プレイエル&横山4/5/6

はやいもので、「プレイエルによるショパン・ピアノ独奏曲全曲集」全12巻のうちの第2期の4、5、6が発売されています。演奏は横山幸雄。

今回は第4巻が3つのエコセーズなどワルシャワ時代の遺作の小品からはじまり、第5巻ではパリ時代の初期の作品が登場しはじめて、op.27の二つのノクターンやバラード第1番なども含まれ、いよいよ円熟の時期を迎えるようです。そして第6巻ではパリの初期のマズルカから入って作品25のエチュードに至ります。

録音データを見ていると、ほぼ毎月にわたって月の中頃に石橋メモリアルホールにて毎2日間、同一のスタッフにより収録されているようですが、横山氏の演奏はどれをとっても安心感のある余裕に満ちたもので、危なげなく淡々と弾き進んでいくのは、好みは別としても大した力量だと思います。

解釈もいかにも中庸を得た薄味なもので、とくに突出しているものはありません。
まさにショパンの、音による作品事典のようで、これだけ一定のクオリティを維持するというのは、聴けばなんということもないようですが、実際には並大抵ではない力を必要とすると思います。

ただ、ときどき横山氏のピアノの語り口に小さな変化が起こるのは、エチュードなどの難易度の高い超有名曲になると気が入ってしまうのか、ことさら技巧に走りすぎてしまうところがあるのが残念な点だと思います。
ちょっとした小品や、普段あまり弾かれる機会の少ない曲などに、隅々まで神経の行き届いた確かな演奏をするわりには、有名曲の技巧的な部分で、ぎゃくにレコーディングには似つかわしくない粗っぽい部分を感じることが何度かありました。

しかし全体としては、全集の名にふさわしい内容を伴ったシリーズだといえると思います。
欲をいえば、もう少し味わいというか、ショパンが我々の耳にじかに語りかけてくるような面があると素晴らしいと思いますが、それは望みすぎというものでしょうか。
現状ではどちらかというと、いかにもテクニシャンによる模範演奏的で、デジカメ写真のような、解像度は高いけれどもクールな感触である点が、マロニエ君などにはもうひとつもの足りない気がするのです。

プレイエルのピアノについては、100年も前のデリケートな楽器を常に整ったコンディションで維持するのも大変だろうと思いますが、それもほぼ達成されているように思われ、技術者のご苦労は大変なものだろうと推察されます。
強いて言うなら、第6巻ではちょっとピアノの御機嫌があまりよろしくないような印象を受けました。

それから以前も書きましたが、やはりプレイエルのような楽器をあまり精密に、完璧指向に追い込んだような調整をするのは正しいことなのか…という疑問があり、それはこのシリーズを聴きながら常に感じさせられる点です。
多少バランスを欠いたとしても、生来の個性を生かした音造りのほうがこのパリ生まれのピアノも本領を発揮すると思うのです。

思わずンー!とため息が出たのは、ある関東のピアノ店で、プレイエルの小型グランドが販売されていて、ネット上にそのデモ演奏がアップされているのですが、そこに聴くのは、あのコルトーの古いレコードそのままの、やわらかで華やかなのに憂いのある音、ショパン以外の音楽を弾いたらどうなるのかわからないような、甘く悲しげな、あのイメージの通りのプレイエルのちょっと崩れかけた美音がそこにありました。

もちろんどちらがマルで、どちらがバツだと決めつけることはできませんが、少なくともマロニエ君のセンスでいうなら、このようないかにも危うい感じの、なにかギリギリの場所に立っているような、そんなプレイエルの音に強く惹かれるのです。
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双方の意思

趣味の集まりというのは楽しいけれども、玄関のドアの開閉には気をつけないと、ひじょうに複雑かつ微妙な人間関係が枝を伸ばしてくることは避けられない問題のようです。
あまり原則的なことをくだくだしく言っても始まりませんが、要するに人には理屈じゃない相性とか好き嫌いがあり、本当のことを言えば人品骨柄もいろいろだとは思います。

よろず趣味のクラブというのはどれも基本は遊びです。
生きるための手段である勤労の場においては、身を粉にして、我慢して、あまたのストレスにどっぷり浸かりながら、息も絶え絶えに頑張らなくちゃいけませんが、趣味までその延長線上におかれるのではなんのための楽しみだかわかりません。

だからこそ、せめて趣味や道楽の場にあっては、その点の慎重さは何より大切だと思われます。
世の中の、大半の趣味のクラブやサークルがそうだと思われますが、新メンバーの入会に際しては、事実上、入会する側の一方的な意志による場合が多く、クラブ側が入会者を選ぶということはめったにありません。
マロニエ君はこれが根本的な間違いだと最近強く思います。

クラブというものの発祥は英国とも聞いたような覚えがありますが、そもそも英国が貴族社会であったこともあるでしょうが、そこに根付いたあれこれのクラブは誰でも希望すれば入会できるというものではなかったようです。
紹介者を必要とし、様々な審査があり、充分な期間を経た上でようやく会員と認められます。
その判断については、要するに自分達の仲間としてやっていける相手であるという点が認められなくてはなりません。

何ゆえ誰でもどうぞではダメかといえば、それはクラブの「楽しさの質」を維持するためだと思われます。
「たかだか趣味」と言いますが、趣味こそは人間の心の滋養の場ですから、人との交流・友誼こそは最優先事項であって、そこへ空気を乱すような人物があらわれると、たちまちその雰囲気は崩れてしまいます。
すぐに目に見えて結果が出ないにしても、のちのちこれが元となり均衡や調和が損なわれるのは必然です。とくに現在のようなネット社会ではどんな人物が現れるか、その点は全く未知数です。

現代は、やれ個人情報だセキュリティーだと表向きはわかったようなことを言いますが、このようなクラブの入会に関しては事実上まったくの野放し状態で、ここに一種のチェックが機能しなくては、既に会員であるメンバーの居心地や楽しみまでもが侵害されることになると思います。

もちろんせっかくの入会希望者をむげに断ることはできないし、人のご縁というものは大切に取り扱わなくてはいけませんが、あまりにイージーな入会の許諾はしないほうが賢明です。いったん入会してしまうと、特段の事情や落ち度でもない限り、そう易々とは退会させるわけにはいかなくなりますし。
なんらかのお試し期間的なものが存在し、入会者がクラブを選ぶように、クラブも入会者を選ぶ、これが本来当然の姿ではないかと思います。
結婚と同じで、これは「双方の意志」によるものでなければならないでしょう。

時代が違うのですから、「来る者は拒まず」「お好きな方はどなたでも」などと寛容ぶって禅坊主のようなことを言っていたら、厳しい現実の前にとんだしっぺ返しをくらうことにもなりかねません。
人の集団というのは、なんらかの異物や邪心の持ち主を抱え込むと、とりかえしのつかないことになるのです。
そういう意味では、リーダーは昔以上にリーダーたる者の目配りの利く才覚が求められていると思います。

たとえ遊びでも、人を相手にするということは難しいものだと思います。
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10分で終わります!

過日、久しぶりに友人の夫婦と会って夕食やお茶などしましたが、おかしな話を聞きました。

外が暗くなったころ、我が家に迎えに来てくれたのですが、当初の予定よりもずいぶん遅れてしまい、それは別にかまわないのですがそれなりの理由があったようです。

その日の午後は二人で博多駅へお出かけだったそうで、奥さんのほうは駅内のある教室に通っているらしく、その間は別行動を取ったのだとか。なんでも奥さんの行く教室では、ちょうどその日で一区切りついて、以降はあらたに契約をするという状況を迎えたそうでした。

そのためには一定の手続きが必要となるのだそうですが、教室の営業のおねえさんとしてはぜひともその日のうちに契約を完了したかったようで、それを強く勧めてくるそうです。
奥さんとしてはダンナさんと駅内で待ち合わせをしているので、時間的な面で躊躇していると、そのおねえさん曰く、手続きは「10分で終わりますので!」と熱心に言ってくるそうで、じゃあ…ということになったそうです。

ところが、10分と思って手続きを開始すると、これがなかなか終わらない。
今どき故か、その更新手続きはiPadもしくはiPad的なもので行うらしいのですが、この操作に思いのほかてこずってしまったのだとか。
その間にもダンナさんとは電話でやり取りを交わして、どこだか場所は知りませんがお待たせ時間をズルズル延長していたようです。

そうこうするうちに時間ばかりが経過して、倍の20分となり、電話の向こうのダンナは、人を待らせているんだから早くするように相手に伝えるよう促し、奥さんもそれに従ったようですが、それでも手続きはようとして進まず、とうとう約束の3倍である30分をもオーバーしてしまったそうなのです。

それでついにマロニエ君の友人であるダンナは、頭に来て自らその教室に乗り込んできたらしいのです。
そして更新手続きをする女性に抗議したということでしたが、奥さんによるとそれが周囲でちょっと目立っていたというのです。はじめはマロニエ君も奥さんに同情していましたが、話の全容が見えてくるうちに、そりゃあ仕方ないなぁと思うようになりました。

マロニエ君の想像も入りますが、今どきの営業サイドにすれば「また今度」なんて悠長なことをいってると、相手はその気がなくなってしまうか、別の教室に通うようになるか、要はお客を取り逃がす可能性があるわけで、そんなものはアテにならないというわけでしょう。

要はお客さんの気が変わらないうちに、いま、その場で、間髪入れず更新手続きをさせるよう、日頃から教育されているのだろうと思われます。そのためには無理だとわかっていても「10分で終わります!」と言って、とにかく手続きに着手させることが肝心だと考えたのではないでしょうか?

結局、その時間的しわ寄せがその後の別の場所での予定にも響いてしまい、おまけに夕方の渋滞なども重なって、我が家に到達したときには予定より1時間を遙かに超えるほど遅くなっていました。
ずいぶんお疲れの様子でしたが、食後の話によると、奥さんは状況は自分もわかるけど、いささかダンナが怒り過ぎのようなことを言い始めたのです。するとダンナはサッと顔色が変わり、とても承服できないといった表情というか様子になりました。

それでも彼はいったんは話を止めようとしましたが、それに素直に従うようなヤワなマロニエ君ではありません。
なにがなんでも泥を吐けとばかりに猛然と追求しまくった結果、ダンナがしぶしぶ言い始めたことによると、逆に奥さんを待たせたときの奥さんの怒りようときたら、とうてい自分なんぞ足元にも及ばない激しいものだそうで、しかも自分は今日は、奥さんに文句を言ったのではなく、あくまで10分で終わると無責任な発言をした営業の女性に言ったのだということで、これはなるほど尤もなことだと大いに納得し、大いに笑いました。

話は両方から最後まで聞いてみるもんです。
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ピアノは気楽

もし自分が天才的な才能に恵まれて、世界中を駆け回るほどの演奏家になれるとしたら、ピアニストとヴァイオリニストのどちらがいいかと思うことがあります。世界的な奏者になるということはヴァイオリンの場合、当然それに相応しい楽器を必要とする状況が生まれてくることを意味するでしょう。

しかし、オールドヴァイオリンにまつわる本を読めば読むほどそういう世界とかかわるのは御免被りたいというのが正直なところです。
そしてピアノは、ともかくも楽器の面では遙かに健全な世界だと思わずにはいられません。

いまさら言うまでもなく、ピアニストは世界中どこに行っても会場にあるピアノを弾くのが基本ですから、そこに派生する悩みは尽きないわけで、リハーサルなどは寸暇を惜しんで出会ったばかりのピアノに慣れることに全神経を集中するといいます。
ピアノに対していろんな希望や不満があっても、技術者の問題、管理者の理解、時間の制約などが立ちはだかって、ほとんどは諦めムードとなり、残された道はいかにその日与えられたピアノで最良の演奏をするかということになるようです。

あてがいぶちのピアノに対する不安や心配、愛着ある楽器で本番を迎えられない宿命、こういうときにピアニストは、どこへ行こうとも自分の弾き慣れた楽器で演奏できる器楽奏者が心から羨ましくなるといいます。

しかし、何事も一長一短というがごとく、ヴァイオリンの場合、手に入れようにもほとんど不可能と思われるような巨費が立ちはだかります。あるいは大富豪やどこかの財団のようなところから貸与の機会を得るなどして、めでたく名器を弾ける幸運に恵まれたにしても、さてそれを自分自身で持ち歩かねばならず、さまざまな重い責任が生じ、そんな何億円もする腫れのものみたいな荷物を抱えて世界を旅をして回るなんぞまっぴらごめん。
ましてやそれが借り物だなんて、マロニエ君なら考えただけで気が滅入ってしまいます。

実際にあるヴァイオリニストが2挺のオールドヴァイオリンを持って楽屋入りし、1挺を使って演奏中、使われなかったほうの1挺が盗まれたというようなことも起こっているそうです。
しかもそのヴァイオリンが再び世に姿をあらわしたのは、奏者の死後のことだったとか。

貴重品扱いでホテルのフロントなどが預ってくれるかどうかは知りませんが、いずれにしろ四六時中気の休まることがないはずで、とてもじゃありませんがマロニエ君のような神経の持ち主につとまる行動ではありません。
ちょっと食事をする、人と会う、買い物をする、ときには音楽から離れてどこかに遊びに行くこともあるでしょう。
そんなすべての時間でヴァイオリンの安全が頭から離れることはないとしたら、これは正に自分がヴァイオリンの奴隷も同然のような気がします。
しかも相手は軽くて小さな楽器で、簡単に盗めるし、足のひと踏みでぐしゃりと潰れ、マッチ一本でたちまち炭になってしまうようなか弱いものです。楽器の健康管理にも気を遣い、定期的に高額なメンテに出さなくてはいけない、そんなデリケートの塊みたいなものと一緒に過ごすのですから、弾けばたしかに代え難い喜びもあるでしょうが、それ以上に鬱々となりそうです。

こういうことに思いを巡らすと、その点ピアノは、なんとまあ気楽なものか。
多少のガマンもあるにせよ、持って歩く楽器特有の管理などという煩わしさは一切なく、身の回りの物以外は手ぶらで会場に行って、演奏をして、また体ひとつで身軽に帰っていけばいいわけです。
ああ、なんという幸せでしょうか!
これだけでもピアノを選びます。
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ヴァイオリンの闇

最近、ヴァイオリンの名器にまつわる一冊の本を読了しました。
著者はヴァイオリンの製作者にして調整や修理なども行うヴァイオリンドクターでもあり、さらには鑑定や売買の仲介などもやっておられる方でした。

長年こういう仕事をやっている人ならではのおもしろい話がてんこ盛りで、世界中の有名演奏家やオーケストラの多くからもその方の技術には多くの期待と信頼が集まっているようでした。
出てくる名前だけでもびっくりするようなアーティストが続々と登場し、ピアノの調律と同様、このような高等技術の分野における日本人の優秀さは今や世界的なものであることが痛感されます。

本そのものは内容も面白く、平易な文体で、まさに興味深く一気に読んでしまいましたが、読了後の気分というのはなんとはなしに快いものではありませんでした。
それはヴァイオリンという楽器が持つ一種の暗い、得体の知れない、ダーティな部分にも触れたからだろうと思います。
とりわけクレモナのオールドヴァイオリンの世界は、骨董品の世界と同様で、どこか眉唾もののヤクザなフィールがつきまとうのです。
その途方もない価格と、怪しげな価値。
真贋の境目がきわめて不明瞭で、世にも美しいヴァイオリンの音色は、常にその怪しい世界と薄紙一枚のところに存在しているという現実がよくわかりました。
鑑定などといっても絶対的なものはほとんどなく、大半が欧米の有名な楽器商が発行したものや鑑定家の主観の域を出ないこともあり、状況証拠的で、狂乱的な価格を投じても真贋が後に覆ることもあるとかで、とてもじゃありあませんが堅気の人間が足を踏み入れるような世界ではないというのが率直な印象です。

この本を読んでいると、次第にこの世界すべてのものに不信感を抱くようになる自分が読み進むほどに形成されつつあることに気付きはじめました。
要するになにも信頼できるものは定かには存在せず、こういうヴァイオリンに関わる人すべてに不信の目を向けたくなってきます。もちろん演奏家も含めて。

ヴァイオリンには悪魔が宿るというような喩えがありますが、まさにその通りだと思いました。
そもそも300年以上経っても現役最高峰の楽器として第一線にあるという生命力ひとつとっても、なにやら魔性の仕業のようだし、あの正気の沙汰とは思えぬ億単位の価格なども、げに恐ろしい世界であることは容易に嗅ぎ取れるというものでしょう。

むかし車の世界にも「ニコイチ」というのがあって、例えばポルシェやフェラーリの事故廃車の同型を二台切ってつなぎ合わせて一台の中古車を作り上げるという詐欺まがいの行為が横行した時期がありました。もちろん大変な作業ですが、それだけの手間とコストをかけても、高値で売れて儲かるからこういう悪行が発生するわけです。

これと似たような発想で驚いたのが、なんと1挺のストラドを解体して3挺のストラドを作り上げるなどという、まるで映画さながらのことがおこなわれていたらしく、それも過去の話だと言い切れるでしょうか。
一部でも本物のパーツが存在すれば本物として通用するという発想で、それぞれ他のオールドヴァイオリンと精巧に合体させて一流の技術をもって作り上げれば、3挺のストラドが存在することになり、儲けも3倍というわけでしょう。

さらには歴史に残るヴァイオリン製作の過去の名匠達は、精巧無比なストラドやグァルネリのコピーを作っているのだそうで、それが後年真作として売買されるケースがあるとか。しかも困ったことに、これらがまた本物に勝るとも劣らぬ申し分のない音を奏でるのだそうで、その真贋騒ぎはますます混迷の度を深めるようです。

ここまで来るとコピーといえども相当の価格が付くのだそうで、いやはや大変な世界です。

最近ではデンドロクロノジー(年輪年代法)というハイテク技術を用いることで、使われた木の伐採年代などを調べられるようになり、それによって300年前の製作者が使っていた木の膨大なデータと照合するのだそうです。
科学技術の力でこの世界の闇のいくぶんかは光りを得たといえるのかもしれませんが、まさに指紋照合みたいなもので、美しい音楽の世界というよりは、専ら警察の犯罪捜査に近いものを感じてしまいます。
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あんぷ

自分のクセとか気質は容易なことでは訣別できるものではありませんね。

札つきの練習嫌いだったマロニエ君は、このところまたしてもその過去の悪癖が覆いようもなく顔を出して、練習なんててんでまっぴらゴメンだという気分に陥っています。
その理由は様々ですが、そのひとつに、どうも暗譜力が衰えたということもあるようです。
もともと読譜力も弱いし、暗譜も得意ではなかったマロニエ君ではありますが、それでもむかしは何度か弾いているとある程度自然に覚えていたものが、だんだん難しくなってくることを痛感しています。

歳を取るのはイヤなもんだと思うのはこういうときですね。
むかしはそれなりに暗譜できていたこともあって、しばらくすると楽譜を見ないで練習することが多かったのですが、最近はなんとか弾けるようになったと思った曲でも、楽譜がないとパタッと止まってしまいます。
こういうときに気分は一気に落ち込んで、練習そのものまでイヤになります。

続けるには、仕方なく楽譜を見て弾くことになるわけですが、暗譜していくテンポのトロさが自分で気になりだして、それがまたやる気を失うわけです。とくにイヤになるのは同じ箇所がいつまでも覚えられない。
こんな調子では自分なりの効率的な練習などできない、人にはできることが自分にはできないと思ってしまい、それでまた練習がますますイヤになる一因となってしまうのです。
暗譜ができにくくなってくると、腹立ちまぎれに、暗譜の方法が間違っているんじゃないか?そもそも暗譜って音と指の運動で覚えるものか、はたまた楽譜そのものを写真で撮ったように記憶することなのだろうかなどと、いまさらそんなことを考えはじめてしまいます。

よく優秀なピアニストの中には、楽譜だけを読んで、それだけで暗譜が出来てしまい、ピアノの前に座ったときにはある程度弾けるなんて人があるものですが、そんなこと、マロニエ君から見たら宇宙人としか思えません(笑)。
やはり音符は実際の音と自分の指の動きをつき合わせながらでないと、到底できることではありませんし、しかも大いに苦労している次第。

それでも、懲りもせず新しい曲を弾いてみたいという意欲ばかりは多少なりとも持っているのはせめてもの救いかもしれませんが、それらはいずれも人前で弾くなんてことはまったく念頭にはなく、すべて自分一人の楽しみのためでしかありません。
でも、これが楽しくなければ本当のピアノ好きとはいえないような気がするのですがどうでしょう。

人前で弾く、何かの折に発表するといったことが練習の目的になるというのを頭から否定するつもりはありませんが、それがないと練習もしないというのではピアノを弾く動機が不純すぎると言いたいのです。基本的にはあくまでその曲と自分が交信しているその瞬間こそがピアノを弾く喜びの中核でありたいものです。

例えばマロニエ君はろくに弾けないくせにコンチェルトなどもしばしば弾いてみます。
いくらかやってみて、よしんば上達しても、それを人前で弾くとか、ましてやオーケストラと共演なんて天地がひっくり返ってもないことですが、ただそれでじゅうぶん楽しいわけです。

オーケストラの序奏部を長々と弾いた末にやって来る、ソロの出だしなどは、ちょっとたまらないものがありますが、こんなこともひとり遊びだからこそできることでしょう。

今更ですが、有効な初見の上達法、暗譜の上達法などはあれば挑戦してみたいものですが、ま、無理でしょうね。
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好ましいホール

知人から誘っていただいて、過日、福岡の郊外にあるホールへピアノを弾きに行ってきました。

道が空いていればマロニエ君の自宅から3〜40分ほどの距離にある総合文化施設で、ここの音楽室はピアノクラブの定例会でも何度か利用したことがあるのですが、今回の会場は600席弱のメインホールで、ピアノはスタインウェイのD274がありました。
ここに限らず、今どきは郊外のあちこちに作られた各ホールにも、多くの場合スタインウェイが収められている気前の良さには今更のように驚かされます。

マロニエ君の知る限りにおいて、このホールではこれというコンサートがあまりないため、これまで内部に入ったことがなかったのですが、それが思いがけず、予想外の良いホールであったのは驚きでした。
ホール内の趣味も良く、とりわけ余裕のある大きめの客席のシートの立派で上質なことには目を見張りましたが、これは福岡市内のコンサートがしばしば行われている、いかなるホールと較べても突出して優れたものでした。

さらに音響がなかなかいい。
近ごろの新しいホール(とくに新しいものは)はやたらめったら響きすぎる、残響という名のただ音がワンワン暴れるだけのホールが多くて好きになれないのですが、ここの響きには音の輪郭を崩さない節度があり、この点がたいへん好ましく感じました。
音楽専用ホールには残響の数値などにこだわりすぎるのか、結果として非音楽的なもの、あるいは演奏家の妙技が伝わらない場合が多いのですが、その点ではいわゆる多目的ホールのほうが音がまだしも自然で、マロニエ君としては遙かに好ましく感じる場合が多いという印象です。

