メールのご紹介

ベーゼンドルファーに携わるヤマハの方から下記のようなメールをいただきました。
ヤマハ自身がピアノの製作会社であるにもかかわらず、この老舗の親会社となってからも、ウィーンの名器の伝統工法と志は大切に受け継がれているようで、さらにはヤマハの社員の方まで、こうしてベーゼンドルファーを熱愛していらっしゃることは、このメーカーの最も幸せで偉大なところだと思われます。

ぜひともこのブログでもご紹介したく、ご当人様の了解を得ましたので下記の通りその文面を掲載致します。この方は現在ウィーンに来ておられる由、ウィーンからのメールとなりました。
個人名のみ控えますが、それ以外は、改行なども一切手を加えず「オリジナル」のままお届け致します。

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突然にメイルを差し上げて失礼します。 時にこのブログを拝見し、
内容の濃さにいつも感心しております。 

私はヤマハに勤務するものですが、2008年初めよりベーゼンドルファーに
関わっております。 当初、ヤマハが経営することに、ベーゼンドルファーが
変わってしまうのではと、多くの方が心配されました。 

しかし、自信を持って言えることは、ベーゼンドルファーの独特な音色を
維持することを第一義に考え、現在も開発から製造まで
オーストリアのベーゼンドルファー本社で全てを執り行っていることです。
逆に言えば、ヤマハの一番恐れることは、ベーゼンドルファーの
性格が変わってしまうことです。 此れからもウィーンの至宝と呼ばれる
ベーゼンドルファーを、しっかり守って行きたく存じます。

お書きになったようにインペリアルは100年以上の歴史を持つモデルですが、
これ以外にも現行モデルの中、170/200/225も100年以上も
継続して生産しています。

今年発表した155も基本的な構造は、伝統的なベーゼンドルファーの
製造方法を踏襲しております。 例えば支柱の構造や材質、
側板の組立て方や材質、アクション、鍵盤など。 尚、鍵盤やアクションは
170と同じであり、サイズから来る演奏性を犠牲にしていません。

また、肝心な音は小型ピアノとは思えない豊かなものになりました。
これは製造方法が他の大きなモデルと同様なため、当たり前のことかも
しれませんが。 

こんな風に書きますと自慢話になってしまい恐縮です。 ただ、
ベーゼンドルファーの独特な音色に魅かれると、仕事を離れても
つい声が大きくなってしまいます。 

残念ながら、九州にベーゼンドルファー特約店が無く、試弾して頂く
機会が少ないかと思います。 ただ、八女市オリナス八女ホールに
ベーゼンドルファー280が昨年納品されました。 それ以来、八女市では
ベーゼンドルファーを大変愛して下さり、これはとても嬉しく思っております。

勝手にベーゼンドルファーのことばかり書いてしまいましたこと、
どうぞお許し下さい。 東京にお越しならば、是非声を掛けて下さい。
中野坂上のショー・ルームをご案内したく存じます。 また、
ベーゼンドルファーに関してご意見があれば、どうぞお聞かせ下さい。

宜しくお願い申し上げます。
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猫の館

車を一時間近く走らせて到着した猫カフェは、まるで一般の住宅と喫茶店の中間のような印象で、中に入ると、まず普通の喫茶店と違うのが、はじめに手を石鹸で洗わなくてはいけないことでした。
それから猫と接する際のもろもろの注意を聞き、滞在時間を決めて、いよいよ猫達のいるスペースへ移動します。

中に入ると、あちこちで自由気ままに遊んでいた猫達が我々に気付いて、一斉にこっちにやってきます。とはいってもそれは犬のようなストレートな大歓迎とは違い、あくまでも猫らしく、一定の距離感を保ちつつ侵入者をちょっと「見に来る」という感じでした。

マロニエ君の目はまずは当然サムライ猫を探しました。
すると、決して前には出てこないものの、たしかに彼はその一隅に居て、なるほど他の猫達とは趣が全く異なっているのが一目でわかりました。あくまでも自分なりの距離を取っているし、その後はほとんどこっちに自分から出てこようとはしませんでした。
マロニエ君も何度か接近を試みましたが、聞きしに勝る警戒感の強さで、これはちょっと手強いというのが率直な印象でした。お店の人さえ「なかなか抱かせてもらえない」というのも頷けます。

それにしてもその部屋には至るところに猫、猫、猫がいて、それぞれに個性があり、性別も、色も、体つきも、性格もさまざまで、あれこれ見ているだけでも興味は尽きません。
自分から人に寄ってくる猫がいるかと思うと、まったく何の関心も示さない猫がいるし、せわしく移動を続ける猫がいるかと思うと、ひとところに陣取って微動だにしない貫禄充分な猫もいます。

たしかにマロニエ君はサムライ猫の写真に見る風格みたいなものに惹きつけられていましたけれども、こうして大勢の猫達を見て触ってみると、ほんとうにさまざまで、ことさらサムライ猫にこだわる必要のないこともやがてわかってきました。
月並みな言い方ですが、本当にどれもかわいいです。
ビビリモードだった友人もあにはからんや、すっかりくつろいで猫達と遊んでいます。

はじめの10分ないし15分ぐらいはどの猫ということもなしに、ともかくこの非日常の猫まみれの世界にどっぷり浸かりきり、ただ圧倒されていましたが、後半はだんだんそれぞれの猫を覚えて、識別できるようになります。

そうなると自然に自分と合いそうな猫と、そうではない猫に大別されてきます。
これは…と思える猫はすぐに3〜4匹だとわかりました。
この時点でサムライ猫はもうその中には入っていませんでした。彼の魅力はたしかに他に代えがたいものがあることは最後まで変わりませんでしたが、このひとくせもふたくせもある尋常ならざる特別な猫を飼い慣らせる人はそうざらにはいないでしょうし、ましてやマロニエ君のような猫の初心者が到底手に負えるものではないことは肌で感じてわかりました。
「10年早いよ」と表情でいわれているでした。

途中から、さらに女性が二人あらわれて、それぞれに猫と遊んでいましたが、そのうちの若い女性などはある猫とよほどの懇ろのようで、もはや一心同体という趣でソファにもたれかかり、なにをするでもなしに、ただ黙って猫との触れ合いを噛みしめ、瞑想でもしているようでした。

こういう濃密だけれども抽象的な空気感というのは、犬にはない猫だけのものだなあとすっかり感心させられました。約束の1時間はたちまち過ぎて、ひとまずこの日は退散しました。
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サムライ猫

猫の里親になろうかという考えは、以前に綴ったような経緯もあって、自分としてはいったん心の奥底にしまい込んだつもりだったのですが、やはりどんな理屈をつけてみても、気になるものは気になるわけで、その後も思いつくままにホームページをチラチラと「流し見」したりしていました。

するとその中に、なんともマロニエ君好みの、凛とした高貴な表情が見る者を引き寄せる、濃いグレー系の身体をした雄猫が目に止まりました。保護されてすでに3ヶ月も経つというのに、いまだに人や環境と馴れ合うことをせず、施設でもいわゆる一匹狼を通している由でした。
現在の保護者でさえ、めったなことでは抱っこすることも難しく、人を頑として拒んでいるそうで、よほど苛酷な目に遭ってきたものか、はたまた生来の孤独なサムライ気質の猫殿というわけでしょう。

以前の電話で「写真が可愛かったから連絡されたのですか?」という、まったく頓狂な質問をされて憤慨したばかりでしたが、今回も甚だ不本意ながら、一枚の写真に魅せられてその猫のことが気にかかり始めました。
マロニエ君はとくだん面食いという訳ではありませんし、ましてや人や動物の美醜だけを追いかけ回すつもりは毛頭ありませんが、それはそうなのですが、自分にとっての判断基準として、やはり視覚的要素というものはかなりの要素を占めることもまた事実で、やはりここを疎かに出来ないことも確かです。

ま、そんなくだくだしい言い訳をしても始まりませんが、とにかく、ひと目そのサムライ猫が見てみたくなって、ついには、その施設へ赴く次第と相成りました。
自宅からは結構な距離もあるようでしたが、まあ半分はドライブのつもり行ってみることに。そこは一応予約をして行くことがルールのようになっているので、いちおう電話して大まかな到着時刻だけを伝えると、あっけなく希望する夕刻の時間帯が確保できたので、これはもう行くしかありません。
ちょっと不安もあるし、一人で舞い上がってもいけないので友人に同行してもらいました。

HPによれば、ここにはもう一匹気にかかるのがいて、こちらはひたすらキュートなタイプの猫で、まだ生まれて3ヶ月なんですが、これはこれでたいそう気に入っていたのですが、こっちはすでに里親が決まってしまった由、やはりなんらかの魅力ある猫であればあるだけ、嫁ぎ先も決っていくということが実感されました。

ちなみにそのサムライ猫は、その人を寄せ付けないサムライ気質である故か、まだ施設にいるとのことで安心といえば語弊がありますが、ともかく目的とする猫には会えるということが確認でき、週末の夕方で混み合う街中を車を走らせました。むろんサムライ猫に限らず、そこには相当数の猫がいるようなので、多くの猫達に囲まれるというのもひじょうに楽しみではありましたが、同行する友人はよくよく聞いてみるとそういう経験のないとのことで、まもなく到着という段階になってはやくもビビリモードになっています。

昔は知らないところへ行くのは、マロニエ君は生まれつき方向感覚などは悪くはなかったのでそれほどの苦労はしないながらも、やはり地図を広げて下調べなどが必要でしたが、今はカーナビのお陰でどんなに見知らぬ場所へ行くにも、エンジン始動後にパッパッと情報を打ち込むだけで、いっさい迷う事無く、至ってスムーズに目的地を目指せるのはいまさらながら便利になったと痛感する瞬間です。

果たして到着したところは全く馴染みのない、これまでに一度も足を踏み入れたことのないエリアの住宅街で、カーナビも最終的なルート案内を終えようとしている頃、HPで見覚えのある特徴的な建物が暮れなずむ目の前に現れました。
どんな猫達がいるのやら…。
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吸音の素材

筒型スピーカーは、構造そのものでいうと至ってシンプルです。
塩ビ、硬質パルプ、アクリル、アルミなどから管の素材を選び、直径が10cm前後、長さ1mほどの管を垂直に立てて、その上に直径わずか8cmの小さなフルレンジスピーカーを取りつけというもの。

ただし、そのフルレンジスピーカーの背後には「仮想グランド」という名の仕掛けがあり、大半の人は寸切りボルトという建築資材や小さめの鉄アレイなどを流用し、いろんな工夫の上にこれを取り付けて管の中にこの一式を忍ばせます。これだけでも相当の重さがあるのですが、さらに重量を増すためにここへ大きなナットをいくつもとりつけることで音や響きの骨格をつくっていくようです。

それにしても直径わずか8cmのスピーカーというものは、普通のスピーカーを見慣れた目には、ほとんど冗談としか思えないほど小さく、ツイーター(高音用スピーカー)のようにしか見えないような心もとないサイズです。ところが、上述の仮想グランドなどと組み合わせることによって、これがズッシリとした低音からきらめく高音まで、文字通りのフルレンジを賄うスピーカーとしてその能力を遺憾なく発揮することにことになるのですから、まずこの点に驚かされます。

もし本当に、こんな小さなスピーカーひとつで事足りるのなら、これまでいろいろと目にしてきた、あの東西の横綱が鎮座したような高級家具調のあれは何だったのだろうかとも思います。

さて、構造は簡単でも、問題の音造りともなると、これはとても容易なことではありません。
音や響きのために様々な試行錯誤に着手するわけですが、なにぶんにもこちらは素人で何の知識も経験もないときているのですから、いかにも無謀な挑戦というわけです。
本当にオーディオに詳しい人はスピーカーユニットでまで手を加えてあれこれの特性を引き出したり、逆に封じ込めたりするようですが、マロニエ君などはとても手の及ぶ事ではないので、とりあえず管の中の吸音対策がチューニング作業のメインとなります。

今回マロニエ君が使用するのはアルミ管であることは何度か書きましたが、このアルミ管には特殊な加工などを施さない限り、アルミ独特の鳴きというのがあるらしく、それははじめの段階で自分の耳でもイヤというほど確認し、まずはこれを押さえ込むことから始めなくてはいけないことを痛感します。

ところがネット情報によると、このあたりも作る人の考えに左右され、中にはまったく吸音無しで音を作っていくという猛者もいるようですし、吸音するにしてもその素材は、何種類かの定番素材はあるものの、これが絶対というのものはないようです。
これがマロニエ君の場合の悲劇の始まりで、まずはこの管の内側の吸音材を何にするかで、3日に一度はホームセンターに通い、あれこれの素材を買ってきては試すことになりました。

驚くべきは、管の内側の吸音材を貼ると劇的に音が変わり、しかもそれは一気に音楽的なものへと近づいてみたりするので、そうなるとこちらの作業熱も俄然ヒートアップしてきます。
ところが、しばらくすると良くなったはずの音に疑問が出てきます。より詳しくいうなら、耳が鍛えられて、そこに含まれる欠点が聞こえるようになってくるといったほうが正確かもしれません。

そうなると、とてもそれでは満足できなくなり、せっかく取りつけた吸音材を惜しげもなく全部取っ払って、また別のものに交換するという、初心者のクセに分相応の満足を知らぬマニアックな世界に突入するわけです。
こうなるとコストも度外視とは云わないまでも、ムダにつぐムダの連続です。

あとになって袋一杯捨ててしまったフェルトの山を、やっぱり取っておけばよかったなんて何度も思いましたが、これが開発コストというものだ!などと自分を納得させているところです。
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やっぱり土台が

スピーカー作りをやっていてあぁ羨ましいと感じるのは、多くのピアノ技術者さんは自宅の他に作業のための工房をもっておられて、あんな作業場があれば一連の作業もはるかに効率的で楽しいものになっただろうと思われることです。

マロニエ君宅には幸いにも、わりに恵まれたシャッター付きのガレージがあるので、当初はそこを作業場にしようかと考えたのですが、当然車の出入りがあることと、スピーカーはいちいち音を出しては変化の具合とか、ちょっとした事を音で確認しなくてはいけないので、これが深夜に及ぶとさすがに近所迷惑になってもいけないということで、まずこの点が最も心配されました。

さらには、マロニエ君は、普段は超ナマケ者のくせして、いったんやるとなると行動が集中型で、思い立ったらいつでもすぐに着手しなくちゃ気が済まないという性格でもあるため、そんなときいちいち離れたガレージに行く煩わしさを考えると、やはりボツになり、結局2台のピアノの足元で、まわりがどんなに散らかって足の踏み場もなくなろうとも、この場でやるしかないという結論に達しました。

いまさらですが、何回見ても、台座のカットの不様さは気にかかりますが、まあこれは覚悟を決めて潔く諦めるより仕方がないようです。そう結論づけて諦めているはずなのに、またそこが目に入って気になってくるから、やっぱり覚悟が決まっていないということですが、まあここはよほどスピーカーが奇跡的に上手くいったときにはもう一度、別の方法で作り直すということも可能ですから、とりあえずそこは考えないということにします。

いや、考えないことに決していることを、見るたびに思い出してはまたそっちのことに思い悩むのですから、つくづくと自分の性格は、形やディテール、すなわち枝葉末節のことが気になってそこに拘るという、まことに損な性分なんだと思いますね、自分でも。
そういう意味ではつくづくとマロニエ君は日本人的で、細かいことが美しく出来上がっていないと、そのあとに続くべき意欲そのものを喪失してしまいます。

もうずいぶん前のことですが、ある田舎の演奏家の方で、なにをやらせても大雑把で仕事の粗い女性がいました。あるとき何かの必要があって彼女から荷物が届いたのですが、届いた梱包の雑で汚いことと云ったらひっくり返るほどで、ほとんど感動すらおぼえて家族総出でしみじみと「観賞」しましたが、ご当人は、中身が届けばいいというわけで至って平気な様子でした。

マロニエ君には逆立ちしてもできないことで、間違ってもあんな風になりたいとは思いませんが、それでもご当人にしてみれば、そこそこ楽しく、明るく、健康的で原始的な、それなりに充実した人生を送っていらっしゃるのかもしれません。
つまるところ、人間の幸福というものは本人の心の中にあるわけで要は「認識」の問題なのですから、皮肉を込めて云えば羨ましい限りです。

その逆のスタイルで思い出すのは、マロニエ君のピアノ調整で今もお世話になっている方ですが、あまりにも鋭い、専門的な、ほとんどマシンのような耳をお持ちであるがために、音楽は嫌いじゃないのにコンサートもダメ、CDなどはどれを聴いてもその劣悪な音質に耐えられずに「買わない聴かない」というお気の毒な状態です。仕方がないので敢えて別ジャンルの観賞などに心を通わせていらっしゃるようです。

その点では、何事もそこそこの価値を理解して、深入りせず楽しんで、享楽的に過ごせればそれに越したことはないのかもしれませんが、まあそれは一般凡人の話であって、そこそこの範疇を突き破ったところへ出現するのが芸術家ですから、彼らに「そこそこ」は逆に危険エリアということになるでしょう。

さて、件のスピーカー作りは、できれば身の程もわきまえず、そこそこを多少ははみ出したものにしたいところですが、そう上手くいきますかどうか…。
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調整が目指すもの

連日におよぶスピーカー作りを一休みして、週末は再び知人のスタインウェイの調整を見学させてもらいました。
このピアノは、もともと大変素晴らしい楽器なのですが、オーナーがこのピアノにかける期待にはキリがないご様子で、さらに上を目指して素晴らしいピアノにしたいというその熱意はたいへんなものがあり、より高度な調整を求めていらっしゃるようです。

前回と同じピアノ技術者さんで、この日はやはり各所の調整や針刺し、とくに弦の鳴りをよりよくするための作業などが進められましたが、技術者さんが仰るには、やり出すと調整の余地はまだまだ大いにあるのだそうで、今後(果たしていつまでかわかりませんが)を楽しみにして欲しいというものでした。

確か前回が8時間ほど、今回も5時間ほどが作業に費やされましたが、ピアノの調整というのは精妙を極め、しかも部品点数が多いということもあってなにかと時間がかかるし、明快な答えがあるわけでもないため、これで終わりということのない無限の世界だということを再認識させられました。

とりあえずこの日の作業終了後にマロニエ君も少し触らせてもらいましたが、その変化には一瞬面食らうほどで、たしかに音には芯と色艶が出ているし、以前よりもたくましさみたいなものが前に出てきたように思います。さらにはよりダイナミックレンジの大きな演奏表現をした場合に、ピアノが無理なくついてくるという点でも、音の出方の限界を後方へ押しやったのだろうと思われます。

しかし、楽器というものが極めてデリケートで難しいところは、以前このピアノがもっていたある種のまとまり感みたいなものもあったように思い出され、あれはあれでよかったなぁ…なんてことを感じなくもありませんでした。
ピアノも云ってみれば一台ずつに「人格」があり、そこにいろいろな個性がうごめいているのだと思います。生まれながらに持った性格もあれば、あとから技術者によって意図的与えられる性格もあるでしょう。

たしかに、基本的なところから正しい調整がされることは非常に大切で、変なクセのあるピアノだったら一度ご破算といいますか、一旦リセットされたようになる場合も多く、とりあえず楽器としての健康な土台みたいなものが新しく打ち立てられるというのは、作業の流れとして順当なところだろうと思います。

しかし、それ以前にあった、そこはかとないやさしみや味わいみたいなものはひとまず洗い流されてしまって、ちょっと残念さも残ったりと、このあたりが人の主観や印象の難しいところです。しかし、新たに鍛え直されて健康なたくましさが出てきたことはやはり歓迎すべきで、弦の鳴りから細かく調整されたことで、さらにサイズを上回るパワーが出たのも事実でしょう。

ただし発音が溌剌とはしているけれど、どんなときでも背筋を伸ばして、正しい発声法で一直線に歌っている人のようで、マロニエ君はそこにもう少し陰翳があるほうを好む気がします。
音色そのものはいじっていないので同じ方向の音にあるといわれますが、総体としてのピアノと見た場合、後述する要素を含めて前とはあきらかに別物に変化してしまったというのがマロニエ君の印象です。

もともとよく鳴っていたピアノでしたから、それがさらにパワフルに鳴るようになることは技術者サイドで見れば順調かつ正常な進化なんだろうとは思いますが、弾く側にしてみると、心に触れる「何か」を残しておいてほしいのも事実かもしれません。

また、別物に変化したというもうひとつの大きな要因は、タッチがぐんと重くなったことと、音の立ち上がりを良くしたとのことでしたが、それはたしかに体感できたものの、タッチコントロールがかなり難しくなってしまったことも小さくない驚きでした。
このピアノには比較的大きめのハンマーが付いているようで、重いのはそのためだと云う説明でしたが、もしかすると以前の調整はそのあたりも含めて絶妙の調整(メーカーの設定とは違っていたにしても)がされてたということかもしれません。

