マイペース

大病院のことはよくわかりませんが、開業医レベルの病院に行くと、「うわ、でたぁ!」と思うことがときどきあります。

自分よりも順番が前の人に話し好きの高齢者の方がおられたりすると、受付、診察、会計、薬局という一連の流れの中で、後続者は甚大な影響を被ることがあります。

この手の方は、むやみやたらと話し好きで、人とみればあれこれ喋り出し、おまけに周りの空気を読むなんてことは天晴れと云うほどなく、聞えてくるのは、大半がその場で直接何の関係もないような話を中心とする、一方的おしゃべりのオンパレード。

受付で診察カードと保険証を提示するだけで済むことが、まずこの場からおしゃべりはスタート。前回来たときからどうしたこうしたというような茶飲み話みたいなものがはじまります。
さらにヘビー級の方もいらっしゃいます。
傍らに次の順番を待っている人がいるなんてことは頭の片隅にもないらしく、自分の話が一段落つくまで決してこれを中断して次の人に譲るなどということはないまま、ただ自分の気が済むまでしゃべりまくります。

診察室でも、そういう高齢者の方の一方的なおしゃべりはとどまるところをしりません。「先生、この前の○×がどうしたこうした…」といった調子からはじまって、病状というよりは主に日常生活そのものをしゃべっているようです。医師のほうでもハイハイといいながら、できるだけ早めに切り上げようとしている気配を感じるのですが、そんなことはまったく通じません。
ときには、医師と看護士の両方を聞き役にして、自分のことを際限なくまくしたてています。やっと終わり、医師が「はい、じゃ、それで様子を見てくださいね」などと云うも、「あっ、そうそう、それと…」といった具合に、ここからまた延長戦です。
ひどいときなどこういう方ひとりのために30分近く待たされたこともあります。

それに耐えて、ついに自分の名が呼ばれて診察室に入ると、いつもの薬がなくなりましたというような場合は、「じゃあ前回と同じでいいですか?」「はい」というやりとりで事は決着。マロニエ君の場合は1分も診察室にいないようなことになり、この差はなんなんだ!?と、まるで自分がひどく損でもしているような気分になってしまいます。
べつに診察室に長く滞在することが得なわけじゃありませんけれども。

それから会計ですが、ここでも先行する高齢者の方の猛烈おしゃべりにブロックされて、窓口はべちゃくちゃ話に占領され、その間のストレスと来たら相当のものになります。病院側も「アナタはお話が長いので、次の方を先にお願いします」とは言えませんから、苦笑いを浮かべながら消極的に話の相手をしているのがこちらにも伝わります。

これで終わりではありません。
次なるは薬局が控えていて、この流れである限り、ずっとこの順番がついてまわります。そこでもまったくひるむことなく、次々に相手を変えながらしゃべりのテンションはまったく落ちません。
本来薬局の受付では、病院から出た処方箋を渡すだけなのに、この場面で、なんでそんなにしゃべることがあるのか、まったく理解の外です。薬の準備ができる間も立ったまましゃべり通しで、薬剤師が薬をいちいち説明をするのに乗じて、またも以前の薬がどうだったけど今度のは…とか、寒くなったらこうなったとか、先生に云ったらこういわれたのはなんでだろうか…というような話が延々と続きます。

それも1分2分ならいいですが、いつ果てるともなくしゃべり続けるのですから、こうなると気分が悪くなってくることもあって、完全に社会迷惑だと断じざるを得ません。
病院の受付からはじまって、自分が薬を受け取って、すべてが終わるまでに小一時間もかかるようで、その間、こちらの神経はイライラヘトヘトで、全身がなんとも収まりのつかない疲れに締め付けられて硬直してしまいます。

いっそ薬局なんだから、精神安定剤のサービスでも追加して欲しいところですが、そんな事があるはずもなく、ただただ「運が悪い」としか云いようがありません。この手の高齢者のスタミナはとてつもないもので敵いっこありません。
どうか、いつまでもお元気で!
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写真登場

このブログを始めるにあたってひとつ心に決めたことがありました。

それは「決して写真に頼らない、文字だけのブログで行く」というものでした。
文才もないくせして、そんなことを考えたのはまったくおこがましい限りですが、そもそも自分のブログを持つということがマロニエ君にとってはすでに充分おこがましいことでしたので、そのついでというところでしょうか。

しかし、今回ついにその自ら立てた掟を破ることになりました。
なぜならまさに「百聞は一見にしかず」というべきテーマに立ち至ったからです。

CD店にある、フリーペーパーなどが置かれた一角で『ぴあクラシック』の表紙が目にとまりました。ベーゼンドルファーのインペリアルを真上から撮した美しい写真だったのですが、いまさらながらその巨大さが醸し出す魁偉な様にはギョッとさせられ、思わず持って帰ってきました。

あらためて見てみると、ヒトデのような不気味な形状のフレームの下には、途方もない広大な響板が前後左右に容赦なく広がっていることを痛感させられました。
音質については好みや主観がありますが、インペリアルは少なくとも図体のわりには声量がないというイメージがあります。にもかかわらず実際にはこれほどの響板を必要とする、まさに規格外のピアノであることにいまさらながらびっくり仰天です。

そこでスタインウェイDとどれほど違うのか、フォトショップを使って重ね合わせてみることに。
同縮尺にすべく、スタインウェイDの黒鍵を横に半分ほど切り落とし、そこへインペリアルと88鍵を揃えるように重ねました。(当然ながらスタインウェイの黒鍵の最低音はBなので、ベーゼンのAsは半分切れています)

bosen-stein.jpg

どうです?
インペリアルの巨大さ、スタインウェイのスリムボディ、いずれもが一目瞭然です。

ふと思い出されたのは、ピアノではなく、なぜか昔の相撲でした。
一時代を築き上げた横綱の千代の富士は、その圧倒的な強さとは裏腹に、その体躯はどちらかというと小兵力士の部類で、このため「小さな大横綱」ともいわれました。
同時代の巨漢力士といえば小錦で、彼はその目を見張るような巨体をいささか持て余し気味でした。
べつにインペリアルを小錦だと云っているのではありませんが、大きさの対比としてパッと思いついてしまいました。

おそらくこの感じでいけば、インペリアルを3台作る分量の響板で、スタインウェイDは楽にもう1台はいけそうな気がします。むろん使う響板は互いに別物ですけれども…。
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信頼の崩壊

佐村河内氏の事件に何度も言及するつもりではないのですが、若い頃の彼を知る証言者の言葉の中には、マロニエ君の心にわだかまる、昔のある出来事を思い出させるものがありました。

20代の彼は、ロックにも挑戦したらしく、当時プロデュースの仕事をやっていた男性がインタビューに登場しましたが、佐村河内氏のルックスや名前、背景がおもしろいと感じ、一度は育ててみようかと思われたのだそうです。
ところが言動におかしなところがあれこれあり、これではとても信頼関係が築けないということで、結局その方は手を引かれ、佐氏の歌手デビューも沙汰止みになった由。

その話の中で、大いに頷けるものがありました。
このプロデューサーはむろん業界の人で、そこに連なるお知り合いなどが数多くおられるのでしょうが、佐氏はそういう人達へ、無断で直接連絡を取ったりするというような挙に及んで、大いに不興を買ったというのです。

実はマロニエ君にも以前、似たような覚えがあったのです。ある演奏者に対して、一時期身を入れて可能な限りの協力していたことがありました。
具体的なことは控えますが、それこそマロニエ君にできるあらゆる方面の協力をし、その人の音楽活動を多面的に支えるところまで発展しました。あれほど心血を注いで他人様をサポートしたのは後にも前にもこれだけで、この状態は数年間にも及びました。

その過程でマロニエ君の知り合いなどともお引き合わせすることもありましたが、その方は、順序も踏まずその人達にいきなり自分で連絡をとったりする人でした。当人からの報告もないまま、それを後になって思いがけないかたちで知ることになったりの繰り返しで、なんとも言いがたい嫌な気持ちになりました。

もちろん、自分の知り合いを紹介したわけですから、直接連絡をしてはいけないということではありません。むしろそれがお役に立つなら幸いです。しかし、そこには自ずと礼節やルールというものがあるのはいうまでもありません。

いきなり頭越しの連絡をして相手の仕事にも結びつけ、それが知らぬ間に常態化するというようなことが重なると、しだいに信頼は崩れ、善意の糸も切れてしまいます。
世の中は、それが情であれ利害であれ、要は人の繋がりで成り立っている部分は少なくありません。故にその部分でのふるまいや挙措には、その人の全人格が顕れるといっていいと思います。
芸能界などは、これがビジネスに直結しているぶん、厳しいルールや慣習が確立されているようで、そういう常識を欠いた行動は御法度として即刻糾弾の対象となるようです。

念のためにつけ加えておきますと、マロニエ君はこれっぽっちも損得絡みでやっていたことではなく、いわば趣味がエスカレートした結果の奮闘でした。

こういうことが重なり、その人とのお付き合いはピリオドを打つことにしましたが、これに懲りて、いわゆる「音楽する人」とのお付き合いが、以前のように無邪気にできなくなったのは事実です。
もちろん個人差はありますし、立派な方もいらっしゃいますが…。

要は甚だしい自己中ということです。
そもそも自己中か否かは、自分の言動を社会規範に照らして判断することなので、そもそも社会性が欠如していれば、認識さえもおぼつかない。つまり自覚もない、もしくは頗る甘いために判断も制御も効かないというわけです。
良く言えば「悪気はない」ということになるのかもしれませんが、いざそのときは、そんなことはなんの救いにもなりません。

貴重な社会勉強にはなったと思っています。
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響きを引き出す

響きすぎの緩和や防音のための工夫の逆が、音を鳴らすようにするためのものです。

ピアノを鳴らさない特性をもつ部屋というのがあり、床が敷き詰めタイプのカーペットであるとか、壁が布地タイプのクロス、あるいは書架などで壁一面が埋め尽くされているなどの場合、ピアノの音はかなり強く吸収されてしまいます。

これは実を云うとマロニエ君宅の環境がそれに該当し、図らずもある程度の防音効果が得られているとも云えますが、とにかくこれらの要素が重なっているために、響くという要素がまるでありません。

ピアノから出た音は、文字通りそのボディから出ている音だけで、それを増幅させるものはなにもなく、鳴ったそばから虚しく消え去るのみ。ピアノ自体の音を聴くにはよけいな響きや色付けがないぶんごまかしが利かず、繊細な調整の環境としてはいいとも云えるかもしれません。
…とかなんとか云ってみても、快楽的見地でいうと、やっぱりそれではいかにもつまらないのです。

そこで数年前のことですが、一策を講じて、ピアノの下に敷くための木の板を買ってきました。
はじめに買ったのは普通の広い合板で、それを響板の真下にあたる床に置きましたが、まあ心もちという程度で、期待したほど効果は上がりませんでした。無いよりはいい…という程度です。

しばらくそれでお茶を濁したものの、やっぱりもう少し効果がほしくなり、同じく合板ですが表面に簡単な艶出し塗装をされている大型の化粧ボードを購入、縦横にカットしてもらって4枚の板切れにしてもらって置いてみました。するとあきらかに音の立ち上がりがよくなるというか、鮮明さが出て、以前のものよりぐっと効果がありました。

このことから、同じ合板でも表面の処理ひとつで音に影響があることがわかりましたし、試してはいませんが、木の種類、あるいは石やガラスなど、それぞれに響きの違いがあることが予想でしました。

この艶出し塗装をされたボードを床に敷いていたところ、調律に来られた技術者さんから思いもよらない秘策を授けていただきました。マロニエ君としては響板の真下にということで疑いもせずペダルと後ろ足の間に置いていたのですが、それをもっと手前に置いたほうが効果的だというのです。具体的には、ペダルよりも前、鍵盤の真下ぐらいまで板が出てきた方が良く響くというものです。
その技術者さんが言うには「自分の足元より手前まで板を引き寄せる」ところがポイントだとか。

ならばというわけで、さっそくボードを手前に50cmほど移動してみると、なんとアッと思うほど音に輪郭と鮮烈さが加わりました。これはボードをより手前にもってくることで、反射する音が弾く人の耳によりストレートに立ち上がってくるのだろうと思います。

したがって離れて聴いている人の耳にどう変化しているかは未確認ですが、ともかく弾いている当人は、音にキレと輪郭が加わり、弾きごたえが出て断然愉快になりました。

この結果からいえば、ペダルより後ろにボードを置くと、音はある程度反射していると考えられますが、それが奏者の耳に達するには、足元周辺のカーペットなどが尚も邪魔をしているのだろうと思われました。尤も、部屋全体の響きという点では話は別ですが、これは少なくとも奏者がその効果を楽しむことができるという点では絶大な効果がありました。

スピーカーの音調整しかりで、こんなちょっとしたことで思いもよらない変化が起こるのですから、なるほどおもしろいもんだと思いました。

こういう体験してしまうと、それに味をしめてまたあれこれとやってみたくなるものです。
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響きを抑える

ピアノを自宅その他に据える場合、その部屋の環境によって同じピアノの鳴り方がさまざまに変化するのは周知の事実でしょう。

部屋の広さや形状はもちろん、壁の材質、家具との関係などに左右され、厳密にいうならひとつとして同じ環境はないとも云えます。これを一括りに論じることは不可能で、まさに現場対応の分野だろうと思います。

床がフローリングなど堅い素材の場合は、どうしてもカンカンと固めに響いてしまう場合があるようですし、これも単なるフローリング材と本物の木(さらにその種類)の床でかなり違うようです。

また、音への配慮は、純粋に音質・音量の問題だけでなく、近隣への騒音対策として意図的に響きを抑えるという処置を講じられることが現代は非常に多いようです。
その第一歩といいますか、最も基本的なものではピアノの前足と後ろ足の間にあたる床部分にカーペットを敷くことで音を吸収させるというのが一般的です。これで絶対的な音量が劇的に変わるということはありませんが、音の角が取れるという点で、ひとまずまろやかさを出すということかもしれません。

グランドの場合、響板が水平なため音は上下方向に強く出るという性質があり、上にはいちおう開閉できる大屋根がありますが、下は響板の下には支柱と呼ばれる木の梁が伸びているだけでとくにフタのようなものはありません。下から覗けば響板は外部にむき出し状態ですから、大屋根を閉めていれば、あとはここから出る音が最大のものでしょう。アップライトでは背後が同じ状況。

音質や響きの調整の意味で、まずはピアノのお腹の下の床に小さめのカーペットを敷いてみるだけでも、音の響き方はガラリと変わります。それを状況に応じて順次広げていくとか、素材を変えてみることで、いろいろな工夫ができますので、その経過で自分の好みの音がでる素材やサイズを探っていくのも面白いものです。

しかし、これが防音ともなると、やることの目的もレベルも一気に変わりますから、こちらの対策はいっそうハードなものになりますし、究極的には二重窓や防音室ということに行き着くのでしょうが、そこまでのコストはかけずになんとかしたいという人がほとんどだと思います。
知人にもマンションでグランドピアノを置いている方が何人かいらっしゃいますが、その防音の方法はさまざまで、みなさんいろいろと工夫してご近所に気を遣っておられるのがわかります。

また、防音効果を謳ったカーペットやカーテンなども市販されているらしく、それを使って階下への音を和らげようと役立てておられる方がありますが、実際に防音カーペットというのはどれ程の効果があるのか、できればその違いを自分の耳で確認してみたいものです。
そうはいうものの、防音カーペットの効果がどれほどのものか、通常のカーペットとの比較など実際問題としてできないのが実情で、どうしても未確認のまま購入ということになるようです。

ただ、この手合いはお値段のほうも意外に安くもないようで、やはり費用対効果という点では実際の「性能」を知りたいという方は多いと思います。

もっとも効果的な方法としては、アップライトピアノの防音によくある背後を専用の吸音材のようなもので覆ってしまうのと同じで、グランドの場合もこのお腹の下の部分を板や吸音材などで塞いでしまうと、音は劇的に抑えられるようですから、どうしても一定の防音効果が必要な場合はこれは最も効果的だと思われます。

この理論で、より丁寧な作り込みをして、メーカー自ら製品化したのがカワイのピアノマスクで、お腹の下はもちろん、その他の音が漏れ出る箇所を細かく塞いでしまう特注ピアノで、その圧倒的な効果に驚いたことがあります。体感的には「音量は半分以下だろう」という印象でした。
しかも、下部は換気窓のように開閉できるようになっているので、任意に調節できるという点も便利なようです。

ただし、これは本来朗々と鳴らしたい楽器の音を、敢えて押さえ込んでしてしまうというわけで、ピアノには可哀想なことをするようですが、現実の社会生活に於いてはピアノが中心というわけにはいきませんから、近隣への配慮という観点からすればやむを得ないことでエゴは許されません。

できることなら、楽器にではなく、部屋のほうに防音室に迫るぐらいの吸音効果のある対策が、現代の高度な技術を持ってすれば、もっと簡単・安価にできないものかと思います。
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愉快と不愉快

このところマスコミを賑わした佐村河内氏の事件は、彼が注目されるきっかけになったNHKスペシャルを、途中からですがマロニエ君も偶然見ていた経緯もあって本当に驚きました。

曲は番組内で流れるもの以外には聴いたことがなく、もちろんCDも買っていませんので、例の交響曲も通して聴いたことはありませんが、そもそもマロニエ君はあの手の副題が付いた類の、感動を半強制されるような曲は苦手なので、あまり興味は持っていませんでした。

ただ、今回の事実が発覚した後に出てきた情報によれば、青年時代までの彼は音楽とはおよそ無縁の生活を送り、高校の友人によれば当時からかなり目立ちたがり屋で大言壮語の癖があったとか。将来は役者志望だったそうで、なるほど「現代のベートーヴェン」という壮大な人物を演じきっていた「役者」だったんだなぁと納得しました。

こういう事件はむろん社会的には許されざることですが、誤解を恐れずに云うならば、マロニエ君にとって、週刊誌的ネタとしては甚だ面白く、大いに興味をそそる事件であったのも事実です。
詐欺詐称のオンパレードで、NHKはじめ各マスコミ、プロのオーケストラや音楽家、そのチケットやCDを買って涙する人々など、いわば世間をペテンにかけてしまった手腕には驚くほかはありません。はやく再現ドラマのひとつでも作ってほしいような、そう滅多にはない事件でした。

思い出しても笑ってしまうのは、さる音楽学者という人が、この交響曲のスコアを分析して、ひとつひとつの根拠を示しながら、これ以上ないという最大級の賛辞を惜しみなくならべ、大絶賛を送っていた様子などを思い出すときです。

マロニエ君もまさかこんな壮大な茶番とは思わなかったものの、ヴァイオリンの演奏を間近に聴くシーンで、弾いている女の子の体の一部に指先を添えて「その振動で聴いている」というのは、ちょっと不思議な感じがしました。

もちろん関係者は大変でしょうけれど、野次馬の一人としてはずいぶん楽しめました。

これとは逆に、笑えないばかりか、見ていてちょっと嫌な感じがしたのは、テレビでお馴染みの知識と知性を看板にしたコメンテーターの男性M氏でした。
「自分はこの人の曲を聴いたことがなかったけれど、この問題が起こってから聴いた。すると、申し訳ないけれど、後期ロマン派のマーラーにそっくりだということはすぐにわかったし、(別の曲では)バッハに似ているところがあるなど、聴く人が聴けば、どこにもオリジナリティというものがないことがわかるはず。それを検証もしなかったマスコミの軽率にも問題がある」というような意味のことを、いつもの偉そうな、自分は何でもお見通しという調子で、首を振りながら滔々と語っていました。

さらに驚いたことは、この「マーラーに似ている」という指摘は、そもそも日本フルトヴェングラー協会の野口さんという方が昨年の新潮45に書かれたものだそうで、ご本人が別番組に出演されておっしゃっていたことですが、M氏はそれにもいちおうは触れておくことも忘れず「新潮45に書かれた専門の方も私とおなじことを言っているようですが…」と、さりげなく言及。自分は音楽を専門としていなくても一聴すればその程度のことはパッと分かるし、現にそれは音楽の専門家が言っていることと見事に一致しているようだと云いたいようでした。
しかし、これはあまりにも苦しいこじつけにしか聞こえませんでした。

マロニエ君の印象では、マーラー風というのも言われればあの仰々しさなどそうとも思えますが、フィナーレなどは映画音楽的でもあったし、大河ドラマ風でもあったような覚えがありますが。

いつも時事問題に鋭い知性のメスを入れてコメントするというのがこのM氏のウリですが、要は知識こそがこの人の命のようです。しかも、この人の口から音楽に関する話を聞いたのは初めてでしたが、正直いっていかにも板につかない急ごしらえの発言という感じで、そうまでする果てしない自己顕示欲には、さすがにやりすぎの印象は免れませんでした。
この人はある程度は明晰な頭脳の持ち主かもしれないけれども、なんでもこの調子で、予定されたテーマを急いで調べて、読みかじって、集めた情報を頼りに、それをさも深い知識と見識から出てくるコメントであるように恭しく聞かせるというのが、カラクリとして見えてしまったようでした。

このときの、この人から受けた言いようのない不快な印象は、佐村河内氏と同じとは云わないまでも、そう遠くもない類似の種族ではないか…というものでした。
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紘子さんのお宅

先月の下旬だったと思いますが、民放のBSで中村紘子さんへのインタビュー番組が1時間ほど放送されました。

港区の古くからある高級マンションに彼女の自宅があり、マロニエ君が東京に居た頃からずっと紘子さんはここにお住まいで、わりにお近くでしたからしばしば近くを車で通っていたものです。

実は紘子さんのご主人が大のクルマ好きで、その関係から一度ご自宅へご一緒しましょうか?というお話がありましたが、ある意味興味津々でもあるけれど、なんとなく抵抗もあってグズグズ決断しきれないでいるうちにタイミングを逸して、その話も立ち消えになってしまいました。

ちょっと残念なような、まあそれでよかったような、当時はそんな気分でした。

番組では女性リポーターがこの高級マンションのご自宅を訪問するという趣向で、エレベーターのすぐ脇に玄関ドアがあり、それを開くとあの紘子さんが登場、笑顔で出迎えます。中へと招き入れられ、カメラもそれに続いてお宅の中へ潜入していきます。

