メキシコから

すこし前の新聞によるとメキシコ在住のヴァイオリニスト黒沼ユリ子(70)さんは、今から30年前ほど前にメキシコ市で弦楽器専門の音楽院「アカデミア・ユリコ・クロヌマ」を設立されたそうです。
きっかけはプラハに留学中にメキシコ人のご主人と知り合い、それでメキシコに定住することになったことだそうです。

はじめは細々とはじめた音楽院も、現在では教師と生徒あわせて100人近い規模にまで成長し、それでも希望者が多くて断腸の思いで断っているとか。
そのインタビュー記事の中に良い言葉が紹介されていました。
黒沼さんが大好きなメキシコの格言だそうで『悪いことは良いことのためにしかやってこない』。
これは難問は次々に起きるが、改善するために克服しようという、不屈の精神がメキシコにはあるのだそうです。

たしかに、人間には悪いことが次々に降りかかってくるものなので、人生には難問難題ほうがずっと多いような気がするものです。だから、こういう言葉を念頭に置いておくことで、少しは前向きになって明るく元気な方向をわずかなりとも向いてみようとすることができるかもしれません。
マロニエ君もよーく覚えておこうと思いました。

さらに、黒沼さんの日本の音楽教育についての意見には感銘を受けました。
『課題曲を正しく弾くことに集中するあまり、音楽の基本を忘れていないかと危惧する。音符を音にするのが音楽家ではない。それなら機械でもできる。体をかけ巡った音符をあふれ出させて音を出すのが真の音楽家だ。その人だけにしかしかできない、人間の顔をした音楽を奏でてほしい。』

なんと、これほど、演奏の本質と、現在の学生や演奏家が抱える根元的な問題を的確に無駄なく表現された言葉があるだろうかと思いました。まったくその通りだと深い共感を覚えました。

現代の演奏家や教育システムに対して、こういう危惧や印象というものは、多くの人の心の奥にはきっとあるのだと思いますが、それをこのような無駄のない簡潔な言葉に整理圧縮して表現するのはなかなかできるものではありません。
黒沼さんはヴァイオリニストですが、これはむろんヴァイオリンに限ったことではなく、すべての器楽奏者に対して、それは恐ろしいほどに当てはまるのだという気がします。

現代のめっぽう指の動く無数のピアニストと、昔の秀でた数少ないピアニストとの決定的な違いはそこにあるのだと思われます。すでに指の訓練方法などは行くところまで行った感がありますが、それでもなかなか真の音楽表現への道は開かれようとはしていないようです。
みんな口では「音楽性」「個性」「芸術性」が大切だなどと言いながら、結局やっていることは指の訓練と、レパートリーの拡大と、受験対策、コンクール対策であって、真に自分がこうだと信じる道を探求して歩んでいる人はほとんどいないか、よほどの少数派でしょう。

多くの人が大変な努力と厳しい修行を積み、さらに上を目指す練習に明け暮れているのだろうとは思いつつ、どうもそれはオリンピック出場/メダル獲得のトレーニングとほとんど同じスタンス、同じ精神構造という気がしてなりません。

ひとつには商業主義が真に芸術的な質の向上に価値観の主軸を置くことを許さず、さらには氾濫する情報によって信念もしくはそれに準ずるようなものが根を張りにくく、知らず知らずのうちに効率の良い最短の選択をするようになるのでしょう。
しかし、真の芸術家の仕事を生み出す畑は、決して賢くもなければ効率などというものとは無縁の世界であるはずです。ベートーヴェンの作品が、彼の苦悩と戦いと絶望の中から生まれてきたことを思えば、それは簡単にわかることだと思います。
しかし、だからといってわざわざ困難な苦しみに満ちた道を選ぼうとする人がいないことも現実ですね。
ひとつのテクニックを習得するのに三日かかる方法と一ヶ月かかる方法があれば、誰しも三日を選びます。しかし、一ヶ月の中でいろいろに得られた、一見余分ですぐには役に立たないもの、そういうものが芸術には必要な養分なのかもしれません。
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リストは冷遇

昨日、タワーレコードに行ったところ、今年がリスト生誕200年ということで、そろそろなにか小さなコーナーでもできているのかと思っていたら、これがまったく何もナシで、通常のリストのコーナーさえもごくごく小さいものでしかなく、他の作曲家の間に埋もれているという感じでした。
昨年はショパンのそう小さくもないコーナーが一年を通じて作られていましたが。

やはりリストはピアノ曲の中に単発的に有名なものがあるとは言え、ほかは馴染みのない曲の比率があまりにも膨大で、それらは通常ほとんど演奏されることもないし、ピアニストあるいはレコード会社もあまり企画したがらないのだろうと思われます。
リストの作品はものによってはプログラムの一部には華麗で格好の作品ですが、あくまで名脇役といったところ。リスト作品だけではコンサートを維持するのが難しい微妙な存在なのかもしれませんね。

リストはピアノ曲の作曲はもちろんとしても、他の作曲家の作品の編曲やパラフレーズなども数多く手がけていますし、管弦楽の分野では、ベルリオーズに始まる標題音楽を発展させることで「交響詩」という新しいジャンルを作り出したことなどはリストが音楽歴史上の特筆大書すべきことでしょう。
ところが、この一連の交響詩にも実はさほど馴染みやすい曲はなく、残念ながらあまり人気はないようです。

前回ご紹介したフランス・クリダやレスリー・ハワードの全集が年頭に出てきたものだから、今度はてっきりリストのCDがわんさと出てくるのかと思いましたが、どうもそれに続くものはあまりなさそうです。
それでも多少はリスト生誕200年ということで、今年限定でリストプログラムを組んで録音を目論むピアニストなどは若干名はいるでしょうから、せいぜいそこに期待したいと思いますが、まあショパンとは到底規模がちがうようです。

ところがCDだけではなかったのです。

驚いたことには、書籍の分野でも、リストはかなり冷遇されているという事実がわかりました。
リストの生涯は知る限りではとても面白いものですが、なにかまとまった形で読んだことがなかったので、適当な本はないかと物色してみたのですが、ヤマハもジュンク堂にもそれらしい書籍がまるでなかったのは正直言って驚きでした。

ジュンク堂の音楽書の売り場などは、それこそありとあらゆるものがぎっしりと揃っていて、バッハ、モーツァルトなどはそれぞれ数十種の出版物(楽譜ではない文字の書籍)がひしめていますし、フォーレやショスタコーヴィチ、ラフマニノフなどもあれこれと伝記や専門書が刊行されています。
しかし、リストだけはどこをどうみても少なくとも店頭にはなにもないのです。

世の中に於けるリストの存在とはそんなものなのかと思ってしまいました。
もともとマロニエ君自身がリストをあまり好まなかったために、こういう事実に長らく気が付かないで今日まできたわけですが、それにしてもあれだけの偉大な功績がありながら、いくらなんでも不当に冷遇されているんだなあとも思えるようです。ここまでくるとなんだかリストが可哀想になってきました。

若い頃、上流女性達の憧れで、当時のスーパースターで、その空前の人気をほしいままにしたリストは、それですっかり燃え尽きてしまったのでしょうか?
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サクラ

花の名前ではなく、「サクラ」という言葉があります。
辞書によると「大道商人の仲間で、客のふりをしていて、普通の客が買う気を起こすようにしむける役の者。」とあります、このサクラがいかに人の心理に有効なものかを実感することがしばしばあります。

お店などで、ワゴンセールのような場所がよくあるものですが、はじめは無人なのに、ちょっと見ていると、だいたいすぐに次の人があらわれます。すると傍目にはそのワゴンには二人の客が物色していることになりますが、こうなると3人目4人目はどこからともなく吸い寄せられるようにやって来るものです。

逆にマロニエ君自身も、ちょっと人が集まっている売り場などがあると、なんだろうかと思って覗いてみることがあり、大抵はなんてことはないつまらないもので、ぱっとその場を離れるのですが、一度覗いてみてしまうのはやはりサクラ効果だと思います。

その最たるものが行列で、まるで催眠術にかかったように人はそこに興味を示して寄っていきます。
ことほどさように人は他人が興味を持っている姿に無関心ではいられない生き物だと自分を含めて思います。

それはわかっていても、はじめ無人だった場所が、自分が最初に見始めたことがきっかけとなり、つぎつぎに人が集まってきて、マロニエ君のほうはもうその場所を離れても、振り返ると5〜6人の人が集まっているのを見ると無性に可笑しくなってしまいますし、なんだかちょっと自分が呼び寄せたような、ささやかな自己満足に浸ってしまいます。…バカですね。

こういう現状にしばしば遭遇すると、つくづくと人の心理というのは面白いものだと思わずにはいられません。心理の動きはまことにささいなことに左右され、それによって行きつく結果は大きく違って来るというのがわかります。
こういう人の心理の動きに大きく依存している商売人は、だからちょっとしたことにも気を抜かずにお客さんの心をつなぎ止めようと普段からアンテナを張り、ちょっとしたことにも腐心しているのだろうと思います。

流行っている店と流行っていない店、これも明らかな実力の差があってのことというのは見ていて当然のことですし、いかにもわかりやすいのですが、ときに紙一重のちょっとした何か小さな要素のさじ加減ひとつで明暗を分けている場合も少なくありません。
食事の店などに例をとっても、それはそのまま当てはまるように思います。

流行っている店は、値段や出てくる料理がそれに値するものであることは当然としても、その上で、もうひとつお客さんの気分を満足させる何かをちょっと持っているものです。
それはケースバイケースなので、具体的になにがどうしたということは言いにくいのですが、強いて言うなら経営者の気分とか人間性というものがいいほうに反映されていると感じることがあります。

わかりやすく言うとケチケチしたがめつい経営者の店は、それなりの内容があったとしても、どこかにそのケチな精神が顔を出てしまっているものです。たとえば料理自体は安くて美味しいのに、それ以外のちょっとしたところにセコさがあって、それを感じると快適でなくなったりするものです。
気分のいい店はそれのまったく逆で、なにかひとつでも気前のよい寛大なところをみせられると、こっちはたちまち良い気分になるものです。上手な商売人というのはお客さんに気分良くお金を出させる術を持っているんですね。

店にお客さんがいつも溢れているということに勝る宣伝はなく、それはお客さんをタダのサクラとして使っているのも同然ということになるでしょう。
どんなにいい店でも、ぜんぜんお客さんのいない店というのは、大変なマイナスイメージですから、サクラは商売人にとって必要不可欠なものでしょうね。
もちろん、サクラという言葉の意味自体が「ニセの客」という意味ですから言葉がおかしいですけど。
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高性能センサー

人間の手先というものは、実はかなり高性能なセンサーでもあり、我々が普段思っている以上の優秀さをもっているようです。
その繊細な感じわけの能力は、そんじょそこらの機械など遠く及ばないものがあるのです。

先日もそれを実感したのは、ピアノの整備に来てもらったときに鍵盤の高さを揃えるために、キーの支点(テコ運動の中心部分)に、「鍵盤バランス部の紙パンチング」という直径1センチにも充たない、小さな輪っか状の薄い紙を挟んで微調整をしていくわけですが、これは紙だけを触ったときにはただやたらと薄い、普通の鼻息で全部飛んでしまうような薄い紙(一番薄いもので0.08ミリという、およそ無意味としか思えないようなもの)というだけで、こんなものを一枚挟んだだけで何が変わるものかと思わせるようなものなのですが、それが鍵盤や木片を並べて指をすべらせてみると、難なくその違いがわかるのには驚きました。
こういう微細な調整の積み重ねによって、ピアノの鍵盤の高さは正確な一直線に揃っているわけです。

そういえば過日見たスタインウェイのファクトリーのビデオ作品でも、「測定器には限りがあるが、職人の精巧さは手が覚えているので、計測器以上のものとなる」ということを言っていて、精密な作業ほど熟練工の手作業が必要になると言っていましたが、そんな言葉が実感として納得できた瞬間でした。

よく女性が化粧中などに肌のコンディションを指先から感じ取ることがあるようですが、それもこういった人間の驚くべき手先の精密なセンサーが僅かな違いを感知しているのだと思います。

それで思い出したのは、昔のポルシェ(ドイツのスポーツカー)の工場で、塗装作業を終えたツルツルのボディを熟練工が専用の革手袋をはめてくまなく撫で回すという、有名な工程がありました。
これはべつにボディを可愛がっているのではなくて、撫で回すことで手の平に伝わってくるその僅かな感触から塗装面のほんのちょっとしたムラや作業中に付いた目に見えないようなキズを検出していくというものです。こうすることによって肉眼ではほとんど見落としてしまうようなことを手の平はやすやすと効率的に発見するというものでした。

私達の体には、まだ私達自身が知らないような隠れた高性能が随所に眠っているような気がします。
いや、眠っているのではなく、気付かぬうちにそれを使いながら普通に生きているのかもしれませんね。

ピアノ技術者はこういう精密領域のことがらを、瞬時に判断し感じ取りながら、手際よく作業をしていくのですから、そこにはもちろん馴れや訓練もあるとは思いますが、いずれにしろ敏感で忍耐強い人でなくては務まるものではありませんね。

ある本に、本物のピアノ技術者になるためには、まずはピアノのオーバーホールを経験させる必要があるということが書いてありました。それによってピアノの技術を総合的に実地から体験的に学ぶことができるということだろうと思います。
そういえば、職人にはマイスター制度のあるドイツでは、長い修行の末に、一台のピアノを一人の責任において1から組み上げなくてはならないそうで、似たような発想でしょうね。

近年のメーカー系のサラリーマン技術者は、こういう総合的な学習経験があるのかないのか知りませんが、少なくとも調律なら調律だけをして、それ以外のお客さんの要求にはほとんど何も応じきれないというのが実情という話をよく聞きます。
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生涯現役

ピアニストの長岡純子さんが亡くなられたのを知ったのは、確か先週の新聞記事でした。
享年82歳、最後まで現役で昨年もリサイタルをされたようでしたが、実を言うとマロニエ君はその演奏を聴いたことがありませんでした。

かすかにお名前と以前CDのジャケットもしくは雑誌で写真を見たことがあるくらいで、ほとんどその演奏に触れるチャンスがなかったことが今思えばたいへん残念でした。
長岡さんは芸大時代にはあのレオニード・クロイツァーに師事した世代のピアニストの一人で、日本人ピアニストとしては原智恵子、安川加寿子などの次にくる世代ということになります。
卒業後はN響と共演してデビューしたものの、1960年代にオランダに移住されたこともあって、日本ではもうひとつ馴染みのないピアニストだったのかもしれません。

オランダではユトレヒト音楽院の教授なども務められ、とくにベートーヴェンやシューマンには定評があったといわれ、なんと80歳のときに演奏されたベートーヴェンの3番の協奏曲は高い評価を得てCD化もされているらしいので、ぜひいつか聴いてみたいものです。

さて、マロニエ君はNHKのクラシック倶楽部はいつも録画して好きなときに見ているのですが、先週の放送分で、なんとこの長岡純子さんのリサイタルが含まれていたので、オッと思ってさっそく見てみました。
すると、収録されている津田ホールでの演奏会は、信じ難いことに昨年の12月12日、そして亡くなったのが1月18日ですから、これは亡くなるわずか一ヶ月と少し前のリサイタルということになります。

放送された曲目はバッハ(ブゾーニ編曲)のシャコンヌとベートーヴェンのワルトシュタインという、どちらも若い人でも身構えるような大曲でした。
もちろん若者のような体力の余裕こそありませんが、確信に満ちた気品ある演奏はまことに見事なもので、非常に勉強にもなる味わいのある演奏でした。

壮大華麗なワルトシュタインを、まるで4番の協奏曲のように優雅に、格調高く演奏され、その確かな解釈に裏付けられた美しさは絶対に近ごろの演奏から聴かれるものではなく、長岡さんの生涯の長く深い足取りが圧縮されているようでした。
それにしても、豊かな経験と深い信念から紡ぎ出されるその凛とした演奏を聴いていると、まさかこのひと月少し後に亡くなるなんて、まったく信じられない思いでした。
バックハウスは最後の演奏会から7日後に亡くなりましたから、そういうこともあることはわかってはいても、実際に長岡さんの鮮明な演奏の映像を見ていると、この事実がウソのような気がしてなりません。

なんでも12月7日には協奏曲も予定されていたらしいのですが、こちらは体調不良でキャンセルとなり、その5日後のこのリサイタルは、もしかすると無理をおしてステージに立たれたのかもしれないですね。
演奏会後に体調を崩し、入院されていたんだそうです。

最後に弾かれた美しいトロイメライは、文字通り最後の別れの演奏となったようです。

それにしても、園田高広氏が突然のように亡くなった頃からでしょうか、戦前生まれの日本人ピアニストがめっきりと減ってしまったように思いますが、これでまたひとり、貴重なピアニストが天に召されたということです。
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志の問題だそうで

約一年ぶりにピアノの調律に来てもらいました。
本来はもう少し短い期間で来てもらえばいいのですが、技術者の方の腕がいいことと、マロニエ君がそんなにピアノを酷使していないこと(要は練習していない)、さらには湿温度管理はわりにやっているので、そんな事情が複合的に作用して調律の保ちがわりにいいため、この程度のペースでやってもらっています。

作業中は可能な限り子供のように横にはり付いて見ていますが、見るたびにピアノ技術者の仕事というのは大変な仕事で、いわば「静かで緻密な重労働」だと思います。
今回はタッチの調整から調律、整音までをひととおりやってもらって計5時間を超す作業となりました。
それでもしょせんは出張先での作業ですから、かなり圧縮した作業となるのはやむを得ません。

いつもながら調整の終わったピアノを弾くのは、いかにも清新な気分にあふれて気持ちのいいものです。
電子ピアノは調律の必要がないかわりに、この気分ばかりは味わえないはずです。

作業中はいろいろなおもしろい話が聞けるのも楽しみのひとつです。
その中にあったひとつ、「結局のところ、ピアノ技術者は技術の優劣よりも、志のほうがよほど重要」という言葉は、ピアノ技術者の現実を表すいかにも意味深長な言葉でした。
曰く、一定以上の技術を持った人であれば、あとはどこまでの仕事とするか、悪く言えば、どうせ大したこともわからない素人を相手にどのあたりまで手をつけ、どのぐらいで切り上げるかということになってくるのだそうで、手を抜こうと思ったらいかようにも手を抜ける仕事なんだそうです。

考えてみれば、車の整備などと違い、それで人身事故が起こるでもなし、医者の手抜き治療なら健康被害などを恐れるところでしょうが、ピアノの場合、どっちにしろ人に危害が及んで訴訟されるような心配はないわけですからね。
現実にそういう志の低い技術者は実はとても多いらしく、ある意味気持ちはわかるそうですが、恐いのはそれを長くやっていると、いつしか自分の仕事の質が低下していることが自分でもわからなくなってくるんだそうです。

マロニエ君の経験でも、だいたい人当たりが良すぎたり、話の上手すぎる技術者は食わせ者で、自分の技術不足やごまかしを言葉や好印象で補足して、幻惑しようという思惑があるようにも感じます。
控え目ぶった話し方はしていても、要は自慢トークの連発で、他の技術者の悪口を悪口ではないような言葉を使ってちゃんと言い、自分こそは人柄も良く、謙虚で技術も本物と思わせるよう巧みに誘導します。さらに相手の不安を煽りながら、まんまと信頼をとり付けようとするテクニックですね。
だいたいこの手合いは名刺にも肩書き満載で、マロニエ君はそんな人こそ信用しません。

ピアノ技術者の腕は、その人が手がけたピアノでしか判断することはできません。
しかし、多くの場合は、調律を依頼する側は専門家でもないので、ちゃんとしたルートから派遣されてきた、ネクタイをきちんと締めた、礼儀正しい、腰の低い人ならば、それで間違いないと思ってしまいがちで、そこがなんとも始末に悪いところです。

しかし、マロニエ君の経験で言うなら、本物の技術者はどこか磊落で、自分があり、技術はあっても人あしらいはそんなに上手くはないものです。
ピアノ技術者に限りませんが、本当に実力のある人は自分からあれこれとアピールしなくても余裕があり、人間的にも自然体です。逆にやたら親切ごかしな人や、過剰な用心家などはマロニエ君は疑います。

礼儀正しさと不自然な低姿勢は似て非なるものですから、そのあたりをよく観察してみるべきですね。
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体調不良は演奏良好?