ホールというのはあらためて大したものだなあと感じたのは、最後列に座っても、そこへ到達してくる音は前方に較べてほとんど遜色なく、空間全体が豊かな音に満たされるのは今更ながら感銘を覚えます。
お客さんの入ったコンサートでは演奏中にひょいひょい席を移動するなどの聴き比べはしたくでもできませんので、そういう意味でもこういう機会にいろんなことがわかります。

このような好ましいホールで行われるピアノリサイタルなどもぜひ聴いてみたいものですが、悲しいかなアクセスが不利なため、催しの中身のほうが施設設備に追いついていない観があるのはなんとも残念なことです。
コンサートの情報はそれなりにアンテナを立てているつもりですが、ここのホールとピアノに相応しいコンサートが行われたという記憶はあまりありません。
大半が地元レベルのイベントやコンサートに留まっているようで、なんとももったいない話です。

これぐらいのホールこそ(規模の点でも、音響の点でも)市内中心部にぜひもうひとつ欲しいもんだと思わせられる、そんな素敵なホールでした。

ピアノは製造後7ー8年ぐらいしか経っていない比較的新しいものでしたが、なかなかバランスの良いピアノでしたし、調整もきちんとなされていることが弾いてすぐわかるものでした。
少なくとも現在の新しい同型よりは、まだ「らしさ」が残っており好ましく感じました。ただこの頃のピアノから、次第に基礎的なパワーは少しずつ落ち始めているように感じるのも事実で、中音域の厚みとか、低音の鐘のような迫力などはやや薄味になっているようです。
それを補うように、全域ブリリアントな音色ですが、できたらもう少し腹の底から歌って欲しいところ。
こうして様々な年代の異なるDを弾いてみると、それぞれの製造時代ごとの僅かな違いが手に取るようにわかり、それは多くのCDなどから得た記憶ともほぼ正確に一致するものなので、ピアノ好きとしては興味深い体験させてもらえる気がしています。

管理や調整にもそれぞれ差がありますが、生まれ持った器というのは、それを超えたところにあるもののようです。
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無言の真剣勝負

行きつけの大きめのスーパーに、このひと月ぐらいのことでしょうか、精肉売り場の前にある大型の冷蔵ボックスみたいなところが、割引品を置く専用の場所となりました。

以前は、その時期毎に量販を目論む肉類とか、チラシ広告の品など、内容がいつも入れ替わる場所だったのですが、このところは通常の商品で、加工日が一日遅れたものがここに一斉に投下されるようになったのです。
そして値段はというと、この場所にあるものはすべて半額ですから、すぐに食べるものであれば加工日の一日遅れぐらい問題ではなく、それこそいろんなものがあるので、マロニエ君も何度か買ったことがあります。

ところが、この半額コーナーができてしばらく経った頃からある現象みたいなものが起こってきたことに気付きました。
たまたま買い物に来たら安いコーナーもあるから、そっちも覗いてみようかという流れではなく、あきらかにそこだけを目的にやってくる種族があらわれたようなのです。

この人達の態度というか動きというのが、どうにもマロニエ君は好みません。
まずそのコーナーの前に立ちはだかって、安くなった商品のあれこれをしらみつぶしに見て回り、他のお客さんもいるから場所も少しは遠慮するとか、人にも少し場所を譲らなくてはという気配などまったくナシ。
マロニエ君はこういう人と競い合うように商品を見るのがイヤなので、しばらく他を見たりして時間つぶししたりしていましたが、この人達はちょっとやそっとでは動く気配がありません。
まさに好きなだけこの場所と時間を占領していて、それ以外は一切シャットアウトといった感じです。

それでもちょっと人が途絶えたときにそこに行くと、いい歳をした女性がサッと近づいてきたかと思うと、人の前にいきなりグッと手を伸ばして、お肉の入ったパックを2つ3つをまさに奪い取るように、ものすごい勢いでとってしまいました。
べつにマロニエ君はそれを買うつもりでもなかったものの、その鬼気迫る動作は呆気にとられるものでした。

この女性、あとから気がついたのですが、そのいくつかのパックを全部お買い上げかと思いきや、そうではなくて2mほど離れた場所に移動しておいて、こんどはゆっくり時間をかけながら真剣な眼差しであれこれと見比べています。
しばらく経ったころ結論が出たのか、またこちらに近づいてきたと思うと、いらないものをポンとぞんざいにこちらの目の前に戻して去っていきました。
つまり買おうかなと思った物はとりあえずたくさん持ち去っておいて、場所を変えて一人でゆっくり選んだ後、要らないものだけをまた売り場に戻すという手法のようでした。そして、見るとその人の買い物かごの中には、赤い丸の半額と書かれたシールの貼られた肉類ばかりがたくさん入っていました。

しかしこの女性などはまだいいほうで、カートに乗せたかごからあふれんばかりにこの半額コーナーのものばかりを買っている開き直ったような人もいて、見ていてなんだかとてもやるせない気分になってしまいます。
もちろんマロニエ君だって、半額となれば魅力ですから、欲しいものがあれば買いますし得した気分にもなりますが、ものには限度というものがあるように思います。

まるで戦いのような真剣さで漁りまくる人のお陰で、その場になんともいえない張りつめた緊張感が生まれて、そうなるとこちらもつい焦ってしまう自分までがたいそう浅ましいようでイヤになってしまいます。

ここで勝負に身を投じている人達は一様に無言ですが、ほしいものをゲットするための高いテンションがピリピリしていて、はっきりいってコワイのです。
びっくりしたのは、それを小さな子供とお父さんがやや離れた場所からおとなしく見守っており、やがて戦利品を携えてお母さんはニコリともせずに二人のもとへ戻っていくのですが、まるで荒野の生存競争さながらです。

さて、昨日の夕方またそのスーパーに行ったら、すっかりそのコーナーはなくなっていました。
あの感じでは夕方まで商品が残っていないのか、あるいは店が側が廃止にしたのか、どちらかでしょうが、以前の落ち着きが戻っていて妙にホッとしました。
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ベーゼンの販路拡大

月曜の読売新聞の朝刊文化欄には、ずいぶん広々と紙面(6段抜きで大小3枚の写真付き)をとって「ウィーンのピアノ継承」というタイトルでベーゼンドルファーの記事が載っていました。

この伝統あるピアノメーカーをヤマハが買収したというニュースは衝撃的でしたが、あれから3年半が経ったらしく、経営合理化も完了して、今後は世界的な販路拡大へ本格的に乗り出すのだそうです。

ベーゼンドルファーはピアノ製作に関して例外的に手間のかかる作業を熟練職人がすべて手作業でやっているということを、事ある毎に標榜するメーカーで、例えば、完成した楽器には付けられるのは製造番号ではなく、作品番号である云々など、それらは執拗に繰り返されるフレーズだという印象さえありました。
ところが実際には手作業は8割だそうで、裏を返せば2割は機械化されているということでしょうか…。

「なあんだ、スタインウェイと大体おなじじゃん!」って思いました。
もちろんベーゼンドルファーの隅々にまで行きわたる工芸的な美しさは抜きんでたもので、この点ではまさに世界の一流品というに相応しいものであることは間違いありませんが。

ベーゼンドルファーといえばピアノ界の至宝のように言われて、何かといえばウィーンの伝統、独特のトーン、貴婦人のよう、というような言葉が今もこの楽器のまわりには朝靄のように漂っています。
さぞかし世界的な需要もあるのかと思いきや、販売台数はヤマハの助力を得てもさほど伸びていないようで、2009年/2010年はそれぞれ220台に留まっているとか。損益分岐点が260台の由で、なおも赤字ということのようです。

製造に手間暇がかかるというのもあるでしょうが、販売量が伸びない理由のひとつには、あの独特な個性とピアノとしての汎用性の薄さに原因があるようにも思います。
あれだけ音色的にもスイートスポットが狭く、弾く作品も選ばざるを得ないとなると、オールマイティであることがピアノにとっては現実的性能とも同義になりますから、好きでも諦めるという人は少なくないような気がします。
よほどのお金持ちならいろんなピアノをそろえて、モーツァルトとシューベルトのためのピアノということで一台買うのも一興でしょうが、普通はなかなかそうもいきません。
また以前はホールでもちょっと贅沢なところはスタインウェイとベーゼンドルファーを揃え置くのが通例のようになっていましたが、今はそのあたりも少し変わってきている印象です。

驚いたのは、ヤマハがベーゼンドルファーの買収のきっかけになったこととして、そもそもヤマハがウィーンフィルの管楽器製作を請け負っていることからウィーンとの関わりを深めていったという側面があったらしく、これはまったく知らなかったことでした。
ウィーンフィルの管楽器がヤマハ…、これは考えたらすごいことだと思います。
その関わりの中でヤマハの高い品質への理解が深まったことで、そこからヤマハがベーゼンドルファーの伝統を守ろうという考えに繋がったようなことが書かれていました。
ま、そのあたりは冷徹非情なビジネスの世界のことなので、あくまで表向きの話かもしれず、半分聞いておけばいい気もしますが。

ただ、ヤマハは管楽器の分野でもその品質や鳴りの良さには定評があり、最近ではヴァイオリンなどでも高い評価を得ているといいますから、電子楽器を含む、ほんとうにあらゆる楽器を一つのメーカーが一つのブランドのもとに作っている(しかもどれもがクオリティの高い上級品!)という点で、これは史上例を見ない会社ではなかろうかと思います。
もしかしたら、そのうちヤマハの楽器だけを使ってのオーケストラやピアノコンチェルトなんかもできるかもしれませんね。そうしたらギネスものです。
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レクチャー&コンサート

横山幸雄氏によるレクチャー&コンサートに行ってきました。

チケットが千円というのが信じられないほどの内容で、前半は2人の生徒を相手に公開レッスンがおこなわれ、後半は横山氏のリサイタルという構成で、休憩を挟んで2時間を優に越す内容でした。
指導も演奏もして、自らマイクを持っておしゃべりもすれば、ロビーにはCD販売コーナーが設置され、終演後はサイン会まであるのだそうで、有名ピアニストもいまや多角経営とサービスの時代のような印象。

安く聴いておいて不満を言ったら叱られそうですが、こっちだって遠くまで頑張って行ったわけだし、この世界は安ければなんでもいいというわけでもないので、そこは申し訳ないけれども敢えて率直なところを書いてみます。

レッスンでは小学生と中学生の2人が指導を受けましたが、横山氏の声量がマイク付きでもずいぶん小さく、話し方もぼそぼそとつぶやくようで、言葉が聞き取りづらいのが残念でした。ホールにお客さんを入れて衆目の中でレクチャーをする以上は、もう少し広く見せて聞かせるに値する性格のものであってほしいと思いました。
レッスン自体は頷ける内容も多々ありましたが、細かい指示を矢継ぎ早に出しすぎるという印象で、もう少し音楽全体に通じる本質に迫るほうがこういう場には好ましいように感じましたが、まあそこは横山氏のやり方なのでしょう。

音楽家である以上、その話し方にも抑揚や強弱などのメリハリ、もう少しその本業からも汲み取ったであろう表現があればと思いますが、その話しぶりはピアノでいうと機械的な演奏みたいでした。
生徒に「あまりシステマティックにならないように」と指示した箇所がありましたが、それは貴方の話し方にも言えることでは…とつい思ってしまいました。

後半のソロ演奏は、指のメカニックはなるほど達者ですが、やっぱり音楽もどちらかというと平坦でドライ、作品に対する愛情深さが感じられずに、もう一つ満足が得られなかったのが正直なところです。
曲目はショパンの第1バラード、エチュード5曲、リストのカンパネラや献呈など5曲と、アンコールにもリストとショパンが演奏されましたが、すべてに共通するのがさらさらと譜面が進行していくだけで、もう少しの深みと、路傍の花にも目を向けるような情感があったらと思いました。

メモリーに余裕があってサクサク動くパソコンみたいな爽快さはありますが、少なくともマロニエ君は聴いている人間への語りかけとか、心にぐっと食い込んでくる何かが欲しいと思うわけです。
あれだけの秀でた才能とメカニックがあるのだから、もうひとつ踏み込んだ味わいがあったらどんなにか素晴らしいだろうかと思います。

ピアノはベーゼンドルファー275とスタインウェイDが使われて、レッスンでは生徒がスタインウェイを、リサイタルではショパンをベーゼンドルファーで弾き、途中でピアノを入れ換えて、続くリストではスタインウェイを弾くという面白い趣向で、この点は大いに楽しめましたが、いかんせんマロニエ君の好みではいまさらながらベーゼンドルファーでのショパンはいただけませんでした。

ベーゼンドルファーが大変優れたピアノであることはまぎれもない事実ですが、このピアノでショパンを鳴らすと、まるでピアノの音色がしわがれた老婆の声のように感じられてしまいます。
ミスマッチというのはまったくこの事で、良し悪しの問題ではなく、世の中にはどうしてもソリの合わないものがあるのだと思います。
逆に使ったらずいぶん違っていただろうと思いますが。

会場が遠かったことや、折からの台風の影響による終日の悪天候も加勢して、帰宅したころにはずいぶんとぐったり疲れてしまいました。
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シロウト内閣

マロニエ君にとって音楽はなによりも大切なものであり、それだけに理想主義的になり、演奏の質などにもある一定のレベルを求めてしまうところがあるのは否定できません。
無邪気な趣味は別とは思っていますが、シロウト芸というものはどうしても善意で捉えられることが多いものの、実際にはそれほどかわいいものばかりではなく、ときにシロウトの作り出すものは不愉快でグロテスクであったりするのが現実です。

そのシロウト芸が最も人々に害悪を及ぼす最悪の場所は永田町で、ここで行われるのは天下の政(まつりごと)ですから、音楽どころの話ではありません。

こんなブログに政治的なことを書くつもりは基本的にありませんし、そもそも書くだけの知識も見識もないのですが、それでも一人の国民あるいは有権者・納税者としてあえて言わせていただくなら、今度の組閣は一体なんだ!?と思いました。

菅さんの場合は、あの異様なしがみつきが終わるのを待ちわびて、ともかくも日本のために一日も早く辞めていただくことだけを切望していましたが、念願かなってやっと新しい代表が選ばれたかと思ったら、またも新たな失望のスタートです。
代表選で小沢氏が差し向けた海江田氏が落選したところまでは当然としても、野田新内閣のスタートを見て、思わず我が日本はいよいよ終わりじゃないかと思いました。

当選早々に「ノーサイドにしましょう」などと言ったかと思うと、党の要職にまた小沢氏の存在に気を遣いまくったような人物を配置するなど、またも同じことの繰り返しが再出発したという印象。
とくに幹事長という党の金庫番と選挙の後任権をあちらに持って行かれちゃお終いでしょう。
党内融和・挙党体制などと言いつつ、誰からも嫌われまいと論功行賞のオンパレード。

とりわけ昨日発表された組閣では財務や外務のような最重要クラスの大臣ポストに、まるで経験のない、そのへんの兄ちゃんみたいな人を任命するなど、開いた口が塞がりません。

だいたい党員の資格さえ停止処分されて、強制起訴されているような人物ひとりに、なぜそこまで気を遣ってゴマすりみたいなことしなくちゃいけないのかと思うと腹立ちさえ覚えます。
震災復興のみならず、落ち込む経済、ますます厳しさを増してしたたかさが求められる外交に対して、あんな顔ぶれでこの難局に対処できるなどと思っている人は誰もいないでしょう。

ああ、またも外国からナメられ、足元を見透かされたような屈辱的な状況がこれからも延々続くかと思うと、情けなくてどうしようもありません。

そもそも「どじょうのような男」とか「泥臭く」などと自ら言ってのけるセンスからしてなんとかしてほしいところ。
普通の人がどじょうでも泥臭くても構いませんが、日本のリーダーたる総理の特色が「泥臭い、どじょう」なんぞマロニエ君はまっぴらです。
泥臭いということを、それだけ真面目で不器用で誠実だというイメージに結びつけたいのでしょうが、あの眼差しでそれを言われると聞くたびに背筋がブルンとなってしまいます。
これで、なにもめざましいことができないまま、後に残ったのは増税だけとなるようではやりきれません。

世界的に見ても日本はなんでもレベルが高いと言われますが、何故こうも政治家のレベルが絶望的に低いのか、これはまったく日本人でありながら理解に苦しみます。
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中国高速鉄道

中国の高速鉄道の事故は記憶に新しいところですが、中国ほど何事においても「世界一」の称号を好む国柄はないのだそうです。

この中国版新幹線も、共産党立党90周年に合わせて、過去に類を見ないような猛烈な突貫工事によって、遮二無二開業が急がれたことは今や広く知られるところですが、つい最近も車輌から煙が出て緊急停止だの、中国開発の車輌は故障が相次ぐためにすべてが回収されるなど、ここ当分は問題は尽きないようです。
しかし、高速鉄道に関しては報道規制がかかっているらしいので、ニュースとしては聞こえてこないかもしれませんが。

たまたま書店で立ち読みをしていると、ある月刊誌の新号に、日本人ジャーナリストで中国の高速鉄道全線に乗車した!という強者がいて、いろいろとおもしろいことを書いていました。
中国版新幹線の特徴としては、あの広い大陸故に、日本と違うのはいわゆるカーブがほとんどなく、大半が直線を超高速でひた走るのだそうです。区間によっては時速300キロを超える瞬間もあるとかで、東京ー熊本よりも長い北京ー上海間を実に4時間台で切る速さで駆け抜けるのだとか。

安全面はさておいても、乗り心地は大変快適で上々であることが書かれていましたが、これはマロニエ君も高速鉄道ではありませんが、中国で鉄道を利用した際になんとなく感じた点でした。鉄道にはさっぱり疎いマロニエ君ですが、ずいぶん大きな車輌のように感じていたところ、後日この点に詳しい友人の話によると、中国の鉄道は軌道の幅自体が日本のものより広いのだそうで、自然車輌のサイズもより大型であるという話でした。
道理で、なにやら悠然としたその乗り心地はともかく快適で、動きもどこか鷹揚な感じを受ける気持ちの良いものだったことは印象に残っています。

さて、技術的・専門的なことはさておいても、利用者から見ると甚だ奇異に映る点があるのだそうで、あまりに計画・開業を急ぎすぎたためか、大半の駅が新駅となり、それがまた悉くひどく不便なところにあるのだそうです。
そしてそのアクセスに関する情報がほとんどないため、わかりにくいバスを乗り継いだり、街中から1時間もタクシーをすっ飛ばしてようやく駅へ辿り着くといったことが珍しくないといいます。
さらには切符を買うための職員がひどくつっけんどんで不親切であったり、セキュリティーの通過だけに20分を要したりと、総合的な利便性と迅速性という観点でも、まだまだすいぶんと問題が残されているようです。

それでいて、座席の等級によっては飛行機よりも高額で、およそ中国の一般人が気軽に利用するための交通手段からはほど遠い一握りの富裕層のものでしかないというのは、あいもかわらず変な話です。

とりわけあの事故いらい、最大の利用が想定されていた北京ー上海間は、実際には2ー3割しか乗客が乗っておらず、ずいぶん計画も狂ってしまっているのだとか。

中国はいまだに賄賂社会であることはつとに有名ですが、今年逮捕された鉄道省のトップには、なんと18人!もの愛人がいたり、その部下達もアメリカに豪邸を買い漁るなど、想像を絶する額の裏金が動いているとのことでした。
オリンピックや万博然りで、中国では大事業をやるには、実際にかかるコスト顔負けの賄賂が必要だそうで、これではなかなか確かな安全システムなどは構築できない気がします。

上海では空港からリニアモーターカーが走っていますが、これもなるほど中国の好きな地上を走る「世界一」の速さですけれども、その駅は街の中心部からずいぶん距離のあるところで、実際に不便に感じたことを思い出しました。
これに乗れば、そこから30キロほどの空港までわずか7分余で到着しますが、その駅へ行くには、重いスーツケースを引きずりながら混雑まみれの地下鉄に乗るか、タクシーではやはり1時間近くを要しますし、タクシーの運ちゃんもろく場所を知らなかったりします。

そのリニアモーターカーも今また乗るか?ときかれたら…やっぱりこわいですね。
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6枚のCD

過日、CDのワゴンセールを漁って買い求めた6枚について。

『山本貴志のショパン』については既に書いたので省略します。

『ミヒャエル・コルスティックのシューマン』
男性的な表現のスケールが大きいのは魅力ですが、音色の問題と、もう一つはドイツ人故なのかどうかはわからないものの、聴く者の詩的情感に訴えるような面がやや希薄で、説明的かつ堂々とし過ぎたシューマンだったように思いました。ゆるぎないガッチリ体型のクライスレリアーナ&謝肉祭を聴きたいという時にはもってこいの1枚でしょう。
ただし、あまりにドシッと腰の座ったシューマンというのは却って妙でもあり、そもそも音はあてどなく彷徨い続け、ひっきりなく情緒が揺れるところがシューマン作品の魅力でもあるので、これがドイツ的なシューマン演奏かといわれたら確かに疑問ですが、それでもとにかくひじょうに聴きごたえのあるアルバム。

『アンジェラ&ジェニファー・チュン(ヴァイオリン)のファンタジー』
演奏自体はとくだん光ったものがあるとも感じなかったものの、両者ともたいへん上手くて息が合っていて、じゅうぶん観賞に値するものでした。
演奏曲目が魅力的で、マルティヌーの2つのヴァイオリンとピアノのためのソナタ、ショスタコーヴィチのヴァイオリンデュオのための3つの小品、ミヨーの2つのヴァイオリンとピアノのためのソナタ、イサン・ユンのソナタなど、普段あまり聴く機会の少ない作品ばかりなのは得をした気分でした。
マルティヌーは革新的でありながらリズムの刻みなどが耳に心地よく、ショスタコーヴィチは、えっこれが?と思えるほどやさしげな旋律、ミヨーのエキゾチズムなど面白いものばかり。
この二人のヴァイオリニストは名前からも写真からも、きっと中国系のアメリカ人姉妹だと思われます。

『ヴォイス・オブ・ザ・ピープル』
こう題されたアルバムは、大半がフランクの作品と思いこんで購入したものの、よくみるとあのセザール・フランクではなく、ガブリエラ・レナ・フランク?という少なくともマロニエ君はこれまで聞いたこともない作曲家でガックリ。
どんなものやら聴いてみると、これがまたなんともへんな曲ばかりで、しばらく我慢して聴いていまたものの、ついに嫌になってストップしました。後半にはショスタコーヴィチのヴァイオリンソナタが入っていますので、それは後日あらためて聴いてみたところ、これがまたどうにもつまらないもので、演奏のせいもあるかもしれません。
これは完全に失敗でした。

