会場で、新旧二台のピアノを弾くことができました。

古い方のピアノは50年近く経過したピアノですが、管理がいいことと、このホールの主治医(保守点検をする技術者)の腕が優れているために、非常に素晴らしい状態が保たれています。
それだけでなく、この世界の名器の持つ強靱な生命力にもあらためて感嘆させられました。

とりわけ今回感じたことは、そんな歳のピアノなのに、タッチが非常に瑞々しくてコントローラブルな点です。
タッチはピアノの中でもとりわけ機械的物理的要素の強い部分だけに、古いピアノではまっ先にガタなどがでるものですが、それがこれだけ良好な状態を保っていること自体、驚きに値することです。

もちろん50年近い時間経過の中でどのような経過を辿ってきたかは知る由もありませんから、専ら今現在のことしかわかりませんが、どう考えてみたところで、結局はピアノの素性の良さ、手入れの良さ、それに主治医の優秀さ以外には思い当たりません。

唯一残念なのは音の張りと伸びがやや劣ることで、これはマロニエ君の素人判断では、ずいぶん長いこと弦交換がなされていないためだと思われました。弦やハンマーはいわゆる消耗部品ですから、その点だけは技術者の日ごろの管理だけではどうにもならないものがあり、交換するにはかなりのコストも要することからホール側、あるいは行政側の担当者の意向に大きく左右されることでしょう。
これが関係者の間で実行されるような判断が働けばいいのにと、部外者のマロニエ君は切に思うばかりです。

いまさらですがホールという空間は実に不思議な、魔法のような空間だと思いました。
それはピアノの周辺ではピアノの音は自宅で聞くそれよりも一見パワーがないように感じるものですが、少し離れて客席に移動すると状況は一変し、朗々とした力強い響きが解き放たれるようにあたりを満たしていることがわかります。さらにホールの中央から最後部へと場所を移しても、音源からの距離の違いがもたらす響きの違いはあるにしても、ピアノの音のボリューム自体はほとんど変わらないかのように聞こえるのは、あらためてすごいもんだと思います。

よく雑誌の企画などで、「あなたの理想のピアノの音とはなんですか?」といったたぐいの質問に、判で押したように「ホールの隅々まで行きわたるような音」という意味の答えをするピアニストが多く見受けられるものですが、ホールでこういうチェックをしてみると、それはピアノというよりは、ホールのほうに寄せるべき心配だと思われましたし、よほど時代遅れな音響設計のホールでなければ、多少の差異はあるにせよもうそれでじゅうぶんでしょう。

そんなに音が隅々まで行きわたってほしいなら、それに値する質の高い演奏、人の心にしみわたり、魂を揺さぶるような音楽を聴衆に提供することに専念してほしいものです。
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ヤミ業者の恐怖

家族からちょっと恐ろしい話を聞きました。
恐ろしいといっても怪談のたぐいではありません。

テレビニュースで言っていたというのですが、家電製品などの無料引き取り屋というのがよくマイクで町内を呼びかけながら回ってしていますが、あれがとんだ食わせ者だというのです。
言葉ではどんなものでも無料で引き取るなどと連呼しているので、てっきりそうなのかと思っていましたが、その許しがたい実体たるや驚くばかりでした。

このいわゆる回収業者は、市などの行政の認可をまったく受けていないヤミ業者である場合が多く、実際に声掛けして不要品の引き取りを頼もうものなら、無料どころか、とんでもない高額な請求をしてくるのだそうで、その一つが捕まったことからニュースとして報道されたらしいのです。
認可を受けたちゃんとした業者であれば、車(主に軽トラックなど)に業者の名前と認可の番号などが大書されているらしく、ヤミのほうはなにも書かれていないので、まずはそこで識別する必要があるそうです。

驚いたのはその金額で、安くても数万円、中には一回の利用で40万も請求された被害者もいるとか。
このヤミ業者にはごろつきのような若者が多いそうで、今回捕まったのも二十歳そこそこの社長だったらしく、被害者は主に高齢者などが多いとか。

はじめは笑顔でさも親切げに対応し、お年寄りにしてみるとまるで可愛い孫のような態度で接近してくるので、すっかり気をよくしてつぎつぎに廃品の処分を頼むらしいのですが、それらをトラックに積み込んで作業が済むと、態度を一変させて高額な請求を迫ってくるとか。
驚いた依頼者がこの時点で何を言っても、時既に遅しで、なす術はないそうです。
ではキャンセルするといっても、もう荷物を降ろすことはできないと抗弁して、気が付くとはじめ何人かいた他の仲間はいつの間にか姿を消していて、人手もないから無理だなどとなにがなんでも言い張るそうです。

彼らが主に高齢者を狙う理由としては、若者の親切に対して無防備で騙しやすいという点と、高齢者ほど長年生きてきたぶん、なにやかやと持ち物も多く、餌食になる要素が多いというもので、まったくひどい話でした。

もうひとつの理由としては、家電や粗大ゴミを処分するには、引き取り業者に電話して、コンビニでチケットを買ってきて貼り付け、指定された日に出しておくなど処分にまつわる煩雑さがあるために、そういう手続きに事に慣れていない高齢者などが、前を通りかかったこれらの呼びかけに反応してしまうという見方もあるという事でした。

こうして大金をせしめた彼らは、当然ながらそれらを正当に処分するはずもなく、さらに罪を重ねて山奥などに不法投棄するという、まさに絵に描いたような流れだそうです。
みなさんもくれぐれもお気をつけくださいね。
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行商ピアニスト

現在読んでいる様々なピアニストの事が書かれた本の中に、日本人で国際的に活躍する女性ピアニストのある時期のスケジュールに関する記述があって驚きました。

まあ敢えてピアニストの名前は伏せておきますが、たとえばこんな具合です。
イギリスから北欧に移動し、レコーディングでドビュッシーの12の練習曲他を録音してすぐに帰国、ただちに数箇所でリサイタル、それが済むと別の場所で今度はジャズピニストと共演、再びイギリスに戻りさる夏期講習の講師を務め、さらに友人ピニストと2台のピアノのコンサートに出演、そして再び帰国。翌日ただちに夜遅くまで軽井沢の音楽祭のリハーサル、さらに翌日の本番ではリストのロ短調ソナタを弾いて、終演早々に東京に戻り、翌日再びヨーロッパへ。今度は北欧のオーケストラとラヴェルのコンチェルトを弾く──といったものでした。

