ブレンド

CDのアルゲリッチとバレンボイムのピアノデュオは、ベルリンフィルハーモニーで演奏された2台のピアノによる春の祭典をメインとするCDがありますが、今年の春には、同じ顔ぶれでもう一枚CDがリリースされました。

昨年の7月に、ブエノスアイレスのコロン劇場で収録されたライヴ盤で、ご存知の通りこの二人にとっては生まれ故郷での演奏会ということになります。
曲目は、シューマン=ドビュッシー編曲のカノン形式による6つの小品、ドビュッシー:白と黒で、バルトーク:2台のピアノとパーカッションのためのソナタ。

バレンボイムとの共演はそれほど興味をそそられるものはないけれど、そうはいっても前回はなにしろアルゲリッチが『春の祭典』を初めて弾いたわけだし、彼女のCDはどんなものでも買うことにしているので、既出のCD音源は海賊版などもあるためさすがに100%とは言いかねますが、数十年間買えるものは徹底して買い続けているので、新しいものが出れば迷うことなく購入しています。

というわけで、今回も当然のこととして購入して聴いてみたところ、やはりさすがというべきで、初日たちまち3回ほど続けて聴きました。とくに今回は全体に馥郁とした印象が強く、バルトークでさえ楽しめる演奏になっていることに嬉しい印象をもちました。
輸入盤でもあるしライナーノートは今更という感じで見ていなかったのですが、夜寝る頃になって、なにげなく机の上のケースが目に入り、このときはじめて中のノートを取り出して見てみることに。

すると、最初のページの写真をみてアッと声を上げたくなるほど驚きました。
互い違いに置かれた2台のピアノのうち、バレンボイムが弾いているのは、以前このブログでも書いた「バレンボイムピアノ」で、これはバレンボイムの着想により、スタインウェイDをベースにChris Maeneが作り上げた並行弦のピアノです。
バレンボイムはこの自分の名を冠したピアノを弾き、対するアルゲリッチはノーマルのスタインウェイDを弾いています。

音だけ聴いては、さすがに半分はこのピアノが使われているなどとは夢にも思わないものだから、うっかり気が付きませんでしたが、そうと知ったらこのCDのこれまでとは何かが違う理由が一気に納得でした。
並行弦で、デュープレックススケールを持たず、芯線も一本張りのこのピアノは、従来のスタインウェイとは全く違った響きをしており、全体にほわんとした余韻を残しているのです。

このピアノがお披露目されたことを知った時も、いずれはバレンボイムがこのピアノを使ってCDなどをリリースするのだろうとは思っていましたが、まさか遠くブエノスアイレスで、しかもアルゲリッチとのデュオでそれを持ち出すとは、まるで思ってもみませんでした。

以前、スタインウェイレーベルのCDで、ニューヨークとハンブルクの2台によるデュオというのがあって、それも通常とは微妙に異なる響きがあって楽しめましたが、今回の2台はそれどころではない面白さです。

ほわんとしたやわらかな響きの膜の中に、ハンブルクスタインウェイのエッジのきいた響きも加わって、これはとても面白いCDだと思います。意識して耳を澄ますと、なるほどその音色と響きの違いがわかり、このところすっかりこのCDが病みつきになっていて、もう何度聴いたかわかりません。

本当は音だけを聴いてこの「異変」に気がつけばよかったのですが、それは残念ながら無理でした。
しかし、この2台による演奏は、けっして違和感がないまでに調和がとれていて、なかなかステキなブレンドだと思うし、そもそも2台ピアノというのは同じピアノを2台揃えるというのが一応の基本かもしれませんが、弾き手も違うのだから、ピアノも違っていてなんら不思議ではありません。

そもそも、そんなことをいったらオーケストラだって、各自バラバラのメーカーの楽器が集まってあれだけの演奏をしているのであって、ピアノだけが同じメーカーである必要性はないでしょう。
もちろん調律師さんなど、技術者サイドからみれば、同じピアノであることが理想だという信念をお持ちかもしれませんが、実際にこういう演奏を耳にすると、同じピアノのほうが統一感があって安全かつ無難かもしれませんが、面白味という点ではぐっと幅が狭くなることがわかります。

コーヒーでもウイスキーでも、ブレンドがあれほど盛んなのは、それによって奥行きや複雑さが増すからで、マロニエ君などはインスタントラーメンでも二人分を作るときは、違うものを混ぜたりしますが、これがなかなか美味しかったりします。
カレーのルゥも然り、ファミレスでは子供がドリンクバーでジュースをあれこれブレンドして飲んでいますが、あれもやってみると複雑さや柔らかさがでて、ことほどさようにブレンドというのは面白いものだと思いました。

ブレンドはある種ハーモニーであり、まろやかさの創出でもあるのだと思います。
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反田恭平-2

いま日本で注目されるピアニストの一人、反田恭平氏のCDを購入しました。

まずは昨年収録された『リスト』というタイトルの、文字通りオールリストのアルバム。
特筆すべきは、この録音にはホロヴィッツが弾いていたニューヨーク・スタインウェイのCD75が使われていることで、これはあの「ひびの入った骨董」発言が話題となったホロヴィッツ初来日(1983年)の際に日本に一度来ているピアノで、その後のヨーロッパ公演にも使用されたとのこと。
1912年製といいますから、昨年録音された時点でも100年以上経っていることになります。

このピアノはホロヴィッツが好んだ数台のスタインウェイのうちの1台らしく、他のピアニストへの貸出も許可しなかったということですが、そういう逸話はともかく、聴いていて、このピアノを十全に弾きこなすのはなるほどホロヴィッツただ一人だろうということを諒解するのに大した時間はかかりませんでした。

反田氏の演奏の是非は置いておくとして、この特殊なピアノを中心に語るなら、この若者がそれなりにでも弾きこなしているかといえば、マロニエ君はまったくそのようには思えませんでした。
このピアノには、とくに音色の面で特殊な奏法と美学が必要とされ、その面では、反田氏の演奏をむしろピアノが拒絶しているように感じました。

ホロヴィッツに愛されたこの駿馬は、他の乗り手をなまなかなことでは受け付けようとせず、その音はしばしば悲鳴をあげているようにしか聞こえません。このピアノは炸裂するフォルテシモより、通常はマエストロがそうしたように、ビロードのような柔らかなタッチによって優しく愛でられることをよろこび、あるいは随所で様々な声部やアクセントを際立たせるといった弾き方に敏感に反応する特殊なスタインウェイのようです。
しかし残念ながら反田氏の演奏は、ホロヴィッツが駆使した魔性とエレガンスの対比で、聴く者を魅了するタイプではないようです。

立て続けに繰り広げられる強い打鍵、連続する和音の攻勢にスタインウェイとしては珍しく破綻したような音があらわとなり、弦がジンジンいうばかりのような音色は、ピアノが無理強いをさせられているようでちょっとまともには聞いていられませんでした。
いかに優れたピアノであっても、あまりにも枯れた響板故か(くわしいことはわかりませんが)、この歴史的な老ピアノをもう少し理解し手なずけて、その美質を引き出すような演奏であって欲しかったと、おそらくこのCDを聴く多くの人は感じると思います。
さもなくば、現代のふつうのスタインウェイで弾いたほうが、どれだけ良かったことだろうと思います。

CDの帯には「恐れを知らない大胆さと自在さ」とありますが、一流ピアニストならコンサートや録音に際して、使うピアノの個性を慎重に見極めるべきで、その特性を考慮せず、一律にばんばん弾くことが大胆とも自在ともマロニエ君は思えません。

反田氏の演奏は、個々の楽節でのアーティキュレーションではそれなりの集中や完成度があるようですが、各曲の性格やフォルムを見極め表現しているかとなると疑問で、高い演奏クオリティのもとにどれも同じような調子で弾かれてしまうのにも違和感と退屈を覚えました。
見事な演奏ではあっても、そこに流れ出す音楽で聴く者が惹き込まれるという点ではいまひとつで、どこにポイントを持って聴くべきか、ついに掴めないままになりました。

ボーナストラックとして、ホロヴィッツ編曲のカルメン幻想曲が収録されていましたが、もしホロヴィッツがあれを聴いたら何と言うか、ワンダ夫人はどんな顔をするのか、CD75は喜んでいるのか、誰よりもこのピアノの価値を知り、来歴にも詳しい技術者オーナーは本当に満足しているのかなど、いろいろなことを考えさせられました。

あえて率直に言わせていただくなら、このCDで聴く限り、この伝説的なピアノにひびが入っているとは思わないけれど、「骨董」としての音にしかマロニエ君の凡庸な耳には聞こえなかったのは事実です。
すくなくともこのピアノを敢えて使うという必然性が感じらず、違ったピアノのほうが反田氏の演奏にはよかったように思います。
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追加の演奏で

早朝放送されるBSプレミアムのクラシック倶楽部は、1回の放送でひとつのコンサートが取り上げられますが、ときどき変則的に「アラカルト」というのを放送します。
これは察するに、55分の番組内で紹介しきれなかったぶんの演奏を復活放送させる目的で、大抵は2人のアーティスト(というか2つのコンサート)を取り上げ、前回聞けなかった曲を追加的に楽しむことができます。

先日の放送では、キット・アームストロングのピアノリサイタルとユッセン兄弟のデュオリサイタルでした。

キット・アームストロングは、浜離宮朝日ホールで50年以上前の外装がウォールナット仕上げのスタインウェイDを使っての昨年の演奏でしたが、本編のときはあまり好印象ではなかったことを書いた記憶がありました。
たしかバッハのホ短調のパルティータとリストの作品をいくつか演奏したように思いますが、今回はわずか30分ほどの時間に、バッハのオルガン用のコラール前奏曲集から3曲、さらには自身の作曲である「B-A-C-Hの名による幻想曲」なるものが放送されました。

実は、今回聴いてみてこの人の印象が一変し、どれもが非常に素晴らしいもので、とくにポリフォニーの歌い分けの見事さには脱帽させられました。
しかも、多くのピアニストがそうであるように、意志的に知的に各声部を際立たせることに全神経を集中させて、そこにかなりエネルギーを割いている(というか、そうせざるを得ない)奏者が少なくないのに、キット・アームストロングはこの点があくまで自然体であるのは注目すべきでした。
必要に応じて上から下から、あるいは中ほどからいろいろな旋律が出てきては絡み合い、溶け合い、離れてい行くさまがいかにも自然で心地よく、本人の様子にもこれといって特段の苦労もないのか、ただ身についたことを普通にやっているかのようで、ときに嬉々とした感じさえ見てとれました。

このポリフォニーの歌い分けの自在さでは、ところどころでグレン・グールドを想起させるほどで、まだ10代だというのにこれは大変な才能だと思いました。また「B-A-C-Hの名による幻想曲」も、マックス・レーガーなどよりずっと世代感の進んだ斬新的な作品で、あんなものを本当に自作したとなると、ちょっと恐ろしげな才能でした。

ここに聴く半世紀も前のスタインウェイは、あきらかに現代の同型とは異なる音のするピアノでした。
ブリリアントな味付けがさほどされない頃のスタインウェイで、アラウやルービンシュタインなどの録音では、こういう重みのある朴訥な音がよく聞かれたように思います。洗練され華麗さを併せ持った後年のスタインウェイサウンドも素晴らしいけれど、多少渋みのある実直なハンブルクスタインウェイというのもなかなかいいものだと思いました。


後半はユッセン兄弟のリサイタルから、まず弟がモーツァルトのデュポールの主題による変奏曲、ついで兄がシューベルトのソナタの最終楽章、最後に連弾でシューベルトの行進曲というもの。
まずいきなり、弟の弾くモーツァルトの素晴らしさに心を奪われることに。

大ホールの演奏会で、モーツァルトをあれだけ聴衆の集中をそらすことなく、品位を保って終始充実した演奏で弾き切るというのはなかなかできることではありません。これがまずとても良かった。
ついで兄のシューベルトもすっきりしているのに立派で、ふたりとも、作品のありのままの姿を臆することなしに、自然体できっぱりと描き切っているのは特質に値すると思いました。

それに、二人ともよく曲をさらっていて、この点でも気分よく安心して聴いていられました。
ほどよく引き締まり、ほどよく無邪気さもあり、筋肉質になりすぎることも間延びすることもない自然な平衡感覚をもった演奏というのは、そうザラには転がっていません。

この二人はピレシュに師事していたようで、奏法/解釈のいずれにも多少その影響があることは隠せないけれど、師匠よりはテクニックもあるし、美に対するセンスも上回っているのか、むやみに押し付けがましい表現に陥らないところも高い評価の要素になりました。

どれを聴いても、演奏を通じて聞く者がまず作品に触れ、作曲者の顔を見せてくれて、しかもそれが「ピアノを超越して音楽しています」という上から目線でなく、あくまでピアノの率直な魅力にも溢れているところが、この兄弟が演奏家として特筆されるべき最も優れた点ではないかと思います。

キット・アームストロングから、切れ目なくユッセン兄弟に変わると、ピアノも一気に現代のスタインウェイになるので、その聴き比べもできましたが、現代のほうが音が基音が柔らかく倍音も豊富で、さらに音の伸びもあって耳慣れてもおり、やはりこれはこれでいいなあと感じたことも事実で、良いピアノはどれも素晴らしいという当たり前のことがよくわかった次第でした。

クラシック倶楽部の55分間で、こんなに終始充実感をもって集中して楽しめたことはめったにないことで、いい演奏というのはあっという間に時間が過ぎてしまいます。
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慣れの問題

『全国警察24時』みたいな番組ってそこそこ人気なのか、民放各局では似通ったものが結構あるようですね。
ニュースと朝ドラと音楽番組の録画以外はあまりテレビを見ないマロニエ君ですが、それでもいくつか視るものがないわけではなく、結構この警察モノは嫌いじゃありません。

街中を巡回するパトカーの隊員が、すれ違いざまに見た車のドライバーの一瞬の様子や動きから勘働きで目をつけ、後を追って職務質問が開始します。はじめは至極低姿勢だけれど、だんだんに相手の挙動や発言の問題点を見透かしていくのは、マロニエ君の野次馬根性を大いに満たしてくれます。
小さな話かけが、しだいに任意で持ち物検査や車内の捜索などに及び、あげくは違法な薬物の常習者だったりするところは、人間ウォッチとしても面白いので、この手の番組はわりに録画して視ることが少なくありません。

と、つい前置きが長くなりましたが、実は本題はこれとは関係なく、先日見たこの手の番組では、ある交通事故が車好きでもあるマロニエ君としてはとくに印象に残りました。

高速道路の料金所での映像で、ベンツの最高級車のひとつであるCLクラスというとても豪華な2ドアクーペが、料金所脇のポールにボディ左側を鋭く食い込ませ、ボディは大きく斜めを向いて、見るも無残なクラッシュ姿で止まっていました。

駆けつけた警察官には事故の状況がすぐには飲み込めない状況だったものの、運転者はというと無事で、その人物からの状況説明によって事故の経緯が判明したようでした。

それによると、なんとこの車は中古車ではあるものの購入後間もないそうで、これまでずっと右ハンドルの車に乗ってきたらしい50代の男性は、この車が初めての左ハンドルだったそうで、つまりは左ハンドルの運転に慣れていなかったために引き起こされた単独事故だったようです。

左ハンドルに慣れない人は、どうしてもはじめのうちは右寄りに走ってしまうものです。
とはいうものの、それは試乗などのごく初期の現象で、通常はしばらく注意しながら乗っていれば、時間とともに慣れてくるものですが、この事故は、慣れるより先にこの悲劇を招いたようでした。

つまり本来の位置よりも右に寄った状態で料金所に突入し、右タイアが縁石に乗り上げ、だからあわててハンドルを左に切ったのか、今度はその反動によって左側のポールに激突して止まったようでした。
その衝撃は相当なものだったようで、ナレーションは「車の修理代に加えて、破損した料金所の弁償も…」というようなことを言っていましたが、ひと目見て、車はとても修理のできるような生やさしい破損でないことは明らかでした。
フロントは完全にシャシー(車の骨格部分)までダメージが及んでいたし、リアタイヤもあらぬ方向へとグニャリと曲がってしまっていましたから、あれは間違いなく「全損」で、およそ修理代どころではないでしょう。

新車なら一千万の大台を遥かに越え、中古でも(そんなに古くはなかったので)何百万もする車が一瞬でオシャカになるのですから、慣れない左ハンドル故というには、あまりにもお気の毒というほかはない単独事故でした。

マロニエ君の車の仲間には、もとはといえば自分の趣味から奥さんにもずっと左ハンドルの車を運転させてしまったために、すっかり左の感覚が染み付いてしまい、いまさら右ハンドルへの転換が怖くて運転できないという状況に追い込まれた奥さんがいます。
ところが、以前とは違って、現在は輸入車も大半が右ハンドル化されており、一部の高級車とかスーパーカー的な車は別として、普通の実用車レベルでは左ハンドルはほとんどなくなりました。

こうなると自由な車選びができなくなり、左ハンドルであることを前提に車選びをするという主客転倒の状況となり、とうとう見つかったのがひと世代前のBMW3シリーズでした。
ところがこの夫婦、BMWがまったくお好みではないらしく、会う度に罵詈雑言、文句ばかり言いながら乗っています。

何から何までケナしまくりで、それは「乗ればわかる」というわけで、マロニエ君も何度か運転させてもらいましたが、言っていることは半分はまあわかりますが、とても良い部分もたくさんあって評価が辛過ぎるような気もしますが、いずれにしろハンドルの位置というのは、それほど人によっては大事だということで、最悪の場合、テレビで見たような大事故にもなるということがわかりました。

テレビのベンツは全損事故と言っても、所詮は物損事故でしたが、これで対向車と衝突でもして人身事故になる可能性もあることを考えるとやはり怖いです。

ちなみにマロニエ君はピアノは下手ですが、運転はとりあえず不自由なく楽にできるほうで、ハンドルも左右どちらでもまったくハンディなく乗れますが、それはひとえに慣れているからであって、つまり慣れないことはときに恐ろしい結果をもたらすものだと思いました。
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ゲニューシャスなど

クラシック倶楽部の録画から昨年6月のラルス・フォークトのピアノリサイタルを視ました。

会場は紀尾井ホールで、まず冒頭のシューベルトの晩年のハ短調のソナタを聴いてみるも、時間の関係から第1楽章と第4楽章のみで、あの美しい第2楽章は割愛されてしまいました。
尤も、フォークトの演奏ではなかなかシューベルトの切々たる美しさは伝わらず、これでは聴き逃してもあまり惜しくはないようでした。

その後はシェーンベルクの6つの小品op.19を弾き、そこから切れ目なくベートーヴェン最後のソナタへと続けられます。
インタビューではそうすることに意味があるというようなことを言っていましたが、マロニエ君は「そうかなぁ…」という感じでいまいちその意図は計りかねました。
シューベルトとベートーヴェンは共に晩年のソナタで、なおかつハ短調というところで統一したのでしょうか。
まあ、そのあたりはどうでもいいけれど、以前からどうしてもこの人の演奏には共感を得ることができず、それは今回の演奏でも同様の印象を上書きすることになりました。
もちろん、どんなピアニストでも全てに共感を得ることなどまずありませんが、ところどころで「なるほどね」とか「そういうことか」と思わせる何かがないと、聴いているほうはつまらないものです。

ひところでいうと、この人のピアノで最も気になるのはガサツさです。
解釈においても、ディテールにおいても、意味あって必然性に後押しされてそうなるというところが見受けられず、全体的に大味で、外国製の作りの粗い製品に触れるような感じがします。
なんでも最近ショパンのアルバムをリリースしたとかで、怖いもの見たさでどんなことになっているのやら聴いてみたいような気もしますが、自分で購入する気などさらさらないので、そのチャンスがあるかどうかわかりませんね。

リサイタルに戻ると、せっかく立派な曲ばかりを弾いているのに心に染み入るところがなく、ざっくりいうと音の強弱とテンポの緩急ですべてを処理している…そんな独りよがりな印象があるばかりです。

もうひとつ、ルーカス・ゲニューシャスのピアノでラフマニノフのピアノ協奏曲第2番(N響)を聴きましたが、いかにもロシア人といった野性が、本性を抑制しなくてはならないという意志の力と戦っているようです。
そうはいっても、体の作りから指のテクニックまで、すべてが分厚くたくましくできており、さすがに聴いていて不安感というものはありません。
小指も普通の男性の中指ぐらい優にありそうで、あれだけの体格でピレシュやケフェレックと同じサイズのピアノを弾くわけですから、まして音楽一家に生まれ育って訓練を積めば、そりゃあずいぶんと有利であることに違いありません。

しかし、感情が先行するロシアの演奏家にしてはもうひとつ酔えないし、どこか力くらべのような、タラタラと汗をかきつつガッチリと作法通りの演奏を確実に片付けていくだけで、この人なりの個性を楽しむ余地であるとか、いま目の前に作品が命を吹き込まれて立ちのぼってくるような感銘は個人的にあまりありませんでした。
あらかじめ予定され決められたことが、ほぼ間違いなく実行に移されている現場…というだけの印象。

不思議なのは、若い男性の、いかにも体温の高そうな汗ばんだ太い指から出てくる音は、期待するほど凛々しいものではなく、むしろ伸びのない、多くが押し潰したような音であったのは意外でした。

ときどきロシアのピアニストに見かけるパターンとしては、楽曲の一つ一つに自己の感興感性を照応させるのではなく、ピアノ演奏をパターンというか「型」にはめて処理することで何でも弾いていく人がいますが、ゲニューシャスもどことなくそのタイプのような印象を覚えました。
うわ!と思ったのは、コーダからはことさら意識的にヒートアップして、派手に締めくくってみせたのは、ウケを充分心得ているようで、そこだけ数倍も練習しているように見えてしまいました。

後半は白鳥の湖。
指揮者のトゥガン・ソヒエフがボリショイ劇場の音楽監督というだけのことはあって、N響がまるでロシアのオーケストラのように変身して、これにはさすがに驚きました。
ソヒエフ氏が選んだという特別バージョンの組曲でしたが、なんの小細工も施さず、チャイコフスキーの作品をあるがままに描き出すことを狙っているのか、誤解を恐れずにいうなら、恰幅がよく、同時に厚塗りだが平面的で、どこまでも広がる壮大な景色のように演奏されました。
テンポも強弱も一定で、ロシア人以外にああいった演奏は体質的にできないと思いました。

日頃から上手いことはわかっていても、いまいち好きになれないN響ですが、指揮者によってこれほど変幻自在なオーケストラであることがわかると、あらためてある種の凄みのようなものを感じました。

現代はカリスマ的な大物が出にくい反面で、平均的な実力や偏差値はとても上がっているご時世で、集団で緻密なアンサンブルとクオリティがものをいうオーケストラとなると、そりゃあN響のようなオーケストラが俄然力を発揮するのもむべなるかなという感じでした。
N響も紛れもなくジャパンクオリティのひとつに列せられて然るべきもののようです。
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畳とカーナビは…

我が家にある車の1台には4年ほど前のカーナビがついています。
パナソニックのゴリラですが、このカーナビは購入後3年ぐらいがったか、地図情報が無料で新しいものに書き換えることができるのが特徴でした。更新された地図情報をネットからSDカードへダウンロードして、それをカーナビへ差し込んで読み込ませるというものです。

ところが、最後の1年ぐらいは面倒臭くてしばらく最新版をダウンロードしなかったところ、気がついた時には無料更新の時期を過ぎてしまっていたので、ついにそのままになってしまっています。

普段は特に困ることもないので、約2年前の地図データのまま、過日ちょっとした車の旅行にでかけました。
広島を経由して、しまなみ海道へまわり、四国を横断するところまでは良かったのですが、佐田岬半島(四国西端の半島)からフェリーに乗って九州に再上陸(大分県)したところ、ここで地図情報が古いことがあらわになり、新しい道があるにもかかわらず、わざわざ遠回りするルート案内を繰り返すのは大いに面白くない気分でした。

最適のルートでないぐらいはやむを得ないとしても、古い地図データには存在しない道(それは大抵、広くて走りやすい道)がある場合、次々に不適切な回りくどいリルートをしてくるあたりは、カーナビがバカに思えてしまって、あれはどうもいけません。

それはカーナビの機能が悪いのではなく、ひとえに地図情報が古いのだから致し方無いわけですが、それはわかっていても、いま目の前に広くて新しい道があるにもかかわらず、それがナビゲーションに反映されないのを何度も見ると、やっぱりどうしようもなく嫌になってしまいます。

とくに帰路は震災の影響で大分自動車道の通行止区間にあたり、やむなく東九州自動車道を通りましたが、近年開通したルートなので、ナビ画面では何度も自車マークが空中を飛んでいるような動きになり、わかっちゃいても虚しいものでした。

むかし「畳となんとかは新しいのに限る…」というような言い回しがありましたが、カーナビの地図データこそまさにそれだと言えるようです。とくに最近は公共事業が盛んなのかどうか知らないけれど、次から次に新しい道があちらこちらで開通しているようで、そうなると、少なくとも見知らぬ土地に行くようなときには、常に「最新」とは言わないけれど、できるだけ新しいデータでないといけないことを思い知らされたわけです。

そうはいっても、普段は別に困るわけではないないし、更新するには以前ならタダだったものが1回につき1万円近くかかります。
データはというと、年に6回ほど更新されているらしく、さて、そういう状況の中でいつ更新したものか。
これが問題で、なかなか踏ん切りがつきません。

今回のように旅行の予定でもあれば、それを機に新しくすればいいわけですが、それはもう終わったし、しばらく遠出の予定もないとなると、だったらできるだけ先送りしたほうがいいような気もします。
とくに直近で必要がなければ、先送りして粘れるだけ粘れば、そのぶん最新データがゲットできるわけで、このあたりが、どうも我ながらみみっちいなと思いますが、でも…そうなんですよね。

それはそうと、松山市から佐田岬半島へと向かう海岸線の道路は、約90kmに及ぶ理想的なドライブコースで、日曜というのに交通量もきわめて少なく、道幅も広いし路面は良好、景色も抜群、信号はほとんどナシという好条件で、その心地よさは今だに深く心に刻まれています。
それにひきかえ、大分側に上がったとたん、ちまちました道幅の狭い道路にはガックリでした。