『スザンヌ・ラング ピアノリサイタル』
若い女性ピアニストによる演奏で、リスト、チャイコフスキー、ラフマニノフ、ヤナーチェク、スメタナ、シューベルト、シチェドリン、ファリャ、プロコフィエフという、なんとも目まぐるしいほど多彩な作曲家の作品が登場するアルバムですが、その選曲の意図も目指す方向も不明で、聴いていて何も魅力を感じませんでした。
演奏レベルもあまり高くなく、いまどきのピアニストとしては、わざわざCDまで作って売るような腕前ではないという印象。なにしろ演奏がパッとしないので、とうぜん曲のほうでもこれといった力を得て本来の姿をあらわしてくるところがありません。
これなら日本人の名もないピアニストの中にもっと優れた演奏をする人がいくらでもいるはずです。これもまた失敗でした。

『スカルコッタス ピアノと室内楽作品集』
近年再評価が著しいといわれるニコス・スカルコッタス(1904-1949)の室内楽作品集で、これはなかなかに聴きごたえのあるもので、6枚中最高のヒットでした。シェーンベルクにも学んだという十二音技法の作品は、しかしシェーンベルクやベルクがこの分野の開拓者だとすると、より一層自由になって近代的なセンスがきらめいており、ある意味では十二音技法をよりしなやかに使いこなした作曲家といえるのかもしれません。
ピアノのウエリ・ヴィゲットという人が、これまたなかなか上手いのには舌を巻きましたし、ピアノの音はいかにも美しいスタインウェイの音。
収録時間もたっぷりで80分を超えるほどですが、何度も聴いても飽きることがなく、これはまさに拾い物だったと思います。

6枚中失敗は2枚、まあまあが3枚、ヒットが1枚であれば充分以上に元を取ったと言えそうです。
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中古スタインウェイ

知人がピアノ購入を検討しているらしく、大手楽器店にある戦前のスタインウェイのS型を先日見に行きました。
戦前のモデルですが、ほぼ完全なオーバーホールがされており、見た感じではパリッときれいな印象で、とても70年以上経ったピアノには見えないものでした。

とくにきれいだと思ったのはボディの塗装で、赤みがかった美しいマホガニーの上にクリアーが上手く吹き付けられており、こういうことは直接音とは関係ない部分ですが、やはり購入を検討する中古品の場合、楽器としての内容もさることながら、視覚的な美しさは大きな魅力になると思います。

人間にとって、視覚的要素というのはやはり小さくない部分で、その影響を受けるのが普通ですし、逆にそれを完全に度外視するということの方が極めて難しいと思われます。
とりわけピアノは中古でも輸入物の一級品となるとかなり高額な買い物ですから、心情として見た目の美しさもたいへん重要になり、音や響きはもちろんのこと、目を楽しませるものでもあってほしいものです。
見た瞬間の第一印象というのは後々までその影響を引きずりますから、もしマロニエ君が中古ピアノ販売の経営者なら、内容の充実は当然としても、見た目も重視するでしょう。そのために少し値が張っても、視覚的な要因にもじゅうぶん堪えるような仕上げをするだろうと思います。
どんなに麗しい音色を紡ぎ出す楽器であっても、見た目がぼろぼろの傷だらけでは購入意欲もそがれますから。

さてこのピアノ、率直にいうと整調面でまだまだ手を入れるべきと思われる部分もありましたから、現状のままでもろ手をあげて勧める気にはなれませんでしたが、基本的には大変健康な元気のあるピアノだと思いました。
驚くべきは、とにかく良く鳴る溌剌としたピアノで、その音はとても戦前生まれの奥行きが僅か155cmしかない小さなピアノとは思えません。いまさらながらスタインウェイの持つパワーと、その持続力には脱帽させられました。
(ちなみにこれ、ヤマハのCシリーズ最小のC1よりもさらに6cmも短いサイズで、もっとも一般的なC3などは186cmですから、それより31cmも短いピアノです)

日本のピアノ(少なくとも現行普及品であれば)なら、もっと何サイズも大きなモデルでも、このスタインウェイの最小モデルに、ピアノとしてのパワーの点ではとても敵わないという印象でした。
もちろん音質然りで、とくに少し距離を置いて聴いていると、その密度の高い聴きごたえのある音ときたらさすがというほかなく、つい欲しくなるピアノでした。
先日の練習会での100歳のブリュートナーの枯れた感じもとてもよかったけれど、この73歳のスタインウェイのパワーはまだまだ若々しく、さらに次元の違いを感じます。

外装やフレーム、響板なども全塗装され、内部の消耗品や弦までかなりの部分が新品の純正パーツ(という話)に交換されているので、総合的にみるとじゅうぶん納得できる価格設定のように思われました。
ここの営業マンが主に関東に集中する同社の在庫表を見せてくれましたが、大半のピアノが純正パーツを使ってOH(オーバーホール)されており、これが真実言葉通りなら、その販売網と相まって輸入ピアノ業界では脅威だろうなあとも思いました。

普通はスタインウェイの本格的なOHともなると、国産の新品グランドが買えるぐらいの費用がかかりますから、それを思うと、一気にコストパフォーマンスが増してくるようです。
ただし、真正な作業であるかどうか、本当に純正パーツを使っているかどうかまではマロニエ君にはわかりかねますが。

すくなくとも「オリジナル」と称して、消耗部品にはなにも手を付けず、表面的な調整だけでお茶を濁して、ずいぶん立派な値段で売っている輸入ピアノはごろごろしていますから、それよりはよほど良心的な気がしました。
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ダルベルトの迫真

フランスの中堅だったミシェル・ダルベルトも、もはや50代後半、ある意味では今が絶頂期にあるピアニストかもしれません。
彼のリサイタルの様子がBSで放送されました。

この人は昔から名前は聞くものの、なんだかもうひとつわからない人という印象で、CDなどもいまいち買う気になれない人でした。少なくともマロニエ君にとっては。

今年、すみだトリフォニーホールで行われたリサイタルから、シューマンの「ウィーンの謝肉祭の道化」と「謝肉祭」が放送されました。この人の演奏を見ていて最も気になるのは、フレーズの間でもやたらパッパッと手を上げることで、あんな奏法がフランスの伝統的奏法にあるんだろうかということです。

パリ生まれのパリ育ちで、コルトーの影響を受け、ペルルミュテールに師事したといいますが、そこから想像されるフランスらしさみたいなものは感じられませんし、そもそもそういう演奏を期待するとまったく裏切ってくれるのが決まってこのダルベルトでした。
いわゆるフランスピアニズムとは故意に外れた道を行こうとしている印象。
レパートリーもいわゆるドイツロマン派を得意とする、フランス人の音楽的ドイツコンプレックスというのはわりにあって、現在もグリモー、古くはイーヴ・ナットなどもその部類でしょう。

ただし、フランスピアニズムといっていることその自体がこちらの勝手な思い込みかもしれません。堅固な構成力とか論理性よりも、フランス人は流れるような線の音楽を描き出したり、どこか垢抜けたセンスを表出させたりするというイメージが我々に根強くあるからでしょう。

ところがこのダルベルトはそういった要素から全くかけ離れた、その見た目の甘いマスクとも裏腹に、木訥でごつごつとした肌触りの悪い音楽です。洗練の国フランスどころか、むしろそれは無粋で益荒男的で、音楽はフレーズごと、否フレーズの中のさらに小さな楽句によって途切れ、寸断され、そこにいちいち上げた手が、これでもかという無数のアクセントや段落を作り出すのは、聞いていてちょっとストレスになることがあります。

こういう具合で、ダルベルトのピアノはあまり好きではないのですが、それでもひとつだけ大変満足させられるものがありました。
それは迫真的にピアノを良く鳴らし、演奏を決してきれいごとでは済まさないという点で、この点は最近では希少価値の部類だと思います。
ダルベルトはどちらかというと小柄で、手足の長さも日本人と変わらないような体型ですが、それでも椅子が低く、そこから上半身の重さと筋力のかかった硬質な深みのある音を出します。
激しいパッションが燃え立ち、低音なども迫力ある深いタッチが随所に現れ、ピアノがいかんなく鳴らされているのは聴きごたえがあり、この点だけでも近ごろではめったにない充足感に満たされました。

最近の若いピアニストは、楽々と難曲を弾きこなして涼しい顔をしていますが、そのぶん音楽に迫力がない。
その日その場での演奏に何かをぶつけているというナマの気概というか、情熱のほとばしりがないのです。
たしかに汚い音もあまり出しませんが、全身全霊をこめて絞り出すフォルテッシモもなく、淡々と合理的な練習成果を披露するのみ。まるでスーパーで売っているカタチの揃ったきれいだけど味の薄い、小ぶりな野菜みたいで、土と水と太陽の光で育まれたという真実味がない。

その反対のものを見せてくれただけでもダルベルトを聴いた価値があったように思いました。
とりわけ左手の強いピアニストというのは、それのないピアニストにくらべると何倍も充実した響きを作るようです。
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ペトロフ

ペトロフのグランドを弾ける機会があり、知人と連れ立ってお試しがてら行ってきました。

小型グランドで外装は木目のチッペンデール、音も含めて個性的なピアノでした。
ペトロフのユーザーに言わせると、このピアノはスタインウェイなどとは目指す方向が違うもので、いわば「木の音」がするということを強く主張されている方などもあるようです。この意見にはマロニエ君の少ないペトロフ経験でいうと、いささか疑問に感じる面もありましたが、今回もその疑問が覆ることはありませんでした。

スタインウェイと方向性が違うことには異論はありませんし、いわゆるデュープレックスシステムを持たないピアノなので、響き自体にある種の直線的な率直さを感じる音色ではあると思います。

しかし、ペトロフの音には倍音と雑音の両方がむしろ多めで、しかもかなり金属音を含んだするどい発音のピアノだという印象があり、これがペトロフ独特の音色を作り出していると思います。
そしてその音は、東欧に流れる気質そのものみたいな響きで(チェコじたいは中央ヨーロッパに位置する国ですが)、こういう音を好む人も多くおられると思います。
ひとつひとつの音に重さがあり、いわゆる明るい現代的なトーンの対極にあるピアノでしょう。
また、ドイツ的な理性と秩序の勝ったピアノでもなく、生々しい野性味さえ感じる音ともいえそうで、やはりこれはまぎれもなくドヴォルザークやスメタナを生んだ国の、深い哀愁に満ちた音だと思います。

ペトロフは価格に比して材料がよいピアノであることも有名でしたが、それはその通りだと思います。
ただしそれはあくまで音に関する部分だけかもしれません。
とりわけ白っぽい目の揃った響板などはそれを如実に物語っていたように思いますし、音自体にも良い材質を使ったピアノならではのパワーがあり、音が太く、よく鳴っていたと思います。

ただし、工作や仕上げのレベルは率直に言ってそれほどでもなく、この点では中国やアメリカのピアノ並で、全体の作りとか仕上げは残念ながら一級品のそれには及ばないものがありました。
製品としての仕上げには価格に対して必要以上のことはしないという、はっきりした割り切りがあるようにも感じられ、ピアノはここから先を工芸的に美しく仕上げるとなると一気にコストが上昇するという感じが伝わってくるようでした。
その点では日本のピアノが大量生産でありながら、あれだけの(仕上げの)クオリティを保っているのは、なるほど世界が目を見張るだけのものがあると理解できます。

さて、今回弾いたピアノはタッチ面で無視できない大きな問題を抱えていました。
キーが重めで、しかもストロークの比較的浅い部分で発音してしまうので、指先とハンマーの反応に一体感が得られず、コントロールがおおいにしづらい状態でした。大音響でバンバン弾く分にはともかく、デュナーミクや表情の変化に重きを置く演奏にはまったく向きません。

ただし、現代のペトロフはアクションはすべてレンナー製のごく標準的な基準で作られているらしいので、これは調整次第でじゅうぶん解決できることだと思われました。
それだけピアノに本来の輝きを与える役どころは技術者の熱心な仕事にあるということでもあります。

どんなに鳴りの良いピアノでもタッチコントロールが効かないことには魅力も半減ですが、しかし、逆を言うと生来鳴る力のないピアノを鳴るようにすることはまず不可能ですから、この点でペトロフの潜在力は旺盛で、おおいに可能性を秘めたピアノだという印象でした。
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なんちゃってスタインウェイ

知らぬ間にポスティングされているフリーペーパーの中には、60ページに及ぶオールカラーのそれこそ写真週刊誌ぐらいの立派なものもありますが、今回は下記のような内容のため、あえてその冊子の名前は書くことは遠慮します。
内容は大半が食事の店の紹介などで、後半にはエステなどの広告に至るという、わりによくあるタイプです。

新聞を見た後、朝ポストに入っていた9月号とやらをぱらぱらやっていると、この冊子のプロデューサーという人物が、あるレストランを訪問して、そこの若いオーナーと誌面で対談をやっていました。
その内容はここでは関係ないのですが、そこに掲載されている大きな写真がマロニエ君の目を惹きつけました。

このレストランは食べ放題形式で、音楽のライブ演奏をやっているらしく、対談する二人は店内に置かれたグランドピアノの前で、プロデューサーは手振りを交えてさも何かを語っているところ、迎えるオーナーはスッと左手をピアノに添えて、両者かっこよく立ち話をしている感じの写真が大きく載っていました。

ピアノは大屋根を閉じた状態で、斜め後ろからの角度でしたが、普通の小型グランドにもかかわらず、サイドに金色の文字とマークがあり、そこには明らかに「STEINWAY & SONS」の文字とその中央上に例の琴のマークがあるのです。
はじめはへええと思ってみていたのですが、んー?という違和感を覚えるのに大した時間はかかりませんでした。

マロニエ君はごく有名どころのピアノであれば、マークを見なくてもディテールの特徴などから、だいたいどこのメーカーかはわかります。
その上でいうと、この写真に写ってるピアノはどうみてもヤマハだと思いました。
それで写真を凝視すると、果たして4つの点でヤマハである根拠が見つかりました。それはとりもなおさずスタインウェイではないという証明にもなるわけです。

対談にはピアノのことは触れられていませんでしたが、このレストランのホームページを見てみると、やはり後方から大屋根を開けた状態の写真があり、そこでさらに3つの点でスタインウェイにはない特徴を見出しました。
合計7つの根拠をもって、このピアノがスタインウェイでないことは明白なのですが、なぜそんな偽装表示みたいなことをしているのか…単なるブランドのパクリでしょうか。

ピアノのロゴマークは真鍮のパーツきちんと入れるなら塗装屋など専門家に依頼しないと、とても素人が出来ることではありません。あるいはもし、これがレーザーカッターなどで作られたデカール(ステッカーのたぐい)だとすれば、鍵盤蓋にあるロゴマークはどうなっているのかと思います。
正面には「YAMAHA」、サイドには「STEINWAY & SONS」というのもちょっとねぇ、考えにくいです。

もし両側に真鍮のロゴパーツを埋め込んでいるのなら、これはもうかなり本格的な作業です。
お店では毎週木曜から日曜までディナータイムにジャズや映画音楽の生演奏をやっている由ですが、演奏する人達はこういうピアノを前にしてどんな気分なのかと思います。

できれば実物を見てみたい気もするので、近くだったら見物がてら食事に行ってもいいのですが、あいにくと北九州方面なので、そうまでしてわざわざ行く気にもなりませんが、こんなピアノ1台があるというだけで、なにやらお店の印象まで変わってくるようです。

このなんちゃってスタインウェイ、だれか北九州方面の人にでも頼んで、偵察してきてほしいところです。
くだらないけれども、そうざらにはないピアノだとは思います。
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雨天順延

全国的にも大雨が頻発して列島いたるところが荒れ模様のようですが、福岡でもなかなか天候が定まりません。
先日など市内で竜巻まで発生して被害が出たというニュースには驚きました。

梅雨のようなしとしと雨ではなく、降り出すとかなりな勢いでの猛烈な雨であることが特徴です。
それが少しも一定せず、収まったかと思うと、またものすごい雨音に包まれます。

やっと晴れ間が出たかと思えば、午後は一転してにわか雨になったりと、とにかく天候そのものが迷走気味でころころ変わる日々が長らく続いています。

今年のちょうど梅雨明けぐらいの時期に、除草剤を撒き散らして雑草を根絶やしにしていた我が家では、これが功を奏して今年の夏の草戦争は見事に休戦となりました。
それに連なってか、蚊の発生も例年よりはうんと少ないものでしたが、その点に関しては放射能の影響がつぶやかれているようでもありますから、実際どちらの影響なのかはわかりません。

さて、その除草剤散布の効果で、今年は雑草のまるでない庭を見るたびにヤッタヤッタと喜んでいたところでしたが、どうやら効力に期限も見えてきました。8月に入ったあたりから、新たな雑草が小さくポツポツと出てきたかと思うと、日に日にそれが成長し、今ではかなりの部分があてつけがましい緑で覆われはじめました。
緑色それ自体はなかなかきれいな色で、色彩的としては結構なのですが、しかしその正体があの憎らしい雑草の再襲来かと思うと、とてもじゃありませんが楽しんでなどいられません。

早いうちに再度除草剤を再投下したいと狙ってはいるものの、こうも天候が著しく不安定では、いつまで経っても実行できない状態が続いています。現に、よほど今日やってしまおうかと思いながらも躊躇したところ、夜には集中豪雨のようになったりすることが何度もあり、そのたびに撒かなくてよかったとつくづく思うわけで、こんなことが3回も続くと、よほど天候が安定しないと迂闊にやっても無駄になるばかりです。

しかし、そうやって一日延ばしにしている間にも、雑草は確実に成長して、もう今では以前の勢力へと着実に近づきつつある気配ですから、まさに地面と空とを見比べる毎日です。
昨日は珍しく雨が降りませんでしたが、平日で実行できず、次の機会を伺っています。

そういえば、裏のマンションとの境目なども細長い雑草天国の様相で、この部分はマンション側の敷地なのですから向こうできちんと処理をして欲しいものですが、これがまた、ものの見事にほったらかし。
連絡しようにも管理人の電話番号もわからず、表はセキュリティまみれみたいな排他的な感じなので、普通の家のようにちょっと訪ねていくという雰囲気でもなく、こういう点は、やはり現代はいやでも人間の関係が希薄だということをしみじみ感じます。

まあ、このマンションの高い壁に助けられて、夜遅くまでピアノを弾いたりしていますから、大局的にはありがたいところもあるのですが、そうはいってもやはり敷地内の雑草の処理ぐらい、せめて年に一度ぐらいはして欲しいものです。
下手に草の話を持ち出して、逆にピアノの音のことでも言われるなら、それこそ藪蛇というものですから、だったら触りたくないですが…。
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動物の謝肉祭

フランス人のセンスに感服することは折に触れてあるものですが、またしても驚かされるハメになりました。

サンサーンスの動物の謝肉祭がひとつの可愛らしい、あっさりとした白の世界に作り上げられた素晴らしい映像を見ました。
指揮はチョン・ミョンフン、フランス国立放送フィルハーモニー管弦楽団と二人の若い女性ピアニストによる演奏ですが、床も周囲も真っ白のスタジオで演奏され、別所で収録された子供部屋での親子が動物の謝肉祭の絵本を見ることで、ページを繰るごとに音楽が引き出されていくというスタイルです。
この父親役となったのはフランスで有名な人気喜劇役者スマインで、彼の名演技がこの映像をより素晴らしいものにするのに一役買っていたことは間違いないでしょう。

さらに圧巻なのは、その演奏中の現実のオーケストラの中に、なんとも可愛らしいアニメーションの動物たちが現れ、のしのし歩いたり、飛んだり跳ねたりと、さまざまにデフォルメされた動物たちの動きが実にまた精妙で、よほど周到な準備がされたものだろうと思われます。この絵の動物たちが、親子が見ている本の中から飛び出して、チョン・ミョンフンの傍に行ったり、奏者の間であれこれの動きや遊びを展開します。

後半には父親役のスマインがやってきて指揮棒を振る場面がありますが、それがまたなんともサマになっていて、いわゆる役者の俄仕込みとは思えない、そのいかにもコミカルで音楽的な動きには感心しました。

全体に横たわる趣味の良さ、垢抜けた感性はさすがはフランスというべきで、日本人にはどう転んでも作り出せない世界だと思います。動物といえば緑をふんだんに使ったりと、うるさいような装置がごてごてと並ぶことになるような気がします。
とりわけ白の使い方は絶妙で、日本人が白の世界を作ると、雪の世界か、さもなくば温かみのない殺伐としたビルの内装のような冷たい世界か、あるいは味も素っ気もない病院みたいな世界になるように思われます。
フランス人は白を他の色と対等な、白という色として捉えているような気がしますが、どうでしょう。

親子を登場させるにしても、こんな絵本の世界でやさしく子供に読み聞かせる愛らしい情景となると、日本ではゴツイおじさんと小学生ぐらいの息子という設定はまず絶対に考えられない。
まず思いつきもしないでしょうし、誰かが提案しても、理解が得られずまっ先にボツになるに違いありません。
おそらくは猫なで声を出す若くてきれいなお母さんと、幼稚園ぐらいの可愛い子供のペアといったところでしょう。

しかしそれではただきれいな作り物の世界になるだけで、ここで見られるような自然な親子の間にある触れ合いとか味のある情感が自然に滲み出てくるということがないと思います。
この映像を見ていて、常に対照的なものとして頭から離れなかったのが、NHKの音楽番組などで使われるスタジオの野暮ったいセットの数々でした。いかにもあの紅白歌合戦に通じるような、くどくてわざとらしい、結婚式の披露宴的な世界を次から次に作り出しては、そこでクラシックからポピュラーまでの様々なパフォーマンスが収録されますが、一体全体あのセンスはどこから来るのかと思います。

この映像の監督はアンディ・ゾマー、ゴードンということでしたが、まさにその首尾一貫したあっぱれな仕事ぶりには脱帽でした。
くやしいけれど、やっぱり彼らにはどだい適わないと思います。

ちなみに、ここで使われた2台のピアノはヤマハのCFIIISで、やっぱりフランス人はよほどヤマハが好きらしいことはここでも確認できました。
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演奏は誰のため?