本人曰く、イギリスと日本との往復が激しく、だいたい一年のうち一ヶ月は飛行機の中で過ごしているんじゃないかということです(これって自慢なのか?とつい思いましたが)。
ともかく、たった一人で年中旅に明け暮れ、ホテルとホールを往復して、終わればまた別の場所に向かうことの繰り返し。
日本人で国際コンクールに上位入賞しても、こういう生活に耐えられない人はヨーロッパに留まって活動はしていないということでしたが、それが普通でしょうね。

これを可能にするにはピアノの才能は当然としても、体力、精神力、孤独に対する強さなど、まるで音楽家というより軍人のような資質が求められるようです。
体も健康で、神経も強靱で図太く、こまかいことにいちいち一喜一憂するようではとても間に合いません。

しかし、マロニエ君はこれが最先端で活躍する政治家やビジネスマンならともかくも、ピアニストという点が非常にひっかかりました。こういう苛酷な生活を可能にするような逞しき神経の持ち主が、はたして、もろく儚い音楽を感動的に人に聴かせることができるのか、繊細の極致とも呼ぶべき音楽作品を鋭敏な感受性を通して音に変換し、演奏として満足のいくものに達成できるのかどうか。

実はこのピアニストはずいぶん前に私的な演奏会があってたまたま招かれたので、たいへんな至近距離で聴いたことがありますが、それはもうまったくマロニエ君の好みとは懸け離れた、ラフでときに攻撃的な演奏で、小さな会場ですら聴き手とのコミュニケートがとれず、ひとり浮いたようにガンガン弾き進むだけの演奏でした。
演奏の合間のトークも手慣れたもので、なんだか日ごろから演奏とか音楽に対して抱いている、あるいは期待しているイメージとは程遠いものを感じて、そういう意味でとても印象に残っていましたので、この本を読んでこの人のことが書かれているところには妙に納得してしまいました。
但し文章の論調はこの女性を褒めているのですが、そこはまあ本人に取材して書いているのでやむを得ないことなのでしょう。

こういう事実を突きつけられると、ホロヴィッツ、ミケランジェリ、グールドのような傷つきやすい繊弱な神経をもった真の芸術家がコンサートを忌避してしまう心情のほうがよほど理解に易く、しかも困ったことに聴きたいのはこういう人達の演奏なのですから皮肉です。
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季節の変わり目

このところすっかり冷え込むようになりました。
冬の到来はなんとなく身も心も引き締まるようで、マロニエ君は寒くなるのは人がいうほど嫌いでもないのですが、季節の変わり目は体がなかなかそれに順応して切り替わってくれず、こういう時期を通過するのが一つの山ともいえます。

恥ずかしながら、自律神経があまり上級品じゃないためか、気温変化に対する適応力が低く、体がかならず一定期間抵抗するような気配です。
自分だけかと思っていたら、最近はこの手の体質の人がわりに多いらしく、明確な病気でもなく、だから病院に行ったところですぐにどうかなるものでもないために、人知れずじっと耐えるしかなくて、皆さんも苦労していらっしゃるようですね。いうなれば軽い慢性現代病の一種のようなものだろうと思います。

まわりをちょっと見回してみても、日常生活に際立った支障はないものの、こんな時期、どこか体調がすぐれないという状態の人は多く見られます。
アレルギー過敏やなにやらいつも風邪をひいているような人などもいますが、いずれも類似した部類のような気がします。
要は昔の人のような原始的な抵抗力が弱まってのでしょう。

さらにマロニエ君の場合で言うと、以前にエアコン依存症ということは白状したことがありますが、まさにそこに端を発したと思われる困ったクセがあって、ひとことでいうなら冷房か暖房のどちらかが作動していないと心理面でも落ち着かないのです。

落ち着かないぐらいならいいのですが、この時期はいわば四季の端境期で、中途半端なジワリとした冷え方をすると風邪をひきかけるのか頭痛がして、それがかなりひどいので大変です。
といってストーブを入れると、今度は熱くてムンムンしてきて消したくなる。消せばやっぱり寒い。
だからこういう時期は苦手ということになるわけで、はやくつけっぱなしに出来るぐらい寒くなってくれたほうが体調がよくなり元気もでるのです。

それにエアコン類を停止させると、空気の動きが止まり、同時に苦しげな「無音状態」に包まれるような気がして、これがまた妙に不安で気分的に苦手なのです。

似たような事で思い出したのは、屋内で飼われている犬は、人間が出かけて留守番をさせられる場合、静かすぎる部屋にずっとおかれると却って不安でストレスになるというので、人によってはテレビやラジオの音を小さく出してつけっぱなしにしておいてやるという話を聞いたことがありますが、なんだかまるでマロニエ君のエアコンもそれに似ているような気がしました。
要は、マロニエ君の心理レベルがそっちに近いということなのかもしれませんが。
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ご同慶の至り

日曜は大変お目出度いことがありました。
かねてよりピアノ購入を検討していたマロニエ君の知人が、ついに決断したのです。

その人とは何カ所かのピアノ店を回りましたし、その他の場所でも共に弾いて楽しむ趣味のピアノの仲間です。
ピアノと音楽が好きという点では大いに共通していますが、彼はとりわけ古典派の作品を嗜み、一人の作曲家なり一つの作品にキチンと真面目に打ち込むタイプで、その点ではあれこれと節操なく弾きかじっては一箇所に落ち着けないで、中途半端な仕上がりばかりを増やすマロニエ君とは大違いです。

購入機種の候補としては国産のピアノにも気になるものがあり、あれこれと考えていたようですが、なにしろ現在の住まいがグランドピアノを置けない環境らしいので、ピアノ購入はいずれどこかへ引っ越してからの事とゆったり構えていたところへ、マロニエ君の知る技術者からの話が飛び込んできて、その人が取引をしている海外のブローカーからの情報がもたらされました。

今はまだその時期ではなかろうと思いつつ、「いい話だから伝えるだけは伝えてみて欲しい」と言われ、ひとまずダメモトで言ってみたのが事のはじまりだったのですが、それが結局は購入へと実を結んだわけです。
考えてみれば、ピアノに限らず、自分が一番好きなことに関する情報は、そうそう軽く聞き流して打ち捨てることは人はできないものかもしれませんし、逆に行動を起こすきっかけになるのかもしれません。

はじめ2台だったものにもう1台加わり、計3台のピアノ情報が寄せられたのですが、なにしろピアノは遠く異国の地にあり、写真を見る以外は、触れることも音を聴くこともできません。
写真は要求するたびに数を増し、しまいには響板の裏から撮った写真まで送られてきましたが、こんなときネットの力はやっぱりすごいもんだと思いました。