錦帯橋、厳島神社、大和ミュージアム、しまなみ海道、道後温泉などめぐって、走行距離にして900kmに及ぶ旅でしたが、残念なるかな今回はピアノ店訪問はひとつもナシでした。
でも、下手にピアノ店などに立ち寄っていると、それ以上の大事な見どころを逃してしまうことも少なくないので、これはこれでよかったと思います。
たまに旅に出るのは理屈抜きにいいものですね。
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練習を楽しむ才能

このブロクを読んでメールを下さった方で、同じく福岡市在住の方がいらっしゃいます。

とても個性的な方で、いわゆる一般的平均的な考えの持ち主ではありませんが、自分の感性と価値観を信じる生き方を静かに実践しておられる方とでも言えばいいでしょうか。いわゆるポピュリズム精神に重きを置かないためか、こういう人はとりわけ現代では異端児的で、ちょっと変わってる人というような位置づけになるようですが、なにかというと定見もなく、浅薄で迎合的な発想しかできない人間が大多数な中、まことにアッパレであることはいうまでもありません。

この方とはしばしばメールのやり取りもあり、電話でもずいぶん話して、いわば関係の「実績」を積んだことから、先日ついにその方のお宅に訪問することになり、思いがけなく食事までごちそうになってしまいました。
人間性もさることながら、むこうも男性だったのでお宅に行って二人で会うということもできたわけで、これがもし女性だったらそう気易くお尋ねするとこもできなかったかもしれません。

食事がすむと、ピアノのある部屋に案内されました。
いちおう個人情報という面にもあたるのかもしれませんし、今時のことなので、どんなピアノかというような具体的な記述は控えておきますが、とにかく普段ここでどのような練習をしているのかということをつぶさに説明していただき、ピアノの上達にかける情熱にはただただ圧倒される思いでした。

この方は大人になってからピアノを始められ、職業柄、別分野でひとつの事を極められている方なので、修行にはまず「基本」が大切であることをよくご存知らしく、基本なくしては何事もはじまらないし、しっかりした基本の上にこそ、とりどりの花も咲けば応用もきくという至極もっともなお考えらしいのはさすがです。

というわけで、もっか猛練習の毎日を送られているようですが、その練習というのが半端ではありませんでした。
曲は簡単なバッハの小品やブルグミュラーなどに過ぎませんが、単なる指練習であるハノンだけでも1時間2時間やってもまったく苦にならないのだそうで、後半は話をしながら指だけは休むことなくハノン練習で指はずっと上ったり下りたりしているという、これまでに見たこともない独特の光景でした。
さらに夜も更けると電気のキーボードに移行して、これで音を出さずに指練習を継続、車にも職場にも同じキーボードがある由で、僅かな時間を見つけてはハノンで指を動かすという、お仕事とその他生活の隙間にはすべてピアノの練習が入れ込まれているような毎日を過ごされているようです。
しかもそれが苦にならないどころか、「楽しい」のだそうですから恐れ入りました。

根っから練習嫌いのマロニエ君にしてみれば、自分とは真逆の人物が、目の前で真逆のことをやって見せながら嬉々としているのですから、これはもう、とてつもないものを見てしまった気分でした。

練習というのはしなくちゃいけないからするものだと思っていたマロニエ君でしたが、中には練習そのものを楽しむという方がおられて、これは仕事でも勉強でも同じでしょうが、嫌々やるのと楽しんでやるのとでは、もうそれだけで嫌々組はかないっこないわけです。

で、驚き、呆れ、圧倒されたマロニエ君でしたが、逆に心配なことも頭をよぎりました。
あまりの過剰練習からピアニストへの道を断念したシューマンのように、やり過ぎて手を壊しては元も子もないので、それだけは注意されたほうがいいのでは…と言いましたが、もちろん危ないと感じた時はすぐに止めて休ませているから心配には及ばないと、その点もぬかりはないようでした。
マロニエ君など、ろくに弾けもしないくせにショパンのエチュードなどやっていると、指というより手首から肘にかけての筋肉が無理をしてしまうのか、かなり痛くなって怖くなることがしばしばです。

そこは根性ナシのマロニエ君なので直ぐにやめてしまいますが、これを弾き続けることで克服しようなどと思って強引にやっていると、いつか手を壊してしまう可能性も低くはないでしょう。

いずれにしろ、およそ音楽とも言えないハノンのような無機質な練習をあれだけ楽しく積めるというのは、いやはや羨ましいというほかはありませんし、それで楽しめることそのものも「才能」だと思います。

考えてみれば、もともとピアニストなどは、ステージでの演奏など氷山の一角であって、いわば人生の時間の大半を練習につぎ込む職業でもあるわけで、やはりこれは練習のできるメンタリティを持っていることが必要で、それも重要な才能のひとつだと思います。
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服の流行

着なくなった服の整理というのはなかなか難しいものです。
とくに男性もののほうが、際立った流行に左右されないぶん、より困難かもしれません。

その点女性は、絶えずこの点にアンテナを立てトレンドに敏感なので、順次入れ替えていくことが半ば当たり前かもしれませんが、男性の場合は、よほどのことでない限り服をどうこうすることって…なかなかないのです。

でも、例えば10年(かどうか知らないけれど)前に比べたら、例えばワイシャツの身ごろというか、横幅が今はかなり細身になってきていて、マロニエ君も当初は最近の男性は身体が小さくなってしまったんだろうか…と勘違いしていた時期がありました。
首周りや袖丈は同じでも、身ごろは明らかにタイトな作りになりましたし、ジャケット然り、パンツなんて細すぎて「なにこれ?」と思うものも少なくありません。

マロニエ君は通常はLサイズなのですが、身ごろに限っていうなら、一昔前のMより今のLは細いかもしれないぐらい、気がついたら変わってしまっているようです。

シャツなどを必要に応じてちょこちょこ買っているぶんには、さほど気がつくこともありませんでしたが、だんだんと何年も前のシャツなどは着なくなってしまうようです。他の人も同じかどうか知りませんが、やはり新しく買ったものを着る機会が多くなり、以前のものはクリーニングから戻ってきたまま袋に入って状態でタンスの棚に眠っています。

それでも、例えばボタンダウンのシャツなどは、べつにデザインにそう違いはないだろうと思って昔のものを出して着てみると、中にはやけに幅広で(体型はそれほど変わっていないので)、以前はこんなものをなんとも思わないで着ていたのかと思うと、さすがにびっくりしてしまいます。

流行というのは恐ろしいもので、「普通」の基準点が変わってしまうことらしく、たかだかボタンダウンのシャツでも古いものは何だかおかしくてもう着られません。
そんなものがあちこちを占領しているため、限られたスペースはやたらひしめき合い、それが何の意味もないことにだんだん気が付き始めました。
とくに傷んでもいない、かつては気に入って買った服を廃棄するのはちょっとした抵抗感もありますが、さりとてこのままタンスの肥やしにしても何の意味もなく、ただそこにあってスペースを占領するだけで、結局じゃまなだけです。

で、この先、着ることはないであろうものを昨日ついに引っ張りだして、再検討し、間違いなく着ないと断定できるものだけをさらに選び出しました。
パンツ類は別で、この日の整理は上半身ものだけにしましたが、それでもIKEAの青い袋の中型がいっぱいになるだけの服が着ることはないアイテムとして認定され、廃棄の対象となりました。

そのときはちょっと複雑な気持ちも無くはなかったかれど、いったんおさらばしてみると却ってスッキリして、やはり以前も書いたように、とくに幸福感もないような無駄なモノに囲まれて生活するのは愚かしいことだというのは間違いないようです。

BSチャンネルでは、昔の映画やくだらぬドラマなどが流れていたりしますが、そこで目にする服装は、なんであんなにみんなダボダボのダサいジャケットやコートを当然のように着ていたのかと思うと、どうしようもなく笑ってしまいます。
その笑いの根拠となるのは、それがカッコイイ、ステキという大前提から、みんながおかしな服装をしているように現代の目には映るからだと思います。

若い人がピチピチの細いスーツなんかを着ているのを見ると、これもどうかと思うし、また年月が経てばそれをドラマなどで見て笑うことに必ずなるわけで、これの繰り返しでアパレル業界は成り立っているんでしょうね。
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苦手な音

地震の話は気が滅入るのでピアノの話に戻ります。

過日、ウゴルスキの音の美しさについて書いたばかりでしたが、このCDは単独でも持っているけれど、たまたま近くにあったグラモフォンのブラームス全集の中からピアノソナタを取り出して聴いたものでした。

で、なんとはなしにその続きを聴いてみようと続く番号のCDを見ると、主題と変奏(弦楽六重奏の第二楽章のピアノ版)、シューマンの主題による変奏曲、ヘンデルの主題による変奏曲とフーガで、演奏はダニエル・バレンボイムと記されています。
たしか前にもこの全集を聞いている時、バレンボイムのピアノは苦手なのでこのディスクはすっ飛ばした記憶がよみがえったのですが、今回はどんなものか聴いてみることにしました。

果たして、身構えていた以上にバレンボイムの「音」がまさにいきなりスピーカーから飛び出してきて、わっ!と思いましたが、とりあえず一度だけでも最後まで聴いてみることに。

音楽的にもまったく自分には合わないし、どこか力ずくというか、ただ弾けよがしに弾いているだけとしか思えないものでした。まるで昔むかしの音大生が、ただ力んで弾いているだけといった風情で、よくこれで天才ピアニストが務まったものだと思います。
さらにその音は、マロニエ君が苦手としてきたまぎれもない「あの音」で、いつも音がペシャっとつぶれたようで、しかもその中に硬い針金が入ったようなツンツンしており、どうしたらこんな音ばかり出るのか不思議なくらいでした。

資料を見ると1972年の録音のようですから、すでに40年以上前の演奏で、おそらく30歳ぐらいだったのでしょうが、基本的に演奏というものは人の声のようなもので生涯変わらないということがよくわかります。

彼が指揮を始めたことは、むろんそれに値する天分があったなど複合的な理由からだろうと思いますが、その中にはピアノ一本でやっていくだけの力というか、ピアニスト業だけで生涯聴衆を惹きつけるだけの魅力には乏しいことを本能的に感じていたからだろうと勝手ながら思います。

調律師の故・辻文明さんは「一流のピニストにはソノリティがあるものだ」というような意味のことを言われたと、何かで読んだ記憶がありますが、たしかに、世界的に第一級のピアニストともなると、「その人固有の音」というのが明瞭に存在し、楽器の個性とか優れた調整による差を飛び越えてしまうことが珍しくありません。

最も甚だしいのがホロヴィッツで、彼は晩年になって日本やヨーロッパにも出かけて演奏するようになりましたが、ロンドンだったか練習用のハンブルク・スタインウェイを弾いたり、ロシアではスクリャービンの生家にあった古いピアノで弾いている映像がありますが、その音はまぎれもない「ホロヴィッツの音」になっていることには、ただただ舌を巻くばかり。
彼のあの独特な音は、ホロヴィッツのために厳選されたニューヨーク・スタインウェイだからこそのものだと思い込んでいたマロニエ君は、それ以前に、どんなピアノでも彼がひとたびキーに触れれば「あの音」になることを知り、強い衝撃を受けたものでした。

また近年はすっかりスタインウェイばかりを弾くアルゲリッチも、もう少し若い頃は、日本公演でもヤマハを弾くことが幾度かありましたが、そこで聞こえてくる音は(実演でも)ヤマハもスタインウェイも関係ないほど「アルゲリッチの音」でした。
むかしVHDディスクというのがあって、ヨーロッパで収録された「アルゲリッチコンサート」では、ラヴェルの夜のガスパールをヤマハで弾いていますが、これもピアノメーカー云々が問題でないほど彼女にしか出せないあの音だったので、ピアノが完全に道具にまわっていることが歴然です。

その点でいうと、グールドの晩年の録音のいくつかはヤマハで録音されていることは周知の事実ですが、とりわけ名演として名高いゴルトベルクは、マロニエ君には、その素晴らしい演奏にもかかわらずヤマハの音が耳についてしまって、これがグールドの魅力の幾分かをスポイルしているように聴こえるのは、かえすがえすも残念な気がします。

しかしこれはあくまで珍しい例というべきで、普通はこのクラスのピアニストになると、専ら本人のソノリティが前に出るので楽器の違いはマロニエ君個人はあまり気になりません。
そういう意味で、バレンボイムの音は個人的にどうしても受け付けないし、あの音は彼の奏法と音楽が、ピアノというきわめてセンシティヴな楽器によって精緻に投映されたものだろうと思うと、それを可能にするピアノという楽器にも感心してしまいます。
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恐怖

熊本では大変なことになり、いま、九州全体が揺れています。

はじめの地震のときはちょうど運転中だったのですが、突然、ポケットの中のケータイから「緊急地震速報」というのが鳴りだして、とつぜん警告音と警告の言葉が大きな音量で流れだしてくるのにはびっくり。
信号停車すると、揺れているのがはっきりわかりました。

家に帰ってTVをつけると、かなりの被害であることがわかり、これは大変なことが起こったと思いました。
0時を過ぎたあたり、今度はTVから強い警告音のようなものが鳴り出して、その直後に家全体がワナワナ震えだして、思わず固まってしまいました。

阪神淡路、福岡玄海沖、東日本など震災が続く中、今度は熊本というわけで、地震というのはまったく予想のつかいないところで、まったく唐突に起こるものだとというのをつくづく思い知らされます。

今度の熊本の大地震は震源が浅く、余震のしつこさが特徴のようで、これがなかなか収まりません。
それどころか、翌日の真夜中にさらに強い地震があって、TVによれば、前日の揺れは前震であったようで、こっちが「本震」というような言い方に変化してきていて、なんだかしらないけれど、いつまで続くのかと暗澹たる気分です。

いまさら言うまでもないことですが、地震というのは数ある災害の中でも、最高級に人がどうすることもできない最悪のものだと思います。ただただ全身恐怖に身を浸しながら、収まるのを請い願うしかありません。

ところで、以前の震災の教訓からか、上記の「緊急地震速報」というのがケータイを通じてかなりのボリュームで鳴るようになり、このあたりは以前に比べてずいぶんとシステムが進歩したことを痛感しました。

ただ、それは必要というのはわかるけれども、ある一定以上の揺れの場合だと思いますが、マロニエ君のケータイに限ってもすでにこの熊本の地震だけでも5回それが発せられており、そのたびに心臓はバクバクして、これはこれで神経が大いにすり減らされることも事実です。

海洋大国である島国日本では、国内の100%が危険地域だともいえるようで、地震だけは勘弁して欲しいところですが、どうすることもできません。

今回はマロニエ君の居住地である福岡は揺れるだけでこれといった被害も今のところありませんが、震源の熊本からはつぎつぎに恐ろしい被害が報告されて、それらを見るにつけぞっとするばかり。
今日の新聞には、天守閣の瓦が落ちてしまって無残な姿になった熊本城が一面トップに載っていましたし、多くの建物が倒壊、新幹線は脱線、高速道路は陥没し、橋はなくなり、これは大変なことになりました。

きっと復旧には、相当の時間がかかるでしょうね。
それにしても、あの家が揺れるときのあの感覚、加えてなんとも得体のしれないドドドという音は、まさに悪魔の仕業のようで戦慄します。
とにかく早く終わって欲しいです!!!
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ウゴルスキの音

音に特徴のあるピアニストというのはいろいろといるものですが、現在過去を含めて、つい先日、なんとはなしにふっと思いついたのがアナトゥール・ウゴルスキでした。

彼が不遇であったソ連から西側に亡命し、ドイツ・グラモフォンからつぎつぎに新録音が発売される度に、驚きと、これまでに体験したことのない一風変わったピアニズムにある種の違和感をも覚えながら、このケタ違いのピアニストの演奏にはいつも関心を持って接してきたように思います。

いかにもこの人らしい曲目としてはベートーヴェンのディアベッリ変奏曲、メシアンの鳥のカタログ、それにブラームスの3つのピアノソナタなどが真っ先に思い出され、久々にブラームスのソナタを聴いてみることに。

1、2番も壮麗で見事だけど、とくに3番の出だしの和音の輝くような鮮烈さには、とろんとした眼がカッと見開かされるみたいで、もういきなりノックアウトされました。
譜読みの上手くて指の動きが素晴らしいピアニストはごろごろいても、こういう腹から鳴るような音を出すピアニストというのはめっきりいなくなりました。叩きまくることを恐れてか、妙にスタミナのない、背中を押してやりたくなるような植物系ピアニストがずいぶん増えたように思います。
そんな耳に、ウゴルスキの演奏は食べきれない量の最高級ディナーでも出されたようです。
しかも、単なる轟音にあらず、どんな強打でも音が割れず、かといって体育会系のマッチョ演奏ともまったく違う、内的な表現とか、真綿でくるむようなpp、pppの妙技にも長けていて、この人がまぎれもない天分と個性をもった、他に代えがたい大器であったことを再確認しました。

こんなとてつもないピアノを弾く人が、ソ連時代にはピアノを弾くことさえも許されない状況が続いたなどというエピソードが有りますが、まったくもって驚くほかはありません。

たしか彼が西側デビューしてしばらくしたころ、日本にもやってきて、渋谷のオーチャードホールでディアベッリ変奏曲を弾いたリサイタルの様子はテレビ放映され、そこでも傑出した音の輝きが印象的でした。
録画はしていたものの、VHSで今や見ることも叶いませんが、当時つや消しだった頃の1980年代初頭のスタインウェイから紡ぎだされる燦然として重量感のある音色は今も深く印象に残っています。

ウゴルスキは最近どうしているのか、ネットで調べればわかるのかもしれませんが、とんと話題にならないところをみるとさほど演奏活動をしていないのかもしれませんし、だとすると非常に残念です。
CDで彼を最後に認識したのは、ドイツ・グラモフォンではないどこかのレーベルからスクリャービンのピアノソナタ全集を出したときで、それいらい音沙汰が無いような気がして、その動向が気になります。

ウゴルスキのあの絢爛とした音色の秘密は、ひとつには彼の指ではないかと思っています。
大きくて、太く肉厚で、しかもそれがクニャクニャした軟体動物のようで、あんな特殊な指の作りだからこそ、ダイナミクスにあふれた極彩色の音色のパレットとなり、どんなフォルテッシモでも音に一定のしなやかさがあって、決して叩きつけるような硬質な音になりません。

ウゴルスキに限らず、アラウとか、日本人では賛否両論のフジコ・ヘミングも、太いソーセージみたいな指から、温かな芳醇な音を出すところをみると、どんなに難曲を弾きこなせても、蜘蛛の足のように細い指をしたピアニストは、率直にいってあまり音に期待はできません。
パッと音色は思い出せませんが、若いころのポゴレリチもそんな魔物のような指をくねらせながら、あれこれと独特な演奏を繰り広げていたのをいま思い出しました。

音色でいうと、ミケランジェリやポリーニという人も少なく無いと思いますが、マロニエ君の好みで言うと、そのあたりはあまりにも苦悩のごとく追求され過ぎており、聴いていて開放感がないというか、もっと率直にいうと息が詰まってしまうようです。

ウゴルスキの音楽を全肯定しているわけではないですが、彼のピアノの音を聴いていると、ピアノという楽器の広さと深さを同時に押し広げられるような気がして、独特の快感があるのは確かでした。
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筒抜けのストレス

昨年の大晦日にギックリ腰になってからというもの、しばらくは整体院に通っていたのですが、いろいろと感じるところがあって最近になって行くのを止めました。

もちろん大きくはギックリ腰がようやく治ってきたということもあり、一説によれば、整体など行かずとも、この手のことは整形外科などに行ってレントゲンを撮り、とくに骨に異常がなければ主に時間が解決とする専門家の意見もあるので、整体の有用性というのは疑問の余地がありますが…。

やめたのは整体院の施術そのものが気に入らなかったというわけではなくて、むしろ行った後は身体が軽くなり、整体師さんの話では、痛めた腰を治すのももちろんだけれども、そのあともできるだけ来てもらって身体をほぐしたほうが、全身に変なクセなどつかずに良いということを言われていました。

マロニエ君もそれにはある程度賛同できていたし、はじめに行った金取り主義とは違って、こちらの整体院は価格も一回500円ほどと非常にリーズナブルで、しばらくは暇を見つけてはすかさず予約をとって通っていました。
全身をプロの手でほぐしてもらうというのは、ときにきつい瞬間もあるけれど、全体としてはとても気持ちがよく、すがすがしい気分で帰ることもしばしばで、これは続けたほうが身体にも良いだろうと実感していたほどです。

ところがそれほど意識はしていませんでしたが、回を重ねるごとに億劫さが増してきて、ハッと気がついたときは1週間行かなくなり、それが10日、2週間と間隔が伸びてきて、ついには行かなくなってしまったのです。
その理由というのは、うすうす自分でもわかっていました。

整体院はマンションの1階の狭いとろこだったのですが、そこにズラリと施術台が並べられ、その間にはうすいカーテンがぶら下がっているだけです。
ということは、施術中の姿を他者に見られる心配はないけれど、そこで交わされる会話はたとえ小声であっても院内に筒抜けでした。

この整体院には常時数名の男女整体師がいつも忙しく働いており、それぞれがお客さんの身体を押したりほぐしたり引っ張ったりと、まさにかなりの肉体労働だろうと思いました。
ほとんど機械に頼らない施術であるだけ、人の手によって大半の時間(通常30分)が費やされるばかりか、その間、受け身である客との会話がとめどな続きます。

世間話、身体のこと、家族のこと、先日どうしたこうしたという話まで、話題は多岐にわたり、それを整体師さん達はさもおもしろおかしく聞き役に回って、お客さんの気ままな話をすべて引き取って相槌を打っています。
それが個室ならともかく、わずか数十センチしか離れていない施術台のあちこちから聞こえてくるのですから、いやでも鮮明に耳に入ってくるわけで、当初からそれだけはちょっと抵抗があったけれど、慣れるどころか、ますますその空気感が耐え難いものになってきたのです。

こういっては何ですが、まあ第三者として聞くにはまことにくだらない話題で、話している方も、普段これほど熱心に話を聞いてくれる人なんていないはずから、余計にいい調子で喋っているのが痛々しいし、それを完璧にガマンしながら面白おかしく、まるで重要な取引先の接待のように愛想よく相槌を打っているのは、たとえ仕事とはいえ、耳にするこちらのほうがいたたまれない気分になります。

むろん、こちらにもあれこれと話しかけてきてはくれますが、他者の耳が気になってしかたなく、マロニエ君はとてもではないですがそれに乗じてペラペラ喋るというような無邪気さを持ちあわせておらず、そういうことがだんだんにストレスになって、ついには行くのをやめてしまったのでした。

それにしても、あの整体院の皆さんは、若いのにそのプロ根性はすごいなと素直に思いましたし、同時に何か切ない感じもあってマロニエ君にとっては快適な空間とはなり得ませんでした。

きっと皆さん、今日もあの調子でせっせと他人の身体をもみほぐしながら、神経も使いながらお客さんの四方山話を聞いているのでしょう。いやはや見上げたものです!
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反田恭平

反田恭平というピアニストを初めて映像で見ました。
お顔を見て、以前雑誌『ショパン』の表紙に出ておられた方だと、すぐに思い出しました。

少し前の『題名のない音楽会』で、「音楽業界が注目する4人の音楽家」の中のひとりとして登場し、リストの巡礼の年から「タランテラ」を弾いたのですが、その上手さは圧倒的でした。

肉厚できれいな、恵まれた大きな手がまったく無理なく動いて、この難曲を実に周到に弾き切ったという印象。
会場はたしかオペラシティのコンサートホールだったと思いますが、このピアニストの集中度の高い演奏によって、あの広い会場を埋め尽くす聴衆がひきこまれる気配までテレビ画面から伝わってくるようでした。

まずなにより驚くべきはその圧倒的な技巧でしょう。
表現も借りものの辻褄合わせではなく、ひとつひとつが確信に満ちていて、こういう人が出てきたのかと唸りました。

音楽的にも落ち着いた構えで大きな広がりがあり、その腰のすわった弾きっぷりはまるで大家のようでもありますが、同時に今時の精密さがその演奏を裏打ちしているようでもあります。
現代は技巧的な平均レヴェルがずんと上がっているのか、かつては難曲として多くのピアニストがあまり近づかないような曲でも、今は誰でもスラスラ弾いてしまいますが、そんな中でもこの反田氏の演奏は頭一つ出ているようです。

ふと思い出したのはユジャ・ワンですが、圧倒的な技巧の持ち主というのは、演奏家としての根底に余裕があるからか、音楽的にも変な策略めいたものがなく、むしろ素直で、非常に真っ当に曲が流れていくのが印象的です。

ただし、少々あれっ?と思ったのは、NHKの「らららクラシック」でショパンの雨だれの前奏曲を取り上げた回にも、通しの演奏者として反田氏が登場していましたが、弾くだけならシロウトでも弾ける「雨だれ」では、マロニエ君はあまり感心しませんでした。

これだけのテクニシャンにしてみれば、あまりにシンプルで腕のふるい甲斐もないということなのかもしれませんが、全身筋肉のスポーツマンが無理にゆっくり散歩でもしているみたいで、心の綾にふれるような繊細さは感じられず、どちらかというと殺風景なショパンという印象でしたので、やはりこういう人は、演奏至難な曲に挑む時ほど能力のピントが合って、力が発揮できるのかもしれません。

敢えて言わせてもらうならば、マロニエ君は、どれほどの腕達者であろうとも、シンプルな曲や小品を弾かせて心を打つ演奏ができなければ、心から崇拝する気にはなれません。

ふとYouTubeという便利なものがあることを思い出し、反田氏のコンサートの様子をちょっとだけ見てみましたが、ショパンの英雄はちょっと賛同しかねるもので、もしかしたらショパンが合わないのかもとも思いました。
ショパンは、テクニシャンが技術的高みに立って作品を手中に収めたような演奏をすると、いっぺんに作品から嫌われてしまう気がします。その拒絶反応こそが、ショパンの繊細なプライドの証なのかもしれません。

