クラビアハウス-2

前回のクラビアハウス訪問記で書ききれなかったことをいくつか。

知人がネット動画の音を聴いてこれだと目星をつけていたのは戦前のグロトリアンシュタインヴェークだったのですが、実物に触れてもそこに食い違いはなかったようで、あっさりこれを購入することになりました。
もちろん、他の3台も触って音を出してみた上でのことですが、各ピアノの個性やタッチなどから、この1台に決したのは極めて自然なことだと思われました。

それほどそのグロトリアンは1台のピアノとしての完成度が高くて自然でした。
曲や弾き手を広く受け容れる懐の深さがあり、いい意味でのきれいな標準語を話すようなピアノでしたから、なにか突出した個性を得るためその他のなにかを犠牲にするということがまったくないピアノだというのが率直なところ。

あくまでも個人的な意見ですが、ベーゼンドルファーやプレイエルは、これらのピアノに思い入れがあるとか、すでになんらかのピアノを持っている人が、さらに自分の求める方向性を深く追求するために購入するには最高のチョイスになり得ると思いますが、そうでない場合はもう少し普遍的な要素を持ったピアノのほうが賢明かもしれません。

その点では、中間的な個性かもしれないのがブリュートナーで、一応どんな音楽にも対応できるピアノではあるけれど、それでもなおドイツ臭はかなりあるので、弾き手の趣味や好みの問題が出てくるとは思います。
艷やかで量感のある音なので、やはりドイツ音楽が向いていそうで、とくにバッハなどには最良かもしれません。

ドイツ臭といえば、工房で修理中であったアートケースのベヒシュタインはさらにその上をいくもので、発音そのものがまるでドイツ語のアクセントのようでした。ちょっとベートーヴェンなどを弾いてみると、うわぁと思うほどその音と曲がピタッと来るので、やはり生まれというのはどうしようもないもののようです。
そういえばマロニエ君がバックハウスの中でも最も好きな演奏のひとつである、ザルツブルク音楽祭でのライブ録音のヴァルトシュタインは、いつものベーゼンドルファーではなく、なぜかベヒシュタインのEで、それがまたいい具合に野性味があって良かったことを思い出しました。

その点でいうと、スタインウェイは何語ともいいがたい音だと言えそうで、強いて言うなら、もっとも美しい英語かもしれないし、あるいは何カ国語も流暢に話せるピアノかも。それでもニューヨークはまだアメリカ的要素があるけれど、ハンブルクはまさに国籍不明。

さて、そのベヒシュタインのところで話題になったのが響板割れについてでした。
マロニエ君は響板割れというのは目に見える響板のヒビや割れのことだと思っていたのですが、そればかりではないということを聞いたときは意外でした。

ヴィンテージピアノの多くには響板割れはしばしば見られるもので、それらは必ずしも見てわかるものではなく、冬場だけ木が収縮してようやくわかるものがあるなど状態もさまざまで、目視だけでは油断はできないのだそうです。
クラビアハウスではピアノを修理する際、この見えない響板割れを突き止めるために、特殊な液体を使って割れの有無を確かめるのだそうで、新品のようにレストアされたプレイエルにも、よく見ると響板割れをきれいに埋め木で補修した跡があり、こうして手を入れることでピアノは人間よりも長い寿命を生き続ける楽器であることがよくわかります。

ここのご主人は、驚いたことにこの10年の間に40回!!!ほどもピアノの仕入れのためにヨーロッパへ行かれたそうで、その際には裏の裏まで徹底的にピアノをチェックして納得のいくものだけを購入される由で、一度に多くても2~3台、場合によってはゼロで帰ってくることもあるとのことでした。もちろんその納得の中には、ピアノの状態に対する価格の妥当性という面もあるのだとは思いますが、とにかくその手間ひまたるや気の遠くなるような大変なものというのが率直な感想です。

前回も少し触れましたが、ここの価格は望外のもので、疑り深い人はその安さから不安視することもあるかもしれないと思うほどですが、マロニエ君の結論としては、購入者はピアノの状態を見て聴いて触れることは当然としても、お店の方の人柄とかピアノに対するスタンスというものが、もうひとつの大きなバロメーターになると思います。
というのも、ピアノのような専門領域を多く含んだものを購入する場合、すべてを素人が自分でチェックすることはまず不可能で、あとはお店に対する信頼しかないわけです。
とりわけヴィンテージと言われるピアノになればなおさらで、修理や調整を手がけ、すべてを知り尽くした人だけが頼りです。

