三膳知枝さんのCDの余談

聴きながらライナーノート見ていると、そこに思いがけない事実を発見しました。
手許にある、三膳さんのCDで使われたピアノは(録音時期や会場は異なるにもかからわず)すべて東京のMさんという聞き覚えのある技術者さんが調整されていたのです。

〜というのも、演奏の素晴らしさもさることながら、ピアノの音がとにかく美しく、緻密で清冽、それでいて朗々と深く鳴っているから、どこの会場のピアノなんだろうと情報を見てみたところ、果たしてそこにMさんのお名前があり、結局すべてを担当されていることがわかったのです。

それならそれで、CDを渡される際に、「Mさんが調整したピアノですよ」と言い添えてもらえたらいいものを、一言もないから、ライナーノートを繰りながらようやく自分で気がついた次第でした。
Aさんは、もともと自慢したりくだくだしい解説などされない方だから、いつもの流儀だったのか、あるいは黙って聴かせてみてどういう反応をしてくるか…という意図が潜んでいたのか、そこのところはわからないし、そういうことはこちらも聞きません。

そもそものいきさつは知らないけれど、Aさんと東京のMさんは数十年におよぶ無二の釣り友達なのだそうで、MさんはAさんとの釣りのためときどき福岡に来られているらしいのです。

Mさんは、日本のピアノ技術者の中でも最高ランクの名人らしく、Aさんが云われるのだからむろんそうなのだろうけれど、演奏という手段を持つピアニストとちがい、技術者の奥義を味わうことは意外に簡単ではないから、そこで話は終わってしまっていました。
伝え聞くところでは、Mさんはまるで飾ったところのない無垢なお人柄で、ある意味子供のように純粋な天才肌らしく、要するによくある通俗的な人物とは、かなり規格の御方のようです。
私もそんな名人にお会いしてみたい気持ちはないことはないけれど、わざわざ釣りをしに来られているのに、まさか、そんな貴重な時間に分け入ってゆくほどの図々しさは持ち合わせません。

CDに戻ると、ホールやピアノはあちらこちらと変わっているのに、いずれにも通じる抜きん出た美しさが光っていることは素人の耳にもわかるもので、本物のコンサートチューナーの仕事というものの凄みに、思わず震えました。
一般に「上手い」といわれる人の多くは、なるほど上手いのだろうけれど、どこかそつなく小奇麗にまとまっているだけの印象があるのに対し、Mさんはまるで次元の違うことをやられているというのがじわじわ伝わります。
そういう意味で、このCDの束は、ピアニストだけでなく、本物の技術者の技が作り出す美音に耳が洗われるチャンスにもなりました。

Mさんの手にかかると、並のスタインウェイが、特別な駿馬に変身するようです。
スタインウェイの音というのは、いい意味でどこか抽象性のあるピアノだと思っていたけれど、このCDから聴こえる音には明確に共通した特徴があり、伸びやかで明晰、各音がスッと立っていながらあくまで甘くまろやかに語りかけるようで、まさに気品が薫り立つピアノでした。

音質が整然と揃っている点も呆れるばかりで、しかも一音一音にはどこか肉声のようなような親しみと連なりがあるかと思えば、低音は厳しく引き締まり、床が震えるように鳴り響き、全体はきわめて融和的にまとまっていている。
それでいて(ここがとても大切なところだけど)ピアノが前に出すぎることはまったくなく、主役はあくまでピアニストとして一線がピシっと引かれているのもお見事というほかありません。
もうひとついい添えるなら、時間をかけて努力した果てに仕上げられた硬い美しさではなく、無駄のない作業で手早く一気に仕上げられた感じがあるから、日本文化によくあるような緊迫した窮屈感とは逆の、ほがらかで、むしろ寛ぎさえ感じることは重ねて驚きでした。

さらに、この6枚のCDは、初期のものから最新のものまで20年ちかい隔たりがあり、会場もピアノもいろいろ変わっているのに、同じ技術者による同じ調子がしっかりと息づいて維持されているのは、その技術と美意識が本物である証でしょう。
その魔法のような技術には、まったく唖然とするばかりでした。

