ふたつの未完成

ファツィオリの音を聴く目的で購入したトリフォノフのショパンのCDでしたが、ショパンやチャイコフスキーのコンクールであれだけの成績をおさめた人である以上、きっと何かしらこれだというものがあるのだろうと思い、何度も繰り返し聴きましたが(おそらく10回以上)、どう好意的に聴いても、虚心に気持ちを切り替えて接しても、ついに何も納得させられるものが出てこない、まことに不思議なCDでした。

この人の演奏にはこれといったスタイルも筋目もなく、作品への尊敬の念も感じられません。
ロシアには普通にごろごろいそうなピアノの学生のひとりのようにしか思えないし、そこへ輪をかけたようにファツィオリの音にも一流の楽器がそれぞれに持っているところの格調やオーラがないしで、ダブルパンチといった印象でした。

ショパンコンクールに入賞直後の人というのは、ショパンを弾かせればとりあえずビシッと立派に弾くものですが、この人はなにかちょっと違いますね。体がしっかり覚え込んでいるはずの作品においても、必要な詩情とか音楽が織りなすドラマの完成度がまったく感じられず、コンクールを受けるために準備した課題の域を出ず、アスリート的な気配ばかりを感じます。少なくとも音楽として作品に奏者が共感しているものが感じられないし、内から湧き出る情感がない。
解釈もどこか中途半端で、いわゆる正当なものがこの人の基底に流れているとは思えず、こういう人が名だたるコンクールの上位入賞や優勝をしたという事実が、なんとも釈然としない気分になりました。

あんまりこればかり聴いていると、味覚がヘンになってくるようで、なにか気に入った美味しいもので口直しをしたい気分になりましたが、咄嗟には思いつかず、差し当たりすぐ手近にある関本昌平のショパンリサイタルをかけました。

するとどうでしょう。
どんよりと続いた曇天の空がいっぺんに晴れわたったような、思わず両手を広げて深呼吸したくなるような爽快感が広がりました。
関本氏は2005年のショパンでは4位の人で、これは成績としてはトリフォノフよりひとつ下です。
しかし演奏はまことに見事で、折目角目がきちんとしているのに、密度の高い燃焼感が感じられて、聴くにつけその充実した演奏に乗せられてしまい、日本人は本当に素晴らしいんだなあと思います。

ピアノはヤマハのひとつ前のモデルであるCFIIISですが、これがまたよほど調整も良かったのか、ファツィオリとは打って変わって、聴いていていかにもスムーズで洗練された心地よいピアノでした。
上品で、音のバランスもよく、一本の筋も通っています。
音楽性については、むしろ今後の課題だと思っていたヤマハでしたが、このときばかりはその点も非常に優秀だと思いました。人間、どうしても相対的な印象は大きいです。
やはりコンサートピアノはこのように、それを聴く聴衆の耳に美しく整ったものでなくてはダメで、音色や響きをどうこういうのはそれからのことだと思います。

ファツィオリはスタインウェイ一辺倒のピアノの業界に一石を投じたという点では、大変な意義があったと思いますし、それは並大抵のことではなかったことでしょう。とくにパオロさんという創業者にして社長の情熱には心から尊敬の念を覚えますが、現在のピアノの評価としてはマロニエ君はちょっとまだ納得いかないものがあるのも事実です。

非常に念入りに製作された高級ピアノというのはわかりますが、要するにそれが音楽として空間に鳴り響いたときにどれだけ聴く人を酔わせることができるか、これが楽器としての最終的な目的であり価値だと思います。

その点でファツィオリはいろいろな個別の要素は優れているかもしれないけれども、今はまだ過渡期というべきで、それらが有機的に統合されていないと感じるのです。
今の段階では、とても良くできているんだろうけれども、要は「街の工房の音」であって、完成されたメーカーの個性を問うには、まだまだ乗り越えるべきものが多くあるような気がします。

そういうわけで、トリフォノフとファツィオリはなんだか妙な共通点があると思いました。
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最新のファツィオリ

またしてもヘンなCDの買い方をしてしまいました。

ダニイル・トリフォノフのショパンで、先ごろデッカから発売されている新譜です。
この人は昨年のショパンコンクールで3位になり、今年のチャイコフスキーではついに優勝まで果たしたロシアの青年。これまでに接したコンクールのCDや映像、あるいはネットで見ることの出来る演奏などに幾度か触れたところでは、全くマロニエ君の興味をそそる人ではなかったものの、このCDの購入動機は専ら使われたピアノにありました。

そのピアノはファツィオリで、前半が最大モデルのF308、後半がF278という二つのピアノが使われているし、録音は一流レベルのデッカで、いずれも昨年の録音です。
トリフォノフはファツィオリ社がいま最も期待をかけるアーティストで、その彼のメジャーレーベルのデビューアルバムともなれば最高の楽器を準備していると考えられ、いわば「ファツィオリの今の音」を聴いてみるには最良のCDだろうと判断したわけです。
ただしかし、最近のCD製作はコストダウンが横行しているらしく、このアルバムもふたつのコンサートからライブ録音されているようでした。

第1曲のロンドの出だしからして、いやに音がデッドで、ホールはおろか、最近はスタジオでのセッション録音でもこんな響きのない音は珍しいので、まずこの点でのけぞりました。しかし、その分ピアノの音はより克明にわかるというもので、これはこれで目的は達すると考えることにしました。

音に関しては、今をときめくファツィオリで、さらには国際コンクールなども経験し、いよいよ佳境に入っていることだろうと思ったのですが、予想に反して不思議なくらい惹きつけるところがない。
だいいち音があまり美しくないし、深みがなく、楽器としての晴れやかさがない。
倍音にもこだわったピアノと聞いていますが、それが有効に効果を上げているようにも聞こえないし、むしろ寂寞とした感じの音に聞こえたのは意外でした。
なにより音が詰まったようで、ちっとも歌わないのがもどかしく、「イタリアのベルカントの音」なんて喩えられますが、はぁ…という印象です。
音そのものより、楽器の鳴りに抜けと軽さがなく、むしろ鳴り方は重い印象でした。

元来イタリアのものは、どんなものでも光りに満ちて色彩的というのが相場ですが、その点でも肩すかしをくらったようでした。F308などは、奥行きが3m以上もある巨大さは一体何のため?と思うほど、音楽的迫力も豊かさも感じません。
どことなく無理に音を出しているという印象で、その点ではむしろF278のほうが多少の元気さとバランス感もあり、いくらか良い感じですが。

ファツィオリは、新興メーカーにもかかわらず高級ブランドイメージの確立には成功しているようですが、その音はあまり個性的とは言えず、むしろ今風の優等生タイプにしか聞こえませんでした。
以前、マロニエ君はファツィオリはどこかヤマハに似ている、いわばイタリア国籍の高級ヤマハみたいなもの、という意味のことを書いた覚えがありますが、今回もほぼおなじように感じました。

そして皮肉にも、そのヤマハのほうが現在ではCFXによってうんと新しい境地を切り開いたと思います。
少なくともCFXには今のヤマハでなくては作れない、ピアノの新しい個性があるけれども、どうもファツィオリのピアノにはこれだという明瞭な何かを感じないのです。従ってヤマハといっても昔のヤマハに似ているというべきでしょう。

聞いた話では、ファツィオリは間近ではとても大きくわななくように鳴るのだそうですが、それがどうも遠くに飛ばないのかもしれません。
だから、このピアノに直接触れてみた人は、ある種の要素には何らかの感激を覚えるのかもしれませんが、普通に鑑賞者として距離をおいて、演奏される音だけを聴く限りにおいては、どこがいいのやらサッパリわからないところがあるのだろうと思います。

もしかしたらマロニエ君の耳と感性が及ばないのかもしれませんから、それなら誰かにファツィオリの魅力はなへんにあるかをぜひとも教えてほしいものです。
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博多駅地下駐車場

今年の春、新装成った博多駅では、大半が建て替えられ、その商業エリアは大きく増強されて大変な話題と賑わいを見せたところですが、その新駅ビルがもたらす人の流れは、多少は落ち着いたもののいまだに続いているようです。

ただしマロニエ君から見ると、あれだけ大がかりな駅&商業エリアの拡充・オープンに対して、駐車場がまったく不充分と言わざるを得ず、駅を駅として使う人にはそれでいいかもしれませんが、電車やバス以外で、つまりは車で博多駅に行く側にしてみれば、この駅に相応しい駐車場設備がないのが大いなる疑問でした。

やむなく新幹線のターミナル上にある古い屋上駐車場や、近隣の民間の時間貸しに頼らざるを得ず、駅ターミナルへダイレクトにアクセスできるような、中心となるべき大駐車場がないというのは、現代の新駅の構想として一体どういう考えなのかと思っていまいます。

以前ウワサでは地下駐車場が出来ると聞いていましたが、ついにそういうものは見あたらないまま春の開業を迎えたわけでした。後から聞いた話では、地下駐車場は建造中で完成が遅れる由で、そこに少しばかりの望みを繋いでいました。

その地下駐車場が半年遅れでこの秋に完成し、ずいぶん待たされたと思いつつ先日行ってみたのですが、なんとも気の抜けるような規模の小さな駐車場でしかなく、しかもはじめの1時間が500円、以降30分ごとに250円と、天神よりも料金が高いのには驚かされました。

おまけに頭上の商業施設とのサービス連携が一切なく、どれだけ飲み食いや買い物をしようとも、委細構わず額面通りの駐車代が要求されるのは二重の驚きでした。

あとから思い返せば、そういう理由からというのが了解できましたが、一番便利なはずのこの駐車場はしかしガラ空きだったのは、はじめは大いに意外な気がしたものです。

それと少々煩わしく感じたのは、駐車場の規模に対して、異様に係員の数が多く、赤い懐中電灯みたいな棒を手に持った男性がそこここに立って、いちいちあっちだこっちだとその棒を振りまわしてガチガチに誘導してくることでした。
普通、地下駐車場などは表示された標識を見ながら進んで駐車するのが普通のことなのに、まるで飲酒運転の検問のように制服を着た大勢の人達から次々に手招きをされるのは、なんだか異様な感じでした。

いまどき一番高いのは人件費で、ファミレスなどはこれをセーブするために、そこで働く人は気の毒なほど少ない人数で広い店を担当させられるようなご時世ですが、この駐車場ときたら、たったあれっぽっちのサイズにあんなにたくさんの誘導員がいるのは、よほど別に何かの理由があるのかと思われます。

さらに納得がいかなかったのは、帰りに車に戻ろうとして場内を歩き出したとたん、数人の係員が駈け寄ってきて、壁際の「歩道」を歩くように、頭を下げながらもほとんど強制的にそうさせる点でした。
そこはいちおうタクシーの乗り場を兼ねてはいたものの、車はほとんどいなくてあたりは深閑としているにもかかわらず、自分の車まで自由に歩くこともできないのは一体何なんなのか!?と思いましたね。

テロの警戒?
…はてさて、まるでそこには原子力施設でもあるかのごとき厳重さだったのは、今だに首を傾げます。
要するにどの角度から見ても快適な施設ではないことは確かで、よほどのことでもない限り、たぶんもう行くことはないと思いますが。
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ピアノ五重奏の夕べ

福銀ホールで、珍しいコンサートに行きました。
3人の地元のピアニストがウィーン・ラズモフスキー四重奏団を相手に、それぞれドヴォルザーク、シューマン、ブラームスのピアノ五重奏を演奏するというもので、この3曲はこの形体で演奏できるまさに三大名曲といってもいいもので、いわばピアノ五重奏曲の三役揃い踏みといったところでしょう。

お三方ともみなさんよく練習されており、とても整った演奏だったと思います。
福銀ホールの良好な音響と相まって充実したコンサートだと思いましたが、強いて言うなら、このカルテットの演奏は達者だけれども多少荒っぽく強引な面があり、それぞれのピアニストと本当に協調的な演奏をしたとは思えませんでした。
とくに前半のドヴォルザーク、シューマンはそれぞれに良いところがあったのですが、ピアノはそれほど強い指をした演奏というわけでもなかったところ、弦の4人がやや手荒とも言える調子で音楽を押し進める点があったのは、いささか残念でした。

音量の点でもヴァイオリンの二人などは、まるでソロのように遠慮無く鳴らしまくったのが気に掛かり、ピアノが弦楽器の陰に隠れんばかりになっていたのは、自信の表れかもしれませんが少々やりすぎでしょう。
多少指導的な気分も働いての結果かもしれませんが、音楽…わけても室内楽はバランスが崩れると聴く側も快適ではないので、いやしくもウィーンを名乗るのであればそのあたりはもう少し配慮が欲しいものです。
どうかすると弦の音だけで少々うるさいぐらいになる瞬間がありましたが、それでも全体としては歯切れ良くスイスイと前進する佳演だったと思います。

この夜の白眉は、後半の管谷玲子さんのピアノによるブラームスのピアノ五重奏曲で、これは実に見事でした。
テクニックも音楽性も他を圧倒するものがあり、ブラームスの情感をたっぷりと深いところから味わい尽くせる演奏で、これだけの演奏はめったにないものです。
思いがけない感銘を受けることになりました。

とりわけ感心したのは、自己表出よりも終始徹底して音楽に奉仕する演奏家としての謙虚な姿勢が明確で、その深みのある雄弁なピアノにはさすがのカルテットもやや襟を正さざるを得なかったようで、より音楽的な姿勢を強めて演奏していたと思います。この曲ではまったく自然なかたちでピアノが中心に座っていました。
管谷さんのピアノはやわらかな楷書ように清冽で、作品を広い視点から余裕を持って、確かな眼力によって捉えられていると言えるでしょう。
けっして目の前のことに気をとられて全体を見失うことがなく、常に腰が座っていて、しかも必要な場所でのしっかりとしたメリハリもある演奏には思わず唸りました。

ピアノの音色にもこの方独特のものがあって、芯があるのにやわらかい温もりがあって、それがいよいよブラームスの音楽を分厚く豊かに表現するのに貢献していたのは間違いありません。

つい音楽の中に引き込まれて集中していたのでしょう、この曲はほんらい長い曲なのですが、実際よりうんと短く感じてしまいました。逆に退屈すると、短い曲でも長く感じるものです。

終わってみれば、固まったように聴き入っており、こういう演奏に接することはなかなかありません。
本当に才能のある、器のある方だと思いました。

不満タラタラな気分を引きずりながら帰途につくことの多いコンサートですが、めずらしく良い音楽を堪能した気分で、心地よく帰宅することが出来ました。
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ピリスの証言

マロニエ君の部屋のNo.70で書いた「フランスの好み」に関連することで、興味深い文章を目にしました。

たまたま手に取った2年ほど前の音楽の友ですが、その中にマリア・ジョアン・ピリスのインタビュー記事があり、このころ彼女は「後期ショパン作品集」をCDリリースしたばかりの時期でした。
ピリスは以前からヤマハを好んで弾くピアニストの一人であるにもかかわらず、その最新のCDはどういうわけかスタインウェイで録音されており、とくにスタインウェイが好みじゃないということでもないようです。
そして、ヤマハとスタインウェイは、状況によって使い分けているといった印象を受けました。

インタビューでは自分がコンサートに使用するピアノのことにも触れられていましたが、それによると、やはり…と思わせられるのは、ヨーロッパは本当に状態の悪いピアノが多いのだそうで、それは楽器を持ち歩くことのできないピアニストにとっては尽きない悩みであり、頭の痛い問題であるようでした。
とりわけ小柄で手の小さなピリスの場合、状態の悪いピアノと格闘することは普通のピアニスト以上の苦痛の種になるようです。

ヤマハがとくに高い評価を得ているらしいと推察できるコメントとしては、そんなヨーロッパでは調律師の存在がひじょうに大きく、ヤマハは素晴らしいテクニシャンを擁しているから、この点で頼りにしているということでした。
やはり日本人調律師のレベルは世界第一級のようですし、同時に痒いところに手が届くようなサービスで顧客の評価を高めるやり方は、いかにも日本人的なやり方だと思われました。

面白い意見だったのは、日本でのコンサートでは、ホールのアコースティックがとても素晴らしいので、ヤマハのピアノを好んで使っているのだそうで、ヤマハで何も問題を感じないと発言しているわけですが、その微妙なニュアンスが印象的でした。

それに対して、ヨーロッパのホールはアコースティックがひじょうに悪い会場が多いのだそうで、そういう場所ではより大きな音の出るスタインウェイを使わざるを得ないということをはっきり言っています。
これはつまり、ヤマハは好ましいし技術者も素晴らしいが、たくましさがないということになるのでしょうか。

ピリスは今年のメンデルスゾーン音楽祭でも、ベートーヴェンの第3協奏曲をシャイー指揮のゲヴァントハウス管弦楽団と弾いていますが、ピアノはまたもスタインウェイを使っていました。

少なくともピリスほどのヤマハ愛好者でも、コンサートやレコーディングの現場ではまだ全面的な信頼は寄せていないということのようにも読み取れます。
ヤマハのコンサートグランド(すくなくともCFIIISまで)はこぢんまりとした美しさはあるのの、スタインウェイのようなスケール感や壮麗な音響特性はもうひとつ不足するのでしょう。
同時に、ヤマハを好むフランス人などの演奏を聴いていると、スタインウェイの音色ではときにあまりにも絢爛としすぎて、楽曲や演奏の内面に潜む綾のような部分を描き出すような場面で、やや派手すぎると感じる局面があることもわかるのです。
このことは、オールマイティを誇るスタインウェイの特性の中で、数少ない欠点と言うべき部分なのかもしれません。

音楽を大きく壮麗に語りたい場面、あるいは音響的で強い表現を求める場面では、スタインウェイは他の追従を許さない名器ですが、逆に、華奢で傷つきやすい、私的心情をこまやかに表現したい向きには、日本の製品のもつきめの細かさが有利となるのかもしれません。
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鈍感は病気

ちょっと思いがけない話を聞いて、なるほど!と思いました。

ある人が人間の神経のありようを書いた本(どんなものか知りませんが)を読んでいると、俗に言う「鈍感な人」というのは、多少は性格的なものもあるにしても、専門的に見れば「病気」なのだそうです。

あまりにも神経過敏で、いつも気分がピリピリ張りつめているのも、これはこれで一種の病気でいけませんが、その逆も然りで、周りに迷惑とストレスを撒き散らします。
何事も過不足なくあらねばならないというわけでしょう。
神経過敏の真逆に位置する鈍感は、本来あるべき神経がスポッと抜け落ちているのだそうで、これは手の打ちようがない。

どちらかというと神経の細いほうのマロニエ君としては、一線を越えた鈍感な人は、眼前に立ちはだかる分厚い壁のように圧迫を感じて苦手です。
そしてこの世に「感じないということほど強いものはない」と思うに至っていますが、本当にそれは最高に無敵です。なんといっても本人は至って平穏で、かつそれがもっとも楽で自然な状態なんですから。

裏を返せば「感じる」ということは、これほど弱くて疲れるものもないわけです。

この鈍感な中にも比較的無害なタイプもあるとは思いますが、経験的に大半は有害です。
日常のなんでもない場面で、この鈍感さの仕業によってエッ?と思うようなことを次々に言ったりします。はじめはイヤミでも言われているのかと思いましたが、どう見てもその様子にこれという意志や悪意はなく、ごく自然に無邪気に言っていることがわかり、安心するような、よけい疲れるような…。

なにしろ本人に悪意や自覚がないもんだから、ずんずん無遠慮に踏み込んでくるし、そこには用心もためらいもブレーキも効かない。そればかりか、どうかするとむしろ大真面目だったりする。
はじめは、よほど田舎の出だろうかとも疑ったりしますが、出身地などをさりげなく聞いてみてもさにあらずで、…やはりただの性格だろうかと思うしかありません。
どうも、いろんな折にあれこれと軋轢を生んでいるらしく、そりゃあそうだろう!と思いますが、それを言うわけにもいきません。

こういう人達は、普通の社会人なら自然的にコントロールするようなことでも、それができないため、すぐに言動に地が出てしまいます。本人は普通の振る舞いのつもりでも、相手はかなりストレスを受けたりする。
場合によっては、馬鹿話や冗談さえも通じず、まったくちがうニュアンスに捉えたりするため、呆然とすることしばしばで、こういう人の前ではうかうかおもしろい会話もできません。

いらいそのタイプの人と接触するときは、こちらが注意するべく身構えるようになりましたが、それがつまり病気なんだと思うと、一気に納得したというか、少し気が楽になったような感じもします。
必要な神経の一部が欠落欠損しているということになれば、それをひとつのハンディと見て接することもできるかもしれません。

ただし、精神領域の難しいところは、表向きはごく普通の健康な人ですから、そういう人にハンディの認識を持つということは理屈で言うほど簡単ではないのです。
言葉はそれ自体が意味を持ち、人はその言葉に反応するから、思わずその意味で受け止めてしまうわけで、それを度外視して、受け止める側の内面で処理をするのは、現実は難しいだろうと思います。

しかし、それでも「病気」だという認識は、ムッと来たときのひとつの自分なりの逃げ道が出来たようで、ないよりマシかとは思います。
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自分だけじゃない

今どきの歌の歌詞のようなタイトルですが、定例会では、皆さんの演奏ぶりをつぶさに見ていると、いつも落ち着いて平然と弾いているように見える方でも、実際はけっこう緊張しておられる様子がわかったのは、いまさらみたいな発見でした。