ピアノクラブという、いわゆるピアノの弾き合いクラブに所属して秋に丸二年を迎えようとしていますが、その間、以前なら想像だにできなかった赤面の極みであるところの人前演奏というものにも挑戦しました。

それを前提としたクラブに入る上はやむなしとして、ここに一定の覚悟をもって入会に及んだわけです。

そのための必要に迫られて、長年親しんできた「自分流」のピアノ遊びを一部棚上げし、まことに微々たる量ですが、人前で弾くということを念頭においての練習に時間を割くようになったことは、以前もどこかに書いたような気がします。

クラブの定例会はほぼ毎月開催され、その都度、人の居並ぶ会場の正面に置かれたピアノに向かってひとり歩を進め、そこでなにがしかの曲を弾かなければならないということは、マロニエ君にとっては相当にハードなことです。
こんな状況に追い込まれたというべきか、要は自分の意志で入会したわけですから、つまりは自分の意志によって己を追い込んだということになるわけですが、いまだそれに馴染まない自分がいることは、もはやどうにも手の施しようがありません。

人が聞いたら一笑に付されるかもしれませんが、正直言って、自分でもよく頑張ったもんだと感心しているほどで、それはささやかな練習をしたことではなくて、人前でピアノを何回も弾いたという点においてすこぶる感心しているわけです。
十人十色という言葉があるように、人前でピアノ弾くということに対する感覚の持ちあわせ方もさまざまで、それを無上の喜びのようにしている人を何人も目撃するにつれ、自分との違いに呆然とするばかりでした。

自分がおかしいのか、はたまたその逆か、そこのところは敢えて追求しないとしても、その甚だしい違いはどうみても解決する見込みのないことだと悟らずにはいられません。

さて最近、ちょっとそんな自分の様子が変化してくるのを薄々感じ始めていました。
本来の自分とは違うことをやっていると、場合によってはこれが習慣となって身に付く場合もあるかもしれませんが、ピアノの人前演奏だけはそうはいかないようです。

やっぱり本来自分にない無理を続けたのが祟ってきたのか、切り落とした枝がまた伸びてくるように、もとのスタイルに戻りつつあるのを自覚しはじめました。あるときふとそれを自覚するや、まさに坂道を転げるように、そのための練習がすっかり苦痛になりました。
マロニエ君には、人前で弾くためではなく、ただ単に自分がやってみたい曲がいろいろあって、どうもピアノの前に座るという限られた時間内にやりたいことの優先順位が元に戻りつつあるようです。

ピアノ教室などは、ともかく発表会だけは是が非でもやらなくてはいけないご時世だそうですから、やはり今は誰も彼もが平等にスポットライトを浴びて、一時の主役になるということが大切だとされているのでしょうが、そのあたりがまたマロニエ君の理解困難な部分なのです。
スポットライトなんてものは、一握りのそれに値する人達だけが浴びるものだという認識自体が、お堅くて古くてズレているのかもしれません。むかし竹下登が考案提唱した永田町の総主流派なんてものがありましたが、今は一億総主役というわけなのでしょう。

先日さる御方が、「音楽は自分一人でやっても意味がない、それを人に聴かせるということが大事なんだ。」という言葉をさも深い含蓄ありげに発せられました。むろんその場で反論はしませんでしたが、マロニエ君はまったくそれには不賛成でした。

そういう美しげな尤もらしい言葉を鵜呑みにし盾にして、現実にはどれだけの勘違いが発生しているかと思うと、そんな言葉も絵空事のように響きました。
むろん演奏の心得として、人に聴かせるぐらいな気持ちで演奏しなくてはいけないとは思いますが、それを現実に実行するとなると、これはまた別の話でしょう。
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増幅と収束

このところ個人所有のスペースにもかかわらず、ひじょうに音響の素晴らしいふたつの場所でほんのちょっと弾かせていただく機会に恵まれて、その響きの美しさに感心させられました。

そのうちのひとつでは、音響のためのさまざまな工夫がなされており、そこには専門家の助言なども反映されているそうですが、最終的に決定を下すのはオーナー自身の耳でしょうから、やはりまずはよい耳、つまり判断力を持った敏感な耳を持つことが何よりも大切だろうと思われます。

音響の素晴らしい場所では、その響きに助けられて、ピアノなども大いにその能力を発揮するのはいうまでもありませんから、同じ楽器でも果たしてどういうところで使われるかによって、まさに運命が決まるといえるようです。

逆に、巷にあっていかがなものかと思うのは、れっきとしたピアノ店の店舗などであるにもかかわらず、音響的な配慮という点で、まったくなんの配慮もなされていないところがあるのは、なんとも腑に落ちないところです。
しかもマロニエ君はそういう場所を何カ所か知っています。

コンクリートやツルツルした石材などに囲まれた店内は、見た目はともかくとして、響きすぎる銭湯みたいな場所にピアノを並べているようなもので、音はビリヤードの玉のようにあちこちに跳ね返って暴走するばかり。とても本来の音を聴くことなどできません。
とりわけお客さんが弾いてみて音を確認する場としては、著しく不適合な環境だと思うのですが、それでも商売として成り立っていくというのであれば、なにか違った要素や事情で売れていくのかもしれませんが。

とりわけマロニエ君が個人的に感じるところでは、ピアノの音の一番の敵はガラスだということです。
もちろんガラスといってもその面積によりますが、例えば広い壁一面がすべてガラスといったような状況では、ピアノの音はことさら鋭く反射して、とてつもなく攻撃的な音になってしまいます。

ピアノの音は本体の塗料の質や仕上げによっても大きく影響を受けますが、ましてやいったん発生した音がどういう環境で鳴り響くかということは極めて重大な影響があると思われます。
ガラスや光沢のある石材はおそらく最悪で、次がコンクリート。これもかなり厳しい音になりますが、しかしガラスよりはいくぶんマシな気がします。
ただし、カーペットなどを敷いているところは、いくぶん相殺されているようですが。

福岡県内には、驚くべきことにホール内部にガラスの内装材を多用したホールがありますが、そこの響きは音楽愛好家の耳には極めて厳しいものだと言わざるを得ません。

その点、木はいくぶん良いものの、それも程度によりけりで過信は禁物だと思います。
「木は音に良い」という盲信があるのか、木のホールなどと言って、やたら木材で床や壁を覆い尽くしたような空間がありますが、これがまた必ずしも好ましい音で鳴ってはいない場合があるように感じます。
木であってもやりすぎれば音はやはり相当暴れてしまい、節度ある響きではなるということでしょう。

その暴れ方がガラスやコンクリートに比較すれば木であるぶん多少マイルドという程度の差であって、ただ音がワンワンするだけの音の輪郭も定かでないような状態でも、関係者は「木だから響きが良い」などと信じ込んで自慢さえしているような場合もあるようです。

必要なのは発音された音を響きとして増幅させることと同時に、そのあと、その音がどのように収束されるかという点にも注意を向けるべきだろうと思います。
上記のふたつはその点、すなわち増幅と収束が優れていると思いました。
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イスの高さ調整

週末は内輪の練習会に参加しました。

会場へのアクセスがひじょうにわかりにくいところだったために、各々はネットなどを使って参集しましたが、やはり心配した通り、ストレートに来られない人などもいて揃うのに少々時間を要しました。

マロニエ君はこのところろくに練習らしい練習もしておらず、さらには人前でピアノを弾くことに対する苦手意識がまたしても再燃してきていましたので、今回はピアノを弾くつもりはなく、それでも予備的に楽譜だけはちょっとバッグに偲ばせての参加となりました。

この会場の素晴らしさはすでに何度かこのブログに書きましたので敢えて繰り返しませんが、たくさんの絵画に囲まれた会場の雰囲気、さらにその響きと古い名器のピアノが醸し出す絶妙な音色は、心安んずる清澄な空間でした。
そして、空間の響き如何も楽器のうちだとつくづく思いました。

どんなに良いピアノでも、響きの悪い場所におけばその魅力は半減です。
ましてや防音室などにピアノを入れるのは、もちろん現実的な面で致し方のないことで、それを好んでやっている人はいないと思いますが、それでもやはり楽器の魅力を敢えて封じ込めてしまう、響きの面からだけ言えばなんとも残念な現実だと思います。

音響のよい空間では、ちょっとCDなどをかけても、それがべつに大した再生装置やスピーカーでなくても、出てきた音が空間の響きに助けられて、とても素晴らしい音となって聴く者の心を潤してくれますから、ある意味でこれに勝るものはないかもしれません。

この会場にはヴァージナルというチェンバロの一種ともいえる楽器のレプリカもあるのですが、その繊細な音色も、もちろんこの会場の好ましい響きもあって、意外なほど耳に迫る音色を発していたのが印象的でした。

今回ちょっと残念だったのは、このヴァージナルとピアノが同時に別の曲を弾かれてしまったということでした。
いやしくも楽器を弾く人は、楽器の音が汚い騒音になるような心ないことだけは厳に慎みたいものです。

さて、弾かないつもりでいたマロニエ君でしたが、とうとう一曲だけ弾くハメになり、まことにお粗末な演奏を披露することになりました。
そのとき思ったのですが、椅子の高さがやや気になったものの、ちょっと弾くだけのためにおごそかにダイヤルをグルグル回して高さを調整するのも躊躇われ、まあいいや…という気で弾いたのですが、これがとんでもない失敗でした。

普段のマロニエ君の椅子よりは少々高めだったのですが、慣れないピアノである上に、お尻の高さが違うというのは、猛烈な違和感となり、それで気分的にもガタガタに崩れてしまいました。
個人差もあるとは思いますが、やはり椅子の高さというのはマロニエ君にとっては予想以上に大事なことで、ここを疎かにするととんでもないことになるという、いい教訓になりました。

その点でいうと、ピアノクラブのように多人数で代わるがわるピアノを弾く場合は、背もたれ付きのトムソン椅子であるほうが高さも瞬時に変えられるので適しているようです。
昨日はあいにくダイヤルを回すタイプなので、面倒臭くてなかなか調整まではしませんでした。

自宅では生意気にもコンサートベンチを使っていますが、マロニエ君以外にピアノを弾く者はいないので、いつでも自分にちょうど良い高さになっており、それが当たり前のようになっていたこともあり、こういうちょっとしたことが変わるだけでも、冷や汗が出るほど焦ってしまいました。
とりわけ、低すぎるより高すぎるほうが個人的にダメだということを肝に銘じたしだいです。

こんなことがあると、ますます人前で弾くのが恐くなるばかりですが、そこは自分の性格もあるでしょうから、こればっかりは変えようもないので仕方がありません。
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ストラヴィンスキーのバレエ

NHKのBS番組、プレミアムシアターの7月は、4週にわたってバレエの特集が放映されました。

いわゆるお馴染みの古典バレエはほとんどなく、唯一のものとしてはアメリカン・バレエ・シアターの日本公演から「ドン・キホーテ」があったのみで、他はすべてパリ・オペラ座の新作がいくつかとかベジャールの作品など、近現代の新しいものがいろいろ紹介されました。

すべてを見たわけではありませんが、なんといっても圧巻だったのは最後のロシアバレエで、これには久々に感銘を受けることになりました。

4週目の最後を飾ったのが「サンクトペテルブルク白夜祭2008」から、ストラヴィンスキーの『火の鳥』『春の祭典』『結婚』の3作で、ボリショイと並び称せられるロシアの最高峰、マリインスキー劇場バレエ団(旧キーロフバレエ)、演奏はなんとワレリー・ゲルギエフ指揮によるマリインスキー劇場管弦楽団による、この上ないような豪華な顔ぶれでした。

その直前にやってたのが「ドン・キホーテ」で、マロニエ君は一向にこの中身のない、ただのうるさいお祭り騒ぎを舞台上でドンチャンやるだけみたいな演目が昔から一度たりとも好きになったことがありません。
よくバレエのガラコンサートのようなときに、最後のグラン・パ(グラン・パ・ド・ドゥではない)がアクロバット的な派手さから単独に踊られることがありますが、それで充分。それ以外はなんの魅力もないし、ミンクスの音楽がまたなんの芸術性もない表面的なもので、目も耳も疲れてしまいます。

そうしたら、後半が上記のサンクトペテルブルク白夜祭になり、いきなり姿勢を正したというわけでした。

まずなんといっても素晴らしいのストラヴィンスキーの音楽で、これを聴くだけでも価値があり、とても普通のいわゆるバレエ音楽ではない。
ソリストでは火の鳥を踊ったエカテリーナ・コンダウロワが突出して素晴らしく、その音楽と相まって一瞬たりとも目が離せない美しく躍動的でありながら、役が乗り移っているがごとく妖しげで、見ているこちらまでその魔力に引きこまれるような火の鳥を見事に踊りました。
ロシアにはいまだにこういう踊り手がいるのだなあとあらためて感心させられます。

春の祭典は一般的に有名なのはベジャールの演出振付による、あの男女の裸のようなタイツ姿の舞台をイメージしがちですが、オリジナルはむしろ普通のバレエよりもすっぽりと民族的な衣装で全身を覆い尽くしていて、ダンサー達の体が見えることがありません。きっとベジャールはその真逆の発想をしたのかもしれないと思いました。

音楽的に圧巻だったのは結婚で、これはレコードでは聴いていましたが、舞台を見たのは初めてでした。
30分足らずの短い演目で、とくに言うべき物語性はありません。花嫁と花婿がいて、彼らが結婚するという、ただそれだけのもので台本もストラヴィンスキーが書いています。
その演奏のために準備されるのは、通常のオーケストラに加えて、ソプラノ、メゾ・ソプラノ、テノール、バスという4人の独唱者、さらには7人にも及ぶ打楽器奏者たち、とどめはこれに加えて4台のピアノが加わります。しかもバレエ公演となると、すべて舞台下のオーケストラボックスに入れるのですから、もうそこはすし詰め状態に違いありません。
さらに、必要なのは男女のソロダンサーと、強靱なコールドバレエです。

それらが渾然一体となって、休むことなく30分近くを踊りまくり、演奏家達は演奏しまくります。
それはもうなんとも圧倒的な世界で、世にもこんな贅沢な30分があるだろうかというものでした。

ストラヴィンスキーの音楽には、今更ながらその不思議な魅力に打ちのめされました。他の作曲家なら不快感になるような和声やリズムに満ち満ちていますが、それがストラヴィンスキーの手にかかると、聴き手の本能的な何かを刺激されてくるようで、無性にわくわく興奮してくるのが彼の作曲の魔術だと思いました。

春の祭典に代表されるダ、ダ、ダ、ダという如何にも原始的なリズムが随所に出てきますが、これがいかにも野蛮なものの鼓動のように聞こえながら、その魅力に魅せられてしまうのは、ストラヴィンスキーの芸術性のみならず、人間の記憶の奥にはこうした野生がまだまだ眠っているからかもしれません。
やっぱり我慢して録画していれば、たまにはこういう拾いものがあるということです。
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掘り出し物CD

夕方から天神に出たついでにCD店を覗いてみると、なんとレジの横でCDのワゴンセールのようなことをやっていました。
ワゴンセールというだけならいつでもあるのですが、今回はさらにいろいろと珍しいものが投下されており、それらがまるで叩き売りみたいな値段が付けられていました。しかも、そこにはなかなかのレア物が埋もれていることがわかり、つい興奮してゴミ漁りのようにして6枚のCDを買いましたが、支払ったのは合計3500円強でした。

中には買った本人がいまだにどういうものかよくわからないようなものまであり、それは恐くてまだ聴いていませんが、ともかくこういう捨て値みたいな価格で、変なCDを買ってみるというのは正に宝探しで楽しいものです。

もちろん充分まともなものもあるわけで、ドイツの中堅でドクター・ベートーヴェンと呼ばれるミヒャエル・コルスティックのシューマン(クライスレリアーナ&謝肉祭)や、山本貴志氏のショパンコンクール・ライブといったものも含まれています。

山本貴志氏はわりに評判が良いらしいのですが、なぜかマロニエ君はこれまでにほとんどその演奏に接するご縁がなく、その「人々が涙する」というショパンを聴いたことがありませんでした。
ひとつには邦人CDの3000円ルール(?)のせいもあるかもしれません。

どうやらポーランドのCDのようで、バルカローレにはじまりエチュード、スケルツォ、マズルカ、第2ソナタを経て英雄で終わるというものです。
クセのない丁寧な演奏ではありましたが、ショパンコンクールにありがちな青春の燃焼みたいなものの少ない、あくまでも身につけたペースをキチンと守り抜いた、交通違反のない律儀な演奏だったと思います。

とくに日本人特有の折り目正しさにあふれた、キメの細かい美しい演奏であることは間違いないと思います。強いて注文を付けるなら、この人なりの味わいがもうひとつ欲しいところ。

きっと山本氏のコンクールにかける気合いの現れだとは思いますが、曲想にあわせて「シューッ!シャーッ!シェーッ!」という激しい吐息が入っているのが、このCDを聴いている間ずっと気になりました。
生のステージの臨場感ともとれますが、ショパンの繊細な音色が流れ出る中では、子供がプラモデルで熱心に遊んでいる時の声みたいで、あまり相応しいものとも思えませんでした。

それと、CDのどこを探しても記述はなかったものの、おそらくピアノはヤマハだと思われますが、全体に響きの固い、音の通りのよくないピアノだったことが、演奏をひとまわり小さなものにしてしまっているようで、それがとても残念に思われました。
もちろん本人が選択したのでしょうし、ダイナミクスよりデリカシーを採ったのかもしれませんが、ヤマハに限っていえば、その五年後に登場するCFXはやはり劇的変化を遂げたもんだと思います。
とりわけ中音域の発達は大変なものですが、それが全音域でないところが今後の課題という気もしますし、全体のバランスという一点においてだけなら、この時代のピアノ(CFIIIS)のほうがまとまりはいいといえるかもしれません。

コルスティックのシューマンは骨格のしっかりした力強い表現はなかなかのものでしたが、いささか音色に対する配慮が足りず、粗っぽく音が割れてしまうところがあるのが惜しい点でした。迫力は申し分ないけれども、もうひとつ愛情深さみたいなものがあればと思いました。ジャケットの写真を見るたびサルコジ大統領を思い出します。
ともかく思いがけないCDが買えて幸いでした。
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なでしこ話法?

なでしこジャパンはついに国民栄誉賞のようですが、尊敬する女性の強さと特徴に関して引き続いて感じたこと。

精神的に脆く、意気地のない男に較べると、何事も度胸があり腰の座った女性ですが、しゃべりもパワーが男とは根本的に異なるものを感じたりもします。
例によって個人差のことは考慮せず、あくまで「一般的」な話です。

多くの女性に共通して見られるのは、個人差は別としても独特の話法みたいなものがある点です。
とくに雑談のときにしばしば感じるのですが、女性はどうも一般論とか客観的な論点に立った話の進め方というのがあまりお好きではないようで、その流儀もパワーも大変なものです。

典型的な例をいいますと、例えば、こちらがひとつの話題や出来事を話すとします。
こちらとしては、その話の内容そのものをいわば議題として掘り下げたいわけで、それに関する相手の見解なり分析なりをあれこれ聞きたいという目論見なんですが、なかなかそうはいかないんですね、これが。
女性の場合(繰り返しますが一般的にです)はこちらの話を聞き終わると、それに対する言及ではなく、類似した自分の体験談とか身近に起こった似たような話を持ち出してきて、あっという間にそれをしゃべりはじめます。
そこで、こちらが提示した話とどう関連性があるのかと思って聞いていると、ほとんどそれはなく、気がつくとこちらが専ら聞く立場に交替させられてしまうのはまるで巧みな瞬間芸をみるようです。

要するに人の話から自分が着想を得て、すかさず類似した自分側の話を思いつく限り並べるたてるわけで、人の話から自分の話へと、パッと花瓶の花を差し替えるわけですね。
こっちにしてみれば、しかしそれは似て非なる完全に別個の話で、気がつくとなんだか話の目的が変わってしまっているのです。

しかし、相手のそんな違和感など眼中にもない様子で、話はそこからさらに飛躍していよいよ関係ない話題に発展するのは、テーマの基軸がどんどんズレるというか、脱線に次ぐ脱線ですが話じたいは延々と続く。だいたい女性との会話はこうなる場合が少なくないので、このあたりは諦めるより外にありません。

とはいっても、べつに聞かなくてもいいような、どう考えてもその場には必要とは思えない話をいかにも対等にもってこられるのはやっぱり変な気分で、何度か話を元に戻すような努力をしてみたこともありますが、いやあ、とてもじゃないけどかないません。
だいいち、向こうは話が逸脱しているなんてまるで思っていないわけで、むしろ会話は盛り上がっているぐらいの認識のようです。こういうタイプは話は飛んでも、おしゃべりそのものにはガンと腰が座っていますから、少々の抵抗ではビクともしません。このあたりも絶対に男がかなわない部分。

つまり他者から与えられたテーマに沿って話を進め、そこから逸脱せずに内容を掘り下げていくのではなく、人の話を単なるヒントとして、類似したネタを瞬時に脳内で検索し、自分が話す側となってそれをいくつも並べないと気が済まないんでしょうね。
マロニエ君などは、ひとつの話題に対してさまざまに観察して事の真相や核心に迫るのが楽しいわけで、喩えるなら話の海に深く潜って中の様子を見たり調査したり分析したいわけですが、この話法では水上バイクで水面をぐるぐる豪快に旋回しているに過ぎません。

音楽に喩えると、主題と変奏のようなものですが、すぐに主題を外れて別の曲になってしまうといったところでしょうか。

そういうわけで、こちらも少々のことなら聞いてますが、さすがに見たことも会ったこともないその人の友人知人・親兄弟、さらにそのまた先の人の話をいくら滔々と語られても、そこまで興味が続かなくなるので、そんなときは沈黙で会話が続かないよりマシだぐらいに思って、終わるのを待つのみです。

さらに感じることは、このタイプは、とにかく話は「聞く側」ではなく、あくまで「聞かせる側」「しゃべる側」「話を提供する側」じゃないと楽しくないというのが根底にあるようです。

圧倒的に女性に多いタイプですが、ごく少数、男にもいないこともないんですよね…困ったことに。
しかし昔から言われているように「話し上手は、聞き上手」なのですから、まずは聞き上手になりたいものです。
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ショパンの椿姫

NHKのBSで、7月はモダンバレエが毎週のように取り上げられ、先週の演目のひとつにはパリ・オペラ座バレエ団の新作で「椿姫」というのが放映されました。
公演自体は2008年の7月でパリ・オペラ座のガルニエ宮で行われたものを収録したものでした。

名前は椿姫でも、音楽はヴェルディではなく、なんと全編にわたってショパンの作品が使われているというのが意外な点で、果たしてどんなものか見てみました。
振付・美術・照明はアメリカ出身の振付家ジョン・ノイマイヤーによるもので、同時に放映された「人魚姫」も彼が手がけたものですが、正直言ってマロニエ君は全く感心できない主題のない作品でした。

ノイマイヤー自身、ダンサーの出身で、男性舞踊家で振付家になるというのは決して珍しいことではなく、アメリカバレエの礎を創ったジョージ・バランシンや、ロシアでもボリショイやマリインスキー劇場のバレエ団の歴代の監督は、大半がダンサー出身であるし、あのルドルフ・ヌレエフもロイヤルバレエやパリ・オペラ座バレエでしきりと振付などをやっていましたから、これは野球選手が監督になり、力士が親方になるようなものかもしれません。