最後に、ヴィンテージピアノといっても、きちんと適切な修理調整をされたものは、けっして一般的なイメージにある古物ではないことを強調しておきたいと思いますし、下手をすれば人工合材の寄せ集めのような新品ピアノなどより、この先の寿命もよほど長いかもしれません。
今回弾かせていただいたいずれのピアノも(とくに3台は戦前のもの)、古いピアノにイメージしがちな骨董的な雰囲気とか、賞味期限を過ぎたもの特
有のくたびれた感じなどは皆無で、90年ほども前のピアノという事実を忘れてしまうほど健康的でパワーがあって、少なくとも自分の命のほうが短いだろうなぁと思えるものばかりでした。
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クラビアハウス

横浜のクラビアハウスに行ってきました。
ここはマロニエ君が数年前からホームページ上で注目していたピアノ店で、いつか機会があれば行ってみたいと思う筆頭候補だったのですが、このたびふとしたことから念願が叶いました。

この店はご主人自らヨーロッパに出向き、自分の納得のいくピアノを買い付けては日本に送り、工房でじっくり時間をかけて仕上げたものを順次販売するというスタイルのようです。
ホームページでは、仕上がったピアノを紹介する際に必ずと言っていいほど演奏動画が添付されており、マロニエ君はこれまで、ここの動画のあれこれをどれほど見て聴いて楽しませてもらったかわかりません。

特別な装置で撮られたものではないようですが、パソコンのスピーカーで聴くだけでも、それぞれのピアノの特徴が思いのほかよくわかり、飽きるということがありませんでした。

知人がヴィンテージピアノに興味を抱いているようなので、ならばとここのホームページを教えたところ、その中の一台の音色にすっかり魅せられたらしく、たちまち航空券等の手配をして、すぐにも横浜に行く手はずを整えてしまいました。
それで、かねてよりマロニエ君自身も行ってみたいピアノ店であったことから、それならというわけで同行することになったのです。

こういうチャンスでもないと、購入予定もないのに、興味に任せてピアノ店を訪れて話を聞いたりピアノを弾いたりするという行為があまり好きではないし、まして近い距離でもないので、今しかないかも…というわけで思いきって腰を上げた次第。

クラビアハウスは保土ヶ谷区の住宅街にあってわかりにくいということから、ご主人自ら最寄り駅まで車でお出迎えくださり、お店へとご案内いただきました。

表にはかわいらしい花々が咲き乱れ、まるでヨーロッパの小さなピアノ工房を訪れるような感じ(行ったことはないけれどあくまでイメージ)で、控えめな入口をくぐると、そこには眩いばかりにいろいろなピアノがずらりと並んでいて、やはり普通のピアノ店でないことは一目瞭然でした。
普通は外観は派手でも、中に入ったらガッカリということが少なくないけれど、クラビアハウスはまったく逆で、さりげない店構えに対して中はまさにディープなピアノがぎっしりという驚きの店でした。

入り口から左手には工房があり、右手には仕上がったピアノが所狭しと並んでいます。
どれも技術者の手が惜しみなく入ったピアノだけがもつ独特の輝きがあり、この工房でいかに丁寧に仕上げられたピアノ達かということが物言わずとも伝わってきました。
グランドに限っても、このときベーゼンドルファー、ブリュートナー、プレイエル、グロトリアンシュタインヴェークという、綺羅星のような銘器が揃っていましたし、さらに工房には作業中と思しき六本足の華麗なアートケースをもつベヒシュタイン、さらにはもう1台ブリュートナーがありました。

展示スペースにある4台のグランドのうち、ベーゼンドルファーとプレイエルは我々のために試弾できるよう急遽組み上げられたのだそうで、こまかい調整はあくまでこれからとのことでしたので、この2台については多少そのつもりで見る必要がありそうでした。
ごく簡単に、それぞれの印象など。

