感情の衰退2

コンクールの主役は韓国に譲るとしても、岡本太郎の「芸術は爆発だ!」という言葉がなつかしいほど、いまの日本人には何事によらず爆発がなくなりましたし、それに附随するところの覇気も度胸もすっかり痩せ細ってしまったようです。
だから今の日本人は、ますます器が小さくなってしまっていると感じるこのごろです。

ちょっとでも枠をはみ出すと、変人のように認識され、たちまち空気が読めない人間と同列に分類されるし、同時に、いかにも誠実ぶって善人のフリをするぶんには、これが一番安全でなんの障害もない空気です。
なぜなら偽善が偽善だとは認定されず、いつの間にかそれが人間的に正しい振る舞いだと捉えられているからでしょう。

爆発といえば、暴発と同義語のように扱われ、まるでキレたり暴力的だったりする悪行のようなイメージをどんどん塗り重ねられていく流れは、もはや止めようもありません。
生きていれば怒ることも腹を立てることも多々あるものですが、それは際限もなく抑制するのが当たり前となり、誰もが聖人のように穏便に事を荒立てないことが金科玉条のようにされています。

そんな風潮の中でまともに意見でも言おうものなら、事の良し悪し以前に、意見を言ったという「異変」にみんな引いてしまいます。もちろんある程度は理性をもって制限しないと、なんでも感情を優先させるだけでは、ただの野蛮人になりますが、いくらなんでも今の状況は異常だと思います。

ジェントルなバランス感覚から発せられた抑制なら大変結構ですが、ただ臆病で、やみくもに自分の利益を守り通そうとするあまり、言葉を選び立派な人間の演技をし、安全第一、ひたすらマイナス要因を作らない事だけがすべてに優先しているようにしか見えません。
お陰で、今の日本の価値観は、表面は穏やかでも、内側には浅ましい我欲だけが渦巻いているようです。
すなわち、きわめて消極的自己中とも言えそうです。

その裏には、万一その逆をやらかして、自分が孤立したり、嫌われたりする場合に対する異常なまでの恐れ、ほとんど戦慄とでもいっていいような強い脅迫観念が張り付いているようです。

こういう狭いところに押し込められたような意識の中で、チマチマと息を潜めたように生きている日本人には、もはやおおらかに人生を謳歌して人間臭く生きるなどということは、ほとんど夢物語も同然です。

音楽コンクールで韓国に敗退するぐらいはいいとしても、これではこの先どうなるのかと思います。

若い世代の人を見ていると、すでに感情を抑えるということすら通り越して進化して、感情そのものの総量がずいぶん少なく小さくなってきているようにさえ感じます。何も感じないことが最も合理的でムダがないという、これはいわば、自然の摂理なのかもしれません。
自然な感情や反応は、あたかも世間を憚るべき下着の中のように、一切表に出してはならないものになってしまっており、これでは人間らしい喜怒哀楽も否定され、信念も情熱も持てず、政府の批判もできず、こういう風潮は考えれば考えるほどある意味ファシズム的で、無性に恐ろしくなってしまいます。

欺瞞の恐ろしさは、ついにはそれを欺瞞とも感じなくなることかもしれません。
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感情の衰退1

マロニエ君の音楽上の恩師のひとりでもあるフルートの先生から聞いた話ですが、今やコンクールはどこに行っても台頭する韓国勢の独壇場と化しているそうです。
この流れは、マロニエ君はピアノの場合として知っていることでしたが、やはりと言うべきか、それは他の楽器にも同じような現象が起こっているようです。

2009年の浜松国際ピアノコンクールでも韓国のチョ・ソンジンが優勝したのはもちろん、上位6人の中の実に4人を韓国人が占めるという驚くべき結果となったことも記憶に新しいところですし、前回クライバーン・コンクールでも数名の韓国人が実に見事な演奏をしたのは印象的でした。

その先生によれば、コンクールの現場で感じることだそうですが、韓国勢の強味はなによりもその激しい感情表現ということ。韓国人のあの激烈な感情の奔流が音楽にはプラスに作用しているようで、なるほどというしかありません。

めったに見ることはありませんが、韓国の映画などを観ても、その生々しい感情の動きが全体を支配しており、それ故にひじょうに見応えのある作品に仕上がっていると思います。原作にしろ監督にしろ、表現者としての翼を大きく羽ばたかせてのびのびと仕事をやっていると感じられ、ときには羨ましく感じる場合も少なくありません。

すくなくとも芸術面においては、良いものに対する素直な評価と価値基準も、韓国のほうが現在は一枚上手のような気がします。
日本人の能力は世界的にも稀有な民族だと誇りをもって思いますが、いかんせん公平・平等の思想がはびこりすぎて、芸術という、いわば出発からして非平等な世界の核心部分までもを侵食しているような気がします。
だいいち何事にもアマチュアが出しゃばりすぎる社会になり果てています。

これでは、本当に才能ある人物が現れても、それを社会が正しく評価できないことには上手く育つことはできません。
少なくとも日本はすでに認定され定着した評価には従順ですが、新しい芸術的才能に関しては、あまりにも鈍感すぎるような気がします。

同時に大したこともないような人が際限もなく続々と出てきて、結局はつぶし合いとなり、本物の芽まで一緒に摘み取られてしまうことがあると思うのです。

今年おこなわれるチャイコフスキーコンクールも、雑誌の下馬評では、ロシア対韓国という構図が出来上がっているようで、むべなるかなと思います。

日本人は器用でハイクオリティな演奏はできても、メッセージ性や高揚感に乏しく、演奏というものが終局的には表現行為である以上、聴く者の心を掴んで揺り動かすような圧倒的な主体性がなくては花は咲きません。
自己を押し殺して、表現しないことのほうに美徳と価値がある日本ですから、それは当然の成り行きでしょうね。
とりわけその傾向は近年ますます顕著になってきたようで、感情的な表現すら人工的に貼り付けた様子が見えてしまいます。

感情の振幅が小さいということは、おそらく表現者としては決定的なハンディとなるに違いありません。

ところが韓国側から見ると面白い意見があって、韓国のピアノ教育者の代表的な存在のひとりである、韓国芸術総合大学のキム・テジン教授は「平均的に見ると、日本のピアニストは知的であり、韓国は感性的。足して2で割れば完璧なピアニストになる」とも言っています。
これは社交辞令なのか、自分達にないものは輝いて見えるものなのか、真意はわかりません。

マロニエ君から見ると、ナショナリズムの問題は別として、現在の若いピアニストは圧倒的に韓国が上を行っていると思いますが。
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自己中オーラ

週末に天神の書店に行ったときのこと、見たい本棚の前にはたぶん30代とおぼしき女性がかがみ込んで熱心に本(実用書)を見ています。

マロニエ君も同じ書架で本を探していたわけですが、なかなか見つからず、とうとうこの女性がいる場所の真上が見てみたい状況になったのですが、この女性はいやにどっかりと腰を落ち着けて、とうてい動きそうな気配がありません。
仕方がないので、しばらく待ってみることにし、外の場所を見てみたりしていましたが、やはりどうしてもその場所しかなくなりました。

遠慮がちにその上の段を、上半身を曲げながら見てみようとするのですが、マロニエ君は比較的長身なこともあって、なんとか見えないことはないものの、やはり勝手が悪くて仕方ありません。

普通なら、本屋の書棚などはお互い自分のものではないのだから、社会通念としてお互い様という気持ちが働いて、自分がいる場所でも他人が来れば、わずかによけたり、ささやかでも譲り合うのが常識というものですが、最近はこういう具合に、人がいるのは充分承知しておきながら、譲るという気持ちが頭からまったくない人間がいるものです。
そのせいか、こちさら目を合わせず、微動だにしない人の姿はエゴそのものが蟠っているようです。

こうなると暗黙の戦いのような様相となりますが、とてもとてもマロニエ君ごときが敵う相手ではありません。

ガッチリとシャットアウトの鎧を着たかのごとく、自分と本との世界に固まっているような気配です。
見ると、その女性はそこの棚にある本を次々に片っ端から見ているようです。

今どきは、こういうことにいちいち腹を立てても仕方がないと、いいかげん腹を決めているつもりなのですが、やはりこういう状況に直面すると、どうしたってついムカムカきてしまうものです。
その女性の肩とこちらの足が10センチぐらいになって上半身だけ傾けて棚を見ようとするのですが、それは向こうも当然わかっているクセに、「断固として」動きません。

なんでそこまで頑張るのかと思いますが、いやはやこういう手合いにかかってはどうしようもありません。
あまりこんな手合いにこだわるのもバカバカしい気がして、さっと別ジャンルの売り場へ行って、そのあと近くのヤマハへ移動しました。

天神のヤマハは2階が楽譜や書籍の売り場ですが、マロニエ君はある新刊書を探していました。
ところが、な、なんと、さっきの本屋とまったく同じスタイルで、似たような年齢と思われる女性がやはり書棚の前にかがみ込んで、せっせと手にとって本を見ています。

ここではマロニエ君の見たい場所は、その女性が見ている箇所とは垂直線上で重ならないことが幸いでしたが、その女性はさっきと同じようないやに腰の座った雰囲気で構えが深く、こちらもどうして、少々のことでは動きそうにはありませんでした。
さっきと違うのは、いきなりガッと顔を上げてこっちを見上げてきたので、さすがに今度は人の気配を察して動きがあるのかと思うと、さにあらず、また元通り本を見始めて、公衆道徳らしきものは微塵も感じられない自己中オーラをバンバンと発散していました。

まあ、それだけの事ですが、なんだか無性に嫌なものに触れたような気がしてしまいます。
現代人は一皮むけばこういう本性を抱えているからこそ、表向きはキレイゴトが流行するのかとも思います。
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ライプチヒの名器

以前、このブログでも紹介した珍しいコンサートに行ってきました。

福岡市南区の高台に、日時計の丘ホールという名の小さな可愛らしいプライベートギャラリーがあり、そこに1910年製のブリュートナーがあります。
L字形の内部には藤田嗣治、熊谷守一、斎藤真一などの作品が展示されたシンプルで気持ちの良い文化的な空間でした。

ここで管谷怜子さんという地元出身のピアニストによるリサイタルが行われました。
プログラムはバッハのパルティータ第1番、モーツァルトのイ短調のソナタ、それにシューマンの交響的練習曲で、マロニエ君の想像ですが、このドイツ生まれのピアノに敬意を表す意味もあって、すべてドイツ音楽で構成されたのかもしれないと想像しています。

演奏はきわめて丁寧かつ誠実なもので、全体にゆっくりしたテンポと穏やかな表現で弾き進められました。

こんな場所にこんな空間のあることも意外でしたが、さらに意外だったのは、この御歳101歳になるブリュートナーでした。
サイズは見たところでは、おそらく170センチ前後の小さめのグランドでしたが、バッハのパルティータのB-durの軽やかな出だしからして、思いがけなく厚みのある、ふくよかでくっきりした音だったのには思わずハッとさせられました。

まずなにより特徴的なのは、音が太くかつ柔らかなことで、これにより音楽の輪郭にくっきりと明確さが出て、まるでインクをたっぷり含んだ太字の万年質の文字のようなイメージでした。
新しいピアノのなにやら人工的で必死さのある鳴り方に較べると、あくまで自然体で朗々と鳴っているところは、どことなく弦楽器的であり、良質の木が共鳴して作り出されるその純度の高い音は、聴いていて実に心地よいものでした。

パワーそれ自体も相当のものを感じ、とても100年前のピアノだなんて思えません。
仮に同サイズの日本製の新品ピアノを並べて置いても、この鳴りにはとうてい敵わないでしょうね。
昔の人は凄いピアノを作っていたもんだと思うと同時に、このピアノを作った人達は現在もはや一人も生きていない事を思うと、ピアノだけがこうしてすこぶる元気に生き続けているという事が、なんとも不思議でもあり感動的な気分になります。
何度も書くことですが、専門家のくせに「新しいピアノにはパワーがある」なんてことを堂々と言う人は、楽器の意味するパワーというものがまったくわかっていないと思わざるを得ません。

ドイツピアノでは双璧であったベヒシュタインに較べると、ブリュートナーには華やぎがあり、男性的なベヒシュタインに対して、ブリュートナーは女性的な美しさがあるとも言えるでしょうが、その達者な表現力にはまさに世界の名品の名に恥じないものがありました。
とくに交響的練習曲のフィナーレなどに代表される激しいパッセージにおいても、この老ピアノは一切の破綻を見せず、演奏をどこまでもガッチリと受け止めて、あくまでも音楽として鳴り響くところは、そこらのカッコだけの腰砕けのピアノとはどだいものが違うということを思い知らされます。

アンコールには、交響的練習曲に残された遺作の5つの変奏曲(プログラムでは演奏されなかった)から2曲が演奏され、それはそれで楽しめましたが、ブリュートナーと言えばライプチヒですから、できればメンデルスゾーンなどを弾いて欲しかったというのがマロニエ君の正直な気持ちというか、この流れからいえば密かにそうなるような気がしていましたが…。
このピアノで無言歌などを弾いたら、どれほどピッタリだろうかと思わないではいられません。

すっかりこのブリュートナーに魅せられてしまい、無性に戦前の古いピアノが欲しくなりました。
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ダンプチェイサー

この数日はようやく晴れ間が出たものの、先週の雨による湿度の増加は、心身共にぐったりくるものでした。
マロニエ君は自分自身が湿度に強くないので、除湿することは自分自身とピアノを2つながら守ることになるわけですが、さすがに数日間続くべっとりとした雨模様ともなると除湿器の能力にも限界が見えてきます。

もちろん24時間フル稼働で、終日休むことなく回していますが、それでも最終的には60%をなんとか切るぐらいまで迫ってきたのにはイヤになりました。

さすがにピアノも弾いてみると、どこなくぼんやりしているようで、なんとかできないものかと思っています。
そんな折、熱心な調律師のホームページなどを見ていると、複数の技術者がダンプチェイサーというピアノ専用の除湿器具の取り付けを強く推奨していました。

ダンプチェイサー自体は決して新しいものではなく、以前からその名前と存在だけは知っていましたが、なんとなくピンと来なくてそれ以上調べてみようという気持ちになれませんでした。
しかし、ある本の著者などはしきりにこれを「優れもの」と認識して読者に勧めていたりするので、機会があれば見てみたいぐらいに思いつつ、なかなかそんな機会があるはずもなく、以降そのままになっていたものでした。

このダンプチェイサーというのは、棒状のヒーターをピアノの内部に取り付けて、センサーの働きにより湿度が一定以上になると自然にスイッチが入り、湿度が下がれば自動的に停止するというもの。
装置自体も安くてだいたい1万円強から2万円といったところですし、平均的な電気代も200円程度/月というものですから、そこはたいへんリーズナブルだと言えそうです。

ところがピアノへの装着例が示されているのがどれもアップライトピアノばかりで、アップライトの場合は鍵盤下部の蓋を開けた内部にこのダンプチェイサーを左右の側板に長さを合わせ、つっかえ棒のようにして装着するわけですが、あとは蓋をするので区切られた空間となり、なんとなく効果がありそうに思えましたが、グランドの場合は水平の響板下に支柱があり、そのさらに下に取り付けるというもので、これでは機械自体が外部にむき出しとなり、果たしてそれで効果が期待できるものかという疑念が残ります。

もっとも気にかかったのは、要するにヒーターの周辺の空気を熱で温めて対流させて除湿するということは、この機材に近い部分の木材に悪影響はないのだろうかという不安を感じた点です。

そこで親しい技術者にこのダンプチェイサーについて聞いてみると、なんと効果絶大だそうで、付けると付けないとでは大違いという、思いがけなくどっしりとした答えが返ってきました。たとえばある施設の広い場所に置かれている除湿器の使えない環境のピアノは、激しい調律の狂いが多くの人から指摘されていたらしいのですが、これを装着することでピタリと安定してしまったとか。

すでに相当数を取り付けている実績もある由ですが、なんのトラブルもなく、ピアノの保護という観点においてこれは一大発明だと思うと自信をもって言われてしまいました。ただし、木材への悪影響についてはないつもりだけれども、それを数十年単位で判断するとなると、さすがにそこまではわからないというものでした。

唯一の問題点としては、国産とアメリカ製の二種があり、湿度設定が国産では65%、アメリカ製では45%に固定されていて任意の設定が出来ないということだそうです。
というわけで、梅雨を目前にして、さてこれを付けてみるべきか、大いに悩むこのごろです。
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結婚願望

ときどき結婚願望というものが高じてしまって、もはや執念のように暗く思い詰めている人がいます。
人間誰しも、自分の望むものを手にするために粉骨砕身努力するのはわかりますが、あまりにもその思いに囚われてしまうと、空回りして負のオーラが出てしまいます。
とくに結婚となると相手のあることで、年々歳はとるし、その焦りのクレッシェンドは鬼気迫るものに発展することがあります。
寝ても覚めても、仕事でも遊びでも、けっきょく意識の根底にあるのはそのことばかり。

どんなに優れた魅力的な人でも、ひとたびこの欲望のオーラを発してしまうと、ことごとく事は成就せず、欲しいものはますます手に入らない状況に陥ってしまうようです。
その一番の理由は、欲望の虜になり、それにのみ囚われ、余裕や柔軟性が無くなるからでしょう。
目的を掴み取るまでは、如何なることでも満足できないという本音が見えてしまうのは本人も周りも不幸なことです。

もうすこし率直な言い方をしてしまうなら、ひじょうに視野の狭いガツガツした人間のように見えるのですが、これは本人は必死のあまりわからないようですし、わざわざそんなことを指摘する人はいませんから、よほど自己分析に長けた人でもなければ、この悪い状況が解消されることがないわけです。

人間の姿として、物欲しげな状態というのはあまり見てくれのいいものではありません。
ましてやそれがパートナー探しとなると、まわりはそのパワーに圧倒されて引いてしまいますし、だからこの状態は自分から幸運を退けてしまう波動を出しているともいえるでしょう。

強すぎる欲望の持ち主には幸運はおとずれないという目には見えないセオリーがあるように思います。

みなさんのそばにもいると思いますが、一見活発でやたら友人知人が多いらしく、毎日忙しく動き回っているような人って、実は押し寄せる孤独を押し返そうとする必死さみたいなものが漂っていて、人は無意識のうちにそういう気配を確実に感じ取っているものです。

最近は自己啓発の類が盛んで、ほとんど意味をなさないような自分ミガキとか、キレイゴトの空虚な妄想のようなことを煽り立てて人を惑わす傾向があり、そこでは人間の能力も幸福の実現も、無限の可能性を秘めた泉のごとく語られます。
建前はいかにも正論で立派ですが、要するに不安感や欲望を煽っているだけにしか見えません。

「あきらめない」というような言葉も前向きで素晴らしいこととして巷に蔓延していますが、マロニエ君にはどうも非現実的な際限のない欲望追求にしか見えず、心は飢えて渇いたような人ばかりで世の中は溢れかえっているように感じます。
「あきらめる」というのも、本来は人が生きていく上で非常に大切な美徳なんですけどね。

結婚願望があるなら、いったんはそれをゴミ箱に捨てるぐらいの腹を決めて、悠然と構えて、余裕のある気持ちと態度で毎日を送った方がよほどチャンスは巡ってくるものです。
チャンスとか幸運というのは、実は大変なあまのじゃくで、欲した途端に逃げていくものです。

だから、さほど欲していない人のもとへ、ふらりとチャンスは立ち寄ってくれるものです。
男女の区別なく、モテる人は余裕があるから必死に相手を欲しがらないし、その余裕ある姿が魅力的に写るものかもしれません。利が利を生む論理そのものです。
すなわち強すぎる結婚願望そのものが、まさに結婚を自分から際限なく遠ざけているのかもしれません。
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ネットオークション

苦手なものがたくさんあるマロニエ君ですが、ネットオークションもそのひとつです。

ライバル不在ですんなり落札できるときはいいのですが、少しでも人と競り合う状況になるともうダメです。
特になんとしても手に入れたいものであればあるほど、不必要に気分が高ぶってしまいます。

ネットオークションでまったく油断ができないのは、終了までの数日間、だれも入札しないのでこのまますんなりいけるだろう…なんて思っていると、敵は最後の最後に闇の彼方から音もなく現れます。
マロニエ君は過去に何度このパターンに陥って、消耗戦を繰り広げたかわかりません。

何度か抜きつ抜かれつしたあげく、ようやく戦い済んであと1分で終わりというときに、またしても落札価格が更新されるときほど腹立たしく際限なき戦いを挑まれるみたいで気分の悪いものはありません。
こちらも意地になって、平常時なら考えられないような高値を入力してしまうハメになったことも何度かありますし、それでもえらくスタミナのある見えない強者にしたたかに持って行かれたことも何度もあります。