この「椿姫」でのジョン・ノイマイヤーの振付は、あまりコンテンポラリーなものではなく、あくまでもクラシックバレエの動きを基軸に置いているのは見ていてホッとさせるものがありましたが、いかんせん感心できなかったのは、「椿姫」のような陳腐かつ前時代的な題材をいまさら新作バレエに取り上げるという発想と、しかもその音楽をショパンにしたという点でした。

開幕からしばらくは、舞台上の人々があちこちに動き回るばかりで、まったく音楽がありません。
これが何分も続いた後に、舞台下手に置かれたピアノを、これも扮装をした一人がしずかに弾きはじめることで、音楽がようやく始まります。
オペラでいうところのヴィオレッタはすでに病没しており、その肖像画が舞台中央に置かれている設定ですが、それを慈しみ思い出すように開始されるはじめの曲がソナタ第3番の第3楽章の再現部の部分でした。

このバレエはピアノのソロだけで行くのかと思うとそうではなく、ほどなく第2協奏曲がはじまり、それに合わせて舞台上ではさまざまな踊りや劇の進行が速度を増して進行していくのでしたが、まず声を大にして言いたいこのバレエの最大の問題は、バレエとショパンの音楽がまるで噛み合っていないことでした。

ショパンの音楽というものは、手の施しようがないほどそれ自体が圧倒的な主役でしかなく、いかなる場合もバックに使われる類のものではないということがひしひしと伝わり、あくまでも聴くための作品であることがいまさらのように痛感させられました。
映画などで断片的に使ったりする場合には効果的な場合もあるかと思われますが、こうしてバレエ全体の音楽として使われるのはまったく不向きで、ステージと音楽が齟齬を生むばかりで、両者が溶け合い手を握ることはありませんでした。
ショパンのあの気品ある眩しいような音楽が流れ出すと、バレエとは関係なしに耳がそちらに集中することしか出来ず、それに合わせてやっているバレエが、悲しいほどに無意味でなんの必然性もない空虚なものにしか見えませんでした。

第2協奏曲はついに全楽章演奏され、その後もワルツやプレリュード、休憩後には普段演奏会では聴かないオーケストラ付きの作品であるポーランド民謡による幻想曲などがはじまりましたが、ついに見続けるエネルギーが尽きてしまい、最後まで見通すことはできませんでした。

ショパンとバレエで唯一成功しているのは、有名な「レ・シルフィード」だけだと思います。
これには物語性がなく、音楽もすべてバレエに適するよう管弦楽用に編曲され、ゆったりとしたテンポで流れる中を、古典的な白の衣装をつけたダンサー達によって繊細優美に踊られる幻想的なもので、これは稀な成功作だと思われます。

さて、「椿姫」で使われたピアノはフランスでは珍しくスタインウェイのB型でしたが、やはり大劇場で聴くにはやや力不足という印象が否めませんでした。全体的な音はそれなりでしたが、やはり小さなピアノ故か大きな舞台で鳴らすには基礎体力が不足し、響きに底つき感みたいなものが出てしまうのが残念でした。

オペラ座バレエの素晴らしい点は、ロシアバレエとは一線を画する垢抜けた個性を持っている点と、このように常に新作の演目に取り組んでいることでしょう。あの有名な春の祭典のスキャンダラスな初演もマロニエ君の記憶違いでなければこのガルニエ宮だったはずです。それだけにこのような失敗もあるということですが、それよりも新しいものを作り出すというこのバレエ団自体が持つ創造的な活力には敬意を表したいと思います。
フランスの誇る世界屈指のバレエ団であることは異論を待ちません。
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諦観

山田洋次監督の「母べえ」を観ました。
ただ何気なく、どんな映画かも知らずに観ました。

文学者である父が思想犯として捉えられ、母と祖父はそれがもとで絶縁。
父の若い教え子がなにかにつけ母と二人の童女の世話を焼いてくれますが、やがて彼も赤紙が来て出征。
さらに開戦後間もなく父は釈放されることのないまま拘置所で絶命し、終戦間際その妹は原爆でなくなり、親戚のおじさんも吉野の山で亡くなり、主役級であった教え子も南の海で戦死する。

そして最後には母が老衰で亡くなるというもので、見終わった直後は、なんともオチのない平坦なばかりの映画だったように思いましたが、しかし人間にはこれだというべき華々しい報いだの逆転劇だのというものは、そうザラにあるものではなく、要は諦めが肝心だということを知らされたような気がしました。
生きるということは困難や悲しみの連続で、言いかえれば自分を痛めつけるということなのかもしれません。

人は生まれて、生きて、死んでいく、ただそれだけのことで、別に大層な事じゃない、それが人間だというごく当たり前の冷徹な現実を、そっと鼻先に突きつけられたようでした。

たかだか一本の映画を観たからといって、その気になって、達観したようなことを言いたてるものではありませんが、なんとなく肩の力が抜けたような気がしたのは事実です。ことさら肩に力を入れていたつもりもなかったのですが、より明確に、人の世の現実を認識できた気分です。

人間は際限もなく生まれ、際限もなく死んでいくという、動かし難い事実。
あくせくしたところでどうなるものでもない、そこにほどよい見切りを付けながら、しかし命ある限りは懸命に真面目に、そして愉快に生きるということが人たるものの品性であり努めなのだろうと思います。

現代は諦めるということをやたらと敗北者であるかのような言い方をしますが、際限なく欲にかじりつき、分不相応の幸福追求に明け暮れ、野望の虜になることのほうがよほど恥ずべきことで、それにひきかえ諦めることは数段上等の人間性を必要とする美徳ではないかと思います。

見ていて昔の人は、貧しい暮らしをしながらも、人間としての徳が備わり、心ばえがあり、現代人のような動物的な欲の猛者でないところがなんとも新鮮で、目にも美しく映ります。
これを昔の人は偉かったというのは簡単ですが、必ずしもそうとばかりは思いません。
昔の人がことさら偉いことをしようと思っていたのではなく、みんなが自然に普通にそういうふうに生きていただけだと思います。

忘れもしない三年前、ある年輩の夫婦と話をしたときに、夫人のほうが言われたことは今でもマロニエ君の心に深く残っています。
「むかしはみんなが貧乏で、それが当たり前だと思っていたから、辛いと思ったこともないし、何ともありませんでした。楽しかった。」と。そして、今のほうがなぜかたいへんだという意味のことを言われました。

裏を返せば、みんなが豊かになって、同時に貧しくなったということです。
なんでもかんでも不満ばかりで、いい目にあっているのは他人ばかりで、毎日が不安とイライラの連続です。

ケイタイもパソコンも、車もエアコンも、なんでもかんでも、そりゃあいったんその味を覚えたら逆戻りは出来ません。
しかし、それを自分が知らない状態の時代に逆戻りできるというなら、マロニエ君は本気で戻ってみたいと思うこのごろです。

こういう考えをもって、マロニエ君の今年のお盆は終わりました。
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虫の知らせ?

ほとほと暑い毎日が続きますね。

お盆の初日、お寺に行って、寺内の墓所へまわったところ、その尋常ではない暑さに「衣類乾燥機の中ってこんな感じだろうか…」なんて朦朧としながら思いました。
ずっとそこにいたら、間違いなく救急車に乗るハメになるとも思いました。

聞くところによると、巷では蝉が鳴かない、虫がいない(あるいは少ない)といって、これが大変な話題となっているようですが、本当にそうなんでしょうか?

定期購読している月刊誌のコラムでもその事に触れてあり、関東ではこれがかなりまことしやかに人々の間で囁かれているようです。

例えば車で箱根のターンパイクなどに行くと、例年のこの時期なら、美しい蝶を含むあらゆる虫が走る車に衝突してきて、たちまちガラスやフロント部分などは虫の死骸だらけになるはずなのに、今年は少し様子が違うというようなことが書かれていました。高速道路然りです。

雑誌が書店に並ぶのは、詳しいことは知りませんが、月刊誌の場合、おそらく文章を書いた時点から数週間は経ていると思われますが、その文章によると東京ではやはり蝉の声がしないことを、たいそう深刻な調子で綴られていました。
蝉はもちろん、蚊までもが激減しているというのですが、ホントだろうかと思います。

そういえばひと月ぐらい前だったか、マロニエ君の友人も蝉の声がしないらしいということを尤もらしく言っていましたが、現在は毎日朝から、例年と変わりなく蝉の大合唱でうるさいぐらいだし、我が家の玄関先には蝉の抜け殻があちこちにへばりついているくらいですから、まあそんなに心配することはないのでは?という気もしています。
というか、心配してみたところで、現実にはどうすることもできませんけれど。

いうまでもなく虫の減少に対する心配は、放射能汚染のあらわれだとする説を立証する論拠のひとつになっているもののようで、わかっている人はすでに自衛のための行動を密かに起こし始めているとか。
じっさい、その雑誌によると執筆者の知人はラジオのパーソナリティーをやっていて、自分の番組をもっているにもかかわらず、子供を連れて近く東京を脱出する決心を固めたのだそうです。

これが事実に基づく正しい行動なのか、はたまた情報に踊らされた過剰反応なのか…マロニエ君にはわかりません。

真偽のほどはともかく、過日、関東人のことを書きましたが、どうも関東の人達というのは危機感に対する反応の仕方もずいぶんと大げさというか敏感すぎるようで、やはり日頃の過当競争の習性ゆえだろうかという気もしなくもありません。
我こそは、いちはやく情報をキャッチしてすかさず行動することが自分に利益をもたらし、最終的には我が身を守ることにも繋がるという、競争原理的経験的法則?を体内にもっているのかもしれませんね。

ちなみにその雑誌のコラムにあったのは既婚者の女性で、なんと仕事と夫を東京に残して、4歳の子供とふたりで石垣島に避難するらしいのですが、避難というならなぜダンナさんがそこに含まれていないのかが理解に苦しみますけどね。

少なくとも、マロニエ君だったらこういう考えは御免被りますし、実際にそれほど深刻な状況が事実と仮定しても、夫や係累を見放して、母子ふたり住み慣れない島で生き長らえたところでなんになるのかと思います。
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迷惑メール

一時期おさまっていたヘンなメールが最近また届きはじめています。
いわゆる出会い系のような怪しいサイトからですが、なんだかずいぶんと金銭まで絡んだもののようで、そのいかにも悪辣な雰囲気は見るだけで嫌気がさします。

あらためて言うのもなんですが、マロニエ君はその手のことには一度も手を出したことはなく、なにひとつ身に覚えがないのですが、やはりどこからか個人情報が漏洩しているということ以外に考えられません。
出所さえつきとめられないのが、なんとも悔しいかぎりです。

この手の悪徳メールは、一通来たら終わりで、その後はカタチを変えながら見るだけでもおぞましいようなものがぞくぞくと送り付けられてきます。
パソコンの専門家によると、こういうメール発信は人がやっているのではなく、機械的に際限もなく送り付けるようなシステムがあるのだそうで、とんでもない迷惑です。

もちろん、読みも開きもしませんが、削除する際に目に入る部分というのはあるわけで、それによると手口は一層巧妙化というか悪質化しているようで、個人のお姉さんから直接メールが届いているように写真入りで応答を呼びかけてくるのもから、何十万から百万単位の大金に当選されました!というようなお祝いを装ったメールがひきもきらず届きます。

笑ってしまったのは、それだけの大金をなぜ受け取らないのか?というような不平めいた文言もチラッと見えたことがあったりして、こんなことを本気にするような今どきまだいるのだろうかとも思ってしまいますが。
さらに新しい手口だと思われたのは、金額は知りませんが、入会金だか会員資格だかの「ご入金を確認しました」というもので、払ってもいないものを入金確認ができたなどと言い立てることで、そこから人の関心を呼び込もうかという手口のようにも受け取れます。

たかだかメールといえばそれまでですが、こんなゴミみたいなメールの山を削除しているうちに、間違って大事なメールまで消してしまう危険性もあるわけで、メールボックスを開くたびに目にしなくてはいけない精神的嫌悪を思うと、これは内容からしても、もはやれっきとした犯罪だと思います。

さすがのマロニエ君もこんなメールで警察に通報するのもどうかと思い、いまのところは静観しています。
そうそう、ひとつ「送信停止」という文言があったので、一度だけそこを開いて「大迷惑だから直ちに停止するよう」申し入れましたが、なんと返事が届いて「機械的に停止の処理をするのに10日ほどかかりますのでしばらくお待ちください」とありました。
停止に10日なんていうのも疑わしいし、どうせウソだろうと思いますが、様子を見て対策を考えるしかありません。
まったく不愉快なことですし、漏洩した会社がわかれば責任を取ってほしい気がします。

以前、同様のことがあり困っていたところ、とある印刷会社からメールが来て、そこの管理ミスで情報が漏れた旨の説明と、何通にも及ぶ経過報告と詫び状のようなものが届き、しばらくしたらそれらはきれいになくなりましたので、やはり本気で対策を打とうと思えば打てるらしいことはわかりました。

ところが、今日はふっつりとそれが来なくなりましたから、やはり発信元は一箇所のようです。
申し入れが功を奏してめでたく停止してくれたのか、それともこんな怪しげなメール送信にも人並みに「お盆休み」があるのかと思うと、ちょっと可笑しくなくもありません。
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関東人

関東に引っ越しをしていった友人から聞いた話。

この友人は新しい家にグランドピアノを運び込んだのですが、過日はじめての調律師さんがやって来て、長旅のあとの初の調律作業がおこなわれた由でした。

いきなり笑ってしまったのが、マロニエ君も久々に聞く関東人のあいかわらずな様子でした。
マロニエ君自身も学生時代から8年間関東で暮らしましたので、おおよその関東人の特徴みたいなものは知っているつもりでしたが、久しぶりに聞くその様子には、なにやら時代とともにますますパワーアップしているのでは?と思ってしまうようなものでした。

まずいきなり友人が…ン?と思ったらしいのは、初めての電話のとき、用件が終わっての切り際に、わざわざ「これからプロのピアニストのところで打合せをしなくてはいけませんので、それでは」と言ったそうで、ここでまず最初のチェックをされてしまったようです。マロニエ君も嫌な予感がしつつもとりあえず失笑してしまいました。
電話を切ったあと、その人がどこに行こうと関係ない事なのに、「プロのピアニストのところで打合せ」というところが、この方なりの、まず手始めの自己アピールだったようです。

調律当日も、その顛末というか話の内容を聞くと、呆れて腰がクニャクニャになりそうでした。
どんな話の流れかは知りませんが、その方は自分のホームページは持っていないとのことで、普通はホームページなんてあればある、ないならない、ただそれだけのことですが、そこにもちゃんとした理由があるらしく「自分で作ると良いことしか書きませんから…」「ホームページがなくてもちゃんと人が評価してくれる」などと、さも謙虚で真っ正直な直球勝負の人のようにおっしゃるそうです。

また、自分は今もとても忙しいが、昔はさらに正月など芸能人の登場するような仕事もあったから大変だったが、それが不景気でなくなったお陰でようやく正月三が日が休めるようになったとか、現在は1000人!ぐらいのお客さんがあるなどと、こういうことを来宅してわずか2分以内ぐらいで一気に言い出されたそうです(笑)。

作業時間を含めて、わずか2時間ほどの滞在だったようですが、そんな中にもご自慢トークのあれこれが惜しげもなく連発だったようで、そりゃあなにより精神的に忙しいはずだと思われます。
また、自分がいま支援しているミュージシャンというのがいるらしく、その人は将来必ず大ブレイクするとかで、チケットまでしっかり売りつけられたというのですから、いやはや…。
曰くチケットは「僕は信用があるから、200人ぐらいのコンサートでも声をかければ50枚ぐらいはすぐに売れますから」とのことです。

で、自分のホームページでさえ不要だと言ったわりには、このミュージシャンのホームページに自分の事が出ているのはよほど嬉しいのか、とにかくそこを見て欲しかったらしく、その場でパソコンを開かされ、自分が出てくるページまでしっかり案内されたそうです。
関東人のこんな矛盾は指摘するとホントに際限がないんですが、彼らと仲良くやっていくためにはそのあたりはプライドも絡んでいることなので、敢えて突っ込まないであげることが大事な点なのです。
きっと自分のホームページも本心では欲しいけど、作るとなると大変だし、いまさら出遅れたと思っているのかもしれませんね。
もうこれ以上は控えますが、仕事で来ているのにどことなく意地悪に思える言葉や瞬間もポツポツあったとか…。

まあ、大なり小なり関東人というのはこういう体質が身に付いていて、さりげない会話の中にも、自分が相手に聞かせたいフレーズはしっかり組み込んであって、さも自然に、水が流れるようにさらさらと自慢しまくるのは常識なのです。
毎日のすべてが戦いとやっかみとホラとつっぱりの連続で、とっても気の毒なんです。
ただし、ここで言っているのは、関東人とはいっても、いわゆる先祖代々の地つきの人達というよりは、主には本人もしくは親などが田舎や地方の出で、現在は事情があって関東暮らしをしていて、日夜その荒波をかいくぐって生きている大多数の人のことです。(この調律師さんがどうなのかは知りませんけれど。)

はじめからみんながそんな気質だったとは思いませんが、関東という人の欲の海のような厳しい環境の中で暮らして行くということは、否応なく激しい競争条理に巻き込まれ、動植物が環境に適応するごとく、この荒海に呑み込まれないよう虚勢を張りながら生きる術が身について、ついにはこんなトークが口を開けばオートマチックにできるようになるのでしょう。
例えばその中心地である東京、ここにはたしかにすごいものがたくさんありますが、同時に過当競争も激烈で、最先端で飛び回っているような一握りの人はいいのかもしれませんが、普通の人のごく平凡な生活レベルという点ではかなり疑問があると思われます。

マロニエ君が人から聞いた話で呆れてしまったのは、ある人が言うには「東京に較べると福岡は何かと出費が嵩んで困る」とぼやいていたとか。
えっ?生活費が嵩むのは東京では?と思っていたらそうではなく、本気で倹約して切りつめた生活をするとなると、本当に安いものがあるのはこれもまた東京なのだそうで、福岡などはその下限が甘いからダメだというものでした。
思わず唸りましたが、これもまた関東という地域の地盤の厳しさを表しているように思いました。
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SサイズLサイズ

昨日に引き続いた内容になりますが、プロのピアニストの演奏の見た目というものは、単純な体格差においても言えるような気がしました。

マロニエ君は昔からある方の演奏会にお義理で行かなくてはいけない立場にありましたが、その方は教育界の功労者ではありましたが、ピアニストとしてはそれほどでもなく、しかも極端なあがり性で、さらには体格が小柄と来ているので、演奏会ではいつもハラハラドキドキで、そんなときのステージ上のピアノは残酷な黒い怪物のように大きく見えたものでした。

この経験から、ピアノが大きく見えるときの聴く側の苦しみというのもずいぶん刷り込まれていたようで、いらいマロニエ君はあまりにも小柄なピアニストがステージで演奏するのは、まるで子供が座布団を敷いて車を運転しているみたいで、不安感が先行するようになりました。

小柄なピアニストはそれなりに名を成した人であっても、体格からくる制限があるのか、出てくる音もきつい感じであまり好みではないし、音楽もどうしてもスケール感のないものになってしまいます。
以前にショパンコンクールで優勝したポーランド男性も、一定のファンはいるようですが、どうも今以上のピアニストに成長していく予感がしないというか、体格からくる制限みたいなものがあるように思います。

逆に、あまりにも大柄な男性、見るだけで圧倒されるような偉丈夫がピアノを弾くのも、これもまた見ていてあまり心地よくはありません。
こちらは名前を出してもいいかもしれませんが、子供のころに行ったクライバーンのリサイタルなども、まずステージに現れたときからその長身ぶりに驚かされましたし、演奏中も膝が鍵盤下につっかえているのが気になって仕方ありませんでした。なにしろこの体格ですから、フォルテッシモともなると肉眼でもピアノが小刻みに揺れているのがわかるほどで、一夜の見せ物としては面白かったけれども、純粋にピアニストとしては疑問も残りました。

現役でもベレゾフスキー、ブロンフマン、エリック・ル・サージュなどは、演奏の良否はさておいてもなんだか見ていて、いかにもピアニストがXLサイズという感じで、どうしても大味な印象が否めません。

いっぽう女性ピアニストでは、上半身の肌もあらわな衣装を着て演奏する方も少なくありませんが、女性の目から見るとどうなのかは別としても、あまりに痩せこけた腕とか肩の骨なんかがゴツゴツして皮膚の下で動いているような人は、やはりどうしても演奏家としての見栄えがいいとは思えません。ついでながら、あまりに化粧やヘアースタイルや衣装がキマり過ぎなのも逆効果となり、演奏家としての品位に欠けるような気がします。

ピアニストではありませんが、指揮者でも身長はそれほどではない痩身の小澤征爾などは、よく練り込まれた鮮やかで細緻な指揮はしても、どこかその姿と同じで幅広いスケール感というものが不足しがちですが、その点では過日ベルリンフィルにデビューした佐渡裕はその長身と堂々たる体躯そのもののように、音楽にも厚みと腰の座った雄渾さがあり、安心して彼の音楽に身を委ねることができたように思います。

このように、音楽には演奏者の体格が直接・間接にもたらす何かが必ずあるような気がします。
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視覚的要素

楽器と演奏者の間には、傍目に不思議なバランスというものがあります。
バランスといってもさまざまな要素がありますが、ここでいいたいのは主に視覚的な問題です。

先日もある日本人の人気女性ピアニストの弾くコンチェルトの映像を見ていて、なんというか構図としての収まりの悪さを感じてしまい、どうにも違和感を拭うことができずにいる中、あることを思い出しました。

何年も前のことですが、東京のある有名なピアノ輸入元の看板調律師の方といろいろ話をしているうち、なるほど一理ある!ということを言われたことを思い出しました。
それはプロのピアニストに関することでしたが、ステージ上で演奏しているときに、ピアノが大きく見える(感じる)ピアニストは、概して余り上手くない、実力不足の人だという一種のジンクスでした。

彼が言ったのは体格の問題ではありませんでしたが、要するに、ピアノが大きく見えるというのはそれだけピアノを十全に弾きこなすことができていないために、むやみに格闘することになり、演奏に苦労が滲み出てしまって、それがピアノを大きく見せるものだという意味の話でした。
ひと言でいうなら、人間がピアノに負けているということになるでしょうか。

実に納得のいく話でしたし、だいたい目をつり上げてピアノと格闘するように弾く人は、どうしても人間ばかりが空回りしているように見えるからピアノが大きく感じてしまうのだろうと思います。

