メラミンスポンジ

プリンターのインク切れは面倒なものです。

以前はインクが無くなる度にカートリッジを買っていましたから交換は楽でしたが、これも馬鹿にならない値段です。
そのうち補充用インクというのがあることを知り、以来これをメインに使うようになりました。

マロニエ君のプリンターはキヤノン(「キャノン」とは書かないそうですね)で、お定まりの黒と、カラーの青、赤、黄ですが、どうもこのインクは使った分だけ減るのではないらしく、時間経過によっても自然に無くなってしまうということがわかってきました。
いつもインク補充のタイミングは、大事なときに突然やってきますが、マロニエ君はこれがとってもイヤなのです。

というのは、どんなに注意しながら慎重に作業しても、指先には必ずインクが付いてしまうからです。
何度か「今回こそは!」と手を汚さないように気合いを入れて挑戦しましたが、これが一度として成功したためしがありません。
つい先日などは急ぎの状態のときにインク切れになったために、大慌てで補充したのですが、そのぶん作業も粗っぽかったのか、カートリッジの上から下からインクは漏れ出て、指先はもう惨憺たる状態になりました。

調理などに使うゴム手袋でもすればいいのかもしれませんが、どうもいちいちあんなものをするのも気が進みませんし、そのために台所まで取りに行くのも面倒臭いのです。マロニエ君は神経質な一面があるクセに、こういうところはけっこうだらしないのです。

さて、このプリンター用のインクですが指先がこれに染まると、生半可なことでは落ちません。
石鹸で洗ったぐらいではせいぜい染みが薄くなる程度で、リムーバーの類を使えば多少はいいのかもしれませんが、あんなものでごしごしやるのも手が荒れそうでイヤだし、いつもは大抵、自然に消えるのを待ちますが、経験的に汚れた当日消えてしまうことはまずありませんでした。

ところが、この日はすぐに出かける予定があり、その用向きから言っても、両手の指先がインクまみれではいくらなんでもちょっとまずい状況だったのです。
やむなくリムーバーの使用も考えましたが、その前に洗面所でちょっとひらめいて、ものは試しと、いま流行のメラミンスポンジを使ってみました。ホームセンターや100円ショップで売っている真っ白いドイツ生まれの激落ちスポンジとやらで、切って茶しぶ落としなどに使うあれです。
たまたま洗面所にこれを小さく切った断片があったので、これを少し水にひたしてインクの染み込んだ指先をこすってみると、な、なんと、アッという間にインクが落ちて、両手はウソみたいに元通りになりました。それもほとんど力も入れずに2〜3回擦っただけで、ほぼ完璧にインクが落ちてしまったのは驚異でした。

茶しぶ落とすという力は、こんなにもすごいものかと思いましたし、よく化学雑巾の類にも注意書きで「家具などは傷を付ける場合がある」と書かれていますが、さもありなんと思います。

この手は、下手な洗剤よりもある意味よほど強力で、そのぶん人の皮膚などにも使い方しだいでは攻撃的なんだろうなと思いました。
「あきらめないで」の石鹸も実はそうとう強烈らしいし、化学繊維を使った洗顔布みたいなものもありますが、よほど注意しないと恐いような気がします。
手が一発できれいになったぶん、油断も禁物のようです。
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ピアノフェア

大手楽器店の主催によるピアノフェアがこの連休期間中に開かれており、ちょっと覗きに行ってみました。

会場は今春オープンした博多駅・新ターミナル内の、阪急百貨店の上にあるJR九州ホールで、広い会場には電子/アコースティック合わせて実に100台以上ものピアノと名の付く楽器が展示されていました。
この会場はホールといっても床をフラットな体育館のようにもできる貸しスペースで、さまざまなピアノがズラリと展示されていましたが、なかなかめったにない壮観な様子だったことは確かです。

どうせ見るだけですが、これだけの台数を一堂に展示するピアノの催しは普段まずないので、一見の価値はあったというものです。
ただし、どうしてもグランドピアノは数が少ないのが残念ですが、それでもスタインウェイ4台(C/B/O/M)、ベーゼンドルファー、ベヒシュタイン、ザウター、ヤマハ2台、カワイ2台の11台が展示されていました。
とりわけ輸入ピアノはお値段も大そう立派なものでした。

ところで、会場に近づくと、中から盛んにジャズピアノらしき音が聞こえてきたので、一瞬、デモ演奏でもやっているのかとも思いましたが、いや待て、誰か腕自慢のあるお客さんが弾いているのでは?と思い直しました。中に入ると、案の定それは当たっており、ひとりの中年男性が熱心に1台のスタインウェイを弾いていました。

このところ人前でピアノを弾く人に対して、ちょっとあれこれと思うところのあるマロニエ君としては、ああまたか…というのが率直な印象です。
これがまた、人目も憚らず(というよりは人目を意識して?)ずいぶん熱の入った演奏で、側に近づいてもまったくなんのその、一心不乱に陶然となって弾いているその姿はちょっと異様な感じでした。

たまたま同行していた友人がその様子に驚いたのか、すかさず小声で「見られてることを意識してるね!」とマロニエ君に耳打ちしましたが、まさにその通りで、どうだ!といわんばかりに臆せず熱っぽい演奏を続けています。
奥では、別のピアノの調律が行われていましたが、そんなことも一向にお構いなし。
この御仁の演奏はしばらく続きました。

いやはや、たいした度胸の持ち主というか、そもそも神経の作りそのものが違うのかもしれません。

コンサートや発表会ならそれなりのスタイルも大儀もあるからまだわかるのですが、こうした単なるピアノの展示即売会の広い会場の中で、我一人、任意の状態であれだけ堂々と弾きまくるというのは、こういっちゃ悪いですが、やっぱりピアノを弾く人(すべてではないけれど)の感覚は、ちょっと普通とは違うと思います。

そのマロニエ君はといえば、ほとんど単音を出すぐらいで、弾くというような次第にはとても至りませんでした。
もちろん個々のピアノには関心があるので、弾いてみたいという気持ちはありますが、周りの空気をみたらそんなこと、とてもできる状況ではありませんでした。

奥で調律している人がたまたま顔見知りというか、我が家のピアノも一度見ていただいたことのある方だったので、その人とちょっと言葉を交わしている中で、「あのピアノは弾いてみられましたか?」などと言われますが、幸か不幸か、マロニエ君はそんな勇気は持ち合わせていません。

そうこうしているうち、やがて小さなコンサートが始まり、この楽器店の教室の講師の人達が代わるがわる演奏をはじめましたが、フルートの伴奏やソロでショパンのエチュードを弾いた講師の方は、ピアノクラブ内で3人ほどが習っていた、よく名前を聞く名前の先生その人だったので、おやと思ってとくと拝聴しました。

ピアノクラブといえば、このコンサートを聴いている中にも、クラブの方がご夫妻でおられたし、前日には同会場でリーダー殿がまた別のサークルの方と遭遇した由で、みんな同じような行動を取っているということでしょうか。
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ゾクゾク本

過日、欲しい本があってアマゾンで検索しているときのこと。
アマゾンでは、頼みもしないのに検索した商品と関連のある本やCDなどを探し出しては、画面の下の方に次々に表示してくれます。

その中に「○○家にストラディヴァリウスがきた日」というタイトルの本が表示されました。
この本の存在は以前から書店・楽器店で見て知っていましたが、ある日本の女性ヴァイオリニストが歴史的なヴァイオリンの名器を手に入れるについて、おそらくはその顛末をまとめた「ひけらかし本」だろうと想像されました。
しかも著者は本人ではなく、そのヴァイオリニストのお母さんというのもいかにも定石通り。

そんな露出趣味そのものみたいなものを買って読む気などさらさらないマロニエ君は、書店でも中を見るどころか、手に触れることさえしませんでした。
しかもこの本、意外にどこでもよく見かけるので、はっきり言ってちょっと目障りでした。

その「○○家にストラディヴァリウスがきた日」の中古品がタダ同然みたいな金額で数件表示されていたので、これには却って興味を惹きました。
そんなに笑ってしまうような値段なら、よし、怖いもの見たさで買ってみようかと妙な気をおこし、購入手続きに進みました。送料以外は事実上ほとんどもらうようなもので、出品している書店にも手間ばかりかけて申し訳ないぐらいす。

3日後に届いたのは、まるで新品かと思うような傷みのないピカピカの本でした。
さっそくページを繰ってみたところ、はじめの数ページを読んだだけで、想像通りというか…相当に手強そうだということはすぐに察しがつきました。
まずこの家の家風と厳格な父親の教育方針が紹介され、さらにこのヴァイオリニストである娘の上にいる二人の兄が、これまた画家と作曲家という道に進むについての経緯、東京芸大を受験するに際しての気構え、お見事というべき父親の愛情に裏打ちされた教育理念など、妻であり母である人物の視点から、これらが臆面もなく滔々と述べられています。

祖父の時代から続く学者としての家系、普通なら1人でも現れれば御の字の才能豊かな子供が3人も続いて出たこと、そして父の威厳に満ちた存在と姿勢の中で、それぞれが自発的に努力を重ねて目的を遂げていくなど、文章はまるで道徳の教科書か、なにかのプロパガンダの文章でも読まされている気分でした。
はじめはその圧倒的な違和感に耐えきれず、何度か放り投げようかと思ったのですが、それでも意地で読み進みました。

この本全体は、徹底して家族愛の名の下に発せられる、甘ったるい善意の文章の洪水で、マロニエ君のような者にはまるで出発点からセンスが異なり、思わず肌が粟粒立つようでしたが、それもオカルト的刺激と思って楽しむことに。

このお母さんは、文中で「ストラディヴァリウスはオークションなどでは何十億もするヴァイオリン」だと何度も繰り返して書いていますが、先日もこのブログに書いたように、今年2011年、日本音楽財団所有のストラディヴァリウスが売りに出され、過去の3倍を越す金額で落札されるまでは、最高額は約4億円だったはずですが…。

むろん途方もない金額には違いありませんが、この本の発行年は2005年ですから、これはいくらなんでもオーバーすぎるようで、なんだか他の内容も下駄を履いているのではないか…という気になってしまいます。
だがしかし、こういう本を読んで心底感銘する人も世の中にはいるのかと思うと…たまりませんね。

なんと、これがきっかけとなったらしく同じ書き手、あるいは娘本人によってさらに数冊が出版されており、いったん覚えた美味は止められないのが浮き世の常というものかもしれません。
そのタイトルのひとつは「○○家の教育白書」という、えらくまたご大層なものになっているあたり、よほど自信がおありなのでしょうね。

ともかく、一度ぐらいこういう本を読むことも、ひとつの人生体験にはなりました。
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続・コロリオフ

エフゲニー・コロリオフは1949年モスクワ生まれですから、今年で62歳。
まさにピアニストとして絶頂期をひた走っている年齢だといえるでしょう。

しかしこのコロリオフという人はピアニストとしてひた走るといった表現が必ずしも適切ではないような印象です。

プロフィールを見れば、師事した教授陣も錚々たる顔ぶれで、ハインリヒ・ノイハウス、マリア・ユーディナ、レフ・オボーリンというロシアピアノ界の重鎮がずらりと並びます。
コンクール歴も輝かしいものでバッハコンクールをはじめ、クライバーン、ハスキルなどの国際コンクールに次々に優勝しており、レパートリーにはロマン派もあるようで、実際にショパンやシューマンのCDも僅かながら発売されているようですが、本領はやはりバッハなどの古典にあるようです。

「栴檀は双葉より芳し」の喩えのごとく、17歳の時に、モスクワでバッハの平均律クラヴィーア曲集の全曲演奏会を行ったとありますから、やはりタダモノではなかったのでしょう。
現在は世界の主要な音楽祭にも数多く参加しているようですが、来日はずいぶん遅れたこと、またCDデビューが40歳のときの「フーガの技法」だということですから、その年齢や内容からしても、まるで大衆に背を向けた芸術家としての姿勢を貫いており、いわゆる商業主義に乗らないピアニストということが読み取れるようです。

ハンガリーの現代作曲家リゲティが「もし無人島に何かひとつだけ携えていくことが許されるなら、私はコロリオフのバッハを選ぶ。飢えや渇きによる死を忘れ去るために、私はそれを最後の瞬間まで聴いているだろう」とコメントしたことが、コロリオフの評価を決定的にした一因のようにも感じます。

このところ集中的に聴いているCDでは、フランス組曲ではより端正なアプローチがうかがわれ、これはこれで傑出した美的な演奏に違いありませんが、強いて言うなら、ゴルトベルクのほうに更なる輝きがあるようです。

とくに面白かったのはバッハ編曲集で、リゲティ同様、ハンガリーの現代作曲家であるクルタークによる4手のピアノのために編曲された作品集では、読み方がわからないもののもう一人のピアニストとの共演ですが、演奏はあくまでコロリオフ主導で、コラールなどがなんとも澄明な美しさに照らし出されるような音楽で、バッハは目指したのはこういう音楽だったのかと思えるほどに天上のよろこびを伝え聞くようでした。

ほかにコロリオフ自身の編曲によるBWV.582のパッサカリア、クラヴィーア練習曲第3巻(全11曲)と続いていくわけですが、どれを聴いても極めて純度の高い音楽そのものが目の前に立ち現れることに何度も驚かずにはいられませんでした。

あまりに感銘を受けたので、YouTubeで検索したところ、ライプツィヒのバッハ音楽祭に出演した際のゴルトベルクの演奏の様子がありました。そこに観るコロリオフは、およそコンサートアーティストらしからぬ地味な出で立ちで、黒いシャツのボタンを一番上まで止めた、まるで研究と演奏に明け暮れる質素な古楽器奏者のようでした。
しかし、そのシャツの袖口から出たその手は、まるでショパンの手形のように細い指がスッと伸びた繊細なもので、なるほど、こういう手からあのようなすみずみまで見極められた、聴く者の心を捉える自然な音楽が紡ぎ出されるのだと思いました。コロリオフのタッチと音にはくっきりとした明晰さと充実した響きがあると感じていましたが、妙に納得した気になりました。

こうなると、バッハは当然としても、ショパンなども聴いてみたいという興味が出てくるようです。
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コロリオフ

リサイタルに行ったことがきっかけで、このところメールのやり取りをしているあるピアニストから、コロリオフというピアニストをご存じですか?と聞かれました。

知らなかったのでその旨伝えると、ご親切にも5枚ものCDを送ってくださいました。
エフゲニー・コロリオフ、ロシア出身で現在はドイツに暮らして活躍している人でした。

分厚い包みが届いたと思ったら、そこにはなんと5枚ものCDが入っており、ゴルトベルク変奏曲、フランス組曲全6曲、バッハ編曲集では音楽の捧げものからリチェルカーレ、クルタークによる編曲、クラヴィーア練習曲第3番、リスト編曲の前奏曲とフーガなどでした。
そのご親切に深く感謝するとともに、さっそく聴いてみました。

ゴルトベルクの出だしを聴いたときから、いきなりなんと姿のよい、骨格のある澄みきった演奏かと思いましたが、それは聴き進むうちにますます確信に深まります。
バッハの鍵盤楽器のための作品の演奏に際しては、チェンバロやクラビコードで弾くべきか、現代のピアノで弾くかということは尽きないテーマですが、コロリオフの演奏を聴いているとそういう論争さえナンセンスに思えるほど、ひたすら真正なバッハを聴いている自分に驚き、それに熱中させられてしまいます。

ゴルトベルクといえばグールドの衝撃以来、60年近くが経過するに至っていますが、なんらかの形で彼の演奏は多くの演奏家の耳に刻み込まれましたが、そこから本当に独自の表現ができたピアニストは極めて少ないと思います。

コロリオフはバッハの音楽をあるがままの姿で表出しており、そういう正統表現の価値と魅力を、聴く者に問い直してくるようです。
この当たり前さが、今は不思議なほど鮮烈に聞こえてくることに、言い知れぬ快感と喜びを覚えます。
バッハはピアニスティックにモダンに弾くか、あるいはアカデミックな学者のような演奏に二分されることが多いと思いますが、コロリオフはバッハにはそのいずれにも分類できません。

第一級の演奏技巧で非常に一音一音が明晰で力強く、いかなるときも落ち着きはらったバランス感覚があるのに、生命感に裏打ちされたそれは退屈させられるところがなく、常に音楽の熱がすみずみまでみなぎっています。
シフのバッハも素晴らしいですが、彼にはときに独特な節回しや老けた悟りのようなところもなくはないのですが、コロリオフにはまるきりそういうものが見受けられません。

音楽を聴いていると同時に、なにか荘重な建築を目にしているようでもあります。
とくにトリルや装飾音にはチェンバロのような趣があり、その効果的な入れ方には妙なる美しさがあふれ、文字通り随所で音楽に厳粛さと華を添えているようです。

彼がロシア人であることも関係していると思いますが、どんなにバッハをバッハとして純度をもって演奏することに専念していようとも、背後からロマンティックな何かがこの演奏を支えているような気がして仕方がありません。しかもニコラーエワのような直接表現でないぶん、より克明にバッハの音楽の核心部分へと導かれるようです。

きわめてドイツ的でありながら、決して本当のドイツ人には作り出せないドイツらしさといったら言葉が変ですが、たとえばチリの出身であったアラウがドイツ人よりもドイツ的といわれたことに、これも似ているかもしれません。

ペダルも使っていないように聞こえますし、デュナーミクも過剰にならないところに凛とした気品があり、バッハ音楽の抽象世界を描き出し、聴く者は楽々とバッハの響きと真髄に体が包まれるようです。

まだ一通り聴いただけですが、こんな素晴らしい演奏に出会えて件のピアニストには感謝しています。
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気持ちの鮮度

マロニエ君のCD購入はいつも店頭とネットの二本立てです。
それぞれに特色があり、店頭はあれこれと実物を見て探す楽しみや意外な発見があり、ネットは店頭で入手の難しいものが手に入るなどの利点があるわけです。

とくにマニアックなものを購入する場合などは、ネットのほうが品揃えが比較にならないほど充実しているのでこちらから注文する事が多いのですが、さしものネット店をもってしても「入荷待ち」となることがしばしばあります。
さらにどうかすると、入荷にひどく時間がかかることがありますが、このときにちょっと困ったことが起こります。

ネット購入の場合はマロニエ君が利用しているのはHMVなのですが、送料やらポイントの関係で、大体購入するときは数点まとめての購入となります。
ところがその中にひとつでも在庫のない商品があると、それが整うまでは他の商品は発送されません。
これが1週間や10日ならいいのですが、どうかすると数週間ストップしてしまう状態に突入してしまいます。

それがさらに長引きそうな場合になると、他の商品だけ先に送るかどうかを尋ねるメールが来るのですが、この段階を迎えるだけでも相当の日数を要します。大半は海外からの仕入れ商品ですから、まあ時間がかかるというのもわからないではありませんが。

さて先日のこと、HMVから一通のメールが届き、以前注文したCDが製造中止のため入手不可能になったため、その入荷待を待って一緒に送られてくるはずであった残りのCDを発送する旨のメールが届き、数日後には商品が届きました。
実はこのCDは、今年の4月上旬に発注していたものであっただけに、実を言うと注文していたことも忘れていました。

しかも「カード決済は発送時」というルールなので、うええ、なんでいまさら…という気分になってしまいます。
こんなに遅れたのは店側になにかの手違いかあったようにも感じますが、もしかしたら分送するか否かのメールが来たときに、ろくに内容を見もしないで同時発送を承認するクリックかなにかをしたのかもしれません。
通常は分送のほうを希望なので、まずそんなことはしないつもりなのですが、マロニエ君の間違いということが絶対ないとも限りません。しかとした記憶もないし自信もなく、ともかくこういう次第になりました。

それにしても、今でも欲しいCDは山のようにあるのに、届いたCDは、正直いうといまさら熱が冷めてしまったようなものもあり、しかも今回は「ニーベルンクの指環」が含まれていたので、1枚あたりの単価は決して高くはないものの、合計23枚ものCDとなり、なんだか素直に喜べない状況に陥ってしまいました。
もちろん、届いた以上は気を取り直して楽しんで聴くつもりですが、やはりCDの「聴きたい」という気分にも波があり、あまりにも時間が経つとその高揚感も冷めてしまっているということがわかりました。

個人差もあろうかとは思いますが、マロニエ君の場合、これが続いているのはせいぜいひと月ぐらいのようで、3ヶ月というのはあまりにも長すぎました。
足止めの原因となった問題のCDは「ストラルチク:96人のピアニストと4人のパーカショニストのための交響曲」という、ほとんどどんなものかもわからない、いわばゲテモノ食いみたいなものだったので、こんなもののせいで3ヶ月も出荷停止していたのかと思うとよけいにガッカリしました。

なにごとにも鮮度とかタイミングというのは大切で、CDは旬の気持ちのときに聴きたいものです。
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自己顕示症

自己顕示欲というものは、多少は人の心の中に存在するものでしょう。
ところが、これの旺盛な人はほとんど病気のごとくで、まったくどうにもつける薬がありません。
つける薬がないという点においては○○と同じです。

作家の三島由紀夫は、救いがたい自己顕示欲の持ち主を「自己顕示症」とさえ呼んだほどです。

この自己顕示症を発症した人は、必然的に空気の読めない、もしくは読もうとしない人を意味します。
それも理で、空気なんぞ読んでいたら、どうしたって遠慮というものが必要になってしまいますから、そんなものは邪魔でしかなく、この手の神経の持ち主にはなんの意味もないことでしょう。

