バッハ-CDと演奏会

最近買ったCDから。
ディーナ・ウゴルスカヤによる、バッハの平均律全曲。

その名から想像されるとおり、ウゴルスカヤはあのアナトゥール・ウゴルスキのお嬢さんで、ジャケットの美しい顔立ちの中にも、偉大な父であるウゴルスキに通じる目鼻立ちをしており、親子二代でこれだけのピアニストになるのは大したものだなあとまずは感心させられます。

演奏は大変良く練りこまれた真摯さと深い見識を感じさせるもので、父親のような計り知れない器の大きさはないけれど、心の深いところで音楽する人であるのは一聴しただけでもすぐに伝わってきます。
技巧も立派で一切の危なげもく、ぶれのない終始一貫した黒光りがするような落ち着いたバッハ。

お年はいくつかわからないけれど、ジャケットの写真をみても、まだ充分に若く、それにしてはずいぶん大人びた老成した音楽を聴かせる人だなあとは思うけれど、でも父親がウゴルスキで、その空気の中で育ったと思えばまあ納得です。
同年代のピアニストたちが、今風のカジュアルでスポーティな演奏をお手軽に繰り広げる中、こういうずっしりとした演奏をするピアニストはむしろ貴重な存在かもしれません。

そのずっしり感の中にはいうまでもなくロシアピアニズムが息づいているけれど、むかしの重戦車のようなあれではなく、しなやかさも併せ持っているところが世代を感じさせるし、ウゴルスキがドイツに亡命したことにも関連があるのか、バッハの国で多くの時間を呼吸した人らしい自然さを感じさせるところも充分ある。
ではドイツ人的かといえば…そうではなく、やはり根底にロシアの血脈を感じさせる演奏でした。

ただ、現代の基準で聴くならやや暗くて重々しいところがなきにしもあらずで、これもあのお父さんの演奏を思い起こせば十分納得できるものではありますが、個人的にはもう少し「軽さ」があるほうが現代のバッハとしては馴染みやすいかもしれません。
重々しさは演奏時間にも反映されているようで、第2巻のほうは通常大抵のピアニストがCD2枚内に収まるように弾いてしまうのに対し、ウゴルスカヤは3枚になってしまっています。

ロシアからドイツに移住してバッハを弾く人といえばなんといってもコロリオフですが、彼の演奏には軽やかさと洗練がそなわっており、そのあたりがウゴルスカヤの課題だろうと思いました。


バッハといえば、福岡でバッハのクラヴィーア作品全曲演奏に挑戦している管谷怜子さんの第10回目の演奏会がFFGホール(旧福岡銀行大ホール)で行われました。
今回はフランス組曲第4番、トッカータBWV912、ブゾーニ編曲のシャコンヌ、さらに後半は弦楽五重奏を相手にピアノ協奏曲の第2番ホ長調と第5番ヘ短調が演奏されました。

いつもながらの見事な演奏で、折り目正しさの中に管谷さんならではの温かな情感が随所に息づき、とりわけ緩徐部分での繊細かつ深い歌い込みはこのピアニストならではの世界が垣間見られるものでした。
後半のコンチェルトでは溌剌とした活気が印象的で、いかなる場合も連なる音粒が美しく、いかようにも転がし続けることのできる安定した技量にも瞠目させられました。

面白かったのはアンコールで、通常のテンポで演奏されたヘ短調の協奏曲の第3楽章を、もっと速いテンポで演奏してみるとどうなるかという「実験」と称して、2~3割ぐらいアップしたテンポで弾かれたことでした。
テンポが変わると、聴く側も、曲を捉える単位というか区切りのようなものが変化して、同じ曲ではあるけれど、まったく違った感性の世界に入っていくようでした。

どんなにテンポを上げても、管谷さんの演奏はまったく乱れることなく、指は自在に駆けまわり、美しさがいささかも損なわれないのは見事というほかありません。
また、同じ曲をテンポを変えて聴かせるという発想自体が、まるでグールドあたりがやりそうな試みのようで、とりわけバッハにはそれが面白く存分に楽しめました。

ただ表向きの演奏をするだけでなく、新しい試みや実験を聴衆に披露することも非常に大切なことだと認識させられました。
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音の充実

