魔性の音造り2

どんな世界でも共通することだろうと思いますが、基本を正しく理解して、そこそこ間違っていない事をやってさえいれば、ある程度のレベル達成までは比較的順調にいくものです。さらにそこに磨きをかけて洗練を目指すことも、手が慣れてくれば、おおよその要領もわかって、これもできないことじゃない。

ところが…。
さらにその上のあと一歩か二歩をよじ登ろうとすると、これがどうにも手に負えない鉄壁であることを思い知らされ、まずだいたいはそのあたりで挫折を味わうようになるというのが常道的な図式ではないでしょうか。
つまりその最後のたかだか一歩か二歩に到達することは、実はこれまでの全行程よりも困難だということでもあるようです。ハイエンドクラスの高級品が法外なようなプライスを堂々とぶら下げることができるのも、つまりはこの最後の鉄壁を凌駕している事への勲章みたいなものでしょうね。

このスピーカー作りで学んだことのひとつもまさにそこで、普通で云うなら、自分で云うのも憚られますけれども、なにしろ第1作にしてはそこそこのものは出来ていると思います。
試しに、ある夜、我が家にやってきた友人に聴かせたらこっちが意外なほど感激してくれて、空間を満たす音楽の奔流にただただ圧倒されているようでした。

黙って聴いて、いきなり変な質問をされました。
「もうひとつ同じものを作れといわれたら作れるか?」と。作り方も材料も全部わかっているので「そりゃあもちろんできるよ」というと、あまり音楽に関心のない彼が、「ぜひ自分にも作って欲しい」と嬉しい事を云ってくれました。

彼はマロニエ君が夏頃からスピーカー作りに尋常ならざる意気込みで入れ込んでいるのをそれとなく知っていましたし、性格的にもやる以上はそこそこ物事を追求するタイプなので、それなりのものは出来ているだろうぐらいには思っていたようでした。
ただ、それでもしょせんは素人の手作りなので、要は「手作りケーキの域」は出ないだろうと思っていたらしいのですが、彼の耳に聞こえてきたものは予想を覆すものだったようで、本当に驚いてくれて、こっちがびっくりでした(マロニエ君自身は手作りケーキの域だと自認していますが)。
おまけに自分にも作って欲しいとまで云ってくれたのはまったく望外のことでした。

したがって、そういうふうに感激してもらえたことは嬉しいことですが、それはそれ。マロニエ君としてはまだ自分が納得していないので「よしわかった」と友人のためにもう一台作るわけにもいきません。

そうはいっても、もはやマロニエ君のシロウト作業では限界に近づいているというのもわかっていますが、あとやってみたいことはいくつか残っていますので、やはりそれをこれから先、やってみないことには終止符は打てないようです。

毎夜、部屋の中央に佇むスピーカーを見たらいじりたくなるけれど、同時にもう触るのもこりごりという気分になるときがあるのも事実で、もはや自分がどうしたいのか自分でわからないときもあるのが事実。
気が付いてみると、このスピーカー作りおかげで、このふた月以上というもの、ほとんどピアノも弾いていませんでした。それも当然で、これだけスピーカー作り時間を費やせばピアノなんて弾く時間はまったくないのは当たり前なわけです。

先日、久しぶりにちょっとピアノの前に座って何だったか忘れましたが弾いてみたら、驚くほど指が動かなくなっていることに我ながら愕然としました。
ま、別にそれでどうなったって構やしません。自分が愉快に過ごしていられればそれが一番ですし、このスピーカー作りはマロニエ君にとっては予想に反して、いろんな意味で貴重な体験となり、勉強になったことは紛れもない事実ですから、あれこれお試しの連続でコストも相当かかりましたが、自分にとってムダではなかったと思っています。
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魔性の音造り1

スピーカーの音造りというのは、やってみるまでは、どちらかというと繊細な作業の繰り返しかと思っていましたが、実際には結構な重労働であるのに驚かされました。通常の、いわゆる箱形のスピーカーの場合はしりませんが、少なくとも円筒形スピーカーに於いては、力勝負が続いてどうかすると全身がワナワナしてきます。

こういう作業は、ほんらいマロニエ君の趣味ではないのですが、それでもいったんやり始めると「もう少し」「あと一回だけ」というような、無性に追いつめられたような意地っ張りみたいな気分に駆られて、そこから抜けられなくなるものです。
考えてみるに、「音を作る」という行為には、大げさに言うと一種の魔性があるのかもしれません。
自分の手を下したことが微妙な音の変化としてあらわれてくるのは、これまでに体験したことのないもので、これは不満と満足、挑戦と挫折の織りなす興奮状態でもあり、不思議な魔力みたいなものがつきまといます。その後も性懲りもなく吸音材を足したり引いたり場所を変えたりと、周りからみれば呆れられるような抵抗を続けています。

とはいっても、基本的に素人のマロニエ君にはスピーカーユニットそのものに手を加えて改造するようなことはできませんから、今やっていることは要するに吸音材による音造りのセッティングと云うことになるわけですが、これがもう一度もう一度と繰り返すうちに、この作業をすでに何十回やったのか、もう自分でも遙かわかりません。

ちなみにスピーカーにおける吸音というものは、スピーカーの音や響きを決定付ける重要な項目で、なにもしない裸のスピーカーユニットは好ましくない雑音を多く排出しており、ここからいかに要らない音を取り除いて必要なクリアで美しい音だけを残すかということになるわけですが、この局面こそがスピーカー製作の醍醐味だろうと実感しています。

新たな挑戦のたびに筒からスピーカーの内部構造を引き出しては、吸音材の付け方や、素材、量、位置を変えたり、ときには重りの量の変更、そしてまた元に戻したりと、自分でも何が正しくて何が間違っているのか、まったくわからないわけです。

例えばアルミ管の内側に貼り付ける吸音材だけでも、なにも無しからスタートし、固いスポンジ状の素材、カーペット素材、オーディオでは定番のニードルフェルト、エプトシーラーという素材まで5種類試してみましたし、その量の変化を加えると試行数はさらに増えたことになります。

もちろん自分としてはやみくもにやっているわけではなく、やるからには良かれと思ってふうふう言いながら試しているわけで、そのたびに音や響きに僅かな変化が現れて、一喜一憂を繰り返します。それを聞き分ける耳も鍛えられて次第に精度を増す反面、どこか麻痺してくるようでもあり、さっきは良いと思った音が、30分もするとやはり変じゃないかというような悪循環に陥ります。

アルミ管の内側よりさらにやっかいなのは、仮想グランドという、スピーカーから伸びる1m近いボルトとナットによって構成される部分の吸音です。これも実に様々な素材を試しましたが、これだという決定打は未だありません。巻き付ける吸音材の量の違い、紐で縛るその力加減による違い、紐の材質など、まさに数学で言う順列組み合わせの世界で、まるでキリがないわけです。