動物と同じで、必要ない機能は大自然の摂理にしたがって、さっさと退化してしまうということかもしれません。

いろんなところにこういう人は出没するものですが、だいたい人の集まりのようなところにやってきて、のっけから腕自慢をやったり、自分の力の誇示に熱中するような人は、その人間性や感性においても、おそらくは孤独な人であることが読み取れます。

そもそもの目的が、人と交わり仲間の親交を深めることよりも、喝采を浴びることなんでしょうから、自分の崇拝者は欲しくとも、対等の関係が基本である仲間はもともとご所望ではないのかもしれません。
こういう人は、概して日ごろはかなり満たされない毎日を送っているはずで、そういうものに対するいわばうっぷんを晴らしをせんがためにも、ときに快感に酔いしれる非日常を求めて彷徨っているのでしょう。

遠慮や協調というようなものはいささかも持ち合わせがなく、ひたすら隠し持った野心を道連れに遠路をものともせずに動き回り、さて自分の姿がどんなふうに映っているかはまったくわかっていません。

自慢はすればするだけ効果を上げ、周りは感心し、そのたびに尊敬を集めるとでも思っているのでしょうね。
こういう人こそ、人の心の奥深さとか本当の怖さをろくに知らず、ひとり優越感に浸ったり、周りを見下したりしているつもりでしょうが、実は自分のほうが遙か浮いてしまっていることには、ほとんどウソみたいに気が付かない鈍感人であったりします。

そもそも少年野球にひとりだけ大人のプレイヤーが入って、その技を見せつけるようなことをして何が楽しいのか、こういう幼稚な心理には、到底理解の及ばないものがあります。

最近は「どや顔」という言葉が流行っているそうですが、巷にこういう人が増えているということかもしれません。

なにぶんにも本人が気付くしかないことなので、ほとんど改善の希望は持てません。
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ヴァイオリンの謎

数ある楽器の中でも、ヴァイオリン族ほどピンキリの甚だしい価格差があるものもないでしょう。

代表的なヴァイオリンは、普通の入門用楽器なら10万円以下からごろごろあるいっぽうで、頂点というか雲の上に君臨するのが、ストラディヴァリウスやアマティ、グァルネリ・デル・ジェスのような約300年前のクレモナの名工達が製作した最上級とされる楽器ですが、これらの価格はますます高騰し、それらと廉価品の価格差は数百倍から下手をすれば千倍にも達します。これはちょっとピアノなどでは考えもつかない世界です。
こうなると、とうてい普通の演奏家が購入できるものではありません。

かつてヴァイオリニストの辻久子さんがストラドを買うために、家屋敷を売り払ったことが大変な話題になったことがありましたが、それでも当時は億などという単位ではありませんでした。
また同じくヴァイオリニストの海野義雄さんは、高価な楽器を万一の交通事故から守るという目的のために、当時最高の安全性を誇っていたメルセデス・ベンツに乗っていると豪語しておられました。
本当にそのためのメルセデスかどうか、真偽のほどはわかりませんが、ずいぶん昔の話ではあります。

いっぽうでは旧ソ連は国家がいくつかの名器を保有し、それに値すると認められた演奏家には無償で貸与されるという社会主義ならではのシステムがありました。
オイストラフの愛器も国家所有のストラディヴァリウスで、彼の前に使っていたのがあの数々の名曲を残したヴィエニャフスキ、そしてオイストラフの死後にこの楽器を貸与されたのがわずか10代の神童ヴァディム・レーピンでした。

これは数あるストラディヴァリウスの中では特段の名作というほどではないのだそうですが、オイストラフやソ連時代の若きレーピンの奏でる、一種独特なややハスキーな、そして抗しがたい悪魔的な音色は聴く者を総毛立たせた特徴のある楽器です。

それにしても、いかに素晴らしいとはいってもなぜここまで高額になるのか、この点は解せないものがあるのも正直なところです。
ヴァイオリンの構造図を見てみると、ただただ驚くほどにシンプルで、f字孔が開けられた「表板」と裏側の「裏板」それを支える「側板」、中に突き立てられた「魂柱」が本体で、これに「ネック」という左手で持つ部分、それに「スクロール」という上の渦巻き状の部分があるだけで、そこに「駒」を介して4本の弦が張ってあるに過ぎません。

ピアノの複雑で大がかりな構造と較べると、まさにあっけないほどに究極の単純構造で、ここからあの艶やかで何かがしたたり落ちるような美しい音色が出るのかと思うと、いやはやすごいもんだと思ってしまいます。
もちろん楽器の価値というのは、大きさや複雑な機構や、ましてや原価がどれだけというような次元ではないことは百も承知ですが、それにしてもそのハンパではないウソみたいな価格はやはり驚かずにはいられません。

それに弦楽器にはピアノとは違って盗難や破損といった問題が常につきまといます。
ヨーヨー・マがストラディヴァリのダヴィドフという名高い名器(前の持ち主はあのジャクリーヌ・デュプレ!で、チェロはヴァイオリンに較べて数が少ない)をニューヨークのタクシーに置き忘れたというのは信じがたい話ですが、ともかくこういう事がある楽器というのも気の休まるときがないのではないでしょうか。

そして時にはジャック・ティボーやジネット・ヌヴーのように、所有者が遭遇した事故と共にこの世から楽器が消え去ることもあるわけです。

ピアノには持ち運びができないぶん、盗難や紛失の心配がないのはずいぶん気楽なもんです。
逆に建物が焼失崩壊するような災害にはなす術がありませんから、まあ一長一短といったところでしょうか。

ともかく、これらの昔の最高級のヴァイオリンは謎だらけで、どこかオカルト的で恐い感じがします。
そこがまた抗しがたい魅力なのかもしれませんが。
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ジャパン品質

横山幸雄氏によるショパン全曲集のCDが順次発売され、折り返し点に来ました。

このCDはショパンのピアノソロ作品を網羅するもので、その特徴のひとつは、概ね作曲された時代に沿ってCD番号がまとめられているという点です。そのお陰でCDの番号順に聴き進むことでショパンの生涯を辿ることができることにもなっていて、なるほどと思わせられるものがあるように思います。
少なくとも、ショパンのソロ作品を作曲年代順に並べた全集というのはそれほどなかったように思います。

このCDのもう一つの特徴は、以前も書いたことがありますが、ピアノはすべて1910年製のプレイエルの中型グランドを使って日本で録音されているもので、この点は特に画期的なことだと思われます。

わざわざ書く必要もないことかもしれませんが、もともとマロニエ君は率直に言って横山幸雄氏の演奏はあまり好みではなく、通常なら彼のCDを買うことはないと思われますが、これだけきっちりと企画された他に類を見ないCDというものには強い説得力があり、しかも価格も以前からマロニエ君が主張しているような、一枚2000円というものであるので、すでに発売された6枚は全部購入して聴いています。

録音媒体の変化とかクラシック離れとか、あれこれ理由はあっても、やはりキチッとした完成されたものでプロの仕事としての内容があり、価格も妥当なものであれば人は買うのであって、無名の新人演奏家のデビューCDにいきなり法外な高い定価をつけて自嘲気味にリリースする会社は、もう少し本気で反省して、やり方を基本から見直して欲しいと思います。
CDの発売元は採算性だけでなく、アーティストを育てるという一翼を担っていることも強く自覚せねばなりません。

こういうわけで今年は横山氏のショパンをずいぶんと丹念に聴くことになりましたが、ひとつはっきりしたことはマロニエ君の好み云々は別として、この人はこの人なりに、まぎれもない「天才」だということです。
その根拠のひとつが、その安定した技巧と膨大な離れ業的なレパートリーです。

ピアニストは音楽家であり芸術家であるのだから、むろんレパートリーが多いということが直接の評価には繋がりませんが、それはそうだとしても、この横山氏のそれはやはり尋常なものではなく、現実の演奏としてそれらを可能にしているという抜きんでた能力には、これは素直に一定の敬意を払うべきだと思うのです。

しかも、このショパンの全集(まだ完結はしていませんが)でも、驚くべきはどれを聴いても一貫したクオリティと安定した爽快な調子を持っていて、それがほとんど崩れるということがありません。
とくだん魅力的でもないかわりに、いついかなるときも最低保証のついたプロの演奏であるというわけです。
一人の作曲家を網羅的・俯瞰的に聴く場合、これはこれでひとつの安心感があるのは認めなくてはならないようです。

そういう意味における実力ということになれば、横山氏はなるほど大変な逸材で、現在彼に並ぶ才能が他にあるかといえばしかとは答えられません。
どんな大曲難曲であれ、ちょっとした小品であれ、すべてにとりあえずキチッとまとまった演奏様式があり、それなりのアーティキレーションまで与えられて乱れのない演奏に仕上がっていることは、まるで日本の一流メーカーの商品の数々を見るような気分す。

そういう意味では、横山氏はまぎれもない日本人ピアニストであり、日本が世界に送り出すメイド・イン・ジャパンの高い品質と信頼性をピアノ演奏で体現し、世に送り出しているその人という気がします。

リサイタルに行く気はあまりしないけれど、曲を目当てにCDを買う場合は、変な冒険をして大失敗するより横山氏の演奏を買っておけば、大間違いは起こらない、そんな保証をしてくれる人のような気がします。
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ネット販売

アマゾンで書籍の検索していたら、たまたまある本が関連商品として表示されてきました。

なんでも、インターネットでピアノを販売している人が成功して、そのノウハウを紹介する本が出版されているようでした。
最近は本によっては中が数ページのみ覗き見ることができるようになっており、どんなものかクリックしてみると、前書きから目次にいたる数ページには、「信用」「人間力」「人間の善の部分」「社会貢献」というような言葉がうねうねと躍っていました。とくに「人間力」は何度も繰り返し現れます。

マロニエ君はどんな職業であれ、こういう人生訓めいた言葉をやたら使いたがる、熱血漢ぶった経営者というのがどうもあまり馴染めません。
これはピアノビジネスに限ったことではなく、いかなる業種であっても本業の話そっちのけで、必要以上に自分達の誠実さとか満足だのお客様の心云々…といったことを前面に押し出して言い立てられると、それだけで聞く気がしなくなり、逆に気分が白けてしまいます。

まずその「人間力」とやらでお客をじわじわ囲い込んで相手の判断力を奪い去り、あとはどんなものでもいいなりに買わせてしまうといった、そんな印象を覚えてしまいます。
少なくとも商品それ自体の素晴らしさというよりは、その店に携わる人間が皆真面目で努力家で、だから素晴らしい店だという訴えが先行していて、まず店そのものに共感を得させて、しかる後に商品を売る手法という気がします。

だいたい商売人というものは、なによりも商売がこれ第一で、それはいうまでもなく金儲けのため、利益を追求するためにやっているのにもかかわらず、まるで利益を犠牲にしてでも社会貢献とか人助けなどの、さも美しい事をやっているかのごとくで、人々から愛されるために日夜努力をしていますみたいな、歯の浮くようなことを言われると却って不自然に感じるものです。

さっそくその、本ができるほど話題のホームページというのを見てみましたが、マロニエ君は正直いって到底ノーサンキューなお店でした。

過去の販売分も含めて、すべてのピアノに動画による解説が付いていて、そこの社長とおぼしき人物が怪しい笑顔と語り口でピアノの説明をしますが、それがほとんど説明になっておらず、ただメーカーと型番、外装色などをいうばかりで、鳴りがすごいとか、これはめったに入りませんといういうような、どれも似たり寄ったりなセリフのオンパレード。
ピアノのディテールの映像でも、けっこうホコリまみれだったり弦が錆びていても「どうです、きれいでしょう~?」などと堂々と言い切ってしまいます。

そして、いつもお得意のセリフが「入ってきたばっかりなので、まだ調律はしていませんが」「まだファイリングができていませんので」「調整すればまだよくなるはずです」などと、必ず言うのはなんなのかと思います。
いやしくもピアノ販売の専門家で、それを商品として販売するのであれば、せめて最低限のクリーニングと調律ぐらいしてビデオ撮影するのが当然だろうにと思います。根気よく何台も見てみましたが、一台も「調律も調整もバッチリ、どうですこの音!」というビデオにはついに行き当たりませんでした。

専門技術者も数名いるようで、いちおう技術も売り物にしており、スタッフ全員の笑顔の記念写真まで公開されていて、さも何事も包み隠なさいオープンな会社であるかのようにアピールするのですが、なぜか肝心のピアノとなると、いつもどれも調整前の未完成状態ばかりとは、そのあまりなギャップに呆れてしまいます。
「うちはリピーターのお客さんも多いですよ!」といいますが、ネットの中古ピアノ店のリピーターって、どういう人達だろうかと思います。

でも、中にはあんな動画を見て「安心感」を覚えて買ってしまう人がいるんでしょうね。
マロニエ君は見れば見るほど「不安」が掻き立てられました。
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黒い用心棒

なんともまあ、嫌な雨が続くものです。
明日(7日)は晴れ間が出るような事も言っていますが。

マロニエ君にとってはこの季節、ピアノ管理が大事とはいいながらも、しょせんは一般家庭のことなので、ホールのピアノ庫のようなわけにはいきません。
いかにエアコンを入れようと、除湿器を回そうと、そこには自ずと限界というものがあり、このところのこれでもかといわんばかりの鬱陶しい雨天続きでは、とりあえず少々の抵抗は試みるものの、最終的には太刀打ちできないものです。

しかし、今年はなにしろダンプチェイサーのお陰で、ずいぶん助けられていることは実感しています。
もちろん季候そのものがいい頃に較べれば幾ばくかのコンディション低下は避けられませんが、それでも例年のことを思い返してみると、頼もしい助っ人のお陰でたしかに違います。

とりわけ今年の梅雨は悪性とも呼びたいほどで、これだけ長期間に及ぶしつこい雨と高い湿度の集中攻撃を受けると、ピアノはかなりくたびれた疲れた感じになるものです。
例年なら、梅雨はマロニエ君とピアノは一心同体とでもいうべき疲れを見せるのですが、今年は心なしか、いや確実に、ピアノはある一定の元気さを保っており、確実に人間のほうが負けていることは間違いありません。

まあ、ピアノ好きのマロニエ君としては自分よりもピアノのほうが多少でも元気でいてくれることは、歪んだ喜びがあるもので、やはりダンプチェイサーを取り付けたことは正解だったと思っています。

それにしても、このところの悪天候はなんなのかと思うばかりで、ようやく晴れ間が出たかと思えば、それもつかの間、すぐにまた激しさを伴う雨が数日続くというパターンの繰り返しです。昔は梅雨といっても、ここまで厳しく過ごしにくかった覚えはあまりないのですが、他の皆さんはどうお感じなのだろうかと思います。

ちょっと玄関を出ると、そこはまるで風呂場かサウナのようなムシムシ状態で、聞くところによると北海道でもかつて無かったほど確実に気温が上昇しているのだとか。
もしかしたら日本は熱帯化しているのではとさえ思ってしまいます。

車に乗って驚くのは、ガレージのシャッターを開けて外に出ると、ガレージの内外だけでさえ湿度差があるらしく、バックで路上に出た途端、前後左右のガラスが一斉に曇ってしまい、前に進むにはいきなりワイパーの出番となります。
これは走り出すとほどなく消えて無くなりますが、今度はエアコンで車内が冷えてくると、これで再びガラスが曇ってしまいます。

というわけで家も、塀も、なにもかもが雨に濡れそぼって重い病気のように見えてしまいますが、そんな中に湿度大敵のピアノを置いている現実を思うと、なんだかもう無性に気が滅入ってしまいます。
とにかく、今年もしもダンプチェイサーをつけていなかったらどうなっていたかを考えると、思わずぞっとしてしまいます。

実をいうとあと1~2本追加購入しようかという誘惑にかられましたが、それもあんまりなようで、さすがにそれは止めました。
でも、ここ毎日の天気からすれば、一台のピアノに3本ずつぐらいつけたいような気がするのは事実です。
もちろん「過ぎたるは及ばざるがごとし」ですが、効き方は非常にマイルドである上に、自動調整機能が付いていますから、感触としてはピアノを痛めるやはり心配なさそうです。

いつになったらこの「黒い用心棒」が要らなくなることやら。
当分それはないことは間違いないでしょうね。
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蜘蛛の卵

今年の梅雨は例年にない厳さで、日ごとに残り少ないエネルギーをさらに奪い取られるようです。

とにかく連日の蒸し風呂状態で、室内を快適にするには、間断なくエアコンの力を求めなくてはいけないようです。
序盤からこんな厳しい季節となり、節電なんぞと言っていますが、現実にどうなるのかと思うばかりです。

とくに高齢者の熱中症などは最も懸念される事らしく、予定通りの節電が実行されるとなると、ほぼ確実に従来とはケタの違う死者などが出るという見通しだそうで、すでに一部の有識者などは、これはれっきとした「未必の故意」であり、人災であると言っていますが、尤もな話です。
とにかく大変なことになってきましたが、日本は「流れ」ができるとどうにも恐い国です。

さて、愛するピアノの健康のために敢行した、ダンプチェイサーの取り付け及びその他の要因から喉を痛めてしまい、いまだに完全回復に至ってはいないマロニエ君ですが、またぞろヘンテコな被害に遭いました。

この時期から夏場にかけて、蜘蛛の繁殖の季節となるようで、家の軒下などには場所によっては不気味な卵を産み付けられてしまいます。これがいったんコンクリートなどの地肌にこびりつくと、生半可なことでは除去できません。

我が家でも玄関を出てすぐの軒下など、ちょうど上を見上げたあたりにこれがポツポツこびりついているので、通るたびに早くなんとかしなくてはと思いつつ、この暑くてベタベタする最中にそんなことはしたくもなく、先送りしていたのですが、いつかはやらなくてはいけないことなので、過日ついに思い切ってこれの除去作業に着手しました。

ご存じの方もいらっしゃるとは思いますが、この蜘蛛の卵というのはまるで接着剤でがっちりくっつけたように、見た目以上にしっかり固着しており、ほうきの先で払ったぐらいではビクともしません。

もちろん殺虫剤などどんなにふりかけたところで、仮に中は死んだにしても、表面は頑として残ります。
これを完全に除去するにはこそぎ落とすしかないのですが、気持ち悪くてタワシなども使う気になれず、とうとう考えたのが物差しぐらいの長さの木の棒を使ってゴリゴリやるというものでした。

幸い適当なものがあったので、これでなんとか作業をしたのですが、奮闘の末にやっと終わって家の中に入って間もなくのこと、両腕がチクチクと刺激的な痛みを感じました。
とっさに、蜘蛛の卵からパラパラと粉みたいなものが落ちてくるのが肌に触れたことを思い出し、あわてて両腕を石鹸で洗いましたが、もう間に合いませんでした。

痛いような痒いような、極めて不愉快な無数の刺激が両腕を襲い、仕方がないので気休めに虫さされ用の液体ムヒを塗りまくりましたが、これも効き目がなく、ついにはそのまま様子をみることにしました。
刺激は数時間で治まりましたが、しばらくすると皮膚に赤い斑点が出てきて、蜘蛛の卵から飛び散った何かがこれを発症させたのは疑いもなく明らかでした。

この赤い斑点、夜にはより色鮮やかになり、手当たり次第にそのへんにある薬を塗りますが、なんの効果もありませんでした。
相応の痒みもありますが、これはもはや時間が解決するほかはないと観念しました。
ところがこれ、かなりの強者で、赤味が退きはじめるのに丸3日かかり、尚現在もまだきれいに消えてはいません。
家人に言わせると、そんな事をするのに、長袖や手袋などの防御もしなかったマロニエ君の短慮こそ反省すべきだそうで、つまり当然の報いで自業自得だということですが、まあその通りでしょう。

一種の毒素なのか何なのか…これだから不気味な虫など大嫌いです。
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混濁の恐怖

このところ、ピアノを弾く場合のマナーを考えさせられることがありますが、あることを思い出しました。
以前、知人達とあるピアノ店に行ったときのことですが、これは少々まずい…という状況になりました。
ここのご主人はとても気のいい方で、店内のピアノを弾くことについてはいつも快く解放してくださいます。

はじめは遠慮がちでしたが、しだいに各々がちょろちょろと弾きだしたところまではよかったのですが、時間経過とともに緊張が薄れ、気が緩み、しだいに各人バラバラに自分の弾きたい曲を同時に弾いてしまうという状況が発生しました。

マロニエ君はこれが苦手で、一種の恐怖さえ覚えてしまいます。
だいいちあまり感心できることではないですよね。

読書やパソコンと違い、楽器は音を出すものであるだけに、複数の人が複数のピアノを同時に鳴らすということは、息を合わせるアンサンブル以外はただの騒音以外の何ものでもありませんし、この瞬間から美しいはずのピアノの音は耐えがたい混濁音になってしまいます。

これの最たるものは楽器フェアなどで、せっかくの良い楽器を試そうにも、一瞬も止むことのない耳を覆いたくなるばかりの大騒音の中では、個々の楽器への興味もすっかり失ってしまいます。