《ベーゼンドルファー》
調整はこれからという言葉が信じられないほど、軽くてデリケートなタッチとソフトな音色はまさにウィーンの貴婦人のようで、他のどのピアノとも違う、ベーゼンドルファーの面目躍如たるものを醸し出すピアノ。こういうピアノでひとり気ままにシューベルトなどを弾いて過ごせたら至福の時でしょう。
1922年製の170cm。外装は黒から木目仕様に変更されたものらしく、普段なかなか目にすることのない渋い大人の色目で、淡い木目を映し込んだ美しいポリッシュ仕上げ。

《プレイエル》
マロニエ君の憧れでもあるプレイエル。さりげない寄木細工のボディ、シックで控えめな色合い、明るさの中にも憂いのある独特な音色と、よく伸びる次高音など、いまさらながらショパンがサマになる、フランスというよりもパリのピアノ。
惜しむらくはタッチがピアノの個性に似合わず全体に重めで、このあたりが調整途上である故かと納得する。
新品のように美しかったが、聞けばかなりの状態からここまで見事に蘇ったとのことで、その高い技術力に唸るばかり。

《グロトリアンシュタインヴェーク》
この日の4台の中で、最もバランスに優れ、違和感なくヴィンテージピアノを満喫できるのは、おそらくこれだろうという1台。グロトリアンはスタインウェイのルーツともいえるメーカーで、クララ・シューマンやギーゼキングが愛用してことでも有名。
その音色は最もスタインウェイ的な華と普遍性が感じられ、ピアノとしてのオールマイティさはグロトリアン時代から引き継がれたこの系譜のDNAであることがわかる気がした。
その音色は甘く温かく、過度な偏りのない点が心地よい。

《ブリュートナー》
このメーカー最大の特徴といえるアリコートシステムをもつため、芯線部分は通常が3本のところ、4本の弦が貼られているためやたら弦やピンが多い印象(ただし実際に打弦されるのは3本)。全体に手応えのあるタッチと、それに比例するような強めのアタック音と、実直さの中に艶やかさが光る音色。
明るめの美しい木目仕様で、フレームには亀甲型の穴と、鮮やかな青いフェルトが鮮烈な印象を与える。
1978年製の165cmで、この4台の中では最も製造年が新しく、ヴィンテージというにはやや新しめの音かもしれない。

~以上どれもが本当に素晴らしいものばかりで、いつまでもその余韻が残るようなピアノ達でした。

ちなみにクラビアハウスで注目すべきは、その品質の良さだけでなく、かなり良心的な価格でもあることで、これは購入検討する際には見逃せない点だと思います。
実際もっとクオリティの劣るピアノを、はるか高値で売る店はいくらでもあるので、なんと奇特なことかと思いますが、ここのご主人のおっとりした飾らないお人柄に触れていると、それも次第に納得できるようでした。

ヴィンテージピアノに興味のある方は、一度は訪ねておいて損はない店だと思います。
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譜面立ての不思議

概ね気に入っているシュベスターではありますが、このピアノを弾いていて、ひとつだけひどく不自由に感じるところがあります。
それはアップライトピアノ全般に言えることなので、とくにシュベスター固有の問題点とは言えないのですが、譜面立てに関すること。

グランドピアノの場合は、水平に畳まれた譜面台を使用時に引き起こして(自分の好きな角度で)使いますが、アップライトの多くは鍵盤蓋の内側に細長い譜面立てが折り畳まれており、使用時はそれを手前に倒して、そこへ楽譜を載せるというスタイル。
(そうではない形状の譜面立てをもつアップライトもありますが、鍵盤蓋内側のものが圧倒的多数)
楽譜を置く部分はグランドの場合は水平であるのに対して、アップライトの場合は構造上の問題からか、かなりの角度(傾き)がついています。

それだけでも少し使いにくいのに、その細長い板の手前側の縁がわずかにせり上がるように作られており、これはおそらく楽譜が不用意に滑り落ちないための配慮のつもりだろうと一応は推察されるけれども、これが決定的にいけません。