マロニエ君が見た動画では東京のピアノ店が所有するホロヴィッツのスタインウェイを使っていましたが、この楽器の価値はさておいて、反田氏の演奏にはどうもマッチしていないように思われました。
この特別なスタインウェイは、ホロヴィッツがそうしていたように、変幻自在な、ときに魔術的なやり方で多彩な音色を引き出さないと、ただのジャラジャラした音の羅列に聞こえてしまい、あらためてホロヴィッツの芸術的凄味を感じることに…。

とはいえ、ひさびさにすごい日本人ピアニストの登場であることに間違いはなく、まあ、いっぺんCDを買ってみなくてはならない人だろうと思います。

もしうまく行けば、将来、日本のソコロフのような存在になるのかもしれないと思いましたが、まあそれはいささか想像が先行しすぎでしょうか。
もちろん大きな期待を込めて言っているのですが、マロニエ君自身は巷の評判ほどソコロフは好きではないことも付け加えておきたくなりました。音楽的にあまりにも泰然とし過ぎているというか、個人的にはどこか危うさのあるものが好きなのかもしれません。
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カインズ

九州に一号店がオープンしたというホームセンターの「カインズ」に立ち寄ってみました。

関東エリアなど、数えきれないほどの店舗があるようなので本州の方はいまさらでしょうが、九州はこの春ようやくにして初上陸となったようです。
オープン前から、テレビの地元ニュースではカインズのオープンをやたら大々的に取り扱っていたので、ホームセンターの名前などいちいち知らないマロニエ君としては、よほど目新しい店がやってくるのかと思っていました。
…というか、そういう番組の取り上げ方にのせられて「思わされていた」というほうが正確でしょう。

何度もイメージを植え付けられたのが、カインズはただのホームセンターにあらず、独自の開発商品が多くて、センスがあってオシャレで実用的で、これまでのホームセンターの常識をくつがえすようなとてつもないもののようにレポーターなどはわぁわぁ喋りまくっていたものです。

さらに、オープン直前にはやれ報道陣に先行披露があったり、知人が見たというテレビニュースによると、ついには社長だかCEOだか肩書はしらないけれど、この会社の総帥らしき人物がわざわざ福岡入りして、まるでアップルのスティーブ・ジョブズばりの演出でこの九州初オープンについての意義や説明を高らかにぶったというのですから、ずいぶん御大層なことのようでした。
どんなにすごいのかは知らないけれど、ホームセンターというのは要するに、洗剤だのトイレットペーパーだの日用品を売るところじゃないの?と首をひねるのがせいぜいでした。

まあ、別に関心もなかったので、正確にいつオープンしたのかも知りませんでしたが、過日たまたまその近くを通過することになり、平日だったのでそれほど混んではいないだろうと思って、ためしに覗いてみることに…。
覗くぶんマロニエ君もつまりはのせられているわけで、自分でバカだなあとは思いますけど。

駐車場入口に近づくと、車の流れが悪くなり、先を見やると3人ほどの警備員が車の出入りを1台1台必死になって誘導しているらしく、春休みでもあるしこれはやはり人が多くてとてもじゃないのかもと思いましたが、少しずつなんとか車は進み、手招きの方向にハンドルを切ると屋上駐車場に誘導されました。
ところが、屋上駐車場に行くと、車は全体の半分ぐらいしか止まっておらず、あっけなくパーキングを終えました。

エレベーターホールに向かうと、買い物を済ませた人達が向こうから歩いてきますが、その荷物はというとまったくのホームセンターのそれで、なにか特別な感じを受けることはありませんでした。

エレベーターを降りて店内に入ると、まず「あれっ?」と思ったのは店内の広さで、マロニエ君の勝手な想像(ニュースなどで見たイメージ)の半分ぐらいしかない感じでした。
というのも、正面のそう遠くない場所に「むこうの壁」があり、それで売り場の広さというのがおおよそわかりますが、それは予想に反してかなり小ぶりなもので、はじめはその壁の向うにさらなる売り場が広がっているのかと思ったほどです。
しかし、結果的に売り場の奥行きはやはりそこまでで、たとえば今どきのIKEAやイオンモールのような、バカバカしいような広さに慣れてしまっている目には、ずいぶんコンパクトというかむしろ手狭に感じたし、並べられている商品もフツーにホームセンターのそれで、オープン前のあの鳴り物入りの大騒ぎ、とりわけテレビ関係の取材ときたら、ずいぶんと度を越したものだったよう思わざるをえません。

カインズオリジナル商品というのもところどころで見たことは見たけれど、べつにどうといこともなく、どれひとつとってもそんなに大騒ぎするようなものはひとつも見あたりませんでした。
もちろん、ザーッと店内を歩いただけなので、細かいことまではわかりませんが、おおまかな店の雰囲気や商品構成など、全体の調子というのは大体つかめるわけで、特筆大書するようなものはマロニエ君はなにもなかったという印象で、あまりに普通に要るものだけを買ってお店を後にしました。

煽るだけ煽ってあとの責任はまったくとらないマスコミの罪は大きさを、こんなところでも思い知らされた気分で、ま、あたりまえですが、要するにごく普通にあるホームセンターの中のひとつだということ以外、なにもありませんでした。

数あるホームセンターでも、店名が違えばそれぞれちょっとした個性の違いぐらいはあるわけで、カインズの個性もその枠を飛び出すほどのものではなく、とくだん突出したものは感じませんでした。

個人的には、あまりいろいろな商品をまんべんなく並べるよりは、特定の(あるいは得意な)ジャンルに特化して、その上での豊富な品ぞろえなどがあるほうが逆に存在感は引き立つし、結果行ってみようという気にもなりますが、現在のカインズは自宅からかなり遠いこともあるし、いまのところそれでも行きたいという理由もないので、個人的には近くの行き慣れたホームセンターで充分です。

そうそう、カインズのオリジナル商品の中でもかなりの人気ということで、テレビでも繰り返し見せられた積み重ね可能なプラスチックの収納ボックスで斜めのフタのついたアイテムは、もともとはカインズが発祥なのかもしれませんが、いまではどこのスーパーでも類似品が山積みされているし、一向に新鮮味はありませんでした。

最初の打ち上げ花火だけは、やけに仰々しく、これでもかとばかりに空高く打ち上げるというのが今流なのかもしれませんが、あんまりやられると、いち消費者としては却って失望を味わうだけのような気がします。
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ユッセン兄弟

採りだめしていた番組(クラシック倶楽部)の中から、ユッセン兄弟のピアノリサイタルを見てみました。

アルトゥール・ユッセンとルーカス・ユッセンは、オランダ出身の双子のような金髪の兄弟で、曲目はベートーヴェンの4手のためのソナタop.6、ショパンのop.9のノクターン3曲、幻想ポロネーズ、ラヴェルの2台ピアノのためのラ・ヴァルス。
それにしてもこの二人、すみだトリフォニーホールでリサイタルをするとは、よほど人気があるのか…。

冒頭のベートーヴェンの連弾ソナタは作品そのものに個人的に馴染みがなく、ともかく初期の作品で二人揃って活気をもって弾いたという感じでしたが、ショパンからは雰囲気が一変しました。
op.9の3つのノクターンを、1を兄が、2を弟が、3を兄がそれぞれソロで弾くというもので、その間、側に置かれた椅子で待機して、曲が終わると静かにピアノに近づいて、スルスルっと入れ替って弟が2曲めを弾き出し、それが終わったらまた兄が近づいてきてするりと入れ替わって3曲目を引くというもので、こういう光景は初めて目にしました。

日本人の兄弟デュオにも左右の入れ替わりなどあるようですが、あちらはお客さんにその動きを見せて楽しませるためのアクロバティックなパフォーマンスのようですが、ユッセン兄弟のそれは最低限の動きで済ませるおだやかな交代で、自然に受け入れることができたし、これはこれでおもしろいとさえ思いました。

本当に仲の良い兄弟という感じで、弾き方も似ていて、おそらく耳だけで聴いたらどっちが弾いているかわからないだろうと思いました。強いていうなら兄のほうがすこし多弁で、弟のほうが内的といえるかもしれません。

そもそも、大ホールで行なわれるリサイタルで、ショパンのはじめの3つのノクターンが順番に演奏されるというのはなかなかないことですが、これが選曲としてもとても良く、知り尽くした曲のはずなのに不思議な新鮮さを覚えました。
演奏もなかなかのものでセンスがあるし、ショパン作品の演奏としてはバランスの良い美しい演奏だったことは非常に好感が持てました。

マロニエ君は昔から思っていることですが、どんなに大ホールのコンサートでも、ショパンで本当にしみじみと心の綾にふれるような深い感銘を与えるのは、もちろん演奏が良くての話ではありますが、繊細巧緻かつ詩的に奏でられるノクターンである場合が多いのです。

むかしダン・タイ・ソンのリサイタルに行ったとき、アンコールになって彼はその日初めてノクターンを弾きましたが、演奏がはじまるや、会場は水を打ったように静まり返り、一音一音がホールの広い空間にしたたり落ちる言葉以上の言葉のように美しく鳴り響きました。
聴衆もこれに圧倒されて、2000人近い人達が我を忘れたごとく固唾を呑んで、物音も立てずに聴き入った経験はいまも忘れられません。

その繊細な美の世界にじかに触れられたときの満足は、たとえどんなに立派に弾かれたソナタやバラードやエチュードでも得られない圧倒的な世界があり、会場は感動と静謐によって完全に支配されます。

ユッセン兄弟のノクターンがそこまで神がかり的なものであったとはいいませんが、広い会場、弱音でも遠鳴りするスタインウェイから紡ぎだされるショパンの美の世界は、あまり技巧的でも、音数が多すぎても何かが失われてしまうところがあって、その点ではノクターンはショパンに浸り込むにはある意味理想の形式かもしれません。

その後、弟のほうが幻想ポロネーズを弾き、最後は二人でラヴァルスとなりましたが、これはこれで素敵な演奏ではあったけれど、3つのノクターンほどの感銘はありませんでした。
しかし、僅かでも深く印象に刻まれる演奏をするということは、そうざらにあることではありません。

ふたりはインタビューの中で「お客さんがチケットを買ってよかったという演奏をしたい」「10年後にも印象に残るような演奏をしたい」「簡単なことではないけれど…」といっていましたが、一部でもそれができているのは大したものだと思いました。
むろんマロニエ君はチケットは買っていませんけれど!
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豊かな気分

つい先日、不要なものを処分して効率的な時間と空間を手に入れることは甚だ快適であるというようなことを書きました。
世の中には、そんなことは先刻承知で普段から実行されている方もいらっしゃるとは思いますが、マロニエ君のような凡人の場合、自分が考えている以上に不要で無意味なものに取り囲まれて、気がつけば貴重な生活空間が侵食されていることを痛感しているこの頃です。

我が家はガレージも同様で、とりわけマロニエ君の車好きが災いして、使う当てもないパーツやケミカル品やその他諸々のものが文字通り山積していて、実は数年前にあらかたの整理をし、無駄なものは大いに処分した「つもり」でした。

しかし、あらためて見てみると、それはまさに下ごしらえ程度のことであって、本当の整理整頓とは程遠く、ついにこのエリアへ手を付けることにしました。
前回、整理と処分で一番難儀なことは「着手」することだと書きましたが、その意味では、ともかく手を付けたということが大きいと自画自賛しているところです。

それにしても驚くべきは、要らないものというのは、いたるところで予想以上に存在しており、それらが集積蓄積されて貴重なスペースを相当量侵害し、さらには当人はそれにほとんど気が付かない点だと思います。

だからといって前回も書いたように、必要な物、あるいは取っておきたい物まで無理して捨てる必要はまったくないと思うし、後ろ髪を引かれてまで処分するのでは却ってストレスとなるので、極度の処分はマロニエ君は反対です。
しかし、どう考えても要らないものかどうか冷静な目で見てみると、まぎれもなく不必要で、使う見込みもないようなものがゴロゴロといくらでもあるのには我ながら閉口します。

昔は使わなくても、いろいろなものがガレージに所狭しと並んでいるだけで、マニアックな雰囲気に浸るという子供じみた満足もあったのですが、さすがにいい歳になると、そんなオバカな情緒も干からびてくるし、なによりスペースの有効利用という点が俄然大切に思えてきました。

いったん手を付けると仕分け作業にも「流れ」と「リズム」みたいなものが出てきて、このところ毎晩のようにガレージに入っては不要物の選別をし、さらに可燃ごみと燃えないごみを分別し、それぞれの袋へパズルよろしく詰め込むのが日課になり、これはこれで結構楽しくもありました。

他地域の自治体もほぼ同様だろうと思いますが、燃えないごみは福岡市では月に一度、市の指定の袋に入れておきさえすれば夜中に回収してくれます。
可燃ごみは2~3日に一度のペースなのでゆったり構えていられますが、燃えないごみは一度出し損じると次は一月先になるので、それもあってかなり積極的にこちらの選び出しには集中しました。

つくづく思ったことは、モノにはまあそれなりに思い出がないといえばウソになりますが、それよりも、なんでこんなものを後生大事に今日までとっておいたのか、自分の短慮と愚かしさのほうが身にしみました。
とくに強調しておきたいことは、前回と重複しますが、「これはきっとそのうち何かの役に経つだろう」などというのは、ほとんど幻想で、現実はまずそんな出番などほとんどないということ。

仮に、万が一にもそういう事があったとしても、そんなわずかなことのために長年にわたり大量の不要物を抱え込んでおくなんて、これこそバカバカしく不健全で、なにか必要なものがあればその都度、それだけをどうにかすればいいのだということがよくわかりました。
ガレージに関していうなら、数年前に較べると物の量は半分どころか、1/3か1/4ぐらいまで量を減らしたと思いますが、ではそれでなにか困るかというと、これがもう情けないほどまったくなにひとつ困らないし、むしろゴミゴミしいものが姿を消し、そのぶんスッキリきれいになって、新たな空間が出現するのは思っていた以上に爽快です。

最近では、郵便で届くDMひとつでも、こまめに捨てておこうという気分が定着しつつあり、つくづくこれは習慣の問題だと思います。いつまで続くかはわかりませんが、まあそのうち息切れしたにしても、ときどき家の中のダイエットをするのは決してムダではないという気がしています。
余計なものが姿を消してスッキリするのは、理屈ではなしに気持ちがいいもので、なんだかずいぶん得をしたようでもあるし、物の量は減っているのに逆に豊かな気分になれるのはおもしろいなあ…と感じ入っている次第です。
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入賞者ガラ

先日の日曜夜、NHKのEテレで、今年東京で行われた「ショパン国際ピアノ・コンクール・入賞者ガラ・コンサート」が放送されましたが、感じるところがいろいろとあるコンサートというか番組でした。

当節、あまり率直に書くのもはばかられるけれど、かといって心にもないことを述べても何の意味もなく、ごく簡単に感想を書くことにします。

実際のコンサートではどうだったか知りませんが、放送されたのは入賞者の下位から上位に上がっていくというもので、
第6位 ドミトリー・シンキン(ロシア)
第5位 イーケ・トニー・ヤン(カナダ)
第4位 エリック・ルー(アメリカ)
第3位 ケイト・リュウ(アメリカ)
第2位 シャルル・リシャール・アムラン(カナダ)
第1位 チョ・ソンジン(韓国)
という順序。

シンキン:自ら作曲もするというだけあって、スケルツォ第2番を6人中ただひとり独自の感性と解釈で弾いていたのが印象的。音符に意味を見定め、それを音楽の「言葉」へと変換していたと感じられたのは彼だけ。また、ピアニストとしての逞しい骨格が感じられるところはさすがはロシアというべきか。

ヤン:ワルツの第1番を弾いていたけれど、繊細さやワルツの洒落っ気はなく、大仰なばかりの演奏。最年少というが、年令を重ねてもおそらくこのあたりの本質は変わらないであろうし、ショパンの世界とは違ったものが似合いそうな若者。

ルー:オーケストラと一緒にアンダンテ・スピアナートと華麗なる…を弾いたけれど、ただ弾いただけという感じで、演奏の腰が浮いている。ミスタッチも多いし難所になると指がやや怪しくなるのは、いかにも心もとなく、器が小さいという感じ。

リュウ:マズルカ賞を取るほど彼女の演奏(とくにマズルカ)は高く評価されたというが、マロニエ君の耳にはそれほどのものには聴こえなかった。緩急強弱を強調する手法が目立ち、作品の核心に迫っているかというと疑問を感じる。なんでもない部分…でも心のひだのようなものが隠されているところなど、チャカチャカとエチュードのように弾いたり、そうかとおもうと意味不明のねっとり感を出してみたり。やけに上ばかり見て弾く姿が音楽表現に重きをおく人のように見えるのか…。

アムラン:つい先日デビューCDを聴いて、それなりの好印象を得たと書いたばかりだったけれど、この日の演奏を聞いた限りでは早くもそれを保留にしたくなる。若いに似合わぬ、ずいぶんと貫禄のある身体を深く沈めて悠然たる構えで弾くのは期待を誘うが、実はそれほど深いものは感じられない。協奏曲第2番の第2楽章はひとつの聞き所でもあるが、メリハリのないスロー調というだけで、甘く初々しい語りなどはさして伝わらず。こういう演奏が繊細さにあふれた美しさなどと評価されるのだろうか…。また指の動きも現代の若手ピアニストとしてはごく標準の域を出ず、ショパンでは大切な装飾音の取り扱いにセンスや配慮が感じられない。

ソンジン:演奏回数を重ねるごとに表現が練れてくるのかと思いきや、あいかわらず謙虚で丁寧な雰囲気を漂わせつつ、音楽的にはフォルムが確定せず迷っている印象。嫌味もないが、ぜひもう一度聴きたいと思わせる魅力がない。コンクールでポイントを稼げるよう訓練を積んで整えられた演奏で、なんとはなしにイメージ的に重なるのはスケートの羽生選手。だから彼のファンのように、好きな人は特別なのかも。

どの人もふしぎなほど音楽がツボにはまらず、演奏が説得力をもって聞く者の心に深く染みこむような表現のできる人がほとんどいなかったように思います。かといって技巧的にものすごい腕達者という人もいない…。
ショパン・コンクールというものにはいろいろな意味での期待が大きすぎるのかもしれませんが、少なくともこの6人の中に、これからのピアノ界を背負って立つほどの強力な逸材がいるかというと…残念ながらそんなふうには思えませんでした。

オーケストラもワルシャワ国立フィルなんていうけれど、あれはちょっとひどいというか、日本の地方のオケの方がよほど上手いでしょう。

5年前にも感じたことですが、入賞者の来日公演での演奏は、コンクール本番での演奏を少しでも耳にしていると、気合の入り方が明らかに違うところにがっかりさせられます。どのピアニストもしぼんだ感じの、いわば予定消化型の演奏をするのは、入賞結果を元手にさっそく経済活動に励んでいるように感じてしまいます。

名も知れぬピアニストでいいから、心地よく乗っていけるショパンを聴きたくなりました。
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捨てること

いつごろからであったかは覚えてもいませんが、巷に「断捨離」という言葉がえらく流行ってもてはやされた時期がありました。
ウィキペディアで調べてみると「不要なモノなどの数を減らし、生活や人生に調和をもたらそうとする生活術や処世術のこと」とあり、「人生や日常生活に不要なモノを断つ、また捨てることで、モノへの執着から解放され、身軽で快適な人生を手に入れようという考え方、生き方、処世術である。」と説明されています。

まあ、それはある意味そうだろうと思うし、一面においては共感できなくもないことではありました。
しかし、それの「専門家」のような人物がやたらテレビに出てきて本まで出して、さもその道の大家のような顔をしていちいち上から教えるような物言いを展開、果ては人生訓まで垂れる様子が嫌だったことを覚えています。
マロニエ君は本質的には共感するところがあっても、高い場所からものを言いお説教するような態度に出られると、その抵抗感のほうが先に立ってしまってそんな話は聞きたくなくなるので、あまり自分の生活に活かすところまでは行きませんでした。

ところがこのところ、とくに深い理由はないけれど、自分の生活空間が乱雑や混沌であふれるのはやっぱり嫌なので、少しずつ要らないものを処分することを心がけるようになりました。
これまでも不要なものの整理・処分は必要という考えそのものはあったけれど、ご多分に漏れずなかなか実行が伴わなず、頭では思っても「着手」そのものに手間取っていた側面が大きかったように思います。
とくに期限があるでもない事なので、そのうちそのうちと先延ばしをするうちそれが常態化するので、実際に手をつけること…が最大の難関なのかもしれません。
こわいのは、人間は自分の生活エリアというか身のまわりのことになると、毎日目にするため感覚が麻痺してしまい、そのだらしなさや無様な姿を客観的にとらえることができなくなってくることだと思います。しかし、よその家にお邪魔すると、こう言っては申し訳ないけれどイヤというほどそのあたりが新鮮に見えてしまい、自分のことは棚に上げて「よくこんな状態でなんともないなぁ!」などとエラそうに思ってしまいますが、ある程度はこれは自分も同様だろうとも思うわけです。

自分の家の中のいろいろな部分を、他人が新鮮な目で見たらどう思うだろうかということを考えてみると、ふっと恐ろしいような気になり大いに焦ります。

で、すこしずつ要らないものを処分してみると、意外や意外、結構それが楽しいというか心地よいことに開眼しました。
さらに、その余計なものが貴重な生活空間をずいぶんと占領して、心までもが雑然としたゴミゴミした気分にさせているということが、あれこれ捨ててみてはじめてわかります。

むろん個人差はあると思いますが、要らないものを捨てるというのは、ちょっと習慣になるとかなり快感になってきて、つぎつぎにやる気が起きてくるのは自分としてはいいことだと感じています。それほど余計なものに囲まれて、心理的にも重く暑苦しくのしかかっていることは、要らないものを捨ててみて、気持ちが軽くなってみると如実にわかりました。

無理して必要以上になにもかも捨ててしまうことはないと思いますが、ある程度よけいなモノがなくなると、気持ちまで爽やかになってくるのが嬉しくて、まったく後悔などないものですね。いちばん足を引っ張るのは「これは何かのときに役に立つかもしれない」などとケチなことを思うことで、実際に役に立つ局面なんてまず殆どありません。
万にひとつもそんなことがあっても、それがなんだと思えばすむことで、それより快適な時間や空間のほうがはるかに重要だと、マロニエ君は思えるようになりました。
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距離をおくと

過日ピアノ関連の来客があり、ディアパソンをしばらくお互いに弾きながら、その音色を確認するということができました。

ピアノの音は場所によって聴こえ方が変わるにもかかわらず、演奏する者はその場所を変えることはできません。
せいぜい大屋根の開閉か、譜面台を立てるか倒すかぐらいなもので、音を出す人間が場所を変えて聴くということは絶対不可能という物理的事情がありますね。

どんなに慣れ親しんだピアノでも、ピアノから距離をおき、客観的にその音を聴いてみるためには、必然的に別の人が演奏している間だけあれこれと場所を移動してみるしかないのですが、この日はそれがかなり自由にできました。

そこでいまさらのようにわかったことは、演奏者にとっては鍵盤前に座るというあのポジションは、音響的にはかなり好ましくはない場所のようだということでした。

ピアノからわずか1mでも離れると、もうそれだけで聴こえてくる音は変わるし、2m、3mと距離を変えるたびにさらに聴こえ方はいろいろな表情を現しながら変化します。また、離れた場所でも椅子に座るか立つかでもおもしろいほどその聴こえ方はころころと変わり、こんなにも違うのかと呆れてしまいました。ある程度はわかっていたつもりだったのに、あらためてその変化の大きさには驚きとおもしろさと新鮮さを感じてしまいました。

少し離れた位置で聴くということは、考えてみれば調律のときにそれがないではないけれど、やはり調律と演奏はまったく別のことであるし、楽器は曲になったときに真価をあらわすわけで、やはりどんなに優しいものでもいいから曲を弾いてもらわないことには、「音」をたしかめることは出来ないと思いました。

それともうひとつ、当たり前というか、わかりきったことを再確認したという点でいうなら、少なくともグランドピアノは(とく大屋根を開けた状態であれば)、楽器のサイドから聴くのが最高であることを痛感させられました。
いわゆるコンサートでステージ上に置かれたあの向きで聴くのは、やはり正しいようですね。

ふだん自分のピアノは自分が弾くだけだから、このようにサイドからそのピアノが出す音を曲として聴くことがないのは、ピアノの所有者として、なんという残念無念なことだろうかと思わずにはいられません。
どんなに素敵な車に乗っていても、それが街中を疾走していく姿を、ハンドルを握るドライバーは決して見ることができないのと同じです。

なぜこのようなことをわざわざ書くのかというと、手前味噌で恐縮ですが、それほど自分で弾いているときにはわからなかった音や響きが想像していたよりすばらしく、ばかみたいな話ですが、思わず自分のピアノに陶然となってしまったからなのです。
さらにわかったこととしては、床と並行のボディより、わずかでもいいから耳が上に位置するほうがいいということ。

耳の位置が低すぎると、響板から発せられる音の大半が大屋根から反射されたものばかりになるのか、やや輪郭がぼやけるようで、中腰から立ったぐらいの、つまりすこし中のフレームが見えるぐらいのほうが断然いいこともわかりました。

要するにそのピアノにとっての特等席は、楽器から少し離れた場所であるということで、その最たるものはステージです。(ただしピアノのお腹が見えるほど低い座席ではなく、最低でもフレームの高さ以上であるべきだと思いますが。)
ステージのピアノを弾くと、音は会場の音響効果と広い空間のせいで風のように客席側に飛んでいってしまい、むしろあまり音が出ていないように感じることもありますが、あにはからんや客席ではかなりの音量と美音で鳴り響いており、そのギャップに驚嘆したことも何度かありました。

それなのに、ピアニスト(というか演奏家)は絶対に自分の演奏を客席から聴くことができないのは皮肉なものですが、そのことは家庭のピアノでも、次元は違っても同様のことがあるというのは発見でした。
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猛烈老人

最近の高齢者にはびっくりさせられることが多いらしいですが、まさにそんな体験をしました。

マロニエ君の自宅の近くに小さなスーパーがありますが、古い店舗のため駐車スペースはそれほど余裕がありません。
車が4台横に並ぶ列が4列あって、中の2番めと3番めはくっついていて車輪止めもないので、前に車がいなけれな、そのまま通り抜けて行くことも可能です。