「それがネットオークションだ」といわれれば確かにそうなんですが、これがマロニエ君にとっては笑って済まされないような嫌な興奮と動悸が打つような疲労のごちゃまぜになるのがよくわかりました。
多くの場合、オークションの終了時刻は夜間に設定されているものですが、気合いの入ったアイテムの場合は、なんとなく朝から(いや前日から?)そのことに意識が行っています。
真剣なときは、バカバカしいようですが夕食さえゆっくり落ち着いて食べられません。

時間が近づくと家族には内緒で、はやる気持ちを抑えながらパソコンの前に居住まいを正します。
分単位の時間経過が、このときほど気を揉んで、いたたまれないものはありません。
その挙げ句に、さんざんやられて敗退すると、精神的にも激しい疲労に襲われて、一日の終わりが甚だおもしろくない、不愉快な幕切れとなってしまって、もう無性に情けない気分になるのが自分でもつくづく馬鹿げた事だと思うようになりました。そして、自分が性格的にこういうものに合わないことを痛感しました。

この結果、マロニエ君は金輪際、ネットオークションでの入札バトルには参加しないことに決めたのです。
さらにネットオークションそのものにも距離を置くことにしました。
ネットごときであんな切迫した不快な思いをするのはもうこりごりだからです。

その後は、欲しい物が見つかったときには、自分で冷静に価格の上限を判断して少し早めに入札し、終了時間近くは絶対にパソコンを開かないことにしたのです。
それで落札できていればよし、できなかったらさっぱりあきらめるという、いわばマイルールです。

さて、久々にこのネットオークションに入札しました。
狙っているのは絶版の書籍です。この数日だれひとり入札していませんでしたし、珍しく日中の終了時間となっています。
これはいけるだろうと根拠のない確信をしていましたが、夕方パソコンを開くと、なんと、終了1〜2分前に狙い撃ちされてもっていかれていました。

なんだか、無性にイヤなもんだとまたしても思ってしまいました。
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ほっとする電話

今はなにしろメール全盛の時代で、昔よりも電話で人と会話する機会が減ったのは明らかです。
メールというツールの出現と、さらには巷間言われる人間関係の希薄化も後押しして、とにかく電話をするというのがよほど緊急の状況に限ってのことか、あるいはよほど親しいかという一種の条件のような壁があるように思えます。

電話なら早く済むことでも、相手の見えない状況に割り込む可能性のある電話より、やはり一歩引いたメールのほうが好ましいという暗黙の了解があるようで、これは現代人が作り出した新しい共通認識のようになりました。
ここには相手への気遣いはもちろんでしょうが、自分が間の悪いときに電話をする迷惑人間として先方から認識されたくないという恐れなど自衛本能もかなり働いての結果だと思います。
言いかえるなら、控え目で遠慮しているだけでなく、実は電話をする勇気のなさ、卑屈さも加わっているとマロニエ君は分析しています(自分を含めて)。

そんな時代ですから、マロニエ君はむしろ電話をかけてくる人に、一種の率直な親近感を抱き、今どき失われた懐かしさみたいなものを感じてホッとするというか、つい嬉しくなっていまいます。
それにしても、いつごろから電話をすることがこうも遠慮すべき行為と認識されるようになったのでしょう?
携帯電話の普及と共に自然に確立された新マナーだといわれれば、そうなのかもしれませんが、甚だややこしい時代になったものです。

マロニエ君の友人知人には、比較的電話をかけてくる人が多い方じゃないかと思いますが、それでも昔に較べたらメールの比率はやはり高くなったように感じます。
こういうことをいうマロニエ君でさえ、かかってくる電話は歓迎でも、いざこっちからかける場面ともなると相手によっては無邪気にかけきれない事があるのは否定できません。
自分がOKなことが相手も同じとは限らないし、不本意ながらも、やはり時勢にはなかなか逆らえないものです。

というわけで、マロニエ君にとっては電話をかけてくる人かどうかという点が、自分との親しさのバロメーターのひとつになってしまっていると考えています。会ったときにどんなに親しげにしゃべっても、電話をかけたりかかってきたりしないうちはまだまだ本当の親しさが構築できたとは思えません。

とくに嬉しいのは、メールより電話を優先してかけてくる人です。
こういう人は、たいてい良い意味での無邪気さがあり、人間的にも明るくおおらかなので、こちらも大いに心を開いて接することが出来ます。

ところがまずメールからスタートする、あるいはメールでしか連絡しない人というのは、もちろん基本的にはこちらの都合のいいときにでも見ておいてくださいねという気遣いも入っているのはわかりますが、やはりちょっと相互間に距離がある感じがします(実際に距離がある場合はしかたないですが)。

さらにメール癖がもう一歩進むと、すべてメールですませて完結してしまい、いつのまにか直接会話するということに一種の苦痛や面倒くささが加わってくるのだろうと思われます。
とくに若い世代の人にこれを感じますが、だからますますメールの利用頻度は高まるばかりなんですね。

というわけで、マロニエ君は電話できそうな相手とは極力電話するようにしています。
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ラ・フォル・ジュルネ3

本来は「英雄」と「皇帝」は作品番号からいえば英雄のほうが若いけれども、一夜のコンサートのバランスという点では順序が逆で、「皇帝」→「英雄」の順であるべきだと思われ、その点はどうにも違和感がありましたが、最後の最後になってその理由がわかりました。

皇帝の終演後、割れんばかりの拍手に応えて何度もステージに現れたピアニストのダルベルトが、最後に紙とマイクをもって現れ、震災の追悼の意味を込めてと自ら説明して、ピアノソナタ第12番の第3楽章の葬送行進曲を弾きました。
残念ながら演奏自体はまったく首を傾げるようなもので、この作品本来の姿からかけ離れたものと感じましたが、ともかくもこれで一夜のコンサートでベートーヴェンの二つの葬送行進曲が演奏されたということになりました。
こういうオチをつけるために「皇帝」を後にまわしたのだろうと了解できました。

この日さらに驚いたことは、コンチェルトで使われたピアノでした。
シンフォニーの演奏中、ピアノはステージ左脇に置かれていましたが、それはツヤツヤのスタインウェイでキャスターは最も新しいタイプの特大サイズのものが金色にギラギラと光っていましたから、てっきりどこかから貸し出されたのか、あるいはこのホールが新規に購入したピアノと思っていました。
「ああ、また例の新しいスタインウェイか…」というわけです。

ところがシンフォニーが終わって、係りの人達によって舞台中央にピアノが移動させられてくると、ひとつピアノに不可解な点があるのに気がつきましたが、そのときはそれほど気にもとめていませんでした。

ピアノの移動が終わって大屋根が開けられ、準備完了となると、例によってコンサートマスターがAの音を出しますが、それがこころなしか色艶がありふっくらしているように感じはしましたが、しかしこの時点ではたった1音ですから、まだなんともわかりませんでした。

ダルベルトが登場し、冒頭の変ホ長調のアルペジョを弾いた途端、あきらかに!?!?と思いました。
最近再三にわたって書いている、新しいスタインウェイの音ではないのです。

でもサイドに書かれた大きな STEINWAY & SONS の文字やマーク、
ここ最近採用され始めた巨大なダブルキャスター、ピカピカに輝くボディなど、おろし立てのようなピアノにしか見えませんが、音はあきらかにちょっと枯れた深みと太さのある昔のスタインウェイの感じで、もうマロニエ君はあきらかに混乱してしまいました。

ところが細部に目を凝らして見てみると、このピアノは新しいピアノではないことが判明し、そのときは思わずアッと声を出しそうになりました。
それでわかったことは、あくまで客席から見た限りですが、察するに30年ぐらい前のスタインウェイで、おそらくはオーバーホールを機に全塗装され、足はまるごと新しいものに取り替えられ、サイドには大きな金文字が加えられたのだろうと思われます。

よく技術者の中には「新しいピアノはパワーがある」と言い、それは裏返せば「古いピアノはパワーがない」という意味になりますが、それはとんでもないことで、新しいピアノよりもよほど力強くオーケストラのトゥッティ(全合奏)の中でも逞しく鳴り響いていたこの事実を、こういうことをいう人達はどう説明するのか聞いてみたいものです。

逆に最近の新しいモデルでは、鳴りが悪くて、とてもこんな力強いコンチェルトは出来なかったと思われます。
鳴らないピアノというのは音じたいが常にどことなく苦しげですが、この鳥栖のピアノは熟れたなんともどっしりした貫禄がありましたし、「ああ昔の演奏会はこういう音だった」と懐かしさまでこみ上げました。

というわけで、いろんな意味でたいへん充実したマロニエ君のラ・フォル・ジュルネ体験でした。
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ラ・フォル・ジュルネ2

ピアノコンサートが終わると直ちに、次の会場である大ホールへ移動します。
この音楽祭の決まりで、いったん外に出て再び中へ入らないといけないのですが、一階ロビー周辺はもう立錐の余地もない大変な人、人、人で、そこへ入りきれない人が外にまで溢れており、前に進むのもやっとです。
おまけにここでは無料の室内楽コンサートまでやっているようで、まさに黒山の人だかり状態。

ちなみにホールのロビーには2台のグランドが大屋根を開けて置かれていますが、一台はヤマハの古いCF、そしてもう一台はなんとあの有名なフッペルのピアノでした。

鳥栖のフッペルといえば第二次大戦末期、特攻隊の若い兵士が、出撃前の最後の休日にやってきてこのピアノで月光などを弾いたという話があまりにも有名ですが、鳥栖市はこの記念すべきピアノの名を冠して「フッペル鳥栖ピアノコンクール」というものまでやっているほど、この鳥栖市にとってまさに宝のような楽器なのでしょう。

思いがけなくそのフッペルを実物として初めて見ることができました。
そうそうあるチャンスではないと思い、顰蹙覚悟で低いけれども舞台らしき台の上にのぼって中を覗くと、たいへん美しく修復されており、しかもけっこうなサイズ(優に2m以上ありそう)なのには驚きました。

昔は日本各地の学校には今では信じられないような世界の名器が無造作にあったのだそうで、福岡の修猷館などもスタインウェイがあったとか、以前も見た古い映像では戦時中女学生がもんぺ姿で歌を歌っているとき伴奏に使っているピアノがベヒシュタインだったりと、日本製ピアノが戦後台頭してくるまでは、学校にはこんなピアノがたくさんあったようです。

コンサートに話は戻ります。
大ホールのコンサートはゲオルグ・チチナゼ指揮によるシンフォニア・ヴァルソヴィア(かの有名なヴァイオリニスト、ユーディ・ネニューインが1984年に創設したポーランドのオーケストラ)で、演目はベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」とピアノ協奏曲第5番「皇帝」というものです。

英雄と皇帝というのも、あまりにベタな感じで笑えましたが、しかし聴きごたえのある2曲であることには確かです。

このコンサートは「大いにマル」で、英雄の出だしの変ホ長調の和音が鳴ったときから、なんというかある種の覇気があって、これは!と思いました。
予想通りに演奏は力強く、たいへん充実したものでした。
これは、とにかく久々に聴けた満足感のある演奏で、オーケストラそのものは特に大したことはないのですが、しかしみんなが気合いを入れて情熱的に演奏するために燃え立つような燃焼感があり、音楽になにより必要な生命感がみなぎります。
そして、この傑作シンフォニーの素晴らしさとあいまって音楽の中に引き込まれ、大いなる感銘を呼び起こすものでした。

当初は第6番「田園」が予定されていましたが、おそらくは(マロニエ君の想像ですが)英雄の第二楽章は葬送行進曲であるため、東北地方大震災の犠牲者の追悼の意味もあってこの曲に変更されたのだと、あとから解釈しました。

ともかく、燃焼して突き抜けた演奏はそれだけで聴く者の心を揺さぶるものがあり、ここ何年もこういう熱い演奏に接したことがなかったように思いますし、おかげで何年分かの溜飲が一気に下がった思いでした。

日本のオーケストラの中でも有名かつ上手いとされていながら、実際は役所仕事みたいなシラけた演奏しかしない高慢な放送局のオーケストラなどとは大違いで、フレーズの盛り上がりやストレッタなどではみんな上半身が反ったり揺れたり、音楽とはこういうもので、音楽家が演奏というものに今ここで打ち込んでいるという姿と音が目の前にありました。

続いて「皇帝」ですが、独奏者がエル=バシャからミシェル・ダルベルトに変更になったのは事前に発表された時点でガッカリでしたし、あいかわらずダルベルトの演奏はマロニエ君の好みではありませんでしたが、それでもこの活き活きとしたオーケストラに支えられ、あるいは触発されて、ダルベルトも非常に力のこもった渾身の演奏をした点についてはよかったと思いました。

ただ、せっかくの充実した演奏でしたが、楽章間に会場全体が盛んに拍手するのは今どきどうかと思いました…。
ごくたまに、あまりの熱演で思わず楽章間に拍手が起こるということはあっても、これはまさにその時の自然な流れから起こるものですが、それではなく、みんな無邪気に一曲ごとに拍手している感じがありありとしていて、挙げ句にはピアノの移動の際にちょっと楽団員が移動するのさえいちいち拍手々々なのには、ちょっといたたまれない気持ちになりました。

もちろんそれだけお客さんが喜んだという意味では大変結構なことだとは思いますけど、クラシックには最低の様式というものがあり、そこはぜひ守って欲しいものです。

都市部ではちょっと考えられない珍現象でした。
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ラ・フォル・ジュルネ1

九州初上陸のラ・フォル・ジュルネ鳥栖2011に行ってきました。
夕方から2つのコンサートを聴きましたが、結果は「大いにバツ」と「大いにマル」のふたつ。

東京で行われるような規模ではなく、わずか2日間の本公演でしたが、それでも3ヶ所の会場で30近いコンサートが行われたのですから、ともかくも画期的な音楽祭だったと思います。

今年のテーマは「ウィーンのベートーヴェン」ということで、すべてベートーヴェン作品が演奏されたようです。

そもそもなんで鳥栖なんだろう?という思いはありましたが、会場に近づくとなにやらあたりだけやたら賑やかで、車をとめるのも大丈夫だろうかと思うほどでしたが、幸いにもなんとか置くことができ、会場へ急ぎます。

敷地内はもう大変な人出で、覗くヒマはありませんでしたが、前庭には各種の屋台などがズラリと居並んでおり、人を掻き分け掻き分け進む様は、まさにお祭り騒ぎのそれでした。

会場は鳥栖市民文化会館で、ここの大・中・小の会場で各種のコンサートが繰り広げられているようでしたが、通常のコンサートと違うのは、同時刻に複数のコンサートが行われるために、目指すコンサートの会場入りを待つ列の後ろを探さなくてはいけないなど、ちょっとした戸惑いもありました。

マロニエ君は2日目の夕方からピアノソナタのコンサートと、オーケストラのコンサートに行きましたが、聴いた順にいうとまずピアノソナタのコンサートですが、これはものの見事に失敗でした。
演奏がともかくお話にならないというか、はっきり言って聞くに値しないものだったと強く感じましたので、あえてピアニストの名前は書きませんし、覚えてもいませんし、調べて書く気にもならなりません。
曲目はピアノソナタ第1番と第23番「熱情」で、ともにヘ短調のソナタです。

マロニエ君が座った席は100人強の会場の、ピアノをコの字形に取り囲む座席配置の中で、ピアノのお尻のほうの席でしたが、ここから真正面によく見えるのがペダルでした。
で、この人、やたらめったらソフトペダルを多用するのはもうそれだけでいただけません。

ソフトペダルは演奏する作品によっては柔らかな弱音や音色を変えるためなどにこれを使うのはわかりますが、タッチで強弱を付けるかわりにこのペダルを踏んでいるようで、どうかするとずーっと踏みっぱなしで、なんなんだと思います。
大まかな印象では全体の半分近くこれを踏んでいたように感じましたが、普通、熱情の前後楽章でこれを踏む場所がどこにあるだろうかと思いませんか?

小さな会場故か、ピアノはヤマハのS6でしたが、これがまたなんと言っていいか…。
少なくともマロニエ君にはその良さがまったく理解しかねるピアノで、帰ってカタログを見ると同サイズであるC6の倍近い504万円!もするのには驚き、何かの間違いではないか?と思いました。

よくCシリーズとは違うようなことを尤もらしく言う人がいますが、マロニエ君の耳にはまったくそれはわかりませんでした。カタログにも何がどういいのか、なにひとつ明確な記述も説明もないところが不思議ですが、それでこの猛烈な価格差はどう納得すればいいのだろうと思います。

高音がキンキンいう割りには低音が貧弱で、ゴンとかガンとかいうだけの音がいっぱいありました。
あれでプレミアムグレードという位置付けだそうですが、マロニエ君ならレギュラーシリーズのC6か、いっそC3でも充分だと思われました。

以前もちょっとしたコンサートでS6の音を聴いたときにも似たような印象だったことを思い出しましたが、このときはたまたまだろうぐらいに思っていましたけれど、やはりたまたまなんかではありませんでした。
少なくともヤマハほど厳格な品質管理の行き届いたメーカーの製品なら、そんな当たりはずれはないでしょう。

C6とS6の違いのわかる人のご意見をぜひとも拝聴してみたいものです。
とりあえず今日はここまで。
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自称恋愛の大家

こういっちゃなんですが、世の中はたいしたこともない人に限って、虚勢をはって大風呂敷をひろげるようなことを言うものです。
恋愛経験も例外ではなく、どちらかというとあまり経験がありそうには見えないような人のほうが、自分の経験らしきものをご大層に、恭しげに語ってしまう場合があるものです。

ごくたまにこの手の話を見聞きすることがありますが、そこで語られる「自分」はまるで映画の主人公並で、出会いからお付き合いの経過、心理の駆け引き、それにまつわる困難や苦労話までもが、誇らしげに、熱っぽく語られるのには失笑してしまいます。
とくにある種の目立ちたがりで、しかもどちらかといえばあまりおモテにならないような女性の中に、この手のタイプがいらっしゃるようで、逆に経験豊富な人はだいたい自分のことは黙っているようです。

どこまでが自分の経験か疑わしいような話まで一切合切ひとまとめにして、例えば相手の人間性の見極め方であるとか、世の中にいかに酷い最低の男がいるかというようなことが綿々と語られ、すべては自分を中心とした視点や思考基準のもと、そこに登場する男女は、より極端にコントラストを強調しながら、苛烈な筋書きをもって誇大に脚色され表現されています。

しかもその苦心談が、まるで壮絶で深みのある人生経験のごとく、朗々と語られる自慢話のようになっているのがお定まりです。
こういう人の得意のセリフは「下手なドラマなんかより、よっぽどすごい!」とか「全部話そうとしたら本が一冊できちゃう!」といったもので、マロニエ君などは、だったら書いてみろ!とつい言いたくなります。

そんなに稀有な体験で、波瀾ずくめのすごい話なんだったら、どんどん原稿にでも仕上げて、出版社なり映画会社なりにプレゼンでもしてみりゃいいのです。

あまり具体的なことは書けませんが、男女の仲において、片方だけがそれほど極端に悪くて、もう片方は善人の鑑のような人なんてとことがあるだろうかとも思います。
もちろん個別具体的にはいろいろと驚くべき話が転がっていることは承知していますし、実際ひどい男(女)もいるでしょう。

しかし、大きく見れば、男でも女でも、そんなに言うほど片方が酷い人間なのであれば、いつまでもそんな人と手を切らずに関係を引きずった側にも、ある一定の責任はあるように思います。

もちろん、第一義的には悪い方が悪いに決まっていますが、(とくに結婚していないなら)いいかげんに見切りを付けるべきであったところを、自分もいろんな諸事情あって未練がましく離れきれないでいたクセに、にっちもさっちもいかなくなったとたん、一転して相手ばかりをののしり募っても、なんだか客観的には説得力に著しく欠けていたりするものです。

ところが、こういう人に限っていつしか恋愛のオーソリティーのような顔をしはじめ、自分のささやかな体験を元手に、したり顔で恋愛論をぶちあげ、果ては他人の話に尤もらしいコメントをつけたり、我こそはという相談役となって堂々とアドバイスやお説教までやってしまいます。

人並のバスにさえ乗っていないような人が、その道の専門家のような口を聞くのは、まさに失笑ものです。
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練習会でした

昨日はピアノサークルの練習会でした。
今回はリーダー殿がゴールデンウィークで不在のため、マロニエ君が幹事役を代行しての開催でした。
とはいっても会場の予約や告知以外に何をしたというわけでもありませんが。