というのも、弾きながらページをめくるときは、できるだけ曲が途切れないよう、手早くサッと一瞬でめくるものですが、その譜面台前縁のせり上がった部分に楽譜が干渉してひっかかり、その部分が強く擦れてシワになって、みるみるうちに楽譜の下の部分が傷んでしまうばかりか、最悪の場合は破れることもじゅうぶんありそうです。

グランドの譜面立てではそんな不都合は一切ないのに、なぜアップライトではこういう理解に苦しむ作りになっているのか、まるで合点がいきません。
その譜面台の板の角度がもし水平で、表面がツルツルなら、あるいは楽譜が滑り落ちる可能性があるというのもわかりますが、この手の譜面立ては「鍵盤蓋に対して直角に開くよう」になっています。
そこで問題なのは、アップライトピアノの標準的な鍵盤蓋は、グランドのように垂直に開くのではないこと。
直角よりも後ろへ寝かすように開きますから、その鍵盤蓋に直角に取り付けられた譜面立ては、横から見るとおよそ30度ぐらいの角度がついていて、滑り止めの前縁などなくても楽譜が落ちることはまず考えられません。

ではもし、そのせり上がった前縁がなければいいのかといえば、そうでもなく、鍵盤蓋がカーブして手前に伸びた部分に楽譜の背が当たるので、そのぶん角度がついて、どっちにしろ楽譜はめくれば譜面立てに干渉することは避けられません。

それにくわえて、わざわざ滑り止めの縁まである!
つまり「角度」と「滑り止めの縁」というふたつの理由から楽譜をサッとめくることができず、毎度毎度、楽譜の下の部分がその縁に引っかかっては皺になってしまうのが使いにくいし、それがいやならいちいち楽譜を持ち上げてページをめくる必要があります。
こういうことは、ピアノを弾くにあたってかなりのストレスにもなり、これは構造的な欠陥だと断じざるを得ないのです。
しかも、メーカーを問わずアップライトピアノの場合、多くがこのスタイルになっているのは、まったく不可解という以外にありません。

ピアノの製作者のほうには、楽譜を「めくりやすく」という実践的な考えや見直しがないのか、とにかく使う人のことをまったく考えていない構造だというのがマロニエ君の結論です。

試しにそこへ細長い板を置いてみましたが、前縁に干渉しない高さなっても、前述のように楽譜が鍵盤蓋のカーブに当っているために角度が生じて要るため、やはり楽譜は譜面立てそのものに干渉してしまいます。そこで、奥に鉛筆を一本置いてその上に板を乗せて角度をなだらかに変えてみると、これでようやく楽譜をスムーズに(つまりグランドと同じように)めくることができました。

ほんらい、ありのままで問題なく使えるのが当たり前であるはずなのに、このように二重の欠陥を有しながら、何十年も改善されることなく放置されていることにはただもう驚くばかりで、それは日本の大手のメーカーも同様なので、なぜこんな使いにくいスタイルがスタンダードになっているのか、まったく理解に苦しみます。

悪趣味で鬱陶しいカバーなどを何十種も作るより、こういう機能改善をするためのグッズでも販売してもらいたいものです。
むろん、メーカーが使いやすい譜面立てを考案・制作してくれることが一番ですが。
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シュベスター近況

中古ピアノの買い方としては、ネットオークションという、いわば最悪というか、一番やってはいけない方法で入手したシュベスター。

ピアノを買うにあたり、実物を見ることも触れることも音を聴くことも一切せず、写真のみで入札ボタンを押してしまった無謀きわまりないやり方です。とくに中古品はどんな使い方をされてきたかもわからないし、コンディションもバラバラで、とんでもないピアノかもしれません。
いや、とんでもないピアノであるほうが確率は高く、そうでないことのほうが珍しいかも。
まして素人の場合、もし実際に見て触れたとしても、プロのような正しい判断ができるわけではなくじゅうぶん危険なのに、ほとんどやけっぱち同然で入札〜ゲットしたのですから、よくもそんな無茶なことをしたものだと、いま考えると自分で呆れます。

しかも出品者はピアノ業者でも個人オーナーでもなく、家具などを扱うリサイクル店だったため、楽器の知識などもない相手でしたから、質問なども諦めておりまさに冒険でした。