その列に1台空きがあったので、マロニエ君が止めようと車の頭を入れていると、いきなりむこうから軽のワンボックスがサッとやってきて、しかも自分が入ったスペースを跨いで、いま正にマロニエ君が止めようとしている駐車枠の方へと車のフロントを突っ込んできました。

この時点でマロニエ君の車も1mぐらいは駐車枠へ入っていましたが、その軽は、まったくひるむことなく、「どけ!」といわんばかりに微動だにしません。
普通縦に2台分の駐車枠があって、両方から車がくれば、それぞれ手前は自分、そちらはアナタというふうにとめるのが当たり前です。

ところが、この軽はまったく後ろに下がる気配もないどころか、5cmぐらいずつあからさまに車を前進させて、対峙しているこちらに脅しをかけんばかりに、変なデザインのヘッドライトを目の前に近づけてきます。
こんなやり方には、さすがにマロニエ君も相当頭にきましたが、よくみると、ハンドルを握っているのは高齢の白髪頭の男性で、目をむいてこちらを凝視しています。
要するに前進で駐車枠に入って、そのまま前の枠に止めれば、一度もバックすることなく駐車から出発まで可能というところで、そのためには他車と鉢合わせになろうが関係ないといわんばかり。ブルドーザーよろしく相手をぐいぐい威嚇して、なにがなんでも自分のしたいようにする、そのためには一歩も引かないぞという居直り強盗みたいな老人でした。

こうなったら徹底的に動かないでやろうかとも一瞬思ったけれど、こんなところでこんな狂気のような老人相手にくだらないトラブルになったら、そのあと一日中嫌な思いをするだろうとも思うと、バカバカしくもなりました。
やむを得ずわざとちょっとだけバックしてみると、むこうは、そのわずか分をそれこそ接触せんばかりに詰めてきて、なんとか枠に収まったものだから、車内ではあとは知るかという様子で降り支度をしています。

その間、こちらもあえてその人の一挙手一投足をジーっと見つめてやりましたが、多少はそれもわかっているようでしたが、とにかくその図々しさときたら、そんなものはなんの役にも立たないほど強烈でした。

車から降りると、如実にその風貌がわかりましたが、かなり高齢にもかかわらず、この上なく険しい針のような目つきとふてぶてしげな態度は、まるで今の世の荒廃の度合い見るようで、なんとも嫌な気のするものでしたね。

年の功なんてものは、もはやはるか昔の幻想なのか、いまは多くの高齢者が、こうして歳を重ねるにつれイライラをも募らせながら、毎日を世間と勝負するかのように生きているということかもしれません。

はぁぁぁ…いやなものを見てしまいました。
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視覚的要素

BSのクラシック倶楽部から。
大阪のいずみホールでおこなわれたクラリネットのポール・メイエとピアノのアンドレアス・シュタイアーのソリストによるモーツァルトの2つの協奏曲で、オーケストラはいずみシンフォニエッタ大阪。

最晩年の傑作として名高いクラリネット協奏曲と、ピアノ協奏曲ではこれもまた晩年の作であり、最後のピアノ協奏曲となる変ロ長調KV595といういずれもモーツァルトの中でも特別な作品です。

シュタイアーならばてっきりフォルテピアノで演奏するのかと思っていたら、クラリネット協奏曲のときから、ステージの隅には大屋根を取り払ったベーゼンドルファー・インペリアルが置かれていました。

ところで、古楽演奏家の多くがそうであるように、シュタイアーもその出で立ちはきわめて地味な、むしろ暗い感じが目立ってしまうような服装であらわれますが、この人にかぎらず古楽の人たちの雰囲気はもうすこし爽やかになれないものかと見るたびに思ってしまいます。
誤解のないように言っておけば、そもそも、マロニエ君は演奏家がむやみに派手な服装をする必要はまったくないと思うし、わけても日本の女性奏者の多くのステージ衣装センスはいただけないし、見ているほうの目を疲れさせるような派手すぎる色やデザインのドレスにはまったく不賛成で、やり過ぎや悪趣味は演奏家としての見識さえ疑うとかねがね思っています。

クラシックのコンサートはファッションショーではないのだから、それに相応しい節度と、本当の意味でセンスある服装が理想だと思うのです。
いっぽう、過剰な衣装の対極にあるのが古楽演奏者たちで、あれはあれでひとつの主張なのだろうと思いますが、極端なまでに質素で地味な、どうかするとくたびれたような服であることも少くなく、これで煌々とライトのあたるステージへ平然と出てくるのは、これはこれで何だかイヤミだなあと思います。
「自分たちは着るものなんてどうでもいいんだ。音楽にのみ身を捧げ、全エネルギーを傾注している。」といった強いメッセージが込められているように感じてしまうのはマロニエ君だけでしょうか。

演奏家の服装は、良くも悪くも、地味も派手も、あまりそれを意識させない程度の、お客さんを不快にさせない程度の小奇麗な身なりであってほしいと思いますし、その範囲内でさらに素敵な衣装であればもちろんそれに越したことはありません。
そういう意味では、シュタイアーは古楽の人たちの中ではもしかするといいほうかもしれない気もしますが…。

演奏については、以前同番組で放送されたヴァイオリンの佐藤俊介氏とのデュオで見せたモーツァルトのソナタでは、フォルテピアノを使っての闊達なモーツァルトであった覚えがありますが、今回その印象は一変しました。
歴史的スタイルに鑑みてか、モダンピアノでもつねにピアノは通奏低音のように弾かれていますが、肝心のソロでは一向に華がなく、ひとつひとつの音符の明瞭さやフォルム、シンプルの極地にありながらセンシティヴに変化する和声などが聴く側にじゅうぶん届けられないまま、ひたすらさっさと進んでいくようでした。

現代のピアニストの演奏クオリティに耳が慣れている我々にとっては、どこかものたりないアバウトな演奏で、とくにこの最後の協奏曲の繊細かつ天上的な美しさといったものには触れずじまいだったという印象。

ピアノはシュタイアーの希望もあったのか、通常以上にピアノフォルテ的なテイストのピャンピャンいうような音だったように感じました。
どうでもいいことではありますが、ベーゼンのインペリアルは大屋根を開けてステージに横向き置くと、視覚的にいささかグロテスクな印象がありますが、今回のようにいっそ外してオケの中に突っ込んでしまったほうが、よほどすっきりした感じに見えました。

見た目の話でついでにいうと、大阪(というか関西)のオーケストラでは、どこも必ずと言っていいほど女性団員が色とりどりの衣装を着ているのはなぜなのか…。このいずみシンフォニエッタ大阪に限らず、ほかの関西のオーケストラでもほぼ同様で、男性は黒の燕尾服等を着ているのに、女性はソリスト?と思うようなドレスを皆着ており、色もバラバラ、あれはどうも個人的には落ち着きません。

海外の事情は知りませんが、マロニエ君の記憶する限り、オーケストラの女性団員がこれほど自由な色使いのドレスを着ているのは国内では関西だけのような気がします。「衣装は音楽とは無関係」ということなのか「華やかで舞台映えする」という感覚なのか、いずれにしろどうも個人的に気になることは事実で、正直いうと音楽まで違って聴こえてしまうようです。

音楽がいくら「耳で聴くもの」とはいっても、視覚的要素も大切だとつくづく思います。
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リシャール・アムラン

昨年のショパンコンクールで2位になった、シャルル・リシャール・アムランのデビューCDというのを買ってみました。

秋に開催される同コンクールより半年前に母国カナダで収録されたショパンで、ソナタ第3番、幻想ポロネーズ、op.62の2つのノクターン。
時間にして53分ほどで、今どきのCDは多くが70分は当たり前になってきている点からいうと、かなり少なめな印象。
むろんCDを収録時間で買っているわけではないけれど、いまどき普通ならばあと20分ほど入っていると思うと、なんだかちょっと物足りない気もするわけで、人間はつくづく欲深いものだと自分で思います。

しかし、そんなケチな不満を打ち消すかのように、演奏はたいへん見事なものでした。

とくにポーランド的とか、フランス的とか、ことさらショパンらしいニュアンスに満ちているというものではなく、かといって精度の高いピアニズム重視というわけでもないもので、生まれ持ったバランス感と、クセのないきれいな言葉を聞くような演奏でした。
しかも、よくある、ただ指がハイレベルに回るだけといった虚しさや、無機質不感症な演奏というわけでもなく、一定の演奏実感もちゃんと伴っていて、ようするに好ましい演奏だったと思います。

情感で押すタイプではないけれど、人間的な何か豊かなものが常にこの人の演奏を支えているようで、節度の中で確かな音楽の息遣いが息づいているのは立派なものだと思いますし、この若いピアニストの教養と人柄のようなものを感じないわけにはいきません。

第1位だったチョ・ソンジンが、多くの人から激賞されている中、どちらかというとどこか学生風な未熟さを(マロニエ君は)感じてしまうのに対し、アムランはぐっと大人の成熟した語り口だなあと思います。

その他、好ましく感じたことのひとつに、非常にしっかりした正統な演奏でありながら、決して説明的にならず、音符が音楽の自然な言葉へしなやかに変換されて、聞く者の心情へと直接語ってくる点でした。

多くのピアニストがテクニック、能力、解釈、理知的なアプローチなど、あらゆることを兼ね備えているかのような努力にもかかわらず、けっきょくはなにもない無個性で凡庸な存在に落ち込んでいるこんにち、リシャール・アムランはすでに自分の演奏スタイルが確立していて、どういうふうに弾きたいかが迷いなしに伝わるのは聴く側も無用なストレスを感じずにすみます。

いわゆる正統派タイプだと歌い込みを排除した骨がましい演奏になり、解釈優先主義の人はあえて塩分ひかえめの食事みたいな演奏になって、マロニエ君はいずれも好みではありませんが、この人は、奇を衒わず自然体、それで損をするならやむなしという潔い価値観をもっているのか、演奏が首尾一貫しているのは却って評価が高くなりますね。

さらにいうと、ちかごろの若い演奏家にありがちな過度な出世欲や、自己顕示のためのパフォーマンスが感じられず、むしろ信頼感のようなものを感じさせてくれる人でした。

ピアノの音ははじめはちっとも意識していませんでしたが、よく考えたら、この人はショパンコンクールでは一貫してヤマハを弾いた人だったことを思い出しました。
しかし、どう聴いてもヤマハのようには聴こえないので、おそらくスタインウェイなんだろうぐらいに思っていたのですが、何度か聴いているうちにソナタの冒頭など「ん?」と思う音のゆらぎのようなものが耳につき、全体的な音色にもややざらつきがあるようでもあり、もしかしてNYスタインウェイではと感じ始めることに。

昔は北米大陸ならNYスタインウェイと相場が決まっていましたが、このところはご当地ニューヨークでさえハンブルクがずいぶん勢力を伸ばしているのはなぜなのか…。
とりわけ大きなコンサートや録音ではハンブルクが多いように感じるのは、せっかくアメリカなのにつまらない気がしていたのですが、どうやらこの録音ではマロニエ君の間違いでなければ、よく調整された新しめのニューヨークのように感じました。

カナダではまだまだニューヨーク製が主流なのかもしれません。

話が逸れましたが、リシャール・アムランはとても良いピアニストだと感じ、今後もCDなど出ればぜひ買ってみようと思います。
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言葉の低下

いかに当節の流行りとはいえ、どうしても馴染めない言葉ってありますね。

言葉は常に時代を反映するもので、どんなに間違っていても、マス単位で一定期間使い続けられれば、それがいつしか根を張って標準になってしまう怖さがあって、だからよけいに言葉は大事にしたいと思います。

「マジで」「チャリンコ」「ハンパない」などは、いちいち気にすると無益なストレスになるので流していこうと頭では思うけれど、やっぱり耳にするたびに抵抗がサッと体を通り抜けていくような感触を覚えます。

一部の人達が、限られた範囲内だけで、遊び感覚で言葉を崩して使うのならともかく、たとえば小さな子がはじめに覚える言葉として、こんな妙ちくりんな言葉が無定見に入り込んでいるのはいかがなものかと思います。いっぽう、近頃は男というだけで時と場所を選ばず、一人称を「オレ」と言いまくるのも気になります。

マロニエ君の個人的な感覚で言うなら「オレ」は、よほどくだけた間柄での言い方であって、本来は男友達や朋輩の間で使う言葉であって、使う範囲の狭い一人称だったはずですが、これがもう今では、若い人とほど誰も彼もが無抵抗に使いたい放題で、芸能界や若年層に至っては「ぼく」などと言う方が浮いてしまうほどの猛烈な勢力であるのは呆れるばかりです。

固有名詞は避けますが、いつだったかオリンピックから帰国した選手たちが皇族方と面談した際、さる金メダリストが皇太子殿下に対して自分のことを「オレ」と言ったものだから、あわてて宮内庁の誰かから注意されたという話があるほど、事態は甚だしくなっています。

日本語の素晴らしさのひとつは、尊敬語と謙譲語、あるいはその間に幾重にも分かれた段階にさまざまな言葉の階層があるところであって、それを「いかに適切に自然に使い分けられるか」にかかっていると思います。
ところがそういう言葉の文化は廃れ、現在はやたらめったら丁寧な言葉を使えば良いという間違った風潮が主流で、「犯人の奥様」的な言い回しが横行し、アホか!といいたくなるところ。

最近とくにイヤなのは、「じいじ」と「ばあば」で、あれは何なのでしょう!?
テレビドラマなどでもこの言い方が普通になっていたり、盆暮れの駅や空港での光景に、孫は祖父母のことをこう呼んでしまうのは、思わず背筋が寒くなります。

これを無抵抗に使っている人達にしてみれば「なにが悪い?」というところでしょうが、聞いて単純にイヤな感じを覚えるし、祖父母に対する尊敬の念も感じられず、理屈抜きに不愉快な印象しかありません。
個人的には「じいちゃん」「ばあちゃん」という言い方も好きではないけれど、さらに「じいじばあば」は今風のテイストが加わってさらに不快です。

単純におじいちゃんおばあちゃんぐらいでは、どうしていけないのかと思います。

こんなことを書いているうちに、ふと脈絡もないことを思い出しましたが、最近はお店で物を買って支払いをする際、店員は男女にかかわらず、意味不明な態度を取るのが目につきます。

どういうことかというと、商品をレジに持っていくと、紙に包むなり袋に入れるなりして、代金を受け取るという一連のやりとりの間じゅう、店員は目の前のお客ではなく、一見無関係な方角へと視線を絶え間なく走らせます。

それも近距離ではなく、どちらかというとちょっと距離を置いたあちこちをチェックしているようなそぶり。
まるで自分の科せられた職務は、実はいま目の前でやっていることではなく、もっと大きな責任のあることで、レジ接客はそのついでといわんばかりの気配を漂わせるという、微々たる事ではあるけれど、あきらかに礼を失する態度。

いちおう頭は下げるし、口では「いらっしゃいませぇ」とか「ありがとうございまぁす」のようなことは言うけれど、実体としてはお客さんをどこかないがしろにする自意識の遊びが働いているような、そんな微妙な態度をとる店員は少くありません。
これにはどうやら何らかの心理が潜んでいそうですが、ま、分析する値打ちもなさそうな、ゴミみたいな主張だろうと思われます。

ただ、ここで言いたいのは、こんなちょっとした言葉や態度がじわじわ広がるだけでも、世の中はずいぶんと品性を欠いた暗くてカサカサしたものになってしまっているような気がするということです。
お互いに気持ちよく過ごしたいのですが、それがなかなか難しいようです。
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録画から

早いもので今年ももう3月ですね。

このところTV録画で見たコンサート等の様子から。

アリス=彩良・オットとフランチェスコ・トリスターノのデュオリサイタル。
ドイツの何処かのホールで収録されたライブでしたが、出てくる音声が今どきおそろしくデッドだったのはかなり驚きました。

まるでただ部屋に2台のピアノを置いて弾いているような音で、優れた音響に馴らされた耳には、あまりに窮屈で最後までこの音に慣れることはできませんでした。
また、二人ともとても偏差値の高いピアニストなのだろうとは思うけれど、残念なことに味わいとかニュアンスというものがなく、ただ楽譜のとおりに正確に指が動いていますね…という印象。

最近のクラシックの演奏会は、慢性不況でもあり、ただ良質な音楽的な演奏をしているだけでは成り立たないという実情はもちろんあるとは思いますが、それにしても演奏家がやたら「見せる」という面を意識しているらしいことが目に付くのは個人的にはどうも馴染めません。
ドレス、髪型、指にはたくさんの指輪をはめて、弾くときの表情もピアニストというよりは、どちらかというと女優のよう。

ピアノはスタインウェイDとヤマハCFXという組み合わせでしたが、上記のような詰まったような音があるばかりで、こちらも真剣に聴く気になれずとくに感想はもてませんでした。ただ、ステージ真上からのカメラアングルがあり、2台とも大屋根を外した状態なので、構造がよく見えました。
驚いたことには、ぱっと目にはまるで同じピアノのように見えることでした。

全体のサイズはもちろん、とくにフレームの骨格や丸い穴の数や位置などほとんど同じで、この2台が別のメーカーの製品ということじたいが信じられないくらいでした。以前はヤマハのフレームは独自の形状でしたが、CFXからはそれが変更され、ますますスタインウェイ風になっているようです。

じつはスタインウェイDとヤマハCFXという組み合わせが、偶然もうひとつあり、小曽根真がアラン・ギルバート指揮のニューヨーク・フィルハーモニックと昨年大晦日に演奏した『動物の謝肉祭』が、やはりこの2社の組み合わせでした。

もちろんCFXを弾いたのは小曽根真であることはいうまでもありません。
このときはなんとか言うアメリカ人男性がナレーションを務め、開始前と曲と曲の間に、いかにもアメリカ的テイストの芝居がかったトークが挟まれ、その鬱陶しさときたらかなり強烈なものでした。
メインは音楽なのかトークのほうか、まるでわからなくなるほど長いし押し付けがましくて、ウケと笑いと拍手を要求してくるのはウンザリで、録画なので早送りで飛ばすしかありませんでした。

ところで、小曽根真の演奏はどこがそんなにいいのか…マロニエ君は正直さっぱりで、これは皮肉ではなく、わかる方がおられれば教えてほしいぐらいです。
個人的な印象としては、本業のジャズでもあまりキレがないように感じるし、クラシックではやはりあんまり上手くないという印象が拭えません。
何年か前にモーツァルトのジュノームを弾いたときは、たしかにあれはあれで一回は新鮮でへぇぇと感じたことは覚えているけれど、こうもつぎつぎにクラシックのステージに登場するとなると、申し訳ないけれどふつうの評価にもさらされてくるのは避けられない気がするところ。

とりわけ不思議なのは、ノリやリズム感が身上のジャズメンであるはずなのに、その肝心のリズム感がなく、メリハリに欠け、むしろあちらこちらでモタついてしまう場面が散見されるのは不思議で仕方ありません。
ジャズでもクラシックでも、この人の演奏にはある種の「鈍さ」を感じてしまうのはマロニエ君だけでしょうか。

そうれともうひとつ。
題名のない音楽界では辻井伸行がベートーヴェンの皇帝を弾いていましたが、なんだかんだといっても彼はまぎれもなく天才で、人前で演奏するだけの値打ちがあり、シャンプーのコマーシャルみたいな言い方ですが、「リッチで自然でツヤのある」ピアノを弾く人だと思いました。

彼のピアノには努力だけでは決して身につかないスター性と独自性があり、あの輝きはやっぱり並み居るピアニストの中でも頭一つ出た存在だと思いました。
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どうしましたか?

電話をかけたとき、相手の第一声というのは大事ですね。
最初に発する言葉やテンション、明暗の調子でこちらの気分もずいぶん違ってきますし。

なかには、会話になると至って普通なのに、第一声だけはやけに暗く「うわ、まずいときにかけたのか…」と思わず不安になる人などもいますね。ただのクセなのかもしれませんが、けっこう焦ります。

むかしは「もしもし」が普通でしたし、固定電話全盛のころは「はい、○○でございます」と自ら名乗ってくださる方も少くありませんでした。

それがケータイの普及にともない、少しずつ変化が起こってきているのを感じます。

とくに双方ケータイである場合は、アドレス帳に登録していただいていることが多いため、呼び出しの段階で先方の端末には誰からの電話かがわかるため、いきなり「どーもー!」とか「こんにちわー」などというパターンも珍しくなくなってきました。

ただ、マロニエ君の場合は保守的なのか、切り替えが下手なのか、いきなりこういう調子に和していくのがイマイチ苦手で、むこうはもう名乗りの部分をすっ飛ばしてきているのに、いまだに「もしもし、○○ですが…」などと思わず言ってしまうこともよくあります。

まあ、それぐらいなんということもないし、すぐに会話になっていくでの問題はないのですが、どうも個人的にはいただけないと感じる第一声もあったりします。

そのひとつが、
「あ、もしもし。どうしました?」「あ、○○さん。どうしましたか?」っていうパターン。

何エラそうに言ってんの?というか、なんだか微妙に失礼な気分。
こういう言い方が、最近は流行っているんでしょうか。
しかもこれ、そもそもどういうつもりなのかと思います。

マロニエ君にはその心境がさっぱりです。

普通に電話しただけなのに、いきなり「どうしました?」と反応された日には、はぁ…どうかしなきゃ電話しちゃいけないの?とつい反発心から思ってしまいます。
これはニュアンス的に、どこか上から目線な言い回しだとも感じるので、おそらく言っている側は大した意味もないのだろうとは思うけれど、聞くたびにちょっとムゥ…ときてしまいます。

しかも相手に悪意がないというか、ふつうのむしろオシャレな対応だと思っているらしいところがよけいにイラッとします。
どうしました?と相手に「聞いてあげる」ところに、余裕ある自分を演出しているのか。

おそらく、はじめは誰かからそういう言われ方をしたことがきっかけで、いつしか自分も採り入れて、言う側に転身したのだろうと思われます。
というか、この言い方をする人がチラホラいるし、それらが皆、自分のオリジナルだとは到底思えませんから。

こういう言い方が、今風で、さばけた感じというような無意識の意識が潜んでいるのかもしれません。
ま、なんだかしらないけれど、言われたほうは、まるでさも緊急の要件か、困ったことが起こって助けを請う電話であるかのように扱われているみたいで、どうも納得がいきません。
どうかしたとしたら、よほどチカラにでもなってくれるのかと聞いてみたくなるほど。

110番や保険会社ならそれもいいかもしれませんが、ふつうの個人には不適当な気がします。

言葉というものは、どういうつもりで言っているにしろ、それ自体に普遍的な意味やニュアンスがあるので、やっぱり相手側の気分を害さぬよう、誠実に使わなくてはいけないとあらためて思うこの頃です。
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弾きやすさの質

つい先日のこと、所用で隣県まで出かけた折、予定が早く済んでしまいぽかんと時間ができたものだから、悩みました(だって行っても見せてもらうだけですから)が、当地のスタインウェイ代理店にお邪魔させてもらいました。

マロニエ君は普段から、購入予定もないのにお店を訪ね歩いてピアノの試弾をしたり、同様にひやかしで車の試乗をしたりするのはあまり好きではないので、極力それはしないよう控えているつもりです。
…が、このときはつい禁を破って行ってしまったというわけです。

人によっては、やたらとこれを繰り返し、弾いたり乗ったり延々しゃべったりして、それを一方的に楽しんでいる人もいるのですが、お店側にしてみればいい迷惑で、遊び場にされては困るというもの。
というわけで、マロニエ君は車の試乗などをするのもせいぜい年に1度あるかないかです。

と、基本的にはそういう考えなのですが、このときはちょうど時間にも空白ができて、試しにナビで位置確認をしたところ、わずか2キロほどのところでもあり、誘惑に負けてついルート案内を押してしまいました。

むろん他のお客さんなどがいらっしゃれば早々に退散するつもりでしたが、幸いにもそのような状況でもなく、来意を伝えるとお店側はたいそう快く迎えてくださいました。

まず通されたのは、2階にある展示室で、そこには内外のセレクトされた美しいアップライトピアノが壁際に並べられ、中央には新品のスタインウェイのBとO、ボストンの小型のグランドが置かれています。
「さあ、どうぞ」といわれて「それでは」とばかりに弾き始めるほどにマロニエ君は度胸も腕もありませんから、軽くスケールを弾いてみる程度にしていましたが、有り難いことにお店の人はこちらが心置きなく指弾できるようにとの計らいからか、早々に姿を消してくださいました。
おかげで、ほんのちょっと(5分ぐらい)BとOの2台を弾いてみたのですが、この2台の「あっとおどろく弾きやすさ」ときたら衝撃的で、これがスタインウェイのタッチかと頭の中の尺度を書き換えなくてはいけないほど好ましいものでした。
まさに目からウロコです。

このときは技術者でもある由のご主人は不在でしたが、店におられた奥さんがとてもピアノに詳しい方で、さっそくこのピアノの思いがけないタッチの素晴らしさを興奮気味に告げたのはいうまでもありません。
マロニエ君があまりにショックを受けているからなのか、少し笑っておられるようでしたが、本当にそれぐらいこれまでのスタインウェイとは違う、軽く、素直で、何の違和感もない、思いのままの理想的なタッチでした。

しかも印象的だったのは、その2台はなにも特別な仕様ではなく、あくまでも現在のスタインウェイの「スタンダードな状態です」ということ。

これは、とりもなおさずこの店の技術力が優れていることもあるでしょうし、そもそも生産段階におけるパーツの正確さ、組み付け精度の面などがずいぶんと進歩してきているのだろうと思いました。
近頃のスタインウェイの、音としては平坦ではあるけれど、いかにもシームレスというか均等な鳴りを聴いても、こういうタッチであることは合点がいくところでもあります。

お店には別室にもう1台10年ほどまえのO型があるということで見せていただきましたが、こちらも実によく調整された素晴らしいピアノでありましたが、新品の2台に較べると、軽く正確で、一瞬の隙もなく反応する「驚異的な弾きやすさ」ではやや及ばないところも感じますので、やはり最新のスタインウェイは、機械的精度という点でかなりヤマハに肉薄してきているのかもしれないと思いました。