たまたまチケットをいただいたので、ある室内楽のコンサートに行きました。
ピアノが加わったプログラムで、調律もこだわりをもってピアニストがおこなった人選だった由、それなりに興味をもって赴きました。

しかし結果はさほどのものではなく、あまり良いことが書けないので演奏者の名前も書きません。
まったく初めてのピアニストだったけれど、いかにも挑戦的なチラシの写真と、これでもかというプロフィールの効果だったか、それなりの演奏をされる方なのか…というイメージを抱いていただけに肩透かしを食らったようでした。

そもそもにおいて演奏者のプロフィールというのは誇大記載であるのが今や通例で、師事した教師の名の羅列に始まり、どこそこの音大を首席で卒業などは朝飯前、留学歴からコンクール歴から果てはちょっとした音楽セミナーで一度きりレッスンを受けたピアニストの名まで、事細かに書き連ね、共演したアーティストや指揮者やオケの名前をいちいち挙げながら、世界的な注目を集める才能…というように結ぶのが定形のようになっています。

その程度ならいまさら驚きもしませんが、このピアニストのプロフィールは通例をさらに超えるもので、読む気がしないほど大量の文字がびっしりとスペースを埋め尽くし、ヨーロッパでは行く先々で大絶賛を巻き起こし、リリースしたCDは高評価、そんなすごいピアニストが身近にいたなんて知らなかった自分の無知のほうを恥じなくてはならないようなものでした。

ところがステージへ出てきたご当人はずいぶん緊張されているのか、えらくぎこちない感じが遠目にも伝わって、直感的に不安がよぎりました。しかしひとたびピアノに向かったら別人のように変貌するということもあるかもしれないと、かすかな期待をしてみるも、始まった演奏はか細い音で、たった4人の弦楽器奏者の音にしばしばかき消されてしまうもので、概ねこの調子で途中挽回することもないまま終わりました。

ピアニストが調律師にこだわることは本来とても大事なことで、自分が演奏する楽器の音に関心を払うのは当然だと思いますが、まずはピアノを曲と編成とホールに合わせてまず「鳴らす」ことができるかどうか、これが大前提じゃないかと思います。
プロフィールより、調律師より、もっと大切なことがあることに気づいて欲しいと思いました。

ここからは一般論ですが、ピアノの音にも当然ながら最適な美音が出る範囲というのがあり、あまり指の弱い人がいくら奮闘してもピアノは鳴ってはくれませんし、だからといって叩きつけるなどすれば汚い音になる。
また、大柄な男性ピアニストの行き過ぎた強打を受けると、楽器によっては音が破綻したり、あるいはそうはならずに踏みとどまってももはや美音とは言い難いものになってしまいます。

ピアノ向きの体格、指の強靭さ、タッチの質、表現、美意識などあらゆることがピアノの音には反映されるという点で、ピアノのアクションというのは微々たる変化でも呆れんばかりに正確に弦とボディ(つまり音)に伝えることのできる、とてつもない精巧無比な機構だと思います。

現代のコンクール世代の若いピアニストの多くは、指は難なく自在に動くようですが、せっかくの楽器の表現機能を活かしきれているかといえば、マロニエ君には大いに疑問が残ります。
とりわけ深み厚み重みといった方面の音が出せなくなって、弾き方そのものがどこか電子ピアノ化してしまってはいないでしょうか。
無駄のない科学的な訓練によって鍛えられたテクニックは、運動面での効果は目覚ましいけれど、表現の懐が浅く、楽器を充実して鳴らしきるということが手薄になり、そこに聴こえてくるのは感銘のない、無機質な丸暗記風の音の羅列にすぎません。

その人が受けた教育の方向性にもよるものか、あまりにも正確な楽譜再現にばかり注意が払われすぎ、曲に対する奏者の本音とか生の感情というものが聴こえてこないこともあろうかと思います。
音楽に限らず、世の中は自分の正直な感覚とか考えが表現しにくい空気が蔓延し、どこからもクレームの付かないものに徹しようとする社会の傾向がある中で、それは音楽の世界でも横行しているような気がします。
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流行作家