今はまったくお付き合いも途絶して久しい方で、以前マロニエ君の家にピアノの好きな方をお招きしたところ、そのうちの一人は実に3時間近くを、ほとんど休むことなしに我が家のピアノを弾き通しに弾き続けました。
あとの一人とマロニエ君は呆気にとられ、つい目と目が合ってしまいますが、やめろとも言えず、なす術がありません。

わずかな曲の合間などになんとか分け入って弾くという、せめてもの抵抗を試みますがまるで効き目はなく、すぐに構わずその人もまた自分の弾きたいものを弾きはじめる有り様で、もう部屋は音楽とは程遠いただのピアノの騒音で溢れかえりました。
それでもその人はまったくひるむことなく、ひたすら弾き続けるのですから、自分さえピアノが弾ければいいというその図太さにはほとほと参りましたし、ピアノ弾き特有の特種な無神経さを感じました。

いずれにしても、ひとつの場所で同時に違う曲を弾くという野蛮な行為だけは理屈抜きに御免被りたいものです。

ピアノが好きな人は、目の前にピアノがあることは一種の誘惑で、触れてみたい、弾いてみたいという気持ちになるのはよくわかります。
しかし、誰かが弾いている間ぐらい、自分が音を出すのはちょっと遠慮する程度のけじめはほしいものです。

そんなことを考えていると、マロニエ君は最近、家でさえピアノを弾くことに、なにやら家族の迷惑が気になりだして、このところは無邪気に弾くことができなくなっています。
それは、同じ場所にいて嫌でも音を聞かされる側の立場になってみれば、それは弾いている当人とは大違いであって、どんな理屈をつけても、基本的にはただの騒音であろうと思うわけです。
とりわけ練習ともなると、通して音楽が流れるわけでもないし、ましてやプロの演奏でもない、アマチュアのヨタヨタ弾きでは、他者(たとえ家族でも)が快適であろうはずがないからです。

音の苦痛というものは、煙や臭いと並んで、どうしても強烈な部類の苦痛源であるということはピアノを弾く人は心しておくべき事だと思いますし、間違ってもピアノの音は美しいはずなどと勘違いしてはなりません。
これはピアノを弾く者、すなわちピアノの音を出す側に強く求められる基本認識の問題だと思います。

ピアノは、人前で弾くには一線を踏み越える度胸が必要ですが、その線の先には、今度は音の野蛮人にならぬよう、遠慮をするというバランス感覚を持つことも、弾く度胸以上に必要であるような気がします。
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道楽の殿堂

ピアノクラブの中に、なんと自分のスタジオをお持ちの方がおられ、そこでの練習会という名のお招きをいただき、マロニエ君も参加しました。

北九州市のとある一角にあるそこは、外観は普通の住宅街の中に半ば正体を紛らわすかのごとく静かに建っていますが、中に入ると大きく重い金属製のドアが目前に現れ、そこを開けると、さらにもう一枚同様のドアがあり、まるで金庫の中にでも入るがごとくこの厳重なドアを2枚くぐり抜けてようやくスタジオ内に入ることができます。

ベタベタとした鬱陶しい外の天気から見事に遮断されたそこは、爽やかな澄んだ空気の流れる別世界でした。
広いコンクリートの建物の中には優しげな木の床が敷き詰められ、随所に共鳴板や吸音目的の布の塊などが散見され、音響のためのあれこれの方策が練られては、試行錯誤を繰り返されている様子がわかり、ここのオーナーがいかにこだわりを持ってこの空間を作り上げておられるかが一瞥するなり伝わりました。

ピアノの音を出すと、一音一音の音には、まるで楽器の呼吸のような微かな余韻までがこの空間に鳴り響きます。
しかし鳴り響くとはいっても、決して音が暴れるような野放図なものではなく、響くべきものと余分な響きとが見事に峻別されており、人のイメージの中で「こうあってほしい」と思い描く、まさにそんな美しい音響空間が実現されていたのには深く感心させられました。

ピアノはディアパソンのDR500ですが、これがまた素晴らしいピアノでした。
コンサートグランドがカタログから落ちた現在、この奥行き211cmのモデルが現行ディアパソンの最高級モデルです。
以前、同社の社長と電話で話したときに聞いたことを思い出しましたが、鹿皮のローラーを使っているのがカワイとの違いのひとつだと言っていましたが、その恩恵なのか、タッチには奥に行くほど好ましい弾力があり、この特性とコントロールのしやすさという点では、むしろ優秀なドイツピアノを連想させるものがありました。

このDR500は、ディアパソンの生みの親である大橋幡岩氏の設計とは完全に訣別した新しいモデルで、ボディと響板はカワイのグランドRX-6そのものですが、そこにレスロー製の弦が一本張りされていることや、ハンマーはレンナーを、そしてなによりもディアパソンの技術者によって入念な出荷調整(これはピアノにとって非常に大切な点)されている、いうなればディアパソンの手によるスペシャル仕上げというべきピアノです。
そのために、大橋デザインでは見られなかったデュープレックスシステムなどもカワイと同じく備わり、音は良い意味で限りなくカワイに近いもので、昔のディアパソンのいささか攻撃的で厚ぼったい発音や、クセの強かった響きは完全に消滅し、代わりになめらかで美しい標準語を話すようなピアノになっており、ショパンなどを弾いても違和感なく収まりのつく、洗練された理想的なピアノになっているように思いました。

もうひとつ、たしかこのピアノはカワイでありながらアクションは従来の木製を貫いている点がディアパソンブランドのこだわりで、この点でも弾いていて樹脂製にはないナチュラル感と柔らかさがあり、極めて好ましい弾き心地であることも見逃せません。
まさに布団でくるんで持って帰りたいようなピアノでした。

いやしかし、こんな素晴らしい環境に住み暮らす非常に恵まれたピアノですから、これ以上の住処はないはずで、本当に幸せなピアノといえますし、このスタジオの出来映えも個人の道楽としてはまさに最高レベルもの。
こんな空間で思うさま練習ができるなんて、ここのオーナーはなんという幸せを独り占めしておられるのだろうかと思わずにはいられません。

現在のような言葉のインフレからすれば、ここはもはや堂々とホールを名乗っても良い場所で、巷にはこれとは比較にならないただの部屋みたいなものをホールと呼んでいるものをマロニエ君はいくつも知っています。
ここのオーナーはピアノはもちろん、ヴァイオリンも弾かれる由なので、いつかベートーヴェンのソナタでもお手合わせ願いたいと密かに企んでいるところです。

ともかく驚きの一日でした。
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好みの封印

他人と接触する際には慎重にならないといけないことがいろいろとあるものですが、マロニエ君はこの歳になってもまだまだ油断だらけで、後から反省することしばしばです。

たとえば、いろんな人と雑談をする折は、その雑談内容と雰囲気にもよりますが、あまり軽々しく自分の好みや考えを明かしてしまうのはどんなものかと思うようになりました。
というのも、マロニエ君はわりに好き嫌いが強いほうなので、とくに嫌いなものは徹底的に嫌い抜く場合があり、そういうものが話題にでると、つい反射的に拒絶の反応を起こしてしまいます。

もちろん状況次第で、どんなに自分の考えや好みを言おうと一向に問題ないこともありますが、音楽の話などでは、自分の好みをいち早く表明するのは、やっぱりよくよくの注意が必要だと思います。
とくに自分が嫌いなものの場合は、その注意の度合いも高める必要があるということでしょう。

嫌いな作曲家、嫌いな作品、嫌いな演奏とか演奏家、そしてその嫌いの理由も何層にも積み重なった理由と根拠があって、若い頃はそこに意思表示をしないでいることは、自分をも裏切ることのように思い詰めることがありましたが、最近はさすがに歳のせいか、そんなに力み込んで事を荒立てることもないと思うようになりました。

むしろ、こちらとしては単なる自分の好みではあっても、場合によってはそれを聞いた人は、自分自身が否定されたように感じさせる危険もあるでしょうし、下手をすると相手を傷つける可能性もあるかもしれません。

それよりは、その場を柔軟にやり過ごすことの方が意味がある…といえば、なんだか生悟りのきれい事のようですけれど、マロニエ君の場合は実はそれでもなく、言い方を変えるなら、何かを犠牲にしてまで己を貫くことがだんだん煩わしくなったわけです。
敢えて頑張るに値するような重要な場面でも顔ぶれでもなし…という思いでしょうか。

もちろんよくよくのことならその限りではありませんが、よくよくのことなんて、そうざらにあるわけでもなし。
さしものマロニエ君も、ここにきて現実的な算盤をはじくようになり、そこでヘラヘラと笑みでも浮かべておいてその場が平穏に通過できるなら、それはそれで自分も楽だという、甚だ狡くてなまくらな考えが浮かんでくるようになりました。

まあ、ひとつには一人で奮闘したところで、どうせこちらが期待するような理解も得られず、自分のほうが浮いてしまうだけという現実感も後押ししてのことですが。

これが丸くなるということなのか、はたまたただの堕落なのか、諦観なのか、韜晦なのか、そのへんはよくはわかりませんが、まあとにかく好き嫌いぐらいで要らざる波風を立てることもないと思うようになったということです。

ひとつには、たまに主張めいた人の熱心な(そして野心的な)発言などを聞いていると、その内容よりも、ずいぶんと必死で余裕のない人間の、いかにも滑稽な姿を見ることになり、それが反面教師として機能しているということも、もしかしたらあるかもしれません。

とりわけ周りに聞かせることをじゅうぶん意識した上で発せられる言葉や知識の披瀝は、聞かされる側は痛いほどにその心底が見えてしまい、なんともいたたまれないものです。まあ何をどう妥協しても、努々そんな姿だけにはなりたくないという、これは自衛本能なのかもしれません。
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忍耐の名工場

車の仲間の行きつけの、ちょっと変わった修理工場があります。
ここはいわゆるヨーロッパのあまり一般的でない車ばかりが集まってくる、知る人ぞ知る整備工場で、昔からここを頼りにしているディープなお客さんががっちりとついています。
宣伝はおろか、看板のひとつもありませんが、それでも年中つねに順番待ちになるほど「入院患車」がひきもきりません。

工場内にある車は、ふだん路上で見かけることはほとんどないような主にイタリア/フランスの珍車ばかりで、レアなコレクターズカーみたいなものがここではごろごろしています。

とくにマイナーなラテン車の世界ともなると、それぞれが常識にとらわれない独創的な設計とか特異な構造になっていますから、修理の仕方もよほどの心得と経験がないとなかなかできることではありませんし、パーツの発注ひとつにしても日本車のようにきれいに整理・管理された世界ではないので、すべてが手間暇のかかる仕事となるのです。

ここのご主人はその点で正に名ドクターなのですが、昔から弟子を取らない主義で何から何まですべて一人でこなす変わり者です。
とはいっても接する限りでは、とくだんの変人とか恐い職人肌みたいなタイプではなく、愛嬌もありむしろ丁寧で礼儀正しいほうの部類ですが、それはあくまでもうわべだけの話。
このメカニックと付き合うとなると、それはもう並大抵ではない試練と苦労が伴います。
この人、あくまで自分のペースで仕事をするのが好きなのか、それでしか仕事ができないのか、そこのところはわかりませんが、それを維持するための流儀には凄まじいものがあります。

その最も変わっている部分は、仕事が立て込んでくると一切連絡がつかなくなる事です。
どんなに約束していても、再三のお願いをしても、この状態に突入するや、こちらから何度電話しても決して電話を取らないのです。固定電話も携帯も一切関係なく、すべてが完全な無視で、まるで俗世間を完全に遮断するごとくです。
出ないとなったら徹底的で、その思い切りの良さときたら、世間やお客さんに対して、よくもそんなことをする度胸があるもんだと感嘆させられるまでに徹底しているのです。
この人に限っては、仮に誘拐とか失踪など事件に巻き込まれても、おそらく数ヶ月は誰も気が付かないでしょう。

非常手段としてはファックスを送り付けたりもしますが、それが役に立つことは5回に1回ぐらいしかありません。
それが1日や2日ならともかく、ときには何週間もその状態になることも珍しくはなく、それでも連絡したいお客さんのほうが辛抱強く電話をかけ続けるという異常事態が続きます。
出ないことがわかりきっている番号へ、ひたすら電話をかけ続けるという、まるで消耗戦のような毎日が続きますが、それで途中で諦めたり憤慨したりすれば、ハイそこまでというわけで、むこうは痛くも痒くもないわけです。

つまり、強いのは圧倒的に工場側というのがここのお客さん達の置かれた明確な立場なのですが、それでもお客さんが途絶えることはなく、次から次に問題を抱えた変な車が彼の手を頼って入庫を待っているのです。

日本車(そもそも故障もしないが)や、それに準ずるドイツ車の確実なメンテを当たり前だと思っているような人は、おそらくいっぺんで発狂するか掴みかかって首でも絞めてやりたいほどの怒りと屈辱を覚えるはずで、果ては、それで車さえ手放す立派な理由にもなるだろうと思います。

ところが困ったもので、趣味というのはこうした困難もどこか自虐的な楽しさに繋がっているのかもしれません。
ここのお客さん達は、もしかするとこんな苦行僧のような仕打ちまでも、ひとつの快感にまで到達しているんじゃないだろうかと思ってしまいますが、マロニエ君の場合は心の修行が足りないのか、さすがにそんな心境にはなれず、ただひたすら忍耐これ一筋というところです。

馴れとはおかしなもので、ちょっとした町の行列でも忌み嫌うマロニエ君が、ここ相手の場合のみ、まったく意識を切り替えて、この非常識に耐え忍んでいるのですから、なんという健気さ麗しさ…自分で自分を褒めてやりたいです。

それでも目出度いことに、つい先日から我が愛車はここに入庫の運びとなり、今は出来上がりを待っているところです。
週末にはやや遠方にでかけるので、それに間に合えばと目論んでいたのですが、さすがにそれは甘かったようで、いつものコンパクトカーで行かなくてはならないようですが、まあ仕方ありません。
入庫した以上は向こうも仕事をしないと車を出せないわけですから、こうなればこっちのものです。
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S社の凋落

アルゲリッチの東日本復興支援チャリティCDで、もうひとつ感じたことを少し。

実はこのCDでのマロニエ君が最も残念に感じたのはピアノそのものでした。
ただし、これはこの演奏会だけのことではありませんので、その点は念のため。
とにかくピアノが絶望的に鳴らないことです。
もちろん録音物は会場の条件やマイクの位置や性能、あるいは技師の指向など、あらゆる要素が絡みあっていることなので、それだけを聴いて軽々な事は言えないことはこの世界の常識として重々わかっているつもりですが、ただ、そんな微妙さの問題ではなく、ピアノが悲しいほど、ただ単純に鳴っていないことは誰の耳にもあきらかです。

つい先日もテレビで、ロジャー・ノリントン指揮するN響の定期公演(サントリーホール)で、オール・ベートーヴェン・プロをやっていましたが、いつも義務的なしらけた演奏しかしないN響が、さすがにこの大家を迎えて渇を入れられたのか、普段にはない気合いの入った重厚な演奏をしているのは嬉しい驚きでした。
冒頭の「プロメテウスの創造物」序曲からしていつものN響とは響きと厚みが異なり、続く交響曲第2番では、ベートーヴェンの全交響曲中この最も知名度の低いこの作品を、大いに手応えのある堂々たるドイツ音楽として披露してみせました。
そして最後を飾るのが、ドイツの俊英マルティン・ヘルムヒェンを独奏者に迎えての「皇帝」でした。

ところが冒頭のピアノのアルペジョが鳴り出すや、もうひっくりかえりそうになりました。
ここで聞こえるピアノの音も、上記のCDとまったく同じ音で、耳栓でもしているようにくぐもった精気のない細い音しかせず、とても皇帝のあのエネルギッシュな前進する音楽を聴いている気がしないのです。ヘルムヒェンはまだ若くて未熟なところはあるのもも、キレの良さと作品に対する献身的な演奏姿勢は概ね好感の持てるものでした。

しかし、彼がどんなに力んでも気持ちを込めてもピアノがそれに応えきれず、自然と音楽そのものが沈殿していくのが手に取るようにわかって気の毒でした。オーケストラも前2曲で見られた覇気がなくなり、いつものしらけた調子に戻ってしまったのは演奏者も聴衆も大変不幸なことだと思います。

さらに言えば先日のショパンコンクール入賞者達によるガラコンサート(こちらはオーチャードホール)でも同様でした。
すべて会場も違うのでピアノも違うはずですが、どれも「同じ音」なんです。

これはもちろん有名なS社のピアノですが、どうもここ最近の新しいピアノ特有の、ほとんど量産品としかいえないような深みもパワーも輝きもない、貧相にやせ衰えたあの音は個体差でもなんでもない、このモデルに共通する特徴であることが間違いないようです。

アルゲリッチのCDの演奏会場はすみだトリフォニーホールで、ここは1997年の開館ですから、その当時導入されたピアノなら、まだまだこんな状況になる時代のピアノではないはずですから、そのピアノだとはマロニエ君はまず思いません。
もしかすると10数年経過したということで新しいピアノに買い換えたのかとも思いますが…。

それにしても、ひどいです…。
まともに曲の輪郭も描くことができず、かろうじてS社の音の残像のようなものだけが弱々しく聞こえていました。
まるでフタを閉め、カバーを掛けて弾いているように音がこもり、聴いていて虚しくなります。
先人達が築き上げたブランドにあぐらをかいて、あんなものを堂々と作って販売しているようでは、他社にそう遠くない時期に追い越されてしまうのではないでしょうか。いや、すでに現在がもうそうなのかもしれません。

マロニエ君は子供のころから、なにしろこのメーカーのピアノが好きで、心底惚れ込んだピアノでしたが、しかし同社の新しいピアノをあちこちで聴く(弾く)につけ、ついにここまできたかと思わせられることがありすぎです。
メーカーが企業体である以上、利益を追求するのを責める気はありませんが、そのために、これほど露骨に品質を落とすのはとても納得できません。

サイドのロゴが大きくなってからのピアノ、さらには下面の支柱が黒から木肌色になって以降、さらにもっと言うとここ1〜2年の新しい大型キャスターが付いて以降のピアノは、いかに贔屓目に見てもいただけません。
メーカーがあんなものを平然と作る以上、ファンがどんなに善意の解釈をしてみたところではじまりませんね。
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アルゲリッチの復興支援

東日本復興支援チャリティということで、アルゲリッチが昨年暮れに東京で行ったシューマン&ショパンの第1ピアノ協奏曲がCD化されて発売されています。

参加したアーティスト全員が録音印税を放棄して、収益を楽器や楽譜を失った被災者の復興支援のために寄付するという目的があるのだそうで、こんな思いがけないことからまたアルゲリッチのコレクションが一枚増えることになりました。

このCDは、震災で被災したものの早期に復旧を果たした(株)オプトロムの仙台市の工場でプレスされているというところにも大きな意義があるようで、かつて公演のため訪れたことのある仙台でこのCDが製造されることに、アルゲリッチは東日本復興の兆しを感じているのだとか。

アルゲリッチはカルロス・クライバーと並ぶ大変な日本贔屓で、最近読んだ彼女の伝記でも、何事も気むずかしい彼女が、こと日本のことになると一転して従順になるとありました。すでにアルゲリッチはパリをはじめ、ヨーロッパのあちこちで日本の災害支援のためのチャリティーコンサートを開催しており、多くの友人音楽家が集まっては日本のために素晴らしい演奏を繰り広げているようで、なんともありがたい話です。

さてこのCDですが、アルゲリッチの演奏に関しては、マロニエ君の部屋で宣言しているようにこれに一切触れるつもりはなく、ただ、いつもながらのすばらしいものとだけしておきます。
ただ、その他の点についてはせっかくのCDにもかかわらず残念に感じたことがありました。

まずは共演のアルミンク指揮/新日本フィルの演奏が粗っぽく品位に欠けて、とてもこの稀代のピアニストの精妙な演奏に見合ったものではないという点でした。
新日本フィルは昔は小沢征爾がよく振っていて、アルゲリッチも彼の棒のもとにたびたび共演していましたし、その後は今回の会場であるすみだトリフォニーホールのような立派なホームグラウンドまで与えられて、さぞや素晴らしく成長しているものと思っていたのですが、この演奏クオリティはまったくもって意外でした。

マロニエ君も東京在住時代は、新日本フィル、小沢征爾、アルゲリッチの組み合わせでシューマン、ショパン第2、チャイコフスキーなどを何度か聞きましたが、つねにオーケストラがイマイチという印象を免れることが無かったのは残念です。その後はいくつもの国内のオーケストラもめきめきと腕を上げて、ヨーロッパの二流オーケストラを遙か凌ぐまでになっていることを考えると、この新日本フィルはあんまり変わっていないなぁ…という印象です。

企業もそうであるように、よろず組織体というのはよほど強いリーダーの手腕のもとにドラスティックな改革されないと、意外なまでにその実力や体質というのは人が入れ替わっても尚、綿々と受け継がれていくもののようですから、そんなテコ入れが新日本フィルにはなかったのだろうと思います。

すみだトリフォニーホールのような立派な箱ができ、このところは、このCDでも指揮をしているクリスティアン・アルミンク、ほかにもダニエル・ハーディング、インゴ・メッツマッハー、ジャン=クリストフ・スピノジ、トーマス・ダウスゴーといったヨーロッパの若手指揮者を次々に登用したりと、表向きは派手なイメージ作りをやっているようですが、要は内側に手を突っ込まない限り、いくらこんなふうに表紙だけ外国人に取り替えても、あまり意味がないように思います。

もうひとつはショパンの途中からピアノの音が狂いだし、これがみるみる悪化していったのには唖然としてしまいましたし、たいへん残念なことです。
しかもそれが音楽で多用する次高音の部分だったので、この激しく狂ったビラビラの音が繰り返し出てくるのは興ざめで、ただもう悔しいとしか言えません。

ネット上のCDレビューなどでも、書き込んだ人がこの調律の狂いを問題にしていましたが、当然だろうと思います。

やり直しのきかない、この日のアルゲリッチの演奏に、ピアノが大きな傷を付けてしまったようなものです。
よほど何か理由があったと考えるべきかもしれませんが、手がけたピアノ技術者は、プロとしての結果責任を大きく問われる問題だろうと思います。
ところが、ライナーノートにはしっかりその技術者の名前まで記されていることには更にびっくりしました。
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ネットオークション?