玄関を入るなり、とにかく目につくのは、あちらにもこちらにも、たくさんの花々が活けられていることで、まるでなにかの会員制クラブのような雰囲気でした。この色とりどりの花々にとり囲まれた空間というのも、多くの人が中村紘子さんに抱くある種象徴的なイメージのひとつなのかもしれません。

いつも雑誌やテレビで見る、後ろにスタインウェイの置かれたお馴染みのリビングの他に、今回は特別サービスなのか防音設備を整えた練習室にもカメラが入りました。そこは紘子さんのいわば道場というべきスペースで、さすがにストイックな感じがあり、いつもここでさらっていらっしゃるのだそうです。

さて、インタビューの具体的な内容に触れても仕方がないので、ここでは映像からマロニエ君なりに目についた枝葉末節の、甚だくだらない印象を述べますと、意外だったのはピアノの前に置かれた椅子でした。
中村紘子さんは昔からコンサートでは決してコンサートベンチではなく、決まって背もたれのあるトムソン椅子が使われます。しかもそれを子供の発表会のように目一杯最高位置まで引き上げて、座るというよりは、ほとんどその前縁にお尻をちょこっと引っかけるようにして「全身で」ピアノに向かわれますから、よほどこの椅子がお気に召しているのかと思っていました。
ところがご自宅リビングのピアノの前には今流行のガスダンパー式のベンチが置かれ、さらにその脇には、通常のポールジャンセンのコンサートベンチもあって、普段はこれらをお使いだというのが察せられました。
どうやら、あのトムソン椅子は紘子さんのいわば本番用「勝負イス」のようです。

また、いつもお馴染みのリビングのスタインウェイはこれまでにもほとんど全身が映ることはなく、鍵盤付近のロゴが見えるアングルが固定ポジションのようで、この場所から紘子さんがいろいろなコメントを発するのがお定まりのかたちでした。そのピアノの足の太さから察するに、てっきりD型だと思っていましたが、最後の最後にほんの一瞬映ったピアノの全景によるとC型だったのはなんだかとても意外でした。ちなみにDとCは同じ足で、B以下が細くなります。
普通はDではない場合は定番のB型になるのがほとんどですから、Cというのはまたオツなチョイスです。

練習室もスタインウェイでしたが、こちらは艶消しで、おそらくはリビングにあるものよりも古いピアノだろうと思われました。こちらもサイズ的にはBかCのようでしたが、わずかなカメラアングルからは決め手が得られず、どちらかまではわかりませんでした。

今回最も印象的だったのは、さしもの中村女史も発言がずいぶん丸くなっていることで、この方からやや枯れた感じを受けたことは初めてでした。以前だったらとてもこういう言い方はされなかっただろうと思えるところがいくつもあり、ずいぶんと落ち着いた、どこか平穏な感じがしたのは、ああ中村紘子さんも歳を取られたのだなあと思います。
むろん、それだけ自分もまた確実に歳を取っているということでもありますね。
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娯楽の倒錯

それが今どきの世の中のニーズなのか、はたまた別の理由からか、そこのところはわかりませんが、このところのテレビで取り上げられる「病気」に関するネタが多いのには辟易させられてしまいます。

この傾向はいつごろからだったかと思いますが、間違っていなければ『あなたの知らない…』とかなんとかいう番組あたりがきっかけだったのではと思います。

はじめのころ、ためになるような気がして何度か見た記憶がありますが、まったくのデタラメとは云いませんがが、ほとんど偶発的な一例にすぎないような事象が脅迫的に取り上げられ、すべての人の身の上におこる可能性があるという調子で話は進み、スタジオに陣取った芸能人達も異様に恐れおののいて見せるものだから、視聴者としては際限のない不安に煽られっぱなしというものです。

しかし次から次へと内容は拡大し、これをいちいち鵜呑みにしていたら、とてもじゃありませんが普通の生活なんて送れません。
もちろん、自己管理の基本として心得ておくべき医学の常識程度なら必要ですが、あまりにそれが多岐に渡って注意々々の連続ではやってられないし、却って最低限の心得まで投げ出してしまいそうになります。

そもそも「可能性」ということになれば、人はそれぞれ生活環境も異なれば体質もそれぞれで、あまり執拗にそこをつつかれても、果たして自分の身体に有効な情報かどうかも疑わしい。
おまけに医学的研究は日々進化していて、それに基づく学説にも諸説混在して、以前の常識や定説が一夜にして覆されたりと、この点でも極めて不安定だということも忘れるわけにはいきません。

ともかくもこのようにして、スタジオに各専門の医師を呼んでは再現VTRを流して人々を脅してまわるのは、番組作りにも抑制と見識が必要で、健康管理の美名のもとに視聴者の不安を弄んで視聴率を取るのだとしたら甚だしい悪趣味だと思います。

これよりもさらに悪趣味きわまりないのは、仰天ニュースやアンビリバボーのたぐいです。
これらはほぼ類似の番組ですが、毎回取扱うテーマが異なり、世界の珍事件や魔性のオンナ、天才詐欺師の半生など、以前はそこそこおもしろい内容があるので暇つぶしに見るために録画設定していました。

ところが、最近やたらに多いのが「病気ネタ」で、中でも目を背けるのは「難病奇病に取り憑かれた子供」などを美談という逃げ道を作りながら、その病気に苦しむ人々の凄惨な様子を容赦なく写しまくりで、大半が密着取材&再現ドラマで、どうかうすると番組全体がそれひとつで終わってしまいます。

見るに耐えないような恐ろしい病気に蝕まれて苦悶している人や子供の様子を、その患部を含めてテレビカメラがこれほど追い回すこと、しかもそれが娯楽番組によって放送されるということに、マロニエ君は強い違和感を覚えるのです。

取材される側は、いろいろな事情もあって納得してそれに応じているのかもしれませんが、少なくとも放送のスタンスとして、この現状をなんとか改善に向けるための問いかけというより、ほとんど視聴率獲得のためのネタとしての扱いでしかなくのは驚くべき事です。

そのいっぽうで、現代は、ちょっとした発言ひとつが問題になり、追求を受け、責任を問われるという意味では、番組出演者もうかうか自分の考えも述べられない現状があるのも事実です。視聴者からクレームがつき、スポンサーからクレームがつけば事の是非を問うことなく、問題発言は削除され、その人は番組を降ろされるという構図が横行しています。

そうかと思えば、こんな悲惨な病気の話ばかりを娯楽番組が全国放送でお茶の間に垂れ流すのは、倫理的にも何の問題もないのか…今の世のルールというものがどうなっているのか、マロニエ君にはまったく見当もつきません。
早い話が、娯楽番組は潔く娯楽に徹するべきで、難病奇病がレギュラーネタとは、娯楽の在り方があまりに倒錯的すぎはしないだろうかと憂慮の念を禁じ得ません。
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ワクワク?

最近は郊外のドライブスポット「道の駅」に代表されるような、各地域の物産などを扱う集合直売所のような形態がずいぶん流行っているようです。

友人から教えられて、いわゆる「道の駅」ではないものの、ほぼそれに近いもので話題の店があるということを聞きました。しかもそこはこのスタイルの店舗としてはなんと全国一の売り上げを誇っているとかで、さぞかし新鮮な食材が山積みなのだろうと思い、先週末行ってみました。

マロニエ君宅から車で1時間ほどかかる田舎の幹線道路の近くにそれはあり、やはり行ってみるとそれなりに遠いなぁという印象は免れません。なるほど大きな建物、広い駐車場など、期待を抱きながら車を止めていざ店内に入りました。

しかし、結果から先に云うとまったくマロニエ君好みの店ではありませんでした。
もともと低血圧で、午前中から外出するということが嫌なマロニエ君としては、どうしても昼食後の出発になり、到着したのは3時をまわっていましたが、肉魚などの生鮮品は大半がなくなっており、あちこちのケースにはかろうじてぽつぽつと売れ残りがある程度で、なんだこれは!?という状況でした。

野菜などはまだいくらかありましたが、いずれにしても完全にここのゴールデンタイムは過ぎ去った後の残りカスといった風情です。
一気にシラケて、普段ならそのまま店を出るところですが、せっかくそのために時間を費やし、ガソリンを使ってせっせとやって来たわけですから、せめて何かを買って帰ろうと無理にあれこれ探し回って、とりあえず不本意ながらカゴ一杯の買い物をするだけはして店を後にしました。

そこでマロニエ君の印象を総括すると、多くの生産者がそれぞれの商品を持ち寄って売っているために、商品の種類や量に一貫性がないこと、売れ残りを嫌ってか、全体のバランスから云うと肉魚のスペースが小さく、野菜などの農産品がむやみに多いようです。
さらに感じるのは、田舎の直売と聞くといかにも新鮮で安いというイメージを抱きがちですが、鮮度はどもかく、値段は決して安くはないということです。

この点に関しては田舎とか地元だからという配慮は皆無で、まさに街のド真ん中と同レベルもしくはそれ以上の強気の価格設定で、まずはがっかりしましたが、考えてみればこれは実はよくあることなのです。

田舎の皆さんが商売をされるときの多くは、都会の価格を参考にされるのか、それと同等の価格設定にしてしまうことですが、利用者にしてみればそんな遠くまで行った挙げ句、街中と同等の値段であればちょっと説得力がないように感じます。生鮮品の価格というのは、産地から消費地への輸送費はじめ、様々な経費がかかってはじめて算出されているもの。

いかにも本来なら業者に支払うべき中間マージンをそっくり自分達の儲けにしているという印象が免れません。スーパーやデパートは、多大な設備投資、人件費、税金、宣伝費など膨大なコストがかかる中で、さらに厳しい価格競争にもさらされ、売価は緻密に定められたものですが、そういう途中経過ぬきに同等の数字だけをもってきた印象です。

ぜんぜん安くないと首を捻っていたら、偶然、ある日の朝刊にここの記事が大きく採り上げられていて、「価格はスーパーより高い」ということがはっきり書かれていました。
それでもお客さんは、生産者が持ち寄る野菜などが日によって違うため「今日は何が出てくるか」というようなことをワクワクしながら楽しみに来ているのだとか。ということはお客さんも比較的ここの周辺在住の方が主流じゃないのかと思われます。

なんとなくよくわからない世界ですが、これはこれで不思議に成り立っているようです。
近ければまだしも、苦手な早起きをし、往復2時間のドライブをしてまで、日替わり野菜を求めてワクワクするなんて、とてもじゃありませんがマロニエ君にはできそうにありません。
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ピリオド調律?

最近のN響定期公演ではロジャー・ノリントンの指揮が多いようです。
彼の得意なベートーヴェンのみによるレオノーレ第3番、ピアノ協奏曲第3番、交響曲第5番というプログラムの演奏会の様子が放映されました。

ピアノはラルス・フォークトで、ノリントンの要求によりこの日もピアノはオーケストラの中に縦に押し込まれ、フォークトは客席に背中を向けるかたちでの演奏となりました。

この日の映像で目についたのは、NHKホールのステージ奥には縦長の巨大な反響板とおぼしきものが5枚立てられていることで、これによってオーケストラの音は一気にクリア感を取り戻し、同時に空間に抜け散ってしまうパワーも以前に比べるとだいぶ出ていたように思います。

とくにステージ奥に横一列に並んだコントラバス群がその反響板の恩恵に与っているためか、低音のずしりとした響きが加わって、レオノーレ第3番ではおやっと思うほどの効果が出ていたようでした。

続くピアノ協奏曲第3番では、長い序奏に続いてピアノがハ短調のスケールで力強く入ってきますが、ここでいきなり肩すかしを喰ったような印象を受けました。
単純に言ってしまえば、まるでピアノが鳴っていないかのような音で、はじめはマイクの位置の問題だろうかとも思いましたが、どうもそうではない。そもそもスタインウェイの平均的トーンすら出ていないし、カサついたまるで色艶のない音には違和感ばかりが先行しますが、ほどなくその理由がわかったような気がしました。

あくまでもマロニエ君の想像の域を出ませんが、ノリントンのピリオド演奏の様式に合わせるように、ピアノもフォルテピアノ的なテイストを与えるべく、意図的にそのような調律がされているのだと理解しました。
同時に、調律でそこまでのことができるという可能性にも感心して、ある種の面白さも感じなくはありませんでしたが、とはいっても、とても自分の好みではないことは紛れもない事実でした。

そこまでするのであれば、いっそ本物のフォルテピアノを使うべきではないかと思いますし、テンポやピリオド奏法や解釈など、作曲当時の諸要素に徹底してこだわるというのであれば、当然ながら会場のサイズにも配慮が必要で、ベートーヴェンがNHKホールのような巨大ホールをイメージしていたとは到底思えません。

枯れた弱々しい伸びのない音を味わいだと云うのであればあるいはそうかもしれません。しかし、一方では骨董的な甚だ貧相な音にも聞こえるわけで、どうにも消化不良気味になるという側面を持つのも事実だと思います。さらに大屋根を外しているので音は上へ散ってしまい、せっかく立てられた反響板もピアノにはほとんど役に立っていないようでした。
いろいろな試みに挑戦することは創造行為に携わる芸術家として見上げたことだと思いますが、結果がある程度好ましいものに到達できていなければ、やっている人達の自己満足のようで、幅広い意味を見出すことはできないのではと考えさせられてしまいました。

ノリントンの好みや方法論によれば、協奏曲でも独奏楽器とオーケストラが融和し一体となって音楽を作り出すことのようで、それは大いに結構なことですが、だからといってピアノ協奏曲に於けるピアノの音がオーケストラの中へ埋没したように音が弱く、p/ppでは聞き取ることさえ苦労するようでは、一体化もいささか行き過ぎではないかというのが正直なところでした。

フォークトの演奏は、基本的なものがしっかりしている反面、ディテールの表情に恣意性と誇張がみられ、音楽が自然な流れからしばしばはみ出すようで、聴いていて心地よく乗っていけない部分があるのが残念だと感じました。
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ピアノポリッシュ

車の艶出し剤のことを書いた流れで思い出しましたが、昔からマロニエ君はピアノの付属品の中に必ずといっていいほど入っている定番商品──ピアノユニコンはどうしても上手く使いきれず好きになれません。

ユニコンという言葉の意味が調べてみてもいまひとつよくわからず、なんとなく成分がシリコンなのかもしれないと思ってボトルを見てみると、案の定、成分表示に「シリコンオイル/非イオン界面活性剤」と記されています。
「汚れや手アカを落とし、つきにくくすると同時に艶を出す」という効果を謳っているので、表面の滑りを良くして輝きを出すという目的からシリコンオイルという判断なのかとも思いますが、能書きはどうであれ、要するに使ってみてこれほど使い方が難しく、仕上がりに満足できないものはないというのが昔からの印象でした。

白い液体を柔らかい布地に含ませてピアノの塗装面に塗り広げるものですが、自分で云うのもおかしいですが、洗車マニアでならしたマロニエ君としては、自分なりの磨き技術を駆使してやってみるものの、どんなに丁寧に拭き上げようと努力しても、あちこちに油性のムラが無惨に広がるばかり。これを無くそうとすると、延々とこの液体を塗りまくってムラを埋めていくことになりますが、結局は油性のベトついたイヤな部分が増えていくだけで、本質的な解決には至りません。

感触もギシギシした油っぽいもので、艶もオイルを浸透させることで得られるコッテリ系のもので、品位のある美しさとは程遠い印象です。
ピアノの表面は斑の艶に覆われ、かえって薄汚れたような感じになってしまいますから、これだったら単純な水拭きか、艶が出したければ自動車用ワックスでもかけたほうがまだいいような気がします。

こういうわけで、メーカーなどから販売されているピアノユニコンの類は一切使わないできましたが、昨年たまたまこのピアノユニコンの新品をいただく機会があり、さすがにもう時代も変わって改良されているだろうという期待を込めて恐る恐る使ってみると、果たして結果はまったく変わらずで、なにひとつ進歩していないことに愕然とさせられました。

車の塗装面のケア剤が日進月歩で驚くばかりの高みに達している事実に比べて、メーカー推奨のピアノユニコンは旧態依然としたものを作り続けているようで、そもそも大半がサービスでつけるだけのピアノ磨き剤なので、より良い品を開発しようという意志も意欲もないということなのか…。

それにしても不思議なのは、実際にこれを使った人達からよくまあクレームがつかないものだということです。とりわけ新品ピアノを購入されたお客さんなどは、真新しい一点の曇りもないピアノにこの艶出し剤を塗りつけることで、直前までの完璧に美しい均質な塗装面は、油による艶とも汚れともつかないような斑状態に変化してしまい、ショックじゃないのだろうかと思います。

その点では、車関係のケア剤は遥かに良品が揃っていますが、これをピアノに応用することは一応目的外使用になるので、自己責任でおやりになる方以外、やはりこういう場でのおすすめはできません。

そこで「ピアノ用」としてマロニエ君が知る唯一の合格点アイテムは、以前も少し書いた覚えがありますが、ソフト99から発売されている『ピアノ・家具・木製品 仕上げ剤』という商品で、これはホームセンターなどで500円ほどで売られているものです。
歯磨きのようなチューブに艶出し剤が入っていて、それを柔らかい布でうすく塗って、さらに着古した下着(メリヤス生地)などで拭き上げていくものです。

これはピアノユニコンとはまったく別次元の美しい仕上がりで、そのための特別な技術も必要とせず、ムラもほとんど出ることなく、どちらかというとクルマのコーティング剤に近い使い方と仕上がりだと思います。
おまけに艶にも節度があってこの点も好ましいものです。そもそもピアノの艶の美しさはやや控え目なものでなくてはならず、むやみに油性系のぎらつきを与えてオートバイみたいに自慢するようなものではないというのがマロニエ君の好みです。
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端正と解放

日曜は、「日時計の丘」という瀟洒なホールがシリーズで開催している、バッハのクラヴィーア作品全曲連続演奏会の第4回に行きました。

演奏はこのシリーズを初回から弾き進んでおられる管谷怜子さんで、今回はフランス組曲の第4〜6番、トッカータのBWV913、914、912。
冒頭フランス組曲第4番の開始早々、予想外の静けさとたっぷりしたテンポは意表を突くもので、ハッとさせられましたが、すぐにこれは熟考されたものであることが了解でき、たちどころにこの日の音楽世界にいざなわれます。

まるでこの日のコンサート全体の幕が、この悠揚たるアルマンドの提示によって静かに上がっていくようで、こういう出方をされると、いやが上にもこれから始まる音楽への敬意と期待で胸が膨らみます。

管谷さんの特徴は、まったく衒いのない表現が、澄みわたる完成度をもって聴く者の心に直に響いてくることだと思います。思慮に満ちた端正なアプローチでありながら、その演奏は常にのびやかに解放されており、決して型の中だけで奏でられる小柄な音楽ではないことは特筆すべきことです。

とりわけ弱音の美しさとバランス感覚には目をみはるものがあり、どんなにピアニシモになっても音の肉感が損なわれず、音楽の実相がまったく弛緩することがないため、繊細な部分ならではの音楽の豊かさを感じる喜びに満たされます。そして必要とあらば圧倒的な推進力をもってその演奏が勇躍するさまは感銘を覚えずにはいられません。

フランス組曲では、各舞曲が決然としたテンポ設定で弾きわけられているのが印象的で、良い意味で前後影響し合うことなしにそれぞれが独立しながら隣接しており、だからこそ組曲としての端然とした姿が描き出されていることを実感できました。

トッカータでは、デリカシーとドラマ性、潔さと苛烈さが的確に機能して、若いバッハのほとばしるエネルギーを赤裸々に皮膚感覚で体験するようでした。

アンコールはカプリッチョ「最愛の兄の旅立ちにあたって」。

ピアノはこの会場の1910年製ブリュートナーですが、104歳にしてますます音の重心が座って色艶を増してきており、決して大きくないボディから朗々たる美音が放射されて会場の空間を満たすのは驚くばかりです。
専門家の中には、したり顔で「ピアノは弦楽器と違って完全な消耗品、せいぜいン十年が寿命です」などと断じる人がいますが、ぜひこういうピアノを聴かせてみたいところです。枯れた音色を消耗した音だとみなすなら、ストラディヴァリウスでも消耗品で、決して未来永劫のものではありません。

マロニエ君は古いディアパソンを購入してからというもの、新しいピアノに対する興味が減退する一方で、このような佳き時代の、馥郁とした温かさとパワー、人の情感に寄り添うような多彩な表現力をそなえた「楽器」を感じるピアノがこれまでにも増して魅力的に映るようになりました。
この魅力の前では、多少の鳴りムラや些細な欠点など問題ではありませんし、味のない機械的な音がいくら均質に揃っていてもそこに大きな価値があるようには思えないのです。

それだけ自分が歳をとったということかもしれませんが、やっと身をもってわかってきたような気がします。
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ゼロウォーター

前回の続き。
拭き取り不要のコーティング剤を比較するサイトなどを参考にさせてもらって、ひとつの結論に到達しました。

シュアラスターのゼロウォーターという製品で、このメーカーは自動車用ワックスメーカーの中では老舗中の老舗で、むかしからその品質には定評がありました。
これは自動車大国アメリカの製品で、これに追いつけとばかりに日本製にもいろいろと優秀な製品があらわれたものの、この分野でのシュアラスターのトップの座は揺るぎませんでした。

そのうちに、ワックス一辺倒の時代からコーティングが主流となる時代が到来しますが、そのつどシュアラスターも時代の要請に応じた製品作りをしてきたようです。
そのシュアラスターが送り出した拭き取りの要らないコーティング剤が「ゼロウォーター」というわけで、メーカーも自社の威信をかけて開発した製品だろうと思われます。

使い方はごく簡単で、車を水洗いして水分を拭き取る際に、このコーティング剤をシュッとスプレーし、付属のウエスで拭き上げていくだけです。しかも使用量は50cm四方にワンプッシュとあり、しかも作業が簡単なことは、これまでの洗車の常識からすればウソじゃないかと思ってしまうレベルで、クルマの艶出し作業に於ける、あまりのドラスティックな変革に感覚が付いていけない感じでした。

しかもスプレー式のノズルからは発射される液量は少なめで、さすがに耐えられなくなってそれよりも余計に使ってしまいますが、いずれにしてもこんな呆気ない作業というか、そもそも「作業」と呼ぶのも憚られるような施工で、本当にコーティング効果が得られるものなのか甚だ疑問でした。