会場は市内のグランドピアノのある喫茶店で、そこを貸し切って使わせていただきましたが、普段の定例会とはまた違った雰囲気を楽しむことができました。
この喫茶店は音楽を主体にした店で、小さなコンサートなども随時おこなわれており、貸し切りで使うほかに、一般のお客さんの入店もOKの使い方であれば会場費はなんと無料!になるのですが、喫茶店利用が目的で来られた普通のお客さんを前にして、我々のようなシロウト集団が練習会をするのは営業妨害になると思われましたので、敢えて貸し切りでの利用となりました。

この店のピアノはわりに新しいヤマハのC5で、とても素晴らしいピアノでしたが、ふだん弾き慣れないヤマハのタッチにすっかり戸惑ってしまい、最後までこれに慣れることができませんでした。
ここの近くにある、定例会で何度か使ったことのあるスペースのC3もまったく同様のタッチであったことを弾いていて思い出しましたから、やはりこれがヤマハの標準的なタッチだろうと思われます。

あとからわかったことですが、今回は10人の参加者のうちの実に5人がカワイのグランドのユーザーで、これもなにかの必然か偶然か、そこのところはよくわかりませんが、みなさんピアノに関してはほぼ同意見であることが妙に納得できました。

マロニエ君も昔はともかく、今は普段はカワイに触れることが最も多いので、日本では最もポピュラーなはずのヤマハのタッチに戸惑いますし、出てくる音とのバランスの関係にもよく馴染めないようになってしまっていることに、我ながら驚いてしまいます。

目の前の文字が「K.KAWAI」じゃないことが落ち着かず、あの肉厚なYAMAHAの文字を見ただけで勝手の違うよその人みたいな気がしてしまいますし、これはきっと逆の場合もそうなんだろうなと思います。

そう考えると、どこのピアノでも待ったナシに弾かざるを得ず、しかもそれで自分の力を示さなくてはならないプロのピアニストというのは、本当に大変なことをやっているのだと思ってしまいます。

練習会終了後の懇親会は近くのホテルでバイキングとなりましたが、そこの宴会場の脇に置かれたピアノもヤマハで、このところ場所探しをしたほとんどの会場がヤマハでしたから、その一般的な普及率の高さは、とうていカワイの及ぶところではないようです。

もうひとつ感じたことは、マロニエ君みたいにメチャメチャ緊張するタイプの人間にとっては、会場は狭い方がよけいに緊張の度合いは高まるようで、広い方がまだいくらかマシということがわかってきました。
とはいっても、どっちみち緊張することに変わりはないのですが。
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黄砂

昨日は、郊外まで出かけたのですが、あいにく黄砂の影響で景色はどこを見ても限りなく重々しく霞んでいるようでした。
普通の霞や曇天と違うのは、空気がどこまでも薄茶色に汚れている感じのするところです。

黄砂を見ていると思い出すのは中国です。
中国に行くと上海でも北京でも、たえずこの色の空に覆われていて、そんな中に不自然かつ奇抜なセンスの高層ビルが林立しているのが現代の中国都市部のお定まりの眺めです。

これはいうまでもなく、年々その範囲を拡大しているらしい内陸の砂漠地帯から砂塵が風に乗って撒き散らされるためですが、この影響は日本でもかなり深刻なもののようです。

昨日も気がついたのは、走っている車の屋根やボンネットなどが、うっすらと黄粉をふりまいたように茶色に汚れていることで、これまでの黄砂だったらダーク系の車でそれを確認することが出来る程度でしたが、福岡ではここ数日黄砂が続いたためか、今回は白やシルバー系の薄い色の車でもそれがはっきりとわかり、やはり相当量が降り積もっているものと思われます。

マロニエ君は最近でこそ少し小康を得ているものの、もともと呼吸器がそれほど強いほうではなく、数年前は喘息治療で専門医のもとへ通院したりしていました。
親しい知人の医師が言うには、そのまた医師仲間である呼吸器が専門の医師の話によると、要するに日本人のぜんそくの多くは主に黄砂に起因しているというのだそうです。

黄砂がなくなれば日本の喘息患者の多くがより快適な体調を取り戻すことができるのだそうですが、そうはいってもこればかりは自然現象でもあるし、日本の東に中国大陸が存在するのは如何ともしがたく、まさか国が引っ越しをするわけにもいかないので、これはどう考えても解決の見込みはないようです。

しかし、たえず呼吸をしている人間(動物もですね)の肺には、現実にそれだけの量と時間、黄砂の成分が入り込んでいるわけで、それを思うと考えただけで呼吸が苦しくなりそうな気分になります。

巷ではたばこの煙が厳しく規制されていて、愛煙家には申し訳ないもののその恩恵に浴しているマロニエ君ですが、黄砂も純粋に人体へどの程度の悪影響があるのか、ここは興味のあるところです

黄砂の強い日は車のエアコンももちろん内気循環に切り替えてしまいますが、結局なにをどうしたところで、どのみち日常生活でこれを防ぎ切ることは不可能なので、結局はそれに対する抵抗力をつけるしかないということでしょうね。

そういえば中国には、日本人が普通に親しんでいるような、あの青空はほとんどないような気がします。
飛行機に乗っても、着陸態勢に入って次第に高度を下げると、まず印象的なことは一転して空気がどことなく茶色っぽいこと、海はおしなべてどんよりと濁っていることです。

逆に日本に帰ってくると、どこを見てもその澄んだ空気の美しさ清々しさに驚かされますが、ここしばらくはそれも望めそうにありません。
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真相はいずこに

あるピアノ技術者のブログを読んで「へぇぇ、そうだったのか」と思わせられる書き込みが目につきました。
やはりというか、思いがけなく感じていた疑問が解けたようでした。

ショパンコンクールでヤマハのCFXを弾いて優勝した、ロシアのユリアンナ・アブデーエヴァですが、これは同時にヤマハのピアノを弾いた優勝者が現れたという事でも同社にとって有史以来の初の快挙だったわけで、しかもその約半年前に発表された新開発のコンサートグランドがいきなり世界的コンクールでいわば金メダルをとったようなわけで、ヤマハの喜びようは大変なものだろうと思っていました。

当時の予想では、さぞかしこれからは広告やカタログにもそのことが大々的に打ち出されるものだろうと思っていましたし、それはマロニエ君だけでなく業界の人達もおしなべて同様の見方をされていたようでした。

ところがその後のヤマハの広告には、アブデーエヴァのアの字も、ショパンコンクールのシの字もまったく出てこないのは大いに予想外という他ありませんでした。通常ならたぶんこんなことは考えられないことで、かつてヤマハが広告にリヒテルをしつこいほど使い続けたことを考えると、「どうしちゃったの!?」と言いたくなるような静けさで、それは今だに続いています。

アブデーエヴァは優勝直後に2度来日し、一度はN響との共演、続いてワルシャワフィルとコンクールのファイナリスト達で回るガラコンサートでしたが、なんと彼女はスタインウェイばかりを弾きました。

はじめは「NHKホールは外部からピアノの持ち込みはさせないらしい」などの憶測も飛び交いましたが、ヤマハを弾かない状況は他のホールでもずっと続きました。
そして、冒頭の技術者の裏情報によれば、なんとアブデーエヴァ自身の意志によって、優勝後は使うピアノを変更したのだそうで、優勝直後にそれをするのは非常に思い切ったことだということも書かれていました。
しかも公演地は他ならぬ日本ですから、当然ヤマハもピアノを準備していたらしいのですが、これを退けてスタインウェイを使ったとのことで、そんな手の平を返したような豹変があるのかとただただ驚きです。

コンクール直後の海外公演で、しかもヤマハの生まれ故郷である日本の舞台で敢えてそれを弾かないというぐらいなら、なぜコンクールでは一次から一貫してヤマハを弾き続けたのかと思いますし、普通に考えれば、アブデーエヴァだってヤマハには恩義のひとつもありそうな気もしますし、ましてや優勝後初の日本での演奏なのですから(あくまで普通に考えればです)。

単純にアブデーエヴァがヤマハよりスタインウェイのほうを好きになったと見るのはあまりに稚拙な解釈という気がして、ここには我々にはうかがいしれない諸事情がありそうな気がします。
とくに企業間の暗闘には筆舌に尽くしがたい激しいものがあり、それに伴ってコンクール自体にも暗い噂がたったことが過去に何度もありましたから、今回もまた水面下でのいろいろな駆け引きがあり、これは要するにその結果だということもじゅうぶん可能性がありそうです。

楽器の業界も、舞台裏は魑魅魍魎の棲むドロドロの世界だと聞きますから、我々のようにただ音がどうのなんて勝手なことを言って楽しんでいるだけではすまされないものが絡んでいるのはまぎれもないこと。
結局、世の中って、どこも現実は決してきれいなものではありません。

好きなことは趣味にして、勝手なことを言っているのが一番ですね。
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草が伸びて

昨年の夏に何度か書いた庭の草戦争ですが、今年もついにはじまりました。
というよりも、戦いにおける先手必勝の法則に倣えば、出だしで大きくつまずいた感のあるマロニエ君です。

昨年は薬物投下により勝利宣言をしていたわけですが、今年はつい油断してしまい、毎日ばたばたしている間に、敵は春の陽射しをシャワーのように浴びて、日に日にその姿をあらわにしてきました。

つい先日、一度だけ簡単に除草剤をまいていたのですが、時間がないことと、けっこうこれが重労働で疲れるので中途半端に終わらせていたのですが、その間にもぐんぐん伸びてきてしまい、庭は一面緑のヒゲが伸びたように雑草の海になりつつあります。

早くしないとと気持ちばかりは焦りますが、なかなかその作業に取りかかれないのが毎日気がかりです。
方法としては、除草剤の原液を希釈して、ジョーロでまいていくのですが、自分の足にかかるとよくないので、ガレージから長靴を取ってこなくてはならず、たったこれだけのことも面倒臭くて何度か延期してしまいます。
どこかで腹をくくって、時間をつくってやってしまえばいいものを、ぐずぐずしているうちに敵は確実に進撃してくるのがなんだか恐ろしくさえなってくるわけです。

ところがこうしてモタついているうちに夕方から夜中にかけて雨になったりすると、まだ薬をまいていなかったことが逆に良かったように思われるというか、もし実行していたら、あえなく雨で流されるところだったと考えて、一時的にホッとしたり、しかし雨上がりはまた一段と伸びてくることを考えるとウンザリしたりの繰り返しです。
こう言ってはなんですが、怠け者というのも結構かかえるストレスは大変なものです。

また、この時期は木々から新芽やらなにやらが多く萌えだして、それを情緒として楽しむヒマもないほど、木の芽などいろんなものが毎日盛大に降ってくるわ、樹液でいろいろ汚くなるわでうんざりです。
距離を持って見ているぶんには緑はほんとうに美しいものですが、ちょっと身近の植物というのは実は不気味でグロテスクな一面があるものです。

樹下には自然に生えてくる木の新芽も数多く、一見これは自然の営みでかわいらしいもののように見えますが、さっさと摘みさっておかないと、一年もほったらかしにすると、もう引き抜くのも並大抵ではないほどの成長をしてしまいます。
こういう労働を怠ると、草木はそれこそ傍若無人な振る舞いを始めて、それこそあたりは不気味な状態となってしまいます。

これがアウトドアの作業とか庭いじりが好きな人なら、楽しみにもなるのかもしれませんが、マロニエ君の家にはあいにくと該当する人間が一人もいないので、いつもイヤイヤながらこの始末に追われていまいます。

ときどき、庭中にコンクリートでも流し込みたくさえなります…。
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管理意識の欠落

昨日は午後からむしむしすると思ったら、夕方から雨となりさっそく除湿器を回しています。

有名メーカーのセレクションセンターなどは常時、湿度は47%、温度は24℃に維持されているそうですから、これを一応の理想基準として自分のピアノの管理の参考にしたらいいと思いますが、なかなかそこまではできません。
マロニエ君の場合は湿度は50%前後、気温は20〜25℃といったところですが、就寝時は部屋が無人になるためにエアコンは止めますので、朝までは若干の寒暖差がおこるのはやむを得ないところです。

しかし、このピアノ管理というのは実は素人のピアノ好きのほうがよほどちゃんとしているくらいで、ピアノの先生やピアニストの中には、まったく信じられないような酷い人が多いのは、知る限りでもそうですし、人から聞く話でも同様のことは際限なく聞こえてくるものです。
いわばピアノの専門家の所有でありながら、ほとんど虐待とでもいいたくなる扱いのピアノは少なくありません。

ピアノの先生というのは、表現が難しいですがいろんな意味に於いて視野が狭く、本当に先生として尊敬できる人物、演奏の技量、音楽的な造詣、楽器の知識などを兼ね備えている人なんて、まさに文字通りの一握りの別格例外的存在です。

ピアニストはピアノの先生よりも演奏を本分にしているだけ、ピアノを弾くための単なる指のスポーツ的テクニックだけは先生よりも上だと言えるでしょうが、それ以外は大した差もなく、ピアニストでもピアノの事を何も知らない、ただの道具としか思っていない人のほうが圧倒的に多いようです…残念なことに。

タッチなども、極論すれば、たぶん重いか軽いか以外の判別能力は実はほとんどないでしょう。
ピアノの評価も派手な大きな音がするピアノを良しとして、少し地味でも本当に美しい音を出すようなピアノの良さがわからず、言下に「鳴らない」などと言ってしまうなど朝飯前。
レッスン室ではグランドピアノの真下に電気ストーブを入れているとか、ピアノの上に花瓶を置くなどという話はゴロゴロですし、メトロノームはあっても湿度計はなく、ましてやピアノのために除湿器を回すなんてことはあり得ないような人が大半です。

そうかと思うと、ピアノにはいつも重々しいカバーがかけてあったり、毎度毎度キーのフェルトカバーを置いたり取ったりすることだけはぬかりなかったりと、いったいどういう部分を大事にしているのか理解に苦しみます。

ピアノの管理とは限らなくても、世の中には湿度に対してそうとう無頓着な人が多くて、この点ではどちらかというと敏感なマロニエ君などは驚くことが少なくありません。
ベタついた湿度の中で平然としている人を見ると、思わず野蛮人のように見えてしまいます。

リサイタルをするようなピアニストでさえ、梅雨の時期にもエアコンを入れず、雨が降っていてもかまわず窓を開けて平気で練習するといった冗談みたいなことをするという、正にウソみたいな本当の話があるのです。
こんな無神経な人が、リサイタルをすることだけには異常に熱心だったりするわけですが、そんな人の演奏は聴きたいとも思いません。

そんな驚くべき管理の悪さは棚に上げて、たまさか調律師が来ると、後日どこどこの音がおかしいだのと日ごろの自分の管理は棚に上げて、お金を払ったとたんにクレームだけはつけたりするようで、調律師もたまったものではありません。

あれ?ピアノの管理のつもりがつい脱線してしまいました。
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昔のスタインウェイ

クリダのCDを聴いてもうひとつ、思いがけない収穫だったのはピアノの音です。
この一連の録音は1960年代の終わりから70年の中頃にかけておこなわれていますが、この時代のスタインウェイのなんと濃密な音がすることか!

昔はマロニエ君の耳に馴染んだ市民会館のスタインウェイなども、ああこういう音だったというのを思い出します。
変に人工的なところのない温かみのある音でありながら、強さと輝きもしっかりあって、そこはスタインウェイならではしたたかな迫真力みたいなものがビシッと張りつめているわけで、今どきの腰の弱いキラキラ系の音とは、根底にあるものがまったく違うことがわかります。

この時代のスタインウェイの音を聴いたことが、ピアノの音に対する深い原体験となって、そこからスタインウェイのファンになった人はとても多いだろうと思います。むろんマロニエ君もその一人です。

ひとつ確信できることは、現在のスタインウェイよりも木の音の占める比率が強いということ。
上質な木が作り出す音がまずしっかりあって、それを例のフレームの鳴りにブレンドして華麗に演出していることがわかりますが、今は逆で、さほどでもない木の音をフレームの鳴りでカバーしているだけで、だから厚みのない量産品の音なんだと思います。

クリダのCDを聴いている時期に、これも偶然ですがNHKのクラシック倶楽部という番組を録画している中から、ある日本人ピアニストのコンサートを聴きました。
このピアニスト、ちかごろショパン絡みでちょっと話題の人みたい(不覚にもCDまで買ってしまった)ですが、まったく何ひとつとして良いところが感じられませんでしたので、敢えて名前は書きませんが、この人のコンサートが出身地の関係なのか、NHK名古屋のスタジオコンサートでおこなわれたものでした。

このNHK名古屋のスタジオ収録で使われたスタインウェイは、鍵盤両サイドの腕木の形状やフレーム上のエンボス文字の位置などから、少なくとも30年以上前のピアノであることがわかります。
残念ながらこのピアニストの演奏は病人のようで音楽性も感じられず、とてもクリダのように美しくピアノを鳴らすことは出来ない人でしたが、それでも聞こえてくるその音はこの時代のスタインウェイ特有のあのなつかしい凛とした音でした。

総じてこの時代のスタインウェイには本物だけがもつ気品と真の深みがあり、いまさらながら感銘を覚えます。
音の濃密さと輪郭、電気でも流れているような圧倒的な低音などは、まさに本来のスタインウェイのそれで、新しいスタインウェイをまったく歯牙にもかけない極端な人もおられたりするのが、こういう音を聴くと、やっぱりちょっとその気持ちもわかるような気もしました。

こういうピアノが作れなくなってしまっている現実にも空虚なため息がでるばかりです。
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クリダのリスト

フランス・クリダという、その名の通りフランス人の女性ピアニストがいます。

もうずいぶん昔のこと、日本にも度々やってきてはよく演奏していましたが、当時子供だったマロニエ君はこの人のことはあまり好きではありませんでした。

というのも、演奏云々の以前に、とにかくリストばかりを弾くピアニストだったので、そのころからリストはあまり好みではなかったために、リスト弾きという技巧一点張りなイメージが子供心に強い反発を感じていましたし、彼女のことをリストだけを弾く下品なおばさんぐらいにしか思っていなかったんですね、当時は。

かなり何度も日本に来た印象はあったのですが、ある時期からパッタリと来なくなくなり、次第に名前も聞かなくなってしまい、その後どうしたのだろうと思っていましたが、どうやら後進の指導にあたり、最近はコンサートもあまりやっていないようだということがわかりました。

最近そのフランス・クリダお得意のリストのCDが14枚組になって発売されましたので、いろいろと聴いてみたい曲もあったし、彼女の演奏の記憶はほとんどないので、果たしてどんな演奏をしていたのかという興味もあり、これを購入して、ここ最近ずっと聴いています。

内容はリストの主要なピアノソロ曲をそれなりに網羅したもので、一枚目の巡礼の年を聴いただけでオッと思いました。
最近のリスト演奏からは聴かれない、深い落ち着きと、作品に対する心地よい自然さがあるのがまずもって意外でした。
その後も1枚のディスクを数回繰り返しながら聴き進んで、まだ全部は終わっていませんが、その全体に流れる一貫した演奏のありかたには深い感銘を覚えました。
同時に、むかしむかし、マロニエ君はクリダに対して大変な誤解をしていたことに気がついて、いまごろ彼女に申し訳なかったような気になってしまいました。「リスト弾き」…それだけで背を向けていたのです。

リストの本当の素晴らしさに気がついたのは、ずっと後年になってからのことですが、一握りのお祭り騒ぎのような、聴いているだけで恥ずかしいような有名曲の陰に隠れるように、なんとも精神性の高い奥深い作品がいくつも隠れていることを知るようになりました。しかし、それらを本当に満足のいく演奏をしているピアニストのなんと少ないことかというのも、偽らざる印象です。
巷では高い評価を受けているラザール・ベルマンもあまりマロニエ君の好みではありません。

その点、クリダは本当に適度な重厚さと自然さが見事に調和し、リスト本来の素晴らしい部分を引き出すような美しい演奏をしていて、冒頭に述べた下品さは微塵もない見事なもので驚きました。

これに比べると、先月のブログに私的で宗教的な調べのことで書いたブリジット・エンゲラーは、それなりの評価があるようですが、てんで奥行きがなく、クリダを聞いた耳には霞んでしまいました。

こんな昔のピアニストで、いまごろその凄さを知って驚くなんてことは、まずないことなので、すごく得をしたような気分です。
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またもお買い上げ

懇意のピアノ店から連絡があり、カワイのグランドが入ってきて調正が済んだので弾きに来てくださいといわれて、ピアノを欲しがっている友人を連れてに見に行ったのですが、そのピアノはRX-2 ITという特別モデルで、イタリアのチレサの響板を使った、いわばヨーロッパの血が混ざったカワイでした。