報道などですでにご存じの方もいらっしゃると思いますが、日本音楽財団所有のストラディヴァリウスの1挺が、東日本大震災の復興のために売りに出され、これがなんと過去最高額で落札されたようです。

日本音楽財団は文化庁文化部の芸術文化課が管轄する公益法人で、十数挺のストラディバリウス等を保有しており、これらの楽器を芸術家や音楽家など、それを演奏するに値すると判断された人に、無料で貸し出しているそうです。
むろん非営利団体であり、1974年の開設いらい楽器を売却したのは今回が初めてということです。

ストラディヴァリウスにはそれぞれの楽器に、過去の所有者やエピソードなどから取った様々な名前が付けられており、今回売り出されたのは「レディ・ブラント」という世界的にも極めて有名な楽器です。
この名は、英国の詩人バイロン卿の孫であるレディ・アン・ブラントがこれを30年間所有したことに由来していますが、この楽器を有名にした最も大きな特徴は、ほとんど使われていない極めて保存状態の良いストラドだということです。
1721年製とありますから、ストラディヴァリ77歳頃の作ということになり、彼は不思議な人で人生の後半から晩年になるほど多作になるのです。

ほかに未使用に近いストラドとしては「メシア」という名で呼ばれる楽器が有名ですが、約600挺といわれる現存するストラディヴァリウスの中でも、これほど使い込まれていない楽器は片手で数えるほどあるかないかでしょう。

そんな貴重品の中の貴重品である「レディ・ブラント」を売りに出したというのは、どんな経緯があったのかは知る由もありませんが、おそらくは大変な決断だったと思います。
もしかすると、文化の名の下に高い楽器ばかり買い集める同財団へ、なんらかの批判や圧力などがあったのかもしれず、そういう力に押されてのことだったのでは?と思うのは考えすぎでしょうか。

ネットの情報によると、日本音楽財団がこの「レディ・ブラント」を購入したのが2008年のことだったそうですから、わずか3年ほどの日本滞在だったということになるのでしょうか。

ともかくこれが、ロンドンの楽器の競売会社タリシオが主催するネットオークションに出品され、匿名の入札者によって、なんと980万ポンド(約12億7千万円)で落札されたというのですから、驚くばかりですし、いかにこれがストラディヴァリのヴァイオリンの中でも格別の一台とはいえ、この凄まじい価格は狂乱的な気がします。

しかもこれ、ネットオークションというのがさらなる驚きで、ヤフオクのようにこの落札者はモニターを見ながら、自分の指先でカチャッとクリックして入札したのでしょうか!?
ちなみにこれ以前の最高額は約4億ということですから、「レディ・ブラント」は一気にその三倍以上の値を付けたことになります。

ここまで来ると、もはやその額に相当する価値があるのか否かなど、考えることさえナンセンスでしょう。

ちなみに、日本音楽財団の所有楽器の資産額合計は、約95億円なのだそうで、およよーんですね。
ずば抜けたヴァイオリンの才能があって、めでたくこういう機関や団体から楽器を貸与される幸運に恵まれても、これでは保管や移動など、ほとんど気の休まるときがないでしょう。
心配でうかうかトイレにも行けない気がします。
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カワイ軍団

ピアノクラブ内では、俄には信じられないような事実があります。

クラブ員は皆ピアノを弾くわけですから、当然ながら電子ピアノ、アップライトピアノ、グランドピアノまで、様々な楽器を使っている人がいらっしゃいますが、その中で、グランドピアノだけに限ると、信じがたい事実が浮かび上がり、これは果たして偶然か必然か…。

全員をくまなく確認したわけではありませんが、マロニエ君が現在把握しているだけでも、カワイが5台、シゲルカワイ2台、カワイが製造しているディアパソンが2台に対して、ヤマハはわずか2台!で、圧倒的にカワイ系の健闘が目立ちます。

これは一般的なヤマハ優勢の流れからいうと、真逆の情勢で、なにが理由だろうかと思いますが、はっきりしたことはわかりません。一般的な人がごく自然に選ぶピアノがヤマハだとするなら、われわれはひどく不自然な一般人からかけ離れた人間の集まりということになるかもしれません(笑)。

普通はどこに行っても置いてあるピアノは十中八九ヤマハですから、ピアノクラブの定例会でもこれまで利用した会場のピアノはことごとくヤマハで、カワイだった場所はたった一箇所しかありませんでした。
その一箇所というのも、地元のオーケストラの弦楽器奏者の方が作られた貸しスタジオなので、やはりなにかのこだわりがあって意図的にカワイを導入されたものだろうと思われます。

日本はピアノといえばまずはヤマハで、どこに行っても判で押したようにヤマハ、ヤマハ、ですから、ピアノクラブの個人所有のグランドピアノが、これほどの猛烈な比率でカワイ系のピアノだというのは本当に驚いてしまいました。

別に我々はカワイ楽器の回し者でもなければ、なにかそれに類する系列に属しているわけでもなんでもない、単なる個人の集まりであるし、お互いに話し合って買ったわけではなければ買った時期もバラバラで、知り合ったときには皆ピアノは持っていたことを考えると、この事実は実にまったく注目すべきものがあるようです。
もう一度繰り返しますが、ディアパソンを含むカワイ系が9台に対して、ヤマハが2台というのはやはり尋常なことではないようで、もしマロニエ君が学者なら即席の研究テーマにしたいところです。

彼らに共通しているのは、カワイ(およびその系列)のグランドには、皆一応の満足をしている様子で、最大手のピアノにはほとんど関心がないように見受けられる点でしょうか。

これに対して、一般的な施設の備品として置かれているピアノや、ピアノの先生には圧倒的にヤマハが多いようです。
もちろんカワイ系列の音楽教室に連なる先生達はカワイかもしれませんが、いわゆるフリーの先生やピアニスト、音大生などはマロニエ君の知る限りでは圧倒的にヤマハです。

カワイを選んだ人の動機を一人ひとり聞いてみたわけではないし、それもまたいろいろだろうとは思われますが、単純に音の好みということは、やはりあるのではないかと思われます。
ただ現実には、ピアノを買う人というのは、とにかく何を買ったらいいのかわからなくて、ヤマハとカワイの違いもわからないという人が多いのも事実で、わからないからヤマハを買っておけば間違いないだろうというのが一般的です。
そんな中で、少なくとも自分の好みがあり、それをカワイのほうに感じたというのであれば、これはもう立派なひとつの見識で、ここは最も注目すべき部分だろうと思います。

マロニエ君は決してヤマハを否定するものではありませんし、ヤマハの良さも自分なりにわかっているつもりです。
同時にカワイがすべて良いなどと思っているわけでもありませんし、カワイの欠点もむろん知っています。

ただ、それでも、もし新たにヤマハかカワイのいずれかを買うとしたら、機種はさておいても、マロニエ君なら迷うことなくカワイを選ぶことだけは間違いありません。
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音楽本蒐集

音楽関係の書籍、わけてもマロニエ君の興味の対象であるクラシック音楽関係の書籍というのは、発行部数も少ないのか、数年もすると書店や楽器店から姿を消してしまいます。
ピアノ関連でも、レッスン関係の本は比較的ありますが、文化論的なものはそれほど多くはありません。

すぐに買って読みたいというほどのものではなくても、一定の関心を抱いて、そのうち購入しようなどと油断していると、ついその本のことを忘れてしまい、何かの拍子に思い出して買う気になったときは、もう無くなっていて、調べてもらったら廃刊になりましたなんていうことも何度か経験しました。

一般性があって売れ行きが見込めれば、版を重ねて再販もされるでしょうが、クラシック音楽関係の書籍でそれが行われるようなものはめったにない気がします。
つまり、目についたときには、ある程度のタイミングで買っておかないと、後からはもう手に入らなくなるというのがマロニエ君の体験から得た認識となりました。今目の前にあるものは、できる限りサッサと買っておくべしという掟です。

それいらい、どうしようかな?と思うぐらいのものはできるだけ買うようにしていますが、買ったにしても、本というのはすぐにそれを読みたい気分の時と、そうではないときがあるものです。
さらに読みかけの本などがあると尚更です。
というか、そもそも本はすぐに読みたいときに買うものですが、音楽書はそれが難しいということになるでしょうか。

そういうわけで興味を惹くものがあったときは、できるだけ早めに購入するようにして、すぐに読まない場合はひとまず本棚に入れておくというスタイルが出来上がりました。
ところが、これはこれで意外な落とし穴があったのです。

買ってすぐに読んでおけば、その本に対する記憶や印象というものが何か残るものですが、ただ買ってきて本棚に入れただけでは、印象がスーッと消えてしまうことがあり、そうなるとどうなるか?
もうおわかりだと思いますが、買ってしばらく未読のままにしているとその本のことは完全に記憶から抜け落ちてしまい、書店でまた同じ本を見たときに誤って重複買いしてしまうという、まことに阿呆なことをやらかしてしまいます。

つい最近もこれがあり、しかも二度続いたのには我ながら嫌になりました。

大したものでもなく、2冊持っていても仕方がないので、先月に一人、今月もう一人と、ピアノの友人にこれらの本を進呈しました。尤も、大したものならきっとすぐに読むはずですが、中途半端なものだけに放置してしまうのかもしれません。

逆に、ちょっと値段が高めなので次に来たときに買おうぐらいに思って、いったんは購入を見合わせて引き上げて帰宅してみると、なんとそれ、既にもう買っていて、今日書店で悩んだはずの本がちゃんと自分の本棚に入っていてびっくりしたこともあるのです。

高い本を重複買いしなくてよかったとホッと胸を撫で下ろしたことも一度ならずありました。
いいかげん健忘症かとも思いますが、それほど買ってすぐ本棚(しかも普段目に触れる場所ではないので)直行というのは危険だということのようです。
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男はケチ?

最近しみじとわかったことがあります。

ごく一般論として、男と女とではどちらがケチかというと、それは公平なところ男だろうと思います。
むろんこれは個人差の話ではなく、中には気前のいい男性もいればケチな女性もいることは百も承知ですが、それでもやっぱり全体として見た場合、男のほうが体質的にケチだというのが結論です。

買い物ともなると財布の紐は平均的に堅く、なかなか購入という現実行動に入らない人は実に多いものです。
お金を使うことは多くの場合、苦痛もしくはすこぶる慎重で、自分の財布からお金が出ていくことが本質的に嫌らしい。
その点では、女性のほうが目的に対しては飾らず正直で一直線、度胸と一途さがある人が多いと思います。

なにが一番違うかというと、男はとにかくあれこれと比較検討するのが好きですし、その段階からすでに楽しんでいるということもあるでしょう。これはマロニエ君も思い当たるところがないわけではなく、買い物を前提とした下調べというのには一種独特な楽しさがあるもので、とくにネット社会になってからというもの、それが安易かつ網羅的にできるようになりました。

こういう調査を通じて、いろいろな良し悪しの実情を知ったり、付随的に知識が増えたりすることもあれば、マニアックな心理を満足させられたりと、購入に際しての調査には有効かつ興味をそそられる面があるのは認めます。
しかし、初手から絶対に損をしない確実な買い物がしたい、しかもできるだけ安く、それでいて人も羨む本物が欲しいという甚だ虫のいい魂胆を垣間見ることがあるのです。

気持ちはわからないではありませんが、ものには自ずと限度というものがあり、この手の調査をやりすぎる、あるいは検討時間がやたら長すぎるのは、隠された本音を疑ってみる必要が出てくるわけです。
つまり、そもそも買う気があるのか…これが甚だ疑わしくなってくる。

このタイプは「買う」という大前提を打ち立てておいて、それにまつわる会話や時間そのものを楽しんでいるという、まことに安上がりの悦楽に浸っている場合が少なくありません。
しかも最終的な決断を下す決定権は、自分の買い物である以上、当然ながら自分ひとりが握っているわけで、ここはいかなる余人も手出しのできない領域というわけです。こういう現実が、一種の自在感をもたらし、ささやかな権力志向にさえ繋がって、当人はその快感に酔いしれ、なかなかやめられないでいるようです。

マロニエ君の友人に言わせると、彼らはあくまでも未定の、将来の、責任の発生しない話題(しかも話だけならタダの)をふりまいて人の関心を引き寄せて、その話の主役となり、まわりの反応を「おかず」にして楽しんでいるのだといいます。

こういう人は小心者のくせに見栄っ張りで、なにかといえば言い訳が多いのですが、それもまた男によくある特徴といえばそうなのかもしれません。やたら裏事情などが大好きで、己一人がいつも賢い目線のトークを繰り広げるのですが、かえって他者の目にはその人が小さく滑稽に見えてしまうものです。

まさに1円の出費もなしに話の世界を飛び回り、虚構の快楽を楽しんでいるわけですが、だいたいこの手はいつまで経っても買うことはないので、そのうち誰からも本気で相手にされなくなります。
しかも、今どきは表だって追求するようなことはしませんから、本人はいつまでもそこのところに気がつきません。

こういう人はどこにでもいるもので、マロニエ君も以前は本気になって話に乗せられていましたが、だんだん鍛えられて最近では真贋を冷静に見定め、そのいなし方もわかってきました。

本気で買う人は、はじめから意気込みなどに現実感と迫力があり、どこともいえず違うものです。
どれを見ても気に入らなかったり、あれこれ注文の多い人というのは、概ね「買わない理由を探している」のです。
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ホールの惨状

新聞によると、3.11の震災では各地のホールや劇場などにも様々な被害があったようです。
これはある程度予想はしていたものの、やはりそれは予想では終わることはない、まぎれもない「事実」のようです。

全国約1200の公立ホールで構成する「全国公立文化施設教会」が発表したデータによると、今回の震災で大小何らかの被害を受けた公立ホールは197にものぼり、そのうち「甚大な被害」を受けたホールは31ということで、中には建物ごと流されたものもあるということでした。
この数字には挙がらない公立以外のホール、プライヴェートホールなどを含めるとさらにその大変な数になるはずです。

また、建物に被害がなくても、震災以降は予算のめどが立たなくなるなどして再開の見込みが立てられないホールもあるということでした。ホールや劇場は使わなくても維持管理だけでもおそらくかなりの費用を必要とするため、このような問題が次々に発生しているものと思われます。

今ごろになって、「ははあ、そういうことだったのか」と納得がいったのは、例年ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポンの会場となっている東京国際フォーラム(大小7つのホールと会議室などを擁する)も余震による電気系統の不具合から貸し出しに著しい制限が発生し、昨年の来場者数約81万人から、今年は一気に15万人弱までに激減せざるを得ないほどの規模の縮小を強いられたというのです。
鳥栖や新潟のような、これまでこの音楽祭とは縁もゆかりもない地域で突如開催されることになった地方版開催の背景には、メイン会場である東京国際フォーラムでこのようなことが発生したという裏事情があったようです。

また、新聞にはその内部写真まで掲載されていて驚いたのが、川崎市最大の音楽拠点、ミューザ川崎シンフォニーホールでした。
東北ではないものの、やはり3月の地震で客席上の天井仕上げ材がすさまじく落下して、写真ではまるでホール全体が崩壊したかのような無惨な光景であったのには驚かされました。
さらに照明やパイプオルガンにも大きな損傷があるとかで、なんと、むこう2年間の閉館を決定したそうです。

当然ながら公演のキャンセルも相次ぎ、多くのホールが運営面でも大きな打撃を被ることは避けられず、さらにそのもうひとつの問題は、多くのホールが竣工したのが1995年前後が最も多いのだそうで、震災とは別問題に、それらが一斉に改修の時期を迎えているということも折悪しく重なっているようです。しかも費用は優十億から100億かかるとかで、まさに泣きっ面に蜂という状態のようです。
仮に無事改修などが終わったとしても、現在の社会状況から見て、以前のようにお客さんが来てくれるという見込みが立てられないようで、なにもかも震災以前と同じというわけにはいかないという深刻な問題を抱えているらしく、音楽ファンとしてもなんとも心が暗くなるような状況のようです。

福岡でもこの1年ほどは、なにやらすっかりコンサートの数が少なくなっていると感じていたところ、3月の震災を境に、さらにそれが激減しているのが目立つようになりました。
むろん福岡のホールは幸いにして今回の地震の被害はないわけですが、現在の社会の雰囲気がなかなかコンサートなどを盛んに行おうという流れではないようで、この状態はここ当分は解消されそうにもない感じです。

テレビニュースをみれば、あいもかわらず福島原発事故や被災者の深刻なニュースが冒頭から流されますが、これはもちろん大変な社会問題であることはよくよくわかるものの、すでに災害発生から100日以上が経過して、1日も休むことなく連日連夜、このような先の見えない暗い話題ばかりをトップニュースとして際限もなく流すばかりでは、世の中に与える精神面での過剰なストレスという、いわば第二の人災のような気がしてくるのです。

もちろん福島原発は収束を見ておらず、抱える課題も甚大ですが、もう充分に国中が喪に服したことでもあるし、そろそろ動きの取れるエリアでは、被災地の為にも前向きに腰を上げてもいい時期に来ているような気がしますが。
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食べるスピード

マロニエ君はダイエットなどということは、もともとあまり好きではありませんし、とりわけ女性が挑むダイエットにはどうしてそれ以上痩せなきゃいけないの?といいたくなるような、甚だ同意しかねるものがありますので、ダイエットそれ自体に大いなる疑問を持っている部分さえあります。

もともとマロニエ君の父方の家系は概ねスリム体型で、男性陣は細身なことを少し恥ずかしくさえ思っているフシがあったぐらいなので、これまであまり真剣にダイエットという事を我が身の課題として深く考えたことはありませんでした。

しかし、運動不足&飽食の報いというのは、スリム体型であっても確実にその魔の影が射してくるものらしく、このところこれはちょっと…と思われる現象がやはり起こり、ようやく危機感が募ってきました。

しかし、それでも本格的なダイエットなど頭っからする気はなく、まずは食事の量と、しばしば口に入れてしまう間食夜食の類を見直すことから着手することにしました。

マロニエ君はもともとそんなに大食いのほうではないのですが、食べることは大好きで、よく考えてみると日常的に間食をしたり、ちょっと残しても仕方がないというようなつまらない理由で、本来の自分の適量より多く食べてしまう事が折々にあることを反省しました。
さらに、知らず知らずのうちに食べる速度も若干ながら上がっているような気がします。

まずはここに着目、少なくとも食後にポンと腹を叩くような満腹はしないように心がけます。
これは、はじめこそちょっともの足りないような気がしますが、聞くところによると満腹中枢が働くのは食後15分ほどしてからだそうですから、ゆっくり食べれば食べるほど満腹感が増してきて、無理なく食べ過ぎないようにすることが可能だということがわかり、3日もするとこのリズムに慣れてしまいます。
これでも最終的にはじゅうぶん満腹感が得られるので、とくに努力らしい努力をしている実感もないまま、わずかながら食事量をカットすることができて、それだけの小さな結果がさっそく出てきました。

食べる速度が速いと、必然的に量もアップすることもあるみたいです。
それで思い出しますが、ときどき外食することがありますが、店によっては仕事帰りの男性などが来ていて、その食べっぷりの早さといったらもう神業のごとしで、見るたびに呆気にとられてしまいます。
大方のパターンは、こちらより後から来て、こちらより多く注文して、そしてこちらより遙かに早く食べ終わり、気がついたときにはもうその姿もありません。

数人できていても、けっこうワイワイしゃべったりしながらも、しっかり食べることには余念がなく、ガッツリと逞しく食べています。
そしてあっという間の完食で、それがとなりのテーブルだったりすると、ついそのパワーには圧倒されて、こっちの食べる気力まで奪い取られるようです。

短い休憩時間に社員食堂などで手早く食べざるを得ない環境にあると、自然にあんな芸当ができるようになるのかと思いますが…。

あのスピードじゃあ、そりゃあ食べる量も進むだろうと思いますし、場合によっては、さらに酒が入り、タバコが入り、日中は息つく暇もないほどの激務とくれば、そりゃあまあ病気のひとつもするだろうと思います。

おまけにTVによると、最近の日本人の人気の食べ物トップは、とにかく「揚げ物」なのだそうです。
嫌いではないけれども、とても毎日なんて食べられないマロニエ君などから見ると、ひええ…という感じです。
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がんばりたくない

昨日はピアノクラブの方が数名来宅されました。

というのも、かねてよりマロニエ君がまとめて注文していたダンプチェイサーを取りに来られるという目的があったのですが、せっかくなのでお上がりいただき、しばらくピアノを弾くなどして遊んでいただきました。

定例会や練習会とはまた雰囲気が違うのか、はじめは遠慮がちでしたが、しだいに空気もほぐれてか、少しずつ弾いていただけるようになりました。以前、思いがけず爆奏会みたいなことになったことがあり、この慎ましさはなんと麗しいことかと思いました。

自分のピアノというものは、自分が弾く時以外にその音を聴くチャンスはなかなかないもので、むかしはよくコンサート前に練習に来られる方などがあったのですが、ここ数年はあまりそれもなく、久々に自分のピアノの音を人様の演奏で聴かせていただくことも出来て、マロニエ君自身、大いに楽しめたところです。

雑談で驚いたのですが、関東のほうのあるピアノクラブでは、会の終了後に各人の演奏についての批判などがあり、それに依拠して指導の時間などまであるのだそうで、話から受けた印象では、互いに楽しむというよりは互いに学び合うという感覚のようでした。いってみれば「ピアノの勉強クラブ」というところでしょう。

なるほどピアノは本気で学ぼうとすればするだけ際限のない世界で、自分の演奏の向上のために同志が集って勉強するというのもひとつの在り方なんだろうとは思いますし、それを実践するとは、立派なことだと感心もしますが、しかし、マロニエ君だったらそんなこと、まっぴらゴメンだと思いました。

仲間が向上心を持って集い勉強し合うのは基本的には素晴らしいことに違いありませんが、マロニエ君などはなんのためにピアノクラブに参加しているかと自問すると、ピアノを通じて仲間との楽しい時間を持ち、それによって浮き世の雑事から解放されたいからなのであって、あらためてピアノを学ぶとなると、それはもう尋常なことでは成し遂げられないことだとそもそも思うわけです。

こういう考えは、何事にも真摯な向学心を持って取り組むやる気旺盛な人達から見れば、ただの怠け者の戯れ言のように思われるかもしれませんが、要は好きなピアノを通じて、楽しい時間を共有できる友人の輪が構築できることの方に意義を置いているわけですから、根本的に求めるものが違うようです。

それに、そんなことにでもなれば、結局行きつく先は、どうしても指のメカニックや譜読みの技術の優れていることなどが重要視され、ひいてはそれが会の秩序となるような気がします。ピアノを愛する者にとって、難曲をも弾きこなすことはもちろん素晴らしいことですが、しかし、それが人の序列の根拠のようになるとしたらまったくゴメンです。
ま、ひとくちに言えば、この歳でいまさらそんなにがんばりたくはありません!