ともかく一通り全体にこの作業を施して、そのあとはガラス磨きの仕上げなどをやって、ふともう一度車を見ると、!?!?、たしかにボディがひとまわり輝いていることがわかりました。
それは昔のワックスとも、各種コーティング剤とも違ったタイプの輝きで、皮膜の厚みは感じませんが、もっと底からカチッと光る状態になっており、これはすごい!と思いました。

しかも従来のワックス/コーティング剤とは桁違いの安楽な使用法が最大の特徴でもあり、洗車の度に、水滴の拭き上げのついでのような形で重ね塗りができるので、たちまちゼロウォーターに乗り換えてしまいました。

さて…。
実を言うと、マロニエ君は昔から車のコーティング剤などの中から、これは!と思えるものはピアノにも応用して、それなりの効果を確認してきた面がありました。
中にはピアノ専用などと謳われているものより遥かに優れたものもいくつかあり、長らくピアノのポリッシュなどは買ったためしがないほどこれで間に合っていました。

というのも、車の塗装のほうがある意味ずっと繊細かつデリケートで、その点ではピアノの塗装はがっちり分厚く、塗装というよりはほとんど黒もしくは透明のプラスチックでコーティングされているようなものなので、こちらのほうがよほど頑丈のように感じます。

この分厚いチョコレートみたいな塗装こそがピアノの音色を大いに阻害している面もあるようで、純粋に音だけでいうなら塗装を全部剥いでしまったほうが遥かに軽やかでナチュラルで柔らかな響きが得られるはずです。そういう意味では、とことんピアノの音にこだわり、そのためには何事も厭わないというのなら、ピアノの塗装を全部落としてしまうといいと思います。

話が逸れましたが、このゼロウォーターをピアノに使ってみるか否か、それを思案しているこのごろです。
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拭き取り無し

少し前の事ですが、友人と電話でしゃべっていると、洗車に関して新情報が寄せられました。

マロニエ君はむかし、ちょっとした洗車マニアだったのですが、さすがに最近ではそれを発揮することも激減し、ごくたまに仕方なく車を洗っているに過ぎません。
ちなみにマロニエ君は、身についた愛車精神の観点から、いかなることがあっても洗車機に車を突っ込むというようなことはしませんから、この点だけは今でも洗車=自分での手洗いを貫いています。

むかしは洗車後はワックスをかけるというのが、いわばこの道の常道で、ワックスのかけ方にもさまざまなワザやノウハウがあったものですが、時は流れ、そのうちコーティングの時代がやってきます。

ワックスでは文字通りのカルナバロウでできた固形物を塗装面に薄く塗り、まさに今だというタイミングで拭き上げて深い艶を出すのが目的でしたが、コーティングの時代になると仕上がりの美しさと同時に塗装面の保護という意味合いを帯びてきて、ただギラギラ光らせて喜ぶ時代から、その目的も複合的なものへと変わって行きました。

マロニエ君にも長年の経験から、これだと決めているコーティング剤があって、もうずいぶん長いことこれ一筋でしたが、このところ新製品にはすっかり疎くなっていました。

ところが、友人の情報によると、もはやその手のコーティング剤は使っていない由で、いま流行の「拭き取り無し」タイプを使っているのだそうで、これが話によるとなかなか良さそうで、聞くなり試してみたくなりました。

もともとマロニエ君は、「カーシャンプーと同時にワックス効果がある」とか、「水洗いナシで汚れを落として艶を出す」などという便利型の製品は、自分の経験からろくなものがなく、要するに妥協の産物だということを知っていましたから、この手の拭き取り無しタイプもてっきりその手合いだと思い込んでいて、存在だけは知っていましたが、まったく見向きもしていなかったのです。

しかし、考えてみると使いつけのコーティング剤もまだ販売はされているものの、既にずいぶん古い製品ですから、世の中の他のジャンルの発展ぶりを考えてみても、この分野とてかなり進化していても不思議はないと思われました。

洗車で最も大変なのは、ワックスにしろコーティング剤にしろ、その拭き取り作業にあるわけで、時間もかかり、それなりに集中力と体力を要し、ただやみくもに頑張ればいいというものではなく適正な技が要求される作業で、これを満足に仕上げるのはなかなか大変です。そこが洗車の醍醐味だといえばそうですが、かといってその大変な労力が激減されるのであれば、やはり今の自分には魅力だとも思いました。

友人はマロニエ君が(かつての洗車マニアなので)満足するようなものではないかも…と言いながらも、その製品名などを教えてくれて、久しぶりにすっかりその気になり、いそいそとカーショップへ赴きました。

ところが、店頭には同種の製品があれこれと並んでおり、友人が使っているというものの他にも良さそうなものがいくつかあって、これは即断せず、いったん引き上げて調査をしてから出直すべきだと直感的に感じ、このときはなにも買わずに帰ってきました。

その夜、さっそくネットでこの分野を検索してみると、やはりいろいろと情報が出てきて、中には自分の車を試験台にして、あらゆる種類の「拭き取りなしのコーティング剤」をテストしているディープなマニアのサイトまでありました。
この人は、もちろんシロウトですが、なんとメーカーからも一目置かれて新製品など使ってみないかと申し出られるほどの人物のようです。作業性や艶、耐久力、値段など実に10項目に及ぶ採点までしていて、さすがに参考になることが満載でした。

驚いたことには、洗車そのものを楽しむクラブまで存在していて、いやはや、どの世界も道も極めるということはなんと奥深い、楽しい、そして馬鹿馬鹿しい世界かと、呆れつつも共感させられて笑ってしまいました。
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貧しき遺伝子

厳しい寒さが続いています。

お鍋の季節真っ只中とあって、スーパーや食料品店に行くと鍋料理の食材を集めたコーナーがあちこちに設置されています。そこにはパック詰めされた各種お鍋のスープがこれでもかとばかりに並んでいますが、以前に比べるとその種類も飛躍的に増えて、聞いたこともないような名の新しい鍋料理もいろいろあって感心させられます。

代表的なところでは寄せ鍋や、博多なら水炊きといったところでしょうが、これらのスープにはいつも不思議で仕方ないことがあります。

大半のスープの量は750〜800mlで、触るとブカブカした袋には決まって「3〜4人分」と書かれていますが、これってそもそも表示された人数に対して適量だろうかと思います。この手はストレートタイプなので、袋の中に入ったスープが正味の量となるのですが、とてもじゃありませんが我が家はいつも足りません。

3〜4人はおろか2人でも甚だ心もとない量で、本当にこれでみなさん量的に満足されているのだろうかと思います。二つ使いたいところですが、そうなると金額的にばかばかしくなりますし。

マロニエ君は大抵のことは日本のモノや習慣や尺度は好きですし、むろん慣れてもいますが、ことこういう食に関する量の基準だけは、日本って貧しいなぁと思ってしまいます。

上げ底なども日本の悪しき文化のひとつで、世界的にもとりわけ商品クオリティの高さで信頼される国でもあるにもかかわらず、量的な部分になるととたんにしみったれた習性が露わになります。海外に行くと、欧米はむろんのこと、たとえアジアの近隣諸国でさえ、量に対する尺度が日本とはまるで違うことを痛感させられます。
べつに高級店でなくても「一人前」というものに対する量の保証がきっちりあるのは、本来当たり前のことかもしれませんが、日本人の目にはそれが感動的に映り、その量だけで彼我の違いを感じます。
この点では日本人は昔から量的ミニマムに慣れっこです。

こんな他国の社会のなんでもない量的尺度からみると、日本は食に関しては所詮は貧しかった遺伝子が大和民族の心底からいまだに抜けきれないのだろうと思わずにはいられません。
昨年は日本料理がユネスコの無形文化遺産へ登録されたそうで、それはそれで結構なことですが、思うに日本料理のもつ気品と洗練の元を辿れば、そもそも食の貧しさと絶対量の不足に源流があるのではとさえ思います。

高度な技や凝った盛りつけ、器との対比、季節ごとの貴重な食材を珍重するなど、繊細な感性や精神性までも取り込んで、ついには芸術的な高みにまで到達したのはなるほど見事だと思います。
しかし、見方を変えれば皿数ばかりで、盛りつけというより飾り付けのようで、どれもこれもがつまみ食いのように少なく、それに不服を唱えればたちまち風流も情趣も解さない野蛮人のように扱われてしまいます。

しかし、やっぱり元を辿れば少ないものをいかに尤もらしく美しく見せるかという、知恵や言い訳から出発した文化ではないかと思うのです。日本の伝統的な美術が空(くう)を多用し、そこに深奥なる意味をもたせることで表現の粋を凝らしているのはわかりますが、食にまで空を求めるのだとしたら、これはいささか逸脱が過ぎるようにも感じます。

冒頭の鍋用スープも、あれで3〜4人分という表記でも一向に問題にならず、各社一斉に同じ量で横並びに製造販売され、消費者のほうも常にカスカスの量でガマンするが普通なのは、世界中でも日本だけではないかと思います。
国際基準的にいえば、あれはたぶん一人分じゃないかと思います。
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ロバート・レヴィン

過日のツィンマーマンのブラームスに続いて、貯まった録画からノリントン指揮N響、ロバート・レヴィンのピアノでベートーヴェンのピアノ協奏曲第2番を聴きました。

ノリントンは今日の大きな潮流である古典奏法を用いる指揮者の一人で、一貫してヴィブラートと使わない演奏は好みが分かれるところだと思います。
ロバート・レヴィンはフォルテピアノ奏者として有名な人なので、てっきり古楽器による演奏かと思っていたら、サントリーホールのステージ置かれているのは現代のスタインウェイでした。

それでも普通と違うのは、大屋根が取り払われ、オーケストラの中央に客席にお尻を向けて、縦にピアノが突っ込まれている点で、客席とレヴィン氏の顔が向き合う形になることでした。

ノリントン氏は協奏曲の場合はいつものようにオーケストラの中に入り、ピアノのすぐ横の向かって左から、やはりレヴィン氏と同じく客席側を向いて愉快そうに指揮をします。
開始早々からレヴィン氏はオーケストラに合わせてオブリガート風にというか、とにかく思うままにピアノを弾いており、やがてソロパートになればそれを弾き、そこを通り過ぎればまたオーケストラと一緒に弾いているというもので、まるでバッハの協奏曲のようなスタイルでした。

以前ほどこういうスタイルも珍しくはなくなったとはいうものの、まったくの違和感がないといえば嘘になり、一定の理解と慣れができてきているものの、マロニエ君はいまだに長年慣れ親しんだスタイルのほうが落ち着くのも正直なところです。
しかし、すでに以前ほどの抵抗はないどころか、これはこれで面白いと素直に思えるようになったことも正直なところで、なによりもロバート・レヴィンはモダンピアノを弾かせてもなかなか見事なものでした。

古典奏法の第一の意義は、作曲された時代考証に沿った演奏スタイルを取り入れることで、作曲家がイメージしたオリジナルの姿に近づけることで、その響きや音楽言語も作品本来の声やイントネーションで語らせるということだろうと思います。
テンポやアクセント、楽器の鳴らし方などが違うから、より鮮やかで活力のあるもののように云われますが、マロニエ君は考証や奏法の問題だけには留まらないないという気がします。
それはまず、新しい挑戦をする演奏家達の、音楽に対する覇気や意気込みの違いが大きいのではないかと思います。

今回もレヴィンの演奏を通じて感じたことは、演奏者の音楽に対する最も基本となるスタンスの問題でした。モダン楽器の奏者が十年一日のごとく同じ曲を決まりきったように演奏することで、ある意味、狭さとマンネリが避けられないまでに迫ってきているのに対し、古典奏法の奏者は常に思索的で挑戦的で、音楽の意義と原理に対してより謙虚で敏感であろうとしていることを痛感させられます。
演奏に際して、常に創造性をもって模索を怠らないことは大いに注目すべきであるし、モダン奏者はこの点でいささか怠惰であると感じずにはいられません。

モダン楽器の演奏家は、作品への畏敬の念や音楽が本来もつ愉悦性や率直な魅力を忘れ、自己が先行するなど、やや本道から外れ気味のところへ意識が行っていると感じることがしばしばです。

かといってマロニエ君自身は、ピリオド楽器や古典奏法のすべてを受け入れ切れているとは云えず、やはりモダンのほうに安堵と喜びを感じる部分が多分に残っているのも事実です。
それでも演奏家が音楽と対峙するすずしさや喜びの姿勢が、モダンではやや崩れている、あるいはないがしろにされていると感じるのは否定できず、その点では心地よい時間を楽しめたように思います。
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プロ意識の奥行

ここでは必要ないと思われますので、敢えて固有名詞は控えます。

それでもわかる人にはわかる事でしょうが、そのときは、あくまでマロニエ君が個人的に感じたことということで寛大に受け止めていただけたらと思います。

先ごろ日本人のさる有名アスリートが活躍の拠点を海外に移すべく、大変な注目の中、日本を旅立っていきました。
その様子をニュースでチラッと見ましたが、空港に詰めかけた大勢のファンに対する謝意やサービスはおろか、これという反応や挨拶もなく、この人物はこのような報道カメラの砲列と夥しいファンの歓声は、自分にとって空気のように当たり前だと思し召すのか、不機嫌そうにサングラスをかけ、黙して昂然と搭乗ゲートへと歩を進めて行きました。

マロニエ君が以前聞いた話では、野球選手がメジャーリーグなどへ移籍して、はじめに彼我の違いに驚かされるのは、彼の地での選手達に科せられたファンサービス義務の厳しさだということでした。
プロたるものはファンに対する多くの責務を負っており、とりわけ人気プレイヤーともなるとその義務の度合いもいっそう高まるのだそうで、いかなるスター選手といえども、ファンあってのプロ活動であり、ファンを大切にしなくてはいけないという鉄のルールが身体に叩き込まれているといいます。

日本人選手にはまるでそういうプロフェッショナルとしての厳しさが見受けられず、むしろ逆のような印象です。有名プレイヤーになればなるほど笑顔は消え去り、ことさらに不遜な態度で、ファンとは身分違いのようにふるまうことが一流プレイヤーの証しのごとくで、まるで封建時代のお殿様と民衆の関係のようです。

件の選手は、野球でないためかさらにその傾向が際立つ印象で、それがスターとしての自分のステイタスであるかのようですが、日本人はファンもマスコミもそのあたりに関しては寛大なのか、だらしがないのか、いずれかわかりませんがとにかくそれでまかり通る社会のようです。

ところが、一歩海外へ出れば、そんな日本だけで許される慣習は通用しないと見えて、到着後さっそく厳しい言葉が現地の新聞に踊ったようです。

「彼にはスーツは似合わない」「あのスーツが良くないのではなく、スーツが彼には似合わない」「もっとスポーティな服装のほうが似合うのでは」「あのサングラスはなんだ」「まるでヤ○ザのようだ」「○○(過去の日本人選手の名前)のほうがまだ洗練されていた」などと、はやくもズケズケと手厳しい言葉が連なったのはちょっと痛快でしたが、この程度の批判をされるほうがむしろ自然であって、却って日本での過剰な扱いの不自然不健全さが浮き彫りになるようでした。

あとから知って驚いたことに、なんとこの方は、本業のスポーツの次に大事なのが自分のファッションなのだそうで、高額なブランド品に身を包み、ヘアーのお手入れだけでも数時間をかけているというのですから驚倒しました。
その本業の次に大事なものを、ファッションの国のマスコミからいきなりダメ出しのカウンターパンチを喰らったわけですから、なんともお気の毒といったところです。

でも、そもそもスポーツの選手というものは、大衆相手の人気商売なんだから、周りから勝手放題なことを浴びせられるのもいわば仕事のうちで、日本のように腫れ物にさわるように、高いところへ奉って有り難がって、なにひとつ率直なものが言えないということのほうが、よほどどうかしていると思います。

熱烈なファンともなると、応援のためには会社を休み、高い航空券を買って海外にまで赴く人も珍しくないそうで、瀬戸内寂聴さんではありませんが、そんな無償の愛をありがたいと骨身に刻んで粉骨砕身励むのがスター選手のプロ意識であり、社会もそれを選手に教えていく環境が必要だと思います。
つまりこの選手個人というよりも、ずっとそういう態度を容認してきた日本のマスコミとファンの甘やかしにも責任の一端があるように思うのです。
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機械的強味

昨年末、ステファン・パウレロのピアノのことを教えられたことがきっかけで、このところ、いろいろとこのキーワードに触れることになりました。

ステファン・パウレロ氏はピアニストでピアノの設計者、さらにはピアノ製作家でもあるようで、一部では天才技術者とも認識されているようです。
さっそく稀少なCDを購入して、パウレロ氏の設計製作によるピアノの音を聴いてみたのは以前書いた通りですが、とりあえず音の傾向も(自分なりですが)掴めてきたような気がします。

また、彼の設計だという中国生産のウエンドル&ラングやフォイリッヒの218もYoutubeで可能な限り聴いてみました。このふたつと、その製造会社であるハイルンの、少なくとも3つのブランドでこの218モデルを共有しているのは間違いなく、ブランドによって最終的に味付けなどが異なっているのだろうかと思いますが…そこはよくわかりません。

パソコンにタイムドメインのスピーカーを繋いでさんざん聴いてみましたが、たしかに今風の音でよく音が出ていると思われ、まずは率直に感心しました。しかし、もうひとつ惹きつけられるものがなかったことも事実です。

もちろん値段が値段なので、それを分母に考える必要はありますが、低音にはそれなりに轟然とした迫力があるし、中音以上は音の周りに柔らかな響きの膜みたいなものがまとわりついていたりと、なかなかのものだと思ったのも正直なところです。
ただし、なんとなく音の芯が強めで、あくまでもマロニエ君の好みですが、どこかクールといった印象を受けます。それは安い中国製から超高級なフランス製ステファン・パウレロ・ピアノまで、どことなく共通しているようで、設計者が同じというのはこういうことかと妙に納得してしまいました。

そんなとき、携帯に知人からメールがあり、「ステファン・パウレロ氏はかつてヤマハのC3Bも設計したらしい」と書かれており、はじめは驚きましたが次第に合点がいきました。最新のヤマハはよく知りませんが、言われてみれば昔のヤマハと相通じるものを感じていることに気付いたからです。

一台だけを聴いていとパワフルだし、ムラもなく確実な音が出るし、製品としてもそれなりの筋が通っているので、つい納得させられてしまうのですが、時間を置くと、ピアノという楽器を聞いた後の余韻の美しさみたいなものが心に残らない…そんな印象を持ちました。
聴いているときは悪くないと認めつつも、酔いしれるということがなく、感心はしても平常心のままで、それ以上には至りませんでした。

全音域に均質感があり、適度に迫力やパンチがあるので、こういうピアノは短時間の試弾などでインパクトを得やすく、わかりやすい訴求力があるので、広い層からの支持を得られやすいだろうと思います。
まさにヤマハがそうであったように。

218は文字通り奥行きが218cmなので、ヤマハで云うとC6XとC7Xの間ぐらいのサイズです。
価格は日本国内の定価が280万円で、値引き幅もあるようなので、コストパフォーマンスは相当高いと思われます。同工場製のウエンドル&ラングも、最近では国内の優良ピアノ店でもぽつぽつ取扱いがあるようなので、そのあたりを考え合わせると、いわゆる巷にあふれる中国製のデタラメなピアノではないのだろうとも思います。
もしもピアノを好きなだけ買えるような大金持ちなら、どんなものやら試しに買ってみるのもおもしろいでしょうし、一定の興味はそそられます。

ただ、楽器として長い付き合いのできるピアノかどうか、あるいは道具と割り切ってガンガン使うには機械的な耐久性などがどうなのか…このあたりはまったくの未知数でしょう。
実はそのあたりを疑問視する声を間接的に聞いたことがありますが、耐久性はピアノの極めて重要な要素のひとつなので、いくら音がよくて安くてもわずか数年で問題が起こるようでは困ります。
その心配のないことが証明されれば多くの支持を集めるのかもしれません。

その点では、ヤマハの機械的な耐久力が抜群であることは世界にも定評がありますから、とにかく冒険を避けたいという向きにはやはりヤマハは最終的に強いですね。
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休日過多

昔に比べて休日があまりに多いのは、ときとして有難味がなくなってしまいますが、多くの人はこの多休(造語)を本当に楽しんでいるのでしょうか…。

マロニエ君の子供のころは、学校はもちろん、会社やお役所など、土曜も休みではなく、つまり世の中全体が一週間のうち6日間を仕事や学校に費やすのが当たり前でした。
そのうえ祝日も今よりも少ないし、おまけに日曜と重なっても月曜への振り替えなどもありません。

週末といえば土曜のことで、日曜日というわずか一日の休みを大事に楽しく過ごしていた事がウソのように、最近は休み休みの連続で、週休二日が定着するようになった頃から社会の活気もだんだん失われたきたように感じてしまいます。
むかしの日本人は「働き蜂」とか「蟻のよう」などとさんざん揶揄されながらも、せっせと勤勉に働くことで国や社会を盛り立て、一方では仕事一辺倒だの余裕がないだのと非難の的にもなりました。

しかし、もともと日本人は欧米人のようにバカンスの習慣はないし、彼らとはしょせん遊びのケタが違います。よって長期休暇を心ゆくまで楽しむようにはできていない民族のようにも思えるのです。長い歴史を通じて民族の身体に染み込んだ習慣や感性は、一朝一夕に変更できるものではありません。
日本全体が一生懸命働くことが美徳とされていた時代のほうが、どうも日本人には合っていたし、同時に現代のような水面下での苛酷労働なども少なかったように思います。
そしてなにより、世の中がずっとほがらかで活き活きしていたようにも感じます。

今回の年末年始に至っては9連休という長大なものとなり、やっとそれが済んだかと思ったら、わずか一週間を挟んで、またしても3連休ですから、ここまでくるとさすがにウンザリです。

とりわけマロニエ君などは生来のナマケモノですから、本来は休みが多いことは嬉しいはずだし、仕事など少ない方が嬉しいのが本音です。しかし、ずっとやらないで済むものならそれも大歓迎ですが、もちろんそうもいきません。嫌々ながらやっている身にすれば、嫌なりにもリズムというものがあって、やっとこさ平日の流れに慣れてきたかと思うとすぐまた休みになり、そのたびになんとか乗ってきた調子は寸断され、また休み明けの怠さへリセットされてしまうのは気構えの上でも収まりが悪く、なんとかならないものかと思います。