このピアノの以前の状態が良くも悪くも職人の感性も含んだセッティングであったのか…そのあたりはマロニエ君のような素人にはわかるはずもありませんが、ただ、あれはあれでひとつの好ましいバランスがあったというのはおぼろげな印象としてのこりました。要するにそれなりの帳尻は合っていたと云うことでしょうか。

ひとつの事に手を付け始めると、そこから全体がドミノ倒しのように変わっていく(変えざるを得ない)のはピアノ調整で日常的にあることです。このあたりは技術者さんの考え方や作業方針にもよるし、弾く人の好みの問題もあり、ひじょうに判断の難しい点だと思いますね。
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正論の陰で

猫の里親の件では、なんだかまったく予想だにしなかった奇妙なものに触れてしまったようで、そのついでにこっちの気分も一度リセットする気になっています。

あまり書いてもどうかと思いますが、ネタついでということで今回まで。
あの手の人達はマロニエ君の最も苦手とするタイプのひとつで、前後左右のことも考えず、ただ目の前の正論を振りかざして、リアリティのないことを上から目線で訴えることに自ら酔いしれているような気がします。

以前も、さもありなんと思ったのは、敢えて名前は書きませんが一時期「朝まで生テレビ」などで舌鋒鋭く正論をまくし立てては、並み居る論客達をメッタ切りにしていた若き才媛が、その主張とはまったく裏腹な実生活を週刊誌にすっぱ抜かれたことがありました。

しかも、そこにはたしかな根拠もあった由で、それを裏書きするごとくアッという間にメディアから消えていきました。
討論の席上ではずいぶんと鋭い調子で日々変化する社会問題に真っ向から向き合っているというようなコメントの連発で、当時の政治家の体たらくから女性問題まで容赦なく弁じていましたが、そんな働く女性の理想的代表みたいな人が、実生活ではごく常識的なゴミの分別さえもせず、たびたびマンションの管理人や町内から注意を受けいたとか。それでも一切自分の態度は改めることなく、その一帯では悪い意味での有名人だったという話でした。

これに限らず、だいたい市民運動とかボランティアといったものに手を染めている人の中に、この手合いが数多く棲息しているという確率が高いように思います。もちろん、そうではない善良誠実な活動家がいらっしゃるのは無論ですがまさに玉石混淆。
高齢化社会に伴う老人介護の問題などにも積極的に取り組み、日夜講演やなにかで毎日ほとんど自宅にもいないような女性が、実は最も身近で現実的な自分自身の年老いた親をほったらかしにしているとか、子供の教育や虐待問題に取り組む専門家とやらが、自分の子供には毎日のようにインスタントラーメンを自分で作らせて食べさせているようなことをしながら、大舞台ではしっかりギャラを取って「子供にとって最も必要なものは親の愛情で、子供は親を選ぶことができません!」などという話を演壇からしているのだそうですから、世の中そんなものだといってしまえばそれまでですが、やっぱり呆然とさせられるのも事実です。

この猫の里親斡旋の女性がどんな方かは知る由もありませんが、言っていることを鵜呑みにすれば、生活はほとんど猫様中心で、猫さえ元気に恙なく生活できればその他のことは人間がどれだけ負担を強いられても当然で、それくらいの覚悟がなければ動物なんて飼う資格はないといわんばかりでした。

この方の話を聞きながら思い出したのは、江戸時代の悪政のひとつとして有名な『生類憐れみの令』で、心ない人がペットを簡単に捨てたり殺処分するというおぞましい現実があるかと思うと、その逆にこのような極端ともいえる御犬様感覚が正論として闊歩しているのは、いずれの場合もバランス感覚の欠如が問題ではないかと思われます。

人間が救いがたいのは、自分が正しいことをしている・言っていると頑なに思い込んでいる、その瞬間ではないかと思います。こんな人が、果たして自分の子供をどんな育て方をし、どれほどご立派な家庭生活を構築していらっしゃるのかと、ちょっと意地悪く想像していまいます。
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続・里親になるには

電話の向こうの女性は、話し方はえらくドライですが、こちらのこととなると何の躊躇もなく矢継ぎ早に質問され、それは今どきの個人情報とかプライバシーに対して過剰なぐらい相手に気を遣う、当節の慣習からかけ離れたような大胆さで、ズカズカと踏み込んで来られるようでした。

家は一軒家か、現在の家族構成から、家を留守にする時間や頻度、さらには家族全員の年齢もこまかく聞かれて、その挙げ句に私の親(今は元気にしていますが)に対し、その方よりも猫のほうが長生きをする可能性がありますから、先におうちの方が亡くなられたときの対策も考えておくべきだと言われたときは、そのあまりの無礼さに、人と動物のどちらが大切なのかと思い、不快感で全身じっとりと汗がにじむようでした。
こういう発言はあきらかに動物愛護の精神を逸脱した、人の道義を踏みにじるものだと思いました。

ついマロニエ君も、そんなことを言い出すなら、人は誰しも生身であるわけで、私もいつ交通事故で死ぬかもわからないでしょうというというと、「そうなんです。ですからそういうときのためのネットワークを構築するわけです!」と一瞬もひるみません。
同様の理由から、一人暮らしの人間は動物の里親にはなれないことになっているという論旨には開いた口がふさがりませんでした。たかだか(といっては悪いかもしれませんが)猫一匹を飼うのにも、今どきは独り者(マロニエ君は一人暮らしではありませんが)ではその資格さえないというのでは、これはもう立派な差別に当たるのではないかとさえ思いましたね。

今どきの通俗的な言い方をするなら、一人暮らしでも、責任をもってきちんと愛情深い動物のお世話をされる人もいらっしゃるわけで、現にマロニエ君はそのような人を知っています。しかし、こういう人達の物差しで見るなら、一人で健気に子育てをしているシングルマザーなんか、即親権剥奪ものでしょうね。

さらに続きます。「ご近所にご家族はお住まいですか?」といわれ、今どき田舎でもなしそんな人はいないというと、もしも飼い主が病気で入院などをした際に、猫ちゃんの世話をするための連絡先を「私達が把握しておく」というのです。
そんなことは飼い主たるものの責任で解決するのが当たり前であって、なにかというと、いちいち元の保護者およびその一派が介入してくる事ではないと思います。それ以外にも、室内飼いをすることを確約すること、網戸には必ずストッパーを付けることが条件、さらには頻繁に猫の状態を保護者に報告する事、などなど。
アナタ、一体に何様ですか?という気分でした。

一週間のトライアル(猫とのお試し生活)を経て、向こうが求めるすべての要件をクリアし、晴れて里親として「認められた」ときに、いよいよ書類を取り交わし、そこに署名(法的に有効なものかどうかはしりませんけど)をさせられ、さらにあれこれの事細かな約束をさせられるようです。

たしかに動物の命は大切です。努々好い加減な気持ちで飼ってはいけないことは重々承知ですし、世の中には心ない飼い主がいることも事実でしょう。でも、それはそんな女性から上から目線で云われなくてもマロニエ君のほうがよほほど承知しているという自信もあります。
言っていることはえらく大上段に構えて正論めいていますけれども、率直にいうなら殺処分されかねないその猫たちを引き取って愛情をもって育てましょうというこちら側の意向あってのことなのですから、少なくとも新しい里親になろうという人に対しては、もう少し普通に人間としての品格をもって接するべきだと思いました。

そんなに猫の生活や飼い主の心得が大事なら、ペットショップの店頭にでも行って、見に来たお客さんすべてにそれらの考えを伝達して、動物を飼う際の20年先までの飼い主の健康および環境の保証、万一に備えたネットワークまで必要だという心得を諄々と講義したらいいと思います。

しかも驚くことに、電話を切って30分もしないうちに同じ人から電話があり、保護者に連絡したところ先に話を進めている相手がいて決まりそうとのこと。それならば仕方がないというものですが、「それとは別にいま、早良区に急遽里親さんを探している人がいらっしゃるので、よかったらその方をすぐにご紹介したいのですが?」という、これまた一方的な申し出がありました。
もちろん写真の一枚もない言葉だけの急な話で、なんの判断材料もないまま電話口で返答を迫られても返事など出来るはずもなく、言下にお断りしたのはいうまでもありません。すると「じゃあ、○○さんは、さっきの猫ちゃんはネットを見て写真が可愛いから連絡をされたんですか?」と切り返してきたのには本当に驚きました。
あまりにも呆れたので、はっきりと「そうです。可愛いというだけではなく、全体の雰囲気なども自分の好みだと感じたからです。」といいましたが、「ああ、そうなんですね…」でおわりました。
全体的に立派なことを言われますが、一皮剥けばえらく勝手で一方的だなぁ…という印象しか残りませんでした。

だいたいこういう人は、自分達こそは正しいことをしているという勘違いと思い上がりがあるということを嫌というほど感じました。いわゆる市民運動家などもそうですが、この手の人達は正論を錦の御旗にして、人には上から偉そうにお説教しますが、自分のことになるとあきれるほど勝手でだらしがなく、押し付けがましく自己中なのががほとんどです。

そんな彼らに行き先をいいように差配される猫たちのほうがよほど気の毒というものです。
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里親になるには

マロニエ君は、自分がこの世に生まれたその日から、家には大型犬がいたほど動物には親しんで暮らしてきました。といっても大半は犬ばかりで、人生のあらゆるシーンにはさまざまな犬達と暮らしてきた深い思い出があり、最後に飼ったのがひときわ愛情深く賢いラブラドールレトリーバーでした。

その死があまりに強いショックとなり、それ以来、もう当分はペットは飼わないことに家族で結論が出るほどどその喪失感は大きなものでしたが、それから早5年が経ち、生活の中に動物がいないのは、やはりあまりにも不自然な気がしてきたのです。

夜、寝床などにはいると、無性に犬と遊びたくなってそれで寝付けないような日も出てくるまでになりましたが、そうはいっても、犬は何かと手がかかるのはまぎれもない事実です。それでも小型犬は我が家の好みではないので犬を飼うなら必然的に大型犬ということになり、それはやはり現実的にどう考えてみても現状では無理というのが偽らざるところ。

そこで比較的手のかからないとされる猫を飼ってみようかという、マロニエ君にしてみれば小躍りしたくなるような流れになり、もともと血統やブランドなんかはどうでもいいので、里親探しのサイトを覗いてみることにしました。福岡限定でもかなりたくさんあるのには驚かされました。

見ているといろいろいるもんです。
その中の一匹が気に入ったので、ログインしてさっそく相手と連絡を取りました。
もちろんマロニエ君がこの手のサイトを利用するのは初めてですから、なにかにつけて不慣れなことばかりです。

気が付くと、ほとんど見落として当然みたいな場所へメールが来ていて、それによるといきなり何時何分に電話をして欲しいということが書かれていました。すでに数時間が過ぎていましたがとにかく電話してみると、電話口に出てきた女性は、いかにも今風な乾いた感じの話し方で会話もなかなか続きません。それでも全体としての「流れ」の説明をなんとかはじめました。

まず意外だったことは、現在猫のいる場所が北九州市なのですが、まずこちらからその猫に会いに出かけて行かなくてはならず、それは当然としても、そこで相性やらなにやらを保護者(現在の猫の所有者でこれから人に譲渡しようと云う人)の人からこちらが里親として適任か否か「審査」された挙げ句、お眼鏡に適えば晴れて「合格」とみなされるようです。
じゃあそれで終わりかと思うとそうではなく、その次は、我が家に場所を変えて「トライアル」という一週間の猫との共同生活お試し期間が始まるとのことでした。

その際には、必ず現在の保護者の人(この場合は北九州の方)がこちらの自宅まで猫を連れてくるのがルールなんだそうで、要するに他人様の家や居住環境を「猫のため」という大義名分のもとにあれこれとチェックされるようです。
しかもそのための交通費の負担もさせられるようで、自分から敢えて行くというのに、その交通費を相手に請求というのもそんなもんだろうかと思いますし、だったらはじめに北九州まで見に行く交通費も負担して欲しいというのが、偽らざる素直な理屈です。

また、これまでに接種されたワクチンなどの各医療費も新しい里親が(さすがに全額ではないようですが)負担しなくてはいけないとのことで、このあたりから話が少しおかしいなあという気がしはじめました。
サイトによっては金銭の要求は一切してはいけないと謳っているところもあるようですが、そのあたりはサイトの管理者の考えによっても変わるということかもしれません。

もちろん相手は動物なので、事は慎重にという基本の考えはわかりますが、こちらの意向を問われることはあまりないまま、先方の都合ばかりを一方的に押しつけられるような気がしはじめて、少し気分が萎えてくるようです。
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汚い音が混在

とりあえずわかったことは、スピーカーにコードを結びつけて、コードと電源でアンプを中継し、そこへプレーヤを繋げばなんにしろ音は出るというです。そんなこと当たり前だ!といわれそうですが、なにしろ自作スピーカーなんて初挑戦なものでこんな段階から感心しているわけです。
しかし、その段階で出てくる音は、本当にただ単なる電気的な非音楽的な音なのであって、なんの秩序も無く音が好き勝手にガンガン出いてる状態であって、円筒形スピーカーの場合は、その筒の中を音があてどもなく走り回り、ぶつかり合い、反射して、音楽なんぞというものからはかけ離れたものであることがわかりましたね。

いわばリズムと音階の付いた騒音と云ったほうが正しいかもしれません。

ここで痛感したことは、市販のスピーカーは例え安物であってろうとも、その道のプロがそれなりにチューニングをして、チープなものはチープなものなりの尤もらしい音になるように、最低限の音響みたいなものには整えられているということです。

マロニエ君も初めて知ったのですが、スピーカーというのはそれがお馴染みの箱形にしろ、今回のような円筒形にしろ、ユニットさえいいものを買っておけば、とりあえずそこからは美しい音が出るもんだと思っていたのですが、そこからしてまず大間違いだったようです。

たしかにスピーカーユニットの前面では美しい音が出ているのかもしれませんが、それもなにもぶちこわすように背後から汚い、聴くに耐えない、すべてを台無しにする雑音が盛大に、遠慮会釈もなしに出ているということでした。

つまり、極言するなら、スピーカー作りの基本は、いかにして汚い音を消し去り美しい音だけを残すかと云うことのようでもあります。
と、口で言えばいかにも簡単ですが、これが大変なのであって、ある意味これほど難しいものはないのだということがわかりました。汚い音を消すと、同時にせっかくの美しい音やダイナミクスまで消してしまうことにもなりかねません。そこのノウハウや技についてはもうさんざんネットで視力が明らかにおかしくなるほど調べていたわけですが、ついにはこれという決定打は見つかりませんでした(あまりに専門性の高いことは理解できないほど高度でした)。

それは皆さんが、自分の技術を出し惜しみしているのではなく、数学のようなこれだという決定的な答えがないからということもやってみてわかりました。
ですから、人様がやっていることは大いに参考にはなるけれども、それが自分にとっても即実践できるものとは限らず、大抵はヒントや大まかな方向性ぐらいにしかなりません。

そうして、実際に自分の手足を動かしてあれこれと試してみるよりほかに道がないということも肝に銘じました。だいいち筒の長さや、材質や、直径、さらには使用するスピーカーユニットが変わるだけで音はいかようにも変化するし、さらには個人の好みの問題や聴く音楽のジャンルにもよっても評価は異なってくると思われます。

というわけで、とどのつまりは大枠での理論を勉強した後は、あとはひたすら実践しかないわけです。何度も言いますが長年DIYの趣味もなく、必然的にこれといった工具も作業場もないので、作業は毎夜ピアノの横の床スペースになり、ここはかつてなかったほどまでに盛大に夥しく散らかり、まさに足の踏み場もありません。

お客さんなんてきたら、まさかここに上げるわけにもいかないので近所の喫茶店にでも連れて行くしかないでしょう。
まあ、ここまでして、最後にそれなりのスピーカーができれば救われますけどね。
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聴くに耐えない音

知人と一緒に円筒形スピーカー製作することになり、この三ヶ月ほどでお互いに揃えたパーツ類が相整い、いよいよ互いの手許にあるものを交換する時期になりました。それによってスピーカーを組み立てるための基本的な材料は揃ったというわけで、いよいよ組立作業に取りかからなくてはいけません。

前にも書きましたが、マロニエ君はDIYの類はもともとまったくやらないのですが、そのくせ性格的にモノを作ったりする際には、自分で云うのもなんですがキチッときれいに仕上げないと気が済まないところがあります。
とうぜん今回のスピーカーも当初の目論見としては、一分の隙もなくなんていえばいかにも大げさですが、まあそれぐらいビシッとしたものを作ってやろうじゃないか!という意気込みのようなものはありました。(ま、少なくとも、ちょっと前までは…)

ところが、前回も書いた通り、土台部分になる木の円形カットがこちらが考えていたような仕上がりにはならなかったことで、一気にそのあたりの自己満足的完全主義みたいなものが一気に崩壊していくことになります。
当初は組み立てる前に塗装もするつもりで、そのための下地から上塗りまでの計画もあれこれ立てていたのですが、土台のカットが満足できなかったことがすべての原因となり、これひとつのせいでなにもかがイヤになりました。

意欲がなくなったら、そもそも塗装なんて面倒臭いこと、やってられるか!というところで、とりあえず部品を組み立ててみることから先に手を付けることに決定。半ばやけくそで2枚ある土台の板を木工用ボンドで貼り合わせますが、そんなときにも2枚の板がキチンと段差なく美しい円にならないことに、ついため息が出るし、作業にも熱が入りません。

この他にも片側3本、左右合計6本の足の接着や、アルミ管内部の金属の構造物(詳しいことを書いてもつまらないので省略しますが)に金属同士の強力な接着を要する部分があって、とりあえずそれらを予め取り揃えておいた各接着剤で接合し、一晩置くことになります。

翌日見てみると、どれもがっちりと接着されているのは予想以上で、とくに金属同士の接着は、その下に相当の重量物が取りつけられる事を考え得ると一抹の不安も残りますが、ともかくビクともしないまで強固に接合されているのは、接着剤もたいそう進化したんだろうなあとこんなところで感心させられます。
パッケージに踊らんばかりの文字で大書されていた「速乾!超強力接着!」というのもあながちウソではないようです。

なにやかやで、ともかく組み立てるだけの準備は整ったわけで、あえてここで作業中止する理由も見あたらないので、ついに慣れない手を動かして、散々ネットで見て覚えたスピーカーをいざ自分の手で組立ることになりました。

はじめはざっくりと組むだけ組んでみて、まずどんな音がするのやら様子見の気持ちでやってみると、組立そのものは1時間もあればすんなり出来上がり、さっそく音を出してみました。
第一声がでる瞬間というのは、やっぱり緊張するものですし、ある種の厳粛な気持ちも手伝います。ましてやマロニエ君は生まれて初めて手作りスピーカーというものに挑戦していることもあるわけで、その期待と不安はかなりのものに達しています。

ついに音が出ました…。
それは、なんと形容詞して良いやらわからない、いかにも低級で、間の抜けた、変な音でした。少しなりともYshii9に近づこうなどと淡い夢のようなことを考えた自分の甘さが、これほど愚かであったかと痛感したのもことのときでした。
このときに直感したことは、スピーカー作りは材料を揃えて組み立てることよりは、試行錯誤を繰り返して最もこのましいチューニングを施すことのほうがよほど大変だということです。

これからが、マロニエ君の不慣れな「音造り」のための奮闘の日々がスタートすることになるようです。
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ピアニストの意見

音楽雑誌の記事やメーカーのホームページなどでしばしば目にすることですが、楽器メーカーはピアノの新機種の開発、とりわけコンサート用のピアノの製作にあたっては、かなり積極的に外部の人物の意見や感想などの、いわば聞き取り調査を行っている由で、それらを検討し、反映させながら開発を進めていくのだそうです。

中でも重きを置かれるのがピアニストの意見で、メーカーに招いて試弾をしてもらって、その感想や要望、アドバイスなどを拝聴するというもののようです。

では実際の現場でそれがどの程度の重要性をもっているのかということになると、マロニエ君はそれを見たわけではないのでなんともわかりませんが、少なくともそういうことをしばしばやっていると書いてある文章を何度も目にするので、それならそうなのだろうと思っているわけです。

たしかにピアニストこそは実際にピアノを演奏し、訓練された身体と感性を駆使して直接的に楽器を鳴らす現場人という意味で、メーカーとしても一目置くべき格別な存在であるのは頷けます。演奏者なくしてピアノはピアノの価値や魅力を広くあらわす機会はないわけで、だからこの人達の意見は尊重され、深く受け止められるのは当然だろうとも思います。

ただし、まったくマロニエ君の個人的かつ直感的な意見ですが、だからといって、これも度が過ぎるといかがなものかと思わないでもありません。
ピアニストも様々で、本当にピアノのことをわかっている優秀な人も中には少数いらっしゃいますが、逆な場合が実は大多数だという印象があります。何曲を弾きこなすことは得意でも、楽器としてのメカニズムの知識はまったく素人並みで、それでも自分はピアノの専門家という自負があるので、ときにとんちんかんな意見となり、これはよくよく注意すべきでしょう。

いろいろ耳にすることですが、ピアニストのピアノに対する要望というのは、多くがまったく個人的な事情に基づいたものであることが多いし、中にはとんでもないことを真顔でまくし立てる人もいらっしゃるそうです。とりわけホールのピアノにそういう個人的な感性を要求し、場合によっては元に戻せない状態になってもなんの斟酌もないというのはどういうことかと思います。

ましてや、これが普遍性をもった全体の響き、広い意味での音色、様々な特性を持つホールで、いかに理想的に音が構築され、あらゆる環境に適合する最も理想的に音が鳴り響くかという点においては、ピアニストにそれが適切にわからないのは当然です。

別にピアニストに判断力が頭から無いと云っているのではなく、その分野の判断力は、彼らの専門とは似て非なるものだと云いたいわけです。

だいいちピアニストは誰でも、永久に、自分の生演奏を客席で聴くことはできません。
要するにピアニストの好みと都合で作られたピアノというものが、聴衆にとって理想的な楽器であるとはマロニエ君はどうしても思えないわけで、もちろんメーカーがそういう側面だけでピアノを作っているとは思いませんが、あまりそれに翻弄されないほうが、むしろ素晴らしい楽器が生まれるように感じてしまいます。

優秀な専門家達のコンセンサスと科学の力によって、キズのない、上質な、優等生的な楽器を作ることはチームの力でできるかもしれませんが、果たしてそれで聴く者の魂が真に揺さぶられるかというと、大いに疑問の余地あると思います。

やはり、楽器造りはそれそのものが芸術だとマロニエ君は思いますので、すこぶる優秀な、できれば天才級の製作家が、自ら厳しく追求し判断し最終決定することだとしか思えないのです。煌めく楽器造りのためにはどこかにエゴがあってもいいと思うのですが。
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なんじゃこりゃ!