12年ほど前のピアノですが、まだまだ若々しくてピカピカした状態でした。
アクションは、カワイのグランドが樹脂製のアクションになる直前の、木製による最後の時期という点がさらにポイントでした。
カワイの樹脂製のアクションには賛否両論あって、一時はずいぶん技術者からの苦情も上がったようですが、カワイはそれにも屈せずに樹脂製のアクションを製造し続け、現在はそれが2世代目に発展して黒いカーボン系ものになり、強度を増しやや軽量化なども果たしているようです。
しかし、技術者の中にはこれを従来の木製に戻す試みなどもやっていますので、そこには様々な長短の理由があるのだと思われますし、やはり一長一短があるのだろうとは思います。

しかし、他のメーカーが一向にこのカワイの革新技術に追従しないのは、やはりまだ木製のほうがいいという考え方も根強いことの表れかもしれません。
マロニエ君は正直なところ、本当にいいものなら素材が何だって構いませんが、現段階ではやはり木製のほうがいくらか安心というか、やはりピアノには木製アクションのほうが情緒的にも収まりが良いような気がするのも事実です。
かといって、そこに大したこだわりはありません。

さてそのチレサの響板のRX-2、ここのご主人の高い技術力あってのことですが、なかなか素晴らしいピアノであったのは予想以上でした。若干キーが重いという点はやや気になりましたが、これはカワイのグランドが生来持つ特徴のようで、タッチの俊敏性を損なうことなくこれを解決していくのは技術者泣かせの課題のようです。

しかし、音にはレギュラーモデルにはないやや明るめの基音と、そこから立ち上る響きに立体感があるのが印象的でした。
技術者の整音技術にも大いに負うところがあるものの、音には太さと輪郭、芯と肉付きがあり、好ましいものでした。
さらには通常の響板のモデルよりも音にずんとした深みがあって、これはキーの重ささえ解決したらSKシリーズ寄りのピアノになるような気さえしたほどです。

これがエッと思うような値段だったので、ピアノ好きならだれだって気分はふらっとしてしまいます。
友人はかなりこのピアノにふらついている様子で、これは買うだろうな…と思っていたら、ご店主が先を制して2〜3日考えた方がいいですよと逆に言われ、この日はいったん引き上げることになりました。
そして後日、案の定、買う決断は変わらず、その旨連絡をしたそうです。

短期間の間にEX、RX-3、RX-2 ITと、やたらカワイにご縁がありますが、どれも素晴らしいピアノで、つくづくカワイはいいなあという思いを新たにしています。

それにしても、このところマロニエ君のまわりではピアノを買う人が続いてしまって、自分もつい買いたい虫が疼いてくるようです。
あー、ピアノが買いたい!
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立ち読み&メール

最近、あるショッピングモール内の大型書店に行ったときのこと。
いまさらという気もしますが、最近の人達の携帯メールへの依存度というか執着の強さには呆れてしまいました。

マロニエ君が見たい本棚の前で、立ち読みしている一人の男性がいましたが、その人がいるので左右どちらからも手が伸ばしにくく躊躇していましたが、彼はまるで周囲の人への気遣いなどは眼中にないといった感じで立ち読みを続けています。
最近はどうかしたことでは、やたらと気を遣ったりルールを守ったりということが盛んなようですが、それは表向きで、こういう場面での他者への配慮というのはまるでないと感じることがよくあります。

人の前の何かを取ろうと手を伸ばしても、1cmでも動こうとはしない若い人などはもはや珍しくもありません。
まあ、ここまでならよくあることです。

さて、マロニエ君もなんとか目指す本を手にすることができたのですが、そのときわかったことには、彼は立ち読みをしながら同時に携帯を開いた本と一緒に右手に持って、せっせとメールのやり取りをしているようです。
まあ、とりあえず人のことなどどうでもいいので、マロニエ君は自分の見たい本を見始めたわけですが、しばらく経ってもとなりの小柄で暗い感じのお兄さんはあいもかわらずメールを打ち続けています。

そんなにメールがしたいのなら、立ち読みはいったん切り上げて、どこか椅子にでも座って落ち着いてやりゃあいいじゃないかと思いますが、メール打ちにもときどき切れ目があって、そのときは本のほうを見ていますから、やはり本も見ているということがわかりました。
ご苦労なことだと思って、こちらも本に集中しようとするのですが、なにしろ真横のことなのでなんとなく気に掛かってします。というか…正直にいうと無性に気に障ってしまうのです。

そしてまた、とめどもないメール打ちが始まり、要はその繰り返しです。
そのメールも「はい」とか「わかった」ぐらいではなく、なにやら延々と文章を打っているようですから、だんだんこっちもイラついてくるのが自分でも嫌になります。
何度か横を向いてまともに見てやりましたが、いやはや、図太いというかなんというか、微動だにしませんね。

とはいうものの、マロニエ君もつい長い時間立ち読みしてしまいましたが、とうとうこの彼がこの場所からいなくなることはなく、正確ではないもののおそらく30分近く経っても、なにひとつ変化は起こりませんでした。
根負けして、こちらのほうがついに退散することになりました。

それにしてもああいう芸当は、器用だと思うと同時に、やはり疲れるだろうなあと思います。
そうまでしてメールにこだわるという理由もわかりません。

そこまで込み入ったことをやりとりするのであれば、いっそ電話でしゃべったほうがどれだけ楽で簡単かとも思いますが、まあそういう問題でもないのでしょうね、きっと。
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ピアノの嫁入り

今年のまだ寒かった頃、友人が海外からピアノを購入することになったのですが、彼はそのために部屋の引っ越しもして、迎え入れの準備を万全に整えるべく長い時間を費やしていたようです。
そしてその準備も整い、ついにピアノは搬入の日を迎え、めでたく所定の位置に収まったようです。

100年は保つと言われているS社のピアノですが、製造から10年ほどの新しい楽器で、聞くところでは、まだまだ弾き込みさえ必要な状態のようで、厳密には中古ピアノでありながらも、これから育てていくべき子供のような歳のピアノだったようです。

このピアノはマロニエ君懇意のピアノ店を通じて日本へ輸入されたのですが、てっきり船便でくるのかと思っていたら、購入決定から早々に手続きが進み、サッと空輸されてきたのには驚きました。
最近のコンテナは昔のそれとは違って密閉性なども向上していていて傷みが少ないと聞きますが、それでも洋上で幾日も過ごすことを考えると、航空便は速いし、リスクが少なく、短期間のうちに日本に到着し、数日後にはさらにお店までやってきたのは驚きでした。

むしろ日本に届いてからのほうが、迎え入れの準備に時間がかかり、その間このピアノは販売店の店頭で開梱され、入念な調整を受けた後、ピアノ運送会社の倉庫に居を移して嫁ぐその日を待っていたようです。

そして搬入日が満を持して一昨日のことだったらしく、果たして彼は前夜よく眠れたのでしょうか?
自分が思い定めたグランドピアノがいよいよ自分の許にやって来るというのは、やはり男性からすればお嫁さんがやってくるような高ぶりがあるのではないかと思います。

マンションの上階までクレーンで吊って上げたそうですが、見ていてずいぶん緊張したそうです。
マロニエ君もクレーン搬入を何度か経験していますが、グランドピアノが空高く宙づりにされるのは、本当にハラハラして心臓によくないものがあります。
いま何かあったらすべては終わりだと思いたくなるような瞬間が幾度もあるものですし、とりわけ最近のように地震が多発していると、そういう不安もさらに迫ってくるでしょう。

現に輸送中の事故でピアノがダメになったというのは、決して珍しい話でもなく、たとえばグールドが晩年にヤマハのCFIIを使ったのも、ある時期チェンバロで録音したのも、元はといえば彼愛用のスタインウェイ(大半の録音はこのピアノで演奏されたもの)が輸送中に落とされて、スタインウェイ本社の懸命の修復にもかかわらず、最終的には以前の状態を取り戻すことができなかったためだと言われています。
それぐらいクレーンでピアノを吊るというのは100%安心できない、リスクのつきまとう作業ですが、それでも持って上がれないところにピアノを搬入するにはやむを得ない方法なのだと思われます。
ともかく無事におさまって、めでたしめでたしでした。

さっそくにも写真を見たいと頼んだら、すぐに送ってくれましたが、いやはやなんとも立派なピアノが部屋の真ん中にドカンと座って(立って?)いました。
よほどのことがなければ、たぶんこのピアノは彼のこれからの人生にずっと付き合っていくことになるのでしょうから、まさにこの日は記念すべき一日だったと思います。
ピアノを買うというのは、やはり他のものとはなにか違って、人の情感が揺さぶられる何かがあり、こちらまでウズウズしてきます。
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義援金疑惑

東北大震災の被災者のための義援金活動が各地各所で行われていようですね。

マロニエ君も被災者の方にはなにか自分のできることをしなくては…という思いは人並みにはもちろんあるのですが、義援金ならばしかるべき公的機関の窓口以外ではしようとは思いません。

民間でやっているものも最近は実に様々なものがあるようですが、あれはちょっとした社会問題にもなっているようですね。
というのも、本当にそこで得られた義援金が、すべて滞りなく被災地の人達の手に、あるいは復興のために間違いなく活かされているかどうかという点は、相当グレーゾーンの部分も多いらしく、そうだろうという気がしています。

日本国内はもとより、世界各地でもそのチャリティコンサートなどがさかんに催されているようですが、どこまでがどうなのかと思うと、せっかくの人の善意に対して悪い見方をするようですが、でもそれを100%真っ当に捉えるなんてことはマロニエ君には申し訳ないけれどもできません。
正確にいうなら、善意が善意のまま、無事にその花びらがむしりとられることなく目的地にたどり着いているかという点では甚だ疑問です。

もちろん中には誠実にそれを実行している人や団体もあるでしょうけれど、その正しいことをしている人達の中に紛れ込んでいる、不届き者というのも世の中には必ず存在していると思いますし、義援金などという人助けに名を借りた、不明朗な金集め行為というものは、いわば火事場泥棒と同じで許しがたいものを感じます。
しかも、現代人は偽善の衣装を着るのは上手ですから、それを外から見分けるのは至難の技です。

もともとが寄付行為なので、集まったお金の管理自体も、どのようになされているの不透明です。
金額も、個人の任意によるものだから決まった額ではなく、その合計の数字などないも同然で、そこに誤魔化しの意志が忍び込めば、いくらだってできるでしょう。
この種のお金は透明性に対する要求も恐らく低いはずで、こればっかりは追跡調査して領収書との数字を付き合わせるわけでもなく、要するにすべてが曖昧という気がします。

とくに個人レベルでやっているこの手の行為は、イベントや物販をしても、必要経費と称していくらでも主催者は抜き取ることができ、マロニエ君は悪いけどあまり信用していません。

貯金箱のように壊さなければ開けられない箱でも準備して、衆目の前でそれを開け、金額を確認してその足で一気に役所にでも直行するのならともかく、後日だれかがどこかの受付窓口に行って来るというような流れなら、マロニエ君だったら御免被ります。
本当に義援金を出す気持ちがあれば、わざわざそんな怪しい経路を経なくても、直接自分の足で公的機関の受付窓口に行ったほうがよほどマシです。

実際にこの悪しき問題を解決すべく、すべての義援金の窓口を一本化すべきというような意見もあるのだそうですが、もともとが善意と自由意志に委ねられた世界であるだけに、なかなか実現が難しいようです。
日本人は災害発生時に略奪などの目に見える派手な行為はまずしない民族ですが、善意のお金を募って、その中から自分のポケットにも少しまわそうなどというみみっちい輩は、残念ながらウヨウヨいそうな気がします。

義援金を集めなんて、所詮はこういう側面がつきまとうものなので、マロニエ君だったら絶対に自分ではしたくないことです。
声にはされなくても必ずちょっとは疑いの目で見られるハメになるわけですから、それはイヤですね。
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楽典

このところ、勉強というほどあらたまった事ではないのですが、ふとした気まぐれで、楽典の本をパラパラみていると認識を新たにすることなどがあって、妙に面白いもんだと思っているところです。

楽典は昔、十代の時にひと通りはやったことですが、もともと全部が全部キチンと頭に入っているわけでもないし、もちろん忘れていることもたくさんあって、ページを繰るごとに思い出すこと、あらたに覚えるべきことなど、いろいろとあるものです。

とくにイタリア語の表記には、同じ意味でも何通りもの言葉があって、ほとんど使われないものも多くありますが、本来のニュアンスとしては、微妙にどう違うのか、作曲者はどう使い分けていたのかというような点は多いに疑問で、そのあたりはとても謎めいていて興味が湧いてくるところでもあります。

人間、何事も自分でわかったつもりになっていることほど恐いことはなく、あらためて本を開いてみると、ちょっとした思い違いや発見がゾロゾロ出てきて記憶が修正され、そのあとに楽譜を見ると、なんとなく見方が良いほうに変わってくるようですし、こういう変化は柄にもなくちょっと良い気分です。

考えてみたら楽典の本を読み返すなど、本当に恥ずかしいぐらいに久しぶりで、つくづく自分の不勉強ぶりを思い知らされた気がしています。
ちょっとした気まぐれから見てみた楽典の本ですが、けっこう面白いのは意外でした。
それで味をしめて、古くて茶色になった昔の教科書だけではつまらないので、新しい楽典の本を一冊買ってみましたが、これもまた面白く読むことができました。

何事もこうして絶えずおさらいをするというのは大事なことなんでしょうが、マロニエ君のような生来の怠け者にはよほどの偶然か気の迷いでも起きない限りそういうことはないので、今回は、その気の迷いのお陰でとっても得した気分です。
たったそれぐらいのことで、そんなに得した気分になるのなら、では、もっとあれこれ勉強に精を出せばいいのですが、それはそれこれはこれで、やっぱり殊勝な気持ちはなれないんですね。
好きなことをしながら、それが結果的に勉強にもなるというのが理想ですが、そう都合良くはいきません。

ただ、マロニエ君は練習は昔から超のつく怠け者ですが、作品の解釈とかディテールの意味づけ、各所の表現という部分にはそれなりのこだわりがあるので、その点を分析追求するには、やはり楽典のおさらいは有意義だと思いました。

この際これは本棚にしまい込まないで、ひまひまにパラパラ見るだけでも参考になるので、しばらくは手の届く場所に置いておこうと思います。
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模造モール

所用があって平日の午後、西区方面へ出かけたついでに、たまたま前を通ったので、さる15日にオープンしたばかりの木の葉モールをちょっとだけ覗いてみました。
このところの大型ショッピングモールといえば、ほとんどはイオンかゆめタウンの両横綱に占領されている観があり、いささか飽き飽きしていたところでしたので、木の葉モールは経営母体がそれらとは異なるし、果たしてどんな新しいものができるのかという興味がありました。

駐車場は大半が立体で3Fからのようですが、平日にもかかわらず、行けども行けども満車エリアが続き、ついに4Fにまで押し上げられて、そこでもかろうじて一台分のスペースを見つけ出したほどでした。

売り場は1F/2Fで、なだらかな曲線状に伸びたメイン通路の両脇に無数の店舗がひしめき合っています。
時間がないので、ごく短時間でサッと見て回っただけですから、おおざっぱな印象でしかありませんが、はじめに見てアッと思ったのは、まるでイオンモールのやり方をそのまんま丸写しのような感じで、なんだか見ているこっちのほうが恥ずかしくなるような気になりました。
中国のなんちゃってワールドは笑っておきながら、こんなにもそっくりな雰囲気を大真面目に作ってしまうという日本人の横並び精神も、これはかなりのものだと思いました。

あそこまで真似して、恥ずかしくないのかと素朴に思いますし、マロニエ君的には、どうせ新しいものを作るのであれば、それこそイオンなどの先発を充分に研究し尽くした上で、そこにさらに新しい発想、斬新なアイデア、これまでになかったスタイルの提案などをやってみるべきでは?と思うのですが。
別にモールに限りませんが、後発組の強味とチャンスは正にそこにあると思うのです。

それなのに、パッと見た感じでは、また新しくイオンモールがひとつ増えたとしか思えないようなものでしかなく、しかもしょせん真似は真似なので、イオンのほうが全体的にサマになっていてあれなりに本物という感じで、こちらは模倣特有の後ろめたさが漂っています。

店子も具体名は書きませんが、どれもこれもがお馴染みのものばかりで、いまどきのモール入居する店は同じ顔ぶれしかないのかという、ちょっとがっかりさせられるというか、底の浅い限界を見せられるようでもありました。
それもこの手のモールが近くに存在しなかった田舎ならまだしも、同じようなものがすでにいくつもある福岡都市圏内で、なんでいまさらこんなにまで同じことをするのかと思います。

日本人の商売人は、日夜勉強を怠らず、ライバルを研究し尽くし、お客さんのニーズを徹底的に分析し、おそらくは連日のように会議やディスカッションなどを繰り返しているものと思われますが、その結果がなんの新鮮味もない、既存のモールの模造品を作り上げただけという現実は、あまりに思慮と冒険性がふたつながら欠落しているように思います。
新しいことを作り出せず、既存のスタイルをただ踏襲するだけでは、そのこと自体がすでにもう内向きだと思いますね。
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不燃ゴミの怪

所帯じみた話題で恐縮ですが、不燃ゴミ等の収集日には、いろんな謎の人達が出没して行き交う、不思議な夜となります。
飲料用のアルミの空き缶などは、これを自転車の前後左右に山のように積み上げて、ふらふらと走る姿などもよく見かけます。

一昨日の夜のこと、月に一度の不燃ゴミの収集日だったので、空き缶/ビンなどの燃えないゴミをまとめていましたが、外が明るいうちに外に出すのも憚られるので、いつもできるだけ夜遅く出すよう心がけています。
その夜はちょっと外出していて、夜の11時ごろ帰宅し、車を降りてガレージのシャッターを閉めようとしたとき、目の前に軽トラックが走ってきて、運転者はいかにも慣れたような動きで、向かいのマンションのゴミ置き場にスッと入っていきました。
不燃ゴミ等の収集日は何らかの収穫を求めてか、こういう人達が引きもきりません。

ここまではいつものことなのでとくに気にも留めませんでしたが、我が家のゴミを奥から出してきて、外に出そうとしたとき、軽トラックの人は戻ってきて運転席に座り、まさに発進するところというタイミングでした。

その時に、なんというか…ちょっとした視線を感じたというか、なにか引っかかるものを感じはしたものの、とくに気にもせずゴミを出すという一連の動作を続けて、門扉の鍵を閉めて、玄関に向かおうとしたとき、小さく「カチャッ」という音がして、それが軽トラックのドアが開く音だということはほぼわかりましたが、妙に気持ち悪くなって、それ以上外を見ることなく玄関に入りました。

しかし、家に入って着替えをして手を洗っていると、外では相変わらず車が動いたり止まったり、ドアをバタンと閉める音などが小さくつぎつぎに聞こえてきます。
ポッと点火したさっきの不安はますます募ってきました。

もうお分かりだと思いますが、マロニエ君としては彼らに我が家のゴミが漁られたんじゃないかという気がしてならなかったのです。
というわけで、玄関を入ってからわずか5分後ぐらいのことですが、ちょっとゴミの様子を見に行ってみることにしました。
袋の上口はちゃんと縛っているのに、乱雑に開けられていたりしたら嫌だなあという不安とともに、恐る恐る門扉のところまで行ってみると、あれっ!…なんと今しがた置いたはずのゴミはものの見事に消えています。
どうやらさっきの軽トラックの人が袋ごと持っていってしまったようです。

もちろん捨てたものですから持って行かれても問題にはなりませんが、不燃物とはいえ、自分の家のゴミを他人がそのままそっくり持っていくなんて、やっぱり気持ち悪くてちょっと衝撃的でした。

中はしょうもない金物やガラスのがらくたばかりで、彼らが期待するようなものは何もなかったはずですが、それにしてもよくまあそんなことをするもんだと思います。
それ以降、家の中にいても妙に外の気配を伺っていると、なるほど、つぎつぎこの手の人がやって来ては去っていくのがわかりました。

それでひとつバカなことが閃きました。
処分代を出して引き取ってもらわなくてはいけないような大きめの粗大ゴミでも、この月に一度の収集日に外に置いておけば誰かが持っていってくれるかもしれないと思うのです(笑)。

ただ外に置いているものを誰かが知らぬ間に持っていくというだけなら、なんの法令にも反することではないし、それで面倒な手続きもしないで、しかもタダでゴミ処分ができるなら、こんなありがたいことはないわけですから、そのうちダメモトでいちど置いてみようか…などとつい変なことを思ってしまいました。
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常識は非常識?