とりわけ12月の半ばから1月の半ばまで見ると、特殊な職業の方は知りませんが、カレンダーの上では休みの日数のほうが多いという信じ難い状況で、これで景気回復だのアベノミクスだのといっても虚しいような気がします。

多くの企業なども、やっている仕事ははかどらず停滞して先に進まないので困るとか、この休みの多さがそもそも不景気の要因のひとつにもなっているというような話を聞いたことがありますが、いまさらながらそうだろうなぁ…と思います。
また収入面でも、遊ぶと働くでは出納は正反対ですから、いいかげん仕事のほうがいいと思われる方も実は多いのではないかと思います。

プライベートでも、昔とはちがって大家族は激減、大半は少ない家族構成であるばかりか、高齢者にいたるまで一人暮らしをしておられる方なども想像以上の数に及んでいると聞きますが、みなさんはいったいどんな風にしてこの多休の日々を過ごしておられるのでしょう…。

結局、この休みの多さも、社会の不健全化の一因になっているような気がします。
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正攻法の興奮

貯まっている録画から、ブロムシュテット指揮のNHK交響楽団、ソリストをフランク・ペーター・ツィンマーマンがつとめたブラームスのヴァイオリン協奏曲を聴きました。

これが思いがけなく見事な演奏でした。気が付いたときには身体の一部を硬直させてまんじりともせずに聴いている自分に気がつきました。硬直というと、なにかよくない事のように思われがちですが、マロニエ君は集中するとつい身体のどこかに妙な力が入ってしまう癖があって、それほど演奏にのめり込んでいたということだろうと思います。
少なくとも、自分にとって本当に素晴らしいと思える演奏を聴いている時間は、とてもリラックスなどできません。

素晴らしい演奏というのは定義が難しく、多種多様です。
ツィンマーマンのヴァイオリンはまさに正攻法の折り目正しいスタイルですが、にもかかわらず決して優等生的でないところが特筆大書すべきだろうと思います。周到に準備され、作品を隅々まで知り尽くしたものだけが可能な演奏でありながら、けっしてマンネリではなく、常に音楽に必要な新鮮さと即興性を孕みながら演奏が展開して行くので、集中が途切れる部分がなく、聴く者にたえず程良い刺激を与え続けてくれるようです。

とりわけ感心したのは厳格さという枠の中で呼吸する生きたリズム感で、これはこの人の生来のものでしょう。とりわけ協奏曲ではオーケストラからソロに引き継がれる部分に些かでも遅れやズレがあると、聴いている側はガクッと気持がシラけるものですが、こういう箇所でのツィンマーマンは聴く者の期待を決して外すことなく、渡されるものを間髪入れず受け取って自分の演奏として繋いでいくので、聴いていて快適この上ありません。

演奏家の中には自分の個性をことさら強調してみたり、新解釈のようなものを披瀝したがる人が少なくありませんが、ツィンマーマンにはそういう要素はまったくの皆無。演奏のフォルムは至って真っ当でありながら、正味の彼自身がそこにあって明瞭、作品と演奏の両方を結束させながら、聴く者を音楽の世界に引き込んでいくやり方は、まったく見事な演奏家の仕事というほかありません。

ひとつだけ意外だったのは、彼の使うヴァイオリンは、はじめストラディヴァリウスだろうと思いつつ、途中からちょっと違うかなあという印象もありました。しかし彼の演奏スタイルからして、グァルネリではないだろうと思うし、f字孔の形もやはりそうではないと思い、楽器についてはまったく確信が持てずに終わりました。
後でネットで調べてみると、ツィンマーマンが現在弾いているヴァイオリンはクライスラーが所有していた1711年製ストラディヴァリウスだということがわかりました。

違うような気がしたのは、ストラドは単純にいうともっと派手な艶っぽい音というイメージがあったのですが、一流のプロには演奏家自身の音というものもあり、やはりヴァイオリンの音はなかなかわかりにくいものだと思いました。
ただ、演奏中に映し出されるそのヴァイオリンは、側板から裏板にかけて「おお!」と思うほど鮮やかな虎目の、いかにもただものではなさそうなヴァイオリンでしたが、その音は見た目ほど華麗ではないような印象だったのです。
ただし、会場はなにぶんにもあの広大で音の散るNHKホールですから、楽器の音を正しく吟味できる環境ではありませんし、だいいちこちらも会場でナマを聴いたわけではありませんけれども。

楽器はともかく、久しぶりに満足のいく素晴らしい演奏に接することができ、思わずテレビ画面に向かって拍手したくなるようでした。
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音楽もごちそうさん

昨年のNHKの朝ドラは『あまちゃん』がたいへんな人気を博し、大ブレークといってもいい盛り上がりをみせたので、次の番組はどうなるのかと思っていましたが、大阪NHK制作の『ごちそうさん』も個人的には大いに楽しんでいます。

その『ごちそうさん』ですが当初から「おや」と思うことがありました。
番組内で流れる音楽のことです。
というか、マロニエ君はこれを何というのか名前を知りません。もちろん主題歌のことではなく、ドラマの進行と合わせて挿入される効果音的な役割を担う音楽のことです。ネットで調べたらわかるのでしょうが、面倒臭いので調べていません。

このドラマの雰囲気とは打って変わって、多くが弦楽器のみ(管のときもあり)で奏でられるもので、ときにクァルテットのようでもあり、ときにはもっと大勢の弦楽合奏のようにも聞こえます。

それも15分の番組中の後半に集中している印象で、内容がだんだんに佳境に入ったり、なにか秘密めいたことが出てきたり、主人公が窮地に立ったり、意外な展開が起こったり、見てはいけないものをみてしまったりするようなときに、弦楽合奏が意味深かつ効果的に入ってきて視る者の気持をぐいぐいと押し上げていきます。

マロニエ君の知る限り、こんなきれいな音楽に支えられた朝ドラは初めてのことで、この点でも接する楽しみがもうひとつ増えたように感じています。だいいち、多くの効果音的な音楽が弦楽合奏というのはやっぱり品があるし、それを他愛もないドラマの喜劇性と組み合わせることによって独特な効果を生みだしているように思います。

とりわけ、いつものように家族5人がそれぞれの思いを抱えながら緊迫した食事時間を過ごしているようなとき、弦のアンサンブルは静かにはじまり、しだいに険悪な事態になったり、あるいは重大な事実が発覚すると、一気に音楽もそれに呼応して高まりをみせ、各登場人物のそれぞれの困惑、驚き、してやったり、開き直りなどの表情と音楽が一体化していやが上にも盛り上がりをみせます。
まるでモーツァルトのオペラブッファによくある幕切れの多重唱の場面のようでもあり、それが必要以上に可笑しさをそそったりしますが、製作者はよほどオペラが好きなのだろうとも思わずにはいられません。

タンゴ調だったり、はたまた、どことなくR.シュトラウスの『ばらの騎士』を思い起こさせるときがあり、そもそも『ばらの騎士』はシュトラウスがモーツァルトのようなオペラが書きたくて書いたという逸話もあるぐらいですから、なんだかそのあたりを狙っているのかもしれません。

それぞれの登場人物も、性格の振り分けがオペラ的に明快で、主人公夫婦がいつも困惑し必死で思い詰めたような表情をしているのに対して、いじわるや不道徳者などが周りを取り囲んで、次々に可笑しなトラブルを巻き起こすのはオペラブッファで採り上げられる、市井の題材そのものみたいな気がしてきます。

こういうことを思わせるのも、音楽の力に負うところが決して小さくないことの証明ですね。
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初期型が最良

正月はこれといった予定もなく過ごしましたが、ピアノ好きの知人達が遊びに来てくれました。

ディアパソンを主に弾いてもらい、やはりタッチの重さは気になったようですが、同時にヤマハやカワイとは一線を画する厚みのある力強い鳴りには意外な印象を持ってもらえたようでした。

いつものことですが、他の人に弾いてもらうことで、自分のピアノを普段とは違った位置から聴くことができるのは大いに楽しみでもあり、同時に評価や反省の材料にもなります。
ピアノに限ったことではないかもしれませんが、楽器の本当の音や響きというものは、少し離れた位置から聴くほうが本来の姿がわかるもので、演奏者が間近で聞く音は必ずしも本物ではないということをあらためて感じます。

来られた方のお一人は長年カワイのグランドを愛用されていましたが、なんと年末に半ば勢いで買い換えたという突然の告白にすっかり驚かされました。
年末にひととおりあちこちで試弾してみたそうですが、最終的にカワイのSKシリーズに絞られていき、数台ずつあったという2、3、5の中からついにSK-5に決定したそうです。

その理由はSK-5がやはり低音にも余裕があるなど、要するに音が断然よかったからという明快なものだったようです。ところがいざマンションの自室に入れてみると、ショールームでの印象とはまるで違ってしまって、今はその点に大いに悩んでいるとのことでしたが、これはままあることで、楽器は出た音を鳴らす空間をも要求するということのようです。

なにしろまだ納品から数日という状態のようで、初回の調律が済んだらお披露目に招待してくれるということになり今から楽しみです。

ところで意外な話を聞きましたが、ある大手メーカー(カワイではない)の方が言われたそうですが、ピアノは新型が出てすぐのものが最も出来がよいという興味深い話でした。
その理由は、ピアノはシリーズの初期型こそが開発者達の理想や意気込みが最も強く注ぎ込まれているらしく、それによって新しい製品の高評価を勝ち得るのだそうです。これがうまく運ばないと以降の販売にも影響してくるから、とくに出始めのモデルには力が入っているというものでした。

これはまったく気が付かないことでしたが、云われてみればたしかに思い当たることがあります。
某コンサートグランドなどはえらく力の入った新型を出して、「ほう!」と思わせるものをもっていましたが、最近ではあきらかに質が落ちてきているんじゃないかという残念な印象を立て続けに抱いていたので、この話が忽ち信憑性を帯びることになりました。
新品ピアノは、普及型も含めて、たしかに発売から時間が経つほどそのピアノの密度みたいなものが薄れてしまい、いわばメーカーの気合いが感じられなくなってくる印象があります。

車などは初期型はセッティングの未消化や想定外のトラブルがあったりと、発売開始直後はいわばプロトタイプに近い側面があってユーザーからは敬遠され、以降数年をかけて対策・改良されたモデル末期がもっとも熟成が進むのでその辺りを狙って買う、もしくは最低でも2年は待つというのが見識あるカーマニアの車選びの通例です。

しかし、ピアノの場合は新しい機構というものはほとんどなく、構造体としては100年以上前に完成されたものを模倣・踏襲・改良しながら作っているに過ぎないので、違いはもっぱら細部のちょっとした設計や工夫程度で、肝心なことは主に材料の質と作り込み精度、さらには出荷調整こそが命だといえるのかもしれず、これはなるほどと思いました。

具体的なモデル名は控えますが、日本のピアノでも同一モデルで古いものと新しいものを比べると、新しいほうは新築の家や新車と同じで新品ならではの気持ち良さのほうに目が行ってしまうものですが、本当に楽器としてよくなっていると心底感じたことがあるかと云われると、あまりないのが実感です。

となると、ピアノは新シリーズがでたら発売直後から一定期間(それが具体的にどれぐらいかはわかりませんが)が旬だということになるようです。
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イベント指向

お好きな方には申し訳ないですが、個人的な好みということで許していただくと、マロニエ君にとってNHKの紅白歌合戦はどうしようもなく苦手なもののひとつです。

当然ながら毎年これをわざわざ視ることはしませんが、テレビの電源を入れると、チラッと見えたりすることがあったりで、そのたびにウワッと驚いてしまいます。
演歌や歌謡曲が苦手ということもありますが、それより、あの紅白の舞台上に繰り出されるやたら派手々々の、老若男女、都市から田舎までフルカバーしようというNHK的娯楽の世界がどうも苦手で、さらにはそれが大晦日の日本の茶の間の相当数を牛耳っているところがまたたまりません。

思い起こせば、マロニエ君の子供のころは紅白歌合戦の全盛時代だったように思いますが、その後は時代の移り変わりとともに、民放でも打倒紅白というような気運が高まり、紅白以外は「裏番組」といわれながらも、その時間帯を各社なんとか対抗できる番組を作ることにしのぎを削っていたようでした。

さらに時代は流れ、ついに紅白は衰退の道を辿りはじめたと記憶しています。
紅白はあくまでも演歌や歌謡曲が国民の娯楽として高い位置にあることを前提として、大晦日にその一年の総決算として、このジャンルの頂点に君臨する娯楽歌番組の最高峰だったわけですが、世の中が多様化して飽満になり、演歌や歌謡曲の人気が下降線になると、紅白そのものの存在意義すら危ぶまれるところまで行った時期がありました。
社会の価値やニーズもすさまじいスピードで変化し、視聴者の世代も代替わりして、もはや年の瀬の紅白歌合戦で無邪気に喜ぶような時代ではなくなったという新しい流れでした。

ところが、いつごろからかはわかりませんが、再び紅白は不思議な感じに復権の兆しを見せ始めてきたように思います。
世の中からある種の活力がなくなり、人々がより画一化された動きを取るようになったからなのか、一時は「多様化」の言葉の通りいろいろな遊びや楽しみの在り方があふれていましたが、それさえも衰退しはじめ、世の中はやたらとイベント参加型の乾いた時代を迎えたように思います。

要は遊びまで人から与えられる規格品のようになり、本当の意味での娯楽や享楽の醍醐味がなくなります。
イベントとはしょせん主催者が作った遊びの枠組みですが、それに受身で参加することで満足してしまう事があまりに氾濫しているようにも感じるのはマロニエ君だけだろうかと思います。
各地各所では大小のイベントが目白押しで、昔なら見向きもされなかったようなものまで不思議なくらい人々が押し寄せ、参加すること、あるいは参加したことを楽しんでいるようです。

これは何かを主体的に選び取って熱心にあるいは奔放に楽しんでいるというより、一般に「楽しい」と規定されているものに自分も関わり参加するというカタチを得ることで安心し、その安心は満足や達成感に拡大解釈されているような気配を感じます。

紅白歌合戦も、本当に登場する歌手や歌を堪能しているというより、年末の風物詩としての大イベントに「視ることで参加する」というカタチを手に入れようとしているだけの人も案外多いのかもしれません。
44.5%というとてつもない視聴率の数字を視ると、本心ではどうでもいいと思っている人でさえ、視るように無意識に追いつめられてはいないのだろうかと、つい変な勘ぐりをしてしまいます。
もちろん、ただヒマだから…という単純な動機の方もいらっしゃるでしょうが。
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2014年始動

あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願い申し上げます。

毎年、新年の最初にどのCDを聴くかということにささやかなこだわりを持っていますが、今年は静かにスタートしたいという気分で、年末に購入したイザベル・ファウストのヴァイオリンによるバッハの無伴奏ソナタ&パルティータから、ソナタ第3番で始めました。

当代きってのトップヴァイオリニストの一人であるイザベル・ファウストのバッハは、以前から必須の購入候補でありながら、何かの都合でつい順送りになっていたために、年末ついに手にしたときは聴いてもいないうちから目的を達成したような気分でした。

以前、イザベル・ファウストの演奏に初めて接したときは(ベートーヴェンの協奏曲とクロイツェル)、慣れの問題もあってか、クオリティは高いけれども、なにやら妙に落ち着き払ったような演奏という印象を受け、それが少々無愛想というか可愛気がないような気がしたものです。
しかし、繰り返し聴いていくうちに、しだいに彼女の透徹した演奏スタイルというものが了解できてきたのか、聴く毎に印象が変化していきました。

ドイツの演奏家ということもあってか、熱っぽい語り口の演奏ではなく、あくまでも音楽の枠組みがきっちりと張り巡らされ、そこに彼女なりの練り上げられた音楽が理知的に組み上がっていくというもので、正確な設計図をもとに確かな工法によって建てられた繊細な建造物という印象です。
ただし、イザベル・ファウストのすごいところは、それが決して四角四面なものでは終わらず、あくまで自然体の魅力ある演奏になっているところが、いかにも現代の好みにも合致して高く評価される所以だろうと思います。

深い精神性と清らかな静寂感、ピリオド奏法も取り入れ、すみずみまでゆるがせにしない第一級の演奏精度とくれば、どこか日本文化にも通じるものさえ感じます。その音色も艶やか一本なものではなく、自然な美音の中にどこか枯れた響きのあるところも日本人が好むものかもしれません。

純粋な好みから言うと、やや整い過ぎという面もなきにしもあらずですが、これほどの精緻な演奏でありながら、固さや息苦しさがまったくないところは大したものだと思います。


新年にあたって少し話題を変えますと、昨年末に視たテレビ『たかじんのそこまで言って委員会』に出演した櫻井よしこ女史が、「人生ってのは迷わないでひたすら行かなくちゃいけないときがあるんですよ。そのときに迷わないで行けるかどうかが、その人の人生を決めてしまうんです。」と言い、なるほど尤もなことだと大いに膝を打ちました。
実行は難しいですが、極力迷わず前進していきたいものだと思います。

本年もよろしくお願い致します。
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サムライ

早いもので今年もとうとう大晦日となりました。

残すところあと6日ほどというときに、ひとりのピアノ技術者の方からメールをいただきました。
まっ先に目に飛び込んできたのは「調律は愛」という聞き慣れぬ言葉でした。

この方は大手メーカーの調律師としてその職務に就かれ、また調律師養成機関の講師をつとめておられたという経歴をお持ちのヴェテランチューナーでいらっしゃるようです。
永年勤められた会社を退職され、今は「趣味は調律」と公言しながらお仕事を続けておられる由。

文章をそっくり引用というのも憚られるので、おおよその意味を要約すると、
「調律の世界は奥深くて際限がなく、形として捉えられず、感覚・感性の世界の問題が終局になる。 ピアノが好きでピアノに恋する。ピアノを愛して愛したい。先ずはこの境地に立てなければ技術者としては居場所は無い。」という専ら観念論のようでありながら、その言葉はきわめてキッパリとしたものでした。

その後、引き続いていただいたメールには次のような、こんにち失われて久しい日本人の苦しいまでの精神世界を垣間見るような内容でした。

養成機関の講師時代の信条は、「調律は愛」「実習中のトイレ厳禁」なのだそうで、調律師たるもの午前中の2〜3時間、午後の4〜5時間程度の生理現象コントロールが出来なければ顧客宅訪問などもっての外というのが信条だったとあります。
また「調律師の基本姿勢の心・技・体にわたり厳しく指導」と書かれていて、こんにち我々がこの言葉を耳にするのは、せいぜい大相撲の横綱の条件ぐらいなもので、これが調律師としての心得に用いられるとは思いもよりませんでした。

さらに続きます。この方はすでに40数年の調律師人生を続けられているようですが、丸一日ピアノと付き合う場合でも、仕事先でのトイレは借りられないのだそうです。そのためには「前日から戦闘態勢に入るというか、水分摂取と体調維持に気を使います」とあり、ピアノ技術者として一見過剰とも思えるこの精神訓のごとき気構えにはただただ圧倒されるばかりです。

ピアノの調律や調整をするのに、トイレ云々が作業として直接の問題があるかといえばおそらくないでしょう。しかしそういう覚悟をもって仕事に挑むというスタンスとして見れば、やはりこれは小さくない問題だろうとも思われます。
調律師というよりは調律列士とでもいいたくなるもので、心・技・体と相俟って、まさにチューニングハンマーを持つ日本のサムライを連想させられます。

今の世はあまりにも安易にプライドという言葉を濫用しますが、大抵はつまらぬ見栄やエゴのことに過ぎません。しかし、本来はこういう外に見えない信条や自ら打ち立てた誓いを静かに守り抜くことがプライドではないかと思います。

かつての日本人は、何事においてもこれぐらいの厳しい縛りを課すことによって心を整え、常に誠実に事に相対することが珍しくない民族であったことを思い起こさせられました。
それがいつの間にやら浅ましいばかりに即物的になり、評価軸は損得と勝ち負けだけ、このように目に見えないものに価値を置くということが絶えて久しいように思われます。
自らの使命には整えられた精神を下敷きとして、ある種のストイシズムを伴いながら邁進していくとき、我々日本人は格別の力が発揮されるのだろうと思います。

悲しいかな、かくいうマロニエ君が最もダメなくちなのは自分でもわかっていますが。

多くの教え子の皆さんと再会された時、真っ先に「講師!私お客さまのところでトイレ借りてませんよ」という言葉が聞かれるそうです。はじめに接した先生が口癖のようにされた教えは、生徒のメンタリティの奥深いところへ強い影響を及ぼすもののようです。

そして最後は次のように結ばれていました。
「トイレが近くなったら、、それは引退の潮時と肝に銘じ、今しばし愛を込めてハンマーを握ります。」


今年一年、拙いブログにお付き合いいただきありがとうございました。
どなた様も良い年をお迎えください。
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心理

過日、知り合いの先生の教室のピアノ発表会があり、手伝いにもならいない程度のお手伝いをさせていただき、子ども達のかわいい演奏を聴かせてもらいました。

とても純粋で無垢な演奏が次々に披露されましたが、それとは別に、ここで目にした人々の行動にもついつい注目させられました。

会場設営は先生のご夫妻がされ、出演する子ども達が待機するための椅子がピアノの側に並べられ、あとはそのご家族などのための小型の椅子がランダムに置かれました。そして椅子が足りない場合はカーペット敷きであることから床に座っていただこうという趣向です。

ところが人の動きというものはそうそう思い通りにはなりません。
時々刻々と集まってくる家族連れのみなさんは、会場の最後部にある入口から入ってくると、ほとんどの方ができるだけ後ろに陣取ってしまいます。
これが続くと、最後部だけが混み合って、中ほどは空いているという偏った状態になります。

マロニエ君は入口すぐのところに立っていたために、来られる方々には、「中のほうへどうぞ」と何度も促すのですが、口ではハイといいながら、やはり混み合った後ろの中になんとか潜り込もうとされる方がほとんどでした。
重ねて「奥へどうぞ」と言いますが効果はなく、後ろがどうにもならないことがわかると、やむなく前に移動されますが、それでもほんのわずかで、とにかくできるだけ後ろがいいという強い意志が感じられました。

中には腰を屈めながらも珍しく前に進む方いらっしゃいますが、それはたまたま前のほうにその方のお知り合いがおられて手招きがあったりしたためで、そういう事情のない方は窮屈でも後ろの混雑の中へ分け入ります。