自作スピーカーの続きになりますが、製作にあたってはマロニエ君が懇意にしているピアノの知り合いの方と、材料等を互助的に共同購入しながら調達しています。

というのもマロニエ君一人では材料を揃えるだけでも、たぶん絶対に無理だったと思われ、この方がいたからこそ不慣れな挑戦もやってみる気になれたのです。
いうまでもなく、それぞれが自分のスピーカーを作るわけで、二人分の材料を同時購入するなどして、手間と情報の共有化を図るほか、送料なども合理化しているというわけです。

さて、前回書いた土台ですが、これなくしてはスピーカー本体(アルミ管)を垂直に立てることが出来ませんが、他の材料は日々揃ってきているのに、これが思うに委せないからといって、いまさら後へも引けません。

人の顔を見るたびにこの件をぼやいていたら、ある友人の情報でここに聞いてみたら?という話が舞い込み、さっそく連絡を取ってみると、いささか距離はあるものの円形カットを引き受けてくれるという職人さんが見つかりました。
次の日曜にさっそくその人のところへ行きましたが、かなり年配の方で、お見受けした感じでは昔はその道のプロだった方がリタイアされて、今はちょこちょこと簡単な木工仕事などをやっていらっしゃるという印象でした。

見取り図を見せると、至って単純なものなのですぐに理解してもらえましたが、なんでもジグソーという機械を使って手作業で切るため、コンパスで線を引いたような正確な円のカットは出来ないという話で、これは実はかなりガックリきました。
そういうことがピシッとしていないと性格的に気が済まないマロニエ君としては、内心ひどく落胆したのは事実でしたが、そうかといって他にあてもなく、すでにこの土台の件だけでも問い合わせ等相当の労力を費やしているので、もうこのあたりでそれぐらい妥協しなくてはいけないと諦め気分にもなり、ついにお願いすることになりました。

お願いしたのはいいけれど、ええ?っと思ったのは、待っている間に出来るような作業じゃないのだそうで、出来たら電話しますとアッサリ云われてしまい、往復50キロある道矩を、もう一度取りに来なくてはいけないのかと思うとウンザリしましたが、ここまできたらやるしかない!という使命感みたいなものに突き動かされて、その点もついでに呑み込んで承知し、後日取りに行くことになりました。

数日後、平日の夕方に時間を作って取りに行ったところ、なぜか作業をされたご当人は不在で、若い人から袋入りのカットされた品物をドサッと渡されて受け渡しはそれで終わり。すぐさま来た道を引き返し、いざ自宅で中のものを手に取ってみたときはびっくり仰天でした。
円のラインはガタガタで、中には木の一部が欠損していたり、大きなヒビがあってなんと明らかに割れている部分もあり、なんだこれは!と途方に暮れました。だいいち断面は無惨なほどガザガサで、普通ならお愛嬌にも軽くペーパーぐらいはかけるもんじゃないのかと思いました。
さらに驚いたのは、作業の際のものと思いますが、生木の表面に油性ボールペンで何本も線が引いてあり、とてもじゃないけどこんなものは知人には渡せないと思い、もう目の前は真っ暗。

知人には事情を説明して、その中から良いものを2つ渡し、マロニエ君は残ったものでガマンするつもりでその通りに実行しましたが、やっぱりどう考えても、見れば見るほど、これでは使う気になれす、正気なところ「ふざけるな!」と言いたかったですね。
そもそも、安いとはいえ工賃もちゃんと払って依頼した作業なんですから、文句のひとつも云って然るべきところですが、なにぶんにも相手は年配の方ではあるし、「自分は心臓が悪くて来週は検査入院する」というようなことも云われていたので、そんな方へ抗議するのも忍びず、結局は割れがあったことなどを伝えてもういちど作ってもらうことで決着しました。

その結果できたものは、前回の作業とクオリティこそ大差はありませんが、割れがないぶん良しとしなくてはいけないようです。
こういうことが重なってくると、もともとDIY人間ではないマロニエ君としては、だんだんやる気を失ってイヤになってくるのですが、すでにこの「共同プロジェクト」にはかなりの費用も投じていることでもあり、ここはなにがなんでもやり遂げるしかないようで、こういう場合にも一人だったら投げ出していたかもしれません。
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草間彌生

先月のNHKスペシャルだったか、水玉の芸術家、草間彌生さんのドキュメンタリーをやっていましたが、これがなかなかおもしろい番組でした。

草間彌生さんといえばまっ先に思い出すのはもちろんあの原色の水玉に埋め尽くされた絵画や彫刻ですが、さらには自らも作品だといわんばかりの独特な出で立ち──とりわけオレンジ色の髪の毛とそこから覗く強い眼差し──は見る人に強烈な印象を与えるでしょう。とくにいつも何かをじっと凝視して創造力を働かせているような大きな瞳は独特で、ほとんど笑顔らしきものはありませんけれども、そこになんともいえない不思議な愛らしさと純粋な魂が宿っているよう気がするものです。

マロニエ君は勝手に彼女はニューヨークに住んでいるものと思っていたら、それは大間違いで、ニューヨークはもう何十年も昔に引き上げた由、現在は日本に在住して東京都内にアトリエがありました。

驚いたのは御歳83歳ということですが、実年齢を知らなければ誰もそんな高齢とは思わないでしょうし、現に毎日のようにアトリエにやってきては、高い集中力をもって精力的に大作に挑んでいらっしゃいます。
足元などはたしかにふらふらとおぼつかないことがあり、主な移動は車椅子のようですが、アトリエに入ると人が変わったようにエネルギーが充溢しはじめ、原色が塗られた大きなキャンバスに向かって一気呵成に筆を進めていくのは圧巻でした。さらに驚くべきはその筆の動きと決断の速さで、彼女は番組の中で「自分は天才よ」と言っていましたが、普通なら自らそんなことを云うのはどうかと思うところでしょうが、草間さんに限ってはその迷いのない筆さばきや旺盛な製作意欲などをみても、とても常人の出来ることではなく、つい自然に納得させられてしまいます。

今年はヨーロッパのモダンアートの殿堂といわれるロンドンのテイト・モダンで、アジア人初の大規模な個展が開催されて大きな注目を浴び、大盛況のうちにヨーロッパ各地とニューヨークまで巡回したようでした。
番組では、その為の100枚の新連作として、200号はありそうな巨大な画布に、毎日果敢に挑み続ける姿を追いましたが、そのゆるぎない才能と製作態度には圧倒されっぱなしでした。

この番組では驚かされることの連続でしたが、これだけの大芸術家となり世界的な名声も獲得したからには、さぞ立派な自宅があるのかと思いきや、草間さんの生活拠点はなんと精神病院で、院内の粗末な個室が彼女の家で、ここが一番落ち着くというのですから唖然です。そして毎日この病院からアトリエへ通い、夕刻仕事がおわったら病室に戻ってくるという、俄には信じられないような生活です。

なんでも若い時分から統合失調症という病を患い、いまだにその治療を受けながらの創作活動ですが、番組中も彼女の口からは自殺したいという言葉が何度も飛び出してくるのですが、長年彼女のお世話をしてきた人達がそのあたりのこともじゅうぶん心得ているようで、できるだけ草間さんの負担にならないよう配慮しながら上手く支えている献身的な姿がありました。

この番組の中で、ヨーロッパの巡回展のほかに、ニューヨークではルイ・ヴィトンとのコラボが進行中で、そのオープニングには草間さんも駆けつけ、例の水玉模様の製品が数多く作り出されていましたし、ショーウインドウの中は草間さんの作品である無数のタコの足のような彫刻が上下から空間を埋め尽くし、もちろんその不気味な物体は赤い水玉でびっしりと覆われています。

それから一週間ほど後、マロニエ君が天神を歩いていると、偶然バーニーズの前を通りがかったのですが、一階のルイ・ヴィトンのショーウインドウはなんと数日前にテレビで見たのとまったく同じ、ニョロニョロした物体に無数の水玉をあしらった草間ワールドになっているのには思いがけず感激してしまいました。グロテスクと紙一重のところで踏みとどまったそれは、とても斬新で美しく芸術的でした。

「もうすぐ死ぬのよ」と連発する彼女に、「草間さんはあと何枚ぐらい絵を描かれますか?」という番組の問いかけがあったのですが、すかさず「何枚でも描きたい。とにかく描きたいの。千枚でも二千枚でも描けるだけ描いて死にたいの」と、何の躊躇もなくあの射るような目つきで真顔で仰っているのが印象的でした。

ほとほと感心したのは、どんなに体調が悪く、頭はグラグラで、起きあがることも出来ずに死にたくなっているようなときでも、絵を描き始めると俄に調子が良くなってくるのだとか。まさに彼女の肉体・魂・血液・細胞はひたすら作品を作り出すことにのみ出来上がっているようで、これぞ天職であり天才なのだろうと思います。

あのような芸術家に対して「いつまでもお元気で」などと平々凡々とした言葉は浮かびませんが、強いて云うなら天が彼女を見放すその瞬間まで創作活動に身を捧げて欲しいものですし、実際そうされるだろうと思われます。それが天才の使命というものだと思いますから。
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予想外の不便

この夏からYoshii9型の円筒形スピーカー(通称;塩ビ管スピーカー)の自作に向けての情報収集や材料を準備していましたが、スタートから実に約3ヶ月余を経てやっと材料が揃いつつあります。

この円筒形スピーカーは、至ってシンプルな構造にもかかわらず、なにがそれほど時間がかかるのかというと、製作者であるマロニエ君に基本となるスピーカーの知識や経験がまるでなく、大半の知識をネットから辛抱強くすくい上げることと、そもそも通常の箱形であれば、手作りスピーカーのためのある程度の材料は専門店であれば揃っているものの、円筒形スピーカーの場合はまるきりそういう環境がないという点が大きなネックになったと思います。

この円筒形スピーカーの構成部品の中で必ずオーディオ用のものを使う部分といったら、基本的にはフルレンジのスピーカーユニットぐらいなもので、あとは筒本体、土台、仮想グランドという筒の内部の構造体など、あらゆるものが市販の建築資材などを随時応用しながら使うのですが、建築資材など、まさに無知のジャンルでしかもとてつもなく膨大ですから一朝一夕には事は運びません。

そんな中からスピーカー作りにちょうど良さそうなものを探し出すのは、工作少年でもなかったマロニエ君のような者にとってはまさに気の遠くなるような作業なわけです。
時間がかかるのは当たり前、調べ方さえもよくわからないし、部品部材の名称もわかりません。形状やサイズも様々なので、簡単に購入するわけにもいかず、手許に届いて少しでもサイズが違えば何の役にも立たないのでいよいよ慎重にならざるを得ません。

ごく単純な部品の調達などでも、専用品がなく規格外ともなると、ちょっとしたことでも困難が生じて、思いもよらぬ足止めをくらいます。
たとえばスピーカー本体となる1mのアルミ管を垂直状態に支えるための土台は、木の板を円形のドーナツ状に切り抜く必要があるということになり、そのためのカット作業は自分ではできないけれども、専門家に頼めば簡単にすむだろうと思っていたところ、さにあらず、とてもそう思い通りにはいきませんでした。

少し具体的に言いますと、厚さ3、4センチほど板を直径21センチの円に切り出して、さらに真ん中に10センチの穴を開けるという、たったそれだけのことが今どきはものすごい困難なわけです!
板は厚いものがなければ薄いものを貼り合わせればいいと思っていましたが、板なんてものはいくらでもあるようで、要は「円形に切る」というのが少々の所ではできないのでした。

ホームセンターの類に聞いても、直線のカットはできるようですが円形となると軒並みできませんという返事が返ってきますし、昔は結構あったように思える木工所の類も、ネットで見る限りよほど遠方に行かないとありません。

やむを得ず、複数の知人にこの件を相談したのですが、彼らはマロニエ君が送った寸法見取り図をもとに、すぐに知り合いの木工職人の方に掛け合ってくれたのですが、結果はいずれもマロニエ君にとってはゼロをひとつ間違えているんじゃないの?といいたくなるような金額を提示されて、驚きつつ、とてもではないとすごすご引き下がりました。

最近では、いわゆる普通の素朴な木工所というものがなくなっているようで、たまにあるのは手作りの高級家具をオーダー製作するといったような、いわば家具作家の工房のような性質の店になっており、とてもこちらの目的と予算に合うような手軽な感じで引き受けてくれるところがありまません。

素人の考えとしては、たかだか土台なんですから、そんな上質なこだわりを持った仕事ではなしに、目的と要望に応じて、二つ返事でサッと作ってくれる職人さんみたいな人がいそうなものだと思っていたのですが、どんなにネットで探してもそういう店はありませんでした。
何事も世の中が飛躍的に桁違いに便利になったこの頃ですが、その陰で、こういう人の手を必要とする類の作業依頼となるとものすごく不自由で、「なんで?」と思うほど小回りの利かない世の中になってしまったものだと思いましたね。
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旧時代の設計

過日、ベーゼンドルファー最小の新機種がでたということを書いたことをきっかけに、あらためて同社のホームページを見てみたのですが、そこには意外なことが書かれていました。

Model 280 の説明文の中に、新型は「鍵盤の長さを低音から高音へと変化させ、それに従うハンマーヘッドの重量配分で最適なバランスを実現」とあるのですが、これまでベーゼンドルファーのアクションなどをしげしげと見たことがなくて知らなかったのですが、わざわざそう書いているということは、旧型のModel 275 では鍵盤は92鍵もあるにもかかわらず、鍵盤の長さはすべて同じだったのか!?と思いました。

ふつうグランドピアノの場合、おおよそですが2m未満の小型グランドの場合、鍵盤の長さ(ハンマーまでの長さ)は全音域で大体同じですが、それ以上のピアノでは低音側がより長くなり、さらにはピアノのサイズ(奥行き)に比例するように、鍵盤全体の長さもかなり長いものとなります。
もちろんそれは鍵盤蓋から奥の、普段目にすることのない部分の長さですから、演奏者にはわかりませんが。

確証がないので何型からということは控えますが、スタインウェイでもヤマハでもカワイでも、中型以上では鍵盤長は低音側がより長くなるというは常識で、これはてっきり現代のモダンピアノの国際基準かと思っていました。

そういう意味では、ベーゼンドルファーは旧き佳き部分があり、それ故の美点もあった代わりに、現代のピアノが備えている基準とは異なる点があって、そこを現代の基準を満たすべく見直すという目的もあったのかもしれませんね。
マロニエ君はいまだに新しいシリーズのベーゼンドルファーは弾いたことがありませんが、これまでに何台か触れることのできたModel 275 やインペリアルは、その可憐でピアノフォルテを思わせるような温かで繊細な音色には感銘を受けながらも、現代のホールなどが要求するコンサートピアノとしてパワーという点では、どちらかというとやや弱さみたいなものを感じていました。

もちろんマロニエ君のささやかな経験をもって、ベーゼンドルファーを語る資格があるとは到底思いませんけれども、それぞれの個体差を含めても概ねそのような傾向があったことは、ある程度は間違いないと思ってもいます。

そのあたりを思い出すと、鍵盤の長さなども旧時代の設計だったのかもしれないと考えてみることで、なんとなくあの発音の雰囲気や個性に納得がいくような気がしてきます。

そういう意味では、新しいモデルがどうなっているのかは興味津々です。
福岡県内にもModel 280 を早々に備えている新ホールがありますが、なにぶんにも距離もあるし、開館前の話ではピアノを一般に解放するイベントも検討中とのことでしたが、なかなか腰も上がらないままに時間が流れました。そのイベント自体も実行されているのかどうかわかりませんが、もしやっているようならいつか確かめに行ってみたいところです。
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楽器の受難

今年8月、堀米ゆず子さんの1741年製のグァルネリ・デル・ジェスが、フランクフルト国際空港の税関で課税対象と見なされて押収されたというニュースは衝撃的でしたが、翌9月にはさらに同空港で有希・マヌエラ・ヤンケさんのストラディヴァリウス「ムンツ」が押収されたと聞いたときには、さらに驚かされました。

「ムンツ」は日本音楽財団の所有楽器でヤンケさんに貸与されており、入国の際の必要な書類もすべて揃っていたというのですからいよいよ謎は深まるばかりでした。

それも文化の異なる国や地域であるならまだしも、よりにもよって西洋音楽の中心であるドイツの空港でこのような事案が起こること自体、まったく信じられませんでした。
しかも税関は返還のためには1億円以上の関税支払いを要求しているというのですから、これは一体どういう事なのかと事の真相に疑念と興味を抱いた人も少なくなかったことでしょう。

その後、幸いにして2件とも楽器は無事に返還されるに至った由ですが、これほどの楽器をむざむざ押収されてしまうときの演奏家の心境を考えるといたたまれないものがありました。
背景となる情報はいろいろ流れてきましたが、そのひとつには高額な骨董品を使ったマネーロンダリング(資金洗浄)への警戒があったということで、途方もなく高額なオールドヴァイオリンは恰好の標的にされたということでしょうか。さらには折からの欧州の不況で、税徴収が強化されている現実もあるという話も聞こえてきます。

それにしても、こんな高額な楽器を携えて、世界中を忙しく飛び回らなくてはいけないとは、ヴァイオリニストというのもなんとも因果な商売だなあと思います。
マロニエ君だったら、とてもじゃありませんが、そんな恐ろしい生活は真っ平です。

その点で行くと、ピアニストは我が身ひとつで動けばいいわけで、至って気楽なもんだと思っていたら、ピアノにもすごいことが起こっていたようです。
そこそこ有名な話のようで、知らなかったのはマロニエ君だけかもしれませんが、あの9.11同時多発テロ発生の後、カーネギーホールでおこなわれるツィメルマンのリサイタルのためにニューヨークに送られたハンブルク・スタインウェイのD型が税関で差し押さえられ、そのピアノは返却どころか、なんと当局によって破壊処分されたというのですから驚きました。

破壊された理由は「爆発物の臭いがしたから」という、たったそれだけのことで、詳しく調べられることもないままに処分されてしまったというのです。関係者の話によれば、塗料の臭いが誤解されたのでは?ということですが、なんとも残酷な胸の詰まるような話です。