いくら音が良くても、タッチが思わしくなく、もたついたりコントロールしづらいなどの問題があると弾く楽しみも半減ですが、その点では、現在のスタインウェイはかつてのような重厚な味わいはなくなったかわりに、ストレスフリーな弾き心地を弾き手に提供しているのかもしれません。
弾くものにとっては、最上の快適感の中で弾けるということは、これはこれで大いなる魅力だと感じ入った次第でした。

躊躇しながら訪ねたものの、大いなる収穫を得て、感嘆しつつ帰途につきました。
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謎の車の中は…

幹線道路の交差点を右折すべく右側の車線を走行し、信号が赤だったので停車しようとスピードをゆるめたそのとき、左からある東北の某ナンバーのダイハツ・コペン(軽の2シーターオープンで屋根付き)が突然目の前に割り込んできました。

ほとんどこちらの急ブレーキをあてにしたような無謀な突っ込み方で、あまりのことにクラクションを鳴らすひまもないほどそれは唐突でした。
しかも割り込んだあと、前の車まで十分な距離があるにもかかわらず、それ以上前進しようともせず、マロニエ君の車の真ん前で斜めを向いて止まったまま動こうともせずに、ほとんど嫌がらせのようなかたちで「一体なんなのか!」と思いました。

さすがにおどろいて、どんなドライバーが運転しているのかと顔のひとつも見てやりたくなりましたが、リアウインドウには今どき黒いフィルムが貼られていて、中の様子をうかがい知ることはできません。

そののち前の信号が「青」になると、ようやくそのコペンも動き始めたものの、ここでも嫌がらせのように、必要以上にノロノロと動いて、その気配たるや、これはタダモノではないらしいと考え始めました。

交差点では無数の直進対向車がひっきりなしにくるので、前3台とマロニエ君は待ったあげく、ようやく右折専用の信号が出るに至って右折開始となりました。
ここでも先頭と次の2台はすみやかに右折して行ったのに対し、コペンはまたまた歩くようなペースで右折を開始。
そこまでゆっくり行くのであれば、せめて右折したあとは一番左の車線でも行けばいいようなものなのに、これがまた、その速度でどうどうと一番右車線に躍り出ます。

チッと思いながら、中央車線から抜かしてやろうかと思っていたら、一番右の車線は次の交差点では右折専用になるようで、そのことに気づいたコペンは、車線は今度は左車線に移動しました。

と、まもなく目の前の信号が「赤」になったので停車。
そこでマロニエ君は敢えて、横に並ぶべくスピードを落として、コペンが先に止まったことを見ながら右側へゆっくり横付けしました。

「さあ、どんな御仁が運転しているのか!」と思って横を見えると、拍子抜けするほどふつうの若いおねえさんが運転席に座っていて、あれだけ腹も立ち、注目もしていたのに、なんだか「期待?」を裏切られた気になりました。
「なんだ、ただの運転が超苦手な女性か…」と思った一瞬後ドアウインドごしに見えてきたのは、なんとビッグマックのような何重にも分厚く重ねられた特大のハンバーガーで、この女性、これを食べながら運転しているのでした。

真横に並んで、ついあきれて見てしまいましたが、そんなことはなんのその。
気にする様子もなく、モグモグモグモグ、しわくちゃの大きな紙を適宜開くようにしながら、あっちこっちとかぶりついています。
こちらの視線を気にしているのか、決してこっちに視線を向けることはなく、無表情にひたすら食べ続け、信号が青になるとそのままコペンは動き出しますが、口はモグモグ、手にはハンバーガーという状況はかわりません。

そのまましばらく並走しましたが、マロニエ君はほどなく右折しなくてはいけない地点に来たので、観察はここで終りとなりましたが、なんでそうまでして運転しながらあんなに特大のハンバーガーを食べる意味がついにわかりませんでした。

いくら違法でも、スマホいじりをしながら運転というのはまだどこかに理解の余地がありますが、グレープフルーツほどもありそうなハンバーガーを「運転しながら食べる」というのは想像を遥かに超えた行為でした。

マロニエ君など、テーブルで集中して挑んでも、分厚いハンバーガーはこぼしたり落としたりと、無事に食べるだけで精一杯ですが、それを運転しながらとは恐れいったというべきか、よほどの高度なテクニックなのかもしれません。

でも、やっぱり食べている合間合間に運転しているので、他の車の前へ危険な割りこみになったり、前が空いてもちゃんと詰めないなど、車の動きはもうハチャメチャ、安全かつ円滑な動きができないのも納得です。
よっぽど急いでいるのかとも思いましたが、普通なら、あんな分厚いハンバーガーを運転しながら食べなくちゃいけないほど急いでいるときは、食べるのは後回しにしますよね。
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マリナーとオピッツ

90歳を超えたネヴィル・マリナーがN響定期公演の指揮台に立ち、お得意のモーツァルト(ピアノ協奏曲第24番)とブラームス(交響曲第4番)を演奏し、クラシック音楽館の録画から視聴してみました。

ピアノは今やドイツを代表するピアニスト(?)のゲルハルト・オピッツ。
冒頭のインタビューではモーツァルト演奏に際して、いろいろと尤もなことを言われていました。
例えば、
「モーツァルトの場合、大げさにならないようにすることが大切」
「歌わせる部分も過度に感傷的になってはいけない。モーツァルトの音楽に真摯に忠実に取り組む。」

ただ実際の演奏は、マロニエ君の耳にはいささか典雅さの足りない、ひと時代前の演奏のように聴こえました。
指の分離が優れた人ではないのかもしれませんが、タッチが重く、どちらかというと団子状態になりがちなのはきになりました。
独奏ピアノが作品の中で自在に駆け動くという感じがせず、常に前進する全体のテンポに追い立てられ、なんとかそれに遅れないよう気を張って弾いているようで、そういう意味での硬直感が全体に感じられました。

すべての音楽がそうですが、とりわけモーツァルトでは曲そのものが含有する呼吸感の美しさを表現して欲しいのですが、オピッツのピアノは、その点で関節の固い、息が詰まった感じがします。

マリナーの指揮はいつもながらの流麗で心地良く、懐かしい感じがあってホッとすると同時に、古楽奏法の出現によりモダン楽器のオーケストラでさえ、そのテイストを多少採り入れることも珍しくない今日の基準からすると、ふしぎなことにやや古いスタイルといった印象をもったことも事実でした。

古楽の出始めのころは、その独善性というかピューリタン的なものを無理に押し付けられるようでなかなか受け付けられませんでしたが、さすがに最近では研究も進み、演奏としての洗練の度も増して、音楽の新しい喜びを感じるようになったということだろうと思います。

そういう意味ではマリナーもオピッツも、どこか昔もてはやされた服をまだ着ているようでもありました。

冒頭のインタビューに戻ると、「(素晴らしい作品で)弾くたびに新しい発見があります。」というのは、このフレーズはもういいかげんみんな止めましょうよといいたくなります。
それがいかに真実だとしても、あまりに言い古された言葉というものは、もうそれだけで陳腐になってしまって、素直な気持ちで聞く気になれません。この人はインタビューを受けるたびに何度このフレーズを口にしていることかと思いますし、これはなにもオピッツ氏だけではなく、多くの演奏家が判で押したようにこれをいうのは、聞いているこちらが赤面しそうになります。

でもしかし、インタビューでは「なるほど」と思う言葉もありました。
「もし客席にモーツァルトが座っていたら、ほほえんでもらえるような演奏を目指しています。」
これは実にその通りだと思いました。マロニエ君も、素晴らしい演奏、ひどい演奏に接するたびに、もし作曲者にこの演奏を聴かせたらなんというだろうかという想像はいつもよく考えてみることです。

オピッツ氏はモーツァルトではそれほどの出来とは思えませんでしたが、後半のシンフォニーへ繋ぐように、アンコールではブラームスのop.116-4が演奏されました。
こちらははるかに好ましい、じっと味わえる演奏でした。
厚みがあり、ブラームスの音楽の深いところまで見えてくるようないい演奏だったと思いましたが、この人はモーツァルトよりもこういう性格の曲のほうが合っているのでしょうね。

実際の演奏会では、本来のプログラムよりアンコールのほうが素晴らしい演奏になることはよくあることで、この事自体は珍しくもありませんし、実はアンコールで聴衆への印象を挽回する演奏家も多いだろうといつも感じています。

演奏会ではプログラムが終わると、アンコールを弾かせなきゃ損だとばかりに要求の拍手が継続することがあって、この空気は嫌いですが、実はアンコールのほうが奏者もやっと義務が終わって気分がほどけてくるのか、はるかにリラックスした、それでいて音楽的に集中した演奏をここから始めることが多いので、そういう意味ではこちらに期待するという部分があるのも事実です。
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チェロのショパン

チェロのソル・ガベッタとピアノのベルトラン・シャマユによる、ショパンのチェロ作品を集めたCDを聴いてみました。

ガベッタはフランス系ロシア人を両親に持つ人気の女性チェリスト、かたやシャマユはフランスの若手でこのところ少しずつ頭角をあらわしているピアニストという、なんとはなしにバランスの良さそうな組み合わせ。

曲目はオールショパンで、チェロソナタ、序奏と華麗なるポロネーズ、さらにはショパンと親交のあったフランショームとの合作とされる『悪魔ロベール』の主題によるコンチェルタント・グラン・デュオ、さらにはエチュードやノクターンをチェロとピアノ用に編曲したものが収められています。

音が鳴り出して最初に感じることは、ガベッタのチェロの広々とした自在な歌い方と、趣味の良いデリケートなフィギュレーション、それにつけていくシャマユのピアノの美しさです。
マロニエ君は録音のことはわかりませんが、このCDは、聴いていてまことに気持ちの良い、透明感のある美しい録音である点も心地よさが倍加します。鮮明さと残響がバランスよく両立しており、それぞれの楽器の音が至近距離でクリアに、かつニュアンスを失わずに聴こえ、まるで目の前で演奏しているかのようでした。

自宅にいながらにして、こんなに美しい音と音楽に包まれることができるありがたさに浸りながら、だから不明瞭で混濁した音を聴くばかりのコンサートなど、できるだけ行きたくないという思いがますます募ります。

ガベッタとシャマユは、こまやかな神経の行き届いた演奏でありながら、聴き手に緊張を強いるでもなく、むしろ心を和ませ、かつ細部の見通しもよいという、演奏スタイルのメリハリのつけ方としては好ましい在り方だと思います。
焦らぬテンポの中で曲の隅々にまであたたかな光が射し込むようで、決して冗長にもならず、ショパンのチェロ音楽をじっくり味わえる好感度の高い演奏だと思いました。
やはり、ショパンはフランス系の演奏家の手にかかると、いかにも作品の本質に自然にコミットしているようで、ストレスなく聴いていられる点が安心できるというか、心地よく感じられます。

中でもチェロ・ソナタがこのディスクの主役であり、演奏も最も秀逸だったと思われました。それに対して序奏と華麗なるポロネーズなどは、やや守りの演奏のような気もしました。
ピアノ作品の編曲はフランショームの手になるもので、これはこれで面白いとは思うけれど、オリジナルのピアノソロには到底およばないという印象で、まあそれは当たり前ですが。

録音は昨年の11月にベルリンのジーメンス・ヴィラで行われており、写真によればピアノは新しめのスタインウェイのようでした。それも納得で、ここで聞くピアノの音は、ともかく高いクオリティで製造され、さらに見事に調整された現代のピアノという感じで、以前のような強烈なスタインウェイらしさといったものはほとんど感じません。

いかにも今日の基準をまんべんなく満たしたニュートラルなピアノという感じでしょうか。
どこにもイヤなところがないけれど、音の魔力に惹き込まれるような、とくべつな楽器という感じもなく、新しいスタインウェイで一流の技術者が調整すれば概ねこんな感じだろうと思われるものです。
どちらかというとやや無機質で、ハイテクも必要箇所に採り入れた精度の勝利といった感じです。

素材も、むろん悪いものを使っているわけではないと思いますが、むかしほど恵まれない天然素材とコストという制約の中で、量産を前提にした最上級クラスという感じで、かつての特級品がもつ凄味とか、稀少で贅沢なものから湧き出るオーラみたいなものはありません。

現代ではまあこんな感じのところで良しとしなくてはならないのだろうと思いますが、今回、上記のような優れた録音によって感じられたところでは、低音の性質が変わったように思えました。
従来のスタインウェイの特徴のひとつが、低音域の独特の音色と美しさだったと思います。

誇張していうと、その低音には一音一音に個性があり、必ずしも均一ではないけれどずっしりと芳醇で、まるで刃物のようなしなやかさと美しさが共存していて、そこがこのピアノの最も官能的なところであったかもしれません。

その低音の特徴がやや失われ、ただ大きなピアノ特有のブワーッと鳴っているだけのものになっているのは、やはり一抹の寂しさを感じてしまいます。

現在ではドイツのスタインウェイも(いつごろからかは知らないけれど)アラスカ産のスプルースを使うようになったようで、どうも他社のアラスカ産スプルースを使うコンサートピアノと、低音の性質が少し似ているような気がするのですが…気のせいでしょうか。
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整骨院いろいろ

ギックリ腰にまつわる話題はいささかくどい気もしますが、敢えてその後のことなどを。

時間とともにずいぶん快方に向かったものの、椅子から立ち上がる際などの傷みはなかなか消えてくれません。
これは、痛めた腰もさることながら、もともと運動不足だったところへ上積みするようにおっかなびっくりの生活が続いて、さらに筋肉が落ちたためだろうと思います。
できるだけ体操などをして筋力をつけなくてはと、ささやかなことはやっていますが、それだけでは不十分でしょう。

例の整体院に見切りをつけてからというもの、ネットの口コミなどを見てまわって、ついに自宅の近所にあるそこそこ評判の整体院があることがわかりました。

ためしに電話してみると、以前のところに較べるとずいぶんさわやかな感じで、「あつものに懲りて…」ではないけれど、事前に料金を聞いてみるとずいぶん良心的な設定のようであるし、ついでに電気治療は好まないとも言ってみると「もちろんOKです」とのこと。
ならば、店(院?)を変えて再挑戦してみようかという余裕が出てきました。

まずなにより楽だったのは、車で5分ほどと距離が圧倒的に近いこと。
以前のところは15~20分ぐらいの距離で、それだけでも通うのは大変でしたから。

店に入ると、限られた空間の中に、若い整体師が数名いて、カーテンで仕切られた施術台が左右に数台ずつ並んでいるだけのシンプルな構成で、電気治療の器具のようなものはほとんどありません。一見して整体師が身体を使って治療にあたる方針というのが伝わりました。
前の院では、院内を3つぐらいに区切って、電気治療専門のスペースもあり、巨大なマッサージ器のようなものが何台も並んでいましたし、通常の施術台の脇には例の「楽○○」なる稼ぎ頭と思しき最新機器が据えられていましたから、これだけでも雰囲気はずいぶん違います。

ネットで目にしていた若い整体師がいろいろ説明した上で施術になりましたが、やってもらっている間にも次々にお客さんがやってくるし、今どきは場合によって若い世代のほうが良いこともあるという典型かもしれません。
中途半端に上の世代になると、変に大胆というか、あくどいことを欲に任せてグイグイやってしまいますが、その点は若い人のほうが今どきの生き残りの厳しさや、利用者側の心理というのにも通じているように思います。

ずいぶん熱心にやってくれて経過もいいので、すでに数回通っていますが、料金は以前の院の1/10ほどになり、そのあまりの違いに嬉しいやら呆れるやら。

以前の整骨院はさらに思い出したことがあり、はじめに携帯メールの登録をすすめられ、これをすれば何かの料金(それがどうしても思い出せないのですが)1500円が無料になるということで、云われるままにしましたが、メール登録をしなければ、初回はさらにそのぶんが上乗せされていたわけで、その料金設定は笑うしかありません。

さてその携帯メールには、すでに10通以上のメールが来ており、常日頃から自分達がいかに皆さんの身体の健康を思っているかなど、歯の浮くようなことが綿々と書かれています。

さらに、数日前はハガキまで届いて、ここしばらくお顔が見えませんがいかがお過ごしでしょう、お身体のことを心配しています、また悪くならないよう早めにお出かけください、とあり、後半は○月○日までに来院されない場合には、再度初診料が発生しますので、それを念のためお知らせします、と、親切ごかしに、だから「早く来い!」みたいなことが書かれていて、図々しいのに必死さみたいなものが滲み出ていて苦笑してしまいました。

もう二度と行かないのだから、初診料の心配などしていただかなくて結構ですよとハガキに向かって言ってやりました。
それにしても同じ整骨院という看板を掲げていても、これほど甚だしい差があるというのは驚きですね。
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優柔不断に

我がディアパソンは、度重なる調整の甲斐あって、かねてより懸案であった軽快なタッチが達成できたことは大願成就というところでした。
繰り返えすようですが、技術者のもつ技術力に加え、各ピアノにはメーカーごとの個性や癖があるため、それを熟知した技術者さんの手に委ねるかどうかで結果は大きく違ったものになることをあらためて認識したところです。

仕上げには音色も整えていただいたことで完成度を増してくると、これまであまり感じなかった部分が見えてきて、我が家のディアパソン210Eの場合は、鳴りというかパワー感がやや不足気味という面を感じるようになりました。
一部例外を除くと、多くのピアノはオーバーホールすることで鳴りが悪くなることがよくあるようで、それなのか、もともとこのモデルがそういう性格であるのか判然としないものの、できればあとちょっとだけ鳴りの豊かさみたいなものがあればなぁというのが偽らざるところです。

この点を技術者さんに相談しますが、「ではまた見てみましょう」と快く言ってくださいます。
しかし、これはピアノとして根本のことだとも考えられるので、例えばすでにやっている弦合わせや整音をくりかえしても、それで解決できるとも思えず、結局まだお願いするには至っていません。

あえて単純な言い方をすると、ピアノ技術者がピアノにほどこす各種の作業というものは、煎じ詰めればタッチや音程や音色などの「乱れ」を細心の注意をはらいながら「整える」ことに尽きるだろうとマロニエ君は思っています。
その整え方に、技術や経験が問われ、限りない深さがあり、ひいては技術者各人の人柄やセンスまで表れる匠の世界というのは間違いありませんが、しかし設計者や製作者ではないということも事実でしょう。

ピアノ技術者(つまり調律師)はピアノのコンディションを最良最善の状態へと整えることが仕事のメインであって、楽器が生まれもっている個性やポテンシャルそのものは、さすがの技術者も変えることはできない(だろう)と思うわけです。

よってこの点は打つ手はないだろうと半ばあきらめ気分でいたわけですが、あるときのこと、ネット上で不思議なものを見つけました。

いちおう固有名詞は避けておきますが、それは、もう一歩ピアノが鳴ってくれないと感じるピアノをより鳴るようにするための器具だと説明されていました。
写真をみると「貼るだけのお灸」みたいな形で、木と金属で作られているもののようです。
これを響板とフレームの間へ差し挟むことで響板の響きをフレームへ伝達させ、ピアノをより一層鳴らす効果があるといいうものだとか。

これは果たして、ヴァイオリンの魂柱みたいなものなのか、あるいはスタインウェイのサウンドベル(これが正しく何なのか未だにわかっていないのですが)のような理論のものなのか…。それはともかく、もしもそれで一定の成果が得られるのなら一つの方法かもしれないと思ったわけです。

販売元は関東のピアノ工房のようでしたが、電話で問い合わせたところでは、効果は確かに「ある」とのこと。ただし、それは人によっても感じ方は違うでしょうし、ピアノによっても相性や効果の大小相違はあるのではと思いました。

価格は税込み32400円で、取り付けも出張のついでなど都合が合えば合計で4万円ぐらいとのことでした。
効果があって満足が得られればいいけれど、もしそれほどでもないと感じた時にキャンセルができるかどうかとなると、雰囲気的にそれはできないようでした。

きもち変わったかな?…というぐらいで、それ以上ではない場合、むしろこちらの耳が悪いから…みたいな展開になるのも心配ではあるし、たとえばインシュレーターでも安物と高級品では響きが違うといえば違うけれども、その違いは非常に微妙なものでしかないのがほとんどです。
ようするに最悪の場合、費用というか投資はいっさい無駄になることも厭わないという覚悟をしなくちゃいけないわけで、利用者や客観的な情報の不足もあって、ひとまず保留にしました。

ちなみに、器具を差し込むというあたりのフレームの穴から指を入れてみると、響板とフレームの隙間はせいぜい2cmあるかないかぐらいで、そうすると写真で見たそのパーツは、女性のイヤリングの片方ぐらいであることがわかります。
一概に、モノの値段は小さいから安い、大きいから高いというものでもないけれど、確認もできないまま購入するしかなく、その結果がはかばかしくない場合でも返品がきかないとなると、かなり迷ったのですが、ついに最後の決断がつきませんでした。

弦やハンマーのように、一度使ったら二度と売り物にならないような商品なら、キャンセルできないというのもわかるのですが…。
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雪の爪あと

1月最後の週末は、全国的に記録的な大雪でしたね。
ふだん雪とはあまり縁のない福岡も例外ではなく、土曜の夕刻から降り始めた雪はそのまま街全体を真っ白にしてしまうまで、しんしんと降り続きました。

雨と違って不気味なのは、雪には音がないところです。
まったく足音を立てずにやってきて、すべてのものを別け隔てなく純白に覆っていくさまは、とりわけ西日本の人間には馴染みがないため、打つ手もありません。

深夜、何度か玄関のドアを開けては外の様子を伺いますが、眼前に広がる景色は0時あたりで早くも「ここは北海道か?」というまでの立派な雪景色に変わっており、人の往来もほとんどありません。
日頃は車の出入りも多い向かいのマンションも、ぱったりと動きが止まり、周辺は異様なまでの静けさに包まれました。
結局丸2日間、ただひたすらエアコンやヒーターの風の無機質な音ばかりを聞いて過ごすことに。

それでも所詮は九州、大雪といってもそういつまでも降り続くことはなく、待っていれば必ず溶けていくものです。
火曜には少しずつ車も動き出し、我が家の前の道もしだいにアスファルトの黒い地肌が見えてきましたが、両側にはまだまだ雪の残骸が残っています。

これでようやく終りかとおもわれ、おそるおそる車に乗り始めます。ところがそれからのほうが、雪の残していった爪痕をあらわに感じることに。
まず、車が情け容赦ないまでに汚れてしまうのには参りました!