ひとつ何かをやってみるには、いちいちアンプからスピーカーコードを外して、重い重量物を引っぱりだして何らかの改造をしたら、また逆の作業をせっせと経てアンプに繋ぎ、今度こそはと音を出してみます。
そしてその違いに耳を澄まし、悲喜こもごもの感想を自分なりに下して、問題点を整理し、次の作業にとりかかります。あまりに疲れるとそのまま数日間放置する、そしてまた手をつけて、もうこんな馬鹿馬鹿しいことはやってられない!やめた!という決心をするのですが、2、3日も経つと「…やっぱり、あそこをちょっと変えてみようか…」という気になってくるわけです。

まさに取り憑かれているわけで、だんだんスピーカーが疫病神のようにも思えてきますが、それでもやめられなくて次の方策を講じているのですから、音作りというものそれ自体がよほどの魅力があるというべきでしょう。あるいは自分の手で「音を作る」ということを初めてやってみて、その苦悩と魅力にすっかり魅せられているのかもしれず、これは大人のハシカみたいなものかもしれません。

ピアノの技術者さん達とはやっていることはまったく違いますけれども、どこか通じるところもあるようで、彼らの悪戦苦闘の苦しみが少しわかるというところでしょうか。

映画『ピアノマニア』でシュテファン氏が取り憑かれたようにエマールの満足する音造りを繰り返し、昼夜を厭わず、孤独に挑戦を続けている気持ちの片鱗みたいなものが、ちょっぴりわかるような気がしました。
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偏見

ネット上にはいろんな質問や相談事を受け付けるところがあり、ピアノのことも結構取り上げられています。随時さまざまな回答者が登場しては思い思いの持論を展開していて、それは読む側も楽しいものです。

面白い質問&回答がたくさんありますが、そのうちのひとつに、スタインウェイの一番小さなグランドとヤマハのSシリーズだったらどちらを目標(購入するための)にすべきかという相談がありました。

この両者、価格はかなり違っていますが、スタインウェイでは最小モデルに対して、片やヤマハのプレミアムシリーズであり、サイズでいうと中型というところで、総合的見地からどっちがいいかというわけでしょう。

多くの回答者からさまざまな書き込みがあり、それを読んでいると面白いことがたくさん書いてあるのですが、そんな中に、この手の回答でよく目にする、いかにも正論のような論調ではあるけれども、ちょっと首を捻りたくなる主張があり、それはほかでもときどき見かけるお説です。

曰く、ピアノで最も大事なことは調整の問題であって、とくに調整如何によってピアノはどうにでも変わるのであるから、従ってブランドに頼ってはいけないという、とりあえず本質を突いたかのような意見です。
管理と調整がいかに大切であるかは、むろんマロニエ君も日頃から痛感していることで、調整の巧拙はいわばピアノの生殺与奪の権を握っているといっても過言ではないと思います。

ところが、この手の質問の回答者の多くに見られる傾向は、スタインウェイではなぜか調整は悪いであろうという予断と偏見があり、そこへ「ヤマハでも丁寧に調整されたものはじゅうぶん素晴らしい」のであって、従って問題はメーカーではない!という論理を展開される片がいらっしゃいます。
さらには「調子のいいヤマハは不調のスタインウェイを凌ぐ」的な発言もみられますが、調整の良否は個々の楽器の状態にすぎず、こういう較べ方はちょっとフェアでない気がします。

不可解なのはどうして同じコンディションでの比較をしないのかということです。
大事な点はそれぞれ理想的に調整されたスタインウェイとヤマハ(機種はともかく)を比較して、果たしてどちらがよいかという話になるべきで、不調のスタインウェイを基準として、だからそれを欲しがるのは名前だけが頼りのブランド指向では?…などと言ってもナンセンスだと思うのです。

調整はどんなピアノでも例外なく必要なものであるのは論を待ちません。
それぞれのメーカーのピアノが最も理想的な調整を受けて、その持てる能力を十全に発揮できている状態で比較したときに、果たしてどちらが弾く人にとって価格を含めた総合的価値があるかという点で冷静な判断をすべきだと思います。

スタインウェイというのは圧倒的なブランド力があるためか、どうかすると必要以上に叩かれるという一面はあるように思います。たしかにマロニエ君も、いつもトップに君臨して、それが当然みたいな在り方というのは人でも物でも嫌いで、ある種の反発さえ覚えますが、それでもその実力がいかなるのものかという点はやはり固定観念や偏見抜きに、真価を正しく理解する必要が大いにあると思います。

偏見を取り払って公正な判断ができたときにようやく見えてくるものこそが個性であり好みでしょう。
それがつまりは自分との相性だと思うのですが。
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グリモーのモーツァルト

購入して一度聴いて、ピンと来るものがないままほったらかしにしてしまうCDというのは、マロニエ君の場合、決して珍しくありません。

エレーヌ・グリモー&バイエルン放送響室内管によるモーツァルトのピアノ協奏曲第19番&23番もそんな一枚でした。一聴して、そこに聞こえてくる世界に、自分の好みというか、なにか体質に合わないものがあると感じてそのままにボツになってしまっていたわけですが、たまに積み上げたCDを整理するときに、こういうCDと思いがけず再会し、せっかく買ったわけでもあるし、もったいないという気分も手伝って再びプレーヤーへ投じてみることになりました。

やはり基本的には、最初の印象と大きく変わるところはありませんが、二度目以降は多少は冷静に聴くことも可能になります。なにが自分の求めるものと違うのかというと、ひとくちに云うなら、モーツァルトには演奏が非常に「硬い」と感じる点だろうと思われます。
彼女のレパートリーにも関連があるのかもしれませんが、これらのモーツァルトの協奏曲を自由に表現するには指の分離がいまいちという印象があり、軽やかであるべき(だと思う)箇所がいかにも硬直したような感じが否めないのは最も残念な点だと思います。

グリモーの魅力は演奏のみならず、プログラミングに込められた独自の主張でもあり、ただレコード会社の命じるままに凡庸なプログラムを弾いていく平凡なピアニストとは異なります。
今回のCDでも2つの協奏曲の間にはコンサートアリアKV505「心配しないで、愛する人よ」が納められており、モイカ・エルトマンが共演しています。この作品は第23番の協奏曲と同時代に作曲されていることも選曲された理由だと思いますが、こういう組み合わせにも彼女の独自性が感じられて、そのあたりはさすがだと思わざるを得ません。
とくにこのコンサートアリアは同時期に仕上がったと思われる「フィガロの結婚」の要素が随所に見られて、この時期のモーツァルトの筆も乗りに乗っていることを感じさせる魅力的な作品ですし、ソプラノ、オーケストラ、ピアノという編成も珍しいと思います。