我々はプロの音楽家でもピアニストでもありませんから、あまり真剣に考える必要もないとは思うのですが、本番前の緊張というのはその人のすべての力を奪っていく悪魔みたいな気がしなくもありません。

よく、受験だろうとコンクールだろうと、本番に備えて体調管理も整えて、万全の態勢で挑むとべきだというのは半ば常識みたいに言われることです。しかし、体力の限界で競い合うスポーツの場合は知りませんが、こと音楽に関しては、必ずしも最良の準備が整ったときが最良の結果をもたらすとは言い難い部分もあるようです。

コンクールでよい成績をおさめたり、受験でも見事合格となった人の中には、「あのときは実は熱が○○度あって、薬をのみながら後はどうなってもいいと思って弾いた」とか「体調は最悪だった」というような話をする人が少なくなく、それも聞いたのは一度や二度ではない気がします。

世界的な演奏家でも、名演の陰には、意外にも飛行機が大幅に遅れて、さらに道が渋滞して、開演直前に会場にすべり込んでぶっつけでコンチェルトに挑み、それがすごい名演だったとかいうのが現実にありますし、チェリストのヨーヨー・マがあるドキュメント番組でこれまでの最良の演奏は何か?という問いついて、いついつどこで演奏したバッハの無伴奏チェロ組曲だと答えました。ところがそのときの体調と来たら最悪で、かなりの高熱の中で行った最悪コンディションでの演奏だったというのです。
本人は『最悪のコンディションで行う演奏が、必ずしも最悪の演奏ではないのが不思議だ』というような意味のことを言っていた覚えがあります。

これはある程度納得が出来る話です。
もちろんいずれも練習がきちんと出来ているというのが大前提ですが、その上で恐れるべきは本番での緊張です。マロニエ君は専門家でもなんでもないので科学的なことはわかりませんが、緊張というものは、音楽の場合でいうなら、「音楽以外のことが気になり、心配し、押しつぶされそうになる」ことだと思います。

それが病気となると、条件的には最も恐れていたことが現実になって狼狽し、本人は本来の力が出ないであろう悲劇の真っ只中にあります。すると、なんとか奮闘して、少しでも本来の演奏が出来るように残された力を振りぼって挽回しようと努めるのでしょう。
こうなると一回の演奏にのみ全身全霊が注ぎ込まれ、あとの体調のことなどもう知ったことではありません。

もうお気づきかも知れませんが、この状態がつまり最も純粋に音楽のこと、演奏のことに集中し、緊張の原因であるところの音楽以外のことを気にして心配する余裕がないものだから、結果的に雑念から解放されている状態なのだろうと思います。
そうなると人間の体というのは火事場の馬鹿力といわれるように、一時的にはどうにでもパワーを補給する高度なシステムをもっているように思うのです。

これに少し通じることかもしれませんが、演奏家のコンサートの前日や直前の時間の過ごし方というのは実に様々で、もちろん万事遺漏なく整えて本番に挑む人もいれば、あえて普通と何も変わらない生活パターンで過ごす人もいるようですし、中には却って普通以上に遊びに行ったり夜更かしをしたりするというタイプもいると聞きます。
この最後のパターンは、意識のどこかに多少の乱れがあったほうが却ってそれを補充し収束させようとする力が働いて、演奏には好ましいと思っているのかもしれません。

いずれにしても、音楽という一発勝負の、いわば崖っぷちを歩くような危険行為に挑むわけですから、あまりにも完璧に準備しすぎることのほうが寧ろバランスが悪くなるという性質をもっているのかもしれません。
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緊張緩和

ピアノ演奏に関する本を読んでいると、おもしろいことが書いてありました。

ステージに上がる、あるいは人前でピアノを弾くときに緊張するのはマロニエ君のみならず、多くの人が体験されていることだと思いますが、この緊張という名の魔物は最悪の場合、せっかく練習で仕上げた演奏が本番では崩壊し、その力の半分も披露できないままメチャメチャになるという、努力が水泡に帰すことに繋がります。

緊張は精神のみならず、体の機能にも直接悪影響を与えるので上手くいかなくなるのだそうです。
まず緊張によって体そのものが硬直して動きが鈍り、血行が悪くなり、自宅では考えられないようなミスに繋がっていくようです。具体的には、途中で止まってしまう、暗譜を忘れてしまう、想像を絶するような甚だしいミスを犯す、曲が途中で飛んでしまうなどの「演奏事故」が起こるものです。

最近はスポーツの分野でも、本番での緊張に関する研究が進んでいるらしく、メンタルトレーニングの重要性が広く流布されているそうです。
それもそのはず、フィギュアスケートのジャンプなど、その技術を習得するだけでも並大抵ではないはずですが、それを衆人環視の本番で確実に決めなくてはなんの意味もないわけで、本番に強くなるという訓練も相当に重要だろうと思います。

この本に書かれているピアノ演奏上の対策は、ごく一般的なことではありましたが、対策として関連した3つの方法が紹介されていました。
1つめはどんな体操でもいいから本番の直前に柔軟体操をするというもの。全身がうまくストレッチされると気分が良くなり、血行が良くなり、リラックスできるとか。
2つめは諸事情で直前の柔軟体操ができそうにもない状況では、体中に力を筋肉を緊張させ、その後一気に力を抜くというのを数回繰り返すと、緊張した筋肉部分の血行が良くなる。肩を上げた状態で20〜30秒保って一気に力を抜くと、肩こりも取れるしとても効果的だとか。
3つめは大きく息を吸って、しばらく止めてから一気に息を吐くということを数回繰り返す。あまり急いでやってはいけない。あくまでもゆっくりやること。

このほかには精神安定剤を服用というのもひとつの方法としてありました。
知り合いの医師によると、最近の安定剤はとてもよくできていて副作用もなく、べつに精神疾患でなくとも、あがり性の人が会議の前とか結婚式のスピーチの前などにポンと一錠飲むという、至って手軽な服用の仕方をする人も最近は非常に多いのだそうです。

ついでながら、この本でも紹介されていることですが、大半の人が人前でのピアノ演奏に緊張を覚える中、「緊張しない人」というのも少数は存在するらしく、その特徴は「人に注目されるのが好きな人」なんだそうです。こういう人は緊張というよりも、むしろ至福の時なのでしょう。
咄嗟にいくつかの顔が脳裏に浮かび、なるほどなあと納得して、思わず笑ってしまいました。

いやはや、マロニエ君からみればこんな人は、ほとんど外国人にも匹敵する異人種のようで、その精神構造の違いたるや驚くばかりですが、一面においては羨ましいのも事実です。
緊張するのも快感に酔いしれるのも、根拠や実体があるものではなく、要は本人の認識の問題ですからね。
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十人十色

やれやれ、無事にピアノサークルが終わりました。
とりあえず途中で止まらずに弾けただけでも良しとしたいところです。

いつもながら皆さんの演奏を聴いていると、弾く人によって一台のピアノから様々な音色や表現が出てくるのは実に興味深いところでした。
プロの演奏家のコンサートでは、(グループ演奏会などは別として)演奏者が入れ替わることは通常はないので、こんな聴き較べはできませんが、本当にひとりひとり音が違うのは、いつも聴くたびにおもしろいもんだなあと思ってしまいますし、いまさらのように美しい音色を響かせることは容易なことではないと思います。
強いて言うなら、より難曲に挑戦する人のほうが純粋な音色に対するこだわりは少ないかもしれません。

会場のピアノはヤマハのC3で、これは非常にポピュラーなピアノですし、どうかするとヤマハは「誰が弾いても同じ音がする」などといわれますが、そのヤマハをもってしても全然ちがいます。
明確で肉づきのある音を出す人、やわらかな印象画家の色彩のような音を出す人、強い打楽器的な音の人など十人十色とはこのことでしょうか。

れっきとした表現行為のひとつである音楽は、当然ながらそれぞれの人柄やいろいろなものが色濃く反映されてくるので、奏者が入れ替わり立ち替わり弾くピアノを聴くというのは、飽くことのない独特のおもしろさがあるもんだとあらためて思いました。
もちろんその中には自分も弾くという試練もありますが、それでも他では得られない魅力があるわけです。

いまだに緊張がなくなることはないものの、それでも一年以上ピアノサークルに参加し続けてみて、いま振り返ってみると、はじめの頃のような極度の緊張でほとんど窒息しそうな頃を思い出せば、さすがにほんの少しだけ慣れてきたようにも思われなくもありません。
もちろん、とても「慣れてきた」などという言葉を使えるようなレベルではまったくありませんが、それでも一年前の自分にくらべたら、ほんの少しは鍛えられたようにも思います。
マロニエ君みたいなどうしようもない性格でも、否応なしに鍛えられれば、たとえわずか数ミリでも差が生じるということに、自分でも驚いています。

だからなんなんだ?といわれればそれまでですが、やはりささやかでも何かに挑戦するということは意義深いことだと思い知ったこの一年強でした。

それ以上に皆さんとお会いして親交を深めることはなによりも楽しく有意義なことで、懇親会もレストランのライトが落ちるまで大いに盛り上がりましたし、さらに数名で二次会へと発展して、家に帰り着いたのは1時を大幅に過ぎてしまっていました。

時間が経てば経つほど話題は深まり、いよいよ色彩を放って、夜がふけるのも忘れます。
会話というのは面白いもので、雑談のキャッチボールをする絶好のサイズはどうやら3〜4人というところのようで、懇親会の席でも、そういう単位の中で次々に参加者の顔ぶれや組み合わせが変わっていたのはその表れのような気がします。
二次会ではいよいよ話は熱を帯びるばかりで、放っておけばいつまで続いたか知れたものじゃありません。
一人の方が翌朝6時半起床ということで、ようやく席を立って帰宅したところです。
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ついに当日

ついに満足な練習もできずにピアノサークル当日を迎えました。

まあこれがいつものことですから、取り立てて問題にするようなことではないのですが、やはりきちんと練習する習慣と、その実行力があればどんなにいいだろう…などと思うだけは思います。
しかし、いまさら自分を変えられるはずもなく、そんなできもしないことをグダグダ思ってみたところでどうにもなりません。

ピアノの練習で他の人(もちろんレベルの高くないアマチュアの話として)でまずはじめに感心するのは、ひとつの曲をずっと練習し続ける根気というのがみなさんおありのようで、その点からしてああ自分はダメだ!と思ってしまうわけです。

マロニエ君にとってはひとつの曲だけをずっと続けて練習するというのも難儀で、すぐにあちこちに脱線してしまいます。
ちゃんと弾けてそうなるならまだいいでしょうが、できないクセにそうなるから困るのです。
集中力に欠けるというかなんというか、要は性格でしょうけれど、なまじ曲だけはわりに良く知っているものだから、たとえばショパンのなにか一曲をさらっているとするとそれひとつに集中することができず、ついついその前後の曲まで弾いてみたくなったり、或いは同じ調性の別の曲、あるいは同時代の別作品などに流れていったりして、そんなことをだらだらしているものだから、気が付いたときには肝心の練習はできずじまいで終わったりの繰り返しなわけです。
ピアノの周りに楽譜をたくさん積み上げているのもいけないのかもしれません。

楽譜といえば、ひとつだけ、これは別に自分が正しいという意味でいうわけではありませんが、ピアノサークルで目につくのは、楽譜がどちらかというとコピーであったり、ピアノピースであったりする場合がかなり多く、一冊の楽譜として使っておられる方のほうが少数派だということです。

話の中にもそういう印象があり、自分が練習する曲だけを買うなり安易にコピーするなりしてすませるのは、たしかに簡単で、安上がりで、場所も取らず、持ち運びも軽くて便利で、メリットは多いのかもしれませんが、本来的な言い方をすると、楽譜は半永久的に繰り返し使うものなので、ピアノを趣味として弾いていく以上、楽譜はある程度まとまった形で持っておいたほうが良いと思うのです。

たとえばベートーヴェンのソナタのどれかを弾くとして、とくにそれが有名曲であれば、その一曲だけをピースで買えば事足りるということかもしれませんが、それをソナタ全集の楽譜で持っていれば、前後にどんな作品があったかを知ることも弾いてみることもできるわけで、その作曲家に対する興味や認識もはるかに深まるはずです。
将来また別のソナタを弾くかもしれませんし、とにかく楽譜は折に触れて揃えていたほうがいいと思います。

…話が逸れました。
そんなことより自分のことですが、もうこれ以上は練習しません。
というのも、なまじっか練習が未完なものをあわてて練習名目で触りちらすと、かろうじて形になっていた部分まで、修正の余波を被って崩れてしまう可能性さえあるので、却って危険かもしれないからです。
怠け者には怠け者なりの理屈があるものですね。指使いも間違っているもの、あるいはよりよい運指を思いついたとしても、いまさら本番でパッと実践できるだけの腕も時間もなく、まあそれなりの状態で挑まざるを得ません。

はてさてどんなことに相成ることやらトホホですが、皆さんに会えて、楽しい時間が過ごせればそれがなによりということです。
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明日はピアノサークル

まだ先だと思っていたピアノサークルの定例会がどんどん近づき、ついに明日になりました。
今回も小品を一曲弾くつもりにしていますが、やはり緊張の前倒しというか、やはりどこかに憂鬱な意識があって、それが終わることに目下の目標があるような気分であることは否めません。

人前演奏が苦手で、昨年はとうとう苦痛の域まで達したためにいちど見学参加したことがありました。
自分が弾かなくて良いというのは、それはもう確かに気楽で、表向きはのびのびと快適に過ごすことができました。
しかし、ではそれで心底楽しめたのかといえば、それはどうも微妙でした。

人が次々にピアノを弾いているところを見ていると、やっぱり自分も弾きたくなってくる条件反射みたいなものが間違いなく自分の心の内にあるらしいことにも少し気が付きました。
まあ、テレビで美味しいものの番組などやっていると、思わずお腹が空くようなものでしょう。

「人前では弾きたくないが、ピアノそれ自体は触発されて弾きたくなってくる」というわけです。
それとピアノサークルに参加するということは、たとえ毎回必ずではなくていいから、やはり自分も演奏参加してこそ、こうした集まりに名を連ねる根本的な意義があるような気がします。
上手くは言えませんが、やはり一度はピアノの前に進み出て、同じ苦楽を共にするということにでもなるのでしょうか?

そういうことを考えるようになって前回からまた少し弾くようになり、今回も定例会を目前に緊張を増しているところです。
そのかわり、できるだけ自分に負担が少なくてすむような曲にはなると思いますが、まあそれがどんなに短い一曲であってもいいので、弾くと弾かないとでは、そこに大きな差があるような気がしてきたのです。

そこで、この数日は暇を見つけては練習をしているのですが、人前で弾くと思うと、小品だろうがなんだろうが、一度たりとも満足に弾けないのにはほとほと自分でも参ります。
これじゃあ本番で上手くいくわけがありませんが、まあそれならそれで仕方がないですし、べつにここで前もって言い訳をしておこうというような、そんな魂胆ではありません。

今の心情と事実をありのままに書いているだけですが、とにかくピアノサークルに入ったことで、これまでのように自分一人で楽しむだけなら絶対しなかったであろう種類の練習も否応なしにするようになり、それだけでも自分なりに大変プラスになったとは思いますから、その一点をとってもサークルへの参加は意味があることだったといまさらのように振り返っているところです。
いまさらながら思い知ったのは、そこそこ弾いて放置するのと、あと一歩二歩踏み込んで仕上げに持っていくのとでは、大変な違いがあるということでしょうか。

それと、ピアノサークルを通じて新しい友人知人ができたことは、もちろん最大の収穫ですが、悲しいかな私と同年代の方は少なく、大多数が下の世代になるので、できるだけみなさんのお邪魔をしないよう控え目を心がけないとと思っているところです。

嬉しいのは、最近は懇親会の食事の質が上がってきているようなので、食べること第一のマロニエ君にとってはそこがまた大きなポイントになりかけているところです。
いささか浅ましいようですが、でもしかし、飲み食いが楽しくなきゃ本物じゃありませんからね。
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個人ホール

今日は珍しいコンサートに行きました。
ヤマハでチラシを見て興味を覚え、赴いたピアノのコンサートです。
内容は大分出身という知らないピアニストのリサイタル。

そもそも何に惹かれたかというと、その会場でした。
南区にあるという「みのりの杜ホール」というこれまで一度も見たことも聞いたこともない会場なので、チケットも安かったし、どんなところか見物がてら行ってみることにしました。
あらかじめ主催者に電話で問い合わせをしたところによると、なんでも会場は個人の自宅の別棟に作られたホールとのことで、ますます興味が湧いてきて、普通だったらプライベートホールをただ拝見というわけにもいきませんが、公に発表されたコンサートであれば何憚ることなく行くことが出来ますから。

市の中心部からやや南に位置する場所にあるそこは、カーナビがなければちょっとわからないような入り組んだ住宅街の中で、なるほど大きな敷地のお宅のようです。
駐車場もあるのでそこに車を置かせてもらって、まるでよそのお宅に入るような感じで玄関を入ると間違いなくそこは今夜開かれるコンサートの会場でした。

玄関を入ると、美しい木の感触のある会場が奥にあり、中へ入ると床はきれいなフローリング。椅子がピアノのほうへ向けてずらりと並べられていますが、思った以上に立派なところでした。
しかもピアノはハンブルク・スタインウェイのD型であるのに二度ビックリ。

場所が不慣れな上に、18時半開演ということで、夕方のラッシュアワーになる可能性もあるので早めに出かけたところ、予定よりも少し早く到着し、まだお客さんはまばらでした。
そのスタインウェイはとてもきれいなピアノで、開演前にちょっと拝見したところ20年ぐらい前のもののようで、フレームには野島稔氏のサインなどがありました。

個人でこんな空間を作って、オーナーは人知れず音楽家を招いては楽しんでいらっしゃるのでしょうか。
見たところ50人ぐらいは収容できそうな感じでした。

前半はコントルダンス、ノクターン、マズルカ、バラードなどショパンが弾かれ、後半はドビュッシーの数曲を経て、武満の雨の樹素描II、メシアンの幼子イエスにそそぐ20の眼差しから第20曲「愛の教会の眼差し」が演奏されました。
とくに演奏に感想はありませんが、この夜一番の聴きものはメシアンであったのは論を待たないと思われます。
音楽を通してまさに宗教の一場面に立ち会っているかのようで、これ一曲でも聴けて良かったと思いました。

ピアノに関しては感じるところはありましたが、公開された有料のコンサートとはいえ、個人の持ち物である可能性を考えるなら、やはりあれこれと印象を述べるのは遠慮しておきます。

演奏がすべて終了して帰ろうと席を立ったとき、一人の方からふいに話しかけられました。
見るとピアノサークルのメンバーの方で、長らく参加されていなかった方の姿がそこにありましたが、マロニエ君の姿を見つけてお声をかけてくださったようでした。
この方はピアノもお上手ですが、とてもおもしろいタロット占いをされるので、またぜひ占いを見せてくださいとリクエストしておきました。
この日はお勤め先の方と来られていたようですが、全体的な客層はみなさんなんらかの繋がりのある方ばかりが大半を占めているという、マイナーコンサート特有のいかにもな感じでした。

それにしても、今日はめったにない体験が出来ました。
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クローンみたいな他人

世の中には、赤の他人でもまるで双子のように似ている人がいるというのを知ったのは、ピアノニストの小菅優さんをはじめて見たときからでした。
マロニエ君の友人に小菅優さんと瓜二つの女性がいて、その昔、彼女は同じ仲間内のクラブ員でした。

折あれば良く顔を合わせる人だったので、彼女の顔はよくよくインプットされているのですが、とにかくその彼女と小菅優さんとは気味が悪いほどそっくりなのです。

友人のほうは既に結婚して子供もできたので、以前のようにしばしば顔を合わせる機会はなくなりましたが、CD店などに行ってふいに小菅優さんの顔写真のついたジャケットをみると、それだけでいまだにギョッとさせられます。
顔はもちろん、大まかな体つきとか、醸し出す雰囲気までそっくりなので、一瞬その友人本人がCDを出しているように見えるのです。

もっともその人はピアノはまったく弾けません。
でももし「実は双子の姉妹がいて、彼女はピアニスト」と言われれば、すぐに信用したでしょう。
彼女は三人姉妹の末っ子で、上の二人のお姉さんにも会ったことがありますが、なんのなんの小菅優にくらべたらまったく他人ほどの顔をしています。
さて、マロニエ君はいつもNHKのクラシック倶楽部という番組を録画しているので、時間のあるときによく見るのですが、近ごろその中に樫本大進・川本嘉子・趙静・小菅優によるピアノ四重奏演奏会というのがありました。