本当は現地へひとっ飛びしてくるのが一番良いのですが、遠い外国ともなるとそう簡単にもいきません。
結局写真と情報だけで決断せざるを得ず、本来ならこんなピアノの買い方は決して正しいとは言えず、マロニエ君としても現物確認できないことが人ごとだけによけいに気にかかりました。
しかし、そのかわりにはいろいろと都合のいい事情が絡んだことと、折からの円高で、価格は国内で買うよりも有利ということもあり、万が一気に入らなくても決して損になるような買い物ではないという判断も働いて、ついに購入の決断に至ったというものです。

写真によると、ピアノは美しいギャラリーの一角に置かれていただけのようで、製造後10年足らずであまり弾かれておらず、非常に程度がよさそうなピアノであることが窺えたのも決め手だったようです。あとの2台はすでに60年前後経過しているピアノで、これはこれで魅力だったのですが、今回はできるだけリスクを避けて新しめのピアノになりました。

本当はこんな隔靴掻痒な書き方はせず、もっと具体的にダイレクトに書きたいところですが、まあ浮き世にはいろいろと障りもあるかもしれず、なにぶん自分のことではないので、今のところこんな表現しかできないことを申し訳なく思います。

そのピアノがいつごろ遠路はるばる日本へやって来るのかはまだわかりませんが、今どきの発達したトランスポートシステムと、間に立っているのがその道のプロということも考えれば、そう遠いことではないと思われ、非常に楽しみです。
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日本の清潔文化

最近は行っていませんが、中国などから帰国すると真っ先に感じることは、日本の清潔さです。
これは海外といえば欧米ばかりで、アジアの周辺諸国に旅したことのないような人にはわからないことかもしれませんが、同じアジアでありながら、日本の清潔さはまさに別世界のそれで、突出していることを毎回感じさせられるものです。
家に着いても、まっ先にお風呂にでも入らないことには、全身が独特な汚れにまみれているようでゆっくりできないと感じるほど、やはり向こうは基本的に違います。

上海、台北、ソウルなど、どこも街は大都会、空港も広大かつ近代的で、パッと見た感じはそれはもうなかなか立派なものですが、そこを出発して福岡空港に降り立つと、規模こそ小さいものの、飛行機を一歩降りると、そこは気品とでもいいたくなるような静寂の世界で、いきなり目に入る塵ひとつない床や磨き抜かれたガラス、入国審査窓口のたとえようもなくキチンとした感じなど、すべてが日本基準であることに気付かされ、何日間か忘れていたものがいっぺんに蘇ってくるようです。

普段はなんとも思わない見慣れた街並みまでが、まるで前日に石鹸ででも洗ったようにきれいで、タクシーも滑らかで乗り心地がよく、ついさっきまで冒険旅行にでも行っていたような気分になるものです。

実は仕事の関係で、昨日も近くの国から二つほど荷物が届いたのですが、まあ相手の方がこのブログを読む心配は絶対にないから書きますが、とにかく荷そのものが何故?と不思議に思うほど薄汚れていて、荷をほどくのもちょっとした覚悟を要するような妙な迫力を醸し出しています。

もちろん外国郵便ですから、途中いろんな機関や窓口を経由してはるばる旅してくる間には、相応に汚れもするだろうとは思いますが、それが実は外側だけではないのです。

中の物が破損しないように、梱包材のプチプチみたいなものに厳重にくるまれていますが、中の中まで薄汚れた感じは変わらず、荷ほどきがおわり、大量のプチプチを一箇所に集めると、このかたまりがなんと日本で見るものとはかなり色が違うのです。全体に薄茶色っぽくほこりをかぶった感じで、実際にもうす汚れているので、とにかくまっ先に外に出してしまおうと思ってしまいますし、その次は石鹸で盛大に手を洗います。

これが日本ならいわゆる普通の透明のビニール色ですが、むこうのものは同じようなものでも、手触りからなにから違うのです。こんなものひとつとっても日本は本当に綺麗だといまさら感心させられます。
こういう普段気もつかないようなことが異なるということ自体が文化であり、日本という国には、他国がとても追いつくことの出来ない高度な文化が息づいているのだと思います。
それを知るだけでも、周辺諸国への旅は非常に勉強になるものですし、こういう点はつくづくとありがたい国だと思います。
〜と、こんなことを言っていますが、だからこそ近隣諸国への旅は驚きと発見の連続で楽しいですよ!
みなさんもぜひどうぞ。
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秋のソナタ

名匠ベルイマン監督の『秋のソナタ』をまた見てしまいました。(冬ソナじゃありませんよ!)
1978年のスウェーデン映画で、主演の大女優イングリット・バーグマンにとっては、マロニエ君の記憶が間違っていなければこれが最後の映画だったように思います。

ピアニストで家庭を顧みないシャロッテ(バーグマン)が恋人と死別したことを機に、7年間も会っていなかった中年の娘から招待をうけてやって来るのですが、この映画の主題とも言うべき母娘の葛藤を軸に進行していきます。
舞台の大半は娘夫婦の自宅のみで、映画というよりは半ば戯曲のような調子で、人間に内在するさまざまな問題がこまかいやり取りを通じて赤裸々に描き出されます。

おそらく多くの人はこの映画を親子の愛憎の問題として捉えることだろうと思います。
恋にステージにと奔放に生きてきた母親は家庭は二の次で、夫と子ども達はいつもその犠牲で取り残され、長年積もりに積もった娘の心の傷は、ある夜ふとしたことから爆発します。
もちろんシャロッテが一般論として悪母悪妻であることに意義はありませんが、そこにもうひとつのテーマがあるように思います。

何かにつけけ華やかな世界に棲み音楽と演奏旅行に明け暮れた母と、容姿にも恵まれず目立たない日陰のような真面目一本の娘は、むごいまでに悉くの価値観を異にします。
マロニエ君は人間関係で最も絶望的なものは価値観の相違だと思っています。
価値観というものが人を動かし、統括し、人がましく生きるためのいわばベースだと思いますし、言いかえるなら思想そのものでもあると思われます。価値観とは皮膚であり血液であり、すなわち人格でしょう。

これがあまりに相容れないとなると、ほんのささいなことで軋みが生じ、対立やすれ違いの連鎖となり、永遠の平行線であるという事実を容赦なく描いているようにも思えます。
価値観が相容れない者同士がどんなに努力をしても、そこに残るのは虚しさと疲労と絶望のみ。
それが親子という縁の切れない関係であれば、よけいにその絶望の溝は大きな傷口のように広がるばかり。