この曲を聴くだけでもこのCDを買った意義はあったな…と思いましたが、両協奏曲に聴くグリモーのピアノは冒頭に書いた硬さのほかに、どこかに息苦しさのようなものを抱えていて、マロニエ君としてはもう少し楽々としなやかに翼を広げるような自由とデリカシーの両立したモーツァルトを好みます。
ひとつにはグリーモーのタッチの重さと、さらには音色のコントロールがあまり得意ではないということで、いかにも固い指を必死に動かしているという印象が拭えません。
その必死さと音色の重さ(彼女はキーの深いところで音を出すピアニストのようです)がモーツァルトとは相容れないものとなり、聴いていて解放される喜びが味わえないのだと思いました。

しばしば見られるロマン派のような表情やルバートにもやや抵抗があり、とくに第23番の第二楽章などはこんなに重々しく弾くとは驚きでしたが、救いは第三楽章でみせた快速が、かろうじてそれをぎりぎりのところで洗い流してくれるようでした。

ある方の書き込みによると、レコード芸術によればグリモーはホロヴィッツとジュリーニが協演した23番を聴いて感銘を受けて、自分もブゾーニ作曲のカデンツァを弾いて録音したそうです。ところが協演のアバドがこれに難色を示して直前になってモーツァルトのカデンツァを練習して別に録音をしたとか。しかしグリモーは「どのカデンツァを選ぶかはソリストに権限があるはずだ」と譲らずに、結局アバドとの録音はお蔵入りとなったとか。
マロニエ君もグリモーの主張には全面的に賛成で、アバドともあろうマエストロがくだらない事をいうもんだと思いましたし、それに怯まないグリモーの見識と主張には脱帽です。
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ねこ

猫の里親になろうかと見学まで行ったことは書きましたが、その後、いろいろと思案した挙げ句に、とうとう一匹の猫を引き取ることになり、今月の中頃に現在の施設の責任者の方に連れられて我が家にやってきました。

背中には茶色のキジ模様、胸からお腹にかけては雪のような真っ白という、すでに9ヶ月になる雄猫で、可愛い上になかなか姿の良いイケメン君でした。
我が家の家族は、犬との生活についてはそれなりに熟知しているつもりでしたが、猫はほとんど初体験に近いので、事前には言われるままフードやトイレ、遊びのためのタワーなどをあれこれと買い揃え、ベッドは猫は段ボールが好きだということでマロニエ君が奮闘してそれらしいものを2つ(2部屋ぶん)作りました。
このところのスピーカー作りで、多少は工作にも手先が慣れてきていたこともあり、自分で言うのもなんですが、スイスイと作業は進み、アーチ型の出入口や窓をつけたりと、なかなかの寝所が出来上がりました。

決められた日の午後、小さなバッグに入れられてやってきた猫は、やおら室内に出されて初めて見る我が家を緊張気味に歩き回りますが、ただ可愛いだけでなく独特な妖しさや、ネコ科独特のしなやかな美しさがあることもわかり、今日からの生活が楽しくなりそうでした。

やはり家の中に生き物が増えるというのは、なんとなく空気が明るく活き活きとしてくるようで。思い切って里親になったことを心から喜びました。

ところが夜寝る時間になると、状況は一変します。
就寝時間にはマロニエ君の自室に連れて行くわけで、もちろんこそにもトイレもベッドも揃えているのですが、この時間帯のせいか場所のせいかはわかりませんが、ニャーニャーと絶え間なく鳴き始めて、その鳴きのエネルギーには大いに弱りました。
このブログも夜中に書くことが多いのですが、なかなかこれまでのような動きが取れず、もっぱら猫の御機嫌取りに多くの時間を費やしました。とりわけ初日は猫にとっても環境が激変したわけでおとなしくできないのも仕方がないと思い、徹底的に遊んでやりました。

その後も日中の生活は日を追う毎に慣れてきてくれましたし、大半がベッドや椅子の上などで寝て過ごしていましたが、夜になると俄然目は輝きを増し、絶え間なくニャーニャーと鳴き出すというパターンになり、さらにはあれこれと思いもよらぬ悪さをするようにまでなり、次第に片時も目を離せないという状況に追い込まれていきました。

マロニエ君もともと自分が夜行性であることを自負していましたが、猫のそれは次元の違うスーパー夜行性で、とてもかないませんし、まるでこちらに挑戦するかのように激しく荒々しく叫き散らします。
またマロニエ君の部屋にはCDなど多くのものが積み上がっていますが、どんなところへも軽くジャンプして好きなようにしなくては気が済まないらしいということもわかりました。

動物のすることなので大概のことならガマンするのですが、中にはどうしてもそれだけは困るというものもあるわけですが、そんなことは一切お構いなし。鳴き声にもときどきやけくそ気味の叫ぶようなトーンが混ざってきたりで、その騒ぎかたときたら、とても自分の時間を持つとか、果ては就寝するというようなことがほとんどできない次元にまで達しました。

それでも数日すれば慣れてくるはずという一縷の望みをもって頑張りましたが、猫の夜中の荒々しさは日増しに酷くなるばかりで、それが4時間でも6時間でも延々と続くのですから参りました。こんなことを続けていたらこっちがおかしくなるという危惧も、この頃には頭をよぎるようになりました。
まさにそんなタイミングで、施設の方から様子を尋ねるメールが届いていましたので、まったく情けない気もしましたがとりあえず現在の窮状を包み隠さず伝えました。

話が前後しますが、この施設の責任者の女性の方というのが非常に立派な素晴らしい方で、猫を連れてこられたときから感じていたのですが、その方が翌日の朝一番に電話をくださり、それではこちらの生活が心配だからと大いに心配され、話し合いの結果、甚だ不本意ではありましたが結局その猫はお返しすることになりました。
マロニエ君も自分の不甲斐なさを恥じましたが、そのための「お試し期間」なんだからと頼もしく言っていただき、距離を厭わず、すみやかに迎えに来てくださり、お昼過ぎには来宅されました。てきぱきと快く対応され、その猫はまたバッグに入れられて我が家を去っていきました。
車でしたので、フードやタワー、ベッドなどはそっくり猫にプレゼントしました。

わずか4泊5日の生活でしたけれども、夜中以外は非常によくなついてくれていたし、本当に可愛く思っていたので、彼がいなくなった家の中はまるで気が抜けたようで、しばらくはあふれ出る涙をどうにも押さえることができませんでした。
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演奏も演技化

近ごろの演奏を聴いていてしばしば感じること。
それは、技術的にはとても上手いのに要するに演奏の根本であるところの音楽的魅力がなく、つまらないと感じてしまうことは多くの人が経験しておられることと思います。