写真から、濃い目のウォールナットのそれは、外観はあまりいい感じではないことは見てわかりましたが、それでもこのとき、無性にシュベスターという日本の手造りピアノが欲しいことに気分は高揚し、値段も大したことないことも拍車がかかってこのような暴挙へとなだれ込んだ次第でした。
とくに響板には、その性質が最も適しているとされながらも、厳しい伐採規制で量産品では不可能とされる北海道の赤蝦夷松を使っていること、設計はベーゼンドルファーのアップライトを手本としているらしいことも大いに魅力に思われました。

落札から約2週間後、外装の補修のため、ピアノ塗装をメインにする工房(木工作業塗装一級技能士の資格をお持ちの技術者)に届けてもらったシュベスターは、さっそくプロのチェックを受けることに。
果たして楽器としての内部的な部分はこれといった問題もなく、外装の補修のみで納品できるとのことで、これは望外のうれしいビックリでした。
実を言うと、とんでもないものが来るのではないか(響板割れやピンルーズなど)という不安もあり、一応それなりの覚悟はしていたのですが、いずれの問題もないという報告で、この点は非常にラッキーだったとしか云いようがありません。

塗装工房では他のピアノの作業との兼ね合いもあってずいぶん時間がかかりましたが、この道のスペシャリストの方の丁寧な作業のおかげで、見違えるほど美しく蘇り、いまも自室のデスクの真後ろにシュベスターは静かに佇んでいます。

やはり自分の部屋にピアノがあるというのは、ピアノに触れるチャンスが圧倒的に増えるもので、以前よりピアノを弾く時間がずっと増えたような気がします。とはいってもマロニエ君の低次元の話であって、これまで5~10分ぐらいだったものが、せいぜい30分前後になったという程度ですが。

よくある某大手メーカーのアップライトは、高級機種とされるものでも弾いてみてぜんぜん楽しくないですが、シュベスターはなによりもまず弾きたい気持ちにさせてくれるところが、このピアノ最大の特徴のように思います。

そして、多少の失笑を買うことを覚悟でいうと、たしかにベーゼンドルファーに通じる雰囲気がちょっとだけあるし、音を出すだけでもとても楽しく、ピアノと対話しているような感覚が途切れないところがなんともいえません。
生意気に曲との相性もあったりして、バッハやベートーヴェン、シューベルトなどはいいけれど、ショパンはどうにもサマにならないところもベーゼンのようで、つい笑ってしまいます。

納品前の整音は、とりあえずソフトな音を希望していたので、しばらくはそんな音でしたが、2〜3ヶ月もするとだんだん弦溝が深くなり、艶めいた輪郭のあるよく通る音色になってきて、より個性的になっています。

今回のようなギャンブル的な買い方は絶対に人にすすめられることではないけれど、大量生産の表情のない音が出るだけのピアノがどうしても嫌だという方には、シュベスターは自信をもっておすすめできると思います。
そこそこの値段だし、それこそ磐田に行って注文すれば、貴重な材料を使った手造りピアノが今でも新品で手に入るわけで、こんな素晴らしい道がか細いろうそくの光のようではあるけれど、かろうじて残されているのは嬉しいことです。
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二人のブラームス

休日には、ときどきテレビ番組の録画の整理をすることがあります。
これをしないと録画はたまる一方で、つまり見る量が録画する量に追いつかないということ。

BSプレミアムのクラシック倶楽部も例外ではなく、毎日の録画の中から実際に見るのはほんの一握りに過ぎません。
タイトルだけ見て消去するものもあるけれど、いつか見てみようとそのままにして何ヶ月も経ってしまうこともしばしばで、そんな中からある日本人著名ヴァイオリニストの演奏会の様子を見てみることに。

曲は、ブラームスのヴァイオリン・ソナタの第1番と第3番。
インタビューの中でも自分にとってブラームスは最も身近に感じる存在などと語っていて、彼女にとって特別な作曲家であるらしく、実際の演奏もよく準備され弾き込まれた感じがあり、とくに味わいはないけれども普通に聴ける演奏でした。
ピアノはえらく体格のいい外国人男性で、これらの曲のピアノパートの重要性を意識した上で選ばれたピアニストという感じがあり、両者ともに、いかにもドイツ音楽っぽくガチッとまとめられた印象。