結局、中ほどはそれなりのスペースがあるのに、うしろ1/3ほどは満員電車のような状態で、もうどうすることもできません。みなさんよほどの慎み深い方ばかりのようですが、演奏がはじまると少し事情が変わります。ほうぼうからカメラやビデオを持つ腕がコブラの頭のように立ってきて、とくにビデオの方は良いポジションを得ようと、左右にしきりと位置を変えてこられます。

ついさっき奥へどうぞと何度もおすすめしても遠慮がちに頑として前には行かれなかった方が、ことビデオ撮影となると別人のようにアクティブな動きになり、最後は椅子に座っている女性の頭の真上に最良のポジションを定められたようですが、写真と違ってそれがずっと続くわけですから、下の方もかなり気になっただろうと思います。
ここには人の不可思議な心理の働きがあるのは疑いようもなく、大勢の中で自分が目立つ前方には行きたくないし、みんなが自然に後ろに固まっていれば、なおさら自分もそちらがいいという気持に拍車がかかる。でも写真やビデオとなると、一転して良好なアングルで写したいという別の願望が出て、相矛盾する気持が渦巻く中でこういう状態が生まれるのだろうと思います。
マロニエ君なら、後ろなら後ろでおとなしくしているか、カメラやビデオ撮影という目的があるのなら、はじめから良いアングルが確保できる場所に座るか、どっちかに定めると思います。

いったん会場に人が入ると、なかなか現場で対策が打てることではないので、前もってできるだけ前方に椅子を置き、個人の意志とは関係なく人の流れが中央へ来るように持っていかなくてはいけないのだということがこの経験でよくわかりました。

電車でもエレベーターでも、中は空いているのに、ドアの近くだけ揉み合うように人が集まるというのがありますが、まあそれは乗り降りという実際的な問題もあるのでまだわかりますが、ピアノの発表会でもそういう現象が起こるというのは思ってもみませんでした。

専門的なことはわかりませんが、この状況もいわば集団心理のひとつだろうとマロニエ君の目には映りました。ただし、外国人ならどうでしょう。なんだか今どきの日本人特有の現象のような気もするのですが…。
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思わぬところで

装飾目的にヴァイオリンを買うことは、音楽好きの端くれのやることではないとの判断から一度は諦めていたのですが、思わぬところからチャンスはやってくることになります。

マロニエ君がたまに立ち寄る、とあるショッピングモールの中には、今どきの不景気な世相を反映してか、以前は雑貨と家具を扱っていた店舗が撤退して、知らぬ間にリサイクルショップになっていました。

実を云うと、そんな事情と知らずに入店したところ、なんとなく気配が変わっているなぁと感じたことから商品がリサイクル品だと気が付いたぐらい、パッと目はきれいなものばかりを売っているのですが、ここに一挺のヴァイオリンがケースに入った状態で売られていました。

いろいろな家具や電気製品や雑貨などにまざって、ちょっとした楽器が集められた小さいコーナーがあり、ほかにはギターやフルートなどもあり、ヴァイオリンは子供用の1/8と大人用の4/4があったのですが、なんと子供用は一万円近くするのに、大人用はわずか二千円でした。

ものはためしという気分で手に取ってみてみたのですが、とてもそんな値段が信じられないほどきれいで、キズもなくそれほど使い込まれた様子もありませんでした。ケースには弓や松脂なども揃っていますが、よくみるとヴァイオリン本体にはE線のみなくなっていて、弦が3本しかありません。
どうみても新しく弦を張ったりするような気配はなく、このE線がないことが価格を著しく安くしているのだろうと察せられました。

一瞬どうしたものかと迷いましたが、今どき二千円で何が買えるかと思うと、ほどなく決断がついてヴァイオリンを慎重にケースに戻し、それごとレジに持っていきました。
楽器のことなどなにもわかりそうにもない女性が「いらっしゃいませぇー」といいながら中にある値札を見ながら、「弦が一本ありませんが、よろしいですか?」と確認してきました。
もちろんハイと答えて支払いを済ませて店を出ました。

生まれて初めて、ヴァイオリンのケースを手に持って外を歩きますが、ヴァイオリンというのはその圧倒的な存在感とは裏腹に、なんて軽いんだろうと云うのが率直な印象でした。

帰宅して恐る恐る開けてみると、そこには店で見た以上に立派で美しいヴァイオリンが悠然と横たわっており、慣れない手つきで取り出しますが、本当に心もとないぐらい軽くて小さな楽器であることに却って感激してしまいました。
名器ともなると、こんな小さな楽器が、ステージでは500kgもあるコンサートグランドと互角に張り合って、あれだけの素晴らしい音楽を奏でるのかと思うと、俄には感覚がついていけないような不思議な気がするばかりでした。

それにしても、なんと美しい楽器かとしみじみ思いました。その究極のデザイン、女体にも例えられる飽満かつ繊細なカーブの織りなす魅惑の造形は、いやが上にも見る者の目を引き寄せ、ぐいぐいとその世界に吸い込んでいくようです。

弦を一本細工して、さっそく壁にかけてみましたが、一気にあたりの雰囲気が変わり、繊細なのに凛とした佇まいは見ていて飽きるということがありません。
芸術的で、色っぽくて、清々しく、華奢で、堂々としていて、様々な要素がこんなに小さな形の中に凝縮されているようです。
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壁飾りには…

これまでにヴァイオリンの話題を何度か書きましたが、楽器店などでガラスケースの中に並べられたヴァイオリンを見ていると、小さいけれどもなんという蠱惑的な形をしているんだろうと思います。

ニスの色もいろいろある中、とくに赤茶系の透明感と深みのある色彩を帯びたヴァイオリンは、なんだか心が引き込まれるようで、つい手にとってみたくなるものです。
ヴァイオリンはまったく弾けないマロニエ君としては、さすがにこれを見たいと店員に申し出たこともないし、そんなひやかしをする意志も勇気もありません。
ときおり楽器店の売り場で足を止め、ガラス越しにじっと観賞するだけです。

天神のいくつかの楽器店に展示されているヴァイオリンは、価格にして下は10万円を切るものから、上はせいぜい4〜50万円ぐらい、高くても100万円以下までのもので、店によっても異なりますがだいたい4〜5挺は展示されています。
場合によってはさらに、子供用の小さな分数ヴァイオリンが段階的にならんでいたりしますが、そのいかにも繊細な佇まいや音楽そのものみたいなその美しい形はついつい欲しくなってしまいます。

海外のインテリアの写真などでは弦楽器を壁の装飾として使っているものを何度か見たことがありますが、なんともいい雰囲気を醸し出していて、下手な絵や写真を並べるよりよほど素晴らしい効果を出していたりします。

それからというもの、自分はヴァイオリンは弾けなくても、室内装飾として安い楽器を手に入れるということはあり得るという小さな意識が心の片隅に残ることになりました。
中国へ行くと、さりげなくヴァイオリンショップがあって日本円にして2〜3万ぐらいからたくさんあることもわかり、一度などはかなり本気で買って帰ろうかと思ったこともありますが、やはりもう一歩踏み出すことができずに終わってしまいました。

その後はネットオークションなどを見ていても、どうかすると1万円を切るぐらいから本物のヴァイオリン(中古ですが)が出品されていることがわかり、こういう下限の世界では、やはり構造が簡単なぶんピアノとはずいぶん違うものだと思います。もちろん品質は価格が語っているわけで、それなりの品だろうことは推して知るべしですが、それにしてもこんな値段でまがりなりにも本物のヴァイオリンが買えるというのはなんとも不思議な感じです。

ヴァイオリンは数多い楽器の中でも妖しさというか魔力のようなものがあるという点ではダントツだろうと、とくに最近思います。ストラディバリウスを頂点に、同じかたちをした楽器で、これほどまでに凄まじいピンキリの世界が広がっているジャンルというのが他にあるだろうかと思います。

壁の装飾としてですが、インテリアとしてなら音はどうでもいいわけで、ここでまた何度か買ってみようかという誘惑に悩んだことがありますが、やっぱり断念が続きました。
その理由は、マロニエ君のようにまがりなりにも音楽を愛する者としては、たとえ安物とはいえヴァイオリンをただインテリアの目的だけで購入し、それを壁にかけて楽しむという行為に抵抗がなくもなく、早い話がやってはいけないことのような気がしてきたからです。

亡くなられた俳優の児玉清さんが最後まで司会をつとめた「パネルクイズ・アタック25」のスタジオにも、以前のセットにはどういう意図からかヴァイオリンが何挺もつり下げられていました。

音楽とは関係のないクイズ番組になぜヴァイオリンなのかは意味不明のままでしたが、ともかく演奏以外の使われ方をする楽器というのは見ていて心地よいものではなく、そういう理由で購入を踏みとどまってきたのですが、あれこれのヴァイオリンの本を読んでいると、知らず知らずのうちに誘惑されてしまうようで、そこがこの楽器の生まれもつ魔力なんでしょうね。
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カサカサと潤い

今年の前半にわけあって家のエアコンを入れ換えたのをきっかけに、この冬から再びエアコン主体の暖房に切り替えることになりました。

「再び」というのは、以前も基本はエアコン暖房だったものの機械全体が古びていたので、石油ファンヒーターを常用していたのですが、灯油を数日に一度、ポリ容器を車のトランクに積んでスタンドへ買いに行かなくてはならず、その煩わしさだけでも馬鹿になりませんでした。

エアコンはわりに強力なものを取りつけたので能力的に不足はないのですが、その代償として恐ろしい勢いで湿度が下がってしまいます。
これでは温かさは得られても心地よさはないし、喉はカラカラ、皮膚も乾燥気味で痒くなるし、なによりピアノが心配な状況に陥りました。この冬のはじめから、湿度計の針は連日40%を割り込むようになり、慌てて加湿器を引っぱりだしましたが、これをフル稼働させても過乾燥には追いつかず、寒さが募るにつれてエアコンの出番が増えると加湿器を回していても40%台に届かず、ついにもう一台、加湿器を買い足すことになりました。

この一週間ほどは常時2台の加湿器のスイッチが入っていますが、それでもどうにか40%強にもっていくのがやっとです。しかもそれほど大型でもないためか、一日に2台ぶん水を何回も補充しなくてはならなくなり、部屋に入るたびに加湿器の水量をチェックするのが、すっかりこのところの日課となってしまいました。

この状態で数日経過してみると、多少は部屋の温湿度が改善されて過ごしやすくなりましたが、自室に戻るとまたカラカラで、こんどはこっちが耐え難くなり、やむを得ずまたまた小型の加湿器を買ってしまいました。

こうしてみると、石油ファンヒーターは灯油を買って入れるという面倒な問題があるものの、温かさは心地いいし、燃焼時に適度な湿気も発生させるらしく、過度の乾燥状態になることもなく、なんだか懐かしいような気がしています。
プラスチックや人工素材より木のほうが身も心も落ち着くように、暖をとるにしても、やはり電気で作られたカサカサの温風より、たとえ石油ファンヒーター程度でも、灯油を燃やし火をたいて作り出す温かさのほうが数段心地よいという当たり前のことが、いまさらのようにわかりました。

だったら以前のように石油ファンヒーターに戻せばいいのですが、そうすると、またあの寒い夜の灯油買いの往復が始まると思うとそれはそれでウンザリで、おまけにエアコンのほうがはるかにランニングコストが安いらしいこともわかると、そうまでして敢えて石油ファンヒーターを使うというのももうひとつ決断がつきません。

このように、現代人は本当の心地よさはどこにあるかをちゃんと知っていながら、それを犠牲にしてでも、便利さや低コストに走ってしまうという浅ましさと愚かさがあるのが自分でわかります。結局それにかかる手間ひまや面倒臭い労働、さらにはコストを考慮することで、つい大事なものを犠牲にするという業のようなものだろうと思います。

ましてやそれがビジネスともなれば、原価はもちろん、手間暇、効率、時間などもすべてコストとして換算され、それを前提とした厳しい利益の追求になるわけで、普及品のピアノなんぞが木の人工乾燥はもちろん、人工素材を極限まで多用して製造されるのは当たり前という感覚がひしひしと伝わってくるようでした。

その点、むかしは何事においても選択肢がなかったため、ごく自然に一定の質を得られたという一面があり、そのために資源の無駄遣いもしたでしょう。でも、お陰でなんとなく社会全体がおだやかで潤いがあったような気もします。
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1874年製と1877年製

エリック・ルサージュとフランク・ブラレイという、当代フランスの中堅ピアニストの代表とも云うべき2人によるモーツァルトのピアノソナタ集を久しぶりに聴いてみました。
曲目は、2台のピアノのためのソナタKV448、4手のためのソナタKV521、KV497という、いずれもモーツァルトのソナタとしては比較的規模の大きい3曲で、生活の拠点をウィーンに移してからのいわば後期かつ絶頂期の作品ばかりです。

演奏そのものは人によって受け取り方はそれぞれだろうと思いますが、マロニエ君の個人的な印象としては、決して悪くはないが、とくに賞讃するほどのものでもないというところです。
フランス人が弾けば、お定まりのようにフランス的云々などという聞き飽きたような感想は云いたくはありませんが、全体的に明るめの溌剌とした華やかさの勝った演奏で、これはこれで結構と思いつつ、そこにもうひとつモーツァルトの音符を美しく際立たせるような緻密さと、同時に(矛盾するようですが)即興性というか多感な遊び心がバランスよく良く織り込まれていればと思ったりします。

とくにモーツァルトの場合、その即興性によるテンポの必然性のある揺れはいいとしても、基本的なリズムの刻みがおろそかになる場面があるのは気になってしまいます。こういう演奏上の骨格にあたるような部分のしっかり感がフランス人は苦手のような印象があり、そういう意味でもフランス的といえばそうなのかもしれません。

さて、このCDで特筆大書すべきは、使われたピアノです。
それぞれ1874年製と1877年製という2台のスタインウェイのコンサートグランドが使われていますが、創業が1853年ですから、そのわずか21年後/24年後のピアノというわけです。
この時代のスタインウェイは現在のものとは大きく異なるピアノで、奥行きもたしか260cmぐらいだったと思います。しかし、わずか後の1880年代には現在まで受け継がれることになる274cmとなり、さらに内部機構も改良を重ねられ、20世紀初頭にはほぼ現在のモデルが完成します。

そういう意味では、創業初期に製造されたスタインウェイの源流とでも云うべき音を聴くことができる貴重なCDというわけです。
楽器に関する詳しい説明はないので、どういう状態のピアノかはわからず、ただ2台ともピアノ蒐集家のクリス・マーヌ氏の所有ということだけが記されていて、響板などが貼り替えられているのかなど、どれだけオリジナルを保っているのかはわかりませんが、CDの音を聴く限りでは、後年のスタインウェイほどの圧倒的なパワーはないけれども、とにかくやわらかで美しい音を出すピアノだということがわかります。

ややフォルテピアノ的な要素も兼ね備えつつ、それでも感心するのは、このごく初期のスタインウェイが、もうすでに確固としたスタインウェイサウンドをもっているということでした。

そして、こういう音を聴くと、昔の楽器の音というのはとにかく耳や神経に優しい点が驚くばかりで、何度聴いても心地よさばかりが残って、また聴きたくなる。その点では非常にリラックス効果もあるというべきで、理屈抜きに「楽器の音」というものを感じます。

それにひきかえ現代のピアノの多くは、ピアノの音のようなものを出す機械という印象を免れません。特徴的なブリリアント系の音も、どこか化学調味料で作られた計算ずくの美味しさみたいで、もうひとつ気持が乗っていけませんし、本当の心地よさとは何かが違うようです。うわべはきれいでもすぐに飽きてしまい、やがてうるさくなって無意識のうちに疲労を感じていることが、昔のピアノの音を聴くとごく自然に気付かされるようです。
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現代の神業

ほかの方はどうだかわかりませんが、マロニエ君にとっては恐ろしいと感じる光景を目にしてしまいました。

11月28日に『ふしぎ』というタイトルで、「近ごろの若い人は、能力の使い方が昔とは根本的に違ってきているのか…」という出だしで駄文を書いていますが、それを証拠づけるようなことを目撃してしまったのです。

日曜の夜、車で出かけたときのこと、信号停車していると、助手席の人物が「見て見て、すごいよ、ほら!」というので左に並ぶ軽自動車のほうに目をやると、運転席に座る若い女性が、赤信号中にスマホでメール打ちをしています。
むろんただそれだけなら驚きもしませんが、すごいのはそのメール打ちの途方もないテクニックでした。

右手にスマホをかざして、人差し指から小指までの4本はスマホ本体を支え、画面上で動いているの親指だけなのですが、その動きの猛烈な早さは見ているこちらの目がついていけないぐらいの超高速でした。まるでキツツキか機関銃のように、親指一本がめまぐるしい速度で、しかも正確でとてもなめらかに動いていることがわかり舌を巻きました。

この速度の中でちゃんと目的をもって文字を選らび、句読点を打ったり、漢字変換したり、場合によっては絵文字や記号などを挿入しているのかもしれませんが、とてもそんな作業とは信じられないような神憑り的な動きでした。やみくもに打っているわけではない証拠に、その親指は画面下部を上下左右、斜めに駆け回り、ときどきは連打しながら、親指だけがまるで別の生き物か、はたまたコンピュータ制御の動きのように見えました。

さらに凄味があったのは、それだけのことをやっているにもかかわらず、その女性にはまったく緊張とか集中しているといった様子もなく、至ってリラックスした様子であったし、ちょっと言葉は悪いですが、顔の表情などはむしろ阿呆的にゆるんだ表情で、これがこの女性にとってまったくノーマルの、平常の動きなのだと云うことが察せられました。

子供のころからケイタイのキーに触れて育ち、スマホのような新鋭機種が出てくれば、それをたちまち使いこなすのは苦もないことなのでしょうし、メール打ちなどそれこそ一日も休むことなく、それも日がな一日やっているでしょうから、それが自然の猛稽古にもなり、結果的にこんなとてつもないテクニックを身についたということだろうと思います。

あの尋常ではない指の正確な動きを見ていると、ピアノの練習でもすればさぞ上手くなっただろに…と思いますが、このように若い人は自分の豊かで瑞々しい能力を、あまりにも意味のないことに投じているように思えて、なんだかやるせない気分になりました。
もちろん、本人にとっては意味は大ありでしょうし、「ケイタイやスマホは命の次に大事なもの」などと高らかに言って憚らない世代ですから、なるほど命の次に大事なもののためには、エネルギーも惜しみなく投じるのは当然のことなのかもしれませんが。

最後にダメ押しで驚いたのは、信号が青になり二台ともスタートしましたが、なんと車が動いても彼女はメール打ちを止める様子もなく、しかもまわりとまったく遜色ない快調なスピードに乗せて走っています。その後、道は立体交差の長い地下部分に入りましたが、そこでもまったく様子は変わることなく、左にウインカーを出したかと思うとサッと一車線分左に寄り、そこからスイスイと側道に入って上の道に出ていきました。もちろんスマホ操作は続行しながらです。

この時の速度は約70km/hほどですが、運転、メール打ち、ルートや交通の状況判断、文章を考えるなどを同時に(しかもハイスピードで)やっていたわけで、これはものすごい高等技術だと驚嘆させられました。
それにひきかえ、何度か書いた、トロトロ走りをする若い男性なども同世代だろうと思うと、この差はいったい何なのか!? もうこの世に男の役目はないという兆候のあらわれかもしれない気がしました。
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特別なピアノ

知り合いのピアノ技術者さんから教えていただいたのですが、現在、世界で製造されるピアノの中で、本当に特別だと云えるものはわずか数社しかないらしく、そこには三大名器といわれるスタインウェイもベーゼンドルファーもベヒシュタインも含まれていません。

その特別なメーカーは4社で、すべてヨーロッパに集中しており、いずれも小さな会社ばかりです。
その数少ないメーカーのひとつがステファン・パウレロというフランスの小さな会社で、マロニエ君はこのときに初めてこのメーカーを知りました。

過日、フランスの老舗ピアノメーカーであるプレイエルが製造を中止したということを書いたばかりで、ついにフランス製ピアノの火が消えてしまったと思っていたところ、思いがけないところに思いがけないかたちでフランスのピアノがいまなお棲息していることを知り、たいへん驚かされました。

さっそくホームページを探したところ、たしかにその会社のサイトが見つかり、ずいぶんとマニアックなメーカーのような印象を受けました。
外観はひと時代前のハンブルク・スタインウェイに瓜二つで、はじめはファブリーニのようなスタインウェイベースのスペシャルピアノかと思ったほどです。

中型グランドとコンサートグランドがあり、なんとそれぞれに交叉弦と並行弦のモデルがあるのが驚きでした。いまさら並行弦に拘るというのはどういう意図なのかと興味津々です。

サイト内にはステファン・パウレロ・ピアノを使った数種のCDが紹介されており、クリックすれば短時間のみ音が聞けるようになっていますが、なんとかして手に入れたくなりネットで検索してみると、アマゾンなどで辛うじて引っ掛かってくるものがありました。
こういうときは、ネットの威力をまざまざと思い知らされ、昔だったらとてもではないけれどもそんなCDを海外から探し出して個人が簡単に手に入れるなどという離れ業は不可能だったに違いありません。

さっそく届いたCDの包みをひらいて、はやる気持ちを抑えながらプレーヤーにのせる瞬間というのは、何度経験してもわくわくさせられます。
果たしてステファン・パウレロのピアノはパワーもあるし、まず印象的だったのは、まとまり感のある完成度の高いピアノという点でした。多くの工房規模のピアノには、この上なく上質な美音を聞かせる一面があるかと思うと、ある種の未熟さみたいなものが解決されずに放置されているように感じることが少なくありませんが、このピアノはそういうアンバランスがなく、よほど設計が優秀なのだろうと思いました。
ホームページの図によれば、支柱の形状には独特なカーブなどがあるなど、随所に独創性があるようですが、音そのものは今風の至って普通の感じだったのはちょっと肩すかしをくらったようでした。

その技術者さんが海外のお知り合いなどへ問い合わせをされたところによれば、ここ20年ぐらい、年に3台ぐらいのペースで作られているそうで、これは生産というより、限りなく趣味か道楽に近いスタンスのようにも思われます。
もともとはステファン・パウレロ氏はピアノ設計者として有名だったのだそうで、他社からもいろいろなピアノの設計依頼があるようです。