理由はマロニエ君なりにいくつか考えましたが、ひとつは台本通りに仕組まれ、その通りに進行する演奏であるということではないかと思います。音数の少ない静かな箇所は極力それを強調し、技術的に難しいところは敢えて通常のテンポ以上のスピードで走って見せて高度なメカニックを披露し、さらには楽譜に忠実であることで決して独善的ではない、アカデミックな解釈と勉強もぬかりはなく、トレンドにも長けている。

さらには曲の要所要所では聴衆が期待するであろう通りにテンションを上げ、終盤ではいかにも感動を誘うような音の洪水となってどうだとばかりに締めくくります。
でも、人の感性は敏感です。
仕組まれたものと自然発生したものの違いは、演奏家達が思っている以上に聴いている方というのはわかるのであって、むしろそれに疎いのは演奏者のほうだと思います。
演奏者が真から作品のメッセージを汲み取り、さまざまな経路を辿ることで必然的な表現となり、納得の終わりを迎えているかどうかということは、かなり見透かされていると思うべきでしょう。

政治家でも芸能人でもそうでしょうが、100%ということはないにしても、あるていど心からそう思い信じてしゃべっていることと、台本通りに建前をしゃべっているのとでは、どんなに意志的に抑揚をつけても超えがたい一線というか違いがあります。
超一流の役者ならいざしらず、普通はどんなにそれっぽく演技をしても、やはり本人が本当にそう思っていないものは表に出てしまうし、ましてや役者でなく、音楽や美術のようなその人の内奥からの表現そのものが芸術として成立する世界は、存在理由そのものにもかかわる重大問題です。

絵の世界でも、ここ最近は、誰からも文句の出ない、わっと人が喜びそうな要素を熟知した上で制作に取りかかる作家というものが少なくありません。見ればなるほど良くできているし、たしかに一見きれいですが、見る人の心に何かが残るような真実はそこにはありません。

そういう意味ではマロニエ君は最近、古い演奏も良く聴くようになりました。
だからといって声を大にして云っておきたいことは、マロニエ君ばべつに新しい演奏の否定論者ではなく、懐古趣味でもありません。現代の演奏は上手いし洗練されていて録音はいいし、その点では昔の演奏は朴訥でどうかすると聞くに堪えないものがあるのも事実です。

それでも、昔の演奏の中に見出す素晴らしさは、とにかく自分がこうだと思ったこと、感じたこと、つまり自分の感性に対して正直だということではないかと思いますし、それが出来た時代だったというべきかもしれません。つねにレコードやチケットの売り上げやライバルの動向、評論家ウケを念頭において、無傷で度胸のない演奏をするのではなく、新しい解釈の基軸などにあくせくすることなく、素直に大らかに演奏しているその個性的な演奏に心を打たれることが少なくありません。
聴衆も演奏家を信じていましたし、それに演奏家も応えていた幸福な時代でした。

音楽を聴くときぐらい、演奏家の真意を信じたいものです。
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メールのご紹介

ベーゼンドルファーに携わるヤマハの方から下記のようなメールをいただきました。
ヤマハ自身がピアノの製作会社であるにもかかわらず、この老舗の親会社となってからも、ウィーンの名器の伝統工法と志は大切に受け継がれているようで、さらにはヤマハの社員の方まで、こうしてベーゼンドルファーを熱愛していらっしゃることは、このメーカーの最も幸せで偉大なところだと思われます。

ぜひともこのブログでもご紹介したく、ご当人様の了解を得ましたので下記の通りその文面を掲載致します。この方は現在ウィーンに来ておられる由、ウィーンからのメールとなりました。
個人名のみ控えますが、それ以外は、改行なども一切手を加えず「オリジナル」のままお届け致します。

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突然にメイルを差し上げて失礼します。 時にこのブログを拝見し、
内容の濃さにいつも感心しております。 

私はヤマハに勤務するものですが、2008年初めよりベーゼンドルファーに
関わっております。 当初、ヤマハが経営することに、ベーゼンドルファーが
変わってしまうのではと、多くの方が心配されました。 

しかし、自信を持って言えることは、ベーゼンドルファーの独特な音色を
維持することを第一義に考え、現在も開発から製造まで
オーストリアのベーゼンドルファー本社で全てを執り行っていることです。
逆に言えば、ヤマハの一番恐れることは、ベーゼンドルファーの
性格が変わってしまうことです。 此れからもウィーンの至宝と呼ばれる
ベーゼンドルファーを、しっかり守って行きたく存じます。

お書きになったようにインペリアルは100年以上の歴史を持つモデルですが、
これ以外にも現行モデルの中、170/200/225も100年以上も
継続して生産しています。

今年発表した155も基本的な構造は、伝統的なベーゼンドルファーの
製造方法を踏襲しております。 例えば支柱の構造や材質、
側板の組立て方や材質、アクション、鍵盤など。 尚、鍵盤やアクションは
170と同じであり、サイズから来る演奏性を犠牲にしていません。

また、肝心な音は小型ピアノとは思えない豊かなものになりました。
これは製造方法が他の大きなモデルと同様なため、当たり前のことかも
しれませんが。 

こんな風に書きますと自慢話になってしまい恐縮です。 ただ、
ベーゼンドルファーの独特な音色に魅かれると、仕事を離れても
つい声が大きくなってしまいます。 

残念ながら、九州にベーゼンドルファー特約店が無く、試弾して頂く
機会が少ないかと思います。 ただ、八女市オリナス八女ホールに
ベーゼンドルファー280が昨年納品されました。 それ以来、八女市では
ベーゼンドルファーを大変愛して下さり、これはとても嬉しく思っております。

勝手にベーゼンドルファーのことばかり書いてしまいましたこと、
どうぞお許し下さい。 東京にお越しならば、是非声を掛けて下さい。
中野坂上のショー・ルームをご案内したく存じます。 また、
ベーゼンドルファーに関してご意見があれば、どうぞお聞かせ下さい。

宜しくお願い申し上げます。
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猫の館

車を一時間近く走らせて到着した猫カフェは、まるで一般の住宅と喫茶店の中間のような印象で、中に入ると、まず普通の喫茶店と違うのが、はじめに手を石鹸で洗わなくてはいけないことでした。
それから猫と接する際のもろもろの注意を聞き、滞在時間を決めて、いよいよ猫達のいるスペースへ移動します。

中に入ると、あちこちで自由気ままに遊んでいた猫達が我々に気付いて、一斉にこっちにやってきます。とはいってもそれは犬のようなストレートな大歓迎とは違い、あくまでも猫らしく、一定の距離感を保ちつつ侵入者をちょっと「見に来る」という感じでした。