この当時のアメリカは、どこもかしこもピリピリしていたでしょうし、とりわけ出入国の関連施設は尋常でない緊張があったのはわかりますが、それにしても、そこまで非情かつ手荒なことをしなくてもよかったのでは?と思います。
現役ピアニストの中でも、とりわけ楽器にうるさいツィメルマンがわざわざ選び抜いて送ったピアノですから、とりわけ素晴らしいスタインウェイだったのでしょうが、当局の担当者にしてみればそんなことは知ったこっちゃない!といったところだったのでしょう。

そのスタインウェイに限らず、この時期のアメリカの税関では、似たような理由であれこれの価値あるものがあらぬ疑いをかけられ、この世から失われてしまったんだろうなぁと思うと、ため息が出るばかりです。
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信頼できる技術者

現在、ヤマハのアーティストサービス東京に在籍される曽我紀之さんは、ピリスやカツァリス、仲道郁代さんなど多くのピアニストから絶大な信頼を寄せられるヤマハのピアノ技術者でいらっしゃるようで、マロニエ君もたまに雑誌などでそのお名前を目にすることがありました。
小冊子「ピアノの本」を読んでいると、その曽我さんのインタビューがありました。

それによると、なるほどなぁと思わせられたのが、曽我さんがヤマハのピアノテクニカルアカデミーの学生だった頃に、『調律は愛だ。愛がなければ調律はできない。』というのが口癖の先生がいらしたとのこと。
当時の曽我さんたちは、それを冗談だと思って笑って聞いていたそうですが、今ではその意味がわかるとのこと。

これは素人考えにもなんだか意味するものがわかるような気がします。
調律に愛などと言うと、なんだか意味不明、ふわふわして実際的な裏付けがない言葉のような印象がありますが、調律という仕事は甚だ繊細かつ厳格であるにもかかわらず、ある段階から先はむしろ曖昧な、明快な答えのない感覚世界に身を置くことになるような気がします。
このインタビューでも触れられていましたし、通説でもあるのは、同音3本の弦をまったく同じピッチに合わせると、正確にはなっても、まったくつまらない、味わいのない音になってしまいます。

そこでその3本をわずかにずらすというところに無限性の世界が広がり、味わいや深みや音楽性が左右されるとされていますが、いうまでもなくやり過ぎてはいけないし、その精妙なさじ加減というのはまさに技術者の経験とセンスに基づいているわけです。それは、云ってみれば技術者の仕事が芸術の領域に変化する部分ということかもしれません。
そのごくわずかの繊細な領域をどうするのか、なにを求めてどのように決定するか、その核心となるものをその先生は「愛」と表現されたのだと思います。

この曽我さんの話で驚いたのは、彼には技術者としての理想像となる方がおられたそうで、その方はピアノ技術者ではなく、なんとかつての愛車のメンテナンスをやってくれた自動車整備士なんだそうです。
しかもその愛車というのはマロニエ君が現在も腐れ縁で所有しているのと同じメーカーのフランス車で、信頼性がそれほどでもないところにもってきて非常に独創的な設計なので、なかなかこれを安心して乗り回すことは至難の技なのですが、曽我さんはその人に格別の信頼を寄せていて、「彼がいる限りこの車でどこに出かけても大丈夫だと思っていることに気がついた」のだそうです。
そして、自分もピアノ技術者として、ピアニストにとってそのような存在でありたいと思ったということを語っておられます。

マロニエ君もふと自分のことを考えると、2台それぞれのピアノと、ヘンなフランス車、そのいずれにも非常に信頼に足る素晴らしい技術者がついてくれている幸運を思い出しました。このお三方と出逢うのも決して平坦な道ではなく、回り道に次ぐ回り道を重ねた挙げ句、ついにつかまえた人達です。

この3人がいなくなったら、今のマロニエ君はたちまち不安と絶望の谷底に突き落とされること間違い無しです。お三方ともそれぞれにとても個性あふれる、やや風変わりな方ばかりで、相性の悪い人とは絶対に上手くいかないようなタイプですが、本物の仕事をされる方というのは、えてしてそういうものです。
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栄冠の在処

いま、スポーツの世界ではオリンピックをはじめ、勝利したアスリート達は差し向けられるマイクに向かって、判で押したように「これは、自分一人で取ったメダルではない」「支えてくれた人達がいたからこそ」「家族の励ましがあったから…」というような言葉を並べ立てるようになりましたが、聞く側・観る側は本当にそんなことが聞きたいのでしょうか?

このようなコメントが一大潮流となったのは、横並びの大好きな日本人のことだから、自然に同じような言葉を発するようになったのかとも思いましたが、あまりの甚だしさに、あるいは上からの指示で、受賞インタビューではそういう受け答えをしなさいと厳命されているのでは?とさえ疑います。

もちろん、スポーツに限ったことではありません。
どんなジャンルであろうと、その頂上へ登りつめるまでの厳しい道のり、血のにじむような努力など、本人はもとより、その過程において多くの人の協力や支援があったことは紛れもない事実だと思います。
しかし、そうではあっても、最終的に各人が世に出て認められるに至ることは、あくまでも本人(あるいはチーム)の実力や才能、研鑽、さらには運までも味方につけて達成できた結果なのであり、その栄冠は当人だけのものだというのがマロニエ君の考えです。

むしろ、恩師や支援者、家族、その他背後にある人間は黒子に徹するところに美学があり、それにまつわる周辺の尽力談やエピソードは、あとから追々語られてゆくほうがよほど麗しいとも思います。

ところが、今では本人以外の面々も堂々と表に出て称賛をあびるし、本人の口からもまっ先にその事が語られるのは礼節を通り越して、いささか美談を押しつけられるようで、なんだかスッキリしないものが残ります。

お世話になった人達に感謝の意を表すのは人として大切ですが、何事も度が過ぎると主客転倒に陥り、まるで集団受賞の代表者のような様相を帯びてきています。もし心底本気でそう思っているのなら、もらったメダルも人数分に切って分けたらいいようなものです。

それに、どんなに手厚い周りの支えがあったにしても、結果が出せないことには世間から一瞥もされないというのが現実なのですから、やはりそこは当事者とそれ以外の一線があるべきだろうと思います。

このほど、ノーベル医学・生理学賞を日本人が受賞したのは誇らしい限りですが、その山中教授までもが記者団の前に夫妻で登場し、いきなり「家族がいなければ…」「笑顔で迎えてくれた…」という調子のコメントが始まったときは、さすがにちょっと驚いてしてしまいました。

もしも、モーツァルトが生きていて、自分の芸術に対して「僕の音楽は僕ひとりが作ったものとは思っていません。これまで育ててくれて、ほうぼう演奏旅行に連れまわしてくれた父と、一緒に演奏した姉のナンネル。パリでなくなったお母さん、結婚した後は側で見守ってくれたコンスタンツェなど、多くの人の支えがあったからだと思っています。だから、みんなで作り上げた作品だと思っています。これからも御支援よろしくお願いします。」などと答えたら、果たしてまわりは納得するでしょうか?
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いい顔と信頼感

来月大統領選挙を控えるアメリカでは、現職有利の原則に反してオバマ氏の支持がもうひとつ定まらず、対する共和党のロムニー候補は失言などをかわしながらも残りをどう巻き返すかというところですね。

政治のことはよくわかりませんが、オバマ氏苦戦の理由として考えられるのは、アメリカ経済の建て直しにこれという手腕が発揮できないだけでなく、彼はなにかにつけていい顔をしすぎて大統領としてのふるまいが消極的という印象があります。

彼は、一般的な理想論を魅力的に演説するのはお得意だそうですが、山積する現実面での諸問題に対する有効な対処能力には欠けているとされ、決定的な失策とかスキャンダルがあるわけでもないのに人気がなく、なんとなく孤立しているような印象があります。

就任早々にもヨーロッパで核廃絶をテーマに大演説をぶちましたが、アメリカこそ世界最大の核保有国であるのに、その大統領の口からそんな空想的な理想論が飛び出たことで、表向きは歓迎されたかたちにはなったものの、実際にはしらけきったという話を聞いた覚えがあります。

今もイスラム諸国が反米の気炎をあげていますが、オバマ大統領には不思議なほどこれといった明確な反応も発言もなく(あっても少なく)、なんとなくこれまでの合衆国大統領とは違った雰囲気を感じてしまいます。

ここからつい連想してしまうのですが、我々の周囲を見ても、さも分別ありげに誰にでもいい顔をする人というのがいるものだということです。
そういう人は、なるほど誰にでもあたりはいいのですが、その不自然なほどの温厚さは、どこまで本気にして良いのかわからず対処に困る場合があるものです。

誰とでも均等にそつなく上手くやって、本人もそこそこ楽しめるというのは、これはこれで今どきの有効な処世術でしょうし、マロニエ君などはこれが大いに欠落している点なので、ときには少し勉強させて欲しいぐらいなものです。

でも、そうは言っても、そうしてまでお付き合いのチャンネルばかり増やしても、それではどこにも実体がないように思います。もちろん個人差もあり、それで充足できる人も今どきは多いのかもしれませんが、そうではない人もいるということで、これは要するに価値観とスタイルの問題かもしれません。

ただ、ご当人はいくら中立的に上手く立ち回っているつもりでも、周りからは察知されているし、結局はいつでもどこでも誰にでも同じ調子なわけですから、有り難みもないというものです。そればかりか、あまりあちこちでいい顔ばかりしていると、最後は誰からも信頼されなくなる危険性も孕んでいるようにも思います。

マロニエ君は個人的には、少々変わり者でも、困ったところのある人でも、人間的に真実味のある人ならかなり許容できるのですが、いわゆる「いい人」はどうも苦手で、接していてもお付き合いの機微とか悪戯心がなく、勢いそつのない演技になり、表面は良好でも後に疲れが残ります。

実際のオバマ氏がどんな人間なのか知る由もありませんが、彼をメディアで目にする度に、なぜかいつもこういうことを連想してしまいます。
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Model 155

ベーゼンドルファーは、製品ラインナップを長い時間をかけながら順次新しい設計のモデルに切り替えているようで、現在生産モデルは新旧のモデルが入り乱れているというのはいつか書いたような覚えがあります。

そんな中で最大のインペリアルは古いモデルの生き残りのひとつであると同時に、今尚ベーゼンドルファーのフラッグシップとしての存在でもありますが、あとは(マロニエ君の間違いでなければ)Model 225を残すのみで、それ以外は新しい世代のモデルに切り替わってしまっているようです。

新しいシリーズでは、ベーゼンドルファーの大型ピアノで見られた九十数鍵という低音側の鍵盤もなくなり、現在のコンサートグランドであるModel 280では世界基準の88鍵となるなど、より現実的なモデル展開になってきているようです。いまさら88鍵に減らすというのは、従来の同社の主張はなんだったのかとも思いますが、ある専門業者の方の話によると、さしものベーゼンドルファーも新世代はコストの見直しを受けたモデルだとも言われています。

どんなに世界的な老舗ブランドとはいっても、営利を無視することはできないわけで、それは時勢には逆らえないということでしょう。完全な手作り(であることがすべての面で最上であるかどうかは別として)であり、生産台数も少なく、製造番号も「作品番号」であるなど、高い品質と稀少性こそはベーゼンドルファーの特徴であるわけですが、そんなウィーンの名門にさえ合理化の波が寄せてくるというのは、世相の厳しさを思わずにはいられません。

そんな中にあって、つい先月Model 155という小型サイズのグランドが新登場して、これはスタインウェイでいうSと同じ奥行きが155cmという、かなり小型のグランドピアノです。ヤマハでいうとC1の161cmよりもさらに6cm短く、日本人の考えるグランドピアノのスタンダードとも言うべきC3の186cmに較べると、実に31cmも短いモデルということになり、このあたりがいわゆるグランドピアノの最小クラスということになるようです。

この一番小さなクラスが加わったことで、ベーゼンドルファーのグランドは大きさ別に8種ということになり、そのうちすでに6種が新世代のピアノになっているようです。
合理化がつぶやかれるようになっても、お値段のほうは従来のものと遜色なく、この一番小さなModel 155でさえ外装黒塗り艶出しという基本仕様でも840万円という、大変なプライスがつけられていますが、どんな音がするのやらちょっと聴いてみたいところです。

マロニエ君は以前から思っていることですが、メーカーは各モデルで演奏したCDを音によるカタログとして作ったらいいのではないかと思います。
もちろん楽器のコンディションや録音環境、演奏者によっても差が出ると言われそうですが、しかしそれでもすぐに現物に触れられない人にとっては、ひとつの大きな手がかりにはなる筈です。
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ピントのずれ

ひと頃は、公共の場で小さな子供が奇声を発したり、あたり構わず走り回るなど好き勝手に騒いで、周囲の顰蹙を買おうとも、我関せずまったく叱るということをしない若いお母さんの姿などを見ることがしばしばでしたが、このところほんのわずかな変化が起こっているような気がするときがあります。

その変化とは、つまり親が子に躾をしている場面を目にするようになったということで、そのこと自体は大いに結構、喜ばしいことなのですが、ただちょっとそこに違和感を感じることがあります。

例えば、ふつうのお店で買い物をして、支払いが終わり、品物を受け取ってその場を離れる際に、ほら、ほら、と子供の背中を軽くつっついて店員に向かって「…ありがとうございました」と云わせるような光景をマロニエ君は何度か目にしています。

また、ある病院でのことですが、診察が済んで、受付で保険証や処方箋などを受け取ってその場を立ち去るとき、子供の手を握っていた若いお母さんは、しきりに子供になにかをさせようと小声でぶつぶつ言っています。握っている手もそのつど何度もぐいぐい引っぱられて、その子はどうも嫌だったようですが、お母さんの度重なる指令に抗しきれずに、ほとんど出かけたドアの向こうからひときわ大きな声で、「ありがとうございました!!」と叫ぶように言って帰っていきました。

お店で買い物をした際は、そもそもマロニエ君の目には、最近はお客さんのほうがしきりに店員に対して「すみません」とか「ありがとうございます」という言葉を乱発して、双方の立場が逆転しているのでは?というような奇妙な状況をよく目にします。
礼儀はとても大切なことですし、それが最近ではだいぶ失われていると嘆く気持ちがある反面、こういうどこかちぐはぐなやりとりをしばしばに目にするのは、どうにも心が気持ちのよい場所に落ちていきません。

店で買い物をしたら、御礼を言うのは基本的に店のほうであって、お客さんのほうは自然に「どうも」程度のことで済ませればいいわけで、丁寧も度が過ぎると却って卑屈にしか見えません。

でも、この手の人達は、それが礼儀にあふれた大人の正しい振るまいだと信じ込んでいるのでしょうし、小さな子供の親などは、それを我が子にまで教え込もうとしているのかもしれません。
病院も、これは経営サイドから言わせれば、患者はまぎれもないお客さんでもあるわけですが、そこは長年続いてきた慣習もあり、診察を受けた際、医師にお礼を言うところまではわかりますが、受付の事務仕事をしている女性に向かって、帰る際に親が自分だけでは飽きたらず、小さな我が子にまで「ありがとうございました」と盛大に言わせるというのは、どこか躾のピントが外れている気がします。

誰しも低姿勢に出られて、御礼を言われて怒る人はいませんけれども、礼儀や挨拶というものは、なんでも丁寧なら良いというものではなく、それをどれだけ適切的確に正しく用いる(使い分ける)ことができるかどうかに、その人の育ちや品位・見識が現れるとマロニエ君は思います。

これらのお母さん達は、もちろん親なので子供のためということもあるでしょうが、心のどこかにそういう挨拶をさせている親としての自分と、それを実行する子供の両方を世間に見せることで、まわりから感心されている筈だと思い込むことに満足しているように感じてしまいます。

現にその病院でのお母さんは、最後だけはいかにもという感じでしたが、待合室ではマロニエ君と肩が触れ合うぐらいの隣に座っていながら、真横にいるこちらのことなどまったくお構いなしに、かなり大きな声で子供にしゃべりまくり、あげくには変な抑揚をつけながら絵本の読み聞かせが延々と続き、なにしろ真横ですからかなり迷惑でした。

人にそんな不愉快を与えない気遣いができることのほうが、礼節という点ではよほど大事だと思うのですが、どうも本質的に感覚が違うようです。
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表情過多

昨年6月にパリのサル・プレイエルでおこなわれたパリ管弦楽団演奏会の様子が放送されました。
指揮は日本人の若手で注目を集める(らしい)山田和樹で、曲はルスランとリュドミーラ序曲、ハチャトゥリヤンのピアノ協奏曲、チャイコフスキーの悲愴というオールロシアプログラム。

山田さんは芸大の出身で小林研一郎の弟子、2009年のブザンソンコンクールの優勝者とのことで、このコンクールで優勝する日本人は意外に少なくなく、その中で最も有名なのが小沢征爾だろうと思います。

マロニエ君は実は山田さんの指揮を目にするのは(聴くのも)初めてだったのですが、いろいろな感想をもちました。演奏は、現代の若手らしく精緻で隅々にまで神経の行き届いた、いかにもクオリティの高いものだと思いますし、とくにこの日はロシア物とあってか、パリ管も最大級の編成でステージに奏者達があふれていましたが、その演奏は完全に山田さんによって掌握されたもので、どこにも隙のない引き締まった演奏だったと思います。とりわけアンサンブルの見事さは特筆すべきものがあったと思います。

ただ、そこに音楽的な魅力があったかということになると、少なくともマロニエ君にはとくにこれといった格別の印象はなく、悲愴などでは、どこもかしこも、あまりに細部まで注意深く正確に演奏しすぎることで流れが滞り、これほどの有名曲にもかかわらず、却ってどこを聴いているのかわからなくなってくるような瞬間がしばしばありました。
そういう意味では、山田さんに限ったことではないかもしれませんが、今どきの演奏はクオリティ重視のあまり作品の大きな輪郭とか全体像というような点に於いては逆にメリハリの乏しいものに陥ってしまっている気がします。ひたすらきれいに仕上がったピカピカの立派なものを見せられているようで、もっと率直に本能的に音楽を聴いて、その演奏に心がのせられてどこかに連れて行かれるような喜びがない。

ちょっと気になったのは、山田さんの指揮するときのペルソナは、いささか過剰ではないかと思えるような情熱的・陶酔的な表情の連続で、これは少々やりすぎな気がしました。
指揮の仕方もどこか師匠の小林研一郎風ですが、彼の風貌および年齢ではそれが板に付かないためか演技的になり、いちいち目配せして各パートを指さしたり、恍惚や苦悩、歓喜や泣き顔などの連発で、いかにも音楽しているという自意識が相当に働いているようで、あまり好感は得られませんでした。

マロニエ君の私見ですが、そもそも演奏中の仕草や顔の表情が過剰な人というのは、パッと見はいかにも音楽に没頭し、味わい深い誠実な演奏表現をしているように見えがちですが、実際に出てくる音楽とは裏腹な場合が少なくありません。ヨー・ヨー・マ、小山実稚恵、ラン・ランなど、どれも音だけで聴いてみるとそれほどの表情を必要とするほどの熱い演奏とは思えず、むしろビジュアルで強引に聴衆の目を引き寄せる役者のようにも感じてしまいます。
小山さんなども、その表情だけを見ていると、あたかも音楽の内奥に迫り、いかにも深いところに没入しているかのようですが、実際はサバサバと事務仕事でも片づけるようなドライな演奏で、その齟齬のほうに驚かされます。

ハチャトゥリヤンのピアノ協奏曲では、ジャン・イヴ・ティボーデが登場しましたが、このピアニストもこの曲も、昔からあまりマロニエ君の好みではないので、とりあえずお付き合い気分で第1楽章だけ聴きましたが、あとは悲愴へ早送りしてしまいました。
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驚愕の模型

模型を作る人達のことを、俗に「モデラー」というようですが、この人達の作り出す作品の凄さには、子供のころから人一倍強い憧れを持っていたマロニエ君です。
どれほどガラスケースの外側からため息を漏らしたことか…。

マロニエ君はもっぱら完成したものを眺め尽くすのが好きなクチで、とても自分からその世界に入って、自らから挑戦してみようなどと思ったことはありませんでした。これはきっと自分の特性には合わない世界であり、たぶん無理だということを本能的に感じていたからだろうと思います。

それでも、飛行機やお城などの完成模型を欲しいと思ったことは何度あったか。でも完成模型というのはいつも「非売品」で買ったことは一度もありませんし、もし売られることがあっても、相当に高額なものになるに違いないでしょう。
いちおうはプラモデルなども相当数作りましたが、その出来はとても自分が満足できるようなものではありませんし、それでも自分の技術を高めようという思いにはついに至りませんでした。

あるとき、なにげなくネットを見ていると、「ピアノを作ろう!」というブログに行き当たりました。これまでに見たこともないフレーズで、しかも「1/10で」となっているのは、はじめは何のことやらまったく要領を得ませんでした。