普通だと写真で似ているように見えても、動く姿などを見ていればその違いがだんだんはっきりしてくるものですが、小菅優さんに限っては、まったくそういう段階に押し出されるということがありません。
今回もまた、あらためて映像を見てみて、やはりこの似かたはただ事ではないと思いました。

昔から、世の中には自分とそっくりな人が3人(でしたか?)いる、などといわれますが、もし自分とこれほどそっくりな人がいたとしたら、マロニエ君はとてもじゃないですが気持ち悪くてかないませんから、まちがっても会いたくはありませんね。

ところで、小菅優さんは、その演奏する姿がいつも情熱的で、音楽にノリノリのような激しい燃焼感を伴っているように見えるわりには、音がいつもくぐもっていて不思議というか、もうひとつはっきりした音が出ないピアニストのように感じていましたが、今回の映像でも同様の印象を受けました。
カーネギーホールのライブや小沢征爾とのメンデルスゾーンのコンチェルトを入れたCDも買いましたが、やはり音がモコモコしていて、ふわふわに柔らかいハンマーで鳴らしているピアノのような感じです。
柔らかいだけなら結構ですが、明らかに鳴らないのはストレスです。

よほど非力な人なんだろうかとも思いますが…とてもそういうふうにも見えませんし、なんだかとっても不思議なピアニストです。
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アヴデーエヴァが使うピアノ

最新の音楽の友誌によると、アヴデーエヴァの初来日の様子がグラビアで紹介されていました。

12月4/5日に行われたNHK交響楽団との共演については大変な褒め方で、以前ならこういう文章は違和感を覚えたはずですが、最近ではすっかり醒めて捉えるようになりました。音楽の友といえば日本で最も有名なクラシックの音楽雑誌ですが、それ以前に多くの広告などを背負った商業誌なのですから、カラーで紹介される巻頭記事は事実がどうであれ肯定的なものでなくてはならないということでしょうか…。

しかし、何事もこういう感じに素人が業界事情を察したような見方をしなくてはいけないことは、世の中の傾向としては好ましいこととは思いませんし、テレビのインタビューなどでもこうした言い方を事情通ぶって展開する一般人が増えたように思います。
こういう現実にだんだん馴れてきたマロニエ君ですが、さらにそこには意外な事実がありました。

NHK交響楽団との共演でアヴデーエヴァがスタインウェイを弾いた事情については、ブログの読者の方からコメントで「NHKホールはピアノの持ち込み使用ができないから」という、まことに不可思議な不文律があるためということを教えていただきました。NHKというのは一種独特の組織なので或いはそういうこともあるのでしょう。

ところが、急遽リサイタルが決定したらしく、12月8日、会場は東京オペラシティのコンサートホールで行われたようですが、そのリサイタルの写真を見ると、なんと、またしてもCFXではなくスタインウェイを弾いているのです。
まさか東京オペラシティまでピアノの持ち込みができないとも思えませんので、何があったのか考え込んでしまいましたが、これ以上は想像ですから遠慮します。

そもそもホールのピアノにまつわるルールというのは、ホールの備品であるピアノは専属の調律師以外には触らせない、あるいはピアニストが自分の好む調律師を希望する場合は調律のみでアクションその他には一切手をつけず、場合によっては専属調律師が立ち合いをする(変なことをしないように目を光らせている)という、まことに厳しいルールがありますが、しかしピアノそのものの持ち込みができないというのは普通ありません。

ホールのピアノ管理については上記のような業界事情から、こだわりのあるピアニストや技術者は自分のピアノを準備して、それを全国どこへでも運んでコンサートをやっているという少数派も中にはいるわけです。これならホールの楽器ではないのですから、誰が調整しようがホール側は口出しできませんし、そもそもホールは基本的にホールという場所と空間を時間貸しするのが商売なのであって、楽器の持ち込みなどには関与しない(できない)のが普通です。
こういうことを前提に考えても、アヴデーエヴァがなぜリサイタル(NHKホールではない会場)でもCFXを弾かなかったのかということについては、マロニエ君は業界人でもなんでもないのでまったくわかりません。
ただ、ひとつ不思議に思っていたのは、ショパンコンクールが終わった後も、ヤマハはCFXの広告にヤマハ演奏者が優勝という事実をひとことも伝えてきませんので、これはまたずいぶんと控えめなことだと思っていました。
むしろ「それしきのことでは騒がないよ」というお高くとまった沈黙のメッセージかとも思っていましたが、かつてリヒテルが存命中は何かと言えばリヒテルリヒテルと、うんざりするほど広告でそれを謳っていたころを思い出すとずいぶんな変わり様だと思っていたところでしたが…。

その音楽の友最新号には、中ほどにCFXに関する記事もありましたが、開発者の談によれば支柱から響板の強度を増して響きを重視、フレームも新設計ということにくわえて、従来のものより柔らかいハンマーを使っているとありました。これはまったく頷けることで、CFXはピアノが良く鳴るのに音がふくよかという一大特徴があると感じていました。

これはピアノ設計としては理想形であって、その逆、つまり鳴らない楽器を固いハンマーでカリカリと鳴らすのはまったくいただけないやり方です。ピアノに限った話ではありませんが、楽器というものはまずもって本体が楽々と鳴るという事、これに勝るものはありません。
またコンサートでCFXを聴いてみたものです。
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落ち葉焚き

我が家はとくに広い庭があるわけでもないのに、夏は草戦争、冬は落ち葉戦争が繰り広げられます。
大阪冬の陣/夏の陣は一回きりですが、我が家の庭戦争は毎年やっていますが、まだ片が付きません。

以前も書きましたが、マロニエ君の自宅は周囲の落ち葉が不思議に集まってくる落ち葉屋敷みたいなもので、そのうち自分の家の植木が落とす枯葉は果たして何割あるでしょうか?
全体の優に半分以上はよそから来る落ち葉であることは言うまでもありません。

毎日毎日この落ち葉が貯まりに貯まって、ちょっと油断すると45Lのポリ袋はものすごい数に達します。
これをいちいちゴミに出していたら、ゴミ袋代だけでもいくらかかるかわかったものじゃありませんし、なにしろ毎日のことですからその労力も大変なものになるわけです。

そこで福岡市は焚き火が原則禁止ではなく、「周囲に迷惑をかけたときのみ止めるよう指導」のようなので、ときどき落ち葉焚きをやっています。
昨年末から年明けにかけて天気が悪かったために、なかなかこれが出来ませんでしたが、昨日はようやく実行することができました。

亡くなった父が焚き火が好きで、僅かな火種から盛大に火をおこすのが得意で、ペットボトルなどを入れると良く燃えるなどと得意げに言っていましたが、今はさすがにご時世でそういうことはできなくなりました。
もちろん落ち葉と少しの紙以外は一切燃やしません。

しかし多少は父の技を受け継いだのか、いつも少しのチラシなどをから難なく落ち葉を赤く燃やすことができています(自慢じゃありませんが)。
マロニエ君が火をおこして燃やすのが担当、家人が次から次に裏から落ち葉の詰まった大きな袋をゆっさゆっさと持ってきますが、その数も大変なもので、昨日だけでもおそらく20ぐらいはあったように思います。
これに引き抜いたばかりの草などが混じっていると水分を含んでいるので燃えにくく、嫌な煙が出ますが、枯葉だけならパリパリと至って快調に燃えていきます。

我が家の場合、焚き火には夥しい量の落ち葉を焼却処分するという実用的な目的があるわけですが、ささやかな副産物もあって、とくにこの寒さの中で、体が焚き火に当たるのはとても心地よく、なんともいえない風情があるものです。
いやに年よりじみたことを言うようですが、現代の子供はこういう体験を一切しないまま成長していく子も少なくないのかと思うと、理屈でなく気の毒になります。

「こういう体験」というのには実はもうひとつ理由があって、落ち葉が燃え尽きた灰の山にアルミホイルに包んだサツマイモも入れるのがマロニエ君の楽しみで、普通サイズのものなら一時間も入れておけば、それはもう見事な焼き芋が出来上がります。
皮には一切焦げ目がないのに、中は芯の芯まで火のように熱くなっていて、まさにふっくらあつあつとはこのこと。その美味しさといったらありません!
これにバターを付けて2個でも食べようものなら、晩御飯も要らないくらい保ちの良い満腹が得られます。

これを食べると、まるで日ごろから迷惑をかけられっぱなしの落ち葉からの、せめてもの御礼のような気がします。
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あらし

例年にない寒波が続くこのところの天候ですが、その中でも昨日の夜(2011.1.15)の寒さは一段と厳しいものがありました。

そんな夜、予定があって出かけたのですが、気温はほぼ0度に近く、おまけに方向の定まらない風がふくものだから寒さは倍増です。どう考えてもおよそ九州地方の天候とも思えない猛烈な寒さと荒れた天候です。

友人を迎えに行って、それから西に向かって都市高速に乗りましたが、これが失敗でした。
突風は都市高速のような遮蔽物の少ない道路になると一層強烈で、下の道の何倍もの威力で轟然と吹き荒れていました。そのたびに車体は右に左に風の圧力を受けて、真っ直ぐ走るだけでもめっぽう大変です。
その頃になって気が付きましたが、このお天気ですから、まわりもほとんど車がなく、ほぼ貸切状態でした。

普通なら喜ぶところですが、さすがにあの強烈な突風で、しかもどっちから吹いてくるかもわからない嵐のような状態ですから一気に心細くなってしまいました。
風というのは通過するときにはものすごい音がして、そのたびに車があっちにこっちに流されて、はじめは笑っていましたが、だんだん恐くなりやたら緊張させられます。しかもその突風の中に白い粉雪が混ざっていて、ライトの先に荒れ狂う様が見えるので、まさに恐怖映画の真っ只中という迫力じゅうぶんです。

普段なら都市高速に入ればそれなりのドライブを楽しむマロニエ君ですが、この日ばかりはゆっくりゆっくり前に進むだけでも精一杯でした。途中で降りることも考えなくはなかったのですが、なんとか行けるかもという甘い期待もあってなんとか走り続けると、次第に海が近くなり、天神を超えると荒津大橋(ハープ橋)があることを思い出しました。
ここは福岡の都市高速の中でも最も高い位置で、路面は地上40mに達し、おそらくビルの10階以上はあるはずです。しかも右は博多湾で周囲は何もない正真正銘の吹きさらしときていますから、ただでさえ強すぎる突風も最高潮に達するはず!

ハープ橋へ至る最後の上りカーブあたりから風も一段と残忍さが増してきて、本当に車ごと飛ばされるのではないかとこの瞬間は思いました。天神で降りておけばよかったとも思いましたがどうすることも出来ず、このまま上って行くしかありません。
このハープ橋は、ずいぶん前にもオートバイが下に転落して死亡事故が起きていることも、そんなときには妙に思い出すものです。本当に飛ばされる可能性もあると感じたので、この時は右からの風だった為、万一の場合少しでも余地を残すべく、あえて右側の車線を走りましたが、荒れ狂う暴風の中、ハンドルにしがみついて息もつかず、なんとか無事に渡り終えました。

不思議なもので、この難所さえ通過すればあとは大丈夫という気になり、とうとう終点まで行きましたが、愛宕から先は防音壁などがあるので、比較的安全に行けたこともありました。
自分は走っておいてこんなことを言うのもなんですが、あのような日は都市高速は通行止めにすべきだと本気で思いました。とくにハープ橋の前後は危険度も著しく、ちょっと背の高いトラックなどは下手をすると木の葉のように飛ばされても不思議ではない状態でしたから。

帰りはもちろん都市高速はこりごりで、国道を走って帰りましたが、ある大学の官舎のある交差点でのこと。歩行者用信号は赤なのに、とつぜんこちらに向かって歩行者が闇の中から走り込んできて、咄嗟に急ブレーキと急ハンドルで間一髪避けることはできましたが、事故にならなくて本当にラッキーでした。
思わずカッときてクラクションを鳴らしましたが、見るとカバンを持ったやや年輩の男性で、逃げるように官舎の中へ入って行きましたので、おそらく大学の先生だろうと思います。
このとき外気は氷点下に達していましたから、寒さに耐えがたく赤信号を強行突破してでも早く自宅に帰りたかったとすれば心情としてはわかりますが、しかしとんでもない行動で、こんな嵐のようなときこそお互いに安全には普段以上に注意したいものです。

友人によると翌日は福岡ドームで「嵐」のコンサートがあるとかで、まさか前夜のこの天候はその前座なんではなかろうかと思いました。
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リスト弾き

考えてみればリストという作曲家ほど、わかりやすいようでわかりにくい、明解なようで難解な、最も通俗的なようでそうでもないところもある作曲家も珍しい気がします。

そんなリストですから生誕200年と言っても、やはりショパンのようなわけにはいかないのは明らかでしょう。

前回往年のリスト弾きの名前を挙げましたが、現在はだれもがあまりにもオールマイティなピアニストを目指すので、特定の時代や作曲家だけを得意とする○○弾きという人はほとんどいなくなったようですね。
リストと同じハンガリー出身のジョルジュ・シフラは超絶技巧をウリにするリスト弾きでしたし、リストの作品を広く世界に広めるには大きな貢献をした人です。でもこの人は超絶技巧をウリにしながらもとても純粋な心をもった人でもあったようで、ショパンなどにもそれなりの名演を残しています。
たしか晩年はまだ初期の頃のヤマハCFを愛奏していました。

リストと言えば強烈だったのは、ラザール・ベルマンの超絶技巧練習曲です。
リヒテルやギレリスでロシアピアノ界の圧倒的な凄さを見せつけられていたところへ、またぞろこんな怪物がいるのかと思わせたのが、人間業とは思えないベルマンのこのレコードでした。
こんな恐ろしいまでの腕を持ちながら、ほうぼうのレコード会社に自分を売り込むなど、大変な苦労をしたというのですから、当時のソ連の社会というのは想像を絶するきびしいものだったことがわかります。
西側へデビューしてからは来日もしましたが、思ったほどの盛り上がりはなかったように思います。

フランス・クリダはずいぶん前には頻繁に来日し、やたらめったらリストを弾いていたような記憶がありますが、その後はなぜかステージからはパッタリと姿を消してしまったようです。
クリダのCDは一枚も持っていないので、ずいぶん前に買ってみようと思った時期があったのですが、どこをどう探しても見つかりませんでした。それが今年、リストの主要な作品全集ということで14枚組で発売されることになりましたので、これはぜひとも購入してみるつもりです。
たしかに、こういう普通なら絶対になかったであろう企画物が出てくるところは生誕・没後の年の面白味だろうと思います。

その最たるものは、レスリー・ハワードの演奏によるリストのピアノ作品全集で、これまで分売されていたものが、ついに99枚組!という恐ろしい数のセットとなって発売されることになったようです。
ハワードはこのリストの大全集を作ることをライフワークとしていたそうですが、まさに大願成就というところでしょうし、マロニエ君は全集というものを必ずしも双手をあげて賛成しているわけではないのですが、さすがにここまでくればまさに一大事業で、いやはや大したものだと思います。

これを購入するか否かは大いに悩む点です。
資料的な価値は唯一無二のものがあると思われますが、そもそもそれほど好きでもないリストですから、安くもないこんな強烈な全集を買っても聴き通す自信もないですし。
でも妙に気になる全集であることはたしかなので、もう少し検討してみようと思います。
こういうものは買うべき時に買っておかないと、絶版になったりするのもわかっていますから。
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リストの生誕200年

昨年のショパン/シューマンの生誕200年に続いて、2011年はリストのそれにあたるようです。

生誕200年や没後何年というのが音楽の本質にどれだけ意味のあるかどうかはともかく、少なくとも音楽ビジネスの世界ではそこにあれこれと理由付けをして企画が出来るという点では、いい節目になるのだろうと思われます。

しかし現実には昨年の生誕200年も注目の大半はショパンであって、シューマンはほとんど不当とも言えるほど陰にまわってしまったというか、ショパンの圧倒的な存在感の前ではさしものシューマンもなす術がなかったという感じでした。
シューマンの不幸はショパンというあまりにも眩しすぎるスターと生誕年が同年であったことにつきるわけで、これが一年でもずれていればまた違った結果になったという気がしなくもありません。
そういう意味で、リストは大物に喰われる心配はないようですが、ショパンの翌年ということで、少しはその余波が残っているのではないかと思われますし、リスト単独で注目を集めるほど現代人の意識にとって彼が大物かと言えばいささか疑問の余地も残ります。

リストはいうまでもなく、ロマン派のピアノレパートリーとしてはほぼ中心の一角をしめる音楽歴史上(とりわけピアノ音楽、演奏技巧、リサイタルの在り方、楽器の発達史など)の超大物ではああることは間違いありません。しかし一般的にモーツァルトやショパンに較べてどれだけの神通力があるかたいえば甚だ疑問です。
作品もピアノ曲だけでもまことに夥しい量ですが玉石混淆。

とくにリストの場合、その膨大な作品数に対して有名な曲はきわめて少数で、一般的に知られている作品はほとんど一割程度じゃないか…ぐらいに思います。これがショパンの場合は大半の作品が広く知られて親しまれているわけで、あまりにも対照的ですね。

実はマロニエ君自身も、リストはそれほど好きな作曲家ではなく、よく聴く曲はせいぜいCD4〜5枚に収まる範囲で、それ以外は何かのついでやよほど気が向かなければなかなか積極的に聴こうという意欲はわきません。
リサイタルの演目としては、後半などにリストを少し入れておくのはプログラムの華として効果的だとは思いますが、演目の中心になるような作品はソナタなど多くはないというのが実情のような気もします。
ごく一部の、例えばバラード第2番とかペトラルカのソネット、詩的で宗教的な調べ、超絶技巧練習曲のうちのいくつかなど(ほかにもありますが)、真に深い芸術性に溢れた、それを聞くことで深く心が慰められ真の喜びを与えられるような作品は一部だという印象はいまだに免れません。

これらの曲はしかし、いわゆるショパンの作品のように一般受けするような曲でもなく、有名なのはラ・カンパネラや愛の夢、メフィストワルツ、ハンガリー狂詩曲の2/6/12番、リゴレットパラフレーズ、ピアノ協奏曲第1番あたりではないでしょうか。

リスト弾きと言えば思い出すのは、ジョルジュ・シフラ、ホルヘ・ボレット、フランス・クリダなどですが、そのあたりのことは長くなりますので、また別の機会に書きます。
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クン付けサン付け

テレビなどでよく耳にすることですが、すでに若くして一芸に秀で、社会的にも認知された人物に対して、まわりの人間が自分のほうがただ年長というだけで、先輩ぶった上から目線の呼びかけ方やトークをするのは基本的に好きではありません。

もちろん長幼の序は儒教精神の大切な概念ですが、それを目的外に乱用悪用するのはどうかと思います。
もともとこの傾向の祖は、現東京都知事の石原慎太郎氏であったように思うのですが、自分の生年月日を根拠に小泉さんを現役総理の時代から「純ちゃんは…」とコメントし、彼はありとあらゆる政府の要人を「クン」呼ばわりします。

こういうちょっとした合法的無礼行為と悪習はあっという間に巷に広まり、スポーツ選手あがりの解説員などは、時代が違っただけで自分よりもはるかに上位のスター選手であっても、年長を盾にして上から「クン」付けで呼び始めました。

音楽の世界にもそれは伝染病のように広がり、多くの関係者などは(単なる雇われ人まで)わざとのように例えば「辻井クン」と彼を必要以上に目下扱いして、僅かでも一瞬でも自分が上に位置するという物言いをして快感を得ているように見えてしまいます。
マロニエ君のまわりでも留学帰りの若いピアニストなどを、大した仲でもないくせに「クン」で呼ぶ人のなんと多いことか! 相手が若くして立派になればなるほど、その人をクン付けで呼ぶことに、かすかな快感と復讐の念を働かせているようにしか見えません。
極めて偏狭かつ無教養が生み出す、いわば人間の狡猾な部分を見るようです。

とくに相手の親に対してまで本人をクン付けで呼ぶのは、端から見てるとただ単にその人が嫌な感じにしか見えないものですが、ご当人はまるで「まだまだ私から見ればただの若者としか捉えていないよ」「これっぽっちも恐れ入ってはいないんだよ」といういじわるなメッセージが込められているかのようです。
自分を大きく見せようという心理でクンづけで呼んでいるその人が、しかし却って心の狭いコンプレックスの塊のようにしか見えません。

テレビなどでも相手が大物だったり有名人だったりすればするほど、あえてクン付けで呼んでいるのは、自分が同等もしくはその上にいるんだとアピールしているようで、なんとも浅ましい人物にしか見えません。
クン付けでサマになるのは、せいぜい昔の学校の先生とか、同級生などでないとダメだと思います。

そうかと思うと、逆で驚くのは芸能界などです。
昔は俳優でも芸能人でも芸人でも、呼び捨てにするのは当たり前でした。
これは別に相手を見下しているわけではなく、有名人というものは一般人からみれば直接お付き合いする生きた人間関係の対象ではなく、ただ単に名前を覚えてそれを口にする、そういう単純なものでした。
したがって失礼でもなんでもない単なる慣習だったはずです。

それが今では誰でも彼でも不気味なほどサン付けで呼ばれるのが義務化されているようです。
芸能界は異常なほどお互いをサンもしくは年下の場合はクン/ちゃんで呼び合うことが慣習化され、その名がクイズの答えであっても決して手を抜かないその徹底ぶりは、まるで軍隊みたいです。

とくにお笑い芸人などはサンをつけたその時点でもはやお笑いではなくなります。
明石家さんまでもビートたけしでも、さんま、たけし、と言う対象であってはじめて笑えるのであって、いちいち「さんまさん」「たけしさん」では、笑ってやる気にもなれません。

ではよほど礼儀正しく丁寧なのかと思えば、皇室報道などではその言葉遣いの非礼で出鱈目なことなどは呆れるばかりです。

現代はなんでも平等の権利の建前だけを、状況や事柄に関わりなく振りかざす歪な時代で、もはやTPOもなく、日本語の絶妙のセンスなどは死に絶えたも同然な気がします。
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競争心?