現在お付き合いのあるピアノ愛好者の中には、いろいろな変わり種がおられるというか、みなさんすこぶる個性的で、何らかのかたちで独自の世界や趣向を持っておられます。

そんな中のひとりは、音楽歴史上、無名とまではいわないものの、一般的にはそれほど知られていないマイナーな作曲家の作品に強い興味がおありで、CDはもちろん楽譜まで取り寄せて自分で弾いてみて、それらの作風や特徴を通じながら、音楽の歴史や変遷を独自に楽しんでいる人がおられます。

先日久しぶりに我が家にいらっしゃいましたが、その際にフンメルのピアノ協奏曲を中心とするCDのコピーを6枚ほどプレゼントしていただきました。
フンメルはベートーヴェンよりもわずかに年下であるものの、ほぼ同時代を作曲家兼ピアニストとして生きた人で、当時はかなりの人気を博した音楽家のようです。

その知人の「おもしろいですよ」という言葉のとおり、どの曲を鳴らしてみても、初めて聞くのに「あれ?あれれ?」…随所になんか聞いた覚えのあるようなメロディや和声や、もっというなら全体の調子とか作風が、モーツァルトやショパンをストレートに連想させるようなものばかりでした。

モーツァルトの生きた時代までは、作曲家というか芸術家はおしなべて貴族お抱えの身分であったのが、市民社会の勃興によって音楽がより広い大衆の娯楽となり、一気に自由を得、裾野を広げます。一方でベートーヴェンなどが純粋芸術としての作曲を始めたというのもこの時期からで、その手の話はよく耳にしますね。

市民社会ともなると、現代にも通じる「人気」というものが重要不可欠の要素となり、大衆を喜ばせるための工夫やニーズが大いに取り込まれていることがわかります。
現代のように音楽市場が広範ではないためか、当時の作曲家のはそれ以前の楽曲の作風をひきずりながら、娯楽性や人々の好みを念頭に置きながら作曲をしていったのだろうと思われるフシが多々あって、純粋に音楽を聞くというよりも、当時の時代背景や大衆娯楽の有り様を覗き見るような楽しさがありました。

とくにモーツァルトのピアノ協奏曲からのパクリ(といって悪ければ流用?)は思わず笑ってしまうほどで、現代で考えればよくぞこんな手の込んだ仕事を真面目にやったもんだと呆れつつ、もしかしたら今なら著作権法にひっかかるのでは?というほど危ない箇所もあり、むかしはおおらかな時代であったことも偲ばれます。
こういう曲はあまり深く考えず、笑って聴いておけばいいのだと思いました。

どの曲も調子が良くてきれいで、すぐに耳に馴染んで楽しめるもので、それが当時の大衆の要求だったんでしょう。
おそらくは、この手の曲が次々にファッションのように作られては上演され、言い換えるなら消費され、忘れられていったのだろうと思うと、フンメルの協奏曲などはそれでもなんとかこうしてCDに録音されるぶん、かろうじて消えずに済んだ作品といえるかもしれません。

すっかり忘れていましたが、マロニエ君自身も知られざるロマン派のピアノ協奏曲集みたいな、ボックスCDを購入したことがありましたが、なんか二~三流品を集めて詰め合わせにしたようで、たしか途中で飽きてしまって全部は聴かずにどこかに放ってあると思います。
それほど、この時代(18世紀末から19世紀)はこぞってこういう作品がおびただしい数生み出されたのかもしれません。

それから思えば、現代の私たちに馴染みのあるクラシックの作品は、そんな膨大な作品の中から厳選され淘汰されて、時代の移り変わりを耐え抜いて奇跡的に生き残った、まさに音楽歴史上最高ランクの遺産なんだなあとも思いました。
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シン・ゴジラ

昨年大変な話題となった映画『シン・ゴジラ』が地上波で放映されたので、どんなものかと思い見てみました。

さすがに新しく作られただけのことはあり、随所に現代流に置き換えられた新しさはあったけれど、ゴジラという映画の後味としてはなにかすっきりしないものが残ってしまう、どこか腑に落ちないところを含んだ作品だった…というのがマロニエ君個人の感想です。