マロニエ君の目はまずは当然サムライ猫を探しました。
すると、決して前には出てこないものの、たしかに彼はその一隅に居て、なるほど他の猫達とは趣が全く異なっているのが一目でわかりました。あくまでも自分なりの距離を取っているし、その後はほとんどこっちに自分から出てこようとはしませんでした。
マロニエ君も何度か接近を試みましたが、聞きしに勝る警戒感の強さで、これはちょっと手強いというのが率直な印象でした。お店の人さえ「なかなか抱かせてもらえない」というのも頷けます。

それにしてもその部屋には至るところに猫、猫、猫がいて、それぞれに個性があり、性別も、色も、体つきも、性格もさまざまで、あれこれ見ているだけでも興味は尽きません。
自分から人に寄ってくる猫がいるかと思うと、まったく何の関心も示さない猫がいるし、せわしく移動を続ける猫がいるかと思うと、ひとところに陣取って微動だにしない貫禄充分な猫もいます。

たしかにマロニエ君はサムライ猫の写真に見る風格みたいなものに惹きつけられていましたけれども、こうして大勢の猫達を見て触ってみると、ほんとうにさまざまで、ことさらサムライ猫にこだわる必要のないこともやがてわかってきました。
月並みな言い方ですが、本当にどれもかわいいです。
ビビリモードだった友人もあにはからんや、すっかりくつろいで猫達と遊んでいます。

はじめの10分ないし15分ぐらいはどの猫ということもなしに、ともかくこの非日常の猫まみれの世界にどっぷり浸かりきり、ただ圧倒されていましたが、後半はだんだんそれぞれの猫を覚えて、識別できるようになります。

そうなると自然に自分と合いそうな猫と、そうではない猫に大別されてきます。
これは…と思える猫はすぐに3〜4匹だとわかりました。
この時点でサムライ猫はもうその中には入っていませんでした。彼の魅力はたしかに他に代えがたいものがあることは最後まで変わりませんでしたが、このひとくせもふたくせもある尋常ならざる特別な猫を飼い慣らせる人はそうざらにはいないでしょうし、ましてやマロニエ君のような猫の初心者が到底手に負えるものではないことは肌で感じてわかりました。
「10年早いよ」と表情でいわれているでした。

途中から、さらに女性が二人あらわれて、それぞれに猫と遊んでいましたが、そのうちの若い女性などはある猫とよほどの懇ろのようで、もはや一心同体という趣でソファにもたれかかり、なにをするでもなしに、ただ黙って猫との触れ合いを噛みしめ、瞑想でもしているようでした。

こういう濃密だけれども抽象的な空気感というのは、犬にはない猫だけのものだなあとすっかり感心させられました。約束の1時間はたちまち過ぎて、ひとまずこの日は退散しました。
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サムライ猫

猫の里親になろうかという考えは、以前に綴ったような経緯もあって、自分としてはいったん心の奥底にしまい込んだつもりだったのですが、やはりどんな理屈をつけてみても、気になるものは気になるわけで、その後も思いつくままにホームページをチラチラと「流し見」したりしていました。

するとその中に、なんともマロニエ君好みの、凛とした高貴な表情が見る者を引き寄せる、濃いグレー系の身体をした雄猫が目に止まりました。保護されてすでに3ヶ月も経つというのに、いまだに人や環境と馴れ合うことをせず、施設でもいわゆる一匹狼を通している由でした。
現在の保護者でさえ、めったなことでは抱っこすることも難しく、人を頑として拒んでいるそうで、よほど苛酷な目に遭ってきたものか、はたまた生来の孤独なサムライ気質の猫殿というわけでしょう。

以前の電話で「写真が可愛かったから連絡されたのですか?」という、まったく頓狂な質問をされて憤慨したばかりでしたが、今回も甚だ不本意ながら、一枚の写真に魅せられてその猫のことが気にかかり始めました。
マロニエ君はとくだん面食いという訳ではありませんし、ましてや人や動物の美醜だけを追いかけ回すつもりは毛頭ありませんが、それはそうなのですが、自分にとっての判断基準として、やはり視覚的要素というものはかなりの要素を占めることもまた事実で、やはりここを疎かに出来ないことも確かです。

ま、そんなくだくだしい言い訳をしても始まりませんが、とにかく、ひと目そのサムライ猫が見てみたくなって、ついには、その施設へ赴く次第と相成りました。
自宅からは結構な距離もあるようでしたが、まあ半分はドライブのつもり行ってみることに。そこは一応予約をして行くことがルールのようになっているので、いちおう電話して大まかな到着時刻だけを伝えると、あっけなく希望する夕刻の時間帯が確保できたので、これはもう行くしかありません。
ちょっと不安もあるし、一人で舞い上がってもいけないので友人に同行してもらいました。

HPによれば、ここにはもう一匹気にかかるのがいて、こちらはひたすらキュートなタイプの猫で、まだ生まれて3ヶ月なんですが、これはこれでたいそう気に入っていたのですが、こっちはすでに里親が決まってしまった由、やはりなんらかの魅力ある猫であればあるだけ、嫁ぎ先も決っていくということが実感されました。

ちなみにそのサムライ猫は、その人を寄せ付けないサムライ気質である故か、まだ施設にいるとのことで安心といえば語弊がありますが、ともかく目的とする猫には会えるということが確認でき、週末の夕方で混み合う街中を車を走らせました。むろんサムライ猫に限らず、そこには相当数の猫がいるようなので、多くの猫達に囲まれるというのもひじょうに楽しみではありましたが、同行する友人はよくよく聞いてみるとそういう経験のないとのことで、まもなく到着という段階になってはやくもビビリモードになっています。

昔は知らないところへ行くのは、マロニエ君は生まれつき方向感覚などは悪くはなかったのでそれほどの苦労はしないながらも、やはり地図を広げて下調べなどが必要でしたが、今はカーナビのお陰でどんなに見知らぬ場所へ行くにも、エンジン始動後にパッパッと情報を打ち込むだけで、いっさい迷う事無く、至ってスムーズに目的地を目指せるのはいまさらながら便利になったと痛感する瞬間です。

果たして到着したところは全く馴染みのない、これまでに一度も足を踏み入れたことのないエリアの住宅街で、カーナビも最終的なルート案内を終えようとしている頃、HPで見覚えのある特徴的な建物が暮れなずむ目の前に現れました。
どんな猫達がいるのやら…。
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吸音の素材

筒型スピーカーは、構造そのものでいうと至ってシンプルです。
塩ビ、硬質パルプ、アクリル、アルミなどから管の素材を選び、直径が10cm前後、長さ1mほどの管を垂直に立てて、その上に直径わずか8cmの小さなフルレンジスピーカーを取りつけというもの。