とくにある時期の日本の女性ピアニストの中には、全身に悲壮感が漂い、表情もひどくこわばりながら、ちょっと荷が勝ちすぎるような大曲などを、まるで我が身を苛むようにして必死に弾く姿が珍しくありませんでした。
こういう人が弾くと、楽しげな明るい曲でも、どうしようもない暗さが影を落としてしまいます。
いかにも小さい時分からピアノこれ一筋に生きてきて、ピアノ以外のあらゆる事を犠牲にしてここまで来ましたという、その人の努力と苦しみの半生が負のオーラとしてあたりに漂うのですが、こうなると音楽を楽しむというより、その人の精一杯の演奏が、ともかくも無事に終わって、お互いにそんな時間から開放されることを願いつつ聴いている自分に気がついてしまいます。

こういうとき、本当にピアノは無情な大きさを感じます。
そしてそのピアニストのがむしゃらな一生懸命さに、なんだかピアノまで同情して困っているようにも見えたりするから不思議です。

ところが、このタイプは近年わりに減ってきたような気もしています。
男女の区別なくみんなわりあいに熱血努力的な雰囲気がなくなり、比較的すんなりと調和的にピアノを弾いているように感じることも少なくありません。これは昔の努力一辺倒の甲子園的な練習地獄から脱却して、合理的なメソードの発達によって効率よく育てられるようになったからだと思います。

ただ、楽々と弾くのは結構だけれども、表現まであえて無理のない枠内に音楽を収めてしまう傾向があり、そのぶん出てくる音楽のテンションまで下がってしまって、いちおうきれいな曲の形にはなっているものの、聴いていて一向に聴きごたえのない、キズも少ないけれども無機質な演奏に終わってしまうのが残念です。

音楽には、感情の奔流や詩情の綾、なにかがギリギリのところまで迫ってくるような訴えかける要素がなくては意味がありません。
心の内側を垣間見るかと思えば、打ち寄せる波と波が激突するような、そういう生々しい迫真性がないまま、こぎれいにまとまったきれいなだけの音楽など、聴いてもなんの面白味もありません。

あまりに無理のない指さばきで淡々と弾かれるのも、見ていてこれほどつまらないものはありませんし、演奏者が今そこでやっている演奏に本気で燃焼している白熱した姿が欲しいものです。
ピアノとやみくもに格闘ばかりするのはもちろんいけませんが、あまり仲の良すぎるお友達というのも大いに問題かもしれません。
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こんなのあるよ

ホームページにコンサート情報のコーナーを作るため、久々に夜中などに情報の入力作業をしていると、なんだか妙になつかしい感触を思い出しました。
すでに一部の方はご存じかもしれませんが、マロニエ君は白状すれば、数年前に友人と「こんなのあるよ」というコンサート情報誌を発行していたことがありました。

ほうぼうからありとあらゆる手段によって集めた情報を、片っ端からパソコンへ入力していく地道な作業をしていた頃のことがふと思い出されてくるわけです。

このコンサート情報誌はどこからのひも付きでもない、もっぱら聴衆の側に立ったクラシックのコンサート情報誌で、福岡県内をその対象エリアとして毎月発行し、情報としてあがってきたすべてのコンサートを開催日順に一斉に並べたものです。
ここではアクロスでやる有名オーケストラの演奏会から、街角の喫茶店で行われる小さなコンサートまで、すべて同じひとつのコンサートとして取扱い、なんの差別もなくこれらを網羅的にコンサート情報として書き連ねたものでした。

毎月、向こう二ヶ月の情報を満載して発行に漕ぎつけるだけでもヘトヘトになる作業で、しかもこれは無料配布でしたから、収入は広告収入がそのすべてで、ずいぶんたくさんの方にお世話になりましたが、金銭的には印刷会社への支払いと、配布するためのガソリン代など必要経費を差し引くと、もういくらも残らず、常に逼迫した厳しいものでした。

原稿の取り纏めから入力、広告取り、仕上げ、印刷、県内への配布などをすべて我が身を削ってやっていましたから、金銭的にはもちろんのこと、時間的、体力的、精神的すべてにわたってなにかを使い果たした感がありました。

これをやっているときの時間の経つのの早いことといったらなく、やっと原稿を仕上げて印刷にまわし、県内各所に配布を終えたかと思うと、すぐに次の号にとりかからなくてはいけません。
情報は自分達で集め、網羅することが目的なので、もちろん無料掲載、無料配布でしたが、広告取りはなかなか思うに任せない仕事ですし、これをやっている間は盆も正月も無関係、当然ながら旅行にも行けないという有り様でした。

ただし、嬉しいことには「こんなのあるよ」はごく短期間のうちに多くの人達に受け容れられて広く浸透し、少なくない支持者を獲得したのはまったく望外のことでした。ついにはこの情報誌を手にあちこちの珍しいコンサートに行ってみるという、少数ではありますが、ひとつの行動様式まであらわれるに至ったのはさすがの我々も驚きましたし、さらには本来聴衆のものであったはずの「こんなのあるよ」が、音楽事務所や演奏家など、多くの音楽業界の人達の間でもひじょうに重宝がられたことは、いま思い返してもがんばった甲斐があったというべき誇れる部分でしょう。
最盛時は、チケットぴあやヤマハなどはもちろん、どこのホールや公共施設に行っても「こんなのあるよ」は必ず置いてありましたし、コンサートに行っても開演前や休憩時間に、熱心にこの情報誌を見ている人をポツポツ見かけるのは決して珍しい光景ではありませんでした。

しかし、もともとが無理を承知ではじめたことでしたから、次第に疲れが嵩み、本業のほうへまで支障が出るに及んで、これ以上続けていると自分達のほうが空中分解することを悟って、ついには廃刊する決意をしました。
2003年3月から2006年5月までの3年余り、約40号を福岡県内のあらゆる音楽関連施設や公共施設などに送り出しました。

その後は広告主の一人でもあった情熱ある方が、この志を引き継いで類似した情報誌を規模を縮小しながら発行されましたが、やはりこちらも残念なことに現在は廃刊となっています。そもそもこういう仕事は個人レベルでできるようなことではないので、もっと大きな組織体によって余裕を持って安定的に発行すべきものだというのが率直なところです。

しかし、自分で言うのもなんですが、ひじょうにわかりやすい、実践に役に立つ情報誌だったと今でも思っていますし、それにひきかえ、今どきはあってもなくてもどうでもいいようなフリーペーパーの類がなんと多いことかと思います。
考えてみれば「こんなのあるよ」がなくなって一番困ったのはマロニエ君自身かもしれません。
そんなわけで、規模の点では遙かに及びませんが、HP内にコンサート情報欄を作ることで、わずかなりとも情報の整理と確認ができたらと思っていますし、「こんなのあるよ」をご存じの方はそのDNAを引き継ぐものと思って見ていただければ幸いです。
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HPマイナーチェンジ

この「ぴあのピア」というホームページを作って約20ヶ月を越えました。

ホームページを作ってという言い方にも実は語弊があり、そのホームページそのものが「ピアノの雑学クラブ」というものを目指しているわけですが、マロニエ君の現在置かれている状況からはなかなかこのクラブに専念してこれを立ち上げ、軌道に乗せるまでの余裕がないのが実情です。
とりわけ「ピアノの雑学クラブ」というコンセプト自体がひじょうに微妙で難しい、つかみどころのない性質があり、ただ単純に人集めをしてさあ出発!というわけには行かないために、いわばクラブの進水式そのものが遅れに遅れているわけです。
こういうわけで、開設以来の開店休業状態をいまだに更新しているという甚だ不名誉な記録を更新しているわけで、なんともこの点はお恥ずかしい限りです。

正直を言うと、それよりも少し前に入会したピアノクラブの定例会に参加して、そこで毎月わずかばかりの小品を弾くだけでもマロニエ君のような根性ナシの怠け者からすれば、たいへんなエネルギーを要することで、そちらに参加するだけでも慣れない練習などをしてゼエゼエいっていたわけです。

さて、肝心のぴあのピアはというと、積極的なクラブ員募集などもしていないにもかかわらず、なんとも嬉しいことに十数名の方がご入会くださり、その皆様各人の情報をメンバー紹介として掲載していたことは、以前からこのHPをごらんいただいた方ならご存じのことと思います。
実名ではないとはいうものの、これは匿名による一種の個人情報という見方もできるわけで、このぴあのピアが活動状態にあって、その上で掲載に同意していただけるのならまだしものこと、それもないまま、ただ個人の好みやらなにやらをこれ以上やみくもに掲載し続けることは、まことに申し訳なく、またいつどのようなご迷惑をかけるかとしれぬと思うと、どうにも忍びがたい気持ちになりました。
そういうわけで、クラブ員の方からはこれまで有難いことになにひとつクレームをいただいたわけではありませんでしたが、熟慮の末、ひとまずこのページを取り下げることにしました。
もちろんクラブ員の皆さんには、ご異存がなければそのままご在籍願うことは言うまでもありません。

さて、その代わりというわけではありませんが、以前から追加しようかと目論んでいた「コンサート情報のページ」を新設しました。
というのは、せっかくコンサートの情報を得ても、チラシがあっても、いざ必要なときにそれはなかなか出てこないものですから、なにか決まった場所に書き留めておくという目的も兼ねて、コンサート情報としてマロニエ君自身はもちろんのこと、もしかしたら皆さんのお役に立つのでは?という思いもありました。

コンサートというのは、よほどの目的や熱意がない限り、すぐに忘れてしまったり、気がついたら終わってしまっていたりと、意外にその情報把握が難しいものなのです。
前々からよほど狙いを付けて行くコンサートは当然としても、時にはふらりとその気になって、なにか自分に都合の良いコンサートがあれば行ってみようかという出来心的な側面も大いにあるわけで、そんなときにいちいちチラシの束を抱えている訳でもなし、さりとてホールのHPなどを必死になって調べる気もしない、そんな気分というのがマロニエ君にはよくあるのです。

だいいち特定のホールのHPでは、当然ながらそのホールに限定した情報しか得られず、だからといってあちこちのホールを跨いで本格的に調べるとなると、これはもう立派な仕事になり、しかも思うような結果が得られないことがこれまでの経験で知っています。

そういうときに、開催日順で書き連ねたコンサート情報があれば、一発で、いつどこで何があるかがとりあえずわかるというものです。

これを作るために、久しぶりにヤマハやチケットぴあなどのチラシ置き場から、あれこれのコンサート情報を頂戴してきましたが、へんてこりんなものもずいぶんあり、これは幸いにも情報誌ではないので、あくまでもマロニエ君の主観による取捨選択をして掲載しています。

個人で気ままに得られる情報ですから、むろん限界はありますが、できるだけこれからはいろいろなコンサート情報にも敏感になって、面白そうなコンサート情報を掲載していきたいと思いますので、お役立てくだされば嬉しい限りです。
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キレイゴト汚染

「一人でも多くの人に元気があたえられたら…」「少しでも笑顔が取り戻せるなら…」

こんなコメント、昨日もまた新聞で見てしまいました。
キレイゴト真っ盛りの日本列島ですが、とりわけ3月の東日本大震災いらい、この手のセリフは飽きられることもなく日本全国のありとあらゆる機会に発せられているようです。
こういう、いかにも実のない言葉の横溢の中で、殊勝な顔をして過ごして行かなくてはいけない現代人は、毎日が偽善にあふれ、だから人の心にも必要以上に闇が生まれ歪んでくるようにも思います。

もちろん、その言葉が本当に適切で妥当な使いかたをされるのならば構いませんが、マロニエ君の印象としては99%不適切な使い方をされているようで、この種の言葉を聞くたびにウンザリします。
また感性の点においても、このようないかにも独創性のない、紋切り型の便利語を撒き散らしているうちは日本は本当の幸福を手にすることは出来ないように思います。

被災地から遠く離れた場所で、ただ単にささやかなコンサートやイベントを開くのに、いったいそれが被災者とどういう関係性があるというか、その主張がまるで意味不明です。おそらくこういうコメントを本気にして、心からそう信じている人などいるはずもなく、みんなこういう言葉は建前だということがわかっているのだと思われます。
中にはチケット収入からささやかな義援金を送るなどの行為もなされているのかもしれませんが、だったら黙ってすればいいわけで、それをいちいち前面に出して声高に言いたがるのは、こんな立派なことをやっているという自己宣伝としか受け取れません。

むろん中には復興支援のために本当に役立つ催しもあるでしょう。それならばその甲斐もあるというものですが、ほとんど個人レベルのものとか、震災とはどう見てもなんのかかわりもないようなものに、いちいちこんな建前を便乗的に貼り付けて、お手軽に時流に乗ろうとするのは、かえって不誠実で、ものを考えない日本人の本当に悪いクセだと思います。

コンサートなんてものは、要するに主催者と演奏者の都合によってのみ開かれるものです。
さらにそれが被災地から遙か遠く離れた地域で行われる小規模コンサートとなれば、聴きに行く人の実態もお義理やお付き合いなどが大半ですが、その人達が、そのコンサートを聴くことによって、震災その他で傷ついた心が少しでも癒され、ましてや元気が出るなんて、そんな魔法みたいな現象など起こるわけがないでしょう。

主催者や演奏者が本当にそんなことを思っているのだとしたら、それは途方もない傲慢と勘違いであって、おめでたいことこの上ありません。
自分と関係者の都合だけでやっているコンサートに、よくこんなご大層な看板を脇に立てて、まるで慈善事業でもやっているような口ぶりになれるものだと思います。

本当にそう思うのなら、現地に入ってもっと実利的な奉仕作業でもやってこそではないでしょうか。
さらには本当に日本人が元気が出るとするなら、それは少しでも健全でまともな政治が行われ、さらには有能かつ信頼できる指導者が復興の指揮を執って政治経済の両面からの建て直しが達成され、それによって人心がいくらか報われたときだと思います。

マロニエ君もいいかげん音楽は好きですが、だからといって思いつきのような手作りコンサートのたぐいに行かされても、それで元気が出るなんてことはあるわけがない。本当に優れた音楽からは感銘は受けますが、それで少しでも元気が出て笑顔が戻るなどというのはどういうことなのか、理解に苦しみます。

たぶんそのあたりはみんな直感的には感じていることだろうと思いますが、今はこの手のセリフを使っていれば誰も文句が言えないし、一番安全なんでしょうから、それを乱発することについては社会が馴れ合いで、そこは深追いしないという暗黙の了解があるのです。マロニエ君は日本人のこういう部分が嫌いです。

そもそも自分の宣伝や利益にしか興味がなく、偽善や無責任に何ら抵抗感もないような人に限って、いかにも人の不幸に心を痛め、救いの手を差し伸べたいというようなことを軽々しく言えるのだと思います。

現在のような国難に際して、いささかでも憂慮の念があるのなら、せめて変な便乗はしないで、誠実に自分は自分のなすべき事を進めればいいのだと思います。
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コンサート探し

グルーポンとやらをときどき利用している友人がいます。
いつごろのことだったか忘れましたが、その友人からチケットぴあのギフトカードが半額であるという話があり、1万円分が5千円で買えるというので、とりあえず買ってもらいました。

これという目当てのコンサートがあったわけではないものの、そのうち使うだろうぐらいに軽く考えていました。
ところが、そのギフトカードが届いてからというもの、行ってみたいと思うコンサートがなかなかありません。

マロニエ君にとって、気の進まないコンサートのチケットを買って行くなど、考えられないことです。
やはり長引く不況に東日本の震災がダメ押しとなって、目に見えてコンサートの数が減ったのは間違いありません。
とくに小ホールで行われるピアノリサイタルのようなコンサートが激減しているようです。

一方で、ドカンと大きな来日演奏家のコンサート、とりわけオーケストラ関係はいくらなんでもという価格の高騰に呆れてしまいます。
秋にキーシンがシドニー響とショパンの1番を弾くのですが、GS券はなんと2万円!二人で行けば4万円ですから、そこまで出して行く気にはなれずに断念しました。
もちろん席によってはもっと安くはなりますが、マロニエ君はコンサートに行く以上はある程度の席でないとイヤなのです。演奏者が豆粒のようにしか見えない席で、輪郭のないブワブワした音を聴くだけなら、そこにあまり個人的には価値を見出せないからです。
よく、安い席のほうから売り切れていくことがありますが、あれは実のある倹約とは思えません。

シドニー響に限らず、海外のオーケストラのコンサートなどはもはや以前のように気軽に行けるものではない価格となり、逆にコンサート離れが起きるのではないかと思います。
これがもっと有名な指揮者とか格上の楽団になると、さらにチケット代は上昇し、一度来れば日本各地を巡演するのですから、本来の素晴らしい音楽を聴けるというよりは、なんだか荒稼ぎに来たという印象しかありません。

よほどのお金持ちならともかく、ちょっと一回のコンサートを聴くのに、家族などと行くとなると何万円もの出費となると、いかに音楽が好きでも、よほどのものでないと躊躇してしまうのが普通の感覚ではと思います。
しかもそれらは、昔のように歴史的演奏会に立ち会えるかもというような期待感はなく、だいたいどんな演奏会になるのか今どきは結果が見えてしまうところが、いよいよ憎たらしくて気分が高ぶりません。
とりあえず立派な演奏だけれども、ビジネスの臭いがしていて、山場も感動もちゃんと計算され準備されているような、それでいて気持ちのこもらない仕組まれたシナリオ通りみたいな演奏。
そう思うと「やーめた」という気になってしまうのです。

それはともかく、上記のギフトカードは使用期限が9月いっぱいですから、だんだん猶予もなくなって来た気がして、先日など地元のオーケストラの定期演奏会に行こうかと思い、ほとんど妥協的にチケットを買う気になっていましたが、やはりどうしても指揮者が気に入らずまたしても断念。

まだ使用期限まで2ヶ月近くあるので、そのうち秋のコンサートが少しは出てくるだろうという期待を込めて、静観することにしました。
安く買えたのは結構なことでしたが、かえって変な悩みの種を抱え込んだ形になりました。
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メナヘム・プレスラー

メナヘム・プレスラーというピアニストをご存じの方も多いことでしょう。

世界的なピアノトリオであったボザールトリオの創設者で1923年の生まれですから、今年で88歳、日本でいう米寿にあたり、現役最高齢のピアニストの一人といえるでしょう。

このボザールトリオは実に53年間という長きにわたって世界トップクラスのピアノトリオとして輝かしい活動を続けましたし、リリースされたCDなども果たしてどれだけあるのでしょうか。
このトリオは2008年に惜しくも解散されましたが、その理由などはマロニエ君にはわかりません。
マロニエ君にとっても、メナヘム・プレスラーはなにしろボザールトリオの中心的な名ピアニストでしたから、もちろんそのCDも我が家にはたくさんありますが、実際の演奏会は聴かずじまいでした。
映像などでいかにも印象的だったのは、音楽に没入しつつも常にあとの二人を気にかけてアンサンブルをいささかも疎かにしない、プレスラーの真摯なそしてひじょうに闊達な演奏態度は、見ているだけで音楽そのものという印象を受けたものです。

そんなプレスラーが、今年6月、東京でソロリサイタルを開いたというのですから、いやはや驚きです。
これまでにプレスラーの演奏はずいぶん聴いた気がしますが、それはすべてボザールトリオの演奏であって、ソロは一度も聴いたことがありませんでした。
プログラムはベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第31番/ショパン:マズルカ/ドビュッシー:版画/シューベルト:ピアノ・ソナタ第21番 変ロ長調 D960というものだったようですが、そこから後半のドビュッシーとシューベルトの演奏がNHKの音楽番組で放映されました。

インタビューにも答えていましたが、何を聞かれてもサッとタイミング良く話し始めるその様子ひとつとっても、とても90歳近い人物とは思えません。
とくにシューベルトの最後のソナタに関しては、大変な曲なのでずっと避けていたが、弾かなくてはならない時が来たという答えが印象的でした。

演奏は大変立派なもので、とくにドビュッシーには気品と輪郭があって素晴らしかったと思います。
シューベルトは第2楽章の寂寥感が印象的でしたが、後半は若干お疲れを感じないでもありませんでしたが、それでもよくこんな大曲を弾き通せるものだと感嘆させられました。強いて言えばもう一歩深さがあればという印象…。
また舞台上での足取りなどは実にしっかりしていて、まったくふらついたところなどありません。
他日は室内楽なども演奏したようで、まことに精力的なスケジュールです。

いかに矍鑠としているとは言っても、現実の歳は歳なのですから、それでいまだに海外へ演奏旅行に出かけ、その地でこのような重量級の演奏会をするとは、世の中には凄い人物がいるものです。

会場はサントリーホールのブルーローズ(小ホール)で、ここはホールといってもフラットな床の広間に椅子を並べただけの、いわばホテルの宴会場のような場所ですが、プレスラーほどのピアニストのリサイタルなら、もっと相応しい会場が東京にはいくらでもあったように思われて、ちょっとその点は納得がいきませんでした。

ちなみにピアノはスタインウェイでしたが、正確なことはわかりませんが、見たところ10年経つか経たないかぐらいのピアノだったように感じました。ごくごく最近のものとは違い、まだいくらか良さが残っていたと思います。
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今こそ狙い目

円高が止まりません。
こんな書き出しは、まるでテレビニュースのつかみのセリフのようですが、実際にそのようですね。

アメリカドルばかりを基軸に見てしまいますが、ユーロも一時期に較べるとかなり安くなっているようです。
その原因や仕組みはマロニエ君に詳しいことはわかりませんが、政府の信じがたい無策も大いに関係があると思われますし、一方でドルやユーロに対する信頼が低下していることもその一因だと思います。

むろん、輸出に経済の大半を依存している日本にとって、この円高はタチの悪い慢性病のようなもので、これ以上円高が進むことは、どう見ても好ましくないことは誰の目にも明らかでしょう。

子供でもわかる理屈で言うと現在の円高は、海外で物を買えば大いに得をし、逆に海外で物を売る側は大いに損をするということになります。

そこでピアノの話ですが、お金を持っている人は、今のこの時期に海外からピアノを買えば、かなり安く買えることは間違いありません。
たとえばアメリカで定番のニューヨーク・スタインウェイを買うとします。
アメリカで売られているニューヨーク・スタインウェイは日本で通常売られているハンブルク・スタインウェイとは新品価格そのものが違いますが、ではこれをニューヨークの本社に行ってパッと買えるかどうかとなると、そこはわかりません。
というのもスタインウェイ本社はスタインウェイ・ジャパンという現地法人を作っていて、そこが日本での輸入元みたいなものですから、単純に個人相手にアメリカでピアノを売って運送手配までしてくれるかというと、そう簡単ではないかもしれません。

でも、仮にそうだとしてもいくらでも抜け道があるのであって、全米にたくさんあるスタインウェイ取扱いのピアノ店に行けば、そこのオーナーは相手がだれであれ商売なんですから喜んで売るはずです。