娘は夫に促されて、いつも練習していたショパンのプレリュードの2番を母の前で弾いて聴かせるというシーンがありますが、それはなんともこの娘らしい、必死な思いこみだけでひどく独善的な、聴くに堪えない解釈であったところは非常によくできていると思いました。それを聴いている間のシャロッテの悲痛な思いを娘に遠慮して押し殺したようなバーグマンの表情がまた見ものです。
そのあとに語られたシャロッテによるショパンとこの作品の解説は、まったく正鵠を得た見事なものでした。
そして、それがまた娘を再び傷つけるのですが…。

人間の問題は善悪だけでは解決できない、ましてやきれい事ではすまないことのほうが圧倒的に多く、つくづく難しいものだということを見せつけられたようでした。
しかし、大変充実したマロニエ君好みの映画であることは間違いありません。
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鯛焼き

車でとある交差点を曲がっていると、いつもそこに鯛焼きのちょっとした有名店があるのが視野に入りました。
以前から存在だけは知っていたので一度買ってみようかと思いつつ、店は交差点のど真ん中で、車族のマロニエ君にとってはきわめて挑戦的な場所に位置する店でした。
交通量も多く、周辺はとうてい車が置けるような状況ではないのでずっと諦めていたところ、なんのことはない、少し先にこの店の駐車場があることがわかり、それではということでとりあえず買ってみることにしました。

マロニエ君は基本的に、博多では回転焼きといわれる甘味(一般的には今川焼き、太鼓焼きなどという丸形の鯛焼きの親戚みたいなもの)が好きなのですが、これが意外とどこにでもあるわけではなく、確実に買えるのは天神のデパ地下なのですが、これも人気があってしばしば行列になるのが甚だおもしろくありません。

東京から広がったと思われる卑しき文化のような行列というのがマロニエ君は心底嫌いで、ホロヴィッツのコンサートのチケットとでもいうのならともかく、たかだかちょっとした食べ物を買うのに、いちいち時間を使って行列に堪え忍ぶという自虐行為がどうにも馴染まず、行列を見たら反射的にパッと避けてしまいます。

ところが人によっては行列を見ると逆に並ばずにはいられないという御仁もいらっしゃるというのですから、いやはや世の中いろいろです。
長い行列の場合、それが果たしてなんのための行列かもわからないまま、ともかく最後尾に並んでおいて、しかる後にその行き着く先がなんであるかを探って確認するというのですから、ここまでくればあっぱれですね。

さて、ついに買ってみたその鯛焼きですが、家に持ち帰ってさっそく食べてみたところ、多少時間が経っていたということはあるにせよ、あまりにも外側がガチガチに固くて、なんじゃこりゃ?と思いました。
なんとか一口食いちぎっても、固いのでなかなか喉を通らず、お茶をのみながらやっと一個を食べおおせました。

中の白あんも雑でモサモサしていて、マロニエ君的にはぜんぜん美味しいとは思えず、なんであんな店が有名店なのかまるでわけがわかりません。
実はこの店もしょっちゅう歩道に人が行列しているので、味はそれなりかと思っていたのですが、到底納得しかねるものでした。
おまけに固くてやみくもにアンコを噛んで食べたせいか、しばらくのあいだ糖分で奥歯が痛くなるほどで、えらく損をした気分になってしまいました。

友人に言うと「文句の電話でもしたら?」といいますが、いかなマロニエ君でもまさかそこまでしようとは思いません。ただし、行列はいよいよ当てにはならないと思い定めた次第です。
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スイーツ通り

我が家のご近所には、このところ2つの甘い物の店が立て続けにオープンしたことで、以前からある店を含めると4つの甘い物の店が軒を並べることになりました。

いまさら店名を伏せる必要もないので書きますと、チョコレートの「カカオロマンス」、洋菓子の「浄水ロマン」、さらには最近オープンしたゼリーの専門店らしい「ROKUMEIKAN」、和菓子の「源吉兆庵」で、期せずして4店が横一列に連なる配列となりました。

マロニエ君は酒は飲まずの甘い物好きですから、環境的には嬉しいような気もしますが、実はこのうち洋菓子以外はあまり行かない店ばかりです。「ROKUMEIKAN」は銀座に本店があるゼリーの専門店らしいのですが、わざわざゼリーを買いに行こうとは思わないし、「源吉兆庵」はデパ地下ではおなじみのブランド和菓子です。

本音を言うとご近所に欲しいのは、こんな進物専用みたいな店ではなく、もっと安くて日常性のあるお店ができてくれることを望んでいるのですが、なかなかそうはならないものですね。

洋菓子店だけはいくつできても歓迎ですが、あとはできれば蜂楽饅頭の店とか、パン屋のたぐいが増えてくれるといいのにと思います。チョコレートは好きで昔はここでよく買っていましたが、ゴディバの台頭いらい値段もどんどん上がり、一粒の値段を考えるとあまりにもバカらしくて買う気もなくなりました。

「源吉兆庵」は進物でいただいたものは何度か食べましたが、マロニエ君の好みではなく特にどうとも思いませんし、これまた普段のおやつという感じではないのであまり行かないでしょうね。

それとこれらの新規オープン2店はマロニエ君にとって決定的な問題点があります。
それはいずれも駐車場がないこと。

我が家の位置を知っている人なら、駐車場の有無を言うなんてさぞ驚くでしょうが、これがダメなのです。
たぶん徒歩で2〜3分で、それをわざわざ車で行くなんて、大半の人は目が点になるでしょうが、マロニエ君としては店の前にパッと車を置けないと、それだけで行く気がしないのです。

こんな調子で長年生きてきましたから、たぶん変えられないと思います。
こんな悪いクセも、酒やタバコに溺れるよりは多少はいいかなと自分だけ思っているわけですが。
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商業主義

ネットでCDなどを検索しているとやみくもに時間をとって、気が付いた時にはぐったりと疲れてしまっている自分がそこにあり、ほとほとイヤになるものです。
「気が付いたら」というのは誇張ではなく、見ている間はかなり集中しているので時間経過に対する意識が薄くなっているのでしょうが、だからこそ無意識に無理をしてしまいちょっと恐い気がします。
目や神経は疲れ、体を動かさないぶん血流が悪くなっているようだし腰も疲れ、文字通りぐったりです。