ただし、そのフルレンジスピーカーの背後には「仮想グランド」という名の仕掛けがあり、大半の人は寸切りボルトという建築資材や小さめの鉄アレイなどを流用し、いろんな工夫の上にこれを取り付けて管の中にこの一式を忍ばせます。これだけでも相当の重さがあるのですが、さらに重量を増すためにここへ大きなナットをいくつもとりつけることで音や響きの骨格をつくっていくようです。

それにしても直径わずか8cmのスピーカーというものは、普通のスピーカーを見慣れた目には、ほとんど冗談としか思えないほど小さく、ツイーター(高音用スピーカー)のようにしか見えないような心もとないサイズです。ところが、上述の仮想グランドなどと組み合わせることによって、これがズッシリとした低音からきらめく高音まで、文字通りのフルレンジを賄うスピーカーとしてその能力を遺憾なく発揮することにことになるのですから、まずこの点に驚かされます。

もし本当に、こんな小さなスピーカーひとつで事足りるのなら、これまでいろいろと目にしてきた、あの東西の横綱が鎮座したような高級家具調のあれは何だったのだろうかとも思います。

さて、構造は簡単でも、問題の音造りともなると、これはとても容易なことではありません。
音や響きのために様々な試行錯誤に着手するわけですが、なにぶんにもこちらは素人で何の知識も経験もないときているのですから、いかにも無謀な挑戦というわけです。
本当にオーディオに詳しい人はスピーカーユニットでまで手を加えてあれこれの特性を引き出したり、逆に封じ込めたりするようですが、マロニエ君などはとても手の及ぶ事ではないので、とりあえず管の中の吸音対策がチューニング作業のメインとなります。

今回マロニエ君が使用するのはアルミ管であることは何度か書きましたが、このアルミ管には特殊な加工などを施さない限り、アルミ独特の鳴きというのがあるらしく、それははじめの段階で自分の耳でもイヤというほど確認し、まずはこれを押さえ込むことから始めなくてはいけないことを痛感します。

ところがネット情報によると、このあたりも作る人の考えに左右され、中にはまったく吸音無しで音を作っていくという猛者もいるようですし、吸音するにしてもその素材は、何種類かの定番素材はあるものの、これが絶対というのものはないようです。
これがマロニエ君の場合の悲劇の始まりで、まずはこの管の内側の吸音材を何にするかで、3日に一度はホームセンターに通い、あれこれの素材を買ってきては試すことになりました。

驚くべきは、管の内側の吸音材を貼ると劇的に音が変わり、しかもそれは一気に音楽的なものへと近づいてみたりするので、そうなるとこちらの作業熱も俄然ヒートアップしてきます。
ところが、しばらくすると良くなったはずの音に疑問が出てきます。より詳しくいうなら、耳が鍛えられて、そこに含まれる欠点が聞こえるようになってくるといったほうが正確かもしれません。

そうなると、とてもそれでは満足できなくなり、せっかく取りつけた吸音材を惜しげもなく全部取っ払って、また別のものに交換するという、初心者のクセに分相応の満足を知らぬマニアックな世界に突入するわけです。
こうなるとコストも度外視とは云わないまでも、ムダにつぐムダの連続です。

あとになって袋一杯捨ててしまったフェルトの山を、やっぱり取っておけばよかったなんて何度も思いましたが、これが開発コストというものだ!などと自分を納得させているところです。
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やっぱり土台が

スピーカー作りをやっていてあぁ羨ましいと感じるのは、多くのピアノ技術者さんは自宅の他に作業のための工房をもっておられて、あんな作業場があれば一連の作業もはるかに効率的で楽しいものになっただろうと思われることです。

マロニエ君宅には幸いにも、わりに恵まれたシャッター付きのガレージがあるので、当初はそこを作業場にしようかと考えたのですが、当然車の出入りがあることと、スピーカーはいちいち音を出しては変化の具合とか、ちょっとした事を音で確認しなくてはいけないので、これが深夜に及ぶとさすがに近所迷惑になってもいけないということで、まずこの点が最も心配されました。

さらには、マロニエ君は、普段は超ナマケ者のくせして、いったんやるとなると行動が集中型で、思い立ったらいつでもすぐに着手しなくちゃ気が済まないという性格でもあるため、そんなときいちいち離れたガレージに行く煩わしさを考えると、やはりボツになり、結局2台のピアノの足元で、まわりがどんなに散らかって足の踏み場もなくなろうとも、この場でやるしかないという結論に達しました。

いまさらですが、何回見ても、台座のカットの不様さは気にかかりますが、まあこれは覚悟を決めて潔く諦めるより仕方がないようです。そう結論づけて諦めているはずなのに、またそこが目に入って気になってくるから、やっぱり覚悟が決まっていないということですが、まあここはよほどスピーカーが奇跡的に上手くいったときにはもう一度、別の方法で作り直すということも可能ですから、とりあえずそこは考えないということにします。

いや、考えないことに決していることを、見るたびに思い出してはまたそっちのことに思い悩むのですから、つくづくと自分の性格は、形やディテール、すなわち枝葉末節のことが気になってそこに拘るという、まことに損な性分なんだと思いますね、自分でも。
そういう意味ではつくづくとマロニエ君は日本人的で、細かいことが美しく出来上がっていないと、そのあとに続くべき意欲そのものを喪失してしまいます。

もうずいぶん前のことですが、ある田舎の演奏家の方で、なにをやらせても大雑把で仕事の粗い女性がいました。あるとき何かの必要があって彼女から荷物が届いたのですが、届いた梱包の雑で汚いことと云ったらひっくり返るほどで、ほとんど感動すらおぼえて家族総出でしみじみと「観賞」しましたが、ご当人は、中身が届けばいいというわけで至って平気な様子でした。

マロニエ君には逆立ちしてもできないことで、間違ってもあんな風になりたいとは思いませんが、それでもご当人にしてみれば、そこそこ楽しく、明るく、健康的で原始的な、それなりに充実した人生を送っていらっしゃるのかもしれません。
つまるところ、人間の幸福というものは本人の心の中にあるわけで要は「認識」の問題なのですから、皮肉を込めて云えば羨ましい限りです。

その逆のスタイルで思い出すのは、マロニエ君のピアノ調整で今もお世話になっている方ですが、あまりにも鋭い、専門的な、ほとんどマシンのような耳をお持ちであるがために、音楽は嫌いじゃないのにコンサートもダメ、CDなどはどれを聴いてもその劣悪な音質に耐えられずに「買わない聴かない」というお気の毒な状態です。仕方がないので敢えて別ジャンルの観賞などに心を通わせていらっしゃるようです。