人前演奏が「超」のつく苦手なマロニエ君としては、自分が弾くところを見られるのが相当イヤなものだから、これまでは人の演奏もまじまじと見てはいけないもの、じっと見るのは失礼で、まるで辛辣な行為のように勝手に思い込んでしまっていたところがあって、実はこれまであまり凝視することはできるだけしなかったのです。

ところが先日の定例会では、ピアノとの距離の問題か、光りの加減か、とにかくごく自然にそれが目に入ってしまい、つい細かいことが見えてしまったというわけです。

すると、一見普通で冷静のように見えても、指先がずいぶん震えていたり、足までわなわなしていたりと、かなりの緊張に襲われている様子がわかりましたし、何度も聞いている人の同じ曲の演奏でも、過去に何度もスイスイと弾けていた人が、そのときに限って崩れたりすることもわかり、ははあ、みんなそうなのか!と思いましたね。

というのも、マロニエ君など、どんなに家ではまあまあ弾ける(もちろん自分なりに)ようになったと思っても、人前というのは特に個人的にそれが苦手ということもあり、想定外のいろんなハプニングに見舞われて、とうてい思ったようには行かないというのが現実なのです。

もちろんミスなどするのは自宅でも毎度のことですけれども、そんな中にも通常の自分ならまずミスしない部分というのも、曲の中にところどころはあるわけですが、そんな大丈夫なはずの部分まで、人前で弾くとまるで悪魔がパッと微笑むようにミスってしまったりで、あれはなんなのかと思います。
そして、そういう思いがけないミスに自分がショックを受けて、更なるパニック連鎖の引き金になるんですね。

それと、崩れてしまう大きな原因のひとつは、音楽というものが宿命的に一発勝負という非情な世界に投げ込まれるからであって、どんなに別のところでそれなりにできたとしても、定められた場所と時間でできなければ、ハイそれでお終いという性質を持っています。それがわかっているものだから、またいやが上にも緊張を誘い込むのだろうと思います。
そういった、音楽が本源的に持っている性質は、プロはもちろん、我々のようなシロウトであっても基本的に同じだと思います。

そういういくつかの要素があれこれと絡み合い交錯することで緊張を誘発し、動かない指はいよいよ固まり、頭は飛んでしまうというわけです。
こうなると、もう一切を放棄して途中で止めたくなるし、こんな情けないヘンなことになるのは自分だけじゃないか?と内心思っていたのですが、その点で言うと、へえ、ほかの人もそうなんだ…ということが少しわかってきて、それで嬉しかったと言っちゃ悪いけれども、なんだか安心したことは事実です。

マロニエ君はちょっとしたことに過剰反応し、すぐにマイナスに影響される面があって、人前というのはもちろんですが、自宅とは照明の感じが違って、他所では鍵盤がパーッと明るく見えてしまうだけでも緊張して、たちまち勘が狂って崩れてしまいます。
小さな事に動じず、どっかり弾けたらどんなにいいかと思いますが、それは夢のまた夢です。
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麗しきディアパソン

文化の日は、ピアノクラブの定例会で、メンバーの方所有のプライヴェートスタジオで行われました。
あいかわらず素晴らしい会場で、これが個人の空間というのは何度行っても驚かされます。

ピアノはディアパソンの新型のDR500という奥行き211センチのモデルで、ヤマハでいうと6サイズ、スタインウェイではB型という、いわばグランドピアノ設計の黄金分割ともいえるサイズです。

数ヶ月前に弾かせていただいたときにもその上品で美しい音色、さらには会場の音響の素晴らしさとのマッチングには深く感銘したものでした。
しかし、今だから言うと、強いていうならピアノのパワーはもう一つあればという印象が残ったことを告白します。

その後、調律師さんを変更されて調整を入れられ、さらに定例会の2日前に再度その方によって調律されたということを聞きましたが、果たしてそのピアノ、目を見張るほどの大きな変化を遂げていました。
音色に豊かな色艶が加わり、好ましい芯が出てきており、さらにもっとも驚いたことには、以前よりもあきらかにひとまわりパワーが増していたことでした。
やわらかさはちっとも損なわずに、逞しさと色気という表現力の要の要素が出てきていました。

まさに第一級のピアノに変貌していましたが、これも場所とピアノが同じであることを考えれば、あとはもう調律師の適切な仕事による効果だと考える以外無いでしょう。

良いピアノというのは弾き心地がよく、演奏者を助けてくれるものですが、まさにそんなピアノでした。

ただ皮肉なもので、以前はこの空間とピアノの響きのバランスが見事に調和していたのですが、ピアノの状態が進化して音量と音の通りが増したため、音響空間としては、ほんの少しですがやや響きすぎる感じになってしまっていたと思います。

オーナーの方もそこには薄々気がついていらっしゃるようで、「もう少しスタジオを吸音してみます」というメールをいただきました。
また大変かもしれませんが、のんびり実験のようにやっていかれるらしく、ピアノが良く鳴るようになったがための対策なら、基本的に喜ばしいことですけどね。

まあ、つくづくと楽器と空間の関係というのも、微妙で難しくてやっかいですが、だからこそまたおもしろいと言えるのかもしれません。

ちなみにこのサイズでは、日本製ピアノだけでも、ヤマハのC6、S6、CF6、カワイのRX-6、SK-6、ボストンのGP-215、同じくディアパソンのDR211(DR500との違いは弦の一本張りか、押し返し張りかの違いのみ)の7種がありますが、このスタジオのDR500は間違いなく最良にランクしていい優れたピアノだと思います。

とくに興味があるのは同じボディと響板を使うカワイのRX-6、ディアパソンのDR211とこのDR500はどのように違ってくるかの比較ですが、そんな機会はまずないでしょう。
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意外に慎重派

「NHK音楽祭2011 華麗なるピアニストたちの競演」、第二週は日本人の登場で、河村尚子さんでした。

この人は最近売り出し中のようで、雑誌やCDなどでもしばしばその顔写真を見かけます。
ドイツ仕込みということだそうで、留学経験やミュンヘン・コンクールに入賞するなどの経歴もあり、いわゆるドイツものが得意ということのようです。

オーケストラはマレク・ヤノフスキ指揮のベルリン放送交響楽団で、曲はベートーヴェンの皇帝。
以前も感じたことでしたが、この人のステージ上の所作はあまりマロニエ君は好みません。
どことなく大ぶりな動作や、あたりを睨め回すような表情の連発で、それを裏付けるだけの音楽が聞こえてくるならまだしも、そのいかにも「オンガクしてる」的な動きばかりが目につきますね。

それに対して、演奏はさほど大きさがありません。ときに繊細な情感があって美しいところもあるけれど、基本的には皇帝のような堂々たる曲を、えらく用心深く弾いてしまったのは、その視覚的イメージとはかけ離れた、普通の慎重型のピアニストのひとりに過ぎないと思いました。
見た感じは押し出しのある、アクの強い表情などもするから、相応の迫力でもありそうなものでしたが、出てくる音楽はえらく控え目な、常に抑制された演奏を最後まで通しました。

そのためか、第2楽章などはまるでモーツァルトのように聞こえる場面もあったりで、よほどこの人は安全第一の慎重派らしいということがわかりました。
演奏のクオリティを上げるのは結構ですが、そのための慎重さのほうが前面に出て音楽の醍醐味みたいなものが損なわれるようでは、本末転倒だと思います。本人にしてみれば「音楽を優先した、コントロールの行き届いた演奏」だというのかもしれませんが。

こういう曲の佳境に入ったところに、あえて繊細な表現をしてみせたり、フォルテッシモが交錯するようなところでも、期待に反するような抑えた弾き方をするのは、聴く者をただ欲求不満にするだけだと思いますし、要するに奏者の自信のなさと指が破綻しないための方便のようにしか見えません。

それと気になったのは、この人はよほどリズム感がないのか、大事なピアノの入りのところで何度もタイミングが一瞬遅れるのが目立ったことです。一番多かったのは第3楽章で、あれではオーケストラも丁々発止で乗れないでしょうね。

この曲は、もちろん音楽的に深いものは必要ですが、同時にある程度勢いで前進しなくちゃいけないところもあるわけで、そういう肝心の箇所にさしかかったときにツボを外されたら聴く側の高揚感もコケてしまいます。
オーケストラも開放的な流れを堰き止められて、弱いピアノに合わせながら演奏しているようなところがあったのは、せっかくこれだけの一流オーケストラなのに残念でした。

こういうことを言っちゃ叱られるかもしれませんが、そもそも皇帝みたいな曲は基本的に器の大きな男性ピアニストがオケと互角のやり取りをしないと形にならないところがあるように思います。
逆にシューマンのコンチェルトなどは男が弾くとどうにもサマにならない感じもします。

もちろん例外はあるのであって、リパッティ/カラヤンのシューマンなどは永遠の名演ですけれども。
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シゲルカワイの疑問

評判が高く、マロニエ君自身も一定の好感をもっていたシゲルカワイ(SKシリーズ)ですが、その印象もだんだん怪しくなってきました。このところ続けて聴いたコンサートやCDからの印象です。

ショールームなどで弾いてみると普通のRXシリーズよりもピアノとしてひとまわり懐が深く、音も太めの渋い音がするし、タッチにもある一定のしっとり感のようなものがあって、さすがにSKシリーズは格が違うらしいと思わせられるものがあるものです。
実はどこか、なにかが引っかかっているのに、それが何であるかまでは明確にわからずにいたわけです。
というのも弾き心地はいいし、RXシリーズより明らかな厚み深みがあるものだから、その長所ばかり気をとられてしまうのでしょう。

一番問題を感じるのは要するに音色の問題です。
ピアノの音は自分で弾いてみないとわからない部分があると同時に、自分で弾いているとわからない性質の要素もあって、人の演奏に耳を傾けることによってはじめて見えてくるものというものがあることは、そういう経験をお持ちの方ならすぐにわかっていただけると思います。

そして、SKシリーズの一番の弱点はこの「人に聴かせる」という部分じゃないかと思います。

ただ単に聴く側にまわると、意外に音色が雑で、あまり芸術的とは言い難い。
ピアノの音にもいろんな種類や傾向があって、現在の主流はやはり明るくブリリアントな方向でしょうが、それでもないし、ではドイツピアノのような渋くて重厚な音という方向もありますが、どうもそういうものでもない。
フランス的な柔らかな響きなどはいよいよもって違います。

ひと言でいうと基本となる音色に色艶がなく、音自体も暗めであるにもかかわらず、今風な華やかさやパワーもありますよという建前を感じるわけで、作り手の思想に一貫したものが感じられません。
ピアノが生来持って生まれたものとは逆の性格付けをしようとしているところに大きな矛盾があるようで、これがこのピアノの最大の問題ではないでしょうか?

コンサートグランドにしても、マロニエ君としては従来のEXのほうがスケールは小さくても音楽的には好ましいということを折に触れて書いてきましたが、やはりその印象は今も変わりません。

小さいサイズのピアノでも、SKシリーズはいかにも高級シリーズという風格は備えていますし、音も堂々としているかに聞こえますが、本当に美しい音楽的な調べを奏でるのは、もしかしたらレギュラーモデルのほうでは?という気がしてきました。

マロニエ君の友人知人もカワイのレギュラーシリーズのユーザーが数名いますが、それぞれに本当に美しい「カワイはいいなぁ」と思わせる音色をもっています。

ところがSKとなると、そういうカワイの独特の美しさとは違った、色艶のない、野太くて荒っぽい響きになっていると感じるのです。これは最高峰のSK-EXでも、それ以外のモデルも同様の印象で、その点じゃシリーズとして一貫しているかもしれませんね。目先の効果としては太くていかにも響板が鳴っているような音はでているけれども、要するにそこから先の奥の世界がない。

本当に優秀なピアノは間近で聴いていると大してきれいには聞こえなくても、少し距離をおくと音が美しい方向に収束されて時に感動さえするものですが、SKシリーズは距離をおくと逆に音色がばらけてしまって、音楽に収拾がつかなくなる。

これは、もしかしたら本来そこまでの能力を想定していない設計のピアノを、無理にグレードアップしたためにどこかで破綻が起きているような印象でもあります。
まるでピアノ工房の職人が作った、チューンナップピアノ的な傾向にあるのではないかと思います。

ピアニストによるSKシリーズ使用のコンサートはパッと思い出すだけでも4~5回は聴いていて、サイズも様々ですが、すべてに共通しているのは音に密度感がなく、暗い感じの音を遮二無二鳴らしているだけという印象でした。
けっきょくカワイの最良の選択は、レギュラーシリーズを家庭などで使うというスタイルなのかもしれません。
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秋の不気味

今年もすっかり肌寒さを感じる季節になり、少なくともあの暑苦しい夏とはきれいにおさらばした観がありますが、まだまだ庭には雑草が性懲りもなく生えてくるのはなんなのかと思います。

それもこの時期には似つかわしくない、いかにも若々しい新緑のような色をした雑草が、今ごろ思い出したように着実に生え続けています。
そのうちまた除草剤を撒けばいいやぐらいに思って油断していると、さすがに夏場の勢いはないものの、日に日に確実に伸びてくるのがわかり、だんだんこちらも焦ってきます。

それと、驚くのはもう11月となりこれほど気温は下がっているのに、庭に出るとまだ蚊がぶんぶんとまとわりついて、いまさら季節はずれにパチンパチンとやらなくてはいけないのは嫌になります。

思い起こせば「放射能の影響で蚊が激減している…」なんて話も耳にした今年の夏でしたし、雀の声がさっぱり聞こえないのはどうしたわけか、…なにかの悪い予兆では?などという話もまことしやかに囁かれたものですが、少なくともマロニエ君の生活圏ではまったく逆の状態が続いています。

雀も街路樹などにはたくさんいて、夕刻などはその鳴き声がいささかうるさいぐらいです。

雑草退治は、友人に手伝ってもらって除草剤散布を決行したところ、裏のマンションとの境目に不気味な空白地帯があるのですが、友人はついでだからといってそこにも除草剤を撒きに潜入していきました。
マロニエ君などは薄気味悪くてとてもそこまでする気はありませんでした。

しばらくして戻ってきた友人の体をみてびっくり仰天!
なんなのか種類は知りませんが草木の種みたいなものをセーターやズボンにびっしりとくっつけて戻ってきたのです。
見たとたん、その気持ち悪さに血の気が引きました。
ブツブツ恐怖症と同様のグロテスク感があって、思わず鳥肌がたちましたね。

すぐにそれを取り払ってやろうとしますが、ひとつひとつが目には見えない小さなトゲみたいなものでくっついているようで、指先で少々払ったぐらいではまったくひとつも外れません。
結局時間をかけてひとつづつ取っていくしかありませんでした。

種類もいくつかあって、2センチほどのか細い枝みたいなものがハリネズミのように無数にセーターに突き刺さっているようなものから、もっと小さくて虫のようなものが機関銃で撃ったように連続してびっしりとくっついていたりしていて、突然、気分はホラー映画状態になりました。
気持ちの悪いことこの上ない中、全部取るのはかなりの時間を要しましたが、いやはやあれはすごいもんですね。

なんというか…神経に訴えてくるような生理的嫌悪感がありました。
もともとマロニエ君は軽度のブツブツ恐怖症でもあるので、その面が大いに刺激を受けたようです。
思い出すだけでもゾクゾクと身震いしながらキーボードを打っています。

植物は人の生活には欠くべからざるものですが、野生の分野では、一転して不気味な面もいろいろともっていることも確かなようです。
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華麗なるピアニスト?

先週からBSプレミアムで「NHK音楽祭2011 華麗なるピアニストたちの競演」というのをやっています。

この秋に招聘された5人のピアニストによるコンチェルトが紹介されるようで、第一週はボリス・ベレゾフスキーとシプリアン・カツァリスが放映され、その録画を見てみました。

ベレゾフスキーはリストの第1協奏曲を弾きましたが、率直に言ってなんとも粗っぽいだけの演奏で、以前ラ・フォル・ジュルネでショパンの第1協奏曲を弾くのを見て、その大味さにがっかりした記憶が蘇りました。
あのロシアの大男の体格がなにもピアノの音の表現力の幅や豊かさとして役立っておらず、とても一流とはいいかねる雑なだけの演奏でした。これはベレゾフスキー自身の気質からくるものとしか思えないほど、音楽の大事なところをバンバン外れて通過してしまっている、いいところが少しも感じられない演奏でしたね。
そのくせパワーだけは出そうと、第4楽章などは汗みずくになって力演していましたが、この人の魅力がなへんにあるのか、ついにはわからないまま終わりました。
むしろ良かったのはアンコールで弾いたチャイコフスキーの四季から10月で、さすがにロシアの小品などを弾かせると、動物的に大暴れできるところもなく、その静やかなロシア的な旋律がそこはかとない哀愁を帯びて、このときばかりはチャイコフスキーの音楽が聞こえてきたようでした。

カツァリスはモーツァルトの21番の協奏曲ですが、これがまたなんの感銘も得られない表面的なチャラチャラした演奏で、この日はほとほと不満が続きました。この人はもともとマロニエ君にはかなり苦手なピアニストなのですが、やはり指先だけの技術を見せよう見せようと、終始そればかりに腐心しているようで、音楽の内容という面ではまったくの空白という印象でした。
この頃になると、もうすっかり疲れてしまって、最後まで見通すこともできませんでした。
カツァリスはもともと大道芸人のようなピアニストで、マロニエ君は彼を一度も芸術家とは思ったことはありませんが、その彼も寄る年波か、そのサーカス的な指芸にも翳りが見えてきたようでした。
唯一、彼の存在理由を挙げるとしたら、彼はなかなかのピアノマニアらしく、いろいろなピアノを使ってCDなどを作ってくれている点です。ただし、その演奏がこの人自身なので興味も半減ですが。

なつかしかったのはモーツァルトでは御大ネヴィル・マリナーの指揮だったことですが、彼が振ると普段は愛想のないN響でもマリナーのあの馴染みやすい甘い音色になり、流麗で華やかな流れに乗ったモーツァルトが流れ出すのはさすがでした。ちなみに映画『アマデウス』で使われた演奏の指揮をしたのもこのマリナーですが、この巨匠もずいぶんお年を召したようでした。

ピアニストに話を戻すと、こんな二人を呼ぶぐらいなら、日本にはどれだけ素晴らしいピアニストがいることかと思われて、その中途半端に派手さを狙った企画そのものが残念です。おそらくは真の音楽的な価値よりも、海外の有名どころの顔と名前をズラリと並べるほうがウケるということなのかもしれませんが、もうそろそろ日本人も「舶来上等」の思い込みを捨てたらどうかと思います。
それには聴衆も知名度だけに頼らず、輸入物の粗悪品では満足しないという成熟が必要ですが。

現に工業製品などでは、いまや日本製であることが内外でも特別な価値であることが認識されつつあるのですから、外国人をむやみに有り難がらずに、良い音楽を求めるという方向に向いて欲しいものだと思います。
とりわけ日本は上記の二人のような演奏が通用する音楽市場ではあってほしくないと思いました。

ちなみにカツァリスはヤマハのCFXを弾きましたが、モーツァルトのような小ぶりな曲を弾くには、なかなか繊細で品位のある音色で鳴るピアノでした。
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正式購入へ

〜昨日の続き。
この方はずいぶんあちこち日本全国のピアノ店を見て回られたようなのですが、いろんな意味でこれだという決定打になるピアノがなく、そのうちのごく僅かはマロニエ君も同行させていただいたところもありましたが、ピアノ選びは楽しくもあり、同時になかなか難しいものだと思います。

これが日本製の比較的新しいピアノとかであればそのようなことも少ないと思われますが、古い輸入物のピアノとなると、これはもしかしたら危ないもののほうが数が多いと思っておいてもいいくらいで、その中から首尾良く上物を選び出すということは、専門の技術者であってもそう簡単ではないかもしれません。
ましてや我々のような素人がアタリを引き当てるのは相当な難事業だといえるでしょう。

ただ、何事もそうですが、はじめは明確な判断力が持てないかもしれませんが、やはり数をこなしていくうちにだんだんと良否の選別ができるようになっていくものですから、時間さえかけて気長に取り組めば不可能なことではないと思いますね。

しかしスタインウェイなどの中古ともなると、言葉では「数を見ることが大事」などといっても、実際はそう簡単じゃありません。そのへんの中古車店を見て回るのとは訳が違って、至近距離には該当するモノがないのですから、一台二台見るために、とてつもない距離を移動することになりますし、出張のついでにめぼしいピアノ店行かれたり、新幹線や車を使っての長距離遠征もだいぶ敢行されたようでした。

それだけの経験と数を経てこの一台に到達したわけですから、その甲斐もあって、とても良く鳴る健康的で元気のいいピアノです。
しかもこれは、本などにも記されるヴィンテージ・スタインウェイと呼ぶべき戦前のモデルで、人間なら立派に老境に入っているところですが、さすがはスタインウェイというべきか、内外ともにドイツの職人によってまことに美しく、輝くばかりに仕上げられており、古さなどはまったく感じさせません。

さらに驚くべきは、小さいサイズのグランドであるにもかかわらず、出てくる音にも元気と力強さがあって、太くて美しい音が楽々と出てくるのはなにより瞠目させられる点でした。
あまりにも音の勢いが良いので、試しに大屋根を閉めてみたところ、それでも大差というほどの差はなく、さらには上のフタを全部閉めてみたのですが、それでもひるむことなく相当の音量で朗々と鳴りきっているのには呆れました。

ここでしみじみと思ったことは、状態の良い良く鳴るピアノはフタを開けても閉めても、要するに元気良く鳴るものだということで、音に不満がある場合にフタを開けたり閉めたり、あれこれ工夫の必要があるなどは、そもそも基本的な鳴りにどこか問題があるに違いないと思います。
鳴るものはどうやったって鳴るという至極当然の事がわかりました。