身じろぎもせずにじっと聴き入っていたわけではなく、その間お茶を呑んだり、新聞を見たり、雑用をしながらではありましたが、自分なりにちゃんとステレオから音を出して、いちおう最後まで聴いてから「消去」しました。
さて、次はと思って見たのは、同じ女性ヴァイオリニストで、こちらはジャニーヌ・ヤンセンの来日公演でした。

冒頭鳴り出したのは、なんとさっきの2曲の間を埋めるように、ブラームスのヴァイオリン・ソナタの第2番で、その偶然に驚きましたが、それ以上に驚いたのは、あまりの演奏スタンスの違いというべきか、湧き出てくる音楽のやわらかさであり自然さでした。
専門家などに言わせればどういう見解になるのかはわからないけれど、ブラームスが本来目指したのはこういう音楽だったのだろうと、マロニエ君は勝手に、しかし直感的に思いました。
少なくともさっきのような、動かない銅像みたいな演奏ではないはず。

変に頑なな気負いがなく、呼吸とともに音楽が流れ、とにかく自然でしなやか。
それでいて自己表現もちゃんと込められている。
ピアノのイタマール・ゴランも、マロニエ君はどちらかというと好きなほうのピアニストではなく、とくに合わせものでは相手を煽るようなところがあったり、ひとりで暴走するようなところがあるけれど、さっきのガチガチの演奏が耳に残っているので、比較にならないほど好ましく感じました。

さっきの日本人は、ひとことで言うと冒険も何もなく、ただ正しく振る舞おうとしているだけの演奏で、これは日本人とドイツ人の演奏者によくあるタイプという気がします。
音大の先生の指導のような演奏で、それでもブラームスをリスペクトしてはいるというのは本当だろうけれど、音楽に必要な表現や語りがなく、いかめしい骨格となにかの思い込みに囚われていてる感じ。
その結果、聴く者に音楽の楽しさも喜びも与えず、ただ勉強したブラームスの知識を頭に詰め込み、信頼できる譜面の通りにしっかり弾いている自分は正しいと思い込んでいるだけで、演奏上のいろいろな約束事を守ることに一所懸命な感じばかりが伝わります。

それがヤンセンの演奏に切り替わったとたん、堅苦しい教室から外へ出て、自然の風に吹かれて自由を得たような開放感がありました。

最近の日本の若手のヴァイオリニストには、そういう点ではずっとしなやかに音楽に向き合う人も出てきているようだけれど、少し前の世代までの日本人の演奏家には、どんなに大成してもその演奏にはお稽古の延長線上のような、独特の「重さ」と「楽しくなさ」がついてまわる気がします。
せっかく美しい作品を奏でているのに、いかつい表情ばかりが前に出て、聴いていて美しい音楽に自然に身を委ねるということが、できないというか知らないんだろうという気がします。

テクニックも充分で、かなりいいところまで行っているのだけれど、悲しいかなネイティブの発音には敵わないみたいな、努力と汗にまみれた日本人臭がするのは、なんだか切ない気分になりました。
テクニック上では「脱力」ということがよく言われますが、それよりももっと大事なのは、音楽に精通した上で気持ちが脱力することではないかと思います。

マロニエ君はブラームスのヴァイオリン・ソナタは第1番がとくに好きだったけれど、演奏のせいか、今は第2番が一番好きな気がしてきました。
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4人のスターピアニスト?

毎週日曜朝の音楽番組『題名のない音楽会』で、「4人のスターピアニストを知る休日」と題する放送回がありました。
番組が始まると、この日はホールではなくスタジオのセットのほうで、てっきりそこへ4人のピアニストを呼び集めるのかと思ったら、すべて過去の録画からの寄せ集めで、まずガッカリ。

4人の内訳はラン・ラン、ユンディ・リ、ファジル・サイ、辻井伸行という、なんでこの4人なのかも疑問だけれど、そこはテレビ(しかも民放)なので、さほどの意味もないだろうと思われ、それを深く考えることなどもちろんしません。
残念ながら全体としてあまり印象の良いものではなかったので、書くかどうか迷いましたが、せっかく見たのでそれぞれの感想など。