これほど自分の車が盛大に泥色になったことは記憶にありません。
ネット動画で、ロシアや中国などの車がドロドロに汚れているのを見たことがありますが、まさにあの種の汚れ方で、白くてきれいで風情があるはずの雪の現実はこんなにも汚いものかと今ごろわかります。

さらに幹線道路などでは融雪剤をまくため、その薬品なのか、単なる泥や砂なのかわからないけれど、タイヤが巻き上げる砂や異物のようなものがフェンダー内部に当たってチリチリパチパチと走っている間じゅう音を立てるのも嫌な気分です。

もうひとつ驚いたのは、大きな通りでは路面がザラザラになってしまっていることです。
タイヤチェーンによってアスファルトの滑らかな表面が削られているようで、とくにひっきりなしに行き交う路線バスの巨体が押し付けるチェーンの傷は痛手だったようです。
タイヤからのロードノイズが増しているし、ハンドルにもこれまでにない微かな振動が伝わります。

これは報道などでは云われないことですが、積雪による道路の傷みというのはおそらくすさまじいものだろうと思います。それでも、ひと雪でどれほど道路が損傷を受けるかというあたりは、きっと触れないことになっているのでしょうが、ものすごい被害だと思います。
というわけで雪は高いものにつくということを一つ勉強。

そうそう、高いというので思い出した安い方の話。
つい先日のこと、行きつけのスタンドにガソリンを入れにいったら、なんとハイオクが103円/Lとなっていたのには思わず声が出てしまいました。
このところ原油安がしばしばニュース等の話題になりますが、さすがにこういう価格になるとそれを肌で感じるものです。

いつごろであったか、じわじわと高騰が続き、これはもしかしたらリッター200円にもなるのでは?と思ったときもありましたが、世の中の動向というのはわからないものです。
これを見通して、投資などをする人達もいるのでしょうから、わかる人にはわかることかもしれませんが…。

アメリカのシェールオイルが一定のコストがかかることに対抗して、サウジアラビアが原油価格を下げることで対抗しているとか、エネルギーの巨大消費国である中国の景気減退の煽りによるものだとか、さらには世界的に将来を期待される再生可能エネルギーの開発を遅らせようという中東地域の思惑でもあるというような諸説があるようです。
きっとどれも事実でしょうし、それらが複合的になった結果なんだろうなあと思います。

いずれにしろ、なんだか不気味な安さです。
そりゃあもちろん、いま自分が必要とするものが、目の前で安いのは直接的には歓迎ではあるものの、この安さはなんとなく気持的に不安感を伴うというか、素直に得したと喜ぶ気持ちにはなれない危なさを感じてしまいました。

世界情勢は流動的で、ここ当分は不安定な状況が続きそうな気がします。
嫌なことが起こらなければいいですが…。
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田崎悦子

BSクラシック倶楽部で、昨年11月に東京文化会館少ホールで行なわれた田崎悦子ピアノリサイタルの模様が放送されました。

田崎悦子さんの実演は聴いたことはないのですが、CDは何枚か持っていて、バッハのパルティータなどは厳さの中に鬼気迫るような生命感が満ちていてとてもよく、ずいぶん聴いたCDでした。

このところCD店で目についていたのは、この方の新譜で、なんとブラームスのop.117/118/119、ベートーヴェンのop.109/110/111、シューベルトのD.958/959/960というこの上なく濃厚な作品を集め入れた、4枚組のアルバムでした。

なんと思い切ったCDか!というのが正直な印象で、昔ならこういう選曲はよほどの大家でもできなかったことかもしれません。
同時に、この三人の作曲家最晩年の象徴的な傑作ばかりを、3つずつ組み合わせて並べましたという、音楽的必然性のなさが見え隠れする印象もないではありません。
でもまあ、これはこれで面白いので、本当なら買ってみたいところでしたが、6480円ともなると安くもないし、それでも敢えて買うにはよほど内容に期待できるところがなければ…という面があり、まだ買っていないところにこの放送でしたから、まさにうってつけのタイミングだったわけです。

まずはベートーヴェンの最後のソナタ。
ステージにあるピアノはベーゼンドルファーのインペリアルで、これまでの田崎さんの、どこか自分を追い込んでいくような熱っぽい演奏の印象からすると、この選択は「???」という感じでしたが、その杞憂は開始早々現実のものとなりました。

冒頭の激しいオクターブとそれに続く和音は、なにやら虚しく、ずいぶんと頼りなげにほわんと響きました。
正直いうと、このベートーヴェンは少し予想外で、CDをリリースするからにはよほど手の内に入った、説得力のある演奏が期待できるのだろうという気がしていたのですが、少なくとも111では熟成不足という印象を免れないものでした。
また意外なことに、技術的にもずいぶん危なっかしい場所が散見され、この崇高なソナタを堪能するまでには至らなかったというのが正気なところ。それに追い打ちをかけるようにベーゼンの先の細い体質が浮き彫りとなり、残念ながらベートーヴェンの作品の姿を描ききることが苦手なように感じました。

ピアニストとピアノ、いずれの要素によるものかはともかく、何かが表現として伝わってくることはないまま、どこかハラハラさせられながら111は終わりました。

それが多少なりとも挽回したのは、時間の関係で第一楽章のみだったシューベルトのD.960で、ベートーヴェンに較べてはるかに自然で弾き込まれている様子がみなぎります。このピアニストの奥深いところまでこの作品が根を下ろしていることがわかり、印象は好転しました。
暗譜と練習成果に依存するのではなく、弾き手に作品が深く刻み込まれているおかげで つぎつぎに曲が自発性を持って展開します。

さらにはピアノもシューベルトとベーゼンは仲がいいようで、ベートーヴェンのときに感じたようなハンディはずっと後方へ退きました。

ベーゼンドルファーというピアノは、それ自体とても魅力的で個性的で、その丁寧な造りには工芸的な美しささえあるけれど、これ一台で演奏会をまんべんなくカヴァーしていくのは難しいなぁ…という気がしてしまうのは、今回も例外ではありませんでした。
この楽器でなくては出せない美しさや絶妙のニュアンスがあるのは確かだけれど、同時にダイナミクスやオーケストラ的な広がり、モダンピアノに求められるパワーやメリハリなど、多くの制限制約を受けることも実感させられます。

田崎さんはいわゆるハイフィンガー奏法なのか、いつも手の甲を立て、指はハンマーのように忙しく上下する様子は、思えば、昔の日本人はみんなこんな弾き方をしていたなあと、まるで昭和の思い出にふれたような懐かしい気がしました。
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うらがみ

わずか2回で整骨院通いをやめてしまったマロニエ君でしたが、その2度の施術が功を奏したのか、あるいはちょうどそういう時期に差し掛かっていたのか、このところ少し良くなる方向へ進んでいるようです。

これまでは椅子にすわる姿勢はもちろん、立ち上がる際には細心最大の注意が必要でしたし、わけても車から「降りる」ときは、それこそ切腹でもするみたいに決死の覚悟でしたが、それがいまでは、もちろん注意は必要ですが、以前の半分以下の痛みと労力で済むようになりました。

車中から意識して見ていると、整骨院のたぐいは街中の至る所に存在しており、その数にはいささか驚きました。これまでは意識したこともなかったけれど、ああも乱立すれば激しい競争に違いまりません。

さて、例の高額な電気治療ですが、機械の名前を覚えていたので、ネットで検索してみたところすぐにその発売元のサイトがあり、なんとそこには
「○○○導入で売上100万円超を実現」
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「中には売上200万円以上を達成した院も」
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「新しい自費メニューの導入は面倒だが売上を上げたい院(にオススメ)」

などと色とりどりの大文字で書かれていて、これを見ることで爽やかになるぐらい事情は飲み込めた気分です。

だとしても…毎回あの値段というのは、やり過ぎというものです。
何事もさじ加減というのは大事で、そのあたりプロの商売人ならどれぐらいにするか、客側の心理面なども勘案していい線を導き出すのでしょうが、そこがただの欲深いだけのシロウト感覚で決めてしまうのでしょう。
マロニエ君も、もしあれが半額だったら腰痛を治したい一心から、しぶしぶ通っていたかもしれませんが、毎回5000円強ではあれこれと懐疑的になるチャンスをいやでも与えてしまったようなものです。

しぶしぶならまだ相手を「信じよう」と努めるものですが、懐疑的になったら「疑おう疑おう」というふうに考えは向かってしまいます。
逆にいうと、だからそのおかげでサッパリご縁が切れたということでもあるわけです。

ちなみにこの機械を導入している他の院の料金はどれぐらいか調べてみると、おおむね3000円前後というのが多く、回数券の設定があって、3回5回10回となればさらに一回あたりは安くなるという仕組みのようです。

ところがマロニエ君の行った院ときたら、そんなものは一切無しで、毎回税込み4320円請求するのですから、小さなところなのに大した度胸だなぁと思います。昔だったらいざ知らず、今どきは誰でもネットでいろんなことが簡単に調べられるわけで、いくら強欲でも、もう少し慎重であるべきだったようです。

そういえば今回、はじめに治療計画を聞かされる際、ちょっとおかしなことがあったのを思い出しました。
その整体師は紙に書いてこちらに説明するため、アシスタントのお兄さんに「紙とってぇ」と言いました。お兄さんはハイといって、すぐに棚からコピー用紙を一枚とって整体師に手渡します。
ところが整体師は「これじゃない」「うらがみがあるから」と言われてお兄さんはキョトンとしています。
すぐに通じないので整体師はせっつくように「うらがみ!うらがみ!」「?」「その下にあるから!」というと、お兄さんが焦りながら探していると、「そこじゃない、その上!」などとやや声を荒げたあげく、ついに求める紙が手渡されました。

なんとそれは、コピーかFAXの使用済みの紙を捨てずにとってあるものらしく、うらがみは「裏紙」なんだということがこのときはじめてわかりました。
内々でメモにでも使うのならともかく、これから「腰を痛めたカモに」向って高い治療費の説明をしようというのに、コピー用紙一枚さえ惜しいとはなんなのかと思いました。

誰もが知るように、今どきA4のコピー用紙は500枚包で300円しません。
一枚あたり0.6円以下なわけですが、それを他人というか、いわばお客さんの前であれだけおおっぴらに倹約し、出した紙を突き返してまであえて裏紙を使うという行為にも驚きました。
ただ、それと、人から30分の電気治療だけで4320円せしめるというのは、実は同じ精神構造から出るものだろうと思います。

ま、それだけマロニエ君もマヌケだったということでもありますが、人の弱みにこうも容赦なく付け込むという行為はやはり容認はできません。
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チョ・ソンジン

昨年のショパンコンクール終了からひと月足らずと思われる11月20日のN響定期公演に、優勝ホヤホヤのチョ・ソンジンが出演して、ワルシャワで弾いてきたばかりのショパンのピアノ協奏曲第1番をさっそく東京でも披露していたようです。

Eテレのクラシック音楽館の録画で、その模様を視聴することができました。
指揮はウラディーミル・フェドセーエフ。

マロニエ君の個人的な印象では、とても良心的なピアニストだろうとは思うけれど、さて、この世界最高のピアノコンクールの優勝者にふさわしい「なにか」を感じとることができたか?というと、残念ながらそれはできなかったというほかはありません。

技術的にも音楽的にも、突出したものはないし、あれぐらい弾ける人は今どき珍しくはないと思ってしまいます。
ではそれ以外の個性であるとか、芸術的センスのようなもので勝負するタイプかというと、これも特段そうとも思えません。番組冒頭に、この人の経歴が字幕で出ましたが、チャイコフスキーやルービンシュタインで3位とあり、まさにそのあたりが妥当なところだろうというのが率直なところでした。

では、なぜショパンコンクールの優勝者となったのか、それはマロニエ君などにわかるはずもありませんが、コンクールというものは、スポーツと同じでその時その場の演奏で決着する勝負であって、時の運という面も大きいので、本人の出来不出来のほか、ライバルの顔ぶれによっても結果は大きく左右されるのでしょう。

過去に二回続けて優勝者不在という事態が起こっていらい、必ず優勝者を出すことがコンクールの固い方針となったというのも聞いた覚えがあり、昔のように大物ピアニストになりうる逸材を発掘し、ここから世界に送り出す場ではなくなったのだということをいまさらのように感じました。

チョ・ソンジンは潜在力としても軽量のピアニストだと思うし、とくにショパンの解釈や表現に関しても他の追随を許さぬものがあるわけでもなく、あくまで中庸を行く人でしょう。この人でなくてはならないという積極的理由が──マロニエ君の耳がないからかもしれませんが──ついに見つけられませんでした。

第二楽章がきれいだったと思いますが、なんとはなしにゆっくりした曲調がちょうど彼の波長に合っているようで、とくに決定的な要素とか、わくわくさせられるようなものとも違います。

むしろ細かい表現とかアーティキュレーションは、どこか学生っぽいというか、煮詰まっていない面を感じますが、ともかくこれみよがしではない正直な人柄みたいなものが漂うところ、見た感じのいかにも真面目で良い子のイメージそのままに、演奏にも決定的に嫌われるような要素というか、悪印象がないところがこの人の特徴だろうと思うしかありません。

好みを別とすれば、前回のアヴデーエワのほうがそれはもう断然大器で、彼女の場合は、まあいちおうは優勝したことが納得できる気がします。

時代は刻々と移ろい、いまショパンコンクールの優勝者に何が求められるのか、マロニエ君にはわかりませんが、演奏家というか芸術家に必要とされてきた個性や輝き、ときにエグさのようなものよりも、クリアで嫌味のない、平和な鳩みたいな演奏が好まれるのかもしれないと思うと、なんだかつまらない気がします。

ショパンコンクールの直後であるだけに、そりゃあやっぱりショパンをアンコールで弾くのだろうと思っていたら、案の定、拍手の中ピアノの前に座りました。ところが、弾きはじめたのはなんと24のプレリュードから最も地味で最もアンコールに期待されないだろう第4番であるのには、正直云っておどろきでした。
あとから、もしやホ短調ということで、協奏曲と調性を合わせたのだろうかとも思いましたが、ちょっとセンスがあるとは思えませんでした。

また、よくないことばかり言うようで恐縮ですが、ピアノがとってもヘンだと思いました。
おそらくNHKホールのスタインウェイだろうと思いますが、中音から次高音にかけて、アタック音ばかり目立つ伸びのない音で、実際の会場で聞いたわけではないけれども、まさかあれがショパンを意識した音作りというのなら、こっちが耳を洗って出直さなくちゃいけないでしょう。

ピアノもピアニストも、いろんな表現や在り方があふれるのは結構なことですが、それでも、いいものはいいのであって、価値観や好みを超越して輝くという一点だけは信じ続けたいと思うところです。
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いくらなんでも

しばらく耐えていればじきに治まると思っていたぎっくり腰は、やや長期戦に突入してしまいました。

とりあえず正月休み明けに近くの整形外科に行ったところ、レントゲン写真を何枚も撮られ、電気治療や痛み止めの注射などをされて、コルセットや湿布、飲み薬などを与えられました。

いらい一進一退を繰り返しながら約3週間経過したものの、椅子から立ち上がる際などに強い痛みが続き、ついに整骨院へ行ってみることにしました。以前行ったことのある整骨院で、そこ以外に知らなかったこともあり、数年ぶりに行きました。

はじめ、アシスタントみたいな男性が体の歪みをチェックするということで、衣服の上から数カ所丸いシールを貼られ、写真を数枚撮られます。しばらく待つと、呼ばれてモニター前の椅子に座るようにとのこと。
そこに写しだされた写真の上には二三本の線が引かれており、本来水平であるべき線が腰のあたりと肩のあたりで、それぞれ傾斜しており、一見して水平でないことがわかります。
すると、その男性は「これは…かなり…」などと言い、さらにはそれを見るためにやってきた整体師が「おーぅ、これはレアなケースですねぇ!」などと不安な言葉を口にします。

すかさず治療の段取りとなり、このままではいけないので歪みから直して…かくかくしかじかと、準備されたメニューみたいなものを示しながらテキパキと話は進みます。
ついては電気治療が必要ということで、これがなんと4000円の由。
否応ない状況で「どうされますか?」と聞かれても、どうもこうもないわけで、4万円なら断るでしょうが、とにかく痛いのをなんとかしたいという一念から、やむなく了承することに。

施術台に仰向けになると、ゴムシートのようなものを腹部にペタペタ貼り付けられて、それを機械と繋いでスイッチを入れるとジンジンするような刺激が走ります。これを30分間やって、そのあとにいよいよ本来の整体らしき施術に入りました。こちらは10~15分ぐらい。
終了後はたしかにスッキリなって、これまでは立ったり座ったり、あるいは朝ベッドから出るのもびくびくでしたが、はるかに楽に体が動くようになったことは事実です(時間経過とともに元に戻りますが、一時的でも気分はいい)。

マロニエ君の印象としては、電気治療ではなく、そのあとの整体術によってすっきりしたように感じましたが、終わった後も、さんざん電気治療の重要性と、それを続けることの大切さを繰り返し説かれます。
また、治ったと思って、治療をやめるとこうなるというような図などもたくさん見せられ、とにかく継続的にかよって治療を受けることが必要なんだと、ほとんど反抗できないような空気の中でこれを言い続けられます。
むろん心底から納得はしていなかったけれど、少しはそうかも…とこのときは思いました。

支払いは初診料が2000円弱、電気治療と消費税で合計6200円ほど請求され、さらに、「間を置くといけないので始めのうちは、できるだけ毎日来てください」と言われますが、平日にそんな時間もないし、だいいちこの料金じゃたまりません。

仕方なく翌日もう一度行くと、やはり電気治療30分と、今回は10分ぐらいの整体で、このときは5200円ほど。
しかも帰りには必ず次の予約を迫るので、あいだに一日おいてしぶしぶ応じましたが、やはりこれはおかしいのではと思いました。電気治療は、要するに器具を身体にパパッとセットしてスイッチを入れると、あとは機械任せで、カーテンの向こうからは雑談やテレビの音が聞こえてくるだけ。
整体師が手や身体を使ってもんだりほぐしたりやってくれるのでもなく、なんでこれが4000円もするのか納得がいきません。

ここ、昔はもっとせっせと身体をもみほぐしてくれていたのですが、その時間はずいぶん短くなっているし、そういえばお客さんも以前に比べてずいぶん少ない様子。
それに、いつまでかかるかもわからないものを、行くたびに5000円強というのでは財布もたまらないし、なにより整骨院側のカモにされているのでは?と思うと、腹立たしさがふつふつと湧き上がります。

そこで、専門は違うものの知人の医師に電話してこのことを聞いてみると、彼は「あくまでも個人的な意見」としながらも、自分は整体などは信じていないので、これまで一度も行ったことはないし、とりわけ電気治療は「まやかし」だと断言しました。

整体そのものは、たしかに整体師はからだの要所要所のことを知っているので、施術によって一時的に痛みが取れたり、固まった筋肉がほぐれて楽になったりという事はあるとしても、それは肩がこったときにマッサージするのと基本的に同じであって、電気治療に至ってはあんな外的要因でぎっくり腰が治るなんてことは「ぜったい無い!」と云われました。

ここまで聞くと、疑いは一気に確信へと変わり、もう二度と行くものかときっぱり決断できました。
予約だけはキャンセルしないといけないので、電話で「風邪をひいたのでとりあえず明日はキャンセル」してほしいと告げると、「わかりました、お大事に。」だそうで、まあそう言うしかなかったのでしょうね。

つくづく世の中油断できないと身にしみました。
よい授業料だったと思うことに。
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暇つぶしツール

ショップでタブレット端末を受け取る際、基本的な使い方というか、メールがこうして、アプリのダウンロードはこうするというふうに、主なことは一通り聞いていたはずなのに、いざ自分でやろうとするとよくわかりません。
それをなんとか手探りしてでもどうにかしようという意欲が湧いてこないところが、やっぱりマロニエ君はこの手の楽しみには向いていないのかもしれません。

慣れない画面を触って思い通りに動かせない状況は結構なストレスにもなるし、いざとなればどうしても自分なりにサクサク使えるパソコンへ逃げ込んでしまいます。

とりあえずはじめの1週間はほとんど触るのも嫌で過ぎてしまいましたが、やっぱりせっかく契約したわけだし、むろんタダでもないわけだから、やはり少しは使えるようにならなくてはもったいない!と思って触ってみますが、現時点ではあまり進展はありません。

それでもYahooやGoogleの検索画面の出し方がわかったので、出先で何かを見たり調べたりすることはできるわけで、なにも無いよりは大変便利になったことは確かですが、ここで留まっては宝の持ち腐れなので、そのうち誰かにレクチャーしてもらわなければと思っています。
いずれにしろ、いうなれば世の中の景色さえ変わるほど、スマホとは、どこがそんなにも魅力的で楽しいのか、その片鱗ぐらいはいつか知ることができるかどうか…ま、知る必要もないのだけれど。

ゆいいつ便利だったのは、ぎっくり腰で病院に行って待たされているあいだ、これを触っていると待ち時間もさほど気になることもなく過ごせたのは事実で、なにかと「待つ」ことが必要な場合には、これまでより退屈せず過ごせることは、たしかにこれは有効なおもちゃかもしれません。

いっぽう、先日も「これだからスマホはイヤなんだ…」と思うことがありました。
車の仲間の集まりがあって、このときは少人数がファミレスで会したのですが、5人中、ガラケーユーザーはマロニエ君を含むふたり、残る3人はスマホでしたが、ふと気が付くとスマホユーザーはいつの間にか押し黙って端末をいじるという場面が何度もありました。
べつに話を無視してスマホに熱中しているわけではないものの、折々の話題や情報を逐一ネットで確認しているらしく、そのつどスマホをいじってはその確証を得たように、あーこれね!という具合にやるわけです。
マロニエ君にいわせればべつに今しなくてもいいことにしか思えませんが、彼らは「今」が大事なんでしょう。

もちろん事と次第によっては、正確な情報を必要とする場合も稀にはあるけれど、大半はどうでもいいようなことを、いちいちスマホ操作のために話の輪から抜け出すのは、内心「またか…」という感じです。
それに、よほど若い世代の超絶技巧の持ち主なら知りませんが、普通スマホの操作というのは、本人は集中しているのでそれがわからないらしいのですが、周囲にとっては結構時間がかかって鬱陶しいものです。

繰り返しますが、本当に検索の必要のある場合は別ですが、多くはどうでもいいような事。
さんざん時間をかけてようやく出てきた画面はというと、小さくて、見にくくて、こちらも「へえ」とかいって見るふりはしますが、ほとんど意味を感じません。
やっぱりスマホ使いというのは即検索することが快感で、それをしなきゃ自分が落ち着かないんでしょう。

また、別の言い方をするなら、会話のいちいちを裏取りされているようで、あたかも人の言葉だけでは不安で、それをネット上で確認できてはじめて認定するみたいな流れでもあり、ちょっとヘンな感じです。

実はこのとき、バッグの中にはタブレット端末を持っていたので、ついでに使い方を聞くこともできたわけですが、そこでさらにそっちの世界に話題が傾いていくのもどうかと思い、ついに出さずじまいでした。

それはそうと、もともと機種変更する理由のメインであったバッテリーの保ちに関しては、予想以上の違いで、やっぱり新しいものはさすがだと感激しています。
これまでより何倍もタフになり、マロニエ君の使い方なら、充電は3日に1度でも余裕ですから、こんなことならもっと早く買い換えておけばよかったと思います。
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機種変更のつもりが

マロニエ君がスマホを避けて、未だにガラケーユーザーであることは折にふれて書いてきたよう記憶しています。

スマホそのものを否定しているわけではないし、便利な点ももちろん多かろうと思いますが、なにしろ、世の中どこもかしこもスマホをいじりまわす人々であふれかえり、その機能を云々するより先に、あの光景とスタイルが嫌になってしまったのが正直なところでした。

信号停車中、よく見るバス停などはいつ何時でも、待っている人達の2/3ぐらいはほぼ間違いなくスマホをいじっているし、とにかく、ありとあらゆる場所で、なにがそんなに緊急なのか、楽しいのか、必要なのか、暇つぶしなのか、ただ触りたいのか、そうしないと落ち着かない依存症なのか、理由はよくわからないけれども、目にする人間がみなあの姿形になっているのがうんざりなのです。

だいいち電話するには二つ折りのガラケーのほうが機能的であるし、ポケットに入れるにも、どうもあの中途半端なサイズのスマホは向かないようで、そういう使い方はできない気もします。

それと、マロニエ君は必要とあらば日中でもパソコンが使える環境にあるので、わざわざケータイ端末をパソコン化する必要もさほどなかったということもあるでしょう。要するに自分の日常の中で、とくにスマホが必要という差し迫った事情もないことがガラケーを使い続ける最大の理由だったかもしれません。

ところが、使い慣れたガラケーも5年も経つとバッテリーの寿命が短くなるようで、とくにここ1年ほどは、何回バッテリーを新品に替えてもひと月もすると目に見えて充電が保たなくなりました。
正しくいうとバッテリーの寿命というより、機械自体の電力消費が激しくなるということかもしれません。

それでとうとう機種変更すべく、ショップにいくことに。

予想していたことではあれども、ラインナップの大半はスマホが当然のように陣取っており、ガラケーの展示品は無いのかと思ったら、かろうじて隅の方の一角に申し訳程度に数種類があるのみで、その肩身の狭さは思わず笑ってしまいます。昔にくらべると選択肢も遥かに少く、そのぶん選ぶのは楽になったという印象。

ショップの店員さんも、さりげなくスマホにする意向はないのか聞いてはきたけれど、決して強くすすめてくるようなことはなく、ガラケーユーザーにはそれなりの信念があると理解しているようでもありました。
ただ、あれこれの話の中から、ガラケー+タブレット端末という組み合わせもあるということを知りました。

だいたい、スマホのあの小さな画面をちょこまかいじると思っただけでうんざりしていたマロニエ君は、その3~4倍ぐらいありそうなタブレットならいくぶん楽だろうと思ったし、料金も、この2台の組み合わせでもスマホ1台より若干安いというので、ここでちょっと「ふーん…」とは思いました。

たしかに出先などで、ちょっと調べ物とか情報を取りたいなどの場合、スマホがあればこういうときいいだろうなぁと思うことが、めったにはないけれど、ごくたまにあることも事実。
そういうわけで、マロニエ君としてはケータイが従来通りのガラケーで、タブレットと使い分けが可能という点でちょっとだけ心が揺らいでしまいました。

決定的だったのは、じゃあ見るだけ見てみようかというわけでタブレットを見せてもらうと、なんとそれはiPadで、昔からのMacユーザーでアップル製品に弱いマロニエ君としては、この時点でかなりその気になってしまったのは、自分でもまったく思いがけない展開でした。

あのアップルマークを見ると、なんだか急に欲しいような気分が湧き上がってきて、ついにはこれを契約してしまうことになりました。店員さんに確認したところ、スマホとタブレットの違いはというと、たったひとつ「電話をする機能」なのだそうで、それ以外はなんらスマホと遜色ないのだそうです。

というわけで、自分でも甚だ意外なことでしたが、ガラケーの機種変更をするつもりが、なんのことはない帰りはしっかりiPadをお持ち帰りという次第になってしまいました。
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いさぎよさ

CDを購入する際、昔は作品や演奏家に重点をおいていたものですが、最近は特にこの人という演奏家もめっきり減ってきたこともあり、レーベルや使用ピアノ、録音場所などで選んでしまうこともしばしばです。

以前、たまたまネットで購入したエデルマンのショパンは、レンガ積みの建物のような演奏に加えて、ピアノの音がえらく鮮烈でインパクトがありました。ショパンの演奏としては理想的とは言いがたいけれど、聴こえてくる音には近ごろは絶えて聞かれなくなった輪郭と力強さがあり、このCDには不思議な魅力がありました。

あとから知ったことですが、収録場所である富山の北アルプス文化センターにあるスタインウェイは評判がよく、レコーディングにも多く使われていることを知り、大いに納得したのは以前書いた記憶があります。
そこで二匹目のドジョウよろしく、同じ会場/ピアニストによるシューマンも聴いてみたところ、こちらはさらに打鍵が強烈で、残念ながらマロニエ君には楽しめないものでした。

そこで、やはり北アルプス文化センターで録音された菊地裕介さんのシューマンを買ったところ、演奏も清流を泳ぐ魚のようであるし、なにより音がきれいでみずみずしいことはエデルマンの比ではありませんでした。

演奏も好ましいもので、ひたすらピアノの音の美しさを楽しむ最良の一枚となり、ずいぶんと繰り返し聴いたものです。
曲もダヴィッド同盟とフモレスケという質・規模ともにシューマンのピアノ曲の中でも、最上級に位置する作品でしたが、あんまり聴いているとさすがに別のものも聴きたくなるのが人情です。

そこで菊地さんのディスクを探したところ、同じ会場で録られたベートーヴェンのピアノソナタがあることが判明。
とりあえず「ファンタジア」と銘打たれた2枚組は、初期の傑作である第4番からはじまり第9~15番までの8つのソナタが入っています。

第4番冒頭から、やや早めのテンポでスイスイと弾き進められ、重厚さを伴った伝統的なベートーヴェンのソナタ演奏とはまったく異なり、テクニックに任せてあまり深く考えることなく次々に音符が処理されていくといった印象を持ちました。ひとつひとつの意味や表情を深く掘り下げて思索的かつ深刻なドラマとして捉えるのではなく、いかにも現代的な軽さと流麗さが支配しており「ああ、この手合か」といささか落胆しました。

しかし、このCDを買った目的は好ましいスタインウェイの音を楽しむことだったと思い直します。演奏のディテールは気にしないことにして、とにかく音を楽しむことに意識を切り変えようとしますが、人間というのは皮肉なもので、演奏に集中しようと思うと楽器の音が気になるし、楽器の音を楽しもうとすれば演奏の在り方が気にかかるのです。