また、ぴあのピアのホームページにもいくつかの海外のピアノ店をリンクしていますが、それらの多くは中古価格などを載せていますから、おおよその相場というものがわかります。
とくに戦前の素晴らしい楽器がたくさんあることはさすが本場というべきで、あれこれ見ているだけで時間を忘れてしまいます。
日本の有名な専門店なども、この手のピアノ店から仕入れをしているというウワサで、彼らの仕入れ値はまた少しは違うのかもしれませんが、いずれにしても現在の円高を武器に挑めば、かなり有利な価格で憧れの名器を我が物にできるという、現在はそんな恰好の時期でもあると思われます。

時間さえあれば、アメリカの往復航空券など10万以下でもありますし、語学に自信がなくても現地で通訳を雇ってもたかが知れています。
しかも現在は航空便の値が下がり、ピアノもこちらがメインの時代になりましたから、気に入ったピアノがあれば、出荷から一週間で日本に届き、前後の時間を考慮しても、一ヶ月みておけば自宅にピアノが届くのはほぼ間違いないと思われます。

アメリカはああ見えてもピアノ大国で、スタインウェイの本社もニューヨークなのですから、修復やリビルドの技術も高く、新品のように美しく修復されたマホガニーのピアノなど、見るだけでもため息がでるようです。
美しく再生された黄金時代のスタインウェイは、マロニエ君などはもはや文化財のようにさえ思っています。

繰り返しますが、こういうピアノも日本よりも相場が安い上に、なにしろこの円高ですから、おおよその円の適性価格といわれる1ドル120円を基準にすれば、それだけでも今は本来の2/3の価格で買えるというわけで、どのモデルでも、きっと望外の価格で購入できると思います。旅費や運送費を考えても元は取れるどころの話ではありません。

おまけにピアノを買いにアメリカに行くというのも、なんともオツなものじゃありませんか。
たぶんヨーロッパでもある程度似たような状況かもしれません。
ああ…やってみたい。
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我子の七光り

天才音楽家というのがときどき現れます。
その天才ぶりも様々ですし、とうぜん天才のあり方も一人ひとり違っていて、本当に深い感銘を覚えるような演奏に接することがある一方で、あまり感心できない場合もあるわけですが、いずれにしてもその才能は並のものではないことは疑いようがありません。

現代社会は何事につけてもいちいちが比較の社会であり、この時代に生きる人達は好むと好まざるとにかかわらず、なんらかのかたちで厳しい競争条理の中に放り込まれているもというわけです。
家族がちょっといい会社に勤めていたり、子供がちょっと有名な学校にいっているぐらいでも鼻高々だそうですから、ましてや我が家から「天才」が現れたとなると、それはもう尋常な喜びようではないでしょうね。

天才とはエリートのさらに上に位置する特別な存在ですから、それが嬉しいことぐらいわかりますが、そこから先どういう行動を起こすかが、とりわけ親の品格だと思いますし、それがひいては我が子のためにもなると思うのですが。

マロニエ君が見ていてどうにも首を捻ってしまうのは、天才が出現して世間で話題になると、しばらく間をおいて今度はその親が書いた本が書店に並ぶのが今どきのパターンです。
もちろん親は作家でも物書きでもなんでもないのですが、話題の天才の親というその事実だけで、本を出すに値する資格をもっているかのごとくで、出版社も煽り立てくるのかもしれません。

日本というのは不思議な国で、本当の正しい判断力として若い才能を見つけ出すことはできないくせに、ちょっと有名なコンクールに優勝したり、なにかマスメディアが取り上げるような話題になって、ひとたび脚光をあびると、今度は手の平を返したように過分な扱いをするようになります。
本当に素晴らしい誠実な音楽家が、小さなホールでささやかなコンサートをするにも集客で苦労するのを尻目に、話題の天才というレッテルが貼られるや、大ホールのコンサートを立て続けにおこなっても悉くチケットは完売し、東奔西走の毎日がはじまるようです。

こうなると、あらゆる関連業種が儲けのおこぼれに与りたいと本人やその家族に群がり、そこから上記のような著書が出版されるのだろうと思われます。文章書きが不慣れな人にはゴーストライターがつくのはむろんです。

最近は、アーティストのほうでもいつでもスタンバイ、売れたらアクセル全開が当然のごとくで、たとえば昔、ポリーニがショパンコンクールに優勝したのちにさらなる勉強のためにコンサートを休止するような、ああいった振る舞いをする人は皆無になったように感じます。
おっとり構えて勉強などと言っていたら、あっという間に背後から追いこされて終わってしまうという現実もあるのかもしれませんが、ともかく、天才本人も家族も、過剰なほど時代認識ができていて、稼げるうちに稼ぎまくるといったような、あまりに露骨な印象を与えるのは一音楽愛好家としては、どうにもやるせないものがあります。

とりわけその道のシロウトである親が我が子をネタにいきなり本を出したり、子育てをテーマとした講演などに飛び回る様子は、天才の親どころか、子の七光りを受けてはしゃぎまわっている俗人そのものの姿でしかありません。
多少は相手側からのリクエストもあるのかもしれませんが、それをこうもやみくもに応じるということは、やはりご当人もそれを我が世の春のごとく喜んでいるのだろうと思われます。

昔の芸能界には、売れっ子の我が子を食いものにする非情な親や親戚という構図があったようですが、クラシックの世界で子供をネタに親までもがあれこれと露出したり小遣い稼ぎの手段にするというのは、もうそれだけでその人の演奏に興味がなくなってしまうようです。
娘が有名スポーツ選手になった勢いで、親が国会議員になるような時代ですから、本を出して講演を渡り歩くぐらい甘いもんだといえば、そうかもしれませんが。

以前書いた○○家にヴァイオリンが我が家にやって来る本の一家ですが、すでに親兄妹の間で、想像を超えるほど何冊もの本が出版されているのには驚きました。これなどはまさに互いの知名度を互いに利用し合って相乗作用を起こしているようなもので、とにかく利用できるものはなんでも利用するという抜け目のなさが現代の流儀なのかもしれません。
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ウゴルスキのCD

過日はウゴルスキのスクリャービンのCDに関して、ひじょうに悔しい失敗をしてしまいました。

ロシア出身のピアニスト、アナトゥール・ウゴルスキ(1942年〜)はリヒテルやホロヴィッツ亡き現在、ロシアが輩出した巨人ピアニストの最後の一人といえるかもしれません。

ウゴルスキはピアニストとしてロシアでは一定の名声を獲得してレニングラードの教授などもしていたものの、ある時期から深刻な迫害を受けるようになり、いらいピアノを弾くこともできない苛烈な時期を過ごすなどして、1990年ついにドイツに亡命。そこからが彼の非常に遅い西側へのデビューとなりました。

その並外れて壮大なスケールと緻密さの合わさった演奏は、たちまちグラモフォン(当時は現在と違ってまだお堅い体質の時だった)と専属契約を交わすこととなり、いらい幾つものCDがリリースされましたが、彼の演奏に見られるpppからfffまでの驚異的なダイナミックレンジの広さと作品に対する深い洞察は抜きんでており、それを演奏として可能にする強靱かつ透徹したゆるぎないテクニックには、当時世界中がこの新たな才能の登場に驚いたものでした。
その後はグラモフォンからはゆったりしたペースでいろいろなCDがリリースされ、その大半は購入していましたし、日本へも何度か来日を果たしてその並外れたスケールの圧倒的な演奏を聴かせたものです。
とくにNHKでも放映されたベートーヴェンのディアベッリ変奏曲などは非常に強烈な印象を残す見事なものでした。

そんなウゴルスキですが、その後はあまりCD等が出てくることがなくなり、どうしたのだろうかと思っているところ、ドイツのAvi-musicというあまりなじみのないレーベルからスクリャービンのピアノソナタ全集をひっそりとリリースしていることを知りました。

マロニエ君は店頭のほか、ネットでもしばしばCDを購入するのですが、この手のマニアックなCDは取扱量が圧倒的に勝るネットのほうが有利なのはいうまでもありません。
しかしこのCDは、あるにはありましたが時間を要する取り寄せ商品になっており、とりあえず「お気に入りリスト」にまで入れておいて、他のものと一緒に注文しようと思っていたら、あるときリスト上からこれが消去されていることがわかりました。
吉田秀和氏の文章にも、このCDのことが書かれており、久々のウゴルスキの新譜を発見したという調子の文章で、いきなりマイナーレーベルからのリリースを不思議がっている様子でした。

マイナーレーベルが困るのは、録音自体があまりよくない場合があること、入手できない場合が多いこと、すぐに廃盤になったりと、なにやかやと危険率が高いことですが、現に取り寄せ可能だったウゴルスキのスクリャービンが早々にリスト上からも消えてしまったということは、経験上、廃盤になったと解釈せざるを得ませんでした。
いかにウゴルスキといえどもマイナーレーベルでのスクリャービンのソナタでは、なかなか売れなかったのだろうと…。

ところが先日、天神のCD店の店頭でいきなりこのCDを発見!!思わず狂喜してしまいました。
ははあ、こんなところに売れ残りがあったのだ、灯台もと暗しだったと思い、これを逃せばもう手に入らないとばかりに迷わず買い求めました。

帰宅してさっそく聴きながら、なんとなくネットのほうを再度検索してみました。
気持ちとしては、自分が手に入れたもんだから市場には「無い」ことをもう一度確認したかったわけですが、なんと意に反してあっさりこれが出てきて、しかも「在庫あり」になっているのにはビックリ。さらに許しがたいことには他商品と3点以上まとめて買うと割引の対象にさえなってお入り、4900円ほどで買ったものがその場合は3300円ほどになるのを知ったときには、気分は一気に谷底に突き落とされる思いでした。

どうやら店頭にあった商品は、最近大量に再入荷した折に各店舗にもまわってきたのだろうと推察されました。
しばらくキリキリしましたが、しかしウゴルスキの力強くもほの暗いエレガントなピアノを聴いていくにつれ、そのゆるぎなさと艶やかな響きなど、あいかわらずの第一級の演奏に満足を感じ、しだいにそのショックも和らいでくるようでした。
録音もメージャーに引けを取らない非常に優秀なものだったのも嬉しいことでした。

めったにないのですが、やはりありますね、こういう失敗。
ですが、こういうことには立ち直りの早いマロニエ君なのです。
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ジミのハデ好き

人は他人を、知らず知らずのうちに外観でなんらかの判断しているようです。

考えてみれば視覚というのも重要な情報源であって、視覚的要素だけを完全に切り離した判断などは極めて困難であり、そもそも自然に反することだろうと思います。視覚情報は無意識の中で大きな割合を占め、なんらかのイメージの形成に少なからず影響があるというのが現実だと思います。
どんなに「見た目じゃない、内容重視だ」といってみたところで、視覚から得た情報にまったく左右されないなどと果たして言い切れるでしょうか? 
言いきれる人がいるとしたら、それはとんだ思い上がりか、はたまた並外れた能力があると言わなくてはなりません。

人が他者を認識する上で、話の仕方や内容、性格など相手から伝わる様々な印象に、顔かたちや雰囲気などの視覚的な要素は当然ながら絡んでくるわけで、その総和によって自分なりのイメージというものを作り上げていることは否定できません。

ところがこれで裏切られ、大変な間違いを犯すこともあるわけで、後になっておおいに「見誤った」ということがあるのは事実で、その中には非常に意外なひとつの厳然たるパターンを見出すことができるのです。

それがタイトルの「ジミのハデ好き」というわけです。
地味な人というのは、典型的なタイプで言うと、存在感がない、立ち居振る舞いもジミ、性格も目立たない、人の印象にも残らない、社交性がなかったり、頭が良くても才気がなかったり、オーラとは無縁であったりと、やはり外観もそれに応じて地味な印象の人が多いものです。
その言動も、なにかにつけ表に出るタイプではなく、陰と陽なら陰の役割で、必ずその他大勢に分類されるタイプというところでしょうか。

こういう人と接していると、ごく自然な印象として、おそらく何事にも控え目で静かなタイプ、真面目というか慎重というか、「派手なことはむしろ嫌いなのだろう」という印象を自然に抱いてしまいます。
ところが、それがまったくの誤りだということに気が付く時が、あるときふいにがやってくるのです。
それは、その人のいろいろな言動に触れることによって、内面の本質が少しずつ見えてくる時といってもいいかもしれません。

もうおわかりですね!
こういう地味な人に限って、内心では相当の派手好きだったり、目立ちたいという願望や憧れを人一倍強く持っているということがあり、実際このタイプはかなり多いと思います。そして最終的には、普通のハデ好きな人もはるか及ばないほどのハデ好み、目立ちたがりだったりするわけですから、それは常に屈折した形でしか顕れることはありません。

きっと自分では華やかでありたいという内なる欲求が、自分の中で長年醸成され膨れ上がって巨大化し、しかしそれは何重にもジミな包装紙にくるまれ、あくまで隠匿されてきたせいだと思われます。
人間は「自分にないものを求める」という言葉通りなのかもしれません。
強烈な上昇志向の持ち主が、実は暗い生い立ちの反動だったりするのと共通しているかもしれません。

マロニエ君はさまざまな矛盾からある時この法則的事実に気が付いて、はじめは大変意外に思ったものですが、心理形成としては大いに納得し、思い当たる人々をあれこれを当てはめてみると、その法則がバンバン当てはまりました。

たとえば、ネット上では大いに語りまくる多弁この上ないような快活な人が、実際に会うと言葉も少なく伏し目がちな、予想とはかけ離れた別人だったりして唖然とさせられるようなことがしばしばあり得ることは、むかしオフ会などを経験した人ならおわかりだと思います。

ブログなどにもそれがあり、現実からは程遠い別世界を作り上げ、そこの主となり、これでもかという自己願望の放恣な羅列を目の当たりにすると、人の内面の怖さを覗くようでゾッとすることがあるのです。

人間は極めて奥の深い複雑怪奇な生き物であることは否めませんが、だからといって、あまりにも秘めたるマグマを抱え持っているというのは、笑っているうちはいいですが、最終的には多重人格的というか、どこか怖いものがありますので、これの甚だしい方とは極力かかわりたくはありません。
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日時計の丘

福岡市南区の丘の上にある「日時計の丘」に行きました。
来月ここを使わせていただくので、下見を兼ねて知人と2人でいきましたが、オーナーの方はご不在で奥さんが対応してくださいました。

往きの車の中で、知人は、ああいう文化的な空間を作る人はきっと芸術家なのではないだろうかと言いましたが、マロニエ君は直感としてそんなはずはないだろうと思いました。そんなことを話しながら約束の時間にやや遅れながらも現地へ向かいました。

まずこの点は、やはり想像通りで、ここのオーナー殿は地元の大学で哲学の先生をされていたらしく、近年退官された御方だということを夫人から伺いました。
マロニエ君がなぜ芸術家ではないと思ったかと言えば、芸術家は自分が芸術の創り手なのですから、芸術全般に過度の美しい憧れのようなものをいだいているはずがないし、苦闘は絶えず、芸術界の裏表や実情も知るところとなり、芸術をあれほど美しい崇高な理想として捉え続けることはできるわけがないと思われたからです。

芸術分野における趣味人の出自をみると、大学でいうところの文系は極めて少数派で、圧倒的に理系の人が多いのは、一見意外なようで驚くべき事かもしれません。一説には音楽と数学は隣同士などともいいますし、美術と化学もひょっとしたらお近いかもしれませんが、概して理科系と芸術界は真逆の世界に位置するのであって、だからこそ純粋な鑑賞者のスタンスでこれらに手を伸ばし、その内なる美に酔いしれることができるのかもしれません。

日時計の丘の夫人はドイツの方で、ご主人との日常会話はドイツ語の由。ご自分の日本が拙いことをしきりと詫びておられましたが、それはまったくの謙遜で、とても品の良い日本語を話されることにも驚かされました。

まずは全体を案内してくださり、ピアノのあるギャラリーを一巡した後は、中ほどに設置された階段を上って二階へ向かいます。二階は小さな図書館ということで四方の書架の中央にテーブルがあり、ここで定期的に朗読会やさまざまな勉学のためのイベントがおこなわれているようです。更にその奥には、文字通りの文庫があり、無数の書籍で部屋中の書架という書架をぎっしりと埋め尽くされていました。
ちらりとしか見ませんでしたが、文学書からおそらくは哲学などの専門書まで、高尚な本が見事に蒐集されている、いわばそこは知性の空間でした。

さらに二階にはコンサートのときの出演者の控え室というか楽屋にあたる部屋もあり、専用の化粧室まで準備されているのは驚きでした。

階下では先日のコンサートのときと同様、L字形の空間には無数の絵画が展示されています。
その特徴は大型の油彩画などではなく、どちらかというと小ぶりな版画などが主体ですが、それがかえって好ましい軽快さにもなっているようです。夫人の話によると作品はときどき掛け替えられるとかで、奥の扉の向こうにはさらに多くの作品が収蔵されているということでした。

マロニエ君はずいぶんこの夫人と話し込んでしまいましたが、この建物はいわばご主人の趣味の集大成といえるもので、その構想から細部にいたるまで夫人の出る幕はないとのこと。そのご主人の猛烈な凝り性と情熱の前ではさしものドイツ女性も匙を投げているといった様子だったのが妙に笑ってしまいました。

ここにある101歳のブリュートナーはたいへん元気で、3年前にウィーンから日本にやってきたそうです。
ブリュートナーはドイツピアノの中でも艶やかな美しい音色であるのに加えて、天井が高いので、ふわりとした響きがあり、思わずうっとりするような美しい音の空間が広がります。
戦前の古いピアノというのは、弾く側がごく自然に楽器を慈しむような気持ちにさせられてしまう魔法のようなところがあり、こんなピアノをガンガンと心ないタッチで弾かれることのないようにと願うばかりです。

またこの空間は人の背丈よりも遙か高い位置にある大きな窓が採光の役目を果たし、そこから入ってくる自然の光りは、いったん周りの白い壁やらなにやらに繰り返し反射しながらこの空間をやわらかに照らすので、心地よい自然の間接照明となり、それはまるで宗教画に降り注ぐ光のようで、なんとも心が洗われるような気分になるのでした。
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カラオケ族

マロニエ君は自慢でありませんが、これまでに一度もカラオケというものを歌った経験がありません。
これを言うと、へええ!と呆れられることもありますが、人前でピアノを弾くのが超苦手のマロニエ君としては、まさかカラオケでマイクを片手に人前で熱唱するなど、絶対に無理です。
あるとすれば家族が強盗に出刃包丁でも突きつけられて「歌え!」と脅されたときぐらいのものでしょう。

ところが世の中には、このカラオケがのめり込むほど大好きで、我こそはとマイクを奪い合い、中には大会に出るために芸能人張りの衣装まで拵えてステージに挑む人も少なくないというのですから、いやはやその鋼鉄のような心臓には、ただただ恐れ入るばかりです。

最近つくづくと思うのは、シロウトが人前でピアノを弾くという行為を見ていると、下手をすると、このカラオケのマイクの争奪戦に通じる要素が潜んでいるのではないかということです。
歌がピアノになり、マイクが椅子になるというだけの違いではないかということ。

ピアノクラブの定例会では弾く曲も事前に伝えてあり、一定の流れと制約がありますが、それでも余り時間になれば空気が自由になり、ある種の兆候はやや見て取れるものです。
そして、それが一気に噴出するのは「練習会」という、すべてが自由時間のピアノを弾く会などです。
この練習会に限らず、なにかの折に素人がピアノを弾く姿を見ていると感じるのが、上記のカラオケ好きと類似した状況ではないかということです。

マロニエ君もピアノが好きな者の一人として、そこにピアノがあれば弾きたいという単純素朴な気持ちが湧きおこるの理解しているつもりですが、同時に遠慮や気後れがあるのが普通かと思っていました。ところが、むしろ控え目な感じの人などが、ピアノを前にすると人が変わったように、弾きたがり屋に変身するのは唖然とさせられます。

何事においても、ひとつのものをみんなで共用して楽しむ場合には、本質的に遠慮と譲り合いの精神が求められますし、何度か弾けばもうそれで充分じゃないかと感じますが、現実はそうではないようです。
これは一定のところで自制しないことにはキリがないし、それ以上弾きたいのなら自宅か別所でやるべきです。

もうひとつは、趣味の集まりなのだから腕前の巧拙は当然不問ですが、それでも、少なくとも人前で弾く以上は、その人なりの最低限の練習を経たものだけにすべきだとマロニエ君は考えます。

たしかに名前は「練習会」ですが、そこは自分ひとりの空間ではなく、じっと聴いて(くれて)いる人がいるわけですから、ただ自宅と同じような練習のようなことをしたら完全な迷惑行為といえるでしょう。
ピアノのサークルやクラブは、お互いの演奏を我慢して聴くという、いわば「相互我慢会」なわけですから、その認識と平衡感覚だけは失ないたくないものです。
周りの人の善意の気持ちにも限界があることも考慮すべきでしょう。

ごく普通のマナーとして、聴いている人への礼節と謙虚な気持ち、誠実さみたいなものが感じられるものであってほしいのですが、くどいほど何度も弾いたり、ほとんど譜読みの段階のような状態をさらしてまであえて人前でピアノを弾くことに、いったいどんな意味や満足があるのか…マロニエ君にはわかりません。
それでも人前演奏が快感で止められないというのなら、それはビョーキです。

それでも、まだ陽気に楽しく笑いながらやるぶんは周りも救われますが、表向きは真面目派で態度も控えめなのに、実は静かに露出好きというのでは、なんだか暗いマグマが潜んでいるようで恐いです。

ピアノが音を出すものである限り、気を遣うべきはマンション等の近隣だけでなく、同好の周囲に対しても一定の抑制と気遣いが必要ないはずはなく、これはピアノを嗜む者として、常々に認識しておきたいものです。
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なんで映るの?