昨日のブログを書いてみてふと思ったのですが、常日ごろ自分のあまり意識していなかった事実に気が付きました。

マロニエ君はつまらないことで憤慨することは多いものの、人との競争心はあまりなく、むしろ必要量さえも欠落しているというか、かなり弱い方だと思っています。
そのせいで人生も負け組に甘んじているわけで、人との競争心がエネルギーとなって何かに挑戦したり奮起しようというようなガッツに欠けるのは事実ですし、この「ぴあのピア」の立ち上がりが遅いのも、ひとつにはそのせいだろうとも思っています。

でも、そんな自分にもやっぱり競争心というのは探せばあるようで、それが自分の職業とか人生設計、せめてピアノとかならまだ良かったのですが、そっちはからきしダメでかけらもありません。
では、何に対して競争心があるのかというと、ほとんどバカバカしいとしか言いようのない駐車場の場所取りとか、出入口のちょっとした順番みたいなものにはこれがあることにハッと気付き、そういう自分を認識できたことは思いがけないことでした。
むろん、つくづくバカで幼児性だなあと思いますが。

考えてみると車の多い駐車場などに行くと、条件反射的に俄然自分が燃えてきているのが、静かに振り返ってみたらわかりましたし、やみくもに頑張ろうとする自分をそこに見出すことができるのは、大いなる発見でしたが、なんとも滑稽でもあります。
駐車スペースの場所取りなどは、ほとんど無意識のうちにこれを「戦い」だと思っていますし、それは他のことのように投げ出すことも避けることも、いち早くあきらめることもなく、一人前に社会参加して自分も互角に他者と戦っていることに気が付きました。

車の運転にもそういうところがあって、変な割り込みなどをされるとか前の車がトロい走り方をしていることに関しては、他の事のように寛容ではいられません。車線の多い道路では、いかに自分だけが賢く先まで見通しを立てて、車線を選びながらいち早く走り抜けることが出来るかを、必要以上にいつも情熱的に考えてしまいます。

その状態に突入したときの緊張と、上手くいったときの過剰な喜びは、そのなによりの証拠だと思います。
なぜそうなのかは自分でもさっぱりわかりませんが、きっと遺伝子の中にポロンと組み込まれているのだろうと思います。とはいっても両親共にまったくそういう性質ではないんですけどもね。

むかし「ハンドルを握ると人が変わる」という言葉がありましたが、もしかしたらその一種かもしれません。
だから、昨日のように一回の買い物で、駐車場内で二度おいしいことがあると、尋常ではない喜びを覚えるのでしょう。
たしかに似たようなことをマロニエ君ほど喜ぶ人は他はあまりいないようにも思えます。

まあ、競争心といえばまだいっぱしですが、ただ単に幼稚というだけの事かもしれませんが。
こんなくだらないことでも本人にしてみれば、自分の中で競争心がちゃんと機能しているということを知ったという点ではちょっと嬉しいのですが。
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くだらん満足

以前も書きましたが駐車場というのは、その気で眺めるといろんな光景を目にするもので、自分自身が一喜一憂することもあると同時に、そこに小さな人間模様が観察できて意外におもしろい場所とも言えそうです。

昨日も行きつけのスーパーに行くと、例によって駐車場も混み合っていましたが、入口から遠い場所以外はほぼびっしりと車が並んでいて空きがありません。
このところの寒さと時おり降る雨ですから、みんな遠くへ置いて歩くのはイヤなのでしょうし、むろんマロニエ君も同じです。

ちょうど今にも出そうな車が目に止まり、見ると助手席の女性は準備万端整っているようですが、運転席の男性がもぞもぞしています。こちらが待っているのがわかったようで、案の定ぐずぐずパフォが始まりました。助手席の女性のほうがむしろこちらを気にかけてくれているようでした。

やたらゆったりした動きで、やっとシートベルトを着けましたが、なんのなんの、まだ動きそうにはありません。引っぱるだけ引っぱっているというあからさまな意志が伝わってくるようで、ああまたか…と思っていると、5台ぐらい先の車がスルリと出ていきました。
そっちのほうが入口は近いし、やったぁ!とばかりに、一気にそこへ移動してサッサと車を止めました。

止め終わって車を降りようとする頃、さっきの車は動き出して前を通って出口のほうへ向かいましたが、まあこっちはより良い場所にありつけたわけで、えらく満足な気分です(子供ですね)。

さて、買い物が終わって、車に戻ろうとすると目の前をいきなり大きなワンボックスタイプのワゴンが逆走していきます。しかもマロニエ君の車の隣が空いており、そこを狙っているようでした。

ところがマロニエ君の車の隣のスペースは、たまたま後ろに植木がある関係で、奥行きが浅く、そこだけ「軽」と地面に書かれた軽自動車専用スペースなのですが、そこへその大きなワゴン車を突っ込むべく、ルール違反の逆走までしてきて必死のバック駐車が始まりました。
駐車場内は一般公道ではないものの、それでも逆走というのはちょっと怖いものがあります。
しかもなにしろ隣なので、その車のバック駐車が終わるまでこちらは助手席のドアも開けられずに寒い中をじっと待っていました。

しかしどう足掻いても軽の場所に大型ワゴンですから、フロント部分が大きくはみ出して、とてもこのままではマズかろうという感じです。すると出ていこうとするこちらの気配に気付いて、場所を一台右に移動しようと思ったらしく、運転席の女性は針のような目つきでこちらをチラチラ見はじめました。
逆走してきて、さんざん周りを待たせた上に、今度はこっちへ狙いを定めたようです。

まあマロニエ君にしてみれば自分の駐車場でもないし、そもそも勿体ぶって動かないのはすごくイヤなことだと普段から思っているので、早々に動き始めました。ちなみにここは右に出る方角の一方通行です。
右にハンドルを切りながら動き出すと、そのワゴン車の駐車が済むまで動けずに待っていたボルボのワゴンの運転者と目が合いました。マロニエ君には「俺がそこに置くから」という意思表示のように見えました。
こちらも瞬間的に了解した気になり、それを受けてなんとなく普通よりゆっくりした感じで駐車スペースから出たところ、ワゴンの女性が動くよりも先にそのボルボがスッとこちらへ前進してくるのがわかりました。

果たしてワゴンの逆走女性は、さっきとは逆に自分が今後は進路をふさがれて、めでたくそのボルボがマロニエ君の出た後に駐車すべくすみやかに駐車態勢をとりました。

このあと軽の場所からはみ出したワゴンがどうしたかは知りませんが、マロニエ君にしてみれば二度にわたっておもしろいタイミングに恵まれて、こういうくだらないことに大満足して家に帰りました。
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河村尚子

河村尚子さんは、おそらくいま日本で売り出し中の新人ピアニストという位置付けでしょう。
幼少期からドイツに渡り、ハノーファー音楽芸術大学に進み多数のコンクールに出場したとあるので、ずっとドイツで育ったということなんでしょうか。
何であったか忘れましたが、わりに評判がいいというような噂も聞こえてきていました。

昨年11月だったか福岡でもちょうどこの人のリサイタルがあり、できれば行ってみようかと迷っていたのですが、結局どうしても都合が付かずに聴けませんでした。

するといいタイミングにNHKの放送で、昨年紀尾井ホールで行われた河村尚子ピアノリサイタルが放映されました。曲はシューマンのクライスレリアーナ、ショパンの華麗な変奏曲など。

解釈はオーソドックスでその点ではすんなり聴くことができました。
直球勝負的な演奏で、今どきよくあるつまらない小細工や名演の寄せ集め的なことをしないところは好ましく思えましたが、表現の多様性に欠けるのことがクライスレリアーナの2曲目以降から明瞭になりました。とてもよく弾き込まれている感じは受けましたが、残念なことにこの曲に必要な幻想性や文学的な奥行き、あるいは抽象表現がなく、あくまでもひとつの楽曲としてのみ捉えられているように思います。

また、テクニック的には今どきのピアニストとしてはごく平均的なレベルにとどまるというか、強いていうならややこの点は弱いように思いました。ミスが多かった点はまだマロニエ君は許せるのですが、基本的なタッチコントロールが不十分で、シューマンの音楽に必要な立体交差するような響きがまったく表現できないことは、この人の最も大きな問題点のように感じられました。

ドイツでみっちり教育を受けているらしいこと、また、内的な表現をしようと努めているらしいのはわかるのですが、曲の表情や息づかいなどの解釈あるいは表現の要素となるものが、ごく単純な喜怒哀楽の入れ替わりのみで処理されていくのもやや浅薄な感じが否めません。
幅の広さを持った音楽家というよりは、いかにもピアノ一筋でやってきた人という狭さを感じてしまいます。

ステージマナーも外国仕込みといわれればそれまでですが、いかにも大振りで、本物の音楽家でございというちょっとふてぶてしいまでの表情や所作が気になるところ。べつに、いつもニコニコして両手を前で握って可愛らしくお辞儀…などとはまったく思いませんが、それにしてもニヤリと会場を睨め回すような目つきや、両手は肩の付け根からブラブラさせるような動きは、いささか日本人の仕草としてはマッチングが悪いようにも思いました。

なによりも、ピアノの女性独特の気合いの入り方と怖さがあって、ポスターのあのあどけない少女のような雰囲気とはまったく違う人のように見えました。
この河村さんに限らず、頻繁に使う写真が実際のイメージとはあまりにもかけ離れているのは、見る者にはひとつの印象を覆すものとなり、却ってマイナスではないかと思いますが。
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エストニア

エストニアという名のピアノをご存じでしょうか?
旧ソ連時代、ロシアでは最も代表的な自国のピアノで、連邦内の大半の音楽学校やコンサート会場ではこのピアノが広く使われているということは耳にしていましたし、現在でも世界中の多くのロシア大使館にはこのピアノが設置されているといわれています。
(ちなみに20年以上前、マロニエ君が東京の麻布台にあるソ連大使館で行われたコンサートに行ったときは、ピアノはエストニアでなくヤマハのCSでした。)

マロニエ君は長いことこのピアノのことをロシア製ピアノだと疑いもせずに思いこんでいましたが、エストニアはその名の通り、現在のエストニアで製造されるピアノで、国名がそのままピアノの名前にもなっているというわけです。そして旧西側世界ではほとんど馴染みのないメーカーでもあります。
旧ソ連時代はエストニアも連邦の中に組み込まれていたので、ソ連製ピアノという括りになっていましたが、ソ連崩壊以降、諸国には独立の気運が高まり、バルト三国のひとつであったエストニアも1991年に独立を果たし、現在では主権国家となっていますから、もはや「ロシアのピアノ」という捉え方はできなくなりました。

理屈はそうなのですが、マロニエ君はいまだに「エストニアはロシアのピアノ」というイメージがなかなか払拭できません。

そのエストニアが、まさか日本で販売されているなどとは夢にも思っていませんでしたが、なんと広島の浜松ピアノ社の手によって輸入販売されているということを知って大変驚きました。
これを知ったきっかけは、広島のある教会へ、このエストニアピアノのコンサートグランドを2台納品したということが、この店の社長のブログに書かれていることが目に止まったことでした。
教会にピアノというのはよくあることですが、それがコンサートグランドで、しかも2台で、おまけにメーカーがエストニアとくればいやが上にも興味を覚えずにはいられません。

さっそくお店に問い合わせをしたところ、社長直々にまことにご丁重なお返事をいただきました。
それによると、エストニアピアノの社長とは個人的にお知り合いなのだそうで、現在日本では唯一この浜松ピアノ社が輸入販売をしておられるらしく、店頭にも一台グランドが展示されているというのですから、これは非常に貴重で特筆すべきことでしょう。

エストニアのグランドは168、190、274の3種類という意外なほどシンプルな陣容ですが、価格もいわゆる高級輸入ピアノの約半額といったところのようですから、それほど高くはないようです(もちろん絶対額は高いですが)。
勝手な想像で、価格やその成り立ちなどから、好敵手はチェコのペトロフあたりだろうか…と思いますがどうなんでしょう。

マロニエ君は一度もこのピアノの実物を見たこともなければ、ましてや音を聴いたこともないので、はたしてどんなピアノか興味津々というところです。なにしろロシアで最も広く愛用されたピアノということで、その音色はやはりロシア的な重厚でロマンティックなものだろうかなどと想像をめぐらせてしまいます。
YouTubeでエストニアピアノの音を聞いた限りでは、音の伸びが良いのが印象的で、思ったよりも遙かにクセのない、良い意味での普遍性があって、誰もが受け容れられるとても美しい音色のピアノだと感じました。現代性とやわらかさを兼ね備えるという意味では新しいヤマハに通じるものがあるようにも感じましたが、なにしろYouTubeで聞いただけですから、あくまで大雑把な印象ですが。
ここでの比較で言うならペトロフのほうが野性的で、エストニアはより洗練された印象でした。

超絶技巧の第一人者として有名な名匠マルク・アンドレ・アムランは、コンサートや録音にはスタインウェイを使ういっぽうで、自宅のピアノとしてエストニアのコンサートグランドを購入したという話を以前聞いたことがありますから、やはりこのピアノならではの独特な個性や魅力があるのだろうと思われます。

それでなくても、旧ソ連のころからの伝統あるメーカーというのは、なんだかそれだけで謎めいていて、そそるものがあります。昔のロシアの巨匠達は皆、このピアノで腕を磨いて大成していったのかと思うと、あの偉大なロシアピアニズムを支えたピアノとして、とてつもないノスタルジーさえ感じてしまいます。
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征爾とユンディ

衛星ハイビジョン放送では過去の優れたドキュメント番組の再放送をしきりにやっていますが、『征爾とユンディ』というのは、以前見ていましたがもう一度見てみました。

テレビ番組といえども、読書と同じで、2度目には初回とはいくぶん違った印象を持つものです。
以前は見落としていたことや、制作者の意図がようやく理解できたりと、2度目は見る側にも余裕があるのでより細かい点まで目が行き届くようです。

この番組は、ユンディ・リがショパンコンクールに優勝して数年後、世界的な演奏活動も軌道に乗ってきたころ、小沢征爾の指揮するベルリンフィルと初共演をする数日間をドキュメントとして追ったもので、曲も難曲中の難曲として知られるプロコフィエフのピアノ協奏曲第2番に挑みます。

しかし、番組構成の主軸はユンディのほうにあり、ベルリンフィルとのリハーサルの様子などを随所に織り込みながら、もっぱら彼の生い立ちなどが多く語られました。小さな頃はアコーディオンを習っていたのをピアノに転向し、しだいに才能を顕し、中国で一番という但昭義先生の指導を仰ぐようになってさらに才能を開かせたユンディは、ついに世界の大舞台ショパンコンクールの覇者にまで上り詰めます。

子供のころからの写真がたくさん出てきましたが、どれもなかなか可愛らしく、彼はピアノの才能もさることながら、小さい頃から中国人としてはかなりの器量良しであったようです。しかもランランのような、いかにもベタな中国人というよりは、どこか西欧的な繊細な雰囲気も漂わせたルックスである点も、国際的なステージ人としては強い武器になっていることでしょう。

ユンディの「出世」によって家族の生活は一変し、もともと化粧をしない中国人女性(最近は少しは変わってきているようですが)の中にあって、お母さんはえらく強めのメイク(まだ馴れていない様子)などをして服装もあれこれと今風にオシャレをしています。
祖父母のほうは見るからに中国の一般的な年輩者という感じでしたが、昔と違ってほとんど孫に会えなくなったと、海外を拠点に演奏旅行に明け暮れる遠い存在となったユンディのことを半ば戸惑いながら話しているのが印象的でした。

ベンツの最新のSクラスをユンディ自ら運転して、高級料理店に一家で赴き、きらめくような個室の席で一羽丸ごとの北京ダックを数人の給仕人のサービスによって切り分けられて、それを忙しくしゃべりながらむしゃむしゃ食べるシーンなどは、見るからに中国の富裕層のそれで、彼がいかにピアノという手段でそれを獲得し、家族までもその恩恵に与らせているかをまざまざと見るようでした。

ユンディがピアノのこけら落としをした北京の中国国家大劇院は途方もない建物で、こういう贅を尽くしたホールなども恐らくあちこちにできているいるのでしょう。なにしろ現在中国でピアノの練習に励む子供の数は、実に3000万人!!というのですから、いやはや恐るべき規模であることは間違いありません。
そりゃあ、ヤマハもカワイもスタインウェイも、多少のことは目をつむってでも中国へビジネスチャンスを求めるのは無理もないでしょうね。
そしてこういう希有な市場規模をもっているからこそ、経済至上主義の現在にあって、世界各国は中国に対して断固たる態度が取れないという困った問題を抱えているのだと思います。

いっぽう、ベルリンフィルハーモニー(ホール)で驚いたのは、スタインウェイのD(コンサートグランド)がウソみたいにごろごろあることでした。ピアノ選びということもあってかステージ上には4台、通路のようなところやちょっとした控え室みたいなところにもあちこちポンポン置いてあって、演奏者の個室にはB型ぐらいのがありました。

残念だったのはせっかくのベルリンフィルとの共演の場面が少しもまとまって見ることができなかった点で、いかにドキュメントとはいえ、やはり二人は音楽家なのですから、その本業の場面をちょっとぐらい(2〜3分でもいいので)落ち着いて見せて欲しいものです。
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あきらめないで!