【ラン・ラン】
この人のみ、この番組のスタジオセットの中に置かれたスタインウェイで弾いていましたが、これもどうやら過去の録画のようでした。
ファリャの「火祭の踊り」を弾いている映像でしたが、マロニエ君はどうしてもこの人の演奏から音楽の香りを嗅ぎ取ることはできないし、ハイハイというだけでした。
本人はどう思っているのか知らないけれど、聴かせる演奏ではなく、完全に見せる演奏。
必要以上に腕を上げたり下げたり、大げさな表情であっちを見たりこっちを見たり、睨んだり笑ったり陶酔的な表情になったり、とにかく忙しいことです。
テンポも、やたら速いスピードで弾きまくる様は、まさにピアノを使った曲芸師のよう。
それでもなぜか世界中からオファーがあるのは、慢性的なクラシック不況の中にあってチケットが売れる人だからなのでしょうけど、だとするとなぜこの人はチケットが売れるのかが疑問。

ただ、ラン・ランの場合、この見せるパフォーマンスには憎めない明るさもあり、「ま、この人なら仕方ないよね」という気にさせられてしまうものがあって、彼だけはその市民権を得てしまった特別な人という感じがあるようです。
ピアノを離れたときの人懐っこい人柄などもそれを支えているのかも。

【ユンディ・リ】
ショパンのスケルツォ第2番。こちらはホールでの演奏。
ショパン・コンクールの覇者で、ラン・ランのような能天気ぶりも突き抜けた娯楽性もないから、こちらは知的で音楽重視の人のように見えるけど、果たしてどうなんでしょう。
こちらもかなり早いスピードで弾きまくり、自分の演奏技能を前面に打ち出した、詩情もまろやかさもないガラスのようなショパン。
音楽的なフォルムは、音大生的に整っているようにも見えますが、細部に対する目配りや情感は殆どなく、これみよがしな音列とフォルテと技術の勢いだけでこの派手な曲をより派手に演奏しているだけ。
ショパンの外観をまといながらも核心に少しも到達せず、細部に宿る聴かせどころはすべてが素通りという印象。

ラン・ランとユンディ・リは相当のライバルと思われるけれど、ピアノを弾くエンターティナーvs優勝の肩書を持ったイケメンピアニストぐらいの違いで、本質においてはどっちもどっちという印象でしょうか。武蔵と小次郎?

【ファジル・サイ】
なにかコンチェルトを弾いた後のアンコールと思われるステージで、お得意のモーツァルトの「トルコ行進曲」をジャズ風にいじった自作のアレンジ。
好き嫌いは別にして、この人がこういう事をするのは非常にサマになっているというか、ツボにはまった感じがあって、コンポーザーピアニストでもある彼の稀有な才能に触れた感じがあるのは確かです。
このサイによる「トルコ行進曲」は人気があって楽譜が出ているのか、何度か日本人ピアニストが弾くのを聴いた事があるけれど、ただのウケ狙いと、これが弾けますよという腕自慢としか思えないものばかりではっきり言ってウンザリするだけ。
ところが、本家本元はさすがというべきで、全身から湧き出る音とリズムには本物の躍動があり、余裕ある圧倒的な技巧に支えられて、聴くに値するものだったことに感心。
今回の4人中では、唯一もう少し他の曲も聴いてみたいと思わせるピアニストでした。

【辻井伸行】
こちらもコンチェルト演奏後のアンコールのようで、ベートーヴェンの「悲愴」の第2楽章。
この超有名曲にして、あまりに凡庸な演奏だったことに面食らいました。
この人はある程度の音数があって、速度もそこそこある曲をノリノリで弾くほうが向いているのか、こういうしっとり系で酔わせてほしい曲では彼の良さがまったく出てこないことが露呈してしまったようでした。
きちっとした思慮に裏付けられた丁寧な歌い込みや、心の綾に触れるような深いところを表現することはお得意でないのか、あまりにもただ弾いてるだけといった感じで、辻井さんのピアノの魅力や美しさを受け取ることはできず、肩透かしをくらったようでした。

~以上、あまり芳しい感想ではありませんでしたが、まあそれが正直な印象だったのでお許しください。
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