それでも思わぬ発見をしたときなどは小躍りしたくなるほど嬉しかったりするのですが、たまにそんな経験があるばっかりに、また懲りもせずに見てしまい、そして疲れて終わりということのほうが多いわけです。
実際は発見なんてそんなにざらにあるものではないのですが。

その思わぬ発見というのとはちょっと違いますが、一応発見してびっくりしたのは、マロニエ君の部屋の「今年聴いたショパン(No.23)」であまりのひどさについ批判してしまったバレンボイムのショパンについてです。
今年の2月ごろ、ショパン生誕200年を記念してワルシャワで行われた一連のコンサートの中のバレンボイムのリサイタルには好みの問題を超越してそのあまりな演奏に驚いた次第でしたが、なんとそれがそのままDVDとして商品化され、今月下旬に発売されることを発見し、唖然としました。

内容の説明が重ね重ねのびっくりで「繊細で色彩感溢れるバレンボイムのピアニズムが凝縮された演奏。解釈は濃厚なロマンティシズムに溢れ、深みがあり、まさに巨匠の風格。ライヴの高揚感も加わり、観客を魅了するブリリアントな演奏を堪能することができる映像です。」ですと!

演奏の評価は主観に左右されるのをいいことに、あまりにも現実からかけ離れた表現だと思います。
どんなものにも大筋での優劣というのは厳然とあるのであって、良いものは個々の好みを超越して存在するし、逆もまた同様というのが芸術の世界であるはずです。

もちろん今どきのことですから、このイベントの計画段階からビジネスがガッチリと組み込まれ、版権を得た企業とは主催者・出演者とも厳格な契約が結ばれたはず。演奏の出来映えがどのようなものであっても、明確なアクシデントでも起きない限り予定された商品化は実行されるのかもしれませんが、だから商業主義などと言われてしまうのでしょう。

昔の芸術的道義に溢れたアーティストは、苦労して収録された録音に対してもなかなか発売のゴーサインを出さず、数年を経てやっと発売、あるいはお蔵入りというようなことはよくあることで、それだけ自分の芸術に対して責任を持っていたということです。

「これぞ巨匠の芸!」というサブタイトルも空虚に響くばかりです。
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ドッグイヤー

先の雑貨戦争のみならず、天神そのものの規模は年々拡大していくようですが、にもかかわらず書籍やCD店のようなカルチャーの分野に関しては、一昔前のほうがうんとレベルが高かったように思い起こされてしまうのは暗澹たる気分です。
何事も拡大発展していくときは気分も浮かれて嬉しく感じるものですが、後退するときの失望感はやり場のない虚しさがあるものです。

10年ぐらい前は今とはまるで違っていて、天神には大型書店があちこちに軒を並べていました。
丸善、紀伊国屋、八重洲ブックセンター、ジュンク堂、リブロ天神などがひしめき、それらを回るだけでも楽しいものでした。
ところがその後、数年のうちにつぎつぎにクローズしはじめ、現在残っているのはこの規模ではジュンク堂のみ。

書籍だけではありません。
CD店も一時はヤマハ、山野楽器、HMV、ヴァージンメガストア、タワーレコード、メディアセンター、文化堂など「今日はどこにしようかな…」といった状況でしたが、これも潮が引くように次々に撤退を重ね、残った店も売り場が大幅に縮小されてしまったりと、かつての面影はありません。
けっきょく現在ではマロニエ君の頼みの綱はタワーレコードしかありません。
その他の店はてんで種類が少なくて、ものの役に立たないからです。

追い打ちをかけるように、テレビなどで今さかんに言っていることは、これから先は電子書籍の時代になり、紙の本が姿を消すこともあるなどと、耳にするだけでも思わず嫌悪感を覚えるようなことを言っています。
ポイ捨てのフリーペーパーや雑誌ならまだしも、先人が残した至高の文学作品の数々を、液晶画面を操作しながら読むなんて、とてもじゃないですがそんな気にはなれません。

また、ある本を読んでいると、CDはあと5年ほどでなくなるのでは?というような兆候もすでにあるらしく、そんな時代、考えただけでもゾッと鳥肌が立ってしまいます。
そのうちピアノもiPadみたいなものを譜面立てにおいて、その液晶画面を見ながら練習するのでしょうか。

時代は進歩し、社会のあらゆる仕組みが猛スピードで刷新されて行くというのはわかっていても、それにしても現代の時間速度はドッグイヤーなどと揶揄されるように、あまりにドラスティックで早すぎ、どこか残酷な肌触りがあるように感じませんか?
紙の本がなくなり、CDがなくなるのは、マロニエ君には100年先でじゅうぶんです。
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福岡雑貨戦争

何日か前の新聞紙上に記事として掲載されていましたが、福岡は今、天神を中心とする雑貨戦争になっているという事でした。
この分野では最も古い店舗がインキューブですが、数年前にはロフトが開店したことで、売り場面積ではこちらが一歩リードしていたようです。

その後オープンしたパルコでも、出店している150店中50店が雑貨店だそうで、関係者の話によると雑貨店はお客さんの滞在時間が長く、あちらこちらに「買い回り」という動きをするとかで、現在この分野が大きな注目を集めているということでした。
実際にはきっとそれだけではなく、なかなかモノを買わない若者相手に、値がはらず、見るだけでも楽しめる雑貨でなんとか気を惹こうという、苦しい戦略のようにも見受けられますが。

また来年春には博多駅の新ターミナルが竣工開業し、核テナントのひとつが東急ハンズになるので、この福岡を舞台にした雑貨商戦はますます熱を帯びそうな気配らしいのです。

そんな状況を迎え撃つためか、インキューブでは最近、上階の大型飲食店だったスペースを売り場に改装してつい最近オープンし、ロフトと並ぶ最大級とやらの売り場面積を確保したらしいのですが、ちょっと行ってみると、増床部分は時代を反映してか化粧品や健康関連の、いわば生活に関連密着した物ばかりが並んでいて、特段の新鮮味は感じられませんでした。

こうして、似たような店ばかりがあっちにこっちに出来たところで、結局は同じような店や物が増えるだけという気がします。
雑貨店は通りすがり程度に眺めてみること、ちょっと珍しい物やこぎれいな物があったりと、それなりの楽しさがあるのはわかるのですが、だからといって地元の人間がそうそう何度も行くとは思えません。
もちろん田舎からはるばるやって来る人には目新しい印象を与えるのかもしれませんが。