年末年始にかけての長引く悪天候は、過去に経験したことのないものです。
昨日は本当に久しぶりに雨のない一日となりましたが、それもいつなんどき崩れ去るか、もはやまったく信用できません。

年末年始も雨や雪の降らなかった日はありませんでした。
当然ながら車のワイパーも毎日使わない日はないということになります。
以前、このブログでワイパー復活のウラ技をご紹介しましたが、マロニエ君自身もそれをいつもやっていて、ここ半年以上も本来なら交換するはずのワイパーブレードをまだ気持ちよく使っています。

ワイパーの掻き取り能力が落ちるのはゴムの劣化もありますが、多くの場合、実はゴムに付着したゴミや汚れが原因というのが前回書いたことでした。もちろんワイパーブレードの劣化は時間および使用状況・保管状況にもよりますが、汚れの除去によって車庫保管の車の場合は確実に二倍は長持ちするというのは間違いありません。

そこへ更に効果的な方法を発見して最近悦に入っているところです。
それは市販のピッチクリーナーを使うというものです。

というのもマロニエ君の車は常識的にはワイパーブレードを交換すべき時期を過ぎても、上記の方法でずっと延命してしてきたのですが、さすがにそろそろ交換する予定で、すでにパーツの準備も出来ています。
ところが雪は降る、みぞれは降る毎日なので、こんな時期に新品をつけてもただ傷むだけと思い、なかなかそれに着手するのもためらわれて延び延びになっているわけです。
さて、ピッチクリーナーというのはカーショップでもホームセンターでも簡単に安く手に入るもので、スプレー式のやさしい油落とし剤です。安いモノならヘヤースプレーよりも太くて大きな缶がわずか300円ぐらいで売っています。
これは油を落とすだけでなく、シリコンによる潤滑効果もあるので、塗装面など使うとツルツルになります。

これをウエスにつけて、軽くフロントガラスにのばして拭き上げます。
続いてそのクリーナーのついている部分でワイパーブレードの汚れを落とすようにゴムを掴んで何往復かさせました。

するとなんと、ガラスとワイパーゴムの両方の油膜などが取れた、もしくは少なくなったお陰で、圧倒的になめらかできれいな視界が確保されました。だいたい雪やみぞれなどはワイパーでは完全には掻ききれないのが普通ですが、この処理をした後では、確実に僅かな水滴まで除去されていき、ワイパーが動くのが楽しくなるようです。
まるでガラスまで新品になったようで、気分も爽快になってしまいます。

おそらくはシリコンのお陰でガラスとワイパーゴム双方の潤滑性が向上したことと、さらにはゴムに潤いが出たのではないかと思っています。
TVコマーシャルじゃありませんが、「あなたのワイパー、あきらめないで!」とでも言いたくなります。

ピッチクリーナーもこの程度の使い方なら、何年も保ちますから、ご興味のある方はぜひやってみてください。
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みんなのショパン2

「みんなのショパン」は残りの第3部を見て、合計4時間半の番組を完食しました。

全編を通じて印象に残ったもののひとつは第1部で演奏されたピアノ協奏曲第1番で、小学生から高校生までの子ども達で構成された「東京ジュニアオーケストラソサエティ」というオーケストラが、思いがけず素晴らしい演奏をしたのは驚きでした。
中途半端なプロのオーケストラよりよほど音楽性もあり、繊細で瑞々しい魅力があったのは大したものです。
中には本当にまだ子供なのに利口な眼差しでちゃんとヴァイオリンを弾いていたり、子供用の小さなチェロで演奏していたりしますが、聞こえてくる演奏は本当に立派なもので、あっぱれでした。

この3部に至って中村紘子女史のご登場でしたが、例のごとくの演奏で見る者をいろんな意味で楽しませてくれたようです。彼女の演奏の時だけ画面はうっすらと淡いフィルターみたいなもののかかった映像になったのも妙でした。
他のピアニストのときはすべてハイビジョン特有の鮮明映像でしたが、よほど女史からの特別注文があったのかどうかはわかりませんが、ここだけちょっとアナログ時代の映像のようでした。
あいかわらず紘子女史だけのこだわりのようで、椅子は一般的なコンサートベンチではなく、背もたれ付きの例のお稽古風の椅子で、これを最高の位置までギンギンに上げているところも健在でした。

また番組ではまったくピアノが弾けないというお笑いタレント、チュートリアルの徳井氏が、仲道郁代さんを先生に、一ヶ月間猛特訓し、仕事の合間にも練習に練習を重ねて別れの曲(中間部は無し)を披露しましたが、楽譜は読めない、指は動かないという条件の中でなんとかこれをやり遂げたのは大したもの。まさに努力賞でした。

ブーニンやブレハッチなど、多くのピアニストによるスタジオ演奏が披露されましたが、圧倒的な存在感と芸術性を示したのはダン・タイソンでした。
傑作バルカローレとスケルツォの2番を弾きましたが、ひとりかけ離れた格調高い演奏は、ようやくここに至って「本物」が登場したという印象。
音楽の抑揚や息づかい、落ち着き、音節の運びや対比などにも必然性があり、さすがでした。

番組で使われたピアノは大半がスタインウェイでしたが、一部にヤマハのCFXも登場。
やはり以前のヤマハとは別次元の鳴りをしていて、高度な工業製品から一流の楽器へシフトしたという印象です。
確認しただけでも3台のスタインウェイDとヤマハのCFX、さらには番組冒頭に三台のピアノで弾かれたショパンメドレーみたいなものの中には2台のスタインウェイのBに混じって、ヤマハのCF6(新しいCFシリーズの212cmのモデル)があったのは予想外で、テレビとはいえCF6を見たのは初めてです。

番組ではアンケートを受けつけており、一番好きなショパンの作品の第一位は英雄ポロネーズに決しました。
最後に横山幸雄氏がこれを演奏しましたが、これもまたハイスピード演奏で、横山氏の指が達者なのはわかっても、全体はまるで疾走する新幹線の窓から見る景色のようで、曲を味わっているヒマはありませんでした。
小刻みに頭を左右に振りながら手早く弾いていくその姿は、まるで寿司職人が俎の前で忙しく働いているようでした。

決して内容の濃いものではありませんでしたけれども、それでもじゅうぶんに楽しめた4時間半でした。
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みんなのショパン

昨年10月にNHKで放映された「みんなのショパン」という番組が、正月番組のアンコール用に再編成され、約4時間半が3分割されて再放送されました。
昨年観ていなかったので、これはチャンスとばかりに録画しました。

そのうちの2つまで見たのですが、笑ってしまったのはショパンの生前、楽譜が出版されるときに出版社が勝手に曲に名前を付けて売り出そうとするので、ショパンはそれが許せなくて怒り心頭だったということでした。

それもそのはず、作品9のノクターン(第1番〜第3番)は「セーヌのさざめき」とかいう陳腐な名前を付けられそうになったとかで、気分としてはまったくわからないでもないものの、つくづくそんな恥ずかしい名前にならなくてよかったと思うばかりです。
名前というのはあったほうが一般ウケはするのでしょうから、少しでも売れて欲しい出版社としてはそういう小細工をしたいのはわかりますが、しかしかえって曲のイメージが限定され、作品本来の価値や広がりを妨げるようになるでしょう。

もう一つショパンが激怒したというのがあって、スケルツォの第1番を「地獄の宴」とされそうになったらしく、これはいくらなんでもひどいですね。たしかに冒頭の高音部の強烈な和音を皮切りに下から次々と湧き起こってくる激情の連続は不気味といえば不気味ですが、では中間部のこの世のものとも思えないあの美しいポーランドの歌の旋律はどう説明するのだろうかと思います。地獄の対極である天国でしょうか。

こんな調子なら、スケルツォは有名な第2番冒頭のアルペジョなども「悪魔の宴」とでも言えそうですし、激しいオクターブの三番も「恐怖の宴」とでもなりそうで、かろうじて4番だけがスリラー系から免れそうです。

スタジオにはピアニストのお歴々も座っていらっしゃいましたが、ではその「地獄の宴」の冒頭部分をちょっと弾いてみてくださいといわれて、ピアニストの山本貴志氏がピアノの前に進み出ました。するといきなりすさまじい前傾姿勢と表情でこの曲の冒頭を弾きはじめ、てっきり「地獄の宴」に似つかわしいパフォーマンスで視聴者にサービスしているのかと思いました。
というのも、実はマロニエ君は山本貴志氏は映像を見るのは初めてだったのです。

ところがその後で遺作のノクターンを通して弾きましたが、たったあれっぽっちの曲を弾くにも「恐怖の宴」のときと変わらない(すごく真剣なのでしょうけれど)、今にも叫び出さんばかりの嶮しい表情で、まるで曲に挑みかからんばかりのその迫真の姿は、どうにも笑いをこらえることができませんでした。

背中はおばあさんのように曲がり、その背中より顔のほうが低いぐらいの姿勢ですから、ともかく尋常なものではありません。口や鼻はほとんど手の甲に触れんばかりで、ずっと必死の形相ですからお腹でもこわして苦しんでいるようです。鍵盤蓋がなかったら、アクションの中へスポッと頭が入っていくみたいでした。
ところが、いったんピアノを離れると、憑きものが落ちたように穏やかな笑顔が魅力的な青年でした。

これとは対照的に、バラードやエチュードを弾いた横山幸雄氏は、淡々と、作品の細部に拘泥することなく、しかもやたらハイスピードで飛ばしまくりです。でもすごく汗っかきみたいですね。

ちょっといただけなかったのは、華道家とかいう、えらく地味で和風な顔なのに髪だけは長い金髪の不思議な御仁で、出てくるなりあたり構わず猛烈にしゃべりまくり、明らかに浮いてしまっているのが生放送なぶん隠せません。
おじさんの自己顕示欲とおばさんの逞しさの両方を兼ね備えているようでしたが、司会の女性が明らかにこの人を無視して番組を進行させたのは拍手ものでした。
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ホロヴィッツ

もうひとつ、ホロヴィッツの名で思い出しましたが、ホロヴィッツが1983年に初来日した時、チケットの発売は前々から告知されたものではなく、新聞かなにかで突如「明日発売」というふうに発表されました。

それでそのチケットを求めて多くの人が何時間という行列に挑むことになりました。
あの中村紘子さんは、ジュリアードの留学時代に、ステージから遠ざかったホロヴィッツが12年間の沈黙を破って行われた1965年のカムバックリサイタルを聴いていますが、そのときもチケットを手に入れるために若さとジュリアードの友人達との楽しさも加勢して、文字通り徹夜で並んでチケットを買ったそうです。

寒い外に長時間行列する人々を気遣って、ワンダ夫人(トスカニーニの娘で、恐妻ぶりで世界的に有名な夫人)が紙コップに温かいコーヒーを振る舞ったとか。ある人が彼女に向かって謝意を述べるとともに「12時間待っています」というと、夫人はこう答えたとか、「そう?私は12年まったのよ」。

お膝元のニューヨークでさえこうなのですから、日本にいながらにしてマエストロのほうからやって来てくれるのなら、少々の行列ぐらいは当然といえば当然なのかもしれませんし、ましてや行列文化発祥の地の東京ならなおさらでしょうが、マロニエ君はとにかくこの行列というのが理由如何に問わず嫌いなので、この時ホロヴィッツは聴けませんでした。
会場は神南のNHKホール、チケットはピアノリサイタルとしては空前のプライス5万円というものでした。

演奏はなにかの薬の飲み過ぎとやらで惨憺たるものだったことは周知の通りで、ほどなく放映されたテレビでその様子を見て悲痛な気持ちになったことを良く覚えています。とくにシューマンの謝肉祭は当時のホロヴィッツのレパートリーにはないものでしたから、その点でも期待は何倍にも高まっていましたが、始まってみるや謝肉祭もなにもあったものではありませんでした。
当時の日本人は今と違ってまだ元気が良かったので、拍手の「ブラヴォー!」に混じって「ドロボー!」という声があちこちから飛び交ったそうです。ピアノリサイタルのチケット代は世界のトップアーティストでもせいぜい1万円以内、スカラ座やウィーン国立歌劇場の総引越公演でも3万円代の時代での、ピアノリサイタルで5万円ですからね。

ところが友人の一人がこのリサイタルと、3年後の昭和女子大人見記念講堂でやったときも両方を聴いていて、それだけでなく、なんとホロヴィッツ本人に会い、プログラムにサインまでもらったというのですから呆れてしまいます。
来日時のホロヴィッツは、ロック歌手ほどではないにしても、とてもファンが楽屋口で待ち構えてサインをねだるというようなことが可能な相手ではなく、そんなことは夢のまた夢、完全警備の中、包み込まれるようにして会場を後にしたといいます。
ではどうしたのかと言えば、ホロヴィッツ一行が夕食を終えてホテルに戻ってくるのを、宿泊していたホテルオークラのロビーでじっと待ちかまえていたんだそうです。

するとついにホロヴィッツが現れたそうで、果敢にも歩み寄ってサインを求めたところ、周囲の制止を振り切って意外にも気軽に応じてくれたとのこと。
しかもです、一度ならず二度も同じ方法でホロヴィッツを待ちかまえ、その都度サインもしてもらったというのですから、むこうも少し覚えてしまったようで、いやはや阿呆の行動力というのは恐ろしいものです。
ついでに二言三言演奏について意見を言ったというので、それを聞いたマロニエ君はその図々しいクソ度胸のなせる技にひっくり返りそうになりました。
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キャンセルの思い出

きのうNHKホールのことでホロヴィッツとミケランジェリという名前を出したことで思い出しましたが、マロニエ君はコンサートの会場玄関まで行っておきながら、いきなりの公演キャンセルに遭遇し、相当楽しみにしていたリサイタルを聴き逃した苦い思い出が2つあります。

ひとつはミケランジェリです。
もう20年以上も前のこと、ミケランジェリをついに生で聴けるというので、まさに意気揚々と会場へ赴いたところ、あたりが不思議なほど静かでちょっとした違和感を覚えました。見るとNHKホールの玄関に張り紙がしてあって、何人もの人達がそれをじっと見上げていました。
詳しい文言は忘れましたが、大意は「ミケランジェリ氏の納得できるコンディションが整えられない為、やむを得ず本日のリサイタルは中止と決定されました。誠に申し訳ありません云々」というような意味でした。
茫然自失とはこのことで、目の前がいきなりポッカリと空洞になったようなあの気分は今も忘れられません。当時からミケランジェリはキャンセル率が高いことで有名でしたが、ああこういうことか…とそれが我が身に降りかかった現実を認識しつつふらふらと引き返すしかなく、伯母夫婦と仕方なく食事をして帰ったことを覚えています。

あとから耳にした話では、わざわざドイツから持ってきたスタインウェイの調整に満足がいかず、時間的に解決できる見通しがたたなかったために、ミケランジェリが当夜の演奏を拒否したということでしたが、数日後のリサイタルは実行されたようでした。
もうひとつはアルゲリッチ。
2000年ごろのこと、すっかりソロリサイタルをしなくなったアルゲリッチが久々にサントリーホールでそれをやるということで、争奪戦の末にチケットを取り、この頃は東京を引き払っていたので、そのために飛行機で上京し、サントリーホールなのでアークヒルズ内の全日空ホテルを取って挑んだリサイタルでしたが、到着後ホテルの部屋で一息ついた後、期待に胸を膨らませながらおもむろに会場へ行ったら、開場時間を過ぎているというのに玄関は閉ざされ、その前に江戸時代の幕府のお布令のように一枚の紙が張り出してありました。
なんでもアルゲリッチが風邪をひいてしまい、高熱があり、医者の判断もあって、今日と明日のリサイタルは中止となった旨の内容でした。

まさしく目の前が真っ暗になり、もしや自分はこんなことのためにお金と時間と労力を使って、飛行機に乗り、ホテルに泊まる準備までして今ここへやって来たのかと思うと、もう情けなくてその場に座り込みたい気分でした。

主催者によるチケット代の払い戻しと、次の公演が決定したときには優先的にチケットを取るための手続きが小ホール(サントリーの小ホールは固定シートのないホテルの宴会場のようなところ)でおこなわれており、意識は半ば遠退くような状態のままその手続きを機械的にして、トボトボとホテルの部屋に戻りました。
しばし呆然とした後、友人に電話をかけまくり、そのうちの一人が車で迎えに来てくれて、どこに行ったかも忘れましたが食事に行って、精一杯の憂さ晴らしをするしかなかった苦い経験でした。

その半年後か翌年(詳しくは忘れましたが)、アルゲリッチは会場をすみだトリフォニーホールに場所を変えてついにソロ演奏をおこないましたが、このときには優先的にチケットが購入できる連絡は来たものの、まだ前回の徒労のショックが癒えておらず、しかもソロはコンサートの前半のみということで、この時はさすがにまた行こうという気は起きませんでした。

ところが、このときのソロ演奏のライブ録音が、なんと主催者の自主制作盤としてCD化され、しかも許しがたいことには特定の人達にだけタダで配られ、一般発売はまったくされなかったために、これがまたマニア垂涎の貴重品としてヤフーオークションなどで途方もない高値をつけることになりました。
滅多に出てはきませんでしたが、出品されるやすごい金額で落札されていき、なんとしても聴きたいという抑えがたい思いばかりが募りました。ついにアルゲリッチの好きな友人と共同購入しようということになって入札をして、たった1枚のCDを7万円強で手に入れるという、いま考えると暴挙というかアホみたいなことをしてしまいました。

この頃に較べたら、マロニエ君も年を取ってずいぶんおとなしくなったものだと思います。
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コメント紹介

「福岡から」さんからコメントをいただきましたので、以下ご紹介します。

 厳しいご意見ですが、私は教育テレビは見てなかったので、さっき第二第三楽章だけ教育テレビのクラシック・ハイライト2010で見ました。
 私はショパコンはストリーム放送された分はすべて聞きましたが、この演奏は非常に良く無いです。そもそも雑にひっぱたいて居まように見えますが音量がでていないので、イライラしているように見えました。
 そこで、懇意にしている某ピアニストに聞きました。彼女は放映された生演奏を聞いているので、先日は良かったとだけ言っていましたが、よくよく聞きだすとピアノとオケは合って居なかった、とのことです。
 あそこのスタインウェイは鳴らないし、NHKホール自体が鳴らない上にN響自体がピーコンではテンポや音量をあわせることができない、というかもともと指揮者の振るとおりに演奏しない、コンチェルトに合わせる気が乏しいというか訓練ができていない楽団なのでご機嫌はよくなかったようで、カーテンコールもすぐ引っ込んだそうです。
 もともとN響はデュトワが来るまで過去ゲスト指揮者やアーチストとの折り合いが非常に悪く(ロシア系有名なアーチストはN響と演奏したがらないし録音もまったくない不思議なオケなのでコンチェルトのサンプルとしては適当でないと思います。というか、マロニエさんもN響のコンチェルトのCDなど見たことがないと思いますが、そもそも無いし有名なアーチストはN響と殆どコンチェルトしないのが実情です。
 というわけでこんど福岡に来るらしいので、それを聞いての再度の記事を書かれたらどうでしょうか。福岡はちょっと残響過大ですがピアノはヤマハでオケはワルシャワとコンクールと同じ条件ですのでそれはそれでまた違う演奏が聞けるんじゃ無いでしょうか。
 ところで今回もピアノの持ち込みで一悶着あったと思われます。というか過去NHKホールにピアノ持込むのは原則できないのですが、過去第12回チャイコン優勝者の上原彩子のピーコンのときとスタジオパークでヤマハを持ち込む時に業界ではちょっといsた話題になっていました。

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マロニエ君より
 おっしゃる通り、N響は不思議なオーケストラというのは同感ですし、CDもほとんどありませんね。一時期かなりいいときもあったと思いますが、ここ数年はまた官僚組織みたいなオーケストラになってしまったように感じます。音楽を演奏するというより、まるで役人が義務で仕事をしているようです。
 NHKホールは紅白歌合戦からコロッケのモノマネショーまで、なんでもやる3500人収容の文字通り多目的大ホールですから、音響の良かろうはずはありませんが、N響の問題、ホールの問題、ピアノの問題を差し引いてもあれは…。もしそれが一定以上のものに整えば、めでたくアヴデーエヴァが別人のようにめざましい演奏をするとも思えませんが。
 それに日本人から見ればヨーロッパは西洋音楽の本場ですが、実際には彼の地のホール事情、オーケストラ事情、ピアノ事情、さらには聴衆の態度に至るまで、それは日本人の想像を絶するほど劣悪なものが多いのだそうで、逆に日本ほど見事にそれが整っている国はないと聞きますから、そんな厳しい土壌で逞しく育った(ましてやロシアの)ピアニストが、少々のことでへこたれるような軟弱者とは思えません。先日の演奏には、彼女の否定しがたい本質が出ていたのは間違いないと思いますし、彼女がもし本物なら、その輝きの片鱗ぐらいは見えたはずとも思いますが。
 たしかにワルシャワフィルとヤマハによるコンサートなら多少は違う結果が出るかもしれませんが、マロニエ君はそこに希望を託して行ってみようという熱意はもはや失いました。
 それにしてもNHKホールはピアノ持ち込みが出来ないというのであれば、それは到底納得できない理屈の通らないルールですよね。ヴァイオリニストに自分のヴァイオリンを持ち込むのもダメというのと同じ事で、それは演奏するピアニストが決めるべき事ですから、まったく筋が通らないというか不可解。
現実にNHKホールでは過去にホロヴィッツやミケランジェリのリサイタルを、そのためにわざわざ持ち込まれたピアノでおこなっていますが、彼らは原則が適用されない「別格」ということでしょうか。
 ところで「ピーコン」とは?・・前後の脈絡から察するにピアノ協奏曲のことだろうかと思いましたが。
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CD事始め

いつもながらマロニエ君のお正月はこれといって行事らしい行事もありません。
そんな中でささやかな年頭行事としては、元日に最初に音を出すCDは何にするかということで、毎年ちょっとだけ厳粛な気分で考えます。

自分の部屋では時間のある限り音楽漬けのマロニエ君としては、やはり何を聴いて一年をスタートさせるかは、どうでもいいようでよくない事なのです、気分的に。
昨年はドビュッシーの交響詩「海」で一年の夜明を飾ってスタートしましたが、今年はもう少しガチッとしたもので行きたいイメージでした。