ひと月ほど前に戦前のドイツピアノによるコンサートを聴きましたが、そちらも一流メーカーのピアノではありましたが、低音域などは完全に音が死んでいて、ただゴンとかガンとかいうだけでひどくガッカリした印象が強かっただけに、今回のスタインウェイにはまったく驚かされました。
実年齢とは違って、人間でいうと働き盛りの30~40代という感じで、もちろんこちらは完全なオーバーホールがされているということはありますが、それ以上に根本的な品質と設計の違いを痛感させられました。

それにしても、部屋にグランドピアノが鎮座する光景というのは実によいもので、まるきり家の雰囲気がかわったようでした。まさに主役の到来という感じです。
これまで使われたアップライトと向かい合わせに置かれていますが、これからは練習にも身が入ることでしょう。

最後になりましたが、搬入から数日後、正式購入ということになり、晴れてこの家のピアノとなったのでした。
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仮の嫁入り

つい先日、知人の自宅に美しいピアノが搬入されました。
マロニエ君も当日はご招待に与り、午後からお邪魔して、少々弾かせていただきました。

このピアノは、その知人が数年間をかけて、実に30台近くを見て回って、吟味に吟味を重ねたあげくに運び込まれたスタインウェイです。

ここでいう「運び込む」というのは、いわゆる購入によるそれではなく、店頭で聴く響きが果たして自宅へ場所を変えた際にどうなるのかという点を迷っていたところ、店側の責任者の英断によって、それだったら自宅に運び込んでみましょうか?ということとなり、そこで双方の合意が得られたというものでした。

ですから、これは自宅部屋での響きを確認するという目的のための運搬と設置であって、まだ購入を決定したわけではありませんから、ピアノは届いても、まだ店の商品ということになります。

もちろん、それで納得すれば購入するという、大前提が付くのはいうまでもありませんが、こういう方法は客側からはなかなか言い出せるものではないものの、幸いにして店側がそこまで譲歩してきたために思いがけなく実現したものでした。

店側にしても、そういう思い切った手段に出た方が話が早いという目論見があった可能性は十二分にあり、営業サイドとしては、十中八九話は決まったも同然の、事実上はほとんど片道キップで送り出したピアノだっただろうと思われます。
まあそれだけ店側にも自信があったという解釈もできますし、そうすることがギリギリのところまで来ている購入者の決断の、背中をもうひと押しすことにもなると踏んだに違いありません。

正直いって、マロニエ君もそのピアノの音色や鳴りが優れていることは感じていましたし、しかもその良さはピアノ本体がもっているものであって、決して店頭の音響的な条件とか助けによって達成されていることではないことはほとんどわかっていました。
さらには、知人宅のピアノを置く予定の環境も知っていましたから、このピアノがそこへ持っていったとたんに大きく音色や響きが変わるなんてことはないことも容易に想像がつきました。
ただ、決して安い買い物ではないし、当人としては念には念を入れたいと考えることは大いに理解できます。

ときどき耳にする話ですが、ショールームで弾いてみて気に入って購入したピアノだったにもかかわらず、いざ自宅へ届けられて部屋に置いてみると、まったくその良さが損なわれてしまってガッカリという話もありますし、場所が変わってフタを閉めたらタッチまで別のピアノのようになってしまったなんていう笑うに笑えない話もたしかにあるので、できることならこういう順序で購入できるものなら、あとから失望するなんてことはないわけで、多少の手間暇はかかりますが、これはこれでひとつの賢いやり方だと思いました。

別の店で見たピアノでは、店頭での調整とか設置環境によって響きが違うということで、遠方まで数回足を運んだという経緯もありましたが、今回しみじみ思ったことですが、良いもの/それほどでもないものは、あれこれと分析したり理由付けなどしなくても、だいたい初めの5分で決するものですし、もっというならものの10秒ぐらいで勝負はついてしまうように思います。これはピアノに限りませんが。
ピンと来ないものは、やはり何かがあるのであって潔く止めたほうが賢明で、時間をかけたからといって良し悪しの判断が覆ることはまずないし、そのあとにやっていることは、専ら言い訳さがしにすぎないのです。

その点で、このピアノは初っぱなから好印象がずっと崩れずに続いていました。
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電話中の車

世の中には、どんなに厳しく言われてもなくならないことは沢山ありますが、最近の交通関係でいうと、飲酒運転と運転中の携帯電話の使用ではないかと思います。

まあ、飲酒運転に関しては限りなく犯罪と同等の行為ですから論外としても、携帯でしゃべりながら運転している人って、どうしていまだにこんなに多いのかと思います。

かくいうマロニエ君とて身に覚えはありますし、事実むかしはときどきやっていましたが、そのときの自分の経験で言っても、あれは確かにどうしようもなく注意が散漫になり、運転が疎かになるのは事実です。
さすがにその害悪を自分で感じてたことと、さらにはこの行為は検挙の対象ともなり、それできっぱりしなくなりました。

運転中の通話など、いったん決心さえすればなんてことなく止められることなのに、その数があまりに多いのと、中には走りながらメールを打っている強者までいるのには呆れます。

最近では車の動きや雰囲気でだんだんそれだと見分けるのが上手くなり、見るなりピンと来るまでになりました。
警察官がよく「鼻が利く」などと言いますが、それはよくわかるような気がしていて、マロニエ君もちょっと鼻が利くようになってきたということかもしれません。
いわゆる、ポイントはちょっとした気配が問題なのであって、ある表現で言うなら、車の動きに腰がないわけです。
膝を曲げてふわふわ歩く人のように、車の姿勢にどうしようもなく安定感と意志がない。

酒酔いではないから、さすがにフラフラと蛇行まではしていませんが、車の動きが消極的で、周囲の交通状況に対して非協調的、なんというか空気が読めない人と同じくその流れの中でポッと浮いているわけです。

それはただ普通に交通の流れに沿って走っているだけでもわかるのですから、やはりちょっとしたことというのは思った以上に外目に出るのだなあと思います。
ピアノリサイタルなどに行っても、この人は今本気で弾いていないとか、聴衆をナメているとか、主催者から乞われて不本意にこの曲を弾いているな、というような心のありようが当人の予想以上にバレてしまっているのと同じですね。

意味もないほど車間距離をあけたり、右左折が無意味なほどゆっくりだったりするのはだいたい携帯を使っており、どれもに共通するのはドライバーが運転は二の次で、別のことに心を奪われているというのが、見事にその動きに出てしまうものです。

こうして考えていくと、自然な車の動きというのは、要するに小さな反応の連鎖だと思います。
まるで自分の意志がないかのような動きをするのは、その小さな動きに出るようで、それがひとつではわからなくても2つ3つと重なっていくうちに、これはおかしいと周りに察知されてしまうのだと思います。

マロニエ君みたいな素人でも最近ではかなり的中率は高いので、プロの警官なら朝飯前でしょう。
以前は、警察密着型のようなテレビ番組で、歓楽街でパトロール中、ふっと視界に入っただけであの車は怪しいなどとベテラン捜査官の勘が働くというのを聞いて、はじめはたいそう感心していましたが、携帯使用中の車がわかるようになってからというもの、そりゃあプロが本気で毎日やっていれば、犯罪の臭いを嗅ぎ分けるべく直感が磨かれていくのは当然だろうと思います。

逆にいえば、それをごまかすことのほうがよほど高等技術で、そんな技巧を磨くより、運転中電話なんぞしないほうがどれだけ安易で楽なことかと思います。
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山本貴志と関本昌平

共に2005年のショパンコンクールで4位に入賞した二人の日本人、すなわち山本貴志と関本昌平のCDを立て続けに聴いてみました。

もとは山本貴志のコンクールライブをCD店のワゴンセールで買い求めたことがきっかけで、ついで関本昌平のデビューCDを聴き、さらに同氏のコンクールライブを購入、最後に山本貴志のノクターン集と都合4枚を聴いたわけです。

コンクールの結果が共に4位であったことが示す通り、いずれも実力は拮抗しており甲乙付けがたい素晴らしいピアニストだという点では大いに納得しました。
コンクールで日本製ピアノを使っている点でも、二人は共通しているようです。
強いていうなら山本貴志が詩的で高い完成度を目指しているのに対して、関本昌平はよりパワフルで燃焼感のある演奏というふうに区別できるような気がします。

山本貴志は大きな冒険心や霊感の発露がないかわりに、きめの細かい隅々まで神経の行き届いた均整の取れた演奏をコンクールでも披露して、その端正でデリケートな美しさがワルシャワの地でも多くの支持を得たようです。
どちらかというとブレハッチ型の演奏ですが、その繊細を極めた心情には日本人ならではのクオリティと美意識が伺えて、ブレハッチよりもさらに上を行くほど姿の整ったショパン演奏を実現した弾き手だと思われます。
対する関本昌平には演奏に力感が漲り、ショパンの音楽が崩壊しない範囲においてピアニズムを輝かせながらガッチリとした重力と推進力があるのがなんともいえぬ魅力で、非常に聴きごたえがある。

関本昌平のデビューCDは日付を見ていると、なんとショパンコンクールの直前に栗東のホールで収録されており、これはコンクールを控えてよほど弾き込んでいたのか、ともかく傑出した演奏だと思いました。曲目もコンクールライブとほぼ重複したものですが、セッション録音だけにより自分の魅力を十全に発揮しているといえますし、ピアノも録音も非常に満足の高いものでした。
コンクールライブでは一発勝負ならではの緊張感や粗さ、わずかなミスなどもありますが、基本は似た感じの演奏でした。

一番の違いはピアノで、セッション録音ではヤマハのCFIIIS、コンクールではカワイのSK-EXを弾いていますが、この両者に関する限りではCFIIISのほうがはるかにピントが合っていて。モダンで華もあり、ショパンにはマッチしていると思いました。

反対に山本貴志はコンクールでもCFIIISを弾いていますが、これはこれで非常に彼の演奏に適した賢い選択だったと思いました。これがスタインウェイでもカワイでも、彼の明晰でセンシティブな演奏の魅力は表現できなかったかもしれません。

どれもが素晴らしいCDで大いに満足していたのですが、最後に聴いた山本貴志のノクターン集は昨年夏、山形テルサで3日間を費やして収録されたもののようですが、その録音が芳しくない点は落胆させられました。
全体的に何かが詰まったようなモコモコした音で、これでは演奏の良し悪しもピアノの音色もなにもあったものではありません。
まるで分厚いカーテンの向こうで演奏しているみたいで、なんの迫りも広がりもない音になっているのは、いかにも演奏者が気の毒だと思いました。

全体として、ショパンとしての完成度ということでいうと山本貴志なのかもしれませんが、あくまで僅差であって、ショパンらしさを狙うのであれば、もう少し湧き出るような詩情の表現があったらと思われますし、聴き手も息の詰まるような完成度より、即興的な優美を期待しているのではないでしょうか。
その点では関本昌平は、質の高い演奏の中にもピアニスティックな逞しさがあるぶん、聴きごたえという点ではこちらのほうが大いに溜飲の下がる思いがして、現段階ではマロニエ君は関本氏に軍配を上げようと思います。

日本人の課題は、許される範囲内で、奏者の感興による微妙な崩しや、聴く者の心を動かす歌が入ることが必要じゃないかという点のように思うのです。
現状ではこの2人に限りませんが、あまりにも固い枠に囚われている印象です。
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発言の自由度

昔の文章に触れるということは、別に文学書でなくても、今の価値観で読むといろいろとおもしろいことがあるものです。
どこが面白いのかというと、今どきのようにやみくもに気を遣って差し障りのない安全なことだけを並べ立てるというウソっぽさがなく、発言そのものがもっと自由で、率直な考えとか物事の事情などがごく普通に述べられている点で、これひとつとっても時代を感じさせられます。

例えば25年前の雑誌「ショパン」を見ると、ピティナの創設者の方の談話が載っていて、そこにはピティナ=社団法人全日本ピアノ指導者協会がどのようにして創設されたのか、どういう事情があって今日のような組織が作られたかという経緯が述べられていました。

もともとはピアノ曲やピアノ学習者のための教材が、すべて海外からの輸入物によって占められていて日本人の手で書かれたものがないという点に疑問を感じ、日本の作曲家の作品を広く知らしめたいという思いが湧き上がったところへ同志が集まり、「東京音楽研究会」という邦人作品の研究団体としてスタートしたのだそうです。
その活動の一環として公開レッスンが始まり、さらにピアノゼミナールや演奏法や指導法の研究会がひらかれ、その研究会へ地方からわざわざ出てくる会員のために、今度は全国に研修の場として支部の枝が広がり、そのときに付けられた名前が「全日本ピアノ指導者協会」なのだそうです。

そんな中、ある時ショッキングな出来事があったというのです。
毎回研究会に参加される地方の先生の自宅へ、この方が招かれたときのこと。
そのお宅には素晴らしい設備が整い、グランドピアノが2台デンとあり、音楽書は本棚にぎっしり、レコードも大変な数があったといいます。

そこで、その先生の生徒さんがブルグミュラーの練習曲全25曲を暗譜で弾いてくれたらしいのですが、ミスリーディングの多さと奏法の未熟なことにショックを受け、毎回研究会に出席しているというだけでこの方は立派な先生だと感じていた自分がハッとした(つまり立派な先生じゃなかった)、ということが歯に衣きせぬ調子で堂々と書いてあるのです。

さらには、その生徒の演奏を見て、それまで自分が一生懸命続けてきた各種の公開セミナーはちっとも役に立っていなかったということを思い知ったともはっきり断じているのです。

こういうことは、今であれば、たとえ事実であっても個人を中傷するだのなんだのという理由から、絶対に書かれないことでしょうし、仮に書いたとしても編集部がマズイと判断して大幅な手直しに介入することでしょう。
果たして、誰から文句のでない、読んでも甚だ面白味のない、パンチに欠ける文章でしかなくなりますし、当然ながらナマな真実性もありません。
何事も昔は率直で迫力があったんだなあと思います。

先の話を続けると、それがきっかけとなって、「同じ課題曲を、同じ位の子どもたちによってコンクールを開催することが、最も先生の実力向上につながる」という結論に達して、はじめはオーディションという名前で始まって、それが発展してあのお馴染みのピティナのピアノコンペティションに成長していくのだそうです。

意外だったのは、このコンクール、もともとは生徒を指導する「先生の実力向上が目的」だったということで、今も基本理念はそうなのかもしれませんが、マロニエ君はピティナとは名前を聞くだけで、自分自身は一切関わりを持ったことがなかったので、このような経緯ははじめて知りました。

つまりピティナのコンクールは、「生徒が先生の代理で戦っている」ということになるのかもしれませんね。
まあそうだとしても、結果としてそれで生徒が立派に育つのであれば何をか言わんやですが。
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懐かしい雰囲気

クシシュトフ・ヤブウォンスキのピアノリサイタルに行きました。

今回はちょっと珍しいコンサートで、会場が通常のコンサートホールではなく、カワイ楽器の太宰府ショップ内で開かれた百数十人規模のコンサートでした。
いつもならグランドピアノが所狭しと並んでいる店舗内は、ものの見事にピアノが片づけられて椅子が整然と並び、正面のカーテンの前にはこの店のシゲルカワイ(SK-6)だけが置かれています。

ヤブウォンスキはポーランド出身のピアニストで、1985年のショパンコンクールで第3位になった実力派で、こういう世界的なピアニストが通常のコンサートホールではなく、このような形でのコンサートをおこなうというのが非常に珍しく感じられて、チケットを購入したのでした。

ちなみに1985年のショパンコンクールといえば、あのブーニンが優勝し、2位がフランスのマルク・ラフォレ、4位が日本の小山実稚恵、5位がフランスのジャン=マルク・ルイサダという、全員が今も現役で活躍している実力者を数多く輩出した年でした。

開演前にお手洗いに行って廊下に出たとき、ドアの真向かいにある控え室(たぶん事務所)の扉が開いていて、そこにヤブウォンスキ氏が立っていて、ある女性の挨拶をにこやかに受けているところでした。
テレビやCDのジャケットで見覚えのあるその顔は、いかにも優しげな笑顔に溢れており、しかもおそろしく長身なのに驚きました。

プログラムはオールショパンで、そのパワフルなポーランドのピアニズムには久々に舌を巻きました。
演奏時間もたっぷりで、19時の開演、アンコールまで終わった時にはほとんど21時半でした。
音楽的にはいささか野暮ったいところがあり、いかにもかつての東側の演奏そのもので、現代的な洗練はありませんし、同意しかねる点も多々ありましたけれども、なにしろ、その圧倒的な迫力と技巧はそれを身近に触れられただけでも充分に行った甲斐があったというものです。

最近のピアニストがいかにも効率的な訓練によって、器用にまとまった演奏ばかりを繰り広げる中で、こういうちょっと昔流の訓練と修行を経た、器の大きい演奏家に接したのは実に久しぶりという気がして、音楽そのものを聴いてどうというよりも、なんとなくその醸し出す雰囲気がひどくなつかしいもののように思えました。

とりわけ強く激しいパッセージやオクターブの連打などは重戦車のようで、しばしば風圧を感じるほど。あきらかに素人のそれとは大きく隔たりのある、いかにもプロらしいプロの技を堪能することが出来ました。
とにかく、まったくなんの心配もなしに聴けるという、大船に乗っているような安心感だけでも、やはりこういう人こそが人前で演奏すべきピアニストと呼べるのではないかと思いました。
昔はコンサートといえば、だいたいこのような格付けの実力者だけがステージに立っていたわけで、好みは別にしても、その大きさから来る聴きごたえとか充実感がありましたが、最近は玉石混淆で見た目から演奏まで素人の延長線上にあるような演奏家が多いことは、それだけでもコンサートというものの意義や感銘を薄くしていると思いました。

ただしヤブウォンスキのショパンは当然ながらポーランドのベタなショパンであり、ある見方をすればこれぞ本物のショパンということになるのかもしれませんが、マロニエ君は残念ながら全く好みではありません。
先述したように、ショパンといえばまっ先にイメージする洗練されたピアノの美の結晶、気品と情熱とデリカシーが共存した他を寄せ付けない世界とはとは無縁の、泥臭い麦わらの香りのするようなショパンで、いわゆるフランス的なショパンとは対極にあるものでしょう。

ステファンスカ、エキエル、ハラシェヴィッチ、ツィメルマンなどに通じるあの雰囲気であり、そう考えるとブレハッチなどはポーランドとはいっても、若いだけずいぶん今風に磨かれているということに気付かされます。

ヤブウォンスキのスタミナあふれる大排気量のエンジンが回っているようなピアノを聴いていると、ショパンよりはベートーヴェンなどのほうがよほど聴いてみたい気がしました。

ピアノに関しては、感じる点は多々あれども、もう今回は止めておきます。
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暴走老人

このところ新聞紙上や書店などでよく目にする言葉に「暴走老人」というのがあります。

もともとは本の題名にこういう言葉があったようですが、はじめはなんのことだかわかりませんでした。
きっと今どきの高齢者の実像を社会現象として捉えて、おもしろおかしく書いたものだろうぐらいには思っていましたが、その後もこの言葉は消え去ることがなく、テレビでも聞くし、さらには先ごろの新聞ではこれが「増殖中」などという文字まで見るに至りました。

しだいにマロニエ君もなんとなく心当たりも出来てきて、最近では高齢者の方の行動であまり感心できないことをいくつか目にするなどしていたので、どうもたまたまの現象ではないらしいという気もしはじめて、だとすると非常に由々しきことだと思います。
若者の行動や態度がよくないのももちろん困りますが、さらに人生の先輩としてその規範となっていただくべき高齢者の方が社会人として破綻してきているというのであれば、なお一層深刻なものを感じます。

先日も知人とこの話が出たのですが、最近ではある部分においては若い人のほうがよほどマシで、高齢者の暴挙には驚かされる事が多いと言い出したのですが、たしかにそれはあるのです。

家人などもいつもぼやいていますが、例えばデパ地下などでの列の割り込みや商品の取扱いなど、高齢者には目に余る所作が目につくと言いますし、先日などもある店で、一人で買い物に来ていたおばあさんがいきなり列の間に割って入りましたが、当人はすましたものです。
と、途中で忘れ物があったらしく、一度列を離れたのですが、再び戻ってくるとまた同じことを繰り返して、中学生ぐらいの女の子の前にグッと割り込みました。その女の子は驚いた様子でたいそう不満げでしたが、結局なにも言わずそのままになりました。

マロニエ君自身も、過日ピアノクラブの懇親会の席でファミレスで歓談していたところ、一瞬ですがつい大きな笑い声を立てたところ(もちろんそれがいいとは言いませんが)、通路を挟んだむこうの壁際の席にいるやはり高齢の女性からいきなりヒステリックな調子で、突如噛みつくように文句を言われ、そのあまりの激しさにびっくりしました。
まあ、我々にしてみれば、その老女の発したキレ気味の奇声が店内に響き渡ったことのほうがよほど周囲にも迷惑だと思いましたが。

また別の日にも、知り合いと数人でいたところ、まるで理の通らない、ほとんど言いがかりとしか思えないような文句を言われたこともあり、みなさんよほどイライラしているのかと思いますが、それにしてもちょっと異様な気がします。
言っていることもいかにも身勝手で、話の筋道がまるきり立っていませんが、ご当人はなにしろ真剣だし、相手がお年寄りなのでみんなガマンでした。