さっそく見てみると、なんとその方はスタインウェイのD型(コンサートグランド)の1/10のサイズの模型を数年かけて作られたようで、その製作の過程や、完成後の動画などが見られるようになっていましたが、そのあまりにも見事な出来映えには、ただただ驚き、感銘さえ覚えました。
ディテールなどもここまでできるものかと思うほど忠実で、ぱっと見た感じは、写真の撮り方によっては本物に見えてしまう可能性が十二分にあるほど、それは抜群によくできています。

もちろんプラモデルなどではなく、すべて自分で型を取るなどされて、100%手作りによってここまで完成度の高いものが作り出せるという、その技と情熱には驚きと敬服が交錯するばかりです。
ここまで精巧なピアノの模型というのは初めて見ましたが、これまでのマロニエ君の経験では、よくできた車や飛行機の模型でさえ、ディテールの細かな形状が不正確であったり、全体のシルエットにちょっと違和感があったりと「残念」が散見されるのが普通ですが、このスタインウェイにはまったくそういったところがないのです。

なんでも一台完成させるのに5年近くを要されたとのことで、それも驚きですが、その作品は完成後まもなくさるピアニストのところへ行ってしまい、現在は2台目を制作中とのことですが、その制作過程からも窺える見事さにはまったく呆れるほかはありません。

さっそくその作者の方と連絡を取って、リンクの承諾を得ていますので、論より証拠、どうぞみなさんもその素晴らしい作品をみてください。
リンクページの一番下に『ピアノを作ろう!1/10で』というのがあります。
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ウインドウズの恐怖

マロニエ君はパソコンはもともとマックでスタートを切ったということもあり、もうずいぶん長いことマックユーザーなのですが、数年前から事情があってウインドウズも少し使うようになりました。

このピアノぴあのホームページは、開設時たまたまウインドウズを使っている友人がお膳立てをしてくれたために、あえて不慣れなウインドウズがベースになりました。

これが今考えても出だしを誤ったと思われてなりません。
以前も書いたかもしれませんが、マックユーザーにとってのウインドウズというのは、これほど使いにくいものはなく、マロニエ君も使い始めから早3年以上が経ちますが、いまもって勝手がわからず、できる限りはマックを使っていますが、ホームページに関してはどうしてもウインドウズを使わなくてはなりません。

そのウインドウズでは、インターネットエクスプロラーを使っているのですが、今年の梅雨頃だったと思いますが、何の前触れもなく、とつぜんホームページの更新ができなくなりました。
はじめは何がどうなったのやら訳がわからず、パソコンの前で自分なりにずいぶん格闘しましたが、ようやくわかったことは、インターネットエクスプロラーのバージョンが新しくなってしまっているようで、そのために突如環境が変わり、ホームページの更新機能などが一斉に停止してしまったのでした。

パソコンのメーカーのサポートセンターなどにも何度電話したかわかりません。
みなさんもよくご承知だと思いますが、近ごろは名前こそサポートセンターなんぞと頼もしげな名前がついていますが、一度電話するだけでもこれが一苦労です。しかも、基本的には故障やトラブルはメールで質問して、メールで回答を得るというスタイルのようですが、緊急の時にそんなまだるっこしいことはやっていられないし、だいいちパソコンなどがめっぽう苦手なマロニエ君にしてみれば、適切な言葉で今自分が立ち至っている症状を書き綴ってメールにするなんてとてもできません。

そこで「何が何でも電話」ということになるわけですが、それがまた番号を調べて、音声ガイダンスとやらでいくつもの段階をくぐり抜けて、いよいよオペレーターと会話ができる状態に漕ぎ着けるまでが大変です。
おまけに会話は「録音されている」というのですからたまりません。

必死に状況説明を繰り返すもなかなか原因がわからず、ついにはパソコンを異常になる以前の状態に戻すべく、「修復」という作業を、電話で逐一指示を受けながら操作すると、たいそうな時間を要した挙げ句にパソコンは数日前の状態に戻り、やっと解決したかに思えました。

ところが悪夢はまだまだ続きます。夜中になると、なにやら潜水艦みたいな変な音がポヮーンとしてパソコンを開くと、またおかしな状態に戻ってしまっています。これが5、6回も続くと、さすがに神経がおかしくなりそうでした。
要は、インターネットエクスプロラーは新しいバージョンを、ユーザーへの通告も断りも選択の余地も無しに、一方的かつ強制的にバージョンアップしていたわけで、それによって否応なしに環境が変わってしまい、甚だ不本意な状況に追い込まれてしまうのでした。これをどうするかという対策はもはやマロニエ君の能力を大きく超えてしまっていたのです。

結局は、友人に自宅に来てもらい、アンインストールとやらの設定とかいうのをやってもらいましたが、それはというと普段見たこともないような専門的な画面での専門的な操作による設定で、こんなにも大変な処置をする必要があることを勝手に自動更新するなんて、まったく信じられませんでした。

その後もまた別件でトラブル発生、この解決にも大変な労力を要することとなり、ほとほとマロニエ君とウインドウズは相性がよくないようです。
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CXシリーズ

ヤマハのグランドピアノのレギュラーシリーズとして、長年親しまれてきたCシリーズがこのほどモデルチェンジを行い、新たに「CXシリーズ」として発売開始されたようです。

サイズごとの数字がCとXの間に割って入り、C3X、C7Xという呼び方になりました。
外観デザインも何十年ぶりかで変更になり、鍵盤両サイドの椀木の形状はじめ、足やペダル部分のデザインはCFXに準じたものとなっています。個人的にはどう見ても(登場から2年経ちますが)美しさがわからないあのデザインがヤマハの新しいトレンドとなって、今後ラインナップ全体に広がっていくのかと思うと、なんとはなしに複雑な気分になってしまいます。

先週ヤマハに行ったとき、はやくもこの新シリーズの人気サイズになるであろうC3Xの現物を目にしたのですが、正直いってあまりしっくりきませんでした。
しかも一見CFシリーズと同じデザインのように見せていますが、よく見ると椀木(鍵盤の両脇)のカーブはえらく鈍重で、足も、ペダルの周辺も微妙に形が違っており、これはあくまでレギュラーモデルであることを静かに、しかしはっきりと差別化されていることがわかります。
決してCFシリーズと同じディテール形状なのではなく、あくまで「CFシリーズ風に見せかけたもの」でしかないことは事実です。

いずれにしろ、新型の意匠はどことなく、今やヤマハの子会社であるベーゼンドルファー風であり、より直接的に酷似しているのはドイツのグロトリアンのような気がします。
とりわけヤマハのC6Xとグロトリアンの同等サイズ(チャリス)、C7Xと同等サイズ(コンチェルト)は全体のフォルムまでハッとするほど似ているとマロニエ君には思われて仕方がありません。

もうひとつ、C3Xの現物の内部をのぞいてドキッとしたのがフレームの色でした。近年のヤマハのグランドのフレームは、シックで美しい金色だったのですが、それがCXシリーズでは、一気に赤みの強い金になり、この点も弦楽器のニスの色に近いとされるベーゼンドルファーの色づかいをヒントにしたのかとも思ってしまいますが、それにしても色があまりにもハデで、ちょっと戸惑います。

この色、見たときまっ先に連想したのは、ウィーンの出自という名目で、現在は中国のハイルンピアノで生産されている格安ピアノのウエンドル&ラングのそれでした。
ウエンドル&ラングの赤味の強いフレーム色は、中国的なのか、ちょっと日本人には抵抗のある色だと思っていたところへ、なんとヤマハが似たような色になったのは驚きでした。

全体的には、そこここに昔(Cシリーズ)のままの部分も多く、マロニエ君の目には要するにちぐはぐで中途半端な印象でしかなく、なんとなく釈然としないものを感じるばかりでした。
なかでも足の形などは、シンプルというより、ただの3本の棒がボディを支えて、下には車輪がついているだけのようで、その造形の良さや狙いが那辺にあるのか、これはデザインなのかコストダウンなのか、一向に理解できないでいます。

本当にその気があれば、もっとヤマハらしい個性に沿った美しいピアノのデザインというものはいくらでも作り出せたのでは…と思うと残念です。
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診断力

ピアノ好きの知人が、自宅のスタインウェイの調整に新しい技術者の方を呼ばれることになり、その作業の見学にということでマロニエ君もご招待をいただいたので日曜に行ってきました。

狭い業界のことなので、あまり具体的なことは書けませんが、その方はお仕事のベースは福岡ではなく、依頼がある毎にあちこちへと出向いて行かれるとのことでしたが、地元でもいくつものホールピアノを保守管理されている由で、周りからの信頼も厚い方のようでした。

作業開始早々から、あまり張り付いて邪魔をしてもいけないと思い、マロニエ君は4時過ぎぐらいから知人宅へと赴きましたが、到着したときはすでに作業もたけなわといったところでした。
はじめてお会いする技術者さんですが、事前にマロニエ君が行くことは伝わっていたらしく、とても快く受け容れてくださり、作業をしながらいろいろと興味深い話を聞くことができました。

また、このお宅にあるピアノに対する見立てもなるほどと思わせられるところがいくつもあり、当然ながらその診断によって作業計画が立てられ、仕事が進められるのは云うまでもありません。つくづくと思ったことは、技術者たる者のまずもって大切な事は、何が、どこが、どういう風に問題かという状況判断が、いかに短時間で適切に下せるかというところだと思いました。
作業の内容や方向は、すべてこの初期判断に左右されるからです。

どんなに素晴らしい作業技術の持ち主であろうと、事前に問題を正しく見抜く診断能力が機能しなくては、せっかくの技術も意味をなしません。いまだから云いますが、マロニエ君も昔はずいぶん無駄な労力というか、不適切だと思われる作業を繰り返されて、こんな筈では…とさんざん苦しんだこともありました。そんなことをいくら続けても、決して良い結果は得られるものではないのですが、技術者というものは誰しも自分のやり方やプライドがあり、とりわけ名人と言われるような人ほどそうなので、そういうときは無理な要求はせず、思い切って人を変えるしか手立てはありません。

ピアノに限りませんが、技術者が問題点を見誤って、見当違いの作業をしても、依頼者はシロウトでそれを正す力も知識もないまま、納得できない結果を受け容れる以外にありません。少しぐらい疑問点をぶつけても、相手はいちおうプロですから、あれこれと専門用語を並べて抗弁されると、とてもかないませんし、おまけに「仕事」をした以上、依頼者は料金を支払う羽目になるわけで、こういう成り行きは甚だおもしろくありません。

そういう意味では、技術者の技術の第一のポイントは「診断力」であるといっても過言ではないと思われます。これさえ正しければ、結果はそれなりについてくるように思われます。とりわけ専門的に鍛え上げられた鋭い耳と、指先が捉えるタッチの精妙さは(ピアノの演奏はできなくても)、いずれも高度に研ぎ澄まされたカミソリのようでなくてはならないと思いました。

それなくしては、作業の目的も意味も立ちませんし、これを取り違えると核心から外れた作業をせっせとすることになりますが、この日お会いした方は、この点でまずなかなかの鋭い眼力をお持ちのようにお見受けしました。
驚いたことは、調律の奥義の部分になると、使う工具(チューニングハンマー)によって、作り出す音が変わってくるということでした。なんとも不思議ですが、きっとチューニングハンマーにも「タッチ感」みたいなものがあるんでしょうね。

素晴らしいピアノ技術者さんと新たに知り合うことができたことは望外の喜びですし、それはピアノを弾く者にとってはなによりも心強い存在で、有意義な一日でした。
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アヴデーエワ追記

ユリアンナ・アヴデーエワのことを商業主義に走らない本物のピアニストと見受けましたが、それはショパンコンクール後の彼女の動静を見てもわかってくるような気がします。

大半のピアニストはコンクールに入賞して一定の知名度を得たとたん、このときを待っていたとばかりに猛烈なコンサート活動を始動させ、大衆が喜びそうな名曲をひっさげて世界中を飛び回り始めます。中でも優勝者は一層その傾向が強くなります。そして大手のレコード会社からは、一介のコンクール出場者から一躍稼げるピアニストへと転身した証のごとく、いかにもな内容のCDが発売されるのが通例です。

ところが、アヴデーエワにはまったくそのような気配がありません。
コンサートはそれなりにやっているようですが、他の人に較べると、その内容は熟考され数も制限しているように見受けられますし、CDに至っては、まだ彼女の正式な録音と言えるものは皆無で、どこかのレーベルと契約したという話も聞こえてきません。
すでにショパンコンクールの優勝から2年が経つというのに、これは極めて異例のことだといえるでしょう。同コンクールに優勝後、待ち構えるステージに背を向けて、もっぱら自らの研鑽に励んだというポリーニを思い出してしまいます。しかもポリーニのように頑なまでのストイシズムでもないところが、アヴデーエワの自然さを失わない自我を感じさせられます。

とりわけ現代のような過当競争社会の中で、ショパンコンクールに優勝しながら、商業主義を排し、自分のやりたいようなスタイルで納得のいく演奏を続けていくというのは、口で言うのは簡単ですが、実際なかなかできることではありません。それには、よほどのゆるぎない信念が不可欠で、芸術家としての道義のあらわれのようにも思われます。

選ぶピアノもしかりで、ショパンコンクールでは一貫してヤマハを弾き続けた彼女でしたし、ヤマハを弾いて優勝者が出たというのも同コンクール史上初のできごとでした。折しもヤマハは新型のCFXを作り上げ、国際舞台にデビューさせたとたんヤマハによる優勝でしたから、きっと同社の人達は嬉しさと興奮に身震いしたことでしょう。これから先は、この人がヤマハの広告塔のようになるのかと思うと、内心ちょっとうんざりしましたが、事実はまったく違っていました。
まさかヤマハがさまざなオファーをもちかけなかったというのは、ちょっと常識では考えにくいので、アヴデーエワがそれを望まなかったとしか考えられません。

事実、コンクール直後の来日コンサートをはじめとして、その後のほとんどの日本公演では、さぞかし最高に整えられたCFXが彼女を待ち構えているものと思いきや、なんと予想に反してスタインウェイばかり弾いています。あれだけヤマハを弾いて優勝までしたピアニストが、ヤマハの母国にやって来てスタインウェイを弾くというのも見方によっては挑戦的な光景にさえ見えたものです。
さりとて、まったくヤマハを弾かないというのでもないようで、要するにいろいろな事柄に縛られて、ピアニストとしての自分が無用の制限を受けたくない、楽器もあくまで自由に選びたいということなんだろうと思います。
現に昨年の日本公演の重量級のプログラムなどは、ヤマハではちょっと厳しかっただろうと思われ、スタインウェイであったことはいかにも妥当な選択だった思います。

これはピアニストとして最も理想的というか、本来なら当たり前の在り方だと思いますが、それを実行していくのは並大抵ではない筈で、アヴデーエワがまだ20歳代のようやく後半に差しかかった年齢であることを考えると、ただただ大したものだと思うしかありません。
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感動のアヴデーエワ

一昨年のショパンコンクールの映像やCDを見聞きしてもピンとくるものがなく、さらには優勝後すぐに来日してN響と共演したショパンの1番のコンチェルトを聴いたときには、ますますどこがいいのか理解に苦しんだユリアンナ・アヴデーエワですが、彼女に対する評価が見事にひっくり返りました。

BSで放送された昨年11月の東京オペラシティ・コンサートホールでのリサイタルときたら、そんなマイナスの要因が一夜にして吹っ飛んでしまうほどの圧倒的なものでした。

曲目はラヴェルのソナチネ、プロコフィエフのソナタ第2番、リスト編曲のタンホイザー序曲、チャイコフスキーの瞑想曲。当日はこのほかにもショパンのバルカローレやソナタ第2番を弾いたようですが、テレビで放映されたのはすべてショパン以外の作品で、そこがまたよかったと思われます。

どれもが甲乙つけがたいお見事という他はない演奏で、久々に感銘と驚愕を行ったり来たりしました。やはりロシアは健在というべきか、最近では珍しいほどの大器です。

あたかも太い背骨が貫いているような圧倒的なテクニックが土台にあり、そこに知的で落ち着きのある作品の見通しの良さが広がります。
さらには天性のものとも思える(ラテン的でも野性的でもない)確かなビート感があって、どんな場合にも曲調やテンポが乱れることがまったくない。政治家の口癖ではないけれども、彼女のピアノこそ「ブレない」。

どの曲が特によかったと言おうにも、それがどうしても言えないほど、どの作品も第一級のすぐれた演奏で、まさに彼女は次世代を担うピアニストの中心的な存在になると確信しました。
こういう演奏を聴くと、ショパンコンクールでのパッとしない感じは何だったのだろう…と思いつつ、それでも審査員のお歴々が彼女を優勝者として選び出した判断はまったく正しいものだったと今は断然思えるし、やはり現場に於いてはそれを見極めることができたのだろうと思います。

アヴデーエワに較べたら、彼女以外のファイナリストなんて、ピアニストとしての潜在力としてみたらまったく格が違うと言わざるを得ません。その後別の大コンクールで優勝した青年なども、まったく近づくことさえできないようなクラスの違いをまざまざと感じさせ、成熟した大人の演奏を自分のペースで披露しているのだと思います。

彼女の演奏は、ピアノというよりも、もっと大きな枠組みでの音楽然としたものに溢れていて、器楽奏者というよりも、どことなく演奏を設計監督する指揮者のような印象さえありました。
良い意味での男性的とも云える構成力の素晴らしさがあり、同時に女性ならではのやさしみもあり、あの黒のパンツスーツ姿がようやく納得のいく出で立ちとして了解できるような気になりました。

さらには、いかなる場合にもやわらかさを失わない強靱な深いタッチは呆れるばかりで、どんなにフォルテッシモになっても音が割れることもないし、弱音のコントロールも思うがまま。しかも基本的には、きわめて充実して楽器を鳴らしていて、聴く者を圧倒する力量が漲っていました。芯のない音しか出せないのを、叩きつけない音楽重視の演奏のようなフリをしているあまたのピアニストとはまったく違う、本物の、心と腹の両方に迫ってくる大型ピアニストでありました。

それにしても、他のピアニストは大コンクールに入賞すると、ぞくぞくとメジャーレーベルと契約して新譜が発売されるのに、アヴデーエワはショパンコンクールのライブと、東日本大震災チャリティーのために急遽作られたライブCD以外には、未だこれといった録音がなく、そのあたりからして他の商業主義と手を結びたがるイージーなピアニストとは一線を画していて、あくまでも独自の道を歩んでいるようです。

ああ、実演を聴いてみたい…。
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オーディオ道

オーディオにほとんど興味のないマロニエ君でしたが、今年は降って湧いたような自作スピーカーという課題ができてからというもの、俄にこのジャンルに興味を持つようになりました。

もちろんこのジャンルなどと一人前のことを云っても、たかだか自作スピーカーを中心とするその周辺のことに限定されていて、何十万何百万といった高級機器なんぞは自分にはまったくご縁のないものとして見向きもしておらず、あくまでも現実的な安物の範囲の話です。

ただし、昔からそうでしたが、オーディオの世界ばかりは高級品さえ買っておけば、その価格に応じて音質が段階的に間違いなく上がっていくのかというと、これはまったくそうとも云えない難しさを持っていて、このあたりの実情は現代でもさほど変わっていないようです。

もちろん、基本的には安物は安物で、それなりの音しかしないでしょうし、高級品も同様にそれなりの製品になると、それなりの音が出るという原則はあるでしょう。
ただし、そこには設計者の思想や理念もあれば、聴く側の主観や好みもあるし、組み合わせる機器の間に生まれる相性や、部屋の環境、聴く音楽のジャンルなど、そこにはもろもろの要素がそれこそ無限大に絡み合っていて、これが絶対という答えが永久にないだけに、そこがオーディオの奥深さにも繋がっているようです。

とくに高級品になればなるほど、その音の違いと価格差は甚だ曖昧かつ微細な領域に突入し、それだけの客観的な価値を見出すのは極めて難しいものとなっていくでしょう。
しかし、低価格帯ではある程度、価格と品質の関係というのは信頼に足るものがあり、たとえば2万円のスピーカーと10万円のスピーカーを較べたなら、ほとんどの場合は後者のほうがまず優れていると思われます。
しかし、これが高級品の世界になると、100万のアンプより300万のアンプのほうが確実に素晴らしいのかというと、これは一概に何ともいえない世界になるようです。

スピーカーも然りで、オーディオは高級品の世界になればなるほど、道楽の様相を一気に帯びてきて、それこそそれなりの経済力があって、この世界に足を取られてしまうと、まさに湯水のごとくお金を使ってしまうようです。最後には、オーディオの能力を発揮させることを前提にした家を造ったりすることにも及ぶようで、まさに終わりのない世界です。