たまたまテレビを見て知ったことですが、最近の人の行動にはエッと驚愕させられることがあるものです。

それは簡単に言えば礼儀知らずということになるわけですが、どうも、そういう言葉さえ適切ではないような、もっと根本にあるもののどうしようもない成り立ちの違いをしみじみと感じさせられることがあるのは決して珍しくありません。

何事も正否にほとんどかかわりなく、数さえ増えればその勢力がうまれ、拡大し、しだいにそれがスタンダード化していくというのは、まるでバッタの大群みたいで、ほとんど個人差の領域を凌駕してしまっている点はつくづくと驚かされる点です。
しかもこれといった悪意すらもなく、本当になにひとつ礼儀らしきものを知らない無知のなせる技であるようで、だから当人はまさか自分がそんな非礼をやらかしているなどという意識も自覚もないようです。
正に字の如く、礼儀を知らずに歳だけ大人になってしまった人が大挙して世の中に現れ、それが日本人の文化を駆逐しながら尚もうねりとなっているようです。
だからこそ、この流れは、とどまるところを知らないのでしょう。

そのテレビでびっくりしたのは、今回の東北の震災で被災した人達のいる避難所に天皇皇后両陛下が御見舞にお出でになったときのこと、両陛下が床に両膝をついてお話をされているというのに、それを受ける側(若い人だったらしいですが)はなんと、帽子もとらず、足はあぐらをかいたまま!!でずっと話をしていたとか。
また別の日に皇太子両殿下が行かれたときには、ほとんど信じがたい事に「写メ、いいですか?」といって、記念撮影を所望し、なんと殿下はそれに応じられたとか!!

こういうことが、ただ単に時代だというだけで片づけられることだろうかと思います。
これがもし、皇族に対する思想的なものの絡みがあり、ある種の抵抗心からの行動ならまだ理解のしようもあるでしょうが、そういうことではなく、ただの無知であり、ただの無邪気さであるところが、よけいに驚きを募らせます。

マロニエ君は別に天皇制や皇族方に対して格別の思いもなにも持ってはいませんが、でもしかし、少なくとも日本という国に生まれ育って、そこに長く暮らしてきたからには、皇族の方々のお出ましに際して、気持ちがどうであれ、こういう態度をとるというのは体質的本能的に、夢にも考えられないことではないでしょうか。
これはほとんど日本人のいわばDNAにかかわる問題だと思いますが、もはやそういうものすら消滅しかかっているのでしょうか?

ただ、これらは、ただ彼らが非礼でけしからん!というだけで済まされる問題ではなく、それを大事な成長期に教えなかった親をはじめとする周りの人間、ひいてはそういう感性を容認させた社会にも大きな責任があるのだと思います。
現代は本当にこういう人間が出現するような環境なんでしょうね。

個人的経験で言っても、本当に社会常識のない、無知でひたすら受身な種族というのが異常なまでに多すぎると感じます。
しかも彼らには一向に悪意すらないところが、いよいよ始末に負えないところです。
恐ろしいことには、それで立腹のひとつもしようものなら、下手をするとこちらのほうが悪者にされかねません。

自分が普通だと思ってきたことが、最近ではことごとく裏切られるシーンに直面するのは本当に虚しいものです。
しかも、それが年々スタンダードのようになり、もはや無人島にでも行って社会との関わりを断たない限り、そういう人達と関わり交わりながら生きて行かなくてはいけないところまで、日本の社会が来てしまっていることは、かなり危ないことだと思います。

受身のスタンスも度が過ぎると邪悪ですね。
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心の豊かさ

過日は知人からのお招きをいただき、ご自宅にお邪魔させていただきました。

そこは一戸建ての住宅ではなく、戦後間もなく建てられたという大型団地ですが、内部はとても美しくリフォームというかイノベーションというのでしょうか、ともかくそういう改装を施されてとても快適な居住空間になっています。

知人はここの住人であるわけですが、そこになんと普通サイズのグランドピアノを数年前に購入しています。
外からクレーンで吊ってベランダから納入されたらしく、このとき、近隣住人や管理者への事前の許可などは敢えて得ることはしないで、購入後にその旨の挨拶をされたらしいのですが、その手際の良さと英断が功を奏してか、この数年間というものクレームらしきものもなく、ごく平穏に、しかもピアノのある充実した心豊かな生活を楽しんでおられるのが一目見てわかりました。

今どきですから、集合住宅の場合はちょっとしたテクニックというべきものが必要で、ヘタに正面切って事前の許可を得ようなどとしようものなら、却って藪蛇になるだけで、どっちみちいい顔されるはずのないピアノに対して、正式に「はいどうぞ」と言われることはまず無理だと思われます。
別の知人は、ピアノ可の条件でマンションを探したところ、なかなか思うようには事が運びませんでした。
最終的にはどうにか決まったものの、かなり時間もかかったようでしたし、そのために不必要な広さや部屋数であることも受け容れて妥協しなくてはいけなかったと聞いています。

さて、普通は団地にグランドピアノというと、いかにもミスマッチのように思われがちですが、子供のある家族などならともかく、そうでなければいざ置いてみれば、必ずしもそうとは限りません。
今回の知人のお宅でも、思った以上にピアノはきれいに定位置に収まり、なかなか良い雰囲気を醸し出していました。
やはりピアノのある空間はいいものです。

この方は、ここで音を出すのを夜8時までと決め、それ以降は消音機能で練習されているとか。
それでも、文句が出るところでは出るでしょうから、この方の場合、たまたま近隣の方の理解に恵まれたということも現実的にはあるとは思いますが、やはりそこはお互いの理解と気遣いと譲歩があればこそだろうと思われます。

ピアノはカワイのグランドでしたが、人間に喩えるならまだまだ幼稚園か小学校の低学年ぐらいの歳で、すべてはこれからという新しいものでした。中音域から高音に至る音色は、ふくよかさの中にもキチンとした骨格があって、変な癖のようなものがまったくない、とてもきれいな音を出すピアノでした。
このサイズの日本製ピアノは、どうかするとえげつない音になることがありますが、良い場合のカワイには、そういう一面がないところがやっぱりいいなあと感じ入ってしまいました。
低音もごく自然で、中音域からきれいな繋がりを持っていて、どんな曲にも対応できる幅広さと普遍性をそなえていると思います。

それにしても、部屋にグランドピアノのある眺めというのは、他に代え難い、豊かな文化性みたいなものがあふれていて、そこには非常に上質な空気が流れているように感じますから不思議です。
別項でも書きましたが、ピアノは現代の実利的尺度で見るなら、重くて場所をとるローテクのかたまりですが、そのグランドピアノが作り出す空間の質感というものは、たとえそこにどんなに高価なパソコンやAV機材等を並べたとしても達成することはできない、主の精神生活の豊かさみたいなものが溢れています。

同行した知人も、あの光景にはちょっと刺激を受けたと言っていましたが、たしかにそれはよくわかるような気がします。そのうちそのうち…と躊躇ばかりせずに、一日でも早くこういう環境を整えるための決心と行動をした人から先に、本当の豊かさと喜びを日常の中で享受することができるのだなあと思いました。

ピアノはもちろん演奏されているときもいいものですが、ふたが閉じられて、静かに佇んでいる姿もこれまたなかなかいいものだとマロニエ君の目には映ってしまいます。

いろんな制約の多い今の社会では、諸事情あって普段は電子ピアノ、レッスンや発表会などでどうにか本物ピアノに触れるというパターンがあり、それはそれでやむを得ないことではありますが、こうして本物ピアノを生活の中に迎え入れ、その空間で毎日呼吸している人の満足と充実度の高さというのはやはり格別で、この満足は電気製品では到底及ぶ領域のものではないようです。
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ポイントカード

今どきはどこでも「ポイントカード」というのがありますね。
このポイントカードの取扱いと運用をみていると、だいたいお店の質というものがわかります。

質というのは別に高級品を売っている店という意味ではもちろんなくて、いかにお客さんを大事にし、イメージアップこれ努めているかという点、いわばお店の体質とか店員教育のレベルです。

マロニエ君は以前は今よりももっとたくさんのポイントカードを持っていましたが、これのせいで肝心なものはろくに入っていない財布は常にパンパンに膨れ、いざ買い物をしてポイントカードを出す際にも必要な一枚を探し出すのにもレジで一苦労してしまいます。

そのポイントカードには甚だ腹立たしい要素がまとわりつくのは皆さんもご経験があることと思います。
たとえば、500円にハンコをひとつ押すということになっていたとすると、950円プラス消費税で997円であってもハンコは1個で、こういうことってなんか無性に不愉快になるわけです。端数はいつも切り捨てられ、実際の金額より少ないハンコしかもらっていないのだから、こういうギリギリの場合は2個押すのが人情というものです。

また、カードそのものにも有効期限があって、発行から一年間、中には半年なんてものもあります。
ハンコを20個貯めたらなんらかのサービスが提供されるというような場合、あとわずかで達成するというようなとき、レジの頭の悪そうなオネエチャンから、すげなく「期限切れとなっておりますので、新しいのをお作りしておきまぁす。」と一言のもとに切り捨てられて、今まで一年間我が財布の中ですごしてきたカードはあっけなく処分され、またゼロスタートの新しいカードを手渡されます。

こういうことが重なって、しだいにポイントカードは持たないよう(作らないよう)にしました。
いくら得するか知りませんが、あんなもののせいで意識が縛られ、挙げ句の果てには期限切れなんてことになるぐらいなら、はじめから何もないほうがよほどいいと思うようになりました。
だいいち期限なんて言ったって、今どきひとつの店だけにそうそう一途に通うはずもなく、一年を僅かに過ぎてもポイントが満杯になるまで繰り返し来てくれたお客さんというのは、本来ありがたいものであるはずです。

マロニエ君がおかしいと思うのは、そもそもポイントカードというものが、お客さんの獲得とサービス提供のためにやっていることなのだから、その基本理念を考えれば、運用にあまり厳格になりすぎてお客さんに逆に不快感を与えてしまうようでは、これぞ本末転倒だと思うのです。

これは経営者と末端の店員との意識のズレなのかもしれませんが、結果的にルールのほうがすべての上に君臨して、お客さんのほうがそれに従うという、もはや本来のサービスの精神とはかけ離れた結果を生んでしまっているような場合が多すぎるように思います。

冒頭の「お店の質」というのは、それを適宜お客さんの利益になるように柔軟性をもって計らってくれる店や店員さんもあるわけですが、質の悪い店ほど杓子定規なルールの奴隷になって、いつしかお客さんよりも店やルールのほうが上位に立って威張っている場合があるのは、もしマロニエ君が経営者ならとんでもないことだと思うのですが。

ひどいのになると、店員がポイントカードのルールを語るときの態度が、まるで法令でも盾に取る官憲のごとくで、冷淡かつ上から目線の場合などもあり、こうなるとその店に対するイメージが悪化し、下手をすればこんな店には二度と来るものかという最悪の事態にも発展するものです。
たかがポイントカードぐらいなことで、ルールの執行者のような気になっているガチガチの店員ほど腹立たしくバカに見えるものはありません。

まあ、あんなものはないほうがよほど気楽に買い物が出来るということで、最近は大幅に縮小していますし、「お作りしましょうか?」と聞かれたときに、「いえ、要りません!」と言ってやるときの気分の良さといったらありません。
最近気がついたところでは、これを断っている人がかなり多いことで、やはり皆さん同じなんだなあと思います。
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ユンディ・リのライブCD

タワーレコードの試聴コーナーに、ユンディ・リの「感動のショパン・ライブ・フロム北京」というのがあり、昨年5月に北京の国家大劇院でおこなわれた演奏会を収録したもので、どんなものかと聴いてみたところ、これがいろんな面で感じるところのあるCDでした。

マロニエ君は実を言うと、個人的にはユンディ・リは(お好きな方には申し訳ないですが)あまり評価をすべきピアニストとは思っておらず、自分なりにあれこれとかなりCDを買い漁るわりには、たぶん1枚も彼のCDは持っていないはずです。
それはNHKの放送などで何度となくその演奏に触れてみて、一向に惹きつけられるものがないし、昨年はショパンイヤーということもあって、ノクターン全集などもリリースされてそのつど店頭には数種の試聴盤が置かれたりしていましたが、どれを聴いてもまったく購買意欲が湧かない、はあそうですか…というだけの演奏にしか感じられませんでした。

ことさら嫌味はないけれども、いやしくも第一級のプロのピアニスト、わけても「世界的」なというフレーズがつくからにはその人ならではの世界、なにかしらのいざないがあって当然だろうと思います。
しかしノクターン全集などを試聴してみても、ひたすら楽譜通りなだけのガチガチな演奏で、そこには演奏者のなんの霊感も挑戦も感じられない、日本でいえば音大生的演奏のもうちょっと上手い人ぐらいにしか思えませんでした。

さて、その彼の最新盤である《感動のショパン・ライブ・フロム北京》ですが、冒頭のアンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズの出だしからして、これまで知るユンディとはちょっと違う、ある種の気迫のようなものをとりあえず感じました。
オッと思ってしばらく聴いてみましたが、基本的にはこれまでのユンディであるけれども、自国でのリサイタルで、しかも面子のかかった北京の国家大劇院、さらにはライブの収録も兼ねているということもあってか、相当に気合いを入れているようでした。

しかし、よく聴くと、なんのことはない、演奏者がノッているというよりは、中国人の好みに合わせたハデハデな演奏を、求めに応えるべくやっているだけという感じが伝わってきました。
同じ気合いが入っているといっても、ショパンコンクールのライブCDでコンテスタントが繰り広げる演奏などは、まさに一期一会の白熱した真剣勝負のそれでしたが、ユンディのこのライブはあきらかにそういうものとは違った、一種のあざとさと、中国の大衆の好みを充分承知した上で表出させた派手さ、あるいは最大のライバルであるラン・ランを射程に収めた演奏だったようにも思われて、とてもタイトル通りに「感動」というわけにはいきませんでした。
ソナタも、英雄も、ノクターンでさえも、ガンガン弾きまくりです。

しかもライブCDの発売も予定されているとあれば、メイン市場はきっと中国国内でしょうから、やはりそのあたりのツボは心得ているように感じてしまいます。まあどうぞお好きなようにという感じですが。

それと、ヒエ〜ッと驚いたのはそのピアノの音でした。
いかにも中国的というか、やたらキンキンして唸りまくる、ユニゾンさえ合っていないようなその音ときたら、まるで安酒場のピアノみたいで、そういえば中国で触れたピアノはどれもこんな音だったことを思い出しました。

ピアノ自体は全体の響きの感じから(たぶん)スタインウェイだと思いますが、中国の技術者はあんな音をいい音だと思っているんでしょうね。しかも会場は国家大劇院という、現代中国の最高権威ともいえる演奏会場でのピアノなのですから、はああ…です。
中国は技巧派のピアニストは続々と誕生してきているようですが、ピアノ技術者のレベルアップはまだまだ当分先のことだろうと思われます。
しかも、驚くべきはEMIというヨーロッパの老舗レーベルのCDであるにもかかわらず、こんなピアノでプロデューサーがよく黙っていたもんだと思いました。

これを聴いて、ふと牛牛のショパン・エチュードもかなりのヘンな音だったことを思い出しましたが、これもやはりEMIでしたから、もはやイギリスの老舗の看板もなにもないのかもしれませんし、もしかしたら中国資本にでもなっているんでしょうか。

その点では、日本のピアノ技術者のレベルは、なんという高みに達していることかと、これまたひとつの感慨にとらわれてしまいます。
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そしてカラス

ところが、喜びもつかの間、それはとんでもない勘違いでした。

柵に囲まれた、無傷のゴミの様子を見てみようと裏口を出たところ、なんと目の前には、またしてもゴミが散乱しているではありませんか!
…なんで???
いつものような盛大な量ではないものの、しかし手のひら一杯分ぐらいは散らかっています。

ゴミ本体を見ると、さしたる異変も無さそうですが、近づいてみると、置く場所が微妙に悪かったのか、下の方のやや柵に近いところがやられてしまっていました。
カラスの悪行というのは、とにもかくにも並大抵のものではなく、柵の4センチ弱ぐらいの金属の隙間から顔だけを突っ込んで、そこから4重ぐらいに包んだゴミをグリグリとつつきまわし、どうにか取れたものだけをあたりにまき散らしていたようでした。

イタチゴッコとはこのことで、人間はまたしてもカラスにしてやられたカタチになりました。
このときは、まるで空中からカラスが笑ってみているようで、煮えくりかえるほど腹が立ちました。

ひとつには、ゴミを置いた位置も微妙に悪かったわけで、できるだけ左右均等において柵からゴミまでの距離をとらなくてはいけないことが反省といえば反省ですが、それにしてもなんという執拗さでしょうか。

もう絶対に負けられないという気持ちに火がつき、さっそく対策を講じます。
必要なものがあればホームセンターなどへ材料を買いに行くのも辞さない覚悟ですが、ここは雨にも濡れる場所なので、ベニヤ板などの木材を貼りつけるのも得策ではないし、先々の耐久性や衛生面のことも考慮しなくてはいけません。

幸いにも使ったケージにはほぼ正方形のものと、その1.5倍の長さがある長方形が、それぞれ4枚ずつありましたが、このゴミ置きを作った結果、正方形が2枚余っていましたので、それを左右の側面にそれぞれに90度角度を変えてとりつけることで、柵の隙間を格子状にすることに成功しました。

おそらくこれで、カラスの頭の動きは一気に制限されるはずです。
今日は家人がこれに昼過ぎからゴミ袋を鎮座させていましたが、さすがに手出しが出来ないらしく、まったく荒らされた気配はなく、ようやくにして一段落つけるようです。

ちなみに憎きあまりカラスを傘などで追い払ったりしようものなら、敵は鳥のクセに頭が良くて人の顔をちゃんと識別して記憶できて、しかも相当に執念深いらしいので、後日外に出たときに上空から奇襲されたりするらしいので、これは絶対にしてはならないらしく、いやはやまったく手に負えない奴らです。

そういうわけで、ついにカラスの手出しができないゴミ置きを完成できたことは、人並みに「達成感」みたいなものがあって、非常に満足しています。
その後は、庭にカラスが来る気配もないので、おそらくいろいろ挑戦してみて、今回こそはダメだということを悟ったのでしょうね。ざまーみろです。
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続・カラス

過日書いたカラスの撃退術ですが、マンションのゴミ置き場をヒントにゴミ袋の入れる囲いを作りました。

使ったものは、むかし我が家で飼っていたラブラドールが、まだヨチヨチ歩きのころ買い揃えた、子犬用のケージの金網です。
これが大小8枚ほどあったので、いつか処分しなくてはと思いつつ、不燃ゴミとして出すのもサイズが大きいために、ずっと物置の奥に置きっぱなしになっていたのですが、これを利用することを思いつきました。
またとない廃物利用で、こういうのってなんか嬉しいもんですね。

これを上下前後左右に組み合わせ、手前にはドアらしきものを付けて、結束には強くて簡単なナイロンのタイラップを無数に使うことで、ついにゴミ袋用の小さな柵を作り上げました。

大きさがまた実に上手い具合に、45Lのゴミ袋をひとつ、余裕をもって入れるのにちょうど良い、まるで誂えたようなサイズに出来上がったのもなんともラッキーという感じでした。

網は格子状ではないものの、間隔は一方向に4cmぐらいで、どうみてもカラスが中に入ることは不可能なもので、これでは敵も手出しが出来ないだろうと思われて、完成したときには思わずニヤリとなりました。
さあ、「いつでも来い!!」というわけです。

このカラス防御用のゴミの柵は縦に長い直方体で、背面を壁にくっつけて置いているので、前面、上面、左右の両面という4面のケージの枠がカラスからゴミを守るという事になります。

そしていよいよゴミ収集の日がやってきて、これまでは鳥が活動しなくなる日没まで待たないと出来なかったゴミ作り(大小のゴミをまとめて収集袋に入れる作業)を昼間から始めるというだけでも我が家ではえらく新鮮な感覚で、出来上がったゴミのかたまりを恭しくこの囲いの中に入れました。
家人もこれまでに何度となく散々な目に遭わされてきており、無事に役目を果たすのだろうかと、いやが上にも期待が膨れます。

同じくケージで作ったドアを閉めて、開かないようそこに紐を結んで作業完了。
あとは夜になれば表にゴミを出せばいいわけです。

ちなみに人気TV番組の「秘密のケンミンショー」によれば、深夜にゴミ収集車が回ってくるのは福岡がとくに珍しいらしく、大半の地域では朝なんだそうですね。しかも前夜から出すのはダメなので、それでよく出勤時のダンナさんに奥さんがゴミを出させるというような光景があるのだということを知り驚きました。
これひとつでも、低血圧で朝の苦手なマロニエ君にとっては福岡はありがたいところです。

さて、そのゴミですが、出来上がった柵のなかにゴミ袋を入れてから、一時間ほどたったころでしょうか、なんと、はやくも庭にはカラスがあらわれましたが、キョロキョロしながらポンポンと庭を跳ねているだけで、しばらくするとパッと飛び去っていったのは、どうやら収穫がなかったらしく、思わずヤッタァ!と思いました。
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知事選挙