それでも仕方なしに一枚目を鳴らしていると、しかし不思議な事に、このえらく快適な感じのベートーヴェンを聴くことに不思議な気持ちよさが加わり、これはこれでそう悪くはないのでは…と感じ始めました。そのひとつは表現に嫌味や不自然な点がまるでなく、技巧が上手いといって、ただ弾けよがしに弾いているのでもない、終始一貫したひとつの世界が構築されているらしいことが時間経過とともに伝わってきたのです。

と、あらためて耳を凝らしてみると、この人、今どきのテクニック抜群のピアニストの中でも、さらに頭一つ出た相当上手い人だと思えるし、音符を執拗に追い回して、無理に意味をもたせ、それによって全方位的な評価を得ようといったような企みがないらしいことがわかりました。
前例に囚われることなく、「ぼくはぼく」とばかりに正直に自分の感性の命じるままに弾いているようで、しかも表現に芝居がかった偽装の跡がなお。そこが逆に純粋で俗っぽくないという感じを受けたわけです。

マロニエ君は折に触れて書いているように、音楽家のくせに、不感症のアスリートに近いような演奏家が、音楽を「感じている」ようなフリをした演奏が大嫌いです。それはウソの行為であり、いわば演奏上の卑猥さという気さえするからです。

その点でいうと菊地さんのピアノは、まず自分がこういう演奏がしたいというメッセージがはっきりしており、聴く者を心地よい音楽の世界へといざなってくれることがわかりました。そういう意味でひじょうにナチュラルな演奏ですが、同時に目的が明快で、あれもこれもという欲がなく、魅力を特化したとても勇気のある演奏だと言えると思います。

一見無機質な音の羅列に見える危険もある中、さにあらず、聴く者に音楽の心地よさと喜びと提供できるのは、菊地さんが虚飾を排した涼しい演奏に徹しておられるからこそだと思います。

音楽で虚飾を排するというと、だいたい質素なオーガニック調で、冒険を排し、全体に小さめの音で演奏しているだけ。あれこそ上から目線で、抑制していることを見せつけるイヤミな演奏だったりします。

まずは楽しめなくてはそもそも音楽の存在意義が問われることにもなりかねません。
情報過多の時代において、とりわけクラシックでは古典主義がいまだに中央を陣取っており、これも一度は通過することは意味が大きいと思いますが、清潔と安全管理が行き過ぎると、音楽の持つ恍惚感など本能的な魅力や創造性が失われ、どれもこれもが取りつくろった建前のような色合いを帯びてしまいます。

菊地さんのピアノを聴いていると、彼なりのスマートなやり方で、そういう間違った道筋に警鐘を鳴らしておられるような気がしてしまいます。
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瀬戸内寂聴

NHKによる瀬戸内寂聴さんのドキュメンタリーが(たぶん再)放送されたのは年末でしたか…。
「いのち 瀬戸内寂聴 密着500日」と題する、御年93歳の僧侶にして現役作家の今を見つめる番組で、なんとなく録画していて、このところ音楽番組も面白いものがなく、これを視てみることに。

いつもながらの飾らない軽妙な語り口には人を惹きつける魅力があり、いまだ衰えぬ明晰な頭脳とあいまって感嘆するばかりです。

ただ、NHKが500日も密着したせいもあるのかもしれませんが、いかに瀬戸内さんとはいえ、あそこまで自分の日常をカメラの前へとさらけ出し、それを公共の電波を使って全国に流す意味が果たしてあるのか…この点は大いに疑問が残りました。
しかも、度重なる交渉の末かと思いきや、瀬戸内さんのほうでも『私が死ぬまでカメラを回しなさい』とおっしゃっているとかで、そのなんとも高らかな言葉にはハァ…という感じ。

いまさらいうまでもないことですが、瀬戸内さんは瀬戸内晴美として作家業を続けられ、51歳のときに出家、俗世を捨てて寂聴となります。得度してからも作家業は継続するという二足のわらじ状態。
物書きを生業としながら激しい恋愛の渦の中に生きてきた女性が一転、剃髪し、僧侶となり、法衣をまとい、多くの人々に法話というお説教をしてまわっておられるのは多くの人の知るところです。

ところが、その日常は法衣はおろか、大阪のおばちゃんもびっくりするようなド派手なセーターとパンツ姿で、食卓には高カロリーのコッテリ系メニューが並び、おまけにアルコールが大好物だというのですから驚きです。

中でものけぞったのは、脂のほうが多いのでは?と思うような霜降り肉(マロニエ君はこれが苦手)がいつもテーブルに準備されていること、くわえて毎夜のごとく背の高いワイングラスにはなみなみと美酒が注がれ、声高く「カンパ~イ!」といってはたいそうなはしゃぎっぷりで、僧侶とは何か…わからなくなる瞬間でした。
もちろんこれ、個人の自由のことを言っているのではありません。
また、僧侶たるものがすべて品行方正な日常を送っているとも思っていません。

しかしマロニエ君の知る限りでは、僧侶の食事は本源的にはお精進であろうし、実際そうでないものを口にすることはあっても、それはあくまでちょっと控えたかたちでというのが長らくの認識でしたから、これには度肝を抜かれました。

すくなくともテレビカメラの前で、なに憚ることなく「牛肉牛肉…」といいながら、霜降り肉をがっつり頬張っては傍らのアルコールを流し込み、キャッキャとはしゃぎまわる寂聴さんの日常というのは、普通人でも相当にはじけているほうで、マロニエ君の目にはかなり奇異なものに映ったことは事実です。

逆にいうと、もともと小説家はいわば芸術家の端くれでもあるわけで、そんな道を歩んできた人が人生の途中で出家して、剃髪し庵まで構えたからには、それなりの一線や境地がありそうなもんだと思っていました。
これでは、出家前と現在とでは、精神的にどれほど違うのか、マロニエ君のような凡人にはよくわからなかったし、番組も瀬戸内さんの何を伝えようとしているのか意味不明に感じました。

そういえば年末の報道番組では、寂聴さんが安保法案に反対する永田町周辺の抗議活動の中へ出かけて行って、デモに協調する声を上げたことをして、穏やかながらも一定の批判めいた調子であることは印象的でした。
「戦争というものにはね、良い戦争も悪い戦争もないんですよ!」

戦争が悪いことだというのは、なにもいまさらこと改まって言われなくてもみんなわかっていることで、安倍さんだって百も承知のはずで、言葉のすり替えにしか思えません。
おまけに、永田町から京都の寂庵に戻った折にスルリと口から出たことは、「たまには出かけて、おもしろかった!」というのですから、それはちょっとどうかなと思いました。

出家して40年以上経ったこの方の様子を見ていると、逆に俗世間の匂いを感じてしまうのは、なんとなく皮肉な感じが終始つきまといました。そう思ってしまうと、カラフルなセーターの襟首からでたそのおつむりも、今どきのスキンヘッドのようにも見えてしまいます。
マロニエ君は普通に本は読む方ですが、思えば瀬戸内さんの作はほとんど読んだことがなく、唯一源氏物語だけは全巻揃いで購入してしばらく読んでいましたが、どうもしっくり来ないで半分にも達しないところでやめてしまったことを思い出します。

ちょっとおしゃべりを聞いている分には面白いし、とりわけ平塚らいてうなどを中心とする明治の女性の生き様や恋愛事情などを語らせるといかにもこの人の本領という感じはしますが、ここ最近はいささか手を広げすぎておられるのかもしれません。
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ゴルトベルクいろいろ

ギックリ腰発生からはや1週間。
本人は毎日、朝から晩まで苦しみの連続、病院にも行ってみるものの未だ快癒せずですが、毎回その話ではつまらないので話題を変えます。


昨年のことでしたがあるピアニストの方から郵便物がとどきました。
開けてみると「演奏会に行って感動したので聴いてみてください」ということで、某女性ピアニストの弾くゴルトベルク変奏曲のCDと、来年早々に行われるご自身の2つのコンサートの招待券を送っていただきました。

近ごろは驚くばかりにドライな感性が何食わぬ顔で横行する中、こういう温かな心配りをされる方もまだいらっしゃるというのは心が救われます。

さて、そのゴルトベルク変奏曲はライブ盤のようで、随所にいろいろな工夫のある演奏で、本番でこれだけ弾くというのは大変なことだろうと思います。昔はこの作品を演奏会で弾くなど、技術的な問題のほかに、プログラムとしての妥当性からいっても「とんでもない」という感じがありました。
演奏史から云ってもわずか60年前にグレン・グールドが事実上この曲を世界に紹介したようなもので、ほかにはロザリン・テューレック、アラウ、ややおくれてニコラーエワ、アンソニー・ニューマン、日本では高橋悠治など数えるほどしかありませんでした。

その後はだんだんと弾く人が増えてきて、ジャズのキース・ジャレットまでゴルトベルクをリリースするにいたり、その後は誰彼となくこの名曲に手を付けるようになります。
さらに近ごろではオルガン、ジャズアレンジ、弦楽合奏、ハープで、アコーディオン、2台ピアノ、ヴァイオリンとピアノなどというものまで出てきて、現在は最も魅力的なレパートリーの一角を占めるようになったのですから時代は変わりました。

むかし、日本人では熊本マリがCDを出したときは、ひええ!という感じで、とても驚いた覚えがありますが、それが今ではCDを出すくらいのピアニストなら誰でも弾けるレパートリーになっていくのを見ると、時代が変わるごとに誰も彼もが弾くようになるのは驚くばかりです。


さて、ゴルトベルクといえば、マロニエ君の手許にもずいぶんこの作品のCDが溜まってきているので、CDとチケットのお返しというわけでもないけれど、手近にあるものをいくつかコピーしていると、ついあれもこれもとなってアッという間に12枚入りのファイルがいっぱいになってしまいました。
まだまだあるけれど、あまりいっぺんに送っても、演奏会前のピアニストにとっては迷惑になるだけなので、ひとまずこれくらいでやめました。

ゴルトベルク変奏曲という作品でひとつ言えることは、それこそ何百回聴いても飽きない作品そのものの圧倒的な魅力があることは当然としても、さらには、この作品を弾くと、ピアニストの実力、資質、技巧、音楽観、センス、美意識、もう少しいうなら品性や教養までもが白日のもとに晒されるということが感じられて非常に面白くもあります。
もうひとつは、ピアノの良し悪しや技術者の優劣、音というか調律の方向性までもが非常にわかりやすいという点でも、面白さ満載の特別な作品だと思います。

グールドは彼の演奏活動そのものがゴルトベルク変奏曲のようで、事実上のデビューと最晩年の録音(のひとつ)がこれであったし、リフシッツはグネーシン音大の卒業演奏会ですでにこれを弾き、デビューCDもゴルトベルク、さらに最近二度目の録音を果たしたばかり。シェプキンも熟年期にあるバッハ弾きですが、すでに新旧二種のゴルトベルクを録音しており、日本公演でもその素晴らしさを披露しているようです。そうそう、バッハ弾きといえばシフも二度録音組です。

また、最近では無名に近いピアニストがCDデビューする際にも、ゴルトベルクでスタートを切るパターンがあるようで、この作品にはそれだけのインパクトがあるということでしょう。
逆のパターンで驚いたのは、バレンボイムがいまさらのようにこれを録音しているらしいのは驚かされます。
あれだけの巨匠になっても尚、なんにでも片っ端から手を付けなくちゃ気がすまない性格なんでしょうね。
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カテゴリー: CD | タグ:

4日目

せっかくの新年を、人生初めてのぎっくり腰で迎えるというのは当人にしてみれば笑うに笑えぬ「事故」でした。
しかも、これが実際なかなか快方には向かわず、多くの場合、二三日で落ち着いてくるという話であったのに、想像より症状は軽くはないようでした。

実は3日は、ピアノ好きの数人が集まることになり、今回はマロニエ君宅のディアパソンの調整が一区切りついたこともあって、我が家へお出でいただく段取りになっていたのですが、直前まで様子を見ていたもののいまだ厳しい状況であるため、やむを得ず今回は延期とせざるをえなくなりました。

もともと、充分なもてなしができるわけではないけれど、なにかというと襲いかかる激痛を抱えながらというのでは、ちょっとお茶や菓子を出すことさえ難しいし、いかに遊びや雑談とはいえ身が入りません。
昨年末から約束をしていた皆さんには文字通りのドタキャンとなり、大変なご迷惑をお掛けする次第となりました。

のみならず、お正月のすべてが犠牲となり、外出もなにもできず、することもなく時間だけはあるので、おそるおそるパソコンの前に座っては、このようなつまらぬ文章を綴っているしだいです。
新年早々、温かいお見舞いのメールも頂戴するなどありがたいような情けないような…。

昨晩はお父上が整形外科のお医者さんという友人に電話して、カクカクシカジカで、さしあたりどういう点に注意すべきか聞いてもらったところ、基本安静にする、腰を温める、コルセットが望ましいが無ければバスタオルでもいいから強く巻いて腰を固定する、長時間同じ姿勢をとらないなどのアドバイスを受けました。

少しでもだらけた姿勢で椅子に座っていると、必ず恐ろしいほどの激痛に見舞われるので、これにはさすがに懲りて、嫌でもキチンと背筋を伸ばした姿勢を保って座るしかなく、気の休まる時もありません。ところがこれを3日もやっていると、あれ?…その姿勢で座ることにもだんだん慣れてきて、それ自体はさほど苦痛ではなくなってきました。
まさに昔の軍隊式ではないけれど体罰の恐怖で遮二無二鍛えられる感じです。

ということは、何事もこれぐらい本気で間断なくやっていればそのうち身につくもんだということが少しわかったような気がして、結局ピアノも同じだろうか…とも思います。
音大を受験するとか、コンクールに出る、あるいは演奏会を控えて猛練習などとなれば、それはもう気構えからして違うでしょうから、これを当たり前のようにやっていれば、たしかに劇的に鍛えられるだろうなぁと思います。


ピアノといえば、お正月番組で録画していた辻井伸行氏の2時間番組を暇つぶしに視てみました。
彼はまぎれもなく天才ですが、いわゆるクラシックのピアニストの常道というより、チケットの売れる人気ミュージシャンの方へと軸足を移してしまったのでは?という印象をあらためてもちました。

べつに、それの良し悪しを言っているわけではないのですが、一面においてそのスタミナなど大したものだと思う反面、一面においてはどこか残念な気もするのです。コンサートの様子では主に自作の曲をオーケストラと一緒に演奏するというもので、新作の童謡かなにかのようで、澄みわたるきれいな曲だとは思うけれど、マロニエ君の求める方向とはまったく違うものです。

後半はガーシュインのラプソディー・イン・ブルーで、危なげのない確かな演奏ではあったものの、この曲に必要な変幻自在な表現には至っていないというのが率直な印象でした。こういう曲は自分なりに美しく弾くというだけではサマにならない猥雑な要素を含んでいて、清濁併せ持つ人間臭さやエグさで聴かせるところがあり、辻井さんの清純さだけでは処理できない世界のように思いました。

一方、アメリカ・ボストンでは現地のアマチュアオケとベートーヴェンの皇帝を弾いていましたが、これはまた意外なほど軽い感じが目立ってしまい、ただ表面に水を流すようにサラサラ弾いて、作品の核心にはまだ触れていないような印象でした。ベートーヴェンにはやはり一定の構造感とか重厚さ、あれこれの対比などが欲しい気がします。

むろん感心させられる点も多々あって、いついかなるときでも音楽に対するノリの良さは抜群で、常に全神経が音楽世界の中で喜々として躍動し呼吸していることは音楽家として非常に重要な点で、だからこそ彼のピアノには生きた演奏のオーラがあるのだと思います。見るたびに思うのは、大きくて肉厚の、とても恵まれたきれいな手をしていて、まさにピアニストとして理想的であること。
これだけみても彼がピアノを弾くためにこの世に生を受けたのだということが感じられます。
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ぎっくり

前回は年頭の挨拶であるし、あえて書かなかったのですが、実はその裏でとんでもないことが起こってました。

大晦日の午後3時ごろのこと、石油ファンヒーターの灯油缶を持ち上げようとしたところ、とつぜん腰に強い電気のようなものがドキュンと走りました。
手と上半身をのばした横着な姿勢であったことから、筋か神経だかの大事なところを大いにひねってしまったことが瞬間的にわかりましたが、それは一瞬で、とくに大したことでもないようなので、このときはさほど深刻にも考えていませんでした。

ところが、それから1時間も経った頃、座っていた椅子から立ち上がろうとすると、腰回りに刺されるような傷みが走り、さっきの衝撃がまだくすぶっていることがわかりました。

それからというもの、時間経過とともに症状は悪化していきますが、この日は夕方からちょっとした買い物と年越しそばを外で食べるということになっていたので、用心しながら着替えをしますが、このときすでに靴下を履き替えるのがかなり辛いことは自分でも驚きで、不安を抱えながらの出発となりました。

クルマに乗るのもヨイショという感じとなり、さらに深刻だったのはバックでガレージから出るのに、後ろを見ようと上半身を捻ると、ここでも強い痛みを伴い、いよいよこれはマズイことになった認識しはじめることに。

お店は猛烈な人出で、駐車スペースを確保するのも容易ではない状況。少し待つと運良く一台の車が出て行ったのでそこに速やかに止めようとしましたが、やはりバックする際にガッと振り向けないため、いつものような迅速な動作ができません。一定角度以上には上半身が曲げられないのを、これ以上悪化しないよう何度も切り返しをして、ずいぶん下手くそな要領の悪い止め方で車を置きました。

止め終わってホッとするのもつかの間、さらに驚いたことには車から降りようにも、その動作に入ると腰に激痛がきて降りられないのです。
一度激痛が走ると、その波が収まるまでにしばらくの時を要するので、何度か繰り返しながらやっと下車…したものの、これでは先が思いやられます。

この日だけはなんとか頑張らなくてはと気を引き締め、蕎麦屋に行くも、そこでもやはりバックが思うようにできない、さらに降りるときの苦痛はさっきより一層ひどく、困難さが増しているのがわかりました。
食べている間も軍人のようにまったく姿勢が崩せず、少しでも背骨を曲げたような姿勢になるとズキンと傷みが走ります。

正直言って、何を食べているかもわからないほど必死で食べて帰ってきましたが、自宅のガレージにたどり着いたときには、もう何度やっても激痛で車から降りることもできません。半ば気が遠のくような痛みを伴いながら決死の思いで車から這いずり出て、家に入り、この日はとにかく安静にして、ちょうどもっていたロキソニンを服用して、いつもより早めに休みました。

横になっているとそうでもないので睡眠はそれなりにとれますが、ちょっと寝返りをうつこともできずそのつど痛みで目が覚めます。ずいぶん窮屈な思いをしながら目が覚めたりまた寝たりを繰り返しながら元日の朝を迎えました。
とりあえずベッドから出ようとすると、これがまたとてつもない激痛で、とにかくどういう角度であれ起き上がろうとすると、息もできないほどの痛みが次から次へと襲いかかってきて、ようするにベッドから出られなくました。

30分近くかけて、脂汗にまみれながらようやく這い出したものの、着替えも満足にできず、正月早々とんでもないスタートを切る羽目になりました。
午後はパソコンの前に座るのもびくびくして、新年早々、痛みと疲れと落胆でもう何もする気も起きません。それでも元日のブログは前日に少し書いていたので、なんとかそれを完成させてアップしたのでした。

これが「ギックリ腰」というものかどうか…正確なことはわかりませんが、たぶんそうなんでしょう。
これまで腰痛の苦心談はあこれこれと耳にしてはいたけれど、たまたま自分が経験したことがなったこともあって、もうひとつ実感が湧きませんでしたが、いやぁ…これほどまでに凄まじいものとは知りませんでした。
まるで腰回りをナイフで刺されるか電流でも流されるようで、その痛みは恐怖以外のなにものでもありません。

日常生活の何気ない動作の中で、いかに腰が体の芯となって重要であるかをこれほど思い知らされたことはなく、健康のありがた味をしみじみ痛感しているところ。年明けからついていない…ではやってられないので、新年早々からよい勉強をさせてもらったとでも思うことにするしかありません。

意外だったのは、安静のためにポロポロとピアノを弾いてみると、ピアノは必然的に良い姿勢となるし、弾けばやっぱり楽しいし、おかげでずいぶん慰められました。
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2016年元日

あけましておめでとうございます。

毎年同じことを繰り返すようですが、友人にすすめられるままに始めたこのブログも、6年目に突入することになりました。
義務や努力がめっぽう苦手なマロニエ君にしてみれば、こんなことが丸5年間続いて現在も進行中というのは異例中の異例で自分でもびっくりです。
裏を返せば、こんなつまらないことでも人様がそれを読んでくださるというのは、素直に嬉しいし、ありがたいことで、それが大きなモチベーションになっているのは確かなようです。

さらには、数こそ多くはありませんが、見ず知らずの方(ときには海外から)からあたたかいメールを頂戴することもあり、ときどき自分は大それたことをしでかしているのではないか?という怖さを感じることもありますが、それだけに、内容は一定の慎重さと節度を肝に銘じつつ、今後もできるかぎり思ったままを書いていくつもりです。


昨年はディアパソンに通暁した、このピアノ生え抜きの技術者の方との出会いがあり、これはまったく思いがけないことでした。
福岡とか九州という枠を超えて、ディアパソンの最高ランクの技術者さんが、地元にまさか二人もおられるなんて夢にも思わなかっただけに、これはほとんど僥倖に等しい気がしています。
お二人は親しいご友人でもいらっしゃるようで、長らく浜松のディアパソン本社で開発改良などにも取り組み、会社自体をひっぱっておられた方でもあり、それこそ裏の裏までご存知なわけです。

おかげで、座り込んだ牛のように、にっちもさっちも行かない我が家のディアパソンは、繊細なタッチコントロールにも細やかに反応する、軽快で整然としたタッチを有するピアノへと生まれ変わりました。
しかも、ハンマーを交換することも削ることもせず、さりとて特別な技や装置を用いるでもなく、正攻法でここまで達成できたことに驚きと尊敬の念を禁じえませんでした。

マロニエ君自身はこれといって自慢できることもありませんが、昔から素晴らしい技術者の方にご縁があるのは、ずいぶん恵まれていると思います。とくに東京大阪でもなく、福岡という地方都市において実に多くの優秀な方々とのご縁があることは我が身の幸運を感謝するばかりです。

さて、ピアノはこれだけ整ったというのに、弾くほうは一向に前進がないばかりか、無能と、歳のせいと、絶対的に弾く時間が足りないせいとで、ますますダメになりました。
とくに新曲を練習するのは億劫になり、暗譜にも苦労するし、指もあきらかに動きが悪くなりました。
若いころは、まだそれなりに覚えられていたことを思うと、やはり脳が衰退しているせいかと思いますが、まあこればかりはどうしようもありません。

仮に努力しだいで「少しはなんとかなる」としても、努力とは本人の意志の問題であり、マロニエ君の性格じゃどう転んでも無理でしょうから、やっぱりどうしようもないことになります。

マロニエ君の周りのアマチュアピアノ弾きの方々は、皆さん相当きちんと練習されているようで、どうしたらそんなに熱心に練習できるようになるのか、その秘訣でもあれば伺いたいもの。
特に大人になって始められた人達は、却って自発的によく練習されるようですごいもんだと思います。
それにひきかえマロニエ君の練習量のなさといったら、我ながら情けなくなるほどで、これではピアノ好きを標榜する資格もないのかもしれません。

ただ、練習の成果を身をもって感じることもたまにはあって、どうかした具合で、ごくまれに1時間ほども弾いていると、たしかに自分なりに指はずいぶんほぐれ、ピアノはよく鳴り、普段よりずっと楽にザクッと弾けて感激することがあり、そんなときは自分で自分を弾けなくしていると猛省したりもしてみるのですが、ま、それもその場限りで持続しないのです。

あいも変わらず、こんな調子ですが、本年もよろしくお付き合い願えれば身に余る喜びです。

マロニエ君
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良いお年を

ネットのCD通販サイトを見ていると、とくにハッキリとした理由もないのに、何気なく買ってしまうCDというのがあります。
最近のそれは、ニーナ・シューマン&ルイス・マガリャアエスというピアノデュオによる2台のピアノのためのゴルトベルク変奏曲で、編曲はラインベルガーとマックス・レーガーによるもの、このバージョンはたしか他にもCDをもっています。

なぜこれを買ってしまったのか、商品が届いた頃には、クリックしたときの気分は消え失せていることもしばしばで、自分で言うのも変ですが、「へぇ、こんなの買ってたんだ…」などと他人事のように気分で聴いてみることになります。

聴いて最初に感じたことは、ピアノの音が品がないなぁ…ということ。ところがライナーノートをみると、なんとベーゼンドルファーのモデル280とあり、そのギャップにますます驚いてしまいました。
まるで弾きっぱなしの調律をしていないピアノみたいで、記述がなければベーゼンの280というのはわからなかったかもしれません。かなり使われているピアノなのか、ギラギラした音で、今どき録音するのにこんなピアノを使うのかと驚きました。

演奏はかなり自在な感じで、バッハらしい節度とか様式感を保った礼儀正しさより、感覚的でドラマティックに弾いているといった趣です。音といい演奏といい、はじめはずいぶんくだけたバッハという印象が強く、こんなもの買ってとんだ失敗だったとため息をついていたのですが、とりあえず最後まで聴いているうち(78分)にだんだん慣れてきて、ついにはこれはこれで面白いと思うまでになりました。
今では何度も繰り返し聴いているCDなのでわからないものです。

さらには面白い一面もありました。
ピアノは好ましい技術者によってきちんと整えられたものがいいに決まっているし、録音ともなると、最低でもそれなりに調整された音であるのが半ば常識です。
ところが、こんな言い方はおかしいかもしれませんが、このCDのピアノはずいぶん雑な音であるし、演奏もどちらかというと抑揚のあるテイストなので、一歩間違えれば聴いていられないようなものにもなりかねませんが、このCDにはいつもとは違う危うい面白さみたいなものがありました。