我が家での話に戻りますと、ソロあり、連弾あり、2台ピアノありで、いつもとはまたいくぶん違ったかたちで遊ぶことができたように思います。
ピアノ遊びは思った以上に時間の経つのが早いもので、夕方まであっという間のことでした。

次はもう少し合わせものの練習でもしておきたいところですし、昨日は来られなかった方にもぜひお立ち寄りいただきたいと思います。
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ゾウゲ

人の好みは様々ですから、何をどう好もうともそれはまったく自由なのですが、傍目には首を傾げてしまうことがあるものです。

ネット上のある書き込みを見ていると、ピアノの購入予定者が象牙鍵盤であるか否かをかなり重要な要素としてこだわっているのを見かけました。
海外からの輸入の際の書類の申請などはわかるとしても、気に入ったピアノがあっても象牙鍵盤でない場合は、象牙への張替が出来るかどうかという点に関心があったり、新品でも何型以上は象牙&黒檀の鍵盤になるなど、その点ばかりに意識が集中している様子にはちょっと驚きました。

こういう人の発言を見ていると、象牙鍵盤とはどこがそんなにいいものかと考えさせられてしまいますが、おそらくは確たる根拠もないまま、高級感とか稀少性にひきつけられているような気もしないでもありません。
こういう人はもう頭からプラスチックはダメだと思いこんでいるんでしょうね。

もちろん、そこに価値をもつ人にとっては重要な問題なのかもしれませんが、ピアノはやはり楽器なわけですから、楽器としての性能が第一では?とも思います。
もちろん、一流品になれば、そこには工芸品的要素とか骨董的な価値、稀少性などが加わってくるのはわかりますが、鍵盤が象牙か否かということばかりに価値を置きすぎるのは、本来のピアノの評価としてはいささか偏りがあると言わざるを得ません。

マロニエ君は子供のころから20年以上、ヤマハの白鍵は象牙、黒鍵は黒檀のピアノを弾き続けてきましたが、それがそんなに重要なことだと思ったことはついにありませんでしたし、むしろ象牙・黒檀いずれも下手をするとかえって滑りやすいなどの欠点もあるわけで、一長一短という程度の印象しかありません。
また、場合によっては、激しく使い込まれた象牙は(品質にもよるのかもしれませんが)、まるでテフロンのフライパンみたいにツルツルになり、弾き辛いことといったらありません。あんな恐ろしいものは自分のピアノでは絶対に願い下げです。

たしかに象牙/黒檀の鍵盤にはプラスティックにはないあたたかな風合いや色合いがあるのはわかりますが、象牙ならなんでもいいというわけでもなく、とくに近ごろの象牙は品質がよろしくないようで、繊維が荒くて見た目にもとても下品で、あんなものでもいいんだったら、水牛の角でもなんでもいいのでは?と思います。

もしも、まかりまちがって日本製ピアノの上級機種にある象牙鍵盤仕様のピアノを新品で買うようなことがあれば、マロニエ君なら躊躇なく白鍵は良質のプラスチックにしてもらいます。

ところが巷の象牙鍵盤支持派の思い込みは、ほとんど信仰に近いものがあり、以前もやや年代物の有名ブランドピアノをお持ちの方がおっしゃるには、ご自分のピアノは鍵盤が象牙であることがまず第一のご自慢で、ゾウゲ、ゾウゲとそこに格別の価値とプライドを感じておられるようでした。
象牙鍵盤というだけで、まるでピアノそのものまで最高品質のものであるはずだ…というような、根拠のない一途な思い込みには驚くばかりです。

マロニエ君なら、鍵盤の材質などより別の部分によほど神経を尖らせますが、これもまた人それぞれだといえばそうなんでしょうね。
ある一箇所にとても強いこだわりを持ち、自分としてはそこが期待通りのものでなくてはどうにも満足できないという気持ちは理解できますから、それが象牙鍵盤だとしても、それはその人にとっては価値があるというのはわかります。

ただし、客観的な楽器の価値と個人的こだわりは一線を引くべきだと思います。
いずれにしても皆さんいろいろこだわりがあって満足を得るためには大変なようです。
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宅急便

つい昨日のこと、朝早くに宅急便(むかし飛脚マークの)がやってきたのですが、ちょうどタイミングが悪く、そのとき家人は着替えをしている最中だったようです。インターホンにはかろうじて出たものの、すぐに行くので2〜3分待って欲しいと告げたそうです。

すると相手は「それはできません」ときっぱりいうのだそうです。???
再度、急いで行くのでちょっとだけ待ってください、すぐに行くからと言っても、相手は頑として聞き入れず、他にも回るところがあるから待つことはできないとにべもなく断り、一方的に「ではまた午後にもう一度来ます」と言って去って行ってしまったそうです。

またまたマロニエ君はその場にはいなかったのですが、家人はたいへんな憤慨の様子で、だれでもそれぞれに生活をしているのだから、そんなに宅急便の都合の良いようにいつ何時でもスタンバイができているわけがないし、勝手にやってきておいて、たまたまこちらがパッと出られなかったからといって、静止を振り切ってまで立ち去ってしまうとは納得できないといいます。

たしかに宅急便の仕事も大変で、次から次に荷を届けなくてはいけない激務なので、一件に時間がかけられないことはじゅうぶんわかるのですが、これはいくらなんでも極端すぎるように感じました。
しかも午後にまた来ると言ったきりで、何時ごろという具体的なことも言わなかったそうですから、おそらく12~13時の間には来るものと思っていました。

ところが一向にその気配もなく、そうなるとこちらは時間のわからない相手を延々と待っていなくてはいけない状況になりました。

それにしても着替え中の相手の2~3分でさえ待てないほど自分の都合を優先するわりには、相手には午後とだけ言い置いて再訪する時間も告げていないとは、なんという身勝手かと思いました。
14時に近づき、これではうかうかインターホンの聞こえるエリアを離れることもできません。

とうとうマロニエ君が近くの近くの営業所に電話してこの事を伝えると、電話に出た相手はたいそう恐縮していて、厳重注意するとのこと。そして、すぐにドライバーに電話をして訪問時間を連絡させますということでいったん電話を切りました。

当然、電話がかかってくるのかと思っていると、よほど近くにいたのか、なんと、ものの1分ほどでピンポンが鳴り、さっきの男性がやってきたようです。
さすがに上から叱られたようで、平身低頭の態だった由で、なんでも1ポイント減点されたと言っていたそうです。

それでわかりましたが、今どきは宅急便の配達員も会社から個人別のポイントを加減をされ、それが勤務成績に繋がる時代のようです。
勤務成績がどうなのかは知りませんが、地元の電力会社に勤務する友人は、なんと、このタイミングで7月から東京転勤だそうで、東電の社員でもないのに、なんだか無性に気の毒になりました。
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ものすごいCD

かつて、ミヒャエル・ポンティというドイツ出身、アメリカで活躍した異色のスーパーピアニストがいて、昔から音楽ファンの間ではこのポンティの異色なレコードはちょっと知られた存在でした。
すでに70歳を過ぎて、現在は手の故障から現役を退いているようですが、彼のピアニストとしての絶頂期はおそらく1970年代だったと思われます。
そして、その間に膨大な量の、まさに偉業ともいうべき録音を残しています。

その内容というのが並のものではなく、大半が通常ほとんど演奏されることのない主にロマン派の隠れた名曲の数々で、子供のころからマロニエ君はどれほどこの人の演奏で初めて聞いた曲があったかしれません。

ポンティの優れている点は、埋もれた作品の発掘というものにありがちな、ただ音符を音にしただけの、とりあえず楽譜通りに弾いてみましたというたぐいの平面的な演奏ではなく、どれもが彼のずば抜けた感覚を通して表現された生きた音楽である点です。
まるで長年弾き慣れた曲のごとく、そこには生命力とメリハリがあり、その迷いのない表現力のお陰でどれもが名曲のような輝きと響きをもって我々の耳に聞こえてくるのがポンティのピアノです。

一説には100枚近い録音をしたと言われていますが、よほど卓抜した譜読みができるのか、解釈の参考にすべき他の演奏もないような曲へ次々と的確な解釈を与え、しかも持ち前の超絶技巧で一気呵成に弾きこなしてしまうのですから、いやはや世の中には恐るべき天才がいるものです。
中でもモシュコフスキのピアノ協奏曲などは、いまだにマロニエ君の愛聴盤のひとつです。

そんなポンティの幻のシリーズというのがあって、そのひとつがスクリャービンのピアノ作品全集なのですが、これは長年音楽ファンがその存在を囁き合い、復刻を求めていたもので、それをついに手に入れることに成功しました。
5枚組CDで、完全な全集ではなくソナタは別になっていますが、ほとんどのエチュード、プレリュード、マズルカ、即興曲、ポロネーズ、幻想曲ほか小品が収録されています。
ところで、これって何かににているでしょう?
そうです、スクリャービンはとくに初期にはショパン的な作品を数多く作曲していましたが、しかしショパンらしさというのは実はそれほどでもなく、初期の作品からすでにスクリャービン独特の暗く官能的な個性が全体に貫かれているのは、これまた天才ならではの個性の早熟さを感じさせられます。

驚くべきは、この曲集、ヴォックスという廉価レコードのレーベル(こういう会社でなくてはマイナーな曲ばかり発売なんてしないのでしょう)の制作経費節減のせいで、使われているピアノは、な、なんと、アップライトピアノ!なんです。
そのせいで音ははっきり言ってかなり貧弱かつ突き刺さるようで、表現力も品性もありません。ポンティの多様な演奏表現について行けずにピアノがキンキンと悲鳴をあげているようなところが随所にあり、音としてはかなり厳しいところのあるCDです。

しかしながら、演奏は実に見事な一流のそれで、聴いているうちに音楽に引き込まれてしまい、こんなものすごいピアノのハンディさえもつい忘れるほど聴き入ってしまうことしばしばですが、それにしても、こんな冗談みたいなことが現実におこなわれていたということ自体が信じられません。
いくら経費節減といったって、アメリカのような豊かな国(しかも現在より遙かに)の、しかもピアノ大国にもかかわらず、レコードのスタジオにグランドピアノ一台さえ準備できなかったなんて…ちょっと信じられませんね。

アップライトピアノ1台という劣悪な環境の中、ポンティは楽譜と毛布を渡されて缶詰状態となり、やむなく録音を続けたといわれています。
しかし、内容はそんなエピソードが信じられないほど本当に素晴らしいもので、ポンティの信じ難い才能が、このすべての悪条件を跳ね返しているようです。
アップライトピアノによる一流演奏家の全集なんて、探してあるものではないので、その点でも貴重なCDと言えそうです。
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やめられない人

マロニエ君のような飽きっぽい怠け者からみると、世の中には、別人種とでもいいたくなるような驚くばかりの強靱な意志力とか持続力を持つ人がいるものです。
そしてこういう人達には、相応の行動力も兼ね備わっているものです。

以前はただ単純にその意志力、行動力を不屈の精神のように感じて素直に敬服していましたが、これがよくよく見ていると、中にはどうも褒められたことばかりではなくて、そこには別の力が働いていることがわかります。

それは何かというと、人間のもつ欲望や劣等感がひきおこすところの執着心が発する怨念のような意志や行動であり、その思い込みや目的に囚われるあまり、逆に自由のない浅ましい人の姿であることがわかりました。
しかもそれが、一見そうとはわかりにくい、体裁のいい建前のベールを被っている場合のなんと多いことか!

「言うは易し、行うは難し」とか「継続は力」などといいますが、それは本当に有意義なこと、建設的なことを必要だと正しく認識し、真っ当な意志の力によってそれを達成している人をいうのであって、裏を返せば必要がなくなればいつでも中止する準備のある人のことだと思われます。

欲望を源泉としたところの努力は、努力は努力でも、動機がそれでは感心するには当たりませんし、その努力の姿に美しさがないものです。

結婚願望や病的に子供を欲しがる人、手段を選ばぬ出世欲や金銭欲、根底に流れるブランド指向など、己の欲望のために何がなんでも目的を手中に収めたいという露骨な思い込みは、さらなる欲望、際限のない欲望に転じ、端から見ていてあまり眺めのいい光景ではありません。

当人はずいぶん必死なようですが、要はただの卑俗な欲望の奴隷に身をやつしてということに、自分ではなかなか気がつかないようです。これが時として大変な努力家のように見えたり、どうかすると称賛の対象に間違えられる場合さえあります。
というのも、これらは正統な努力の姿とひじょうに姿形が似ている場合があり、そこに文句を言わせない建前をドンと立てておけば、とりあえず表向きの非難からは除外されるという性質を持っていますし、とりわけ建前に弱い現代では大手を振って横行しているようです。
そして、音楽の世界にもこの手合いが少なからず棲息しているのはいうまでもありません。

こういう大義や隠れ蓑を持った欲望・野望は、幼稚でわかりやすい欲望よりもはるかに悪質だと思うのです。
ワガママでも欲望でも、本人がそれを自覚し、人目にもすぐにそれとわかるものはまだ救いがあるものです。

マロニエ君ももちろん人並みに欲望はありますから、自分だけは別だというつもりはないのですが、やはりちょっと(というか到底)次元が違うと思うのです。

本当はもっと具体的なことを書きたいところですが、いろいろと障りもあるので具体例が引けず、もってまわったような表現ばかりになるのが残念です。

現在のやめられない人の最高峰は、もちろん我らが首相であることに異論はないでしょう。
この超人的な粘りは、まるで毎日がギネス記録のようです。
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個人情報

ようやく今日あたりになって、だいぶ声が戻ってきました。まだかなり制約があり、ちょっと続けて話すとすぐに咳き込んでしまいますが、ともかく必要最小限の会話ができるようになっただけでも助かります。

さて、つい先日、満杯になっている本棚を少し整理しようと、処分する雑誌などはないか見ていたところ、たまたま雑誌「ショパン」のずいぶん古いのがあって、何気なく見ていたのですが、サイズも現在のものよりひとまわり小さいし、カラーページなども少なく、現在のものよりも「読ませる」ものであったことがわかります。

とくに、出てくるピアニストもみんなまだ若くて、次々に有名どころが惜しげもなく登場しては特集だの対談などにどんどん精力的に出てくるのは、いかにも時代の違いを感じるとともに、発言内容も今に較べると自由でおおらかだった時代を感じさせるところです。
自分の好みや考えを堂々と述べていますが、いまならすべてカットされるでしょうし、そもそも言い出しもしないことでしょう。

表紙はアンネローゼ・シュミット、ニコラーエワがまだ生きていてインタビューに答えていたり、ポリーニがようやくシューマンの交響的練習曲をリリースして広告がでていたり、アトラスピアノが健在だったり、ギリシャ出身の天才少年スグロスの来日公演があったり、ダン・タイ・ソンがショパンの優勝からようやく二度目の来日決定というような時代です。

懐かしさとともにパラパラとページをめくっていると、今から思うととんでももないものが目に飛び込んで卒倒しそうになりました。
これこそ時代が変わったということをまざまざと見せつけられるもので、現在の社会規範からすればこれはほとんどポルノか犯罪にも匹敵するものでした。

それは「都道府県別 全国ピアニスト・ピアノ教育者名鑑」なるもので、延々23ページにわたる極小文字にて、全国の2000人近いピアニストと先生の名前(旧姓・本名なども付記されている!)、住所、電話番号、生年月日、出生地、最終学歴、勤務先などがすべて事細かに、包み隠さず掲載されているのには仰天しました。

もちろん中村紘子、園田高広、花房晴美などの有名どころも、考えられるすべてが見事に網羅されており、マロニエ君の直接の恩師も二人がちゃんと掲載されていました。
「時代が違う」とはまさにこのことで、一般人でも個人情報が厳しく制限されている現在からは、考えられない極秘情報が満載でした。移転さえしていなければ、すぐにも電話もできるし、カーナビ入力して自宅を尋ねることも可能なわけです。

こんなことが平然と許されていて、だれもが異常だとも何とも思わなかった時代がひどくなつかしく思われました。
ちなみにこれは昭和59年(1984年)の発行ですから、27年前の刊行物というわけです。

この27年という年月をどう見るかにもよりますが、やはりあまりにも急速な社会の変化が激しすぎたことは間違いないという気がしますし、それだけの変化に順応していくのはひとりの人間としてかなり厳しい事というのが正直なところです。
仮に100年かけて、これぐらい変化をしていくなら、まだいくらか人間が人間らしく、誇りと余裕を持って生きていくことができるだろうと思いますが、なにしろそのテンポが急激すぎるようです。
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不調と好調

ピアノクラブの懇親会の席上、急に声が出なくなって一日以上が経過しました。
数時間経てば治ることを期待したもののそれはなく、では、一晩寝れば治っていることを大いに念じて、朝、目が醒めたときにまっ先に声を出してみたものの、ほとんど回復の跡のないことにがっかりしました。

声が出ないというのは、やはり一大事で、もうそれだけですっかりエネルギーが奪い取られてたようで、日曜はなにもする気が起きませんでした。
ひたすら喉の回復を願いつつ安静にしていましたが、夜になってほんの少し良くなったような気がするものの、基本的に大差はありませんでした。
強いて言うなら95%ぐらい失われていた声が、90%ぐらいに戻った程度の回復です。

今度の土曜日、知人にパークゴルフとかいうものに誘っていただいたものの、まずは声を取り戻さないことには気分的にもなにもできそうにもありません。パークゴルフとはいかなるものかまったく知りませんが、なんでもパットゴルフともまたちがう遊びのようです。

声以外に不都合はないのでなんとか普通にしてはいるものの、いざ声を出す場面になるとパタッとそれができないのは、我ながらどうにも哀れな気分になり、意気消沈してしまいます。
いつもはかなりの効き目がある花梨の水飴も、今回ばかりは効果が薄く、どうもよほどひどい状況に陥ったのだろうと思われます。

昨日はピアノクラブの人がダンプチェイサーを取りに来られる予定でもあったのですが、折からの強い雨ということも重なって、とりあえず延期させていただくことになり、この点も迷惑をかけてしまいました。

さて、そのダンプチェイサーですが取り付けて3日目を迎えましたが、なるほど昨日のようなかなりの悪天候にもめげず、思いがけなくピアノが元気なことに少しばかり気付いて、急に嬉しくなりました。
別にものすごい大差というわけではないのですが、深い雨の日は、いくら除湿器をつけていてもどことなくピアノも沈んだ感じになるのは避けられませんでしたが、昨日の昼は思いがけずケロッとしている感じがして、やや!これはダンプチェイサーではなかろうかと目を見張ってしまいました。

少なくとも、音が雨天にもかかわらずくっきり晴れているのは、これまでになかったことで、これは明らかな違いといって差し支えないようです。…と、感じますと言ったほうが安全かもしれませんが。
ピアノクラブの人達にもお勧めした手前、効果がないと申し訳ないという気持ちがありましたが、これでひと安心です。