実をいうとマロニエ君は(以前も書いたことがありますが)大型電気店にいくと体調が悪くなる体質です。
数年前まではそんなことはなかったのですが、ここ1年ぐらいは行って30分もすれば確実に悪化します。
さらには、ピアノにダンプチェイサーを取り付けて、始めにスイッチを入れてからの半日も同様の症状がでました。

これは電気製品に使われる化学物質の何らかのもの(塗料や接着剤など)が熱によって空気中に放出されることによるもので、物知りの知人によると、これはハウスシック症候群と同種のものだそうで、当初疑っていた電磁波の類ではないらしいそうです。

昨日書いた、先週末ビデオレコーダーを買いに行った際にも、待たされ時間が長かっために店内の滞在時間は1時間近くに及び、そのせいで予想通り体調はみるみる悪化し、まるで乗り物酔いでもしたときのような不快な症状と顎が外れるほどの生あくびの連発という苦しい事態に陥りました。
これがなんとか治まったのは夜の12時近くになったころで、回復にはどんなに早くても5〜6時間は要します。

さて、そんな肉体的犠牲を払ってまでデジタル放送対応のレコーダーを買ったわけですから、準備万端ととのい、さあいつでも来い!という態勢でアナログ放送終了の日曜日を迎えました。
聞けば昼の12時から夜の12時まで、段階的に停止していくとのことで、午後などはわりとどこの家でも映っていたようですが、それも夜の12時には消えてしまうという話でした。

さて、夜12時をまわり、いよいよアナログ放送が消えていることを確認すべく、テレビのスイッチを入れてアナログ放送へ切り替えると、なんのことはないこれまで通りに映っているのには、…何で?と思いました。

画面下になにやら文字が流れており、それによると「ごらんのテレビ放送はケーブルビジョンが地上デジタル放送をアナログ変換して放送しているものです。」とあり、さらにそれは平成27年まで継続されるということで、なんとあと4年もアナログ放送が続くという事実には、エーッ!と思わずのけぞってしまいました。

ちなみにマロニエ君の家は、市のわりに中心部でありながら電波の受信環境が悪いエリアということで、昔から周辺一帯はケーブルビジョンを多く使っています。
このケーブルビジョンを使う限りは、そんなにあわててテレビ/ビデオを買い換える必要がなかったというわけですが、こんな情報はちっとも知りませんでした。少なくともケーブルビジョンを使っている世帯にはなんらかの通達があってもよさそうなものをと思いましたが、知る限りではなにひとつなかったように思われます。

さて、先週末、決死の思いで買ってきたデジタル放送対応のレコーダーは、まだ玄関の片隅で包装されたままポイと置かれたままで、いやはやこれはどうしたものかと思っています。
通常なら、せっかくだから接続すればきれいな画像で楽しめるのですが、そのためには衛星放送の受信設備をしなくてはいけません。他の部屋にはきてるのですが、配線などを依頼しなくてはならず、それが面倒臭い。
アナログのままなら画質を我慢すれば衛星も映るのです。

世の中のシステムにはどんな意外な抜け穴が潜んでいるか、よほど事情に通じていないと馬鹿を見ることがあるようですね。
しかし、だからといって日頃から情報収集の奴隷のようにはなるのはまっぴらですから、ときどきこういうことが起こるのも仕方ないかと諦めています。
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電気店は疲れます

先週末はアナログ放送の終了に絡んで、電気店の買い物で疲れました。

マロニエ君の自室は、テレビは昨年秋に買い換えているので問題ないのですが、DVDレコーダーが古いタイプで、テレビを設置に来た人に尋ねたら、「これは来年7月で使えなくなります」という話でした。
もともとマロニエ君は自室ではステレオばかり聴いており、テレビはほとんど見ませんから、まったく無いのは困るけど映ればなんでもいいという程度のものでしかありません。

DVDレコーダーも毎週いくつかの番組を録って夜中などに見るだけのために置いているので、画質などもドーでもよく、録画されていて見ることが出来ればそれでじゅうぶんだから、このレコーダーの買い換えもずっと伸ばし伸ばしになっていましたが、アナログ放送の終了に伴い録画もできなくなるのはさすがに困ると思い、ついに重い腰をあげ、ヤマダ電気に行きました。

店はべつにどこでも良かったのですが、エアコンの修理でえらく高額な保証を適用してくれたので、義理があるような気がして次回は必ずヤマダで買わなければと思ってたので、それを実行したわけです。

マロニエ君にとってテレビやレコーダーは上記のような必要最小限の価値しかないので、ブルーレイなど必要ないし普通のDVDレコーダーでじゅうぶんなので、どれにするかはだいたいすぐに決まりました。
ところが今どきの大型電気店というのは価格勝負のしわよせか、店員も少な目で、広い店内どんなに探し回ってもみんなお客さんの対応をしていて、相手をしてくれそうな人が見あたりせん。
ようやく携帯電話売りのおねえさんが説明してくれたところでは、名前を書いて対応の順番待ちになっているというではありませんか。普通ならパッと止めて帰るのがマロニエ君ですが、もうアナログ放送終了は目前だし、そうも言ってられないのでやむなく我慢して待つことに。

待ちくたびれて途中で催促したら、ようやくひとりの草食系みたいなお兄さんがやってきて、やっと特定の機種の購入意志を伝えることができました。すると「お待ちください」と言われ、それからがまた待つことの連続で、人としゃべるのはごくわずかで、要するに店内での時間の大半は「待つこと」なんですね。
対応の順番が来るまでに15分、さらに購入意志を伝えてからが10分ほど、そして商品を抱えてやって来た店員の話というのは、専ら保証やらポイントやら取り付けやらの説明ばかりに終始して、まるで販売ロボットを相手にしているようです。

ようやく説明が終わったと思ったら、その人についてレジに移動しますが、レジもまた順番待ちの様相です。
ここで5分以上待ったところで、ようやくとなりの閉まっていたレジが開いたのでそちらに移動。
すると対応してくれたお兄さんは商品をレジに置くなり、こっちを向いて「ありがとうございました」といってアッという間に去っていきました。ここから先はレジで支払いをするだけなので、自分の役目は終了ということのようです。

レジではポイントカードをお持ちですか?といわれましたが、この商品は安くなっているのでポイントは使いはずだと思っていたら、同時購入していたDVDディスクに付加されるとのこと。
これがなかなか出てこなくて、もう焦って、カバンをひっくり返すように探したら、やっと最後に出てきました。
その間、ことさら無表情に待っていたレジの男性はそれをスッと受け取ると、74ポイントありますがお使いになりますか?と聞くのでどっちでもよかったど、とりあえずハイと答えると、そこから彼の仕事がはじまったようで、商品代とさらにその5%にあたる保証代などの合計金額とポイントなどを、猛烈なピアニストのような指さばきで一気に計算しはじめました。
言われた通りの金額を払い終わると、レシートと、保証書と、ポイントカードが渡されますが、「今回92ポイントお付けしております!」といわれ、要するに差し引きたったの18円分のポイントということになり、あれだけ必死に探した挙げ句がこれかとアホらしい気分になりました。

以上でめでたく買い物終了というわけですが、安いとはいえ何万もするものを買うのに、買い物の楽しさのかけらもない、まさに仕事のような厳しい空間で、これが現代というものかとつくづく感じずにはいられませんでした。
店に入ってから1時間弱というもの、やったことと言えば、10分足らずの商品選びを除いては、あとは店員探しと、ひたすら待つ、待つ、待つ、そして支払いというもので、価格競争というものはこういうことだというのはわかってはいても、パサパサに乾いた、殺伐とした時間を過ごしたという印象しか残りません。

すっかり疲れてしまい、取り付けなんてしばらくする気も起きず、いらい3日間ほど玄関に置きっぱなしになっています。
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続・練習の変化

練習といっても別に大したことをやっているわけじゃありませんが、それでもいろんな発見や新たな挑戦があることも事実です。

たとえば仕上げる気などさらさらなくて、ただ楽譜を置いて漫然と弾いていたときに較べると、指の練習は当然としても、曲の細部に関してもいろんな注意を細かく払うようになり、楽譜上の指示が果たして適切かどうかとか、その真意を探ったり表現の適切性を試してみたり、あるいは版による指示や考え方の違いを比較して、それに自分の解釈(というのもおこがましいですが)をあれこれと重ねて思案してみて、最良と思われる結論を導き出す過程はとても楽しいものだということがいまさらながらわかりました。
というか、これこそ演奏する人間だけが経験することの出来る、音楽を取り扱う際の楽しみだと思うのです。自分と作品がいかに和解し、作品のしもべとなってどこまで理想的な音としてそれを表せるか。

指使いなども版によっていろいろ異なりますが、マロニエ君の場合は必ずしも楽譜に書いてある指使いが最良とも思っておらず、いろいろと検討してみて、最終的には自分にとって一番しっくりくる、自分にとっての合理的なものを決定します。
これは、一般論からいえば、正しいとは言えないような指使いになる場合も当然ながらあるわけで、頭の固いピアノの先生などは絶対に許さないことだろうと思いますが、しかし指使いというものは最終的には弾く人の技量や手の大きさや指の構造などにも大きく関わってくることなので、本当の意味での正解が必ずしも楽譜の指示通りではないと思っているわけです。

それに指使いは当然ながら解釈によってもいかようにも変わります。フレーズの歌い方、アクセントの置き方、音節の区切り方、強弱のバランス、前後の対比、各パートの重要性の順序など、あらゆるアーティキュレーションの総和によっても、そのつど最良の指使いというのは微妙に変わってくるものだと感じるわけです。

それらを総合的に検討して、ひとつの結論とか形に収束していく過程というのはとてもおもしろいもので、以前はそれほどでもありませんでしたが、要するにピアノクラブで弾かなくてはいけないという義務が課せられたことで、どの曲を弾くにもこういうことを以前よりもより明確に意識してピアノに向かうようになったというのは、マロニエ君にとって最も大きな収穫だったと言える気がしています。

解釈の意義をひとことでいうなら、いかにその曲がその曲らしくあるかを探り、すべての音符と指示が有機的に必然的に流れるように持っていくか、これにつきると思うのです。
そういう目標をおくと、音色や強弱は当然としても、響きの明暗、休符ひとつ、アクセントひとつがどれも見逃せない意味深なものであることが迫ってくるわけで、それを考察し解明していくのはたとえ自己満足でも面白いものです。

練習を重ねていると大いに困ることもあります。
場所によっては、何度練習しても自分にはどうしても向かない音型、苦手なパッセージなどがあり、これを乗り越えるのはちょっとした努力が必要になりますが、性格的に粘りもないし、納得できる結果に到達することがあまりないことは、つくづくと自分の拙さを嫌というほど思い知らされます。
要するに、単純に、ひとことで言えば「下手クソ」なんですね。

さらには、練習とは細部をくまなく点検して、ゆっくりネガ潰しをしていくという一面もありますが、これをあまりやっていると、どめどがなくなり、どこもここも問題ありと思うようになり、変更に変更を重ねます。
すると、不安が全体に広がって、弾けていた場所まで弾けなくなってしまうということがよくあるのです。

これはつまり、それまでの練習が好い加減で甘かったということの顕れなのですが、ここに落ち込むと脱出にはかなり難儀させられます。
要は、下手なものはどこまでも下手だということでもあるわけですが、それでもピアノを弾くという魅力は尽きません。
ただ、ここに来て再び人前での演奏には強い拒絶感が増してきていますから、どうなることやらです。
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練習の変化

ピアノクラブに入ってはや2年近くが経ちますが、その結果なにが違ったか、ピアノに関して自分でなんらかの変化が「あったか」「無かったか」と考えてみると、やはりそれなりの変化はあったと思います。

それは、ほんのわずかではありますが、自分なりに少しばかり集中して練習をするようになったということです。
練習の内容も若干変わりました。
以前からマロニエ君の主な弾き方は、山積みにしている楽譜からあれこれ引っ張り出して、自由気ままにトボトボと弾き散らす、ただそれの繰り返しでした。

もともとが上手くもない上に、こんな弾き方をしていれば、当然ながらレパートリー(というのもおこがましいですが)は広がらず、少なくとも自分なりに仕上がった曲というのは、手を付けている曲の数に対してギョッとするほど少ないものにしかなりません。
というか、もっとハッキリ言うとこの調子ではどれひとつとして仕上がりません。
仕上がりに近づく前に、曲はあっちに飛びこっちに飛びで、それで時間ばかり経って、疲れて終わりというのが長年のパターンでした。

しかしピアノサークルに入っていれば、まがりになりにも人前で何か弾くという義務を背負わされ、それが契機になってちょっとこれまでとは違う練習を少しするようになりました。

たとえば、目的もなく勝手に弾いているときは、難しい部分などを充分にさらうことなしに済ませたり、ひどいときはそこは避けて先に行ったりするのですが、人前演奏が前提ともなるとそんなこともしてられません。

そういうわけで、以前に較べるとひとつの曲に集中的に取り組むようになりましたが、そこで発見したのは、自分一人での楽しみでなら、なかなかそこまでしないような突っ込んだ練習をする必要が生じ、どうしても部分練習など、いわゆる楽譜を見ながらだらだら弾いているときとは違う、本来の練習らしい練習をせざるを得ないということです。

難しいパッセージは出来るようになるまで速度を変えるなどして繰り返しさらって困難を克服しなくてはいけませんし、好い加減に済ませていたところも洗い出して、問題をひとつひとつ解決して行かなくてはならず、気がつけば柄にもなく練習らしいことをやっている自分に、へええと驚いてしまいます。

しかし、嬉しいことは、最終的にそれが人前で弾けるものになるかどうかは別として、集中した練習で曲と自分を追い込んでいくことにより、それなりに曲が自分の手の内に入ってくるのはやはりピアノ好きとしては理屈抜きにうれしいことです。こうして得たものはささやかでも自分だけの特別なものです。

一度深く弾き込んだ曲というのは、簡単な練習でなんとか復帰出来るものですが、そんなものが極端に少ないマロニエ君としては、なにもかもを一からやり直しさせられているようです。
まあそれも、所詮は遊びという気楽さがあるのでなんとかやっていることだろうと思います。

これで昔のように試験とか恐いレッスンなんてことになれば眠れない夜が続いて、これまで以上にピアノの前に座ることがイヤになるでしょうけれども、最終的には遊びであり、無理なときはいつでも自分の意志で中止できるという、逃げ場がある点が、かろうじて今のマロニエ君を支えているようです。

実をいうと、最近はだんだん怠け者の虫がうずきだして、またやる気が薄らいできた気がしています。
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なでしこの品格

「なでしこジャパン」が世界最強といわれるらしいアメリカを破って、2011 FIFA 女子ワールドカップで優勝するとは、いかにスポーツオンチのマロニエ君でもビックリ仰天の出来事でした。
どんなことでも世界の頂点に立つということは、それはもう並大抵のことではありません。

この様子をみていてスポーツオンチのマロニエ君なりに感じたことがあります。
それは、やはり女性は強いということ。とりわけ精神面でのそれは男とは比較になりません。

普段スポーツ番組なんてまず見ないものの、さすがにオリンピックとか、サッカーのワールドカップとか、巷で話題が持ち上がって騒然としだしてから、ようやくちょっとだけ見ることがあります。

日本選手に限っていうと、男子と女子では、まるきり攻め方がちがうと、わからないながらも思いました。
女子のほうは思い切りがいいし、度胸があるし、ここぞというときに一か八かの勝負に出るし、そもそも勝負に対しても一致団結して無心にプレイに打ち込んでいる様子を感じさせられました。

その点じゃ、男子はマロニエ君が知らないだけで、たぶんスーパー級のスター選手がたくさんいて、その選抜段階から大変な話題のようですが、そんなエリート集団というわりには、見ているとずいぶん慎重で、スポーツなのにいっかな激しさとか勝負の醍醐味みたいなものがなく、堅実で安全第一のプレイをしているように見えてしまいます。

もういいかげんここらでバシンとシュートしたらよさそうに思えるときでも、男というのはビビるのか、作戦なのか、意識しすぎて縮こまっているのか、あっちにこっちにパスばかり繰り返して、より確かな状態を作ろうとしますが、そんなことをやっているうちに敵側からボールを取られ、何度も好機を失うような印象をもった覚えがあります。

その点、女子のプレイはもってまわったところのない、実に歯切れのよい、勝負らしい勝負を素人にまで明快に見せてくれたし、しかも優勝という最高の結果まで出したのですから感無量、まことにお見事でした。

成田に帰ってきたときも男子とのちがいを感じるところがありました。
みんな一様に気さくで愛嬌がよく、態度が自然で、しかも喜びにあふれており、見ていて気持ちのいい光景でした。
これはなにも優勝したからというだけではない、本質的なものの違いを感じましたし、その気持ちの良さの裏には、これまで見ていた男子選手の、どこか俺たちはスターなんだという風な態度が記憶にあったのだとも思います。

たかが…といっては言葉がわるいかもしれませんが、スポーツ選手なのですから、なにもそこまで意識することもないと思いますが、男の選手はみんなプンとして笑顔のひとつもないし、群がるファンにも手をふるでもなく無反応でサーッと通過していく姿は、ちょっとプロのスポーツ選手としては勘違いしているんじゃないかと思います。

なでしこの面々はその点で、我々の期待を裏切らない対応で、最高の結果を出しておきながら、偉ぶらない素朴な態度は好感の持てるもので、彼女達を見習うべき選手は多いのではという気がしました。

アメリカなどでも大リーグの選手などは、スター選手の責務としてのファンサービスというものを、まずはじめに叩き込まれると聞きましたが、日本のスポーツ男子はそのあたりはちょっと意識が違うようですね。
マスコミはじめ、みんなで甘やかしているのかもしれません。
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偉大なダンプチェイサー

しつこいようですが、ダンプチェイサーの効果をこのところしみじみ感じ入っています。

この時期は年間を通じて最もピアノにとって過ごしにくい時期であることはいまさら言うまでもありませんが、それがウソのようにピアノは至って普通に、あっけらかんとしてくれています。
とりわけ九州地方は湿度が高く、ひどいときは熱帯地方のようで、ピアノ管理には苛酷なエリアだと思われます。

最近は気温の面でもエアコンを入れていますから、それなりに除湿効果もあるものの、これとて24時間つけっぱなしというわけではないし、夜中はエアコンがない状態。おまけに一台のほうは毎回片づけるのが面倒で、ずっと譜面立てを立てたまま、フタを開けた状態でほったらかしですから、本来ならかなり湿度にさらされていることだと思います。

このピアノは奥行き2m以上ある中型のグランドですが、ダンプチェイサーはペダルの後ろに鍵盤と平行に一台しか付けていません。
本来ならアクション用と響板用に、前後二つ使ってもいいようなものですが、とりあえず一台だけでも至って快調なのは、本当に驚くばかりです。

ダンプチェイサーの存在は昔から知っていたのに、なんで使わなかったのかと今ごろ思っているところですが、考えるに、大した根拠もなく効果の程に疑いを持っていたことと、なんらかの「副作用」があるのではという警戒心があったと思います。

それと、なによりも自分のイメージだけで実体を知ろうとせず、専門家にも確認しなかったことが大きいと思います。
以前も書きましたが、親しい調律師さんにダンプチェイサーのことを尋ねたら、ピアノ管理においてはこれぞ一大革命と言っていいほどの優れものだという返事が速攻で返ってきたことは、聞いたこちらが驚きましたし、これが最終的に決め手になりました。

想像段階では、とりわけ電気によって熱を発生させるというところが、なにやら本能的に「木に悪い装置」では?というイメージでしたが、この点は取り付けてみてわかりましたが、スイッチオンの状態でもほんわか暖かいぐらいで、とても熱いというようなものではないし、さらには本来の取り付け位置よりもうんと離して装着していますから、まずピアノがダメージを受ける心配はありません。
スイッチが入っているかどうかは、実際に触ってみないとわからないほど軽いもので、よくこんなものでこれだけの効果があるもんだと感心します。

思い返せば、一時は除湿器を2台体制でフル稼働させていましたから、自分なりにやるべきことはやっているという自負があったのかもしれませんね。つくづく自分が馬鹿みたいです。

しかし、実際にダンプチェイサーを使ってみると、どんなに除湿器をガンガンまわしたところで、たった一本のわずか25Wのダンプチェイサーにはるか及ばないことがわかり、あー、ずいぶん長いこと損をしたような気分です。

何事も効率のよい方法、賢いやり方というものがあるのだというのが、いまさらながらわかりましたし、努々決めつけはいけませんね。
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喜びから苦痛まで

過日のクラシック番組で、ある女性ピアニストのコンサートの様子が放送されましたが、それを見ていてなんというか…気が滅入ってくるというのか、いたたまれない気分になりました。

その女性は海外のコンクールで優勝歴などもあり、コンサートやCDなどでも一応は活動らしきことはしているようですが、悪い意味で現代のピアニストの欠点を寄せ集めたような要素を持っています。

まず姿がよくない。
音楽家なんだから美人である必要は全くないし、その点では最近のビジュアル系みたいな方向性には大いに異を唱えるマロニエ君ですが、人に演奏を聴かせることを本業とするアーティストなのだから、そこにはある一定の雰囲気というか、文化の担い手としての最低限の顔つきというのは持っていなくてはいけません。

繰り返しますが、これは決して美醜の問題ではありません。
ピアニストはいやしくも音楽家で、いわば芸術家の端くれなのですから、その佇まいもあまり品格がないのは困るということが言いたいわけです。

あまり見てくれのことばかりいうのもなんでしょうから、演奏のことを言うと、ただ楽譜を見て、暗譜して、練習して、ミス無く弾いているだけ、ただそれだけという感じで、聴く側はなんの喜びも感興も湧かず、あまりのその不感症のような演奏に接していると、こんな演奏を聴いたばっかりに却って不満と疲れを感じてくるのです。

ツンとして、まるでオフィスで事務仕事でもこなすかのようにピアノを弾いていて、この人にはなにひとつ音楽的なメッセージ性みたいなものが無いことが、こっちまで無惨な現実を見るような気分にさせられます。

また、この女性は非常に大きな恵まれた手をしていますが、それもまるで活かしきれず、ただ蜘蛛のように長い指が鍵盤の上で不気味に足を広げているようで、それらが淡々と音符を処理していくだけで、如何なる場合も作品が聴き手に語りかけてくることがありません。
ドビュッシーなどは非常にぎこちなく固く弾いたかと思うと、リストでは随所にある甘い囁きもなければ、ここぞという場所での迫りも情念も解放もなく、ひたすら退屈で、出来の悪い機械のような演奏でした。

こういう位置にいる中途半端なピアニストというのは、この先、まずどんなことがあってもこれ以上先に伸びることもたぶんないし、音楽的な深まりを見せる可能性もまずないでしょう。
つまり今以上の知名度を上げることも人気を得ることも、申し訳ないが99%無理です。
だからといって、指のメカニックにはやはりそこは素人とは一線を画するものがあり、いまさら市井のピアノの先生になる決断もつかないだろうし、ピアノをやめてしまう気もないだろうと思います。

そもそも、ここまで来てしまった人がいまさらピアノ以外の何ができるわけでもないでしょうから、やはりこうしたなんともしれない演奏のようなことをしながら、人前に出る行為を繰り返すのだと思うと、見ているこちらのほうがやるせない気分になってしまいました。

世の中がどんなに民主化され、平等の社会を是としても、芸術の世界ばかりは才能と実力がものをいう不平等社会で、B級C級というものになにがしかの価値があるとは思えません。
あまたの才能が惜しげもなく切り捨てられてこそ、輝ける一握りの才能だけが生き残るのです。

とりわけマロニエ君のような純粋な鑑賞者の立場になれば、芸術こそは一流でなくては到底気が済みませんし、それ以外のものに甘んじるつもりのない自分にあらためて気が付きました。

音楽において、つまらない演奏ほど不愉快なものはないのです。
そういう意味では、ひとくちに演奏といっても、人を至福の喜びに誘い込むものもある反面、不快の極みに突き落とすこともあるわけで、まさに天国から地獄までこれ以上ないほど幅広いものだと言えるでしょう。
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