さらにネットのニュースなどでも、このところ高齢者の話題はしばしば目につく問題で、その猛烈なパワーには驚くばかり。
70代の高齢者同士が殴り合いをして片方が重傷を負ったとか、80代の男性が運転免許の更新の事で警察官からあることを指摘されて激昂し、警察官の腕に噛みついてケガを負わせて逮捕されたとか、もはやこれ、明らかに歪んだ社会現象だと思われます。

現代のような社会に生きていれば、もちろん高齢者にも多くのストレスがかかっているのだろうとは思いますし、とりわけ感じるのは孤独からくる終わりのない圧迫ではないかと思います。
人生の晩年は本来なら穏やかに楽しく過ごしたいところでしょうが、逆に若い頃よりも生活環境が苛酷になるというのはそれひとつでも自然の流れに逆行することで、イライラも募るのでしょう。

共通しているのは独善的でひがみっぽく、ひどく差し迫った感じでかなり攻撃的だということです。
やはり優れた政治家が現れて、一日も早くこの荒れ果てた社会の建て直をしてほしいものです。
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ヤマハとリスト

ナポリ出身のピアニスト、マリアンジェラ・ヴァカテッロによるリストの超絶技巧練習曲のCDを聴きましたが、残念なるかな、とくにこれといった印象を受けるものではありませんでした。

若い女性のピアニストで、指はよく動きますが、この難曲集を弾いて人に聴かせるにじゅぶんな分厚い表現性とか力量みたいなものには乏しいというのが率直なところでした。曲そのものがもつスケール感や壮麗さが明確にできておらず、ただ技術的にこの作品を勉強してレパートリーになったという感じが拭えません。
本来この12曲はリストの中では無駄が無く表情が多彩、非常に充実した緊張感の高い作品群だと思いますが、悲しいかなどれも演奏が痩せていて、本来の量感に達していないと思いました。

もうひとつ興味深かったことは、このCDは昨年イタリアで収録されていますが、ピアノはヤマハのCFIIISが使用されています。
まあ、音もそれなりで目立った欠点というのはないものの、このCFIIISまでのヤマハは響きのスケール感という点においては、楽器としての器の限界がわかりやすいイメージでした。
いま、フランスをはじめとするヨーロッパではヤマハが多く使われる傾向にあるのは、何度か書いた通りですが、そこで使われるヤマハの特徴のひとつに現代的でオールマイティな音色と均一性と軽さがあります。ただそれが重量級の作品にはあまり向きません。

車の省エネ小型化じゃありませんが、録音技術の発達で音はクリアで克明にとれるから、ピアノ全体のパワーは小さめでも構わないといわんばかりの印象。

リストの作品は、ものによるとも思いますので一概には言えませんが、超絶技巧練習曲は詩的な面もじゅうぶんあるものの、全体としては張りの強いドラマティックな要素も濃厚に圧縮された、かなり精力的な作品だなので、この作品に聴くヤマハの音には、なんとなく中肉中背というか、ただお行儀よくまとまったピアノだという印象が拭えませんでした。
ピアノのパワーがもたらすところの迫りが稀薄で、人を揺さぶるような圧倒的な力がない。

ヤマハがいいのは、ロマン派ではシューマンやショパンまでで、リストになるとヴィルトゥオージティの発露を楽器が懐深く逞しく表現しなくてはなりません。ところが響きの中の骨格に弱さを感じるわけです。
まるで往年の名女優が演じた当たり役を、現代の可愛いけれども線の細い女優さんの主演でリメイクしたようで、まあそれの良し悪しはあるとしても、所詮は軽さばかりが目立ち、黙っていても備わっていた肉厚な重量感・存在感が不足してしまうようなものでしょうか。

そういう意味では、リストはそれ以前の作曲家と違うのは、先端のピアノの性能を縦横無尽にぎりぎりまで使いこなして作曲をしていたのだということが察せられることです。
このところ、日本製のピアノによるピアニストの演奏をあれこれと聴いてみて感じたことは、ヤマハにはもうひとまわりの逞しさと音響的な深みを、カワイには知的洗練を期待したいと思いました。

それでもなんでも、日本のピアノが海外で人気が高いのは、やはりその抜群の信頼性と最高レベルの製造クオリティによる安心感、それに価格がそこそことなれば、総合評価とコストパフォーマンスで選ばれているということのようです。

基本的に西洋人は、どうかすると芸術文化の地平を切り開くようなとてつもないことをやってみせる反面、バッサリと割り切ったようなものの考え方をする場合も少なくないようで、そういう際の合理主義とドライな部分は、我々にはとても及ばない苛烈さがあるようです。
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強気の商売

店名はむろん書けませんが、マロニエ君の自宅からさほど遠くないところに、いつだったか、ある和風スイーツとでもいうべき店が新規開店していました。

甘いものもが好きなもので、あるとき前を通りかかったついでに何か買って帰ろうと思い立ち、偵察がてら店に入ったところ、商品を見るなり、そのあまりの強気な価格には驚きました。
絶対額こそ大したものではありませんが、たかだか○○○○のくせになにを勘違いしているの?と思われて、すっかり買う気が失せました。
自分で言うのもなんですが、こういうときのマロニエ君は遠慮はしない性格なので、一気にアホらしくなって何も買わずに店を後にして、いらい二度と入ったことはありません。
くだらん!という気分でした。

その後、知人や家人の友人など、様々な人の口からこの店のことを聞き及ぶに至りましたが、いずれもその勘違い価格に呆れているような話ばかりでしたが、中にはいったん入店した上は、買わないのも気が引けて一度だけしぶしぶ買って帰ったという人もいましたが、こうもみんながみんな同じ意見ではこの先やっていけるのかと思っていました。

なんでも地元の店ではないのだそうで、他県の老舗とやらが福岡に進出してきた店なのだそうですが、そのいかにも今どきの大衆の高級志向につけ込んだようなスタンスは、そういうものを有り難がらない気質のある福岡ではそう長続きはすまいと思っていたのですが、予想に反してそれからもしばらくはそこで踏ん張っていたようでした。

ところが、昨日その店の前をなにげなく車で通って異変に気付きました。
その店や看板はすべてなくなっていて、すでに別の店舗が営業をしていて、やっぱりなぁという感じでした。

こうなるについては相当赤字が続いたはずで、きっと経営者は苦しかったでしょうが、でもしかし、あれじゃ当然だろうと思ったのも正直なところです。
「高級」を打ち立てるのは容易いことではありませんし、中にはどうして?と思うような店が成功している例もなくはありませんが、やはり著しくピントのはずれているものはお客さんの支持が得られることはなく、やがて淘汰されていくのはやむを得ないと思います。

この廃業した店のすぐ近くには、これまたたいそう強気の商売をしているレストランもありますが、ここも聞くところによるといつまでもつかという意見もあって、内容的にもかなり驚くような話をたくさん聞きました。
マロニエ君は本能的に自分とは合わないと察知していたので、幸いまだここに行ったことはありませんが、それはそれはいろんな話題に事欠かないようです。それでもこういう店を有り難がって行く人がいるうちはいいのかもしれませんが、こんな世相の中、さてこの先どうなるのかという感じです。

行くとお客の方が店側から露骨に品定めされているのがわかるのだそうで、バブルの時代じゃあるまいし、もう少し普通にできないものかと思います。
ちなみに置いてあるピアノも世界のブランドのそれだそうで、はああという感じですね。

「普通に」などというと、何が普通なの?普通ってなに?だれが決めるの?というような問い返しをムキになってしてくる人がいますが、普通とは、その概念の説明をわざわざしなくても済むような尋常な平衡感覚をもった人の、地に足のついた自然な気分のことだろうと思います。
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世襲

たまにNHKのBSで昔の日本映画なんかをやっていて、それが思いがけなく視界に入ることがありますが、昔の名優というのは、やはりなかなか観賞に値する美しく立派なルックスをもっていたものだと思います。

そして、現代のこの業界には、いかに多くの二世三世が先代の名声を足がかりにして、それだけのものも持ち合わせないまま不適合に生きているかと思わずにはいられません。
俳優の世界も、演技という技巧の分野でいうならある種の芸の継承というのもなくはないだろうと思いますが、美人や二枚目ともなると、いかにその二世だなどと言ってみても、その面立ちに似たところはあるとはいえ、しょせんは別物なのであって、到底その親になんぞかないっこありません。

兄弟姉妹でもそうですが、顔かたちなんか似ているとはいってもちょっとした目鼻の配置ひとつで美醜様々に分かれてしまいます。
大スターだったその親たちは、自分がたまたま天から授かったフェイスや雰囲気を元手に世間に認められたわけで、それがそのまま子供に受け継がれるはずはないのであって、だから今の芸能人や俳優の美貌は、昔に較べるとずっとレベルダウンしていると思います。

さらにスター俳優になるには、目鼻立ちの美しさだけではダメで、最も大切なスター性を備えていなくては芯にはなれません。ちなみに芯とは中心のことで、つまり「主役をはれる存在」という意味です。

いま、現役でそれなりに活躍している二世俳優のお父さんお母さんの現役時代を見ると、その子供らとは次元の違う輝きをもっているのが大半ですし、現役の二世世代の連中で、親の存在なしに単独で同じ地位を獲得できた人が果たして何人いるかといえば、実際はおそらく惨憺たる結果になるはずです。

その点では、むかしの方が芸能界もよほど正当な実力主義で、真に力のある者がなるべくしてスターになっていたと思われますし、それだけに大物が多かったのだろうとも思います。そういう意味では、今のほうがよほどどこぞの国よろしく人脈やコネが横行する業界という気がしなくもありません。

よほど桁違いの秀でたルックスでももっていれば別でしょうけど、大半は多くの芸能人の二世連中がその票田を引き継いでいるがごとくなのはかなり違和感を覚えるところです。政治家の世襲問題が折に触れ取り沙汰されますが、むろんそれに異論はありませんが、マロニエ君にいわせると芸能界の世襲というのも、なんとも気分のしらける夢なき格下の世界に落ちぶれたようで、とても納得はできません。
数にもよりけりですが、今はあまりにも数が多すぎで、よくもまあ懲りもせずに、誰も彼もが自分の子供を同業者(しかも親より必ず格落ちの)にしたがるもんだと思って呆れてしまいます。

その点では梨園(歌舞伎界)は世襲が前提ですから、顔の美醜にかかわらず、男子は親の名跡を受け継ぐわけですから、その点では特殊社会といえばそうなんですが、そんな場所でもときどき奇蹟がおこるらしく、たまには板東玉三郎のようなスーパー級の美形があらわれたりするのは不思議です。
そして、その奇行のほどは別としても、市川海老蔵のような立役の美形がこの現代に出現したことは、団十郎を思い起こせばこれまた奇蹟というわけで、数十年に一度はこういう異変が起こるのでしょうか。

こうしてみると世襲が難しいのは音楽の世界で、パッと見渡しても、親子二代で大物が続いた例は、エーリッヒとカルロスのクライバーぐらいしか思いつきませんし、ピアノではせいぜいルドルフとピーターのゼルキン親子ぐらいでしょうか。
名演奏家の子供というだけで、力もない音楽家が現れるのじゃたまりませんから、そう思うと音楽の世界はまだ実力が問われるという点でマシなほうかという気もします。
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ゆずれないもの

ある調律師の方のブログでの書き込みがマロニエ君の心を捉えました。

概要は次の通り──歳を取るにつれ、少量でもいいから本当に美味しいものだけを口に入れたいように、音楽も同様となり、だからアマチュアの演奏会は「本当にごめんなさい」というわけだそうです。
つまりアマチュアの演奏は聴きたくない、申し訳ないけれどもこればっかりはもうご遠慮したいというようなことが書いてありました。

しかもこの方は調律師という職業柄、我々のように音楽上の自由な趣味人ではないだけに、そこにはいろんな意味でのしがらみなどもあっての上だろうと思われますから、それをおしてでも敢えてこういう結論に達し、しかもそれをブログに書いて実行するということは、よほどの決断だったのだろうと推察されます。

本来ならば調律師という職業上、ときにはそうした演奏も浮き世の義理で、我慢して聴かざるを得ない立場にある人だろうと思われるのですが、それでもイヤなものはイヤなんだ!と言っているわけです。
これをけしからん!と見る向きもあるかもしれませんが、マロニエ君は思わず喝采を贈りたくなりましたし、このように人には最低譲れないことというのがあるのであって、そのためには頑として信念を通すという姿勢に、久しぶりに清々しい気分にさせられました。

同時に、この方はただ単に調律師という職業だけでなく、ブログではあれこれのCDなどに関する書き込みなども見受けられますから、そのあたりを総合して考えると、これはつまり、よほど音楽がお好きな方ということを証拠立てているようです。

音楽というのは知れば知るほど、聴けば聴くほど、精神はその内奥に迫り、身は震え、耳は肥えてくるもので、そうなるとアマチュアの自己満足演奏なんて聴けたものではないし、たとえプロであってもレベルの低い演奏というのは耐えがたいものになってくるものです。

とりわけクラシックのピアノは、弾く曲は古典の偉大な作品である場合が多く、それらの音楽は大抵一流の演奏家による名演などによって多くの人の耳に深く刻みつけられていたりするわけですから、それをいきなりシロウトが(どんなに一生懸命であっても)自己流の酔っぱらいみたいな調子で弾かれたのでは、聴かされる側はいわば神経的にきついのです。

つまり弾いている人にはなんの遺恨はなくとも、苦痛の池にドボンと放り込まれるがごとくで、塩と砂糖を間違えたような食べ物を口にして美味しいというのは耐えがたいのと同じかもしれません。
そんなものに拍手をおくってひたすら善意の笑顔をたたえているというのは、実はこういう気分を隠し持つ者にしてみれば、ほとんど拷問のように苦しいわけです。

それでも、子供の演奏とかならまだ初々しい良い部分があったりしますが、大人のそれには耐え難い変な癖や節回しがあったりで、場合によっては相当に厳しいものであることは確かです。
いっそ思い切り初心者ならまだ諦めもつきますが、始末に負えないのは、中途半端に指が動いて楽譜もいくらか読めるような人の中に、むしろ自己顕示欲さえ窺わせるものがあり、これを前に黙して耐え抜くのはかなり強烈なストレスにさらされることになります。
弾いている本人にお耳汚しですみません…という謙虚な気持ちが表れていたらいくらか救えるのですが。

この調律師さんの言っていることは、本当に尤もなことだと思いました。
ときたま、こういう気骨のある人がいらっしゃるのはなんだかホッとさせられます。
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モーツァルトの極意

『集中力が大事です。どの作曲家でもそうですけど、特にモーツァルトの時は、過敏ではない集中力といいますか…。過敏になってはいけない。ゆったりとしたものが必要な集中力なんです。そこから音の響きができるわけですから、体が緊張していてもいけないし。そういう意味でモーツァルトの演奏は大変です。』

これはずいぶん昔のものではありますが、ピアニストの神谷郁代女史がモーツァルトの演奏に際して語ったもので、さいきん雑誌をパラパラやっているときに偶然これを目にして、それこそアッと声が出るほど激しく同意しました。
…いや、「激しく同意」などというと、まるでさも同じことを認識していたようですが、これは正しい表現ではありません。なんとなくずっと直感的に感じていたものが、明確な言葉を与えられて、考えが整理され、よりはっきりと認識できたというべきでしょう。

それにしても、これは名言です。
これほどモーツァルトの演奏に最も必要な精神的な根底を成すものを的確に見事に表した言葉があっただろうかと思います。まるでその無駄のない言葉そのものがモーツァルトの音楽ようでもあります。

これはすでにひとつの哲学といっても差し支えない言葉であり、モーツァルトへの尊敬と理解をもって弾き重ねた人でなければ表現できるものではありません。弾き手の考察と経験が長い年月の間に蓄積され、そこに自然の息吹が吹き込んで、ついにはこのような真理を導き出すに到達したものと思われます。

マロニエ君はモーツァルトの理想的な演奏(ピアノの)としてまっ先に思い浮かぶのは、ヴァルター・ギーゼキングのモーツァルトですし、ヴァイオリンソナタではハスキル、コンチェルトではロシアの大物、マリア・グリンベルクの24番などがひとつの理想的な極点にあるものだと思っています。

その点では、評価の高いピリスにもある種の固さを感じますし、内田光子などはその極上のクオリティは充分以上に認めつつも、いかにもゆとりのない張りつめた緊張の中で展開されるモーツァルトであることは否定できません。

多くのピアニストがモーツァルトを怖がってなかなか弾こうとしないのも、この神谷女史のいうところの、集中と緊張の明確な区別がつけきれない為だろうと思われるのです。
とりわけモーツァルトのような必要最小限の音で書かれた作品は、一音一音に最大限の意味を持たせようと、あまりに言葉少なく多くを語らねばならないという脅迫観念に苛まれるのだろうと思われます。

神谷女史のお説に依拠すれば、ギーゼキングのモーツァルトなどは、なるほどまったく気負ったところがないばかりか、モーツァルトにおいてさえこの巨匠の磊落な語り口には今更ながら圧倒されてしまいます。
グリンベルク然りで、まさに呼吸と重力に一切逆らうことなく、モーツァルトをありのままにひとつの呼吸として描ききっているのはいまさらながら舌を巻いてしまいます。

どのみちマロニエ君などは、モーツァルトを弾こうなどという大それた考えは持っていませんが、それなりのテクニックと音楽性のあるピアニストであれば、「過敏にならない集中」を旨とすれば、素敵なモーツァルトが演奏できるはずだという気がしてきます。

神谷女史のこの言葉は、どれほどのレッスンにも勝るモーツァルト演奏の極意を授けられたような気がして、なんだかたいそう得をしたような気分になりました。
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ホールに潜む危険

福銀ホールの階段で女性がマロニエ君の背後でしたたかに転倒して周囲や主催者を慌てさせたことを書いたばかりでしたが、続くアクロスシンフォニーホールでの2台のピアノの第九のコンサートのときには、ソロの途中で演奏者が入れ替わる際、ステージ上ではピアノの入れ換え作業がおこなわれたのですが、そのときにマロニエ君の座っている席から真横のごく近い位置の通路で、またしても女性が転倒されました。

しかも、今回の転倒はいささか深刻なようで、なかなか起きあがることもままならないようで、周辺にはちょっとした緊張が走りました。
通路のすぐ横に席に座っていた女性がすかさず助けにはいり、あれこれと様子を見てあげているようでしたが、やはり立ち上がることが難しく、このころにはよほど転び方が悪かったのかと気を揉みました。

ついには助けに入った女性が抱きかかえるようにして、転倒して怪我を負っているらしい女性を会場から連れ出すべく努力され、なんとかゆっくりとした足取りで衆目の見守る中を退出していかれました。
驚いたことには、床には大量の流血のあとがのこり、思いがけなく目にした鮮血の赤が痛ましくも衝撃的でした。
これはたいへんな事が起こったと思いましたが、それとは気づかずにステージは続行されました。

マロニエ君の想像ですが、ちょっと時間に遅れてしまった女性が、演奏中は動けないので、ピアノの入れ替えをしているタイミングで急いで座席に着こうとして、段差に躓いて転倒されたのではないかと思いました。

かねがねホールの段差というのはなんとなく要注意だと感じていたので、マロニエ君なども自分はもちろん、家人と一緒に行くときには毎回現場で注意を促しています。
広いし、なんとなく薄暗いし、人は多く、席を探しながら段差に次ぐ段差のある通路を進むのはけっこう難しい動きだと思います。

あえて言いたいことは、ホールの段差には、段の縁などに色の違う滑り止めのようなものをつけるなど、もう少しお客さんの足元の安全に配慮して欲しいものだということ。
近ごろは、こういう分野ではなにやかやとうるさい時代で、世の中の認識もだいぶ進んでいますし、中にはそんなことまでしなくてもというような安全策まで講じられている中で、ホールの段差などは一向にその気配があるようには感じられません。

通常の動きでもこうなのですから、これがもし災害時などみんなが一斉に避難すべき状況にでもなったら、果たしてどんなことになるやらと思います。

もともとマロニエ君は、こんな安全面がどうのというようなことを高らかに言うのは好きではないし、そんな趣味はないのですが、やはりホールは老若男女不特定多数の人達が利用する場所でもあるし、こうも立て続けに転倒事故を目のあたりにすると、そのうち自分かもという気もしますし、この点では施設側にももう少し細やかで実際的な配慮が欲しいと思います。
ちなみにその段差には縁に形ばかりの微かなくぼみはあったものの、ほとんど無いがごとしで、とくに高齢者などは最上級の注意が必要となり、これは早急な改善を望みたいと思います。

とくに最近のコンサートホールは高級になるほど、つるつるした木の床だったりするのが仇になっているようです。
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2台ピアノの第九

近藤嘉宏&青柳晋の2台のピアノのコンサートに行きました。

前半は両者のソロで、愛の夢だのカンパネラだのと、ひとまずお土産売り場みたいなプログラムが5曲並んでいましたが、それはこの日のあくまでも序章に過ぎません。
メインはリスト編曲によるベートーヴェンの交響曲「第九」で、はっきり時計を見たわけではありませんが、おそらくは1時間を超過する長丁場でした。まあ第九の全楽章ですから、それも当然といえば当然です。

実は、2台のピアノによる第九というのはCDはあるものの、実演で聴いたのは初めてです。
開始直後こそ特段どうということもなく、やはり耳慣れたオーケストラの音に較べたらずいぶん薄く小さいなあという感じでしたが、しだいにつり込まれて、第3楽章の世にも美しい調べに到達したあたりではベートーヴェンの壮大な世界の住人となり、第4楽章ではつい2台ピアノということも忘れて、すっかりこの曲と共に呼吸することに没入させられてしまいました。

近ごろでは、コンサートに行ってもめったなことでは感動が得られなくなってしまっている中で、めずらしくこの言葉を使うに相応しい気分になりましたが、それだけやはり圧倒的な作品でした。
演奏はソロでは近藤氏のほうが幅があって好ましく思いましたが、第九ではプリモを弾いた青柳氏が常に流れをリードしていたようで、近藤氏はむしろ脇に回っている印象でした。

作品が作品だけに、終わったときにはちょっとした感動的な拍手が起こりましたが、さすがにお疲れなのかアンコールはなしで、これで終わりだというアナウンスが早々に流れました。
ピアニストの肉体的疲労だけでなく、聴衆も長い時間聴き続けたということもあるし、そもそも第九のあとに弾くべき曲があるかと言われたら…ちょっと思いつきませんよね。
かてて加えて2台のピアノともなれば、いかにクラシックの膨大なレパートリーをもってしてもそこに据えるべきアンコール曲は皆無だと思われます。

ベートーヴェンはピアノソナタでも同様で、最後のop.111の精神的地平を見るような第2楽章が終わった後に弾くべきアンコールは、ピアニストが最も悩むところだと思われます。
この曲では昨夜同様、一切アンコールを拒絶するピアニストも少なくないほか、日本公演でのシフなどは、熟考の末と思われたのは、バッハの平均律から、op.111と調性を合わせてハ長調で、しかも幕開けの気配に満ちた第1巻ではなく、第2巻のそれを演奏したのはなるほどと思わされました。

昨夜のピアノはソロでもデュオでも両氏の弾いたピアノは固定されていて、ソロでは途中で関係者総出でピアノの入れ替えをおこなったのはちょっと珍しい光景だと思いました。
2台ともスタインウェイのDで、おそらく年代的にも同じものだと思いますが、ピアノの個性なのか調律の違いなのか、そのあたりは判然とはしなかったものの、ともかくずいぶんと音の違うピアノでした。

マロニエ君的には迷いなく片方のピアノが好きで、もう一方はほとんど感心できませんでしたが、それはこれ以上書くのは止しましょう。
座席は12列目のセンターでしたが、この会場の音響がふるわないのはほとほと嫌になりました。
もっと後方であれば多少は違ったのかもしれませんが、常識的な位置としては決して悪い席ではなく、出し物によってはGS席にあたるエリアですから、これはいかにも承服できないことです。

ピアノのアタック音が壁に激突して反射してくるのがあまりにも露骨で、まるで音が卓球かビリヤードの玉の動きみたいで、いわゆる美しい音による心地よさとは無縁です。
これがそのへんの体育館とかであれば致し方ないとしても、ここは地域を代表する本格的なコンサートホールなのですから、ただただ残念というほかありません。
つい数日前に行った福銀ホールは、その点では夢のようでした。
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会話がない!