しかも絶対というものはなく、たえず何らかの不満が残り、どこまでやっても「妥協」という文字から解放されることはないようです。

だからかどうかはわかりませんが、そんな頂上決戦の真逆を行くのが、チープなものを掻き集めて、いかに尤もらしい音を出すかという挑戦が昔からあって、マロニエ君にしてみればマニア道としても、こっちのほうがよほど無邪気であるし、知恵を絞り、アイデアを紡ぎ、失敗に笑い、発見に喜び、どれだけ面白いかと思っていますが、それは貧乏人の言い訳なのでしょうか…。
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テレビの不思議

台風16号が沖縄本島に上陸、さらに北上を続けているとのことですが、台風情報を見ようにもテレビでは決まりきった天気予報やニュースの一部以外ではなかなかその情報が得られません。

こんなときしみじみと感じるのは、そもそもテレビというものは、どうでもいいようなことはまたかと思うほど繰り返し放送するくせに、こちらが必要とする肝心なものはほとんど放送されないという矛盾です。

自然災害など、終わった後はえらく盛大に報じられますが、台風のような今まさにこちらに向かって近づいてくる危険に関しては何故こうも情報が最小限で不親切なのかと思います。

今回の台風は「猛烈な大型台風」「瞬間風速は最大75m」といいますから、こんなものがこっちに向かってやって来ると思うと身も縮む思いになりますが、テレビのどのチャンネルを見てもほとんどそれらしいことは伝えておらず、すまして平常通りの番組が放送されているだけです。

NHKもまったく同様で、台風なんぞまるで消えて無くなったかのような知らん顔状態なのには呆れてしまいましたが、夜になってかろうじて総合だけが、申し訳程度に台風情報を流し始めたのみです。
どうかすると、せっかく録画した映画や音楽番組にも、遠く離れた地で小さな地震が発生したというようなテロップが出てきて、大事な画面が台無しになってしまうことがしばしばなのは多くの方が経験されていることだと思います。

しかも、ひとたびこれが出はじめると、その無粋な文字は何度も何度も繰り返し画面に表示され、そのしつこさといったらありません。
それでも、NHKなどは公共放送であるという性質でもあるのでしょうから、そこは諦めて我慢しているわけですが、自分のいるエリアが実際的な危険にさらされる恐れがあって、くわしい状況を知りたいと思っても、その情報がほとんど得られないのはまったく腑に落ちない気分です。

少なくともよほど注意して天気予報やニュースを待ち構えていないかぎり、台風情報などはほとんど伝えられないのが実情だということがよくわかりました。

要するにテレビは、済んでしまったことを後から殊勝な調子で報告するだけのメディアではないかと思いましたが、こんなことを書いている間に外は次第に風がザワザワしはじめたようです。
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ノラや2

動物好きにとって、自分で飼って生活を共にしている動物というのは、まさに家族同様の存在で、ときにその存在の大切さは人間以上のものにさえなってしまうこともないことではありません。

お隣の犬猫ハウスから猫がいなくなったという必死な捜索の電話があってからしばらくすると、今度は新聞紙面で、市内の方のビーグル犬がいなくなったとのことで、写真付きの捜索の広告が出ているのを見て思わず胸が塞がりました。

興味のない人からすれば、たかだか犬猫にそこまで必死になることを、愚かで馬鹿らしいことのように感じられるかもしれませんが、飼い主にしてみれば、それは家族を失うことに匹敵するような出来事で、さぞかし沈痛な毎日を送っておられるだろうと思います。

この新聞広告というところから、また内田百聞の「ノラや」を思い出したわけですが、高い新聞掲載料を払ってでもこのような広告を出した時点で、すでにかなりの時間が経過しているのでしょうし、八方手を尽くした挙げ句の苦渋の決断だろうと思われます。
おそらくは、めでたく見つかって飼い主のもとに戻ってくる可能性は極めて低いとマロニエ君は内心思ってしまい、それがまたいよいよお気の毒なところです。

すでに、この新聞広告は2度、目にしていて飼い主の方の悲痛な心の裡が忍ばれます。
なんでも、ある女性がこの犬を連れ去るところを見たという目撃証言があるのだそうで、写真を見てもなかなか器量好しのビーグルでしたので、そういう証言があるところをみると、心ない人によって連れ去られたのだろうとも想像します。

この広告が「犯人」の良心に訴えるものがあって、もとの飼い主へ返そうという気分になってくれたらそれに越したことはないのですが、なかなかそうはならないだろうと思われます。
相手が動物とはいえ「誘拐」もしくは「盗み」という悪事をはたらいておいて、いまさら名乗り出るのは引っ込みがつかないという心理があるでしょうし、動物は飼い始めるとじきに愛情愛着がわいてきますから、エゴであっても手放すこともできなくなるという事情があるだろうと思います。

警察に届けても、犬猫は飼い主にとってはどんなに家族同様でも、法的にはモノとしか扱ってもらえないのだそうで、そこがまた悲しいところです。
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楽器と同じ

このブログの8月21日に書いた塩ビ管スピーカーは、ネットを見ると、ずいぶんたくさんの人が作っているように思えますが、マロニエ君のまわりには自作はおろか、御本家のYoshii9の存在すら知らない人が圧倒的ですから、やはり全体としてみれば今どきオーディオなどというものは、ごくごく少数のマニアだけが騒いでいるだけのことかもしれません。

昔は、オーディオマニアは決して珍しい部類ではなく、電気店に行っても、オーディオ売り場は一種独特のハイグレードな空気があってひときわ魅力あるカテゴリーのひとつでしたが、最近はすっかり衰退して、かなり隅っこに追いやられてしまっています。
やはり今は音楽分野もネットやiPodのたぐいが主流で、オーディオそのものが世の中の関心事から大きく遠ざかってしまっているようですが、それでも、本当に音楽を聞き込もうとする欲求と姿勢がある人なら、小さなイヤホンを耳にひっかけるだけでは事は済まないはずで、最低限のオーディオ機器は絶対不可欠だとマロニエ君は思います。

これはどんなにすばらしい電子ピアノが登場しても、生ピアノから得られる喜びや感動を超えることは出来ないことにも通じることのような気がします。

さて、その塩ビ管スピーカーの名前の由来ですが、小さなスピーカーユニットを先端に乗せるための細長い筒の材質のことで、塩ビ管とは、すなわち配水管などに使われるネズミ色の塩化ビニールのパイプ(管)を使ってスピーカーを作ることから、この名前が生まれ、やがて定着したようです。

長さ1m、直径わずか10cm前後の筒を垂直に立てて、その先端に8cmほどのフルレンジのスピーカーが乗っているという形状で、通常のスピーカー同様に左右2つで一対になるわけですが、なにも知らないと、パッと目はスピーカーに見えることはなく、新型の空気清浄機とかちょっと変わった照明器具のように見えるかもしれません。

マロニエ君も、柄にもなくすっかり作ってみる気になり、だいぶあれこれ調査しましたが、このスピーカーのいわばボディにあたるパイプの部分は、使う材質によっても音がずいぶん変わってくるらしいことがわかりました。
塩ビ管は要するにプラスチックで、ホームセンタなどわりに簡単に手に入る上、安いのが魅力ですが、硬度の関係から音がやや柔らかめでクリア感には乏しいようです。

塩ビ管以外にも、あえて硬い紙の筒を使って作る人もいるようですし、硬さの点からアルミ管やアクリル管という選択肢もあるようですが、こちらは塩ビ管に較べるといささか値が張ります。
御本家Yoshii9は何を使っているかというと、これもネットで知り得たところではアルミだそうですが、それにさらに特殊な処理が施されていて、それもあの美しい音に一役買っているものと思われます。

塩ビ管には塩ビ管なりの味わいがあるらしく、これはこれで奥の深い世界なんだそうですが、Yoshii9の素晴らしさのひとつがすっきりとした音のクリア感にあるので、やはりここは硬さのある材質が望ましいように思われます。その点ではアクリルもいいらしいのですが、アクリルは万一倒したりした場合、割れたりヒビが入るということもあるらしいので、そのあたりも考えあわせてマロニエ君の第一作としてはアルミ管とすることにしました。

基本となるスピーカーユニットの選択、パイプ部分の材質、中の構造物など、これはまさに楽器の構成要素にも大いに通じるところがあって、それをどのように組み合わせて、どんな音を引き出すか、これは考え始めると相当おもしろい体験になるような気がしています。
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ノラや

我が家のとなりには、昔の家でいう物置小屋ほどもある大きな犬小屋があります。

それというのも隣家のガレージがいつのまにか犬小屋となり、もう長いこと、そこを近所の愛犬家が借りているのです。
中では数匹の犬猫が飼われていますが、飼い主はここから少し離れたところにお住いで、毎日、夕方になると散歩をはじめエサやら掃除やらで、必ずやってきては懸命にお世話をされています。

今年の夏、そのガレージが建て替えられて、より大きく立派な犬舎に生まれ変わりました。
新築の住まいを与えられて、飼われている犬猫たちもさぞ喜んでいることだろうと思っていたところ、先日その飼い主さんから電話があり、その中の猫が一匹いなくなって、もうずいぶん探し回っておられるようですが、いまだに見つからないとのこと。

特徴などを知らされ、見かけた折には一報をと頼まれ、もちろん快諾したのはいうまでもありませんが、猫の場合、いったんいなくなって帰ってきたという話はなかなか聞いたことがなく、そこが必ず飼い主のもとに帰ろうとする犬と猫の最大の違いのようにも思われます。
猫は猫なりに、人になついているのだと思われますが、犬のそれのようにまっしぐらなものではなく、一捻りも二捻りもある愛情の持ち方のようでもあるし、そもそも猫には犬に備わっているような方向感覚なんかも少し弱いのかもしれないと思ったりもしています。

この話を聞いて思い出したのが、内田百聞(正しくは「聞」ではなく、門構えに月ですが)の作品「ノラや」でした。
野良猫だったノラが内田家にいついてから、だんだん百聞先生の愛情を受けるようになり、日々おいしいものを与えられて、幸福な毎日を過ごしていた真っ只中、いつものように出かけたきりノラは帰ってこなくなり、その悲嘆の顛末を縷々書き記した作品。

来る日も来る日も、夫人とともにノラを探し回る日々が続き、その間、百聞先生ほどの文豪が、心身をすり減らし、涙に明け暮れ、捜索の新聞広告も数度にわたり掲載されますが、月日ばかりが虚しく流れていきます。そして、その悲願も虚しく、ついにノラは帰ってきませんでした。

猫は、人の愛情を受けながらも、どこか勝手気ままで謎の部分が多く、それ故に猫に魅力を感じる人も多いようですが、マロニエ君はやっぱり犬が好きである自分を見出してしまいます。

もちろん一日も早く見つかることを願っていますが、正直言うと難しいだろうなぁと思ってしまいます。そもそも突然いなくなる飼い猫というのは、その後いったい、どこでどんな行動をとっているのか、できればNHKのドキュメントなどで取り上げてほしいテーマです。
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高橋アキ

天神の楽器店でCDの半額コーナーを漁っていると、いくつか目につくものがありましたが、その中から、以前何かで読んで評価が高いとされている高橋アキさんのシューベルトの後期のソナタを発見し、これを購入しました。

シューベルトの後期の3つのソナタとしては、すでに最後のD.960を含むアルバムが先に発売され、今回購入したのはそれに続くもので、その前の後期ソナタ2作であるD.958とD.959でしたから、曲に不足のあろうはずもありません。

また、前作のD.960を含むアルバムは第58回芸術選奨文部化学大臣賞を受賞しているらしく、レーベルはカメラータトウキョウ、プロデューサーはこの世界では有名な井坂紘氏が担当、ピアノはベーゼンドルファーのインペリアルで、とくに高橋アキさんお気に入りのベーゼンがある三重県総合文化センターで収録が行われたとあって、とりあえず何から何まで一流どころを取り揃えて作り上げられた一枚ということだろうと思います。

というわけで、いやが上にもある一定の期待を込めて再生ボタンを押しましたが、D.958の冒頭のハ短調の和音が開始されるや、ちょっと軽い違和感を覚えました。

まずは、名にし負うカメラータトウキョウの井坂紘氏の仕事とはこんなものかと思うような、縮こまった曇りのある感じのする音で、まるでスッキリしたところがないのには失望しました。マイクが妙に近い感じも受けましたが、インペリアル特有の低音の迫力などはわかるのですが、全体としてのまとまりがなく、ピアノの音もとくに美しさは感じられず、ただ鬱々としているだけのようにしか聞こえませんでした。
もう少し抜けたところのある広がりのある録音がマロニエ君は好みです。

また肝心の高橋アキさんの演奏もまったく自分の趣味ではありませんでした。
後期のソナタということで、それなりの深いものを意識しておられるのかもしれませんが、むやみに慎重に弾くだけで、演奏を通じての音楽的なメッセージ性が乏しく、奏者が何を伝えたいのかさっぱりわかりません。
作品全体を覆っている深い悲しみの中から随所に顔を覗かせるべきあれこれの歌が聞こえてくることもなく、ソナタとしての構成も明確なものとは言い難く、暗く冗長なだけの作品のようにしか感じられなかったのは、まことに残念でした。

全体として感じることは、重く、不必要にゆっくりと演奏を進めている点で、そこには演奏者の解釈や表現というよりは、主観や冒険を避けた、優等生的な演奏が延々と続くばかりで、聴いていて甚だつまらない気分でした。
これでは却って晩年のシューベルトの悲痛な精神世界が描き出されることなく、作品の真価と魅力を出し切れずに終わってしまっていると思いました。

今どきは、しかし、こういう演奏が評論家受けするのかもしれません。
音楽として演奏に芯がないのに、いかにも表向きは意味深長であるかのような演奏をすることが作品の深読みとは思えません。どんなに高く評価されようと、立派な賞をとろうと、聴いてつまらないものはつまらない。これがマロニエ君の音楽を聴く際の自分の尺度です。

高橋アキさんはやはりお得意の現代音楽のほうが、よほど性に合っていらっしゃるように思います。
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ばわい

「言葉は時代とともに移ろいゆくもの」という原則はわかってるつもりでも、このところの言葉の乱れはあんまりで、耳を疑うようなものが多すぎるように感じられてなりません。

とくにテレビは直接生きた言葉が流される媒体なので、放送局は正しい日本語を発信するという役割は極めて大きいはずですが、実際には、ほとんど元凶のごとき役割を果たしているのがテレビであり、唖然とするばかりです。

民放はいうに及ばず、NHKでさえこの点は例外ではなく、なんでもないようなことまで変化が起こっています。
例えば、むかしは当たり前だった「○○するかどうか検討中です」というようなフレーズは今はほとんど消えて無くなり、最近はニュースのアナウンサーなどは、例外なく「○○するか検討中です」「命に別状はないか確認中です」というように変わり、間に「どうか」という副詞(たぶん)が入らなくなってから、言葉はずいぶん乾いた、味わいのない、殺伐とした響きをもって耳に届くようになりました。

また、一種の流行的な使い方なのかもしれませんが、寒い、暑い、旨い、安いというような言葉を使う際にも、今は「寒っ」「暑っ」「旨っ」「安っ」という言い方が大勢を占め始めており、はじめはなんということもなかったようなことが、だんだん耳に障るようになりだしています。

語尾にむやみやたらと「…みたいな」や「…かな?」をくっつけるのなどは、もはや方言を飛び越して日本列島にあまねく定着した観があり、ほとんど共通語のようで、ちょっと不気味でさえあります。

最近、薄々感じはじめていたことで云うと、「場合」を「ばわい」という言い方で、はじめはメールなどの書き込みでちょっとふざけた、可愛気を出した感じの使い方が広まっているぐらいに思っていましたが、なんとテレビ局のキャスターがごく普通にこう言っているし、さらには、れっきとしたアナウンサーが、真面目なニュースを読み上げる際にもこの言い方をするのは、どうかしているんじゃないかと思います。

つい先日なども、電力供給の問題をスタジオで解説する際に、準備されたボードを指し示しながら、大真面目な表情で何度も「このばわいは」「そのばわいは」とあきらかに「わ」と発生していることに愕然とし、もしかしたらこっちの勘違いではないかと、念のため手許にある国語辞典で確認してみましたが、むろん「ばわい」などという日本語があるはずもなく、場合は「ばあい」と明記されています。

さらにこまかく云うと、テレビで聞く「ばわい」の言い方は、それをせめてなめらかに言うならまだしものこと、「わ」を敢えて強調するかのような、「ばウァい」という感じに発音するのには、ほとほと呆れてしまいます。

未来の辞書には場合=「ばわい」(「ばあい」とも)などと書かれるのでしょうか…。
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テレビその後

過日、画面がいきなり暗黒になってしまった我が家のテレビは、アンテナケーブル接続部の不具合という些細なことが原因と判明、めでたく復旧したことは以前書きましたが、実は続きがありました。
メーカーの技術者は画面が復旧したというのに、なにか違う問題にしきりに関心を寄せている様子で、それからまたずいぶんと時間を要して、予想外の第二幕となりました。

てっきり修理完了後の調整や確認をしているのだろうと思っていたのですが、技術者いわく、なんと液晶に異常があるとのことで、そう言われて目を凝らしてみればなるほど、ほんのかすかな筋が左側にあること、また通常の放送画面ではまったくわからないものの、調整のための単色に近い画面にすると、右下にわずかな曇りのようなものがあるとのこと。とくに曇りなどは、言われるまでまったく気づきもしませんでした。

すると、これを要修理と判断したようで、技術者の方は持参してきたノートパソコンを見ながらパーツ類の調達のために電話で会社としきりにやりとりしているようで、こちらが頼みもしないうちから交換のための手はずがどんどん進んでいて、その流れは呆気にとられました。

「部品の準備が出来たらまたご連絡しますので」と言い残してこの日は帰って行かれたのですが、この時点でマロニエ君はそんなことよりもテレビ画面が3日ぶりに復活したことばかりを喜び、そのうち液晶のことなど忘れていました。

数日後、本当に忘れていたら、メーカーから電話があり、準備が出来たのことですぐに来宅され、作業には1時間半ぐらい要するとのことで、そのときはずいぶん大変なんだなあ…ぐらいに思いました。玄関脇にはテレビがそのまま入りそうな大きな段ボールが置いてあり、ちょっと違和感は感じていましたが、礼儀正しく淡々と作業を進めているので、そのまま部屋を後にしました。

2時間近く経過して、やっと作業が終わったと知らされて戻って説明を聞くと、なんと液晶画面をそっくり新品に交換しているほか、メインをはじめとするいくつかの基盤などまで新品に交換されていると聞いたときは驚愕しました。
素人考えでも、ということは、これまで使っていた部分は、主に外枠や背後のカバーなどと思われ、中の主要な部分はほとんど新品になっているようです。

しかもすべて保証扱いですから、こちらの負担こそゼロなんですが、なんとも大胆なことをするもんだと思うと同時に、つい先日「カミナリ」という言葉を口にしたが最後、保証の適用から外されかけた危機を思い出すと、今度は、どこが悪いのかわからないような些細なことで、これだけの大胆な修理をするというのは、なにがどうなっているのやら、まったく狐につままれたような気分でした。

要するに、いずれの場合も定められた「システム」がそうさせるということでしょう。
システムに適ったことなら、いかに高額な修理でもどんどんするし、逆に適用外となったが最後、たとえユーザーが自分の落ち度でもなく、かつ、どんなに困っていることでも保証とはならず、かかった料金を請求するというわけで、たしかにある種の理に適ったことではあるのでしょうけれども、とてもじゃないですが心情的についていけない世界だということがわかりました。

テレビが実質新しくなったことはいかにも結構な結果だったわけですけれども、なんだか釈然としないものが残り、妙ちくりんな世の中になったもんだというのが率直なところでした。
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低コストオペラ

今年8月のザルツブルク音楽祭から、プッチーニのオペラ『ボエーム』が放送されましたが、お定まりの新演出によるもので、時代設定は現代に置き換えられるという例によってのスタイルは、まったくノーサンキューなものでした。

本来のオペラなら演出家の名前も記しておきたいところですが、この手合いは覚える気にもなれません。
フィガロでもマノンでも、とにかくなんでもかんでも最近はこの新演出という名の安芝居みたいなステージが目白押しで、かつてのようにまともにオペラを楽しむという気分にはなれません。

今回のボエームもとりあえず全4幕のうち第2幕まで見ましたが、これが本当にあのザルツブルク音楽祭だろうかと思うような軽薄で品位のない舞台で、どこかに良さを探そうとするのですが、どうしてもみつかりません。