こういうときにクラシック音楽というのは、あまりにも曲が無尽蔵にありすぎて、逆にひとつを選ぶというのは大変です。とりあえず年のはじめということで、壮大な調性であるハ長調で始まりたいと思いましたが、だからといってあまりに仰々しいものも、これまたなんとなく気分じゃありません。
それで最終的に決まったのはベートーヴェンの交響曲第1番 作品21。

指揮者とオケを何にするかも悩みどころでしたが、定番であるフルトヴェングラーは、あまりにも定番過ぎることと、マロニエ君の持っているCDは音質がかなり劣りボツ。イッセルシュテット、ヴァント、アバド、その他いろいろと考えてみた末、年の初めには適度に華麗でストレートな演奏が好ましく思われ、このところ見直しているカラヤン/ベルリンフィルにしました。

第一楽章の短い序章に続いて、開始される第一主題の高らかな幕開け、グングンと前に進む推進力は年の初めに相応しく満足できましたし、第9で年末を過ごす日本人には、振り出しにリセットするような点でも好都合に思われました。
カラヤン/ベルリンフィルの音というのは独特で、非常にゴージャスでありながらまろやかです。
音楽的には賛否両論ですが、一貫した迷いのない明解な方向性を持っているという点では聴いていて安心感があります。もちろん現在の潮流とも違うし、真の深みや芸術性となると疑問の余地もありますが、イベント的娯楽的な用い方にはカラヤンは打ってつけです。

現今の演奏が、みんなとても上手いんだけれども、どこかアカデミックな要素を含でいるかのごとく振る舞いながら、実は商業主義的という矛盾するへんてこりんなもので、どうもストレートに楽しめないものになってくると、却ってカラヤンのような昔の帝王の演奏というのは単純明快で心地良いのです。
もちろん不純さという点においては、カラヤンは人格的に人後に落ちない音楽家ですが、それでも彼の音楽そのものはある種の純粋性と一本貫かれたものがあるのです。人はそれを通俗と呼ぶかもしれませんが、聴く者をとりあえず満腹にしてくれるという点で、マロニエ君からみるとカラヤンは今日では却ってデパートの買い物のようなホッとできるものを提供してくれるような気がしています。

アヴデーエヴァのショパンに象徴されるように、最近の若い演奏家はどこか不可解なものを感じさせすぎるので、もういいかげん彼らの演奏を追いかけるのも疲れてきたように思います。
べつに音楽の専門家でもなんでもないのだから、もっと自分の好みに忠実に、好きなものだけを聴いて音楽本来の魅力に浸っていたいと思います。
こんなことを考えていると、なんだか急にベームのフィガロなんかが聴きたくなってきます。
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謹賀新年

あけましておめでとうございます。

ついにこのブログで二度目の元日を迎えることができました。
二年目の初日としては今年の抱負などを語るべきところでしょうが、なかなかこれという確たる目標や展望もないのがお恥ずかしいところです。強いて言うなら、まずはなによりも開店休業状態のこのピアノ雑学クラブをなんとか活動体にもっていくことでしょう。

ともかく一度、みなさんと顔を合わせて、それからということでもいいのではないかと思っています。
今年こそは、このべったりと座り込んで動かない牛みたいなクラブの腰を上げさせて、ゆっくりでもいいから前進させてみたいというのが一番の課題でしょうか。

また「ブログ」と「マロニエ君の部屋」については、できるだけこれまでのペースを維持したいとは思っていますが、むろん自信はありません。しかし自分ができるところまでは精一杯がんばる所存です。

つきましては、マロニエ君の部屋の「はじめに」のところにも書いていることですが、ネットという場であることを十分承知した上で、やはり自分らしい、ウソのない、本音のところを制約幅ギリギリのところまで迫って書いていきたいと思います。
それは、誰からもクレームをつけられないことを是としたような、安全でそつのない、きれい事ばかりを散りばめたような薄気味悪い文章ほど、無意味で、読者を退屈させバカにしたものはないとマロニエ君は平生から感じているからです。

無数無限に存在する夥しい数のブログの中から、あえてこのブログあるいはホームページへ立ち寄ってくださった方には、せめてなにか一点でもおもしろい実のあることをお伝えしたいという気持ちで書いているつもりです。
もちろん結果的にそうなっているかどうかは甚だ疑問ですが、少なくとも気持ちはそうだということです。

また今後もブログのコメントは原則公開しておりませんので、その点では失礼もあろうかと思いますが、何卒ご理解ご容赦いただきたいと思いますし、ご意見はあくまでもメールでお願いしたいと思います。

ちょうど一年前の今日、ブログをはじめるにあたっては、あらゆる批判や嫌がらせにさらされるだろうという一定の覚悟はしていたものの、それは嬉しい誤算で、その手のコメントはほとんどなく、これはマロニエ君の日ごろの行いがよほど良いのか(!?)、ありがたくも理解ある寛大な読者に恵まれた故だと、深く深く皆様に感謝しているところです。

年頭に当たり、もう少し気の利いた挨拶もあろうかと思いますが、まあマロニエ君としてはこれが現在の正直なところです。

どうそ今年もよろしくお付き合いくださいますようお願い致します。
マロニエ君
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一年の終わりに

今年の元日から書き始めたブログですが、ついに一年が経ち、とりあえず途中で放り出さずに大晦日を迎えられることができて、ひとまずホッとしています。

これもひとえに、こんなくだらないブログをお読みいただく奇特な方がいてくださったお陰で、まったく工夫もない平凡な言い方ですが、心より御礼申し上げます。

実をいいますとマロニエ君はその昔、ブログなどむしろ馬鹿にしていたくちで、有名人でもなにかの専門家でもない、一介の人間がネットという手段を使ってブログという名の日記を書くなど、たいそうな思い上がりの露出趣味だと思っていました。
しかし、ぴあのピアのホームページをはじめる以上はある一定の慣習にも従い、曲げるところは曲げて、世間とのある程度の折り合いをつけるべきだという考えも次第に芽生えはじめました。

マロニエ君はこれといって得意なものもありませんが、とりわけネットだのホームページだのということが殊のほか苦手で、何をするにも友人知人の教えや助けに依存するばかりです。
昔、パソコンの使いはじめの頃も手取り足取り、何かトラブルが起きようものなら大騒ぎでした。
そんなデジタルオンチですから、むろんホームページを作るなどという大それたことは、当然できるわけがありませんでしたが、友人というものはありがたいもので、ホームページ作りに根気よく手を貸してくれました。

自分じゃできないくせに、つまらないこだわりだけはあるマロニエ君としては、デザインまで人任せにするのでは気が済みません。そこで、ホームページのいわば「容器」だけを作ってもらって、そこに自分で作ったパターンや撮ってきた写真をひとつひとつ入れ込んでいくという、まるで子供の手を引いてもらうような手間暇のかかる作業が始まりましたが、もちろん結果は見ての通りで笑ってしまいます。

まあ、やっていると少しずつ更新の仕方などはわかってきましたので、現在は友人の手はほとんど借りずに澄んでいますが、まだまだです。

その友人が、いうなればマロニエ君のホームページの師匠というわけですが、その師匠が言うには、「ホームページを作る以上はブログを書かなきゃダメだ」というので、はじめは断固拒否していたのですが、「いまどきホームページを作ってブログがないなんて話にもならない」と一蹴されて、ずいぶん悩んだ末に今年の元日に一大決心をしてスタートさせました。
そして、さらにその師匠が言うには、「ブログは基本的に毎日更新するもので、たまにぐらいでは誰も見てくれなくなる」と脅しをかけられました。曰く「せっかく見に来てくれた人がいても、なにも更新されていなかったら、だんだん見てもらえないホームページになってしまう」というのです。

他のことなら大いに反発するのですが、ホームページばかりは師匠の言う通りにしなくては仕方がなく、それで、だんだん奮起して書くようになりました。とくに今年も後半になると、ブログ書きが日課のようになってきました。
ご承知の通り内容は甚だお恥ずかしい限りのものばかりですが、それでも、少なくともピアノの練習よりはよほど根気よく取り組んだつもりで、それはひとえに見てくださる方がおられるということが気持ちの上でずいぶん後押しになりました。

この先、いつバタンと倒れるかはわかりませんが、続けられるだけは続けていくつもりですので、どうぞ来年もよろしくお付き合いのほどお願い致します。
望外のご高覧をいただき、本当にありがとうございました。
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号外です

一日にふたつブログをアップするのは初めてです。

メーピーさんからコメントをいただきましたが、コメントは公開しておりませんのでこちらでご紹介させていただきます。ご紹介が遅くなりたいへん申し訳ありません。

巷で褒めまくりのアヴテーエヴァの演奏に同意できないのはマロニエ君だけかと思っていましたが、このようにご賛同くださる方がおられ、安心しているところです。

最近の社会風潮なのか、率直な感想というものがどんどん抑圧され、人間の率直さそれ自体が悪のように捉えられているような気がします。歯の浮くようなきれい事ばかりを口にしたり書いたりすることが「大人のふるまい」とされる暗い欺瞞の時代にあって、音楽ぐらいはせめて本音で語られ、人の魂を揺さぶり、心を慰めるものであって欲しいものです。

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はじめまして。
マロニエ君様のアヴデエーワ評、まさしく私が思っていたそのままです。
私が書いたのか?と思ったほど。

音楽は歌である、まさにそれに尽きると思うのです。
それもプリミティブな意味での歌、声を使って何かを伝える為の歌が彼女の演奏からは感じられませんでした。

>解釈は演奏表現の根底を成すあくまで骨格であり

>練習の過程で自分の中で楽譜は収斂され消化され、演奏者の肉となり、いざ本番では、いかにも自然発生するような演奏に周到に到達することが必要

こちらのご意見に深く深くうなずきました。
そして、

>音楽は歌であり生き物であり、その都度生まれてくるものという大原則

このお言葉。私が音楽で一番大切だと思っていることです。
プリミティブな段階での歌は、声の抑揚、リズムによって感情を表現するためのものだったはず。
彼女はなにを伝えようと思っているのでしょう。
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何かありましたらHPからメールをください。
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メールの功罪

仕事であれプライベートであれ、今どきは携帯やパソコンのメールを使うことがとても多いものです。
ところが、このメールのやりとりというものに対する感覚が、マロニエ君と世間一般では、どこか食い違っているのかもしれない…と思うことがときどきあります。

もしかしたら自分のほうがメールを使う際の、バランス感覚というものがもうひとつわかっていないのかもしれませんし、むろん上手く使えているというような自信はありませんから、こちらがおかしいのかもしれません。

その上で言うと、基本的にマロニエ君の認識としては、メールは文字として記録が残る点や、電話のように見えない相手の状況やタイミングを斟酌する必要もなく、随時いつでも送信できるというメリットがあること。さらには一定のパソコン環境さえ整えていれば、あとはタダで好きなだけ送受信が出来るという点もメールの持つ大きな利点であるのはいまさら言うまでもありません。
携帯メールも電話会社やプランによっては似たような利点があるようですね。

ただし、ときどき困惑することがあって、例えば一人の相手と送受信をしているときの話の比重の置き方や、終了のさせ方です。
場合によっては一往復でおわることもありますし、何度かのやり取りが続くこともあることは皆さんも経験済みのことと思います。

マロニエ君としては、PCメールは紙に書く手紙やハガキほど形式にはまったものではなく(携帯メールはなおさら)、利便性優先の気軽なものとは思いつつ、それでもやはり基本的には一定の配慮や情操をもってやり取りをすべきだと思って書いていますが、どうも最近ではそういった部分にも疑問を感じる点が多く、よりドライにやり取りすることが主流のような気配を感じることしばしばです。

よくあるパターンとしては、こちらとしては常識的にあと1回は相手からなんらかの反応があるだろうと思っていたり、やり取りがまだ終結していないと思われる状態の中で、結局それっきりになってしまうということがあったり、内容が例えばこちらが重視している話題がパッと切り捨てられて、あっけなく別の話になるようなことがよくあります。

論外なのは、返事をしないとか、おそろしく遅いタイミングでポロッと返事がきたり、ひとつの問いに対する回答に何日もかかったりと、これが昔通りに電話なら、ものの何分あるいは何秒で済むことが、メールであるがためにやたらと時間と手間暇がかかり、メール特有の不便とストレスを感じてしまったりすることがあります。
返事がないのは相手の確たる意志と見るべきか、ただのぐうたらなのか、送信トラブルか、ハッキリできないことが精神的に疲れます。あるいは話が勝手に割愛されるのはそのことには相手が興味がないとこちらが察しをつけなくてはいけないのかなどと、ともかくむやみに気ばかり回して、いずれにしろ電話だけの時代にはなかった無駄な神経の疲労・消耗があるものです。

メールの出現は、便利な反面、不自由になったのは、たかだか「電話をする」というだけの行為にも昔よりも格段に慎重になり、やたら躊躇するようになったことです。電話はよほど気心の知れた相手でないと、迷惑かもしれない、好ましくないタイミングかもしれないというような脅迫観念に迫られて、もはや昔のように無邪気に電話できなくなり、そのぶん人との距離感ができたというのは最大の減点ポイントだと思います。
今やメールが主で、電話は特別もしくは緊急用という位置付けではないでしょうか。

結果として電話が本来の電話の機能を果たさず、まずはメールという前段を踏んでからという、却って手間のかかることになった面もあるように思います。
要するに便利なはずのものが幅を利かせすぎて、逆に不便を作り出したという典型かもしれませんね。
そしてもっと恐ろしいのは、慢性的に人との交流が希薄になるということではないでしょうか。
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赤い糸

過日、長らく独身だった友人がようやく結婚することになり、親に会わせるために帰省しました。
マロニエ君と同年代ですから、晩婚もいいところです。

音楽の先生にも彼女を連れて挨拶に行くので、よかったらぜひ来てくれと言われて、マロニエ君も興味しんしんで会ってみたかったので先生宅に伺いました。

果たして友人は彼女を連れて現れましたが、やはり結婚するような二人というのは、傍目にも収まりがいいもんだと思いました。なんでこの二人は付き合っているんだろう?と思うような光景がよくあるもんですが、そういうのは大抵ダメになったり別れてしまったりで、結局は結婚には至りません。
あるいは、上手くいっているように見える場合でも、一定の期間内に結婚へジャンプしなかった場合も、やっぱり破綻するケースがありますね。

その点、結婚するような二人というのは、音楽のように一定のテンポと流れと展開があって、最終的に落ち着くべきところに落ち着くもののようです。
ちなみにこの二人は出会いからわずか4ヶ月で結婚が決まりました。
特別な理由もなく何年もダラダラと付き合っているような場合は、逆にチャンスを逸してしまって、そのうちどちらかが愛想を尽かして終わったりしますから、出会いから結婚までエネルギーを絶やさない流れというのは非常に大事だと思います。

マロニエ君の別の友人には、10年も付き合って長年一緒に暮らした挙げ句、突然あっけなく別れてしまうカップルなどがいて、こっちのほうがビックリ仰天することがあるものです。

結婚する二人、あるいは結婚した人を見ていると、こちらが内心で思うところはいろいろあっても、結局はバランスが取れているもので、だからこそ結婚という人生の一大事業を成し遂げられるのだろうと思います。
結婚する二人というのはおかしなもので、互いの欠点がそれほど気にならなかったり、大した我慢でなしに自然に許せたりするようで、第三者のほうがよほどびっくりするような事にも平然としている場合が多く、ただもう呆れ返ることしばしばですが、これこそ相性というものでしょうね。
そういう驚きを持って眺めることのできるとき、月並みですが「赤い糸」という言葉を思い出してしまいます。

この友人に限らず、結婚を決断した二人というのは、人生で最も前向きな表情をしているように思えます。
互いに人生を共にする相手ができたということで、ほどよい緊張と幸福が交錯して、何をするにも輝きがあり、充実した時間を慈しむように過ごしているようです。
なんでも自然に前向きに捉えることのできる、人生のなかでもごく短い時間のようです。

これがひとたび結婚して一年もすれば、こんな充実した様子というのは煙のように消え去って、祭りの後のような素面が二人を隈取ってしまうのでしょうが、さらにそれを乗り越えたときに、正真正銘の夫婦になるような気がします。
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N響アワー

昨日のN響アワーでは、今年秋のショパンコンクールで優勝したユリアンナ・アヴデーエヴァが早々に来日、シャルル・デュトワ指揮のN響とショパンのピアノ協奏曲第1番を演奏した様子が放映されました。

同コンクールのウェブ中継では、ちょこちょこ観る範囲ではどうしてもこの人の演奏には興味が持てなくて、実はまともに最後まで聴いたことがありませんでしたので、このN響アワーの録画ではじめて協奏曲を全曲通して聴きました。

マロニエ君が敬愛するアルゲリッチもたまたま東京でのコンサートの為に来日中だったこともあり、日本でのアヴデーエヴァの記者会見にも同席して素晴らしいピアニストだと褒めていましたし、このN響のコンサートではNHKホールの客席にも彼女の姿があり、盛んな拍手を送っていました。
アルゲリッチ以来実に45年ぶりの女性優勝者ということにもなにか特別な意識があるのでしょうか。

また番組では小山実稚恵さんがスタジオにゲスト出演していましたが、小山さんのあのシャープで鮮やかなピアノの指さばきとは正反対の、たどたどしいトークでアヴデーエヴァの演奏の特徴と優れた点などを述べていましたが、曰く、よく練られていて、一音一音よく考えられて、完成度があって、常に自分の100%近い演奏ができる等々、話だけ聞いているとなんとも素晴らしい傑出したピアニストといった説明でした。

しかし、他の人にとってどんなに素晴らしいピアニストのかは知りませんが、まったくマロニエ君の好みからは大きく逸れた、たったこの一曲を聴き通すだけでもずいぶん辛抱力の要る演奏でした。はっきり言うとどの角度から聴いても好きにはなれません。

どこがそんなに素晴らしいのか、わかる人にぜひとも具体的に指摘して教えて欲しいものです。
解釈がどうのとしきりにいわれますが、解釈は演奏表現の根底を成すあくまで骨格であり、そればかりが論文のように前面に出て、生の音楽の活き活きとした感興を忘れた演奏は御免被りたいものです。
アヴデーエヴァの演奏はまず無骨で、ショパンの流れるような美の奔流に逆らい、繊細な感受性とその底に流れる激しい情熱に対して、あまりにも無頓着すぎるように思います。タッチも繊細さがそうあるわけでもないのにやたら弱音やノンレガートを多用し、ピアノはちっとも一貫して鳴りません。
音楽も時間や流れや前後の関連性がなく、全体がばらばらなものを便宜的に並べただけという印象です。

音楽は歌であり生き物であり、その都度生まれてくるものという大原則が死滅しているようでした。
それと、楽譜の存在を強く感じさせる演奏で、たしかに音楽家はまず楽譜から作品に入るのはそうだとしても、練習の過程で自分の中で楽譜は収斂され消化され、演奏者の肉となり、いざ本番では、いかにも自然発生するような演奏に周到に到達することが必要ではないかと思います。
まあ、言い立つとキリがないのでこれぐらいで止めましょう。

ちなみに史上初めてヤマハを弾いて優勝したアヴデーエヴァは、さだめしヤマハの専属にでもなるのかと思っていたら、NHKホールではスタインウェイを弾いていましたから、いろんな事情があるのでしょうね。
ただし現在の彼女にはCFXのふくよかな音のほうが合っていると思いました。

おかしかったのは主催者側からの要請があったのか、ステージに現れたアヴデーエヴァはショパンコンクールの時とまったく同じ服装で、黒い男みたいなスーツと中の白いブラウスまでどう見ても同じものだったのは、「あの感動の再現!」みたいな主催者の思惑が透けて見えるようで、却って笑えました。
演奏はノーサンキューですが、顔は童顔で、優しいあどけない目つきをしていて、人間性はおおらかで好感の持てる感じに見えました。

ちなみに最近はショパンもナショナルエディションが流行とみえて、オーケストラもいち早くこのバージョンを使っているようですが、あれもちょっと…です。
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外出中止

このところの寒さと天候の悪さにはほとほと参ります。
曇天と雨の連続で、ちょっと晴れたかに思えても数時間後にはまた雨です。

今日の午後、外出先で小雨がちらついてきたと思ったら、そのまま本格的な雨となり、霙となり、帰宅後ついには雪になりました。
夜は食事の約束があったのですが、出かける一時間前になって先方から電話があり、雪が積もってきているというではありませんか。まさかと思って外を見ると、わずか30分ぐらいの間に一気に雪に変わって、気温が低いものだからそのまま解けずに積もっていったようです。
一度は様子を見ることにしましたが、あたり一面は見る間に真っ白になってきたので、さすがに外出は中止することになりました。

マロニエ君は昔、神戸の六甲山で一晩のうちに雪に降られ、やむを得ず車で慎重に下山していたところ、おっかなびっくりの歩むような速度であったにもかかわらず、坂のためスリップしてコントロールが効かなくなり、車の左の前輪が側溝に落ちてしまったことがあります。
たまたま通りがかった地元の人の親切に助けられて、なんとか車を路上に戻し、チェーンを買いに行くなどして数時間かけて恐怖と戦いながらともかく下まで降り、傷ついた車をフェリーに乗せて帰ったという苦い思い出があります。
いらいそれがトラウマとなり、雪の中では金輪際運転しないことを心に誓っていましたので、路上に積もりはじめた雪を見ただけですっかりびびってしまいました。

西日本というか九州の人間は基本的に雪との付き合い方を知りませんので、下手なことはしない方がとにかく賢明です。
ちょうど外出を取りやめた直後、テレビニュースでは昨夜東北で雪に閉じこめられた車の一団が、食べ物もないまま、車中で一晩過ごしたなどというニュースをやっていましたが、みんな意外にケロリとしているのにはさすがだと恐れ入りました。やはり日ごろの環境と鍛え方が違うのでしょうね。

ほどなく九州自動車道の一部と福岡都市高速の全線が通行止めになりましたが、北海道などでは雪でも高速道路を使うようですから、いやあもう、まったく信じられません。

お陰で「坂の上の雲」と「N響アワー」を録画しているために諦めていたフィギュアスケート女子フリーをまだら観することができました。べつにフィギュアスケートのファンというわけでもないのですが、やってればなんとなく観てしまいます。
優勝は安藤美姫でしたけれども、質の高い、気品のある演技と人を惹きつける魅力という点において、断じて浅田麻央が上だと感じました。
それにしても、あんなに大勢の観客とテレビカメラをはじめ無数のレンズに囲まれて、場内が固唾を呑む中で、ひとり一発勝負の氷の世界に挑み出ていく彼女達のメンタル面を思うと想像を絶するものがあります。

その凄さを思えば、マロニエ君が人前でピアノを弾くのがどうのこうのなんて泣き言は、ものの数にもあたらなくて自分でも笑ってしまいますが、笑ってみたところでどうなるもんでもなく、つける薬がないのは自分でもどうしようもありません。
メンタルのトレーニングというのは、場合によっては最もやっかいな難物かもしれません。

外を見ると、とりあえず降雪は止まっているものの、まだ道路にはシャーベット状の雪が残っています。
一昨日の悲惨なワゴン車の転落事故も、有名なピアノ店のすぐ隣の池だったのにはさすがにびっくりしました!