生産を中止したプレイエルの中型グランドもステファン・パウレロの設計だったようですし、中国製のピアノにもここの設計によるピアノがいくつかあるようです。もしそれが高度な生産クオリティで設計者の意図に忠実に作られているとすれば、かなりコストパフォーマンスの高いピアノが期待できそうです。
ただしピアノ(というか楽器は)はエモーショナルな要素を多分に含むものなので、中国製ということに抵抗感がなければの話ですが…。

本家ステファン・パウレロのピアノは、ヨーロッパならともかく日本ではまず本物の音を聴ける機会など今後もまずないでしょうね。
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人の本性

車検の時期が近づくのは車を持つ者にとって誰しも憂鬱なことだと思います。

マロニエ君の古いフランス車も今月が車検で、いつも自ら検査場に出向いてユーザー車検で通しているのですが、車検場を取り仕切るのはすべてお役人で、彼らはどんな小さなことでも問題点だと認識したが最後、こちらがくだらないと思うようなことでも絶対にお目こぼしはありません。

毎度のことながら緊張の連続で、いつも心身ともにヘトヘトになるのがマロニエ君にとっての車検の常です。今回もいろいろあって、半日がかりでやっと全項目に合格印を取り付け、残るは書類の提出のみという段になって、最後の最後にとんでもない目に遭わされました。

陸運支局の事務所前に車を止め、検査終了の書類を窓口に提出したところ、足りない書類があると指摘され、あわてて車へ取りに行ったときのこと、マロニエ君の車の前に白いクラウンが駐車しようとバックしていましたが、その動きにぶつかる気配を感じ、慌てて駈け寄り声を発しながらそのクラウンの後部ボディを叩いて、止まるように合図を送ったのですが、間に合わずにこちらの車の鼻先とクラウンのリアバンパーがわずかに接触してしまいました。

中から初老の男性が降りてきて、「当たった?」と云いながら後ろへまわり、接触部分を見るや苦笑いしながら「あー、すんません」といいました。
当方のバンパー先端に付いているナンバープレートが、ステーごとクラウンのリアバンパーに軽くめり込んでいましたが、だいたい今どきの車のバンパーは柔らかい材質でできているので、大したことはないことはすぐにわかりました。
さて、事務所内では窓口の人が書類を持ってくるのを手を止めて待っているので、とっさにその書類を持っていくことを優先させたのですが、これがいけませんでした。

再び現場に戻ると、そのクラウンはすでに30cmぐらい前に移動し、幸いキズらしきものはありませんでしたが、なんとそのドライバーの口から出た言葉は、「どこも当たってない。だいたいね、アンタの車が線から出てるからいけない(たしかにちょっと出てはいました)。自分はいつもここに止めるから慣れてるし横のラインを目安にして止めるようにしている。そっちの前がはみ出しているからで、アンタこそ止め方を注意しなくちゃいかんよ」と昂然と言い立ててきたのには耳を疑いました。
線から出ていればぶつけてもいいという理屈です。

「その上、自分の用事で勝手に俺を待たせた」などと思いもよらないことを次々に言い始め、接触直後とは態度がまるで別人です。目撃者も数人いたのですが、みんな自分の用で動いているので、そうそう一箇所に留まってはくれません。
「なにを言っているんですか?当たっていたのは、さっきアナタも見たじゃないですか!」というと「いーや、当たっていなかった」「当たってましたよ!」「当たったという証拠があるのか!」とほとんど居直ってきたのには、さすがに怒りと恐怖が同時に襲ってきましたが、その男性は「証拠がない!」と云いながら、さっさと目の前の建物内に消えていきました。

マロニエ君はキズもないようだし、あったにしてもわからない程度なので、このまま和解する心づもりだったのですが、お詫びどころか、黒を白だと言い張るあまりの無礼な態度には、さすがに怒りが収まらず警察に通報しました。
しばらくして警察官が2人やってきて、その男性を探し出して事情を聞きますが、警察が来ておどろいたのか、事実とは真逆のことを淀みなくベラベラと警察官に説明するスタミナにはさらに仰天させられ、人はこんなにもあからさまなウソがつけるものかという驚きと、言い知れぬ虚しさが身体全体を突き抜けるようでした。

そもそも当たっていないのなら、こちらはなんの目的で警察を呼んだりするでしょう。人の目もあり、そんな自作自演をすることになんの意味も合理的理由も利益もありません。

警察官は二人ともこちらの説明に当初から納得してたようで、マロニエ君とその初老男性を引き離し、ずいぶん根気よくその男性相手に説得していましたが、1時間近く経った頃、ついには「当たったかもしれない」というところまで発言が変わり、最後はだらしない笑みを浮かべて「すいませんでした」といいましたから、これでお開きにしました。
警察官を含めた4人のうち、その男性だけがまっ先に薄汚れたアイボリーのクラウンに乗り込み、サーッと駐車場を出ていきました。

きっとその男性は、こちらが「外車」だと見て、高い修理代などを請求されるかもという恐れが頭をよぎり、マロニエ君が書類を出しに走っていった間に、キズがないのをいいことにこのような豹変劇を思いついたのだろうと思いますが、いい歳をした人生の先輩が当たり構わずつきまくる恥知らずな大ウソの洪水には、さすがに打ちのめされました。
当たったところの写真があれば何よりの証拠で、ケイタイのカメラはこういうときこそ活用するもんだとつくづく思いましたが後の祭りです。

まったく後味の悪い1時間あまりでしたが、警察官のひとりは「こういうことをいつまでも考えているのはいい事じゃないですから、できるだけ早く忘れてください。よろしくお願いします。」と丁寧に云ってくれたのがせめてもの救いでした。
ちなみにこのクラウンが「いつも止めている」という場所は身体障害者用スペースでした。
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Fの成長

先日たまたま買った2枚のピアノのCD(バケッティのマルチェロ:ピアノソナタ集 ベクテレフのスクリャービン:練習曲集)は、いずれもファツィオリのピアノが使われており、スクリャービンはその旨の表記があったので購入前からわかっていましたが、もう一枚は中を開けてみてそうだとわかり、その偶然に驚きました。

これまでに主にCDで聴いてきた数々のファツィオリの印象をベースにしながら、今回あらたに2枚のCDを聴いてみての個人的な印象を少し。

ファツィオリが現在生産されるピアノの中でも、最上ランクに位置する一流品であることには異論はありませんし、事実そうなのだろうと思います。

ファツィオリは材料その他すべてにこだわったピアノといわれ、その音にはある種の濃厚な色彩と密度感があり、こういう音はコストダウンの思想からは決して生まれ得ないものであることは聴いていても容易に頷けるところです。
アップライトを作らず、大量生産にもシフトせず、あくまでも納得のいく工法で良心的な楽器造りを貫いているという点でも、ほんらい高級ピアノの生産とはこうあるべきだというスタイルを示している数少ないメーカーのようです。

ただ、まったく個人的な好みで云うと、ファツィオリは聴いていて、ピアノを聴く喜びというか心地よさが不思議に稀薄で、これは何が原因だろうかというのが、いつも聴きながら感じる疑問です。その音の美しさと、生きた音楽としての脈動には、いささかの乖離があるのか…。
ひとつひとつの音は、よく練り込まれ、磨かれて、じゅうぶん美しいにもかかわらず、表現が上手くないのですが、楽器として息が詰まっている感じが拭えません。

音は美しいけれど、響きに開放感がないのかとも思いますが、あくまで個人的な印象で決定的なことはわかりません。音量もずいぶんあるようで、以前、知り合いの技術者さんがファツィオリのピアノを調律するときは耳栓をして作業をすると云っていたことも思い出しましたが、とにかく音がかなり大きなピアノだろうというのは聴いていてそれとなく感じます。

ところが、マロニエ君の印象では、それだけの音質音量に見合った響きの飛距離が不足しているのか、ストンと落ちてしまう紙飛行機のような印象です。(これは音の伸びのことではありません)
楽器の音は、発音された音そのものも重要ですが、それが空気に乗って飛翔するところに聴く者は酔いしれ、味わいとか心地よさ、ポエムもファンタジーも激情も、その広がる響きの中に姿をあらわし、ひいては音楽として精神が旅をするものではないかという気がします。

この点では、ずいぶんと品質も落ちてしまったスタインウェイなどは、この響きの特性と開放感によって、辛うじてそのブランド力を維持しているようにも思います。

マロニエ君にとってはファツィオリが新興メーカーであるどうかなど、まったく問題とはしませんが、結果から見て、やはり歴史あるメーカーは深いところにあるどうしようもない何かが違うのだろうかとも思います。
以前はあまり良さのわからなかったベヒシュタインのDなども、最近になってそれなりに素晴らしいと思えるようになりましたし、シュタイングレーバーなどは能楽のような精神的高貴を感じます。

それぞれに個性というか哲学のようなものを感じますが、ファツィオリにはもうひとつこの楽器ならではの顔がわからない。ファツィオリの濃厚さがコクになり、あの豪奢が頽廃の陰を帯びたとき、本当の一流品になるのかもしれませんが、今はまだ一生懸命というか、頂点を目指してひた走っているという印象のほうを強く感じてしまいます。

それでも、とくに最近のモデルの傾向なのか、この2枚のCDに聴くファツィオリは以前よりもしなやかさが勝り、素直に感心させられる面が多々あったことも事実です。いずれもファツィオリの所有のようで、とくにスクリャービンで使われた楽器は同社の貸出用らしく、これまで数多く聴いたものの中ではとくに風格や余韻もあって最良の楽器という気がしました。
いずれもF278で、これがベストバランスのような気もします。

F308はイタリアお得意の12気筒スーパーカーみたいな印象でしょうか。
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けちんぼ

吝嗇家とは、早い話が「けちんぼ」のことです。

いきなりですが、圧倒的な異才で一世を風靡したパガニーニは大変なけちんぼのようで、コンサートともなると会場の手配からキップ売りまですべてを自分で差配し、当日もお客さんの受付が済むと会場に鍵をかけてから演奏したというのですから驚きです。
パガニーニといえばグァルネリ・デル・ジェズの「カノン砲」と呼ばれる名器を使っていたことでも有名ですが、この名器もさる篤志家から進呈されたもので、そのタダでもらったカノン砲を人に見せるのさえも断じて拒んだという、筋金入りのけちんぼだったそうです。

パガニーニほどの天才なら何をやっても超越できるでしょうが、凡人はなかなかそうはいかず、所詮は人との関係を良好に保って生きていくしかなく、そうなるとけちんぼというのは割に合わないというか、その副作用も大きいと思います。

むかしから「けちんぼは得をしない」と言われていますが、これはまさに正鵠を得た言葉だと思います。けちんぼにもタイプがあって、それをある程度カミングアウトして陽気にいくタイプと、決してそういう顔はせずに、けちんぼであることをひた隠しにしながら、あくまで表向きは常識人の顔を作ろうとする、いわばむっつりタイプがあります。

前者は笑って済まされますが、後者には独特の冷たさと暗さを周囲に与えます。
陽気なけちんぼは自分はけちんぼだという自覚と笑いがあるのでまだ救えるのですが、後者は薄暗い心根にたえず支配され、ここはまさに明暗を分けるところ。人には悟られていないという甘い判断と、開き直っていないぶん内面の緊迫があり、これが最も始末におえないものです。

そのむっつりに限った話ですが、けちんぼというのはなにも物質や金銭に限ったことではなく、思考そのもの、つまり脳の機能が自動的にケチの方向に働く人のことですが、当人はそれを自分の才覚や賢さとさえ考えたりするようで笑ってしまいます。賢いどころか人に悟られていることさえ気付かない愚鈍な感性の持ち主でもあります。

かくいうマロニエ君も自分がケチではないと言い切る自信はありませんが、むっつりけちんぼのそれはどだい次元が違います。本物のけちんぼというのは思考を超えて体質であり、生理であり、細胞の問題なのかもしれません。彼らはそのせいで自分の人間的評価を大きく落としてしまっている。

商売の極意は「小さく損して、大きく儲ける」だそうですが、これは萬すべてのことに当てはまるように思います。けちんぼはまず儲けのための呼び水ともいうべき「小さく損すること」そのものが体質に合わず、頑なにそこから逃げてしまうので、当然ながら大きく得する展開に与ることはできません。

しかもそれで確実に得をするというものでもなく、当然ながら損のままで終わってしまうことも多々あるわけで、それが耐えられない。小さく損をしておく事は物事に対する広い意味での投資と見なすこともできるわけですが、けちんぼさんはそういう不確実なことに投資することに価値を見出せないようです。

人間関係の基本はギブ&テイクです。しかし、むっつりさんの特徴としては、他者からの恩恵は受けても、自分のほうが何かをしなくてはいけない局面になると、たいてい知らん顔を決め込みます。まったく気がつかない訳ではないようですが、そこでちょっと黙って過ごせばそれで事は済み、その一回分得すると脳が指令を出すから、できるだけそういうときは「意志的に消極的に」なるのでしょう。
ただこれは、当人はうまくやっているつもりらしいですが、相手には残酷なほどバレています。それを口にしないだけで、知らん顔VS知らん顔です。現代人はそういう演技はお手のものですから。

「小さく得して、大きく損する」のは人生経営としては甚だ割に合わないことだと思いますが…。
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ガマンの風船

間接的にですが、知り合いの医師から興味深い話を聞きました。

今の人が、表向きはひじょうにおだやかで、人間関係にも昔では考えられないほど用心深く、専ら良好な関係を保とうと努力しているにもかかわらず、ごくささいな行き違いやつまずきが原因で、あっけなく絶縁状態になってしまうことが珍しくないのは多くの人が感じているところでしょう。

何かあればそうなるであろうことを互いによく知っているから、ますます慎重に、ソフトに、ことさら友好的に振る舞うようですが、そのために少なくないストレスと疲労を伴います。それほどの努力を積み上げていても、何かちょっとでも気にそわない事が発生すると、多くの場合は無情にもそれで関係なりお付き合いはThe Endになるというのです。

聞いたのは、なぜそれほど些細なことで、絶縁という深刻な事態に発展するかというと、表面上良好な関係が維持できているときでも、すでに水面下ではあれこれとお互いに気に入らないことが頻発しており、それを常に押し殺し、ガマンにガマンを重ねているのだそうで、つまり常にいつ破裂してもおかしくないパンパンの風船みたいな状態になっていると見ていいんだそうです。

だから、小さな針の一差しで風船が破裂するように、そんなストレスまみれでぎりぎりに保っているバランス状態に、ちょっとしたミスやつまずきが起こると、それで最後の均衡が崩れ、ガマンの堤防は一気に決壊するという、甚だ不健康なメカニズムなのだそうです。

ではなぜそこまでガマンするのか。
ここからはマロニエ君の私見で、上記の話のパラドックスにすぎないことかもしれませんが、要するに現代は人とケンカができない、利害と打算と建前の世の中になってしまったということだろうと思います。
別にもめ事が良いことだと暴論を唱える気はありませんが、ケンカをしないようにするために、昔のように気を許した本音のお付き合いができなくなり、ノーミスが要求され、絶えず気を張って善良に振る舞うことに努めなくてはならなくなります。

しかし、ビジネス上の接待などならいざ知らず、通常の人間関係に於いてそんな演技のような関係ほど息の詰まることはありません。こういう風潮になってからというもの、本音をひた隠しにして、当たり障りのないことばかりを唇は喋り続け、ほとんど腫れ物に触るように気を遣いまくります。しかもそれは、本当に相手に対する気遣いではなく、これだけ気遣いをしていますよという自分の善良な姿を周囲にアピールしているだけ。要は自分の点数稼ぎにすぎないし、最低でもマイナスポイントだけは付けないように気を張っています。

現代人が表向きはおしなべて人当たりがよく、良好なような人間関係を保っているように見えるけれども、内情はまったくその逆というのは、かねがねマロニエ君も感じていたことでした。
良好なような振る舞いを見せられれば見せられるほど、そこには虚しいウソっぽさが異臭のように漂ってくるものです。

少しでも本音らしきことを漏らせば、すかさず「まあまあ」とか「いいじゃないですか」というような、オトナぶった、温厚の仮面を被った、極めて抑圧的な官憲の笛のような警告が飛んできます。
うかうか自分の考えもなかなか言えない世の中ですから、そりゃあ、破裂するのも当然でしょうね。
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ベーゼンは頑丈

過日、あるピアノリサイタルでのトークで聞いた話を少々。

この日のプログラムは主にロマン派のピアノ曲がひとつの主題のもとに配され、当時のいろいろな音楽事情やそれに絡む作曲家の恋愛話などが興味深く語られました。

マロニエ君は基本的にトーク付きのコンサートというのは好きではなく、できることなら演奏者は演奏のみに専念してもらいたいところですが、これも時代の風潮というべきか、旧来のスタイルは今どきの人にとっては甚だ無愛想でつまらないものと感じられるのかもしれません。

トークといってもいろいろで、それこそ人によって様々です。
演奏を補佐するようにトークをほどよく織り込みながら、お話と演奏をバランスよく進めていかれる方もなくはないものの、大半は内心「こんなトークを聞くために、今ここに座っているわけではないんだけど…」と、ついため息が出るような、紋切り型の話をくどくどされる方も少なくありません。きっとご本人もトークをするのが不本意なんだろうと思いますが、そういう人の話は聞いているほうも楽しめないのは当然です。

逆に、本業は演奏家であるのに、妙にトークずれしてしまって、変に笑いを取ろうとするような人などもあり、そんなときは聞かされているこっちの方がなにかいたたまれない気持になるものです。

前置きが長くなりましたが、この時のトークは珍しく楽しいもので、演奏家のトークというものは演奏以上にその人が出てしまうものだとも思います。

さて、リストの話題になったときのこと、思いもかけない言葉がピアニストの口から出てきて、おやと思いました。
若い頃のリストはまさに超人気ピアニストで、それは彼の美貌と圧倒的な当時随一の超絶技巧による華麗なピアノ演奏にありました。まさにスーパースターです。
そのリストのリサイタル会場には常時2〜3台のピアノが置かれていて、それはリストの激しい演奏に楽器が耐えられず、演奏中にピアノが壊れてしまうので、そのために数台のピアノがいつも準備されていたようです。

この日のピアニストが言われるには、そんなリストの激しい演奏にも持ちこたえる頑丈なピアノを作ったのがあのベーゼンドルファーだったということでした。(このことは、9月半ばのこのブログにも書きました)

いまでこそベーゼンドルファーは、貴族的なウィンナトーンをもつ繊細優雅なピアノとされており、スタインウェイやヤマハとは生まれも目指すところもまったく違いますよという高貴なイメージになっていますが、歴史を紐解けばどうもそういうことばかりでもないようです。

このピアニストが言われることに説得力があったのは、リストの時代には頑丈さこそが身上だったベーゼンドルファーは、他のピアノに比べてフレームなどもとりわけ強固で頑健に作られている由で、それは今日のモデルにも受け継がれているので、皆さんも機会があったらぜひ中を覗いて見てくださいと言われるのです。

通常ベーゼンドルファーは、楽器としての素晴らしさもさることながら、工芸品としての仕上げのクオリティでも見せるピアノでもあるので、ついそっちにばかりに目が向いてしまいますが、実際はずいぶん頑丈そうなフレームをしていて、ブリッジも縦横に伸びていますし、太いネジなどもバンバン打ち込まれています。エクステリアデザインも、頑丈さから来たピアノといえば確かにそうだと思われます(例外は今はなき優美なModel275)。
ベーゼンドルファー=ウィーンの伝統に根差した気品あふれるピアノという強いイメージが刷り込まれているので、そういう固定観念をもって見ていた自分にハタと気がつきました。

それとは別に近年感じていたことは、ベーゼンといえば「やわらかな木の音がするピアノ」というイメージが長らく定着していますが、そちらのほうは最近は少しずつ印象が変化してきているところではありました。
というのも、ベーゼンで多く耳にするのは意外にも鋭い金属的な音のするピアノが多く、個体によっては音がつき刺さってくるようで耳が疲れることがあるように感じます。

ウィンナトーンなどと云われると、ウィーンフィルやムジークフェライン、シェーンブルン宮殿などをつい連想して、それだけでもうなにやらありがたくて評価の対象ではないような気になってしまっています。
そんなウィンナトーンのピアノの筆頭であるベーゼンで耳が疲れるなど、こっちの耳がおかしいのだろう…ぐらいに思ってもみたのですが、でもやっぱり感じるものは感じるわけで、あまり硬質な、きつい感じの音がすると、んー…という印象をもってしまいます。

伝統あるものに敬意を払い尊重することは大切ですが、同時に自分の感性に対しては常に正直でなくてはいけないと思います。
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事務用品で代用

一般的にみなさんどうなのかは知りませんが、少なくともマロニエ君が自分でピアノを弾くにあたって、音やタッチのことは別とすれば、もっとも嫌なのは滑りやすい鍵盤です。

鍵盤が滑りやすいということは、むやみにミスタッチの誘因となるばかりでなく、そればかりに気を遣って、安心して弾く楽しみが得られません。滑りやすい鍵盤のせいで、しなくてもいいミスをするのは本当にいやなものです。
そもそも自分が下手クソなのは致し方ないことで、いまさらこの点を嘆いてもはじまりませんが、最低限自分のもっている甚だ乏しい演奏能力さえ指が滑ることで大きくスポイルされてしまうのは、ひとえに滑りやすい鍵盤のせいで、これは甚だおもしろくありません。

とりわけ質の良くない象牙鍵盤が弾き込まれると、表面は異様なほどサラサラスベスベになり、指先を適度に止めるという性質が完全に失われてしまいます。
現在、我が家で愛奏しているディアパソンは、幸いにもこの点ではそこそこの象牙のようで、それほど悪くはないのですが、マロニエ君の手や指が脂性でも汗っかきでもないためか、やはりやや滑り気味です。

滑るといえば、黒鍵の黒檀も、見た感じや指先の触れる感触こそ良いけれども、こと滑りやすさという点ではむしろプラスチック以下だというのが正直な印象です。
これがさらにスタインウェイなどの外国製ピアノになると、欧米人の太い指を想定して、黒鍵の間に指が入るように日本製ピアノより黒鍵がひとまわり細く作られているので、滑りやすい感触と細さの相乗作用によって、これがまたかなり弾きにくいのは事実です。