統一地方選も終わり、民主党が敗北したのは当然としても、同日に全国数箇所では知事選も行われ、その当落が確定しました。
東京では現職知事が4期目!に突入というのもどうかとは思いますが、それでも、あのお笑い出身の上昇志向の権化のような人が落選したのは、ほぼ予想したこととはいえ、万が一ということを考えると、あらためて妥当な結果が出てホッとさせられました。

落選後のインタビューによると、この人は前の県知事を1期で辞めたのは、鳥インフルエンザや口蹄疫の責任を取っての行動だったと言っているそうですが、だとしたら引責辞任した人が、ほとんど間を置かず、今度は一気に大東京の知事をめざして立候補したのは、いったいどういうことかと思います。
まあ、かつても自民党の選挙を牛耳る大物議員に向かって、「ワタシを(自民党の)総裁としてお戦いになるか?」などという、聞いたほうは悶絶しそうな事を言うような人ですから、その桁外れな欲望の前では、筋論もなにも求める方が愚かとも思いますが。

というわけで、東京はまたも物書き出身、スター俳優の兄であるあの人が再びその任に就くことになりましたが、いきなりお得意の○○節とやらを炸裂させて「日本人の我欲は戒めるべき!」「つましく暮らせ」などと、当選インタビューの段階から吠え始めたのは呆気にとられました。
今の20代の人などは知らない人も多いかと思いますが、実際にはこの人こそ「我欲の元祖」みたいな人で、若い頃からその我欲エネルギー一筋で今日まで来たような人なのに、いまさら何を言っているのかと思いました。

自民党の時代も総理になりたくてなりたくて、この人はどれだけの節操なき行動運動を繰り返してきたことか。
そのあくなき欲望ときたらあの永田町でさえ一際目立っていたというのに。
その挙げ句、とうとう総理の芽がなくなって、どうしようもなくなって、後出しジャンケンで都知事選に出たら通ったというだけのことで、そのほとんど妄想に近いような出世欲は、常軌を逸しているとしか思えないようなもので、その点ではお笑いの元知事とまさに同格でしょう。

そんな人の口を通して日本人は我欲がどうのといまさらお説教されても、かつての鳩山さんじゃありませんが『アナタの口から聞きたくはない』と言いたくなるのが正直なところです。
インタビューで何を聞かれても怒るばかり。総理でも何でも年下と見ればクン呼ばわりする癖も相変わらずで、やっぱりこの人、感じ悪いと思いました。

さて東京の事どころではありません。
我が地元も現職が4期勤めて引退することで新しい知事が誕生しましたが、この人の詳しいことは知りませんが、その映像を見ただけで、いきなり憂鬱になってしまいました。
はやくも前知事の院政などと囁かれますが、たしかに同じ大学の同じ学部で、同じく通産省の出身の官僚あがりですが、あまりにも華のない、陰と陽なら、まさに陰の、その暗いイメージには見るなり強烈な失望感と虚しさに襲われてしまいました。

インタビューされても、喋りがたどたどしくて話が流れず、言葉と言葉の間には老人のように間がありすぎて、質問者のほうも会話のリズムが何度かズッコケていましたし、当選したというのに笑顔のひとつもなく、コメントも相手の顔を見ず目線は常に下を向いているのはガッカリで、こんな人が知事になったのかと思うと暗澹たる気分です。

人の上に立つ人ということには、なにかそれらしい風格とか雰囲気というものが必要ですが、どうみてもそれは微塵も感じられませんし、別に美男美女である必要はありませんが、それなりのリーダーの顔(顔つき?)と人望がなくては人心を惹きつけることはできないでしょう。

一般論としても、どうみても人の上に立つ器ではない人が、なにかの拍子や巡り合わせでその地位に就いたときの違和感、あのなんともいたたまれない気分というのは、本当に見ていて気持ちが萎えていくものですが、最近、それを感じることがあまりに多すぎるように思います。

選挙事務所で斜め後ろに立っていた、なんにも中身のなさそうなテレビキャスター出身の若い市長のほうが、このときばかりは、はるかに明るくさわやかな感じに見えてしまいました。
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某所のスタインウェイ

昨日書いた、とあるのホールの続き。

スタインウェイは事実上、まっさらの新品といって差し支えない状態でした。
いかにも今のドイツの工業製品というに相応しい、生産品としてはほぼ完全なもののように見えましたが、昔と違って見えない部分にコストの問題などを抱えているのも事実で、不思議にこのピアノは心を揺さぶられるものがありません。どうしても興奮できないというか、このピアノと駆け落ちしたいという気にならないのです。

もちろん新しいということはピアノとしてはハンディとして考慮すべき点ですから、これをもって結論めいたことは決して言えませんが、やはり最近のスタインウェイの特徴がここでも見えたのは事実で、かつての強烈な個性や魅力、聴く者を圧倒する強靱な鳴り、コクのある音色は影を潜め、薄味で、作り手が製造精度やネガ潰しにばかり腐心しているように感じます。
最近ショパンコンクールのライブを相当量聴きましたが、そこで聴くスタインウェイも根底がまったく同じ音でしたから、やはりこれは今のスタインウェイの特長であることは間違いなく、CDでも、TVでも、実物でも全部同じ音がします。その代わりといってはなんでしょうけど、品質管理・当たりはずれの無さは猛烈に上がっているようで、もはやスタインウェイも事実上カタログで注文していいピアノになったのかもしれません。

まるで今のドイツの高級車みたいで、美しい作りや高性能と厳しい割り切りがひとつのものの中に共存し、だれが乗っても触ってもその性能の8割方までは必ず楽しめる、そんな利益の上がる生産品を作り出すことを旨としている感じです。
昔の超一流のスポーツカーやピアノには、それを使いこなせるまでは修行して出直して来い!とでもいったような、使い手におもねらない気高さと近づき難さなど、本物だけがもつ凄味と、実際それだけの裏付けがありました。
今は、お客様優先でイージーに楽しめる保証付きの製品を目指しているんでしょう。

ピアニストに喩えると、もちろん演奏に際してミスタッチなどはないほうがいいに決まっていますが、そんなことよりもっと大事なものがあるという演奏を臆せずすることで聴く人に深い感銘を与える人と、音楽的には凡庸でこれといった特徴も魅力もないけれど、指はとにかく達者でミスタッチなどしないで常に安定した演奏ができ、結局、総合点でコンクールに優勝したりするタイプがあるものです。

新しいスタインウェイがいささか後者のような要素を帯びてきたと感じているのは、決してマロニエ君だけではないと思いますが、残念ながらそれをまたしても確認してしまったという結果でした。
確信犯的に、周到に材料の質から何から割り振りされていて、はじめから器が決まっていて、限界が見えているピアノという感じが頭から拭えません。昔のように何か得体のしれないものの力によって腹の底から鳴っているという、思わず鳥肌が立つような、あのスタインウェイの真髄や凄味はもはや過去のもののようです。

かつて、世界中のどれだけの人が、このスタインウェイの魔力の虜になったことでしょう。
業界人の中にはしかし、これを単なる懐古趣味やマニアの思いこみであるかのように言い抜ける人がいますが、本当にピアノがわかる人なら本心からそう思っているとは到底考えられません。
あきらかに以前のスタインウェイにはピアノの魔神のごとき魂みたいななものが宿っていたのは事実です。

しかし、さすがにアクションなどは新しいぶんしなやかで、ピアニッシモのコントロールなどは思いのままでしたし、ダンパーペダルなども極めて抵抗が少なく滑らかで、こういうところはさすがだと思いました。

スタインウェイは今も内部の細かい仕様変更などをしていると聞きますが、今回のピアノは心なしかこれまでよりキーがわずかに深くなっているようにも感じました。

蛇足ながら、この1〜2年ぐらい前から採用されだした新しいキャスター(足についている金属の大型車輪)は、同じものがベヒシュタイン、ベーゼンドルファー、シュタイングレーバー、プレイエルなどにも装着されており、これだけ数社のコンサートグランドに採用されるからには、よほど機能が優れているのかもしれませんが、見た感じはなんとも不恰好で、せっかくの美人がゴツイ軍用靴でも履かされているようで、強い違和感を覚えます。

ヤマハ、カワイ、ファツィオリなどがまだこのタイプではないのは、せめてホッとするところです。
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某所のベーゼンドルファー

ピアノ好きの知人のお誘いを受けて、とあるホールへピアノを弾きに行ってきました。
ここは昨年秋にスタインウェイのDが導入されて、以前からあったベーゼンドルファー275とヤマハCFに加えて3台体制となったようです。
ステージに行ってみるとスタインウェイとベーゼンドルファーの2台が準備されていました。

ここのベーゼンドルファーを弾くのは二度目ですが、以前はかなり調整から遠ざかっているといった状態で、とても本来の実力とは思えないコンディションでしたが、今回は見違えるほど入念に調整されていて、むろん調律だけでなく、音色からタッチまで、すべてに調整の手が入っていることは触れるなりわかって、そのあまりの違いにびっくりしました。

スタインウェイもそうでしたが、両方ともどうやら調律仕立てホヤホヤみたいな印象で、今回はよほどタイミングが良かったのだと思います。
二人で行って、交代で2時間ゆっくり弾いてきました。

ベーゼンドルファーはまろやかさが上積みされて、タッチの感触も均一で心地よく、いかにもシャンとした身なりの人みたいな雰囲気にあふれていたので、以前よりも格段に弾きやすい感じを受けました。
マロニエ君はベーゼンドルファーではどうしてもショパンなどを弾く気にはなれないので、シューベルトのソナタなど、この楽器に敬意を表して相応しい曲の楽譜を持参してこのヴィーンの名器を堪能させてもらいました。

そこで感じたことは、調整はかなり入念にされているとは思ったものの、なぜかタッチコントロールによる音色の変化など、音楽性という点においてはそれほど敏感なピアノにはなっていない印象だったのはちょっと意外でした。無造作にパラパラと弾く分には以前よりたしかに格段に弾きやすいのですが、これぞベーゼンドルファーという弱音域の表現力などはあまりなく、どちらかというと一本調子なピアノであったのはどうしたことかと首を傾げるばかりです。
まあ、このほうが一般ウケはするのかもしれませんが、少なくともタッチや弾き方によって音色を作り音楽を表現するという余地があまりないように感じました。

これは調整した人が上手すぎて、あまりにも立派に調整してしまったために、変な言い方ですがそれによってピアノが一ヶ所に固定され完成しすぎてしまい、最終的には演奏者に下駄を預けるといったところのない、安全指向のピアノになっていたように感じました。
どう表現を誇張してみても、あまりピアノがついてこないのは意外でした。

それはマロニエ君の腕がないからだ!とお叱りを受けそうで、もちろんそれはそうなんですが、でも下手クソほど実は表現力のあるピアノはある意味で恐い存在で、いいかげんな弾き方をしようものなら、そんなアラがいっぺんにバレてしまうほど、一流の楽器というのは元来敏感なものなのですが…。
しかし恐いけれども、気を入れて、心を込めてしっかり弾くと、ピタッとピアノがついてくる、これが本来の名器だと思うのですが、もしかしたら日本のピアノ向きの調整だったのかもしれません。

少なくともベーゼンドルファー特有の、優雅の中にかすかな下品さみたいなものがチラチラする、そんな瀬戸際を演奏者の裁量で楽しむスリルはなく、ピアノ全体が優等生的にグッと安全圏内に移動させられたようでした。

それにしても、いまさらながらこのベーゼンドルファー275の、見た目の華やいだ美しさには、ほとほと感心させられ、見るたびにため息が洩れてしまいます。
チェンバロのようなカーブ、薄いリム(外枠)、赤味の入った弦楽器のような色のフレームとそこに開けられた無数の大きな穴、芯線部分もすべて一本張弦で、何もかもが手間暇かけて、軽く薄くデリケートに作られているようです。

スタインウェイはピアノとして最高の実用楽器ですが、こちらはまさに贅沢品という趣で、見ているだけで目の保養になります。でも弾いた感じは、ちょっと優等生的で、もう少し裏表があるのが本来のピアノの姿では?と思いました。
もちろん全体としては気品あふれるピアノだったのは言うまでもありませんが、そのわずかのところが楽器の世界は難しいもんだと思います。
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珍会場コンサート

偶然にも、5月に福岡市内でおこなわれる非常に珍しい会場でのコンサートの情報を得ましたのでお知らせします。問い合わせ先の電話番号も記述すべきか迷いましたが、いずれもすでに公表されている情報なので敢えて書きました。

(1)【管谷怜子 ピアノリサイタル】
会場:日時計の丘ホール(福岡市南区柏原3-34-41 TEL092-566-8964)
   http://hidokei.org/
日時:2011年5月15日(日) 開演15:00
価格2,000円(税込)
お問い合わせ TEL 090-1192-0158
〈プログラム〉
バッハ:パルティータ 第1番 BWV825
モーツァルト:ピアノソナタ 第9番 K.310
シューマン:交響的練習曲 Op.13

(2)【高橋 加寿子 ピアノリサイタル】
会場:みのりの杜ホール(福岡市南区桧原2-47-25荒川邸敷地内)
日時:2011年5月25日(水) 開場10:30 開演11:00
価格1,000円(税込)
お問い合わせ TEL 090-7921-5000(野田)/090-3074-5771(五條)
〈プログラム〉
バッハ:平均率よりプレリュードとフーガ ニ短調BWV874
ドビュッシー:ベルガマスク組曲
ショパン:幻想即興曲・エチュードOp10-5「黒鍵」・Op10-12「革命」
ノクターンOp9-3ロ長調・ワルツOp64-3・グランドワルツOp42
高橋 加寿子氏のプロフィール
16歳で単身英国留学 パーセルスクール(高校)、ギルドホール芸術大学にてピアノ演奏家コース終了
同大学にて演奏家リサイタルディプロマを首席で取得
ロイヤルカレッジオブミュージック演奏家ディプロマ取得
ロイヤルアカデミーオブミュージック演奏家ディプロマ取得
オックスフォード ピアノコンクール優勝

(1)の「日時計の丘ホール」はマロニエ君も行ったことがありませんが、ホームページによると福岡市南区柏原にある「小さなギャラリー、小さなホール、小さな図書館」と銘打った可愛らしい施設のようです、写真を見ているとぜひ一度訪れてみたくなります。
ここにはなんと1910年製のブリュートナーのグランドがあり、このピアノを使ってのコンサートのようですから、ありきたりの会場、ありきたりのピアノに食傷気味の方にはおもしろいコンサートかもしれません。
ブリュートナーはライプチヒのピアノで戦後は東ドイツに属しましたが、西のベヒシュタインと覇を競ったピアノともいえるでしょう。
ライプチヒといえばバッハですから、プログラムもこのドイツの名器に合わせたものなのかもしれません。

(2)はこのブログの2011.1.21にご紹介したホールで、個人の邸宅内とは思えない瀟洒な美しいホールで、しかもスタインウェイのコンサートグランドがあるという思いがけない会場です。
開演が11時ということで、これもまた普通とは違って意表を突いたような時間帯で、平日のこの時間に行くのはなかなか難しく、これに行けるのは限られた人になるとは思いますが、ともかくそういうコンサートが予定されているということのようです。

行かれる場合は、事前のアクセス調査が必要になると思いますが、マロニエ君も都合が許せばできるだけ行ってみたいと思っています。
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カラス

このブログでカラスといえばまるでマリア・カラスのことのようですが、さにあらず、黒い鳥の「烏」のことです…。

カラスの被害というのは全国的なもののような印象もありますが、とにかくマロニエ君の自宅付近にはこれが昔から多く棲息して、集団で勝手気ままな生活をし、人間は被害は受けてもなにひとつ手出しができません。

とくに季節によってはものすごい数のカラスが上空を回遊しており、近くの電線はむろんのこと、どうかすると我が家の庭にまでやってきてペタペタ歩き回っています。
庭に来ているのを見ると、けっこう体も大きいことに驚かされます。

我が家は動物園のすぐそばなのですが、それが関係しているのかどうかはわかりませんが、とにかくカラスの数は大変なもので、もし仮に庭でウサギのような小動物でも飼おうものなら、おそらくいっぺんでその餌食にされるだろうと思います。
動物園を中心としてマロニエ君の自宅とは反対側の丘の上には私立高校があるのですが、夕方などそこを通ると、学校の校庭や体育館の屋根の上にはまさに胡麻をばらまいたように無数のカラスが集結していたりして、何度見てもあの不気味な光景はゾクッとしてしまいます。

実際の被害もあるわけで、その最たるものが家庭ゴミです。ゴミ作りをしてちょっと1時間でも目を離していると、気がついたときには情け容赦なく無惨につつきまわされて、あたり一面はゴミがめちゃめちゃに散乱することになります。
我が家ではゴミの袋は二重にして、さらにスーパーのレジ袋やらなにやらで、生ゴミなどに直接到達するまでには何重にもガードしているのですが、どれだけのことをしてもあの憎きカラスには一切通用しません。
おそらく力も相当強いのだと思いますし、固くまとめられたゴミをどこからでも電気ドリルのようにつついて、破って、中を引っ張り出して、更につついて、中の中が出てくるまで絶対にあきらめません。
そのしつこさというか執拗さは、ちょっと想像を絶するほどの執念深さがあるようです。

もうさんざん苦い経験をして気をつけているつもりでも、これまでに何度ゴミ攻撃をやられたかわかりませんし、それをされるとその後かたづけだけでも大変な作業になります。
しかも、あたり一面にまき散らされた自分の家のゴミを掻き集めるのほど、情けなく腹立たしいものはありません。
我が家だけでなく、近所でもカラスによるゴミ散乱の光景を何度見たかわかりません。

まあ、敵は鳥なので、陽が落ちれば活動しなくなりますから、陽が落ちてからしかゴミ作りはしないことにしていますが、どうしても夜出かける予定があったり、何らかの都合で夕方のまだ明るい時間帯になってしまうことがありますが、少々の防御ではまるで効果は無く、カラスの力の前にはほとんど意味を成しません。

マンションなどでは、金網のついた立派なゴミ置き場がありますから、さすがに奴らも手出しができないようです。
必ずや敵を欺いてやりたいところで、それを参考にひとつ方法を思いついていますので、近く実行してみるつもりです。
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現代の巨匠

少し前に放映されたアンドラーシュ・シフの映像で、昨年のライプチヒ・バッハ音楽祭におけるコンサートから、改革派教会でおこなわれた演奏(フランス組曲全6曲、フランス風序曲、イタリア協奏曲)にあまりにも深い感銘を受けてしまい、2度ほど通して視聴してみましたが、いやぁ…これは本当に出色の出来だと思いました。
そしておそらく、今後もそうそう出てくることはないレヴェルの演奏だと思います。

彼は間違いなく現在、世界最高のバッハ弾きの一人であると同時に、現在ピアニストとしても最も脂ののった絶頂期にある旬のピアニストであるのは間違いないでしょう。
シフが比較的若い頃に入れたバッハ全集は聴いていましたし、シューベルトの全集などでもその並々ならぬ実力は見せていましたが、これほど高度な演奏をするに至ったことはまったく驚くべきことだと思います。
このところ、シフは一気に深まりを見せ、芸術家としてずいぶん高いところに昇っていったようで、いつの間にあんな凄い人になったのかと驚くばかりです。

バッハ作品には欠かせない各声部の動きが、必要に応じて、ときに即興性をもって、これほど自在に飛び交うように歌い合い絡み合い、それでいて全体が極めてまとまりのある音楽として次々と流れ出てくる様は、ただもう喜びと敬服に浸るばかりです。

しかもこれだけの量のバッハ作品(約2時間半)をすべて暗譜で、密度をもって、闊達朗々と弾いてのけるのですから、もはや人間業ではないという気がしました。

バッハといえばひたすら正しく、峻厳に、しかめ面して弾くか、あとはかなり崩した感じか、いっそモダンなアプローチでこれを処理しようという演奏家などが目立ちますが、シフはそのいずれでもなく、つねに伸びやかで、歌心があり、やりすぎない節度と道義があり、精神性が高いのに鮮烈でもあり、まるでこの人自身がひとつの高い境地に達しているようです。
彼のバッハは正統的でありながら、堅苦しさのない自然体で、音の輪郭が明晰で聴いていて飽きるということがまったくありません。

また事前の準備も相当にしているとみえて、録音も優秀だし、指も一切の迷いなくめくるめく動いて、確信に満ちた音楽が活き活きと必然的に流れていきます。
注目すべきは会場である改革派教会にはかなり強い残響があるようで、そのためかどうかはわかりませんが、シフはすべての曲を一切ペダルなしで弾き通しました。しかし目を閉じて聴いているかぎりでは、とてもそうとは思えない充実した美しい響きが燦々と降り注いでくるばかりでした。