簡単に言うと、もう少しストレートにわくわくしながら楽しめる映画であってもよかったのではないかと思うのです。

これがまったく白紙から出てきた映画ならともかく、我々日本人にとってゴジラ映画は子供の頃からずっと慣れ親しんだ存在でもあり、そのイメージを払拭することは良くも悪くもできません。

過去にはなかった凄まじい迫力をもったシーンのいくつかで、さすがは最新版らしく観る者をアッと驚かす部分もあるけれど、あちらこちらでコストカットされた薄っぺらさも感じてしまうあたりは、今風にしたたかに計算された感じもうっすら出てしまっている気がしました。

最大の理由として、その一番の主役であるはずのゴジラが出てくるシーンが、あまりに少なかったような印象だったのですが、他の人はどうなんだろうと思いました。
ゴジラ=破壊シーンとなるのは必然でしょうから、それを増やすとなればコスト増にも繋がるのかもしれないけれど、とにかくゴジラのシーンより、それを迎え撃つ側の若手俳優陣が目を吊り上げて、忙しくセリフ合戦を繰り広げる場面がメインのようで、ときどき思い出したようにゴジラがちょちょっと出てくるという感じ。

もっとも気にかかったというか、ゆったり楽しめなかった最大の原因は、ほとんどすべての出演者が競い合うように猛烈なスピードでお堅い言葉のセリフをまくし立てるばかりで、まるで耳がついていけなかったこと。
むかしのゴジラのどこかのんびりした感じを排し、よりリアルに、政府や関係者たちの切迫感をシャープに描きたかったのかもしれないけれど、あれはいくらなんでもやり過ぎというもの。
大人から子供までだれもが楽しめる作品ということになっているらしいが、あの早口言葉の洪水のような難しいセリフをほぼ2時間聞かされて、それについていける人など果たしてどれだけいるのかと思うばかり。
もしや、これはほとんど聞かなくてもいいセリフなのかもと思いましたが、それにしてはそのセリフのシーンの多いこと多いこと。

映画を見る上では、セリフを理解しながら進むということは基本だと思うけれど、それがまるでビデオの早送りのように高速でせわしなく、あまつさえ一度聞いてもわからないような特殊用語や専門的な言い回しの連続で、まずその聞き取りに集中するだけでも「楽しむ」どころか追い回されるようで、エネルギーをえらく消耗させられてしまうようでした。
これだけですでにぐったり疲れてしまい、映画の面白さが半減でした。

東京にゴジラのような大怪獣があらわれたのだから、その対策に当たる関係者が一様に大慌てで緊迫の連続というのはむろんわかるけど、それがあの不自然極まりないセリフ合戦のようになるのでは、むしろリアリティを欠き、まったく納得しかねるものでしたしちょっと滑稽でもありました。
しかもその内容が憲法や自衛隊法、あるいは科学分野の専門用語を多く含むセリフなので、出演者のほとんどが演技らしい演技もそっちのけでひたすらしゃべりまくり、見ている側はその様子に置いて行かれてしまうようでした。

あれでは俳優諸氏も大変だったでしょうし、噛んだり間違えたりトチったりと、かなりのNGシーンが山とあふれ、ミスらなかったものの集合体をつなぎ合わせたものが本編ということなのでしょうが、もう少し自然にできないものかと思いました。

肝心のゴジラはというと、なぜ生まれて、なぜ東京にきて、最後は要するにどうなったのか、わかったようなわからないような…なぜなぜの連続でした。
ネットの解説などを読めばわかるのかもしれませんが、たかだかゴジラのような娯楽映画で、そんな予習復習をしようとも思わず、もっと普通に見て普通に楽しめるものじゃいけないの?というのが正直なところ。

全体をえらくシリアスに描いたわりには、はじめに出てきた成長前のゴジラは、まんまるお目々のかなり漫画チックなカワイイ系のお顔だったのもかなり笑えましたし、実際成長後のゴジラとあまり結びつかないイメージで、総力挙げて作られた映画だったのかもしれないけれど、全体に完成度はあまり高いとは言えないような気がします。
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自然美

いまさら改まって言うことでもないけれど、コンクールというものは好きではなく、これを絶対視するなんてことは逆立ちしてもないマロニエ君ですが、それでも、以前は一部の優勝者や上位入賞者には高い関心をもっていた時期があったことも事実でした。
つらつら思うに、これは過去にポリーニやアルゲリッチという、それまでのピアノ演奏の基準や価値観を変えてしまうような、とてつもない傑物をショパンコンクールが排出した…という歴史的事実があったからだと思います。