見てくれや質感を別にすれば、少なくともマロニエ君にとって最も安心できるのは白鍵も黒鍵も、あの安っぽいただの白黒の無味乾燥なプラスチック鍵盤ということになります。
よほど高級品が体に合わないというということなのかもしれませんが…。

これまでにも、市販の肌水などで手を揉むなどして試してみましたが、それなりでしかなく、決定的な解決策はありません。
即効性と一瞬の効力という点でいうなら、圧倒的なのは、名前はわかりませんが、オフィスなどで紙を数えるときなどに指が滑らないように指先にちょっとつける事務用品が文具店に売っていますが、あれは効果てきめんです。

ただし、この事務用としてつくられたケミカル品は、指先に硬いジェル状のそれを塗りつけて弾くとしばらくはまったく爽快なのですが、悲しいかなものの数分でその効果が失われてしまうことです。この製品で、もっと持続力があるものがあれば、例え値段は十倍してもマロニエ君は躊躇なく購入するでしょう。

それでも、ないよりはマシというわけで、譜面台の端にはいつもこの丸い容器に入ったピンクの事務用品を置いていますが、これをつけるたびに他の人はどうしておられるのだろうとしみじみ思ってしまいます。

よくレストランのお盆などに、載せた食器が滑らないように、ややネチャッとした素材で出来たものがありますが、まあさすがに鍵盤をそんな素材で作るわけにもいかないでしょうけれど、やはり滑りすぎが嫌な人のためのなんらかの対策グッズが、ピアノメーカーから開発されても良さそうな気がします。滑らない鍵盤は好ましいタッチに匹敵するほどの、演奏者にとって重要なファクターだと思うのですが、どうしてその手がまったく出てこないのか、こればっかりは不思議でしかたありません。

「持続力のある指先もしくは鍵盤滑り止め剤」みたいなものを開発したら、かなり売れると思うのですが…。
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二度目の終焉

もう十日以上前のことですが、検索にヒットしたネットニュースを見ていると、ショッキングな内容が目に飛び込んできました。

このところ不振が続いていたパリの名門ピアノメーカー、プレイエルがピアノ製造を停止する旨を発表したということです。
数年前にやはり販売不振を理由にアップライトの製造を中止し、近年はグランドのみの製造になっていましたが、それも有名デザイナーとのコラボで、凝った外装を持つヴィジュアルが前面に押し出されたもので、なんとなく楽器の魅力というより嗜好品的な方向を目指しているイメージだったのですが、それが最後の延命策だったのかと思います。

記事によれば、現代はピアノメーカーにとっては非常に厳しい時代で、ドイツ・ピアノ製造者連盟のマネジングディレクター、シュトロー氏によれば「ドイツ国内のピアノメーカー数社は厳しい競争に直面して、最高級品に焦点を当てている」と述べたそうです。
ドイツでさえそうなのだから、一部のファンからのみ好まれるフランスのメーカーともなれば、このような成り行きも当然ということでしょうか…。

これは、第一には世の中のニーズが様変わりし、アナログの象徴たるピアノに対する需要が著しく落ち込んでいることに加えて、1990年代以降は、日本に加えて中国の参入によって、高品質低価格のピアノがヨーロッパの市場を席巻したためのようでもありました。

そもそもクラシック音楽じたいが衰退傾向にある時代に、もはやヨーロッパの中堅メーカーが生き残る術はないということなのか…。欧米人は日本人が考える以上にドライなのだそうで、よほどの富裕層でもない限り、寛容な買い物はしないのでしょうね。
「最高級品に焦点を当てている」というのは、要はそれ以外では勝負にならないという意味でしょう。

といっても、スタインウェイでさえ、またしても身売りされてしまったし、ベーゼンもヤマハ傘下になり、もはや品質や名声だけではピアノ製造会社は生き残りができない時代は、ますますその厳しさがエスカレートしているようです。

考えてみればピアノというのは、製造する側から見れば中途半端な製品で、工業力や設備投資、最低の人員などを必要とする、楽器と工業製品のはざまに位置するものともいえるでしょう。
工房規模で一流品を作り出すことはまったく不可能ではないのかもしれませんが、なかなか困難で、仮にどんなにすばらしい楽器でも演奏家はそれを持って歩くわけにもいかず、ここがまた市場としての需要を作り出す要素としては中途半端です。

その点、弦楽器などは極端な話、天才的な名工であれば一人でも製作は可能で、本当に良いものなら演奏家などが放ってはおかないでしょう。
しかしピアノは、その重く大きな図体から「そこそこでいい」という習慣ができてしまっており、演奏者の求める要求も弦楽器のように高度なものではないということがピアノの運命を決定してしまっているのかもしれません。

ピアノメーカーもやみくもには必要ないと思いますが、少なくともプレイエルほどのメーカーなら、小規模でもなんとか存続できる程度のゆとりはある時代であってほしいものですが、なかなかそう上手い具合にはいかないようです。
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ふしぎ

近ごろの若い人は、能力の使い方が昔とは根本的に違ってきているのか、いろいろと不思議に感じることがありますが、とりわけ車などの運転に関する動きを見ていると、理解できないことがあまりにも多い気がします。

すでに何度か書いたことでもありますが、周囲の車の流れとはまったく無関係に、おそろしく低速で走行して後続の流れを堰き止めたり、交通の円滑な流れに著しい迷惑をかけても我関せずという、まったく状況認識というか空気の読めない、マナー以前という感じの動きをする若い男性ドライバーなどをしばしば目にします。

昔は、街中でやたら速度を出し、周りに恐怖を与えるような若者が多く、これは危険性も高くもちろん褒められたことではありません。しかし、一種の活力みたいなものはあったわけで、社会的にアウトな事でもまだ理解はできたのですが、一種の反骨や本能の浪費とも思えない、周囲への迷惑などに一切無関心なような、あの異様なノロノロ運転の類はどこからくるのかと思います。
もちろん飛ばしすぎなどの危険運転は道交法によって検挙の対象にもなりますが、ノロノロ運転でいくら周りに迷惑をかけてもまず摘発はされませんから、こっちはいわばやりたい放題です。

以前はまだ運転中に携帯電話でしゃべっているというような場合が多かったのですが、最近目につくのはそれさえなく、ただじっと無表情に前を向いて、堂々と場違いなスピードや動きで淡々と走っている男性ドライバーが目につき、その意図が読み取れません。
そうかと思うと、ムササビのような恐ろしげな動きで勝手放題に駆け回る危険きわまりない自転車などもやはり若い人に多く、なにがどうなっているのやらさっぱりです。

先日も、ちょっと驚くような光景を目にしました。
友人と夜出かけた折、マクドナルドでちょっとお茶でもしようということになりましたが、郊外の店で日曜の夜ということもあり、お客さんはほとんどなく広い駐車場はガラガラでした。

店を出て車に戻ろうとすると、ん?という光景を目にしました。
一台の車がマロニエ君の車の隣に駐車し終えたばかりで、ちょうど中の人が降りてくるというタイミングでした。ところがこの両車の間は30cmあるかないかぐらいにくっついており、しかも車はBMWの3シリーズのクーペなので、当然2ドアです。2ドアというのは4ドアよりもドアの幅がずっと広いので、ドアの開閉にも4ドア以上にスペースが必要となります。

助手席の女性が降りようとしているものの、ドアが広い上に、こちらの車との間隔が狭いため、ドアをぶつけないよう、見ていて気の毒なくらいアクロバティックな体勢で、片手でドアが開きすぎないよう保持しつつ、その隙間を体をくねらせるようにしてやっとのことで車外にでることに成功。

それが済むまでこちらはドアが開けられませんから待っていたところ、さすがに気まずかったのか軽く会釈をして向こう側にいるドライバーの男性と連れ立って、普通に会話しながら店内に歩いていきました。

しかしです。先にも言った通り、その駐車場はかなり広い上に、閉店しているのでは?と思うほどガラガラでほとんど車はなく、どこでも止め放題なのです。後ろも左右もまったく車はなく、白線だけがむやみに目に入ります。
にもかかわらず、なにを思ってわざわざポツンとあるマロニエ君の車の横にそうまでしてくっつけて止める必要あるのか、その考えがまったく理解できません。

その男性も、ごく普通の今風の青年で、見た目はまあまあのカップル。おまけに車はビーエムで、せっかくそれだけの条件を備えているのに、パーキングでのこの残念なカッコ悪さは見ているこちらのほうが失笑というか、無性に気の毒な気分になりました。
しかも、これだけ広いのに、教習所じゃあるまいし、わざわざ慎重にバックで駐車するのもナンセンスとしか思えません。

ほんらいバックで止めるか、前向きに止めるかも、あくまでケースバイケースだと思いますが、運転の下手な人に限って、駐車というと無条件にバックで止める習性をもつ人が多いように思います。もしかしたら「出るときが楽だから」という思い込みなのかもしれませんが、出るときにバックするほうが、きちんと枠に収める必要もなく、技術的にも遙かに楽なんですけどね…。
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気負わぬ演奏

過日は、福岡出身のピアニスト、木村綾子ピアノリサイタルがあって、ご案内を受けたので行ってきました。
現在は大阪音楽大学で指導にあたっておられ、福岡ではなかなかコンサートの機会がないのですが、それでもときどきこうしてリサイタルをされるのは嬉しいことです。

マロニエ君は以前この方のお母上に大変お世話になったことがあり、ご実家が拙宅から近いこともあって長いことお付き合いがあります。

ここのお嬢さんが木村綾子さんというピアニストなのですが、これがもう大変な腕達者で、ほとんど男勝りとでも言っていい確かな一流の技巧をお持ちです。

音楽的にも、衒いのない正攻法のごまかしのないもので、どこにも変な小細工やウケ狙いがなく、あくまでも楽譜に書かれたことを、慌てず迷わず、しっかりと腰を据えつつ、過度に作品を追い込むことなく客観的に弾かれるスタイルがこの方の特徴です。

長年ドイツに留学されていたこともあるとは思いますが、この方の生来持っておられるものとドイツ音楽はまことに相性がよく、まるで自然な呼吸のようで、確かな構造感が決して崩れることのないまま悠々とその音楽の翼を広げていきます。

そんなドイツ物の中でも、際立って相性抜群に思われるのがブラームスで、あの重厚なのに捕らえどころのない本質、分厚い和声の中をさまようロマン、暗さの中に見え隠れする甘く儚い旋律の断片、作品ごとに掴みがたい曲想などが、この方の手にかかるとあっけないほどに明確なフォルムをもって明瞭な姿をあらわす様は、いつもながら感心させられます。

今回はop.116の幻想曲集が演奏されましたが、これを聴いただけでも行った甲斐があったというものでした。

ピアノを弾くことによほど天性のものがあるのか、こういう人を見ていると、通常はピアノリサイタルという、演奏者にとてつもない負荷のかかる行為が、大した労苦もなしにできるらしいといった印象を受けてしまいます。コンサートはこの方の生活のところどころに自然に存在するもので、それを普通にやっているだけといった、至って日常的な風情です。

そのためか、ギチギチに練習して、隅々まで精度を上げるべく収斂された演奏という苦しさがなく、もっと大らかで、悲壮感も緊迫もなしに、自然にピアノを弾いておられるという伸びやかさが感じられます。
もちろんきっちり練習されていないはずはないのですが、その苦労が少しも表に出ないところがプロというもので、良い意味で、常に余力を残した演奏というのは心地良いものです。実力以上のことを無理にやろうとして聴く側まで疲れさせてしまうということがなく、安心感をもって楽曲に耳を委ねることができるのは立派だというほかありません。

これは、ひとつには木村さんが大変な才能に恵まれたピアニストであるのは当然としても、さらにはその人間性やメンタリティに於いても、常に謙虚で偉ぶらない姿勢が感じられ、その点が聴いていて伝わってくるのは、この方だけがもつ独特の心地よさのような気がします。
演奏に最善を尽くすことと、功名心に縁取られた演奏は似て非なるものです。

どんな難曲を弾くにも自然体が損なわれず、それでいて演奏は構成的にも技巧的にも収まるべきところにビシッと収まっており、これは多くのピアニストがこうありたいところでしょう。
ある意味、こういう無欲で腹の据わった芸当というのは多くのピアニストはなかなかできることではなく、その真摯なのに肩肘張らない演奏は、聴くたびに感心してしまいます。

トークがまたおもしろく、私はピアニストでございますといった気負いがまるでなく、普通の人の感性で淡々と素朴な話をされるのがしばしば笑いを誘います。しかるに、いったんピアノに向かうと呆れるばかりの見事な演奏が繰り広げられるのですから、ある意味で不思議なピアニストです。
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イヌ派とネコ派

動物好きを自認するマロニエ君は、子供のころから家には必ずい犬がいて、犬のいない生活を送った時期のほうが遙かに少なく、この最近がそれにあたります。
数年前、最後に飼った犬が老衰で亡くなり、その悲嘆から家族共々次を飼う意欲を喪失し、この数年間というもの、これほど長く犬のいない生活を送ったのは初めての経験です。

猫も決して嫌いではないし大いに魅力的だとは思いますが、動物を飼うというのは生半可な気持であってはなりませんから、そうなるとどうしても自分との相性に逆らうことはできません。
昔から動物好きの中にもイヌ派とネコ派があるといわれている通り、これはなかなか途中から宗旨替えすることはできないようです。
竹久夢二や川端康成は有名なネコ派ですが、吉田茂などは犬嫌いの奴とは口もききたくないというほどのイヌ派だったとか。
マロニエ君はどうしても犬のほうが圧倒的に好きで、自分には合っていると思います。

そもそも犬と猫は、なにもかもが逆のような気がします。
呼んだら喜んでやって来る犬、呼んでも無視するのが当たり前の猫。
何かにつけ喜怒哀楽をストレートにあらわす犬、いつもクールで冷めた態度の猫。
飼い主に無限の忠誠と愛情を示す犬、イヌ派には恩知らずとしか映らないマイペースな猫。
人と家に住みついて決して離れない犬、いつどこに消えてしまうともわからない猫。

…等々、書いていたらキリがありません。

我が家の庭には隣家の飼い猫がときどき遊びにやって来るのですが、これまで何十遍も呼んでみたけれども、ただの一度も応えてくれたことはなく、窓越しに見ていると近くで適当に遊んでいますが、少しでも裏口から出ていこうとすると、サッと忍者のように音もなく走り去ってしまいます。

つい先日、そんな猫の野生というか、恐さを目撃してしまいした。
いつものように我が家の庭に遊びに来ている猫を見つけ、窓越しに観察していたときのこと、普段とは少し様子が違ってその日はいやに何かを見つめています。そして、ふいにあっちを向いたり、逆方向に身体ごと少し動いたりと、とにかく何かに集中しているようでした。

何事かと注視していると、その視線の先にはヤモリだかトカゲだかがいて、双方睨み合いが続き、相手が小刻みに動くたびに猫のほうも敏捷にそれを追っているようでした。
猫は全身をこわばらせてあっちこっちと動いてはピタッと静止を繰り返していましたが、しばらくその攻防が続いたあと、その緊張がふと緩みました。
こわばっていた猫の背中には普段のしなやかな曲線が戻っていますが、なんとはなしにやや異様な感じがしました。そしてこちらを向くと、猫の口元に何かがプラプラとぶら下がっています。

なんと、ついにそのヤモリorトカゲが捉えられ、猫に勝負あったようでした。
しばらくこっちを見たり、横を向いたりしましたが、そのたびに口先の物が小さく揺れています。
そのうち、意を決したように、いつものように隣家のほうへ軽やかに走り去ってしまいましたが、あんなに小さくてかわいくとも、猫の素性はれっきとした野生動物であることをはっきりと見せつけられたようでした。
やはり、遠いご親戚には虎やライオンがいらっしゃるだけのことはありますね。

なんだかゾッとする光景で、これだけでもやっぱり自分はイヌ派だなぁ…としみじみ思わせられた一瞬でした。
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続・左手ピアニスト

左手ピアニスト、智内威雄さんの番組で、冒頭から聞こえてきたピアノの音は、普通とはちょっと違う、燦然とした響きのパワーをもっており、のっけからおやっと思いました。

カメラがピアノに近づくと「ああ、そういうことか」とすぐにわかりましたが、これは神戸の有名ピアノ店所有のニューヨーク・スタインウェイで、いわゆるヴィンテージピアノです。ずいぶん昔にはスタインウェイ社の貸出用に使われていたという来歴をもつ1925年製のDですが、やはりこの時代のニューヨーク・スタインウェイはすごいなあと思います。

何がすごいかと云えば、単純明解、良く鳴るということです。
鳴りがいいから音にも力があり、敢えて派手な音造りをする必要もないようで、太くてどこまでも伸びていきそうな音が朗々と響き渡ります。昔のピアノの音色には、変な味付けがされていない楽器としての純粋さがあるように思います。いわば豊かな自然から生まれたおいしい食材のようなもので、ごまかしがないところが素晴らしい。

もちろん素材としての味は濃厚ですが、それはけっして添加物の味ではありません。
演奏され、ピアニストの技量によって繰り出される音楽の要求に応えるための音であり、その領域に特定の色の付いた音が出しゃばってくることはありません。

その点、現代のピアノは、パッと見は音もタッチもきれいに整っていますが、全体に小ぶりで器が小さい上に、いかにもの味付けをされている傾向があります。いとも簡単に甘くブリリアントな耳触りの良い音が出るようになっており、こういう感じはウケはいいのかもしれませんが、その音色には奥行きも陰翳もないし、弾き込まれて熟成されるであろう感じなども見受けられず、今目の前にあるものが最高の状態という感じです。アコースティックピアノなのに、まるで電子ピアノのような無機質の偽装的な美しさがあるばかりで、音色はあらかじめ固定されてしまっている。

しかし、これでは演奏によって作り出されるべきものを、予め楽器のほうで勝手に決定されてしまって、演奏者から、音色や響きを演奏努力によって作り出す余地さえ奪っているようなもので、悪い言い方をすれば演奏の邪魔をしているとも感じます。

智内さんのご自宅(もしくは個人の練習室)には、新品のように美しくリニューアルされているものの、戦前のニューヨーク・スタインウェイの小さめのグランドがあって、楽器の音にも独自のこだわりをお持ちの方のようにお見受けしました。

また、神戸のあるホールで開催された智内さんのコンサートの映像では、古いヤマハのCFIII(たぶん)を使ったものもありましたが、これが意外なほど渋みのあるいい音だったことは驚きでした。過日書いた広島での小曽根真さんのときと同じく、マロニエ君はこの頃のヤマハのほうが音が実直かつ厳しさがあり、ピアノ自体にも強靱さがあって、はるかに観賞に堪える音のするピアノだと思います。

スタインウェイに話を戻すと、智内さんが通って練習を続け、コンサートにもその特別なピアノを運び込む神戸のピアノ店がしばしば登場しました。ここはマロニエ君も何度か訪れたことがありますが、この店にある年代物のスタインウェイは、どれもその老齢とは逆行するような溌剌としたパワーを漲らせており、「ピアノはヴァイオリンと違って純粋な消耗品」などという流説がここではまるきり通用しません。

マロニエ君は決して懐古趣味ではありませんが、ピアノはやっぱり昔のものの方が全般的に素晴らしいという印象は、このところますます強まるばかりです。
もちろん、個体差もあれば、例外となるメーカーもあるとは思いますが、時代の流れとして全体を見た場合、概観すればそういう現実があると個人的には思っています。
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左手のピアニスト

NHKのETV特集で、『左手のピアニスト~もうひとつのピアノ・レッスン~』という番組が放送されました。
智内威雄さんという、現在37歳のピアニストに焦点を当てたもので、20代前半のころ、留学先のドイツで突然「局所性ジストニア」という難病に襲われ、右手のコントロールが効かなくなったことから、苦悩を乗り越え左手のピアニストに転向したという方でした。

注目すべきは、どうやら、この方がただ単に左手のピアニストというだけでは終わらない能力の持ち主であるというところのようです。
左手ピアノは、両手ピアノとは奏法も聴かせ方も異なるため、左手ピアノ固有の奏法や表現を独自に研究、弟子および他者への指導、埋もれた楽曲の発掘、さらにはコンサートなどを通じての、いわば市場の開拓といったら言葉が適当かどうかわかりませんが、左手ピアノの魅力を世に知らしめることまでを視野に含む、トータルな活動を精力的にこなす方でした。

ラヴェルやプロコフィエフの左手の協奏曲などが、第1次世界大戦で右手を失ったピアニスト、パウル・ヴィトゲンシュタインの委嘱によって作曲されたことは有名ですが、番組の解説によると、左手ピアノのための作品はなんと300年前から存在し、数千曲もの左手のピアノ作品が作られていたというのは驚くべきことでした。

しかも現在は、これらの作品の大半が弾かれることのないまま埋もれた状態になっているのだそうで、そうなると楽譜を見つけるのも容易なことではないようです。

どれほど優れた作品であっても、それが演奏され、音として聴くことができなければ、その存在意義は無いに等しいものになるわけで、カザルスがバッハの無伴奏チェロ組曲の価値を見出したり、メンデルスゾーンがバッハそのものの価値を広く世に広めるきっかけを作ったように、数多くの陽の目を見ない楽曲には、ときどきこのような熱心な個人の力によって、再び陽の目をみるチャンスが巡ってくるものなのかもしれません。

その智内さんの演奏はまったく見事なもので、いわゆる左手ピアノにありがちな、ひ弱さや物足りなさの要素は皆無。いかにも筋の通った、堂々たる佇まいの音楽として、充実感をもって演奏される様子には感嘆すら覚えました。
テクニックも大変なもので、あるコンサートで共演したフランス人のなんとかいうピアニストとは格段の違いを感じさせられます。

さらには、智内さんがピアニストとしてだけでなく、ネットを駆使して演奏技法を公開したり、左手ピアノの勉強会のようなことを開催したり、子供のために編曲をしたりと、とにかく広い意味での才人であることに異論はありませんが、番組の随所にはけっこう役者だなあと思わせられるシーンも少なくなく、さらにはその考え方や言葉などを通じて、なかなかの野心家のようにも感じられ、こういう人は何をやらせても事を為し遂げるのだろうと感心させられてしまいました。

ルックスもなかなかで、声もよく、色白のおだやかな優男のようでありながら、その眼光は常に鋭く、まさに隙のない意志の人なのだということが、まるで倍音のように伝わってきたのはマロニエ君だけでしょうか…。