さらに、もうひとつ付け加えると、私は録音技術やレーベルのことなどはさっぱりわからないけれど、ALMレーベルというのは、相当に高度な録音するものだと、この点にもしみじみ感服しました。
最高の席に座って、理想的な距離で生演奏に立ち会っているようで、ピアノの発する音の、空気感や余韻までしっかり捉えられているあたりが素晴らしく、これに慣れると、他のピアノの音が物足りないように感じられてしまいました。

三膳知枝さん

三膳知枝さんというピアニストのCDを6点まとめて手にする幸運に恵まれました。

親しく交際させていただいている技術者Aさんに会ったら、ふいに輪ゴムでくくられたCDの束を渡されました。
「Yさん(日本のご高齢のピアニスト)が気に入られた人だそうで、よかったら聴いてみてください」といわれただけで、これという細かい説明もないのがこの方のいつものスタイルで、くだくだしい説明などはされません。
それでなくても、私はピアノのCDなら喜んで聴くほうだからありがたく受け取って、そのあとはすぐに他の話題になりました。

その日の夜、ハイドンのソナタから聴き始めました。
たちまち心地好いピアノの美音が流れだし、こまやかな神経のかよった上質な演奏というのが第一印象。
音と音とが緻密に機能してゆくところに、目の詰まった織物みたいな心地よさがあり、そもそもハイドンで聴かせるというのは個人的には至難なことだと思っているだけに、聴きながらしだいに興味が高まりました。

三膳(みよし)さんは新潟出身で、桐朋からロシア・グネーシン音楽院(キーシンやアヴデーエワの学んだ学校)へ留学されたようですが、まずもって興味をそそられたことはバッハ、スカルラッティ、ハイドン、スクリャービンという選曲と、プロフィールの扱いでした。
バッハは平均律全曲とゴルトベルク、スカルラッティのソナタ集、ハイドンのソナタ集、スクリャービン作曲集で、各CDはひとりの作曲家の作品でまとめられています。

プロフィールは、いつぞや書いたような大仰なスタイルとは真逆の、ライナーノートの末尾に1ページにも充たないぐらいに要点のみが簡潔にまとめられているだけで、まず演奏を聴いて欲しいというまっすぐな姿勢を物語っているようでした。
やはりプロフィールは簡潔最低限に済ませるほうが、遥かに品格があると再認識しました。

次に聴いたのはバッハの平均律でしたが、名うての名盤が数多くひしめくこの作品ですが、新たな感銘をもって心ゆくまで楽しむことができました。
隅々まで掃除の行き届いた、趣味の良い部屋に案内されたような気持ちの良さと、雑念なくピアニストが作品と向き合っている世界が目の前にあり、こちらはそっと窓辺から耳を傾けているような感覚がありました。

自分の信じるものに従っている演奏がそこにあるだけで、良い意味でさっぱりしているから、辛気くさい主張とか自説の押し付けなども一切なく、その無欲にむしろ惹きつけられました。
世俗にまみれず、自分のやりたいことをやっているピアニストというものを久しぶりに聴いた気がします。
演奏を通じて、この方の深い教養や音楽に対する真摯な姿勢にふれるようで、今どきの最もスポットライトのあたる売れっ子のタワマンエリアみたいなところを離れると、稀に、このように音楽への奉仕を喜びとする方もおられるということを知り、その事実にじわりと胸打をたれました。

集中しているけれど自然な呼吸に従い、淡々としているけれど枯淡でもなく、そこがこの人の魅力でしょうか。
どれもが凛としていて筋道が通っており、信頼を寄せて耳を傾けることができることは快適だし、派手というのとは違うけれど、澄んだ秋の空気のようなくっきりとした美しさに浸ることができるため、何度も繰り返し聴きたくなる演奏でした。

視界を定めて、迷いなく演奏に打ち込むことで、おのずと質の高いものになるということでしょうか。
日本やドイツでは一流の職人というものに、一種の高いリスペクトがありますが、それは高度な専門性に信頼を置くからだと思われ、故に貴重でありがたいもののように感じ人は少なくないように思います。