その点では、何事もそこそこの価値を理解して、深入りせず楽しんで、享楽的に過ごせればそれに越したことはないのかもしれませんが、まあそれは一般凡人の話であって、そこそこの範疇を突き破ったところへ出現するのが芸術家ですから、彼らに「そこそこ」は逆に危険エリアということになるでしょう。

さて、件のスピーカー作りは、できれば身の程もわきまえず、そこそこを多少ははみ出したものにしたいところですが、そう上手くいきますかどうか…。
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調整が目指すもの

連日におよぶスピーカー作りを一休みして、週末は再び知人のスタインウェイの調整を見学させてもらいました。
このピアノは、もともと大変素晴らしい楽器なのですが、オーナーがこのピアノにかける期待にはキリがないご様子で、さらに上を目指して素晴らしいピアノにしたいというその熱意はたいへんなものがあり、より高度な調整を求めていらっしゃるようです。

前回と同じピアノ技術者さんで、この日はやはり各所の調整や針刺し、とくに弦の鳴りをよりよくするための作業などが進められましたが、技術者さんが仰るには、やり出すと調整の余地はまだまだ大いにあるのだそうで、今後(果たしていつまでかわかりませんが)を楽しみにして欲しいというものでした。

確か前回が8時間ほど、今回も5時間ほどが作業に費やされましたが、ピアノの調整というのは精妙を極め、しかも部品点数が多いということもあってなにかと時間がかかるし、明快な答えがあるわけでもないため、これで終わりということのない無限の世界だということを再認識させられました。

とりあえずこの日の作業終了後にマロニエ君も少し触らせてもらいましたが、その変化には一瞬面食らうほどで、たしかに音には芯と色艶が出ているし、以前よりもたくましさみたいなものが前に出てきたように思います。さらにはよりダイナミックレンジの大きな演奏表現をした場合に、ピアノが無理なくついてくるという点でも、音の出方の限界を後方へ押しやったのだろうと思われます。

しかし、楽器というものが極めてデリケートで難しいところは、以前このピアノがもっていたある種のまとまり感みたいなものもあったように思い出され、あれはあれでよかったなぁ…なんてことを感じなくもありませんでした。
ピアノも云ってみれば一台ずつに「人格」があり、そこにいろいろな個性がうごめいているのだと思います。生まれながらに持った性格もあれば、あとから技術者によって意図的与えられる性格もあるでしょう。

たしかに、基本的なところから正しい調整がされることは非常に大切で、変なクセのあるピアノだったら一度ご破算といいますか、一旦リセットされたようになる場合も多く、とりあえず楽器としての健康な土台みたいなものが新しく打ち立てられるというのは、作業の流れとして順当なところだろうと思います。

しかし、それ以前にあった、そこはかとないやさしみや味わいみたいなものはひとまず洗い流されてしまって、ちょっと残念さも残ったりと、このあたりが人の主観や印象の難しいところです。しかし、新たに鍛え直されて健康なたくましさが出てきたことはやはり歓迎すべきで、弦の鳴りから細かく調整されたことで、さらにサイズを上回るパワーが出たのも事実でしょう。

ただし発音が溌剌とはしているけれど、どんなときでも背筋を伸ばして、正しい発声法で一直線に歌っている人のようで、マロニエ君はそこにもう少し陰翳があるほうを好む気がします。
音色そのものはいじっていないので同じ方向の音にあるといわれますが、総体としてのピアノと見た場合、後述する要素を含めて前とはあきらかに別物に変化してしまったというのがマロニエ君の印象です。

もともとよく鳴っていたピアノでしたから、それがさらにパワフルに鳴るようになることは技術者サイドで見れば順調かつ正常な進化なんだろうとは思いますが、弾く側にしてみると、心に触れる「何か」を残しておいてほしいのも事実かもしれません。

また、別物に変化したというもうひとつの大きな要因は、タッチがぐんと重くなったことと、音の立ち上がりを良くしたとのことでしたが、それはたしかに体感できたものの、タッチコントロールがかなり難しくなってしまったことも小さくない驚きでした。
このピアノには比較的大きめのハンマーが付いているようで、重いのはそのためだと云う説明でしたが、もしかすると以前の調整はそのあたりも含めて絶妙の調整(メーカーの設定とは違っていたにしても)がされてたということかもしれません。

このピアノの以前の状態が良くも悪くも職人の感性も含んだセッティングであったのか…そのあたりはマロニエ君のような素人にはわかるはずもありませんが、ただ、あれはあれでひとつの好ましいバランスがあったというのはおぼろげな印象としてのこりました。要するにそれなりの帳尻は合っていたと云うことでしょうか。

ひとつの事に手を付け始めると、そこから全体がドミノ倒しのように変わっていく(変えざるを得ない)のはピアノ調整で日常的にあることです。このあたりは技術者さんの考え方や作業方針にもよるし、弾く人の好みの問題もあり、ひじょうに判断の難しい点だと思いますね。
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正論の陰で

猫の里親の件では、なんだかまったく予想だにしなかった奇妙なものに触れてしまったようで、そのついでにこっちの気分も一度リセットする気になっています。

あまり書いてもどうかと思いますが、ネタついでということで今回まで。
あの手の人達はマロニエ君の最も苦手とするタイプのひとつで、前後左右のことも考えず、ただ目の前の正論を振りかざして、リアリティのないことを上から目線で訴えることに自ら酔いしれているような気がします。

以前も、さもありなんと思ったのは、敢えて名前は書きませんが一時期「朝まで生テレビ」などで舌鋒鋭く正論をまくし立てては、並み居る論客達をメッタ切りにしていた若き才媛が、その主張とはまったく裏腹な実生活を週刊誌にすっぱ抜かれたことがありました。

しかも、そこにはたしかな根拠もあった由で、それを裏書きするごとくアッという間にメディアから消えていきました。
討論の席上ではずいぶんと鋭い調子で日々変化する社会問題に真っ向から向き合っているというようなコメントの連発で、当時の政治家の体たらくから女性問題まで容赦なく弁じていましたが、そんな働く女性の理想的代表みたいな人が、実生活ではごく常識的なゴミの分別さえもせず、たびたびマンションの管理人や町内から注意を受けいたとか。それでも一切自分の態度は改めることなく、その一帯では悪い意味での有名人だったという話でした。

これに限らず、だいたい市民運動とかボランティアといったものに手を染めている人の中に、この手合いが数多く棲息しているという確率が高いように思います。もちろん、そうではない善良誠実な活動家がいらっしゃるのは無論ですがまさに玉石混淆。
高齢化社会に伴う老人介護の問題などにも積極的に取り組み、日夜講演やなにかで毎日ほとんど自宅にもいないような女性が、実は最も身近で現実的な自分自身の年老いた親をほったらかしにしているとか、子供の教育や虐待問題に取り組む専門家とやらが、自分の子供には毎日のようにインスタントラーメンを自分で作らせて食べさせているようなことをしながら、大舞台ではしっかりギャラを取って「子供にとって最も必要なものは親の愛情で、子供は親を選ぶことができません!」などという話を演壇からしているのだそうですから、世の中そんなものだといってしまえばそれまでですが、やっぱり呆然とさせられるのも事実です。