でも、コンクールというものを通じて突如発掘される、そんな世紀の大発見なんてそういつまでも続くことはなく、結局はこのふたりだけだったと言ってしまってもいいかもしれません。
いうなればたまたま見つかったツタンカーメンみたいなもので、その後これといった同様の発見があったかというと、申し訳ないけれどマロニエ君はそのようには思えないのです。

それに比例して(かどうかはわからないけれど)、こちらも年々無関心に拍車がかかり、最近は世にいう世界的❍大コンクールの覇者であっても、ほとんど興味は持てなくまりました。
理由は至ってシンプル、いいと思わないから。

おまけに年を追うごとに出場者側もコンクール対策が進み、個性を排し、点数の取れる演奏を徹底的に身に付けてやってくるのですから、そこで突出した才能とか、思いもかけないような発見なんてあるはずがない。
まさに有名一流大学の受験対策と同じで、大学と違うのはコンクールはひとりもしくは上位数人を選ぶだけ。
それを、音楽ファンが心底ありがたがって待っているわけでもなんでもないのに、コンクールで箔をつけるという傾向にはまったくブレーキが掛かりません。それほど演奏家を目指す多くの若者が世に出ることを急ぎ、ギャラを稼げること、チケットが売れること、突き詰めれば有名になって食っていけることを性急に目指していて、コンクールはそのための最短ルートとしての便利機能としか思えないのです。
一攫千金といえば言い過ぎでしょうけれど、一夜にしてスターを目指すというのは、精神においては大差ないと思います。

というわけで、正直いうと、現在マロニエ君個人がかろうじて興味をもっているのは、唯一ショパンコンクールだけで、それも結果(優勝者が優勝者として本当にふさわしい人であるかどうか)に納得の行くことはめったにありません。

この人こそ第1位と思う人が2位であることは何度もありましたが、前回2位になったシャルル・リシャール=アムランの『ケベック・ライヴ』というCDを買ったところ、これがなかなかの出来栄えでちょっと驚きました。

曲目はベートーヴェンのロンドop.51-1/2、エネスコの組曲op.10、ショパンのバラード第3番/ノクターンop.55-2/序奏とロンドop.16/英雄ポロネーズというもの。
わけても、個人的にはエネスコの組曲がダントツに素晴らしいと思いました。
もともとエネスコの音楽というのはマロニエ君にとっては、どこか掴みどころのない印象があって、もう一つなじめないでいるところがあったのですが、それがリシャール=アムランの手にかかると美しく幻想的な絵画のようなイメージが滾々と湧き出てくるようで、この23分ほどの曲のためだけにでもこのCDを買った価値があったと思えるものでした。

個人的に馴染みのない曲であったこともあり、新鮮さも手伝って良い印象を抱くことに寄与した感も否めませんが、開始早々、R.シュトラウスかと思うような華麗な幕開けでしたし、その後もさまざまな情景に応じた適材適所の表現やテクニックを駆使しながら見事に弾き進められました。

リシャール=アムランという人は、音楽的センスもあるし、なにより演奏が真摯で、世俗的な野心がほとばしっている感じがなく、自分のペースで信頼に足るピアノを弾く人だというのが率直なところ。
真摯とか信頼などと書くと、解釈重視のこじんまりした地味な演奏をする人のようですが、決してそうではなく、どれほど率直に思いのたけをピアノにぶつけても、それが決して作品の音楽的道義を外れることがない点がこの人の強みというべきか、それこそが彼の個性なのだと思いました。

どの作品を聞いても、音楽的な作法の上にきちんと沿っているのに、それがちっとも窮屈な感じもしないし、むしろ演奏者と作品が最も理想的なかたちで結びついている印象を受けるあたりは、なかなか清々しいことだと思わずにはいられません。