もちろん今後も経過は注意深く監視し続けるつもりです。
尤も、経過というなら当面はノドのほうが先ですが…。
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疲労困憊

昨日はピアノクラブの定例会でした。

このところ新しい方も増えて、以前に較べるとずいぶん大勢の集まりとなりました。
いっぺんにお顔と名前を覚えるのも大変なので、今回は名札を作って各々胸につけてもらうことになりましたが、やはり新しい方が急に増えると、なんとなくこれまでとはまた違った雰囲気になってきたようです。

定例会そのものは15時〜18時でしたが、終了後は徒歩で移動して博多駅エリア内のとある居酒屋での懇親会となりましたが、マロニエ君はここでとんだ状況に陥ってしまいました。
懸念された大雨にはならずに済んだものの、終始天候が悪くムシムシベタベタ、ヤマハの空調も劣悪で、それだけでも苦手だったのですが、懇親会の席についたころから喉の調子がおかしくなり、その症状はみるみる悪化していき、ものの30分ほどで、ほとんど声が出ないまでにかれてしまったのには参りました。

せっかくの懇親会で、新しい方ともいろいろな話ができるチャンスだったのですが、とうてい会話ができる状態ではなく、終わりまでほとんどを押し黙ったまま過ごすという、なんとも辛い状態になりました。
マロニエ君はもともと気管支が弱いのですが、いろんな悪条件が重なったのだろうと思います。

湿度もその一因です。
ふつう湿度といえば低いほうが喉には悪く、高い方がいいというのが一般常識だと思いますが、マロニエ君の場合は逆で、多湿な場合はかなりはっきり呼吸器にダメージが来てしまいます。
病院でそのことを言うと、多湿との因果関係はまず考えられないと医師に言われていますが、やはり本人が言うのだから間違いなく、それから数年経ちますがやはりそういう体質というのは変化がありません。

もう一つはストレスで、よせばいいのに苦手な居酒屋にいったばかりに、その猛烈なやかましさとアルコールの漂う空気の悪さにはどうしても馴染めず、このときばかりはファミレスが天国のように思えたものです。
やはりどんなに努力をしても無理なものは無理だということがわかりました。

さらに思い当たるのは、前夜、明日が定例会だというのにまったく練習もしないで、届いたばかりのダンプチェイサーの取り付けに夕方から没頭していたのですが、これがかなり響いたようです。
ピアノの下というのはどうしても掃除の状態がよくなく、目には見えないホコリなどもかなりあったのだろうと思います。ここで数時間、不自然な姿勢をしたまま必死になって、ああでもないこうでもないと格闘したために、相当無理をしたという自覚がハッキリありました。

ピアノ下は背骨を曲げないといられないところですし、そこで懐中電灯で照らしながら寝たり起きたり頭を打ったり、一度などは無理な姿勢の維持から体の左がひきつってしまい悶絶さえしてしまう有り様でしたが、マロニエ君も性格的にはじめた作業は終わるまで止められないのです。
ピアノの支柱の上面など、普段触れることもない場所には降り積もったホコリなどがあり、おそらく普段からは考えられない量のよろしくないものを吸い込んだと思われ、呼吸器の弱い自分としては自己管理という点で、甚だ不手際だったと反省しています。

我が家には2台ピアノがあり、サイズが大きいほうには二つ必要ということで、合計3台取り付けることになり、これを一気にやったものだから、結果的にそうとう無理をしてしまったようです。
しかもさっそくスイッチを入れたところ、ほどなくすると猛烈に気分が悪くなって体調が悪化し、おかげでろくに眠ることもできませんでした。

これ、たぶんハウスシック症候群みたいなもので、大型電気店にいくとわりにこれと同じような不快感に見舞われます。
友人の見解によると、電気製品に使われる科学的な素材や塗料や接着剤が、スイッチが入って加熱されることで、あたりにその害を撒き散らすとのことでした。ダンプチェイサーはそれ自体がヒーターなので発熱するのは当然というわけです。
この点は、一日経つとずいぶんマシになりましたので、この現象ははじめだけだろうと思われます。

それにしても、昨日眼鏡が合わない話を書いたばかりだというのに、マロニエ君的にはさらに苦手なことばかり折り重なってしまったトホホな一日でした。
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車とメガネ

車を12ヶ月点検に出したので、一晩代車に乗ることになりました。
代車で届けられたのはスズキのスプラッシュというコンパクトカーで、これはたしかハンガリーかどこかで生産されている車ですが、基本的にはよくできているものの、マロニエ君はあまり好きではありませんでした。

マロニエ君は実はオートバイ出身で、昔はかなりスポーツカーにも乗ったせいか、タコメーターがないというのはどうにも落ち着かないというか、それだけで車そのものまで信用できなくなります。

その点は割り切るとしても、いちばん辛いのは、スピードが出ると車全体がドラミングという風切り音の大親分みたいな音に包まれて、それが脳天に達するもので、まずこれですっかり疲れてしまいました。

このドラミングというのは経験的にワゴンやハッチバックタイプのボディ形状の車にしばしばあることで、かのメルセデス・ベンツでさえ、ワゴンタイプにこの現象がはっきり感じられる場合があります。
また、一般的なセダンでも後ろの窓だけを開けて走ったりすると、車内への風の巻き込み具合でやはりドラミングが起こり、バタバタとまさに怒濤のような音と圧迫感が脳天に押し寄せます。

窓を開けたときに出るドラミングならば窓を閉めれば済むことですが、ボディの構造自体から出てくる場合は解決のしようがないので、新しく車を買う場合などはこの点をよほどチェックしておかないと、これが嫌な人は乗るたびに不快感に襲われて、せっかく高いお金を出して買った車が台無しになるでしょう。

もうひとつ疲れた原因は、点検に出した車の中にうっかり運転時に使うメガネを入れっぱなしにしていたのですが、夜はメガネなしでは危なくて運転できないので、やむを得ず古いほうのメガネを使ったのはいいのですが、これが要するに、もう自分には合わなくなっていたようでした。

実はスーパーに買い物に行ったのですが、運転中はそうでもなかったのに、車を降りて店内を歩いていると「あれっ??」という感じで頭がフラフラしはじめて、直感的にメガネのせいだとわかったのですが、まあそのうち治るだろうぐらいに軽く考えていました。
ところが一向に治る気配はなく、店を出るころには普通に歩くのさえ辛いほど気分が悪くなりました。
少しでも頭を動かすと目を中心として体がグラグラするようで、これはまずいと思いましたが出先ではどうすることもできません。

もう一ヶ所、どうしても寄らなくちゃいけないところがあって、メガネなしで運転しようかと試みましたが、やはり夜はそうもいきません。だいいち借り物の車で事故でも起こそうものなら大変ですから、やはりメガネをかけて慎重に走りました。

ようやく自宅に辿り着いたときには全身がぐったりと疲れてしまい、ひじょうに気分が悪かったのですが、ともかく無事に帰ってきたことを良しとしました。
古いメガネはスペアーぐらいのつもりで、二つ持っている認識でしたが、もはやこれは使えないということが身をもってわかったという次第でしたし、車もはやく自分の使い慣れた車が戻ってきてくるのが待ち遠しくなりました。

ほんのわずかなことが人に与える影響というのは想像以上に大きいもので、平穏というものは実に微妙なバランスの上に立っているということをしみじみ経験してしまったというわけです。
もちろん、世の中にはそんなこと全然なんともないタフな人もいらっしゃるでしょうけれども。
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椅子の高さ

ピアノ弾きにとって、椅子の高さは演奏の質(とりわけ音色の)に反比例するという事実があるように思います。

他日、ブレンデルの異様なまでの椅子の高さが好きではないと書きましたが、だいたい椅子の高い人は、たとえ高尚な音楽を作り出す巨匠にしても、少なくともピアノから艶やかな美音を鳴らす人はまずありません。

ヴィルトゥオーソの中で思い出されるのはピアノの巨人と謳われたリヒテルです。
彼もあのガッチリとした体躯からすれば、不当に高い椅子で演奏します。
よくピアノを弾いていた頃のアシュケナージも小柄ではあるけれど、それを考慮しても椅子はえらく高かったと思います。

椅子の高い人は、どうしても肘が高くなり上から叩きつけるタッチになり、さらには上半身の重心も加勢して、非常に鋭角的な音になってしまいます。
これに対して椅子の低い人は、手首が低く、深みのある肉付きのある音を鳴らします。
体重がかかるにしても腕や手首がサスペンションの役目をして、いったんそこに溜められたエネルギーが柔軟に適宜分散されて丁寧なタッチに繋がるので、とても深く鳴るのですが、椅子が高いと肩・腕・肘などは硬直したハンマーに近い働きをしているような気がします。

現代の若いピアニストは、だいたい整体学的に正しいフォームやタッチを前提に育ってきているので、極端に椅子が高いとか、音が汚いというようなことはあまりないのですが、同時に昔のピアニストが持っていたような生々しい情熱、音楽の迫真力、ここぞという時の炸裂するフォルテなどがほとんど見受けられなくなり、誰を見てもそこそこバランスが良い優等生にしか見えないのは大変つまらない、残念なことだと思います。

高い椅子の最右翼は中村紘子女史で、彼女はコンサートでもいわゆる黒い革張りのコンサートベンチは使わず、幼児から大人まで幅広く使われる、背もたれ付きのトムソン椅子で必ず演奏します。
紘子女史はこれを極限まで高く上げて、座るというよりは、ほとんどお尻は椅子の前端に引っかかっているだけという、まるでコントラバスの奏者顔負けの半分立っているような姿勢で弾いていますね。

紘子女史のような自意識の強い人が、見た目にも美しいコンサートベンチを敢えて使わないのは、コンサートベンチは基本的に大人のプロ用というか、少なくとも子供サイズを想定していないために高くするにも限界があり、したがってあのお稽古でよく見る椅子を使っているのだと思います。

彼女が「題名のない音楽会」で若い人にラフマニノフの第2コンチェルトをレッスンしたことがあったのですが、彼女のアドバイスによると、この曲をオーケストラと格闘して表現するには、もっと椅子を高くして、指を立てて上から弾かなくてはいけない、今のアナタの弾き方ではただお上手でございますわねオホホホホで終わってしまうわよ…などと、思いがけず彼女の本音らしきことが聞けて、おまけに実演までしてくれたのは思わず苦笑させられました。

逆にグールドも顔負けなほど椅子が低いのは、スティーヴン・コワセヴィッチで、あきらかに普通のコンサートベンチの足を切っている、もしくは特注で、おそらくは紘子女史の半分ぐらいの高さしかないようで、これはこれで奇妙です。
鍵盤の高さはすべて同じなのに、まさにスタイルはそれぞれというわけですね。
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驚きの保証

マロニエ君自身が、ピアノに負けず劣らず湿度に弱いことは事ある毎に書いている通りです。
先日も知人3人で出かけ、目的地に到着後は総勢5人となりましたが、車の中も行き先でも、とにかく湿度が高くて気分はヘロヘロになっているのに、他の人はケロリとしているのは自分がひどく特種な気がしてしまいました。

車の中でも、どうやらエアコンのスイッチの実権を握るオーナーの問題は温度だけらしく、この日はわりに涼しかったばっかりにエアコンもOFFになってしまい、人の車に乗せてもらってあれこれ注文も付けきれず、じっとガマンで疲れました。
マロニエ君はとにかく暑いのと湿度がダメで、多湿な状態は苦手で疲れるだけでなく、どうかすると呼吸まで苦しくなるという肉体的苦痛まで発生することもあるのです。

そんなマロニエ君ですから、我が家の、とりわけ自室のエアコンはいわば命綱ともいえるものです。

今年もすでにエアコンのスイッチを入れる時期になりましたが、肝心のエアコンがまったく効かないわけではないものの、いまひとつパッとしません。はじめの1〜2週間というもの、なんだかおかしいと思いつつ様子をみていましたが、ついにやはりこれは正常ではないということに結論づいて、2週間ほど前にメーカーに修理依頼の申し込みをしました。

実はこのエアコン、機械モノのアタリハズレでいうとハズレの部類で、これまでにも何度か修理に来てもらっています。
そのたびに安くもない修理代を請求されていて、信頼性抜群のはずの日本製品も、あんまり大したこと無いじゃん!という気がしています。

さて、出張修理の当日、もうあと15分ほどで約束の時間というときになって、昨年テレビを買い換えた折にヤマダ電気の安心保証というのに加入していたことをふっと思い出しました。
逆にいうと、その瞬間まではこんなものに入っていることは、まったく思いつきもしませんでした。

それというのも、このエアコンはヤマダ電気で買ったものではないので連想としても結びつかなかったわけですが、この保証システムは従来の常識を覆すもので、たとえ他店で買った電気製品であっても長期間にわたって保証を適用できるという信じられないものでした。ようやくこれに加入していたことを思い出しました。

あわててヤマダ電気に電話してみると、修理受付の専用電話を教えられ、そこにかけるとマロニエ君の登録データがあることから、今日の出張修理も急遽この安心保証の扱いにしてくれることになり、とりあえずひと安心。

果たして、件のエアコンはかなり深刻な故障の由で、どうやらコンプレッサーというエアコンの根幹部分で最も高価な部分がダメになりかけているようで、これを交換するには10万近くかかるので、買い換えたほうが良いという話でした。
すかさずこの保証のことを告げると、買い換えの話は修理へと急転回し、そのおかげで料金の心配をせずに修理できるようになりました。

この日だけでもセンサーだの基盤だのと、これまでなかったような結構な部品交換をしましたから、これだけでもかなりの金額になるはずですが、メーカーの人は何も請求することもなく、ただどこかと電話連絡するのみで、サッと帰っていきました。
追っつけコンプレッサーの部品手配もするとのことですから、こっちは嬉しい前に唖然呆然です。

こんな状況を保証なしに聞かされていたら、この大事な時期を前に真っ青になっているところでしたから、これはもういっぺんに元を取ったどころではない展開になりました。
そして今日、ついに注文されたコンプレッサーが届いたとのことで交換が行われ、開始から実に3時間半の大修理となりました。
今回の修理だけで9万3千円という請求額だそうですが、それがなんと1円も出さずにすみましたし、メーカーの人からもこの保証に入っておかれてよかったですねぇ、としみじみ言われてしまいましたが、まったくその通りでした。

さすがのマロニエ君も、今度なにか電気製品を買うときは、これは義理にもヤマダ電気で必ず買わなくちゃいけないと思うようになりました。
それにしても本当に驚きました。
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知人達との食事を兼ねて、初めて新しい博多駅で数時間を過ごしました。

今回は阪急百貨店には行きませんでしたので、おもに東急ハンズを含むアミュプラザ博多周辺の印象になりますが、やはり話題のわりにはマロニエ君の好みではありませんでした。
全体に感じたことですが東急ハンズなどは、いわゆる低価格競争ではない路線を行っているぞといわんばかりの感じですが、本当にいいものというわけでもないのに、ちょっと上であるかのようなイメージ戦略のようで、却って中途半端だと思いました。

上階で食事もしましたが、さらにこの傾向は強まり、まことに思い切りの悪い中流志向の雰囲気だと思います。
値段はそこそこで、うっかり入れないような価格の店が何軒もあるかと思うと、ずいぶんくだけたものもあり、ようするになんの道筋も通っていないバラバラな印象です。
全体の雰囲気も、今どきの新しめセンスでまとめられてはいるものの、じゃあ本当の高級な空間かといえばまったくそうではないし、ここのコンセプトに見え隠れするものは、やってくる田舎の人達を相手に、博多の新スポットという上から目線の雰囲気を浴びせかけながら、ちょっと高いものを売りつけてやろうという魂胆が感じられて、ちょっと賛成しかねるものがありました。

東急ハンズもそれほど熱心に見たわけではありませんが、基本は概ね大衆品なのに、一般的平均よりちょっとお高いほうぐらいのものを集めて、ただ明るくきれいにディスプレイされているだけで、いかにも表面的でほとんど興味をそそられませんでした。
あれなら潔くホームセンターに行ったほうがよっぽど爽快ですし、あんな中からちょこっと何か買っていい気分になっている人がいるとすれば、それがまさに店側が狙っている客層ということでしょう。

もちろん全部すべてを否定するものではありませんし、中にはそれなりのものもあるはずだとは思います。
しかし全体を覆っている、中核をなす精神は、まさに今述べたようなもので貫かれており、却ってどこか貧乏くさい気分になっていまいます。

こう言っちゃなんですが、もともとマロニエ君は駅というものが好きではありません。
これは交通拠点としての駅ではなく、そこに相乗りした商業エリアとしての意味です。

駅はそもそも人がゆっくり寛いだり遊びに行くような場所ではなく、列車やバスの乗り降りという人や物の移動のための交通施設であって、せわしない、強いて言うと柄の悪いところだというのがマロニエ君の基本認識です。
周辺には飲み屋などがひしめき、駅そのものも何かの雰囲気を楽しんだり文化の香りのするところではなく、所詮は日がな一日人が行き交い、その無数の人達の土足で情け容赦なく踏みつけられる機能重視の場所、それが駅だと思うのです。

駅というのがそもそもそんなところなので、そこにどんなに現代的な、オシャレな、きれいな商業エリアを作ってみたところで、悲しいかな根底にざらついたものを感じてしまいます。
騒々しく、人の波が交錯するような場所で、どんなに高級店に入って食事をしてみても、存在している場所そのものがすでに駅なんだし、お店も一稼ぎしたくて話題のエリアに出店しているまでで、所詮はまやかしだと思います。
すぐ傍では、ひっきりなしに列車が発着し、それをめがけてバスやタクシーが際限もなく往来する、家でいえば駅は書斎でも応接室でも座敷でもない、所詮は下駄箱のある玄関にすぎません。

どんなに粉飾しようとも、それが駅である以上、そんな土足で踏み荒らす実用第一の場所だという事実は拭い去ることはできません。

マロニエ君はむかし横浜に住んだこともありますが、当時の横浜も商業的中心と横浜駅は二つがひとつで、とても落ち着きのない文化性の低い、ガサガサした騒がしいだけの印象がありましたが、新しい博多駅に行くと、ついそういう記憶が蘇ってくるようでした。
交通手段として博多駅を利用する人は別ですが、遊びに行くのは…1~2回行けばじゅうぶんです。
どんなにきれいなものを上に作って覆い被せても、駅というものの根底に流れる、粗っぽく侘びしい空気は変えられない気がします。
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決断の勝利

海外からピアノを買った知人の部屋に、ピアノ拝見でお邪魔しました。

彼はこのピアノ購入を決断したために、連動してグランドピアノが置ける部屋探しまでする事になりました。
「グランド可」の物件は多くはなく、これだというものに出会うにはそれなりに時間がかかったようですが、ようやくにしてその条件を満たす物件が見つかり、まず先に人間が引っ越しをして、そこへ防音シートなど準備万端整えた後にピアノの搬入となったようです。

思ったよりも部屋数の多い広々とした住まいでしたが、その一室にスタインウェイのグランドがスラリとした足を垂直に伸ばして端然と置かれています。
このピアノは製造からわずか10年ほどしか経っていない上に、むこうではギャラリーのようなところに置かれていたらしく、あまり弾かれた様子もない感じでした。内外共に非常にきれいで若々しく、人間でいうならせいぜい小中学生ぐらいのピアノという印象です。
きちんと管理して、途中で大修理をおこなえば100年は楽にもつといわれるスタインウェイですから、まさに一生モノというわけです。
このピアノはニューヨーク製のスタインウェイですが、ドイツのスタインウェイにはないヘアーライン仕上げというラッカーの艶消し塗装の上に、細い擦り線が入るように半艶出し仕上げされたもので、これはこれでなかなかの風合いがありました。

折しもこの円高の時期とも重なり、彼はとても良い買い物ができたようです。
本来なら、ピアノはできるだけたくさん弾いて、自分の納得のいく一台を探して買うというのが、ピアノ購入の常識というか、いわば正攻法のやり方です。
しかし、関東圏や浜松周辺にでも住んでいればそれも可能でしょうが、それ以外のエリアに居住する者にしてみれば、それは現実的にたやすいことではありません。精力的に見て回る意気込みはあっても、尋ねるべき店のほうがそれほどないからです。

そうなると、イレギュラーな手段ではありますが、信頼できる技術者の導きによってひとっ飛びに海外からいいものを割安に輸入するというのも、いささか大胆かつリスキーではありますが、ひとつの方法だと言えそうです。
もちろん、これは誰にでもおすすめできる方法とは言いませんし、ある程度の決断力と度胸と、結果に対しても一定の覚悟を持てるような人でなくてはなりません。
あとは仲介者を信じて、届いたものに対しては寛大な気持ちでそれを受け容れ、技術者と共に楽器を育てていくぐらいの気構えがあれば大丈夫だと思いますが。

今回はマロニエ君の見るところでは大成功で、望外の価格(それでも大金ですが)で希望するピアノを手に入れることができて、いまや彼は電子ピアノとスタインウェイを使い分けながら、質の高いピアノライフを満喫しているようです。

もう一人は、マロニエ君は直接会ったことはありませんが、ネットで知り合った人で、フランスからプレイエルの修復済みのグランドを、これもまたある技術者を通じて、自分は現地に行かず情報だけで手に入れたようですが、結果的には思った以上の美しいピアノが届いて大変満足しているようでした。