そんな店舗がどんどん増えて、一見華やか賑やかに見えますが、結局はどこもおなじことの繰り返しで、必ずや互いに足の引っぱっり合いになる(もうなっている?)という気がします。
これから先、年賀状、来年のカレンダー、ダイヤリーなど、結局おなじようなものがこれらの店頭に溢れかえると思うとなにやらうんざりしてしまいます。
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ピアノを買うこと

一昨日書いたロート製薬のスタインウェイとピアノ同好会が紹介された同じページには、もう一つの微笑ましい文章が記されていました。
音大を出たわけでもない、ピアノがさして上手いわけでもない普通のサラリーマンが、友人がグランドピアノを買って喜んでいる姿を見てどうにも羨ましくなり、酒もタバコもやらないその人は、ついにS社のA型を買ったというのです。

果たしてピアノが来てからというもの、家に帰るのが楽しくなり、購入から2年後には結婚されたもののピアノはもちろん一緒で、いまは奥さんが昼間弾いているのが「ちょっとずるいな」という気がするという、ほのぼのとしたいかにも幸福感にあふれた話でした。

実はマロニエ君もこのところ、ピアノ購入を検討している知人の話を聞きながら、ピアノを買うということには、たとえ人の事であってもなんともいえない楽しさと華やぎがあり、そこから漏れてくる空気をクンクンと犬みたいに嗅いでは楽しませてもらっているところです。

ピアノが購入者のもとにやってくるということは、昔の嫁入り行列ではないですが、なんともお目出度い人生上の慶事のように思います。
これがもしヴァイオリンやフルートだったらどうなんだろうと想像してみますが、なんとなく少しニュアンスが違うように感じてしまうのは、マロニエ君がピアノ好きという理由だけではないようにも思うのですが。
ピアノを買うというのは生活の質までも変えてしまうような、きわめて情緒的な要素が強くこもっていて、なにか特別な事のような気がします。

例えば新しい立派なホールが落成しても、そこにピアノが納入されてはじめて、ホールに命が吹き込まれ、魂が込められるような気がするのはマロニエ君だけでしょうか?

ましてや一般人でピアノを購入するというのは一大イベントです。
とりわけ最近は電子ピアノという便利な機械が普及しているので、その前段階を踏み越えてついに本物のピアノを手にするというのは、まるで一人家族が増えるのにも似た心の高ぶりがあっても不思議ではないように思います。

これから共に過ごす長い年月、音楽という何物にも代え難い喜びを一緒に楽しむいわば伴侶も同然ですから、さまざまな予想を巡らせつつあれこれと検討してみるだけで心躍ような気持になるはずです。
それにつられて、マロニエ君も無性にピアノが買いたくなって困ってしまいます。
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ロート製薬

先に紹介したモーストリークラシックのスタインウェイ特集を見ていると、目薬などで有名なロート製薬の会長(といっても若い方でしたが)がピアノが好きで、大阪の本社には800人収容のホールがあるそうなのですが、そこに今年スタインウェイのコンサートグランドが入れられたとありました。

親しい楽器店から購入したというそれは、1962年のD型といいますからすでに50年近く経ったピアノです。
一説には、戦後のハンブルクスタインウェイでは1963年前後のピアノがひとつの頂点だと見る向きもあるようで、まさにその時期の楽器というわけでしょう。

この若い会長は小さい頃、いやいやながらもピアノを習った経験を生かして現在では練習を再開し、家にもヴィンテージのスタインウェイA型があるとか。
こうくると、その親しい楽器店というのもおおよその察しがつくようです。

驚いたことにはロート製薬の中にクレッシェンドという名の20名ほどのピアノ同好会があり、この自前のホールとピアノで演奏を楽しんでいらっしゃるそうで、なんとも粋な会社じゃないかと思いました。

20名というのがまたジャストサイズで、ピアノに限らずサークルやクラブのたぐいは会社や政党と違って、大きくなれば良いというものではなく、一定人数を超えるとどうしても会はばらけ、情熱や意欲がなくなり、互いの親密度は薄れ、参加意識も責任意識も失われていくものです。これに伴い人同士の交流も表面的なものに陥るばかり。
ここに天才級の坂本龍馬のようなまとめ役でもいれば話は別でしょうが、一般的にはこの法則から逃れることはできません。
マロニエ君もピアノではないものの、趣味のクラブを通じてそのことは身に滲みていますし、現にそれを知悉して人数の制限をすることで密度の高い活動を維持しているピアノサークルもあるようですが、これは実に賢いやり方だと思います。

それにしても、わずか20名が「自前のホールとスタインウェイ」で例会を楽しむというのは、ピアノサークルにとってまさに理想の姿ように思われます。
マロニエ君が所属するピアノサークルでも、リーダーの頭を常に悩ませるのは定例会の場所探しの問題のようです。

安くてピアノがあって、しかも気兼ねなく使える独立した空間というのは今どきそうそうあるものではありません。
ホールならそこらに余るほどごろごろあるので、それをポンと借りられたら世話なしですが、いかんせん高い使用料がそれを阻みます。

ロート製薬のピアノ同好会は場所や料金の心配なしに、専ら活動にのみ打ち込めるのは、あまたあるサークルの中でもまさに例外中の例外だといえるようです。
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庭木の憂鬱

庭に植木屋が入ると、だいたい予想よりもバッサリと、木々は無惨なほど短く切られてしまうものです。
子供の頃住んでいた家ではそれが甚だおもしろくないものとして目に映り、ひどく悲しい気分になったこともありましたが、それも遠い昔の話。
いまではそんな甘い情緒は見事に失い、180度考えが変わってしまいました。

植木を放っておくと止めどもなく枝は伸び、葉は生い茂って、秋の深まりと共に毎日山のように降り積もる落葉の掃除にエネルギーを費やさなくてはならなくなります。
実は今年の夏前も、植木屋にはよくよく思い切ってバッサリやってくれと頼んでいましたから、木々はしたたかに刈り込まれ、終わったときにはまるで骸骨が空に向かって逆立ちしているような姿になり、そこらがパッと明るく広くなったようでした。

ところが、それもしばらくのことで、夏になり、秋を迎えるこのごろでは、あのつんつる坊主はなんだったのかと思うほど新しい枝が八方に伸び、そこには夥しい葉が生い茂ってしまっています。

テレビに『なにこれ珍百景』とかいう番組があり、歩道のガードレールに街路樹の幹がまるで蛇のように巻き付きながら、そのまま成長を続けているという珍百景が紹介されましたが、我が家にもお隣との境目にあるフェンスに同様の事態が起こっており、つくづくと植物の物言わぬ怪物的なエネルギーには嫌気がさしています。