「彼の自然」と「作品の自然」がなにも喧嘩せず、絶妙のバランスで手を結んでいるために、演奏を聴くにも作品を聴くにも、それは聴き手しだいでどうにでもなるという任意性が広くとられているようで、密度の高い演奏に伴うストレスなどもいっさい背負わせない点も、リシャール=アムラン氏の人柄が出ているのかもしれません。
なかなか気持ちのいいピアニストだと感心しました。
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危険運転の変質

最近の車の運転マナーというか動きを見ていると、一部のドライバーの身勝手さからくる、予測のできないような動きがかなり増えているように思えてなりません。

全体としては、速度が下がっているようにも見受けられるためか、うわべは穏やかな交通環境といった感じがしないこともなく、それも敢えて否定はしないけれど、そうとばかりは言い切れない面が潜んでいることも確かです。
その一見穏やかな流れの中に、実はアッと驚くような(場合によっては肝を冷やすような)予想の付かない動きをする車が少ないとは言えず、運転そのものの緊張の度合いは以前より高くなっているというのが個人的な印象です。

昔は、飛ばす人は目に見えて飛ばしていたし、速度的な観点から言えば無謀運転も多かったけれど、そういう人たちはそれなりにある種のわかりやすさみたいなものとか、言い方はおかしいかもしれないけれど、その無謀な中にも一定の秩序というか、暗黙のルールみたいなものがありました。
したがって個人的にはそれほど怖くはなかったし、とりあえずそこに近づかないようにしておけばそれで安心できた場合も多々ありました。

ところが今は、一見おとなしそうな流れに見えるのに、まさかと思うような動きをする車が結構多いという点においては、一瞬も気を緩めることができません。
ゼッタイ入ってこないだろうというタイミングでも、ヒュッと入ってきたりで、ウソー!と感じにハンドルを切ったり急ブレーキいうこともよくあります。
もしものことを考えるならドライブレコーダーという証拠記録装置を装着する必要もでてきたと、だんだん我が身の問題としても理解できるようになってきました。

昔はどちらかというと平均的に運転技術も今に比べたら高かったし、自然発生的にルールや互いの呼吸があり、その中で生息できるドライバーだけが晴れてハンドルを握っていたような印象があります。もちろん車とは本来そんな一部の人達だけにあるものではなく、多くの人がハンドルを握りつつ安全に運用すべきものなので、昔の流儀が正しかったなどというつもりは毛頭ありません。

ただ、最近怖いのは、危険察知能力が欠落しているとしか思えないような自己本位の運転が非常に多く、無謀運転の質そのものが変わってきたこと。
路上全体の円滑な交通の流れを乱してもまったく平気というか、いわゆる空気の読めないドライバーが激増してるのは久しいし、昔ならまずあり得ない車間やタイミングで平然と割り込んできたりする車は本当に増えました。

無茶をして、他のドライバーに恐怖を与えたり、後続のドライバーの注意および危険回避に依存したような動きをしておいて、あとからハザードをちょっと点滅させておけば、なにをしても許されると思っているフシのあるドライバーがあまりに多くなりました。

マロニエ君は夜間に運転することが多いのですが、必ずと言っていいほど無灯火の車を何台も目にするし、直進するこちらの目の前にいきなりふらふらと出てきて、そのまま3車線ぐらい斜めに進んで、なにがなんでも目前の右折車線に進むといったような、まったくこちらの予想のつかない極めて深刻ともいうべき危険運転のあれこれをされるのは、本当に迷惑です。
あまりにこういうドライバーが多くて、昔よりも運転するにあたっては、スピードは落ちていても神経が疲れるというのが正直なところです。

さらには闇に紛れたギャングの如き自転車にも注意を払わなくてはいけないし、あれもこれもと一瞬も気が抜けません。
もちろんハンドルを握るにあたっては「一瞬も気が抜けない」のは当然のことであるのは言うまでもないけれど、最近のそれはどこからどんな変化球が飛んで来るかわからないといったピリピリ感であるのは間違いありません。

機械の性能が上がったぶん、人間の感覚が鈍っているのは間違いないようです。
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ゴルトベルク演奏会

山田力さんという地元のピアニストによる、バッハのゴルトベルク変奏曲のコンサートに行ってきました。
自らバッハをこよなく愛するピアニストと公言される方で、この数年間というものオールバッハプログラムのコンサートを継続して開催されているようです。
冒頭まずフランス組曲第5番が弾かれたのち、すぐに15分の休憩となったのは、この日のメインがゴルトベルク変奏曲という長大な作品であるため、演奏者/聴衆にとって、それぞれ指慣らし耳慣らしの効果もあったようです。