過日、ちょっと気の利いた定食を出す店に行ったときのことです。
そこは美味しくて値段も安いので、週末ともなると順番待ちが出るような人気店で、必然的にテーブル同士の距離もかなり狭く詰めた感じになっています。

マロニエ君が入店してほどなくして、ひと組の親子がすぐ隣の席にやってきました。
小学校3、4年生ぐらいの女の子と、おそらくは30代と思われるサラリーマン風の若いお父さんでした。

二人でメニューを覗き込んで、あれこれと相談しています。
はじめは麗しい光景のように思えたのですが、注文が終わると女の子は横に置いていた袋をポンとテーブルの上に置いて、中から買ってもらったばかりとおぼしき分厚い本を取り出しました。
チラッと視界に入ったところでは漫画本で、いきなりお父さんそっちのけでそれを読み始めたのはありゃという感じでしたが、今度はお父さんもやおら文庫本を取り出して、黙ってそれを読み始め、いらい食事が運ばれてくるまで、二人はそれぞれ本を相手に沈黙状態となり、まるで図書館のようでした。

しばらくすると料理が運ばれてきたのを潮に女の子は本を椅子において食べ始めます。
するとお父さんは自分のお盆からメインの料理を取り出して、自分と女の子の間の僅かな隙間にこれを置いたので、娘にも食べろという意味だろうと思いました。
ところがそうではなく、そうやって空けたスペースに読んでいた文庫本を置いて、本を読みながらの食事が始まったのには唖然としてしまいました。

男がたった一人で食事をする際に、スポーツ新聞なんかを読みながらというのは感心はしませんが、人によって状況しだいではあるとしても、小さい娘と二人きり向き合ってせっかく食事をするのに、なにもそうまでして本を読まなくてもと思います。

その若いお父さんは、口はパクパクさせながらも、目はひたすら本の文字を追い続け、ひと言も、本当にひと言も娘と会話がありません。ときどき「お父さん…」と呼びかけて、タレがどうとかお皿がどうとか言っていますが、それにもまともな反応はなく、「んー?」とかいうだけです。

横のテーブルをチラチラ見るのもどうかとは思いましたが、なにしろテーブル同士がかなりくっついているので、嫌でも視界に入るわけです。驚いたことには、文庫本は開かれた状態で完全に長方形のお盆の中に入っており、口はモグモグ、お箸はサッサと動かしながらも、かなり真剣な様子で読みふけっているのは、技巧と集中力には感心させられました。
娘の顔を見るとか、くだらないことでも話をするという気持ちが微塵もないことがわかり、マロニエ君はもともとあまりベタベタしたことをいうセンスではないのですが、さすがにこれはどういうつもりなんだろうかといささか憤慨しました。

そのうち娘のほうは食べ終わりましたが、そのあとはマンガを読むでもなく、お父さんが食べ終わるのをじっとなにもせず、足をプラプラさせながら待っている姿がなんとはなしに哀れになりました。
それでもお父さんの方は娘の状態になど一瞥もくれず、最後の最後までマイペースを崩しませんでした。

あれじゃあ、行儀やらなにやらの躾もなにもあったもんじゃないというのは一目瞭然で、家の中でも実用会話以外はほとんどないまま、好き勝手にテレビでも見ているんだろうと思います。
正しい日本語の使い方とか挨拶のしかたなどは、家庭内の日常生活の中で自然に覚えていくものだと思うのですが、ま、あの様子では到底期待できそうにはありません。

さりげなくすごいものを見たという気分でした。
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男のたしなみ?

先日ピアノリサイタルをされた川本基さんは、終演後、拍手に応えてカーテンコールに応じられたあと、マイクを持って再びステージにあらわれました。

マロニエ君はまったく個人的な好みとして、演奏者がトークをするのは好きではありません。
演奏は聴いても、下手なトークで上っ面だけの曲の解説など聞いても仕方がないからですが、この川本さんの話はそれとはまったく違いました。
演奏も済んだばかりで、いまさら音楽の話をしてもつまらないので、ちょっと僕の日常のことを話しますと前置きされ、ドイツでの生活や、長年の目標だった運転免許をついに取ったというような話をされたのですが、その語り口が実に穏やかで、言葉が滑らかで、内容も面白く、人柄からくる品の良さがあって、こういうトークなら歓迎だと思いました。

とくに印象に残ったのは運転免許に関する話で、川本さんによれば東京で暮らしていたときはなかなか車を運転するという環境ではなかったし、ドイツでも交通網が発達していて、現実的には敢えて運転免許がなくても実生活にはなんら支障はないけれども、しかし自分はやはり男の子なのだから、やはりどうしても運転がしたいという願望があったのだそうで、今年は年頭から発奮して免許を取るという目標を立て、ついに念願叶ってそれを手にしたという話などを、ドイツの運転免許取得事情などと絡めておもしろおかしくされました。
そして現在、ドイツでは車を手に入れて、あちこちへの移動にはこれを使っているということでした。

もちろんその語り口もなかなかよかったのですが、ぜひ車の運転をしたいという男性的な可愛気のある気分それ自体が久しぶりに聞いたようで、今どきの発言としてはとても新鮮でした。
近ごろの日本ときたら、血気盛んなはずの若者は一様にしょんぼりしているし、車にもまるで興味がない由で、なにがなんでも車を手に入れるといったたぐいの情熱は失って久しい気がします。
そして、今では街中には傍若無人な自転車が無数にあふれ出て、あたかも昔の中国のようで、その中国のほうが今や世界最大の自動車購入国になっているようですから、世の中どうなるかわかりません。

川本さんはずいぶん若い頃に日本を離れてはや十数年ということですし、以前マロニエ君は拉致被害者で帰国された蓮池薫さんの書かれた文章を読んで、そのあまりの美しい日本語の素晴らしさに驚嘆したことがありますが、このように多感な時代を外国で暮らしてきた人のほうが、むしろ溌剌とした情感・情熱を失っていないような気がしていまいます。

現代の若者はもはや免許さえ取ろうという意欲もあまり無いし、取るにしても、それは車に乗りたいという願望からではなく、就職に必要な資格といった非常にさめた色合いです。当然ながら、巷には運転が猛烈にヘタな男の多いことは日々唖然とするばかりです。
こういう言い方をしちゃいけないかもしれませんが、昔はのろのろ運転をしたり、駐車場でもスパッと一発でとめられないのは決まって女性ドライバーで、その点では男の運転は実に達者でダイナミックでしたが、今はまったく状況が変わりました。もしかしたら女性のほうが上手いかもしれません。

アホみたいな運転をして周囲の流れから浮いていても、本人が気付きもしないのは大抵若い男性の運転で、この一点をみても世も末だという気がしています。
昔は、男で運転が下手ということは大変な不名誉で、もうそれだけで男じゃありませんでした。初デートでモタモタ運転でもしようものなら、いっぺんで女性から軽蔑されるような時代でしたし、運転の巧拙は、古い言葉で言うならセックスアピールにさえ繋がっていたように思います。

男も女も「らしさ」というものは、ヘンな意味ではなく色気があっていいと思うのですが。
女性が韓国の俳優に惹かれるのは、きっとそういう本能がどこか刺激されるからではないかと思います。

イケメンなんて言葉のない時代、日本の男子はもっと本質的にかっこよかったような気がします…。
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得した気分

先日、疲れた体に鞭打ってヤマハを覗いたところCDの処分市みたいなことをやっていました。
とはいっても、量的にはごくごく少数でしたが、なんと定価の半額以下みたいな値札が貼り付けられている上に、さらにそれは最終段階に達しているらしく、どれも3枚で999円という表示がされています。

おおお、これはすごい!と思ってさっそく物色開始となりましたが、なにぶんにも数がない上に、もはや大したものは残っていませんでしたが、それでもありました。

●ヘルベルト・ブロムシュテット指揮 シュターツカペレ・ドレスデン
R.シュトラウス:ツァラトゥストラはかく語りき/ドン・ファン DENON

●ポール・マクリーシュ指揮 ガブリエリ・コンソート&プレイヤーズほか
ハイドン:オラトリオ《天地創造》2枚組 ARCHIV

●田部京子(ピアノ) マルティン・ジークハルト指揮 リンツ・ブルックナー管弦楽団
ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第4番/第5番 DENON

という、しごく真っ当なCDを3点購入して千円札を出して1円おつりをもらうのは、さすがに申し訳ないような気分でした。

とりわけR.シュトラウスはマロニエ君としては文句のつけようがない名演で、オーケストラも超一流なら、作品との相性も最上のもので、実を言うとブロムシュテットのR.シュトラウスは初めて聴いたのですが、これほどのものとは予想もしておらず、そのあまりの素晴らしさに衝撃を受けました。あと2枚、ティルや英雄の生涯、メタモルフォーゼンなどが発売されているようですから、これはぜひとも入手しなくてはならないCDとなりました。
R.シュトラウスはこれまで、ずいぶんいろんな指揮者のものを聴いていましたが、これは一気に決定版に躍り出たという気がしました。これひとつでも大収穫です。

《天地創造》は解説によると、マクリーシュはハイドンをウィーンの伝統様式の中で捉えることはせず、ヘンデルに連なる大編成の崇高な音楽としてこのオラトリオを手がけているのだそうで、聴いていてなるほどそうかと思いました。また初版に添えられた英語版のお粗末さを払拭すべく、練りこまれ熟考された歌詞やレチタティーヴォで演奏されている点も注目です。
演奏は迷いのない、きわめて信頼性の高い安定したもので、音質も良く、この長大な音楽を美しく、そして精密かつキッパリと表現しているのは見事というほかありません。2枚組で定価は5000円もする商品で、こんなに安く買えたことは嬉しいけれど、録音も新しいのになぜ?という気がしてなりません。

ベートーヴェンのピアノ協奏曲は、田部京子のピアノが美しく繊細ではあるものの、いささか安全運転にすぎてもうひとつ面白さとか引き込まれるものがありませんでした。この人はもともと感情表現はいつも押さえ気味で、きっちりとした和食の盛りつけのような演奏をする人なので、こういう演奏になるのも頷けますが、そこはやはりベートーヴェンなのだから、もう少し何か迫りが欲しかった気がします。
日本人的繊細さと、塵ひとつない整然と片づけられた部屋のような美しさは立派ですが、音楽はただきれいに整えたら済むという世界ではないのだから、もっと本音で直截に語って欲しいものです。

たまにこんなことがあるから、やっぱり天神に出るとお店を素通りはできないなぁという確信を、またも深めてしまったようです。
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福銀ホールの変身

土曜は考えてみるとずいぶん久々の福銀ホールだったのですが、会場に入ってリニューアルされていることをはじめて知って驚きました。
なんと座席がすべて一新されおり、ずいぶん立派なブラック基調のシートへリニューアルされているではありませんか! 調べてみると1年以上経っている様子で、それだけご無沙汰だったということでもあり、なぜか誰からもこのことを聞かなかったのです。

このホールの最大の自慢はなによりその素晴らしい音響で、とりわけピアノリサイタルなどには最良の響きを持つホールだと言えることは、以前もこのブログに書いたような気がします。

開館当時はホールの音響というものにそれほど注意が払われない時代だったこともあり、音楽雑誌などでもこのホールの音の素晴らしさが何度も話題になったりしたものですが、それは現在も第一級のレベルとして健在なのは嬉しい限りです。

しかしながら音響以外ではこのホール固有の欠点もあり、福銀本店が天神の一等地という恵まれた立地にありながら、そのホールはやみくもに地下深くにあり、しかも人を下へと運ぶためのエレベーターなどが一切ないため、このホールを訪れる人はまるで音楽を聴くための苦行のように、延々と連なる下り階段の洗礼を受けることになります。
まるで地下鉱脈へでも赴くように黙々と階段を降り続けると、ようやくホールロビーに到達。
ホールの入口にはロダンの考える人(本物で福銀が購入したもの)が鎮座し、その左右両脇の2ヶ所のみから会場に入るわけですが、そこはしかし客席のあくまでも最上部に過ぎず、着席するにはさらに地底へと階段を降り重ねなければなりません。

しかも、設計が古いためか、細かいところが今どきのように人に優しい作りではなく、その会場内の段差の間隔が不規則でバラバラなために、一瞬たりとも気が抜けずに、まるで探検隊のように足元が悪いのです。

この日もマロニエ君の背後で中年の女性が足を引っかけてものの見事に転倒する一幕があり、主催者のほうがそれを聞きつけてきて、ケガなど無かったかどうかなど大変な気の遣いようでした。折しもこのホールでは足元に用心しなくてはとしゃべっていた直後のことで、まったく言葉通りのアクシデントでした。

さらに終演後は、さんざん降りた分だけ今度は上らなくてはならず、ここへ来たときは、帰りは決まって登山感覚で一気呵成に階段を上り続けなくてはならず、地上へ出たときは、それこそ体がじっとりと汗ばみ息はハァハァとなるほどです。
身体的に辛いのは2時間前後ずっと座って音楽を聴くと、それだけでも疲れるし体は動かない状態になっていますが、その態勢からサッと腰を上げていきなりビルの4〜5階分の階段を登るのは相当ハードです。

階段の話ばかりになりましたが、このホールのもうひとつの弱点が、時代故のサイズの小ぶりな貧相な座席で、色も朱色系のあまり趣味のよろしいものとは言いかねるものでした。
それがこの度、見るも立派なシートに変わっており、シート自体も大型化している上に、その間には立派な木製の肘掛けが備わり、余裕もずいぶん生まれたのは目も醒めるような驚きでした。

おそらく座席数は減少したはずですが、掛け心地もよく、以前のことを思うと本当によくなったと、嬉しいような気分になりました。
階段はむろん以前のままですが、このホールの欠点のひとつが見事に改善されたことは間違いありません。

残るは最大の欠点である階段問題ですが、なにしろ大きな銀行なのですから、この際思い切ってエレベーターをつけて欲しいし、高齢者はもちろん体の弱い人にもどうぞ来てくださいという態勢を作って欲しいものです。
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SK-EXのコンサート

昨日は福銀ホールで行われたカワイ楽器主催のピアノリサイタルに行きました。

演奏者は川島基(かわしまもとい)さんというドイツ在住のピアニストでしたが、偶然チラシを見て行ってみる気になりチケットを購入したのですが、驚いたことにはカワイに連絡すると、すぐに自宅に持ってきてくれるサービスの良さで、このあたりに主催者の力量の違いを感じずにはいられませんでした。

おかげでプレイガイドまでわざわざ行く手間が省けただけでなく、チケットぴあなどは、表示されたチケット代金に追加して、安くもない「発券手数料」なるものを一枚毎に取られるのはかねがね納得がいかない気がしていましたから、この点も助かりました。
チケット屋がチケットを売るのは当然なのに、あれは一体なのでしょうね?

さて、このリサイタルはカワイ楽器の主催なので、当然ピアノはカワイで、福銀ホールにはカワイがありませんから、最新(たぶん)のSK-EXを持ち込んでのコンサートでした。

おそらくカワイ楽器所有の貸出用のSK-EXでしょうから、ものが悪いはずもなく、最初の曲(シューベルト=リスト:「春の想い」「君は安らぎ」)が始まったときには、緩やかな曲調だったこともあり、おお、なかなか良いじゃないか!というのが第一印象でした。

しかし、コンサート全体を通じて感じたことは、やはりCDなどで抱いていた印象に戻ってしまい、残念に感じる部分を依然として残しているというのも率直なところでした。

気になるのは、ハンマー中心部にコアを作るという思想なのかもしれませんが、はっきりした打鍵をした際には、音の中に針金でも入っているような強くて好ましからざる芯があることで、そのためかどうかはわかりませんが、全体にツンツンペタペタした印象の音になり、だんだんうるさく感じてきてしまうことです。

ヤマハとはまた違った意味で、もっと深いところからピアノを鳴らして欲しいというのが偽らざる印象です。
というのも、ピアノ自体はそんな音造りはしなくても、非常によく鳴っていると思いましたし、パワーも昔に較べるとかなりあると思いました。
ただし、全体のまとまり感があきらかに欠けており、その点ではヤマハが一歩上を行くような気もします。
そうはいっても潜在力は非常に高いピアノだと思えるだけに、画竜点睛を欠くのごとく、却ってそこが残念に感じるのでしょう。

もう一つは、これはカワイの普及品にまで等しく言えることですが、根本的に音質が暗いのはこのメーカーのピアノの生来の特徴という気がしましたし、この点はSK-EXにまで見事に受け継がれているようです。
ひとくちに言うと、単音で聴く音に、甘さやふくよかさがなく、どこか寂しい響きがあるということ。
ステージで活躍するコンサートグランドには、当然ブリリアントな面も持たせようとしているのでしょうが、地味な目鼻立ちの顔に、無理に派手なメイクをしているようで、どこか不自然さがつきまといます。

ドイツピアノの中には決して甘い明るい音は出さないけれども、毅然とした音色を持っているピアノがいくつかありますが、そういうピアノでもなく、このあたりがカワイの個性がもうひとつはっきりしない点かもしれません。

構造的な音の印象としてはフレームが硬すぎるという感じも…。
このどこか寂しげで冷たい印象が取り払われたときに、カワイの逆転劇は起こるような気がしました。
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湿度計への不信

ある調律師のホームページでオススメだった温湿度計を購入して数ヶ月経ちますが、このところ古い湿度計との間に常に10%の違いがあって、どっちが正しいのかと迷っています。

古い方は同じものが二つあるのですが、共に同じ値を示し続けているのが、またなんとも不気味で、もしかして…これはこれで正しいんじゃないかという気もしています。

新しいほうはその調律師オススメのエンペックスというメーカー品だけあって、一定の信頼性は置いていたのですが、なにしろもの自体がたいそう軽くてピアノの上ですべりやすいために、実は弾いたときの微振動によって二度ほど床に落ちてしまった経緯があります。
我が家の床はじゅうたんなので、それほど深刻な衝撃ではなかったんじゃないかとも思いたいのですが、でもやっぱりそれで狂ったのでは?という疑いもあるにはあるわけです。

新しいほうがこのところ常に10%ほど低い値を示しており、それが本当なら50%ほどで数値としては理想的なのですが、ちかごろは季節変化によって冷房を入れない時間が増えてきているので、果たして信用していいものかどうか迷っているわけです。

体感的にはやや湿度がある感じがしないでもないものの、この値が本当に正しのならいいわけですが、これを確かめるには結局もう1台買ってくるしかないのかと迷っています。

でもねえ…ひとつの部屋に新旧4つもの湿度計を並べることを考えたら、さすがに自分のおバカ度も好い加減にしなくてはと躊躇してしまうのです。

まさか人に湿度計を一日貸してというのも変ですし、こんなことなら新しい湿度計の下に滑り止めのゴムでも貼り付けておけばよかったと思いますが、でも、そもそもそんなちょっとしたことは、なんでも親切設計の日本製品なんだったら初めからつけておいてくれてもよかったんじゃないかとも思います。