おまけに隣家には見上げるような大木が何本もあり、おかげで新緑の頃などは美しいことこの上ないのですが、その木から我が家へ落ちてくる木の実や落葉ときたら生半可な量ではありません。
たまにその実をついばみに、つがいの山鳩がきたりすると、いっときの情緒を味わったりすることはありますが、あくまで一瞬のこと。現実にもどればそんな悠長なことでは事は収まりません。
屋根は汚れ、雨樋はつまり、被害のほうがよほど甚大というべきでしょう。

地面のほうも問題で、木の根も年々勢力を増し、池の水面を泳ぐ龍の背のように地面をのたうち、いつ塀や壁が壊れるかと思うと気が気ではありません。
マンションにお住まいの方からは、わずかなりとも庭のあることを良いように言ってもらうことはあっても、こちらはそれどころではないばかばかしい戦いが続くようです。

これから冬にかけて、我が家のゴミの半分以上が枯葉の山となります。
しかもその半分以上はお隣から降ってくるいわば「よそのゴミ」なのですから、トホホです。
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シャネルとストラヴィンスキー

またしても音楽が関係する映画を観ることができました。
ヤン・クーネン監督の『シャネルとストラヴィンスキー』2009年・フランス映画です。

冒頭で、いきなりパリ・シャトレ座での有名な「春の祭典」の初演の騒ぎの様子が克明に描かれており、開始早々とても見応えのあるシーンでした。はじめは大人しくしていた観客は、あの野卑なリズムの刻みと不協和音、そして舞台上で繰り広げられるあまりにも型破りなバレエに拒絶反応を示し、喧噪と大ブーイングの嵐となり、ついには鎮圧に警察まで出てくるという衝撃的なシーンです。
バレエといえば白鳥の湖やジゼルと思っていた聴衆でしょうから、さしもの新しいもの好きのパリっこ達もぶったまげたのでしょうね。

楽屋裏でのバレエ出演者が、みな風変わりなおもちゃの人形のような扮装をしているので、てっきり演目はペトルーシュカだろうと思っていたら、始まってみると音楽が春の祭典だったので意外でしたが、よく考えてみると、あの大勢の男女の裸体に近い全身タイツ姿で繰り広げられるモダンでエロティックな春の祭典が定着したのは、戦後、ベジャールによる新演出によるものだということを思い出しました。あれ以外の春の祭典を知らなかったので、当時はこんな舞台だったのかと思いました。

さて、この様子を観てストラヴィンスキーに惚れ込んだシャネルが、パリ郊外の邸宅にストラヴィンスキー一家を住まわせ、自由な仕事の場を提供するのですが、シャネルとストラヴィンスキーは次第に惹かれ合い、ついには濃厚な男女の関係に発展します。同じ邸宅内にいる病気の妻や子ども達にもいつしかそれは悟られ、妻子は家を出ていってしまうのですが…。

それにしても、少なくともマロニエ君はシャネルとストラヴィンスキーの関係など聞いたことがないので、どこまでが本当かはわかりませんが、それをわざわざ調べてみようという意欲もなく、映画としてじゅうぶん以上に楽しめる作品だったのでそれで満足しています。

シャネルというのはマロニエ君の中では申し訳ないが成り上がり女性というイメージで、追い打ちをかけるように現代のブランドの捉えられ方に抵抗があって好きではなかったのですが、この映画の随所に表されたシャネルの、あの黒を基調とした美意識の数々は、服装にしろ家の内装にしろ、見るに値する美しいもので思いがけなく感嘆を覚えました。

シャネル役のアナ・ムグラリスは長身痩躯を活かして、次々に斬新な衣装を颯爽と身に纏いサマになっていましたし、ストラヴィンスキー役のマッツ・ミケルセンはいささか逞しく立派すぎるような気もしましたが、ピアノを弾く姿も自然で、もしかしたらピアノの心得があるのかもしれません。
ちょこちょこ登場するおそらくは興行師のディアギレフとおぼしき人物が、これまた実によくできていました。

ストラヴィンスキーに与えられた仕事場にはグランドピアノがあり、場所もパリ郊外だからプレイエルやエラールだったらストラヴィンスキーの音楽にはミスマッチではなかろうかと思っていたところ、果たして戦前のスタインウェイでしたので、そのあたりの細かい考察もじゅうぶん尽くされているのだなあと感心しました。
折々に挿入されるストラヴィンスキーの音楽は、知的な精神が野生的なリズムや和声の中に迷い込み、躍動、衝突、融合を繰り返すような類のない芸術作品で、いまさらながら感銘を受け、彼の作品をもっとあれこれと聴いてみたくなりました。
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病院はおしゃべりサロン?

マロニエ君はいま、ちょっとしたことでときどき通院しているのですが、そこで目にする事々もいろいろと感じるところがあるものです。
「待つ」ということが子供の頃から猛烈に嫌いなマロニエ君としては、できるだけ待ち時間の少ない時間帯を狙っていくようにしています。
だいたいこれまでの経験でいうと、病院の昼休み前とか、閉院時間の近づく頃になると人は少な目になるようですし、逆に連休明けや、昼休みが終わって午後の診察がはじまるあたりはとても混み合うということがわかりました。

さて、順番を待っていて困るのは一部高齢者の方の動向です。
病院といっても小さな医院ですから、診察室内の会話が漏れ聞こえてくることが多いのですが、高齢者の女性などは先生を相手に、いつ果てるともないおしゃべりの全開状態です。
普段が寂しいのか、周りへの気配りが出来なくなっているのか、そこはわかりませんが、とにかく直接病状とは関係なさそうなことまで延々と喋っています。そしてその時間の長いこと!