その後いよいよゴルトベルクが始まりました。

マロニエ君の記憶が間違いでなければすべてのリピートを敢行され、その演奏時間は80分ほどに及びましたが、いまさらながらバッハの偉大さ、さらにはこの特異な作品の偉大さを、二つながら再確認することになりました。
くわえて、しみじみと実感することになったのは、この孤高の大曲をステージで演奏することの大変さです。
聴くほうはあまりにも馴染み深く、あまりにも美しい曲であるため80分という時間がサーッと流れ去ったようでしたが、演奏者においてはおそらくその限りではない筈で、これを通して弾くというのは並大抵のことではなく、最後のアリアが鳴り終わったとき、心から「お疲れ様でした」と一礼したいような気持ちになりました。

本来なら演奏を終えたピアニストに対して少しピントのずれた感想だったかもしれませんが、ゴルトベルク変奏曲を聴衆を前に一気呵成に演奏するということは、まるで禅僧が厳しい修行へと身を投じて事を成し遂げるような、上手くは言えないけれどそういった我が身と精神を敢えて追い込み、その果てにある何かを捉えようとするような、少なくともただピアノを弾くということとは少し違う意味合いも含んだ独特な行為のようにも感じました。

普通のソナタや組曲と違い、変奏曲というものがもつ切れ目のない継続性、始まったらそのまま息つく暇もない一幕物のオペラのような絶えざる緊張、それに伴う心身の消耗や忍耐など、美しい音楽とは裏腹に演奏者へ容赦無く襲いかかる苛酷さみたいなものがひしひしと伝わり、やはり「お疲れ様でした」という気持ちになってしまうのでした。

山田さんの演奏で印象深かったことは、バッハに対する特別なリスペクトと情愛がストレートに伝わる点。
近頃では精巧な機械のように動く指を武器に、何かのコピペのような無機質な演奏をやってみせる若手が多くてうんざりさせられることの多い中、山田さんの演奏はまさに一期一会の肉筆画が描かれていくようで、肌で聴く味わいがありました。

また現代のコンサートピアノの性能は十全に活かしつつも、ペダルはほとんど使われないスタイルを貫かれ、清々しい真剣勝負に立ち会っているようでもありました。
ずっと足下を凝視していたわけではないので見落としもあるかもしれないけれど、最後のクォドリベッドに至ってようやく右ペダルを少しだけ踏まれたとき、まさに万感の思いへと立ち至るようでした。

昔は同曲のピアノによる録音といえば、いきなり金字塔を打ち立てたグールドはじめ、テューレックやケンプなど数えるほどだったものが、最近では実に多くのピアニストが次々にこれを弾くようになり、マロニエ君も懲りずにかなり買い込んでいるところですが、CDの数に比べてこれをコンサートでやろうという人は実はそれほど多いという印象には至っていません。
録音なら各変奏ごとにいくらでも録り直しがききますが、聴衆を前にしたいわば一度きりの挑戦ともなると状況は一変するためか、それほど実演機会が多くはないようです。

CDといえば、時期を隔てて二度目の録音するピアニストも多く、ぱっと思いつくだけでもグールド、シフ、シェプキン、シャオメイ、メジェーエワなどの名が浮かびますが、メジェーエワの新録音は今回の山田さんと同じく、すべてのリピートを弾いている由で、こちらのCDはまだ未入手ですが、やはりCD収録時間ぎりぎりの約80分とのこと。

また、シャオメイの名を出して思い出したのは、CDではまことに慈悲深い見事な演奏をやっていますが、いつだった北京のホールで行われたライブ映像では、かなりの乱れなども散見され、この緻密な織物のような大作をステージ上で御することの難しさを痛感したこと。

まさに音楽の巨大な世界遺産のひとつでもあるし、鍵盤楽器のための美しすぎる受難曲のようでもあり、とても素人が生噛りできるようなものではありませんが、「弾ける方」にとってはこれほど挑戦しがいのある作品もないでしょうね。
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