まあダンプチェイサーもつけていることでもあり、もう少し様子を見てもいいとは思いますが、なんとなくチラチラと気には掛かる今日この頃です。
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続々エアコン依存症

マロニエ君のような困った体質を持つ者にとっては、季節の変わり目というのは、その時期をなんとか無事に通過するだけでも普通の人以上に大変です。

このところは朝夕は肌寒ささえ感じるまでになってきましたが、それでも、つい数日前までは夏の名残のある一時的なものだったから、折々に冷房をいれるなどして不快感を凌いでいたのですが、一昨日所用があって天神に出た折には、中途半端な気温だったところへ、あまつさえ雨まで降り出しました。

通常、雨が降れば同時に温湿度は上昇するものですが、この日は湿度のみが上がり、気温のほうは上がらずに肌寒さが加わるという変則的なものとなり、それでついにマロニエ君の体になにか異変が起こったようでした。

用事を済ませ、それでも這いつくばるようにしてヤマハなどをちょっと覗いた後に帰宅しましたが、このときはずいぶんと不当に疲れたという印象がありました。

巷ではいま、風邪がとても流行っているということを耳にしますが、ついに自分も風邪をひいたかと思うほど疲れがおさまらず、何よりも大きな変化は、ついに体が寒いと感じはじめたことでした。
本当に寒いのか、発熱のための悪寒なのかは判然としないまま、薬をのんだり寝具をやや温かなものへ変更したりと、マロニエ君が騒ぎ出すと家人も大慌てです。
この半年近く、冷房これ一筋で過ごしてきたマロニエ君の口から、ついに「寒い」という言葉を聞くのは、家人もささやかな驚きに値することらしいです。

これはなんとなく自分でわかるのですが、体内の夏冬の切り替えが一昨日を境にして、ついにガッチャンと切り替わったような気がしました。それまで多少寒くても冷房だったものが、いったんこれが切り替わると今度は一転して、ちょっと肌寒くても暖房を入れたくなる、ここがまさにエアコン依存症のタチの悪さといったところです。

自室でもそれは続き、前日まで冷房を入れるたびにフゥ〜と生き返るような気分を味わっていたものが、翌日には一転してあたりが妙に寒々しく感じられて不安になり、つい暖房を入れたくなってそわそわしてくるのです。
さすがにそれはマズかろうと一日は我慢しましたが、こんな一時しのぎはそういつまでも続くはずもなく、マロニエ君の部屋に暖房が入るのもそう先のことではないはずで、困ったもんだ…という感じです。

マロニエ君のような体調の持ち主も困りものですが、親しい医者にいわせると、もっと危ないのは倹約が体に染み込んだ高齢者なんだそうで、やみくもに電気代のかかるのを嫌がって夏はエアコンを極力使わず、自宅にいてさえ熱中症になったり、冬は暖房をケチったがために心臓や血管にストレスがかかって体調を崩す、悪くすれば入院、最悪の場合落命なんてこともあるそうで、これは専らメンタル面の働きのなせる技のよです。

こういう人達は冷暖房によって自分の体の健康を守って維持するという観念がまったくなく、自然が一番などと心底信じ切っているから、いわば無意識のうちに我が身を苛み犠牲にしてまで倹約に勤しんでいるわけで、まあそれに較べたら、エアコン依存症のほうがいくらかまだマシかぐらいに思っています。

とはいっても、マロニエ君のエアコン依存症もきっとメンタル面からくる欲求が大きいわけで、べつに健康のためでもなければ、長生きをしようとしてやっていることではありませんけれども。
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アメリカ産牛肉

最近は円高のお陰もあるのでしょうが、ずいぶんと肉類の値段が安くなったように感じます。
とくに牛肉が安くなったように思うのですが、実際のところどうなんでしょう。

輸入肉から連動してのことなのか、国産牛もなんとなく以前より安くなっているような気がするのですが確かなことはわかりません。

さて、輸入牛肉なんて、昔はただの安物で、国産を高級品に押し上げるための肉といった印象がありましたが、あるころからこれに固有の美味しさがあることに気がつきました。
たぶんマロニエ君の記憶違いでなければ、1999年にオープンしたコストコホールセールで買うようになってらだと思うのですが、ここはアメリカの倉庫型ショップで、文字通り店内はアメリカそのもの。
牛肉などもごく一部を除いてほとんどがアメリカらの輸入品でした。

それ以前はオーストラリア産が主流でしたが、こちらは大したことなく、同じ輸入牛肉でもアメリカとの味の差は見過ごせないものがあると感じます。

これを痛感したのはコストコで販売されている、特大サイズの分厚いステーキなどで、はじめは日本人の習慣で硬さばかりを意識して、ゆっくり味わうところまでは至りませんでした。
その後、普通の国産牛のステーキなどを食べてみると、たしかに柔らかさは勝って食べやすいから味まで美味しいように感じていましたが、それでもコストコホールセールに行く度に、その気前の良い厚さや量など、買いたくなる誘惑に負けてアメリカ産牛肉も買ったりしているうちに、硬さの問題でつい見落としていた独特の美味しさがあることに気が付くようになりました。

いったんそれがわかると、その違いはより明確なものになりました。
アメリカ産にはそれ自体にいかにも牛肉らしい旨味があり、それとは対照的に味が薄いのがオージービーフだと思うようになりました。ここがもしかしたらあの飼料の違いなのかもしれませんが。
ともかく、味がいいから、今後はアメリカ産牛肉中心で行こうと思っていた矢先に、例の狂牛病問題が沸き起こり、一時は吉野家などでも大騒ぎとなって、せっかく気に入っていたアメリカ産牛肉の輸入が途絶えてしまいます。

それから数年が経って、最近ではようやくスーパーの店頭にもアメリカ産が復活してきているのは嬉しい限りです。
最近はときどきこれを食べますが、やはりアメリカ産にはカウボーイ的な野趣溢れる独特な肉の美味しさがあり、これは病みつきになります。

ところが日本人というのは、いったん刷り込まれたイメージというのは少々のことでは覆ることがありませんから、おそらくは90%以上の人が輸入肉はたんなる安物という先入観があって、あまりこれを好んで買おうとはしていないようです。
例の騒ぎの後遺症もあって、位置付けとしてはアメリカ産はオージービーフのさらに下で、国産を頂点にしたヒエラルキーが消費者の意識の中にしっかり出来上がっているような気がします。

国産牛の場合、我が家は最上級品なんて買いませんから、せいぜい中ぐらいのものと較べると、たしかに国産牛は味もそこそこで、食べやすい感じはあるものの、アメリカ産の独特のコクのあるワイルドな味に較べたら個人的には国産牛が味に関して上だとは言い切れない気がします。

先日など、スーパーでスライスしたアメリカ産の牛肉がかなり安く売られていましたが、そのスーパー自体が極端に変なモノは置いていないので、試しにこれを買ってみたところ、やっぱりあのアメリカ産独特の濃密な肉の味がありました。
牛肉はやっぱりこうじゃなくちゃと食べるたびに思ってしまいます。
少なくとも輸入ピアノと日本製ピアノの音色の違い以上のものがあるとマロニエ君は感じています。

アメリカ産は格下だと思い込んでいる方、いちど偏見を取り払ってアメリカ産牛肉特有の美味しさを味わってみてはいかが?
なによりも、安全性の面を最優先に心配される方には向かないかもしれませんが。
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ベーゼンとクラヴサン

最近はちょっと変わったCDを聴いています。

演奏がイマイチなので、演奏者の名前は敢えて書きませんが、日本人の女性ピアニストのもので、ドビュッシー、ショパン、ラヴェル、グリーグ、リストなどの作品が弾かれているもの。
なんで買ったのか、よくはもう覚えていませんが、おそらくベーゼンドルファーのインペリアルでなく275を使っている点と、もうひとつはマロニエ君がドビュッシーの中でもとくに好きな作品のひとつである「沈める寺」が入っているので、それが275で演奏されるとどういう感じになるのかという興味があったのだろうと思います。

ところが演奏にがっかりしてそのまま棚の中に放り込んでいたのです。
曲を聴くにも、ピアノの音を味わうにも、演奏がちゃんとしてなくてははじまりません。
それを再挑戦のつもりで、もう一度ひっぱり出して聴いてみる気になったのです。

ピアノ自体は素晴らしい楽器で、コンディションもまことによろしく、艶やかさと気品が両立しており、この点では理想的なベーゼンドルファーではないかと思われます。とくに「沈める寺」で度々登場する低音はスタインウェイとはまた違った金色の鐘のような響きだし、全体にはひじょうに明確な色彩にあふれていたと思います。

ショパンのバルカローレなどもひじょうに美しい世界で、それなりに納得させられるものがあったのは事実ですが、それはこのピアノの調整、とりわけ整音が素晴らしく良くできている点に尽きるという気がしました。
それは、変な言い方ですが、ある意味ベーゼンドルファーらしくない音造りをされていて、このピアノの持つウィーン風のトーンのクセみたいなものがほとんどないために、その音はただひたすら美しいデリケートな楽器のそれになっていたようです。あと一歩ウィーン側に寄ったらショパンは拒絶反応を起こすのではないかと思われます。
そんな中ではラヴェルとリストが最もベーゼンドルファーに相性がいいようにも感じました。

全体としてはとても美しいけれども、根底にフォルテピアノを感じさせる要素があるのも間違いなく、そこがまたベーゼンドルファーが何を(誰が)弾いてもサマになる万能選手ではないことがわかり、そのピアノはその儚い美しさこそが魅力だろうと思われます。

もう一枚は、フランスのジャック・デュフリによるクラヴサンのための作品集で、演奏はインマゼール。
デュフリは1715-1789年の生涯ですから、クープランやラモーの後に続く宮廷音楽・クラヴサンの名手というとこになるでしょう。フランス以外ではバッハとモーツァルトの中間の時代を生きたことになります。
デュフリがもっとも影響を受けたというのがラモーだそうですが、なるほどその曲調はどれもラモー的でもあり、この時代のクラヴサン作品の中ではやはりフランス的な華やぎと、それでいてどこか屈折した享楽が全体を覆っています。

またバッハのような厳格なポリフォニックの作品ではなく、すでにメロディーと伴奏という様式と後に繋がるロマン派的な萌芽も随所に感じることの出来る、聴いていてなかなか面白い作品です。
デュフリの作品は当時の王侯貴族にも受け入れられ人気があったといいますから、当時の貴族社会を偲ぶ手立てとしてもこれは聴いていておもしろいCDだと思いました。
そしてなによりもマロニエ君の耳を惹きつけたのは、そのクラブサン(チェンバロ)の音色でした。

大抵のチェンバロは弦をはじく音が主体で響板がそれを小さく増幅させていますが、ここに聴くチェンバロには思いがけない肉厚な響きがあり、しかも弦楽器のように、響板がぷるぷると振動しいているのが伝わってくるほどのパワーがありました。しかもきわめて色彩的。

ただツンツンと寂しい音しか出さないチェンバロも少なくない中で、ここで用いられている楽器はなんともゴージャスで艶やかな潤いのある音を出すのには驚きました。
1600年代に作られた楽器のコピー楽器で、1973年に作られたものだそうですが、なんとなくその色彩感や華やかさがベーゼンドルファーの響きにも通じるものを感じたところでした。
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仮の嫁入り

日曜は、現在ピアノ購入を検討している知人のご夫妻がマロニエ君宅に来られて、しばらく我が家のピアノを弾いていただきました。
ピアノは(他の楽器もそうかもしれませんが)、自分が弾いているときに耳に聞こえてくる音と、人が弾いている音を少し距離を置いて聞くのではかなり印象が違い、とても客観的に聞くことが出来るので、マロニエ君自身にも大いに楽しめる体験でした。

とくに大屋根を開けることは普段まずないので、こういう機会を幸いに全開にして弾いていただきましたが、普段とはまったく違う自分のピアノの一面を知ることができて有意義でした。

我が家で2時間近く過ごしてから、楽器店に移動。

そこにあるピアノは小型のグランドで、既に弾いたことのあるものではあったものの印象が良かったために再度見に行くことになったのでした。
前回とは別の場所に置かれていたましたから、置かれた環境によってピアノがどのような変化をするか、つまりピアノそのものがもつ基本的な特徴がどの程度のものであるかまで確認することが出来たわけですが、場所が変わってもまったくその長所が衰えることも影を潜めることもなく、はっきりと我々にその力強い魅力を訴えてきたように感じました。

驚いたことには、席を外された奥さんが再び店に戻ってくる際に、遠くまでこのピアノの音が周辺の喧噪を貫いて朗々と鳴り響いてきたとかで、やはりスタインウェイの遠鳴りは大したものだと思いました。

知人は、ついにピアノ自体については概ね納得するに至りましたが、残るはこのピアノを購入して自宅に置いた場合、同様の鳴りや音色がこのまま得られるかという点で悩み始めたところ、この日はたまたま決定権のある営業の人物が先頭に立って対応していたこともあり、だったら家にピアノを入れてみましょうか?という思い切った提案をしてきました。

購入するかどうかもわからない高額なピアノをいきなり自宅に運び入れるというのは、驚きもあり抵抗感もあったようですが、マロニエ君はこれ幸いだと思いました。
まさかこっちからそれを頼むわけにはいきませんが、店側が自発的にそれをやってくれるというのなら、現実的にこれに勝る確かな確認方法はないわけですから、この際そうしてもらったらどうかと、すかさず小声で言いました。

果たしてそのような手続きを取ることとなり、後日このピアノは知人の自宅へと、いわば仮の輿入れをしてくることになりましたが、はてさて結果はどうなりますことやら。

購入すればきっと一生の宝になること間違いなしだとマロニエ君は思いますが、あとは細かな条件的なものもあるのかもしれません。
いつもおなじことを書いて恐縮ですが、ピアノを買うというのは実にいいもんですね!
人の事でも楽しくなってしまいます。
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コンサート会場の規模

ヨーロッパ人の有名ピアニストによるプライベートなコンサートがあり、仲間内と聴きに行ってきました。
雰囲気のある美しい会場で、コンサートも楽しめるものでしたが、その暑さには参りました。

このところエアコン依存症のことを書いていた矢先だっただけに皮肉だったのは、会場の空調が思わしくなく、暑苦しさにめっぽう弱いマロニエ君は、正直音楽なんてどうでもよくなるほどフラフラになってしまいました。なにかの修行のように暑かった。

ところで、小さな会場のコンサートには、一般的なホールのそれとは違った味わいがあるといわれますが、定義としてはいちおう理解はしても、ホールのほうが優れている面も多いとは思います。
しかし、巷では普通のホールでのコンサートにめっぽう否定的で、小さなサロンコンサート的なものを必要以上に有り難がって称賛する一派があるのは、いささか考えが偏りすぎじゃないかと思います。

(今回のコンサートとは直接関係はない話ですが)この手の人達の主張としては、音楽とはそもそもそれほど大きな会場で大向こうを唸らすためのものではなく、小さな会場で行われるものこそが、もっとも本来的に正しく、味わい深く、音楽の感動も深く、演奏者の息づかいを直に感じ、生の感動が得られる理想的なもので、それがいかにも贅沢だというようなことを胸を張って言いますし、心底そう信じているようにも見受けられます。

これは、言い分としてはわからないでもない部分もあり、例えばNHKホールとか東京国際フォーラムみたいな巨大会場でピアノなんぞ聴いても、音は虚しく散るばかりで、たしかにこれが本来の姿ではないでしょう。

しかしながら、大きめのホールの演奏会すべてに批判的で、小さな会場のコンサートばかりを最良のものと言い募る主張にも、現実的には大いに疑問の余地ありだと思うわけです。
マロニエ君自身、小さな会場のコンサートにはもうあちこちずいぶん出かけてみましたが、結果として納得できるものであった記憶は、実をいうとほとんどありません。
理由はそのつどさまざまですが、ひとつ共通して言えることは、小さい会場には小さい会場固有の弱点が多々あり、けっして上記のような良いことばかりではないからです。

具体的には、やはり狭いところに人が鮨詰め(一人あたりの前後左右の寸法はホールの固定席より遙かに狭い)となり、息苦しい閉塞感に苛まれること、イスが折り畳みなど小型の簡易品になるので、これにずっと座り続けることの身体的苦痛(骨まで痛くなる)、奏者も含め大抵は同じ高さの平床なので最前列以外は見たくもない他人の後ろ姿ばかりが眼前に迫り、演奏の様子など満足に見えたためしがない、小さな空間では響きらしきものも望めず、楽器との距離が近すぎて音は生々しく演奏が響きによって整えられない、ピアノもほとんどがコンサートに堪えるような楽器ではないなど、現実はやむを得ない妥協と忍耐の連続なわけです。

だからサロンコンサートなんて言葉だけは優雅なようでも、現実には快適なホールにはるかに及ばない厳しい諸要素が少なくないわけです。遊びならどんなに素晴らしいスペースであっても、それがひとたびコンサートともなれば、ちっちゃな空間故の限界が露呈するというのが掛け値のない現実だと感じます。

要するに、普通の住環境でも、なにも豪壮広大な邸宅で暮らしたいとまでは思いませんが、できることならゆとりのあるそこそこの広さをもった住居が望ましいわけで、狭くて小さなマンションこそが理想的で贅沢で味わい深いなんてことはまさかないでしょう。
これと同じで、音楽がゆっくりと翼を広げられるだけの、ゆとりのある場所にまず奏者や楽器を据えてから、しかる後に奏される音楽に身を浸したいものだと思うのです。

そういうわけで、べつにマロニエ君は小さなコンサートというものを頭から否定するものではありませんが、最終的・総合的に最も心地よくコンサートが楽しめるサイズがどれくらいかと考えた場合、一般的に言うところの中ホール(500人〜800人ぐらいな規模)ぐらいで行われるコンサートだろうと、個人的には思うのです。

東京では紀尾井ホールや東京文化会館小ホール、福岡なら福銀ホールぐらいのサイズです。
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ANAの背面飛行

パイロットの操作ミスで、沖縄から東京に向かっていたANAのボーイング737が浜松付近でほとんど背面飛行に及んでいたことがわかり、このところの報道メディアはしきりにこれを取り上げていました。

この事故は、飛行中トイレに立った機長が戻ってきたときに、副操縦士が操縦室ドアのロックボタンを解除する操作をしたとき、誤って機首を左右に動かすつまみを2回(たぶんドアが開かないからもう1回となったのでは?)操作し、それにより機首が急激に左を向いて同時に下向きになり、機体は自らの重量を支えられずに、ほぼ裏返しになりながら1900メートルも急降下したというものです。

最近の飛行機はテロやハイジャック防止のために操縦室のドアがいちいちロックされる仕組みになっているとかで、中からロックを解除しないと開かないようになっているんだそうです。

機体がほぼ裏返しで急降下したというのは、ごく最近フライトレコーダーの記録解析に基づいてANAが発表したものでしたが、この事故が起こったときにマロニエ君は友人らと話していたことは、「操縦室のドアロックを解除する」と「機体の方向を変える」という、まったく次元も性質も異なる内容の操作を、訓練を受けたパイロットが間違えるなんてことがあるのだろうか、という点で大いに疑問でした。

飛行機の操縦室のことは知りませんが、常識的にいうと、操作ボタンなどはその機能によっておおよその位置が分類され、人間の感覚を必要以上混乱させないような配慮がされているはずで、とりわけ多くの人命を預かる乗り物などにおいて、それは工学設計の半ば常識だと思ったからです。

ところが、ほどなく新聞紙上に問題のスイッチ周辺の写真が掲載され、間違えた二つのつまみに2つの赤いマルがつけられていましたが、それは大きさがやや異なるものの、驚いたことにいかにも似たような色と形状で、しかもその二つはごく近い(写真で見た印象では10センチ以内ぐらい)だったので、これを間違えるのはなるほどあり得る話だと思いました。

もちろん詳しい状況はわかりませんから、何かを断定することはできませんが、写真を見た限りでは機体の設計のほうに問題があるようにも思われ、ミスをおかした副操縦士が少々気の毒にも思えてきたのでした。
マロニエ君がパイロットならそれこそ2回に1回は間違えそうです。

ところがワイドショーなどでは、この問題で元パイロットまでスタジオに呼んできて、えらく深刻な様子で、とくに司会者やタレントのコメンテーターはつまみを間違えた操縦士を非難しまくっていました。
最近は本来必要と思われる自分の考えとか社会に対する批判などはろくにできないクセに、ひとたび人命などという建前がつくと、一気に語調を強め、総攻撃となるのは見ていて違和感を覚えます。

しまいには、ある若いタレントが、「パイロットはお客さんの命を預かっているという自覚がないのではないか」「たかだか3時間のフライトでトイレに行くなんて、たるんでいるからだ」「自分達でも仕事の時はトイレに行けないことがなる」などと、まるで人間の生理現象まで否定するような言い方をしたのは驚きでした。

もちろんパイロットには最上級の慎重さをもって操縦にあたってもらわなくちゃ困りますが、だからといって生身の人間ですからトイレぐらい行くのは当たり前でしょう。
わざとらしいコメントもほどほどにして欲しいものです。
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続エアコン依存症