今夜あたり灯油も買わなくてはと思っていましたが、危ないことは止めにして、ブログ書きでもやっているところです。
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思慮なき駐車場

暮れも押し詰まって、街中どこに行っても人で溢れ、道路は車で慢性渋滞の毎日です。
いつも行きつけのスーパーも例外ではなく、そこそこの広さのある駐車場もさすがに満車状態で、空きスペースを求めてぐるぐるさまよっている車もあれば、じっと通路脇に停車して空くのを待っている車もあります。

こんなとき自分も空きを探しつつ、人の行動をみていると理解に苦しむというか、笑ってしまうようなことが多々あるものです。
例えば、駐車場の中は一方通行なのですが、一台出そうな車があると、すぐ前で待機していた車はすかさずその後に駐車しようと色めき立ってくるのがわかります。とくに混み合うときはうかうかしていると、後ろから来た車にまんまと入れられてしまうことがあるので、必死なのはとりあえずわかります。

しかし、待っている場所が、これから出ていく車が通り抜けていくべき通路上なので、じゃまになって出るに出られない状態になっています。待っている車は空いたらすかさずそこにバックで入れようと身構えており、少しでも先へ移動すると後の車にとられそうになると不安なのか、ともかく待っている場所が到底まずいことになかなか気付きません。
やむなく少し前にずれてやっとのことでひとつ空きができると、あまりに焦って止めようとするものだから、てんでバック開始の場所と方角が悪くて、もう車はメチャメチャな方角を向いて収拾がつかなくなります。

ただ単にバックして、すみやかに空きスペースに車を入れるという、それだけの行為が、思いもよらない大ごとに発展し、切り返しに切り返しを重ねて、見ているこっちが疲れるほどの苦心惨憺の末に、ようやく車は狙った場所に収まりご同慶の至りというところですが、あれではもうへとへとで買い物をするエネルギーが残っているだろうかと心配になってしまいます。

別のケースでは、駐車場出口のすぐ脇の駐車スペースに空きができたところ、折良くやってきた軽自動車が「おお、ラッキー!」とばかりにそこに入れようと思ったらしいのですが、なぜかこれまたわざわざ苦労して、バック駐車が始まります。しかしそこは進行方向にむかって自然に前向きに止められる場所であるばかりか、出るときのことを考えるなら、頭から突っ込んでおいたほうが、出るときもそのままの態勢でバックすれば、車は少し向きを変えるだけで自然に出口を向く態勢になるのですが、不思議にバックで駐車することにこだわりがあるようです。
そうまでしてバックで入れても、今度は出るときにまた何度も切り返しをしなくてはならなくなるのが明白なのですが、どうしてそんな単純なことに気が付かないのか、がむしゃらにバック駐車をやっているのは、一途というべきか、まったくもうご苦労様というほかありません。

そうかと思うと、今度はマロニエ君が買い物がすんで出口の車列に並んでいると、横から場内を逆走してきたおばさんが無理矢理にマロニエ君の前に割り込もうとします。
一周して列の最後尾に付くのがよほど嫌だったのでしょうが、いやに頑張るので根負けして入れてやりました。

全般的に言えることは、我欲だけが一人歩きして、ちっとも全体のことや合理的な判断をしようという思考がまったく働いていないように感じます。自分のこと、たった今のこと、目の前のこと、人に場所を取られるな、駐車はバックで、というようなことしか意識がないようで、それらを統括すべき思考力は完全に停止しているようです。

こういうおばさんやおねえさん達ですが、いったん店内に入ると、まるで別人のようにあれこれと知恵をめぐらせて賢い買い物をするのかと思うと、無性に滑稽な気分になりました。
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クリスマスの予定

昔ほどではないにせよ、巷ではやはり12月24/25日はクリスマスイブとクリスマスということになっていますが、いかがお過ごしでしょう。
「なっています」というのもおかしな言い方ですが、それは大半の人にとって、いまどきクリスマスなんてほとんどなんの関係のない2日間ですし、大半の日本人はキリスト教徒でもないので、ますます他人事になった観があります。

むしろマロニエ君が子供のころから学生時代ぐらいまでのほうが、宗教上の意味などとはまるで無関係に「クリスマスは楽しい特別な日」というイメージがありました。
そのころはクリスマスイブなどは、恋人とどうやって過ごすかということが、なによりも重要なことのように捉えられている風潮がかなり強くあり、彼氏彼女のいない人は、なんとしてもクリスマスまでに相手を探すというような意気込みで、バカバカしいけれども、とにかく大きな節目というかイベント日であったように記憶しています。

そのような流れで、クリスマスは最低でも家族、理想的には恋人と過ごすものという暗黙の認識が、多くの日本人の、とりわけ若い世代に浸透し、深く根をおろしたのはバブル崩壊前あたりまでのある時期だったように思います。
商業界もこの時期を絶好のビジネスチャンスと捉えるのは至極当然で、仏教徒もなにも一緒くたになってクリスマスという名の二日間を迎えていましたし、カップルはプレゼントの交換から、ホテルや高級レストランのクリスマスディナーなどの予約取りに熱中、ひどいのになると半年も前から予約獲得すべく大真面目に挑んでいた青年などもいたのです。

その風潮も極まれば、自分の予定表のクリスマスイブが空欄というのは相当の恥辱で、人として恥ずかしいことであるかのように追いつめられて、必死にその空欄を埋めることに奔走していた女性などもウヨウヨしていました。

それでも尚、この時期に恋人や特定の相手(すなわちクリスマスをロマンティックに過ごす相手)のいない人は、覚悟を決めてじっと息を殺すように声も立てず、ひたすらこの時期が通り過ぎるのを待ちました。まるで恋人達だけのためにある神聖で美しい時期の、自分は部外者であるかのように。
今から考えると笑ってしまうような話ですが、ある意味では今なんかよりもよほどみんな純情な面があったし、社会のほうもどことなくこんなことをやっていられた余裕があったといえるかもしれませんね。

さて、昔からこういう風潮には、どうにも反抗しなくてはいられない性格のマロニエ君は、あえてこの季節に仲間内で集まったり出かけたりする計画を立てることに打って出ました。恋人と過ごすのが大事な人はお呼びじゃない、お暇な人はどうぞ!というわけです。
するとどうでしょう、この季節はみんな忙しいものだとばかり思っていたら、ぞくぞくと参加者が現れて、会は大盛況となりました。しかもその空白を埋めてくれたということで感謝までされて、それみたことかと大満足でした。
いらい毎年のように続けていましたが、要するに大半の人は、この二日間は普段よりもずっと都合がつきやすいということまで判明しました。暮れの忙しい時期に、ぽんとブラックホールのようにここは空いているのです。

現在でもこの名残だけはまだあるようで、自分はともかく他の人はクリスマスは忙しいもの、予定が入っているものとして遠慮をする心理が働き、決してその日だけは誘いをかけないし、電話さえもしないという、これまた暗黙の了解が多くの人にはあるようです。
予定がないのは自分だけという思いから尻込みし、気を遣っているつもりのようです。
マロニエ君の経験でも、友人知人なども普段より連絡を手控えてくれているようです──全然その必要はないのに。

今年あたり、久しぶりにこのクリスマス招集をピアノサークルの面々にでもかけてみようかと思っていましたが、ばたばたしているうちに計画が立てきれず、つい当日を迎えてしまいました。
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省エネオイル

マロニエ君は普段の足代わりには日本車のコンパクトカーに乗っています。
実はこの手の車を買ったのは今の車がはじめてなのですが、これがもう想像以上に使い勝手が良く、小さいことそれ自体がすでに立派な性能だということがわかりました。
今後もこのクラスの車の圧倒的な実用性と、まるで自分の手足のように自在に泳ぎ回ることのできる魅力は、ちょっと捨てがたいものがあると確信するまでになりました。

良い点を挙げるとキリがないのですが、逆に大きい車のほうが勝る点のほうが数えるほどしかなく、なるほどコンパクトカーが巷で絶大な支持を得ていることが身をもってわかりました。
その良い点のひとつが燃費の良さと、ガソリンもレギュラーで事足りる点です。
小食で粗食にも耐え、故障とは無縁でいられるのは日本車の面目躍如といったところです。

さて、ふた月ほど前にオイル交換をするついでに、ちょっとこれまで挑戦したことのないオイルを入れてみました。0W-20という非常に柔らかい粘度のオイルで、いわゆる「省エネタイプ」のオイルです。

エンジンオイルというのもいったん凝り出すとキリのない世界なのですが、これまでは昔の悪いクセで、そんな車でもないのにモチュールというフランスの高級オイルを使っていました。
ところが、案の定これといった良さも大して感じないまま交換時期を迎えてしまい、次はおおいに方向転換してやろうと目論んでいました。

そこで、敢えてディーラーを避け、カーショップに出かけてオイル選びをはじめ、その結果、あるメーカーの省エネオイルを入れてみたというわけです。
オイルで省エネということは、簡単に言えば、サラサラのオイルを使うことで、エンジン内部のフリクションという一種の抵抗を軽減することでエンジンを軽く回して燃費を稼ごうという考え方です。

ピアノで言うなら、キーが軽くなれば指の負担が減るのと同じ理屈ですね。
重いキーの場合、そのぶんかかる指の負担が、エンジンで言うとガソリンを喰っているのとおなじことなわけです。
理屈はそうなのですが、だいたいエンジンオイルで省エネなんていうのは言葉ほど実をあげることはなかなかなくて、大半が僅差の世界、気分ばかりという結果に終わることも珍しくはありません。

ところが交換直後からエンジンのフケが軽くなり、以降二ヶ月ほど走った結果、何度給油してもおよそ1割がた燃費が間違いなく向上していることがわかり、その明確な結果に大いに満足しました。
現代のように、すでに極限まで効率を追求されつくして製品化される車の世界で、たかだかエンジンオイルで燃費が1割変わるというのは現実的にはかなり大変な事なのです。

肥満体の人がダイエットしたら靴の減り方が少なくなったというような微々たるものですが、しかし靴の減り方が少なくなるまでダイエットするというのも、考えてみればやっぱり大変なことですよね。
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ルーツは美しい音?

関東にあるヨーロッパピアノの輸入販売会社が発行する情報誌が久々に送られてきました。
なんでも、ずいぶん長いこと休刊していたものが、このほど復活したのだそうです。

読んでいると、そこに興味深い記事がありました。
一人の調律師の問題提起です。
調律師が10人いれば10の音色ができるといわれるが、それは何故か。そしてその原因はどこにあるのか。
うなりの聴き方、ハンマーの動かし方など、この問題を突きとめようという試みです。

ただ音を合わせただけでも、調律師には結果的に固有の音色というものがあるわけで、その不思議に迫ろうということのようです。

調律の作業では調律師の左右両手にそれぞれの役目があり、左手は鍵盤を叩いて音を出し、その音を聞きながら右手がチューニングハンマーを動かして音を合わせていくというものです。

そこで、5人の調律師が集まってひとつの実験をしたそうです。
(1)1人がチューニングハンマーを担当し、残る4人がそれぞれ音を出す。
(2)1人が音を出し、残る4人がそれぞれチューニングハンマーを動かす。

果たしてその結果は、(1)の4人が音を出す場合に、4人それぞれの音になったというのですから、これはすごい実験結果だとマロニエ君も思わず唸ってしまいました。

このレポートを書いた技術者の方によると、この結果を受けて、調律師が出す良い音とは、突き詰めればピアノを弾く人の良い音の出し方とイコールでなければならないということがわかり、そこに深い衝撃を受けたということでした。
つまり調律師は左手で良い音が出せなければ、いかにチューニングハンマーを持つ右手のテクニックが優れていてもダメなんだということが結論づけられていました。
その結果、その人はいい音を出すためにピアノ奏法をまじめに学ぶレッスンを受けられているとのことです。
まさに技術者らしい理詰めの思考ですね。

言われてみればなるほどという話で、これにはマロニエ君もきわめて新鮮な衝撃を受けたわけです。
経験的にも、調律の時にしょぼしょぼした音を出す人はあまり上手いと思ったことがないですし、逆にあまりにガンガンやる人は音色のニュアンスに乏しいことが多いような気がします。

また、この話は、ピアノの奏法や音楽性にも当てはまることだとも思いました。

いくら指が達者に動いて難しい曲が弾ける人でも、美しい音とそうでない音を聞きわける耳を持っていなければ、そもそも美しい音を出そうという意志も意欲も生まれず、そのためのテクニックにも磨きがかかりません。
より正確に言うなら、音楽が必要としている音が出せたときは、その先の演奏が有機的に乗ってくるものですし、それに反応していろいろな音楽的な展開が起こります。

ピアノを弾く上で、必要な音を必要な場所で適切に出せることは非常に重要かつ高度なテクニックなのですが、なかなかそれを理解し認識している人は少ないようです。
ピアニストでも音にかなり無頓着な人は少なくありませんし、さらにそれがアマチュアになるといよいよ拍車がかかり、ピアノを結局のところ指先の難しいスポーツのように捉えて、ただ難曲を表面上達者に弾くことに目標をおいている人が多いのは否定できません。
しかし、ピアノを弾く醍醐味はその先にこそあるのに、なんともももったいないことだと思います。
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生ピアノ=グランドピアノ?

昨日、我が家に来宅した知人は、おもしろいことを言い残して帰りました。
その人もこのホームページを見てくれているそうで、なんともありがたいことなのですが、曰く、ピアノのことで「マロニエ君が書いている通り…」といわれたので、いきなり何のことかと思ったら、No.62の「ピアノビジネスの変化」の中で述べている今の中古ピアノの市場でのニーズと実情に関することで、アップライトは飽和状態、さらには極端なグランドのタマ不足ということに繋がる話でした。

その人はもちろん業者ではなく、純粋な趣味で大人になってからピアノをはじめた人なのですが、目下電子ピアノで熱心な練習をやっているものの、いずれ現在のマンションを出て、生ピアノ(これ、変な言葉ですね)購入を目論んでいるようです。その際「アップライトには興味が持てない」「まったく眼中にない」とはっきり言い切ったのには、さすがのマロニエ君も驚かされてしまいました。

その人によると、電子ピアノで練習している人の心理としては、せっかく生ピアノを買うというのにアップライトでは、イメージ的に期待するほどの差(寸法や姿形など)がないのだそうで、したがって気分も盛り上がらないらしいのです。
それだったら安くて手軽で便利な電子ピアノでガマンするということになるのだそうです。
その人の中では「生ピアノ=グランドピアノ」という図式が出来上がっているらしく、いずれは…と思い定めて目標にする対象としてはアップライトは性能のことはともかく、まずイメージとしても魅力に乏しいようで、やはり何をおいてもグランドピアノの堂々としたオーラのある姿と存在感は人の心を惹きつけて止まないようです。

まさにこれ、現在の中古ピアノ店の在庫状況にも符合する話で、購入者のニーズが電子ピアノかグランドかという両極に別れてしまい、どうもアップライトは宙に浮いてあまり人気がないようです。
まさに『帯に短し襷に長し』といったところでしょうか。

その人が先日、関東に出向いたついでに、ある大手楽器店のピアノセンターのようなところに立ち寄ったところ、そこには世界の名器名品がズラリと並んでいたそうです。
多くが中古ピアノのようですが、店長とおぼしき人に「これらは以前はどんな人が使っていたピアノなんですか?」と質問したところ、「それは前オーナーの方へ差し障りがあるので申し上げられませんが、取り扱っているのはすべてワンオーナーです!」とキッパリ言い切ったとか。
それを聞くなり、マロニエ君はそれはあまりにも見え透いたウソで、しかも必要のないウソだと思いました。

そもそもワンオーナーなんてまるで中古車屋みたいな言葉を使うようですが、マロニエ君はその会社が海外から中古ピアノを仕入れて販売しているのは知っていましたし、オーバーホールされた数十年前のピアノ、なかには7〜80年も昔のヴィンテージピアノも何台も混ざっていますが、自分の歳よりも遙かに上の、しかも長年海外にあったピアノを「すべてワンオーナー!」などと言い切るとは、なにを根拠に…と思いますし、いったい何のためにそんなことを言うのかと思います。

中古ピアノは個々の楽器の状態やリビルド品の場合はその作業の質や仕上がりの優劣、音色や、タッチや、響きが問題なのであって、それらが申し分なければ別に複数のオーナーの手を経てきた物であっても一向に構わないわけですし、仮にワンオーナーであっても物がよくなければ、そんな経歴などなんの助けにもなりません。
でもきっと、店長などという人物にそうキッパリ言われると、なるほどと納得してしまうお客さんもいるのかもしれませんし、だからこういう発言も効果があるということなのかもしれません。

まあ、どのみちビジネスはきれい事じゃありませんが、でも、ウソはよくないですね。
人の気持ちというのは、ひとつウソをつかれると何もかもがウソのような憶測が走り、結局そんな店は避けてしまうようになりますから。
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音楽ビジネスの祖

カラヤンついでに思い出しましたが、ものの本によると、かのヘルベルト・フォン・カラヤンは、現代の音楽ビジネスにおけるあらゆる意味での先駆者だったようです。

指揮者という職業を超えて、まるで帝国の為政者のようにふるまい、手兵ベルリンフィルはもちろんのこと、ウィーンフィル、ウィーン国立歌劇場、サルツブルク音楽祭、ベルリン国立歌劇場、ミラノスカラ座、ウィーン交響楽団、フィルハーモニア管弦楽団など名だたるオーケストラや歌劇場の総監督や首席指揮者の地位を同時進行的に我がものとし、ついにはサルツブルク復活祭音楽祭という、音楽歴史上初の演奏者個人の企画による音楽祭まで立ち上げるなど、ありとあらゆる点でその権勢をほしいままにしたことは有名です。