我が意を得たりと思ったのは、ここで使われたピアノはそう古い楽器でこそありませんでしたが、新品とは程遠い楽器で、黒鍵の黒檀は手前部分が光っているぐらいまで、相当に使い込まれている年季の入ったピアノだったのが印象的でした。むろん調整も見事のひと言。
マロニエ君の部屋の「新しさの価値と熟成の価値」で書いたように、こういう感動的な演奏には、まっさらの新品ピアノなど考えただけでもミスマッチです。
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ラミー

いつもくだらないことばかり書いているこのブログですが、さらにくだらないことを書きますと、マロニエ君はロッテのラミーチョコレートが子供のころから大好きで、それはこの歳になっても少しも変わっていないのには自分でも驚きます。

これはバッカスと並ぶロッテの長寿商品で、もちろんどこでも売っているのでご存じの方も多いと思いますが、チョコレートの中にラム酒につけ込んだレーズンが入っているアルコール入りチョコレートです。

これを生意気にも子供のころから食べているのですが、こんなものを食べ続けても、マロニエ君はついに酒好きにはならなかったのが不思議といえば不思議かもしれません。要するに酒好きになる前兆としてではなく、あくまでこのラミー単体が好きだったことが、成人して後もついに酒呑みにならなかったことで見事に証明されたようなものです。

このラミーはいわゆる季節限定商品で、毎年秋から翌年の春先まで販売されます。
つまり3月をもって、今期のラミー販売は終わりを告げたようで、店頭でも潮が引いたようにこれを見ることがなくなり、実になんともがっかりする季節です。これから約半年、ラミーなしの生活を送らなければいけないと思うと、たかだか市販のチョコレートなのに、なんだかとてもつまらなくて、心の中にポロンと空白が出来るような気にさせられます。

逆に、秋口になってラミーの濃いピンクのパッケージが店頭に出てくるのを見ると、いまだに思わず心が高ぶってしまいます。これまでに食べた数を想像すると、どう考えても何百というのは間違いなく、下手をすると千の大台に届いているかもと思われます。
こんなに長年、一途に同じ商品を好んで食べるとは、我ながらまったく、ロッテから表彰でもされたい気分です。

ラミーが販売されている季節はスーパーなどへ行ってもチョコレート売り場を素通りできず、つい覗いて、あの刺激的なピンクの箱のラミーがあると、どうしても1〜2個は買ってしまいます。

そんなに好きなら大量に買い置きでもしておけば良さそうなものですが、ラミーは実はある程度の鮮度がものをいう商品で、時間が経つと中のラムレーズンがしぼんで固くなってくるので、ジューシーな状態を味わうべく、常に3〜4個をストックしながら順次買い続けるという、長年の経験から編み出したパターンになってしまうのです。

マロニエ君にとって、ラミーは一種の中毒的常習的な存在かもしれず、もしかするとあの色っぽい刺激的なピンクのパッケージも罪な色なのかもしれません。
わかっていてあの箱を見ると、いまだに意識がハッとそっちに行ってしまいます。

まるで腐れ縁の女性に、いまだに誘惑され続けて、いいなりになっているみたいですね。
でもここ当分、そのラミー嬢ともしばしのお別れです。
また秋に!
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それなりのもの

マロニエ君は夜にスーパーで買い物をしたりするのですが、たまに日中も外に出たときには、ついでがあれば買い物まですることがあります。

このところ、どうも流行っているらしいのが、住宅街みたいなところに突然できる八百屋でしょうか。
古い民家やマンションの一階などを急ごしらえで八百屋にしたような、あれです。

昔なら八百屋は市場や商店街のような決まった場所にあったものですが、最近ではなんの脈絡もないような場所に、突如として産地直送のような店ができることが珍しくないようです。

お店はいろいろだろうとは思いますが、目につくのはやはり低価格をウリにしているらしいのが多く、どうやら店主が産地から直接買い付けてくる場合などもあるようです。

何度かこの手の店で買ってみたことがありますが、スーパーの野菜のように徹底して商品化されていないぶん、形もイマイチだったりしますが、べつに自宅で食べるについてはこれといった支障もないので、はじめは珍しさもあり、機会があればときどき買っていました。
しかし、安くて新鮮な野菜というイメージはすぐに崩れました。
スーパーで売っている野菜がいいとは決して言いませんが、やはり断然きれいだし、値段もほとんど大差ないことが判明するのにそう時間はかかりませんでした。

上記の八百屋はたしかに値段も安めになってはいますが、決して激安というわけでもなく、スーパー基準のやや安めという程度に過ぎません。しかも値段は品質に準ずるのは当然なので、あまりきれいでもない野菜となれば本当に安いとばかりも言えず、要するにそれなりのもの、妥当な価格だということです。
いや、もしかしたら、品質に対しては逆に割高ということもあるでしょう。

これが畑から直接持ってきたような、本当に新鮮で美味しい野菜なら見た目はイマイチでもその限りではありませんが、この手の八百屋は決してそうではなく、ただ単にスーパーで売っている商品より下の二級品という感じしかしないのです。
それでもそこそこお客さんが来ているのは、やはりなんとなく安くてお買い得のような「イメージ」があるからだろうと思われます。スーパーできちんと商品管理されたものにある意味で飽き飽きしている現代人は、こうしたいわばなつかしい素朴で野趣に溢れた売り方につい乗せられているのかもしれませんし、現にマロニエ君も何度かそんな気になって買ってみたわけです。

しかし、わざわざそんな店で買うメリットがないことに気付いたので、またスーパーに戻ってみると、やはりこのほうがはるかに品質も安定していて、値段も決して高くはないので、いらいあの手の八百屋で買うことはパッタリとなくなりました。

いっぽう、スーパーではなくプロが仕入れをするような店もあるのですが、たまにそっちに行くと、並んでいる野菜は質が高くて、なんときれいなことか!と思います。
値段はこれまたスーパーよりほんのちょっと高いぐらいですが、決して法外なものではありません。

要するに、品質を考慮すれば、これが一番お買い得だというのが我が家の結論で、家人もできるだけここで買うようになりました。もちろん利便性の点でスーパーには適いませんから、スーパーで買うこともしばしばですが、できれば野菜などはきれいなものを食べたいものです。

考えてみれば、あちこちに登場した名も知れない八百屋は、実はしっかりと現代の流通経路に沿って分類された相応の商品を、巧みに売りさばいているだけのことに思えてきました。
これもわずかな絶対額の差に一喜一憂するお客の心理を見事に突いた商法だろうと思います。

本当に安いというのは決して絶対額だけではないという当たり前あのことが痛感させられます。
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九州新幹線

昨日は九州新幹線に初乗りしました。
目指すは薩摩川内市でしたが、そのことはまたあらためて報告します。

新装なった新しい博多駅にもこの日初めて踏み入れましたが、結論から先に言うと、マロニエ君はちっとも良い印象はありませんでした。
駅ビルがあれだけ大々的に建て変わったというのに、筑紫口のほうは旧態依然としているほか、一階のコンコースはじめ、周囲の商業施設などには昔の名残が散見され、昔のままの骨格を化粧直しですまされていて大いに落胆。
基本的なものはそのまま使っているようで、単にその上に被さっているビルだけを建て替えたということが、行ってみてようやく理解できました。まあ、それならそれで構いませんが、あの報道の取り上げ方、騒ぎ立て方は大げさすぎるのではと思います。

ざっとひとまわりしましたが、テレビなどではまるで天神のお客さんが新しい博多駅に吸い取られるようなことも言っていたけれど、とてもとても、そんな力のある商業エリアが出現したようには見えませんでした。

出発前にお土産を買おうと阪急百貨店の地下に行ったところ、ドーナツやケーキなど、たかだかおやつを買うぐらいのことで、凄まじい行列があちらこちらに何本もできているのには口あんぐりで、マロニエ君のもっとも嫌いな光景を思いがけなく目の当たりにしたことでした。
行列がほとんど地域文化と言ってもいい東京ならいざ知らず、ほとんどそういうものの無い、もしくは極めて少ないことが我が博多の誇れる点だと思っていましたが、この阪急百貨店のデパ地下に限っては、まるで別の街に紛れ込んだようでした。
ああいう行列に、背中を丸めて、しまりのない顔をして、人の背中の前にじっと立っている人達を見ると、人間の欲がむき出しになっているようで、なんだかどうしようもない気分になってしまいます。

新幹線は、これまで博多駅は上り方面の始発駅でしたから、南に向けて車輌が動き出すというのは初めての体験でした。
発車してしばらくは外の景色などをみていたのですが、少し経つと車内アナウンスがあり、早くも久留米への到着を告げられたのにはおどろきました。車で行くには高速を使っても前後あわせると1時間前後はかかるのに、なんという早さでしょう!
博多から薩摩川内(鹿児島のひとつ手前)までは240キロ強ほどあるようですが、1時間20分ほどで到着しました。

さて、マロニエ君は鉄っちゃんなどではありませんので、新幹線の車輌のことなどはまるきりわかりませんし、新幹線じたいも2年に1度乗るか乗らないかぐらいですが、印象としては、なんだか乗るたびに乗り心地は悪くなっていくような気がしました。
0系から次第に進化して、ここ10年ぐらいでいっても「のぞみ(だったかな?)」あたりの柔らかくて洗練されたすべらかな乗り心地が頂点だったようで、それがレールスターになると明らかに質の低下が感じられました。当時、世の中ではいろいろなものがコストダウンされはじめた時期でもあり、新幹線車輌といえどもその波が容赦なく襲ってきているんだなあという時勢をしみじみ感じたものです。

ところが、昨日乗ったさくらは、そのレールスターどころではありませんでした。
車でもそうですが、乗り味や足回りの優秀性、ボディの立て付けの確かさなどは、はじめの動き出しの数秒に圧縮してあらわれるものだと思っていますが、本当に高級な乗り物は、この動き出しが非常に濃密で厳かで、乗り手がまずはじめに感銘を受ける部分なのですが、これがまったくなく、ただ普通になめらかに義務的に動いていくようでした。

とにかくこれまでの新幹線にあった一種の上質な乗り味というのがほとんど感じられず、ただスピードの速い高性能電車という印象しか得られませんでした。とくに帰りは夜でしたが、夜の乗り物というのは音などに対して一段と敏感になるものですが、この音のうるさいこと、ひっきりなしの振動が収束しきれていない事にも閉口しました。
車内は高速になるとまるで飛行機のような、疲れる爆音に包まれます。飛行機に較べて新幹線の快適性のひとつに騒音の低さがあったと思っていましたが、これはもはや過去の話のようです。

これはまったくマロニエ君の想像ですが、ボディを軽く(そして安く)作るのに、強くて軽量な素材を多用して、その結果遮音効果のあったものがあれこれと省かれたんではというような気がします。
つまり、乗る人の快適性が犠牲にされて、すべては効率重視の設計になったというわけだろうと思います。
窓も従来の広い窓はなくなり、飛行機より大きい程度の窓が小刻みにならんでいますが、これも窓を小さくすることによって得られる、車体の強度確保のための結果ではないでしょうか。窓を小さくして、そのぶん骨組みに当てればそれだけ薄っぺらなボディでも強度は保てるというお馴染みの図式のような気が…。

楽器でも、乗り物でも、映画でも、人間関係でも、なんでもそうですが、良い意味での絶頂期というのはどうやら過ぎ去っていったようです。なんとなく振り返っても、20世紀までのほうが、あらゆることが上質で贅沢、つまり本物だったような気がします。
21世紀はガマンと節約と省略の時代のようです。
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写真の力

病院などで週刊誌をめくっていると、当然ながらどの誌も冒頭グラビアは東北の震災の、激烈な様子が掲載されていますが、見れば見るほどあらためて驚嘆に値する凄まじいものです。

これらの写真を見て感じることは、いくら何度も見たつもりのテレビ映像からではわからなかった、写真ならではの現実の様子がひしひしと迫ってくる点で、すごいとしか言いようがありません。

静止画というか、つまり写真は、見る側に時間的に余裕と自由があり、つぶさにほうぼうを点検することができますから、より生々しく現場の戦場のような様子が手に取るように克明にわかります。
津波の動きやあらゆるものが破壊されていく様子などは動画でこそわかるものですが、被災後の様子や、より接近した事実を伝えるには圧倒的に写真のほうがリアリティをもっていると痛感します。

動画は動画の価値があるものの、なにしろ動きが早く、あっという間に画面は変化していきますから、ひとつの場面を現場に立っているような感覚でじっと見つめることはできませんが、写真はピントも鮮明だし、見る人が任意に時間をかけてその写真と対峙するわけですから、そのぶん凄味も伝わるのですが、それによると、マロニエ君にとってはこの震災が自分が認識しているつもりの、さらに数段上の猛烈なものだったということが理解できたと思いました。

今ごろ何を!といわれるかもしれませんが、本当に凄いことが起こったのだということを再々度認識させられてしまった気分です。
テレビの報道映像からでてくることの無いものとしては、瓦礫に混ざって人の遺体などが確認できるものもあったりで、こうして夥しい数の人の命がいっぺんに奪い去られたというのは、以前も書きましたが、もはや核攻撃でも受けたのと同等の出来事だろうと思われます。

動画と写真にこれほどの差があるように、さらにその差以上のものがあるとすれば、おそらくは現場に立った人の目に映る現実の光景だろうなと思います。

現場での捜索活動などは自衛隊をはじめ外国の救援部隊などが、我々の想像以上に苛烈な働きをしているのだそうですが、なぜかそういう事実はあまり報道されませんし、そのような映像などはほとんど我々の目に止まることがないのはどういうことだろうかと思います。
報道というのはいまさらながら公平性がなく著しく偏りがあり、各局も談合したようにほとんど同じようなものばかりだということもよくわかりました。

一説には民主党政府が、自分達の無為無策を表面化させないためにも(事はさらに複雑でしょうが)、こういう現場で救出・捜索にあたっている多くの人達がいかに体を張って働いているかを映させない、あるいは報道させない、あるいはそういう現場にマスコミを入れたがらないという話を聞きますが、もしそうだとしたら、それは相当おかしな事ではないかと思います。

何でも「マズイ」といって隠すのは日本人のお家芸のようなものですが、それにしてもこの隠蔽はなんなのでしょう?
別に犠牲者の遺体を映せといっているわけではないのですから、ある程度事実は事実としてニュートラルに報道すべきであって、これを権力その他の故意によって偏ったものに操作するのは絶対にあってはならないことだと思いますが、現実にはそういう黒い力がある程度機能しているともいいますから、今の政府やマスコミの考えていることは呆れるだけです。

官邸の人達は、この期に及んで、まだ自分達の権力維持に努めているのですから、識者にいわせるとこのような未曾有の惨事が起こったのが民主党政権下であったことが、我が国の不幸をより深いものにしているというのだそうで、それは大いに同感です。
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広島にCFX

このホームページ宛に、広島市安芸区民文化センターホールからご連絡をいただき、ヤマハの最新鋭コンサートグランドCFX(昨年のショパンコンクールで優勝が演奏したものと同型)が3月より同ホールに導入されたそうです。

なんと気前の良いことに、一般の人でもホールを借りればこのピアノが使えるということで使用料を調べてみると、時間区分によりますが3時間単位で、2万円強〜4万円弱というところで、ピアノサークルなどに使うにはもってこいだと思いました。
さすがに広島まで行くことはできませんが、こういうホールを地元に持っている人達がうらやましい限りです。

この広島のホールの案内を見ているとCFIIISからの買い換えのようで、今後はこうしてヤマハのコンサートグランドを設置していたホールがピアノを買い換えるたびにCFXにアップしていくのかと思うと、これはなかなかすごいことになるような気がします。

ホールの運営母体の多くが公共機関なので、ヤマハの納入実績さえあれば今後は必然的にCFXになるということなんでしょうね。価格的にはずいぶんと値上がりしていますけれども、そこはまあ公共施設ともなればハンコひとつで済んでしまう世界なのか、あるいは予算をうるさく検討するガチガチの世界なのか、そこのところはマロニエ君にはさっぱりわかりませんが。

ただ、いずれにしてもスタインウェイのDとほぼ同レベルにまで高騰したCFXの販売価格ですから、今後はあらゆるホールが、スタインウェイに較べて「安いから」という理由でヤマハになることはなくなり、専らお役所などが大好きな納入実績以外では、ピアノの優劣でのみで決することになるわけでしょうから、そのへんも含めて今後どんな展開になっていくかが興味深いところでもあります。

地域のプライドをかけたようなお飾りホールならピアノも何台も納入されるわけで問題はないでしょうが、地域ごとの生涯学習センターとか区民ホール、町民ホールのレベルでは、もし価格で選ぶならカワイのEX(SK-EXとは別でCFXの約半額)のみという事になりますね。
ちなみにほとんど納入実績がないディアパソンのコンサートグランドはEXよりもう少し安かったのですが、すでにホームページ内からも姿を消しているようですから、やはりカワイだけということになるのでしょう。

地域ごとの公民館に毛の生えたぐらいのホールには大抵ヤマハのCF〜CFIIISがありますが、これが今後CFXになっていくのだとすると、なんだかちょっと異様な気がしなくもありません。

パッと見はヤマハがコンサートグランドを一機種に絞ったことで選択の余地が無くなり、CFXが必要であってもなくてもこれが納入されるようにも見えますが、同時に二機種あるカワイにも、あるいはほとんど同価格帯となったスタインウェイにもビジネスチャンスが広がったということなのかもしれませんね。

尤も、あまり立派なピアノが不釣り合いな場所に納められて、現実にはせいぜいピアノ教室の発表会やコーラスの伴奏ぐらいしか出番がないといった惨めな生涯を過ごすことを考えると、この手の施設に納入されるピアノには、なんとも偲びがたいものも感じてしまいます。

尤も、販売する側にしてみれば、一台でも多く売って利益を上げなければならない厳しいビジネスの現場にあって、そんなきれい事は言ってられないことかもしれませんが…。
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なだめる心理

最近、あることがちょっとわかりました。

軽薄なマロニエ君は、甚だくだらないことで立腹することが多いのですが、そんなとき、人にぶちまけて理解を求め、共感を得ようとすると、おざなりにまあまあとなだめられたり、相手があきらかに第三者ぶって保身の態度をとられたりすると、さらにまたそこにムカムカくることがあります。
まるで被害者であるこちらのほうが逆にお説教されるハメになったり、却って人の狡い面を見せられることになったりで、怒りはダブルに発展して何なんだこれは!とその不快感は次々に新しい枝を伸ばします。

とくにマロニエ君の嫌いな言葉は「まあ、いいじゃないですか!」「人の自由だから!」というようなフレーズで、そんなありきたりな言葉を聞きたくて言っているのではないと言いたくなります。寛大ぶって、やたら許容量の多い、懐の深い、人格者のような言動を取りたがる人って、今どきは意外に少なくありません。

それも本当に寛大で立派な人格者ならいいのですが、ちっともそんなことはない臆病な凡人くせに、そういうときだけ妙に取り澄まして、落ち着いた余裕ありげな態度を取りたがるのはなんなのかと思います。
ただ単に、自分が言及するのが恐いだけという臆病心も見て取れたりします。
それでなくても、最近はやたらめったら隙あらばいい顔をしようとする、いい人願望、人格者願望、誰からも好かれる願望の強い人が多く、なんでそこまでして自分だけいい顔してポイントを稼ぎたいのか。

ところが、ごく稀に相手のほうが何かの事で、怒り心頭に発している場合もないではありません。
最近も偶然そういう場面に接しましたが、あまり相手の怒りが激しいので、ついついこちらはなだめる側に廻っている自分にハッと気がつきました。
なんと、あれほど自分が怒っているときにそれをなだめられることを嫌っていたこの私が!!!