エアコン依存症のくるま編。

人の車に乗せてもらうのはありがたいことなんですが、マロニエ君の場合、自分の車でないときは、車内環境に関して、ちと心配があるというのが正直なところ。
とくに感じるのはエアコンの調整が自分とは違うと感じることが多々あり、しかも、まさかこちらが手を出すわけにもいきません。

マロニエ君はエアコンは文字通りエア・コンディショニングとして使いたいし、そこには一時しのぎではない快適な状態を「持続させる」という意味合いもあると自分なりに思っています。

でも、多くの場合、人の車に乗せてもらって感じるのは暑いか寒いかのどちらかで、あとは思いついたように温度を上げたり下げたりする場合が多く、適温を維持するという認識が意外に少なく感じるのは不思議です。
家のエアコンでそうする癖がついているのか、エアコンを必要最小限に絞っている人が少なくないし、かろうじて汗が出ないギリギリぐらいにしている人がいますが、なんで?と思ってしまいます。

特に車は、それで電気代がかかるわけじゃなし、だいいち車内は狭くて揺れ動く環境だから、人が存在する空間としては心地よさへの配慮が普通以上に求められる空間と思うわけです。マロニエ君の個人的な感覚からすると、普通より、より静かで涼しくすることで乗員を清新な気分に保つことが大切で、例えば涼しいより暑苦しいほうが車酔いなども誘発しやすくなるし、疲れもたまりやすいと考えられます。

ところが、結構ネチョッと汗が出そうなぐらいの温度設定にしている人って多いんですね。
マロニエ君にしてみれば、「よくこんな温度でなんともないもんだ…」と感じてしまいます。

それどころか、ちょっと涼しくなると窓を開けて走ったりする人がいますが、マロニエ君にすればこんなのは言語道断。だいいち窓を開けて走るなど車内もほこりで薄汚れるし、自分なら絶対にしませんが、路上でも前後左右の窓全開で走っている車をときどき見かけて呆れてしまいます。

どこへでも極力自分の車で行くのが好きなのは、ひとつにはこのエアコンその他の点で自分の自由が利くからというのがあります。さらには人を乗せておいてラジオや音楽のボリュームを落とさないでぜんぜんへっちゃらな人がいますが、あれなんてどういう心境なのかと思います。

マロニエ君ならそれがどんなに素晴らしい音楽でも、好きな曲でも、人を乗せているときは、その人との会話がメインなわけで、音楽は消すか、ごくごく小さくして会話の妨げにならないようにしますし、そもそも車の中のような狭い空間では、音も苦痛と不快の原因となるので控えるのが心配りだと思うんですけどね。

よく電話中でも、来客中でも、食事中でも、テレビは漫然とつけっぱなしという人がいますが、おそらくあの感覚なんでしょう。

エアコンに関してだけでなく、何事も日本人はチビチビと節約モードでやるのがしょせんは好きな民族なんだろうと思います。海外に行くと、例えばご近所で日本の影響が大きい言われる台湾などでも驚かされるのは、そのなんとも豪快な冷房の入れ方で、どこに入っても建物内は胸がすくほどビシッと冷えています。
当然ながらタクシーなども同様で、いささかもケチケチせず冷房ガンガンなのは、それだけで元気が出るようです。
そういえば日本も昔はこうだったなぁと、何事も元気だった昔がなつかしいほど、今はなにかにつけてガマンの時代のようです。
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エアコン依存症

アルコール依存症のように、人によって○○○依存症というのがいろいろとあるようですが、その点で言うならマロニエ君はさしずめエアコン依存症のような気がします。
「…気がします」ではなく、完全にそうだと断言すべきかもしれません。

エアコン(とく冷房)は必需品で、盛夏は言うに及ばず、前後の時期もどうしてもエアコンを使ってしまいます。

そんなエアコン依存症にとっては、とくに最近のように朝晩が涼しく、あるいは肌寒くなるときがクセもので、この時期、普通の人がエアコンを入れなくなる時期というのがマロニエ君にとっては、ある意味、真夏よりも辛かったりする時期となるのです。
なぜ自分が依存症だと思うかいうと、暑いのが嫌だというのを通り越して、エアコンを入れていない状態、機械の音が消えて妙にシンとなり、空気が動かない、あの状態というだけで不安になり、精神的に耐えがたく、実際に体調まで悪くなるからでしょうか。

ひとつには湿度の問題があり、エアコンは頼まなくても除湿してくれますから、室温が下がるだけでなく、このサラサラがまず快適なわけです。秋口などに世の中がしだいにエアコンを入れない状態になると、却ってネチョッと暑くなり、空気自体も湿度を含んで重い感じになり、それがもうダメなんですね。

この時期になると、よそのお宅などにも出来る限り行きたくないのは、まさか礼儀上も「あのう、エアコンを入れてもらえませんか」なとどは言い出せないからです。
とくに涼しくなるとエアコンを早々にOFFにして、それを疑いもなく当然のような顔をしている人を見ていると、もうそれだけで違和感を覚えて気が滅入ってしまいます。

たしかに今の季節、あまり冷房を入れすぎるとヘタをすると風邪をひく危険性も高まりますが、そんなことは問題ではなく、鼻水をすすり頭痛がしても、まだまだ冷房を使わざるを得ないので、自宅では現在でも常につけたり消したりの繰り返しをやっています。
さすがにここまでくれば体も鍛えられたのか、少々のことではこたえないようになりました。

考えてみるとマロニエ君のまわりにはエアコン中毒が昔から多く、親しくしていた親戚とか叔父夫妻なども冷房病は重症の口で、何ヶ月もスイッチを入れっぱなしなんていうウソみたいな話もありました。
また寒いときはクーラーを切るのではなくコタツのスイッチを入れたりと不道徳なことをする者もいたりと、当時は現在のような節電の観念なども薄い時代で、驚くべき話ですね。

こういう周囲の環境も多少は影響があるとみえて、夜などもたった一晩でもエアコンがないと眠れませんし、ましてやキャンプだなんてとんでもない話です。
たしかにつけると寒い、でも消すとモワッとして不快感が増すので、それをエアコンの力で絶えず打ち消しているということだろうと思います。

普通は、春秋はときに窓を開けて「吹き寄せる穏やかな風が心地よい」などとさも風流ぶっていう人がいますが、マロニエ君はまっぴらゴメンで、ただのケチを正当化してるように見えるだけ。
また、世の中にはエアコンそのものが嫌いだと高らかに公言して憚らない人がいますが、そういう人とはたぶん一日たりとも一緒には過ごせないだろうと思います。

こういう人は、エアコンの使いすぎは健康に良くないとか、寒いからとか、なんだかんだと言い募りますが、多くの場合もとを辿れば倹約精神からきていると思います。正真正銘寒いのが苦手というのなら、その人達は冬こそはよほどぬくぬくにしているかといえば、だいたいさにあらず、暖房のほうもやはりちびちびしか使っていない場合が多いのをマロニエ君は見逃しません。

ともかくマロニエ君にとっては、エアコン(冷房)は命綱にも等しく、体も完全にそれを前提とした体質になっており、もはやこれがなくなればたぶん生きては行けないだろうと自分で思います。
そのかわり冬の暖房は最低限で構いませんから、自分なりに筋が通っているつもりです(笑)。
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電子ピアノのタッチ

ピアノクラブの方から電子ピアノのオススメはないかと尋ねられました。
この方はマンションのご自宅にグランドをお持ちなのですが、練習用に電子ピアノの購入を決心されたようです。

ご当人が試弾してみて、このあたりかなあと思ったのが「カワイ CA13(15万くらい)、同CA63(20万くらい)、ヤマハ CLP440(18万くらい)」だそうで、「指を動かすくらいに練習したいので、あんまり高いのは考えてない」とのことなので、ほぼ下記のような意味の返信をしました。

まず、基本的にマロニエ君は電子ピアノのことはぜんぜんわからないということ。
以前聞いた話では、このジャンルでは断然ローランドなんだそうで、へぇそんなもんかと思うだけです。

ただ、もしも自分が買うとなると、もっぱら情緒的な理由だと思いますが、電子ピアノを楽器に準ずるものと捉えれば、やはり楽器メーカーの製品を買いたくなってしまいます。

電子ピアノで最も大事な点はなにかと考えた場合、電気製品としての機能は横に置くとして、あくまで個人的な印象ではタッチの優劣にこそあると思います。
これが安物になればなるほどプカプカとした安っぽい単純バネの感触に落ちぶれてしまい、高級品ほどタッチのしっとり感や深み、コントロールの幅などがあるようです。
音はどうせ多くはスタインウェイからのサンプリングで、ヤマハ/カワイは自社のコンサートグランドから採っていますが、所詮は電子の音なのでこの点はどうでもいいと言っちゃ語弊がありますが、それよりは物理的なタッチ感がいかに本物のピアノに少しでも近づけているかという点に興味の的を絞ると思います。

その点で言うと、本物のグランドピアノのアクションをほぼ使っているヤマハのグランタッチなどは電子ピアノのいわば究極の姿で、現在はアヴァングランドに受け継がれているようですが、お値段も立派。
グランタッチは以前は中古でもかなり高価で、それでもタマ数のほうが不足しているくらいでしたが、最近は世代が進んだせいか、中古価格も一気に安くなり、どうかするとネットオークションなどで10万円台のものもチラホラ見かけます。もっとも何年も使用された中古の電気製品という意味では、故障の心配もないではないでしょうが。

また、安めの現行品の中から探すなら、私の最近の微々たる経験で言うとカワイの電子ピアノの中に「レットオフフィール」という機能がついた製品が頭に浮かびました。

レットオフというのは、本物のピアノのキーを押し下げたときに、最後のところでカクンと一段クリック感みたいなものがあり、これはレペティションレバーがローラーを介してハンマーを押し上げたときにジャックという部品が脱進してハンマーを解放するときの感触(だと思いますが間違っていたらすみません)ですが、この本物っぽいタッチ感を電子ピアノで作り出している機種があるわけです。
これにより、少しなりとも電子ピアノの味気ないタッチに生ピアノ風の(とくにグランドに顕著なこの感触を)演出しようという試みでしょう。
私なら練習用として割り切って買う電子ピアノなら、専らこの点と価格を重視するような気がします。

調べてみると、候補に挙げておられたCAリーズならCA93という最上級モデルでないと付いていませんが、CN33という機種なら標準価格17万弱の製品にはこれが搭載されてています。

その結果、この方は再度あれこれ試してみられた結果、CN33よりもCA13のほうが実際のタッチが良いと感じられたそうで、ついにこれを購入されたとのこと。
ちなみにCAシリーズは木製鍵盤がウリとのことで、電子ピアノでそれはポイント高いと思いました。
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福岡ピアノクラブ2周年

ピアノクラブの発足2周年の節目に当たる定例会が行われました。

会場はパピオビールームという福岡市が運営する音楽練習場で、そこの大練習室。
この施設を利用するにはすべて抽選での申し込みが必要で、数ヶ月だか半年だか忘れましたが、抽選に参加して、どうにかこの日この会場が当選しての利用というわけです。

大練習室はオーケストラの練習が楽にできる広さがあり、この施設内でも文字通り最大の練習室で、ちょっとしたコンサートなども行われており、ピアノはスタインウェイのDとヤマハのC7があります。
ここのピアノはずいぶん昔(まだ新しい頃)に数回弾いた事があり、そのころはまだ気軽に利用できていたのですが、ここ最近はすべて抽選になるほどの高い利用率の会場であるだけ、ピアノもさぞ酷使されているだろうと思っていましたが、これが思いのほか状態がいいのは嬉しい誤算でした。

この施設が出来た時に収められたピアノで、すでに20年以上経過したはずのピアノですが、なかなか甘い音色と柔らかな響きを持っていて、現在のスタインウェイにはない麗しさがありました。

ただスタインウェイには、このメーカー独特のタッチやフィールがあるために、メンバーの各人ははじめはちょっと弾きづらいというような声も聞こえましたが、マロニエ君に言わせると、むろん完璧とはいいませんが、むしろ良い部類のスタインウェイだったと思いました。
とりわけ公共施設の練習場のピアノとしてはモノも状態も文句なしというべきでしょう。

弾き心地というか、いわゆる弾き易さの点でいうと、たしかに日本のピアノは弾きやすいのも事実で、それが標準になっているのはマロニエ君を含めて多くの日本人がそうだろうと思われますが、ストラディヴァリウスなども初めはどんなに腕達者でもてんで鳴らないのだそうで、その楽器固有の鳴らし方や演奏法を身につけるには、最低でも一ヶ月はかかるといわれますから、ピアノも同様、すべての楽器は本来そういうものだと思われます。

その点では日本の楽器はピアノに限らず、管でも弦でも、あまりにイージーに過ぎるという意見もあるようです。誰が弾いてもだいたい楽々と演奏できるのは、日本製楽器の特徴でそれはそれで素晴らしいのですが、そのぶん何かが鍛えられずに甘やかされているといえば、そうなのかもしれません。

クラブのほうは、定例会が行われる度に新しい方が加わり、いまやかなりの大所帯になってしまっていることが驚くばかりです。

こんな一幕も。
ある方が演奏を終えて席に戻ろうとされたとき、新しく参加された方がその人に歩み寄ってしきりと挨拶をしておられて、一瞬何事かと思いましたが、なんとクラブ員の方が一年前にピアノを新しく買い換えられた時に、前のピアノをネットで売りに出して、そのピアノを買った人が偶然クラブに入ってこられたというわけで、その売買のとき以来はじめて顔を合わされたようでした。

世間は狭いという、まさにそんな光景でした。

いつも通り、定例会終了後は懇親会の会場へと場所を移して、大いに飲み食いして、大いに語り合ってのお開きとなりました。
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主役は機械

連休中、家人が食事の支度ができず外食することになりましたが、思いつく店はどこも気が進まず、けっきょくはやりの回転寿司店に行きました。

何事でも、マロニエ君は行列とか順番待ちみたいなことが苦手なことは折に触れ書いてきた通りで、それを避けるため夜の8時過ぎに家を出てお店へ向かいましたが、それでも連休ということもあってか、まだ順番待ち状態なのには驚きました。さてどうしたものかと思いましたが、他に行くアテもないので今回は腹を括って待つことになりました。

この店には入口脇に順番待ちのための広いエリアがあり、そこの長イスには子供連れなどがズラリと並んでいます。
そこで目についたのは、いまさら珍しい光景ではないものの、実に多くの人が携帯(とくにスマートフォンが目立つ)とのにらめっこ状態で、普通に話などをしている人は全体からすれば少ないようで、生きた人間よりも携帯の方が親しい間柄のように見えました。
あとからやって来る人も同様で、親子連れやカップルですが、腰を下ろすとサアとばかりに携帯を取り出し、それぞれが黙してなにやらせっせと画面操作などをやっています。

携帯電話→メール→スマートフォンと進歩するにつれ、人と人とのまともな会話とか人同士の生な関係というのは確実に少なくなってしまったという事実をまさに眺めるようでした。
いまや自転車をこぎながらでもメールをやりとりする時代ですから、家にいるときも、その他の時間もおおよそ似たような状況だろうと思われます。

マロニエ君の目には、あの携帯端末を操作しているときの人の姿というのは、まったく美しくない姿として映ってしまいます。同じ人でも、そんなものは手にせず、まわりの人達と普通におしゃべりしているときのほうが、どれだけ眺めがいいだろうかと思います。

しばらくして、まるで銀行か郵便局同様に順番がきたことを番号でアナウンスされ、その折に伝票とおしぼりをセットでパッと手渡されて、向かうべきテーブルの番号と方角が伝えられます。そこへ座ってあとはひたすら注文画面との格闘になりますから、以降食べ終わるまで、店員との接触さえ断ち切られることになります。
注文するのも項目別に分類された画面をあれこれと繰り出しては、種類、数、確定まですべて指操作によって成し遂げなくてはならず、これがまた、手が上げっぱなしになって肩から腕がひきつって、ピアノを弾くよりよほど疲れます。

お茶や醤油などの準備がセルフなのはもちろんのこと、リニアモーターカーのおもちゃみたいな機械が自動的に注文品を運んでくるので、それっとばかりにお皿を下ろして、忘れないように車輌を送り返すボタンを押して…と集中力をもって一連の動作をせっせとやっていると、なにやら食べることまで「食べる作業」のような感じになるんですね。

ここですべての中心になっているものは何をおいても「システム」であって、そのシステムに対応できない人は回転寿司さえうかうか食べられない忙しさです。
入店時の順番待ち登録も、そこに置かれた機械の画面を操作して人数やテーブル/カウンターなどの区別も含めて自分で入力し、ぺろっと出てくる番号の紙を持って呼び出しを待たなくてはなりませんから、こういうことに馴れないことには、ただ平穏に食事をすることさえ困難だろうと思われます。

そう思ってみると、高齢者のお客さんというのはやはり少ないし、見かけても家族とおぼしき若い人と一緒で、高齢者の方だけでこういう店に来るというのはかなり厳しいだろうと推察しました。
こんなところにも、さりげなく社会の弱者が切り捨てられているという現実を見たようです。
しかし、値段は安いし、たしかに文句はいえないのですが。

人の手作業になるのは唯一会計の時だけで、ここまでやるならいっそ駐車場のゲートみたいなものを置いて、機械にお金を投入するようにしたら、よほどせいせいするんじゃないかと思いました。
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この夏の技術者

この夏の間に、期せずして数人のピアノ技術者に直接会ったり、あるいは電話であれこれと話をしたりする機会がありましたが、同じ調律師という職業でも本当にさまざまな方がいらっしゃるものです。
いろいろ障りがあるといけませんので敢えてお名前は伏せますが、接した順番にご紹介。

Aさん。
数年前に知人を通じて紹介された方。多芸で非常に営業熱心な方。我が家のピアノも見ていただいたことがあり、長時間かけて細かい調整などをしていただいたことがあります。ある会場で偶然にお会いしましたが、あいかわらず熱心なお仕事ぶりでした。この方に全幅の信頼を寄せる方も少なくないようで納得です。技術もさることながら、そのいかにも謙虚な態度がお客さんの心を掴んでいるんでしょう。短い時間でしたが久しぶりにあれこれと話ができました。

Bさん。
我が家のピアノの主治医のお一人で、大変真面目で、ホールの保守管理やコンサートの調律などもやっておられる本格派ですが、決して自分の腕をアピールされないところにお人柄が現れています。あくまでもマイペースを守りながら納得のいく仕事をされる方で、多方面からの厚い信頼を獲得されているのも頷けます。とくにオーバーホールなどでは一般的な技術者の3倍近く時間をかけられるようで、仕事に対する情熱とひたむきさは特筆ものです。その人柄のような整然とした調律をされ、ときどき我が家のピアノのことを心配してお電話くださいます。

Cさん。
あるヴィンテージピアノによるリサイタルに行ったところ、そのピアノ状態がいいので感心していたら、なんとこの調律師さんの調律でした。我が家のピアノの調律も以前やっていただいたことがあり、とてもきちんとした素晴らしい仕事をされます。それが高く評価されてのことでしょうが、いろいろなところでお見かけしますが、ご当人は至って控え目な優しい方です。コンサートでお会いした数日後のこと、あることで何十年も前の古い雑誌を見ていたら、この方がまだうんと若いころに小さな写真付きで、対談に出ておられるのを見つけて、偶然の連続にびっくりしました。

Dさん。
この方も我が家の主治医の一人で、全国で広く活躍するかたわら、本を出したり主催コンサートのCDを出したりと、果敢な精神の持ち主で、業界の不正とも戦う闘士の側面を持っておられます。それでいて非常に純粋な心の持ち主で、およそ駆け引きなどのまったくできない直球勝負の方です。この方の音に関するこだわりは並大抵のものではなく、自分が理想とする音色を作り出すためにはあらゆる労苦を厭わないスタンスを長年貫き、この方の支持者は全国に大勢いらっしゃいます。見方によっては風変わりな方でもあるけれど、話していると少年のようでとても味のある愉快な方です。

Eさん。
マロニエ君がある意味最も親しくしてもらっている調律師で、普段から多岐にわたってお世話になっている方。あかるくおおらか、声も大きく、まるで調律師という雰囲気ではありませんが、ひとたびピアノに向かうと別人のように研究熱心で誠実な仕事師に変貌します。なにかと頼りになる技術者で、ちょっと疑問を投げかけるとすぐに飛んできてくれますし、何かがわかればわざわざ専門的な内容でも説明付きで電話をくださったりですが、何事も決して断定されないところが謙虚です。マロニエ君のよき相談相手で師匠でもあります。奥さん共々家族ぐるみのお付き合いがもう長いこと続いています。

Fさん。
以前、このホームページを見て連絡をくださった他県の有名な調律師の方。メインはベーゼンドルファーのようですが、九州のホールにはまだないファツィオリなども経験しておられるなど、いろんな輸入ピアノの経験が豊富な方。我が家のピアノが抱える問題を見に、わざわざ寄ってくださいました。ご自身、ピアノがとてもお好きということで、興味深い話をあれこれと聞かせていただきましたが、やみくもに世間に媚びることのない、自分らしいスタンスをお持ちの方とお見受けしました。海外のメーカーにも自費で留学するなど、ピアノにかける情熱は並々ならぬもので、またゆっくりお会いしたいものです。

存じ上げている技術者の方はもっとおられますが、とりあえずこの夏に接した方々です。
ただピアノが好きと言うだけで、こんなにもたくさんの技術者の方がお付き合いくださり、なんだかマロニエ君のピアノの味方がたくさんいてくださるようで心強い限りです。
篤く々々御礼申し上げます。
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監督の責任