たしかに芸術は、ただ伝統的なものを継承し、おなじことを繰り返すだけではだめで、絶えず新しいものが創り出されて、それらが淘汰され昇華しながら後世に受け継いでいかなくてはならないという面はありますが、近ごろの新演出は、マロニエ君の目には到底そんな芸術的必然から出たようなものには見えません。

なぜ最近のオペラは伝統的な舞台が激減して、斬新ぶった子供だましのような空疎な舞台が多いのかと思っているオペラファンは多いはずです。
一説によれば、それはもっぱらコストの問題だという話を聞いたことがありますが、それも頷けるような露骨なまでのやっつけ仕事で、ことによると作品への畏敬の念すら疑わしくなるようです。

たしかに本来の伝統的な舞台を作るには、高額な装置や衣装などが必要で、生半可ではないコストがかかるのはわかりますが、そもそも、それを含めてのオペラじゃないかと思います。
少なくとも、あんなものを堂々とオペラと称するぐらいなら、いっそ演奏会形式でやったほうがどれだけ潔いかわかりません。

今回のボエームに限りませんが、主役をはじめとするせっかくの出演者達が、本来の扮装とはかけ離れたジーンズやTシャツで堂々と舞台に現れて、下品な仕草で現代の役柄を演じるのはさぞかし不本意だろうなあと思います。
そればかりか、時代設定を現代に置き換えることで、劇の進行や台詞のひとつひとつの意味にも矛盾や齟齬が生じて、まるで説得力がありません。音楽的にもステージ上で展開されているものとは何の繋がりもないようなものが噛み合わないまま空虚に流れていくのは、なにやら耐え難い気になってしまいます。

もし若い人で、はじめて見たオペラがこの手の新演出で、オペラとはこういうものかとその経験を記憶に刻むとしたら、とても恐ろしいことのように思います。

主役のミミにはアンナ・ネトレプコ、オーケストラはウィーンフィル、合唱団はウィーン国立歌劇場合唱団といかにもな一流揃いですが、演奏はそれぞれが上手い点はあるものの、全体のまとまりや流れもなく、みんなバラバラな印象で、ろくに練習も積んでいないといった感じでした。
一体に、最近はテンポもノロノロした演奏が多いという印象がありますが、これも要は練習不足の表れのような気がします。かのカルロス・クライバーの快速は、まわりが呆れるほどの練習の賜物だったわけですが、練習を繰り返すことも、つまりコストのかかる事というわけでしょう。

オペラさえまともに上演できないほど、ヨーロッパの不況も深刻だということなのでしょうか…。
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利害関係

現代の人間関係は、ひとむかしの前のそれとはまったく様子が異なるようです。

これは時代のめまぐるしい変化によるもので、わけてもネットをはじめとするいろいろなツールの出現は、社会に深く根を張り、私達の実生活はむろんのこと精神的にも大きな影響を与えたことは間違いないようです。それに伴い、人とのお付き合いの在り方も、気がつくとかなりの変化が起こっているように思います。

さまざまなツールの登場は、便利さや多様化する選択肢などという点において劇的な変化をもたらしましたし、じっさい以前なら思ってもみなかったような新たな可能性が生み出されたことも、なるほど事実でしょう。
しかし、本当に人はそのぶん、その通りに、豊かに、幸福になっているかといえば、マロニエ君はとてもそうは思えません。

携帯やネットには目には見えない弊害も多く、結果だけを見るなら、世の中の多くの人が、結局は深刻な出口のない閉塞感と孤独に追い込まれたように思います。

友人知人の関係というものにも今昔の違いがあり、かつては無邪気に気の合う者同士が結びつき、ごく自然で率直な付き合いをしていたものですが、今は、携帯やパソコンのアドレス帳には人の名が溢れていても、いざ本当の友人ということになると甚だ怪しいものです。

そして、現代の人間関係とは、何をもって互いを結びつけているかといえば、多くは「利害」であることも少なくありません。この場合の利害というのは、もちろん金銭やビジネスのことではなくて、主にプライベートな時間を過ごす上での意味合いです。

予定帳の空白欄を埋めたい、無為な休日を楽しく過ごしたいといったたぐいの者同士が、ネットを介してふと結びつき、傍目にはあまり相性がいいとも思えないような組み合わせが誕生。互いに相手を利用して寂寥を埋め合うという点で利害が一致、まさに相互メリットによって交際が成立してしまうこともあるようです。

そもそも人間は本質論的に孤独といえばそうなのですが、それが観念の上ではなく、実際的孤独へとしだいに変質しているといえないでしょうか。多くの人は孤独に陥っても、それを声にすることもできず、ひたすら耐え忍ぶしかありません。そこへ、たまたまなにかのチャンスがめぐってきて、似たような境遇の人同士が出会うと、堰を切ったように空虚な交流が続けられることがあります。
しかもより多くの期待をかけたほうがパワーバランスで不利になり、このような関係はなかなか上手くいきません。

マロニエ君もそういう例をここ数年で何度か目撃したことがありますが、そこに漂うどこか必死な感じは、なんともいたたまれないものがありました。もともと何の繋がりも実績もない即席の関係は、いつどこで終わりになるかもしれないという危うさを常に孕んでいて、そこは当人達も空気としてどこかで悟っているのかもしれません。
もしそれで本当の友人になれたらめでたい事ですが、それはいわばくじに当たるぐらい難しく、大抵終わりは突然サラリとやってくるようです。

こういうことになる原因のひとつは、ネットなどでまったくバックボーンのわからない者同士が、安直に出逢うことのリスクであり代償だと思います。その点、時間や手間暇はかかりますが、人との出会いは従来のスタイルのほうがよほど確かだと思いますが、それもある程度の世代から以降はほとんど消滅しているのかもしれませんね。
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アミール・カッツ

「俺のショパンを聴け!」
ピアニストのアミール・カッツは、あるインタビューでこのように言ったといいます。
それでは仰せの通り聴かせていただきましょうというわけで、2つリリースされているショパンのCDのうち、より新しい録音であるバラード/即興曲の各4曲を購入しました。

バラード第1番の冒頭部分からして技巧に余裕ある、クオリティの高そうな演奏であることが早くも伺われます。
さらには、ひとつひとつのフレーズから彼の音楽に対する細やかな息づかいが感じられ、ただきれいで正確に弾くだけのピアニストではないことが感じられる同時に、どこにも奇抜なことを仕掛けるなどして聴く者の注意を惹こうとしている軽業師でないのも伝わります。
それでいて、少なくとも、これまでに聴いたことのなかった新しいショパン演奏に出逢った気がしますし、その新しさこそ彼の個性だろうと思います。

しかし、どうももうひとつ乗れないものがある。
曲は確かにショパンだけれども、どうもショパンの繊細巧緻な作品世界に身を浸すのではなく、あくまでもこのカッツというピアニストの手中でコントロールされつくした整然とした音楽としての音しか聞こえてこない。

ポーランドの土着的なショパンでもなければ、パリの洗練を経たショパンでもない、あくまでもこのカッツというピアニストの感性を通じて、既成概念に囚われず、正しくニュートラルに弾かれた、無国籍風の堂々たるピアノ音楽に聞こえてしまうわけです。

非常に注意深く真摯に演奏されていることも認めますが、あまりにも筋力と骨格に恵まれた男性的技巧によって余裕をもって弾かれすぎることで、却ってショパンの細やかな感受性の綾のようなものや、複雑で整理のつけにくい詩情の部分などが力量に呑み込まれてしまった観があり、立派だけれども、聴いていてちっとも刺激されるものがありませんでした。

マロニエ君が思うに、ショパンの作品は芸術作品としてはきわめて完成度は高いけれども、どこかに危うい構造物のような緊迫を孕んでいなくてはいけないと思うわけです。
少なくとも、完全な土台の上に建てられた、強固でびくともしない建築のようなショパンというのは、どうしてもしっくりきません。

云うまでもなく、ショパンをひ弱な、少女趣味のアイドルのように奉る趣味は毛頭ありません。
しかし、誰だったか失念しましたが、ショパンのことを『最も華麗な病人』と評したように、ショパンには適度な不健康と煌めくブリリアンスの交錯が不可欠で、過剰な頑健さとか野性味、すなわちマッチョであることはマイナス要因にしかならない気がするわけです。

カッツのショパンは、力強さと構成感が勝ちすぎることで、却ってショパンの世界を小さくつまらないものにしてしまった気がします。
しかし、こういうある意味ではスケールの大きい、荷物の少ない寡黙な男のひとり旅みたいな演奏をショパンに求めている向きもあると思いますので、そこはあくまで好みの問題だと思います。

全体にバラードのほうがよく、それはピアニスティックに弾ければなんとかなる面が即興曲より強いからでしょう。
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カミナリとテレビ

このところ、晴れていたお天気が急変して、猛烈な雷雨に見舞われることが何度も続きました。当然のように湿度も耐え難いまでに上がって、まるで熱帯地方のようです。

その日も、昼間の強い陽射しと青空がウソのように夕方から猛烈な雷雨となり、かなり長い時間、まさに荒れ狂う嵐の様相を呈しました。

ようやく外の気配もおさまった夜半のこと、突如としてリビングで使っているテレビが映らなくなり、それこそ説明書と首っ引きで1時間以上、なんとか回復させようと格闘してみたものの、まったく無駄でした。
これはもう素人の手には負えるものではないと観念し、翌日、購入した電機店に修理依頼の電話をしますが、電話口で再三にわたって念を押されたのはカミナリが原因だった場合は、天災ということで保証の対象外となることを、予めご了承くださいということでした。

その電話から待つこと10時間近く、夜になって、ようやくメーカーの修理担当者から電話があり、来宅の日時を告げられました。その際にも、故障の状況を調べた結果、落雷によるものと判断された場合は保証の対象外となる由を念を押すように言われました。
見る前から、何回もこういう承諾の言質を取られるのはあまりいい気持ちはしないものです。

こちらにしてみれば、その日の夕方カミナリが鳴ったのは確かですが、そのあとも至って普通だったこと、他の部屋のテレビはいずれもまったく正常ということから、一概に落雷の影響というのではないのかもという気もしていたわけです。テレビの電源は入るし、ビデオなどを見るぶんにはまったく差し支えがないので、案外ちょっとしたことではないか…という気もわずかにしていました。

異常発生から3日目にして、ようやく待ちかねたメーカーの人がやって来ましたが、はじめは基本的な動作確認などをくりかえしていましたが、いずれも首を捻るばかりで、しだいに細かな領域に入っていきました。
果たしてわかったことは、アンテナの端子の中央にあるべき芯線というのが何故か欠落しているということが判明。これを正しい状態に戻すとあっけなく映像が戻り、テレビはめでたく復旧しました。

部品のひとつも使用せず、出張料金などは保証部分でカバーされているようで、まったく出費もなく、事前にずいぶん脅かされたわりにはあっさりと解決してしまったのはラッキーでした。

ちなみに、あとからネットを見て驚いたことは、たとえカミナリによる故障であっても、少なくともユーザーのほうからわざわざ「カミナリで」という言葉を発するのはタブーなのだそうで、それを認めると保証適用外となって修理費を負担しなくてはならなくなるとかで、あくまでも「ただ単に故障」という事実だけでじゅうぶんなんだとか。へええ…です。

上記の電話内容も、マロニエ君が不用意にカミナリと言ったために、たちまちその方向付けをされているのだということがわかり、今回はあきらかにカミナリが原因でなかったことが幸いでしたが、こんなちょっとした発言にも注意が必要とは、なんだか気が抜けないなぁという気分です。
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調律師という言葉

家庭のピアノにおけるピアノの調整について少し補足を。

いまさらですが、ピアノの健康管理に欠かせないのは、技術者による入念な調律・整調・整音の各作業、およびオーナーによるピアノを置く場所の温湿度管理という2つが大きいと思われます。

この際、調律を何年もしないような人は論外として、一般的にピアノに必要なケアといえば年一回の調律だと思い込んでいる人は少なくありませんし、これが大半だろうと思います。
したがって多くのピアノが本格的な整調・整音などの作業を受けないないまま、長年に渡って使われて、やがて消耗していくようです。

この作業がおこなわれないのは、決して技術者の怠慢というわけではありません。
人によっては調律だけを短時間で済ませて、他のことは一切手出しをしないで、さっさと帰ってしまう儲け主義の方もあるとは聞きますが、マロニエ君の知る範囲でこの手の方は皆無で、みなさんピアノに対する理想理念をお持ちの良心的かつ強い技術者魂のある方ばかりです。

整調や整音が正しく理想的におこなわれない理由は、ひとことで言うと、その必要性がピアノの持ち主にほとんど認識されていない点にあると思います。極端な話、これらをまともにやろうとすれば、調律どころではない時間と手間がかかり、料金もそれに応じたものになるので、とても現実的に浸透しないのでしょう。

多くのピアノユーザーの認識は、調律師さんにきてもらってやってもらうのは文字通りの「調律」なのであって、それ以外の調整なんて、ついでにサービスでちょこちょこっとやってもらうもの…ぐらいなものです。
だから調律師さんサイドでも、要請もない、調律以上に大変な仕事をすることはできず、ましてやそのために調律代以外の技術料を請求することもできないというジレンマがあると思われます。
いっそ明確な故障とかなら別ですが、ピアノは少々タッチに問題があっても弾けないということはほとんどなく、整音に関しても同様の範疇にあるので、時間的にもコスト的にも、なかなか仕事として成り立たないというのが現実だろうと思います。

そもそも、まず一番いけないのは「調律師」という言葉ではないでしょうか。
この名称では、あたかも調律だけをする人というイメージで、はじめから仕事内容を規定してしまっているように思います。つまり調律師という言葉の概念が先行して、本来の正しい仕事に制限を与えてしまったということかもしれません。

かくいうマロニエ君も、慣習にならってつい調律師さんと言ったり書いたりしていますが、やはり本来は「ピアノ技術者」もしくは、もうちょっと今風にいうなら「ピアノドクター」などでなくてはいけないような気がします。

英語ではTunerというようですが、そこにはきっと「調律」にとどまらない、もっと広義の意味が含まれているような気がするのですが…。
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調整の賜物

「ニューヨークスタインウェイの音にはドラマがある」ということで思い出しましたが、マロニエ君が塩ビ管スピーカーの音を聴きに行った知人のお宅には、実はニューヨークスタインウェイがあるのです。

この日は、あくまでスピーカーの音を聴かせてもらうことが目的でしたから、前半はそちらに時間を費やしましたが、それがひと心地つくと、やはりピアノも少しということになるのは無理からぬことです。

今回驚いたのは、その著しいピアノの成長ぶりでした。
このピアノは比較的新しい楽器で、以前は、強いて言うならまだ本調子ではない固さと重さみたいなものあり、タッチやペダルのフィールもまだまだ調整の余地があるなという状態でした。
といっても、納入時には調律や調整などをひととおりやっているわけで、それでピアノとして特に何か問題や不都合があるというわけではなく、普通なら取り立てて問題にもならずに楽しいピアノライフが始まるところでしょう。

しかし、オーナー氏は早くもそこに一定の不満要因を見出しており、その言い分はマロニエ君としてもまったく同意できるものでした。
マロニエ君として伝えたアドバイス(といえばおこがましいですが)は、これを解決するには再三にわたって粘り強く調整を依頼して、それでもダメな場合には技術者を変えるぐらいの覚悟をもってあたるということでした。
そもそもピアノの整調(タッチなどアクションや鍵盤の精密な調整)は、家庭のピアノでは慣習として調律の際についでのようにおこなわれることがせいぜいで、それはあくまでもサービス的なものなのでしかなく、当然ながらあまり入念なことはやらないのが普通です。

しかし、ピアノを本当に好ましい、弾いていて幸福を感じるような真の心地よさを実現するための、最良の状態にもっていくには、整調は絶対に疎かにしてはならないことですし、作業のほうもこの分野を本腰を入れてやるとなると、調律どころではない時間と手間がかかります。

そのために、整調を調律時のサービスレベルではなく、それをメインとして作業をして欲しいということを伝えたようで、そのために調律師さんは数回にわたってやって来たそうです。
数回というのは、一回での時間的な限界もあるでしょうし、その後またしばらく弾いてみて感じることや見えてくることもあるからで、どうしても望ましい状態に到るには、とても一日で終わりということにはならないだろうと思います。

そんな経過を経た結果の賜物というべきか、ピアノは見違えるような素晴らしい状態に変身していました。

まずタッチが格段に良くなり、なめらかでしっとり感さえ出ていましたし、以前はちょっと使いづらいところのあったペダルも適正な動きに細かく調整されたらしく、まったく違和感のない動きになっています。
そして、なにより驚いたのは、その深い豊かな音色と響きの素晴らしさでした。
ハンブルクスタインウェイの明快でブリリアントなトーンとはかなり異なるもので、どこにも鋭い音が鳴っているわけではないのに、ピアノ全体が底から鳴っていて、良い意味での昔のピアノのような深みがありました。

このピアノは決してサイズが大きいわけではないのですが、その鳴りのパワーは信じられないほどのものがあり、あらためてすごいもんだと感銘を受けると同時に、このピアノの深いところにある何かが演奏に反映されていくところに触れるにつけ、過日書いた別の技術者の方の「ドラマがある」という言葉の意味が、我が身に迫ってくるような気がしました。

やはり誠実な技術者の手が丹念に入ったピアノは理屈抜きにいいものですし、すぐれた楽器には何物かが棲みついているようです。
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ドラマがある

いつも思いついたように電話をいただくピアノ店のご主人にして技術者の方がいらっしゃいますが、この方は昔から米独それぞれのスタインウェイをずっと手がけておられます。

以前はニューヨークのスタインウェイにも、ハンマー交換の際にはご自身の経験と考えに基づいて、敢えてハンブルク用のハンマーを付けるといった、この方なりの工夫をしていらっしゃいました。
いまさらですが、この米独ふたつのスタインウェイには様々な違いがあり、ハンマーもそのひとつで、むしろここは著しく異なる部分といっていいようです。

ドイツ製の硬く巻かれたハンマーを、針刺しでほぐしながら音を作っていくハンブルクスタインウェイに対して、ニューヨーク用の純正ハンマーは巻きそのものがやわらかく、それを奏者が弾き込みながら、時には技術者が硬化剤を使いながら音を作っていくというもので、そもそもの出発点というか、成り立ちそのものがまったく違うハンマー理論に基づいているようです。

この技術者の方がニューヨークスタインウェイにもハンブルクのハンマーを使っていた理由は、とくに聞いたわけではありませんが、マロニエ君の想像では、やはりくっきりとした輪郭のある音を求めた結果ではないかと思っています。
この試みは、ある一定の効果は上がっていたようにも思いますが、では双手をあげて成功だったか?というと、その判定はひじょうに難しく、少なくとも、ある要素を獲得したことの引き換えに、失ったものもあったようにも思いますが、何かを断定することまではマロニエ君にはできません。

それが、いつごろからだったか定かではありませんが、ニューヨーク製にはニューヨーク用の純正ハンマーを使われるようになりました。きっと好ましい状態のオリジナルハンマーをもったニューヨークスタインウェイに触れられたことで何か心に深く触れるところがあったからではないかと思います。

その深く触れるところがなんであったのかはともかく、ニューヨークの純正ハンマーには他に代え難い良い点があることに開眼されたのは確かなようでした。とくにピアノとの相性という点で格別なものがあったらしく、その点への理解をこのところ急速に深められ、最近も一台仕上がったピアノがやはりニューヨーク製で、思いもよらないような独特の響きを醸し出すことに、誰よりもまず、ご自身が深い感銘を受けておられる様子でした。

音にはことのほか拘りがあり、その面での執拗な探求者でもあるこの方は、一気にニューヨーク製の音色の素晴らしさを悟り、お客さんの家にある何度も触れてきたピアノからも、今また新たな感銘を受けておられるようです。
たしかに、人間の感性というものは不思議なもので、理解の扉というものは突然開くようなところがあり、そのあとは雪崩を打つように広まっていくという経験は誰しもあることです。

それからというもの、すっかりニューヨークの音色や響きに魅せられておられるようで、抑えがたい興奮を伴いながら電話口から聞こえた言葉は「ニューヨークの音にはドラマがある!」というものでした。
たしかに全般的に響きがやわらかいぶん、温かみがあり、今どきのキラキラした音とはまったく違う価値観の音であり、音がゆらゆらと立ちのぼっていくのがニューヨークスタインウェイの特徴のひとつだろうと思います。