また、ベルリンフィルの前任者であったフルトヴェングラーやチェリビダッケが録音に対して冷淡もしくはほとんど無視同然だったのに対して、カラヤンは積極的に(というより異常なまでに)この録音媒体を駆使して、生涯を通じて膨大なレコーディングを行います。

さらには音楽映像、CD、レーザーディスクなど新しいメディアにも常に積極的に取り組み、他の追従を許さぬ猛烈な取組がなされました。
今では当たり前といえる、音楽に於ける「ビジュアル系アーティスト」とか、製作することが定着して久しい「プロモーションビデオ」なども、その源流を辿って行くと、なんとカラヤンがその創始者だそうで、これらはみな彼の病的な自己顕示欲から生み出されたものという事実には驚かされます。

また「美しく、頼もしい、才能豊かな、超一流の英雄的な指揮者」というイメージ維持のために、指揮台だけにとどまらず、スポーツカーや飛行機を操縦し、ヨットに乗り込み、オートバイにまで跨って、その全知全能ぶりを知らしめ、自分のスーパースターとしてのイメージ作りに励んだというのですから、呆れてしまいます。

プライベートも抜け目なく、自分が世に出て確固とした地位を得るまでは、大富豪の娘と結婚して妻の資金を使いたいだけ使ったあげく離婚、その後自分が今度は莫大な冨を築いた後は、逆に自分が財産をはぎ取られないよう、わざわざ終生離婚の出来ないヴァチカンで結婚して財産の保全をするなど、その周到な計算能力といったら凡人には目がまわるようです。

カラヤンほどの人物になりながら、レコードのジャケットは言うに及ばず、ちょっとした新聞・雑誌に掲載する写真まですべて本人が徹底的な検閲を行い、それを実行しなかったカメラマンは終生出入り禁止になるなど、まあとにかくその空恐ろしいようなエネルギーは常人の理解の及ぶところではないようです。

録音に編集という専門的な技術を採り入れたのもやはりカラヤンが最初で、良いところの寄せ集めで完璧なレコードを作り上げるという手法を築き上げたわけです。そのせいで音楽はいうなればつぎはぎのモザイクのようになってしまうわけですが、そんなことは屁の合羽で、専らカラヤンの考える「完璧な美」のみを求め続けたようです。

これ以外にも、カラヤンが作り出した音楽ビジネスの手法というのはたくさんあって、良くも悪くも並大抵の人間ではないことだけは確かなようです。
現代の音楽家が、なんらかのかたちでもって「音だけで勝負しない」ようになってしまった風潮の源泉を探ると、結局はカラヤン大先生に行き着くようで、まったく功罪の判定もしかねる、しかしとてつもない巨人であることだけは間違いないようです。
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カラヤンとバーンスタイン

新聞の文化欄によると、今は亡き指揮界の巨星バーンスタインとカラヤンは、没後20年を経て尚もライバル関係にあるのだそうです。
もちろん生前そうであったのは世界中がよく知るところですが、死後これだけの年月を経てなおもCDが確実に売れ続けるというのはやはり並大抵の事ではありませんね。

生前のライバル形勢としては、ヨーロッパのカラヤンに対して、本来、西洋音楽の分野では真っ向勝負は不利なはずのアメリカの巨匠として、バーンスタインは奇蹟的に大きな存在だったように思います。

二人に共通しているのは活躍した時代と、指揮者という最もシンボリックな地位、並外れたピアノの腕前、そして両者共に容姿にまで恵まれ、存在そのものもスター性を通り越したカリスマ性のようなものが備わっていたことなどでしょうね。それがヨーロッパとアメリカ、それぞれの象徴的存在として対峙したのですから、もうこれはどうにもならない宿命だったような気がします。

これだけの圧倒的な大物になると、熱烈なファンがいるいっぽうで嫌いという人の数も世界的な規模でいるわけで、マロニエ君も実は両者共にあまり好きではありません。とくにバーンスタインはどうしてもその音楽に馴染めず、指揮をするときのあのハリウッド俳優のようなアメリカアメリカしたねちゃねちゃとした姿までゾゾッとしてしまいます。

ふと思い出したのですがバーンスタインが手兵ニューヨークフィルを相手に、自身がピアノを弾いてガーシュインのラプソディー・イン・ブルーを弾いている映像があり、ここでなんとベヒシュタインを使っているのは見ものです。
作曲者、オーケストラ、指揮者、ピアニストと、このアメリカのづくしみたいな世界のまっただ中に、突如ベヒシュタインが置かれ、これ以上ないようなドイツピアノの爆音を鳴り響かせながらガーシュインの世界を骨太に描きます。
ドイツピアノのいかにも男性的な無骨な響きがオーケストラをバックに轟くのはなかなかの快感です。

いっぽうのカラヤンはしかし、コンサートでは決してピアノは弾きませんでしたが、その膨大な仕事量は驚くに値するものでしょう。
カラヤンについては一時ほど嫌いではなくなっているマロニエ君なのですが、それはあの明解で華麗な演奏の見事さもさることながら、あの時代にだけあったゴージャスな時代の息吹をカラヤンの演奏を通じて追体験できるからです。70年代に絶頂期を迎えるひとつの時代の波というのは、まことに豪奢で華麗で一流どころが勢揃いして、一流のものとそれ以外がはっきりと区分けされていて、あれはあれで嫌いではありませんでした。

彼らのCDは最近になって次々にセット化・ボックス化されて割安価格で発売されるので、安く手に入れて網羅的に聴くことができるのは、ありがたいようなもったいないような話です。

マロニエ君も以前カラヤンのCDのボックス物をいくつか購入しましたが、4セット合計で200枚!を超えるCDがごく短期間のうちに手に入ったものだから、いやはや一通り聴くだけでも大変でした。それでも聴いたのは7割ぐらいで、すべてはまだ聴きおおせていません。
バーンスタインも同様のものが出てきているようですが、さすがにこちらは遠慮しようと思います。
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定例会と忘年会

今日はピアノサークルの今年最後の定例会と忘年会でした。
いつもながら皆さんにお会いして、それぞれの演奏を拝聴し、いろいろなおしゃべりと食事を楽しむ、たいへん充実した一日でした。

毎回感心するのは、皆さんよく練習されいろんな曲に果敢に取り組み、それを人前で発表するということを絶え間なくやっておられるというその目的意識や実行力には素直に頭が下がります。
聞けばいまだにハノンなどの訓練も怠りなくやっておられるようで、マロニエ君みたいな怠け者にとってはハハアと感心するほかありません。

また、こうしたサークル/クラブの類に属することが、きちんとした練習を積み直す格好の機会になるらしく、忙しい合間を見つけては練習に打ち込んでおられるようですが、ぜんぜんそういう前向きな刺激に結びつかず、定例会も近いというのにピアノをまったく弾かない日も珍しくないマロニエ君としては、ただただ自分を恥じ入るばかりです。
子供のころレッスンに通っている時分から、これ以上ないという恐ろしい先生と、最難関の音高音大を目指して必死に付いていく他の学院の生徒さんに混じって、そんな環境にいても尚なまけることをやめず、まさに曲芸のように時間をかいくぐってきたマロニエ君の体質は、死ぬまで直りそうにはありません。
「三つ子の魂、百まで」といいますが、まさにあれですね。

いまさら言うまでもなく、ピアノは本当に好きなのですが、そんなに好きなんだったら捻り鉢巻きしてでも練習に精進すればいいようなものですが、それとこれとは別なんですね…悲しいことに。

ところで、今日は新しい参加者の方で、マロニエ君の顔見知りの方が思いがけなくおられたのには驚きました。
調律師の方など、この世界は狭いということにもさすがに最近慣れては来ましたが、いまだにこういう想定外のことがあるのはピアノの世界独特の特徴だと思います。
以前お会いしたときは独身でしたが、今日はきれいな奥さんと一緒で、めでたくご結婚されたのもわかっていろいろと話ができました。

もうひとつ驚いたのは、このサークルのメンバーの中には、住まいがご近所の方の比率がきわめて高く、今日もまたひとり、カーナビの同じ画面に入ってしまうぐらいの距離の場所におられることがわかりました。
遠くからいらっしゃる方も多い中、メンバー全体の人数からすると一割以上ですから、やはり驚きです。

今回は忘年会も豪華なもので、ホテルのレストランでそれは行われましたが、広いテーブルにのりきれないほどのご馳走が次々に運ばれて、決して小食ではないマロニエ君も、まさにこれ以上ない強烈な満腹状態となりました。

帰りは途中まで皆さんと一緒に歩きましたが、一年前を考えると、人の輪が一段と強く大きく結ばれていることがウソみたいで、いやはや趣味というものは本当に素晴らしいものだと思います。
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ワイパーの再生方法

12月というのに雨が多く、はっきりしない天候が続きますね。

ところで、皆さんは車のワイパーのブレード(ゴムの部分)はどれぐらいの期間で交換されますか?
これは当然ながら消耗品で、使っていくうち水滴の掻き取り効果が落ちてきて、きれいにかききれず小さな水滴が残ったり、幾状もの筋ができたりと、ゴムの劣化からくる性能低下は基本的に避けられません。
とりわけ青空駐車された車のワイパーはそれだけ劣化が早いともいえると思いますが、それにしても新品時のあの気持ちのよい感触はあまりにも短命だと感じられませんか。

そこで、たいへん簡単で、お金のかからない効果バツグンの復活法をお教えしましょう。
ブレードを交換したばかりのときの、あの気持ちのよい使い心地が簡単に蘇りますし、マロニエ君自身、これで交換のインターバルが倍ぐらいには伸びました。

ワイパーの性能が劣っていくのは、基本的にはゴムの劣化ということがありますが、実はそれよりも別の事情によって拭き取り性能は早々にダメになっていくのです。
その別の事情というのは、ゴムに付着したゴミや汚れです。

経験のある方もいらっしゃると思いますが、洗車などをしたついでにワイパーのゴム部分を雑巾などで拭くと、布に真っ黒い墨のような汚れの筋が付着すると思います。実はこれがワイパーのゴムに積もり積もったゴミのかたまりで、これがわるさをしてきれいな吹き上げを妨げているわけです。
これが甚だしくなると、ゴムがダメになったと判断して交換する人も多いと思いますしマロニエ君自身も長いことそうでした。
ところがこれ、ゴム自体はまだ弾性があって元気なのに、たまったゴミのせいで劣化だと誤認され、交換という間違った判断に至ってしまうわけで、なんとももったいない話です。

さて、その復活法ですが、なんてことはありません。
雑巾でも布でも構いませんので、ワイパーのゴム部分を掴むようにして軽くスーッと拭いてみてください。
すると真っ黒な筋状の汚れが付着するはずです。そこでゴムが布に当たる部分をちょっと変えて、これを何度も繰り返してやってみてください。
何度かやっているうちに黒い汚れが薄くなっていき、最後にはまったく布に汚れが付かなくなります。
そのときが堆積した汚れがなくなったというわけで、これでワイパーは新品の時の状態に限りなく近づきます。

果たして、雨の日にワイパーを動かしてみると、新品同様の一滴も残さないそのきれいな掻き取り性能に感激するはずです。施工は洗車時でもかまいませんが、できればワイパーと使うとき、つまり雨天時走る直前にやってみると効果絶大です。ついでに簡単にガラス面も拭くとこちらもゴミが取れて、ますますきれいに掻き取れます。
気持ちが良いだけでなく、きれいな視界は安全運転にも多いに役立ちますよ。
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オピッツのベートーヴェン

ゲルハルト・オピッツのピアノリサイタルに行きました。
オール・ベートーヴェン・プロで第15番「田園」、第18番、第26番「告別」、第21番「ワルトシュタイン」の4曲でしたが、前半と後半では印象が大きく異なるコンサートでした。

前半の第15番「田園」と第18番はいずれも非常によく弾き込まれており、ベートーヴェンの語法をよくわきまえた理性的で誠実さのあふれた演奏でした。しかし、後半の告別とワルトシュタインでは躍動と迫真の大いなる欠如をもって、こちらはあれっと思うほどパッとしないものでした。
前半はどちらかというとリリックな作品なので、それがオピッツの演奏に向いているのでしょう。

彼はとても真面目な演奏家だと思いますが、全体に抑制感のある小振りなベートーヴェンで、喩えて言うならフルオーケストラではなく、小編成の室内オーケストラのような重量感の乏しい演奏でしたから、まずもってベートーヴェンを聴いたという実感があまり得られませんでした。

後半、告別の第一楽章の時点からちょっと変だなという印象が芽生えたのですが、どうもこういう曲はあまりお得意ではないようです。しかし、ブレンデルが引退した現在、中堅で数少ない「ベートーヴェン弾き」で鳴らしたオピッツですから、お得意でないでは済まされないものを感じました。
ワルトシュタインのような壮大な曲でも、なぜか小さく小さく弾いてしまうので一向にドラマティックではなく、却ってストレスが溜まってしまいました。

とくにワルトシュタインは今年買ったバックハウスのベルリンライブの鬼気迫る演奏に魅せられて、すっかりその虜になっていたこともあり、そのあまりな落差に呆然とするばかりで、ドイツ人がこんなにもベートーヴェンを矮小化したような弾き方をするのはちょっと納得がいきませんでした。

一曲だけだったアンコールには悲愴の第2楽章が演奏されましたが、これがなかなかの好演で、今夜一番の出来ではなかろうかと思ったほどでした。このあまりにも聴き慣れた、ほとんど新鮮味さえ失いかねない曲から、何か強く訴えるものが立ちのぼり、その素晴らしさに思いがけない感銘を受けました。

マロニエ君の知り合いが言うには、一夜のコンサートで一曲でもハッとするものがあれば、それでよしとすべきなんだそうですから、まあ前半にもところどころにいいものがあったし、これで良しとすべきでしょう。

会場であるアクロス福岡シンフォニーホールにピアノを聴きに行ったのは、10月のブレハッチ以来のことでしたが、この会場にあるスタインウェイは現在、きわめて素晴らしい状態にあると前回に続いて思いました。
うるさい技術者の人に言わせるとどうだかわかりませんけれども、マロニエ君の好みとしては、普通のホールのピアノとしてはほぼ理想に近いものを感じます。

音色は、最近のスタインウェイとも違う密度感があり、それでいて甘く透明。すでに15年ほどを経過した楽器ですが、こういうピアノを自分の地元で聴ける現在を非常に嬉しく思います。
これが2台あるうちのどちらかはわかりませんが、ともかく今のうちに素晴らしいピアニストにいろいろと弾いて欲しいものです。
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クロウトシロウト

ヴァイオリニストの高嶋ちさ子さんが、いわゆる従来型の音楽専業の演奏家ではなく、テレビなどのメディアにも幅広く登場するタレント型音楽家で、さらにはウリにしているのが男前なサバサバした性格や、いったん口を開くと毒舌の連発というのも薄々知っていましたが、まともに見たことがなかったので、テレビの番組欄でそれらしい放送があることを知り録画して見てみました。

番組の女性タレントと有名司会者が、北海道の田舎で行われる高嶋ちさ子のコンサートに同行するというもので、二人がいる場所へ真っ赤のポルシェ・ボクスターが屋根を開けた状態で現れ、それを運転しているのが高嶋ちさ子といういかにもな演出で始まりました。
車を降りた彼女はいかにも番組慣れした態度で二人と合流し、途中農園に寄って新鮮なトウモロコシやトマトをかじったり、牧場で馬に乗ったりと寄り道をしながらコンサートの会場へ向かいます。

会場で待っていたのは高嶋ちさ子の両親で、意外や、このお父さんはなかなかのキャラで味のあるおもしろい人だと思いましたし、脇にいらっしゃるお母さんもそれなりの可笑しさがありました。
その点では、高嶋ちさ子のほうがよりパンチを効かせておもしろいことをしようとしているようですが練れがなく、作為的で、さすがお父さんは年の功だと言えそうです。

お笑いだって、笑いをとりたいのなら、そこは緻密なアンサンブルが必要でしょうに、音楽家なのになんでもちょっとしたタイミングがずれるのは要所のキレが悪い印象です。
毒舌もどれほどかと思っていたら、これまたまったくの期待はずれで、ただ下品な単語を発するのが毒舌ではないと思うのですが…。

後半はスタジオに場所を移しての展開となりましたが、その登場の仕方がまたテレビならではのものでした。
「高嶋ちさ子 12人のヴァイオリニスト」という一団が登場し、彼女を中心にV字形に並んで「剣の舞」を演奏。
若い女性ヴァイオリニストが12人並んで、有名曲を演奏してみせたからといってそれが何?という感じで、どこが魅力なのかまるきりわかりませんでしたが、最近はなにかとビジュアル系とやらで、こういうことが本当にウケる世の中なのでしょうか?画面にはしきりに公演日などが出ていましたが行く人がいるのでしょうね。
パンツ姿で演奏しているその様子は、顔立ちといい、骨太で大柄な体格といい、楽器を構えるその姿は、まるで汗の似合うアスリートのようでした。

マロニエ君は器楽演奏者がテレビタレントまがいの振る舞いをすることに決して賛成はしませんが、それはそれとして、テレビタレントとして見るならやはりどうしようもなく素人で、間が悪く、輝きがありません。
ヴァイオリニストとしてならタレント性があるように見えるのかもしれませんが、ではいったん芸能人の中に入ってあれこれやり出すと、そこはやはり本物の芸人には到底及びませんね。

彼女に限らず、現代はすべての領域において、その道の素人がプロの領域に進出して、結果どこにも「本物」がいなくなってしまったようです。あんな活動をするのに、果たして1億もするストラディヴァリウスが必要なのだろうかと思うのはマロニエ君だけではないはずだと思いました。
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夢の話

ずいぶん昔のことですが、三島由紀夫がエッセーか何かの中で『自分の見た夢の話を人にしゃべって聞かせることほど、愚かしくつまらないものはない。』という意味のことを書いていて、激しく共感した覚えがあります。
いらいマロニエ君は決して人に夢の話をしないよう心に誓って今日に至っています。

今朝がた、我ながらあまりにも奇妙な夢を見たことから、この話を思い出してしまいました。

そもそも夢を見るのは眠りが浅いときであって、本当に熟睡しているときは夢は見ないものといわれます。
ある雑誌の巻頭言を読んでいると、そこの編集長が、さる人の体調管理の指導に従ったところ熟睡できるようになりすっかり夢を見なくなったというのです。より健康で充実した毎日を送れるようになり、仕事にもますます情熱的に取り組めるようになったという書き出しだったように思います。

これは裏を返せば、夢をしばしば見る人は不健康で、無為な毎日を過ごすと言われているような気がしましたが、果たして医学的にはそうかもしれません。しかしマロニエ君は、自分を肯定するつもりは毛頭ないものの、早寝早起きで快食快便、よく働きアウトドア大好きというような人とはどうもそりが合わないところがあります。
べつに遅寝遅起きで怠惰でひきこもりの人が好きだというわけではありませんが、お百姓じゃあるまいし、あまりに健康的な人というのはどこかグロテスクで、精神も健康の度が過ぎると却って動物的な気がします。

そんなことはどうでもいいのですが、夢の話をなんのためらいもなくする人というのも、どこか鈍い神経の持ち主であることが多いように感じます。

夢の話をする人の、まるで世にもおもしろいとっておきの話でもあるかのようなあの表情や話しぶり、たいてい内容は奇想天外で自分が野放図なまでに主人公で、無意味で理屈に合わないことの連続。
嬉々として話ながら一人でウケている姿がどうしようもなく浮いて見えてしまうのです。

しかも、聞かされる側は、話す当人と同等の興味を示すものと既定されており、そんな身に覚えのない前提を立てられて勝手なことを朗々と弁じ立てられるのは困惑の極みで、どんな顔をしていればいいのかもわからなくなります。
おまけに、夢の話ばかりは真実不在の無法地帯で、どこをどう作り替えようと、ストーリーをねつ造しようと勝手放題で咎められることもなく、夢という一言のもとにすべてが許されることが、よけいに聞いていて苦しくなるわけです。
夢の話では頭に「なぜか…」という言葉が乱用され、ここが笑いどころだと察せられても、気がひきつって、どうしても相手が満足するだけ笑うサービスができません。

もちろん一発芸的な、ものの10秒以内で終わるような夢の話なら罪もないのですが、ストーリー性を帯びて懇々と語られると、なんともやりきれなくなるものです。

考えてみれば、普通におもしろい話のできる人は夢の話などしませんし、それはおそらく本能的につまらないと知っているからだろうと思います。
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