この猫の里親斡旋の女性がどんな方かは知る由もありませんが、言っていることを鵜呑みにすれば、生活はほとんど猫様中心で、猫さえ元気に恙なく生活できればその他のことは人間がどれだけ負担を強いられても当然で、それくらいの覚悟がなければ動物なんて飼う資格はないといわんばかりでした。

この方の話を聞きながら思い出したのは、江戸時代の悪政のひとつとして有名な『生類憐れみの令』で、心ない人がペットを簡単に捨てたり殺処分するというおぞましい現実があるかと思うと、その逆にこのような極端ともいえる御犬様感覚が正論として闊歩しているのは、いずれの場合もバランス感覚の欠如が問題ではないかと思われます。

人間が救いがたいのは、自分が正しいことをしている・言っていると頑なに思い込んでいる、その瞬間ではないかと思います。こんな人が、果たして自分の子供をどんな育て方をし、どれほどご立派な家庭生活を構築していらっしゃるのかと、ちょっと意地悪く想像していまいます。
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続・里親になるには

電話の向こうの女性は、話し方はえらくドライですが、こちらのこととなると何の躊躇もなく矢継ぎ早に質問され、それは今どきの個人情報とかプライバシーに対して過剰なぐらい相手に気を遣う、当節の慣習からかけ離れたような大胆さで、ズカズカと踏み込んで来られるようでした。

家は一軒家か、現在の家族構成から、家を留守にする時間や頻度、さらには家族全員の年齢もこまかく聞かれて、その挙げ句に私の親(今は元気にしていますが)に対し、その方よりも猫のほうが長生きをする可能性がありますから、先におうちの方が亡くなられたときの対策も考えておくべきだと言われたときは、そのあまりの無礼さに、人と動物のどちらが大切なのかと思い、不快感で全身じっとりと汗がにじむようでした。
こういう発言はあきらかに動物愛護の精神を逸脱した、人の道義を踏みにじるものだと思いました。

ついマロニエ君も、そんなことを言い出すなら、人は誰しも生身であるわけで、私もいつ交通事故で死ぬかもわからないでしょうというというと、「そうなんです。ですからそういうときのためのネットワークを構築するわけです!」と一瞬もひるみません。
同様の理由から、一人暮らしの人間は動物の里親にはなれないことになっているという論旨には開いた口がふさがりませんでした。たかだか(といっては悪いかもしれませんが)猫一匹を飼うのにも、今どきは独り者(マロニエ君は一人暮らしではありませんが)ではその資格さえないというのでは、これはもう立派な差別に当たるのではないかとさえ思いましたね。

今どきの通俗的な言い方をするなら、一人暮らしでも、責任をもってきちんと愛情深い動物のお世話をされる人もいらっしゃるわけで、現にマロニエ君はそのような人を知っています。しかし、こういう人達の物差しで見るなら、一人で健気に子育てをしているシングルマザーなんか、即親権剥奪ものでしょうね。

さらに続きます。「ご近所にご家族はお住まいですか?」といわれ、今どき田舎でもなしそんな人はいないというと、もしも飼い主が病気で入院などをした際に、猫ちゃんの世話をするための連絡先を「私達が把握しておく」というのです。
そんなことは飼い主たるものの責任で解決するのが当たり前であって、なにかというと、いちいち元の保護者およびその一派が介入してくる事ではないと思います。それ以外にも、室内飼いをすることを確約すること、網戸には必ずストッパーを付けることが条件、さらには頻繁に猫の状態を保護者に報告する事、などなど。
アナタ、一体に何様ですか?という気分でした。

一週間のトライアル(猫とのお試し生活)を経て、向こうが求めるすべての要件をクリアし、晴れて里親として「認められた」ときに、いよいよ書類を取り交わし、そこに署名(法的に有効なものかどうかはしりませんけど)をさせられ、さらにあれこれの事細かな約束をさせられるようです。

たしかに動物の命は大切です。努々好い加減な気持ちで飼ってはいけないことは重々承知ですし、世の中には心ない飼い主がいることも事実でしょう。でも、それはそんな女性から上から目線で云われなくてもマロニエ君のほうがよほほど承知しているという自信もあります。
言っていることはえらく大上段に構えて正論めいていますけれども、率直にいうなら殺処分されかねないその猫たちを引き取って愛情をもって育てましょうというこちら側の意向あってのことなのですから、少なくとも新しい里親になろうという人に対しては、もう少し普通に人間としての品格をもって接するべきだと思いました。

そんなに猫の生活や飼い主の心得が大事なら、ペットショップの店頭にでも行って、見に来たお客さんすべてにそれらの考えを伝達して、動物を飼う際の20年先までの飼い主の健康および環境の保証、万一に備えたネットワークまで必要だという心得を諄々と講義したらいいと思います。

しかも驚くことに、電話を切って30分もしないうちに同じ人から電話があり、保護者に連絡したところ先に話を進めている相手がいて決まりそうとのこと。それならば仕方がないというものですが、「それとは別にいま、早良区に急遽里親さんを探している人がいらっしゃるので、よかったらその方をすぐにご紹介したいのですが?」という、これまた一方的な申し出がありました。
もちろん写真の一枚もない言葉だけの急な話で、なんの判断材料もないまま電話口で返答を迫られても返事など出来るはずもなく、言下にお断りしたのはいうまでもありません。すると「じゃあ、○○さんは、さっきの猫ちゃんはネットを見て写真が可愛いから連絡をされたんですか?」と切り返してきたのには本当に驚きました。
あまりにも呆れたので、はっきりと「そうです。可愛いというだけではなく、全体の雰囲気なども自分の好みだと感じたからです。」といいましたが、「ああ、そうなんですね…」でおわりました。
全体的に立派なことを言われますが、一皮剥けばえらく勝手で一方的だなぁ…という印象しか残りませんでした。

だいたいこういう人は、自分達こそは正しいことをしているという勘違いと思い上がりがあるということを嫌というほど感じました。いわゆる市民運動家などもそうですが、この手の人達は正論を錦の御旗にして、人には上から偉そうにお説教しますが、自分のことになるとあきれるほど勝手でだらしがなく、押し付けがましく自己中なのががほとんどです。

そんな彼らに行き先をいいように差配される猫たちのほうがよほど気の毒というものです。
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