というわけで、何度も言いますが、ピアノは本来は必ず自分で弾いてみて、タッチや音などをよく確認・納得して買うものですけれども、中にはこんな禁じ手のごとき思い切った方法も、あるにはある…ということです。

マロニエ君にいわせれば、いささか暴論かもしれませんけれども、はじめに確かな物さえ手に入れておけば、あとは信頼できる技術者の手に委ねれば、ピアノはだいたい満足のいくような状態になるものだと思います。
良いピアノほどいろんな可能性をもっているもので、それを自分に合ったものに仕上げていけばいいのですが、もちろんそれでもピアノがもって生まれた基本は変えられませんから、基本の部分が気に入らなければ打つ手はありませんが。

ただ、逆にいうと、あれこれこだわったつもりで、気に入ったピアノを納得して買った人(中にはわざわざ浜松まで選定に行ったなんて自慢する人もいますが)でも、購入後の管理ときたらかなり好い加減で、せいぜいたまに調律をするぐらいが関の山みたいなケースが多いのも事実で、こうなると、はじめの輝きは早々に失われてしまい、結局半分眠ったような平凡なピアノになってしまうだけです。

それにしてもピアノを買うというのは、今どき、そうはないようなロマンティックなことですね。
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トリフォノフ優勝

先月はルービンシュタイン・コンクールがイスラエルで行われて、すでに終了したようです。

優勝はロシアのダニール・トリフォノフ(昨年のショパンコンクールでは第3位)。
この人の演奏は、日本公演の様子などからマロニエ君はどうにも馴染めず、とくに演奏姿勢が背中を猫のように丸めたなんとも異様な感じで抵抗感を覚えましたが、ネットのある書き込みでは彼のことをヘンタイ、ヘンタイと連呼しているのが笑えました。
やはりみんな似たようなことを感じているもんだと思えて、とりあえず安心しました。
ピアニストにとって演奏する姿というのも、それなりに大事な要素だと思います。
一昨年のクライバーンコンクール、昨年のショパンコンクールでも話題となったボジャノフなども、その演奏の良否はさておいても、演奏時のあまりに特徴的なペルソナというか、要するに見た感じの誇大な顔の表情とか仕草があまりに強烈で、やはり人に与えるマイナスイメージは小さくはないと思われます。
もちろんピアニストの本分は優れた演奏ですから、別に外見をカッコつける必要はありませんが、やはりその姿が美しい方が好ましいし、最低でもその演奏に対するマイナス要因になるような弾き方は、できるだけないほうがいいと思います。

その点でいうと、マロニエ君はブレンデルなどもその音楽には一定の敬意を払いつつ、演奏する姿を見るのは大嫌いでした。
あれだけの長身にもかかわらず小柄な女性のように椅子を目一杯上げて、小刻みに頭をフリながらピアノを弾く姿はどうにも不快で、とくに床から頭までの尋常ではない長さと高さなどは視覚的ストレスを覚えてしまいます。

その点でグールドなどは正反対で、椅子の足をのこぎりで切るほど着座位置が低く、彼は終生自分専用の変テコな椅子を愛用しているのは有名でしたが、そのグールドの演奏の様子はとても変わってはいるけれども、どこにも神経に障るものは皆無でした。それどころか、ただただあの信じがたいような芸術的演奏の様子として感銘を受けるばかりで、そこには独特の美しさが宿っていたとマロニエ君は思います。

昔の飛行機のパイロット仲間で言われていたことだそうですが、見た目に美しい飛行機というのはだいたい操縦もしやすく、バランスも性能もいいのだそうで、やはりピアニストもどのような姿のものであれ、それが結局美しくサマになっている人は演奏も素晴らしいのだろうと思います。
そういえば、最近のピアニストはだれもみな指運動の平均点は高いようですが、その「美しさ」のある人というのがあまりいなくて、なにかしらのストレスを感じさせる人が多い(と感じる)のは大変残念なことです。

優勝したトリフォノフは昨年のショパンコンクールではファツィオリを弾いた数少ないピアニストの一人でしたが、今回のルービンシュタインコンクールで使われたピアノはスタインウェイとカワイの2社だったようで、彼は今回スタインウェイを弾いていました。
日本人の最高位は6位の福間洸太郎氏で、彼はカワイを弾いての入賞だったようです。
このコンクールでのカワイはSK-EXではなく、普通のEXであったことが意外ですが、その理由などはわかりません。
しかし、マロニエ君は自分の知る限りにおいては、普通のEXのほうに今のところは好感を持っています。

客席側に見えるサイドの「KAWAI」ロゴは、以前の大仰な飾り文字から通常の書体になっていますが、これはこれであまり色気がありませんでした。

6月はいよいよチャイコフスキーコンクールとなりますから、コンテスタントも忙しいですね。
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さすがは大国

昔ほどではないにせよ、さすがにアメリカは大国だなあと感嘆させられることはいろいろあるもので、ピアノを取り巻く環境もちろんその一つです。
そして、それを証明するかのように「PIANO BUYER」というピアノ専門の雑誌まであるのです。

日本でピアノ関連の雑誌といえば、ショパンやムジカノーヴァのような演奏家やコンサート、あるいはレッスン関連のものしかありませんが、この「PIANO BUYER」は楽器としてのピアノ雑誌で、いってみれば車の雑誌みたいなものです。

これ、以前からその存在は知っていたので見てみたいとは思いつつ、たかだか雑誌一冊を海外から個人輸入するのもどうかと思い、手を出せないでいたのですが、このところアマゾンでいくつか本を買ったのを機に、もしかしたらアマゾンで取り扱っていないものかと思って検索してみると、なんのことはない、この「PIANO BUYER」があっけなく出てきたので、さっそく購入してみました。

価格はほぼアメリカの定価ぐらいで、一週間ほどで届きました。

サイズは音楽の友あたりと同じで、300頁に迫るカラーの美しい雑誌は手にもズッシリくる立派なもので、なかなか見応えがあります。
SPRING 2011とあるので、どうやら季刊誌のようですが、こんなものが雑誌として成り立っていくということ自体、アメリカの豊かな社会の層の厚さを感じさせられる思いです。

とくに前半は美しい広告など写真も多く、それなりに楽しめるものでした。

また、おおよそはネットなどでわかっていたことですが、アメリカには実にたくさんのピアノ店があり、そのショップ関係の広告もたくさん出ています。
もちろん新品を中心に扱っているところもありますが、どうしても心惹かれるのはレストアから販売まで幅広く手がけている店です。その数もかなり多く、さらに驚くべきは、ホームページを見てみるとどの店も在庫数などが日本のピアノ店とは桁違いで、潜在的な市場規模がまるで違うことをまざまざと見せつけられるようです。
さらに日本と大きく異なるのが、グランドが圧倒的に主流という点でしょうか。

これはひとえにアメリカという消費社会の伝統と、これまたまるきりサイズの違うおおらかな住宅事情がその背景にあるものと思われます。
日本では自宅にグランドピアノを置くということは、部屋をひとつピアノで専有するぐらいの覚悟が要るものですが、アメリカの住宅では、広いリビングのようなところに、ピアノは適当にポンとおかれており、それでも四方に広大な空間が広がっているようで、何型なら入るの入らないのと必死になっているわれわれ日本人の標準が急に情けなくなってくるようです。

しかし、本来はこれぐらいのスペースであることがピアノを置く自然な環境なのだろうか…とも思わせられます。
同時に、なにかにつけ日本人のチマチマとした民族性のルーツは、もとを辿れば要するに窮屈極まる制約ずくめの住宅事情にあるのではないかとさえ思えてくるようです。

話が逸れましたが、「PIANO BUYER」を見るとアメリカにはヨーロッパからも実に様々なピアノが輸入されていることがわかり、その多様性にも目を見張らされるものがあります。
これを反映して、後半の1/3は各社のピアノの価格表になっており、それを見ているだけでも飽きませんが、どうやらディアパソンやプレイエルなどは正規のルートとしてはアメリカには輸入されていないようです。

今は日本の産業界にとって最大の悩みの種であるほどの円高ですから、航空券は安いし、アメリカに行って気に入ったピアノを買ってくる手間暇を惜しまない人なら、価値あるヴィンテージピアノなどが割安な価格で買えそうです。
ああ…死ぬまでに一度そんなことをやってみたいものです。
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まくら

マロニエ君にとって、どうしてもしっくりくるモノと巡り会えないものがあるのですが、それは枕です。

これまでに一体どれだけの数の枕を買ってみてはダメで、そのつど返品したり、そのままクッション代わりにしたりしたことか。いまでも物置には使わなかった新品の枕がいくつか転がっています。

現在使っているのは、とくにどうということもない物で、いつどこで買ったのかさえ思い出せないようなものですが、これが不思議に一番落ち着いていいのです。
しかし、なにぶんにも使用期間が長いので、そろそろ新しくしたいと思い始めて早、何年経つことやら。

つい先日もあるお店で、良さそうな枕があって、だいぶ時間をかけて眺めてはくどくどと触ってみたのですが、馬鹿みたいな話ですが、マロニエ君は枕を買うことが一種の恐怖症になってしまっていて、とうとう決断がつかずにこの時は買わずに帰りました。
しかし、やっぱりその枕のことが気になり、後日やはり買いに行きました。

そして、また同じことが始まりました。
家に持ち帰って、ビニールのケースに入ったまま、とりあえずベッドに置いてみるまでがドキドキです。

とりあえず横になった感じでは良さそうな気がしますが、結果はすぐには出ないのです。
5分、10分と時間が経つにしたがって、じりじりと真実が浮かび上がってきます。

その結果、少し固すぎることと、枕そのものが大きすぎることで、これもまたしっくりこないことがわかりました。
なぜかわかりませんが、売り場で手に取ってみるだけでは、これだけのこともわからないのです。
中は開けていませんので、やはりまた返品することに決定です。

こうなることは充分に予期しているので、レシートなどもむろんバッチリ取ってあるので、この点は問題なく返品できました。

マロニエ君にとって枕で大事なことのひとつは、高さと固さだと思います。
羽根枕のような腰のない柔らかさはダメで、だからといってそば枕のあの重くてジャリジャリした感じもイヤ。
もっとダメなのは最近流行の低反発素材を使ったもので、あのねちゃっとした頭や顔にまとわりつく感触はゾッとします。しかも熱がこもって暑いこと。

さらにここ数年出てきた、小さなパイプの破片のようなものを詰め込んだ枕も、その破片の感触が伝わって気に障って仕方ありません。

最近はオーダー枕とか専門店みたいなところがあるので、そこに行ってみようかとは前々から思っているのですが、なんだかそれもイマイチ信用できない気がすして行く勇気がありません。
中にはずいぶん高額なものもあるので、そのあたりになると物が違うのかもしれませんが、たかが枕(もはや「たかが」とは言えないのですが)に何万円も出すのもちょっと踏ん切りがつきません。

できたら1万円前後ぐらいでしっくりくるものが見つかればいいと思うこと自体が虫がいいのかと思ってしまいます…。
理想の枕を求める長い旅路は、まだまだ続きそうです。
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ダンプチェイサー2

技術者をして「ピアノを湿度から守る一大発明」といわしめるダンプチェイサーですが、先日、ある工房で実物の取付例を見てきました。

アップライトは以前書いたように下部のパネルを開けた位置に取り付けますが、グランドは支柱の下(犬でいうと前後の足の間のお腹の部分で、前足寄りのところ)に鍵盤と平行方向に取り付けるのが基本のようですが、この工房ではまたちょっと違った工夫がされていました。

ここにあるグランドはセミコンサイズなので奥行きがあり、響板が奥に長いため、出来るだけ全体に効果があるようにとダンプチェイサーは右前(高音側)から左奥(低音側)に伸びるよう、斜めに角度を付けて取り付けられていました。
さらにこの工房での工夫としては、本来よりもダンプチェイサー本体の位置を下に離して取り付けてあり、見たところでは支柱から約10センチぐらい下に平行にぶら下がるように設置されていました。

こうすることで、ダンプチェイサーの効果が少しでも響板全体に広がるようにとの配慮だそうです。

ダンプチェイサーの本体は、一見するとなんの変哲もないただの金属の棒で、長さは1メートル20〜50センチ、太さは人の指ぐらいしかない至ってシンプルな構造です。
片方から電源コードが伸びておりそれをコンセントに繋いでいるだけで、別に制御用のセンサーがあり、これが湿度を感知して自動的にスイッチが入ったり切れたりするというもののようです。

スイッチを入れて30分もした頃、ダンプチェイサーを恐る恐る触ってみると、心配するようなアッチッチというようなものじゃなく、ほんのりやわらかく暖まっているだけで、なるほどこれならばピアノへの悪影響はないだろうと推察できました。

ちなみにダンプチェイサーはアメリカ製で湿度が47%で制御されるのに対して、同様のシステムで日本製の商品にはドライエルというのがあるようです。こちらは設定が65%で、いずれも数値は固定で任意の設定はできないらしいので、どちらにするかは判断のしどころでしょう。

ネットに出ている装着図によると、グランドの場合は前後に2台取り付けるのが正式な装着方法のようですが、実際のところはどうなんでしょう。単純に1台より2台のほうが余裕があっていいだろうとは思いますが。
ちなみにグランド用は、後ろ側用として短めのものがあり、二つで1セットのようです。
短いほうは後ろ足の前ぐらいにとりつけるようですが、そこまでしないで前の一本で済ませる人も多いとか。

消費電力は長いほうが25Wで、ひと月フル稼働したとしても電気代は270円で、現実的には200円程度だそうですから、これは除湿器を回しっぱなしにするよりはるかに経済的でもあるようです。
ちなみに後ろ用は本体が短いためか15Wで、前後合わせて40Wとなりますが、それでも実質的な電気代は300円/月ほどだろうと想像されます。
ちなみに一般的な除湿器をフル稼働させていると、電気代は3000〜5000円かかるというのですから、ワンシーズンで軽々元を取るようです。

取り付けも技術者に頼まないといけないものかと思っていましたが、見たところでは、自分でもじゅうぶんできそうな感じでした。
ネットではすでに「品切れ」となっているところもあるので、やはりこの時期は売れているんだなあと、つい焦ってしまいます。
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ル・サージュとブラレイ

二人のフランス人ピアニスト、エリック・ル・サージュとフランク・ブラレイによるモーツァルトの2台と4手のためのピアノソナタ集を少し前にCDで購入していたので、何度か繰り返して聴いてみました。

二人とも今が旬とも言うべき共に40代で、ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポンの常連でもあるようです。

このCDで注目すべきは、120年以上前のピアノ、1874年/1877年のスタインウェイを使っているという点で、これはブラレイのこだわりによるものだとか。

現在のスタインウェイとは大いに違って、ひじょうにまろやかな音色が特徴ですが、さりとてフォルテピアノのような古くさいというような音ではなく、いまさらのようにピアノは一世紀以上もの間ほとんど進歩していないと思わせらます。
尤もそれをいうなら、ヴァイオリンなど300年ですから、いずれの楽器も基本的にはもはや完成され尽くして、ほとんど改良の余地がないのは間違いないようです。

とはいえ、スタインウェイとしてはこの時期の楽器は、まだまだ過渡期にあるもので、決して完成されたものではありませんが、それでも野暮ったさのない、美しい華のある音を聴かせる点ではさすがです。

それでいて、いつも感じることですが、古い楽器の音色というのはなんと心地よく耳に疲れないものかと思います。

集中して聴けば、発生した音が減衰する際に、ゆらゆらとゆらめく点などがいかにも昔の楽器といえばいえるでしょうが、新しいニューヨークスタインウェイなどはいまだに若干この特性を残しているので、こういう点でもニューヨーク製のほうに本源的なピアノの要素を見出して好む人も多いようです。

ここで使われたピアノは2台ともクリス・マーヌというピアノ蒐集家の持ち物で、この収録のために貸し出されたものだそうですが、これと同じ型のスタインウェイが、実は福岡市博多区のステーキ屋に置いてあるのをふと思い出しました。

ずいぶん前に見に行ったことがありますが、さりげなく19世紀のスタインウェイのコンサートグランドが、ステーキレストランの一角にポンと置いてあるのは、なんとも不思議な光景でした。
ステーキといえば油がつきものですが、ちょっと大丈夫だろうかという気になってしまいましたが…。

CDを話を戻すと、演奏そのものはいかにも爽快ではあるけれど、やや落ち着きのないところが散見されるのは、このフランスの実力派二人にしてはいささか残念な点だと思いました。
モーツァルトは基軸のブレがあるとたちまち歪んでしまう油断の出来ない音楽なので、この点はプロでもよくよく留意してほしいものです。

信じがたいほど多作なわりには、たった1曲しかないモーツァルトの2台のピアのためのソナタ(KV448)は、一昔前は「頭が良くなる音楽」ということで受験生などがこれを聴くのが流行りましたし、最近では例の「のだめカンタービレ」でのだめと千秋先輩が一緒に弾く曲としてすっかり有名になったようですね。

互いに同一の音型を次々にやりとりするところなどは2台のピアノならではの聴き(弾き)どころで、まったく対等の二人が織りなすめくるめく音楽は連弾には望み得ないもので、まさに左右に飛び交うテニスボールのようです。
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感覚の問題

「感覚」というのは一般的な常識の枠組みより遙かに細やかな、微妙なニュアンスの領域の問題ですが、これを共有できる人は昔にくらべると激減していることがひしひしと感じられるこの頃ですし、だからこそ通じ合える人の存在は昔以上に貴重でありがたい気がします。

それは物事に対しての善悪の問題ではなく、固い言葉でいうと道義とかけじめ、さらには好みや抵抗感の有無などの世界であって、いってみれば人が生きてきた長い年月の中で知らず知らずの間に出来上がった、とらえどころのない尺度、あるいは価値観の集積のような気がします。

単純な善悪の問題ではないからこそ、大事な事ってあるものです。

たとえばですが、どうも最近は文化という便利な名のもとに、ナンセンスとしかいいようのない非常に自己満足的なイベントなどが次々に立ち上がっているようですが、これにどう反応するかもポイントのひとつになります。

具体的にいうと、最近目につくのが日本のお寺(もちろん仏教の)です。
ここを会場にして、仏事ではない様々なイベントをやるのが目白押しで、今年だったと思いますが、博多の由緒ある名刹(日本最古の禅寺といわれます)で、なんとTVタレントの華道家がさまざまに飾り付けた生け花のイベントをやっていたようですし、つい先日手にしたコンサートのチラシにも、これもまたたいへん由緒のある曹洞宗のお寺の本堂でヴァイオリンとピアノによるコンサートが行われるといいます。さらにある日の新聞には空海創建ともいわれる、これもまた由緒ある博多のお寺に五重塔が完成したことを記念して、寺内でファッションショー!などが開かれたといいます。

コラボなどという言葉が使われはじめて、その便利な言葉を仲介にして、このような、ある種グロテスクな催しが全国的にも雨後のタケノコのように発生してきているように思います。

こういうことを多くの人はどう感じているかは知りませんが、マロニエ君はごくはじめのころこそおもしろことをやるもんだと思ったことも一瞬ぐらいはありましたが、結局のところ体質的に受け付けられず好きではありません。
たしかに一時期はこういうことが「新しさ」であるかのように勘違いされたのかもしれませんね。

しかしマロニエ君は、お寺の本堂という、正面には仏様がおられて、その前で苛酷な修行を積んできた僧侶の導きのもと、恭しく厳かな仏事を執りおこなうべき場所を、余事で侵すべからざるものだと思いますし、ましてそこにグランドピアノを置いたり、お寺とは不釣り合いなドレスを着てヴァイオリンをキーキーいわせて西洋音楽を演奏するというのは、やっているほうは斬新なつもりでも、どう考えてもしっくりきません。
しかも演奏されるのは大半が普通のクラシックとなると、これらの作品の根底にあるものは例外なくキリスト教の存在なのですから、事の内側に潜む精神的な意味合いを考えると、これは何かが間違っているとしか思えません。

マロニエ君は自他共に認める相当のクラシック音楽好きですから、少々のことなら音楽の味方をするのはやぶさかではありませんが、やはりこの種のイベントは、生理的に馴染めないものがあります。
だったら、キリスト教の礼拝堂で和太鼓の公演などして素晴らしいと思えるかというのと同じことでしょう。
なにかお互いがお互いを汚し合う結果になっているという気がするわけで、ひとことでいうなら違和感と一握りの人達の自己満足だけが残ります。

世の中には、法律にはなくてもやってはならないこと、やるべきではないこと、やらないほうが美しいことがあるものです。そしてそれは各人の人格や学識や教養の部分に下駄をあずけられていることがあるものです。

お寺でコンサートやファッションショーみたいなことをすることが垣根を超えた新しい文化なんて到底思えませんし、そういうものに対してどうしようもなく違和感を感じてしまう部分、そこがまさに「文化」だと思いますし、文化とはもとを辿ればきわめて精神的な領域の問題なのだと思います。

そして、こういうことを(最近はマロニエ君もあまり口にはしませんが)言って、くどくど説明せずともサッと理解し本質をわかってくれる人、これが「感覚」の共有だと思います。
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続・人気の曲