現代の演奏が、店頭に並ぶつややかなフルーツのように、味よりも見てくれを重視して仕上げられていくというのはまったく商品主義のあらわれというべきで、悪しき慣習だと思います。
とりわけ録音演奏では、その傾向がより顕著になるようです。

もちろんセッション録音はライブとは性格が違うので、明らかなミスや不具合があってはならないのはわかりますが、それを求めるあまり音楽が本来もつ勢いとか、生命感までもが損なわれるのはなにより許しがたいことです。
おそらく現代の価値観を反映した結果で、目先のことに囚われて、大事な本質がなおざりにされるのはまさに本末転倒というほかありません。

感動は薄くても落ち度だけは努々無いようにそつなくまとめるという、現代人の気質そのものです。

録音に関しては、とりわけ有能なディレクターが関わらないと、昨日書いたピアニストのような失敗作が生まれる可能性が大だと思います。
録音現場ではディレクターの存在は大きく、ときには演奏家をも上回る権力と重責があるとも言われますが、それも頷ける話で、演奏者はひたすら演奏に専心するわけで、それを統括する芸術性のある責任者・判断者が必要となります。

プレイバックはもちろん演奏者本人も聴きますが、そこで有効な方向を指し示すのはディレクターの役目です。
演奏者が迷っているときに、「もっと自由に」「もっと情熱的に」と言うのと「もう少し節度を持って」「落ち着いてテンポを守って」と指示するのでは真逆の結果がもたらされるでしょう。

とりわけセッション録音には、ライブのような一期一会の魅力はない代わりに、何度も取り直しができるのですから、演奏者の持つ最良の面を理解し、そこを引き出しつつ、限界すれすれのところを走らせるべきだと思うのです。
そのためにも音楽に対する造詣と、演奏者の資質や個性に対する深い理解が求められます。

そういう能力を発揮して、演奏者からは最良の演奏を引き出すべきなのであって、ただ表情の硬いだけの、車線からはみ出さない安全運転をさせるだけなら、そんなディレクターはいないほうがまだましです。

時代の趨勢と言うべきですが、こんにち音楽の世界で最も幅をきかせているのは「楽譜に忠実に」という考え方で、それが絶対的な価値のようになってしまっています。
この流れに演奏者はがんじがらめとなり、若い人はその中で育つから、自分の感性をあらわにする主観的情緒的な演奏が年々できなくなってしまっているようですが、これは音楽の根幹を揺るがす深刻な問題だとマロニエ君は思います。
それはつまり、演奏家から最も大事な冒険や躍動や霊感を奪い取ることに結果としてなっていると思われるからです。

よく、目を閉じて聴いていると器楽のソロもオーケストラも、現代の演奏は誰が弾いているのかさっぱり区別がつかないと言われますが、まったく同感で、そんな同じような演奏家を何十何百と増やしても無駄だと思います。
それに輪をかけたように、凡庸この上ないCDをどれだけ作り重ねても、嬉しいのは当人およびその周辺の人達だけで、社会的にはほとんど意味を失います。

そして最終的にはそういう演奏家や、その手のCDの氾濫によって、結局それがまわりまわってお互いの足を引っぱる結果となるのですから、みんなでせっせと市場を疲弊させ落ち込ませているようなもので、この流れには早く終止符が打たれることを望んでいます。
そのためにも、芸術監督には演奏家を勇気づけ、叱咤激励して、魅力的なCDを作って欲しいものです。
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ライブとセッション

もうかなり前になりますが、NHKのクラシック倶楽部で、ある一人の日本人女性のピアノリサイタルの様子が放映されましたが、その人の演奏というのがマロニエ君はいたく気に入りました。
どちらかというと小柄な女性で、関西の出身で現在はパリに住んでいるという話でした。

曲目はシューベルトの最後の3つのソナタからハ短調D958、ラフマニノフの第2ソナタなど。
語り口がデリケートで、楽節の繋ぎや絡みがとても自然で歌があり、それでいて押さえるべきところはしっかり押さえるという、まことに筋の通ったもの。エレガントでメリハリのある演奏でした。
とくに気に入ったのが解釈が真っ直ぐで深みがあり、溌剌とした歯切れの良いリズム感、歌心があるのにそれをやりすぎないバランス感覚、さらには曲全体が美しい曲線のようになめらかに流れていくところなどでした。

マロニエ君は気に入ったものはDVDにコピーして保存するようにしていますが、この人の演奏はもちろんそれをしているものの、レコーダー本体から消去するのもしのびず、ときどき気が向いたときに何度も聴いているほどです。
一見パッと目立つタイプではなく、演奏もいかにもどうだという感じではなく、こういう本物の音楽作りを目指して静かに活動している人というのは、世の中にはいてもなかなかお目に掛かれるチャンスは少ないものです。
どうしても表に出てくる人というのは、違った意味での勝者である場合が大半です。

さて、その人はYouTubeを探すと、数は多くはありませんがいくつかコンサートの様子がアップされており、その演奏もやはり大変すばらしいもので、ここでもまた小さな感銘を受けることになります。

で、さらに、ホームページはないのだろうかと思って探したら、すぐに見つかりました。
そうしたら、現在はやはりパリ在住ですが、主にサックスの奏者と組んでコンサートをおこなっているようでした。
それはそれでひとつのカタチなのでしょうけれども、もうすこしソロを弾いて欲しいし、あれだけの演奏ができる人が惜しいような気がしたのも偽らざるところでした。

ここの情報を見ていると、日本で初のCDを録音してすでに発売されていることがわかりましたが、普通の店頭に置いているとも思えないので、そのCDを管理している関西のアーティスト協会を通じて購入することになり、代金を振り込むと数日後に届きました。

期待に胸躍らせてプレーヤーにCDを押し込んだところ、出てきた演奏はのっけからちょっと何かが違う感じでした。
冒頭はクープランの小品、続くモーツァルトのソナタも、ショパンもドビュッシーも、概ね同じ調子でした。
栗東のファツィオリのあるホールで3日間かけてのセッションだったようですが、彼女の良さがほとんどなにも出ていない固い演奏だったのはほんとうにがっかりしました。

レコーディングではキズのない完璧な演奏を目指して何度も取り直しなどがおこなわれるのですが、それに留意するあまりなのか、理由はともあれ、あきらかに演奏が死んでいました。
とりわけこの人の魅力だった流れやしなやかさがなくなり、ただ硬直した凡庸な演奏だったのはまったく驚きで、幼い言い方をするなら裏切られたようでした。

データを見ると、上記のサックス奏者がアートディレクターを努めており、なにがどうなっているのやら、いよいよ不可解な気分に陥ってしまいました。
単純に日本語でいうと芸術監督でしょうから、すくなくともピアニストの持っている力を十二分に発揮させるよう誘導すべきところ、まるで別人のように平凡な演奏に終始してしまっているのには、一体なにをやっているんだかと思いました。

ピアニストも初録音ということで緊張したのかもしれませんが、いずれにしても本来その人が持っている力、とくに魅力を損なうことなくセッション録音をおこなうということは、たいそう難しいものだということだけはわかったような気がします。
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駅アレルギー

週末は知人と遠方へ出かけることになり、久しぶりに山陽新幹線(博多以北は山陽新幹線)に乗りました。
今年の春、九州新幹線に乗ったときは、その乗り味があまりよくなかったことを当時のブログに書いた覚えがあります。車内は安っぽい振動と騒音に浸されて、まるでスピードの速いちょっと高性能な電車という趣で、降りたときはホッとしたことをまだ覚えています。

ところが今回乗った山陽新幹線(のぞみ)は車輌が何系なんてことは知りませんが、一転してずいぶん快適で、マロニエ君が以前からイメージしているあの新幹線のフィールでした。すべるように疾走して、なんだか別世界へ駆け抜けて行くような感触は、ふたたび新幹線へのイメージを取り戻した感があります。
この点で本当に素晴らしいと記憶しているのは、むかしの、つまり初期の0系とかいう新幹線から少し発展したタイプだったように思います。まるで油の上を流れるようで、しかも乗り味には懐の深さがあって、当時の技術の粋を集めた最高級の乗り物に乗っているという満足がありました。

今回は帰りも同じくのぞみでしたが、やはりすこぶる快適で疲れもなく、こういう乗り味が現在も残っていること自体に嬉しいような安心したような気分でした。
それというのも、最近はなんでも合理化だのコストダウンだので物の質が低下する一方なので、本当に残念に思っているところです。飛行機も然りで、マロニエ君の乗ったすべての旅客機の中で最高の乗り味を示したのがボーイング747-400で、頼もしく安定性抜群、やわらかで、騒音も音量も抑えられ、高周波の音も少なく、申し分のない機体でした。
これで何度東京往復したかしれませんが、その後最新鋭の777が登場したときには乗り味の質があきらかに低下したのにはひどくがっかりしたものです。わけても日本航空は747-400の世界最大級の保有数を誇るエアラインであったにもかかわらず、経営が事実上破綻し、その合理化の波をまっ先に受けて、すでに全機が売却されてしまったのは言葉もありません。

新幹線に戻りますが、博多駅を基点に北に向かうのと南に向かうのとでは、なぜこれほど快適感が違うのかというのが疑問です。まさかレールの品質なんてことはないでしょうから、やっぱり使用される車輌の問題だろうと考えないわけにはいきませんが、とにかくのぞみの乗り心地にはいたく満足でした。

それはそうと、マロニエ君は昔から駅というのが苦手で、とくに人の波がうねっているような大きな駅は列車の乗り降りで利用するだけでも圧迫感があって気が滅入ってしまいます。
むかしカラヤンが「自分は駅こそ嫌悪する場所だ。なぜなら人の悪意を感じる場所だから。」と発言している文章を読んで、大いに膝を打ったことがありました。
人の悪意というのは極端としても、少なくとも生きて行くことの厳しさ、他人の冷淡さをことさら感じる場所のひとつが駅であるという印象をマロニエ君は昔から持っています。

夜、博多に戻ってきたときに、ついでに食事をしましょうということになり、それは大いに賛同したのですが、新しくできた駅ターミナルの上にあるレストラン街はどうかと言われたときは、さすがに申し訳ないと思ったのですが、できれば駅以外のところがいいと希望して、車でまったく別の場所に移動しました。

わがままを言って申し訳ないとは思いましたが、あれで駅の人並みをかきわけかきわけレストラン街まで到達し、そこでまた行列(これが多い!)などさせられようものなら、ぐでんぐでんに疲れただろうと思いますので、だったらうどんでもハンバーガーでも何でもいいから別のところに行きたいわけです。
マロニエ君の場合困るのは、苦手なものは冗談ではすまされないほど徹底して苦手で、こういうことで本当に体調まで悪くなるという深刻な体質を持っていることで、さすがに自分でも情けない。

とりわけ駅というのが精神的に合わないらしく、空港のほうがよほどまだ許せます。
こういうことを書くと、じゃあ空気のきれいな田舎が好きですか?などと言われそうですが、さにあらずで、田舎や田舎暮らしなどこれがまた超苦手で、ようするに街中に暮らして車でばかり移動するようなパターンでしか生息できないみたいです。とほほ。
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本を開けると痒い

アマゾンで嬉しいことは、廃刊になっている本が古書として買えるチャンスがでてきたことです。
これをいちいち古本屋回りで探すなんてほとんど不可能ですから、これはしめたとばかりにときどき利用しているのですが、強いていうならちょっとだけ引っかかるのは自分の目で確認できない中古品だということでしょうか。

マロニエ君は性格的に中古品というのがあまり得意ではなく、だからリサイクルショップなどに行くと、あの独特な重ったるい臭いだけですっかり気が滅入ってしまいます。
べつに新品じゃなきゃイヤだというようなこだわりがあるわけではないつもりですが、誰が使ったかもわからない品々を前にすると、顔の見えない生活臭を感じて少なくとも明るい気持ちにはなれないのです。
それだけ物には使い手のなにかがこもっているのかもしれませんが。

本の場合は、小学生の頃から図書館というものにも親しんできたし、新書ばかりにこだわっていたら欲しいものが永久に手に入らなかったりするので、そこは自分なりに少し割り切りが出来ています。
それに、本は子供のころから伯父伯母から古い本をもらったりすることもあったし、父の汚い蔵書にも馴らされていたせいか、比較的抵抗はないほうだと思います。
アマゾンは中古といっても、ほとんど新品では?と思うようなものが届いたことも何度かあり、そんなときはすっかり得をしたような気分です。

なによりも書店では絶対に買えない本が、こうして再び手に入る可能性が開けたというのはとても貴重なことなので、喜びのほうが先行してしまうらしく、中古品であることはほとんど気にしません。
でも、それがもし自分にとって何の価値もない本だったら、そうそう好意的には受け止められないだろうと思われますから、これは専ら自分の都合と気持ちの身勝手な絡み合いだと思います。

ただ、そういう気持ちの問題とは別にちょっと困ることがあるのも事実です。
先日もずいぶん古い本をアマゾンで探し出して購入したのですが、送られてきた包みを開けたときは、とりあえず本の状態などを確認すべく表裏や中のページなどをパラパラと確認するのがいつもの習慣です。

ところが古い本は、それをやっていると両方の手首から先ぐらいが妙に痒くなってくる場合があるのです。
もしかしたら、ここに書くのも恐ろしいようなものが長い年月の間に付着しているんでしょうか。

比較的新しい本の場合は古書でもそういうことはまずないのですが、先日は数十年前の絶版書だったために、油断して自室で開いてパラパラやっていると手がチクチクしてきたので、すぐに中断し、本は廊下に出してすぐに手を洗うととりあえず治りました。

こういう場合は、お天気の良い日に虫干しをするとすっかり良くなりますが、そういうときに限って何日も曇天だったりしてヤキモキさせられます。
マロニエ君の場合、本は寝て読むので、就寝中も本はいつも枕の脇に置いているのですが、こういう本で処理が悪いと、本からシーツへと何かがぞろぞろと移動することもあるのかと思うと、ウエエ、それだけは耐えられません。

アマゾンに出品している店舗情報によると、商品は除菌してから梱包して送る旨書いてありますが、それはちょっとあてにはならないようです。
本を殺菌する電子レンジみたいなものがあればいいんですが…。
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グールドのピアノ

「グレン・グールドのピアノ」という本を読みました。

グールドはその独特なタッチを生かすために、終生自分に合ったピアノしか弾かず、それがおいそれとあるシロモノではないために、気に入ったピアノに対する偏執的な思い入れは尋常なものではなかったことをあらためて知りました。

彼がなによりも求めたものは羽根のように軽い俊敏なタッチで、これを満足させるのがトロントの百貨店の上にあるホールの片隅に眠っていた古びたスタインウェイでした。
グールドはこのCD318というピアノで、あの歴史的遺産とも言っていい膨大な録音の大半を行っています。

1955年に鮮烈なデビューを果たしたゴルトベルク変奏曲は別のスタインウェイだったのですが、これが運送事故で落とされて使えなくなってからというもの、本格的なグールドのピアノ探しがはじまります。
そして長い曲折の末に出会ったのがこのCD318だったわけですが、実はこのピアノ、お役御免になって新しい物と取り替えられる運命にあったピアノだったのです。

ニューヨークのスタインウェイ本社でも、グールドの気に入るピアノがないことにすっかり疲れていたこともあり、この引退したピアノは快くグールドに貸し与えられ、そこからグールドは水を得た魚のように数々の歴史的名盤をこのピアノを使って作りました。

グールドはダイナミックなピアノより、音の澄んだ、キレの良い、アクションなど介在しないかのような軽いタッチをピアノに求めました。驚くべきは1940年代に作られたこのピアノは、グールドの使用当時もハンマーなどが交換された気配がありませんでしたから、ほぼ製造時のオリジナルのピアノを、エドクィストという盲目の天才的な調律師がグールドの要求を満たすよう精妙な調整を繰り返しながら使っていたようです。

しかし後年悪夢は再び訪れ、このかけがえのないCD318がまたしても運送事故によって手の施しようないほどのダメージを受けてしまいます。フレームさえ4ヶ所も亀裂が入るほどの損傷でした。録音は即中止、ピアノはニューヨーク工場に送られ、一年をかけてフレームまで交換してピアノは再生されますが、すでに別のピアノになっており、何をどうしても、以前のような輝きを取り戻すことはなかったのです。

それでも周囲の予測に反してグールドはなおもこのピアノを使い続けるのです。しかしこのピアノの傷みは限界に達し、ついにグールド自身もこのピアノを諦め、あれこれのピアノを試してみますがすべてダメ。そして最後に巡り会ったのがニューヨークのピアノ店に置かれていたヤマハでした。この店の日本人の調律師が手塩にかけて調整していたピアノで、それがようやくグールドのお眼鏡に適い、即購入となります。
そして、死の直前にリリースされた二度目のゴルトベルク変奏曲などがヤマハで収録されました。

ただし、グールドがこだわり続けたのは、なんといってもタッチであり、すなわち軽くて俊敏なアクションであって、音は二の次であったことは忘れてはなりません。音に関してはやはり終生スタインウェイを愛したのだそうです。
この事を巡って、当時のグールドとスタインウェイの間に繰り返された長い軋轢はついに解消されることはなく、ヤマハを選んだ理由も専らそのムラのないアクションにあったようで、やがてこのピアノへの熱はほどなく冷めた由。

たしかに、アメリカのスタインウェイ(とりわけこの時代)の一番の弱点はアクションだと思いますが、これを当時のスタインウェイ社に解決できる人、もしくはその必要を強く認めた人がついにいなかったのは最大の不幸です。

のちにアメリカの調律師でさえ、現在の最先端修復技術があれば事態は違っただろうと言っていますし、当時のグールドの要求を実現してみせる技術者は、実は40年後の日本にこそいるのではとマロニエ君は思いました。
現在の日本人調律師の中には、グールドが求めて止まなかったことを叶えてみせる一流の職人が何人もいるだろうと思うと、タイムマシンに乗せてトロントへ届けてやりたくなりました。
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砂の器の疑問

先週の土日、テレビ朝日で二日間にわたって松本清張原作のドラマ『砂の器』が放映され、とろあえず録画していたものを数日間かけてぼちぼち見てみました。なかなか面白く見終えることができました。

『砂の器』は以前も連読ドラマがいくつかあったし、最も有名なのは加藤剛主演の映画版でしょう。

そのときも今回も、同様に大いに疑問に感じたことがあります。
和賀英良という名の犯人となる人物は、小さい頃の不幸な出来事からやむを得ず生まれ故郷を去り、父親と二人でお遍路の旅に出て各地を彷徨うという苦難の少年時代を過ごします。ときに食うもの寝る場所にも困るほどの苛酷な旅で、さらにこの少年は旅の途中で世話になった親切な巡査の家まで逃げ出して、いらい行方知れずとなり、以降の少年期・青年期をたった一人でどのように生きてきたかもわからないという設定です。

戦後の混乱期に乗じて、自分の過去を隠すため戸籍まで他人になりすますなど、この男が絶望の淵で逞しく生きてきたというところまではわかります。しかしその男が、一転して今では世間を賑わす天才作曲家兼ピアニスト(もしくは指揮者)として華々しい活躍をしているというのは、どうにも首を捻ってしまいます。

音楽の世界ぐらい幼児教育がものをいう世界もないと思いますが、この少年は、これほどの筆舌に尽くしがたい放浪の年月を過ごしながら、はて、いつの間に音楽の勉強、ましてやピアノの練習などをしたのかと思ってしまいます。
父親と離ればなれになってのち、この少年がどのようにして音楽と出会ったのか、恩師のこと、ましてや音大に行ったなどと説明する場面もセリフも、映画にもドラマにも一切ありません。

もちろんこれはフィクションなのだから、そんなことを言うのは無粋者だと言われるかもしれませんが、いくらフィクションでも、多少の状況的な説得力というのは必要であって、この点の設定の曖昧さ不自然さは、見ていてずっと気に掛かるし、そのせいでこの作品が大きな弱点をもっているように思えてしまいます。

今回のドラマでは売れっ子の作曲家兼指揮者に扮し、大きなホールで自作の曲を発表するコンサートが華やかにおこなわれ、オーケストラを熱っぽく指揮して喝采を浴びるシーンがありましたし、昔の映画では最後のクライマックスがやはり自作のピアノコンチェルトを演奏中、舞台の袖で刑事達が取り囲むということで、いずれも時代の寵児ともてはやされる天才音楽家という設定です。
まるで「天才」といえば、勉強も修行もしないで、パッと魔法のように作曲でもピアノ演奏でもできるといった趣です。

松本清張はよほど音楽に疎かったのか、世に立つ音楽家は例外なく幼少時から厳しい研鑽を積み重ねることが不可避であることを、もしかしたら知らなかったのかもしれません。
ことに天才ともなれば、言語よりも先に音楽の才能をあらわすことも珍しくはなく、周囲もその天才を正しく開花させるべく最善の教育を与えながら成長していくものですが、この和賀英良は音楽とはなんの関わりもない北陸の山間の村に生まれて、貧しく厳しい放浪の半生を送るというのですから、いくらなんでもちょっと無理があるのでは?という気がするわけです。

さて、今回のドラマでは、大詰めの場面で、和賀がピアノを弾きながら作曲中とおぼしきシーンがありましたが、そこには2度ほど古いブリュートナーが出てきたのは意外でした。
いかにも年季の入った艶消しのボディと、現在のものとは違って大きく流れるような筆記体のロゴは、おそらくは戦前のものだと思われますが、こんなドラマにこんな珍しいピアノが出てきたのはどういうわけかと思いました。
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