しかも荒れたベーゼンドルファーというのは、どこか退廃的ないやらしさがあって、それが結果として生きた音楽になっているという、じつに不思議なものを聴いたという感じです。
ピアニストのニーナ・シューマン&ルイス・マガリャアエスというふたりは初めて聴きましたが、なかなか達者な腕の持ち主で、息もピッタリ、テンポにもメリハリがあって、緩急自在にゴルトベルクをまるで色とりどりの旅のように楽しませてくれました。

調べてみると、TWO PIANISTSというレーベルで、しかもこの二人がレーベルの発起人だといい、録音は南アフリカの大学のホールで行われている由で、なにもかもがずいぶん普通とは違うようです。
録音も専門家の意見はどうだか知りませんが、マロニエ君の耳には立体感も迫力もあり、湧き出る音の中心にいるようで、とても良かったと思いました。


ついでに、もうひとつ、思いがけなく買ったCDについて。
いま人気らしい、福間洸太朗氏の新譜がタワーレコードの試聴コーナーにあったのでちょっと聴いてみると、演奏者自身の編曲によるスメタナのモルダウが、えらくピアニスティックでリッチ感のある演奏だったので、ちょうど駐車券もほしいところではあったし、続きを聴いてみようと購入しました。

自宅であらためて聴いても、なかなかのテクニシャンのようで、どれも見事にスムースに弾けているのには感心です。
きめ細やかな、しなやかなタッチが幾重にも重なり、独特の甘いピアノの響きを作り出すあたりは、いかにも女性ファンの心を掴んでいそうな気配です。

曲目はモルダウのほか、ビゼーのラインの歌、青きドナウの演奏会用アラベスク、メンデルスゾーン/ショパン/リャードフの舟歌、リストによるシューベルト歌曲のトランスクリプションなどで、メロディアスな作品が並びます。
敢えて言わせてもらえば深みというより、耳にスッと入ってくる流麗さと快適感で楽しむ演奏で、オーディエンスの期待するツボをよく心得ていて、ファンに対するおもてなし精神みたいなものを感じます。

まあ、そのあたりが気にならなくもないものの、本来、音楽は人を楽しませることが第一義だとするならば、それはそれでひとつの道なのかもしれません。

福間氏は20代の中頃にアルベニスのイベリア全曲を録音しており、以前店頭でそのCDを見て「うそー?」と思った記憶があります。技術的には弾けても作品理解や表現力のために、そこから5年も10年もかけて熟成させたうえで公開演奏に踏み切るといった時代ではなくなったことは事実でしょう。
音楽家としての自分の個性や思慮深さより、なんでもできるスーパーマン的なものでアピールしていく、これが良くも悪くも今どきのスタイルなんだろうとと思います。


気がつけば、今年も残り二日間となりました。
来年こそはより良い年でありますように。
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もうひとつの戦い

NHKのBS1で『もうひとつのショパンコンクール〜ピアノ調律師たちの闘い〜』が放送されました。

これまでコンクールのドキュメントというと、演奏者側にフォーカスするのが常道で、コンクールにかける意気込みやバックステージの様子など、悲喜こもごもの人生模様を密着取材するものと相場が決まっていました。

ところが、今回は公式ピアノとして楽器を提供するピアノメーカーおよび調律師に密着するという、視点を変えたドキュメントである点が最大の特徴で、途中10分間のニュースを挟んで、実質100分に及ぶ大きなドキュメンタリーでしたから、その規模と内容からみて、これまでには(ほとんど)なかったものではなかったかと思います。

テレビ番組の情報などに疎いマロニエ君は、だいたいいつも、後から気が付くなり人から聞くなりしてガッカリなのですが、今回はたまたま当日の新聞で気がついたおかげで、あやうく見逃さずに済みました。
こんな珍しい番組を見せないのもあんまり可哀想なので、今回ぐらい教えてやるかというピアノの神様のお計らいだったのかもしれません。

前半は主にファツィオリとカワイ、後半はヤマハが中心になっていて、スタインウェイは必要に応じて最小限出てくるだけでしたが、とくにスタインウェイ以外の調律師が全員日本人というのも注目すべき点だろうと思います。

ヤマハとカワイは日本のピアノだから日本人調律師が当たり前のようにも思いますが、だったらファツィオリはイタリア人調律師のはずであるし、もし本当に必要ならヤマハもカワイも外国人技術者を雇うのかもしれません。それだけ、日本人の調律師がいかに優秀であるかをこの現実が如実に物語っているとマロニエ君は解釈しています。

さて、近年あちこちのコンクールでも健闘している由のファツィオリは、今回のショパンコンクールでは戦略の誤り(と言いたくはないけれど)から弾く人はたったの一人だけ、しかも一次で敗退するという結果でしたが、現在のファツィオリを支える越智さんの奮闘ぶりが窺えるものでした。

ショパンにふさわしい温かな深みのある音作りをしたことが裏目に出てしまい、ほかの三社がパンパン音の出るブリリアント系の音と軽いタッチであったことから、ピアノ選びでは皆がそっちに流れてしまいます。そこで、急遽派手めの音を出すアクションに差し替えることで、限られた時間内にピアノの性格を修正しますが、時すでに遅しといった状況でした。
しかし、よく頑張られたと思いました。

カワイは小宮山さんというベテランの技術者が取り仕切っておられ、ピアノの調整管理以外にも演奏者へのメンタル面のケアまで、幅広いお世話をひたすら献身的にされていたのが印象的でした。フィルハーモニーホール内には通称「カワイ食堂」といわれるお茶やおやつのある小部屋まで準備されており、そこはコンクールの喧騒から逃げ込むことのできる、安らぎの空間なんだとか。

しかし一次、二次、三次、本選と進む中、最後の本選でカワイを弾く人はいなくなり、そこからはヤマハとスタインウェイ2社の戦いとなります。

ファツィオリの越智さん、カワイの小宮山さん いずれも技術者であり楽器を中心とするこじんまりとした陣営で奮闘しておられたのに対し、ヤマハはまるで印象が異なりました。
ヤマハは人員の数からして遥かに多く、見るからに勝つことにこだわる企業戦士といった雰囲気が漂います。
まさにショパンコンクールでヤマハのピアノを勝たせるための精鋭軍団という感じで、周到綿密な準備と、水も漏らさぬ体制で挑んでいるのでしょう。

各メーカーいずれも真剣勝負であることはもちろんですが、その中でもヤマハの人達の独特な戦士ぶりは際立っており、ときにテレビ画面からでさえ言い知れぬ圧力を感じるほどで、こういう一種独特なエネルギーが今日の世界に冠たるヤマハを作り上げたのかとも思います。

ファツィオリも、カワイも、各々コンテスタントのための練習用の場所とピアノなどを準備はしていましたが、ヤマハはまず参加者(78人)が宿泊するホテルの全室に、80台の電子ピアノを貸出しするなど、ひゃあ!という感じでした。
また、いついかなるときも、ヤマハのスタッフは統制的に動いており、カメラに向かって言葉を選びながらコメントする人から、何かというと必死にメモばかり取っている人など、組織力がずば抜けていることもよくわかりました。

ステージ上でも、何人ものスーツ姿の男性達がわっとピアノを取り囲んでしきりになにかやっている光景は、一人で黙々と仕事をする調律師のあの孤独でストイックな光景ではなく、まるで最先端のハイテクマシンのメンテナンス集団みたいでした。

はじめは本戦出場の10人中3人がスタインウェイ、7人がヤマハということでしたが、直前になって2人がスタインウェイへとピアノを変えたことで5対5となり、優勝したチョ・ソンジンが弾いたのはスタインウェイでした。

大相撲で「気がつけば白鵬の優勝…」というフレーズが解説によく出てきますが、気がつけばスタインウェイで今年のショパンコンクールは終わったというところでしょうか。

それにしても、コンテスタントはもちろん、ピアノメーカーも途方もないエネルギーをつぎ込んでコンクールに挑んでいるわけで、それを見るだけであれこれ言っていられる野次馬は、なんと気楽なものかと我ながら思いつつ、番組終了時には深いため息が出るばかりでした。
いずれにしても、とても面白い番組でした。
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悪質な番号の検索

先日のパソコン本体へのSDカード誤飲騒動では、ネット情報によって命を助けてもらったばかりですが、どうやらネットの使い方というのは、日々より広範で多様化し、マロニエ君なんぞの知らないものが際限もなくあるらしい…ということを知るに及んで驚いています。

マロニエ君はいちおう仕事用と個人用の携帯電話を持っていますが、仕事用は問い合わせという側面もあるため、着信履歴をそのまま放置というわけにもいきません。とくに登録のない番号の中にも重要なものがある反面、相手の声を聞くなりイヤになる営業目的もしばしばで、運転中出られない場合など、車をわざわざとめてコールバックしてみると、なんと株取引の勧誘であったり、「お近くの不動産を探しています」とか、いきなり「現在のお住いはマンションですか?持ち家ですか?」「お使いにならない宝石などを買取りしています」といった内容で、憤慨することしばしばです。

まあ、相手だって仕事のために必死にやっていることと思えば一定の理解はできますが、何度かかけ直したあげくやっと通じたと思ったら、なんとこの手合だったりすると、やっぱりムッとしてしまいます。

昨日もそれがあり、30分ほどしてこちらからかけましたが夕方だったためか繋がらずで、そうなるとどこか気になってしまうもの。相手の分からない番号へ日を跨いでまで掛ける必要もないかと思いますが、近頃のネットは何が出てくるかわからにというへんな経験があったものだから、試しにその電話番号を検索にかけてみると、なんとなんと、いわゆる悪質な相手の番号であるかどうかを知らせるサイトがあって、その番号がひっかかってきたのにはびっくりでした。

その番号を元に、多くの人の口コミがあって、それをいくつか読むだけで、たちどころに電話の主がどんな相手かがわかりました。

それによれば、ただの営業ではない、限りなく詐欺行為をはたらいている相手らしく、テレビなどで悪徳業者の手口として紹介されるような内容そのままで、こういうものが自分の電話にかけて来たかと思うとやっぱり驚きます。
そんな相手とも知らずにわざわざこちらからかけ直しをしていたなんて、なんたることか!と思うばかりです。

そのサイトでは、当該電話番号に対するだけでも数十件の書き込みがあり、共通しているのが、尤もらしい会社名を名乗って「白熱灯が生産中止になることで、この制度を利用すると助成金が出るためのご案内です」というようなことをペラペラ言ってくるのだそうで、しかも断っても何度もかけてきて「しつこい」というような苦情がずらりと並んでいました。

もちろん、直接話せば断固として断りますが、まるで国の制度がどうのという専門的な話(しかもそれを悪用して収入を得ようという提案)を延々聞かされて、中には、ついその気になってしまう人もいるかと思うと、やっぱり怖くなりました。

くわばらくわばらと思って、その番号は敢えて消去せず、アドレス帳登録して名前を「出るな!」という言葉で登録しておきました。
すると昨日、今度はまったくちがう番号から電話がかかったので出てみると、相手はしっかりこちらの名前を確認し、続いてきちんと会社名(横文字のなんだかわからないような名前)と自分の名前を名乗り、いかにも手慣れた感じのプロみたいな話口調で女性が淡々と喋り出しました。
ところが、その内容というのが、まったく同じ「白熱電球生産中止に伴う…」という話であったのにはびっくり。

「せっかくですが、そういう予定も考えもまったくありませんので、悪しからず!」と決然とした調子でいうと、そういう手合には話してもムダだと思うのか、意外なほどあっさりと「左様でございますか。承知いたしました。お忙しいところ失礼致しました。」といって電話は終りました。

たぶん話に引っかかって来そうな相手かどうかは、絶えず感性を研ぎ澄ませているんでしょう。
それにしても同様の業者がたくさんいるのか、何本もの電話で一斉にかけまくっているのか、いずれにしろよほど気をつけなくてはなりません。

個人情報保護法なんぞ、世の中を暗くするだけのくだらない法律だと感じていましたが、こういう手合が暗躍する時代だということを考えれば、なるほどやむを得ないと思えてくるようです。
皆さんもおかしいと思う番号に遭遇した際は、番号を検索してみられることをおすすめします。
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ふれんち

少し前に放送されたNHK交響楽団とパーヴォ・ヤルヴィによる演奏会には、オールフランスプログラムというのがありました。世間の受け止め方は知りませんが、個人的にはこの組み合わせでフランス音楽というのはずいぶん意外でした。

ドビュッシーの牧神の午後、ラヴェルのピアノ協奏曲、後半はベルリオーズの幻想交響曲というものですが、ヤルヴィとフランス音楽というのはどうなんだろう?という思いを抱くのが、なんとはなしに率直なイメージです。
ヤルヴィのみならず、そもそもN響とフランス音楽というのも、デュトワとはずいぶんやったかもしれませんが、それでも個人的イメージではしっくりはきません。
ボジョレー・ヌーボーが解禁などと言って、どれだけワイワイ騒いでみても、悲しいかなサマにならないようなものでしょうか…。

幻想交響曲のような大仰な作品はまだしも、ドビュッシーやラヴェルというのはこの顔ぶれではまったくそそられないのですが、そうはいってもヤルヴィはパリ管弦楽団の音楽監督であった(現在も?よく知らないが)のだから、まあそれなりの演奏はおやりになるのだろうと思いながら聴いてみることに。

出だしのフルートからして、いきなり雰囲気のない印象で、曲が進むにつれ、しっくりこないものがだんだん現実となって確認されていくみたいです。さだめしスコア的には正しく演奏されているのでしょうが、そもそもこの曲ってこういうものだろうかという気がしました。

牧神の午後に期待したい異次元の光がさすような調子というか、名も知らぬ花がしだいに開いていくような空気は感じられず、ただ普通にリアルで鮮明な演奏であることで、むしろ難解に聴こえる気がしました。
個人的にはヤルヴィの本領は別のところ、すなわちドイツ音楽やロシアその他の、いわば立て付けのしっかりした強固な作品にあるような気がします。

彼に限らず、現代の(それも第一級とされる)演奏の中には、わざわざ説明するようなことではないことまで敢えて説明しているような演奏にしばしば出会うことがあります。野暮といっては言葉が悪いかもしれませんが、ようするにそんな感じを受けることが少なくない。

それは進化した技巧と洗練されたアプローチによって、作品の隅々まで見渡すような爽快さがある反面、理屈抜きに音楽を掴む直感力だとか演奏者のストレートな感興、音がそのまま言葉となって聴く者に訴えてくるような醍醐味はやや失っているのかもしれません。
理知的な解像度の高さばかりに目が向いて、率直な感受性や表現意欲の比重が減っているのは、多くの現代演奏に感じるひとつの大きな不満ではあります。

ラヴェルのピアノ協奏曲のソリストはジャン・イヴ・ティボーデ。
昔から、この人の演奏はあまり好みではなかったので、まったく期待していなかったのですが…だからかもしれませんが、意外にもこのときはそう悪くない演奏だったので、これは申し訳なかったと心の中で思いました。
無意味なピアニズムや情緒に陥らず、ラヴェルの無機質をむしろ前に出してきたことで、そこにだけパッとフランス的な屈折した花が咲いたような趣がありました。
また、以前と印象が違ったのは、いかなる音にも好ましい肉感と節度があって、これがもしブリリアントなだけの派手派手しい音であったなら、ラヴェルの無機質が咲かせる花は、またずいぶん違った姿形になったように思います。


フレンチピアニストの名前が出たついでに書くと、ジャン=クロード・ペヌティエのCDで、フォーレ・ピアノ作品第1集を買ってみました。というのもペヌティエというピアニストのことはほとんど何も知らず、ラ・フォル・ジュルネで来日して好評であったということがネットでわかったぐらいで、音としてはまったくの未体験であったので、ぜひ聴いてみたいと思ってのことでした。

あれこれの評価では「弱音の美しさ」「洗練された味わい」「ペダリングの素晴らしさ」といったものが目に止まりましたが、マロニエ君に聴こえたところはいささか違いました。
まず印象的なのは、フランスのピアニストにしては渋味のある楷書の文字をていねいに書くような演奏で、しかもそこに余計なクセや装飾が一切存在せず、純粋に楽曲を奏することにピューリタン的な信念をもったピアニストというふうに映りました。
シューベルトの後期のソナタもあるようなので、マロニエ君のイメージではフランス人のシューベルトというのは痩せぎすで、それほどありがたいもんじゃないと思っていますが、これだったら聴いてみたくなりました。

ピアノはまったく気が付かなかったけれど、ジャケットの中の記述をよく見ると小さくBechsteinとありました。へぇ!?と思って耳を凝らしてもそれらしい声はさほど聴こえてこないので、おそらく最も普通に洗練されていたD280だろうかと、これまた勝手な想像をしているところです。
ペヌティエは教師としても名高いようで、かなりのベテランのようですが、スタインウェイでもヤマハでもないピアノを選ぶあたりに、氏の目指す独自の境地があるのかもしれません。
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ドイツ人とは?

車の月刊誌、CG(カーグラフィック)に面白いことが書いてありました。

ドイツ人とは、いかなる民族なのかということ。
永島譲司さんというドイツ在住30年余になる自動車デザイナーの方(有名なのはBMWの先代3シリーズで、あれは日本人のデザインなのです)が、長年の経験の中から書かれたものですが、読むなり呆れ返ってしまいました。

一般のドイツ人のイメージというのは、ありきたりですが、勤勉で真面目で冗談が下手で、でもバッハやゲーテ、ベートーヴェン、ハイネ、アインシュタインなど、とてつもない歴史上の偉人が綺羅星のごとく何人もいる、非常に優れた能力を有する民族というイメージがありますね。
世界の主たる近代文明の中で、ドイツ人が果たした貢献は計り知れないものがあることは誰もが認めることでしょう。

そんなドイツ人ですが、外から想像するのと、実際に長くその地で暮らしてみるのとでは、どうやらかなりの隔たりがあるようなのです。

ドイツ人は「ルールが好き」というのはあるていど認識されていることですが、実際のそれは、予想をはるかに超えたもののようです。
公園のブランコ、公衆トイレ、ホテルデパートのエスカレーターに至るまで、自己責任で使用すべしという但し書きがやたらめったら散りばめられていて、それをいちいち承諾した人だけが利用することができるようになっているのだとか。

ドイツでは何事によらず、氏の表現によれば「チョー細かいことまで」ルール化し、さらにそれを明文化するのが好きなのだそうで、書かれたものを厳守することがむしろ心地よいのか、精神的にもそれが落ち着くような気配だというのです。

たとえば、ドイツでは自販機のコーヒーから高級店のコニャックまで、すべての有料の飲み物には「何mlに対していくら」という価格と液体量が表示されていて、コーラなどを頼んでも量が正確にわかるように氷などは一切入っていないそうです。
こんなことを聞くと、ドイツ人が大好きなビールも、ジョッキには目盛りでも入っていて、まずそれを確認してからハメを外すのだろうか?などと思います。

唖然としたのは、カップルが結婚する際の手続きでした。
これから婚姻届を出そうというのに、将来何らかの理由で離婚する場合に備えて、財産分割に関する書類を作るのだそうで、そこには預金や不動産などは言うに及ばず、このテーブルはテレビはどちらが取り、この冷蔵庫と電子レンジはどちらの所有かということをすべて取り決め、事細かく書き出して、公証人の前でその書類にサインすることで法的な力を持つとあり、それがごく普通なんだそうですから、朝ドラ風にいえば「びっくりぽんや!」といったところですね。
日本でそんなことをしたら、たちまち破談になるだろうと思いました。

交通マナーに関する記述もあり、永島氏がドイツでの生活をはじめられたころ、フランクフルト市内の大通りでパーキングメーターにバックで駐車しようとすると、不思議な光景を見たとあります。
自分の車の後ろに10台ほどの車がズラーッと並んでおり、何で自分の後ろにそんなに車が並んでいるのか、はじめはその理由が皆目わからなかったというのです。

氏はその後も同様の経験を何度も何度も繰り返すうちに、ついに理由がわかったのだそうで、それによれば、ズラリと並んだ多数の車はただ単に前の車が駐車をし終えるのをずーっと待っているだけだというのです。

驚いたのはその状況で、そこは2車線の大通りで他に交通量も少くスカスカだったそうで、普通ならとなり車線から抜かしていくのが普通であるのに、多くの車は目の前の車が駐車が完了するまで身じろぎひとつせずにじーっと待っているというのです。

氏いわく、「要するに彼等って頭がタカイというか、思いつかないのである。」「目の前で誰かが駐車をはじめるとその車ばかりに気をとられるせいかとなりの車線に一瞬入れば前に行けることに気が付かない。いや、となりの車線がスカスカであることがそもそも目に入らない!良く言えば一点集中力がものすごく高いともいえるが、概してドイツ人というのはそんな具合でただただ一直線。」と書かれています。

予期していない事が起こったりしたときに頭を切り替える器用さに欠けるのだそうで、だから何にでも「規則」を必要とすると分析しています。
すべてのことに「チョー細かい規則」を張り巡らせて、それにしたがってみんながキマリ通りに動くことが前提となり、予定外のことが突如起こると、それに対応するのが不得意なんだそうで、ここまでくると規則に依存するあまり、頭も使わないのかと思えてしまいます。

ドイツも自転車の事故は問題のようで、交差点で車はスピードを落とす規則が「ある」のに、自転車にはそれが「ない」から、車に気づいてスローダウンしなければ衝突することがわかっても自転車はスローダウンしないらしく、おまけにゲルマン民族の健脚で走らせる自転車はたいてい30km/hから40km/hは出ているというのですから、相当怖いようです。

そんなドイツ人が例のフォルクスワーゲンのディーゼルエンジンの排ガス不正問題を引き起こしたのですから、これは珍しく頭を切り替えて器用な対応をやってみた結果なのでしょうか。
しかも、不正のやり方まで、ずいぶんと一直線だったようですね。
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心理と味わい

近ごろはCDの聴き方ひとつにも、人それぞれの方法があるようです。
マロニエ君はスマホも持たず、音楽を聴くのは専ら自宅か車の中に限られ、まずイヤホンで聴くというのはありません。そのつど聴きたいCDをプレイヤーに入れて再生するという旧来のスタイルで、自分がそうなので、いつしかこれが当たり前と思い込み疑問にも感じていませんでした。

ところが、あるとき知人のメールによれば、CDをパソコンに読み込んで編集すると、曲のタイトル(トラック名)が表示されないことがあるらしく、それが非常に困るというのです。
トラック名なんてマロニエ君は意識したこともないことで、はじめはなんでそんなことが重要なのかピンとこなかったのですが、スマホやパソコンに音源を落とし込んで、そこからイヤホンなりスピーカーなりに繋いで聴くというスタイルでは、操作画面にトラック名が出ないことには曲を呼び出すこともできないわけで、ははあと納得した次第。

実は、マロニエ君もずいぶん前にiPodを買って、はじめは大興奮でずいぶん遊んだものの、しばらく使ってみて自分には合わないことがわかり、さっぱり使わなくなったことを思い出しました。さらに最近は、車にもハードディスクがあって音楽も相当量がここへ記憶させることができるので、一度読み込みをしてさえいればいちいちCDを出し入れする必要もありません。

こちらも始めの頃は感激して、せっせと読み込みに専念し、あげく一大ライブラリーといえば大げさですが、そういうものを作ったものでした。
ところが、車に乗り込み、エンジンをかけてさあ出発という一連の動作の中、あるいは走行中の信号停車中などに、この呼出操作をするのが(マロニエ君が苦手なせいもありますが)甚だ煩わしく、時間もかかり、鬱陶しくなり便利なはずのものが却ってストレスの原因になることがわかりました。

また、何を聴こうかという当てをつけるのも、トラック名がやみくもに並んでいるだけでは興が乗らず、最後はいつも適当というか、妥協的なものを聴くハメになるだけでした。
要するに選択範囲が多すぎて、しかもそれを液晶の無機質な文字だけでパパッと選択するという行為が、感覚上の齟齬を生み、自分にとっては快適な流れが生まれなかったわけです。

その点でいうと、自宅でCDケースの山の中から何を聴くかを決めるのが自分には自然であるし、車の中でもせいぜい50枚足らずのコピーCDを差し込んだファイルケースをぱらぱらめくりながら探すくらいが規模的にもちょうどよく、無用な神経も使わず、以来ずっとこの方法で通すようになりました。

しかし、今や時代の波はそんな悠長な感覚を顧みるひまもないほど進化し、すでにCDという商品を購入することさえどこか時代遅れの行為となりつつあって、とてもではありませんが感覚がついていけません。

本でも電子書籍などがどれほど流行っているのかいないのか知りませんが、とてもそんなものに切り替えようとは思いません。もちろんちょっとしたニュースをネットで走り読みするぐらいはいいけれど、いわゆる読書をするのに、液晶画面を相手にしようとはまったく思わない。
実際の本を買うほうが、値段も高く、場所もとり、将来はゴミになるかもしれないという主張もあるようですが、それならそれで結構。それでも紙に印刷された本のページを繰りながらゆっくりと読み進むことが読書の楽しみだと思うのです。

その点では、音楽は実際のコンサートでない限り、イヤホンやスピーカーから良質な音が出てくればいいわけで、この点では読書よりいくぶんマシのようではありますが、しかしマロニエ君にいわせれば、そこにもちょっとした違いはあるように思います。

昔はレコードを聴くといえば、大きなLPを注意深く取り出して、うやうやしげにターンテーブルの上に置き、慎重に針を滑らせてという、いまから考えればいささか滑稽ともいえる手順が必要でした。
しかし、その中に、音楽を聞くための心構えや集中力、期待感などもろもろの心理がうごめいて、出てくる音を耳にする前段からそれなりの盛り上げの効果があったようにも思います。

同じようなことが、今ではCDをケースから取り出してプレイヤーに入れ、再生ボタンを押すまでの手順の中に少しは生きているような気がしなくもないのです。少なくとも電話やメールをして写真や動画を撮って、ゲームに興じ、さらには無数のアプリ満載の小さな機械の中に一緒くたに入った音楽を聴くよりは、よほど情緒的なアプローチのようにも思うわけです。

実務実用の事ならそれも構いませんが、音楽や文学に接するときまで、極限まで追求された便利の恩恵に預かろうというのは、なんだかスタートから違うような気がするのですが、まあこれも今自分がやっているスタイルを無意識のうちに肯定しているだけなのかもしれません。
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