少し残念だったのは、ゴルトベルク変奏曲はほんの少し生煮えのところがある印象が残り、これが平均律並のクオリティに迫ったらどんなに素晴らしいかと欲が出ますが、とにかく素晴らしいピアニストをまたひとり知ることができて感謝です。
スクリャービンは、ほの暗い情念の奔流をぶつけるような新劇の演技みたいな演奏の多い中、あくまで自己を見失わず、要らざる演技をせず、ときに平坦でもある演奏が却って楽しめました。

時流

昨日、とあるショッピングモールに行きました。
ここは福岡のドーム球場の前に位置する中規模の商業施設で、オープンしたての頃は、従来型モールとは一味違う新しい仕立てという感じがありましたが、普段あまり用がないことと腰痛で動けなかったことも重なって、おそらく一年ぶりだったと思います。

立体駐車場から繋がる橋をわたり、モール内3Fに入った瞬間、アッというほど多くのお店の顔ぶれが相当変わってしまっていることに目が点になりました。
単に別の店舗に交代しているというだけでなく、あたりは思い切りよく子供向けの施設などになって、ガラスの中で子どもたちが飛んだりはねたりしていて、それを親御さん達が外からゆったり眺めていたりで、そういう施設がぐんと増えており、併せて子供向けの大手店舗が大きなスペースをしめていたりと、以前とは打って変わったその雰囲気には少なからずショックを受けました。

2F1Fは、まだいくらか以前の姿を留めてはいたけれど、それでもどことなく活気を失っていることを、肌で感じてしまいます。
こうなると悪循環で、いち客の立場で云わせてもらうと、自分に直接関係あるなしにかかわらず、そこに足を向けるには全体的な印象とか雰囲気というのはとても大事ですが、正直いって、今後はよほどのことがない限り行くことはないだろうと思いました。

こうして、はじめは色とりどりに、賑やかに軒を連ねていた店舗は時を経て櫛の歯が欠けるように消えてゆき、オープン時にみなぎっていた全体の調子が崩れていくんだろうと思います。
とくにキッズ向けの運動や、遊戯や、なにか学ぶための施設というのは、需要があるのか大事かもしれないけれど、そういうものが増えていくと一般客にとっては甚だ魅力を欠くものとなり、トータルでの客足は遠ざかるでしょう。

ビジネスだから採算が合わなければ撤退するのは当然だとしても、ちょっとした雰囲気が違ってくることで、負のスパイラルに陥りそうで、別に私は関係者でもなんでもないものの、どこか寂しい気分を引きずりながら店をあとにしました。
あまりにも時代が急速に変化して、情報だけがやみくもに氾濫すると、人は自衛本能から様子見に陥るのかもしれません。

テナントのひとつである有名な楽器店も、びっしりと商品が並んでいるのが却って虚しく目に映り、ここに入店して何かを買うというのは、相当にハードルが高いことのように見えてしまいました。

数年前だったか、配信サービスの発達によってCDが売れないと聞いた時は愕然としたものですが、最近はさらに時代がもう一回転して、新聞などの従来型のメディアが下火になり、かくいう自分自身にもその変化が起こっています。
数十年と取り続けた新聞もやめてはや数年が経つけれど、困ることは何もなく、安くもない購読料を払いながら毎日積み上がる紙の山の始末まで考えれば、もう元に戻る気にはなりません。
それでなくとも、新聞など既存のメディアへに対する信頼の失墜は甚だしいものがあり、挽回は難しいでしょう。

ニュースはネットなどから拾って目を通せば済むこととしても、さて音楽となると、これが配信などによってただ消費されていくというのじゃ困ると思うのですが、しかし、これだけの勢いで世の中が流れている以上、自然災害に為す術がないように、それを憂いてみたところでどうなるものでもありません。

少し前までは、アコースティックピアノを買おうとしたら、周囲から奇異の目で見られるとか、電子ピアノをピアノだと思っている、というような話に、半ば呆然とし、大いに憤慨嘆息したものですが、いまなら「まあそうだろうなぁ」と思えるところまで時流とやらに飼い慣らされてしまったように思えるこのごろです。