とりあえず、選曲の傾向の理由は少しわかりましたが、どうせ弾くのであればもっと幅広い視点から選曲してみるのも楽しいように思います。

そのためにも、やはり楽譜はきちんとしたものを持っておいたほうがいいもので、ピアノが好きで、しかも自分で弾くぐらいになれば、たとえ趣味であっても楽譜はそれが全曲まとめられたものを、ひとつは必ず持っておくべきですし、決してムダにはならないとマロニエ君は思います。
これにより、いうまでもなくその前後に存在する優れた作品を網羅的に知るところとなり、本当に自分が弾きたい曲を探し出すチャンスにもなるし、とりあえず弾いてみるだけでもとても勉強になるからです。

例えばピアノ名曲集的な観点から弾く革命と、ショパンの全27曲のエチュード全体を深く耳に馴染ませた上で弾く革命とでは、必ずなにかが違うものですし、そのほうがさらに素晴らしいものになることは異論を待たないでしょう。

もちろんクラブの中には特定の作曲家に集中して打ち込んでおられる方もあり、バッハばかりを弾く人、シューマンを得意とする人など、自分なりのこだわりや好みの個性があることはなによりも素晴らしいことで、最近入会された方では、専らメンデルスゾーンばかりを弾かれる方がおられて唸らされました。
マロニエ君もつい刺激を受けて、ちょっと自分からはあまり弾かなかったような曲を弾いてみたりしているところです。

そういう意味では、人が弾くのを聴いて自分も同じ曲を弾いてみたくなるという心理もとてもよくわかります。
コンサートなどでも感銘を受ける演奏に出会ったとき、あるいは逆に大いに憤慨するような演奏を聴いたとき、いずれの場合も猛烈に自分で弾いてみたくなるものです(もちろん弾ける曲に限ってですが)。

また、良く知っているものでも、自分から進んで弾こうとは思わなかったような曲を、人の演奏を聴くことで、なんとなく自分でも弾いてみようかと思うきっかけになることはマロニエ君にも幾度か覚えがあります。
こういうときにも楽譜を持っているというのは強味です。

近ごろは楽譜も決して安いものではありませんが、一度買えば半永久的に使えるものですから、その長い付き合いを考えれば決して高いものではありません。
マロニエ君は好きな曲があれば、自分が弾けない曲でも楽譜を買うことにはあまり躊躇もありません。
それは音楽が好きな自分にとって、楽譜を持つ事はひとつの「財産」だと思っているのです。

ただし、最近はCD−R等でひとりの作曲家の楽譜を網羅的に入れたものや、ネットでの無料ダウンロードなどというものもありますが、ああいうもので済ませるのはまったくもって賛成しかねます。
CD−Rの楽譜は一度買ったことがありますが、まあ割安感で言えばこれに勝るものはありませんし、場所を取らないといえばそうかもしれません。しかし、なんとも無味乾燥で、まったくマロニエ君の好むものではありませんでした。

そもそも音楽を楽しむ、ピアノを弾くという価値は、そんな味気のない合理性とは真逆の場所にあるものだと思いますから、やはり楽譜は紙の本であって、表紙があり厚みがあり、手で触って、ページを繰るものだと思います。
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人気の曲

過日、ピアノクラブの人に、かねてから疑問に思っていたある質問をしてみました。
(これまで「サークル」と書いてきましたが、よく考えてみると「クラブ」だったので、今後は改めます。)
それはクラブの皆さんが定例会で弾かれる曲目にある傾向があると思っていたからです。
全員ではありませんが、多くの人が同じような曲に集中するのはなぜ?と感じていました。

例えばショパンを例にとると、幻想即興曲、革命、別れの曲、ワルツの数曲、いくつかのノクターンなどは、入れ替わり立ち替わりに皆さんが弾かれる定番曲になっているのがちょっと不思議なわけです。
ベートーヴェンでも悲愴とかテンペストの第3楽章などは何度聞いたかわかりません。
…かと思うと、両隣にある曲は一向に弾かれる気配もありません。
第7番も第9番もマロニエ君はとても好きですが。

せっかく大評判の料理店に行っているのに、みんながみんな、エビチリか、酢豚か、麻婆豆腐ばかり注文するような感じでしょうか。

もちろん根底には、これらがよく耳に馴染んだポピュラーな曲ということはあるとは思いますが、どうもそればかりが理由のようには思えない不思議さもあって、そのわけを聞かずにはいられなくなりました。

これらの有名曲ももちろん素晴らしい作品に違いありませんが、マロニエ君などはいつもそのあたりから外れた、本当に自分が好きな曲を弾いてきたように思いますし、同様の方もわずかにはいらっしゃいます。

もちろん選曲に際しては技術的な問題も大きく、シロウト集団の我々としてはなんでもOKというわけには行きませんから、難易度の点でも自分の技術と大いに相談しながら決めることにはなりますが…。
しかし、ショパンのエチュードのような難しい曲を弾くにしても、全27曲のエチュードの中で革命などは突出して人気が集中しており、「次は自分も(革命に)挑戦したい!」というような発言さえ何度も耳にしています。

革命ももちろんいいけれども、なんでそればかり??…その理由がまったくわかりませんでした。

また不思議なのはマズルカやプレリュードなどはほとんど見向きもされず、これまでにそれらを弾いたことのある人はマロニエ君以外ではわずかに一人か二人を記憶するのみです。
即興曲では4曲中の最高傑作とも言うべき第3番は誰ひとり弾かず、人気の点で革命さえも上回るのは第4番(幻想即興曲:ショパンは自分では気に入らず即興曲の中には入れていなかった。第4番とされて出版されたのは死後だが、作曲は4曲中もっとも早い。「幻想即興曲」の名は第三者によって付けられたもの。)で、こぞって弾かれるところはこの曲の大変な人気の高さが窺えます。

しかし、ピアノのレパートリーは無尽蔵といっても差し支えなく、あれだけたくさんの眩しいばかりの傑作が並んでいる中で、こうも同じものに集中するのは、どう考えても不自然・不可解だったわけです。
そこでその点を聞いてみると、ようやくにしてその理由がわかりました。

まずは楽譜の問題が大きいようで、楽譜を手に入れるときに1曲だけのピース楽譜を手に入れてしまうこと。あるいは手持ちのピアノ名曲集の類にこれらの曲がたまたま載っていたからで、他の曲は聴いたことがない…というようなたわいもないものでした。

マロニエ君にはちょっと考えられないことですが、へええ…そんなものかと思いました。
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草戦争凱歌

何度書いた草戦争のその後です。

冬の間はおとなしくなりを潜めている多くの植物は、春の到来とともに一斉に芽を吹き、音のない大合唱が始まります。
そのトップを切るのが日本の花のカリスマ「桜」だろうと思います。

この桜の開花宣言と時を同じくして、多くの植物が俄に活動を開始します。
日本には、とりわけ「春」を生命を寿ぐ最高の季節と捉える伝統があり、多くの歌人などはその喜びをあまたの作品にあらわしていたりしますし、大半の人にとっては冬が終わって寒さが遠退き、木々や花々が咲き乱れる春の到来は、いかにも幸福感に包まれる時期なのかもしれません。

これに合わせて新学期が始まり、新年度が始まり、世の中全体が新しくスタートをきるという次第。

そんな春から梅雨にかけてが、実はマロニエ君にとっては年間を通じて最も苦手で過ごしにくい季節なのです。
あらゆる事が冬のほうが快適で清々しいのに、それが終わってむしむしと暑苦しい、皮膚のまわりに何かがまとわりつくようなイヤな季節が、あぁまたやって来くるという印象です。

ひとことで言えば、サラサラした季節がベタベタ季節に切り替わる、それがマロニエ君にとっての春なのです。
さらには植物の急激で過剰な成長が鬱陶しさに拍車をかけます。

雑草のなどはその際たるもので、日一日と高さと量を増やしていき、まさに情け容赦のないその様子は暴力的でもあり、不気味さと不快感が募ります。

昨年はついに除草剤という「化学兵器」の投下により、まずまずの結果を上げていたので、今年もむろん最出撃するつもりでいたのはいうまでもありません。
ところが雑草軍の進撃は予想以上に迅速果敢であり、ゴールデンウィーク前にはかなり厳しい状況となり、これはいかん!とばかりに友人を呼びだして、除草剤(市販のものを希釈して使う)を考えられる限りの場所に正に「撒き散らし」ました。

この除草剤というのは、撒いたからといってただちに翌日から枯れるわけではなく、最低でも10日ぐらいはかかります。
我が家の場合、すでに散布して4週間ほどが経過していますが、果たしてその状況とは?

草の生えていたあたり一面は柔らかな茶褐色となり、雑草軍の進軍はものの見事に食い止められ殲滅されています。
驚くべきはその薬の効能で、一面を覆っていたそれなりに美しい苔なども、この際犠牲になることは覚悟の上だったのですが、なんとそれらにはなんの被害もなく、突き出ていた草だけがうす茶色に枯れ干からびて、地面に小さく張り付いているのは驚きでした。

これはすごい!すごいとしかいいようがない!
この除草剤のおかげで蚊の発生も劇的に少なくなり、これはもう我が家の救世主のような存在になりそうです。

可愛がっていた犬も今はもう天国ですし、庭ではキュウリの1本も作るわけではないので、もはや躊躇するものはなにもなく、今後は定期的に散布していかなくてはと身も心も引き締まっているところです。
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自慢大会

日本人ピアニストって、最近どうかしてしまっているんじゃないかと思います。

昨年はある有名男性ピアニストが、一日でショパンのソロ作品を全曲暗譜で演奏するというギネス認定のかかった記録挑戦コンサートをしたことは、記憶に新しいところです。
開始から終了まで実に十数時間、時計が優に一回り以上したようで、こういう企画にショパンの音楽が使われること、あるいはせっかくの優れた才能を濫費することじたい、非常に不愉快かつ、そんなことまでやって目立ちたいのかと思いました。

もちろんその途方もない能力そのものには敬服しますが、音楽芸術に携わる演奏家としてはなんとも節操のない、恥ずかしいことをしたという印象はどうしても拭い去ることはできません。

あんなことはいやしくも芸術家のすることではなく、「俺はこんなこともできるんだぞ、どうだすごいだろう!」という内容の大がかりな自慢大会にしか思えません。
大した俗物根性というべきです。

これはさぞかし、この世界でも物笑いの種になったことだろうと思っていましたが、どうもそうではなく、その破天荒な記録を打ち立てたことに、同業他者は「やられた」という敗北感でも味わったのか、それに続くようなバトル的なコンサートが発表されて、さらに驚かされました。

今度は別の有名男性ピアニストですが、夏にラフマニノフのピアノ協奏曲全曲(パガニーニ狂詩曲を含む全5曲!)を一日で演奏するという重量級の挑戦的コンサートをおこなう由で、さらにひと月おいて、こんどはソロ、有名ゲストを招いての合わせものまで、この人のピアノを中心とした5日連続コンサートという企画が打ち出されており、すでに派手なカラー広告などが打たれています。

それにしても、誰もかれもがここまでやらなきゃいけないものかと思います。

なるほど今は、ちょっとでも油断すると押し流されてしまう世の中ですから、少々のことをしてでもステージにしがみついていかなくてはという裏事情はもちろん察します。
しかしです、目立つこと、世間に対してアッと驚くインパクトを与えることで、自分を露出・誇示するような無謀なコンサートを仕掛けることが、演奏家の残された道となっているのだとすれば、なんという無惨なことかと思わないではいられません。

こんなことをしていたら、演奏の質そのものより、ただ単に記録的なコンサートの達成を見守ることだけに関心は集中し、いかなる演奏をしたかという本来の価値などは二の次三の次になってしまうでしょう。
質の高い音楽を生み出すことより、超人的なパフォーマンスで人の注意を惹く技巧、記憶力、体力、気力の維持に全エネルギーを消耗させるだけに違いありません。

なんらかの人生ドラマで人を呼び込めない人は、今度はこんなトライアスロン的挑戦ができなきゃダメというようなこの風潮ははやくおさまって欲しいものです。

こうやって本来の音楽からどんどん逸脱するバトル的な流れは、コンクール至上主義より、さらにおかしな方向へと迷い込んでいるようにも感じます。
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ピアノの島

何気なく整理をしていたら、音楽雑誌『ショパン』の1月号がひょろりと出てきました。
いつもは立ち読みが多いのですが、ショパンコンクールの入賞者以外の演奏を集めたCDが付録として付いているので、それ目的で買っていたことを思い出しました。

表紙はジュネーブコンクールで日本人初の優勝を果たした萩原麻未さんで、巻頭にはインタビューが載っているものの、CDを聞いただけであまり熱心にページを繰ることはしていませんでした。

ひさびさに手にしたついでにパラパラめくっていると、「第5回中国国際ピアノコンクール」というのがあり、中国でもこんなコンクールをやっているのか…という感じで、その記事を読んでみました。

開催地は中国南部の沿海都市、福建省のアモイ市で、12日間にわたって開催され、ファイナルではモーツァルトの協奏曲およびそれ以外の協奏曲の2曲を中国国家交響楽団と共に弾かなくてはいけないというもので、16カ国52名が参加するそこそこ本格的なコンクールということのようです。

このコンクールは第3回までは首都北京で開催されていたようですが、第4回以降はこの福建省アモイ市に場所が移されたとのこと。
その理由は、アモイ市が、中国近代史の幕開けとなったアヘン戦争後の南京条約によって開港し、西欧諸国の領事館や商館、教会などが多く建てられ、キリスト教の布教とともに中国でも最も早くピアノやオルガンなど西洋音楽が普及した土地でもあることから、このコンクールの開催地として最も相応しいと判断されたようです。
またアモイ市は経済特区としてもめざましい発展を遂げているだけでなく、年間を通じて温暖な気候であることから異国情緒あふれるリゾート地でもあり、別荘地としても栄えてきた土地のようです。

さて、そんなアモイ市でまさか!という感じで驚いたのが、ここの南西部にコロンス島という小島があって、そこは別名「ピアノの島」とも呼ばれいるらしいのです。なんでも、個人(この島出身の華僑)のコレクションによる「ピアノ博物館」なるものが存在し、世界的にも珍しい歴史的ピアノが実に82台!も収蔵されているというのですから、びっくりでした。

そんな折、書店に行ったついでに旅行のガイド本を見てみると、運良くアモイ市の本があり、そこにもこのコロンス島のことが紹介されていました。アモイ市とは目と鼻の先の距離で、フェリーで渡る小さな島のようですが、掲載されている写真を見る限りでは、洋館風の建物が多くてあまり中国っぽくない印象でした。

「ピアノ博物館」のことも小さく触れられていましたが、そこには40数台というような記述でしたが、建物じたいもピアノのカタチをしているところなどがちょっと中国的センスですが、なかなか珍しいピアノがありそうな雰囲気でした。
この島はピアノの普及率も中国一とのことで、人口2万人、1時間も歩けば一周できるという小さな島に、一時は1000台ものピアノがあったというのですから驚きです。さらにはピアノ音楽学校まであり、いまでも対岸のアモイ市からフェリー通学している学生もいるようです。

あまり詳しい情報は得られませんでしたが、この島に「ピアノ博物館」があることだけは間違いないようです。

世の中にはまだまだ予想もしないことがあるものだと思いました。
いつか行ってみたいものです。
コンクールを聴いて、コロンス島にも足を伸ばすというのもいいかもしれませんね。
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ショパンのガラコンサート

今年の一月に東京で行われたショパン入賞者によるガラコンサートの模様が先ごろNHKのBSで2時間放映されて、録画していたのですが、これがもう、なんともシラけて退屈の極み、全部を見通すことができませんでした。

あらためていうまでもなくマロニエ君個人の印象ですけれども、ただ一人を除いては、みんな大同小異で、だれもかれもが無機質なウソっぽい演技のような演奏をするのには、あらためてなんだこれはと思いました。
若いのにエネルギーも冒険も初々しさもなく、若年寄のようで、もう少し正直に本音をぶつけた気持ちのいい演奏をしたらどうかと思います。

コンクールでは大変な人気だったと聞く2位のヴンダーの幻想ポロネーズも、期待に反して凡庸で、どこかアマチュア的な腰のない演奏でもあり、なんということもありませんでしたし、同じく2位のゲニューシャスの第1協奏曲も流れが不自然で、第一楽章だけでも聴くのが苦痛になりました。
このあまりにも有名な甘美な曲を、ここまで説得力なく退屈に演奏するのも大したものです。
3位のトリフォノフもしかり、こうやって見ていくとアヴデーエワの優勝というのも消去法で妥当な結果だったのかとさえ思えるものでしたが、その彼女も基本的にはこれまでと同じ印象でした。

とりわけロシアの3人に共通するのは、かつてこの大国のお家芸だった感情の奔流がなくなり、すべてが審査基準に沿って計算され構築された流れのない演奏です。そこには何のメッセージ性も主張も霊感もない、ただ高度に訓練された技術を横にならべて見せられるだけというもので、当然ながらそこにショパンの魂が現れるような余地はありません。
これではまるでスポーツと同じで、そこに技術的課題としてショパンの作品が使われているだけという印象です。

何かに似ていると思ったら、フィギュアスケートで、ここで何回転、ここで何連続、ここでステップという、ただ競技のためにだけに作り上げられた高度な技を、予定通りに失敗せずにこなしているとしか思えません。
これは音楽とはまったく似て非なる、メダル獲得だけが彼らを支配しているようでした。
何か大きなものが間違っているとしか思えませんし、若手がこれではクラシックが衰退するもの当然だろうと思われます。

彼らの演奏には、音楽のしもべとなり、それを奏する喜びや作品の美しさに自分の感性を重ねて燃焼するという、肝心のものがすっぽり抜け落ちているようでした。
我々聴く側も、演奏を通じて音楽の波に乗り、いざなわれ、作品の世界を味わい、ときには激しく翻弄されたいのです。
演奏者はそのために特別に選ばれた案内役であるはずですが、彼らはまったくその役目を果たしているとは言い難いものです。

なぜこんな風潮になってしまったのか…もはや考えてみる気にもなれません。

冒頭に「ただ一人を除いて」と書きましたが、それは5位のフランソワ・デュモンで、彼ひとりショパンの詩情を繊細に的確に描き出す、きわめてセンシティヴで美しい演奏をしていたのが正に唯一の救いでした。
やはりフランス人は、ショパンの本質を理解しているのだと思いました。

この一連のガラコンサートは福岡にも来ましたが、直感的に行かなかったのは正解でした。
もし行っていれば、すっかり落胆して帰ってきたこと間違いなしだったようです。
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湿度計の賞味期限

湿度が気になる季節に突入したこの頃、マロニエ君は湿度計を日に何度見ているかわかりません。
見たからといって、とくにどうということもないのですが、なんというかクセみたいなものでしょうか。

さて、ある調律師の方のホームページを見ていると、湿度や温度と音程のことなどについての記述があって大変勉強になることがありましたが、その中のひとつに、「湿度計は年月を経ると精度が低下することが避けられない」という文言があり、これにはドキッとしてしまいました。

しかも、市販のものでは精度が著しく劣るものもあり、ひどいときには15%も誤差(というか、ここまで来るとデタラメ表示というべきですが)があり、まず製品自体がちゃんとしたものでないとアテにならないのは当然ですね。
そのホームページには、精度の高いメーカーのオススメ商品まで紹介されていますが、それとても3年も経てば精度が落ちてくるから信用できなくなると受け取れるような書き方がしてあり、それぐらい経ったら校正に出すか新しいものを買ったほうがいいとアドバイスしています。

さて、マロニエ君の使っている湿度計は、3年どころか、優に10年以上前(もしかしたら20年?)のもので、お説の通りだとすると、これはとてもじゃありませんが信頼に足らない状態だろうということが推察されました。
そうとも知らず、そんなものを毎日眺めて一喜一憂しているなんて、自分がなんと愚かしいかと思われて、いてもたってもいられなくなり、さっそく件のオススメメーカーの温湿度計を買ってきました。

天神の雑貨点に行きましたが、置き時計などは実に多種多様なものがあるのに、湿度計は売り場が別で、店員に3度も尋ねてやっとその売り場に到達することができました。
果たして、オススメメーカーの製品ではありましたが、種類は二種類しかなく、そのうちのひとつを購入しました。

帰宅後、さっそくピアノの上に置いてみますが、正しい目盛りを示すには1〜2時間かかると説明にあり、その結果、今まで使っていた湿度計よりぐっと高い数値でも示したらどうしようかと不安でした。

さて、すでにそれから数日が経過しましたが、なんと古い湿度計との差はわずかに1%ほどで、なーんだ、狂ってないじゃん!と思いました。経年変化で精度が落ちるなんて、理論的にはウソじゃないだろうけれども、技術系の人のお説は理屈が勝っていて、いささか大げさな思い込みがあるのかとも思いました。

まあ、あえて慎重に考えるなら、もともと大したこともない湿度計の精度が落ちて、それが偶然正しい数値を示していたということも可能性としてはありますが…でもやっぱりこれだけほとんど同じ数値を仲良く並んで示しているということは、単純に古い方も正しかったのだろうと思われます。

無駄な買い物だったようにも思われますが、二つあったほうがより正しい数値を知ることができるでしょうし、これはこれで意味があったと思います。
しかし、ホームページに専門家が懇切丁寧に説明していると、ついそうなのかと鵜呑みにしてしまうのは、できるだけ注意しているつもりですが、やはりあるんだなあ…と思いました。
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