その店には、すでに次なるB型も到着した由ですが、曰く、そのB型にはそのニューヨーク製が備えているべき味がまったく失われている由。上記の仕上がったピアノと併せて、ぜひ見に来るようにとの再三のお言葉ですので、今度は思い切って行ってみようかと思っています。
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塩ビ管スピーカー

いま一部のオーディオマニアの間で、ささやかなブームになっているのが、塩ビ管スピーカー作りではないかと思います。
実はこういう世界があることは最近知ったのですが、マロニエ君の部屋にて拙文『Yoshii9』として書いている、同名の円筒形スピーカーを模して、自主工作によってその類似品を作るという人達がいるのです。
Yoshii9のもつ比類ない完成度の高さと、そこに聴かれるまさに輝く清流のような美しい音に魅せられた多くの人達がマニア魂に火をつけられ、この数年というもの、このスタイルのスピーカーの自作に挑戦奮闘しているようです。

自作が流行る最大の理由は、その無指向性型のスピーカーから流れ出る音の心地よさと、構造そのものは至ってシンプルで、一説によると通常のボックス型スピーカーを作るよりも簡単で、使う材料によっては安価でもあるということだろうと思われます。
しかし、では、ただ作ればいいのかといえば、そうではなく、問題はそこからいかに美しい極上の音を引き出せるかという点にあり、そのため各々試行錯誤を繰り返し、その悲喜こもごもの顛末はおもしろおかしく記録されて、多くのホームページなどで窺い知ることができます。

しかしそれは、マロニエ君にとって、世の中にはそんな趣味人がいるということでしかありませんでした。ある人からメールを受け取るまでは…。
ひと月以上前のことでしたが、マロニエ君のごく親しくしているピアノの知人がこれを作ったということを、何の予告もなしに、完成後にいきなり写真付きメールで知らせてきたのです。
まるで寝耳に水で、折しもYoshii9のもつ脅威的な音の世界に触れたことで、その鮮烈さに興奮さめやらぬというタイミングでしたので、なおさらのことそのモドキを作る人が、こんなにも自分の至近距離にいたなんて二重にびっくり仰天したわけです。

すぐにも聴かせて欲しいところでしたが、こういうときに限ってなかなか都合が合わずのびのびになっていたのですが、ようやく日曜にそれが叶い、聴き慣れたCDを携えて彼の自宅へ潜入することになりました。

彼はボディとなる円筒の材質別に、すでに3種類合計6本のスピーカーを作り上げており、見るとあれこれのホームページで見たものと同様のセオリー通りに製作されており、ただただ唖然とするばかりでした。

音のほうは、さすがに御本家のYoshii9には及ばないものの、それでもなかなか柔らかで好ましい、心地よい音を奏でていたことは特筆に値するものでした。
マロニエ君も製作してみないかと言ってくれますが、なにしろ工作の類はまったく得意でないというか、これまでにほとんどそれに類する事はやったことがないし、ましてやスピーカーなんてものは買うものであって、自分で作るなどとは考えたことさえありませんでしたから、はじめはまったくその気になれませんでした。

しかし、身近にそれを実行した人がいて、現物を見ると、知らず知らずのうちにその気になっていく自分が恐いような、笑ってしまうような、そんな気分です。

すでに、かなりその気になってしまい、早くも材料調達のためのいろいろなサイトを見て調べはじめていますから、このぶんではどんなヘンテコなものであれ、ひと組は作ってみることになりそうです。
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IKEA続編

せっかく決死の思いで行ったイケアでしたが、べつに取り急いで買いたいものとてなく、だからといって手ぶらで帰るのもつまらないので、LEDライトで取り付け部分がクリップ状になっている小型の電気スタンドを買いました。

クリップを譜面立てに挟んで、楽譜を見るための照明にしようという目論見です。
ところが使ってみると、照射範囲があまりに小さく、とても楽譜全体を明るく照らすことはできないことが判明。加えて位置や角度を自由に変えるための細い蛇腹のようになった棒状の部分が、狙った通りの位置に止めるのが難儀で、すぐに動いたりくだけ曲がったりして、なかなか思ったようになりません。

少なくともマロニエ君の用途にはまったく不向きであったのはがっかりでした。しかしよく考えると、店内に「気が変わっても大丈夫。90日以内なら返品が」できるようなことが大書してあったことを思い出しました。

しかしです、そのためにはまたあそこまではるばる行かなくてはなりませんから、マロニエ君としてはあまり積極性はなかったのですが、友人が「使わないならもったいないから、行こう!」というので、またしても行くことになりました。
考えてみれば往復のガソリンと時間、そしてなによりそのハードな労力を考えると、引き合わない気もしましたが、他に良いスタンドがあれば交換してもいいという考えが少しあったのも事実。

再び到着し、店に入ると、また例のシステムずくめの世界に突入するわけで、返品・交換のための手続きをどうするのかも、しばし探らなくてはなりません。
やがてわかったことは、入口から見て広大なフロアの一番奥にその手続きカウンターがあること。そこまで行くのがまた遠いので思わずため息が出ます。

3つあるカウンターのうち、ちょうど手の空いている女性に返品のことを告げようとするや、冷ややかに「番号札を取ってお待ちください!」と制されて、あたりを見回すと、側の柱に番号札の発券機がちょこんとあって、それを取って待つことになります。
とくにここは行列というわけでもなく、2組ぐらいのお客さんが返品の手続きをしているようですが、店側の対応におそろしく時間を要し、何かというと2、3人の若い店員が集まってヒソヒソ相談しています。きっと処理の方法を確認し合っているのだろうと思いますが、あとは延々とパソコン画面を見つめてしきりになにかやっているようですが、とにかくそれが遅々として捗らない。
この状態が30分以上も続き、これだけで気分は下がりまくってしまいます。

こちらの手続きを完了させてこの場を離れるまでに、軽く40分以上が経過したことは間違いなく、なんのためにこんなことをやっているのかという気にもなります。
それでも、せっかくここまで来ているわけだし、適当な照明器具はないかと疲れた気分に抗って、ほとんどやけくそ気味に売り場を見てみましたが、結果としてこれというものはありませんでした。

前回同様クタクタになり、ちょっと飲み物か軽食でもという気分でしたが、レジの近くにある飲食コーナーは、セルフサービスはまあ当然だとしても、なんと!すべて「立ったまま飲み食い」しなくてはならず、そんな厳しい場所は御免被りました。
こんな空港みたいに広い売り場をさんざん歩きまわらせたあげくのお客さんを、ちょっとのあいだ座らせようかという考えもないところに、日本とは完全に異なる、異国の感性と思考回路をまざまざと見せつけられたようでした。
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IKEA体験記

お盆前のことでしたが、イケアに行ってきました。
マロニエ君としては、例年にも増して暑い時期ではあるし、人の多い新名所みたいなところは苦手だし、いま必要な家具があるわけでもなく、別に行ってみたいとは思わなかったのですが、友人に背中を押されて、ついに行く羽目になりました。

少しなりとも混雑を避ける意味から、金曜日の午後7時近くに到着しましたが、それでも駐車場には車がぎっしりで空きスペースを探すのもなかなか大変です。
そこからトボトボ歩いて店の入口まで行くわけですが、内心もうこの時点で疲れた気分。

店に入ると目の前に「さあこちら」といわんばかりにエスカレーターが迫り、店内をどう動いていいのかもわからないので、ひとまずそのエスカレーターに乗りました。
果たして2階はメインの展示フロアで、イケアの商品展示の方法は、家具などの各アイテムが実際に生活の中で使われているようにリアルに配置されている点にあるらしく、細かく仕切られたそれぞれのスペースは商品を使ったいろんなスタイルの小部屋のようになっていて、要はそれを見てまわるというもの。

ところが、これがだだっ広いフロアの大半を埋め尽くしており、うねうねと曲がりくねった順路を歩きながら展示物を見て回らされるのは、あまり自由な気分ではありません。しかもその距離の長いことといったら、正直いって2階の展示スペースを一巡するだけでかなり疲れました。
なんとか終点まで達すると、今度は1階へ下りるべく大きな階段があり、そこは各種インテリア小物の売り場でしたが、ここがまたうんざりするような距離を延々と歩かされるわけで、つまり2階を見終わった時点で、歩くべき距離はやっと半分に過ぎないということがようやく判明。

話が前後しますが、2階の家具の展示場には店員らしき人はほとんど見あたらず、おどろいたのは、もし気に入った家具を購入しようとすれば、順路のところどころのスタンドに置いてある紙と鉛筆を使い、自分で商品タグを手繰りよせて、商品番号かなにかをこの紙に書きつけることが手順の第一歩。
その番号をもとに1階の順路の最後のエリアにあらわれる、思わず頭上を見上げるような広大な規模の倉庫の中から、紙に書いた商品番号を頼りにその商品を見つけ出し、それを自分で運び出し、カートに乗せて、レジで精算、さらに駐車場まで運んで車に積むというのがここの基本システムです。
帰宅後には、これを展示スペースで見たのと同じ姿形になるよう、自分でせっせと組み立て作業をやらなくてはならないというものです。

センスの良し悪しや価格のことはさておくとしても、この店に行って好みの家具を買うということは、それなりの体力と、張り巡らされたシステムの理解力と受容力、ちょっとやそっとではへこたれない忍耐強さが必要で、高齢者とか、こういうことが苦手な人には困難がつきまとうというのが率直なところです。

マロニエ君がイケアに行く少し前でしたが、テレビの地方ニュースによると、イケアの出来た周辺エリアでは「イケア効果」なるものが起こっているらしく、イケア開店の影響で、売り上げが伸びた業種と落ち込んだ業種があるらしく、なんと直接のライバルであるはずの大型家具店の売り上げは、予想に反してかなり伸びたといいます。

それによると、少しぐらい割高でも、笑顔の店員に迎えられて、商品選びに同行、適宜アドバイスなどをしてくれ、購入すればお届けから設置までしてくれるし、組立などする必要もないという、日本人が慣れ親しんだ販売スタイルが脚光を浴びているらしく、以前よりも売り上げが3割増!だといっていたのですが、たしかにその日本式のこまやかな接客がひどくなつかしいもののように思い起こされました。

イケアの流儀に較べれば、ドライだと思っていたアメリカのコストコ・ホールセールでさえ、まだフレンドリーさと穏やかさがあり、ほとほと北欧は厳しいなぁ…というのが実感です。きっとものの考え方や商売のセンスがまったく違うのでしょう。
わずか2時間余の滞在でしたが、車に戻ったときは疲労困憊。会話をするのも煩わしいぐらい、ぐでんぐでんに疲れて、マロニエ君にとっては真夏のスポーツにも値するものでした。
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練習用には

我が家のピアノのハンマーヘッドに1gほどのウェイトを追加したことで、タッチ/音色ともに激変して驚いたことはマロニエ君の部屋に書いた通りですが、いらいひと月以上が経過しましたが、予想に反して今でもそのままの状態を続行しています。

音も太くなって気分がいいし、腰砕けな指をわずかなりとも鍛える良いチャンスだとも思っているわけで、ある一面においては、このように楽ではないタッチのピアノで練習するというのも一片の意味はあるように思うこの頃です。

弾きやすいことだけを主眼に置いたピアノでは、練習の中のひとつの要素である肉体的鍛錬という点でいうと、身体は必要以上のことはしないので、目の前にあるピアノが弾きやすい分だけ、指は逞しさを失っていくという事実はあると思うようになりました。
もちろんマロニエ君のようなアマチュアのピアノ好きにとっては、指の逞しさがあろうがなかろうが、大勢に影響はないわけですが、それでも、まがりなりにも弾くという行為に及ぶ上においては、少しでも余裕を持って弾くことが出来るなら、やっぱりそれに越したことはないわけです。

このひと月半というもの、以前よりもずっと重い鍵盤に耐えながら弾いていると、やはりそれだけ指に力が付くらしく、別のピアノを弾いてみたときに、遙かに楽に、余裕を持って弾けるということがわかり、まあこれは至極当然のことではあるでしょうが、やはり身体というものは甘やかさず適度に鍛えなくてはいけないということを痛感した次第です。

もちろんピアノの練習とは指運動だけではなく、フレーズの繊細な歌い方や、デュナーミクにおけるタッチコントロールの多彩さなど、あらゆる要素が複雑に絡み合っているわけですから、一元的な要素だけでものを云うわけにはいかないことはわかっているつもりです。
一例を云うと、長年、鈍感なピアノで練習してきた人は、やはり耳も感性も鈍感なのであって、ドタ靴で走り回るような演奏を疑いもせず繰り広げてしまうことは珍しくありません。自分の出している音を常に聴いて、そこに注意を払う習慣を養うためには、タッチに敏感なデリケートな楽器に慣れ親しんできた人のほうが強味です。
しかし、その点ばかりを音楽原理主義のようにいっていると、やはり指のたくましさは必要最小限に留まり、どうしても筋力に余裕がなくなるのは否めないと、今あらためて思います。

とりわけピアニストは、普段の練習用のピアノがあまりに楽々と弾けてしまう楽器だとすれば、どうしても身体はそのフィールを中心としてしか反応しなくなり、さまざまなピアノにまごつくことなく対応する能力が落ちてしまって、そのぶん本番は辛いものになるでしょう。

ピアノは自分の楽器を持ち歩けないぶん、いろいろな楽器を弾きこなせるだけの、ある意味で図太さみたいなものが必要で、その図太さ、言い換えるなら楽器が変わったときに慌てないだけの余力を養うためにも、練習用のピアノはちょっと弾きにくいぐらいがちょうど良いのかもしれません。

今回のことでわかったことは、軽いキーのピアノから重いほうへと変わるのはかなりの苦痛と忍耐と時間が必要ですが、その逆はまったく楽で、むしろ面白いぐらいにコントローラブルになるというものでした。
ピアノも他の楽器のように、目的に応じて何台も持ち揃えることができればいいのですが、サイズの点だけからも、なかなか難しく悩ましいところのようです。
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弦楽伴奏版

ソン・ヨルムは、2009年のクライバーンコンクールおよび2011年のチャイコフスキーコンクールでいずれも第2位に輝いた韓国の若い女性ピアニストです。

少し前にショパンのエチュードのアルバムが発売になっていますが、これは遡ること8年も前に韓国で録音発売されていたものが、ようやく日本でもリリースされたもので新しい録音ではないようです。
同時期に出たもうひとつのアルバムにノクターン集があり、これは2008年、つまり彼女がクライバーンコンクールに出場する前年にドイツで録音されたものですが、これは非常に珍しい弦楽伴奏版というものであることが決め手になって購入してみました。

オーケストラはルーベン・ガザリアン指揮のドイツのヴュルテンベルク室内管弦楽団で、2枚組、遺作を含む21曲のノクターンが収められていますが、そのうちの4曲のみ弦楽伴奏はつかず、オリジナルのピアノソロとなっています。

演奏はいずれもクセのない、繊細でしなやかな、概ね見事なもので、そこへ弦楽伴奏が背後から乗ってくるのはいかにもの演出効果は充分にあると思いました。
編曲は韓国の二人の作曲家によるもので、ソン・ヨルム自身も編曲作業には深く関与したという本人の発言があり、オリジナルの雰囲気を尊重し壊さないために最大限の努力と配慮が払われたということです。

それは確かに聴いていても納得できるもので、ショパンの原曲が悪い趣味に改竄されたという感じはとりあえずなく、どれも情感たっぷりにノクターンの世界を弦楽合奏の助力も得ることで、より印象的に描き込んでいるという点ではなかなか良くできていると思いました。

ただ、不思議だったのは、ひとつひとつはそれなりに良くできているようでも、続けて聴いていると次第にその雰囲気に満腹してしまって、その味に飽きてしまうことでした。

どことなく感じるのは、たしかになめらかなショパンではあるけれども、同時に韓流ドラマ的な臭いを感じてしまうことでした。韓国人の編曲だからということもあると思いますが、一見いかにも夢見がちで流れるような美しい世界があって耳には心地よいのですが、魂に触れてくるものがない。
たとえば弦楽伴奏付きの第1曲であるホ短調op.72などは、聴くなりまっ先にイメージしたのは何年も前に流行った「冬のソナタ」でした。

マロニエ君としては、ショパンはあの甘美な旋律などに誰もが酔いしれるものの、その真価は知的で繊細で、奥の深いどちらかというと男の世界だと思っています。ところが、この弦楽伴奏版ではその甘美な世界が、いわゆる少女趣味的な甘ったるい世界になっているのだと思いました。

世の音楽好き中には「ショパンは嫌い」「ショパンはどうも苦手」という人が少なからずいるものですが、その人達は何かのきっかけでショパンをまるでこういった音で表す少女小説のように捉えてしまっているのではないかと、その気持ちの断片が少しわかるような気がしました。

だからといってマロニエ君はこのアルバムを否定しているのではなく、あまたあるショパンのノクターンアルバムの中にこういうアレンジがあるのは面白いと思いますし、そういうことに挑戦したソン・ヨルムの決断力にも拍手をおくりたいと思います。
少なくとも、正確でキズがないだけのつまらない演奏よりはよほど立派です。
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ひびしんホール

この夏、北九州市黒崎に新しくオープンした北九州市立ひびしんホールに行きました。

ここには3台の異なるメーカーのコンサートグランドが納入されたようで、7月のオープンに続き一連のピアノ開きのためのコンサートがそれぞれおこなわれ、トップを小曽根真さんがヤマハCFXを、次が小山実稚恵さんでスタインウェイDを、そして今回は最後で及川浩治さんがカワイの新機種EX-Lをお披露目されました。

以下、簡単に感じたところです。

【ホール】大ホールは、今どきのコンサートにちょうど良い800人強のサイズですが、すぐ近く(およそ3kmぐらい?)に同規模の、こちらも「北九州市立」の響ホールがあるにもかかわらず、当節のような景気の低迷とコンサート不況の続く中で、何故いま、このようなホールがもうひとつできたのか、その真相はよくわかりません。

それはそれとして、久しぶりに新しいホールに行くのは興味津々というところでしたが、率直に言って、ちょっと期待はずれなものでした。
その建物は、残念なほうの意味でおそろしく今風で、内も外も、ただパーツを組み上げただけのような無味乾燥なもの。どこをどう見渡しても、低コストに徹したという印象ばかりが目につき、ホールに求める文化的な雰囲気とか有難味のようなものがまったくありません。
その点、ずっしりと作られている響ホールは、何年経っていようが、まるで格が違います。

ホール内にはロビーらしきものもなく、ちょっとリッチな公民館といった風情だと云ったほうが話は早いかもしれません。ホールの内装は木の趣を凝らしたというところだとは思いますが、まるで竹ひごで編んだ虫籠のようで、そのモチーフがステージ上の反響板にまで連続して続くため、大きな虫籠の中央にポンとピアノが置いてあるようで、マロニエ君の目にはちょっと奇異に映りました。

コンサートというよりも、どことなくホタルや浴衣なんかが似合いそうな感じで、ホームページの写真で見るのと、実際に現場で見るそれは、相当イメージが異なるものだというのも痛感。
響きは、取り立てて変な癖やストレスもなく、それなりに素直でよかったとは思いましたし、新しい建物は空調などの効きがよく、その点はこの季節でもあり快適でした。

【ピアノ】カワイのコンサートグランドがシゲルカワイの名を返上し、再びKAWAIを名乗ることになった新機種が今回このホールに納入されたEX-Lです。
それを証明するように、サイドのロゴは鍵盤蓋と同様のがっちりとした書体でシンプルに「KAWAI」となっていますが、以前のいささか安っぽい装飾文字を思い出すと、ようやく本来あるべき姿に落ち着いたようで、この会社の良識的判断にホッとした思いです。

さて肝心の音は、かなりの期待を込めていたのですが、マロニエ君の耳には、従来型に較べてなんら進歩の後がないものでしかなく、これまでとまったく同じようにしか感じられなかったことは甚だ残念でした。 
基本的な音色が暗く(重厚とは違う)、音にザラつきがあるところまで、すべてが引き継がれていて変化らしきものが何も感じられませんでした。

とくに中音域でそれが顕著で、ピアノの個性が決まるともいうべきこの大事な音域が、なんの色気も麗しさもない、濁った水のような音しか出てこないのはどうしてだろうと思います。
それに対して、低音はやや鈍さはあるものの、カワイらしい響きの豊かさとパワーがあり、せめてこの点は評価したいところです。
中音域を中心として、もっと澄んだ音、艶のあるふくよかな音が出たら、格段に良いピアノになると思うのですが、メーカーは不思議なほどそこには目を向けないようです。ちなみに、音の色艶とか美しさというのは、そのピアノのキャラクターに合わない整音をして、耳障りな音にすることとはまったく違うもので、やはり根本的にボディの問題だろうと思われます。

【ピアニスト】については…やめておきます。
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