こういう人が一人いると、診察のテンポはいっぺんに乱れ、後が渋滞になってしまうのです。
それでも、話がひとしきりついて、もう終わりかと思うと、「あ、そうそう、それと…」などといってまた話は続きます。それも一応は自分の体のことに絡んでいることではあるし、病院からみれば患者はお客さんなので、先生もにべなく退けるわけにもいかないのでしょう。

先生が何度も「わかりました」「それでは」「じゃ今日は」などと区切りのセリフを吐いてみても、この手合いはまるで意に介さずで、てんで話をやめようとはしません。
女性のほうが多いようですが、男性にもこのタイプはいないことはなく、やたら日ごろの身体の話がいつ終わるともなく綿々と続きます。
この人達には、「話は簡潔に」などという考えは逆立ちしても出てこないようです。

ようやく出てきたと思ったら、お次は話し相手が看護士さんに引き継がれ、さらには受付の女性などにお金を払いながら延々と自分の話をしまくります。
聞こえるだけでもドッと疲れてしまい、やれやれと思いながら、やっとこちらの診察も終わって薬局にいくと、またその人が先客にいて、今度は薬剤師相手にべちゃくちゃ喋っているのを見ると、そのパワーにはもう頭がくらくらしてきます。

少々のことはお年寄りのされることは寛容と理解の気持を持って接しなくてはいけないと思いつつ、さすがにここまでやられると注意のひとつもしたくなってくるものです。
もちろん、したことは一度もありませんが。
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スタインウェイの特集

メジャー音楽雑誌のひとつであるモーストリー・クラシックの最新号(12月号)は「ピアノの王者 スタインウェイ」と銘打つ巻頭特集で、全180ページのうち実に65ページまでがこの特集に充てられています。

別の音楽雑誌でも、今年の夏頃、楽器としてのピアノの特集が数号にわたって連載されましたが、いかにもカタチだけの深みのない特集で、立ち読みでじゅうぶんという印象でした。

それに対して、モーストリー・クラシックのスタインウェイ特集は量/質ともにじゅうぶんな読み応えのあるもので、こちらはむろん迷うことなく購入しました。
巻頭言はなんとドナルド・キーンによる「ピアノの思い出」と題する文章で、若い頃にラフマニノフはじめマイラ・ヘスやグールドの演奏会に行ったことなどが書かれており、また自身が幼少のころピアノの練習を止めてしまったことが今でも悔やまれるのだそうで、それほどの音楽好きとは驚かされました。
これまで見たことがなかったような、ニューヨーク・スタインウェイの前に端然と座るラフマニノフの鮮明な写真にも感動を覚えます。

他の内容としてはニューヨーク工場の探訪記や、スタインウェイの音の秘密などがかなり詳細に紹介されているほか、日本に於けるスタインウェイの輸入史ともいえる松尾楽器時代の営業や技術の人の話や様々なエピソード。
ボストンやエセックスなどを擁する現在のビジネスの状況や、ピアノの市民社会における発達史、さらにはスタインウェイとともにあった往年の大ピアニストの紹介、文筆家&ピアニストの青柳いづみこ女史による110年前のスタインウェイを弾いての文章。名調律師フランツ・モアの思い出話、ラファウ・ブレハッチ、小川典子などのインタビュー等々いちいち書いていたらキリがないようなズッシリとした内容でした。

この特集とは別に20世紀後半を担ったピアニストとしてアルゲリッチとポリーニが4ページにわたって論ぜられていたり、巨匠名盤列伝でケンプのレコードの紹介があったりと、ずいぶんサービス満点な内容でした。

ところで、思わず苦笑してしまったのはヤマハの店頭でした。
このモーストリー・クラシックの表紙には、嫌でも目に入るような黄色の大文字で「ピアノの王者 スタインウェイ」とバカでかく書かれているのですが、折しもショパンコンクールでは史上初めてヤマハを弾いた人が優勝したので、こんな最高の宣伝材料はなく、まさにこれから賑々しい広告活動に取りかかろうという矢先、実に間の悪いタイミングでこんな最新号がでたものだから、もしかしたら全国の店舗にお達しが出たのかもしれません。

普段なら各メジャー雑誌は表紙を表にして平積みされており、このモーストリー・クラシックもそのひとつだったのですが、今回ばかりは他のマイナー誌と一緒にされて、細い背表紙だけをこちらに向けて目立たない奥の棚に並べられていました。あんなにたくさん立てて並べるほどの雑誌が手前に置かれないこと自体、いかにも何かの意志が働いたようでみるからに不自然で笑えました。
気持はわからないではありませんが、なんだかあまりに単純で幼稚。せっかく良いピアノを作って栄冠も勝ち得た堂々たるメーカーなのに懐が狭いなあと思いましたが、企業魂とはそういうものなのでしょうか?
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「THE安心」

しつこいようで恐縮ですが、テレビ購入にまつわる話をもうひとつ。

エコポイント取得の納得しかねる制度とは裏腹に、望外のサービスで驚いたことがありました。
ヤマダ電機の宣伝をするつもりは毛頭ありませんが、以下の通りです。

以前買ったテレビ/DVDレコーダーでは6年間の長期保証というものに入っていたために、購入後丸2年を過ぎた直後に起こったDVDレコーダーのハードディスク故障も無償でスムーズに乗り切ることができた経験から、今回もこれに加入するつもりでいました。
加入には購入金額の5%を支払う必要がありますが、要はもしものときの安心料のつもりです。

ところが店員によると、一段と進化した保証制度ができたらしくそれは次のようなものでした。

「THE安心」と銘打つ保証システムがそれで、3,129円を支払って契約すると、以降一年間は今回購入したテレビだけでなく、我が家にある大半の家電製品が無償で修理してもらえるというものでした。
つまりひとつの製品につく保証ではなく、一世帯の中にある家電製品全体がヤマダ電機から保証を受けられるようになるという驚べきものでした。しかもその対象となるのは他店で買ったものでも、ネット通販で購入した商品でも、出所は一切不問というのですから俄かには信じられないような話です。
ただし条件があるのは、生産終了から6年(ものによっては9年)を経過したものは交換パーツがなくなるために適用されなくなるというものでした。

驚きはそれだけではありません。
一年あたりの年会費は初回のみ3,129円ですが、2年目から3,832の口座引き落としとなり、一年間修理依頼がなければ次年は割引もあるということです。しかも入会時や更新時にはそのつど3,000円分の商品券をくれるというのですから、実質はほとんど数百円というものになるわけです。

これによって家にある家電製品のうち、よほど古いものを除いて修理費用から解放されると思うと、嬉しいような、でもまだなんだか信じられないような気分です。

そもそもの商品価格じたいが大型店ならではの低価格である上に、このようなサービスを受けられるとは結構ずくめですが、これじゃあ町の小さな電気店などどう足掻いてもかなうはずもなく、力のある大資本だけが可能な薄利多売と過剰サービスの乱発で勝ち残り、けっきょく世の中全体を不景気に追い込んでいるような気もしました。

なーんて、自分はちゃっかりその恩恵に与りながら、こんな第三者ぶった感想をもらすのはいかにも身勝手なようですが、しかし一人の消費者としては、やはりありがたいことに違いありません。
ここのところが難しい問題ですね。
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