左手ピアノでありながら、有名な日本人の御大の名が一度も出てこなかったのも偶然かどうかはわかりませんが、ともかく、これぐらいの才とスタミナのある人でなければ、今の時代にひとつの分野を再確立させることなどできないのだろうと、なんとなくトータルで了解してしまいました。
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プレイエルP280

これまで購入したCDの中には、聴いてみるとまったく期待はずれで、一聴してそのままどこかに埋もれてしまうものが少なくありません。
もったいない話ですが、CDは聴いて気に入らないから返品というわけにもいかないので、こういうCDもいつしか嵩んでくるという面があることは事実です。

そんなものの中から久しぶりに再挑戦というわけでもありませんが、ふと思い出して、もういちど清新な気分で聴いてみようと引っ張り出すことがあるのですが、そんな敗者復活戦で陽の目を見るCDは滅多になく、大抵はやはり初めの印象が蘇ってくるだけに終わります。

そんなもののひとつに、「プレイエル・ピアノを、サル・プレイエルで」というタイトルで、デルフィーヌ・リゼという女性ピアニストの弾くシューマン、ベートーヴェン、リスト、プロコフィエフ、ショパンなどを収めたCDがあり、これを再度聴いてみることに。

これはいうまでもなく、現代のプレイエルのコンサートグランドによる録音がほとんどない中で、その音を聴いてみることのできる貴重なCDとして買ったもので、演奏や曲目は二の次です。

プレイエルというと、マロニエ君はやはりコルトーのCDに代表される昔のプレイエルには惹かれるところが大きいのは事実です。戦前から1940年ぐらいまでのプレイエルが持つ、あの独特の軽さと、華麗で艶やかで享楽的な音色はいかにもパリのピアノというもので、田舎風の要素がまるでありません。

その後のプレイエルはドイツ資本に売られるなど、事実上プレイエルの遺伝子を持ったピアノは消滅したも同然でしたが、21世紀の初頭だったか、ふたたびフランス国内で再興します。
この新しいプレイエルの音を賞讃する意見にはあまり触れたことがありませんが、そのナインナップの中にはP280というコンサートグランドまで含まれているのは大いに期待をもたせるものでした。

ところが、なかなかその音に触れ得るチャンスがなく、そんな中でこのCDはある意味で最も待ち望んでいたものでした。しかし、スピーカーから出てくる音はどうにもパッとしないもので、期待が高かっただけに肩すかしをくらったようでした。

決して悪い音ではないのです。ただ、昔のプレイエルが持っていた明快な個性に比べると、非常に優等生的で、このメーカーに対して期待していたものはほとんどありません。
さすがにフランスピアノだけあって野暮臭い鈍重さはなく、基本的に柔らかい響きと、基音の美しさで聴かせるピアノだとは思います。

ある技術者の方から聞いた話によると、このP280は実はドイツのシュタイングレーバーで生産委託されているものだそうで、聞いたときは大変驚きましたが、考えてみれば工房規模の、いわば弱小ピアノメーカーで中途半端なものを無理してつくるより、シュタイングレーバーのような確かな技術を持つ会社に丸投げしたほうがいいということかもしれません。

これは自分で確認できた話ではありませんが、相手は好い加減なことをいう方ではないので、それが事実だとすると、このP280はピアノとしての潜在力はいいものがありそうに感じるものの、その音はどこかおっかなびっくりの至って消極的なものとしか思えません。ドイツ製ピアノの土台の上に、フランス風の味付けをしたという辻褄あわせが、本来のこのブランドらしい突き抜けたような個性の表出を妨げているのかもしれません。

逆にいうとシュタイングレーバーに、小ぶりのやわらかなハンマーを取りつけて、それっぽい整音をしたらこんな音になるのかとも思いますが、いずれにしろ、本当にプレイエルのコンサートグランドというのであれば、まずなによりもショパンコンクールのステージに復帰してほしいものです。

追記;先ほどシュタイングレーバーを販売するお店の方からメールをいただき、シュタイングレーバー社はプレイエル社から依頼されたため、P280の設計をしただけで、生産はしていないということでした。
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アンプの重要性

スピーカーの音質調整は、カーペット上に置いていた足の部分に、ステンレス製バット→素焼きレンガ→タイルと3種類を台座として使ってみたところ、素焼きレンガ+タイルというところで最も好ましい音となり、これをもって終わりとする予定でしたが、ひとつだけ思い出したことがありました。

それはこのシステムでは安い中国製デジタルアンプを使っているのですが、いかにデジタルとはいってもメーカーごとにいろいろあって、自室で使っているものは最もその標準的なモデルとされるものでした。一時期いい気になって何台か購入して持っているのに、これをあれこれ試して比較してみるということはしていなかったのです。
とくに深い理由はなく、ただ面倒臭いからやっていなかったわけで、そのあたりがやっぱりにわかマニアはダメだなあと自分の無精を恥じ入るばかり。

そこで、最も交換してみたいひとつのアンプを思い出しました。
それはLepaiというメーカーで、数ある中国製デジタルアンプの中でも、実力はあるものの、見栄えがイマイチで、なんとなく物置の中にしまったままにしていたものですが、それを引っ張り出しました。

このLepaiのアンプは、複数の業者によってアマゾンなどでも売られていますが、マロニエ君が買ったのは日本のある販売会社が自社仕様として独自のパーツを組み込ませるなど、特別にチューニングされたという製品で、見た目はまったく同じものですが、内容はずいぶん磨きがかけられているというもの。
この会社は一部のマニア間ではかなり高い評価を得ているようです。

さっそくにそれに繋いでみると、なんと、これまでのアンプとはまったく違ったパワフルな鳴り方をしはじめたのにはただびっくり!「そうか、まずはアンプを試してみるべきだったんだ」とこの時悟りましたが、ともかくこれでグッと力強い音が鳴り始めました。
ちなみにワット数が大きいというようなことはほとんどなく、やはり肝心のものは慎重に選ばなくてはいけないということのようです。

アンプでこうも違うのかと思い、久しぶりにネットを見てみると、そのお店から同じ製品のさらなる進化型というか、最終型のようなものが発売されていました。このお店の商品は、みんなが狙っているアイテムは入荷したときにすみやかに買っておかないと、悠長に構えているとすぐに売り切れとなり、次はいつになるかまったくわからないことが何度かあり、その経験からすぐに注文してしまいました。

こうして数日後に届いた最新型は、やはりダサい外観はまったく何一つ変化ナシで、うっかりすると新旧どっちやらわからなくなるので、用心のために小さなシールを貼り付けて区別します。
果たしてその音ですが、一年前に買ったものとは明らかに違っていて、力強さはそのままに、やや荒削りなところのあった音は俄然クリアになり、とても同じものとは思えない進化を遂げていました。

前のモデルでも、巷の評価では数十万もするアンプに負けないというような評判もあったぐらいでしたが、今回のものは、いっそう緻密でクオリティの高い音になっていて、その価格を考えると、なんでこんなことが可能なのか、ほとんど信じられません。

説明によれば、さらなる改良が施され、同型では過去最高の音質を達成できたと謳われていますが、まったくその通りでした。同じピアノでも調整次第で別物になるというのと同じことなんだと思いました。
よい音というものは、楽器であれオーディオであれ、要するに緻密な研究や調整の積み重ねの先にはじめて存在し得るものだということがわかったような気がしています。

コストパフォーマンスでこれを凌駕するアンプはたぶんどこにもないだろうと思います。
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ストラドの謎-3

現在製作されるヴァイオリンの多くが、ストラドを手本とし、サイズもほぼそれに固定化されているというのがおおかたの現実のようです。
これはもちろん、ストラドを崇拝する製作者の意志であると同時に、ここまでストラド至上主義が蔓延することで、市場もストラド型でなければ売れないという裏事情があるのでは?と考えさせられてしまいます。

ヴァイオリン製作者とて、多くはただ趣味や道楽でやっているわけではないでしょうから、最終的にはその楽器が演奏家に弾かれて評価され、その結果、ビジネスとして成り立たなくては作る意味がないだろうと思います。
今のこの風潮の中で、仮にストラドに背を向けたヴァイオリン作りをしても、見向きもされないとしたら、よほど孤高の職人でもない限り、製作する意義が見出せなくなる。勢い時代の要請に沿ったものを造らざるを得ないのは、市場原理の中ではやむを得ないというべきでしょうか。

でもしかし…。
そもそもマロニエ君が直感的に感じるのは、現代人がストラドの完璧なコピーを目指している限りにおいて、それを越えるものは生まれないのではないかという疑念です。
ダ・ヴィンチのモナリザを、どれだけ高度な正確さをもって模写しても、模写は本物を凌駕することはできません。さらにそこには数百年の時を経ることで、経年変化も重要な味わいの一要素になっているでしょう。
もちろん絵画と、機能性をもった楽器を同等に論じるわけではありませんが…。

ある本にあった言葉ですが、「概念を作る側と、それを追う側には、埋めがたい溝がある」と述べられていることをふと思い起こさせられました。

これは、「追う」というスタンスにある限り、目標物を捉えて同列に並ぶことは永遠にできないという定理のようなもので、それ以上の新しい何かを作ろうとしたときに、その過程で自然に先達の偉業の実態も掴める瞬間がやってくるのではないかと思うのです。
つまり、目標がストラドである限りにおいては、ストラドの天下は安泰だと見ることができるわけです。

それはともかく、この番組の中で印象に残る2つの要素、楽器から出る音の指向性を科学的に証明できたことと、表板に対する均一な音程の考察は、いずれも日本人による研究や考察であり、やはり日本人はすごいなあと感心させられ、誇らしくも思いました。

個人的に残念だったのは、ナビゲーター役のヴァイオリニスト演奏が、カメラを意識して張り切り過ぎたのかどうかわかりませんが、どこもかしこもねっとり粘っこい歌い回しのオンパレードで、いかにストラドとはいっても少々うんざりしてしまいました。

反面、思わず可笑しくなったのは、出てくる人達はおしなべて皆一様にどこか楽しそうで、嬉々としてこの仕事や研究をやっているという様子だったことです。そして大半が男性で、やはり男性特有のオタク的な性質が威力を発揮するのは世界共通で、こういう仕事には繊細で夢を追うのが大好きな男性が向いているということをまざまざと感じたところです。

ふりかえって最も印象に残った言葉は、音の指向性を三次元グラフにして解析した牧勝弘さんの、この実験結果に対する総括的なコメントの言葉でした。
「モダンヴァイオリンは、音があらゆる方向に満遍なく広がる噴水のような出方であるのに対して、ストラドは特定の方位へ音が広がる、しぼったホースの水のようなもの」(言葉は正確ではありませんが、おおよその意味)

これは、ピアノにもそのまま共通する事実で、この特性こそ、一握りの優れた楽器だけに与えられた奇跡的、特権的特性のようなものだと思います。
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ストラドの謎-2

NHKスペシャルの『ストラディヴァリウスの謎』では、この名器を巡って興味深い事の連続で、あっという間の1時間でしたが、その中でも、とりわけ「ほぅ」と思ったのは、先にも書いた、モダンヴァイオリンとストラディヴァリウスの音の特性を科学的に探るというものでした。

番組の中で、ストラドを使うパールマンも云っていましたが、ストラドの音は大きいのではなく、音に芯があって澄んでいる、だからホールの最前列から最後列まで満遍なく届くということでした。

そんなストラドの特性が、今回の日本での実験で科学的にも裏付けられたわけで、歴史的な名器といわれる楽器は往々にしてこのような傾向をもっており、ピアノでいうとスタインウェイの特性がまさに同様で、けっきょく同じだなあと思いました。

スタインウェイは傍で聴くと音量はそれほどでもなく、音色もむしろ雑音などが気になるのに、少し距離を置いて聴くと、一転して美しい、力強い音が湧き出るように聞こえる不思議なピアノで、これが大ホールの隅々にまで届く、遠鳴りの威力だと思います。
同様の実験はピアノでもぜひやってほしいものだと思いましたが、すでに日本などのメーカーではこうしした実験も極秘でやっているのかもしれません。

さらにマロニエ君の印象に残ったのは、窪田博和さんの主張で、ストラディヴァリは表板の音程を聞きながら製作をしたのではないかという基本に立ち返った考えでした。
それをある程度裏付けるものとして、ニューヨークのメトロポリタン博物館に所蔵される2挺のストラドはロングパターンといわれるモデルでしたが、これはストラディヴァリ50歳頃の作品で、この時期の特徴として通常のヴァイオリンよりもやや長めのボディを作っていたというものです。

現代のヴァイオリン職人の中には、コンマ何ミリという正確さでストラドの正確な寸法に基づいて、徹底的に模倣している人が少なくないようですが、そこまでしても本物にはおよばず、かたやストラディヴァリ自身は、時代によって大きさの異なるヴァイオリンをあれこれと作っているというのは、大いに注目すべき点だとだれもが思うところでしょう。

表板に開けられるf字孔も時代によってその形や位置が微妙に異なるそうですし、本で読んだところでは表板の膨らみなどもいろいろだと書かれています。
ディテールの形状やサイズがそれぞれ違うにもかかわらず、どれもがストラディヴァリウスの音がするということは、研究の根幹を揺るがすことのような気がします。

上記のロングパターンも展示ケースから取り出して演奏されましたが、紛れもないストラドの音がするというのは、まったく不思議というほかはなく、ますます興味をかき立てられるところです。そこには寸法よりももっと重要な「決め手」があると思わずにはいられません。

要するに、ストラディヴァリが作ったものなら、たとえサイズやf字孔の位置や形状が違っても、どれもがストラドの音がするというわけで、やっぱり製作過程にその奥義が隠されているのかなあ…と思ってしまいます。

そこへ窪田博和さんの主張が結びついたような気がしました。
もちろん楽器の音色を構成する要素は複合的で、それひとつでないことは忘れてはなりませんが、窪田さんの製作したモダンヴァイオリンは世界的にも高く評価されているようで、実際のコンサートで使っているヴァイオリニストもおられるようです。
そのひとりルカ・ファンフォーニ氏は「古いクレモナのヴァイオリンのような音」「作られたばかりとは思えない完成された音」と満足げにコメントしていたのが印象的でした。

アメリカのオーバリン大学では、毎年世界からトップクラスの60人のヴァイオリン職人が集い、ストラドの研究成果を互いに分け合っているそうですから、着々と謎の解明へ迫ってきているのかもしれません。
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ストラドの謎-1

先日の日曜夜、NHKスペシャルで『至高のバイオリン ストラディヴァリウスの謎』という、タイトルだけでもわくわくさせられるような番組が放送されました。

例によって録画を後日視たわけですが、テレビでここまでストラディヴァリウスの謎に迫ったものはこれまで見たことが無く、なかなか興味深いものでした。

アントニオ・ストラディヴァリ(1644-1737)の作ったヴァイオリンをはじめとする弦楽器は、ラテン語風の「ストラディヴァリウス(通称ストラド)」と呼ばれながら約300年が経つわけですが、現代のめざましい科学技術の進歩をもってしても、いまだにそれに並ぶヴァイオリンを作る事が出来ないというのが最大の不思議とされてきました。

この一人の天才製作家の作り出した楽器に迫ろうと、18世紀から今日まで、いったいどれほどの製作家がその秘密に挑戦したことでしょう。古今東西、それに比肩すべく最高の弦楽器造りに生涯をかける取り組みがくりかえされていますが、いまもって達成できたとは云えないようです。

番組では、一人の日系人で、12年前からストラドを使うという女性ヴァイオリニストが、ナビゲート役としてその謎を追う旅に出ます。聖地クレモナはもちろん、ストラディヴァリが使った木材が切り出されたという天然のスプルースの森、現代の工房、博物館、ニスの解明はもちろん、アメリカではCTスキャンにかけて内部構造を詳細に調べるということまで、ありとあらゆる調査がおこなわれていました。
それでも、これという決定的なストラドの製造上の秘密は解明できませんでした。

今回の調査で画期的だったのは、NHKと、楽器の演奏を立体的に分析する学者、およびストラドを使う日本人演奏家という3者の協力によって、NHKにある「音響無響室」という響きのまったくない施設内で、演奏者のまわりを42個の小型マイクで取り囲み、ストラドと現代のモダンヴァイオリン音の特性を比較すべく、3人の演奏家とそれぞれが所有するストラドと現代のヴァイオリンを使って実験がおこなわれたことでした。

その結果は三次元のグラフに表現され、モダンヴァイオリンでは音が演奏者から周囲にまんべんなく広がろうとするのに対して、ストラドはある特定(斜め上)の方向に音が伸びていこうとする特性があることが、客観的かつ科学的に立証されました。

また、日本人のヴァイオリン製作家である窪田博和さんは、ストラドの制作上の重要な鍵のひとつは、表板の均一な音程にあるのではという点に着目されていることでした。それは表板のどこを叩いても、常に同じ高さに音が揃うように制作することで、楽器が最も効率よく鳴るという主張でした。

これはつまり、ストラディヴァリはあくまで音優先で楽器を制作していたのではないか?という基本に立ち帰った考え方です。
化学分析や寸法のコピーなど目に見える部分をマネるのではなく、もっと基本的に「音を聞きながら製作する」ことにこだわるということで、ストラディヴァリは一挺ごとに指で板を叩きながら板を削り、表板の音程を揃えたのではないかという考察でした。

というのも、クレモナはじめ、現代の世界中のヴァイオリン製作家の多くは、ストラドの寸法を完璧に計測して、中にはコンピュータ制御でまったく同寸法の板を切り出すなどして、各人これでもかとばかりに寸分違わぬストラド型ヴァイオリンの製作に邁進しており、彼らは完全なストラドのコピーを目指しているようです。
その甲斐あってか、相当に良質のヴァイオリンが生み出されるようになってはいるようですが、それでもストラディヴァリのコピーができたという訳ではなく、いろいろなことが世界各地で研究されているにもかかわらず、いまだにこれという核心の解明には至っていないようです。

ヴァイオリンの構造というのは、「えっ、たったこれだけ?」というほどシンプルなもので、逆にあまりのシンプルさ故にストラディヴァリの優位の秘密はいったいなんなのか…、ここに製作者や研究者の心はいやが上にも高ぶり、果てることのない研究が今尚続けられているのかもしれません。

ストラディヴァリウスそれ自体がまさに謎そのものであり、その謎がどうやっても解けないところに多くの人が惹きつけられるのでしょう。
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邂逅

小林彰太郎さんが作った「カー・グラフィック」は、他の自動車雑誌とは一線を画する記事が満載でしたが、その中には、「長期テスト」といって編集社で話題の車などを実際に購入し、各編集員が一台を担当して日常の足として徹底的に使用してみることで、わずか数日のテストでは得られない部分を報告していくというものがあります。

最近は若者の車離れという世相を反映してか、この長期テスト車もずいぶん数が減ってしまいましたが、最盛期には10台以上の長期テスト車フリートを擁し、それだけでも誌面はたいへんな活況を呈していました。

むろん小林さんも長期テスト車の担当者の一人で、ある時期、一台のフランス車が小林さんの担当となり、それはマロニエ君およびその仲間達の愛用する車でもあったので大いに喜んだものでした。
この長期テストには読者へのモニターの呼びかけというものがあり、それに名乗りを上げた同型車のオーナー達にはアンケートが送られてきて、その回答からユーザーの満足度や不満点など、さまざまな内容が誌面で報告されます。

小林さんは数年数万キロにわたって日常を共にしたこの車にいたく感銘を受けられ、長期テスト終了後には、あらためて自宅用の車として新車を購入されるほどの高い評価でした。

そこで、当時マロニエ君が所属していた同車のクラブでは、節目にあたる全国ミーティングに小林彰太郎さんをお招きすべく事務局が編集部に掛け合ったところ、なんと了解が得られ、業界きっての大物が会場の箱根のホテルにゲストとして一泊で参加されることになりました。

マロニエ君はこの記念イベントに参加すべく、福岡から自走して箱根に向かいましたが、途中は普段なかなか行くことのない各地のピアノ店巡りをしながら、その終着点として箱根を目指しました。そのため前泊はせず、当日朝からの参加となりました。

それが幸いしたのかどうかはわかりませんが、ホテルに到着すると、まわりの皆さんの計らいによってロビーで小林彰太郎さんと二人だけで話をする機会を作っていただき、長年文章でばかり接してきた巨匠とついに相対して言葉を交わすことになりました。
はじめはいちおう車の話をしていましたが、マロニエ君が福岡からピアノを巡る旅をしてきたことを口にすると、たちまち話題は音楽の話になり、小林さんもお若い頃はコルトーに熱中しておられたという話を聞きました。わずか15分ぐらいの時間でしたが、忘れがたい思い出になりました。

その後、コルトーの日本公演の中から、小林さんも胸躍らせて行かれたという日比谷公会堂でのライブがCDとして初めて発売されたので、それを小林さんにお送りしたところ、丁寧な御礼の手紙をいただきました。カー・グラフィックのコラムのページでいつも見ていた直筆のサインとまさに同じ筆跡の「小林彰太郎」という文字を封筒の裏に見たときは、さすがに背筋に寒いものが走りました。

マロニエ君はCDに添えた手紙に「このときの演奏会は日比谷公会堂が購入したニューヨーク・スタインウェイのお披露目も兼ねていたらしい」ということを書き添えていたところ、届いた手紙には、自分が聴いた日のピアノはたしかプレイエルだった筈だ、というようなことが書かれていました。

その後も車のことでお手紙をいただきましたが、それは決して形式的なものではない丁寧なもので、一介の読者でも大切にされる小林彰太郎さんのお人柄が伺えるものでした。このときばかりは全国のファンから御大を独り占めにしたようで、嬉しい反面、さすがに気が引けたことを思い出します。

さて、前号のカー・グラフィック(2013年11月号)には、小林さんによって撮影された前後間もない車の写真が連載されるページがあり、その隅には、愛知県長久手市のトヨタ博物館で3ヶ月近くにわたって「小林彰太郎 フォトアーカイヴ展」というのが開催されており、10月27日には小林さんが会場入りして、トークショーやサイン会がおこなわれる旨が記されていました。
しかし、実際にはその予定の翌日である28日に亡くなられたわけで、まったく人の命とはわからないものだと思いました。
若い頃から蒲柳の質だったようで、いろいろ大病もされたようですが、最後まで現役を貫かれたことはさぞかし本望だったことだろうと思います。
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