なるほど、これは人の心理なのかということが思わず諒解できました。

適当な雑談程度なら、話はぐんぐん盛り上がってくるものですが、片方があまりにも憤慨して一種の興奮状態にある場合に限っては、相方はそれに圧倒されて、なんとかこれを鎮めようという反射心理が働くようです。
決して相手方の味方をしている訳ではないのですが、なんとか客観的なコメントによって事を鳥瞰的に捉えようとしているのかもしれません。
その状況に対して一定の冷静な理解を示そうとすることが、怒っている人にとっては逆効果になるわけで、止むにやまれぬ怒りすら抑えろと強要されているような心地がするんですね。

まあ人が怒っているときは、そこで第三者として公平に振る舞おうなどとは努々思わないことが大事だとあらためて思いました。
相手が欲しいのは味方であり共感してくれる人なのですから、それを忘れちゃいけません。
ましてや「私はどちらの味方もしないけれど…」というあのフレーズだけは絶対に禁句だと思います。
これを言われて気持ちのいい人はたぶんいないはずではないでしょうか。

しかし、それを口にする人の、なんと自分は正しい態度だと信じてその言葉を口し、自分に酔いしれていることか!
こういうことをしたり顔で言う人は、なにか大事なものを履き違えている気がします。
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馴れの怖さ

昨日書いた「プレイエルによるショパン独奏曲全曲集」ですが、その第1集を何度も繰り返し聴いていると、見えてくるものもいろいろとあるようです。やはり基本的な印象は変わりませんが、それにしても100年前のプレイエルをここまで精緻な楽器に仕上げるということは並大抵の技術ではないと素直に脱帽です。
横山氏の演奏は、指さばきは本当に見事だけれども、だんだんそのコンピューター的な演奏にどうしようもなく違和感を覚えてきますし、ピアノ学習者がこういう演奏を理想のようにイメージしそうな気がして、もしそうだとしたらちょっとどうだろうかと思います。

曲目はロンド、ピアノソナタ第1番、12のエチュードOp.10ですが、ソナタの第3楽章の夢見るようなラルゲットをあまりにも無感覚に通過したり、Op.10-1でのアルペジョの鋭い折り返しのやり過ぎや、Op.10-10では左のバスにこれまで聴いたことのないような機械的なリズムがあったりと、なんというか…上手いんだろうけれども、それは音楽とは似て非なるものを聴かされているような気分に囚われてしまうのを自分で抑え込むことができなくなってきます。

プレイエルの音もあまりに見事に、少なくともこのピアノが作られた当時想定されなかったような高い次元でバランスされ、統御されているので、その両者を組み合わせることは、結局はせっかくのプレイエルが現代的なピアノのような感覚につい耳が埋没してしまうようです。
さらには、演奏も冒頭に述べたように、あくまでも現代の楽器とメトードで鍛えられた正確無比な今風のものなので、なんだか最終的にちぐはぐというか、どこかしっくりしないものを感じてしまうのでしょう。
こんな調整と弾き方なら、やっぱり現代のヤマハかスタインウェイで弾くのが一番だろうと思えてきたりするわけですが、この印象が的確であるかどうかはまだ自分でもよくわかりません。

そんな疑問が次々に去来してくる事態に達して、ついに久々にコルトーのショパンを聴いてみたのですが、やはりそこにはプレイエルの自然で伸びやかな歌声がありました。
この録音の中にあるものは、すべてが一貫性のある辻褄のあった世界で、コルトーのいささか過剰では?とでもいいたくなるような詩情の発露をプレイエルがどこまでも繊細に受け止め、それを当然のように表現していきます。
楽器と奏者の関係というのは、こうあらねばならないと痛感させられるのです。

でも!
それよりもなによりも驚いたのは、このところマロニエ君はショパンコンクールのライブCDを洪水のように聴いていたためとも思われますが、もともと大したものではないコルトーのテクニックが、まるで子供かシロウトように稚拙に聞こえてしまったことで、これにはさすがに愕然としてしまいました。
もちろん喩えようもなく美しい瞬間はあるものの、馴れとは恐ろしいものです。
あまりコルトーのイメージを壊したくないので、ちょっと今は止しておこうと思ったのが正直なところです。

で、再び横山氏のCDに戻ると、これはまた目から鼻に抜けるような指さばきで、これもちょっとやり過ぎとしか思えません。マロニエ君の欲しいものは、ピアノもピアニストもこの中間に位置するような塩梅の演奏とピアノなんですが、それがまた無い物ねだりなんですね。

原点に返れば、そもそも1910年のプレイエルで新録音が出たというだけでも、僥倖に等しいこのありがたい企画には、素直に深謝しなくてはいけないのはまぎれもない事実ですから、あまり際限のない欲を出してはいけませんね。
つくづくと人間の欲というのには終わりがないようです。
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プレイエルの新録音

「プレイエルによるショパン独奏曲全曲集」というプロジェクトがスタートし、これは横山幸雄氏が戦前のプレイエルを使って昨年の10月17日(ショパンの命日)から石橋メモリアルホールにおいて、コンサートと録音を同時にスタートさせたものです。

マロニエ君が近年、最も個人的に関心を寄せるピアノがこの年代のプレイエルで、昨年のショパンイヤーではプレイエル使用と銘打ったCDもいくつか発売されたものの、それらはいわゆる19世紀製造のフォルテピアノであり、実際にショパンが使って作曲したという時代の楽器を使うというところに歴史的な意味合いが多かったようです。

しかし、マロニエ君がもっとも心惹かれ、好ましく思っているのは20世紀の初頭から数十年製造された、交差弦をもつモダンピアノとしてのプレイエルであり、その甘美でありながら陰のある不思議な音色は、代表的なものではコルトーの残した録音集から、その音を聴くことができるものです。
ショパンにおけるコルトーの詩情あふれる妙技のせいももちろんありますが、そこに聴くプレイエルのなんとも切々と鳴り響く妙なる音色は、大げさにいうと柔らかさの中に不健康な美しさが籠もっていて、まさにショパンを弾くためだけに生まれてきたピアノと言いたくなるようなピアノです。

このピアノの音がもっと聴きたくて、一時はパリにまでCDを注文したこともありましたが、送られてきたのはやはりフォルテピアノのものでした。

というわけで「プレイエルによるショパン独奏曲全曲集」はいわば画期的な企画で、はやくもこのCDが店頭に並んでいましたので、3種ありましたが、これまでのマロニエ君なら一気に3枚まとめて購入するところですが、ここは理性的にまずは「1」を購入してみました。

期待に胸を膨らませて帰宅して、気もそぞろにプレイヤーにCDを差し入れたのは言うまでもありません。
果たして出てきた音は…それはたしかにプレイエルの音には違いありませんでしたが、コルトーのレコードに聴くような、気品と下品の境界線ギリギリをかすめながら、なまめかしさとか芳醇さのようなものが立ちのぼるさまはあまりありませんでした。

使われたプレイエルは写真だけでは判然としませんが、コンサートグランドではなく、おそらくは2m強のサイズのものだろうと思いますが、松尾楽器にも同年代のプレイエルを所有していることからか、松尾の人が調整をしているようです。
そのためかどうかはわかりませんが、ピアノが妙に整然としていて優等生的なのです。

シロウト考えですが、この時代のプレイエルにはまだまだスタインウェイのような完成度はなく、不完全なところもあったので、あまりムラのない高度な調整をしていては、却ってピアノがそれに応じきれないというか、このピアノの魅力の一端がスポイルされてしまうような気もしました。

表現が非常に難しいのですが、あまりにも見事な日本人流の完璧なヴォイシングや精妙を極める調律をやりすぎてしまうと、なんとなく息抜きのできない堅苦しい感じになるようです。
良い意味でのアバウトな調律などをされたほうが、このピアノは本来の味を発揮するように思うのですが、そんな危ない領域まで求めるのは、なにしろピアニストも録音スタッフも現代に生きる日本人ですから、到底体質的にも出来ることではないないでしょう。

そうそう、以前映像で見た、ショパンとは程遠いアンドラーシュ・シフが、ファブリーニ(イタリアの名調律師でポリーニなどの御用達)が調整したプレイエルを弾いているときにも同様の窮屈感みたいなものがあったことを覚えていますが、それに較べたら今回のほうがずいぶん優れているとは思います。

まあ、なんだかんだと文句は言ってみても、なんともありがたいCDを出してくれたものです。
これから順次発売され、12枚で完結するのだそうで、横山氏はこういう企画物を作り上げる際の、スタッフのひとり的な弾き手としては、指はめっぽう動くし、いいのかもしれません…。
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趣味の効用

土曜はピアノサークルの定例会でした。
今回は仕事もバタバタ続きで、そうでなくてもろくな準備などできないマロニエ君ですが、更に輪をかけて練習が出来なかったので、短い曲でお茶を濁しました。

年度末ということもあってか、いつもよりは若干少な目の参加者数ではありましたが、そのぶんよりアットホームな雰囲気になって、与えられた3時間をゆったりと楽しく過ごすことが出来ました。
時間の余裕があったので、何人かは同じ曲を再挑戦といったこともされていました。

おかしかったのは、リーダー殿が今レッスンでやっているということでバッハのインベンションの第1番を弾きはじめたのですが、なんともなつかしい曲だったので、マロニエ君も楽譜を借りて今でも弾けるかどうか挑戦してみたのですが、それに続いて大半の皆さんが久しぶりに(中には30年ぶり!という人も)この1曲を、代わる代わる弾きはじめたのには笑ってしまいました。

こうやって一同がひとつの曲を代わる代わるに弾いてみるというのは、なんだかまるで試験のようでもあり、こんなこともピアノ遊びのひとつの在り方だと思われて、とても楽しいひとときでした。

プログラムではクラシック部門では圧倒的にショパンが多かったものの、入会されたときからシューマンだけを一途に弾き続ける方もいらっしゃいます。やはり自分の好きな作曲家というのは相性がいいものだし、いったんひとりの作曲家にのめり込むと次々に他の作品まで弾いてみたくなるというのがよくわかります。
マロニエ君にもいろいろな作曲家とそんな時期があり、むろんシューマンにずいぶんと熱中した時期もありました(とはいえ、まともに人前で披露できるのようなものはありませんが)。

定例会終了後の懇親会がまたいやに盛り上がって、長時間に及ぶのがここ最近の特徴のようになってしまっていますが、春が近いからなのか、こころなしか皆さんウキウキした感じにも見えました。
今回は会場の都合で懇親会の場所はファミレスだったのですが、0時を回っても誰も席を立とうとはせず、家に帰り着いたのはとうとう1時半になってしまい、昨夜はさすがにブログを更新する気力もありませんでした。
なんだか長時間席を占領してお店にも申し訳ないような気もしましたが、途中でデザートの注文もしたし…まあなんとか堪忍していただきたいところです。

さらに今週末にはお花見会もあり、みなさんずいぶんと盛り上がっているようです。
近い将来には阿蘇にあるグランドピアノのあるペンションへ行こうかというようなお泊まり案まであり、来月の定例会のあとゴールデンウィークには練習会と、あれこれ計画が目白押しのようです。

現在は東北の震災のために日本中が喪に服したような空気に包まれていますし、それはもちろんマロニエ君も人並みにそういう気持ちは持っていますが、だからといって毎日暗い顔をしておとなしくするばかりでは何も始まらないし、それでも人間は生きていくのですから、元気を出して前に進むからには、多少の楽しみというのは許される範囲で必要だと思います。

まあ、しばしば呑み歩いては散財し、夜ごと体にアルコールを染み込ませている道楽に較べれば、所詮ピアノサークルのお遊びなんて可愛いものですし、それで好きなことに集中できて、同時にリフレッシュできるとくれば至って健全なものですね。
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ギーゼキング

NHKの衛星放送で、あまり良いとはいいかねるモーツァルトの演奏を聴いたので、無性にちゃんとしたものが聴いてみたくなり、久々にギーゼキングのソナタを鳴らしてみたのですが、やはりさすがでした。

ふつうモーツァルトというと、多くのピアニストが意識過剰ぎみの演奏になるか、取って付けたようなわざとらしい軽妙な表現をしたり、これだというものがなかなかないものです。中にはこれみよがしに余裕を顕示して、まるで大人が子供用の本でも読むかのような弾き方をし、それでいて音楽性には充分以上に留意しているぞというようなフリをしたり、必要以上に注意深く細部にこだわって深みがありげな演奏したりと、どうもまともなモーツァルトというものに接することが少ないような気がします。

テレビで観たのは、もう70代に突入した大ベテランでしたが、近年は指揮にその音楽活動の大半を割いているためにピアノの腕が落ちたのか、その理由はよくわかりませんが、かつては中堅のテクニシャンとしても有名で、久々に聴く彼のピアノでしたが、線が細く、恣意的で、流れが悪く、なんだかとてもつまらないものでした。

それで無性にモーツァルトらしいモーツァルトが聴きたくなったわけです。
思い切ってモーツァルトの御大であるギーゼキングでも聴いて口直しをしようという思惑だったのですが、口直しどころか、あまりの圧倒的な素晴らしさに、もうそのテレビのことなど忘れて聞き込んでしまい、すっかりギーゼキングの世界に浸ってしまいました。

気負いのない自然な語り口、あるがままのテンポ、あるがままの音楽、そしてたとえようもない滲み出してくるその風格。気負っているわけでも、細心の注意をしているわけでもない、むしろ恬淡としたその演奏には、ごく自然に芸術家としての息吹と気品が当たり前のようにあって、ただただ心地よく、しかも安心して深い芸術的な音楽にのみ身を委ねられるという、ほとんど器楽の演奏芸術としては究極の姿であろうという気がしました。

とりわけ感心するのは、モーツァルトの作品(主に全ソナタと小品)が生まれ持った息づかいを、ごく当然のようにギーゼキングが同意して呼吸し、それがそのまま演奏になっているところに、聴く側の心地よさ、明解さと説得力、そして魅力があるのだと思います。
これは現代のモーツァルト弾きのようになって半ば崇められている内田光子とはいかにも対照的で、彼女はモーツァルトの意に添うためには作品に滅私奉公して、自らの呼吸もほとんど犠牲にしているようなところがありますが、その点ギーゼキングは作品に対して恐れなく磊落に向き合っており、ピアニストというか音楽家としての潜在力のケタが違うのだなあと思わせられます。

ちなみにギーゼキングはモーツァルトの演奏ではペダルを使わなかったと言われており、録音場所も相応なホールやスタジオに出向くのをこの巨匠は面倒臭がって、自分の事務所のような部屋に機材を運び込ませて録音していたといいますからなんとも呆れてしまいます。
ギーゼキングはもう一つ、蝶の蒐集家としても世界的にその名を残すという一面を持っていて、こういう幅の広い、面白味のある悠然とした芸術家は今はいなくなったように思います。

ギーゼキングの好んだピアノはグロトリアン・シュタインヴェークで、これはアメリカに渡る前のスタインウェイとも血縁関係のあるピアノで、現在も細々と製造はされていますが、スタインウェイとどこか通じるところのある、それでいてまた違った魅力のあるピアノです。
ちなみにアメリカに渡ってスタインウェイとアメリカ風に改名する前のドイツ名は、まさしくこのシュタインヴェークだったのです。
現代のグロトリアンを使った演奏としては、イヨルク・デムスが横浜のとあるホールにあるグロトリアンを使って録音したCDがありますが、やはりギーゼキングの使ったピアノに通じる独特な華をもったピアノです。
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ミネラルウォーター

人の心理というものは如何ともしがたいもので、いくら理屈や建前ではわかっていても、我欲や不安感というものはそうたやすく理性で押さえ込むことはできないもののようです。

福島第一原発の事故いらい、放射能汚染の問題が連日かまびすしく報道されていますが、微量の数値が確認されたからといって、ほうれん草や牛乳などの生産者は、もともとこんな震災に遭った上に、さらに目も当てられないような打撃を加えられているようですね。

さらに今度は海水やダムの水にもわずかな放射能が確認されたということですが、人体に影響のない程度のごく少量のものである由。
したがって乳幼児のミルクなどにのみ、これを使用しないように通達があったと思いきや、予想通りと言うべきか、今度はスーパーなどからミネラルウォーターが一斉に姿を消す事態となっています。

政府がいくら乳幼児以外は大丈夫と言ってみたところで、こうなるとなかなかブレーキがかかるものではないのでしょう。

健全な社会において、情報の開示は確かに必要なことで、これが失われれば独裁国家と同じですから、何事によらず包み隠さず報道されるという基本は当然のことであるし、そのスタンスは正しいとは思いつつ、やはり、発表の仕方、報道のありかたにもどこかおかしなところがあるのではないかとも少し思っていまいます。

とくに日本人は汚染、伝染といった目に見えない事に対して示す反応というか、抱く不安感は際立って強い民族だと思いますが、あまりそんなことを言っていたら、被災地の人達のおかれている劣悪な現状(まことにお気の毒の極み)とか、消火に携わった東京消防庁のスーパーレスキューの勇士達の抱えているであろう不安などはどうなるのか…と思ってしまいます。

彼らの被った危険や、ましてやこの震災で落命した多くの人達のことを思ったら、そうそう些細なことで自分ばかりが安全を漁りまわるのも、いささか異常で見苦しい気がします。
ニュース映像の中には、不安だからという理由で、貴重なミネラルウォーターをドバドバ使ってお米を洗っている人などもいて、見ていてさすがにいい気持ちはしませんでした。

もうこうなると中がどんな水であっても、とりあえずペットボトルに入って店で売られている物ならそれで満足というか安心なんでしょうね。
問題の数値は次第に下がっているらしく、しかも基準は直接水を飲んだ場合を前提としたもののようですから、そんなに神経質になる必要はないと思うのですが、いったん煽られた不安とエゴが結びつくと、それこそ歯止めが効かない暴走状態になるのかもしれません。
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便利が不便

久々に直接会話なしにコンサートのチケットを買いましたが、やれやれでした。

5月に開催されるラ・フォル・ジュルネ鳥栖(なんで鳥栖なのか、いまだに謎ですが…)のチケットを購入しようとチラシに記載された購入方法を見ると、基本的にチケットぴあ、ローソンチケット、イープラス、JTBエンタメチケット、鳥栖市民文化会館の5種類が案内されており、自宅の近くにローソンがあるので、これが一番便利ではないかというごく単純な理由からローソンチケットで購入することにしました。

電話をするとすべて音声ガイダンスに従うもので、電話機の操作のみで予約していくものでした。
そもそもマロニエ君はこの音声ガイダンスによる操作というのが性格的にイライラして好きではありませんが、とりあえず仕方がないと諦めてこれに挑みました。

まあ、それにしても音声ガイダンスというのはなんであんなに時間を取るのものかと思います。
ひとつの操作に要する時間も、だらだらと長くかかって、そのたびに子機を耳から離しての操作、そしてまた耳に当てて次のガイダンスを聞くという、ヘンな動作の繰り返しです。

しかも相手は機械なので、こちらから問い返しが出来ないぶん、聞き損じのないようけっこう集中させられますし、各種のコードなどを入力するにも間違えないようにしないと、失敗すればまた振り出しからやり直しになることを考えると、さらにまた慎重にならざるを得ません。

ラ・フォル・ジュルネの場合は、たくさんのコンサートの中から自分の希望するコンサートを指定する操作まで含まれるので、ひとつのコンサートのチケットを予約するだけでもけっこう複雑で疲れました。
さらに、マロニエ君の場合、同日に二つのコンサートに行こうとしているので、結局それを二度繰り返すことになり、全部終了するころにはなんだかもう気分的にクタクタになりました。
10桁の予約番号を機械の音声で妙にひとつひとつゆっくり言われると、抑揚がなくて却って聞き取りづらく、書いて控えるのも妙に大変です。さらにその番号をダイヤルさせられて確認を取るようになっており、なんだか途中でアホらしくなってきます。

さらにチケットの購入期限まであまり時間が無く、明日に迫ったのでさっきローソンに行ってきたのですが、ロッピィとかいう端末の前でまた操作々々の連続です。
途中で操作がわからなくなってお店の人に聞いたら、意外にもお店の人は操作のことはなにも知らないようで、いろいろと考えた挙げ句に、端末機備え付けの電話で聞いてくれといいます。
しかたなく電話をしたら、これがまた混み合っていて繋がるまでにかなり待たされて、5分ぐらい待ったところでようやく話ができましたが、それで再度操作を開始して、やっとやり方がわかりました。

それをまた二回続けて、機械からペロンと出てきたレシートをレジに持っていって支払いをすると、ようやくチケットが発行されて、めでたく終了となりました。
しかし、ローソンの滞在時間だけでも結局のところ30分近くかかりました。

でも、考えてみると、昔の対面式のプレイガイドならものの10分ぐらいで済むことを、なにが悲しくてこんなにも機械相手にせっせと精力を使っているのかと思うと、なんだかとても愚かしい気になりました。
もともと便利なはずのものが、使ってみると却って煩雑で、時間がかかって、不必要に疲れてしまうばかりじゃないかと思います。

これでは要するに、チケットを売る側の仕事をお客さんがさせられているようなもので、だったら少しは料金も安いというのならまだ話はわかるのですが、これだけの手続き作業を延々とさせられた挙げ句に、一枚あたり310円!の発行手数料をとられるのですから、どうにも納得できかねます。
こんなことなら潔くチケットぴあの窓口にでも行けばよかったと思いました。

でも、今の若い人はこういうことはさして苦痛ではないのでしょうし、だから自分の声で活き活きとしゃべるより、メールのほうが好きだったりするのかとも思います…。
なんだかへんてこりんな時代ですね。
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